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		<title>è�–æ›¸ã�®æœ¬ã�Šã‚ˆã�³èª¬æ•™ - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<updated>2026-05-31T17:05:18Z</updated>
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		<title>喜びを探し求めて</title>
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				<updated>2016-06-07T19:37:40Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kathyyee: 「喜びを探し求めて」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Quest for Joy}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神は私たちに「喜びなさい」とご命令になるのを、知っていますか?''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇 37:4)'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1)神は私たちをご自身の栄光のために造られた''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。･･･わたしの栄光'' のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ 43:6-7) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
望遠鏡が星を拡大するように、神は私たちがご自身の偉大さを拡大するよう、私たちを造ら れました。ご自身のいつくしみとまこと、美しさ、知恵、義を映し出すよう、私たちをお造りに なりました。神のご栄光をもっとも顕著に映し出すのは、神が私たちにとって神であられるこ とのすべてを心の底から喜ぶところから来ます。これはつまり、神が賛美をお受けになり、 私たちが喜びを得るということを意味します。私たちが神にあって最も満足するときに、主 が私たちのうちで最もあがめられるよう、神は私たちをお造りになったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) すべての人間は神のご栄光のために生きなければならない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現'' すためにしなさい。」(1 コリント 10:31) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私たちが神のご栄光のために造られたのなら、主のために生きなければならないのは 明らかです。私たちの義務は、主の目的からきます。　ですので私たちのまず第一の義務は、 神が私たちにとって神であられるそのすべてに満足することで、神のその御価値を見せる ことです。それが神を愛することの本質であり(マタイ 22:37)、主を信頼することであり(1 ヨハ ネ 5:3-4)、また主に感謝することです(詩篇 100:2-4)。それが特に他人を愛するという、真の 従順の根本です(コロサイ 1:4-5)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) 私たちのすべては神に栄光をお返ししていない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ 3:23)'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「神からの栄誉を受けることができず」とはどういう意味でしょうか? それは、私たちのうち誰 も神を信頼せず、大切にしていない、という意味です。誰も主の偉大さに満足し、主の道を 歩んでいません。私たちは他のものに満足を求め、それらを神より価値あるものとしていま す。そしてそれが、偶像礼拝の本質なのです(ローマ 1:21-23)。罪がこの世に入ってきて以 来、私たちのすべては、神をすべてを満たして下さる宝として受け入れることを、断固として 拒否し続けています(エペソ 2:3)。これは神の偉大さに対する最悪の侮辱です(エレミヤ 2:12-13)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4) 私たちのすべては、神の正しい有罪宣告の下にある''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「罪から来る報酬は死です。」(ローマ 6:23)'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちのすべてが神のご栄光を軽くあしらってきました。どのようにでしょうか?主よりも他の ものを好むことによってです。主に感謝せず、信頼せず、反抗することによってです。ですの &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
で神が、私たちを、ご自身の栄光を楽しむことのないよう、締め出されるのは当然です。「そ のような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受 けるのです」(2 テサロニケ 1:9)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「地獄｣と言う言葉は新約聖書では 14 回用いられています。そのうちの 12 回はイエスご自 身が用いておられます。この言葉は陰険で怒ってばかりいる説教家たちによって作り上げ られた、でっち上げではありません。これは、罪人を、その呪いから助け出すために死なれ た、神のみ子からの、厳粛な忠告なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし聖書が人間の現状を分析するところで終わっていたなら、私たちは絶望的将来に追い やられているでしょう。でも、聖書はここで終わりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5) 神は永遠のいのちと喜びを与えるため、ご自身のみ子イエスをお遣わしになった''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「『キリスト･イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そ'' のまま受け入れるに値するものです。」(1 テモテ 1:15) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
良い知らせは、キリストは私たちのような罪人のために死なれた、ということです。そして主 は、その死に救う力があることを立証するため、また永遠のいのちと喜びの扉を開くため、 死から物理的によみがえられました(1 コリント 15:20)。これは、神が、有罪の罪人を無罪で あると宣言してもなお、正しくあられることができる、ということを意味します。「キリストも一 度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、… 私たちを神のみもとに導くためでした。」(1 ペテロ 3:18)神のみもとへ帰ることにこそ、深く永 遠に続く満足があるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''6) キリストの死によって買い取られた恵みは、悔い改め、主に信頼する人々のもの''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に 立ち返りなさい。」(使徒 3:19) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒 16:31) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「悔い改める」というのは、罪の偽りの約束すべてから離れるという意味です。「信仰」とは、 イエスにあって、神が私たちにとってどのようなお方であられるか、という約束に、満足する ことです。「わたしを信じる者は、」「決して渇くことがありません」とイエスは言われます(ヨハ ネ 6:35)。私たちは自分で救いを得ることができません。救いを受けるに値しないのです(ロ ーマ 4:4-5)。信仰を通しての恵みによってのみ(救われるの)です(エペソ 2:8-9)。それは無 償の贈り物です(ローマ 3:24)。もしそれ(救い)をすべてに優るものとして大切にするなら、私 たちのものになります(マタイ 13:44)。そうすると、私たちが主にあって永遠に満足するとき、 主は私たちのうちでご栄光を受けられる、という創造における神の目的が、達成されるので す。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''分かりますか?''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスにおいて、神が私たちのすべてであられるということに満足することからくる喜びが、 欲しいと思いますか?もしそうでしたら、あなたの人生に神は働きかけて下さっています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''何をしなければならないのでしょう?''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪の偽りの約束から離れてください。罪と罰と束縛から救われるよう、イエスを呼び求めてく ださい。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです(ローマ 10:13)。イエスに あって、神が私たちのすべてであられるという希望に頼りはじめてください。神のみ約束の、 何にも勝る満足感を信じることによって、罪の約束の力を断ち切ってください。あなたを自由 にしてくれる、主の尊い偉大な約束を見つけるため、聖書を読み始めてください(2 ペテロ 1:3-4)。聖書を信じる教会を探し出し、キリストを何にも勝る宝とする人々と一緒に礼拝し、 成長してください(ピリピ 3:7)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世で最も素晴らしい知らせは、私たちの幸せと神の聖さには何ら矛盾がない、というこ とです。神がイエスにあって私たちのすべてであられる、ということに満足することこそ、神 を最高の宝としてあがめることなのです。 「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あな &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''たの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇 16:11)'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kathyyee</name></author>	</entry>

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		<title>喜びを探し求めて</title>
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				<updated>2016-06-07T19:36:54Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kathyyee: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Quest for Joy}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神は私たちに「喜びなさい」とご命令になるのを、知っていますか?''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇 37:4)'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1)神は私たちをご自身の栄光のために造られた''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。･･･わたしの栄光'' のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ 43:6-7) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
望遠鏡が星を拡大するように、神は私たちがご自身の偉大さを拡大するよう、私たちを造ら れました。ご自身のいつくしみとまこと、美しさ、知恵、義を映し出すよう、私たちをお造りに なりました。神のご栄光をもっとも顕著に映し出すのは、神が私たちにとって神であられるこ とのすべてを心の底から喜ぶところから来ます。これはつまり、神が賛美をお受けになり、 私たちが喜びを得るということを意味します。私たちが神にあって最も満足するときに、主 が私たちのうちで最もあがめられるよう、神は私たちをお造りになったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) すべての人間は神のご栄光のために生きなければならない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現'' すためにしなさい。」(1 コリント 10:31) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私たちが神のご栄光のために造られたのなら、主のために生きなければならないのは 明らかです。私たちの義務は、主の目的からきます。　ですので私たちのまず第一の義務は、 神が私たちにとって神であられるそのすべてに満足することで、神のその御価値を見せる ことです。それが神を愛することの本質であり(マタイ 22:37)、主を信頼することであり(1 ヨハ ネ 5:3-4)、また主に感謝することです(詩篇 100:2-4)。それが特に他人を愛するという、真の 従順の根本です(コロサイ 1:4-5)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) 私たちのすべては神に栄光をお返ししていない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ 3:23)'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「神からの栄誉を受けることができず」とはどういう意味でしょうか? それは、私たちのうち誰 も神を信頼せず、大切にしていない、という意味です。誰も主の偉大さに満足し、主の道を 歩んでいません。私たちは他のものに満足を求め、それらを神より価値あるものとしていま す。そしてそれが、偶像礼拝の本質なのです(ローマ 1:21-23)。罪がこの世に入ってきて以 来、私たちのすべては、神をすべてを満たして下さる宝として受け入れることを、断固として 拒否し続けています(エペソ 2:3)。これは神の偉大さに対する最悪の侮辱です(エレミヤ 2:12-13)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4) 私たちのすべては、神の正しい有罪宣告の下にある''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「罪から来る報酬は死です。」(ローマ 6:23)'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちのすべてが神のご栄光を軽くあしらってきました。どのようにでしょうか?主よりも他の ものを好むことによってです。主に感謝せず、信頼せず、反抗することによってです。ですの &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
で神が、私たちを、ご自身の栄光を楽しむことのないよう、締め出されるのは当然です。「そ のような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受 けるのです」(2 テサロニケ 1:9)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「地獄｣と言う言葉は新約聖書では 14 回用いられています。そのうちの 12 回はイエスご自 身が用いておられます。この言葉は陰険で怒ってばかりいる説教家たちによって作り上げ られた、でっち上げではありません。これは、罪人を、その呪いから助け出すために死なれ た、神のみ子からの、厳粛な忠告なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし聖書が人間の現状を分析するところで終わっていたなら、私たちは絶望的将来に追い やられているでしょう。でも、聖書はここで終わりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5) 神は永遠のいのちと喜びを与えるため、ご自身のみ子イエスをお遣わしになった''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「『キリスト･イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そ'' のまま受け入れるに値するものです。」(1 テモテ 1:15) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
