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		<title>è�–æ›¸ã�®æœ¬ã�Šã‚ˆã�³èª¬æ•™ - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>小羊の血</title>
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				<updated>2010-02-12T01:24:08Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Blood of the Lamb}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とヘブル人への手紙に書かれています（９章２２節）。この手紙の大部分は、特に古代イスラエルの生け贄の方式について、キリストがどのようにして旧約聖書の希望や切望を満たしたかを説明しています。しかし、生け贄を一度も見たことがなくて旧約聖書に関してあまり考えない現代の読者にとって、これはダブルダッチ&amp;lt;ref&amp;gt;  ダブルダッチは縄跳びの種目の一種で、２本の縄を内側に回す人２名と跳ぶ人１〜２名で楽しむチームスポーツです。ここでは、「理解するのが二重に難しい」という意味で使われています。&amp;lt;/ref&amp;gt; です。動物を殺すことと罪の赦しにはどのような関係があるのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのことについてはレビ記によく説明されています。レビ記の始めの長い箇所は様々な生け贄をどのようにして捧げたらよいのか、また、それぞれ違った生け贄が一つ一つ何を達成するのかを説明しています。しかし、私たちがレビ記と生け贄の基本的な概念を理解するためにはもっと始めから説明する必要があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
創世記１８章に三人の男がある日アブラハムを訪れたことが書かれています。アブラハムは彼らが誰であるかまるで知りませんでしたが、非常に手厚い人だったので、彼らのために立派な祝宴を用意しました。彼の妻のサラは焼きたてのパンをたくさん作り、アブラハムは使用人が客のために殺して料理した柔らかくて若い子牛をあげました。来客にワインが出されたかどうかは書かれていませんが、もしワインがあったならば重要な客には間違いなく出されたでしょう。その後、アブラハムは彼の客が誰であるかを発見しました。主と二人の天使だったのです！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この逸話は生け贄とは考えられませんが、生け贄の基本的な仕組みを理解することができます。生け贄では神が最も重要な客です。肉、パン、それとワインなど、特別な時だけに出される物を捧げることによって、神のいることが敬われるのです。旧約聖書の時代では肉を食べることは稀な贅沢でしたし、ワインも特別な機会のために取っておいたことは間違いないでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古代イスラエルの隣国の人々は生け贄を神&amp;lt;ref&amp;gt;  原文には複数形の “gods” が使われていて、聖書の神とは違う偽神を示しています。&amp;lt;/ref&amp;gt; の食事とみなしていましたが、旧約聖書はこの考えを憤然として拒絶しています。食物を人類に与えるのは神であって（創世記１章２９節）、その逆ではありません。詩篇５０章１０と１２節にそのことがよく書かれています。「森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では幕屋の前や後の神殿の境内でした大きな祭りの目的は何だったのでしょう？聖書の中にある最初の生け贄はカインとアベルが捧げたものです。これらについてはアダムとエバが、そよ風の吹く所を神と共に歩くのを楽しんでいたエデンの園から追放された直後に言及されています。園から出されて、彼らは神との親密さの特権を奪われました。ですからこの話によって示される生け贄の一つの動機は、生け贄が人の神との交わりを回復させてくれるということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしそれは正しい精神で捧げなければいけません。カインは地の産物のいくらかだけを捧げましたが、アベルは「彼の羊の初子の中から、それも最良のものを持って来た」（創世記４章４節）、すなわち、最も大切な動物の一番良いところを捧げたのです。神は前者ではなく、後者を受け入れました。ここで生け贄の最も重要な特徴の一つが分かります：生け贄に使われる動物は老いぼれて衰弱しているものではなく、若くて健康なものでなくてはならないのです。過越の羊は一歳で傷がまったくないものでなくてはいけませんでした。レビ記の生け贄に関するおきては、使われる動物は「傷なし」でなくてはいけないと繰り返して言っています。カインとアベルの話はこれを無視するとどうなるかを示しています。「それらは受け入れられない。」（レビ記２２章２５節；また、１９章７節；２２章２０節）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堕落の後、世界は特に殺人と暴虐などの罪に雪崩のように飲み込まれてしまいました。神は人間には罪が組み込まれていると悲しみを訴えています。「人の心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」（ 創世記６章５節）「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」（ 創世記６章１１節）それで神は、罪深い人類を全滅させ、その時代で唯一正しく非の打ちどころがない人だったノア（６章９節）と新たに始めるために洪水を送りました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ノアがいずれ箱船から出てきた時、彼の最初の行為は、聖餐台を建てて生け贄を捧げることでした。これはただ自分が破滅から救われた感謝を示す行為だと思うかもしれませんが、本文は、それよりもっと達したことを示しています。「主は、そのなだめの香りをかがれ、心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはしない。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」（８章２１節）言い換えると、人間の邪悪な人格は変えられてはいませんが、神の、人間の罪への態度が変わったということです。神が洪水によって世界を罰することは二度とありません。なぜでしょう？それはノアが捧げた生け贄の良い香りのためです。（８章２１節）創世記８章に書かれてある生け贄はこのようにして、神の人間の罪に対する怒りをなだめるのです。動物の生け贄が神に良い香りを出すことは、レビ記の１章から７章に頻繁に書かれています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし 動物の生け贄はなぜ神の怒りをなだめるのに効果的なのでしょう？アブラハムがイサクを捧げる話がこれについて少し理解させてくれます。創世記２２章に、神が、アブラハムに彼の最も重要な物、すなわち、彼の一人息子のイサクを生け贄として捧げるのを要求することによって、神がどのようにしてアブラハムを試したかが書かれています。アブラハムは試されていることは知りませんでした。彼にとっては、それは致命的&amp;lt;ref&amp;gt;  これは原文の直訳で、日本語で言うと「正に真剣だった」という意味になります。&amp;lt;/ref&amp;gt; に本気でした。ですから、 ちょうどアブラハムがイサクののどを切ろうとしていたとき、土壇場で主の天使は彼に止めるように言いました。「あなたが神を恐れることがよくわかった。」（２２章１２節）次にアブラハムは、見上げて雄羊をみつけ、それをイサクのかわりに捧げました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話は、もし誰かが神に完全に従う気があるなら、神は礼拝者の代わりに動物を受け入れるということを示しています。イサクはアブラハムの未来でした。そしてアブラハムは彼を神に捧げても構わないと思っていました。しかし神は 雄羊で満足しました。ここでは、代理的な贖いの教義が例証されています。それについて、レビ記のおきてには、あらゆる生け贄の基本的な特徴が礼拝者の手を動物の頭に置くことであると、さらに明解になっています。この行為は、動物が礼拝者の代理をしているということを表します。礼拝者は 、動物との一体感をもつことによって、自分を完全に神に捧げているのです。動物は礼拝者の代わりに死ぬのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レビ記の１章から７章には４つの異なった種類の生け贄について書かれています。これらの章が強調していることは、いくつも違う種類の生け贄をどのようにして行うかということです。我々はここで、一種類の生け贄を別のものと区別する特徴に焦点を合わせなければなりません。全焼の生け贄（レビ記１章）は、動物全体が祭壇の上で焼かれたという唯一の生け贄で、独特なものでした。これは、礼拝者が自分を完全に神の使いに捧げるということを表現していました。同時にそれは、礼拝者のための贖いをしていたのです。「贖いをしなさい」という表現は、より正確には「身代金を払いなさい」という意味です。これは、おきての他の箇所に使われている表現で、そうしなければ死刑に直面するかもしれない犯罪者が損害を賠償して放免された時に使われています（例えば、出エジプト記２１章３０節）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
和解の生け贄（レビ記３章）は、動物を寄贈した礼拝者が肉の分け前をもらうという（普段は祭司だけが肉を食べました。）唯一の捧げものだったので、旧約聖書の生け贄の中でたぶん最も一般的だったでしょう。和解の生け贄を神に対する感謝の行為として自発的に捧げることはできましたが、神に自分のために何かをしてくれるよう頼む誓いをした時、またはその願いに答えて下さった時に捧げてもよかったのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪のための生け贄（レビ記４章）は、動物の血を幕屋か宮の中の祭壇に塗り付けるという独特なものでした。この血は幕屋を罪の汚染から洗い清めてくれました。罪は、ただ誰かを神の前に有罪として神を怒らせるだけではなくて、場所や人々をきたなくして、その結果神が住むのに適さなくします。祭壇に血を塗り付けたり、宮の内部に血をまくことによって、これらの物は汚染から洗い清められたのです。同時に、悪行で汚染を引き起こした罪人は、罪を赦されてその汚染から清められました。この浄化で神が宮に再入して信者と宿ることが可能になりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪過のための生け贄（レビ記５章１４節—６章７節）は、ある行為が私たちを神の負債に入れるという考えを表していました。これらの罪は高価な雄羊を捧げることでしか贖いはできませんでした。レビ記には比較的簡潔に書かれていますが、この生け贄は、苦しみのしもべが私たちの罪のために苦しむ（５節−６節）罪過の生け贄とよばれている（１０節；ESV  の「罪の捧げもの」も見て下さい。）イザヤ書５３章ではとても重要です。本章がキリストの贖いの役割を最も完全に説明しているので、新約聖書のキリストの死に関する理解の中心です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生け贄のイメージ は新約聖書の十字架の解釈に浸透しています。バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」（ヨハネ１章２９節）と言ったとき、キリストを完璧な過越の小羊と見ていたのでしょう。 またパウロも「過越の小羊キリスト」（第一コリント５章７節）と言って、そのイメージを使っています。キリストはまた、ヨハネ３章１６節やローマ人８章３２節などよく知られている箇所に暗示されている、イサクより優れた生け贄という考えで、最高な全焼の生け贄だと見なされています：「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」マルコ１０章４５節は人の子が「多くの人のための 贖いの代価」として自分の命を与えた究極のしもべと表しています。第一ヨハネ１章７節は「御子イエスの血はすべての罪から私たちを清めます」と言って、　罪過の生け贄のイメージを使っています。ヘブル人への手紙では、イエスが旧約聖書の生け贄の方式が暗示したすべての目的を自分の死を通して達成した最高の大祭司です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、私たちはキリストの死はクリスチャンの生け贄の方式の重要性を消耗していないということを注意するべきです。私たちも、キリストの足跡をたどって、彼の苦しみを共有すると思われています。（第一ペトロ２章２１−２４節）また私たちは「私たちの体を生きた供え物としてささげなさい」と励まされています。彼自身の死を予期して、パウロはそれを、あらゆる生け贄と祭壇の上に注がれたワインのように注ぎの供え物になることと比較しました。このように、古い礼拝の方法は、今、まだ私たちの奉納を呼び起こすべきです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Notes'''&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>小羊の血</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページの作成: {{info|The Blood of the Lamb}}  「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とヘブル人への手紙に書かれています（９章２...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Blood of the Lamb}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とヘブル人への手紙に書かれています（９章２２節）。この手紙の大部分は、特に古代イスラエルの生け贄の方式について、キリストがどのようにして旧約聖書の希望や切望を満たしたかを説明しています。しかし、生け贄を一度も見たことがなくて旧約聖書に関してあまり考えない現代の読者にとって、これはダブルダッチ&amp;lt;ref&amp;gt;  ダブルダッチは縄跳びの種目の一種で、２本の縄を内側に回す人２名と跳ぶ人１〜２名で楽しむチームスポーツです。ここでは、「理解するのが二重に難しい」という意味で使われています。&amp;lt;/ref&amp;gt; です。動物を殺すことと罪の赦しにはどのような関係があるのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのことについてはレビ記によく説明されています。レビ記の始めの長い箇所は様々な生け贄をどのようにして捧げたらよいのか、また、それぞれ違った生け贄が一つ一つ何を達成するのかを説明しています。しかし、私たちがレビ記と生け贄の基本的な概念を理解するためにはもっと始めから説明する必要があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
創世記１８章に三人の男がある日アブラハムを訪れたことが書かれています。アブラハムは彼らが誰であるかまるで知りませんでしたが、非常に手厚い人だったので、彼らのために立派な祝宴を用意しました。彼の妻のサラは焼きたてのパンをたくさん作り、アブラハムは使用人が客のために殺して料理した柔らかくて若い子牛をあげました。来客にワインが出されたかどうかは書かれていませんが、もしワインがあったならば重要な客には間違いなく出されたでしょう。その後、アブラハムは彼の客が誰であるかを発見しました。主と二人の天使だったのです！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この逸話は生け贄とは考えられませんが、生け贄の基本的な仕組みを理解することができます。生け贄では神が最も重要な客です。肉、パン、それとワインなど、特別な時だけに出される物を捧げることによって、神のいることが敬われるのです。旧約聖書の時代では肉を食べることは稀な贅沢でしたし、ワインも特別な機会のために取っておいたことは間違いないでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古代イスラエルの隣国の人々は生け贄を神&amp;lt;ref&amp;gt;  原文には複数形の “gods” が使われていて、聖書の神とは違う偽神を示しています。&amp;lt;/ref&amp;gt; の食事とみなしていましたが、旧約聖書はこの考えを憤然として拒絶しています。食物を人類に与えるのは神であって（創世記１章２９節）、その逆ではありません。詩篇５０章１０と１２節にそのことがよく書かれています。「森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では幕屋の前や後の神殿の境内でした大きな祭りの目的は何だったのでしょう？聖書の中にある最初の生け贄はカインとアベルが捧げたものです。これらについてはアダムとエバが、そよ風の吹く所を神と共に歩くのを楽しんでいたエデンの園から追放された直後に言及されています。園から出されて、彼らは神との親密さの特権を奪われました。ですからこの話によって示される生け贄の一つの動機は、生け贄が人の神との交わりを回復させてくれるということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしそれは正しい精神で捧げなければいけません。カインは地の産物のいくらかだけを捧げましたが、アベルは「彼の羊の初子の中から、それも最良のものを持って来た」（創世記４章４節）、すなわち、最も大切な動物の一番良いところを捧げたのです。神は前者ではなく、後者を受け入れました。ここで生け贄の最も重要な特徴の一つが分かります：生け贄に使われる動物は老いぼれて衰弱しているものではなく、若くて健康なものでなくてはならないのです。過越の羊は一歳で傷がまったくないものでなくてはいけませんでした。レビ記の生け贄に関するおきては、使われる動物は「傷なし」でなくてはいけないと繰り返して言っています。カインとアベルの話はこれを無視するとどうなるかを示しています。「それらは受け入れられない。」（レビ記２２章２５節；また、１９章７節；２２章２０節）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堕落の後、世界は特に殺人と暴虐などの罪に雪崩のように飲み込まれてしまいました。神は人間には罪が組み込まれていると悲しみを訴えています。「人の心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」（ 創世記６章５節）「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」（ 創世記６章１１節）それで神は、罪深い人類を全滅させ、その時代で唯一正しく非の打ちどころがない人だったノア（６章９節）と新たに始めるために洪水を送りました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ノアがいずれ箱船から出てきた時、彼の最初の行為は、聖餐台を建てて生け贄を捧げることでした。これはただ自分が破滅から救われた感謝を示す行為だと思うかもしれませんが、本文は、それよりもっと達したことを示しています。「主は、そのなだめの香りをかがれ、心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはしない。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」（８章２１節）言い換えると、人間の邪悪な人格は変えられてはいませんが、神の、人間の罪への態度が変わったということです。神が洪水によって世界を罰することは二度とありません。なぜでしょう？それはノアが捧げた生け贄の良い香りのためです。（８章２１節）創世記８章に書かれてある生け贄はこのようにして、神の人間の罪に対する怒りをなだめるのです。動物の生け贄が神に良い香りを出すことは、レビ記の１章から７章に頻繁に書かれています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし 動物の生け贄はなぜ神の怒りをなだめるのに効果的なのでしょう？アブラハムがイサクを捧げる話がこれについて少し理解させてくれます。創世記２２章に、神が、アブラハムに彼の最も重要な物、すなわち、彼の一人息子のイサクを生け贄として捧げるのを要求することによって、神がどのようにしてアブラハムを試したかが書かれています。アブラハムは試されていることは知りませんでした。彼にとっては、それは致命的 に本気でした。ですから、 ちょうどアブラハムがイサクののどを切ろうとしていたとき、土壇場で主の天使は彼に止めるように言いました。「あなたが神を恐れることがよくわかった。」（２２章１２節）次にアブラハムは、見上げて雄羊をみつけ、それをイサクのかわりに捧げました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話は、もし誰かが神に完全に従う気があるなら、神は礼拝者の代わりに動物を受け入れるということを示しています。イサクはアブラハムの未来でした。そしてアブラハムは彼を神に捧げても構わないと思っていました。しかし神は 雄羊で満足しました。ここでは、代理的な贖いの教義が例証されています。それについて、レビ記のおきてには、あらゆる生け贄の基本的な特徴が礼拝者の手を動物の頭に置くことであると、さらに明解になっています。この行為は、動物が礼拝者の代理をしているということを表します。礼拝者は 、動物との一体感をもつことによって、自分を完全に神に捧げているのです。動物は礼拝者の代わりに死ぬのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レビ記の１章から７章には４つの異なった種類の生け贄について書かれています。これらの章が強調していることは、いくつも違う種類の生け贄をどのようにして行うかということです。我々はここで、一種類の生け贄を別のものと区別する特徴に焦点を合わせなければなりません。全焼の生け贄（レビ記１章）は、動物全体が祭壇の上で焼かれたという唯一の生け贄で、独特なものでした。これは、礼拝者が自分を完全に神の使いに捧げるということを表現していました。同時にそれは、礼拝者のための贖いをしていたのです。「贖いをしなさい」という表現は、より正確には「身代金を払いなさい」という意味です。これは、おきての他の箇所に使われている表現で、そうしなければ死刑に直面するかもしれない犯罪者が損害を賠償して放免された時に使われています（例えば、出エジプト記２１章３０節）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
和解の生け贄（レビ記３章）は、動物を寄贈した礼拝者が肉の分け前をもらうという（普段は祭司だけが肉を食べました。）唯一の捧げものだったので、旧約聖書の生け贄の中でたぶん最も一般的だったでしょう。和解の生け贄を神に対する感謝の行為として自発的に捧げることはできましたが、神に自分のために何かをしてくれるよう頼む誓いをした時、またはその願いに答えて下さった時に捧げてもよかったのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪のための生け贄（レビ記４章）は、動物の血を幕屋か宮の中の祭壇に塗り付けるという独特なものでした。この血は幕屋を罪の汚染から洗い清めてくれました。罪は、ただ誰かを神の前に有罪として神を怒らせるだけではなくて、場所や人々をきたなくして、その結果神が住むのに適さなくします。祭壇に血を塗り付けたり、宮の内部に血をまくことによって、これらの物は汚染から洗い清められたのです。同時に、悪行で汚染を引き起こした罪人は、罪を赦されてその汚染から清められました。この浄化で神が宮に再入して信者と宿ることが可能になりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪過のための生け贄（レビ記５章１４節—６章７節）は、ある行為が私たちを神の負債に入れるという考えを表していました。これらの罪は高価な雄羊を捧げることでしか贖いはできませんでした。レビ記には比較的簡潔に書かれていますが、この生け贄は、苦しみのしもべが私たちの罪のために苦しむ（５節−６節）罪過の生け贄とよばれている（１０節；ESV  の「罪の捧げもの」も見て下さい。）イザヤ書５３章ではとても重要です。本章がキリストの贖いの役割を最も完全に説明しているので、新約聖書のキリストの死に関する理解の中心です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生け贄のイメージ は新約聖書の十字架の解釈に浸透しています。バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」（ヨハネ１章２９節）と言ったとき、キリストを完璧な過越の小羊と見ていたのでしょう。 またパウロも「過越の小羊キリスト」（第一コリント５章７節）と言って、そのイメージを使っています。キリストはまた、ヨハネ３章１６節やローマ人８章３２節などよく知られている箇所に暗示されている、イサクより優れた生け贄という考えで、最高な全焼の生け贄だと見なされています：「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」マルコ１０章４５節は人の子が「多くの人のための 贖いの代価」として自分の命を与えた究極のしもべと表しています。第一ヨハネ１章７節は「御子イエスの血はすべての罪から私たちを清めます」と言って、　罪過の生け贄のイメージを使っています。ヘブル人への手紙では、イエスが旧約聖書の生け贄の方式が暗示したすべての目的を自分の死を通して達成した最高の大祭司です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、私たちはキリストの死はクリスチャンの生け贄の方式の重要性を消耗していないということを注意するべきです。私たちも、キリストの足跡をたどって、彼の苦しみを共有すると思われています。（第一ペトロ２章２１−２４節）また私たちは「私たちの体を生きた供え物としてささげなさい」と励まされています。彼自身の死を予期して、パウロはそれを、あらゆる生け贄と祭壇の上に注がれたワインのように注ぎの供え物になることと比較しました。このように、古い礼拝の方法は、今、まだ私たちの奉納を呼び起こすべきです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E4%BC%9A%E8%A1%86%E4%B8%BB%E7%BE%A9</id>
