イエス様は自民族中心主義の終わりである
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2017年5月25日 (木) 20:06時点における版
By John Piper About Racial Harmony
Translation by Desiring God
それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」20 イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」22 みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。23 イエスは言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ。』というたとえを引いて、カペナウムで行なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」24 また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。25 わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、26 エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。27 また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、29 立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。30 しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。1
先週の日曜日、私は「情熱を植えること」と呼ぶビジョンの警鐘を鳴らしました。全会衆として共に集まり、夢の周りで警報を鳴らし、ツイン・シティーやあるいはその向こう側(BGEAの動きと一致するため、シャーロットやNCなど)のどこかで2002年に教会を開拓することはできないでしょうか?これは私たちの教会の使命宣言、「私たちはすべてのもののうちにある神の主権に対する情熱を、イエス・キリストを通しすべての人々の喜びのために広めるため、存在する」というものに特に焦点を当てるために、それを「情熱を植えること」と呼びました。しかしどんなものでも良いから、ただ教会を開拓する、というのが目標ではないことをもはっきりさせました。神中心で、キリストをたたえる、聖書に没頭した、宣教を行使する、魂を獲得し、正義を求める等々の、[開拓する]具体的な教会を描写しました。
目次 |
正義を求める
「正義を求める」と言う用語を用いるとき、私の念頭には少なくとも二つの課題があります。今週注目する人種間の調和と、来週注目する命の尊厳です。我が国における21世紀初頭の二つの大きな問題は、人種間の平等と胎児の公正[堕胎問題]です。正義を求める教会と、神中心の、キリストを掲げ、聖書にどっぷり浸った教会の間には、つながりがあると私は信じます。
私たちはもっと神中心で、キリストを掲げ、聖書にどっぷり浸る必要がある
福音派の教会、特に白人主義の福音派の教会(それさえも「黒人教会」のように、残念な呼び名ですが)が人種間の平等と胎児の公正を情熱を持って追求しない理由の一つは、私たちが、自分たちが思っているほど神中心でなく、キリストをたたえず、聖書にどっぷり浸っていないからです。「私たちはすべてのもののうちにある神の主権に対する情熱を、イエス・キリストを通しすべての人々の喜びのために広めるため、存在する」と言うとき、神がいかにして人種間の関係の中で最高主権者として存在しておられるかを、私たちは本当に深く考えたことがあるでしょうか?キリストが人種間の関係の中でどのようにして掲げられているかを考えたことがあるでしょうか?民族関係と、教育、家庭、経済、キリストの体である組織の中での人種問題について、聖書がどのように私たちの考え方や感じ方や行動に浸透しているかを、自問したことがあるでしょうか?神の主権とキリストの栄光と聖書の人種に関する教えは、「すべての人々の喜びのためのすべての事がら」において、私たちの考え方や感じ方、行動を形成しているでしょうか?
不完全さの麻痺
ですから教会開拓を考えるとき、自分たちが[ある一定の目標に]到達したから、教会を倍増させる用意ができていると言っているのではありません。もし[ある一定の目標に]到達するまで待ったら、私たちは教会開拓をすることは決してありません。結婚することも、長年夫婦を続けることも、最初の仕事に就くことも、仕事を続けることも、宣教に出ていくことも、宣教地に留まることも、子どもを持とうと決心することも、ミニストリーを始めることも、決してありません。良い人々を自分自身の不完全さ以上に、麻痺させるものがあります。ああ、耳を傾け、学び、批判する人々の私たちを麻痺させてしまうようなその批判を容易に忘れる人々を神が起こして下さったなら!私たちは自分たちが完璧だから教会を開拓しようとするのではありません。それは私たちに夢があるからです。私たちがするよりももっと効果的に、同じ聖書的ビジョンを持って何かをやり遂げる、別の指導者たちが、新しい場所で新しい教会を開拓するという夢です。
