この山でもエルサレムでもなく、霊とまことによって
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2009年10月16日 (金) 15:23 時点における最新版
By John Piper
About Worship
Part of the series The Gospel of John
Translation by Desiring God
今日はヨハネ4章20から26節にフォーカスを置きます。この数節は、なんと 神の偉大さに満ちた箇所でしょう。2週間前、1節から15節までを見ました。 イエスが、サマリアのとある井戸で出会った女性に「生ける水」を与えようとし ますが、この女性はその意味をまったく理解できませんでした。先週は、16節 から19節を通して、外科医が手術をするかのように、私たちの魂を切り開き、 私たちの全てを知り尽くした上で、あえて見捨てずに求めてくださるイエスの姿 を見ました。5人の夫が過去にいて、今現在一緒にいるのは夫ではない、という 彼女の過去を知った上で彼女を真の礼拝者に導こうと会話を進めます。
今日は、真の礼拝の奥義を解き明かす救世主、ユダヤ人が待ち続けていたメシア、 それだけではないもっと多くのイエスの性質を見る事にしましょう。
目次 |
場所に制限されない礼拝
まず、20節から22節を見てください。心を見透かされ、自分の奥底を調べて いるようなイエスの質問を逃れるために、このサマリアの女性は話のネタを礼拝 に変えます。しかし、この時ですら、彼女は礼拝の真髄ではなく、表面的なこと だけしか考えられないのです。質問は礼拝の「場所」についてです。20節「私 たちの先祖(our fathers)は、この山で礼拝しました。しかしあなたがたは礼拝 すべき場所はエルサレムであると言います。
イエスは彼女が話題を変えるのを許し、礼拝について質問させますが、彼女の外 面的な質問、つまり礼拝の場所についてだけでは終わらせません。21節「イエ スは彼女に言いました。「女の人、わたしを信じなさい。この山でもなくエルサ レムでもないところで父(the Father)を礼拝する時が来ているのです。」
山は礼拝場所にふさわしくない時
イエスは彼女の質問に対し、否定的な答えを出し、反論しています。「『どこ か』だって?『場所』に関して懸念しているのかい?この山でもエルサレムです らも真の礼拝にふさわしくない時が来ているのだよ。それもあなたが考えている よりも早くにね。」このイエスの答えはユダヤ人から出た言葉としては驚異的で す。イエスによると、エルサレム、すなわち聖地、ダビデの町、神の神殿がある エルサレムですら真の礼拝の中心でない日が来るということです。
このイエスの答えは、女性が求めていたものではありませんでした。ユダヤ人は エルサレムこそが礼拝の焦点、サマリア人にはゲラジム山こそが、という討論を 始められるだろうと期待していたのでしょう。イエスは、そんな議論すらしませ ん。代わりに今まさに起ころうとしている新しい事について話し出します。「こ の山でもなくエルサレムでもないところで父(the Father)を礼拝する時が来てい るのです。」
なぜ「父(the Father)」を礼拝することを持ち出したか
どこで礼拝するかという話題に対して、イエスは「誰を」「どのように」礼拝す るかということにフォーカスを当てます。21節に「父」を礼拝する時が来てい ると言ってますね。この女性ではなく、イエスがその単語を最初に使ったのです。 イエスはなぜ、「神(God)」や「主(the Lord)」と言わなかったのでしょう か?