		<title>「神の栄光の現れ、/会衆主義</title>
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				<updated>2009-11-12T21:29:59Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Congregationalism}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたは、単に教会があなたの霊的成長のためにあるとお考えです&lt;br /&gt;
か？ 日曜日の朝、教会の家族と一緒に集う時、あなたは単に自分の個&lt;br /&gt;
人的なディボーションを他の多くの人々と共に持っているのではあり&lt;br /&gt;
ません。いいえ。あなたは、特定の教会生活に与っているのです。そ&lt;br /&gt;
してキリスト者が会衆として集まる時、それは単に個人消費者が一時&lt;br /&gt;
共有された好みによって、たまたま同じ部屋にいるのではないのです。&lt;br /&gt;
私たちは実際に、生きた制度で、育ち得る有機体の一つの体として集&lt;br /&gt;
まっているのです。私はなぜあなたが教会に行くのか知りたいぐらい&lt;br /&gt;
です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事の要点を把握する助けとして、一つの質問を投げかけたいと思い&lt;br /&gt;
ます。教会は何の役に立つのでしょうか？ しばらく時間をとって、質&lt;br /&gt;
問に答えてみてください。あなたが教会とそれが何かについてもっと&lt;br /&gt;
理解しているなら、キリスト者の生活は、個人的な美徳のリストを磨&lt;br /&gt;
き、悪のリストを避けるための単純で継続した道徳的努力以上のもの&lt;br /&gt;
になります。あなたは、教会がこの世における、神の生きた現われと&lt;br /&gt;
して存在することを理解し始めるでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====Ⅰ . 会衆主義－ 何を意味するか？====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しばしば人々は、会衆主義を誤解してきました。その中傷は、ロー&lt;br /&gt;
ン・レンジャー風&amp;lt;ref&amp;gt;スーパーマンと並んで、戦前からアメリカの少年の間では圧倒&lt;br /&gt;
的な人気をはくしていた西部劇の黒覆面のヒーローのこと。&amp;lt;/ref&amp;gt; の類のように提示されてきました。「分離主義」と&lt;br /&gt;
も呼ばれてきました。ある著者は、会衆主義を「個々の教会が、あた&lt;br /&gt;
かも世界の中で、他のすべてのキリスト者の中で独立して、孤立して&lt;br /&gt;
いるかのような主張」&amp;lt;ref&amp;gt; Ro l and Al l en, Mi s s i ona r y Me tho d , p . 8 5n1 .&lt;br /&gt;
&amp;lt;/ref&amp;gt; と定義しました。他方、擁護者の何人かは会衆&lt;br /&gt;
主義を、奪うことのできない人間の権利と結びつけて、正しくかつ単&lt;br /&gt;
純な民主主義という風に提示しました。チャールズ・フィンレーは、&lt;br /&gt;
会衆主義を次のように説明します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
監督制度は、人々の間で一般的に無知な状態の場合に、よく適合し&lt;br /&gt;
ます。長老主義又は教会共和主義は、キリスト教の信条の普及と、よ&lt;br /&gt;
り進歩した知性の状態によく適合します。会衆主義又は霊的民主主義&lt;br /&gt;
は、一般的な知性と、キリスト教信条の普及しているところに、最もか&lt;br /&gt;
つ唯一適合するのです。&amp;lt;ref&amp;gt; Cha r l e s Finne y in hi s Le c tur e s on The o l o g y .&lt;br /&gt;
&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらはどれも、新約聖書が私たちに残してくれた教会生活の状況の&lt;br /&gt;
よい理解ではありません。会衆主義は決して他の教会と、宣教、教育、&lt;br /&gt;
伝道、災害援助やその他多くの事柄において協力することを禁じては&lt;br /&gt;
いないのです。しかしながらそれが意味することは、戒規の問題であ&lt;br /&gt;
ろうと、教理のことであろうと、特定の会衆に対して、外から誰も命&lt;br /&gt;
令をすることができない、ということなのです。私たち会衆派は、他&lt;br /&gt;
のいかなる組織よりもおそらく聖書の明快さに頼ることと、誰が会員&lt;br /&gt;
や指導者として認知されるべきなのか、そして何を信じ何をなすべき&lt;br /&gt;
なのかの理解について、神が彼の民を全体として導いて下さると考え&lt;br /&gt;
るのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある人は会衆主義を単なる文明開化の政治理念として片付けてしま&lt;br /&gt;
います。しかし、単純にそういうわけにはいきません。AD96 年頃記さ&lt;br /&gt;
れたコリント教会に宛てたローマのクレメンスの第一の手紙に、長老&lt;br /&gt;
が「教会の完全な同意のもとに」委任されている様子を見ることがで&lt;br /&gt;
きます&amp;lt;ref&amp;gt;翻訳.Stani f o r th,p.46.&amp;lt;/ref&amp;gt;。他の例もたくさんあります。キリスト者は過去において、確&lt;br /&gt;
かにこのことを聖書によって教えられ理解してきたのです。&lt;br /&gt;
会衆主義は単に、地域教会の生活の問題の最後の最終審裁判所が、&lt;br /&gt;
ローマの司教でもコンスタンティノープルでも、ワシントンでもない&lt;br /&gt;
という理解です。それは、何らかの国際機関でも国の議会でも、会議&lt;br /&gt;
でも大会でもありません。それは、教派の議長でも、評議員の議長で&lt;br /&gt;
もありません。それは、地域の宗教会議でも、宣教団体でもありませ&lt;br /&gt;
ん。地域教会の中の長老グループでも牧師でもありません。地域教会&lt;br /&gt;
の生活の問題に関する最後で最終の上訴裁判所は、地域教会自身であ&lt;br /&gt;
るべきです。このことは、教理や戒規、教会員の加入と彼らの間の争&lt;br /&gt;
いの調停において、新約聖書によって証拠付けられています。&lt;br /&gt;
では次に、新約聖書における４ つの事柄について見ていきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''１ ） キリスト者同士の争いについて'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マタイ18 章の15 節から17 節において、イエスは兄弟間の争いについ&lt;br /&gt;
て述べています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふ&lt;br /&gt;
たりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あな&lt;br /&gt;
たは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひ&lt;br /&gt;
とりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三&lt;br /&gt;
人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためで&lt;br /&gt;
す。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、&lt;br /&gt;
教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしない&lt;br /&gt;
なら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで注目すべき点は、最終的に誰に訴えているか、最終の訴え&lt;br /&gt;
を裁くところはどこかなのです。それは、主教でも司祭でもありま&lt;br /&gt;
せん。集会でも宗教会議でも、大会でも会議でもありません。それ&lt;br /&gt;
は、牧師でも長老会でも、又は教会の委員会でもありません。それ&lt;br /&gt;
は、「教会」、つまり地域教会の全体であり、その行動が最終的な訴&lt;br /&gt;
えの場でなくてはならないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私たちが最初に検討した使徒6 章1 節から5 節の箇所を見&lt;br /&gt;
れば、初代教会の生活の中で重大な出来事があったことがわかりま&lt;br /&gt;
す。そこでは、教会の資源の分配をめぐって問題が起こりました。&lt;br /&gt;
そしてこの問題が使徒の注意を集めたのは明らかでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言&lt;br /&gt;
った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓の&lt;br /&gt;
ことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;あまたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良&lt;br /&gt;
い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの&lt;br /&gt;
仕事に当たらせることにします。&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に&lt;br /&gt;
励むことにします。&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;この提案は全員の承認するところとなった。&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてルカは、教会が選んだ人たちの名前を続けて挙げています。&lt;br /&gt;
新約聖書を私たちの教会生活の指針として用いることの複雑さ&lt;br /&gt;
の一つに、初代教会における使徒たちの存在があります。あなたに&lt;br /&gt;
もその難しさが理解できるかと思います。どのようにしたら後の長&lt;br /&gt;
老たち、牧師たち、そして監督たちが使徒たちの習わしを、自分た&lt;br /&gt;
ちの指針として十分に引き受けることができるでしょうか？ 私た&lt;br /&gt;
ちは、教理を定義し、誤りを描写し、又は彼の地上における働き全&lt;br /&gt;
体を通じて、イエスと共にいて彼によって教えを受け、そして特に&lt;br /&gt;
イエスによって彼の教会の土台となるように委託を受けた者たち&lt;br /&gt;
のキリストのことばを思い出すことができるでしょうか？ 私たち&lt;br /&gt;
の名前が、使徒たちの名前のように新しいエルサレムの土台に銘記&lt;br /&gt;
されるでしょうか？ 明らかに、これらすべての質問の答えは「いい&lt;br /&gt;
え」です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使徒たちの模範についての私たちの問題は、その件に関して現代&lt;br /&gt;
の教会指導者たちが、そのような権威に見合う資格がないにも関わ&lt;br /&gt;
らず、彼ら自身に過剰な権威を帰していることです。今までに使徒&lt;br /&gt;
６ 章では、まさにこれら使徒たちが会衆に対して責任を譲っていま&lt;br /&gt;
す。彼らは、イエスがマタイ18 章で述べたところの神の下にある&lt;br /&gt;
究極の権威と同じ類のものを、集会で認識されていました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの例に従うならば、パウロも地域教会の戒規と教理は、神&lt;br /&gt;
の下で会衆によって保管されていると教えています。パウロはコリ&lt;br /&gt;
ントの教会宛てに手紙を書いたとき、彼らに対して教会内の内部の&lt;br /&gt;
者たちに裁かれるべきことを話しています（ Ⅰ コリント5:12）。彼&lt;br /&gt;
は、「教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか！ 」&lt;br /&gt;
と書いています( Ⅰ コリント6:4)。キリスト者の間の争いは、総じ&lt;br /&gt;
て教会が聖書も主張するように、最終の裁判所なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''２ ） 教理に関して'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新約聖書のすべての手紙（ ピレモンへの手紙と牧会書簡を除い&lt;br /&gt;
て）は総じて教会に書かれたもので、彼らの責任とは何かについて&lt;br /&gt;
全体的に彼らに教えています。基本的な福音の定義に関してさえも、&lt;br /&gt;
会衆が[ 地上における]最終的な訴えの法廷となっています。そのよ&lt;br /&gt;
うに、ガラテヤ１ 章でパウロは、御使いと使徒の説教者について（ 彼&lt;br /&gt;
自身についても！ ガラテヤ1:8）、もし彼らがガラテヤ人が受け入&lt;br /&gt;
れた福音以外を宣べ伝えたかどうかを批判するよう、比較的若いキ&lt;br /&gt;
リスト者たちの集まりである会衆に求めているのです。彼は単に牧&lt;br /&gt;
師や長老や司祭又は会議や大会や、又は神学校に向けて書いたので&lt;br /&gt;
はありません。彼は、教会を構成するキリスト者たちに向けて記し&lt;br /&gt;
たのです。パウロがはっきりさせたことは、彼らは自らが主張する&lt;br /&gt;
福音について審査される資格があるだけでなく、彼らは審査されな&lt;br /&gt;
ければならない、ということでした。彼らには、ガラテヤのキリス&lt;br /&gt;
ト者たちが既に知っている福音とともに、彼らの首尾一貫している&lt;br /&gt;
新しい主張に従って、イエス・キリストの良き福音のメッセンジャ&lt;br /&gt;
ーと主張する者たちを裁く、という避けて通ることができない務め&lt;br /&gt;
があるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは、このことについて再びⅡ テモテ４ 章３ 節で彼がテモテ&lt;br /&gt;
に対して偽教師の取り扱いについての最良の方法を助言したとき、&lt;br /&gt;
彼が教会の偽教師の来訪の流れを述べるとき、特に４ 章３ 節で、「自&lt;br /&gt;
分たちの願いにあわせるために･･･自分に都合の良いことを言って&lt;br /&gt;
もらうために、多くの教師たちを彼らのまわりに集め」た者たちを&lt;br /&gt;
責めました。彼らを選んだにせよ、報酬を払ったにせよ、又は彼ら&lt;br /&gt;
の教えを認めたにせよ、又は単に繰返し彼らに聞くことを同意した&lt;br /&gt;
にせよ、ここでは教会が責められるべきなのです。彼らは、偽教師&lt;br /&gt;
自身と同様に、偽りの教えを大目に見たことについて有罪なのです。&lt;br /&gt;
基本的な教理的定義では、総じて会衆が聖書が主張する最後の裁判&lt;br /&gt;
所なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''３ ） 戒規について'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ⅰ コリント５ 章において、パウロは（ 長老たちだけでなく）コリ&lt;br /&gt;
ント教会全体に行動するように、5 節、7 節、11 節と13 節で注意&lt;br /&gt;
を喚起しています。このことは、単に又は最終的に使徒であるパウ&lt;br /&gt;
ロだけの問題でも、地域のコリント教会にいたいかなる長老の問題&lt;br /&gt;
でもありませんでした。これは、教会全体の問題だったのです。彼&lt;br /&gt;
ら全員が教会員としてこの人物を認めたのであり、次に彼らは皆で&lt;br /&gt;
彼のことを大目に見たのです。彼ら全員が直ちに彼の罪に巻き込ま&lt;br /&gt;
れており、この男を逃がすか、さもなくばキリストの弟子としての&lt;br /&gt;
彼らの主張をやめるかの、どちらかをしなければなりませんでした。&lt;br /&gt;
教会の戒規に関しては、教会全体が、聖書が主張する最後の裁判所&lt;br /&gt;
なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''４ ） 教会籍について'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはⅡ コリント２ 章の６ 節から８ 節で、「その人にとっては、&lt;br /&gt;
すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、&lt;br /&gt;
むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人&lt;br /&gt;
はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。&lt;br /&gt;
そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧&lt;br /&gt;
めます」。彼らはこの男を罰する行動を取ったのです。そのように&lt;br /&gt;
行動することにおいて、彼らは大多数でしたのです。教会員の大多&lt;br /&gt;
数が、この男を彼らの交わりから除外することを表明したのです。&lt;br /&gt;
処罰は功を奏した様子でした。それは、パウロがここで「彼にとっ&lt;br /&gt;
ては十分でした」と述べているとおりです。すぐにパウロは、悔い&lt;br /&gt;
改めた男の教会への再加入を促すよう教会全体に対して書いてい&lt;br /&gt;
るのです。パウロは精一杯勧告をしましたがそれ以上はできなかっ&lt;br /&gt;
たのです。なぜなら教会籍に関しては、教会全体が、最終の裁判所&lt;br /&gt;
であるべきだからです。そのように聖書にもあるからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====Ⅱ .会衆主義－ ではないもの====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書が提示するように、教会が最終的な訴えの場であり、私たち&lt;br /&gt;
の日常生活における神のことばの意味と適用に対する最終的な地&lt;br /&gt;
上の権威であるからと言って、会衆がつねに正しい、ということは&lt;br /&gt;
意味していません。ペテロが、彼の弟子でありエペソ教会の牧師で&lt;br /&gt;
あったテモテに手紙を書いたとき、来るべき悪霊の時について次の&lt;br /&gt;
ように描写しています。その時とは、「人々が健全な教えに耳を貸&lt;br /&gt;
そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気まま&lt;br /&gt;
な願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集める」&lt;br /&gt;
（ Ⅱ テモテ4:3）。興味深いことに、パウロは長老たちとともに会&lt;br /&gt;
衆が、教会の教理を監視続ける責任がある（ 彼のガラテヤ人への手&lt;br /&gt;
紙によって暗示されていたように）と言い出していますが、彼は又&lt;br /&gt;
ここで彼らがその責任を不当に行使するであろうことも明らかに&lt;br /&gt;
しています。会衆主義は聖書的ですが、会衆に誤りがないわけでは&lt;br /&gt;
ないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことは、Ⅱ テモテ4 章の例からも明らかです。教会の歴史&lt;br /&gt;
からも痛いほど明らかなことは、主として数百年の暗黒時代を過し、&lt;br /&gt;
聖書的英知において私たちが素晴らしいと認める兄弟姉妹の会衆&lt;br /&gt;
においても継続的な間違いがあったということです。会衆が誤った&lt;br /&gt;
判断を下した個々の例は多いのです！ 歴史においては、私たちは、&lt;br /&gt;
ジョナサン・エドワーズを解雇した教会を挙げることができます。&lt;br /&gt;
会衆はそのような権威を持つ十分な聖書的権利がありました。しか&lt;br /&gt;
しそれは、あなたも同意することと思いますが、非常にひどい用い&lt;br /&gt;
方でした。自分たち自身の教会について考えてみてください。私た&lt;br /&gt;
ちはもはや、自らの罪を言い表すことよりも神の教会の過ちを話す&lt;br /&gt;
ことで、神の主権に対して疑いを起こすことはしません。この堕落&lt;br /&gt;
した世界においては、神によって制定された正しい権威でさえも誤&lt;br /&gt;
ることがあるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新約聖書における会衆主義の描写は、全くの不完全の絵でしかあ&lt;br /&gt;
りません。私たちは時々、わきぜりふや見せかけのように、それを&lt;br /&gt;
手に入れます。しかしながら、それは明らかに存在し、そのことを&lt;br /&gt;
考えれば考えるほど、それは至る所で明らかになるのです。それに&lt;br /&gt;
もかかわらず、周囲の見せかけの性質が、ウェストミンスターの神&lt;br /&gt;
学者たちが１ 章で記した「みことばの一般的ルールに従って、キリ&lt;br /&gt;
スト者の思慮分別」を十分行使するだけの自由を与えているようで&lt;br /&gt;
す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとんどすべての信者の集まりは、ある程度どのような統治の組&lt;br /&gt;
織形式であっても、会衆的です。会衆が財産の権利を持っていると&lt;br /&gt;
いうだけの教会であっても、ある意味で会衆的に統治された教会と&lt;br /&gt;
言えます。そのようなケースの場合、もし彼らの指導者の決断に賛&lt;br /&gt;
成できない場合は、会衆が単純にすべての事柄において息の根を止&lt;br /&gt;
めることで、常に決めることができるのです。もし会衆が予算や牧&lt;br /&gt;
師招聘の事柄に関して最終的な決定権があるなら、その教会は会衆&lt;br /&gt;