より良い快適さではなく、偉大な目的のために生きる
「情熱を植える」ことに関して、私たちはより良い快適さではなく、偉大な目標のために生きることに身をささげる人々を植えると言うことを、私は考えています。以前「クリスチャンになるということは、快適さではなく必要に向かって進むと言うこと」といいうタイトルで説教をしたことがあります。[それは]自分の快適さをいかにして拡大するかではなく、神中心の何か素晴らしい目標を拡大することを夢見ながら、朝起きて、夜床に就くことです。「情熱を植える」と言うのは、自己保存、自己高揚、自己保養を求めることに日夜時間を費やすのではなく、自分自身や自分の家族や自分の教会より、もっと大きく素晴らしい何かを追求する人々を植える、と言う意味です。
あなたが生きていると言うこと自体より素晴らしい目標とは何ですか?「神中心の、聖書に浸かった人種間の平等と人種間の調和を通して、イエス・キリストを掲げることが私の人生の最大の目標です」、あるいは「神中心で、聖書にどっぷり浸かり、胎児の公正を通してイエス・キリストを掲げることが私の人生の最大の目標です」という人が、今週と来週の日曜日、皆さんの中で何人、あるいは何百人、いるかどうか、お尋ねします。ああ、自己中心と一時的な忠誠心と締まりのない献身に反して、神がアドレナリンのようではなく、心臓のように、偉大な目標を維持する男女を起こして下さったなら!アドレナリンはその時必要なエネルギーを一時的に生み出し、それから体力を低下させます。心臓は良い時も困難な時も、冬でも夏でも、悲しい時でも嬉しい時でも、力がみなぎっている時でも弱っている時でも、病気の時でも健康な時でも、体中に生命を供給し続けます! ああ、副腎のようなクリスチャンだけでなく、人種間の平等という目標において、冠状動脈のようなクリスチャンがもっと起こされたなら!
私たちにはウィリアム・ウィルバーフォースが必要
皆さんの中でこの時代のウィリアム・ウィルバーフォースは誰でしょうか?彼は奥の深いクリスチャンで、活気に満ちた福音派で、イギリスの人種間の平等と言う目標の長期戦で熱心に活動した人でした。1787年10月28日、28歳で自分の日記に、「万軍の神は私の前に二つの大きな目標を置かれた。奴隷貿易の抑圧と、[倫理観の]改革である(ジョン・ポロック著、『ウィルバーフォース』、69ページ)。」アフリカ人奴隷の貿易は当時の国の経済の関心事を大きく占めていたので、国会がある事に彼は敗北しました。しかし彼はあきらめることなく、引き下がることもありませんでした。彼はアドレナリン的クリスチャンではなく、冠状動脈的クリスチャンだったのです。1807年2月24日の午前4時、彼が自分の日記に最初に記した20年後、奴隷貿易が違法になる最終的法律が可決されました。20年もの忍耐の後もやるべきことはまだ終えていません。奴隷業者そのものはどうなるのでしょう?その16年後の1833年7月26日、彼が死ぬ3日前、イギリスとイギリス植民地で奴隷制度が違法になる法律が可決されました。
ですので「情熱を植える」と言うことを考えるとき、副腎のような情熱ではなく、この冠状動脈のような情熱を生み出すような教会を開拓することを私は考えています。神中心で、キリストを掲げ、聖書にどっぷり浸り、正義を求め、快適さではなく偉大な目標のため、決してあきらめることのない献身です。
それゆえもし神を中心におき、キリストを掲げ、聖書にどっぷり浸りたいのであれば、福音書でイエス様が言っておられることに耳を傾け、イエス様が自民族中心主義にどのように終止符を打たれるかを一緒に見ましょう。自民族中心主義とは、自分の民族が優勢あるいは特権階級として扱われるべきだと信じ込むこと、あるいは感じることです。
ルカ4:16-30ー神のみ国はあなたが考えている民族とは異なる
ルカ4:16―30から始めます。カペナウムで有名になった地元出身の男児が、その後自分の故郷、ナザレに戻ってきます。安息日に礼拝堂に行き、彼に聴こうと群衆が集まります。そして主がご自身のメッセージで言われることは、まったく信じられないことです。主は暴動を引き起こすところでした。それを意図的に成されるのです。まず彼らは主に預言者イザヤの書簡を読むよう手渡し、主はその中から61章をお選びになります。それは囚われ人を解放し、主の恵みの年を告げ知らせる贖い主の来臨についての箇所です(18後半―19節)。そしてそれが彼らの聞いたとおり実現したと、主は言われるのです。21節、「イエスは人々にこう言って話し始められた。『きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。』」それは驚くべきことでした。トップ記事ー「地元出身の男児が、自分がメシアであると主張する」。でもこれが暴動を起こすきっかけとなったのではありません。22節、「みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。」そこまでは良かったのです。
