「神の栄光の現れ、/執事
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By Mark Dever
About Church Government
Chapter 2 of the book 「神の栄光の現れ、
Translation by 9Marks
まず初めに、今日の地域教会において最も馴染みのある職務の一つ、 執事について見ていきます。あなたがどのような背景の教会から来て いるのかによりますが、「執事」の単語から想起させるものとして、特 別にあてがわれた教会の特別室にある長く磨き上げられた机の周りに 座る、白髪交じりの銀行マンのイメージをもっているかもしれません。 あるいは、そのことばが、教会の必要から来る働きの調整や福音的な 伝道の働き、又は牧会的な配慮など教会の熱心な奉仕者を思い浮かべ るかもしれません。後者がまさに私たちの教会における執事なのです。 それでは聖書における執事とは何でしょうか?
Ⅰ 「執事」の定義
「執事」が仕えることという意味において、新約聖書の世界におけ る理解は私たちのものと似ていました。他者に仕えるということは、 ギリシャ人にとっては称賛されるべきことではありませんでした。か えって、彼らは自尊心を常に維持することに目を配り、自分自身の人 格や性格の発展を称賛しました。他者への執事的な奉仕は、「奴隷のよ うな」という軽蔑語によって表現される類のものと見なされていたの です。
しかしながら聖書は、奉仕をまったく別に描いています。 新約聖書の現代的な訳によれば、ディアコノスという単語は、通常「奉 仕者」と訳され、時には「しもべ・牧師」、そして時には単に字音的に 「執事」と訳出されています。それは、一般的な奉仕に言及したり( 例: 使徒'1:17、25、19:22; ローマ.12:7; Ⅰ コリ.12:5; 16:15; エペ.4:12; コロ.4:17; 2 テモ.1:18; ピレモン13; へブ.6:10; Ⅰ ペテ4:10-11; 黙 示.2:19)、特に支配者として( 例: ローマ.13:4)、又は物質的な必要へ の配慮として述べられています( 例:マタイ.25:44;使徒.11:29;12:25; ローマ15:25',31; Ⅰ コリ.8:4,19-20;9:1,12-13; 11:8)。新約聖書にお いて明らかなのは、女性が少なくともこれらの務めのいくつかをすることができる、ということです( 例: マタイ.8:15; マルコ1:31; ルカ 4:39; マタイ27:55; マルコ15:41; 参照.ルカ8:3; ルカ10:40; ヨハ ネ12:2; ローマ16:1)。天使はこのように仕えます( 例: マタイ.4:11; マルコ1:13)。ときどきそれは、特に給仕のテーブルに言及され( 例: マタイ22:13; ルカ10:40; 17:8; ヨハネ2:5,9; 12:2)、ギリシャ世界 においては、そのような務めは軽蔑の対象であったにもかかわらず、 イエスはそれを異なるものとして尊重しました。ヨハネ12 章26 節で イエスは「わたしに仕えるというなら、その人はわたしについて来な さい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわ たしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます」と言われまし た。マタイ20 章26 節でも再び( 参照: マルコ9:35) イエスは「偉く なりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」と述べています。 そしてマタイ23 章11 節で( 参照: マルコ10:43; ルカ22:26-27) 彼 は「あながたがのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でな ければなりません」と言っています。
実際に、イエスは自分自身を執事の典型として紹介してさえいます ( 例: マタイ'20:28;マルコ10:45; ルカ22:26-27; 参照.ヨハネ13; ルカ12:37; ローマ15:8)。キリスト者はキリスト、または彼の福音に 仕える者となるように描かれています。そのことは使徒たちがどのよ うに描写されたか( 使徒6:1-7)、又パウロは自分自身や彼と共に働い た人々についても確かに言及しています( 例:使徒20:24;Ⅰコリ3:5; 2 コリ.3:3,6-9;4:1; 5:18;6:3-4; 11:23; エペソ3:7; コロ1:23; Ⅰテモ1:12; Ⅱテモ4:11)。彼は自分自身のことを、自分が特に仕えるよ う召された特定の群れである異邦人の間のしもべであると述べていま す( 使徒21:19; ローマ11:13)。パウロはテモテをキリストの奉仕者と 呼び( 例: Ⅰ テモテ4:6;Ⅱテモテ4:5)、ペテロは旧約聖書の預言者た ちは、私たちキリスト者にとって奉仕であったと言っています( Ⅰペ テロ1:12)。御使いは仕える霊と呼ばれており( へブル1:14)、サタン さえも彼らのしもべが存在すると記されています(Ⅱコリ3:6-9;11':15; ガラ2:17)。