的です。会衆が教理と戒規、争いと教会籍に関して最終決定機関で&lt;br /&gt;
あるということに加えて、新約聖書の中の模範的な会衆主義的な教&lt;br /&gt;
会を持つようになるでしょう。会衆がリーダーシップ、スタッフ、&lt;br /&gt;
そして予算に関する決定において、組織としてどの程度まで関与し&lt;br /&gt;
て決めることができるかは、個々の会衆内の決定に際しての思慮分&lt;br /&gt;
別と自由裁量の問題なのです。指名委員会も役員会も新約聖書のど&lt;br /&gt;
こにも書かれていません。財務委員会や小グループ・リーダーシッ&lt;br /&gt;
プ・チームを見つけようとしても無駄です。聖書の十全性という信&lt;br /&gt;
仰は、しかしながらそのような組織を禁じてはおりません。それは&lt;br /&gt;
ただ、彼らの権威を相対化しただけなのです。それらが教会の本質&lt;br /&gt;
ではないということは明示されています。彼らが会衆全体の英知に&lt;br /&gt;
服従しなければならないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====Ⅲ .会衆主義‐ なぜ重要なのか？====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜこれらは重要なのでしょうか？ もし会衆主義が、単に教会&lt;br /&gt;
におけるキリスト者としての共に生きることの現実ならば、私たち&lt;br /&gt;
の課題はそれを作り出すことではなく、それを認識しつつ私たちの&lt;br /&gt;
教会生活を相応しく整えることにあります。私たちは神が創造した&lt;br /&gt;
組織を尊重し、そうすることで神の英知に信頼すべきなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、改革派陣営の人々がより長老主義的統治へと傾く傾向があ&lt;br /&gt;
るのを知っています。このことは時々、大変巧妙になされかつ中途&lt;br /&gt;
半端なのです。例えば、私は信仰に篤い多くの会衆主義的なバプテ&lt;br /&gt;
スト教会を知っています。彼らは長老たちを置くように決める際に、&lt;br /&gt;
教会の他の会員よりもより厳重で異なる基準の署名を長老たちに&lt;br /&gt;
対して求めるように決議するのです。例えば、教会員全員には、ニ&lt;br /&gt;
ューハンプシャー信仰告白を確約させ、長老たちにはそれに加えて&lt;br /&gt;
フィラデルフィア（ 又は第二ロンドン）信仰告白を確約するよう要&lt;br /&gt;
求するといった具合です。会衆の中の長老たちに模範となるべき成&lt;br /&gt;
熟を願うのは健全ですし聖書的でもありますが、それを達成するこ&lt;br /&gt;
の手段には、遺憾な点が残ります。聖書にそのような明確な見本が&lt;br /&gt;
見つかるかと言えば、答えは「いいえ」です。このことは、パウロ&lt;br /&gt;
がガラテアにおいて彼らにそうなるように命じたように、おそらく&lt;br /&gt;
会衆を、教理に関して最終的な決定機関になることに、感情・外見&lt;br /&gt;
両面ともにまだ覚悟ができていない状態のままにさせているので&lt;br /&gt;
はないでしょうか？ 自分自身で決断しなければならないのです。私&lt;br /&gt;
は、確かに長老として奉仕する人には、より教理面での理解力をお&lt;br /&gt;
そらく期待し願っていますが、それが新約聖書に見られる以上に教&lt;br /&gt;
会が、より聖職者に頼るような姿勢に移行して欲しいとは思ってい&lt;br /&gt;
ません。私の心配は、そのような形式的な要求が、そのようにさせ&lt;br /&gt;
てしまうのではないかということなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皆さん。歴史の審判は、「いいえ」です。いかなる組織をも教会&lt;br /&gt;
を誤りや衰退、貧困から防ぐことができないのは確かです。より中&lt;br /&gt;
央集権化された組織体は、信仰的で生き生きと福音的な証しを維持&lt;br /&gt;
する会衆主義よりも、悪い記録を残しているようです（ 会衆主義の&lt;br /&gt;
記録は、特に教会の潔さと認知度が、信者洗礼の聖書的慣行と幼児&lt;br /&gt;
洗礼の拒否を通して守られていく中で強められていったのです）。&lt;br /&gt;
ローマ教皇は、自ら認めたキリスト者たちに大混乱をもたらしまし&lt;br /&gt;
た。司教は、全然上手くできませんでした。集会も会合も監督も宗&lt;br /&gt;
教会議も会議も、彼らがアドヴァイザーから統治者に立場が変わる&lt;br /&gt;
時、聖書が保証した権威の度を越していまい、助けよりも問題をも&lt;br /&gt;
たらしてしまったのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福音そのものが単純明快で、聖霊の働きによって新しく生まれた&lt;br /&gt;
私たちと神様との関係も現実のものであるので、福音を信じ神を知&lt;br /&gt;
る者たちの集まりが、単純に最も福音を擁護する者達だと言えるの&lt;br /&gt;
ではないでしょうか？ それが私たちが聖書の中で見ることではあ&lt;br /&gt;
りませんか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====Ⅳ ． 会衆主義－ どのように作用するか====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会衆派として、私たちはヘブル１ ３ 章１ ７ 節にどのように応じる&lt;br /&gt;
べきでしょうか？「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、ま&lt;br /&gt;
た服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがた&lt;br /&gt;
のたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人た&lt;br /&gt;
ちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさ&lt;br /&gt;
い。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」このこ&lt;br /&gt;
とは、著者がこれらキリスト者たちに、彼らの指導者の召使いの給&lt;br /&gt;
仕の手になるよう話したのではないことは勿論のことです。いいえ、&lt;br /&gt;
心に留めるべきテーマの重大さは明らかです。このことは、指導者&lt;br /&gt;
たちが彼らの働きに対してなす弁明と関係があり、その弁明は神に&lt;br /&gt;
対してなされるものだからです！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは他に広い含みがありますか？ 私はそう思います。キリスト&lt;br /&gt;
者にとって、権威にある者の立場の重大さ、特に教えに関して心に&lt;br /&gt;
銘記しておくことは常に役に立ちます。ヤコブはヤコブ３ 章１ 節で、&lt;br /&gt;
「教師は、格別きびしいさばきを受けるのです」と述べているとお&lt;br /&gt;
りです。私たち長老がなすべき弁明は、最終的には教会にではなく、&lt;br /&gt;
神に対してなされるからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらのことすべての重要性がお分かりでしょうか。私たち組織&lt;br /&gt;
のすべての責任において、私は、神が完全な委員会として、初めか&lt;br /&gt;
らずっと働くように私たちに任せていると提案しているのではあ&lt;br /&gt;
りません。神が指導者たちを私たちの間に置かれたことを、私たち&lt;br /&gt;
は感謝すべきなのです。私たちは、彼らを認知し信頼すべきなので&lt;br /&gt;
す。ここに見られる「従う」とか「服従する」のような単語は、普&lt;br /&gt;
段あまり聞き慣れないことばです。しかし、それらの単語は新約聖&lt;br /&gt;
書の中では、社会において、職場において、家庭において、結婚生&lt;br /&gt;
活の中で、教会の中で神とともに人々に適用されているのです。そ&lt;br /&gt;
してそれらは、私たちに与えられた役目として、確かな信頼を必要&lt;br /&gt;
としているのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信頼は勝ち取るものだ、と言われますが、私にはそれがどういう&lt;br /&gt;
意味かが理解できます。新しい政府が就任したり、新しい上司が職&lt;br /&gt;
場に着任したり、または新しい友情関係が始まった時のことでもい&lt;br /&gt;
いでしょう。私たちは、経験上それらの人々がどのように困難を切&lt;br /&gt;
り抜け、どのように我慢するか、彼らが成功して益を受けるときに&lt;br /&gt;
彼ら自身だけではなく、他者をも含んでいるかどうかを見たいと思&lt;br /&gt;
います。ゆえに、信頼は勝ち取ると言われるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしその態度は、せいぜい半分真実でしょう。同時に、私たち&lt;br /&gt;
が人生において、不完全な人類の一員に、それらが家族や友人であ&lt;br /&gt;
っても、雇用主や政府の役人、または教会の指導者であっても、私&lt;br /&gt;
たちが与えられるよう求められている信頼の類は、最終的には決し&lt;br /&gt;
て得られるものではないのです。それは、神の賜物として私たちに&lt;br /&gt;
与えられているものと理解するよりは、むしろ信仰による賜物、つ&lt;br /&gt;
まり賜物自体をお与えくださる神への信頼として、賜物が与えられ&lt;br /&gt;
なければならないと言うことなのです。教会において、信頼に足り&lt;br /&gt;
ない指導者、又は信頼する能力に欠けている教会員のどちらかを持&lt;br /&gt;
つことは、深刻な霊的欠陥です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、私たちはどのように信頼すべきなのでしょうか？ ここで単&lt;br /&gt;
純なグラフを想像してみて下さい。縦線は、明快さの増加を測るも&lt;br /&gt;
ので、横線は重大さを測るものを意味するとします。四分円は、１ ）&lt;br /&gt;
明白であるが、重大でないもの、２ ） 明白でも重大でもないもの、&lt;br /&gt;
３ ）明白かつ重大なもの、４ ）確かに明白ではあるが、しかし重大&lt;br /&gt;
ではないもの。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''１ ） 明白だが、しかし重大ではないもの'''（ 例： 建物の外観を紫色&lt;br /&gt;
に塗るべきか？ ） － このカテゴリーの事柄については、単純に普&lt;br /&gt;
通議論はありません。しかしながら「その他案件」の下では、何&lt;br /&gt;
が浮かび上がるか私には全く検討も付きません。&lt;br /&gt;
'''２ ） 重大でも明白でもないもの'''（ 例： 私たちの礼拝を祈りで閉じ&lt;br /&gt;
るべきか、静まりで閉じるべきか？ ）－ これらの事柄においては、&lt;br /&gt;
良い意味での会衆の霊的な議論は結構です。これらは、完全に不&lt;br /&gt;
必要な事柄という訳ではありませんが、しかし最も重要でもあり&lt;br /&gt;
ません。クリーニング契約から駐車場のアイデアに至るすべての&lt;br /&gt;
ことは、この範疇に含まれます。&lt;br /&gt;
'''３ ） 重大かつ明白なこと'''（ 例： 教会員になるために、私たちはイ&lt;br /&gt;
エスが完全に神であり、完全に人であったという信仰を要求し続&lt;br /&gt;
けるべきでしょうか？ ）－ これについてはほとんど常に合意があ&lt;br /&gt;
ります。しかし、教理又は戒規に関して重大な誤りが長老によっ&lt;br /&gt;
てあれば、これが、新約聖書において使徒たちが常に会衆に向け&lt;br /&gt;
て哀願していたことです。エルサレムの教会は分裂したでしょう&lt;br /&gt;
か？ コリントの教会は、神の聖さに対して、彼らの証しが失われ、&lt;br /&gt;
キリスト者とはどういうことなのかということについて人々を&lt;br /&gt;
堕落へと導いたでしょうか？ コリントの教会は、本当の悔い改め&lt;br /&gt;
を認識するのを拒否したのでしょうか？ ガラテヤの諸教会は、福&lt;br /&gt;
音をなくしてしまったのでしょうか？ エペソの教会は、偽りの教&lt;br /&gt;
えを受け入れたのでしょうか？ 新約聖書におけるこれら会衆と&lt;br /&gt;
しての行動の明らかな事柄においては、最も重大な問題が、危険&lt;br /&gt;
に晒されているのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''４ ） 重大ではあるが、明白でない'''（ 例： この人物を長老として認&lt;br /&gt;
めるべきか、又はこの会員資格の処置を肯定すべきでしょうか？&lt;br /&gt;
この重大な支出を充当すべきか、又はこの監督の決定は会衆とし&lt;br /&gt;
てのものなのか？ ）－ これらは教会にとっては長老に尋ねるべき、&lt;br /&gt;
最も重要な事柄です。多くの点で、この四分円の部分が、教会が&lt;br /&gt;
委員会として行動しようと試みるよりも、又は牧師、又はなんら&lt;br /&gt;
かの委員会の議長が単独で決めるよりも、長老たちが特に最もよ&lt;br /&gt;
く教会に仕えるところです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会員の基本的な姿勢として必要とされているのは、指導者を信&lt;br /&gt;
頼するか、又は彼らを交代させるかのどちらかなのです。しかし、&lt;br /&gt;
彼らを認めておきながら、従わないと言うのはやめて欲しいと思い&lt;br /&gt;
ます。もしあなたが推薦状について長老たちと同意できないならば、&lt;br /&gt;
正当な理由を持つべきです。行って、彼らとその件で話をしなさい。&lt;br /&gt;
聖書以外では、あなたが、あなたに関して長老たちについての主要&lt;br /&gt;
な情報源なのです。教会の指導者を邪魔するよりもむしろ、長老の&lt;br /&gt;
いない所で話をし、密かに会って、そしてあなたの指導者を励ます&lt;br /&gt;
計画を立てなさい。教会指導者の働きが重荷ではなく、喜びとなる&lt;br /&gt;
ようにしなさい。ヘブル人への手紙の著者が述べているように、こ&lt;br /&gt;
のことが、指導者があなたにとって祝福となることなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
200 年前にスコットランドの牧師たちの教師であったジョン・ブ&lt;br /&gt;
ラウンは、彼の学生の一人で、小さな教会に新しく任命された人に&lt;br /&gt;
宛てて、まるで父親のように助言を書き記した手紙の中で、次のよ&lt;br /&gt;
うに書いています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、あなたの心の中にある空虚さがわかる。そしてあなたの&lt;br /&gt;
教会が、あなたの周りの兄弟たちのと比べて小さいことに屈辱を感&lt;br /&gt;
じているであろうことも。しかし、老人のことばの上に、あなた自&lt;br /&gt;
身を確信させなさい。彼らのことをあなたが主キリストに弁明する&lt;br /&gt;
とき、神の裁きの座において、あなたは十分であったことを思うで&lt;br /&gt;
あろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日いくつの教会が、自己中心的な指導者たちと頑固な会員たち&lt;br /&gt;
の悪魔的組み合わせのもとに衰えているのでしょうか？ そのよう&lt;br /&gt;
な会衆は、常に小さくなり、萎れていくのです。幾つかの教会は、&lt;br /&gt;
すばらしい会衆を与えられていますが、しかし彼らは間違った人々&lt;br /&gt;
を、彼ら自身をよくても軽率な者、最悪卑しい山師として人前に姿&lt;br /&gt;
を現す牧師や長老として認めてきたのです。私たちのあまりにも多&lt;br /&gt;
くの者が、そのような教会にかかわってきたのです。ある教会には&lt;br /&gt;
すばらしい、信仰深い指導者がいます。しかし会衆が、自己満足の&lt;br /&gt;
自己中心的な人々であふれかえっているのです。もしそのような牧&lt;br /&gt;
師が留まり、忍耐強く教えるならば、私が思うに、会衆は最後の審&lt;br /&gt;
判の日に、キリストの群れの良き牧師の下で傷つけたことに対して&lt;br /&gt;
重い裁きが下るでしょう。しかし、健全な教会は、不完全な教会員&lt;br /&gt;
と指導者でいっぱいであるにもかかわらす、信仰的な主導権と奉仕、&lt;br /&gt;
神聖な教えと従順、信仰深いリーダーシップと教会籍によってしる&lt;br /&gt;
し付けられるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが、今から見るところの教会籍の広い考えです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E6%95%99%E4%BC%9A%E7%B1%8D</id>
		<title>「神の栄光の現れ、/教会籍</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E6%95%99%E4%BC%9A%E7%B1%8D"/>
				<updated>2009-11-12T21:10:28Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Membership}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日多くの人々にとって、教会の教会籍の全体の考え方が、逆効果&lt;br /&gt;
を招いているらしいということを認めるところから始めます。何人か&lt;br /&gt;
は入り、他の人々は出る、と言うことは不親切で、エリート主義では&lt;br /&gt;
ないでしょうか？ それは聖書的ではなく、非キリスト者的であるとま&lt;br /&gt;
で言うことができるでしょうか？ 使徒２ 章47 節に次のように記されて&lt;br /&gt;
います。「主も仲間を加えてくださった」（ すなわち、教会に対して）。&lt;br /&gt;
救われた人々をです。そこにしっかりと書かれているのではないでし&lt;br /&gt;
ょうか？ 同じ使徒８ 章では、エチオピア政府の宦官がパレスティナ地&lt;br /&gt;
方を移動中で、彼は馬車で帰路の途中、預言者イザヤの書を読んでい&lt;br /&gt;
るところでした。御霊に導かれたピリポは、彼をさえぎり、話しかけ&lt;br /&gt;
ました。その男は信じそして洗礼を受けました。その場合、エチオピ&lt;br /&gt;
アの役人は、自動的に教会の会員になったのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====Ⅰ . 献身恐怖症と教会籍====&lt;br /&gt;
これらすべてのことは、今日多くの人々が考えている以上に重要な&lt;br /&gt;
問題です。実は、このことに行き着くことが、教会を甦らさせ、自分&lt;br /&gt;
の国で宣教し、世界中にキリストの言い伝えを広め、そして神に栄光&lt;br /&gt;
を帰する大切なステップなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカの福音派は、この事柄に関して再考し再熟慮するために死&lt;br /&gt;
に物狂いになっています。特に私たちの教会の交わりの群れである南&lt;br /&gt;
部バプテスト会議はそうです。数年前に行われたある南部バプテスト&lt;br /&gt;
の一つの調査によると、典型的な南部バプテスト教会は233 名の教会&lt;br /&gt;
員を擁しており、そのうちの70 人が日曜の朝の礼拝に出席していると&lt;br /&gt;
のことです。ここで、私の質問はこうです。他の163 名はどこに行っ&lt;br /&gt;
てしまったのでしょうか？ 彼らはみな病気で自宅にいるのか、家で療&lt;br /&gt;
養中か、大学に行って不在なのか、休暇中か、又は軍隊にいるのでし&lt;br /&gt;
ょうか？ おそらく何人かはそうでしょう。しかし163 人全員が、本当&lt;br /&gt;
にそうなのでしょうか？ このことは、キリスト教についてこの世に対&lt;br /&gt;
して何を伝えているのでしょうか？ これは、人生におけるキリスト教&lt;br /&gt;
の重要性の意味について、私たちは何を理解しているのでしょうか？&lt;br /&gt;
彼らがもし、数ヶ月いやもっと長く教会から遠ざかっているとしたら、&lt;br /&gt;
そのような状態にいる人々の霊的状態はどうなっているのでしょう&lt;br /&gt;
か？ 彼らの教会欠席は、本当は私たちの問題ではないのでしょうか？&lt;br /&gt;
このことを理解するために、まず最初に次の質問を問う必要がありま&lt;br /&gt;
す。「教会とは何ですか？ 」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====Ⅱ .教会とは何ですか？====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「教会」という単語は、宗教の組織的な単位として言及しているの&lt;br /&gt;
ではありません。それは、仏教の教会やユダヤ教の教会を指している&lt;br /&gt;
のでもありません。「教会」は本質的に建物を指してもいません。それ&lt;br /&gt;
は、第二義的な意味ではそうです。建物は、単に教会が集まる所であ&lt;br /&gt;
り、従ってニューイングランドのピューリタンは教会の建物を、「教会&lt;br /&gt;
堂（ meet ing house ）」と呼んでいました。初期のニューイングランド&lt;br /&gt;
の教会は、外側からは大きな家のように見えました。それは、教会が&lt;br /&gt;
集まるまさしく家でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新約聖書によると、教会は主として信仰を告白し、神の栄光のみを&lt;br /&gt;
現すために、キリストによる唯一の信仰を通して神の恵みによっての&lt;br /&gt;
み救われたという形跡を示す一定の人々の集まりでした。これが新約&lt;br /&gt;
聖書が示す教会で、建物ではありませんでした。初期のキリスト者た&lt;br /&gt;
ちは、教会が始まってからおおよそ300 年もの間、いかなる建物も持&lt;br /&gt;
っていませんでした。しかしながら、初期の時代から地域のキリスト&lt;br /&gt;
教の教会は、明らかに特定の人々の集合体でした。一定の人々がこの&lt;br /&gt;
集会を構成していると知られており、そして他の人々はその外側にい&lt;br /&gt;
ました。従って、マタイ18 章とⅠ コリント5 章でパウロによって教え&lt;br /&gt;
られた叱責は 個々が政治的な共同体ではなく、異なる社会的な共同&lt;br /&gt;
体から除外されるのを期待しているのです。初期のキリスト教会に、&lt;br /&gt;
実際の会員名簿が存在したかは確かではありませんが、彼らは持って&lt;br /&gt;
いたことでしょう。その概念は、知られていないものではありません&lt;br /&gt;
でした。初代教会が、やもめの名簿を持っていたことを私たちは知っ&lt;br /&gt;
ていますし、神ご自身がいのちの書に記された、普遍的な教会の人々&lt;br /&gt;
のリストを持っていることを述べています。そして私たちは、Ⅱ コリ&lt;br /&gt;
ント2 章から、パウロとコリントの人々が、彼らが教会の一員である&lt;br /&gt;
と理解している一定の人々の大多数を明確に突き止めることができる、&lt;br /&gt;
ということです。例として、彼らは被選挙資格のある者たちでした。&lt;br /&gt;
明確に定義できる共同体の人々の概念は、旧約聖書と新約聖書の両&lt;br /&gt;
方において、神の働きに対して主要なものでした。神がノアとその家&lt;br /&gt;
