苦み喜ぶことに召されている(私たち):聖さと望みのため
提供: è�–書ã�®æœ¬ã�Šã‚ˆã�³èª¬æ•™
(ページの作成: {{info|Called to Suffer and Rejoice: For Holiness and Hope}} DG translation here!!) |
|||
1 行: | 1 行: | ||
- | {{info|Called to Suffer and Rejoice: For Holiness and Hope}} | + | {{info|Called to Suffer and Rejoice: For Holiness and Hope}} > ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。<sup>1</sup> |
- | + | 次の4週間でキリストのために苦しむよう皆さんを用意させることができることを望みます。私たちがキリストのために苦しむ用意ができているべきであると私が信じる理由の一つは、聖書がそうしなければならないと教えるからであり、またそれとは別に、現代の状況がそうしなければならないと語っているからです。 | |
+ | |||
+ | ==== 苦しむ用意をすること ==== | ||
+ | |||
+ | 宣教師であり学者であり、オックスフォード世界キリスト教百科事典の編集をしたディビッド・バレットは、2000年に事情がどうなっているかという予測で、キリスト教動向の現状の更新を毎年発行しています。今年の更新で彼は、1980年で270,000人のキリスト教殉教者があったのですが、今年は恐らく308,000人、2000年には500,000人の殉教者が出るだろうと推定しています。<sup>2</sup>これらは多かれ少なかれ、クリスチャンであるがゆえに死んでいく人々です。 | ||
+ | |||
+ | 今日のソマリアでは、何万というクリスチャンが対立勢力によって意図的に孤立させられ、餓死させられています。ナイジェリアのイスラム教徒とキリスト教徒間の緊張は爆発寸前の状態です。中国やあるいは他の諸国の何十万というクリスチャンが、嫌がらせと監禁の絶え間無い危険の中で生きています。 | ||
+ | |||
+ | 世俗社会が一般的である私たちの国でも、特に知的エリート階級やメディアの指導者たちは、福音派教会や私たちが立つところの義や高潔さという聖書のビジョンに対し、ますます敵意を表しています。世俗の敵対者に対応するため、憲法修正第1項がひどくねじ曲げられ、キリスト教教会の建物に水や電気や下水を公的に供給することは、政府の資源と規則に違反する宗教的行為であるということに反論する判事がいることでさえ、考えられなくなっています。 | ||
+ | |||
+ | 公共の場所でただ単に祈る、穏和な妊娠中絶反対の抗議者は、ニューヨークのバッファロー郡で起きたように、中絶擁護者たちによって激しく暴行され、警察の保護を受けるどころか、犯罪者として責任を問われることもあります。 | ||
+ | |||
+ | イエス様の御名は有名なエンターテイナーによって公にさげすまれ冒とくされ、数十年前には一般社会から非難されるような行為だったものが、今日では承認され見逃されています。 | ||
+ | |||
+ | ==== 大宣教命令の代償 ==== | ||
+ | |||
+ | これらすべては、クリスチャンであることは今後数年でますます大変になる、ということを示しています。そして大宣教命令を完了させることは、すでに犠牲を払って来ており、また常にそうであったようにですが、私たちのうちの何人かの犠牲を払うことになります。1800年前に、ターテュリアンという人は、「私たち[クリスチャン]はあなたたちに大量殺りくされるたびに繁殖する。クリスチャンの血が種である」(アポロゲティカス、50)と言いました。そしてその200年後に、聖ジェロームは、「キリストの教会は、誰のものでもなく、自身の血を流すことによって建てられて来た。屈辱を加えることによってではなく、屈辱に耐えることによって。迫害がそれを成長させて来たのである。殉教がそれに王冠を与えて来たのである」(手紙82)と言いました。 | ||
+ | |||
+ | 私たちは今日、禁教国について語ってばかりで、神があたかも宣教が楽で安全であるよう意図されたかのように、宣教に関する神の視点をほとんど見失っています。福音を広めることで起こりうる迫害、監禁、そして死を当然として受け止める人々にとって、閉ざされた国はありません。そしてイエス様もはっきりと、そのような結果が起こりうると言っておられます。「そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます」(マタイ24:9)。「もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します」(ヨハネ 15:20). | ||