私たちは執事と長老の務めの間に常に明確な区別を維持する必要が あります。長老と執事はある意味において共に「仕える」ことに係わ り合いますが、その二つの務めはまったく異なる形式をとるのです。 私たちが重要と考える使徒6 章の7 節において、務めが伝統的な務め ( テーブルでの給仕、物質的奉仕) と使徒たち( と後になって、長老) に託された御言葉の「務め」の種類に分けられているのを見ることが できます。使徒6 章で述べられている執事は、少なくとも管理的な意 味において、教会のウェイターのようであると言えます。彼らは教会 の物質的な必要を配慮するようにと召されています。そしてこの特定 の務めのためにグループを形成することは重要です。なぜならそのよ うにしないことが、結果として二つの種類の務め― 御言葉( 長老) と テーブル( 執事) ― を互いに混乱させ、どちらかひとつが忘れられて しまうからです。教会は、御言葉の宣べ伝えることも、教会の一致を 促進する助けと共に、私たちの互いに愛し合うという務めを満たす働 きをする教会員への実際的な配慮の両方とも疎かにしてはいけないの です。これら教会生活と働きの両方ともに重要なのです。教会におい て両方の務めがなされるために、私たちは執事の務めを長老のそれと 区別すべきなのです。
Ⅱ . 歴史的背景
使徒の時代の間、複数長老性や複数執事性は十分安定していたにも かかわらず、諸教会における状況はかなり流動的でした。新約聖書の すぐ後の時代には、長老と執事それぞれ別々の職務が継続しました。 長老の役割は、主教と祭司の間に区別ができ始めましたが、しかし執 事職は継続して、常に監督や祭司と一緒かその後に加えられ、主教又 は監督を補助する重要な仕事を課せられた者としていつも見られてい ました。初代教会においては、その職務は一般的に生涯にわたって負 わされていました。しかしながらその職務の役割は、場所によって変わりました。執事的職務には次のようなものが含まれます:
■ 教会における聖書朗読と賛美
■ 献金の受領、誰が捧げたかの記録
■ 監督、長老や自分たち自身、未婚女性ややもめ、そして貧しい者 への捧げ物の分配
■ 聖餐の分餐
■ 礼拝中の祈りを導き、そして儀式が執行される前に聖餐を受けな い者に去るように合図を与える
以上は、2 世紀から6 世紀にかけての執事の職務のおおよその要約 です。
君主的監督職が発展するに従い、君主的執事職のようなものが下方 へと追いやられました。監督の役割が発展するに従い、副監督の役割 も発展しました。副監督は、特定の場所における執事の長であり、物 質的な事柄に関係のある代理人として描写されていました。ローマの 副監督が、特に重要であったことは驚くに価しないことです。悪用が はびこり、執事と特に副監督が大変裕福になったと言えば十分です。 他者に仕えるべき者が、かえって自分の欲望に仕えるために他者を利 用するとは、なんと皮肉なことでしょうか。数多くの理由から、執事 の影響力は中世になって減少しました。貧しい者の世話をすることが、 寄付者にとっては神からの栄誉を得るための手段となり、また煉獄で の彼らの時間を減らすことを彼らは思いついたのでした。
東方正教会はその能力において仕える一般信徒として、常に執事を 分けていました。しかしながら西方教会において中世後期までは、執 事になるとは単に祭司、すなわち長老として任命される途中のステッ プであったのです。ローマ・カトリック教会と監督派の諸教会におけ る執事はまさしく一人前の祭司になる前一年間執事として奉仕をした 見習い牧師のようでした。第二バチカン会議は、ローマ・カトリック 教会における恒久的で異なるより聖書的な執事職の可能性を再び開き ました。
ルター派教会は、新約聖書の執事の考えを取り戻すことはありませ んでしたが、ルターは教会の物質的な必要、特に貧しい人々を教会が 世話をする責任について取り戻しました。今日のルター派の教会にお いては、慣例は変化しています。 いくつかの所では、執事は任命さ れないままであり、他の場所においては、誰であっても補牧師で特に 牧会的配慮と伝道に責任をもつ者は、執事と呼ばれています。