族、アブラハムや彼の子孫、イスラエルの国、新約聖書の時代の教会&lt;br /&gt;
に対して働かれて以来、神は彼の特徴を現すために、明確で異なった&lt;br /&gt;
人々を支えるように選んできたのです。神の意図は常に、彼を信じる&lt;br /&gt;
はっきりとした者とそうでない者との間に鋭く鮮やかな境界線がある&lt;br /&gt;
ようにとのことでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この集められた共同体としての教会の概念は、バプテスト派キリス&lt;br /&gt;
ト者を他の多くの人々と区別するものです。宗教改革の時代において、&lt;br /&gt;
国と教会の関係は親密かつ込み入ったものでした。教会や又は国の戒&lt;br /&gt;
規は、しばしば他からも同様に影響を及ぼしました。またある一定の&lt;br /&gt;
政治的管轄区域の範囲内で生まれたものは、誰であっても国教会の一&lt;br /&gt;
員になることができるとされていました。宗教改革期の信じた者の洗&lt;br /&gt;
礼の回復は、バプテスト派が、個人の信仰告白と回心の証拠を伝える&lt;br /&gt;
者たちの会衆としての新約聖書の教会を復活させたことで、そのまさ&lt;br /&gt;
に根幹において、この教会と国との親密な関係を脅かしたのです。&lt;br /&gt;
ある興味深い歴史家に対するサイド・ノート－ 自発的に誓約した信&lt;br /&gt;
者の共同体としての教会は、特にバプテスト派が自分たちの国におけ&lt;br /&gt;
る宗教の自由の獲得において、重要な役割を果たしたのです。このこ&lt;br /&gt;
とにあなたは驚くかもしれません。今日幾人かの人々は、バプテスト&lt;br /&gt;
派は無知な、重苦しい、宗教的全体主義の勢力と見ているからです。&lt;br /&gt;
しかし、歴史的にみれば、そのことは断じて違います。あまりの皮肉&lt;br /&gt;
です。ある意味においては、私たちの頑迷さについて、ある一部の人&lt;br /&gt;
たちが話したり書いたりするときに用いている自由は、私たちバプテ&lt;br /&gt;
スト派のキリスト者たちが、この国において三世紀に渡って擁護して&lt;br /&gt;
きた、まさに教会の理解によって守られているのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会は、最終的にあなたにとって、そして肉体的、血縁の子孫、又&lt;br /&gt;
はこの国の市民の力によって、あなたの家族のすべての教会員にとっ&lt;br /&gt;
て、何の価値ありません。新約聖書が教えていることは、教会は信者&lt;br /&gt;
のためにあるということです。ですから私たちは、教会が自由に運営&lt;br /&gt;
することができるように自由を提供してくれるこの国で、法律を擁護&lt;br /&gt;
しているのです。アメリカにおいてバプテスト派は、新しく確立した&lt;br /&gt;
教会を擁護しているのではありません。なるほど私たちは、それに断&lt;br /&gt;
固と反対する者たちです。私たちの教会理解は、まさにそのことを許&lt;br /&gt;
してはいないからです。私たちは、イエス・キリストの福音において、&lt;br /&gt;
互いに自由に協力し合う諸教会を通じて、国の福音化を擁護している&lt;br /&gt;
のです。そして教会とは、キリストと、お互いに献身したキリスト者&lt;br /&gt;
の地域の集まりなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====Ⅲ .なぜ教会に加わるのか？====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このテーマは教会にとってそして今日の個々のキリスト者にとって&lt;br /&gt;
避けては通れない問題です。このことは、神の弟子としてキリストが、&lt;br /&gt;
あなたを招いてくださるとはどういうことなのかを理解する上でも重&lt;br /&gt;
要なテーマなのです。教会に加わることは、あなたの良い働きや、教&lt;br /&gt;
育、教養、友情、寄付金、又はあなたの洗礼があなたを救わないのと&lt;br /&gt;
同じように、あなたを救うものではありません。キリスト者でない人&lt;br /&gt;
は教会に加わるべきではありません。しかし、キリスト者になるとは&lt;br /&gt;
どんな意味を持つのかについてもっと学ぶべきです。すでに信仰を告&lt;br /&gt;
白している方々にとっては、次の質問を投げかけたいと思います。キ&lt;br /&gt;
リスト者生活を送ることは、どういう意味を持つのでしょうか？ キリ&lt;br /&gt;
スト者は単独で生きるものなのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの教会に対する必要を強調するために他にも多くのふさわし&lt;br /&gt;
い質問が考えられますが、ここでは、福音を宣教し、キリスト者生活&lt;br /&gt;
をかたどる教会に加入する５ つの真の理由を提示したいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''１ ） 自分自身の確信のため'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたは救われるために教会に参加するべきではありません。かえ&lt;br /&gt;
ってあなたが救われたことを確かめる助けのために、教会に加わるべ&lt;br /&gt;
きです。ヨハネの福音書でイエスが述べたことばを思い出してくださ&lt;br /&gt;
い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。&lt;br /&gt;
わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わ&lt;br /&gt;
たし自身を彼に現します。… もし、あなたがたがわたしの戒めを守る&lt;br /&gt;
なら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしが&lt;br /&gt;
わたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているの&lt;br /&gt;
と同じです。… わたしがあなたに命じることをあなたがたが行うなら、&lt;br /&gt;
あなたがたはわたしの友です。… あなたがたがこれらのことを知って&lt;br /&gt;
いるなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです」（ ヨハ&lt;br /&gt;
ネ14： 21； 15： 10、14； 13： 17）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会加入に際して、私たちは、自分の口で話すことに従って生き、&lt;br /&gt;
互いに責任をもつように自分たちの兄弟姉妹にお願いするそのような&lt;br /&gt;
立場に自分を置くべきです。ときには、彼らが自分たちの生活におい&lt;br /&gt;
て、神の働きを見たという風に私たちに思い出させてくれるように。&lt;br /&gt;
また他の時には、神への服従から遠ざかっているような時に刺激を与&lt;br /&gt;
えることで、励ましをお願いするのです。地域教会におけるあなたの&lt;br /&gt;
教会籍は、あなたの人生が救われたことの証拠を与えている、そのこ&lt;br /&gt;
との会衆としての公の証なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地域教会における教会籍は救い自身ではなく、救われていることの&lt;br /&gt;
生き写しなのです。もしそこに何の反映もなければ、どうして救われ&lt;br /&gt;
ていることを、私たちが知ることができるでしょうか？&lt;br /&gt;
教会の会員になるにあたって、私たちはお互いに知り、また知られ&lt;br /&gt;
るように、互いに手と手を取り合い、神が私たちの人生に働いていて&lt;br /&gt;
くださることを、私たちが思い出す必要がある時や、又は私たちの言&lt;br /&gt;
動に大きな食い違いがある時に注意を促すように、互いに助け励まし&lt;br /&gt;
合ったりするのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''２ ） この世に宣教するため'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたが教会へ加入する目的は、世に福音宣教をするためでもあり&lt;br /&gt;
ます。私たちは本国においても、海外においても、共にさらに福音を&lt;br /&gt;
広めることができるのです。私たちはこのことを、他の人に良き知ら&lt;br /&gt;
せのメッセージを共有することと、他の人がそのように（ ことばでも&lt;br /&gt;
って福音を伝えることを） 助けることで、ことばで宣教をすることが&lt;br /&gt;
できるのです。地域教会はもともとは、宣教組織なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは、孤児や病気の人、子供たちや恵まれない人々の物質的な&lt;br /&gt;
必要を満たすことを通し神の愛を示すことで、私たちの行動を支援す&lt;br /&gt;
るのです。教会における交わりを通して、世界中に福音を伝える助け&lt;br /&gt;
をし、また緊急の物質的必要がある災害援助や教育、他数え切れない&lt;br /&gt;
奉仕をする人々を助けるために、私たちは何百万ドルのお金と何千も&lt;br /&gt;
のボランティア達を供給するのです。私たちは不完全ではありますが、&lt;br /&gt;
もし神の御霊が私たちの間にいて真実に働いてくださるのなら、神は、&lt;br /&gt;
彼の福音の真理を他の人々にも示す助けをするために、私たちの人生&lt;br /&gt;
とことばを用いてくださるのです。これは、今特別に与えられている&lt;br /&gt;
役割であり、天においてはないものです。これが、神のご計画の一部&lt;br /&gt;
であり、神の福音をこの世に宣べ伝えるための、今教会に与えられて&lt;br /&gt;
いる特別な特権なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''３ ） 偽の福音を摘発するため'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は偽の福音を摘発するために、このような方法で共にいるように&lt;br /&gt;
意図されました。キリスト者として共に集まることを通して、私たち&lt;br /&gt;
はこの世に対してキリスト教とは何であるかを示すのです。私たちの&lt;br /&gt;
教会では、聖書的にキリスト教であると称していながら、実際はそう&lt;br /&gt;
ではない説教やイメージの正体を暴露しています。福音的な教会の会&lt;br /&gt;
員ではない人々の何人かが、同じ福音を本当に信じていないので、そ&lt;br /&gt;
のようではないと断定はできない状況があります。教会の使命の一部&lt;br /&gt;
分として、真の福音を認識し守り、その悪用を防ぐということが挙げ&lt;br /&gt;
られます。福音宣教における私たちの仕事の一部には、イエス・キリ&lt;br /&gt;
ストの福音を積極的に提示するだけではなく、キリスト教会において&lt;br /&gt;
なされていて、現実には福音を強めるというよりはむしろ混乱させて&lt;br /&gt;
いるような、ひどく混乱し歪んだ証しを取り除くことも含まれている&lt;br /&gt;
ことを認識する必要があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''４ ） 教会を教化するため'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会に加入する4 つ目の理由は、建徳（ edf i cat i on） 又は教会を建て&lt;br /&gt;
上げることです。教会加入は、間違った個人主義に反撃を加え、キリ&lt;br /&gt;
スト教の生まれながらの団体性について認識する手助けをしてくれま&lt;br /&gt;
す。新約聖書を学ぶと、私たちのキリスト者の生活は、互いに対する&lt;br /&gt;
配慮と関心を含んでいることがわかります。それは、キリスト者にな&lt;br /&gt;
ることの一部であります。そして不完全ながらそのことをすることで、&lt;br /&gt;
私たちはこのことに献身すべきなのです。私たちは、義において、愛&lt;br /&gt;
について、無私なことやキリストの似姿においても、子供っぽい歩み&lt;br /&gt;
を励ますつもりです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの教会の教会員クラスにおいて、私はよくある友人の話をし&lt;br /&gt;
ました。彼は私が会員であった教会の礼拝に出席しながら、大学のキ&lt;br /&gt;
リスト教の働きに従事していました。彼はいつも賛美の後に滑り込み、&lt;br /&gt;
説教の間だけ席に座り、そして礼拝を後にしていました。ある日、私&lt;br /&gt;
は彼になぜ全部の礼拝に出席しないのか、と尋ねてみました。「ええと」、&lt;br /&gt;
彼は次のように答えました、「説教以外から何も得るものがないから&lt;br /&gt;
さ。」「教会に加わるということを考えたことは今までないの？ 」と私&lt;br /&gt;
は応答しました。彼にとってその質問は、ばかげたものでした。彼は、&lt;br /&gt;
「なぜ教会に加入しなければならないんだ？ もし仮に加入したら、彼&lt;br /&gt;
らは霊的に私を遅めるだけだ。」彼がこのように答えた時、私はキリス&lt;br /&gt;
ト者であるとはどういう意味なのか、彼が本当に理解しているか疑問&lt;br /&gt;
でした。私は返答しました、「神はおそらくあなたが他の人々と腕を組&lt;br /&gt;
み合うことを望んでおられることを、今まで考えたことがある？ 確か&lt;br /&gt;
に、彼らはあなたの歩みをゆっくりさせるかもしれない。しかし、あ&lt;br /&gt;
なたが彼らを早める手助けができるかもしれないじゃないか。もしか&lt;br /&gt;
したら、そのことは、キリスト者として私たちが共に生きるために、&lt;br /&gt;
神が与えてくださったご計画の一部かもしれない！ 」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''５ ） 神の栄光を現すため'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、キリスト者は神の栄光を現すために教会に加わるべきです。&lt;br /&gt;
ペテロが初期のキリスト者に記したことは、「異邦人の中にあって、り&lt;br /&gt;
っぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたが&lt;br /&gt;
たを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、&lt;br /&gt;
おとずれの日に神をほめたたえるようになります，」（ Ⅰ ペテロ2:12）。&lt;br /&gt;
驚くべきことではありませんか？ ペテロは彼の主の教えを聞いたと言&lt;br /&gt;
う事ができるのです。あなたは、イエスが山上の説教で教えられたこ&lt;br /&gt;
とを思い出すことができるかもしれません。「あなたがたの光を人々の&lt;br /&gt;
前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあな&lt;br /&gt;
たがたの父をあがめるようにしなさい、」（ マタイ5:16）。驚くべき事は、&lt;br /&gt;
神が私たちの良い働きによって、栄光をお受けになるということです。&lt;br /&gt;
もしそのことが、私たち個々人の生活においても真実であるならば、&lt;br /&gt;
神のことばが言うように、キリスト者として共に生きる私たちの生活&lt;br /&gt;
についての場合もそうだとわかるのにさほど驚くべきではありません。&lt;br /&gt;
神は私たちが互いに愛し合うことで、私たちがキリストに従う者とし&lt;br /&gt;
て同一であることを示そうとされたのです。ヨハネ13 章の34 節・35&lt;br /&gt;
節でイエスが述べた有名なことばを思い出してください、「あなたがた&lt;br /&gt;
に新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあな&lt;br /&gt;
たがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互&lt;br /&gt;
いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であ&lt;br /&gt;
ることを、すべての人が認めるためです。」私たちが共に生きるという&lt;br /&gt;
ことは、私たちが彼のものであることを示し、彼に賛美と栄光を捧げ&lt;br /&gt;
るためなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====Ⅵ ． 教会籍のしるし====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが堕落した世に生きていて、少なくとも部分的にせよ世と結&lt;br /&gt;
託しているのを考慮すれば、特定の教会の誰が会員で誰がそうでない&lt;br /&gt;
のか、どのように決めたらいいのでしょうか？ 誰が入っていて、誰が&lt;br /&gt;
外にいるのかを。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず最初に、教会員になるためには自分の罪を告白することで信仰&lt;br /&gt;
者として、そして罪の悔い改めとキリストによる唯一の救いに信頼す&lt;br /&gt;
ることの信仰告白による洗礼を受けていることが必要です。聖書はマ&lt;br /&gt;
タイ28 章でイエスがはっきりと弟子になる者に洗礼を命じている記録&lt;br /&gt;
があります。使徒の働き全体を通しても、弟子たちがこの教えを理解&lt;br /&gt;
し服従していたのを見ることができます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは、洗礼がキリストに在る信仰の自覚のある告白をした者に&lt;br /&gt;
制限されているものであると信じます。このことのゆえに、幼児洗礼&lt;br /&gt;
を実施することは、教理的に誤りであると信じているのです。この信&lt;br /&gt;
条を裏付ける５ つの理由を述べます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1 ） 誰も信仰者の洗礼に否定する者はいません。議論があるのは、幼&lt;br /&gt;
児洗礼です。&lt;br /&gt;
2 ） 幼児洗礼に関して新約聖書には明確な例がありません。&lt;br /&gt;
3 ） 新約聖書には、幼児洗礼についての明確な教えはありません。&lt;br /&gt;
4 ） 新約聖書にはどこにも、肉体的な割礼と肉体的な洗礼を並行して&lt;br /&gt;
教えてはいません。実に、コロサイ人への手紙2 章では、まさに&lt;br /&gt;
霊的割礼と肉体的な洗礼を並行して述べており、すなわち、肉体&lt;br /&gt;
的な洗礼によるこころの割礼のことを指しています。このことは、&lt;br /&gt;
生まれ変わったしるしがある者だけが洗礼を受けるという考えを&lt;br /&gt;
支持します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''５ ） 歴史的には、幼児洗礼は新約聖書にはなく、２ 世紀初期のキリス'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ト教の礼拝についてのマニュアルであるディケーダにもありませ&lt;br /&gt;
んでした。１ 世紀には確かな記録はなく、２ 世紀にさえもありま&lt;br /&gt;
せんでした。３ 世紀に入ると、幼児洗礼に関するいくらかの記録&lt;br /&gt;
がありますが、しかしながらそれは、幾人かの改革派プロテスタ&lt;br /&gt;
ントの友人が教えているところの幼児洗礼ではありませんでした。&lt;br /&gt;
それはどちらかというと、現在ローマ・カトリック教会が教えて&lt;br /&gt;
いる、洗礼は私たちの生まれ変わり、回心と救いに実際に作用す&lt;br /&gt;
る、というものでした。改革派プロテスタントの一部の人が教え&lt;br /&gt;
ている幼児洗礼の概念は、実は1520 年代に、他のプロテスタント&lt;br /&gt;
信者が信仰者の洗礼について再度紹介するまでは、表には出てき&lt;br /&gt;
ませんでした。救いとも回心でもない幼児洗礼の概念を考え出し&lt;br /&gt;
たのは、正しくはハルドリッチ・ツヴィングリッチでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが彼の手紙で想定していたことは、洗礼を受けた者は新しい&lt;br /&gt;
いのち（ ローマ６ 章） を経験し、心に割礼を受けた（ コロサイ２ 章）&lt;br /&gt;
者であるということです。洗礼とは、それ故、教会における会員籍に&lt;br /&gt;
は必要不可欠なのです。なぜなら、もしある人が教会から入会を認め&lt;br /&gt;
られたならば、そのようなキリストのはっきりとした命令を拒否しさ&lt;br /&gt;
えすればよく、キリストに従うと言っているがまだ洗礼を受けていな&lt;br /&gt;
い人は、単にキリストの命令に従うと決心するまでは、直ちに戒規を&lt;br /&gt;
執行するか、もしくは教会は彼らがキリストに従っていると主張する&lt;br /&gt;
保証を取りやめるかの、どちらかなのです。イエスがあなたにするよ&lt;br /&gt;
うに求めていることで、洗礼よりも簡単なことは、他にないでしょう。&lt;br /&gt;
教会員になるということは、主の聖餐に与ることを意味すべきです。&lt;br /&gt;
これは、本質的にはキリスト者として留まっていることを意味します。&lt;br /&gt;
聖書はイエスが彼らの弟子たちに、主の晩餐でパンとぶどう酒を取る&lt;br /&gt;
ように命令したとき、パンについてのイエスご自身のことばは、「わ&lt;br /&gt;
たしを覚えて」であり、杯について彼は、「これを飲むたびに、わた&lt;br /&gt;
しを覚えて、これを行いなさい」でした。私たちは、パウロのⅠ コリ&lt;br /&gt;
ントから、このことがなされ、それ以降も主を告白するキリスト者に&lt;br /&gt;
よって継続してなされてきたことを知っています。主の晩餐における&lt;br /&gt;
教会の様子は、キリストによる信仰によって養われている人々の集ま&lt;br /&gt;
りとしての教会の象徴的な姿なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会員になるということは、定期的に公の集会に出席するというこ&lt;br /&gt;
とであるべきです。出席するということは、おそらく互いにとって最&lt;br /&gt;
も基本的な務めなのです。しばしば引用されるヘブル10 章25 節では&lt;br /&gt;
次のように記されています、「ある人々のように、いっしょに集まる&lt;br /&gt;
ことをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいてい&lt;br /&gt;
るのを見て、ますますそうしようではありませんか。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし新約聖書が教会のイメージを建物として用いているのなら、私&lt;br /&gt;
たちは、教会のレンガに違いありません。もし教会がからだなら、私&lt;br /&gt;
たちはその教会員です。もし教会が信仰の家族であるならば、私たち&lt;br /&gt;
はその家族の一部であると考えられます。羊は群れにおり、枝はブド&lt;br /&gt;
ウの木につながっています。聖書的に、ある人がキリスト者であるな&lt;br /&gt;
らば、その人は教会の会員であるべきなのです。そしてこの教会籍は、&lt;br /&gt;
単に私たちがかつて行った声明の記録でも、又は親しみのある場所へ&lt;br /&gt;
の愛着でもありません。それは、生きた献身や、定期的な出席の生き&lt;br /&gt;
写しです。そうでなければ、それは無価値であり、無価値よりも悪く&lt;br /&gt;
