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		<title>è�–æ›¸ã�®æœ¬ã�Šã‚ˆã�³èª¬æ•™ - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<updated>2026-05-31T15:43:02Z</updated>
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		<title>なぜ私たちは生まれ変わらなければならない のか? パート 2</title>
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				<updated>2009-08-24T16:41:12Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;PagePush: Automated: copied from main site&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | Why Do We Need to Be Born Again? Part 2}} &lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;'''1 ヨハネ1:1-10'''&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt; 1初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさ わったもの、すなわち、いのちのことばについて、2―このいのちが現われ、私た ちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えま す。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。―3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私た ちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエ ス・キリストとの交わりです。4私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜 びが全きものとなるためです。5神は光であって、神のうちには暗いところが少し もない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいる なら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。7しかし、 もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互 いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。8もし、 罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありませ ん。9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、 その罪を許し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。10もし、罪を犯し てはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たち のうちにありません。 &amp;lt;/blockquote&amp;gt; &lt;br /&gt;
先週、私たちは、エペソ2:4‐5に述べられている、「しかし、あわれみ豊かな神は、私た ちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリス トとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―」によって、 ''なぜ私たちは生まれ変わらなければならないのか''? という質問に対する回答をし始めた。 「神は私たちを生かしてくださった」とは、新生とほとんど同じであると私は言った。そし て私たちが新生を必要とするその理由は、私たちが死んでいたためである。「罪過の中 に死んでいたこの私たちを、(神は)生かし」。これが私たちの必要なものである―私たち の心の中につくられる霊的いのちの奇跡。そして、私たちが新生を必要とする理由は、 私たちが霊的に死んでいる―つまり、私たちはキリストそのものであられる、主の美しさ と価値を見たり感じたり、悟ることができない―からである。生まれ変わっていない者は、 パウロと共に、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、 いっさいのことを損と思っています」と言うことはできない。 それから私たちは、この死んでいると呼ばれる私たちの状態をひも解き始めた。私は、 旧約聖書からこの状態を描く10の方法を述べると申し上げた。先週、私たちは以下の ものを述べた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#私たちは罪過と罪の中に死んでいる(エペソ 2:5)。 &lt;br /&gt;
#私たちは生まれながらに御怒りを受けるべき子らである(エペソ2:3)。 &lt;br /&gt;
#私たちはやみを愛し、光を憎む (ヨハネ3:19-20)。 &lt;br /&gt;
#私たちの心は石のようにかたくなである(エゼキエル36:26、エペソ4:18)。 &lt;br /&gt;
#私たちは神に従うことや神を喜ばせることができない (ローマ8:7-8)。 &lt;br /&gt;
#私たちは福音を受け入れることができない(エペソ4:18、1 コリント2:14)。 &lt;br /&gt;
#私たちはキリストのみもとに来ることやキリストを主として受け入れること ができない(ヨハネ6:44, 65、1 コリント12:3)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新生から離れての私たちの状態  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、新生から離れての私たちの状態の、残り3つの描写に戻る。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''8. 新生から離れては、私たちは罪の奴隷である (ローマ6:17)。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは私たちの罪の奴隷からの解放を、神に感謝をささげることによって祝う。彼は ローマ6:17で言う、「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でした が、伝えられた教の規準に心から服従し」と。私たちはかつて、離れることも殺すことも できないほど、罪を愛した。そして何かが起こった。新生が起こったのだ。神は私たちに 霊的新しいいのちと罪を憎み義を愛する新しい性質を与えられた。それゆえパウロは 人ではなく、神に、この偉大な解放を感謝する―「神に感謝すべきことは、あなたがたは もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し」と。神が私たちを霊 的死から目覚めさせ、罪を殺し聖くなることに喜びを見出すいのちを与えてくださらなけ れば、私たちは奴隷で、自由を受けることができない。そのため新生は必要である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''9. 新生から離れては、私たちはサタンの奴隷である(エペソ2:1-2、2 テモテ2:24-26)。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが霊的死が恐ろしいことの一つである。私たちの死んだ状態は、悪魔に無反応で はない。それは完璧に悪魔と調子が合う。パウロが私たちの死んだ状態をエペソ2:1‐2 で描いている様を聞いてみよ。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者で あって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ 支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」言い 換えると、再生されていない人のしるしは、空中の権威を持つ支配者に「従って」いる彼 らの欲求や選択である。再生されていない者は悪魔というその考えさえあざ笑うかも知 れない。 そしてもちろん、悪魔の存在の否定ほど、偽りの父と調和しているものはない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし悪魔の束縛は2テモテ2:24‐26にもっともはっきり言述されている。これは奉仕 者たちに対する、どのように悪魔の束縛から人々を解放するかについての奨励である ―「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍 び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの 心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで''悪魔に捕えられて思うままにされて いる人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。」'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが、「もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるで しょう」と言うとき、それは実質的に新生で起こることである。そしてこれが、悪魔の束縛 から人々を解放する鍵である。神が悔い改めの心を与えて下さる―つまり、主が罪の 醜さと危険さと、キリストの美しさと価値を見るいのちを目覚めさせ、そしてその真理が 囚人を自由にする。それは、暗闇にいる人がその首にかかっているブローチをなで回し ているときに起こる。霊的光が照って彼がそれはブローチではなくゴキブリであることを 見て放り投げる。そのように人々は悪魔から解放されるのである。そして神が新生のそ の奇跡を行われない限り、私たちは偽りの父の束縛にとどまる。なぜなら、私たちは自 分が喜ぶことを自分自身に伝えることができることを好むからである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''10. 新生から離れては、私のうちには善がない (ローマ7:18)。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、これは、善を知っており、多くの良いことを行い、現在行っているよりもさらに悪い 悪行をすることができると良く知っている再生されていない者にとっては、理解しがたい 言明である。この言明―新生以前の私たちのうちには善がまったくないということ―は、 神がつくられそして支えておられるすべてのものが、神の恵みに依存し、神の栄光の追 求において成されたものでないとき堕落したものになる、という確信なしにはまったく意 味を成さない。それゆえ、もちろん、ある意味人間の身体(魂、思い、心、脳、目、手)と人 間の社会構造(結婚、家族、政治、商業)はすべて良い。神がそれらを造られ、任命され、 支えられる。それらが存在することは正しいことである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしそれらのすべてが神の栄光のために存在する。神は、私たちが心を尽くし、思い を尽くし、知力を尽くして主を愛することをご命令になる(マタイ22:37)。主の恵みにより 頼むことによって、また主の価値をあらわすため、主の造られたすべてのものを用いる ことを、主はご命令になる(1ペテロ4:11)。