理由は3つあります。
1) 神はサマリア人の「父」
イエスが「父(the Father)」という言葉を使ったのは、まず、この女性が質問 をした時に使ったサマリアの「先祖(the Fathers)」と関連付け、さらに彼女の 関心を唯一であり偉大な「父(the Father)」に持って行きます。彼女は20節 で「 私たちの先祖(our fathers)は山で礼拝しました。」と言っています。少 し戻って4章12節では「あなたは私たちの先祖ヤコブ(our father Jacob)よ り偉いのですか?」と言っていましたね。表面的なことや伝統などが非常に大事 なことのようです。先祖たち(fathers)は彼女の思いの中ではかなり高い位置 につけられています。
イエスは話の焦点を変えます。イエスはここで「真のユダヤ人の先祖たち(the fathers)はエルサレムで礼拝しました」などとは言いません。イエスがここで 言わんとしているのは「あなたが関心を持たなければならない父(the Father)が います。その方こそが礼拝されるべきで、特別の場所などはないのです。」でし た。
2) 神は彼を受け入れる子どもの「父」
次に、礼拝されるべき方が「父」であると言う事によって、イエスは彼女に神に は子供がいるという事実を示しています。子どもがいない父親はいませんから。 子どもの存在により人は父親になれるのです。この「父」という言葉を持ち出す ことにより、イエスは「神の子供は誰か」という質問を投げかけています。
その質問に対する答えはヨハネの1章12節にすでに与えられています。「この 方を受け入れた人すべてに、神の子どもと呼ばれる特権(権利)を与えられた」 イエスを受け入れる人はみな、神の子どもなのです。神は、新しく生まれ変わり イエスを信じる者にとって父なのです。つまりイエスはここで、こと礼拝に関し ては、場所は問題ではないという事実にこの女性の目を開かせようとしているの です。
3)神はその子、イエスキリストの父
そして、今述べたことは、なぜイエスが21節で神を「父」と呼んだかという3 つ目の理由を導き出します。この英語やギリシャ語で書かれると頭文字が大文字 になる「父」(the Father)にはやはり頭文字が大文字になる「子」(the Son) がいるのであろうという観察が出来ます。特に私たちにとっては、この二つの単 語は非常に多くの場合、一緒に用いられるのを知っているのです。
(以下はすべてヨハネから。父も子も頭文字はすべて大文字。)
- 3:35 父は子を愛されます。
- 5:19 父が行うことは何でも子も同じようにします。
- 5:22 父は誰も裁きませんが、裁く権利をすべて子に与えました。
- 5:23 子を敬わないものは、子を遣わした父も敬いません。
- 5:26 父が自分の中にいのちをもっているように、子も自分の中にいのち を持つようにされたのです。
- 14:13 父は子によって栄光を受けます。
礼拝を受けるにふさわしいかたは「父」です。このサマリアの女性は「子」と会 話をしているのです。今、私たちは、このイエスの存在は礼拝において、どの山 にいるかとか町にいるとかいうことよりも遥かに重要であることを見ます。
「どこで」ではなく「だれを」
ヨハネの2章19節でイエスが「この神殿を壊して見なさい。わたしがそれを三 日で建て直しましょう。」と言ったのを思い出してください。言い換えれば、イ エスはご自身が新しい神殿、神と出会う新しい場所であるとご存知なのです。礼 拝の焦点としての今現在の神殿はすぐに滅びてしまうのです。ではそこには何が 出来るのでしょう。新しい山ですか?新しい都ですか?新しい建物ですか?違い ます。
新しい人、「子」
イエスが「この山でもない、エルサレムでもない」と言ったときに、意味するの はこういうことです。「どこで」ということではなく、「だれを」礼拝するかと いうことが問題なのです、と。父と子、生ける水、預言者、救い主、メシヤ。
あなたがたは知らないで礼拝しています