危険であります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリスト者になるとはどういう意味なのかについて、 係わり合い&lt;br /&gt;
のない「会員」は、本当の会員とキリスト者ではない人々とを混乱さ&lt;br /&gt;
せます。そして私たちが彼らを教会の会員として留めているのを許し&lt;br /&gt;
ていれば、私たち「活動的な」会員が、自発的に「活動的でない」会&lt;br /&gt;
員に、何の奉仕もさせないようにしているのです。なぜなら教会籍は、&lt;br /&gt;
個人の救いを教会として保証したものであるからです。私たちはこの&lt;br /&gt;
ことを理解する必要があります。教会における教会籍は、個々人の会&lt;br /&gt;
員の救いについての教会組織としての証明なのです。しかしながら、&lt;br /&gt;
どうすれば会衆は、教会に来ていない人々が信仰のレースを走ってい&lt;br /&gt;
るかどうかを、公正に証明できるでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの教会では、単に出席から抜け落ちている人たちに絶えず注&lt;br /&gt;
意を払うようにしています。彼らが教会に戻るよう努めるか、さもな&lt;br /&gt;
ければ彼らを特別に世話するようにしています（ もし彼らが軍隊や大&lt;br /&gt;
学にいたり、又は病気のために家を離れることができない場合はで&lt;br /&gt;
す）。もしその人が教会に出席できるのなら、私たちの意思は、彼ら&lt;br /&gt;
が一刻も早く、ここの教会籍から外されるべきであり、そうすること&lt;br /&gt;
で彼らは定期的に出席できる所へ加わるように励まされるのです。&lt;br /&gt;
教会における教会籍のもう一つの明確な見方は、私がすでに述べた&lt;br /&gt;
戒規についてです。マタイ１ ８ 章におけるイエスの教え、又Ⅰ コリン&lt;br /&gt;
ト５ 章やガラテヤ６ 章の中のパウロ教えから、地域教会の家族の機能&lt;br /&gt;
の一つで避けては通れないことは、教会籍から自らは除外されたくな&lt;br /&gt;
いと思っている人々を、締め出すという境界線を描くことです。この&lt;br /&gt;
必要不可欠でおろそかにされがちな話題についてのより多くの情報&lt;br /&gt;
は、ジェイ・アダムスの著作で、教会戒規のハンドブック&lt;br /&gt;
（ Zondervan,1986） か、マーク・デバー編集の書籍「政体」（ Pol i ty）&lt;br /&gt;
8 :を参照ください。アダムスは長老派の視点から、この事柄にアプロ&lt;br /&gt;
ーチしており、それに対して二冊目の本は、初期バプテスト派の10&lt;br /&gt;
本の論文を集めたものです。これら二冊の本は、別々の教会方針から、&lt;br /&gt;
戒規の課題について取り扱っていますが、二冊の間には、実質的な同&lt;br /&gt;
意があります。それぞれの著書は、すべての牧師又は教会指導者にと&lt;br /&gt;
って、有益であるに違いありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
愛も、教会の会員たちの間で見られるべき特徴です。ヨハネ13 章で&lt;br /&gt;
イエスは彼の弟子たちに語られました、「あなたがたに新しい戒めを与&lt;br /&gt;
えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したよ&lt;br /&gt;
うに、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛がある&lt;br /&gt;
なら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべて&lt;br /&gt;
の人が認めるのです」（ ヨハネ13:34,35）。もしある人々が、他のキリ&lt;br /&gt;
スト者と献身的な愛の関係にないのに、自分たちのことをキリスト者&lt;br /&gt;
だと適当に呼ぶように決めたなら、彼らはⅠ ヨハネ4 章20 節を注意深&lt;br /&gt;
く考慮すべきです。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、&lt;br /&gt;
その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見え&lt;br /&gt;
ない神を愛することはできません」。私たちは自分のことを思い違いを&lt;br /&gt;
し、自らの美徳を過大評価する傾向にあるとすれば、神が自分たちの&lt;br /&gt;
誇りや盲目さについて、私たちにそのような自己吟味を与えてくださ&lt;br /&gt;
ったことを感謝しようではありませんか！ キリストの愛を与え受ける&lt;br /&gt;
ことは、聖書がはっきりと教えているように、教会の会員になること&lt;br /&gt;
を意味しており、そして私たちはこのことを、働きの支援のために収&lt;br /&gt;
入の十分の一を捧げることから、初対面の人に暖かく挨拶をすること&lt;br /&gt;
など、あらゆる方法で実践するのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地域教会において、実に他にも多くのことが、このことから派生し&lt;br /&gt;
ています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、私たちは、教会の会員に信仰告白の声明文と誓約書に署名を&lt;br /&gt;
するよう求めています。声明文とは、私たち教会において、どのよう&lt;br /&gt;
に行動するかを規定したものです。私たちは、教会員が教会の為に祈&lt;br /&gt;
り、教会を支援するために経済的に捧げ、そして彼らが教会の働きに&lt;br /&gt;
従事することを期待しています。洗礼、主の晩餐、礼拝出席、戒規、&lt;br /&gt;
そして愛は、地域教会の会員籍の核心となるものです。&lt;br /&gt;
なので、キリストにある友よ。ただ単に教会に出席しないで（ 出席&lt;br /&gt;
すべきではありますが）、教会に加わりなさい。他のキリスト者たちと&lt;br /&gt;
腕を組み合いなさい。あなたが加入できる教会を見つけ、そうしなさ&lt;br /&gt;
い。そうすれば、ノン・クリスチャンらが福音を聞き、わかるように&lt;br /&gt;
なるでしょう。そうすれば信仰の弱いキリスト者たちが配慮され、信&lt;br /&gt;
仰の強いキリスト者たちのエネルギーが良い方法で運ばれ、教会指導&lt;br /&gt;
者が励ましを受け、助けられ、ゆえに神が栄光を受けるでしょう。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E7%B5%90%E8%AB%96</id>
		<title>「神の栄光の現れ、/結論</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E7%B5%90%E8%AB%96"/>
				<updated>2009-11-12T21:00:35Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|A Display of God's Glory/Conclusion}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コリントに向けたパウロの最初の手紙は、あなたが教会として共に&lt;br /&gt;
生きる生活がどのようなものかをもっと理解したいならば、読んで瞑&lt;br /&gt;
想するのに素晴らしい手紙です。その中であなたが見つけるものは、&lt;br /&gt;
教会として私たちは、特に聖さによって、一致によって、そして愛に&lt;br /&gt;
よって特色付けられるということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではなぜ教会はこのような特徴を持っているのでしょうか？ それは&lt;br /&gt;
教会の特徴が、神のご性質を映し出すものだからです。私たちは本質&lt;br /&gt;
的に聖であり、一致して親密な関係にあります。なぜなら神は、これ&lt;br /&gt;
らすべてを兼ね備えたような存在だからです。私たちは聖くなるよう&lt;br /&gt;
に召されています。なぜなら神は聖だからです。私たちは一致するよ&lt;br /&gt;
う召されています。なぜなら神は一つだからです。私たちは愛される&lt;br /&gt;
よう召されています。なぜなら神は愛だからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初に、私たちはこの世に対して見慣れておらず、神に対して特別&lt;br /&gt;
だという意味において、聖くあるように召されています。私たちは、&lt;br /&gt;
汚れのない者として召されているのです。聖さは教会を特徴付ける属&lt;br /&gt;
性であるべきです。それは、トレードマークとなるもので、私たちの&lt;br /&gt;
間で共有され特徴的なものなのです。もし誰かが私たちの特定の教会&lt;br /&gt;
を注視するなら、彼らは、「聖い共同体だ」と思うことでしょう。これ&lt;br /&gt;
が意味することは、自らを義とし取り澄ました人々の群れではなく、&lt;br /&gt;
より良い、より人間的で神を褒め称える生き方によって、行い自体が&lt;br /&gt;
証しする希望ある共同体のことなのです。それゆえに、教会の会員籍&lt;br /&gt;
や教えや戒規など、これらすべてが重要なのです。神が聖なるゆえに、&lt;br /&gt;
私たちも聖くあるべきなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、私たちは一つであるべきです。なぜなら神は唯一のお方だか&lt;br /&gt;
らです。Ⅰ コリント１ 章で、パウロが教会における様々な分裂や分派&lt;br /&gt;
を聞いたことによる悪い評判から始めた時、使徒がその問題に神学的&lt;br /&gt;
に取り組んでいることはとても興味深いことです。パウロが分裂の事&lt;br /&gt;
実についてⅠ コリント１ 章１ ３ 節で、彼らに持ち出した質問はこうで&lt;br /&gt;
す。「キリストが分割されたのですか？ 」なんとふさわしい質問でしょ&lt;br /&gt;
う。そのことを考えたとき、地域教会でその存在に他の基礎を持って&lt;br /&gt;
いるところはありません。パウロが教会の分裂に目を向けてから、次&lt;br /&gt;
の質問をしました。「キリストが分割されたのですか？ 」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その質問の背後にある力強いな神学的仮定は、教会がキリストのから&lt;br /&gt;
だである、ということです。その概念は、私たちが神を写し出さなく&lt;br /&gt;
てはいけない、という重大な責任を思い起こさせます。教会内の分裂&lt;br /&gt;
は、ことの重大さを増加させます。なぜなら、いかなる不神聖さや非&lt;br /&gt;
難によっても、それらが私たちがイメージしようとするお方に写し出&lt;br /&gt;
されるからです。私たちの間にある不一致は、神について、又神がど&lt;br /&gt;
のようなお方かについて、全くの偽りを現していることになるのです。&lt;br /&gt;
パウロがⅠ コリント12 章27 節で述べているように、「あなたがたは&lt;br /&gt;
キリストのからだであってひとりひとりは各器官なのです。」パウロは&lt;br /&gt;
どこからそのような考えを得たとお思いですか？ 私は、彼が回心した&lt;br /&gt;
まさにそのときに考え付いたと思っています。使徒9 章で、パウロは&lt;br /&gt;
復活の主の表れによって立ち止まった時、彼はダマスコのキリスト者&lt;br /&gt;
たちを迫害しに行く途中でした。キリストは彼に何と言ったのか？「サ&lt;br /&gt;
ウロ、サウロ。なぜキリスト者を迫害するのか？ 」いいえ。「サウロ、&lt;br /&gt;
サウロ。なぜ教会を迫害するのか？ 」いいえ。彼は、「サウロ、サウロ。&lt;br /&gt;
なぜわたしを迫害するのか？ 」と言ったのです。このことは、いかに&lt;br /&gt;
イエスと教会が、親密であるかを語っています。イエスは教会を彼の&lt;br /&gt;
からだとして、そして私たちをそのからだのメンバーとして見なして&lt;br /&gt;
いるのです！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ⅰ コリントで、キリスト以上に自分の罪を犯している人々を「除き&lt;br /&gt;
なさい」といわれている主な理由の一つは、私たちが一つとされてい&lt;br /&gt;
るからなのです。一致は教会の特徴のひとつであるとみさなれていま&lt;br /&gt;
す。この一致が、ユダヤ人と異邦人（ Ⅰ コリント7:19）の古い分派を、&lt;br /&gt;
この世のほかのすべての分裂とともに超越するのです。これが、パウ&lt;br /&gt;
ロが教会の分裂についての報告を聞いたときに動揺した理由です。彼&lt;br /&gt;
らの一致の祭りである主の晩餐の時でさえ、彼らはまとまっていませ&lt;br /&gt;
んでした。教会が現世的な理由からばらばらになるとき、私たちはほ&lt;br /&gt;
かのことについて新たなことを始めるのです。それは、現代風の音楽&lt;br /&gt;
の教会であったり、又はこの牧師の教会であったり、ホーム・スクー&lt;br /&gt;
リングの教会であったり、民主主義の教会であったり、ブルー･カーペ&lt;br /&gt;
ットの教会であったりします。これら実用的なものすべては、真のキ&lt;br /&gt;
リスト教の一致とは異なるものです。教会は一致するように召されて&lt;br /&gt;
いるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、私たちは互いに愛し合うべきです。なぜなら神は愛だから&lt;br /&gt;
です。私たちが一致するための唯一の方法は、愛の中にあります。Ⅰ&lt;br /&gt;
コリント8 章１ 節で、パウロは次のように記しています。「私たちはみ&lt;br /&gt;
な知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識&lt;br /&gt;
は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」これがパウロの主張する愛&lt;br /&gt;
と他者への思いやりが、私たちが何をすべきかを支配するように述べ&lt;br /&gt;
られ、８ 章から14 章の中で大きく逸脱する箇所の拠り所となりました。&lt;br /&gt;
パウロは、心の底から神の教会に対する愛を持っていました。そこで&lt;br /&gt;
彼は14 章26 節で次のように書いています。「すべてのことを、教会の&lt;br /&gt;
徳を高めるためにしなさい。」そして31 節で，「すべての人が学ぶこと&lt;br /&gt;
ができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。」パウロは、&lt;br /&gt;
教会の健康状態にとても敏感であったのではないでしょうか？ 15 章の&lt;br /&gt;
9 節を見て、彼の経歴を思い出せば驚くことではありません。「私は使&lt;br /&gt;
徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。&lt;br /&gt;
なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」確かに、なぜ神がパウ&lt;br /&gt;
ロのような人物を用いて、16 章14 節で述べているように、「いっさい&lt;br /&gt;
のことを愛をもって行いなさい。」のような教えを、私たちに伝えたの&lt;br /&gt;
か理解できます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリストが自らの血潮を注ぎかけ、私たちのためにその御からだを&lt;br /&gt;
捧げることによって示した愛を考えてみなさい（ Ⅰ コリント11:23-26）。&lt;br /&gt;
キリスト者たちは、このことを初期の時代から知っていました。Ⅰ コ&lt;br /&gt;
リント15 章3 節から５ 節において、初代教会の信条のようなものを見&lt;br /&gt;
ることができます。そして15 章3 節で、「キリストが私たちの罪のた&lt;br /&gt;
めに死んでくださった」（ 参照:ローマ5:6‐ 8, ;ガラテヤ2:21;Ⅰ ペテロ&lt;br /&gt;
3:18）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
愛についての特に興味深い一つのことは、彼らが持っていてパウロ&lt;br /&gt;
が要求した他の教会に対する関心です。手紙のまさに最初の所から、&lt;br /&gt;
彼らはこのことを思い出さずにはいられませんでした。パウロはコリ&lt;br /&gt;
ントの人々に「至るところのすべての人々とともに」（ Ⅰ コリント1:2）&lt;br /&gt;
と記しています。パウロも彼らに対して、このような方法で行動しま&lt;br /&gt;
した。Ⅰ コリント4 章17 節で、パウロが彼の愛するテモテを、彼らの&lt;br /&gt;
ところに送っていることがわかります。それから、最後の章の16 章１&lt;br /&gt;
節から４ 節では、パウロが彼らに、「聖徒たちのための献金について」&lt;br /&gt;
書いています。これら初期のキリスト者たちは、愛において、他者を&lt;br /&gt;
助ける術を見つける努力をしました。私たちの教会は、そのような愛&lt;br /&gt;
で特徴付けられているでしょうか？ 教会は互いに愛し合う所なのです。&lt;br /&gt;
なぜなら神は愛だからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会はこの混乱した、罪深い自己中心的な世の只中にあって、神の&lt;br /&gt;
愛を映し出すために存在します。私たちはどうでしょうか？ 教会とし&lt;br /&gt;
て私たちは、神の特徴を映し出しているでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが、私たちが教会について新約聖書の中で見つける高尚なこと&lt;br /&gt;
ばの類なのです！ エペソ5 章25 節で、「キリストが教会を愛し、教会&lt;br /&gt;
のためにご自身を捧げた。」と書いてあるとおりです。使徒20 章28 節&lt;br /&gt;
では、神が彼ご自身を彼の教会のために捧げた、と教えています。神&lt;br /&gt;
がご自身の血をもって買い取られたとも。もし私たちが彼に従う者で&lt;br /&gt;
あれば、キリストがご自身を捧げたように、私たちも教会を愛するで&lt;br /&gt;
しょう。なぜ神は教会をそんなにもケアするのでしょうか？ なぜなら&lt;br /&gt;
神はそのことを通して、彼ご自身に栄光を現したいと願っているから&lt;br /&gt;
です。&lt;br /&gt;
私にとって新約聖書の中で最も興味をそそられることの一つは、Ⅰ&lt;br /&gt;
コリント15 章19 節で、パウロが次のように述べているところです。「も&lt;br /&gt;
し、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけ&lt;br /&gt;
なら、私たちは、すべての中で一番哀れな者です。」これは、間違った&lt;br /&gt;
満足をいだいているキリスト者たちに対する、重要な声明文です。現&lt;br /&gt;
代のあまりにも多くの教会が、この人生において、すべての苦しみは&lt;br /&gt;
償われ、すべての犠牲は報いを受け、すべての神秘は説明されるとす&lt;br /&gt;
るキリスト教の見解を提示しています。しかしこれはパウロが教えた&lt;br /&gt;
福音ではありません。事実上、これは私たちの主キリストの福音では&lt;br /&gt;
ありません。そしてこれが、私たちの教会の福音であってはならない&lt;br /&gt;
のです。もしキリスト者の人生を、この来世の側で評価するなら、つ&lt;br /&gt;
じつまが合わなくなるでしょう。キリストのも、パウロのも。そして&lt;br /&gt;
私たちのものです。&lt;br /&gt;
最後に、お分かりのようにパウロは福音のために（ Ⅰ コリント9:23&lt;br /&gt;
を見よ） すべてのことをしました。それが、私たちの教会が何かをす&lt;br /&gt;
るときの動機でしょうか？ もし私たちが、神が望んでおられ、神に栄&lt;br /&gt;
光を帰するような会衆に召されているなら、私たちは、私たちの福音&lt;br /&gt;
のメッセージから互いに対する犠牲的な愛に至るまで、すべてにおい&lt;br /&gt;
てこの最後の希望を重視する会衆になるべきです（ ヘブル10:34 を見&lt;br /&gt;
よ）。そのような状況にあってのみ、私たちは偉大なる神の信仰深い代&lt;br /&gt;
理人となることができるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お分かりのとおり、これが教会において神がなさることなのです！&lt;br /&gt;
Ⅰ コリントで、パウロが述べたことは、神は「この世の取るに足りな&lt;br /&gt;
い者や見下されている者を選ばれました。すなわち有るものをない者&lt;br /&gt;
のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の&lt;br /&gt;
御前でだれをも誇らせないためです。」（ 1:28 ‐ 29 ） 神がなぜあなたや&lt;br /&gt;
私のような人々や、教会として明らかに弱いと思われる事柄を用いて&lt;br /&gt;
いるかお分かりですか？ なぜなら神は彼ご自身を、いかなる方法にお&lt;br /&gt;
いても覆い隠そうとはなさらないからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数年前に参加した会合で、私は南カロライナ州コロンビアにあるフ&lt;br /&gt;
ァースト・プレスビテリアン教会のマーク・ロスが次のように述べた&lt;br /&gt;
のを聴きました。「私たちは神の第一のしるしの一部分のひとつです。」&lt;br /&gt;
彼は続けて、「パウロの教会に対する最大の関心事は[ エペソ4:１ -16]、」&lt;br /&gt;
彼が言うには、「神の栄光を証明し映し出すことで、サタン的領域にお&lt;br /&gt;
けるすべての中傷、それは神のために生きることは無意味であるとす&lt;br /&gt;
る中傷に対して、神のご性質の正しさを証明することなのです。神は&lt;br /&gt;
彼の教会に、彼ご自身の御名の栄光を託されました。あなたの人生の&lt;br /&gt;
境遇は、神がご自身の属性を映し出し、現すために、あなたにお与え&lt;br /&gt;
になった機会なのです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私たちが注意深くなければ、私たちの個人主義が、罪を大目に&lt;br /&gt;
みる生半可なキリスト者の聖さの隠れ場に用いられてしまいます。私&lt;br /&gt;
たちの自己中心性は、福音についての不一致を表面的に取り繕い、よ&lt;br /&gt;
り些細なことに一致するような生半可なキリスト者の一致を導くので&lt;br /&gt;
す。私たちの肉の思いさえも、長くいるからといった家族の感情を持&lt;br /&gt;
つことの、単なる情である生半可なキリスト者の愛を認めることがで&lt;br /&gt;
きるのです。しかしながら、友よ。これらのことは、どれも私たちの&lt;br /&gt;
教会を、特徴付けるべきではありません。なぜなら第一に、これらす&lt;br /&gt;
べては神について、嘘をついているからです。それらは神について正&lt;br /&gt;
しく提示していません。真の聖さは戒規を含むものなのです。そして&lt;br /&gt;
真の一致は、キリストにのみ存在するのです。教会の多様性が、この&lt;br /&gt;
ことを証明するでしょう。真の愛は、感情や生まれながらの関係を超&lt;br /&gt;
えるものでなのです。それは、キリストのゆえに、見知らぬ人のとこ&lt;br /&gt;
ろへ出かけて行きます。これが教会においていかに神の栄光が映し出&lt;br /&gt;
されるかなのです。これが教会が真の意味で繁栄する唯一の道なので&lt;br /&gt;
す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では私たちは、どのように神の栄光を映し出しているでしょうか？&lt;br /&gt;