宗教改革の間、より福音的なプロテスタントの多くの教会では、聖 書的な慣例としての執事と長老や牧師との区別が認識されてきました。 宗教改革の時代において、何人かのプロテスタントは、例えばケンブ リッジのマーティン・ブットザー( Mar t in But ze r) は執事の職務を再 建すべきであると主張しました。彼らが言うには、執事はそれぞれの 教会において、援助を受けるに価する者とそうでない者とを区別し、 独立した調査を実施し、ひそかに援助の必要な者をお世話して、他の 者を教会から追放していたというのです。彼らはもし可能であるなら ば、教会員によって捧げられた寄金の書き記された記録を保持するべ きでした。
監督派の教会において、執事は施し物を管理し貧しい者や病気の者 ( これらの役目が大部分この世の政府に引き継がれてきてはいます が) の世話をする者のことです。執事は長老とは別の群れであり、彼 らに対して責任を負っています。これは多くのバプテスト派と会衆派 の教会が、かつて組織化したやり方です。いくつかの教会はいまだに このやり方で組織化されており、多くの教会は、少なくともある程度 は、この構造を維持しています。
しかしながら多くのバプテスト派と会衆派教会においては、より明 確な霊的役割が執事に命じられています。彼らは様々な方法で牧師を 助け、特に主の晩餐において、パンとぶどう酒を分餐し、長老会がな くなってしまった教会においては、教会の役員や財務委員会のように 発展してきました。ある人が執事としてその職務に認識される時、通 常は終身と考えられていますが、執事はしばしば期間限定で活発に奉仕をしています。
これがキリスト者がしていることなのです。では今、私たちの慣例 を改革するために、聖書は私たちに対していかなる言葉を持っている でしょうか?
Ⅲ . 使徒6 章における執事の3 つの目的
今まで見てきたように、ディアコノスという単語は、新約聖書に多 く登場します。しかしながら、最も明確な描写は、おそらく使徒の働 き6章から来ています。そこにおいて最初の執事が取り分けられたと 考えます。その箇所の説明から、執事の働きの3 つの状態に注目した いと思います。
まず第一に、執事は教会の物質的必要を世話するよう存在する、と いうことです。使徒6 章1 節を読むと、キリスト者の幾人かが「毎日 の配給でなおざりにされていた」とあります。すでに言及したように、 執事という単語の語根は、牧師や奉仕者を意味しています。そして特 にその単語は食卓時の給仕を表す時や、又は奉仕の様々な種類の中で、 いつも物質的・財政的な事柄を表す時に用いられました。使徒6 章2 節では、十二使徒はこの務めを「食卓に給仕すること」、又は字義的に 「食卓に仕えること」と描写しています。これは執事の務めの最初の 様相が― 物質的必要を満たす― ことであると理解できます。ここで、 使徒6 章における執事たちが、すべてのことを自分たち自身でしたの ではない、ということを述べることは重要です。むしろその中の数人 の執事たちが、その働きがきちんとなされるように、おそらく教会に いる他の多くのキリスト者を組織化したのでしょう。
人々の世話をすること、特に他のキリスト者たち― そして最も念頭 にあるのが自分達の教会の他の教会員たち― が次の3 つの理由で重要 です。第一に彼らの関心のある物質的な福利のため、第二に彼らの霊 的な幸福のため、そして第三に外の人々への証人として、です。イエ スはヨハネ1 3 章で、何と言われたでしょうか? 「'あなた方の互いの 間の愛によって'、世はあなた方が私の弟子であることを知るのです」。 この一節に描かれている物質的な世話は、まさしくキリストのような 愛を提示しているのです。
にもかかわらず私たちは、この背後にある目的を見出します。それ はただ欠乏の中にある人々のためだけでなく、体全体のためであると いうことです。これが、使徒6章に見られる第二番目の執事の務めの 様態であり、それはからだの一致に中心点が置かれている働きなので す。
もしこの一節をより抽象的な方法で見るならば、次のように尋ねる ことができるでしょう。「彼女ら未亡人を世話する中で、実際に彼らは 何をしたというのでしょうか? 」彼らはやもめの間で、より平等に食 物を分配する働きをしていました。そのことは真実であったとして、 ではなぜ重要なのでしょうか? それはこの物質的なことを疎かにする ことが、からだにおいて霊的不一致の原因になるからなのです。