+ | |||
+ | 私たちは神の、苦しみと福音の拡大についての視点を取り戻さない限り、主がご計画になっている恵みの勝利に喜ぶことはありません。 | ||
+ | |||
+ | 宣教と社会正義に従うこととは、絶えず犠牲を伴ってきており、今後も絶えず犠牲を伴います。ナイジェリアのミアンゴという村では、SIMゲストハウスとカークチャペルという小さな教会があります。そのチャペルの裏庭には56の小さな墓があります。そのうちの33は宣教師の子どもたちの遺体を抱えています。墓石には、「エスィル・アーノルド、享年1928年9月1日―1928年9月2日」、「バーバラ・J・スワンソン、享年1946―1952年」、「エイリーン・ルイース・ウィットモーヤー、享年1952年5月6日―1955年7月3日」と記されてあります。これが近年、多くの家族にとって、ナイジェリアに福音を持ち込んでいくことの、犠牲です。チャールズ・ホワイトはこの小さな墓を訪れたことを、非常に力強い文章を持って語っています。「私たちがミアンゴにある墓地を理解することができる方法はたった一つ、それは神もご自身の御子を宣教地で葬られたということを思い出すことである」と彼は言います。<sup>3</sup> | ||
+ | |||
+ | そして主が御子を死からよみがえらせられたとき、主は教会に、同じ「全世界」という危険な地まで御子に従うよう召されました。しかし私たちにはそれに従う意志があるでしょうか? | ||
+ | |||
+ | ==== あなたは2テモテ3:12をどうするか? ==== | ||
+ | |||
+ | 2年前、オランダのアルメロで、アンドリュー兄弟が市の12人ほどの牧師らとハンガリーのブダペストで座って、聖書から人々に教えていたときの話をしてくれました。古い友人で、最近刑務所から出所した、ルーマニア人の牧師が歩いて近寄ってきました。アンドリュー兄弟は教えるのを中断し、彼の話に耳を傾ける時だと思いました。 | ||
+ | |||
+ | 長い沈黙の後、そのルーマニア人の牧師が「アンドリュー君、オランダでは刑務所に入れられている牧師はいるかい?」と尋ねました。「いいえ」とアンドリュー兄弟は答えます。「なぜいないのかな?」牧師は尋ねます。アンドリュー兄弟はちょっと考えて、「恐らく神が私たちにお与えくださるすべての機会を私たちが十分に活かしていないからだと思います」と答えました。 | ||
+ | |||
+ | それから最も難しい質問を投げかけました。「アンドリュー君、君は2テモテ3:12をどうしているかい?」アンドリュー兄弟は自分の聖書を開き、その箇所を開けて声を出して読みました。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」彼は聖書をゆっくり閉じ、そして「兄弟、どうぞ許してください。私たちはその聖書箇所について何もしていません」と言いました。<sup>4</sup> | ||
+ | |||
+ | 私たちは敬けんという概念を、当たり障りのない、中流階級の倫理観と戒律厳守なるものに飼い慣らしてしまい、2テモテ3:12が私たちにとって理解できないものとなっているのです。私たちのほとんどが福音のために苦しむ用意ができていないと思います。そのためこのことについて聖書が何と言っているか、また今日神が私たちを何に召しておられるかを4週間かけて取り扱うよう、私は召されている気がするのです。 | ||
+ | |||
+ | ==== 苦難の4つの聖書的目的 ==== | ||
+ | |||
+ | それぞれのメッセージが、苦難に関する4つの目的のうちのそれぞれに対応しています。そして私たちが苦難の目的を語ることができるのは、私たちが時によって義のためにまた福音のために苦しむことが、神のみむねであるということが明白だからです。例えば、「神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」(1 ペテロ4:19、その他に3:17、ヘブル 12:4–11参照)。 | ||
+ | |||
+ | 私の念頭にある苦難の4つの目的は、 | ||
+ | |||
+ | 1. 道徳的目的、なぜなら苦難は私たちの聖さと希望を精錬するから(ローマ5:1–8) 2. 親密さの目的、なぜなら苦しむことによって私たちのキリストとの関係が深まり喜ばしいものになるから(ピリピ 3:7–14) 3. 宣教目的、なぜなら私たちがキリストの価値を私たちの現実を通して広めることにより、キリストの苦しみを満たすよう、神が私たちを召しておられるから(コロサイ1:24) 4. そして栄光目的、なぜなら今のこの軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすから(2コリント4:16–18). | ||
+ | |||
+ | ==== 苦難の道徳的(霊的)目的 ==== | ||
+ | |||