次に主が何と言われるかを見てください。まったく予期しなかったことです!もしあなたが以下のものが欲しいと思われるなら、不可解です。ただの教会成長が欲しいのなら、不可解です。主は旧約聖書から自分の郷里の自民族中心主義を前にして、二つの話をお選びになります。それはそれ以上に無礼にはなれないほどに無礼な話でした。主はどのような反応が彼らから返ってくるかを知っておられます。それは24節で、「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません」と言われるからです。言い換えると、「メシアが何をするか、またメシアのみ国がどのようなものであるか、あなた方は自分の理解で今わたしをほめている(22節)。しかしわたしがこれからしようとしていることと、わたし国がどのようなものかを話すのを聞いたら驚くでしょう。」
主はまず一つ目の話をなさいます。1列王17章から引用されていますが、25―26節、「わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六ヶ月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、(26)エリヤはだれのところにも遣わされず、シドン(フェニキア)のサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。」主はいきなり、外国であるシドン(フェニキア)の地から来ている異邦人に奇跡的恵みをもたらすために、すべてのユダヤ民族を通り過ぎられる神の話をされます。イスラエルにもやもめは多くいたが、神はこの外国人だけを祝福されたー主はこれを、話を柔らげることも、説明することもなく、あからさまにそして強い口調で言われます。
そしてそれが十分でないかのように、二つ目の話を2列王記5章から引用して、27節で話されます。「また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、ツァラアトに冒された人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」再度、ポイントは、神は癒そうと選ぶことができたはずのすべての人の中で、ユダヤ人ではなく、外国の王であったシリア人をお選びになった、と言うことです。
この二つの話はナザレの自民族中心主義に理解できない話ではありませんでした。28節、「これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、(29)立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。(30)しかしイエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた。」彼らはそれを理解し、好みませんでした。
この話のポイントは何でしょうか?ポイントは、「わたしのもたらす国は、」イエス様が言われるには、「あなたの考える民族国家とは違う。イスラエルとして選ばれたあなたがたの地位は、何の謙遜も同情も生み出さなかったどころか、自尊心と軽蔑を生み出した」です。イエス様が自民族中心主義の終わりです。「わたしを見なさい。わたしから習いなさい」と主は言われます。「わたしは一つ、あるいはいくつかの民族ではなく、すべての民族グループから民を贖うためにやって来たのです。祭司と友の国をすべての人々の中から集めようとされる神の熱心、義と憐れみを見ることができないあなたがたは、呪われよ。」
マタイ8:5-13ーイエス様にある信仰は民族性に勝利する
これらのナザレ人に呪いを宣告するなど、私はやりすぎでしょうか?次のマタイ8:5―13の別の話を考えながら、あなた自身がそれを判断してください。イエス様はマタイ5―7章で山上の垂訓を語り終えられ、それからマタイ8:1―4で、イスラエルの人々の中で最もさげすまれ、排斥されていたらい病の者に触れられ、癒されます。そしてマタイ8:5で主はカペナウムに入られ、そこで次に最もさげすまれ不快な種類の人物、ローマ軍の百人隊長に出会われます。それは丁度タリバンの解放軍にとってのアメリカ海軍兵のようなものです。この特定の百人隊長がユダヤ人の間で評判だった事実(ルカ7:3―5)は、マタイの福音書では省かれています。それはマタイにとっては自分の要点と関係のあることではありません。この男は外国人であり、ユダヤ人ではありません。マタイはその自分の要点に人々を引き付けます。
この話のポイントは何でしょうか?百人隊長はイエス様に懇願して、「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」何の質問もためらいもなく、イエス様は7節で「行って、直してあげよう」と言われます。すると百人隊長はイエス様が驚かれるようなことを言います。8節、「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。(9)と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
