奉仕としての自分の職
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2015年7月14日 (火) 20:26 時点における最新版
By John Piper About Work & Vocation
Translation by Desiring God
今朝の私のメッセージの主要ポイントは、宣言と祈りでまとめることができます。*宣言*としては、「あなたがどのように仕事の要求を満たすかは、クリスチャンの弟子訓練に欠かせないものである」、です。あるいは別の言い方をすると、「あなたがどのように仕事を遂行するかは、イエス様に従うことの、重要な部分を占める」と言うことができます。*祈り*として述べるならば、「父よ、私たちの職場であなたのご臨在を意識し、職場の人間関係のすべてにおいてあなたのご命令に従うことができるよう、恵みのすべてをお与えください」と言うのが今日の主要ポイントです。これが今日の私たちに対する神のことばであると私は信じます。1コリント7:17―24から数分間、それを紐解いて行きたいと思います。
目次 |
おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい
聖書箇所を読む前に、前述の文脈から確認して行きましょう。コリントの教会の抱えていた問題の一つは、キリストにある信仰が、どのように日常生活の人間関係に影響するのかがはっきり分からないことでした。例えば、1コリント7章で、キリストにある信仰とは、夫と妻が性的関係を絶つことを意味するのかどうかの質問があげられています。パウロは断固とした「*否*」を3節で鳴らします。別の12―16節の例は、夫婦の一人がキリストを信じ、もう一人が信じない場合はどうなるのか、という質問です。信者は聖さを保つために離婚するべきでしょうか?パウロの答えは再び、「否」です。自分が召されたときの状態にとどまっていなさい、と言います。キリストを主とし、救い主と信じる信仰は、神が全世界を創造されたときに定められた結婚の契約を、決して破棄することはありません。
しかし12、13節でそう言っておきながら、使徒パウロは、もし未信者の伴侶が信者の伴侶を見捨て、信者と何の関係も持ちたくないのであれば、信者はその結婚関係に永遠に縛られないと、許可します。言い換えると、キリストを信じるようになることは、神が定められた関係を捨てたいと思う者を生み出すのではなく、その人を聖めるのです。辛抱強く祈り、へりくだり、模範となる行動を持って、信者である伴侶は未信者を勝ち取りたいと切望するのです。しかしイエス様がマタイ10:34で予期しておられるように、未信者である配偶者の不従順と不信仰は、キリスト教を、癒してくれる平穏な塗り薬にする代わりに、断ち切ってしまう刀に変えてしまうかも知れません。ですから使徒パウロが従う*原則*は、神が定められた関係にとどまっていなさい、彼らを見捨てたり、破壊しようとしてはいけない、ということです。でももし自分の願望や支配とは裏腹に、未信者の伴侶によって関係が破棄され、破壊されるのであれば、そうさせなさい、と彼は例外を許してもいます。無実の信者は、見放す者に縛られる必要がありません。
それでは1コリント7:17を始めましょう。クリスチャンになったときの神が定められた結婚関係にとどまるという原則を話しましたが、ここでパウロはこの原則を二つの別の関係で語っています。1コリント7:17―24を読みましょう。 > ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。18 召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。19 割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。20 おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。21 奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。22 奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。24 兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。1
パウロが結婚関係ですでに教えてきた原則が、ここで3度はっきりと触れられています。17節に注目してください。「おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。」そして20節、「おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。」それから24節、「兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。」このパウロが述べる3つの原則は、この聖書箇所を二つに分けることができます。その3原則を、二段重ねた3枚パンのサンドイッチ(ビッグマックのような)に想像すると分かりやすいかも知れません。上の段の2枚のパンの間に、割礼と無割礼の問題に適用された原則が書かれてある18、19節があります。下の段には奴隷と自由人に適用された原則が書かれてある21―23があります。しかしこのいずれの適用を理解する前に、私たちは原則そのもののキーワードをはっきりさせなければなりません。
どのような召しが視野にあるのか?