+ | 今日は私たちは苦難の道徳的(あるいは霊的)目的に注目します。神は私たちが福音のため、また義のために苦しむよう定めておられます。それはそれが道徳的また霊的効果を私たちにもたらすからです。 | ||
+ | |||
+ | ‘’’神の栄光の望みに大いに喜ぶ’’’ | ||
+ | |||
+ | この点に関する素晴らしい聖書箇所の一つを一緒に読みましょう。ローマ5:3―4です。私たちは信仰によって義とされること、また私たちはイエス様を通して恵みに導き入れられ、私たちは恵みのうちに立っているということを示した後、パウロは2節で私たちクリスチャンは「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」と言います。クリスチャン人生における喜びの最も基本的要因は、私たちが神の栄光を見、そして分かち合うようになる日を熱心に待ち望むことです。神の栄光の望みが私たちの喜びの中心です。 | ||
+ | |||
+ | さてもしそれが本当であるならば、パウロが続けて3、4節で、私たちは私たちの望みを増す事がらにも大いに喜ぶ、と言うことには、完璧に一貫性があります。それがここでの論理の道筋です。2節の終わりで神の栄光を望むことから始め、そして4節の終わりで望みで終えます。ポイントは、もし私たちが望みに大いに喜ぶのなら、私たちは望みをもたらす事をも大いに喜ぶ、ということです。 | ||
+ | |||
+ | '''望みをもたらすこと''' | ||
+ | |||
+ | ですから3、4節ではそれが何かを説明しています。「そればかりではなく[私たちは神の栄光を望んで大いに喜んでいるだけでなく]、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性[受け入れられた者であるという感覚]を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」 | ||
+ | |||
+ | 私たちが患難を喜ぶ理由は、私たちが苦痛や不幸や不安や苦悩を好むからではなく(私たちは自虐的な者たちではありません)、患難が私たちの好むもの、すなわち、耐え抜いた堅忍と受け入れられた者という感覚を体験することを通して来る、ますます強められた望みの感覚を生み出すからです。 | ||
+ | |||
+ | '''神はご自身の民の苦難に目的がおありになる''' | ||
+ | |||
+ | ですからここでの主な教訓は、神はご自身の民の苦難に目的がおありにある、ということです。そしてその目的は、彼らが労力を尽くしているミニストリーの目標とは違うものであることが多々あります。ミニストリーの目標はツイン・シティー[ミネアポリスの中心地]の教会に行っていない独身の人々、あるいは郊外の専門的職業に就いている人たち、あるいはトルコ系イスラム教徒たちに伝道することかも知れません。しかし神の目的は、聖職者や宣教師たちを刑務所に入れることによって、彼らのうちにさらなる希望を生み出すことかも知れません。神は常にそれ以上のこと(私たちは次の数週間でそれを見て行きますが)成しておられますが、それだけでも十分なのです。 | ||
+ | |||
+ | 別の言い方をすれば、神は、私たちがせっせとこなすほど、ミニストリーの生産性や効率の良さまでには取り組まれません。パウロは自分の投獄やむち打ちの刑、遭難や台無しになった計画のうちにある神の奇妙なみわざを、何度も何度も考えなければなりませんでした。自分の宣教をこのように何度も阻まれるとは、神はそんなにも無能であられようか?聖書のその答えは(それが唯一の答えではありませんが)、神は失われたものに手を差し伸べる過程のうちに、ご自身の民の希望と聖さを増すことに熱心であられる、というものです。そして神のみがその二つをうまく釣り合わせ、最善の方法で実現させる方法を知っておられるお方です。 | ||
+ | |||
+ | ==== 患難の3つの効果 ==== | ||
+ | |||
+ | では患難の効果をもっと具体的に見て行きましょう。3節と4節では3つの具体的な効果に言及しています。 | ||
+ | |||
+ | '''1. 忍耐''' | ||
+ | |||
+ | まず、患難が忍耐、あるいは粘り強い耐久力を生み出します。パウロはそれが普遍的に本当であると言っているのではありません。多くの人にとって、患難は憎しみや恨み、怒り、憤り、また不満を爆発させます。しかしキリストの御霊を持っている者たちには、これは継続する効果ではありません。彼らにとって御霊の実は忍耐ですので、その効果は粘り強い耐久力です。 | ||
+ | |||
+ | ここでのポイントは、困難、特にキリストと主の義のための困難が来るまで、キリストに対する愛の度合いと深さを体験することはない、ということです。苦しい時期がやって来るまで、私たちは自分が都合のいい時だけのクリスチャン、つまり、イエス様がマルコ4:16―17で4つの地に落ちた種のたとえで説明されるようなクリスチャンであるかどうかを経験し、知ることはないのです。 | ||