人々が、神の恵みにより頼むことをせず、ま た主の価値をあらわそうとせずに、神が造られたものすべてを用いるときに、彼らはそ れを不信心の手段にする。そして彼らはそれを破壊する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのためパウロがローマ7:18で、「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住 んでいないことを知っています」と言うとき、限定語である、「すなわち、私の肉のうち」を 付け足すのは、このゆえである。新生の後、パウロのうちには何か良いものが住んでい る。信仰は良い。聖霊は良いお方である。新しい霊的性質は良い。聖く成長することは 良い。しかし彼の肉、すなわち、新生から離れての彼の生まれながらの人格には、善が 宿っていない。造られたすべての良いものが、神中心のものではなく、人間中心のしも べにされることによって、破壊された。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが、新生から離れた10倍の私たちの状態である。再生から離れては、パウロのエ ペソ2:12の言葉を用いるならば、「キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約 束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人」である。こ のため私たちは生まれ変わらなければならないのである。新生なしには、私たちの状態 は望みがなく、また道徳向上によってはこの状態を改正することができない。死んでい る人は向上できない。 死んでいる人は他の何かが起こりうる以前に、ただ一つのことが 必要である―生き返らせられなければならない。生まれ変わらなければならない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 残り半分の質問  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点まで、私はなぜという質問の半分しか訊ねていない。なぜ新生は必要なのか? には、二つの意味がある。以下が私たちが答えようとしてきたものである―なぜ私には 霊的いのちがないのか、そしてなぜ自分でそれを得ることができないのか?私たちは不 従順で自分勝手でわがままで頑なで、霊的事がらを拒否し、キリストの美しさと価値を 見ることができないので、いのちを得るために主のみもとに来ることができないのである。 そしてそれゆえ、私たちは、私たちを生き返らせる神の超自然の力が必要なのである。 私たちは生まれ変わらなければならない。それがなぜ新生は必要なのか?という質問に 対する答えの第一の方法である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし他にも方法がある。その質問は「新生は何のために必要なのか?あなたが必要な ことの、それは何をもたらすのか?それぬきで得ることができないのは何か?」ということ も意味する。質問に答える最初の方法は、振り返って、私たちがどのような状態で新生 が必要なのかを訊ねる。二つ目の質問方法は、先を見て、新生だけがもたらすために は、何が起こらなければならないのか?と訊ねる。それを私たちは見ていこう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新生なしには、私たちには何がないのか?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ私たちは、イエスと結ばれることによる新しい霊的いのちが必要なのか?答えの一 つ―なぜならば私たちは死んでいるから。他の答え―なぜならこのいのちなしには、私 たちにはない...何か?それが今の質問である。このいのちなしには、私たちには何がな いのか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日はまとめの形でそれに答えるようにし、来週実践的詳細でひも解いていくようにす る。来週はクリスマス前の日曜日で、1ヨハネ3:8後半、「神の子が現われたのは、悪 魔のしわざをうちこわすためです。」がみことばとして私の頭の中にある。つまり、主が 人としての姿を取られた―クリスマスのため―その理由は、悪魔のしわざを打ち壊すた めである。あなたは、人としての姿を取ることと再生、あるいは新生とイエスの誕生の間 のつながりをその背景に見るであろう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 天の国  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし今日のまとめの答えを挙げさせて欲しい―新生なしには、私たちには何がないの か?イエスの答えは単純で大雑把で、衝撃的である。「まことに、まことに、あなたに告げ ます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」新生なしには、私 たちは神の国を見ることはない。つまり、私たちは天国に行くことはない。永遠に滅ぶの である。新生なしには、私たちには何がないのか?私たちに何の良いものもない。永遠 の苦しみがあるだけである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしそれが何かを具体的にすることは重要である。私たちは新生を通して神が私たち を救う方法―主が私たちをみ国へ入れてくださる方法―を解かなければならない。私た ちは新生と、イエスの死とよみがえりを通して私たちを救うため、主が何を成してくださっ たか、その間の関係を見なければならない。それで、私は質問に対する5つの相互に 関係している答えをあげる。まず最初に否定的形式で、そして終りに、肯定的形式で。 新生なしには、私たちには何がないのか?以下がまとめた答えである: &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#新生なしには、私たちには救いにいたる信仰がなく、不信心があるだけ である (ヨハネ1:11-13、 1 ヨハネ5:1、エペソ2:8-9、ピリピ1:29、1 テモ テ1:14、2 テモテ1:3)。 &lt;br /&gt;
#新生なしには、私たちは義と認められることがなく、罪の定めがあるだけ である。(ローマ8:1、2 コリント5:21、ガラテヤ2:17、ピリピ3:9)。 &lt;br /&gt;
#新生なしには、私たちは神の子どもとなることはなく、悪魔の子どもであ る (1 ヨハネ3:9-10)。 &lt;br /&gt;
#新生なしには、私たちは聖霊による愛の実を実らせることはなく、死の実 を実らせるだけである (ローマ6:20-21、7:4-6、15:16、1 コリント1:2、2 コリント5:17、エペソ2:10、ガラテヤ5:6、2 テサロニケ2:13、1 ペテロ 1:2、1 ヨハネ3:14)。 &lt;br /&gt;
#新生なしには、私たちには神との交わりにある永遠の喜びがなく、悪魔と その使いらとの永遠のみじめさがあるだけである (マタイ25:41、ヨハネ 3:3、ローマ6:23、黙示2:11、20:15)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分自身を知ることと、キリストの素晴らしさと私たちの救いの素晴らしさを知るために は、新生がそれらの5つとどのように関係しているかを知る必要がある。次回私たちは そこに行く。しかしそれら5つをもう一度、今度は肯定的に、神のみことばを持って言うこ とによって、終わりにしたい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#神が私たちを生まれ変わらせられるとき、救いにいたる信仰が目覚めさ せられ、私たちはキリストと一つにされる。1ヨハネ5:1、「イエスがキリス トであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。」神によって 生まれ「る」ではなく、神によって「すでに」生まれた、のである。私たちの 最初の信仰は新生のそよぎである。 &lt;br /&gt;
#新生が信仰を目覚めさせるとき、そして私たちをキリストと一つにするとき、 私たちはその信仰を通して、義と認められる―つまり、義とみなされる。 ローマ5:1、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの 主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」新生は信仰を 目覚めさせ、信仰はキリストを義として見、そして神は、信仰だけによる キリストただお一人のゆえに、私たちを義とみなされる。 &lt;br /&gt;
#新生が信仰を目覚めさせ、私たちをキリストと一つにするとき、神に受け 入れられるためのすべての法的障害が、義と認められることを通して取 り除かれる。ゆえに神はご自身の家族のうちに私たちを子として受け入 れられ、ご自身の御子の似姿へと私たちをつくりかえられる。ヨハネ1:12、 13、「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神 の子供とされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、 肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのであ る。」私たちは人の意志によって生まれたのではなく、神から生まれたも のであり、キリストを信じ、受け入れ、神が私たちを主の合法的継承者、 また霊的子どもとしてくださるのである。 &lt;br /&gt;
#新生が信仰を目覚めさせ、私たちをキリストと一つにし、罪の定めのすべ てが義と認められることと子とされる御霊が私たちのうちに働くとき、主は 愛の実を生みだされる。ガラテヤ5:6、「キリスト・イエスにあっては、割礼 を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事 なのです。」1ヨハネ3:14、「私たちは、自分が死からいのちに移ったこと を知っています。それは、兄弟を愛しているからです。」新生があるところ には、愛がある。 &lt;br /&gt;
#最後に、新生が信仰を目覚めさせ、私たちを私たちの義であられるキリ ストと一つにするとき、そして聖霊の聖めの力を解き放つとき、私たちは 天国へ至る狭い道の途上にある。そして天の喜びの頂点は、神との交わ りになる。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一まことの神であるあなたと、 あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3)。私 たちの新生の喜びの頂点は、神ご自身である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
“まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見るこ とはできません。...あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったこと を不思議に思ってはなりません」(ヨハネ3:3、7)。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>PagePush</name></author>	</entry>

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		<title>なぜ私たちは生まれ変わらなければならない のか?</title>