良い知らせは、キリストは私たちのような罪人のために死なれた、ということです。そして主 は、その死に救う力があることを立証するため、また永遠のいのちと喜びの扉を開くため、 死から物理的によみがえられました(1 コリント 15:20)。これは、神が、有罪の罪人を無罪で あると宣言してもなお、正しくあられることができる、ということを意味します。「キリストも一 度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、… 私たちを神のみもとに導くためでした。」(1 ペテロ 3:18)神のみもとへ帰ることにこそ、深く永 遠に続く満足があるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''6) キリストの死によって買い取られた恵みは、悔い改め、主に信頼する人々のもの''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に 立ち返りなさい。」(使徒 3:19) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒 16:31) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「悔い改める」というのは、罪の偽りの約束すべてから離れるという意味です。「信仰」とは、 イエスにあって、神が私たちにとってどのようなお方であられるか、という約束に、満足する ことです。「わたしを信じる者は、」「決して渇くことがありません」とイエスは言われます(ヨハ ネ 6:35)。私たちは自分で救いを得ることができません。救いを受けるに値しないのです(ロ ーマ 4:4-5)。信仰を通しての恵みによってのみ(救われるの)です(エペソ 2:8-9)。それは無 償の贈り物です(ローマ 3:24)。もしそれ(救い)をすべてに優るものとして大切にするなら、私 たちのものになります(マタイ 13:44)。そうすると、私たちが主にあって永遠に満足するとき、 主は私たちのうちでご栄光を受けられる、という創造における神の目的が、達成されるので す。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''分かりますか?''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスにおいて、神が私たちのすべてであられるということに満足することからくる喜びが、 欲しいと思いますか?もしそうでしたら、あなたの人生に神は働きかけて下さっています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''何をしなければならないのでしょう?''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪の偽りの約束から離れてください。罪と罰と束縛から救われるよう、イエスを呼び求めてく ださい。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです(ローマ 10:13)。イエスに あって、神が私たちのすべてであられるという希望に頼りはじめてください。神のみ約束の、 何にも勝る満足感を信じることによって、罪の約束の力を断ち切ってください。あなたを自由 にしてくれる、主の尊い偉大な約束を見つけるため、聖書を読み始めてください(2 ペテロ 1:3-4)。聖書を信じる教会を探し出し、キリストを何にも勝る宝とする人々と一緒に礼拝し、 成長してください(ピリピ 3:7)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世で最も素晴らしい知らせは、私たちの幸せと神の聖さには何ら矛盾がない、というこ とです。神がイエスにあって私たちのすべてであられる、ということに満足することこそ、神 を最高の宝としてあがめることなのです。 「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あな &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''たの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇 16:11)'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kathyyee</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E8%8B%A6%E3%81%BF%E5%96%9C%E3%81%B6%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E5%8F%AC%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B(%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1)%EF%BC%9A%E8%81%96%E3%81%95%E3%81%A8%E6%9C%9B%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81</id>
		<title>苦み喜ぶことに召されている(私たち)：聖さと望みのため</title>
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				<updated>2015-11-13T01:32:54Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kathyyee: ページの作成: {{info|Called to Suffer and Rejoice: For Holiness and Hope}}   DG translation here!!&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Called to Suffer and Rejoice: For Holiness and Hope}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
DG translation here!!&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kathyyee</name></author>	</entry>

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		<title>喜びを探し求めて</title>
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				<updated>2012-05-01T22:56:52Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kathyyee: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Quest for Joy}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神は私たちに「喜びなさい」とご命令になるのを、知っていますか?'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇 37:4)''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1)神は私たちをご自身の栄光のために造られた'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。･･･わたしの栄光&lt;br /&gt;
のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ 43:6-7)''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
望遠鏡が星を拡大するように、神は私たちがご自身の偉大さを拡大するよう、私たちを造ら&lt;br /&gt;
れました。ご自身のいつくしみとまこと、美しさ、知恵、義を映し出すよう、私たちをお造りに&lt;br /&gt;
なりました。神のご栄光をもっとも顕著に映し出すのは、神が私たちにとって神であられるこ&lt;br /&gt;
とのすべてを心の底から喜ぶところから来ます。これはつまり、神が賛美をお受けになり、&lt;br /&gt;
私たちが喜びを得るということを意味します。私たちが神にあって最も満足するときに、主&lt;br /&gt;
が私たちのうちで最もあがめられるよう、神は私たちをお造りになったのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) すべての人間は神のご栄光のために生きなければならない'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現&lt;br /&gt;
すためにしなさい。」(1 コリント 10:31)''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私たちが神のご栄光のために造られたのなら、主のために生きなければならないのは&lt;br /&gt;
明らかです。私たちの義務は、主の目的からきます。　ですので私たちのまず第一の義務は、&lt;br /&gt;
神が私たちにとって神であられるそのすべてに満足することで、神のその御価値を見せる&lt;br /&gt;
ことです。それが神を愛することの本質であり(マタイ 22:37)、主を信頼することであり(1 ヨハ&lt;br /&gt;
ネ 5:3-4)、また主に感謝することです(詩篇 100:2-4)。それが特に他人を愛するという、真の&lt;br /&gt;
従順の根本です(コロサイ 1:4-5)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) 私たちのすべては神に栄光をお返ししていない'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ 3:23)''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「神からの栄誉を受けることができず」とはどういう意味でしょうか? それは、私たちのうち誰&lt;br /&gt;
も神を信頼せず、大切にしていない、という意味です。誰も主の偉大さに満足し、主の道を&lt;br /&gt;
歩んでいません。私たちは他のものに満足を求め、それらを神より価値あるものとしていま&lt;br /&gt;
す。そしてそれが、偶像礼拝の本質なのです(ローマ 1:21-23)。罪がこの世に入ってきて以&lt;br /&gt;
来、私たちのすべては、神をすべてを満たして下さる宝として受け入れることを、断固として&lt;br /&gt;
拒否し続けています(エペソ 2:3)。これは神の偉大さに対する最悪の侮辱です(エレミヤ&lt;br /&gt;
2:12-13)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4) 私たちのすべては、神の正しい有罪宣告の下にある'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「罪から来る報酬は死です。」(ローマ 6:23)''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちのすべてが神のご栄光を軽くあしらってきました。どのようにでしょうか?主よりも他の&lt;br /&gt;
ものを好むことによってです。主に感謝せず、信頼せず、反抗することによってです。ですの&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
で神が、私たちを、ご自身の栄光を楽しむことのないよう、締め出されるのは当然です。「そ&lt;br /&gt;
のような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受&lt;br /&gt;
けるのです」(2 テサロニケ 1:9)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「地獄｣と言う言葉は新約聖書では 14 回用いられています。そのうちの 12 回はイエスご自&lt;br /&gt;
身が用いておられます。この言葉は陰険で怒ってばかりいる説教家たちによって作り上げ&lt;br /&gt;
られた、でっち上げではありません。これは、罪人を、その呪いから助け出すために死なれ&lt;br /&gt;
た、神のみ子からの、厳粛な忠告なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし聖書が人間の現状を分析するところで終わっていたなら、私たちは絶望的将来に追い&lt;br /&gt;
やられているでしょう。でも、聖書はここで終わりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5) 神は永遠のいのちと喜びを与えるため、ご自身のみ子イエスをお遣わしになった'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「『キリスト･イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そ&lt;br /&gt;
のまま受け入れるに値するものです。」(1 テモテ 1:15)''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
良い知らせは、キリストは私たちのような罪人のために死なれた、ということです。そして主&lt;br /&gt;
は、その死に救う力があることを立証するため、また永遠のいのちと喜びの扉を開くため、&lt;br /&gt;
死から物理的によみがえられました(1 コリント 15:20)。これは、神が、有罪の罪人を無罪で&lt;br /&gt;
あると宣言してもなお、正しくあられることができる、ということを意味します。「キリストも一&lt;br /&gt;
度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、…&lt;br /&gt;
私たちを神のみもとに導くためでした。」(1 ペテロ 3:18)神のみもとへ帰ることにこそ、深く永&lt;br /&gt;
遠に続く満足があるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''6) キリストの死によって買い取られた恵みは、悔い改め、主に信頼する人々のもの'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に&lt;br /&gt;
立ち返りなさい。」(使徒 3:19)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒 16:31)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「悔い改める」というのは、罪の偽りの約束すべてから離れるという意味です。「信仰」とは、&lt;br /&gt;
イエスにあって、神が私たちにとってどのようなお方であられるか、という約束に、満足する&lt;br /&gt;
ことです。「わたしを信じる者は、」「決して渇くことがありません」とイエスは言われます(ヨハ&lt;br /&gt;
ネ 6:35)。私たちは自分で救いを得ることができません。救いを受けるに値しないのです(ロ&lt;br /&gt;
ーマ 4:4-5)。信仰を通しての恵みによってのみ(救われるの)です(エペソ 2:8-9)。それは無&lt;br /&gt;
償の贈り物です(ローマ 3:24)。もしそれ(救い)をすべてに優るものとして大切にするなら、私&lt;br /&gt;
たちのものになります(マタイ 13:44)。そうすると、私たちが主にあって永遠に満足するとき、&lt;br /&gt;
主は私たちのうちでご栄光を受けられる、という創造における神の目的が、達成されるので&lt;br /&gt;
す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''分かりますか?'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスにおいて、神が私たちのすべてであられるということに満足することからくる喜びが、&lt;br /&gt;