+ | |||
+ | > みことばを聞いてすぐに喜びを持って受け入れますが、根がないので、一時は耐えるかも知れませんが、みことばのせいで患難や迫害が起こるとすぐに離れて行く人というのは、固い岩の上に落ちた人々のことです。 | ||
+ | |||
+ | ですから、患難の素晴らしい効果の一つは、粘り強い耐久力と忍耐を神の民のうちに生み出すとパウロは言っているのです。それは彼らが自分の人生における神の誠実さを見て、自分がまことに主のものであるということを知ることができるからです。 | ||
+ | |||
+ | '''2. 練られた品性''' | ||
+ | |||
+ | それが4節で言及されている二つ目の効果のポイントです。「忍耐が練られた品性を生み出し、」。Dokimenという言葉の直訳は、「試され認められる経験」です。「認められる」あるいは「証明される」と言うことができると思います。 | ||
+ | |||
+ | これは理解に苦しむものではありません。もし患難がやって来て、キリストに対する愛において耐え忍び主に背かなかったら、あなたは自分が本物で、証明され、偽善者ではないというより強い感覚を経験するでしょう。信頼の木が曲げられ、折れなかったのです。あなたの忠実さと忠誠が試され、合格したのです。今や「練られた品性」を持ち合わせています。あなたの金の信仰が火の中を通され、燃やし尽くされずに精錬されたのです。 | ||
+ | |||
+ | > 汝が道が燃えるような試練のうちに横たわるとき 我が恵み、十分な恵が汝の備え 炎は汝に害を与えない 汝の価値のないものを燃え尽くし、汝の金を精錬することだけを目的とするのみ | ||
+ | |||
+ | イエス様に対する私たちの忠誠心の金を証明しまた精錬する、それが二つ目の患難の効果です。忍耐が証明された確信を生み出します。 | ||
+ | |||
+ | '''3. 希望''' | ||
+ | |||
+ | 3つ目の効果は、試され、認められ、精錬されたこの認識力から来ます。4節後半、「練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」これは私たちを2節に戻らせます。「私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」クリスチャンの人生は福音にある神の約束に希望を持つことから始まり、そして患難を通してさらなる希望へとらせん状に上昇します。 | ||
+ | |||
+ | 認められることはさらなる希望を生み出します。それは私たちの希望が、試されることを通して自分が実際に本物であるということを体験するとき、私たちの希望が成長するからです。神を最も良く知っている人というのは、キリストと共に苦しんだ人です。自分の希望のうちにまったく揺るがない人というのは、深く試されたことのある人です。栄光の希望を最も熱心に、根強く、そしてしきりに見つめる人というのは、患難を通して人生の快適さをはぎ取られた人です。 | ||
+ | |||
+ | ==== 患難の中で栄光の望みに大いに喜ぶ ==== | ||
+ | |||
+ | ですからこのシリーズで苦しみと患難について私たちが言える第一のことは、神がそのうちに目的を持っておられる、ということです。そしてその目的は、ご自身のみ名のために、ご自分の民の粘り強い忍耐力を生み出されるということです。それを通して信仰の現実とキリストに対する忠誠心が試され、証明され、精錬されるのです。それを通して私たちの希望を強め、深め、増大するために認められたという感覚が生み出されるのです。 | ||
+ | |||
+ | 私たちは教会としてミニストリーのゴールがあります(都市弟子訓練、小グループ牧会、伝道ネットワーク、まだ生まれていない子たちの擁護、ユースと子どもたちの動員)。私たちには、2000年までに2000人の宣教師を送り出すという素晴らしい宣教のビジョンがあります。キリストとその御国のために、教会建築費の支払いとそれを支援する予算があります。これらのどれだけが、神のその主権の中で実現するのか、私には分かりません。でもこれだけは分かります。これらの目標を私たちが従順に追い求めることのうちに、神は私たちが直面する障害のすべてと苛立ちのすべてと、痛みのすべて、患難のすべてに目的がおありになり、その目的、つまり私たちの忍耐、練られた品性、そして神のご栄光にある望みは、目標そのものと同じように重要です。 | ||
+ | |||
+ | いずれにせよ、私たちの人生の計画段階で成しておられるかも知れないみわざを、神は絶えず私たちの人生の中心で成しておられます。それゆえパウロと共に、栄光の望みに、そして来るべき患難に大いに喜びましょう。 | ||
+ | |||
+ | ==== *** ==== | ||
+ | |||
+ | <sup>1</sup> 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 | ||