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				<updated>2009-08-24T16:40:46Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;PagePush: Automated: copied from main site&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | Why Do We Need to Be Born Again? Part 1}} &lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;'''エペソ 2:1-10''' 1あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、2そのころは、そ れらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も 不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。3私たちもみな、か つては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むま まを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでし た。4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆ えに、5罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたが たが救われたのは、ただ恵みによるのです。―6キリスト・イエスにおいて、ともに よみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。7それは、あとに来る 世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに 賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。8あなたがたは、恵みのゆ えに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神 からの賜物です。9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためで す。10私たちは神の作品であって、良い行ないをするために、キリスト・イエスに あって造られたのである。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行な いをもあらかじめ備えてくださったのです。 &amp;lt;/blockquote&amp;gt; &lt;br /&gt;
神についてこれまで書かれた最も素晴らしい本の一つ、すなわち、ジャン・カルヴァンの 「綱要(Institutes )」は、この一文で始まる―「私たちの所有する知恵のほとんど、すな わち、まことのそして堅実な知恵は二つの部分から成り立っている。―神を知る知識と 私たち自身を知る知識である。」今日私たちが思い出さなければならないのは、神の知 識は理解し受け入れることが難しいわけではなく―それは多少明白である―しかし私た ち自身を知る知識も同じように、理解し受けいれることが難しい、ということである。事実、 それはもっと難しいかも知れない。なぜなら、まず第一に、私たち自身を知るまことの知 識は、神を知るまことの知識を当然のものとして決めてかかるからであり、そして第二に、 私たちの状態の真相が、実は神の助けなしには理解できないものであるにも関わらず、 私たちは、自分自身のことを知っていると思いがちだからである。だれが人の心を知る ことができるのか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
預言者エレミヤはこう記す、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それ を知ることができよう。」(エレミヤ17:9)と。 ダビデも詩篇19:12で言う、「だれが自分 の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください」 と。 言い換えると、私たちは私たち自身の罪深さの根底に辿り着くことはないのである。 もし罪の赦しが、私たちの罪を知る知識の完全さによって決まるのであったなら、私たち はみな、滅んでいたであろう。だれも自分の罪深さの程度を知る者はいない。それは誰 が知るよりも深い。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし聖書は、私たち自身を知るための助けなしには、私たちを放ってはおかない。私 たちがいかに罪深いか十分に理解できないという事実は、私たちがいかに罪深いかを 深く知ることができない、という意味ではない。聖書には私たち自身の魂の状態につい て、明確で衝撃的なメッセージがある。なぜ聖書にそのようなメッセージがあるのかと言 うと、そうすれば私たちが何が必要かを理解し、神がそれを私たちに与えてくださるとき、 喜びで叫ぶからである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜ私たちは生まれ変わらなければならないのか?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは、新生のシリーズにある。イエスがヨハネ3:7で、「あなたがたは新しく生まれ なければならない」と言われるのを、私たちは聞いてきた。またヨハネ3:3、「人は、新し く生まれなければ、神の国を見ることはできません。」とも。言い換えるならば、新しく生 まれ変わるということは、非常に重要なことである。天と地獄が天秤にかかっている。私 たちは新しく生まれ変わらなければ、神の国を見ることはない。そこで今日の質問は、 「なぜ?」である。なぜ新しく生まれ変わることはそんなに必要なのか?なぜ新しく出直す ことや、道徳の向上や、自己訓練のような、他の改善方法は十分ではないのか?なぜこ の究極の、霊的な、超自然的なものは、新生あるいは再生と呼ばれるのか?それが今 日と来週、私たちが答えようとする質問である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 診断:私たちは死んでいる  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初に私たちがとるみことばは、エペソ2章である。1節と5節で二度、パウロは、自分 の罪過にあって私たちは死んでいる、と言う。1節、「あなたは自分の罪過と罪との中に 死んでいた者であって、...」 4-5節、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してく ださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生 かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―」というわけで、パウロ は二度、私たちを「死んでいた者」として表現する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 改善方法:「神が私たちを生かしてくださった」  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこの状態に対する改善方法は5節、「神は私たちを生かしてくださった」である。 もし主の愛を、あなたの以前の死んだ状態に関係して理解しないなら、神のあなたに対 する愛の卓越した豊かさを体験することは決してない。なぜなら4節で、主の愛の大き さはこれに詳細に現わされているからである―それが死んでいた私たちを生かすから である。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえ に、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」。主の私たちに対する 大きな愛のゆえ、主は私たちを生かしてくださった。もしあなたが死んでいた者であるこ とを知らないのならば、神の愛の豊かさを知ることはない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はこの、「神は私たちを生かしてくださった」という奇跡を、イエスが呼ばれる新生とほ とんど同じものであると捉える。私たちはかつて霊的いのちのまったくないものであった が、神は霊的死の状態から私たちをよみがえらせられた。そして今や、私たちは生きて いる。これはイエスが言われる、私たちは御霊によって生まれなければならない(ヨハネ 3:5)、そして「いのちを与えるのは御霊です」(ヨハネ6:63)というものと同じである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新契約の愛  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それで、再生のわざ、新生のわざ、生きかえらせるわざは、神の憐れみの豊かさとその 愛の大きさから溢れ出る。「しかし、(1)あわれみ豊かな神は、(2)私たちを愛してくださっ たその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」。 これは新契約の愛である。これは、神がご自身の花嫁に持たれるような、愛である。主 は花嫁が死んでいるのを発見され(エゼキエル16:4-8)、それからご自身の御子を彼 女の身代わりに死ぬためにお与えになり、そして彼女を生き返らせられる。そして主は 彼女を永遠に保持されるのである。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」イエスは 言われる、「彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去る ようなことはありません」(ヨハネ10:28)と。なぜ、新しく生まれ変わることは必要なのか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで質問は、「これはどういう意味か?この死んだ状態とは?」である。少なくとも10の 答えが新約聖書にはある。もしわたしたちがそれらの答えを、正直に、そして祈り心を 持って熟慮するならば、私たちは深くへりくだらされ、新生の賜物に驚かされる。そこで 私が目標とするのは、そのうちの7つを今日話し、残りの3つをより大きな質問と共に 語る。それらの質問は、「私たちは本当に変えられなければならないのか?ただ赦され、 義と認められるだけではいけないのか?それが私たちを天に辿りつかせてくれるもので はないのか?」であるが、次回に取っておこう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下が新生から離れての私たちの状態と、なぜ新生がそんなに必要なのかという、7つ の聖書的説明である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 1. 新生から離れては、私たちは罪過と罪の中で死んでいる(エペソ2:1‐2)。  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