この原則を述べているそれぞれの文とこの段落で、合わせて9度繰り返される言葉は、「召し」という言葉です。パウロが17節で「おのおのが、・・・神がおのおのをお召しになったときの状態で歩むべきです」、また24節で「おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい」と言うとき、彼はキリストを信じるように引き寄せられたその神の召しのことを意味しているのです。私たちは「召し」という言葉を、自分の使命を意味する言葉として頻繁に用います。私の召しは主婦、私の召しはセールスマン、等々です。でもそれがパウロがこの段落で9回繰り返すうちの8回、用いている言葉ではありません。一度だけ彼は「召し」という言葉を職としての意味で、すなわち20節で用いています。文字通り、「おのおの自分が召されたときの『*召し*』(状態ではなく)のままでいなさい」と言います。ここでの「召し」という言葉は、人生における天職、あるいは持ち場立場という意味をあらわします。そして人生におけるこの天職や持ち場立場で、別の召しを神から受けます。この召しが、キリストとの交わりに入れてくださる聖霊の引き寄せです。単純に、自分の使命において与えられる神の召しは、福音を通して魂を改心させる神の力です。
これは1コリント1章で明確にされています。1章の9節でパウロは、「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは、神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました」と言います。ですからすべてのクリスチャン、そしてクリスチャンだけが、この意味で召されているのです。この神からの召しは、一方で、私たちの天職としての「召し」と違い、その一方で、すべての人に差し出される悔い改めの一般的召しとも違います。イエス様がマタイ22:14で、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」と言われるとき、主は多くの人が耳にして拒否し、自分の破滅を招いている、福音の世界的召しを意味しておられるのです。
しかしこれがパウロの念頭にある召しではありません。私たちを信じさせ、イエス様との交わりを愛するようにさせる神の召しは、私たちを御子に引き寄せる、力ある効果的召しです(ヨハネ6:44、65)。これは1コリント1:23、24節でパウロが、「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」と言うところで、最もはっきり見ることができます。召された者がすべて説教を聞くのではなく、それを知恵として受け止めるものが、聞くのです。一般的召命と効果的証明の違いを見せるためにこの聖書箇所を意訳することができます。パウロは、「私たちは十字架につけられたキリストを信じるよう、すべての者を*召し*ますが、多くのユダヤ人がこの*召し*をつまづきとしてとらえ、多くの異邦人がこの*召し*を愚かだととらえます。しかし召された者(つまり、キリストに力強く効果的に引き寄せられた者)は、福音の召しを神の力と知恵ととらえます」と言っているのです。
それゆえ、パウロが1コリント7:17、20、24で私たちは召されたときの状態でとどまり、神と共に歩むべきであると言うとき、彼は、改宗し、ご自身の御子を信じ、御子との交わりを愛するように神に引き寄せられときの状態に、とどまっていなさいと言っているのです。
ユダヤ人と異邦人に適用された原則
さて、私たちは、パウロがどのようにこの原則を彼の時代に適用したのか、そしてそれが今日の私たちにどのような意味を持つのかを見なければなりません。その過程でその神学的根拠が浮上します。パウロの最初の原則の適用は、職ではなく、割礼と無割礼に対してです。彼は次のようにそれを適用します。もしあなたが異邦人として改宗したのであれば、ユダヤ人になろうとしてはいけない。もしあなたがユダヤ人として改宗したのであれば、異邦人になろうとしてはいけない。それが無割礼と割礼が基本的に表すものです。これには広範囲に及ぶ文化的意味があります。もしあなたが黒人であるならば、白人になろうとしてはいけない。もしあなたが白人であるならば、黒人になろうとしてはいけない。もしあなたがメキシコ人であるならば、アメリカ人になろうとしてはいけない。もしあなたがアメリカ人であるならば、メキシコ人になろうとしてはいけない。