22節でも同じようなことが言われています。「あなたがた(サマリア人)は知 らないものを礼拝しています。私たちは知っていて礼拝します、なぜなら救いは ユダヤ人から出るからです。非常にきつくてずけずけと物を言いますね。「君た ちサマリア人の問題は、間違った山で礼拝しているとかそういうことじゃない。 誰を礼拝しているか知らないというところにあるのだよ。」とサマリア人の女性 に言っているのです。
なぜでしょうか?22節後半の「救いはユダヤ人から来るからです。」とは何を 意味しているのでしょう。すべてユダヤ人は誰を礼拝しているのか知っていると 言う意味ですか?そうでないのははっきりとわかっています。なぜならヨハネの 8章19節で、イエスは大変厳格なパリサイ派ユダヤ人にこう言います。「あな たはわたしもわたしの父も知りません。わたしを知っていたら、わたしの父も知 っていたでしょう。」ユダヤ人も本当の神を知らないのです。サマリア人と同じ です。イエスはユダヤ人にもサマリア人にも「あなたがたは知らずに礼拝してい るのです。」と言われたのです。
このような礼拝は、イエスに言わせると「無駄で中身が空(マタイ15:9)」 です。ヨハネの4:23で言うところの「真の礼拝」ではないのです。
わたしたちは知って礼拝します
それでは一体、22節の「わたしたちは知って礼拝します。救いはユダヤ人から 出るから」とはどういう意味なのでしょう。それは、ユダヤ人は救い主がこの世 に来られると教えている、ということに他ありません。そしてその方はダビデの 子孫、メシヤ、主のしもべとして来られることを教えています。この救い主が来 られるので、まことの礼拝と神の本当の理解が可能なのです。1節から42節ま でのこの話は、シカルの町の人々が「まことにこの方が世の救い主であることを、 私たちは知っています(42節)」で布告するところで終わります。
イエスが22節で、救いはユダヤ人から来ると言い、「わたしたしは知って礼拝 します。」と宣言している意味は、救い主は世に来られ、この方は罪人が(5回 も結婚離婚を繰り返し、現在同棲中であるような罪人が)神を知り、神を父と呼び、まことを持ってこの方を礼拝することが出来るようにしてくださる、という ことなのです。
サマリアの女性にイエスが語られているのは、「あなたがたは自分たちが礼拝し ているものを知らないのです。なぜなら、救い主、そして世に来られる救いを知 らないからです。救い主はユダヤ人のメシアです。あなたがたサマリア人はそれ を信じません。それだから、あなたがたの礼拝は真実ではないのです。」という ことなのです。
イエスを除いては本物の宗教はなし
この箇所が現在の私たちの状況(イスラム教、ヒンズー教、仏教、ユダヤ教、そ の他罪人の為に死ぬために来られ、よみがえり、神と人との仲介者となられたイ エスキリストを、神の世への救い主であると快諾しない宗教)に当てはまる点を 読み逃さないようにしてください。栄光に満ち、唯一であり、他の宗教よりも優 れているイエスの名が、それにかかっているのです。さもなくば、クリスチャン でありながら、イエスを知り、愛し、敬い、信じることが救いに不可欠であると いう事実から離れてしまうかもしれないのです。
イエスを除いては本物の礼拝はなし
それどころか、ここだけではなく福音書のいたるところで、ユダヤ人から来る救 い主を受け入れる以外に真の礼拝は存在しないと言っています。ヨハネの8章1 9節で「わたしを知っていたら、わたしの父も知っていたでしょう。」ヨハネ5 章23節ではユダヤ人に対して「子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬わな いのです。」と言っています。そしてヨハネの5:42~43節では「あなたが たの内には神の愛がない事を知っています。わたしは父の御名によって来たのに、 あなたがたはわたしを受け入れないからです。」
言い換えれば、「わたしが誰かを知らず、本当のわたしを敬わず、本当のわたし を知って愛さない者は、神を知りもせず、敬いもせず、愛することもしないので す。ですから、山や寺院や神殿で彼らが何をしようと神を礼拝しているのではな いのです。」ということですね。
自分が拒絶している者を礼拝することは出来ない