10節で、これを聞いたときイエス様は、驚かれたと言います。そして主は、みんながこれは癒しと力と権威についての話であると思っていたこの状況全体を、まったく違うもの、すなわち、神の御国が外国人で形成されていることと、恵みを受けることを民族性に頼ることの危険性という状況に変えてしまわれます。10節後半、「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。(11)あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、・・・」東と西!それは何でしょうか?それはフェニキア(ガザ地区)、エジプト、ギリシャ、アラビア、ペルシャ(ヨルダン、イラン、イラク、アフガニスタン、パキスタン、インド、中国)です。彼ら、つまり、割礼を受けていない、コーシャーでない外国のやりかたと外国の身なりの外国人たちが来て、どうなるのでしょう?11節後半、「天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。(12)しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
これはまったく衝撃的な話です!この話の強さを感じなければなりません。イエス様はここで、イスラエルの選ばれた民に、まずこの信仰を持った百人隊長のようなローマ人が、それから汚れたあらゆる異邦人の民族が天の御国に入るが、あなた方「御国の子ら」は、暗やみに放り出されると言われるのです。選ばれた民族についてこのように語られるのは、ほとんど聞いたことがありません。主は何と言っておられるのでしょうか?イエス様が自民族中心主義の終わりである、と言っておられるのです。
あるいはもっと肯定的に言うと、主の来臨と共に、神の民の究極的に新しい定義がやって来たのです。すなわちそれは、主にある信仰です。イエス様にある信仰は民族性に勝ります。福音書の中でこれが何度も繰り返し起こるのを見ることができます。
- 良きサマリアの話ー外国人が慈悲心の英雄(ルカ10:33)。
- 10人のらい病人が癒され、そのうちのたった一人が戻って来ます。彼はどのような人でしょうか?謙遜で感謝で輝く外国人の、サマリア人です(ルカ17:16)。
- スロ・フェニキヤ人の娘の癒し(マルコ7:26)。
- 東、恐らくペルシャかアラビアから来た賢者たちの礼拝(マタイ2:1)。
- そして最後にイエス様ご自身が前もって説明される、ぶどう園の主人のたとえのうちにある、ご自身の死とよみがえり(マタイ21:33―43)。ぶどう園の主人は収穫の分を受け取ろうと、自分の息子を農夫たちのところへ遣わします。彼らはその息子を殺します。イエス様は、「この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう」と聞かれます。43節にその答えがあります。「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」
[肌の]色ではなく、キリストにある信仰
マルチン・ルター・キングがその最も有名な演説で、「私には、私の幼い4人の子どもたちがいつの日か、自分の肌の色ではなく、持ち合わせている性格がどのようなものかで判断されるような国に住むようになる、と言う夢があります」と言ったとき、これを意味しているのです。
イエス様が自民族中心主義の終わりです。[肌の]色ではなく、キリストにある信仰、それが御国の特徴です。ノエルと私は、昨日シカゴにいる息子のベンジャミンと電話で話しながら、昔のことを思い出しました。1967年のアーバナです。ウォレン・ウェブスターは15,000人の学生たちの前で、「自分が宣教しているパキスタンで、自分の娘がパキスタン人と結婚しようと決心したらどうしますか?」と聞かれました。彼の答えは今でも私たちの耳に響いています。このメッセージが皆さんの耳にも響くよう願いますが、彼は「金持ちで白人で[キリストを]信じない銀行員のアメリカ人より、貧しいパキスタン人のクリスチャンの方がよっぽどマシです」と答えました。言い換えると、[肌の]色ではなく、キリストが争点なのです。イエス様が自民族中心主義の終わりです。
もし私たちが神中心の、キリストを掲げる、聖書にどっぷり浸かった、公正を求める教会を開拓しようとするなら、自民族中心主義はここでも終わらせなければなりません。それが終わり、すべての民族と人種と民がキリストを共にたたえるとき、それは何と素晴らしいものでしょうか。主を、それを実際に起こして下さい!
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1 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。