そしてパウロはこの忠告に対する神学的根拠を述べます。19節で文字通り、「割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ること(がすべてである)です」と言います。「割礼は取るに足らぬこと」とは、恐らくパウロがユダヤ人に言うことができる、最も侮辱的なことでした。そして私たちがもし広範囲に渡るその文化的適用を理解したら、私たちもそれに気分を害します。しかしそれは事実です。パウロの論理的根拠が、私たちの時代の最新の論拠にまさって、自分の文化的特徴を維持し続けるということに対して、いかに極端に違うかに注目して下さい。私たちは、白は美しく、黒は美しく、赤は美しくで黄色は美しい、それゆえ文化を取り替えようとしてはならない、と言います。パウロは、白は無で黒は無、赤は無で黄色は無、しかし神のご命令を守ることが全てである、それゆえ、文化を取り替えようとしてはならない、と言います。あなたの今いるところにとどまって、神に従いなさい、と。パウロは考え方がとてもファッショナブルな人で、それゆえ彼の考えることは、永遠に今日的意味を帯びています。彼は徹底的に神を重視する人です。彼にとってはすべてが神優先の前に落ちるのです。
これを理解することは絶対に必要です。そうでなければ私たちは新しい律法主義を生み出すからです。古い律法主義は、「救われるためには割礼を受けなければならない(使徒15:1)、認められるためには白人でなければならない」と言います。新しい律法主義は、「もし救われたいのなら割礼を受けてはならない。受け入れられたいのなら白人ではいけない」と言います。私たちは「割礼を受けていないものに割礼を受けさせてはならない」(18節)という文章を聞いて、パウロの教えを曲げ、彼の意図を見逃し、それを文化的順応の絶対的禁止としてしまうのです。パウロは他の文化的側面に順応し、自分の文化的側面を投げ出す人々を激しく批判しているのではありません。これは自らテモテに割礼を施したという事実と(使徒16:3)、何とかして幾人かでも救うために、すべての人に、すべてのものとなった(1コリント9:22)、という彼自身の言葉からも、明確です。
パウロがここでしているのは、神のご命令に*従うこと*は、いかなる文化的特徴よりも重要で、これらの特徴を単に変えることは、クリスチャンにとってはまったく重要でない、ということを見せようとしているのです。言い換えれば、自分が割礼を受けているか受けていないか、あるいは自分が白人であるか黒人であるか赤人であるかスウェーデン人であるかを、大騒ぎしてはいけない、と言うことです。その代わりに、従順であることに大騒ぎしなさい、神の道徳的律法に従うことを、人生のねらいの*すべて*としなさい、と。そのとき初めて、信仰の従順の表現方法として二次的、そして派生的に、(パウロがローマ2:25で意味するところの)割礼と、様々な文化的特徴が美しくなるのです。パウロの文化的特徴の適応の原則は、一言で言えば、自分の現在の文化的特徴の位置に苛立ったり、誇りとしてはいけません。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」というこの一つで成就される、あなたが魂と思いと体を尽くして主のご命令に従っているかどうかに比べたら、それらは神にとっては対して重要ではありません(ローマ13:8―10、ガラテヤ5:14)。
奴隷と自由人に適応されている原則
それからパウロは、奴隷か自由人であるかの問題に自分の原則を適用するため、21―23に戻ります。21節の翻訳の問題はとても難しいものです。ほとんどの現代訳が、「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい」と訳しています。これは正しい訳かも知れませんが、20節の「おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい」、そして24節の「おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい」という表現でこの原則を彼が描いているので、この訳は受け入れがたいものがあります。この2つの節の間で「もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい」というのは、まったく場違いのような気がします。それだけでなく、この訳は(「たとえ」と「むしろ」という)ギリシャ語の言葉にも忠実ではありません。それは以下の代訳で出てきます。「あなたが奴隷として召されたのなら、そのことで悩まぬようにしなさい。しかし、*たとえ*あなたが自由人になることができるとしても、あなたは*むしろ*〔現在のあなたの立場を〕用いなさい。」 2 本当の対比は、「奴隷であることで悩んではならない。むしろそれを用いなさい」という表現でなければならないと、私は思います。それをキリストに従うことのためにそれを用いなさい、そうすれば「あらゆる点で私たちの救い主〔である〕神の教えを美しく飾る」(テトス2:10) 3 ことになるからです。