同じ事がルカ10章16節にも描かれています。「わたしを拒絶する者は、わた しを送られた方をも拒絶しているのです。」当たり前ですよね。何か(誰か)を 拒絶しながら同時に同じ物(者)を礼拝することはできません。受け入れられな い方を讃える事はできません。ヨハネ5章46節「モーセを信じるなら、わたし をも信じたはずです。」はサマリア人にもユダヤ人にも非常に適した箇所です。つまり、わたしを否定するなら、あなたがたは本当はモーセを信じてはおらず、 モーセに対して行っているのは本当の礼拝ではない。」ということです。
今現在の多元的で、多文化的で、相対論的で、縮小している私たちの世界では、 この考えは難しく、これから先の未来ではもっと困難になるでしょう。あなたが 個人的によく知っている、大変宗教に熱心だがイエスを彼らの救い主として受け 止めていない人達が増えれば増えるほど、彼らの礼拝が「本当の礼拝でない」こ とが信じられなくなります。ですが、もしあなたが自分の信仰に関して勇敢であ るのをやめてしまったら、あなたは新約聖書のイエスを見捨てて、自分の宗教を 作ってしまうこの世と同調してしまうのです。
時は来た
23節ではイエスは「その時(エルサレムの神殿で行われていた礼拝から、イエ ス自身を礼拝する時)が来た」ということを明確にしています。 23節では「真の礼拝者が霊とまことを持って父を礼拝する時は近づいています。 今がその時です。父がそのような人探しておられるからです。」
終わりに、この箇所がどのように他の箇所と関連しているのかご覧に入れましょ う。時が今ここに来ているのは、救世主がここにいるからです。「子」がここに おられるからです。イエスを通して父は真の礼拝者を探し求めているのです。滅 ぼす為ではなく救う為に。それ故にイエスは地上に来られたのです。イエスこそ が神が礼拝者を探しているという証拠なのです。
真の礼拝は新生を必要とする
本物の礼拝が霊とまことによらなければならないというのは、少なくとも次の理 由からです。神を礼拝するためには、霊的に生まれ変わらなければならない。そ して、それには真実、つまりイエスキリスト(ヨハネ14:6)を通して神のも とに近づかなければならないのです。
ヨハネの3:6で、イエスがニコデモに言った事「 肉に生まれた者は肉に属し、 霊に生まれた者は霊に属します。」を覚えていてください。霊(spirit)をもっ て神を礼拝するということは、聖霊(the Spirit)により生まれ、つまり生きた 霊になるということです。新生の前は、私たちがしていたのは、教会や会堂やお 寺や神社やモスクにいって、この肉で行動していたのです。自分たちをクリスチ ャンやユダヤ人やイスラム教やヒンズー教と呼んでいたとしても、生きた霊を持 っていなかったのです。私たちは霊的に死んでおり、神を知らずにいたのです。 まさに「肉に生まれた者は肉に属し。。。」という訳です。
しかし、イエスへの信仰を通して、聖霊が私たちに霊のいのちを与えるときに、 私たちは生まれ変わるのです。霊を持って礼拝することが可能になり、私たちの 霊は生きていて、神の霊を自分たちの内に持つ事ができるようになります。そし て真実、すなわちイエスキリストを見極め、自分のものにする事が出来ます。そ れにより今や私たちは霊と(霊を与え生ける霊であられる聖霊)まこと(神の究 極の真実であるイエスキリスト)をもって礼拝することが出来るのです。
生ける水、預言者、救い主、メシヤ
さて、サマリアの女性はこのイエスとのいとも不思議な出会いの最後に25節で こういいます。「キリストと呼ばれるメシアが来られる事は知っています。この 方が来た時に、全てのことを私たちに知らせてくれるのです。」そして、それに 対しイエスは26節で彼女にこう言います。「あなたが話しているのがそれで す。」
今イエスがここに立っていても、あなたに同じ事を言うでしょう。「わたしが、 あなたが飲むべき(あなたはその為に創造されたのだから)生ける水、あなたの 全てを知り尽くし、なおもあなたを追い求める預言者、罪人の為に死に、あなた をまことの礼拝者とするために来た救世主です。来るべきメシアについて聞かれ るのですか?あなたが今話しているのがそうです。わたしを信じなさい。」と。