+ | |||
+ | <sup>2</sup> 『宣教調査のインターナショナル公報(International Bulletin of Missionary Research)』、第16巻, 第1号, 1992年1月発行、 27ページ。 | ||
+ | |||
+ | <sup>3</sup> チャールズ・ホワイト著、『小さな犠牲( "Small Sacrifices," )』、クリスチャニティー・トゥデー、第36巻、第7号、1992年6月22日発行、33ページ。 | ||
+ | |||
+ | <sup>4</sup> 『苦難に召され、勝利に召されている(Called to Suffer, Called to Triumph)』エー | ||
+ | |||
+ | <br> |
2015年11月13日 (金) 12:45時点における版
By John Piper
About Suffering
Part of the series Called to Suffer and Rejoice
Translation by Desiring God
> ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。1
次の4週間でキリストのために苦しむよう皆さんを用意させることができることを望みます。私たちがキリストのために苦しむ用意ができているべきであると私が信じる理由の一つは、聖書がそうしなければならないと教えるからであり、またそれとは別に、現代の状況がそうしなければならないと語っているからです。
目次 |
苦しむ用意をすること
宣教師であり学者であり、オックスフォード世界キリスト教百科事典の編集をしたディビッド・バレットは、2000年に事情がどうなっているかという予測で、キリスト教動向の現状の更新を毎年発行しています。今年の更新で彼は、1980年で270,000人のキリスト教殉教者があったのですが、今年は恐らく308,000人、2000年には500,000人の殉教者が出るだろうと推定しています。2これらは多かれ少なかれ、クリスチャンであるがゆえに死んでいく人々です。
今日のソマリアでは、何万というクリスチャンが対立勢力によって意図的に孤立させられ、餓死させられています。ナイジェリアのイスラム教徒とキリスト教徒間の緊張は爆発寸前の状態です。中国やあるいは他の諸国の何十万というクリスチャンが、嫌がらせと監禁の絶え間無い危険の中で生きています。
世俗社会が一般的である私たちの国でも、特に知的エリート階級やメディアの指導者たちは、福音派教会や私たちが立つところの義や高潔さという聖書のビジョンに対し、ますます敵意を表しています。世俗の敵対者に対応するため、憲法修正第1項がひどくねじ曲げられ、キリスト教教会の建物に水や電気や下水を公的に供給することは、政府の資源と規則に違反する宗教的行為であるということに反論する判事がいることでさえ、考えられなくなっています。
公共の場所でただ単に祈る、穏和な妊娠中絶反対の抗議者は、ニューヨークのバッファロー郡で起きたように、中絶擁護者たちによって激しく暴行され、警察の保護を受けるどころか、犯罪者として責任を問われることもあります。
イエス様の御名は有名なエンターテイナーによって公にさげすまれ冒とくされ、数十年前には一般社会から非難されるような行為だったものが、今日では承認され見逃されています。
大宣教命令の代償
これらすべては、クリスチャンであることは今後数年でますます大変になる、ということを示しています。そして大宣教命令を完了させることは、すでに犠牲を払って来ており、また常にそうであったようにですが、私たちのうちの何人かの犠牲を払うことになります。1800年前に、ターテュリアンという人は、「私たち[クリスチャン]はあなたたちに大量殺りくされるたびに繁殖する。クリスチャンの血が種である」(アポロゲティカス、50)と言いました。そしてその200年後に、聖ジェロームは、「キリストの教会は、誰のものでもなく、自身の血を流すことによって建てられて来た。屈辱を加えることによってではなく、屈辱に耐えることによって。迫害がそれを成長させて来たのである。殉教がそれに王冠を与えて来たのである」(手紙82)と言いました。
私たちは今日、禁教国について語ってばかりで、神があたかも宣教が楽で安全であるよう意図されたかのように、宣教に関する神の視点をほとんど見失っています。福音を広めることで起こりうる迫害、監禁、そして死を当然として受け止める人々にとって、閉ざされた国はありません。そしてイエス様もはっきりと、そのような結果が起こりうると言っておられます。「そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます」(マタイ24:9)。「もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します」(ヨハネ 15:20).