死はいのちがないことを意味する。肉体的、あるいは道徳的いのちがないということで はない。2節、私たちはこの世に「従って」、「歩んで」いる。3節、私たちには肉の「欲」 があり、「肉と心の望むまま」を行う。というわけで、私たちは罪を犯すことができないと いう意味で、死んでいるわけではない。私たちは、キリストの栄光を見る、あるいは感じ ることができないという意味で、死んでいる。私たちは霊的に死んでいる。私たちは神と キリストと、このみことばに反応しない。新生が起こる以前の私たちの状態を展開する 残り9つの表現を考えてみよ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 2. 新生から離れては、私たちは生まれながらにみ怒りを受けるべき子らである(エペソ 2:3)。  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3節、「私たちもみな、...ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき 子らでした。」ここでのポイントは、私たちの問題は、私たちの行ないにあるのではなく、 私たちが何であるかということにある、ということを明確にすることである。新生から離れ ては、私が私の問題である。あなたは私の主要な問題ではない。私の両親は私の主要 な問題ではない。私の敵は私の主要な問題ではない。私が、私の主要な問題である。 私の行ないではなく、私の周囲の環境でもなく、また私の人生における人々でもなく、私 の性質が、私の最も深い個人的問題である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は最初はよい性質を持っていたが、後になって悪いことをするようになり、悪い性質を 持つようになったのではない。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は 私をみごもりました」(詩篇51:5)。これが私である。私の性質は、わがままで、自己中心 で、要求が激しく、あなたが問題であるかのように感じさせることにとてもたけている。 も しこの陳述に対するあなたの最初の反応が、「そのような人たちを私は知っている」であ るならば、あなたはあなた自身の心の欺きに完全に盲目であろう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは新生以前の私たちの性質を、「御怒りを受けるべき子ら」と表現する。言い換え るならば、神のみ怒りは、親が子に属するように、私たちに属する。私たちの性質はとて も不従順で、とてもわがままで、神の荘厳さにとても無感覚で、神の聖いみ怒りは私た ちに対して自然でもっともな反応である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 3. 新生から離れては、私たちは闇を愛し光を嫌う(ヨハネ3:19‐20)。  =====&lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛し た。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明 るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。(ヨハネ3:19-20) &amp;lt;/blockquote&amp;gt; &lt;br /&gt;
このイエスのことばは、新生から離れての私たちの性質がいかなるものかの一部分を、 詳細に説明する。私たちは、霊的光が近づくとき、中立の人ではない。私たちはそれを 拒否する。また私たちは、闇が私たちを包むとき、中立の人ではない。私たちはそれを 受け入れる。愛と憎しみは再生されてない心のなかで活発である。そしてそれらはまさ に間違った方向に移動する―愛すべきものを憎み、憎むべきものを愛する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 4. 新生から離れては、私たちの心は石のように頑なである(エゼキエル36:26、エペソ 4:18)。  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先週私たちは、エゼキエル36:26から、神が「わたしはあなたがたのからだから石の心 を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」と言われる箇所を見た。エペソ4:18では、 パウロは、暗闇、疎外、無知、心のかたくなさへと私たちの状態をたどる。「彼らは、その 知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのち から遠く離れています。」私たちの問題の根底は、無知ではない。それより深いものが ある。「彼らのうちにある無知は、かたくなな心のゆえ(原文)」である。私たちの無知は、 有罪の無知であり、罪のない無知ではない。それはかたくなで抵抗する心に根付いたも のである。パウロはローマ1:18で、私たちは不義をもって真理をはばむと言う。無知は 私たちの最も大きな問題ではない。かたくなさと抵抗が、である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 5. 新生から離れては、私たちは神に従うことや、神を喜ばせることができない(ローマ 8:7‐8)。  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ8:7でパウロは言う、「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは 神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にあるものは神を喜ばせるこ とができません」と。私たちは、次の節からパウロが「肉の思い」と「肉にある者」の意味 が何であるかを言い当てることができる。9節で彼は言う、「けれども、もし神の御霊が あなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中に いるのです」と。言い換えると、パウロは生まれ変わって御霊を持っている者と、生まれ 変わっておらず御霊を持っておらずただ肉を持っている者とを対比させているのである。 御霊によって生まれた者は霊で、肉によって生まれた者は肉である(ヨハネ3:6)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロのポイントは、御霊なしには、私たちの心は神の権威を拒否し、それだから、私 たちは神に従わない、そしてそれゆえ、従うことができない、ということである。「肉の思 いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従 できないのです。」そしてもし私たちが神に服従することができないのであるなら、神を 喜ばせることはできない。「肉にある者は神を喜ばせることができません。」神が私たち を生まれ変わらせてくださらない限り、私たちは神に対し、そのように死んでおり、暗く、 かたくななのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 6. 新生から離れては、私たちは福音を受け入れることができない(エペソ4:18、1コリ ント2:14)  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1コリント2:14で、パウロは、私たちができない事柄の理由が、この死んでかたくなな 状態にあることを意味する他の一瞥を私たちに見せてくれる。彼は言う、「生まれながら の人間(つまり、生まれながらの再生されていない人)は、神の御霊に属することを受け 入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。 なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです」と。問題は神に属する ことがらが、彼にとって知的な面で複雑すぎて理解できないということではない。問題は、 彼がそれらを愚かなこととしてとらえることである。「生まれながらの人間は、神の御霊 に属することを受け入れません。(なぜなら)それらは彼には愚かなことだからです。」事 実、それらは彼にとってとても愚か過ぎて、悟ることができないのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは道徳的に「できない」ことであって、肉体的に「できない」ことではないことに、注意 せよ。パウロが「生まれながらの人間は...それを悟ることができません」というとき、そ の心がそれらを受け入れることを非常に強く拒み過ぎて、それらを愚かであるととらえる ことによって、その思いが不従順な心を正しいとするのである。この不従順は非常に堅 く完成され過ぎており、その心は御霊に属することがらを本当に受け入れることができ ない。これが本物の不能性である。しかし強要された不能性ではない。再生されていな い者はできない、なぜなら彼はしないからである。彼の罪を好むことが強すぎて、良いこ とを選ぶことができない。それは本物で恐ろしい束縛である。しかしそれは、悪意のない 束縛ではない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 7. 新生から離れては、私たちはキリストに来ること、あるいはキリストを主として受け入 れることができない(ヨハネ6:44、1コリント12:3)。  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1コリント12:3でパウロは宣言する、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主 です。』と言うことはできません」と。舞台に立った俳優、あるいは教会の偽善者が「イエ スは主である」と、聖霊なしに言うことはできない、ということを、彼は意味しているので はない。御霊によって生まれなければ、だれもそれを言うことはできないし、それが本当 であると心から意味することができないということを、パウロは意味しているのである。 生まれ変わることなしには、死んで、暗く、かたくなな、拒絶する心が、イエスの彼のい のちにある支配をほめたたえることは、道徳的に不可能である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは、イエスがヨハネ6章で言われるように、み父が引き寄せてくださらない限り、 誰も主のみもとに来ることはできない。そして人がその引き寄せによってイエスとの生き た関係に導かれるとき、私たちはそれを新生と呼ぶ。37節、「父がわたしにお与えにな る者はみな、わたしのところに来ます。」44節、「わたしを遣わした父が引き寄せられな いかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」65節、「父のみこころによる のでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。」これらすべての素晴らし い引き寄せ、許可、授与のわざは、再生における神のみわざである。それらなしには、 私たちはキリストのみもとに来ることはできない。なぜなら、私たちはみもとに来たいと 思わないからである。それが新生において変えられなければならないものである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 個人的、急を要する応答  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ新生が必要なのか、言うべき事はもっとあるが、今日はこれで十分である。エペソ 2:4‐5の希望に満ちた驚くべきみことばにもどって、結びとする、「しかし、あわれみ豊か な神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの 私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるので す」 。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このみことばに応答する二つの方法がある。一つは論理的で非個人的であり、もう一つ は個人的で緊急である。ある人はこのように言う、「どのようにしてこうなるのであろう、 どのようにしてあのようになるであろう?」他の者が言う、「神は私をここに導いてくださっ た。神はこれらのみことばを通して私に語られた。神の憐れみと愛と恵みは今日、私に とってとても必要なものであり、美しいもののように思われる。ああ主よ、今日、私をここ に導き、覚醒させ、和らげ、開いてくれたあなたのその驚くべき恵みに従います。その憐 れみの豊かさと、愛の大きさと、恵みの力のゆえに、主に感謝。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>PagePush</name></author>	</entry>