神がみことばによって啓示された模範に従って、教会を整えることに&lt;br /&gt;
よってなのです。聖さと一致と愛のある生活によって、神のために生&lt;br /&gt;
きることなのです。これが、教会が専念することなのです。あなたは&lt;br /&gt;
どうですか？&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>ファイル:The Mind of Christ Looking Out for the Interests of Others-JA.pdf</title>
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		<title>キリストの思い：他人の利益に心をとめる</title>
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		<title>はじめにことばがあった</title>
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		<title>幼児堕胎：わたしたちの息子、娘たちの無実の血</title>
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		<title>ファイル:The Prodigal's Sister, Part 3-JA.pdf</title>
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		<title>放蕩息子の妹, パート2</title>
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		<title>放蕩息子の妹, パート1</title>
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		<title>ファイル:The Tragic Cost of Her Cavernous Thirst-JA.pdf</title>
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				<updated>2009-10-16T20:30:54Z</updated>
		
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		<title>途方もない深い渇きの悲惨な代価</title>
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		<title>二度と乾くことはない</title>
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		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>二度と乾くことはない</title>
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		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>この山でもエルサレムでもなく、霊とまことによって</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページの作成: {{info|Not in This or That Mount, but in Spirit and Truth}}  今日はヨハネ４章２０から２６節にフォーカスを置きます。この数節は、なんと 神の...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Not in This or That Mount, but in Spirit and Truth}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日はヨハネ４章２０から２６節にフォーカスを置きます。この数節は、なんと 神の偉大さに満ちた箇所でしょう。２週間前、１節から１５節までを見ました。 イエスが、サマリアのとある井戸で出会った女性に「生ける水」を与えようとし ますが、この女性はその意味をまったく理解できませんでした。先週は、１６節 から１９節を通して、外科医が手術をするかのように、私たちの魂を切り開き、 私たちの全てを知り尽くした上で、あえて見捨てずに求めてくださるイエスの姿 を見ました。５人の夫が過去にいて、今現在一緒にいるのは夫ではない、という 彼女の過去を知った上で彼女を真の礼拝者に導こうと会話を進めます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日は、真の礼拝の奥義を解き明かす救世主、ユダヤ人が待ち続けていたメシア、 それだけではないもっと多くのイエスの性質を見る事にしましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====場所に制限されない礼拝====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、２０節から２２節を見てください。心を見透かされ、自分の奥底を調べて いるようなイエスの質問を逃れるために、このサマリアの女性は話のネタを礼拝 に変えます。しかし、この時ですら、彼女は礼拝の真髄ではなく、表面的なこと だけしか考えられないのです。質問は礼拝の「場所」についてです。２０節「私 たちの先祖（our fathers）は、この山で礼拝しました。しかしあなたがたは礼拝 すべき場所はエルサレムであると言います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスは彼女が話題を変えるのを許し、礼拝について質問させますが、彼女の外 面的な質問、つまり礼拝の場所についてだけでは終わらせません。２１節「イエ スは彼女に言いました。「女の人、わたしを信じなさい。この山でもなくエルサ レムでもないところで父(the Father)を礼拝する時が来ているのです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====山は礼拝場所にふさわしくない時====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスは彼女の質問に対し、否定的な答えを出し、反論しています。「『どこ か』だって？『場所』に関して懸念しているのかい？この山でもエルサレムです らも真の礼拝にふさわしくない時が来ているのだよ。それもあなたが考えている よりも早くにね。」このイエスの答えはユダヤ人から出た言葉としては驚異的で す。イエスによると、エルサレム、すなわち聖地、ダビデの町、神の神殿がある エルサレムですら真の礼拝の中心でない日が来るということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このイエスの答えは、女性が求めていたものではありませんでした。ユダヤ人は エルサレムこそが礼拝の焦点、サマリア人にはゲラジム山こそが、という討論を 始められるだろうと期待していたのでしょう。イエスは、そんな議論すらしませ ん。代わりに今まさに起ころうとしている新しい事について話し出します。「こ の山でもなくエルサレムでもないところで父(the Father)を礼拝する時が来てい るのです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====なぜ「父（the Father）」を礼拝することを持ち出したか====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どこで礼拝するかという話題に対して、イエスは「誰を」「どのように」礼拝す るかということにフォーカスを当てます。２１節に「父」を礼拝する時が来てい ると言ってますね。この女性ではなく、イエスがその単語を最初に使ったのです。 イエスはなぜ、「神（God）」や「主（the Lord）」と言わなかったのでしょう か？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
理由は３つあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=====1) 神はサマリア人の「父」=====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスが「父（the Father）」という言葉を使ったのは、まず、この女性が質問 をした時に使ったサマリアの「先祖（the Fathers）」と関連付け、さらに彼女の 関心を唯一であり偉大な「父（the Father）」に持って行きます。彼女は２０節 で「 私たちの先祖（our fathers）は山で礼拝しました。」と言っています。少 し戻って４章１２節では「あなたは私たちの先祖ヤコブ（our father Jacob）よ り偉いのですか？」と言っていましたね。表面的なことや伝統などが非常に大事 なことのようです。先祖たち（fathers）は彼女の思いの中ではかなり高い位置 につけられています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスは話の焦点を変えます。イエスはここで「真のユダヤ人の先祖たち（the fathers）はエルサレムで礼拝しました」などとは言いません。イエスがここで 言わんとしているのは「あなたが関心を持たなければならない父（the Father)が います。その方こそが礼拝されるべきで、特別の場所などはないのです。」でし た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=====2) 神は彼を受け入れる子どもの「父」=====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に、礼拝されるべき方が「父」であると言う事によって、イエスは彼女に神に は子供がいるという事実を示しています。子どもがいない父親はいませんから。 子どもの存在により人は父親になれるのです。この「父」という言葉を持ち出す ことにより、イエスは「神の子供は誰か」という質問を投げかけています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その質問に対する答えはヨハネの１章１２節にすでに与えられています。「この 方を受け入れた人すべてに、神の子どもと呼ばれる特権（権利）を与えられた」 イエスを受け入れる人はみな、神の子どもなのです。神は、新しく生まれ変わり イエスを信じる者にとって父なのです。つまりイエスはここで、こと礼拝に関し ては、場所は問題ではないという事実にこの女性の目を開かせようとしているの です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=====３）神はその子、イエスキリストの父=====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、今述べたことは、なぜイエスが２１節で神を「父」と呼んだかという３ つ目の理由を導き出します。この英語やギリシャ語で書かれると頭文字が大文字 になる「父」（the Father）にはやはり頭文字が大文字になる「子」（the Son） がいるのであろうという観察が出来ます。特に私たちにとっては、この二つの単 語は非常に多くの場合、一緒に用いられるのを知っているのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（以下はすべてヨハネから。父も子も頭文字はすべて大文字。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*３：３５ 父は子を愛されます。&lt;br /&gt;
*５：１９ 父が行うことは何でも子も同じようにします。&lt;br /&gt;
*５：２２ 父は誰も裁きませんが、裁く権利をすべて子に与えました。&lt;br /&gt;
*５：２３ 子を敬わないものは、子を遣わした父も敬いません。&lt;br /&gt;
*５：２６ 父が自分の中にいのちをもっているように、子も自分の中にいのち を持つようにされたのです。&lt;br /&gt;
*１４：１３ 父は子によって栄光を受けます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
礼拝を受けるにふさわしいかたは「父」です。このサマリアの女性は「子」と会 話をしているのです。今、私たちは、このイエスの存在は礼拝において、どの山 にいるかとか町にいるとかいうことよりも遥かに重要であることを見ます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====「どこで」ではなく「だれを」====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネの２章１９節でイエスが「この神殿を壊して見なさい。わたしがそれを三 日で建て直しましょう。」と言ったのを思い出してください。言い換えれば、イ エスはご自身が新しい神殿、神と出会う新しい場所であるとご存知なのです。礼 拝の焦点としての今現在の神殿はすぐに滅びてしまうのです。ではそこには何が 出来るのでしょう。新しい山ですか？新しい都ですか？新しい建物ですか？違い ます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====新しい人、「子」====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスが「この山でもない、エルサレムでもない」と言ったときに、意味するの はこういうことです。「どこで」ということではなく、「だれを」礼拝するかと いうことが問題なのです、と。父と子、生ける水、預言者、救い主、メシヤ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====あなたがたは知らないで礼拝しています====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２２節でも同じようなことが言われています。「あなたがた（サマリア人）は知 らないものを礼拝しています。私たちは知っていて礼拝します、なぜなら救いは ユダヤ人から出るからです。非常にきつくてずけずけと物を言いますね。「君た ちサマリア人の問題は、間違った山で礼拝しているとかそういうことじゃない。 誰を礼拝しているか知らないというところにあるのだよ。」とサマリア人の女性 に言っているのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜでしょうか？２２節後半の「救いはユダヤ人から来るからです。」とは何を 意味しているのでしょう。すべてユダヤ人は誰を礼拝しているのか知っていると 言う意味ですか？そうでないのははっきりとわかっています。なぜならヨハネの ８章１９節で、イエスは大変厳格なパリサイ派ユダヤ人にこう言います。「あな たはわたしもわたしの父も知りません。わたしを知っていたら、わたしの父も知 っていたでしょう。」ユダヤ人も本当の神を知らないのです。サマリア人と同じ です。イエスはユダヤ人にもサマリア人にも「あなたがたは知らずに礼拝してい るのです。」と言われたのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような礼拝は、イエスに言わせると「無駄で中身が空（マタイ１５：９）」 です。ヨハネの４：２３で言うところの「真の礼拝」ではないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====わたしたちは知って礼拝します====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは一体、２２節の「わたしたちは知って礼拝します。救いはユダヤ人から 出るから」とはどういう意味なのでしょう。それは、ユダヤ人は救い主がこの世 に来られると教えている、ということに他ありません。そしてその方はダビデの 子孫、メシヤ、主のしもべとして来られることを教えています。この救い主が来 られるので、まことの礼拝と神の本当の理解が可能なのです。１節から４２節ま でのこの話は、シカルの町の人々が「まことにこの方が世の救い主であることを、 私たちは知っています（４２節）」で布告するところで終わります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスが２２節で、救いはユダヤ人から来ると言い、「わたしたしは知って礼拝 します。」と宣言している意味は、救い主は世に来られ、この方は罪人が（５回 も結婚離婚を繰り返し、現在同棲中であるような罪人が）神を知り、神を父と呼び、まことを持ってこの方を礼拝することが出来るようにしてくださる、という ことなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サマリアの女性にイエスが語られているのは、「あなたがたは自分たちが礼拝し ているものを知らないのです。なぜなら、救い主、そして世に来られる救いを知 らないからです。救い主はユダヤ人のメシアです。あなたがたサマリア人はそれ を信じません。それだから、あなたがたの礼拝は真実ではないのです。」という ことなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====イエスを除いては本物の宗教はなし====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この箇所が現在の私たちの状況（イスラム教、ヒンズー教、仏教、ユダヤ教、そ の他罪人の為に死ぬために来られ、よみがえり、神と人との仲介者となられたイ エスキリストを、神の世への救い主であると快諾しない宗教）に当てはまる点を 読み逃さないようにしてください。栄光に満ち、唯一であり、他の宗教よりも優 れているイエスの名が、それにかかっているのです。さもなくば、クリスチャン でありながら、イエスを知り、愛し、敬い、信じることが救いに不可欠であると いう事実から離れてしまうかもしれないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====イエスを除いては本物の礼拝はなし====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それどころか、ここだけではなく福音書のいたるところで、ユダヤ人から来る救 い主を受け入れる以外に真の礼拝は存在しないと言っています。ヨハネの８章１ ９節で「わたしを知っていたら、わたしの父も知っていたでしょう。」ヨハネ５ 章２３節ではユダヤ人に対して「子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬わな いのです。」と言っています。そしてヨハネの５：４２～４３節では「あなたが たの内には神の愛がない事を知っています。わたしは父の御名によって来たのに、 あなたがたはわたしを受け入れないからです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、「わたしが誰かを知らず、本当のわたしを敬わず、本当のわたし を知って愛さない者は、神を知りもせず、敬いもせず、愛することもしないので す。ですから、山や寺院や神殿で彼らが何をしようと神を礼拝しているのではな いのです。」ということですね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====自分が拒絶している者を礼拝することは出来ない====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じ事がルカ１０章１６節にも描かれています。「わたしを拒絶する者は、わた しを送られた方をも拒絶しているのです。」当たり前ですよね。何か（誰か）を 拒絶しながら同時に同じ物（者）を礼拝することはできません。受け入れられな い方を讃える事はできません。ヨハネ５章４６節「モーセを信じるなら、わたし をも信じたはずです。」はサマリア人にもユダヤ人にも非常に適した箇所です。つまり、わたしを否定するなら、あなたがたは本当はモーセを信じてはおらず、 モーセに対して行っているのは本当の礼拝ではない。」ということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今現在の多元的で、多文化的で、相対論的で、縮小している私たちの世界では、 この考えは難しく、これから先の未来ではもっと困難になるでしょう。あなたが 個人的によく知っている、大変宗教に熱心だがイエスを彼らの救い主として受け 止めていない人達が増えれば増えるほど、彼らの礼拝が「本当の礼拝でない」こ とが信じられなくなります。ですが、もしあなたが自分の信仰に関して勇敢であ るのをやめてしまったら、あなたは新約聖書のイエスを見捨てて、自分の宗教を 作ってしまうこの世と同調してしまうのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====時は来た====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２３節ではイエスは「その時（エルサレムの神殿で行われていた礼拝から、イエ ス自身を礼拝する時）が来た」ということを明確にしています。 ２３節では「真の礼拝者が霊とまことを持って父を礼拝する時は近づいています。 今がその時です。父がそのような人探しておられるからです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
終わりに、この箇所がどのように他の箇所と関連しているのかご覧に入れましょ う。時が今ここに来ているのは、救世主がここにいるからです。「子」がここに おられるからです。イエスを通して父は真の礼拝者を探し求めているのです。滅 ぼす為ではなく救う為に。それ故にイエスは地上に来られたのです。イエスこそ が神が礼拝者を探しているという証拠なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====真の礼拝は新生を必要とする====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本物の礼拝が霊とまことによらなければならないというのは、少なくとも次の理 由からです。神を礼拝するためには、霊的に生まれ変わらなければならない。そ して、それには真実、つまりイエスキリスト（ヨハネ１４：６）を通して神のも とに近づかなければならないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネの３：６で、イエスがニコデモに言った事「 肉に生まれた者は肉に属し、 霊に生まれた者は霊に属します。」を覚えていてください。霊（spirit）をもっ て神を礼拝するということは、聖霊（the Spirit）により生まれ、つまり生きた 霊になるということです。新生の前は、私たちがしていたのは、教会や会堂やお 寺や神社やモスクにいって、この肉で行動していたのです。自分たちをクリスチ ャンやユダヤ人やイスラム教やヒンズー教と呼んでいたとしても、生きた霊を持 っていなかったのです。私たちは霊的に死んでおり、神を知らずにいたのです。 まさに「肉に生まれた者は肉に属し。。。」という訳です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、イエスへの信仰を通して、聖霊が私たちに霊のいのちを与えるときに、 私たちは生まれ変わるのです。霊を持って礼拝することが可能になり、私たちの 霊は生きていて、神の霊を自分たちの内に持つ事ができるようになります。そし て真実、すなわちイエスキリストを見極め、自分のものにする事が出来ます。そ れにより今や私たちは霊と（霊を与え生ける霊であられる聖霊）まこと（神の究 極の真実であるイエスキリスト）をもって礼拝することが出来るのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====生ける水、預言者、救い主、メシヤ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、サマリアの女性はこのイエスとのいとも不思議な出会いの最後に２５節で こういいます。「キリストと呼ばれるメシアが来られる事は知っています。この 方が来た時に、全てのことを私たちに知らせてくれるのです。」そして、それに 対しイエスは２６節で彼女にこう言います。「あなたが話しているのがそれで す。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今イエスがここに立っていても、あなたに同じ事を言うでしょう。「わたしが、 あなたが飲むべき（あなたはその為に創造されたのだから）生ける水、あなたの 全てを知り尽くし、なおもあなたを追い求める預言者、罪人の為に死に、あなた をまことの礼拝者とするために来た救世主です。来るべきメシアについて聞かれ るのですか？あなたが今話しているのがそうです。わたしを信じなさい。」と。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%88%91%E3%82%89%E3%81%AE%E7%88%B6</id>
		<title>我らの父</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%88%91%E3%82%89%E3%81%AE%E7%88%B6"/>