欲しいと思いますか?もしそうでしたら、あなたの人生に神は働きかけて下さっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''何をしなければならないのでしょう?'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪の偽りの約束から離れてください。罪と罰と束縛から救われるよう、イエスを呼び求めてく&lt;br /&gt;
ださい。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです(ローマ 10:13)。イエスに&lt;br /&gt;
あって、神が私たちのすべてであられるという希望に頼りはじめてください。神のみ約束の、&lt;br /&gt;
何にも勝る満足感を信じることによって、罪の約束の力を断ち切ってください。あなたを自由&lt;br /&gt;
にしてくれる、主の尊い偉大な約束を見つけるため、聖書を読み始めてください(2 ペテロ&lt;br /&gt;
1:3-4)。聖書を信じる教会を探し出し、キリストを何にも勝る宝とする人々と一緒に礼拝し、&lt;br /&gt;
成長してください(ピリピ 3:7)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世で最も素晴らしい知らせは、私たちの幸せと神の聖さには何ら矛盾がない、というこ&lt;br /&gt;
とです。神がイエスにあって私たちのすべてであられる、ということに満足することこそ、神&lt;br /&gt;
を最高の宝としてあがめることなのです。&lt;br /&gt;
「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あな&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''たの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇 16:11)''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新約聖書で登場する「地獄」ということば&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばき&lt;br /&gt;
を受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』というような者は、最高議会に引き渡&lt;br /&gt;
されます。また、『ばか者』と言うような者は、燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ 5:22、&lt;br /&gt;
イエスのみことば)&lt;br /&gt;
「もし、右の目が、あなたをつまづかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの&lt;br /&gt;
一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。」(マタイ 5:29、イ&lt;br /&gt;
エスのみことば)&lt;br /&gt;
「もし、右の手があなたをつまづかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を&lt;br /&gt;
失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ 5:30、イエスのみこと&lt;br /&gt;
ば)&lt;br /&gt;
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、&lt;br /&gt;
たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ 10:28、イ&lt;br /&gt;
エスのみことば)&lt;br /&gt;
「また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てな&lt;br /&gt;
さい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、&lt;br /&gt;
あなたにとってよいことです。」(マタイ 18:9、イエスのみことば)&lt;br /&gt;
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と&lt;br /&gt;
陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。」(マ&lt;br /&gt;
タイ 23:15、イエスのみことば)&lt;br /&gt;
「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれるこ&lt;br /&gt;
とができよう。」(マタイ 23:33、イエスのみことば)&lt;br /&gt;
Page 4&lt;br /&gt;
「もし、あなたの手があなたのつまづきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに&lt;br /&gt;
入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよ&lt;br /&gt;
いことです。」(マルコ 9:43、イエスのみことば)&lt;br /&gt;
「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに&lt;br /&gt;
入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことで&lt;br /&gt;
す。」（マルコ 9:45、イエスのみことば）&lt;br /&gt;
「もし、あなたの目があなたのつまづきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目&lt;br /&gt;
で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとって&lt;br /&gt;
よいことです。」（マルコ 9:47、イエスのみことば）&lt;br /&gt;
「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投&lt;br /&gt;
げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を&lt;br /&gt;
恐れなさい。」（ルカ 12:5、イエスのみことば）&lt;br /&gt;
「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見え&lt;br /&gt;
た。しかも、そのふところにラザロが見えた。」（ルカ 16:23、イエスのみことば）&lt;br /&gt;
「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人&lt;br /&gt;
生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」（ヤコブ 3:6、ヤコブのことば）&lt;br /&gt;
「神は、罪を犯したみ使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴&lt;br /&gt;
の中に閉じ込めてしまわれました。」（2 ペテロ 2:4、ペテロのことば）&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kathyyee</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%96%9C%E3%81%B3%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%81%97%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%A6</id>
		<title>喜びを探し求めて</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%96%9C%E3%81%B3%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%81%97%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%A6"/>
				<updated>2012-05-01T22:54:39Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kathyyee: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Quest for Joy}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神は私たちに「喜びなさい」とご命令になるのを、知っていますか?'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇 37:4)''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1)神は私たちをご自身の栄光のために造られた'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。･･･わたしの栄光&lt;br /&gt;
のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ 43:6-7)''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
望遠鏡が星を拡大するように、神は私たちがご自身の偉大さを拡大するよう、私たちを造ら&lt;br /&gt;
れました。ご自身のいつくしみとまこと、美しさ、知恵、義を映し出すよう、私たちをお造りに&lt;br /&gt;
なりました。神のご栄光をもっとも顕著に映し出すのは、神が私たちにとって神であられるこ&lt;br /&gt;
とのすべてを心の底から喜ぶところから来ます。これはつまり、神が賛美をお受けになり、&lt;br /&gt;
私たちが喜びを得るということを意味します。私たちが神にあって最も満足するときに、主&lt;br /&gt;
が私たちのうちで最もあがめられるよう、神は私たちをお造りになったのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) すべての人間は神のご栄光のために生きなければならない'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現&lt;br /&gt;
すためにしなさい。」(1 コリント 10:31)''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私たちが神のご栄光のために造られたのなら、主のために生きなければならないのは&lt;br /&gt;
明らかです。私たちの義務は、主の目的からきます。　ですので私たちのまず第一の義務は、&lt;br /&gt;
神が私たちにとって神であられるそのすべてに満足することで、神のその御価値を見せる&lt;br /&gt;
ことです。それが神を愛することの本質であり(マタイ 22:37)、主を信頼することであり(1 ヨハ&lt;br /&gt;
ネ 5:3-4)、また主に感謝することです(詩篇 100:2-4)。それが特に他人を愛するという、真の&lt;br /&gt;
従順の根本です(コロサイ 1:4-5)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) 私たちのすべては神に栄光をお返ししていない'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ 3:23)''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「神からの栄誉を受けることができず」とはどういう意味でしょうか? それは、私たちのうち誰&lt;br /&gt;
も神を信頼せず、大切にしていない、という意味です。誰も主の偉大さに満足し、主の道を&lt;br /&gt;
歩んでいません。私たちは他のものに満足を求め、それらを神より価値あるものとしていま&lt;br /&gt;
す。そしてそれが、偶像礼拝の本質なのです(ローマ 1:21-23)。罪がこの世に入ってきて以&lt;br /&gt;
来、私たちのすべては、神をすべてを満たして下さる宝として受け入れることを、断固として&lt;br /&gt;
拒否し続けています(エペソ 2:3)。これは神の偉大さに対する最悪の侮辱です(エレミヤ&lt;br /&gt;
2:12-13)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4) 私たちのすべては、神の正しい有罪宣告の下にある'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「罪から来る報酬は死です。」(ローマ 6:23)''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちのすべてが神のご栄光を軽くあしらってきました。どのようにでしょうか?主よりも他の&lt;br /&gt;
ものを好むことによってです。主に感謝せず、信頼せず、反抗することによってです。ですの&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
で神が、私たちを、ご自身の栄光を楽しむことのないよう、締め出されるのは当然です。「そ&lt;br /&gt;
のような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受&lt;br /&gt;
けるのです」(2 テサロニケ 1:9)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「地獄｣と言う言葉は新約聖書では 14 回用いられています。そのうちの 12 回はイエスご自&lt;br /&gt;
身が用いておられます。この言葉は陰険で怒ってばかりいる説教家たちによって作り上げ&lt;br /&gt;
られた、でっち上げではありません。これは、罪人を、その呪いから助け出すために死なれ&lt;br /&gt;
た、神のみ子からの、厳粛な忠告なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし聖書が人間の現状を分析するところで終わっていたなら、私たちは絶望的将来に追い&lt;br /&gt;
やられているでしょう。でも、聖書はここで終わりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5) 神は永遠のいのちと喜びを与えるため、ご自身のみ子イエスをお遣わしになった'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「『キリスト･イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そ&lt;br /&gt;
のまま受け入れるに値するものです。」(1 テモテ 1:15)''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
良い知らせは、キリストは私たちのような罪人のために死なれた、ということです。そして主&lt;br /&gt;
は、その死に救う力があることを立証するため、また永遠のいのちと喜びの扉を開くため、&lt;br /&gt;
死から物理的によみがえられました(1 コリント 15:20)。これは、神が、有罪の罪人を無罪で&lt;br /&gt;
あると宣言してもなお、正しくあられることができる、ということを意味します。「キリストも一&lt;br /&gt;
度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、…&lt;br /&gt;
私たちを神のみもとに導くためでした。」(1 ペテロ 3:18)神のみもとへ帰ることにこそ、深く永&lt;br /&gt;
遠に続く満足があるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''6) キリストの死によって買い取られた恵みは、悔い改め、主に信頼する人々のもの'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に&lt;br /&gt;
立ち返りなさい。」(使徒 3:19)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒 16:31)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「悔い改める」というのは、罪の偽りの約束すべてから離れるという意味です。「信仰」とは、&lt;br /&gt;
イエスにあって、神が私たちにとってどのようなお方であられるか、という約束に、満足する&lt;br /&gt;
ことです。「わたしを信じる者は、」「決して渇くことがありません」とイエスは言われます(ヨハ&lt;br /&gt;