私たちは神の、苦しみと福音の拡大についての視点を取り戻さない限り、主がご計画になっている恵みの勝利に喜ぶことはありません。
宣教と社会正義に従うこととは、絶えず犠牲を伴ってきており、今後も絶えず犠牲を伴います。ナイジェリアのミアンゴという村では、SIMゲストハウスとカークチャペルという小さな教会があります。そのチャペルの裏庭には56の小さな墓があります。そのうちの33は宣教師の子どもたちの遺体を抱えています。墓石には、「エスィル・アーノルド、享年1928年9月1日―1928年9月2日」、「バーバラ・J・スワンソン、享年1946―1952年」、「エイリーン・ルイース・ウィットモーヤー、享年1952年5月6日―1955年7月3日」と記されてあります。これが近年、多くの家族にとって、ナイジェリアに福音を持ち込んでいくことの、犠牲です。チャールズ・ホワイトはこの小さな墓を訪れたことを、非常に力強い文章を持って語っています。「私たちがミアンゴにある墓地を理解することができる方法はたった一つ、それは神もご自身の御子を宣教地で葬られたということを思い出すことである」と彼は言います。3
そして主が御子を死からよみがえらせられたとき、主は教会に、同じ「全世界」という危険な地まで御子に従うよう召されました。しかし私たちにはそれに従う意志があるでしょうか?
あなたは2テモテ3:12をどうするか?
2年前、オランダのアルメロで、アンドリュー兄弟が市の12人ほどの牧師らとハンガリーのブダペストで座って、聖書から人々に教えていたときの話をしてくれました。古い友人で、最近刑務所から出所した、ルーマニア人の牧師が歩いて近寄ってきました。アンドリュー兄弟は教えるのを中断し、彼の話に耳を傾ける時だと思いました。
長い沈黙の後、そのルーマニア人の牧師が「アンドリュー君、オランダでは刑務所に入れられている牧師はいるかい?」と尋ねました。「いいえ」とアンドリュー兄弟は答えます。「なぜいないのかな?」牧師は尋ねます。アンドリュー兄弟はちょっと考えて、「恐らく神が私たちにお与えくださるすべての機会を私たちが十分に活かしていないからだと思います」と答えました。
それから最も難しい質問を投げかけました。「アンドリュー君、君は2テモテ3:12をどうしているかい?」アンドリュー兄弟は自分の聖書を開き、その箇所を開けて声を出して読みました。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」彼は聖書をゆっくり閉じ、そして「兄弟、どうぞ許してください。私たちはその聖書箇所について何もしていません」と言いました。4
私たちは敬けんという概念を、当たり障りのない、中流階級の倫理観と戒律厳守なるものに飼い慣らしてしまい、2テモテ3:12が私たちにとって理解できないものとなっているのです。私たちのほとんどが福音のために苦しむ用意ができていないと思います。そのためこのことについて聖書が何と言っているか、また今日神が私たちを何に召しておられるかを4週間かけて取り扱うよう、私は召されている気がするのです。
苦難の4つの聖書的目的
それぞれのメッセージが、苦難に関する4つの目的のうちのそれぞれに対応しています。そして私たちが苦難の目的を語ることができるのは、私たちが時によって義のためにまた福音のために苦しむことが、神のみむねであるということが明白だからです。例えば、「神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」(1 ペテロ4:19、その他に3:17、ヘブル 12:4–11参照)。
私の念頭にある苦難の4つの目的は、
1. 道徳的目的、なぜなら苦難は私たちの聖さと希望を精錬するから(ローマ5:1–8) 2. 親密さの目的、なぜなら苦しむことによって私たちのキリストとの関係が深まり喜ばしいものになるから(ピリピ 3:7–14) 3. 宣教目的、なぜなら私たちがキリストの価値を私たちの現実を通して広めることにより、キリストの苦しみを満たすよう、神が私たちを召しておられるから(コロサイ1:24) 4. そして栄光目的、なぜなら今のこの軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすから(2コリント4:16–18).