				<updated>2009-09-29T14:14:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Our Father}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
論文の一説&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フリーアムステルダム大学での最初の授業は、私の学問における満足感を打ち砕いた。それはカルチャーショックであり、試練でもあった。G.C. Berkouwer教授が教室に入った瞬間、それは始まった。彼の姿を見て、すべての生徒が気を付けの姿勢をした。教授は教壇に上がり、ノートを開き、静かに頷いて生徒たちを着席させた。彼は講義を始め、生徒は聖なる静けさの中、１時間律儀に講義に耳を傾け、ノートをとった。誰一人として大胆にも手を挙げて、先生の邪魔をしたり、気を散らそうとはしなかった。その時間は唯一の声によって支配されていて、我々はその声を聞くためにそこにいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講義の終了後、教授はノートを閉じて教壇から降り、生徒がもう一度敬意を示すと、慌てて教室を出た。そこには会話、生徒との約束、おしゃべりなどは一切ない。個別に予定された口頭試験以外で教授に話しかける生徒は一人もいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私にとって初めての口頭試験は恐怖だった。私は試練を覚悟して教授の家に行った。しかし、それは試験のように厳しかったものの、試練ではなかった。Berkouwer教授は思いやりがあり、優しかった。おじのようなファッションで、彼は私の家族について聞いた。私の幸せな生活状況に強い関心を見せ、次は私が彼に質問をするように勧めてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その経験はある意味、天国にいるようだった。Berkouwer教授はもちろん人間だ。しかし、彼は巨大な知性と博学な知識の持ち主だ。私は彼に教えたり、彼と討論するために彼の家に行ったのではない。私は生徒で、彼は先生なのだ。彼が私から教わることなど、理論の領域においてほとんどないのである。しかしながら、彼は私から本当に何かを学べると思っているかのように私に耳を傾けた。彼からの徹底的な質問に対する私の答えを、彼は真剣に受け止めてくれた。私はまるで思いやりのある父親に質問をされている息子のようだった、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この出来事は、「もしも神が統治者であるのなら、なぜ祈るのだ？」という大昔からの質問に答えるためには最高の人間の類推である。しかしながら、私は、この類推が実体のないものであるということを認めなければならない。Berkouwer教授は私よりも知識が豊富だが、彼の知識も無限ではなく限界がある。彼は決して博識者ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反対に、私は神と談話する際、単に空の上にいるような偉大な先生と話しているわけではない。知識の豊富な、私から学べるものなどないであろう人と話しているのである。彼は存在するものすべてについて知っていて、私の考えていることも分かっている。彼は私が彼に何を言おうとしているかも知っている。彼は自分がしようとしていることもそれをする前にすでに知っている。彼が最高者であるように、彼の知識も最高である。彼の知識は完璧で、それは不変である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書は時に、神は自身の考えを変え、計画を諦めたり後悔する、という表現をする人間の言葉をたどたどしく展開するが、それは同時に、人間によって形成された表現は単にそういうもので、神は後悔するような人ではない、ということを我々に認識させます。彼の中に変化しようという姿はなく、彼の助言は永遠です。彼には計画Bなどはありません。計画Bは「非常事態計画」で、神はすべての偶発事件を認識していますが、彼自身は偶然的に知っていることは何もありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人々は聞きます、「祈りによって神の心は変わりますか？」。そのようなことを聞く理由はその質問に答えるためです。私の祈りに影響を受ける神はいるでしょうか？どのような祈りをすれば、彼が自分の計画を変えるのでしょうか？神がまだ持っていない情報を与えてしまってもいいものでしょうか？それとも、私の優れた知恵によって彼をより素晴らしい方向へと説得させることができるでしょうか？もちろんそれはできません。私には神の助言者もしくは指導カウンセラーとなるような資格はありません。そのため結論は簡単で、祈りによって神の気持ちが変わることはありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、もしも神の主権と我々の祈りの関係について少し別の観点から質問したとしたら、それは「祈りは何かを変えることができるか？」です。答えは「できる」です。聖書は「誠実な人による、効果的で熱意のある祈りは大いに役に立つ」（ジェームズ５章１６節）と教えてくれています。祈りは効果的であると断言しているのです。善意を装った無駄な祈りではありません、大いに効果のある祈りです。効果あるものは決して無駄ではありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
祈りはどのように効果がありますか？何を変化させますか？まず、祈りは私を変えてくれます。祈りの目的は神を変えることではありません。彼は変わりません、なぜなら彼に変化は必要ないからです。しかし私には変化が必要です。Berkouwer教授の私に対する質問が彼のためでなく私のためにあったように、私と神との時間は私の教化のためにあり、彼のためではありません。祈りとは、神が人を義と認めることと一緒に我々に与えられた大きな特権です。義化の結果には、我々と神との接点があります。我々は彼の家族の一員となり、彼と父と呼ぶ資格を与えられました。我々は彼の存在の中に大胆にも入ることができ、自信を与えられました。（もちろん、大胆にとは傲慢にとは意味が違います）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、祈りもものを変化させます。実際的にも、祈りは効果があると言います。効果的なものは効果を生みます。神学では、一次的と二次的の因果関係を区別します。一次的な因果関係とはすべての要因の力の源です。聖書が「彼の中で我々は生きて、動いて、我々自身がある」（使徒行伝１７章２８節）と教え、「神の持続した導きがなければ、我々は生きて、動いて、存在することはできない」と示しています。我々が持つすべての力は二次的なものです。すべては神の究極の効力によるものです。そして、それは事実です。祈りとは一つの手段であり、神はその手段を使って彼の定めに終わりを起こします。つまり、神は終わりを定めるだけでなく、彼は彼がそれらの終わりを引き起こすために使う手段を定めます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神が彼の人々を守るために、我々の説教など必要ありません。しかしながら、彼は我々の説教とともに努めることを決めました。彼は彼自身の力を加えることで、我々人間の説教をよりいっそう強くします。同様に、彼は我々の祈りとともに努めることに決めたのです。我々は祈りを終えた後も一歩下がって、彼が我々の祈りに力を与えるために彼が彼の力を我々の祈りに集中させるところを見ることができます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
我々は期待を持ちながら、自信を持ってお祈りをします。それは神の主権のためではありません。時間の無駄になることと言えば、主権者ではない神へお祈りをすることです。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>我らの父</title>
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				<updated>2009-09-28T15:39:39Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページの作成: {{info|Our Father}}  Hi Yoshimi,  Here is the page for your translation.   Thank you so much!!  Blessings,  Joya&lt;/p&gt;
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Hi Yoshimi,&lt;br /&gt;
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Here is the page for your translation. &lt;br /&gt;
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Thank you so much!!&lt;br /&gt;
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Blessings,&lt;br /&gt;
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Joya&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>「神の栄光の現れ、/結論</title>
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				<updated>2009-09-23T15:57:09Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページ 「神の栄光の現れ、/Conclusion を 「神の栄光の現れ、/結論 へ移動&lt;/p&gt;
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Hi Taiki,&lt;br /&gt;
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Here is the page for the Conclusion of the book.&lt;br /&gt;
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Thanks so much for your help!!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Joya&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページの作成: {{info|A Display of God's Glory/Conclusion}}  Hi Taiki,  Here is the page for the Conclusion of the book.  Thanks so much for your help!!  Joya&lt;/p&gt;
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Hi Taiki,&lt;br /&gt;
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Here is the page for the Conclusion of the book.&lt;br /&gt;
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Thanks so much for your help!!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Joya&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>「神の栄光の現れ、/会衆主義</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページ 「神の栄光の現れ、/Congregationalism をこのページあてのリダイレクト 「神の栄光の現れ、/会衆主義 へ移動&lt;/p&gt;
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&lt;br /&gt;
Hi Taiki,&lt;br /&gt;
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Here is the page for the third chapter.&lt;br /&gt;
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Thanks so much!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Blessings,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Joya&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>「神の栄光の現れ、/会衆主義</title>
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				<updated>2009-09-23T15:53:19Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページ 「神の栄光の現れ、/会衆主義 を 「神の栄光の現れ、/Congregationalism へ移動: 差し戻し&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Congregationalism}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Hi Taiki,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Here is the page for the third chapter.&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Thanks so much!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Blessings,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Joya&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>「神の栄光の現れ、/教会籍</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページ 「神の栄光の現れ、/Membership を 「神の栄光の現れ、/教会籍 へ移動&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Membership}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Hi Taiki,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Here is the page for chapter 4. &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Thanks!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Joya&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページの作成: {{ info | A Display of God's Glory/Membership}}  Hi Taiki,  Here is the page for chapter 4.   Thanks!  Joya&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Membership}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Hi Taiki,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Here is the page for chapter 4. &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Thanks!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Joya&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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				<updated>2009-09-23T15:47:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Congregationalism}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Hi Taiki,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Here is the page for the third chapter.&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Thanks so much!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Blessings,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Joya&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページ 「神の栄光の現れ、/Congregationalism を 「神の栄光の現れ、/会衆主義 へ移動&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info| A Display of God's Glory/Congregationalism}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Hi Taiki,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Here is the page for the third chapter.&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Thanks so much!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Blessings,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Joya&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>「神の栄光の現れ、/会衆主義</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページの作成: {{ info| A Display of God's Glory/Congregationalism}}  Hi Taiki,  Here is the page for the third chapter.  Thanks so much!  Blessings,  Joya&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info| A Display of God's Glory/Congregationalism}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Hi Taiki,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Here is the page for the third chapter.&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Thanks so much!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Blessings,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Joya&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>「神の栄光の現れ、/長老</title>
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				<updated>2009-09-23T15:42:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: JoyaTeemer （会話） による第48版を取り消し&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info| A Display of God's Glory/Elders}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Hi Taiki,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Here is the page for the second chapter. &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Thanks a ton!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Blessings,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Joya&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81</id>
		<title>「神の栄光の現れ、</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81"/>
				<updated>2009-09-23T15:37:57Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E9%95%B7%E8%80%81</id>
		<title>「神の栄光の現れ、/長老</title>
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				<updated>2009-09-23T15:31:46Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: JoyaTeemer （会話） による第42版を取り消し&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Elders }}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Hi Taiki,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Here is the page for the second chapter. &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Thanks a ton!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Blessings,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Joya&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>「神の栄光の現れ、</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory }}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>「神の栄光の現れ、</title>
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&lt;hr /&gt;