ネ 6:35)。私たちは自分で救いを得ることができません。救いを受けるに値しないのです(ロ&lt;br /&gt;
ーマ 4:4-5)。信仰を通しての恵みによってのみ(救われるの)です(エペソ 2:8-9)。それは無&lt;br /&gt;
償の贈り物です(ローマ 3:24)。もしそれ(救い)をすべてに優るものとして大切にするなら、私&lt;br /&gt;
たちのものになります(マタイ 13:44)。そうすると、私たちが主にあって永遠に満足するとき、&lt;br /&gt;
主は私たちのうちでご栄光を受けられる、という創造における神の目的が、達成されるので&lt;br /&gt;
す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''分かりますか?'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスにおいて、神が私たちのすべてであられるということに満足することからくる喜びが、&lt;br /&gt;
欲しいと思いますか?もしそうでしたら、あなたの人生に神は働きかけて下さっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何をしなければならないのでしょう?&lt;br /&gt;
Page 3&lt;br /&gt;
罪の偽りの約束から離れてください。罪と罰と束縛から救われるよう、イエスを呼び求めてく&lt;br /&gt;
ださい。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです(ローマ 10:13)。イエスに&lt;br /&gt;
あって、神が私たちのすべてであられるという希望に頼りはじめてください。神のみ約束の、&lt;br /&gt;
何にも勝る満足感を信じることによって、罪の約束の力を断ち切ってください。あなたを自由&lt;br /&gt;
にしてくれる、主の尊い偉大な約束を見つけるため、聖書を読み始めてください(2 ペテロ&lt;br /&gt;
1:3-4)。聖書を信じる教会を探し出し、キリストを何にも勝る宝とする人々と一緒に礼拝し、&lt;br /&gt;
成長してください(ピリピ 3:7)。&lt;br /&gt;
この世で最も素晴らしい知らせは、私たちの幸せと神の聖さには何ら矛盾がない、というこ&lt;br /&gt;
とです。神がイエスにあって私たちのすべてであられる、ということに満足することこそ、神&lt;br /&gt;
を最高の宝としてあがめることなのです。&lt;br /&gt;
「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あな&lt;br /&gt;
たの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇 16:11)&lt;br /&gt;
新約聖書で登場する「地獄」ということば&lt;br /&gt;
「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばき&lt;br /&gt;
を受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』というような者は、最高議会に引き渡&lt;br /&gt;
されます。また、『ばか者』と言うような者は、燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ 5:22、&lt;br /&gt;
イエスのみことば)&lt;br /&gt;
「もし、右の目が、あなたをつまづかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの&lt;br /&gt;
一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。」(マタイ 5:29、イ&lt;br /&gt;
エスのみことば)&lt;br /&gt;
「もし、右の手があなたをつまづかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を&lt;br /&gt;
失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ 5:30、イエスのみこと&lt;br /&gt;
ば)&lt;br /&gt;
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、&lt;br /&gt;
たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ 10:28、イ&lt;br /&gt;
エスのみことば)&lt;br /&gt;
「また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てな&lt;br /&gt;
さい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、&lt;br /&gt;
あなたにとってよいことです。」(マタイ 18:9、イエスのみことば)&lt;br /&gt;
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と&lt;br /&gt;
陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。」(マ&lt;br /&gt;
タイ 23:15、イエスのみことば)&lt;br /&gt;
「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれるこ&lt;br /&gt;
とができよう。」(マタイ 23:33、イエスのみことば)&lt;br /&gt;
Page 4&lt;br /&gt;
「もし、あなたの手があなたのつまづきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに&lt;br /&gt;
入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよ&lt;br /&gt;
いことです。」(マルコ 9:43、イエスのみことば)&lt;br /&gt;
「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに&lt;br /&gt;
入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことで&lt;br /&gt;
す。」（マルコ 9:45、イエスのみことば）&lt;br /&gt;
「もし、あなたの目があなたのつまづきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目&lt;br /&gt;
で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとって&lt;br /&gt;
よいことです。」（マルコ 9:47、イエスのみことば）&lt;br /&gt;
「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投&lt;br /&gt;
げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を&lt;br /&gt;
恐れなさい。」（ルカ 12:5、イエスのみことば）&lt;br /&gt;
「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見え&lt;br /&gt;
た。しかも、そのふところにラザロが見えた。」（ルカ 16:23、イエスのみことば）&lt;br /&gt;
「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人&lt;br /&gt;
生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」（ヤコブ 3:6、ヤコブのことば）&lt;br /&gt;
「神は、罪を犯したみ使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴&lt;br /&gt;
の中に閉じ込めてしまわれました。」（2 ペテロ 2:4、ペテロのことば）&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kathyyee</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%96%9C%E3%81%B3%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%81%97%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%A6</id>
		<title>喜びを探し求めて</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%96%9C%E3%81%B3%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%81%97%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%A6"/>
				<updated>2012-05-01T22:50:30Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kathyyee: ページの作成: {{info|Quest for Joy}}  '''神は私たちに「喜びなさい」とご命令になるのを、知っていますか?'''  ''「主をおのれの喜びとせよ。主はあな...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Quest for Joy}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神は私たちに「喜びなさい」とご命令になるのを、知っていますか?'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇 37:4)''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1)神は私たちをご自身の栄光のために造られた'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。･･･わたしの栄光&lt;br /&gt;
のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ 43:6-7)''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
望遠鏡が星を拡大するように、神は私たちがご自身の偉大さを拡大するよう、私たちを造ら&lt;br /&gt;
れました。ご自身のいつくしみとまこと、美しさ、知恵、義を映し出すよう、私たちをお造りに&lt;br /&gt;
なりました。神のご栄光をもっとも顕著に映し出すのは、神が私たちにとって神であられるこ&lt;br /&gt;
とのすべてを心の底から喜ぶところから来ます。これはつまり、神が賛美をお受けになり、&lt;br /&gt;
私たちが喜びを得るということを意味します。私たちが神にあって最も満足するときに、主&lt;br /&gt;
が私たちのうちで最もあがめられるよう、神は私たちをお造りになったのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2) すべての人間は神のご栄光のために生きなければならない&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現&lt;br /&gt;
すためにしなさい。」(1 コリント 10:31)&lt;br /&gt;
もし私たちが神のご栄光のために造られたのなら、主のために生きなければならないのは&lt;br /&gt;
明らかです。私たちの義務は、主の目的からきます。　ですので私たちのまず第一の義務は、&lt;br /&gt;
神が私たちにとって神であられるそのすべてに満足することで、神のその御価値を見せる&lt;br /&gt;
ことです。それが神を愛することの本質であり(マタイ 22:37)、主を信頼することであり(1 ヨハ&lt;br /&gt;
ネ 5:3-4)、また主に感謝することです(詩篇 100:2-4)。それが特に他人を愛するという、真の&lt;br /&gt;
従順の根本です(コロサイ 1:4-5)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3) 私たちのすべては神に栄光をお返ししていない&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ 3:23)&lt;br /&gt;
「神からの栄誉を受けることができず」とはどういう意味でしょうか? それは、私たちのうち誰&lt;br /&gt;
も神を信頼せず、大切にしていない、という意味です。誰も主の偉大さに満足し、主の道を&lt;br /&gt;
歩んでいません。私たちは他のものに満足を求め、それらを神より価値あるものとしていま&lt;br /&gt;
す。そしてそれが、偶像礼拝の本質なのです(ローマ 1:21-23)。罪がこの世に入ってきて以&lt;br /&gt;
来、私たちのすべては、神をすべてを満たして下さる宝として受け入れることを、断固として&lt;br /&gt;
拒否し続けています(エペソ 2:3)。これは神の偉大さに対する最悪の侮辱です(エレミヤ&lt;br /&gt;
2:12-13)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4) 私たちのすべては、神の正しい有罪宣告の下にある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「罪から来る報酬は死です。」(ローマ 6:23)&lt;br /&gt;
私たちのすべてが神のご栄光を軽くあしらってきました。どのようにでしょうか?主よりも他の&lt;br /&gt;
ものを好むことによってです。主に感謝せず、信頼せず、反抗することによってです。ですの&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
で神が、私たちを、ご自身の栄光を楽しむことのないよう、締め出されるのは当然です。「そ&lt;br /&gt;
のような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受&lt;br /&gt;
けるのです」(2 テサロニケ 1:9)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「地獄｣と言う言葉は新約聖書では 14 回用いられています。そのうちの 12 回はイエスご自&lt;br /&gt;
身が用いておられます。この言葉は陰険で怒ってばかりいる説教家たちによって作り上げ&lt;br /&gt;
られた、でっち上げではありません。これは、罪人を、その呪いから助け出すために死なれ&lt;br /&gt;
た、神のみ子からの、厳粛な忠告なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし聖書が人間の現状を分析するところで終わっていたなら、私たちは絶望的将来に追い&lt;br /&gt;
やられているでしょう。でも、聖書はここで終わりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5) 神は永遠のいのちと喜びを与えるため、ご自身のみ子イエスをお遣わしになった&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「『キリスト･イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そ&lt;br /&gt;
のまま受け入れるに値するものです。」(1 テモテ 1:15)&lt;br /&gt;
良い知らせは、キリストは私たちのような罪人のために死なれた、ということです。そして主&lt;br /&gt;
は、その死に救う力があることを立証するため、また永遠のいのちと喜びの扉を開くため、&lt;br /&gt;
死から物理的によみがえられました(1 コリント 15:20)。これは、神が、有罪の罪人を無罪で&lt;br /&gt;
あると宣言してもなお、正しくあられることができる、ということを意味します。「キリストも一&lt;br /&gt;
度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、…&lt;br /&gt;
私たちを神のみもとに導くためでした。」(1 ペテロ 3:18)神のみもとへ帰ることにこそ、深く永&lt;br /&gt;
遠に続く満足があるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6) キリストの死によって買い取られた恵みは、悔い改め、主に信頼する人々のもの&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に&lt;br /&gt;