苦難の道徳的(霊的)目的
今日は私たちは苦難の道徳的(あるいは霊的)目的に注目します。神は私たちが福音のため、また義のために苦しむよう定めておられます。それはそれが道徳的また霊的効果を私たちにもたらすからです。
‘’’神の栄光の望みに大いに喜ぶ’’’
この点に関する素晴らしい聖書箇所の一つを一緒に読みましょう。ローマ5:3―4です。私たちは信仰によって義とされること、また私たちはイエス様を通して恵みに導き入れられ、私たちは恵みのうちに立っているということを示した後、パウロは2節で私たちクリスチャンは「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」と言います。クリスチャン人生における喜びの最も基本的要因は、私たちが神の栄光を見、そして分かち合うようになる日を熱心に待ち望むことです。神の栄光の望みが私たちの喜びの中心です。
さてもしそれが本当であるならば、パウロが続けて3、4節で、私たちは私たちの望みを増す事がらにも大いに喜ぶ、と言うことには、完璧に一貫性があります。それがここでの論理の道筋です。2節の終わりで神の栄光を望むことから始め、そして4節の終わりで望みで終えます。ポイントは、もし私たちが望みに大いに喜ぶのなら、私たちは望みをもたらす事をも大いに喜ぶ、ということです。
望みをもたらすこと
ですから3、4節ではそれが何かを説明しています。「そればかりではなく[私たちは神の栄光を望んで大いに喜んでいるだけでなく]、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性[受け入れられた者であるという感覚]を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」
私たちが患難を喜ぶ理由は、私たちが苦痛や不幸や不安や苦悩を好むからではなく(私たちは自虐的な者たちではありません)、患難が私たちの好むもの、すなわち、耐え抜いた堅忍と受け入れられた者という感覚を体験することを通して来る、ますます強められた望みの感覚を生み出すからです。
神はご自身の民の苦難に目的がおありになる
ですからここでの主な教訓は、神はご自身の民の苦難に目的がおありにある、ということです。そしてその目的は、彼らが労力を尽くしているミニストリーの目標とは違うものであることが多々あります。ミニストリーの目標はツイン・シティー[ミネアポリスの中心地]の教会に行っていない独身の人々、あるいは郊外の専門的職業に就いている人たち、あるいはトルコ系イスラム教徒たちに伝道することかも知れません。しかし神の目的は、聖職者や宣教師たちを刑務所に入れることによって、彼らのうちにさらなる希望を生み出すことかも知れません。神は常にそれ以上のこと(私たちは次の数週間でそれを見て行きますが)成しておられますが、それだけでも十分なのです。
別の言い方をすれば、神は、私たちがせっせとこなすほど、ミニストリーの生産性や効率の良さまでには取り組まれません。パウロは自分の投獄やむち打ちの刑、遭難や台無しになった計画のうちにある神の奇妙なみわざを、何度も何度も考えなければなりませんでした。自分の宣教をこのように何度も阻まれるとは、神はそんなにも無能であられようか?聖書のその答えは(それが唯一の答えではありませんが)、神は失われたものに手を差し伸べる過程のうちに、ご自身の民の希望と聖さを増すことに熱心であられる、というものです。そして神のみがその二つをうまく釣り合わせ、最善の方法で実現させる方法を知っておられるお方です。
患難の3つの効果
では患難の効果をもっと具体的に見て行きましょう。3節と4節では3つの具体的な効果に言及しています。
1. 忍耐
まず、患難が忍耐、あるいは粘り強い耐久力を生み出します。パウロはそれが普遍的に本当であると言っているのではありません。多くの人にとって、患難は憎しみや恨み、怒り、憤り、また不満を爆発させます。しかしキリストの御霊を持っている者たちには、これは継続する効果ではありません。彼らにとって御霊の実は忍耐ですので、その効果は粘り強い耐久力です。
ここでのポイントは、困難、特にキリストと主の義のための困難が来るまで、キリストに対する愛の度合いと深さを体験することはない、ということです。苦しい時期がやって来るまで、私たちは自分が都合のいい時だけのクリスチャン、つまり、イエス様がマルコ4:16―17で4つの地に落ちた種のたとえで説明されるようなクリスチャンであるかどうかを経験し、知ることはないのです。
みことばを聞いてすぐに喜びを持って受け入れますが、根がないので、一時は耐えるかも知れませんが、みことばのせいで患難や迫害が起こるとすぐに離れて行く人というのは、固い岩の上に落ちた人々のことです。