「そのころ、弟子たちがふえるにつれて、彼らのうちのギリシャ語を 話すユダヤ人がアラム語を話す群に対して不平不満を言った。なぜな ら彼らのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからであ る」と、6 章1 節で始まっているとおりです。キリスト者の一つのグル ープが他のグループに対して不平を言い始めたのです。このことが、 十二使徒の注意を引き付けることになりました。彼らは単に、教会内 の親切な務めにおける問題を正そうとしているのではありませんでし た。彼らは、伝統的・文化的な分裂と共に、教会の一致が特に危険な 仕方において混乱するのを食い止めようとしているのです。執事は、 教会における不一致を避けるように任命されているのです。
互いに建て上げ互いに励まし合う、というまさにこのことが、神の 御霊が彼の教会に与えたすべての賜物の目標なのです( 例: ロー マ.1:11-12)。パウロはコリントの人々に対して、神の御霊は「みなの 益となるために」( Ⅰ コリント12:4-7, 12) と述べています。彼は、初 期のキリスト者たちに、次のように熱心に勧めています。「あなたがた は御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会が建て上げられる ような賜物においてまさるようにしなさい」( Ⅰ コリント14:12)。ゆえ にパウロはⅠ コリント14 章26 節で、「すべてのことを、徳を高めるた めにしなさい」と述べたのです。ジョン・カルヴァンは、Ⅰ コリント 14 章12 節の注解で、「人が自分自身を立て上げることにより熱心であ ればあるほど、パウロはその人がより高く尊敬を受けるべきであると 望んでいる。」と言っています。またペテロは「それぞれが賜物を受け ているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜 物を用いて、互いに仕え合いなさい」( Ⅰ ペテロ4:10)と記しています。 教会を教え一体化することは、使徒の働き6 章で見たように、主と して執事の務めです。それゆえ、教会と折の悪い執事が、同じ教会に よく仕えるということはできないはずです。執事というのは、教会に おいて最も大きな声で不平を述べたり、又彼らの行動や態度で教会を 困らせるような者ではありません。全く逆なのです! 執事は音消し装 置のようであり、衝撃を吸収する、そのような存在なのです。
それゆえ、教会に執事として仕えようとする者たちは、心が狭量で あってはなりません。そのような会員たちは、自分たちの地域や、彼 らの権利と自分たちの地区の特権について心配します。又は彼らの領 域を邪魔するような他者からの奉仕には、静かに憤りさえ感じるよう な者たちで、彼らに決して縄張りを与えるべきではありません。執事 は、自分たちの問題を擁護するために取り分けられているのでも、又 は代議士やロビイストらのように、彼らの陣営のために反対の議論を するのでもありません。代りに、執事は特定の必要に仕えるために、 全体の代表として行動するのです。そうです、ただ全体として、とい う意味において、彼らの行いが全体の健康に貢献するという意味にお いてなのです。さらに、彼らはこの特定の務めが、全体として教会を 教え一体化する働きの一部であることを他の人が理解できるよう助け るようにと期待されているのです。彼らは親切と愛ある奉仕によって、 私たちを一致へと導く助けをします。そのような奉仕者になることで、教会を建て上げる者へと召されているのです。
三番目に、この人々は、御言葉の奉仕を支えるために任命されてい るのです。使徒6 章3 節では、十二使徒は物質的な必要を世話するこ とが教会のある意味では彼ら自身の負っている責任であることを認め ています。しかし6 章3 節において、彼らはこの責任を教会内の他の グループに任せるように述べています。この意味においては、これら の執事は群れ全体を助けているのではないのです。しかしながらそう することで、彼らは主な責任が別のところにある十二使徒/ 長老など をサポートしていたのです。
同様に、執事は教会において単独のパワーブロックではありません。 彼らは法案が通過するために必要な、立法府の第二議院ではないので す。彼らは、主だった教師たちがすることのできない責任を助けるこ とで、全体として教会に仕えるしもべでした。執事は彼らの務めにお いて、御言葉の教師を援助したのです。執事は本質的に、長老たちの 務めの励まし手であり支援者なのです。もしこのことがあてはまるな らば、教会に執事として仕えるべき人々とは、教会において最も支え となる人々、と言うことになります。私たちは、励ましの賜物を求め るべきであり、そうすることで、少数ではなく、より多くの人々が、 執事らの奉仕によって祝福を受けることでしょう。