立ち返りなさい。」(使徒 3:19)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒 16:31)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「悔い改める」というのは、罪の偽りの約束すべてから離れるという意味です。「信仰」とは、&lt;br /&gt;
イエスにあって、神が私たちにとってどのようなお方であられるか、という約束に、満足する&lt;br /&gt;
ことです。「わたしを信じる者は、」「決して渇くことがありません」とイエスは言われます(ヨハ&lt;br /&gt;
ネ 6:35)。私たちは自分で救いを得ることができません。救いを受けるに値しないのです(ロ&lt;br /&gt;
ーマ 4:4-5)。信仰を通しての恵みによってのみ(救われるの)です(エペソ 2:8-9)。それは無&lt;br /&gt;
償の贈り物です(ローマ 3:24)。もしそれ(救い)をすべてに優るものとして大切にするなら、私&lt;br /&gt;
たちのものになります(マタイ 13:44)。そうすると、私たちが主にあって永遠に満足するとき、&lt;br /&gt;
主は私たちのうちでご栄光を受けられる、という創造における神の目的が、達成されるので&lt;br /&gt;
す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
分かりますか?&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスにおいて、神が私たちのすべてであられるということに満足することからくる喜びが、&lt;br /&gt;
欲しいと思いますか?もしそうでしたら、あなたの人生に神は働きかけて下さっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何をしなければならないのでしょう?&lt;br /&gt;
Page 3&lt;br /&gt;
罪の偽りの約束から離れてください。罪と罰と束縛から救われるよう、イエスを呼び求めてく&lt;br /&gt;
ださい。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです(ローマ 10:13)。イエスに&lt;br /&gt;
あって、神が私たちのすべてであられるという希望に頼りはじめてください。神のみ約束の、&lt;br /&gt;
何にも勝る満足感を信じることによって、罪の約束の力を断ち切ってください。あなたを自由&lt;br /&gt;
にしてくれる、主の尊い偉大な約束を見つけるため、聖書を読み始めてください(2 ペテロ&lt;br /&gt;
1:3-4)。聖書を信じる教会を探し出し、キリストを何にも勝る宝とする人々と一緒に礼拝し、&lt;br /&gt;
成長してください(ピリピ 3:7)。&lt;br /&gt;
この世で最も素晴らしい知らせは、私たちの幸せと神の聖さには何ら矛盾がない、というこ&lt;br /&gt;
とです。神がイエスにあって私たちのすべてであられる、ということに満足することこそ、神&lt;br /&gt;
を最高の宝としてあがめることなのです。&lt;br /&gt;
「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あな&lt;br /&gt;
たの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇 16:11)&lt;br /&gt;
新約聖書で登場する「地獄」ということば&lt;br /&gt;
「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばき&lt;br /&gt;
を受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』というような者は、最高議会に引き渡&lt;br /&gt;
されます。また、『ばか者』と言うような者は、燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ 5:22、&lt;br /&gt;
イエスのみことば)&lt;br /&gt;
「もし、右の目が、あなたをつまづかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの&lt;br /&gt;
一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。」(マタイ 5:29、イ&lt;br /&gt;
エスのみことば)&lt;br /&gt;
「もし、右の手があなたをつまづかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を&lt;br /&gt;
失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ 5:30、イエスのみこと&lt;br /&gt;
ば)&lt;br /&gt;
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、&lt;br /&gt;
たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ 10:28、イ&lt;br /&gt;
エスのみことば)&lt;br /&gt;
「また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てな&lt;br /&gt;
さい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、&lt;br /&gt;
あなたにとってよいことです。」(マタイ 18:9、イエスのみことば)&lt;br /&gt;
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と&lt;br /&gt;
陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。」(マ&lt;br /&gt;
タイ 23:15、イエスのみことば)&lt;br /&gt;
「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれるこ&lt;br /&gt;
とができよう。」(マタイ 23:33、イエスのみことば)&lt;br /&gt;
Page 4&lt;br /&gt;
「もし、あなたの手があなたのつまづきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに&lt;br /&gt;
入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよ&lt;br /&gt;
いことです。」(マルコ 9:43、イエスのみことば)&lt;br /&gt;
「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに&lt;br /&gt;
入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことで&lt;br /&gt;
す。」（マルコ 9:45、イエスのみことば）&lt;br /&gt;
「もし、あなたの目があなたのつまづきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目&lt;br /&gt;
で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとって&lt;br /&gt;
よいことです。」（マルコ 9:47、イエスのみことば）&lt;br /&gt;
「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投&lt;br /&gt;
げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を&lt;br /&gt;
恐れなさい。」（ルカ 12:5、イエスのみことば）&lt;br /&gt;
「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見え&lt;br /&gt;
た。しかも、そのふところにラザロが見えた。」（ルカ 16:23、イエスのみことば）&lt;br /&gt;
「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人&lt;br /&gt;
生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」（ヤコブ 3:6、ヤコブのことば）&lt;br /&gt;
「神は、罪を犯したみ使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴&lt;br /&gt;
の中に閉じ込めてしまわれました。」（2 ペテロ 2:4、ペテロのことば）&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kathyyee</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E6%99%82%E9%96%93%E3%82%92%E9%81%8E%E3%81%94%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%8D%E3%81%8B%3F</id>
		<title>どのように時間を過ごすべきか?</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E6%99%82%E9%96%93%E3%82%92%E9%81%8E%E3%81%94%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%8D%E3%81%8B%3F"/>
				<updated>2011-04-07T01:50:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kathyyee: ページの作成: {{info|How should I spend my time?}}   ''以下は、音声から書き起こされ、編集されたものです。''   &amp;lt;br&amp;gt; '''どのように時間を過ごすべきか？'''&amp;amp;...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|How should I spend my time?}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''以下は、音声から書き起こされ、編集されたものです。'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; '''どのように時間を過ごすべきか？'''&amp;amp;nbsp;&amp;amp;nbsp; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
わたしの時間の使い方――自分が望んでいるほど上手ではありませんが、わたしが知っている唯一の聖書的な時間の使い方――は、ローマ人への手紙12章2節にあることを経験することです。今日、この午後、何かを優先し、選び取る際に、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か……をわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」。 &amp;amp;nbsp; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日決めなければならないことを前にして、どのようにすれば、神の御心は何か、つまり、何がよいことで、神に受け入れられ、完全であるのか、が分かるのでしょうか？聖書による答えは、「心を新たにしなさい」というものです。 &amp;amp;nbsp; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どのような行為がおおよそ神に受け入れられ、受け入れられないのか、といったことを見分けるために、御言葉と祈りに専心するのではなく、物事に対して、キリストが行われるように考え、感じる心を手に入れるために、御言葉と祈りに専心するのです。そうすれば、電話が鳴ったり、どこかへ行く機会が生じたり、これかあれかを選ばなければならないとき、どのようにすればキリストが強調されるか、信仰が打ち立てられるか、人々が愛されるか、を見分ける心のようなものがあるはずです。 &amp;amp;nbsp; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
面白いのは、神聖さとか愛といった場合に、正式な神学のように説明することはほとんどできないけれども、非常にうまく見分けることができる人々がいるということです。そういった人々は、瞬間的に、またたく間に、どのような言葉が最も効果的で、どのような行動が最も適切であるか、を見極めることができるようです。そして、「どうしてそんなことをしたの？」と尋ねたとしても、そういった人たちは分かりやすく説明することはできないでしょう。彼らはすぐに分かったのであり、霊的な直観であって、やっていいことと悪いことのリストを検討したわけではありません。 &amp;amp;nbsp; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、これこそがわたしたちが望んでいるものです。朝起きて、御言葉に親しみ、祈ったうえで、心を新たにしたいものです。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kathyyee</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%81%AB%E9%9A%9B%E3%81%97%E3%81%A6%E3%80%81%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%82%92%E4%BF%9D%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%8B%3F</id>
		<title>危機に際して、どのようにすれば信仰を保てるか?</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%81%AB%E9%9A%9B%E3%81%97%E3%81%A6%E3%80%81%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%82%92%E4%BF%9D%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%8B%3F"/>
				<updated>2011-04-05T12:56:33Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kathyyee: ページの作成: {{info|How can I have faith in times of crisis?}}   ''以下は、音声から書き起こされ、編集されたものです。''   '''危機に際して、どのようにす...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|How can I have faith in times of crisis?}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''以下は、音声から書き起こされ、編集されたものです。'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''危機に際して、どのようにすれば信仰を保てるか？''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
危機にないとき、神への信頼を養い、育てなければなりません。危機が訪れるのを待っていては、信仰を保ち続けるのに必要な力や深さは身につかないでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日々、神の愛と力に深い信頼を寄せるようにしましょう。着実に成長するよう、毎日キリストと交わるようにしましょう。危機が訪れても、恵みにしっかりと根づき、根が強くなるよう、成長しましょう。そうすれば、危機が訪れると非常に多くのクリスチャンが陥るほど、くじけることはないでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
順調なときには、眠くなり、霊的なことに無関心になります。危機が訪れても、信仰があれば大丈夫なような気がしますが、実はそうではありません。このため、非常に多くのクリスチャンが、危機のただ中にあっても、深く静かに信頼して、主にゆだねることをせず、神の御前でこぶしを振りかざし、「あなたはどこにいるのか？」と嘆くのです。こういった人たちは、神が、順調なときにも困難なときにも、支配しておられ、愛し、気遣っておられることを知らないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書では一貫して、神が善も悪も支配しておられる、と述べられていることを踏まえ、信仰を育てていかなければなりません。そうすれば、よいときも悪いときも、神への信頼は揺らがないのです。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kathyyee</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%BE%8A%E3%81%AE%E8%A1%80</id>