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		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AE%E5%94%AF%E4%B8%80%E3%81%AE%E6%85%B0%E3%82%81%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B</id>
		<title>あなたの唯一の慰めは何か</title>
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				<updated>2009-08-24T16:40:25Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;PagePush: Automated: copied from main site&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | What is Your Only Comfort?}}すべての宗教改革時代の教義問答集の中でおそらくハイデルベルグ教義問答集ほど親しまれているものはないだろう。最初の質問と解答において、その問答集の個人的で特有な調子は明らかになっている。「あなたにとって人生において、そして死において唯一の慰めは何か。」これは理論的な問いではない。「もし神が罪人を慰めるのだとしたら何が必要だろうか。」というむしろとても実際的な問いである。「私が生きている限り、そして死ぬ時、どのようにして慰めを持つことができるだろうか。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初めの問いのキーワードは、&amp;lt;u&amp;gt;慰め&amp;lt;/u&amp;gt;（ドイツ語はトロスト）である。この言葉はキリストの完成された業によって私たちの保証と確信に関係する。この慰めは私たちの人生すべて、そして死に至るまでも及ぶ。この教義問答集の著者のひとり（ザカリウス　ウシヌス）が問答集の中で彼の解説書においてその言葉を用いたとき、この慰めという言葉は「罪を無償で赦す保証、キリストにある神との和解、そして永遠のいのちの確かな期待を含意している。使徒パウロの告白によると、福音を通して聖霊によって感動しているので、私たちは永遠に救われているのだと疑いを持たなくなる。何者がキリストの愛から私たちを引き離すことができるだろうか。」教義問答集が私たちの「唯一の」慰めについて語っていることに注目してもらいたい。キリストを離れてこのような慰めや保証を見出すことはできない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初めの問いに答えることにおいて、教義問答集は「肉体と魂、生と死の両方において」この慰めを持つと断言している。ローマ人への手紙１４章７、８節の言い換えでは、神の保護が私たちの人生の過程すみずみにおいて及ぶことを私たちに思い起こさせている。キリストは呪いを取り去ってくださった。人生における救いと一生の終わりにおける肉体の復活の保証がある（問答５７、５８参照）。この認識は現在私たちを慰め、またその後何が起こるか分からない将来にも備えさせる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの慰めは「私は自分自身のものではない」という事実に由来する。この言葉はコリント人への手紙第一６章１９、２０節に起因する。「あなたたちは自分自身のものではありません。代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」私たちはキリストのものであり、望まれるように私たちと共に御心を成される。この慰めは神が主権者であり、約束されたように御心を行う力をお持ちであるという事実に基づいている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このすばらしい事実は更に解答の次の部分によって説明されている。「しかし（私は）真実なる救い主イエス・キリストに属している。」教義問は、（主観的な）私たちの信仰からキリストの従順、つまり私の「真実で」（客観的な）救い主に向けさせる。キリストはすべての正義を貫き、私たちの罪のために十字架上で死んでくださった。キリストの従順に関しては解答の次の部分に更に詳しく説明されている。「神の尊い血と共に。」この言葉はペテロの手紙第一１章１８、１９節に由来する。「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から購い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」キリストの死は、人の罪が取り除かれ（贖い）、神の怒りが除かれる（なだめ）時のみ救いの手段となる。教義問答集は、私たちの救いの基盤が私たちの信仰や善い行いによるものではなく、キリストの私たちのための業であることを気づかせる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、教義問答集の初めの解答は、イエスの死がこの約束された救いの中心であると言っている。というのは神は「私のすべての罪のために成し遂げられた」からである。キリストの死のみが聖なる神の正義を貫くことができる（ローマ人への手紙３章２１～２６節）。人の業や宗教的な儀式には成しえないことである。そればかりでなくイエスの死は「悪のすべての力から救った。」これはヨハネの手紙第一３章８節の模倣である。「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」悪魔は天から追放され、それゆえ彼はもはや天の裁きの前で私たちを訴えることはできない。キリストの悪魔に対する勝利は十字架上で明らかである（コリント人への手紙２章１３～１５節）。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に教義問答集は、貴重な真理である私たちの救いの保証と信仰による救いもキリストの業であると述べている。「キリストが私を守ってくださるので、天の父の御心なしには髪の毛一本さえも落ちることはない。」これはマタイの福音書１０章２９、３０節による。「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの髪の毛さえも、みな数えられています。」福音書の中で約束されている慰めを持つためには、神の主権ある守りが私の人生のあらゆる面にまで及んでいることを知る必要がある。神の御意志なしに何も私に起こりえないのである。事実、「すべてのことが私の救いのために相働く」（ローマ人への手紙８章２８節参照）。神はすべてを定めておられる。彼は私たちを罪から救ってくださった。そして最終的には、善きに変えてくださる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、私たちはこの慰めが聖霊の働きによって自分のものになることを学ぶ。「それゆえ、聖霊によって永遠のいのちをも保証してくださる。」聖霊は神のことばの真実を立証し、神がキリストを信じるすべての者を救ってくださるという約束を確かなものとしてくださる。この内在する聖霊が「これから心から神のために生きていきたいと願い、備えをさせる。」最終的に神がすべての善き業を成してくだされるのである。私を裁かれる神は、同時に私を聖別される。私の内に善き業を始められた神は、最後までそれを成し遂げられる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらのことを知ることは私にとって、人生においてもまた死においても言葉で表せない慰めを与えてくれる。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>PagePush</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%A4%89%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%8F%E6%84%9B</id>
		<title>変えられていく愛</title>
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				<updated>2009-08-24T16:40:00Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;PagePush: Automated: copied from main site&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | Transforming Love}}&amp;amp;nbsp; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある深く落胆した父親が、ゆっくりと死にゆく３歳の息子を２週間小児科治療室で看病していた。この２週の間、かなり驚いたことに、彼はある福音書を通読していた。彼は後に、「福音書は本当に実生活のためのものだ。」と私に書いてきた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は彼の言葉に当惑した。福音書のひとつがこの深い悲しみにある父親をどうやって助けることができたのだろうか。災難な出来事の中で神に信頼することについての本なら役立つかもしれないと思った。けれど福音書が？どのようにしてそのような時に助けとなったのか？私はこの問いに数週間深く考えた。そしてある日、神の愛についてのメッセージを準備していた時、その解答に至った。その福音書の中で、この父親は神の愛がわかったのだ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使徒ヨハネは次のように書いている。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」（ヨハネの手紙第一４章９，１０節） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、「もし神の愛を理解したいのならまず十字架を見なさい。」とよく話す。なぜなら十字架が神の愛の際立った表れだからである。神がご自分の御子を私たちの罪のなだめのために十字架へと送られた。なだめ、とは良い聖書用語ではあるが、今日のクリスチャンにはほとんど理解されていない。おそらく、私たちが耐えなければならなかった神の正義と聖なる怒りの矛先をイエスが十字架上で耐えてくださったということがこの言葉を考える上で最善の方法であろう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちすべては罪のため神の怒りを受けるに値する。未信者たちが日常的に犯す罪ならず、信者である私たちが毎日犯す罪であっても。しかし、もし私たちがキリストに信頼するなら、神の怒りをみじんも経験することはない。イエスは、私たちの代わりに、神の怒りの杯を飲み干してくださった。&amp;lt;br&amp;gt;またヨハネは、神はご自分の愛のうちに、私たちにそのことを成すためにイエスを送ってくださった、と言っている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熱心なクリスチャンたちが神の愛を疑いやすい主な理由は二つある。最も一般的なのは、どういうわけか、私たちに深い罪の意識がある時である。おそらくそれは生活の中で執拗に犯し続けてしまう罪のパターン、あるいは私たち全人類の持つ全般的な罪である。そのような時には私たちはしばしば、「私のように罪深い者を神はどのようにして愛することができるだろうか。」と思ってしまうのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どちらの例にしても私たちは、深く罪悪感に悩ませている罪を耐えてくださっている十字架上のイエスを再び見上げる必要がある。それから私たちは、「神は罪の知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」（コリント人への手紙第二５章２１節）、ということを思い出す必要がある。神は私たちの罪を取り除いてくださった。すなわち、&amp;lt;br&amp;gt;そのことによって生じるにもかかわらない苦痛をキリストに課し、完全な神の義を私たちに与えてくださった。神は、私たちが愛すべき者であるからではなく、神ご自身の惜しみのない愛によってこのことを成してくださった。ヨハネが先に述べたように、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださった。」のである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二つ目の、私たちが神の愛を疑ってしまいがちな根拠は、不幸な境遇の中にいる時である。私たちは、「もし神が本当に私を愛してくださっているなら、こんなことが起こることを許されるはずがない。」と思ってしまうかもしれない。そのような疑いの中にある時、私たちは再び、神がご自身の御子を私たちのために捧げてくださった十字架上のイエスを見上げる必要がある（ローマ人への手紙８章３２節）。最終的にはパウロが同じ箇所で「一体誰が私たちをキリストの愛から離すことができようか。」という問いかけをし、その少し後でこう断言している。「どんなものも私たちの主、キリストから私たちを引き離すことはできません。」（ローマ人への手紙８章３５～３９節） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