最終的分析においては、18節が割礼を絶対的に禁止しているのと違い、自由になることを絶対的に禁じているのではない、というのは事実だと思います。しかしもし自由になることを求めよという命令形として訳してしまうと、この箇所の本当の要点が見えなくなってしまいます。要するに、もしあなたがキリストとの交わりに召されたのであれば、あなたは新しい、徹底的にキリスト中心の優先事項を得ます。それは非常にキリスト中心で、もしあなたが奴隷であれば、それを悩んではいけません。「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。」あなたの仕事は大したことのない仕事ですか?それを気にしてはいけません。それは他の職業と比べてそんなに重んじられていない仕事ですか?気にしてはいけません。これが彼が割礼のような文化的違いを述べているのと同じポイントです。あなたは割礼を受けていませんか?気にしてはいけません。割礼を受けていますか?気にしてはいけません。
パウロは19節でするように、この姿勢に関する同じ神学的理由をあげることができたはずです。「奴隷であることは取るに足らないこと、自由であることは取るに足らないこと、でも神の命令を守ることはすべてです」と言うことが出来たはずです。これは事実です。しかしパウロは新しい神学的理由で私たちの理解を深めてくれます。一人の人が、奴隷であったとしても、「気にしてはいけません」と言うことができるその理由は、22節、「奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人・・・だからです。」そして自由である人が「気にしてはいけません」と言うことが出来る理由も同様で、「自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」私はこのように自分の神学を働かせるパウロを見るのが大好きです。彼は、福音には、取るに足りない仕事に落胆している人のための解毒剤と、高い評価を受けている仕事を誇っている人のための解毒剤があると言っています。希望を失っているような奴隷を見て、「キリストにあってあなたは自由です。あなたは代価を払って買い取られたのです。自分の魂を誰の奴隷にしてはなりません。主にあって喜び、主にあって希望を持ちなさい、そうすれば不安を抱えたどんな貴族階級の人よりも自由になります」と言うのです。それから自由な貴族階級の人を見て、「傲慢になってはいけません。なぜならあなたはキリストにあって奴隷だからです。権力をもっておられる方があなたを支配しています。あなたはへりくだり、従順にならなければなりません」と言います。
要するに、その人が奴隷であろうが自由であろうが、それに絶望したり誇りにしたりしてはならない、と言うことです。その人は、「気にしてはいけない」と言うことが出来るようでなければなりません。もしその人が医者や弁護士や重役であったとしても、傲慢になってはいけないし、またその人が社会から重視されない仕事に就いていたとしても、それを自己憐憫したり憂鬱に思ったりしてはいけません。「兄弟たち、」パウロは24節でまとめます。「おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。」神の*御前*です!それはとても重要なフレーズです。人生で、そして永遠のいのちで重要なのは、神の近くにいることと、主のご臨在を楽しむことです。私たちの仕事が人の目に重視されているかされていないかが重要なのではありません。私たちが神のご臨在によって励まされ、へりくだされているかどうかが、重要なのです。
パウロの原則のこの二つの適用を一つにすると、その教えは以下のようになりそうです。「神の命令に従うこと(19節)、主のご臨在を楽しむこと(24節)は、自分の文化や自分の職業がどのようなものであるかよりはるかに重要で、自分の置かれた立場を変えなければならないという衝動にかられる必要はまったくありません。恐れや絶望に駆られる必要はまったくないし、富やプライドで他人を魅了する必要もまったくありません。自分の置かれた立場に、『気にしてはいけない。お前は私の人生ではない。私の人生は神に従い、主のご臨在を楽しむためにある』と言うことが出来るようでなければなりません。」
4つの実際に役立つ適用
いくつかの実際に役立つ適用で、このメッセージをまとめさせてください。第一に、神はあなたが新しい仕事を得るかどうかより、今与えられている仕事であなたがどのように振舞っているかをはるかに気にしておられます。この会衆の中には、看護師、教師、大工、芸術家、秘書、簿記係、弁護士、受付係、会計士、社会福祉担当員、あらゆる種の修理師、技術者、業務マネージャー、ウェイトレス、配管工、セールスマン、セキュリティガード、医者、軍関係者、カウンセラー、銀行員、警察官、装飾者、音楽家、建築家、画家、掃除屋、学校管理者、主婦、宣教師、牧師、戸棚製造業者、等々、の人たちがいます。そして私たちが聞かなければならないことは、神は、私たちが一つの仕事から別の仕事に移ることではなく、私たちが神のご臨在を現在の*職場で*楽しんでいるか、また主のご命令に、仕事に取り掛かるように従っているか、ということを最も気にしておられるのです。