		<title>小羊の血</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%BE%8A%E3%81%AE%E8%A1%80"/>
				<updated>2011-03-25T03:08:47Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kathyyee: 「小羊の血」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Blood of the Lamb}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とヘブル人への手紙に書かれています（９章２２節）。この手紙の大部分は、特に古代イスラエルの生け贄の方式について、キリストがどのようにして旧約聖書の希望や切望を満たしたかを説明しています。しかし、生け贄を一度も見たことがなくて旧約聖書に関してあまり考えない現代の読者にとって、これはダブルダッチ&amp;lt;ref&amp;gt;  ダブルダッチは縄跳びの種目の一種で、２本の縄を内側に回す人２名と跳ぶ人１〜２名で楽しむチームスポーツです。ここでは、「全く理解が不可能」という意味で使われています。&amp;lt;/ref&amp;gt; です。動物を殺すことと罪の赦しにはどのような関係があるのでしょうか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのことについてはレビ記によく説明されています。レビ記の始めの長い箇所は様々な生け贄をどのようにして捧げたらよいのか、また、それぞれ違った生け贄が一つ一つ何を達成するのかを説明しています。しかし、私たちがレビ記と生け贄の基本的な概念を理解するためにはもっと始めから説明する必要があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
創世記１８章に三人の男がある日アブラハムを訪れたことが書かれています。アブラハムは彼らが誰であるかまるで知りませんでしたが、非常に手厚い人だったので、彼らのために立派な祝宴を用意しました。彼の妻のサラは焼きたてのパンをたくさん作り、アブラハムは使用人が客のために殺して料理した柔らかくて若い子牛をあげました。来客にワインが出されたかどうかは書かれていませんが、もしワインがあったならば重要な客には間違いなく出されたでしょう。その後、アブラハムは彼の客が誰であるかを発見しました。主と二人の天使だったのです！ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この逸話は生け贄とは考えられませんが、生け贄の基本的な仕組みを理解することができます。生け贄では神が最も重要な客です。肉、パン、それとワインなど、特別な時だけに出される物を捧げることによって、神のいることが敬われるのです。旧約聖書の時代では肉を食べることは稀な贅沢でしたし、ワインも特別な機会のために取っておいたことは間違いないでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古代イスラエルの隣国の人々は生け贄を神&amp;lt;ref&amp;gt;  原文には複数形の “gods” が使われていて、聖書の神とは違う偽神を示しています。&amp;lt;/ref&amp;gt; の食事とみなしていましたが、旧約聖書はこの考えを憤然として拒絶しています。食物を人類に与えるのは神であって（創世記１章２９節）、その逆ではありません。詩篇５０章１０と１２節にそのことがよく書かれています。「森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では幕屋の前や後の神殿の境内でした大きな祭りの目的は何だったのでしょう？聖書の中にある最初の生け贄はカインとアベルが捧げたものです。これらについてはアダムとエバが、そよ風の吹く所を神と共に歩くのを楽しんでいたエデンの園から追放された直後に言及されています。園から出されて、彼らは神との親密さの特権を奪われました。ですからこの話によって示される生け贄の一つの動機は、生け贄が人の神との交わりを回復させてくれるということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしそれは正しい精神で捧げなければいけません。カインは地の産物のいくらかだけを捧げましたが、アベルは「彼の羊の初子の中から、それも最良のものを持って来た」（創世記４章４節）、すなわち、最も大切な動物の一番良いところを捧げたのです。神は前者ではなく、後者を受け入れました。ここで生け贄の最も重要な特徴の一つが分かります：生け贄に使われる動物は老いぼれて衰弱しているものではなく、若くて健康なものでなくてはならないのです。過越の羊は一歳で傷がまったくないものでなくてはいけませんでした。レビ記の生け贄に関するおきては、使われる動物は「傷なし」でなくてはいけないと繰り返して言っています。カインとアベルの話はこれを無視するとどうなるかを示しています。「それらは受け入れられない。」（レビ記２２章２５節；また、１９章７節；２２章２０節） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堕落の後、世界は特に殺人と暴虐などの罪に雪崩のように飲み込まれてしまいました。神は人間には罪が組み込まれていると悲しみを訴えています。「人の心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」（ 創世記６章５節）「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」（ 創世記６章１１節）それで神は、罪深い人類を全滅させ、その時代で唯一正しく非の打ちどころがない人だったノア（６章９節）と新たに始めるために洪水を送りました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ノアがいずれ箱船から出てきた時、彼の最初の行為は、聖餐台を建てて生け贄を捧げることでした。これはただ自分が破滅から救われた感謝を示す行為だと思うかもしれませんが、本文は、それよりもっと達したことを示しています。「主は、そのなだめの香りをかがれ、心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはしない。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」（８章２１節）言い換えると、人間の邪悪な人格は変えられてはいませんが、神の、人間の罪への態度が変わったということです。神が洪水によって世界を罰することは二度とありません。なぜでしょう？それはノアが捧げた生け贄の良い香りのためです。（８章２１節）創世記８章に書かれてある生け贄はこのようにして、神の人間の罪に対する怒りをなだめるのです。動物の生け贄が神に良い香りを出すことは、レビ記の１章から７章に頻繁に書かれています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし 動物の生け贄はなぜ神の怒りをなだめるのに効果的なのでしょう？アブラハムがイサクを捧げる話がこれについて少し理解させてくれます。創世記２２章に、神が、アブラハムに彼の最も重要な物、すなわち、彼の一人息子のイサクを生け贄として捧げるのを要求することによって、神がどのようにしてアブラハムを試したかが書かれています。アブラハムは試されていることは知りませんでした。彼にとっては、それは致命的&amp;lt;ref&amp;gt;  これは原文の直訳で、日本語で言うと「正に真剣だった」という意味になります。&amp;lt;/ref&amp;gt; に本気でした。ですから、 ちょうどアブラハムがイサクののどを切ろうとしていたとき、土壇場で主の天使は彼に止めるように言いました。「あなたが神を恐れることがよくわかった。」（２２章１２節）次にアブラハムは、見上げて雄羊をみつけ、それをイサクのかわりに捧げました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話は、もし誰かが神に完全に従う気があるなら、神は礼拝者の代わりに動物を受け入れるということを示しています。イサクはアブラハムの未来でした。そしてアブラハムは彼を神に捧げても構わないと思っていました。しかし神は 雄羊で満足しました。ここでは、代理的な贖いの教義が例証されています。それについて、レビ記のおきてには、あらゆる生け贄の基本的な特徴が礼拝者の手を動物の頭に置くことであると、さらに明解になっています。この行為は、動物が礼拝者の代理をしているということを表します。礼拝者は 、動物との一体感をもつことによって、自分を完全に神に捧げているのです。動物は礼拝者の代わりに死ぬのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レビ記の１章から７章には４つの異なった種類の生け贄について書かれています。これらの章が強調していることは、いくつも違う種類の生け贄をどのようにして行うかということです。我々はここで、一種類の生け贄を別のものと区別する特徴に焦点を合わせなければなりません。全焼の生け贄（レビ記１章）は、動物全体が祭壇の上で焼かれたという唯一の生け贄で、独特なものでした。これは、礼拝者が自分を完全に神の使いに捧げるということを表現していました。同時にそれは、礼拝者のための贖いをしていたのです。「贖いをしなさい」という表現は、より正確には「身代金を払いなさい」という意味です。これは、おきての他の箇所に使われている表現で、そうしなければ死刑に直面するかもしれない犯罪者が損害を賠償して放免された時に使われています（例えば、出エジプト記２１章３０節）。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
和解の生け贄（レビ記３章）は、動物を寄贈した礼拝者が肉の分け前をもらうという（普段は祭司だけが肉を食べました。）唯一の捧げものだったので、旧約聖書の生け贄の中でたぶん最も一般的だったでしょう。和解の生け贄を神に対する感謝の行為として自発的に捧げることはできましたが、神に自分のために何かをしてくれるよう頼む誓いをした時、またはその願いに答えて下さった時に捧げてもよかったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪のための生け贄（レビ記４章）は、動物の血を幕屋か宮の中の祭壇に塗り付けるという独特なものでした。この血は幕屋を罪の汚染から洗い清めてくれました。罪は、ただ誰かを神の前に有罪として神を怒らせるだけではなくて、場所や人々をきたなくして、その結果神が住むのに適さなくします。祭壇に血を塗り付けたり、宮の内部に血をまくことによって、これらの物は汚染から洗い清められたのです。同時に、悪行で汚染を引き起こした罪人は、罪を赦されてその汚染から清められました。この浄化で神が宮に再入して信者と宿ることが可能になりました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪過のための生け贄（レビ記５章１４節—６章７節）は、ある行為が私たちを神の負債に入れるという考えを表していました。これらの罪は高価な雄羊を捧げることでしか贖いはできませんでした。レビ記には比較的簡潔に書かれていますが、この生け贄は、苦しみのしもべが私たちの罪のために苦しむ（５節−６節）罪過の生け贄とよばれている（１０節；ESV の「罪の捧げもの」も見て下さい。）イザヤ書５３章ではとても重要です。本章がキリストの贖いの役割を最も完全に説明しているので、新約聖書のキリストの死に関する理解の中心です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生け贄のイメージ は新約聖書の十字架の解釈に浸透しています。バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」（ヨハネ１章２９節）と言ったとき、キリストを完璧な過越の小羊と見ていたのでしょう。 またパウロも「過越の小羊キリスト」（第一コリント５章７節）と言って、そのイメージを使っています。キリストはまた、ヨハネ３章１６節やローマ人８章３２節などよく知られている箇所に暗示されている、イサクより優れた生け贄という考えで、最高な全焼の生け贄だと見なされています：「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」マルコ１０章４５節は人の子が「多くの人のための 贖いの代価」として自分の命を与えた究極のしもべと表しています。第一ヨハネ１章７節は「御子イエスの血はすべての罪から私たちを清めます」と言って、　罪過の生け贄のイメージを使っています。ヘブル人への手紙では、イエスが旧約聖書の生け贄の方式が暗示したすべての目的を自分の死を通して達成した最高の大祭司です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、私たちはキリストの死はクリスチャンの生け贄の方式の重要性を消耗していないということを注意するべきです。私たちも、キリストの足跡をたどって、彼の苦しみを共有すると思われています。（第一ペトロ２章２１−２４節）また私たちは「私たちの体を生きた供え物としてささげなさい」と励まされています。彼自身の死を予期して、パウロはそれを、あらゆる生け贄と祭壇の上に注がれたワインのように注ぎの供え物になることと比較しました。このように、古い礼拝の方法は、今、まだ私たちの奉納を呼び起こすべきです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Notes''' &amp;lt;references /&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kathyyee</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%BE%8A%E3%81%AE%E8%A1%80</id>
		<title>小羊の血</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%BE%8A%E3%81%AE%E8%A1%80"/>
				<updated>2011-03-25T03:08:12Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kathyyee: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Blood of the Lamb}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とヘブル人への手紙に書かれています（９章２２節）。この手紙の大部分は、特に古代イスラエルの生け贄の方式について、キリストがどのようにして旧約聖書の希望や切望を満たしたかを説明しています。しかし、生け贄を一度も見たことがなくて旧約聖書に関してあまり考えない現代の読者にとって、これはダブルダッチ&amp;lt;ref&amp;gt;  ダブルダッチは縄跳びの種目の一種で、２本の縄を内側に回す人２名と跳ぶ人１〜２名で楽しむチームスポーツです。ここでは、「全く理解が不可能」という意味で使われています。&amp;lt;/ref&amp;gt; です。動物を殺すことと罪の赦しにはどのような関係があるのでしょうか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのことについてはレビ記によく説明されています。レビ記の始めの長い箇所は様々な生け贄をどのようにして捧げたらよいのか、また、それぞれ違った生け贄が一つ一つ何を達成するのかを説明しています。しかし、私たちがレビ記と生け贄の基本的な概念を理解するためにはもっと始めから説明する必要があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