偉大なピューリタン、ジョン・オーウェンはかつてこのように書いている。「あなたが父なる神に課す最大の悲しみと重荷、そして最大の不親切は、神があなたを愛しているということを信じないことである。」父なる神の最も大きな悲しみは、私たちが神の名を汚す恥ずべき罪を犯すことであるとオーウェンが語るのであろうと予想していたかもしれない。確かに罪は神を悲しませるが、オーウェンは、神の愛を疑うことはもっと神を悲しませると言っている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だから、もしあなたが自分の罪から、あるいは困難な状況から神の愛を疑いそうになったら、十字架を見上げ、神がすべての疑いを越えて十字架上でご自身の愛を示してくださったことを思い起こすのだ。それだけでなく、困難を待ち構えるな。疑いと失望の時から自身を守るために、十字架を日々見上げなさい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、神の愛の真実がすばらしいのと同じように、ヨハネは私たちを単に自身の楽しみだけに神の愛に浸ったままにはさせない。むしろ彼は、とても鋭い適応をしている。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」（ヨハネの手紙第一４章１１節）その含意は、神が私たちを愛してくださったので私たちも互いに愛し合うべきであるというだけでなく、私たちは神が私たちを愛してくださっているのと同じ方法で他者を愛すべきである、ということである。それは、私たちを神が罪と一般的な醜さがあるにもかかわらず愛してくださっているので、私たちも互いを愛するべきだ、ということである。すなわち、いやな人もすべて。それは、私たちが相手の生活の中で罪を無視するという意味ではなく、罪が私たちに向けられた時に、神がキリストにあって私たちを赦してくださったように私たちも愛する、ということである。（エペソ人への手紙４章３２節） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神の、私たちへの赦しを基本として互いに赦しあう用意のできていることが、相手への愛の最大な表れであると私は信じている。イエスのたとえ話の、赦さない使用人（マタイ１８章２１～３５節）は、このテーマにおいてとても教訓的である。初めに出てくる使用人は主人に１００００タラントの借金があった。それはすなわち一般的な労働者の２０００００年分の収入に匹敵するものであり、返済不可能な額である。二人目の使用人は初めの使用人に１００デナリ借りていた。およそ１年の３分の１の収入に匹敵する額である。金額そのものが重要ではない。私たちの多くは１年の３分の１の収入の借金を帳消しにはしたくないが、２０００００年分の借金に比べれば、１年の３分の１の収入分は大したことではない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このたとえ話のポイントは、それぞれ私たちはこの初めにでてきた使用人である、ということである。私たち自身の罪のために神への負債は信じがたいものである。返済不可能な額なのである。これに比べ、相手が自分に対して犯した罪の負債は、それ自体は大きなことかもしれないが、自身の神に対する負債に比べれば、なんでもない。したがって、誰かが私に対して罪を犯した時には、実際にそう感じられてもそうでなくても、「しかし神よ、私は１００００タラント負っているものです。」と応答するようにしている。そうすることによって、相手の罪を適切な見方でみることができ、神が私を赦してくださったように惜しみなく赦すことができる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
テーブルトークの読者は皆、愛において模範的なコリント人への手紙第一１３章に、ある程度なじみがある。しかし、４節から７節にある愛の記述についてどれだけ多くの赦しや自制についてなされなければならないか気づいただろうか。愛はまず初めに自制と赦しによって表される、耐え忍ぶことなのである（コロサイ人への手紙３章１２、１３節参照）。それは短気で怒りっぽいのと違う。それから愛は、すべてを我慢し、すべてを耐え忍ぶ。赦しと自制。それらは異なった方法だが同じアイディアの表現である。そして私たちは神がキリストにあって私たちを赦してくださったように私たちも赦すべきなのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もちろん、神の愛であっても、私たちの愛であっても、赦しよりも愛があるのだ。神は決して私たちを見捨てず（ヘブル人への手紙１３章５節）、私たちのすべての必要を満たし（ピリピ人への手紙４章１９節）、すべてのことを働かせて益とする（ローマ人への手紙８章２８節）と約束してくださった。神は、時あるごとに私たちに課す訓練は、神の聖さにあずからせるための愛の表れであるとおっしゃっている。（ヘブル人への手紙１２章５～１１節） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じように、私たちはキリストの体である互いを兄弟愛をもって愛するべきである。（ローマ人への手紙１２章１０節）つまり、互いの世話をし、励まし、祈り、そしてもし適切であるなら物質的にも助けるという意味である。（ヨハネの手紙第一３章１６～１８節） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明らかに、私たちは神が私たちを愛してくださっているのと同じ方法で、又は同じ程度に相手を愛することはできない。私たちは赦すことはできるが、他者の罪の償いをすることは決してできない。そして神はご自分の愛において、主権を持っておられ、ご自身の目的をすべて成しとげるため、神の愛を表現する力を持っておられる。私たちにこのことはできない。私たちはしばしば、自分が表すことのできる愛の範囲以上のことができたらと思ってしまう。しかし私たちは、神との基本的な関係においても、他者との関係においても、決して神から私たちへの愛の視野を失ってはならない。ヨハネは、「神がまず私たちを愛してくださったので私たちは愛する」と言っている。（ヨハネの手紙第一４章１９節）私たちの愛の対象は定義されていないことに気づいてほしい。ヨハネは私たちは神を愛すると言っているのであろうか、それとも他者であろうか。この内容からは、互いに愛するように勧めている。しかし私は、聖霊はヨハネに私たちの愛の多義的な対象を離れるように導かれたように思う。というのは、どちらもが真実であるからである。私たちは神が愛してくださっているその愛に浸っている時のみ神を愛することができる。そして私たちは絶えず神の限りない愛を熟考している時のみ互いを愛することができる。最愛の友よ、愛は神からくるのであるから互いに愛し合おうではないか。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>PagePush</name></author>	</entry>

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		<title>人々の戒め</title>
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				<updated>2009-08-24T16:39:34Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;PagePush: Automated: copied from main site&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | The Traditions of Men}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
テーブルトーク・シリーズの一部&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どんな社会構造にも、メンバーにとって容認できる行動と容認できない行動を定義する規則があります。ある企業や学校にはドレスコードがあるかもしれません。運動競技会はルールによって管理されています。どんな政府機関にも規制があります。裕福な家庭には、親から子へと言葉で受け継がれていく家庭内のルールがあります。何より、神が彼の弟子たちに与えた規則があり、それらは聖書の中で示されています。詩篇１１９篇の中で、これら規則は「掟」、「法令」、 「教訓」、そして「戒律」など、いろいろな言い方をされています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしも規則がごくありふれたもので、すべての社会構造を取り巻くものであるのなら、なぜ法律上の争点はキリスト教徒の間でこれほど感情をかき立て、また不和を生じさせるのでしょう。なぜ我々は神のために家庭内のルールにこれほどまでに神経質になるのでしょう。その理由の一つは、我々が神の規則に自分たちの規則を付け加えてしまうからです。イエスの時代におけるパリサイ人のように、我々は神の言いつけに人為の「べし・べからず」を付け加えて神の力になろうとするのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでも、イエスはパリサイ人に人々の掟［マルコの福音書第7章5–8節］を教えるため厳しく叱責しました（つまり、神の権威ある律法として）。彼の叱責は今もなお我々に効果があります。なぜなら、我々も時々人為的規則を聖書レベルにまで高める傾向があるからです。その際、我々は神が触れていないことについて良心を結合することに罪悪感があります。これは、実質上の律法主義と言えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら人為的規則は一体どこからくるのでしょう？これらの多くは、ある人によって言われた「塀」から来ています。塀とは、真実の罪を避けるための善意ある制約です。ある夜のホテルの一室で、私は一人でテレビのチャンネルを変えながら無害のエンターテイメントショーを探していました。明らかにこれは罪ではありません。しかし、私は性的好奇心をそそられる、ある一つの映画で手を止めてしまいました。その番組は私の罪深い気質を刺激しました。その出来事によって、私は個人的な「塀」を作り上げました。私は一人で居る時は、ある特定の番組を見ない限りテレビの電源を入れない、と自分自身に言い聞かせたのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