第二に、すでに見てきたように、改宗したときの召された状態にとどまっていなさいという命令は、絶対的ではありません。それは仕事を変えることを非難するものではありません。私たちはパウロがこの1コリント7章(例えば15節)で自分の原則の例外を許すところからだけでなく、聖書がそのような変化を描き、認めているところから、これが分かります。旧約聖書では奴隷を解放することが書かれており、また説教家になった税金取りや、宣教師になった漁師がいることを私たちは良く知っています。さらに、仕事によってはとどまりつつ神の命令に従うことが不可能なもの、例えば売春、あらゆる型のいかがわしい、心を乱すようなエンターテイメントや、人々を食い物にするよう強要されるような仕事等があることを、私たちは知っています。
パウロは盗難のプロやコリントのカルト売春婦が、召されたときのままでとどまっているべきであると言っているのではありません。コリントでの疑問は、私たちがキリストに来るとき、何を捨てなければならないのか、と言うことでした。パウロの答えは、もしあなたが*神と共に*そのうちにとどまっていることができるのであれば、自分の職業を投げ捨てる必要はない、というものです。彼の関心は、仕事を変えることを非難することではなく、いかなる仕事であってもキリストにあって達成感を味わうことができるということを教えることです。これはこの世的野心の神経を切断してしまうという理由で、現代の西欧社会ではまったくダサい教えです。私たちは、自分の子供たちに伝達する成功というものが、聖書的かあるいはただアメリカ的であるのかを、長く深く考える必要があります。「成功追求者」に対する神のことばは、「あなたが自分の上昇志向に注いでいるすべての野心と意欲を、その上昇志向の代わりに神の臨在を楽しみ、みことばに現されたそのみこころに従うことを養う霊的熱心に注ぎなさい」です。
第三に、職にまだ就いていない若い人たちに対して与えられた聖書箇所の適用は、「神の私の人生に対するみこころは何だろう?」と自問するとき、はっきりとした自答を出さなければなりません。それは、「主のみこころは、私が主との深い交わりを維持し、主のご命令に従うことに尽くすこと」です。神の、あなたに対しすでに現されているみこころ(あなたが従う義務を負っている唯一のみこころ)は、あなたの*聖化*(1テサロニケ4:3)であって、あなたの使命ではありません。心を尽くしてそのみこころに従い、いかなる仕事であっても、自分がそれが欲しいのであれば、就いてください。もしこの若者たちが神にとどまり、みことばに従うことにできる限りの努力を注ぐなら、神が世界で彼らの影響力が必要なまさにその場所に、彼らを割り当てられると、私は信じて疑いません。
第四に、そして最後に、この聖書箇所はあなたの現在の仕事は、あなたがそこに就いている限り、神があなたに*割り当てられた*仕事です。17節では、「おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです」と言います。神は主権者であられます。あなたがその場所にいるのは、偶然ではありません。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」(箴言16:9)。「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」(箴言19:21)。「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」(箴言16:33)。
あなたは、たとえあなたが詐欺によってそこにいたとしても、神が割り当てられたところにいます。あなたの仕事は、私の仕事がそうであるように、あなたの割り当てられた奉仕です。あなたがどのようにその仕事の要求を満たしていくかは、あなたが日曜日にここですることと同じように、とても重要です。私たちの多くの者にとって、それは明日の朝心機一転せざるを得ないということを意味するでしょう。仕事を始める前に、一緒に祈りましょう。「神よ、今日私と共にいてくださり、あなたのご臨在を常に意識させてください。私が希望を失いがちになるとき、私の心を励まして、私が傲慢になりがちになるとき、へりくだらせてください。おお神よ、あなたのご命令を一言でまとめている、私の隣人を私自身を愛するように愛するという、そのあなたのご命令に従うことができるよう、恵みをお与えください。アーメン。」
1 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。
2 岩波翻訳委員会訳。1995年版。
3 同上。