創世記１８章に三人の男がある日アブラハムを訪れたことが書かれています。アブラハムは彼らが誰であるかまるで知りませんでしたが、非常に手厚い人だったので、彼らのために立派な祝宴を用意しました。彼の妻のサラは焼きたてのパンをたくさん作り、アブラハムは使用人が客のために殺して料理した柔らかくて若い子牛をあげました。来客にワインが出されたかどうかは書かれていませんが、もしワインがあったならば重要な客には間違いなく出されたでしょう。その後、アブラハムは彼の客が誰であるかを発見しました。主と二人の天使だったのです！ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この逸話は生け贄とは考えられませんが、生け贄の基本的な仕組みを理解することができます。生け贄では神が最も重要な客です。肉、パン、それとワインなど、特別な時だけに出される物を捧げることによって、神のいることが敬われるのです。旧約聖書の時代では肉を食べることは稀な贅沢でしたし、ワインも特別な機会のために取っておいたことは間違いないでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古代イスラエルの隣国の人々は生け贄を神&amp;lt;ref&amp;gt;  原文には複数形の “gods” が使われていて、聖書の神とは違う偽神を示しています。&amp;lt;/ref&amp;gt; の食事とみなしていましたが、旧約聖書はこの考えを憤然として拒絶しています。食物を人類に与えるのは神であって（創世記１章２９節）、その逆ではありません。詩篇５０章１０と１２節にそのことがよく書かれています。「森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では幕屋の前や後の神殿の境内でした大きな祭りの目的は何だったのでしょう？聖書の中にある最初の生け贄はカインとアベルが捧げたものです。これらについてはアダムとエバが、そよ風の吹く所を神と共に歩くのを楽しんでいたエデンの園から追放された直後に言及されています。園から出されて、彼らは神との親密さの特権を奪われました。ですからこの話によって示される生け贄の一つの動機は、生け贄が人の神との交わりを回復させてくれるということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしそれは正しい精神で捧げなければいけません。カインは地の産物のいくらかだけを捧げましたが、アベルは「彼の羊の初子の中から、それも最良のものを持って来た」（創世記４章４節）、すなわち、最も大切な動物の一番良いところを捧げたのです。神は前者ではなく、後者を受け入れました。ここで生け贄の最も重要な特徴の一つが分かります：生け贄に使われる動物は老いぼれて衰弱しているものではなく、若くて健康なものでなくてはならないのです。過越の羊は一歳で傷がまったくないものでなくてはいけませんでした。レビ記の生け贄に関するおきては、使われる動物は「傷なし」でなくてはいけないと繰り返して言っています。カインとアベルの話はこれを無視するとどうなるかを示しています。「それらは受け入れられない。」（レビ記２２章２５節；また、１９章７節；２２章２０節） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堕落の後、世界は特に殺人と暴虐などの罪に雪崩のように飲み込まれてしまいました。神は人間には罪が組み込まれていると悲しみを訴えています。「人の心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」（ 創世記６章５節）「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」（ 創世記６章１１節）それで神は、罪深い人類を全滅させ、その時代で唯一正しく非の打ちどころがない人だったノア（６章９節）と新たに始めるために洪水を送りました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ノアがいずれ箱船から出てきた時、彼の最初の行為は、聖餐台を建てて生け贄を捧げることでした。これはただ自分が破滅から救われた感謝を示す行為だと思うかもしれませんが、本文は、それよりもっと達したことを示しています。「主は、そのなだめの香りをかがれ、心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはしない。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」（８章２１節）言い換えると、人間の邪悪な人格は変えられてはいませんが、神の、人間の罪への態度が変わったということです。神が洪水によって世界を罰することは二度とありません。なぜでしょう？それはノアが捧げた生け贄の良い香りのためです。（８章２１節）創世記８章に書かれてある生け贄はこのようにして、神の人間の罪に対する怒りをなだめるのです。動物の生け贄が神に良い香りを出すことは、レビ記の１章から７章に頻繁に書かれています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし 動物の生け贄はなぜ神の怒りをなだめるのに効果的なのでしょう？アブラハムがイサクを捧げる話がこれについて少し理解させてくれます。創世記２２章に、神が、アブラハムに彼の最も重要な物、すなわち、彼の一人息子のイサクを生け贄として捧げるのを要求することによって、神がどのようにしてアブラハムを試したかが書かれています。アブラハムは試されていることは知りませんでした。彼にとっては、それは致命的&amp;lt;ref&amp;gt;  これは原文の直訳で、日本語で言うと「正に真剣だった」という意味になります。&amp;lt;/ref&amp;gt; に本気でした。ですから、 ちょうどアブラハムがイサクののどを切ろうとしていたとき、土壇場で主の天使は彼に止めるように言いました。「あなたが神を恐れることがよくわかった。」（２２章１２節）次にアブラハムは、見上げて雄羊をみつけ、それをイサクのかわりに捧げました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話は、もし誰かが神に完全に従う気があるなら、神は礼拝者の代わりに動物を受け入れるということを示しています。イサクはアブラハムの未来でした。そしてアブラハムは彼を神に捧げても構わないと思っていました。しかし神は 雄羊で満足しました。ここでは、代理的な贖いの教義が例証されています。それについて、レビ記のおきてには、あらゆる生け贄の基本的な特徴が礼拝者の手を動物の頭に置くことであると、さらに明解になっています。この行為は、動物が礼拝者の代理をしているということを表します。礼拝者は 、動物との一体感をもつことによって、自分を完全に神に捧げているのです。動物は礼拝者の代わりに死ぬのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レビ記の１章から７章には４つの異なった種類の生け贄について書かれています。これらの章が強調していることは、いくつも違う種類の生け贄をどのようにして行うかということです。我々はここで、一種類の生け贄を別のものと区別する特徴に焦点を合わせなければなりません。全焼の生け贄（レビ記１章）は、動物全体が祭壇の上で焼かれたという唯一の生け贄で、独特なものでした。これは、礼拝者が自分を完全に神の使いに捧げるということを表現していました。同時にそれは、礼拝者のための贖いをしていたのです。「贖いをしなさい」という表現は、より正確には「身代金を払いなさい」という意味です。これは、おきての他の箇所に使われている表現で、そうしなければ死刑に直面するかもしれない犯罪者が損害を賠償して放免された時に使われています（例えば、出エジプト記２１章３０節）。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
和解の生け贄（レビ記３章）は、動物を寄贈した礼拝者が肉の分け前をもらうという（普段は祭司だけが肉を食べました。）唯一の捧げものだったので、旧約聖書の生け贄の中でたぶん最も一般的だったでしょう。和解の生け贄を神に対する感謝の行為として自発的に捧げることはできましたが、神に自分のために何かをしてくれるよう頼む誓いをした時、またはその願いに答えて下さった時に捧げてもよかったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪のための生け贄（レビ記４章）は、動物の血を幕屋か宮の中の祭壇に塗り付けるという独特なものでした。この血は幕屋を罪の汚染から洗い清めてくれました。罪は、ただ誰かを神の前に有罪として神を怒らせるだけではなくて、場所や人々をきたなくして、その結果神が住むのに適さなくします。祭壇に血を塗り付けたり、宮の内部に血をまくことによって、これらの物は汚染から洗い清められたのです。同時に、悪行で汚染を引き起こした罪人は、罪を赦されてその汚染から清められました。この浄化で神が宮に再入して信者と宿ることが可能になりました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪過のための生け贄（レビ記５章１４節—６章７節）は、ある行為が私たちを神の負債に入れるという考えを表していました。これらの罪は高価な雄羊を捧げることでしか贖いはできませんでした。レビ記には比較的簡潔に書かれていますが、この生け贄は、苦しみのしもべが私たちの罪のために苦しむ（５節−６節）罪過の生け贄とよばれている（１０節；ESV の「罪の捧げもの」も見て下さい。）イザヤ書５３章ではとても重要です。本章がキリストの贖いの役割を最も完全に説明しているので、新約聖書のキリストの死に関する理解の中心です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生け贄のイメージ は新約聖書の十字架の解釈に浸透しています。バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」（ヨハネ１章２９節）と言ったとき、キリストを完璧な過越の小羊と見ていたのでしょう。 またパウロも「過越の小羊キリスト」（第一コリント５章７節）と言って、そのイメージを使っています。キリストはまた、ヨハネ３章１６節やローマ人８章３２節などよく知られている箇所に暗示されている、イサクより優れた生け贄という考えで、最高な全焼の生け贄だと見なされています：「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」マルコ１０章４５節は人の子が「多くの人のための 贖いの代価」として自分の命を与えた究極のしもべと表しています。第一ヨハネ１章７節は「御子イエスの血はすべての罪から私たちを清めます」と言って、　罪過の生け贄のイメージを使っています。ヘブル人への手紙では、イエスが旧約聖書の生け贄の方式が暗示したすべての目的を自分の死を通して達成した最高の大祭司です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、私たちはキリストの死はクリスチャンの生け贄の方式の重要性を消耗していないということを注意するべきです。私たちも、キリストの足跡をたどって、彼の苦しみを共有すると思われています。（第一ペトロ２章２１−２４節）また私たちは「私たちの体を生きた供え物としてささげなさい」と励まされています。彼自身の死を予期して、パウロはそれを、あらゆる生け贄と祭壇の上に注がれたワインのように注ぎの供え物になることと比較しました。このように、古い礼拝の方法は、今、まだ私たちの奉納を呼び起こすべきです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Notes''' &amp;lt;references /&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kathyyee</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A_-_%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%EF%BD%A5%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%BC%E5%B8%AB</id>
		<title>日本のための祈り - ジョン･パイパー師</title>
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				<updated>2011-03-22T12:59:20Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kathyyee: ページの作成: {{info|A Prayer for Japan}}   日本の津波の映像は終末を思わせる。   水を動かす力というのは、私たちの想像を超える。太刀打ちできるも...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|A Prayer for Japan}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の津波の映像は終末を思わせる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
水を動かす力というのは、私たちの想像を超える。太刀打ちできるものがない。私たちはた だ膝をかがめさせられる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天の父よ、あなたは地の揺るぎ、海の高まり、波の荒れを絶対的に支配しておられる主権 者であられます。あなたのみ力のまえにおののき、あなたの測り知れないみ裁きとみ業の 前にひれ伏します。私たちは顔を覆い、あなたの全能のみ腕に接吻します。自分ではどう することもできず祈りのうちに地にひれ伏しつつ、この膝もとの地は何ともろいものか、と思 います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神よ、あなたの聖い威光の御前にへりくだり、悔い改めます。一瞬のうちに、瞬きをするうち に、私たちも流されてしまってもおかしくありません。私たちは、同じ人間である日本の人た ちより、堅固な地がふさわしい者たちではありません。私たちには、この体と、家と車と家族 と、大切な場所があります。もし私たちの罪相応の扱いを受けたなら、誰がみ前に立ちえま しょう。一瞬のうちにすべてが無くなってしまうでしょう。それゆえこの暗闇の中、あなたにで はなく、私たち自身の罪に背を向けます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本のために、憐れみを請います。父よ、彼らが受けるべきものではなく、(あなたの)憐れ みです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちを励ましてくださったではないですか。あなたは寛容さ、辛抱強さ、忍耐深さは、聖書 では何百回と語られているではないですか。あなたは何千回とみ裁きを抑えられ、不従順 のこの世を悔い改めへと導かれるではないですか。そうです主よ、あなたの道は私たちの 道とは異なり、あなたの思いは私たちのとは異なります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ああ神よ、悪しき者にその道を離れ、不義の者にその思いを捨てさせてください。あなたが 情けをかけてくださるよう、私たち罪深い被造物があなたに立ち返ることをおゆるしください。 あなたはきっと、惜しみなくお赦しくださるでしょう。あなたの最愛のみ子、主イエスの名を呼 び求める者は、誰でも救われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
よみがえりのキリストの傷ついたそのみ手によって、数多くのものを失い痛んだ心が癒され ますように。あなたは被造物の痛みを知らない方ではありません。私たちのすべてのため に、ご自身の御子をさえ惜しまずに死に渡されたからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスにあって、あなたは失うことを経験なさいました。イエスにあって、あなたは私たちの、 打ちのめさせられるような悲しみと苦しみを分かちあわれました。イエスにあって、私たちの 痛みの真中で、あなたは親身になってくださる司祭であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父よ、この傷ついた民を、そっとお取り扱いください。懇願してください。勝ち取ってください。 お救いください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして彼らが非常に恐れている洪水が、彼らの上に恵みとなって怒涛のように流れ出しま すように。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どうぞ彼らが乏しい感覚であなたを裁くことなく、あなたの恵みのゆえにあなたに信頼しま すように。この神のみ業の背後に、まもなく(人々の)笑顔をみることができますように。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスの憐れみ深いみ名によって、アーメン&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kathyyee</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%82%92%E6%B7%B1%E3%81%8F%E5%91%B3%E3%82%8F%E3%81%86%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81</id>
		<title>福音を深く味わうための概要</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%82%92%E6%B7%B1%E3%81%8F%E5%91%B3%E3%82%8F%E3%81%86%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81"/>