おそらく多くのキリスト教徒が、人生における様々な場面において自分自身の塀を作ってきたことでしょう。個人的な塀は彼ら自身にとっても悪いことではありません。塀によって我々は真の罪から逃れることができるのです。しかし、我々が個人的な制約を他人にまで当てはめようとして、神の掟レベルにまでその塀を高めてしまうと、我々は律法主義へと導かれてしまうのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、私はアルコール飲料に対する聖書の教えは禁酒ではなくて節酒だと思っています。しかし、社会におけるアルコールの乱用が広まっていることで、多くの人が禁酒を習慣づけようとしました。それが我々の作り上げた塀で、我々自身がそれを守る以上はまったくの合法です。しかし、禁酒ではなく節酒を試みようとする他のキリスト教徒を評価する際、我々は個人的な信念を神の掟レベルにまで高めてしまったのです。我々は律法主義になっているのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使徒パウロは、彼の時代に実質上の律法主義のもう一つの問題に直面し、それを「疑わしいものへの議論」（ローマ書第14章1節）と呼びました。そこには明らかに、肉を食べること、そして特別な日を祝うこと （ローマ書第14 章2、5節）という二つの問題がありました。パウロの返答は二つありました。一つは、聖書には載っていない議論に対して様々な意見を持つ自由を神は我々に与えてくださったということに我々が気づかなければいけないということ。そしてもう一つは、我々は意見の異なる相手を批判したり軽蔑してはいけないということ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分たちと違うしきたりを持つ相手を批判しないようにすることは、我々がしなければならないもっとも難しいことの一つです。あるしきたりが自分にとっては罪だけど他人にとっては罪ではないと信じることは難しいことです。そのためパウロは、「一人一人が自分の心の中で十分に確信しましょう」（ローマ書第 14章5節）と書き記しました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人々がカジュアルな服装で教会に訪れることは今日良くあることです。しかし、私が育った時代はみんな礼拝に訪れる際には「晴れ着」を着てきました。その結果、長い間私は教会に私服で訪れる人々に対して批判的な態度を示してきました。そのような服装で訪れる人々は神に対する尊敬の念が足りないと思っていたのです。しかし最終的には、そのことは聖書には載っていないことで、神が彼らに与えた自由を私も受け入れなければならないという結論に至りました。さもなければ、私は律法主義に陥りますからね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
服装などについての意見の違いは世代的なものであるかもしれません。それ以外は地理的なものかもしれません。私が育てられたのは、十代の男女が一緒に泳ぐ事も許されない教会でした。しかし、女性が化粧をすることにはまったく問題ありませんでした。後の成人になって間もない頃、私は米国の西海岸にある、私が育てられた教会よりも少し保守的な教会に参列するようになりました。そこでは、若い人々が皆一緒に青年活動の一つとして、定期的に海に行きました。しかし、化粧をした女性は「世慣れ」をしていると見なされました。私は、過去にどこかで絶対に両教会の指導者がこれらの制約を人々に強要し、彼らはそれには正当な理由があると信じていたのだと思っています。そして事実、彼らは彼らの規則を神の掟と同等のものにしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
十代の男女が一緒に泳ぐ事を罪だと決断した教会の指導者たちは、好色な目つきの危険さを懸念したのでしょう。これはイエスがマタイの福音書第5章27-28節で特に警告をした罪そのものです。しかしながら、十代の男女が一緒に泳ぐことについての規則の中に、それ以上に危険な、駐車された車の中で男女が二人きりになり、キスをして互いに愛撫をすること、などは一切書かれていません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが人為的規則のもう一つの問題点です。神が触れていない事柄における良心の結合に加え、規則は時に真の問題について述べていないことがあります。規則で単にすべての状況をカバーすることはできません。言うまでもなく駐車された車の中のように、プール以外にも若い男性を好色な目つきにさせてしまう場所がいくらでもあります。そのため、異性と一緒に泳ぐことへの規則を作ることよりも、我々は若者たちが聖書を通して性的な清らかさについての信念を持てるように手助けをしなければなりません。テモテ2章22節の「青年の欲望から逃れろ」という一節を彼らに見せてあげれば、彼らが逃れなければならない状況を察知することができるでしょう。その際我々は、彼らが自身の性欲を刺激する可能性のある状況を理解し、自制することができるように手助けをするのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人為的規則の実質上の律法主義に対する解決策は、聖書に基づく信念を育成し、悟ることです。もし聖書が、あるしきたりを禁じないのであれば、我々もそれを制約する必要はありません。同時に、我々は聖書の教えに集中するのです。例えば、聖書では自制の大切さを強調しています。我々が食べるにしても飲むにしても、それは神の栄光のためにするべきなのだ（コリント1 10章31節)、と教えています。ワインを飲む人は神の栄光のために、ステーキを食べる人も神の栄光のためにそうするのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なので、テレビ番組を見ようが、異性とプールで一緒に泳ごうが、化粧をしようが、我々はすべてにおいて聖書の規則を適用すればいいのです。これも神の栄光のためになるでしょうか？そう思ったら、ローマ書第14章の中のパウロのように、その質問の答えは人によって違うかもしれない、という事実を受け止めなければいけません。そのようにして我々は人為的規則における実質上の律法主義を避けることができるのです。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>PagePush</name></author>	</entry>

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		<title>新生</title>
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				<updated>2009-08-24T16:39:08Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;PagePush: Automated: copied from main site&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | The New Birth}}再生は信仰に先行する。この、歴史的アウグスティヌス派と改革派の考えの特徴ある 神学の真髄をとらえる主張は、その神学を他のあらゆる半ペラギウス派の形と区別す る、重大な主張であった。つまり、それは、半ペラギウス派のほとんどすべての形と区 別されるのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスの贖いの結果として、すべての人間を包容するという普遍的利益の見解を支持 する、半ペラギウス派の一つの歴史的立場がある。この普遍的利益は、すべての人の 普遍的再生―少なくとも、原罪の善悪の判断に関する不能性から彼らを救い出し、そし て今や、キリストにある信仰を実践する能力を彼らにある程度与える、というものである。 この信じるという新しい能力は、信仰を可能にするが、決して十分ではない。このような 再生は、結果として、新しく生まれ変わった者が実際にその信頼をキリストにおくという 確実性をもたらさない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、ほとんどの場合、「再生は信仰に先行する」という主張は、半ペラギウス派の 頭の中で脳卒中を起こす重大な立場である。半ペラギウス派の人は、堕落の荒廃に関 わらず、人にはその魂に義の孤島がまだ残っており、そのため人は神の差しのべる恵 みを受け入れたり、あるいは拒否することができる、と主張する。福音派内で大変広く 評価されているこの見解は、人は新しく生まれ変わるためには、キリストを信じなければ ならない、そしてそのため、信仰が再生に先行するというものを保持することにより、こ の見解では、救いの順序が逆になっている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、イエスのニコデモとの討議のヨハネの記録の中で、この問題の教えを考慮す るとき、私たちは、イエスが、主を信じるための必要条件、不可欠なものとして、再生に 重点をおかれるのを見る。ヨハネ 3：3 で、主はニコデモに言われる、「まことに、まこと に、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と。そしてまた 5−7 節において、イエスは言われる、「まことに、まことに、あなたに告げ ます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉 によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は例です。あなたがたは新しく 生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません」と。人が神の国に入るためどころか、神の国をただ見ることでさえ、イエスが言われる再生の、 「新しく生まれなければならない」は必要なのである。新生無しには入ることができない という国においては、信仰は実践できない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
半ペラギウス派の弱点は、人間の堕落し腐敗した肉に、信仰を実践する力を注ぐことで ある。この際、堕落した人は再生なしに、つまり再生の前に、キリストに来ることができ る。他方で、再生は信仰に先行するという原理は、アウグスティヌス派と半ペラギウス派 の間の歴史的問題のそのまさに真髄に達する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アウグスティヌス派と改革派の見解では、再生はまず第一に、神の超自然的みわざと 理解されている。再生は、堕落した人間の思いと魂になされる神なる聖霊のみわざであ り、それによって御霊は霊的に死んだ者を生き返らせ、霊的に生きた者にされる。この 超自然的わざは、罪の束縛と、神の事柄に傾倒すべき善悪の判断の不能性から人を 救い出す。再生とは、超自然的わざであるがゆえ、明らかに、自然の人間自身によって は、達成できるわざではない。もしそれが自然のわざであるならば、神なる聖霊の仲介 を必要としない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、再生は、一方的作用のわざである。「一方的作用(モナジスティック)」というの は、権威を握るもの一人の働きという意味である。再生の場合、神のみ権限があられ、 神のみが人間の魂を再生する働きを果たすことがおできになる。再生のわざは、堕落し た人間と神なる霊の間の合同事業ではない。それはただお一人神のみわざである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三に、聖霊による再生の一方的作用のみわざは、即座のわざである。それは時間に おいて即座であり、また邪魔ものなしで遂行するという原理において、即座である。聖霊 は、人を霊的死から霊的いのちへと導くことのできる、ご自分の力以外のものは用いら れず、またそのわざが達成される時、それは瞬間的に達成される。だれも、部分的に再 生されたり、あるいはほとんど再生される、ということはない。この際私たちには、典型 的「どちらか／あるいは」の状態がある。人は生まれ変わるか、あるいは生まれ変わら ない。この誕生に関して、9 か月(日本では 10 カ月)の妊娠期間はない。御霊が人の魂 の性質を変えられるとき、一瞬のうちにそれをなされる。