ですから、患難の素晴らしい効果の一つは、粘り強い耐久力と忍耐を神の民のうちに生み出すとパウロは言っているのです。それは彼らが自分の人生における神の誠実さを見て、自分がまことに主のものであるということを知ることができるからです。
2. 練られた品性
それが4節で言及されている二つ目の効果のポイントです。「忍耐が練られた品性を生み出し、」。Dokimenという言葉の直訳は、「試され認められる経験」です。「認められる」あるいは「証明される」と言うことができると思います。
これは理解に苦しむものではありません。もし患難がやって来て、キリストに対する愛において耐え忍び主に背かなかったら、あなたは自分が本物で、証明され、偽善者ではないというより強い感覚を経験するでしょう。信頼の木が曲げられ、折れなかったのです。あなたの忠実さと忠誠が試され、合格したのです。今や「練られた品性」を持ち合わせています。あなたの金の信仰が火の中を通され、燃やし尽くされずに精錬されたのです。
汝が道が燃えるような試練のうちに横たわるとき 我が恵み、十分な恵が汝の備え 炎は汝に害を与えない 汝の価値のないものを燃え尽くし、汝の金を精錬することだけを目的とするのみ
イエス様に対する私たちの忠誠心の金を証明しまた精錬する、それが二つ目の患難の効果です。忍耐が証明された確信を生み出します。
3. 希望
3つ目の効果は、試され、認められ、精錬されたこの認識力から来ます。4節後半、「練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」これは私たちを2節に戻らせます。「私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」クリスチャンの人生は福音にある神の約束に希望を持つことから始まり、そして患難を通してさらなる希望へとらせん状に上昇します。
認められることはさらなる希望を生み出します。それは私たちの希望が、試されることを通して自分が実際に本物であるということを体験するとき、私たちの希望が成長するからです。神を最も良く知っている人というのは、キリストと共に苦しんだ人です。自分の希望のうちにまったく揺るがない人というのは、深く試されたことのある人です。栄光の希望を最も熱心に、根強く、そしてしきりに見つめる人というのは、患難を通して人生の快適さをはぎ取られた人です。
患難の中で栄光の望みに大いに喜ぶ
ですからこのシリーズで苦しみと患難について私たちが言える第一のことは、神がそのうちに目的を持っておられる、ということです。そしてその目的は、ご自身のみ名のために、ご自分の民の粘り強い忍耐力を生み出されるということです。それを通して信仰の現実とキリストに対する忠誠心が試され、証明され、精錬されるのです。それを通して私たちの希望を強め、深め、増大するために認められたという感覚が生み出されるのです。
私たちは教会としてミニストリーのゴールがあります(都市弟子訓練、小グループ牧会、伝道ネットワーク、まだ生まれていない子たちの擁護、ユースと子どもたちの動員)。私たちには、2000年までに2000人の宣教師を送り出すという素晴らしい宣教のビジョンがあります。キリストとその御国のために、教会建築費の支払いとそれを支援する予算があります。これらのどれだけが、神のその主権の中で実現するのか、私には分かりません。でもこれだけは分かります。これらの目標を私たちが従順に追い求めることのうちに、神は私たちが直面する障害のすべてと苛立ちのすべてと、痛みのすべて、患難のすべてに目的がおありになり、その目的、つまり私たちの忍耐、練られた品性、そして神のご栄光にある望みは、目標そのものと同じように重要です。
いずれにせよ、私たちの人生の計画段階で成しておられるかも知れないみわざを、神は絶えず私たちの人生の中心で成しておられます。それゆえパウロと共に、栄光の望みに、そして来るべき患難に大いに喜びましょう。
***
1 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。
2 『宣教調査のインターナショナル公報(International Bulletin of Missionary Research)』、第16巻, 第1号, 1992年1月発行、 27ページ。
3 チャールズ・ホワイト著、『小さな犠牲( "Small Sacrifices," )』、クリスチャニティー・トゥデー、第36巻、第7号、1992年6月22日発行、33ページ。
4 『苦難に召され、勝利に召されている(Called to Suffer, Called to Triumph)』エー