				<updated>2011-03-10T06:04:10Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kathyyee: ページの作成: {{info|A Summary of the Gospel to Help You Enjoy It and Share It}}   '''神はご自身の栄光のためにわたしたちを創造された'''   「わたしの子らを遠く...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|A Summary of the Gospel to Help You Enjoy It and Share It}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神はご自身の栄光のためにわたしたちを創造された''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し」（イザヤ書43章6～7節）。わたしたちが神のご性質と善悪の正しいご判断を映し出すようになるために、神はわたしたちすべてをご自身にかたどってお造りになりました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''すべての人は神の栄光のために生きるべきである''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」（コリント人への手紙第一10章31節）。神の栄光のために生きるとは、神を愛し（マタイの福音書22章37節）、神を信頼し（ローマ人への手紙4章20節）、神に感謝し（詩篇50章3節）、神に従う（マタイの福音書5章16節）ことです。これらのことを行うとき、わたしたちは神の栄光を映し出しているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''わたしたちは皆、罪を犯し、神の栄光には遠く及ばない ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」（ローマ人への手紙3章23節）。「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、……不滅の神の御栄えを、……似た物と代えてしまいました」（ローマ人への手紙1章21～23節）。だれも正しく神を愛したり、神を信頼したり、神に感謝したり、神に従ってはいないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''わたしたちは皆、永遠の刑罰に値する''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「罪から来る報酬は（永遠の）死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」（ローマ人への手紙6章23節）。主イエスに従わなかった人々は、「主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです」（テサロニケ人への手紙第二1章9節）。「この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです」（マタイの福音書25章46節）。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神は罪人に永遠のいのちへと至る道をお与えになるために、大いなる恵みにより、ひとり子イエス・キリストをお送りになった''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」（ヨハネの福音書3章16節）。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」（ガラテヤ人への手紙3章13節）。「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。……私たちを神のみもとに導くためでした」（ペテロの手紙第一3章18節）。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''永遠のいのちはキリストが主であり救い主であると信じるすべての人に無償で与えられるものである ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「主イエスを信じなさい。そうすれば、……救われます」（使徒の働き16章31節）。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」（ローマ人への手紙10章9節）。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」（エペソ人への手紙2章8節）。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」（ガラテヤ人への手紙2章20節）。 &lt;br /&gt;
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使徒の働き1章8節の力をあなたとともに求めつつ、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジョン牧師&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kathyyee</name></author>	</entry>

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		<title>メインページ</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Kathyyee: 「メインページ」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
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		<author><name>Kathyyee</name></author>	</entry>

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		<title>模範の力</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Kathyyee: ページの作成: {{Info|The Power of Example}}   “模範とは人生において大切な事、、、いや唯一必要なものである”かの有名な医療宣教師でもあり著者で...&lt;/p&gt;
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&lt;div&gt;{{Info|The Power of Example}} &lt;br /&gt;
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“模範とは人生において大切な事、、、いや唯一必要なものである”かの有名な医療宣教師でもあり著者でもあるアルバートシュエイッツアーはこのように述べ模範を示す事の重要さとその力をはっきりと提言した。いったい今この記事を読んでいる読者の中で何人の者が若年の時に他のクリスチャンや長老、牧師の生き方に影響を受けている事だろう。“誠実な牧師”と聞いて頭に思い浮かべるのはいったい誰であろう。　“誠実なクリスチャン”ではどうだろうか。すぐに思いつく人は果たしているだろうか。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シュエイッツアーの提言はもちろん大げさであろう。誠実な人生には模範以外に多くの事柄がかかわってるはずだ。しかし、その全てが最終的にその人が示す模範そのものとして現れてくるのではないだろうか。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
“指導”や“形成”などという言葉は新しいコンセプトのように聞こえるが、実際はそうではない。神が私たちを創造したまさにその方法からそれらが神の御心であることが読み取れる。神は私たちを神の御姿に似せて造られた。私たちは神の示す模範に従うよう、又神の御性質を模倣するように定められいるのだ。キリストのインカーネーションにおいて、私たちが神を理解し、つながりを持つ事が出来るようにと神は人間の姿をとられた。そして“その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。（１ペテロ２：２１）”ペテロは言う。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちもまた、この模範を示したり、模範に従って歩むという方法に自然と関わるようになっている。神は私たちが家族という枠の中に生まれ、他の人間と共に成長するように造られた。私たちは自分一人で成長するわけでもなければ、突然大人として現れる事もない。神は、愛情ある両親の存在を人間の成長の過程において定められた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この堕落した世の中において御自分を啓示される手段としても、神は模範を用いられた。旧約聖書において、神はアブラハムとその子孫をこの世の中において聖なる、特別な異なる民となるべく呼び起こされた。なぜならこの民が特別であるゆえに、神の御性質をありのままに示すような又神の関心事やバリューを統合した社会をこの世が見て取れるようになるからだ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レビ記１９章において神がその民に向かって“あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。”と仰せられた時、神は単にモーセやアロン、ジョシュアなどの個人に向かってこう告げられたのではない。もちろん彼らも聞いていたであろうが、レビ記１９章１節によると、神はモーセに特別イスラエルの全会衆に向かって告げるようにと指示をだしている。そしてその後神が彼らに与えた戒律はほとんどが、人間関係、公正、正義と社会福祉の教えである。神はその民が互いに世話をし、見失った者や見捨てられた者、見知らぬ者や若者を助け合う中で、公正で憐れみ深い彼らの造り主の御性質を多少なりとも現すことが出来るよう指示を出されたのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まわりの世に向かって手本を示すという働きの上でのイスラエルの失敗は、神が旧約聖書の中でイスラエルにもたらした最大の裁きの一つにあたる。そしてエゼキエル書５章においてイスラエルの役割が、悪い模範を通して他の諸国を指導するものへと変化してゆく。“これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民の真中に置き、その回りを国々で囲ませた。。。。わたしは、あなたの回りの諸国の民の中で、通り過ぎるすべての者の目の前で、あなたを廃墟とし、そしりとする。わたしが怒りと憤りと譴責とをもって、あなたにさばきを下すとき、あなたは回りの諸国の民のそしりとなり、ののしりとなり、戒め、恐れとなる。主であるわたしがこれを告げる。”（５章５節、１４−１５節）エゼキエル書において、イスラエルに向かってこれらの事を行うのは、神ご自身の御名のためであることを何度も神は仰せられた。つまり、神に関する真実がこの世の人々の間で知られるようになるためである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この皆で神の証をするというのは、新約聖書の教会を通して神が定められた方法でもある。ヨハネ１３章において、イエスは、キリストの愛が互いの間にあるならばそれによって私たちが彼の弟子であることをこの世が認めるようになると仰せられた。そしてパウロはエペソの教会に向かって“あなたがたは以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子供らしく歩みなさい”（エペソ５：８）と書かれた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
個人または、教会を通しての私たちのクリスチャンとしての歩みは、 この闇と絶望の世界に輝く神の希望なのである。クリスチャンとしての私たちの生き方が、お互いにそして周りの世に向けて神の真実を語っているのである。もし私たちが互いに愛し合うなら、神を愛するとはどういうことか、その片鱗を示すことになる。そして、反対に“目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。”（１ヨハネ４：２０）と聖書は言う。 私たちは、自分の聖さを通して、神の聖潔を示す。　そして、私たち自身の堕落した性質とこの世が共に仕向ける自己中心の失望した生き方ではない別の生き方があるという希望を世に示すために召されたのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧師や長老の兄弟たち、私たちの教会はいったいまわりの世に向かって神について何を語っているだろうか？　神は、私たちの人種だけに制限されると？　罪や不誠実、自己中心や争いも多めに見ると？私たちは神の御性質をその被造物へ向けて示す公開展示であり、ショップウインドーであり、広告であり、ホームページであるという偉大な働きと特権に対してどれほど真剣にわたしたちは教会員たちを導いてきただろうか。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何とはかりしれない特権を神は私たちに授けて下さった事であろう。そのことについてどれだけ私たちは関心をもっているだろうか。もし教会に来る人の数が増えれば、既に教会員である者への責任はなくなるとでも考えてしまっているのだろうか。しかし、彼ら一人一人は今現在どのような証を世に示しているだろうか？神が与えて下さる真の回心者の良い証を世に示すために、いったいどれほど悪い証ゆえの労苦をすることになるだろう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会の懲戒の施しは、最終的には弁護や復讐ということではない。それらは、神のなさることで、許された罪人である私たちの仕事ではない。　しかし、神がどのようなお方であるかという事を示す一人一人の良い証に関しては大いに関心を持っている。私たちはその生活と行いとにおいて模範的でなくてはならない。パウロの手紙の中で、彼は長老たちの教会外部での評判に対して特別懸念を示していた事に気がついたであろうか？　様々な理由が関わっているとは思われるが、何よりも長老のこの世に対する代表としての役目というのは理由の一つに違いない。それでは、教会も全体としてやはり周りの評判を気にするべきであろう。　パウロがコリント人への手紙　第一　５章においてひどく怒ったのも、そのせいだ。しかし、パウロが特別誰に対してその怒りをぶつけているか気がついたであろうか。彼は、その罪深い近親相姦に関わっている者にではなく、むしろ教会員の間でそのような罪を容認するような教会を激しく非難したのである。初めに素晴らしい信仰告白をした者であっても、罪に溺れて迷い出る者が私たちの間にいるという悲しい真実は、認知の通りである。もちろんその中の幾人かは、悔い改め戻ってくる者がいることは承知である。しかし、教会は、高潔と罪に対して戦うことによって、神の素晴らしさ世に示すという責任から逃れる事はできないのである。まるで旧約時代に偶像礼拝の罪に陥ったイスラエルのようであるが、パウロのコリントの教会への戒めの争点はこの教会の問題だったのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸君、使途パウロは君たちの教会や私の教会を見ていったい何と言われるだろうか？どれほど、愛ゆえに礼拝欠席を多めに見てきたであろうか？いくつの不道徳な関係や聖書的ではない離婚に教会内で目をつぶってきたであろう。たとえそれらが、この世に向かって“私たちも君たちと何も変わらない”と言うメッセージを叫んでいるというのに。どれだけ私たちは、些細な事で、不和を好む人々に教会を引き裂かせ、いくつの偽の福音をほっておいたことであろうか。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
兄弟たちよ、今君たちが牧師として、長老として、リーダーとして、教師として　または教会員の一人としてこの記事を読んでいるなら、私たちに与えられた重大な責任について考えてもらいたい。どのようにして、最大限に神の証を示すことが出来るだろうか。それは、私たちの間にある罪を無視することではなく、パウロがガラテヤ人への手紙６章１節にて教える通り、罪に陥った人々を柔和な心で正すことではなかろうか。どちらの方法が、私たちの礼拝する神の真の姿を反映することができるだろうか？御言葉において、神の憐れみは神の聖潔さを覆い隠すなどということはあったであろうか？神の教会においてはどうであろうか？この件に関して、私たちの責任はどうであろうか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分のまわりの世に対して、どのような模範を示しているのか注意を払って歩んで行こう。神は御自分の民とその世界に素晴らしいご計画を持っている、そして私たちはそれを言葉と行いによって示すように召されたのではないか。君たちは、それを実行しているだろうか？　神が私たちをこの素晴らしい召しに対して、誠実であるよう助けてくださるように祈りを捧げる。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kathyyee</name></author>	</entry>

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