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				<updated>2009-09-23T15:19:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページ A Display of God's Glory/Deacons を 「神の栄光の現れ、/執事 へ移動&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Deacons}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Hi Taiki,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Here is the page for the first chapter. Before you upload the text, please delete my note, but leave the code above. &lt;br /&gt;
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Thank you so much! Let me know if you have any questions!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Blessings,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Joya&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>「神の栄光の現れ、/長老</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページ A Display of God's Glory/Elders を 「神の栄光の現れ、/長老 へ移動&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Elders}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Hi Taiki,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Here is the page for the second chapter. &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Thanks a ton!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Blessings,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Joya&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>「神の栄光の現れ、/長老</title>
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				<updated>2009-09-23T15:14:24Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページの作成: {{ info | A Display of God's Glory/Elders}}  Hi Taiki,  Here is the page for the second chapter.   Thanks a ton!  Blessings,  Joya&lt;/p&gt;
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&lt;br /&gt;
Hi Taiki,&lt;br /&gt;
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Here is the page for the second chapter. &lt;br /&gt;
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Thanks a ton!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Blessings,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Joya&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>「神の栄光の現れ、/執事</title>
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				<updated>2009-09-23T15:13:11Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Deacons}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Hi Taiki,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Here is the page for the first chapter. Before you upload the text, please delete my note, but leave the code above. &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Thank you so much! Let me know if you have any questions!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Blessings,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Joya&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/A_Display_of_God%27s_Glory/Introduction</id>
		<title>A Display of God's Glory/Introduction</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/A_Display_of_God%27s_Glory/Introduction"/>
				<updated>2009-09-23T15:10:02Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページ A Display of God's Glory/Introduction をこのページあてのリダイレクト 「神の栄光の現れ、/導入 へ移動&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#転送 [[「神の栄光の現れ、/導入]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E5%B0%8E%E5%85%A5</id>
		<title>「神の栄光の現れ、/導入</title>
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				<updated>2009-09-23T15:10:02Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページ A Display of God's Glory/Introduction をこのページあてのリダイレクト 「神の栄光の現れ、/導入 へ移動&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Introduction}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が中学２ 年生（ ８ 年生） の時に書いた作文の中で、「政体（pol i ty）」 という単語を使ったところ、当時24 歳だった私の英語教師がその単語 を丸で囲み、間違いだと指摘した時のことを今でも覚えています。そ れは、少年の愉快さから、私は彼女のところに辞書を持って行き、該 当箇所を開き、彼女にその意味を読み聞かせました。それは、「物事を 管理するための組織、特に公の事柄； 政府」のような意味でした。政 体とは、つまり、管理、組織、統治、そして権威の構造の意味がある のです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリスト者として私たちは、自分の生活が聖書の教えの上に築かれ るよう努力します。にもかかわらず、次の質問を尋ねなければなりま せん。聖書は、教会の政体や組織についての質問を明らかに取り扱っ ているのでしょうか？ もし答えが「はい」ならば、では聖書はどのよ うに教えているのでしょう。勿論、私たちキリスト者は、説教や戒規、 私たちの霊性とキリストに従う喜び、そして教会成長と私たちの福音 宣教の理解について、聖書の十全性を信じています。しかし、聖書は、 私たちが教会でキリスト者として共に生きることについて、いかに組 織立てればよいのかについても語っているでしょうか？ それとも単純 に、最善の方法を調べるよう私たちに委ねられているのでしょうか？ 私たちの教会組織はどうでもよい事柄なのでしょうか？ そのことは、 最もふさわしく機能し最も効果的に問題を避けるようなことなら何で もいい、という単なる実用主義を基礎にして決められるべきことなの でしょうか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、私たちが神を愛し彼に仕えるために知るべきすべてのことは、 神ご自身がみことばを通して啓示しておられ、教会の組織についてさ えも、私たちが知るべきことを含んでいると信じます。団体としての 教会生活に対する聖書の十全性は、過去においてバプテスト派や会衆 派、長老派や他の多くの教派の信仰告白の中に含まれており、神が聖 職者として召し出された人たちによっても考えられてきました。ここ __で明確にしておきたいのは、私たちが教会の組織は新約聖書の中に見 つけることができると言う時、それは自分たちの慣行の正しさを仮定 し、そのことを正当化する聖書的根拠を捜すという意味ではありませ ん。むしろ、私たちの目標は、聖書にその答えを求め、そこで教えら れているいくつかの構造や組織の基本的な見方を認識し、聖書の教え に従って教会形成をなすべき点にあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新約聖書は、初期のキリスト者たちがいかにして彼らの教会を構成 していたかの例で満ちています。ある箇所には、明白な団体としての 会合や（ 使徒20:7; ヘブル10:25）、選挙（ 使徒1:23-26;6:5-6）、役員（ 例： ピリピ1:1;使徒20:17,28）、戒規の例（ Ⅰ コリント5 章）、献金（ ロー マ15:26;Ⅰ コリント16:1-2）、推薦状（ 使徒18:27;Ⅱ コリント3:1）、儀 式の運営（ 使徒2:41;Ⅰ コリント11:23-26）、と教会の教会籍の資格（ マ タイ28:19;使徒2:47） について記されています。明らかに、神は教会 の共同生活と構造について多くの見方の方向を、みことばの中に与え てくださっているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神がそのようにされていることは、なんと素晴らしいことでしょ う！ 神のみことばが、私たちの共同生活や教会組織についてさえも規 定されていると確信することは、最近の流行である専制政治から私た ちを自由にします。今日幾人かの牧師たちは、聖歌隊や委員会は必ず 持つべきであり、説教は単にしても差し支えないことと考えます（ も し私たちのビデオ・ミニストリーがすでにそのタイム・スポットを満 たすと考えていないなら）。または教会の教会籍を導入しても差し支え ないとも考えます（ もし私たちが他になすべき独創的なことを考えら れなければの話ですが）。神のことばは、教会についての私たちの考え を再統合してくれます。私たちは、聖書は私たちの指導について明確 なパラメーターを設計してくれます（ それらのパラメーターの内に柔 軟性はありますが）。私たちは、説教と教会籍がなくてはならないこと、 そして聖歌隊や委員会はあってもいいことを学び始めていくことにし ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジョン・ドラグ（ John L.Dagg、1794 年から1884 年） は、次のよう に記しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;教会の秩序と宗教の儀式は、新しい心に比べたら、さほど重要では ありません。いくつかを考慮して、それらを尊重してなされる骨の折 れる質問のいかなる調査も不必要で無駄なように思えます。しかし私 たちが聖書から分かっていること。それはキリストがこれらの事柄に 命令を与え、私たちは従うしかないということなのです。愛は私たち を服従するように促がします。そして愛は、神の意思を確かめる必要 があるような調査を喚起します。それゆえに、私たちの前におかれた 研究を、熱い祈りによって遂行しようではありませんか。すべての真 理へと導いてくださる聖霊が、私たちが最上に愛し崇拝する神のみこ ころを学ぶ助けをしてくださるのです。（''Manual of Church Order, p.12''）&amp;lt;/blockquote&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことを認識することで、私たちは教会の組織についての多くの 中心的な見方について、聖書の教えをよりよく考慮することができる でしょう。ここで多くの質問が考慮されるべきですが、私は教会組織 の最も基本となる４ つの事柄、執事、長老、会衆主義と教会の会員籍 について、聖書は明確に何を教えているかに焦点をあわせたいと思い ます。神が私たちの試みを用いてくださり、教会で共に生きるとはど ういうことなのかについて、神の意図を理解する助けを与えてくださ いますように。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/A_Display_of_God%27s_Glory</id>
		<title>A Display of God's Glory</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/A_Display_of_God%27s_Glory"/>
				<updated>2009-09-23T15:08:35Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページ A Display of God's Glory を 「神の栄光の現れ、 へ移動&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#転送 [[「神の栄光の現れ、]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81</id>
		<title>「神の栄光の現れ、</title>
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				<updated>2009-09-23T15:08:35Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページ A Display of God's Glory を 「神の栄光の現れ、 へ移動&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|A Display of God's Glory}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

	<entry>
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				<updated>2009-09-23T14:59:28Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Introduction}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が中学２ 年生（ ８ 年生） の時に書いた作文の中で、「政体（pol i ty）」 という単語を使ったところ、当時24 歳だった私の英語教師がその単語 を丸で囲み、間違いだと指摘した時のことを今でも覚えています。そ れは、少年の愉快さから、私は彼女のところに辞書を持って行き、該 当箇所を開き、彼女にその意味を読み聞かせました。それは、「物事を 管理するための組織、特に公の事柄； 政府」のような意味でした。政 体とは、つまり、管理、組織、統治、そして権威の構造の意味がある のです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリスト者として私たちは、自分の生活が聖書の教えの上に築かれ るよう努力します。にもかかわらず、次の質問を尋ねなければなりま せん。聖書は、教会の政体や組織についての質問を明らかに取り扱っ ているのでしょうか？ もし答えが「はい」ならば、では聖書はどのよ うに教えているのでしょう。勿論、私たちキリスト者は、説教や戒規、 私たちの霊性とキリストに従う喜び、そして教会成長と私たちの福音 宣教の理解について、聖書の十全性を信じています。しかし、聖書は、 私たちが教会でキリスト者として共に生きることについて、いかに組 織立てればよいのかについても語っているでしょうか？ それとも単純 に、最善の方法を調べるよう私たちに委ねられているのでしょうか？ 私たちの教会組織はどうでもよい事柄なのでしょうか？ そのことは、 最もふさわしく機能し最も効果的に問題を避けるようなことなら何で もいい、という単なる実用主義を基礎にして決められるべきことなの でしょうか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、私たちが神を愛し彼に仕えるために知るべきすべてのことは、 神ご自身がみことばを通して啓示しておられ、教会の組織についてさ えも、私たちが知るべきことを含んでいると信じます。団体としての 教会生活に対する聖書の十全性は、過去においてバプテスト派や会衆 派、長老派や他の多くの教派の信仰告白の中に含まれており、神が聖 職者として召し出された人たちによっても考えられてきました。ここ __で明確にしておきたいのは、私たちが教会の組織は新約聖書の中に見 つけることができると言う時、それは自分たちの慣行の正しさを仮定 し、そのことを正当化する聖書的根拠を捜すという意味ではありませ ん。むしろ、私たちの目標は、聖書にその答えを求め、そこで教えら れているいくつかの構造や組織の基本的な見方を認識し、聖書の教え に従って教会形成をなすべき点にあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新約聖書は、初期のキリスト者たちがいかにして彼らの教会を構成 していたかの例で満ちています。ある箇所には、明白な団体としての 会合や（ 使徒20:7; ヘブル10:25）、選挙（ 使徒1:23-26;6:5-6）、役員（ 例： ピリピ1:1;使徒20:17,28）、戒規の例（ Ⅰ コリント5 章）、献金（ ロー マ15:26;Ⅰ コリント16:1-2）、推薦状（ 使徒18:27;Ⅱ コリント3:1）、儀 式の運営（ 使徒2:41;Ⅰ コリント11:23-26）、と教会の教会籍の資格（ マ タイ28:19;使徒2:47） について記されています。明らかに、神は教会 の共同生活と構造について多くの見方の方向を、みことばの中に与え てくださっているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神がそのようにされていることは、なんと素晴らしいことでしょ う！ 神のみことばが、私たちの共同生活や教会組織についてさえも規 定されていると確信することは、最近の流行である専制政治から私た ちを自由にします。今日幾人かの牧師たちは、聖歌隊や委員会は必ず 持つべきであり、説教は単にしても差し支えないことと考えます（ も し私たちのビデオ・ミニストリーがすでにそのタイム・スポットを満 たすと考えていないなら）。または教会の教会籍を導入しても差し支え ないとも考えます（ もし私たちが他になすべき独創的なことを考えら れなければの話ですが）。神のことばは、教会についての私たちの考え を再統合してくれます。私たちは、聖書は私たちの指導について明確 なパラメーターを設計してくれます（ それらのパラメーターの内に柔 軟性はありますが）。私たちは、説教と教会籍がなくてはならないこと、 そして聖歌隊や委員会はあってもいいことを学び始めていくことにし ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジョン・ドラグ（ John L.Dagg、1794 年から1884 年） は、次のよう に記しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;教会の秩序と宗教の儀式は、新しい心に比べたら、さほど重要では ありません。いくつかを考慮して、それらを尊重してなされる骨の折 れる質問のいかなる調査も不必要で無駄なように思えます。しかし私 たちが聖書から分かっていること。それはキリストがこれらの事柄に 命令を与え、私たちは従うしかないということなのです。愛は私たち を服従するように促がします。そして愛は、神の意思を確かめる必要 があるような調査を喚起します。それゆえに、私たちの前におかれた 研究を、熱い祈りによって遂行しようではありませんか。すべての真 理へと導いてくださる聖霊が、私たちが最上に愛し崇拝する神のみこ ころを学ぶ助けをしてくださるのです。（''Manual of Church Order, p.12''）&amp;lt;/blockquote&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことを認識することで、私たちは教会の組織についての多くの 中心的な見方について、聖書の教えをよりよく考慮することができる でしょう。ここで多くの質問が考慮されるべきですが、私は教会組織 の最も基本となる４ つの事柄、執事、長老、会衆主義と教会の会員籍 について、聖書は明確に何を教えているかに焦点をあわせたいと思い ます。神が私たちの試みを用いてくださり、教会で共に生きるとはど ういうことなのかについて、神の意図を理解する助けを与えてくださ いますように。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>「神の栄光の現れ、</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページの作成: {{info|A Display of God's Glory}}&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|A Display of God's Glory}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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		<title>「神の栄光の現れ、/導入</title>
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				<updated>2009-09-22T15:51:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;JoyaTeemer: ページ 「神の栄光の現れ、/導入 を A Display of God's Glory/Introduction へ移動: 差し戻し&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Introduction}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Hi Taiki,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Here is the page for the Introduction. Before you upload the text, please delete my note, but leave the English code above. &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Thank you so much! Please let me know if you have any questions.&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Blessings,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Joya&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>JoyaTeemer</name></author>	</entry>

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