ワシントンD.C. にある私たちの教会では、執事は審議をする群とし てではなく、むしろ教会の特定の必要な働きを調整する人々として認 識されています。私たちが望み祈っていることは、執事として奉仕を している一人ひとりが、さまざまな務めを通して、私たちが一致する のを助け、個々人を助け、からだを助け、すべてにおいて、神に栄光 を帰することです。 執事の中には、もてなしの務めを監督する者や、 ラジオやウェブを用いた働きを調整する者、音響設備を受け持つ者、 教会員を世話する執事たちもいます。これを執筆している今、14 人の 執事たちがそれぞれ別々の執事職について仕えています。私たちは調 整の必要がなくなった働きを定期的になくし、急に発展した働きを二つにしたり、さらには群れの中で明白に必要と機会が生じたところに は、新しく働きを創設したりしています。
私たちが望むことは、これら執事の幾人かが、教会の人的資源の指 導的利用者となることです。私たちは、彼らが教会のために祈り、全 体を知り、そして彼らの調整している奉仕が、いかに教会の働きを全 体として前進させているかを認識することにおいて、彼らが勤勉であ ることを望むのです。私たちは、彼らが教会に対してするこの奉仕が、 多くの犠牲を払ったものであることを知っています。彼らは、その立 場で奉仕している間は、教会における主な務めは執事職であることを 理解する必要があるのです。教会を建て上げることにおいて、彼らを 訓練していく中で、あれこれと特定の務めの役割が見えていき、他の 兄弟姉妹の間において彼らが務めの核心を進展させていくにつれて、 そのような奉仕者が与えられていることの何と祝福なことでしょう。 彼らの活動や奉仕を通して、私たちの執事たちは、彼らがその職務を 保っているよりもさらに長い間、私たちの教会にとって祝福となるで しょう。
Ⅳ 執事の資質
Ⅰ テモテ3 章8 節から13 節で、パウロはエペソの教会の牧師である テモテに対して、執事がどうあるべきかについて簡単に説明していま す。そこに上げられている特徴と使徒6 章で選ばれている資質を組み 合わせると、執事として私たちに仕えているその人たちは、聖霊に満 たされているという点で確かに知られていました( なぜなら物質的な 事柄に関心があるにしても、それらは確かに霊的働きであるからです)。 彼ら執事たちは知恵に満たされていたことでも知られていました。彼 らは会衆の信任によって、会衆によって選ばれるべきであります。彼 らは執事の務めが仕えるように意図されているように、快く勤勉に特 定の必要のために責任を果たすべきです。執事は尊敬に値し、誠実で 大酒飲みでなく、不正な利を求めず、きよい良心をもって信仰の奥義を保っており、ひとりの妻の夫であって自分の子どもと家庭をよく治 める、そのような審査を受け承認されたしもべであるべきなのです。
「ひとりの妻の夫」であるべきだと命令されている執事は、執事職の 地位に女性の奉仕を除外するものではありません。ローマ16 章1 節の フィベの例と、聖書のどこかに女性の「執事」の単語が使われている 用法、又ある程度少なめにではありますが、バプテスト教会における 女性執事の長い歴史からも、私たちの教会では執事としての女性の務 めがなされていることを喜んで受け入れています。しかしながら、Ⅰ テモテ2 章と、男性がかしらとして描かれている広い聖書的な事実か ら、私たちは執事の職務が長老( が執事として今日多くの教会でみな されている) のそれと混乱している場合には、教会として女性を執事 として認めることを思い留まらせています。長老の明確な役割につい て明快なことと、また長老たちが男性であるべきだという事実から、 私たちが教会によって認められた姉妹を自由に執事または女性執事と して励ますことを可能にしています。
まとめ
要約すると、新約聖書は、使徒6 章で見てきた執事の務めの3 つの 側面、つまり御言葉の奉仕の下にからだの一致を目的として、物質的 な必要のために世話をすることへと行き着きます。執事とは、長老の 奉仕を援助し、キリストのからだを一体化し、そして貧しい者の世話 をする者です。彼らは励まし手であり、平和をつくる者であり、しも べであります。ディートリッヒ・ボンフェッファーが次のように述べ ています。「教会は優秀な人物ではなく、イエスの忠実なしもべと同胞 を必要としているのである」( ボンフェッファー、共に生きる生活、p 109)。