その人は神によって達成され たこの内側の働きに、実際に起こった後しばらくは気づかないかも知れない。しかし私 たちの覚醒は除々であるかもしれないが、その行為は瞬間的である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第四に、再生のわざは効果的である。つまり、聖霊が人の魂を再生するとき、その再生 の目的は、その人をイエス・キリストにある救いの信仰へと導くことである。その目的は、 神が介入の中で意図されるよう、発揮され達成されるのである。再生は、人に信仰を持 つ可能性を与える以上に、救いの信仰を持つ確実性を与える。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの再生の結果は、まず第一に、信仰、そしてそれは義と認められ、神の家族の 子たる身分を受ける結果に至る。だれも、神の家族の子としてこの世に生まれる者はい ない。私たちは怒りの子らとして生まれる。神の家族に加わるためにはただ一つ、子と しての身分を受ける方法しかなく、そしてその子たる身分を受けることは、信仰によって神のひとり子なる御子と私たちが一つにされるときに、起こる。信仰によって私たちがキ リストと一つにされるとき、私たちは、キリストが長子であられる主の家族の中で、子た る身分を授けられる。再生は、それゆえ、新しい創世、新しい始まり、新しい誕生を伴う。 その誕生によって、私たちは子たる身分を受け、神の家族に加わるのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、再生は、神が、ご自身の家族の中に導かれようと決断されるすべての者に対 し、主権者として充てられる賜物であることを理解することは、重要である。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>PagePush</name></author>	</entry>

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		<title>福音は救いを得させる神の力</title>
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				<updated>2009-08-24T16:38:38Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;PagePush: Automated: copied from main site&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | The Gospel is the Power of God unto Salvation}}&amp;amp;nbsp; &lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;'''ローマ 1:16''' 「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」 &amp;lt;/blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
=== 恥ずかしがっても、恥とは思うな  ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先週私はローマ 1:16「私は福音を恥とは思いません」の、最初のことばに焦点を当てた。福音の た めに恥ずかしめを受けることと、福音 を恥と思う ことの違いがあることを、分かりやすくしようとした。 もしあなたが誠実なクリスチャンであるならば、福音のために恥ずかしめを受けるであろう。すなわ ち、あなたは恥をかかせる行為の的になる。しかしそれが起こったとき、あなたが恥と思う必要がな いとても良い理由がある。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、私たちが福音のために恥さらしにされるとき、恥と思わないというパウロの理由を、イエスの 理由と比較した。へブル 12:2 はこのように言う、「イエスは、ご自身の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び」と。イエスに対する恥をかかせる行為はそれは醜く、残 酷で、品格を落とすものだった。しかし恥に食われてしまい、あるいは恥をかかされ、あるいは恥を かかせる者らと同じように弱く醜いものにされてしまう代わりに、主はご自分の心を、ご自身の前に 置かれた喜びに据えられた。言い換えると、ご自分の死の確実な勝利と、罪人を救うためのよみが えり、主の義を立証することと、神のみもとに帰ることが、恥を受けることや不従順から主を守ったの である。主は長期間の益のため、短期の痛みを耐え忍ばれた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてパウロもそのようであった。彼は言う、「私は福音を恥とは思わない」−私は罪人のため十字 架につけられ、力によってよみがえられ、信頼するすべてのものを救われるキリストのメッセージと その事実を恥と思わない。なぜか？なぜなら「福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる 神の力」だからである。これこそが、イエスが福音のために恥さらしにされたとき、恥ずかしく思うそ の思いを征服された、同じ方法である。イエスは、ご自身の十字架とよみがえりの喜びに満ち溢れ る勝利を見ておられた。パウロも永遠の救いにおける、福音の喜びに満ち溢れる勝利を見ていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは福音を、人受けが良いようにしたり、人の気に障らないようにしたりする(1 コリント 1:18 参 照)ことによって、恥と思う気持ちを避けない。私たちは最終的に福音は正しいとされるということを 思い出すことによって、恥と思う気持ちを避ける。私たちは、福音のみが、罪赦された罪人を最終的、 永遠に続く喜びに導くのだということを、思い出す。イエス･キリストの福音以外、この世の何ものも、 これを成すことができない。ユダヤ教、仏教、ヒンズー教、イスラム教―それらには、罪によって、聖 い神から隔絶されたその問題を解決し、行いによるのではなく、恵みによる希望を罪人に提供する ことのできる救い主がいない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、パウロ―イエスご自身も言われる―は言う、苦しみ、是。誤解、是。恥、是。しかし恥とは 思わない。なぜならキリストにある神の救いのみ業のメッセージは、この世において、唯一の最終的 勝利のメッセージだからだ。短期の痛みは、長期の益である。あなたの前におかれた喜びのゆえ、 福音のみが得ることのできる救いのため、十字架を背負って、恥ずかしさをものともせず、イエスに従いなさい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 福音は救いを得させる神の力  ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて今日は、「福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」ということばをよく考 えてみたい。そして私はたった一つの質問を起こす―福音がそんなに力強くもたらすこの救いとは、 一体何か?この質問に答えつつ、私たちに救いをもたらす福音が、私たちの信仰とどのように関係 するのかを見ていく。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他にも重要な質問、特に福音がどのように救う力となるのかという質問がある。しかしそれこそが 17 節のポイントで、私たちはそれを 8 月 9 日に取り上げようと予定している。「福音は…救いを得さ せる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信 仰に進ませるからです。」−それゆえ福音は救いのための神の力なのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで今日の質問―福音がそんなに力強くもたらすこの救いとは一体何か?「福音は救いを得させ る神の力である。」それは、「福音は改宗者を勝ち取る神の力である」という意味か?さて、それは事 実だと私は思うが、そのことを、この一言が意味しているとは思わない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福音が人々を改宗させる―信仰と悔い改めに導く―というのが本当だと思うのは、ローマ 10：17 節 がこのように言うからである、「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについて のみことばによるのです。」また、ペテロ 1：23−25 も言う、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽 ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによ るのです。…あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」であるから、私たちが神によ って生まれ、力強い神のことばである福音を聞くという方法によって改宗したというのは、本当であ る。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、この改宗が、新約聖書では「救い」と呼ばれているのは、本当である。例えば、エペソ 2：8−9、 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことでは なく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」であるか ら、信仰によってキリストへと改宗することは「救われること」と言われている。今朝もしあなたがキリ ストにあって信じる者であるならば、あなたは「救われている」のである。ローマ書はあなたにとって、 ことばにならないほど貴重なものであろう、なぜなら、聖書の中で他にはないほど、それは神があな たを救われること―あなたの選び、あなたの予知、あなたの招き、あなたの義化、あなたの聖化、そ して信仰の従順―において、一体何が起こったのかを明らかにするからである。これらはすべて、 信仰を通してあなたに実際に起こった、救いのすべての側面である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 福音の最終的勝利  ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、ローマ 1：16 で「福音は、…信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と言う 時、パウロの頭の中にある救いとは一体何か?最初の改宗の出来事が主ではなく、主に 永遠の安 全と、聖く栄光ある神のご臨在のうちにある喜びへ、信じる者たちを連れてくることにある、福音の 最終的勝利 が、彼の考えにあるのだと私は思う。パウロがそのように意味していると私が思うのには、４つの理由がある。それらの理由を見ていくことがこのみことばの意味を解く最善の方法である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 福音の力こそが、福音を恥と思うことから私たちを解放するものである。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一の理由は、救いをもたらす福音の力が、福音を恥と思うことから私たちを解放するということで ある。「私は福音を恥とは思わない、なぜならそれは、救いを得させる神の力である。」しかしもしこ の意味が、改宗者を生みだすための力が福音にある、という意味だけであるならば、なぜそれが恥 の問題を取り扱うのか?たくさんの宗教が改宗者を生みだす。沢山の宗教的また世俗的運動が、信 仰へと人々を勝ち取る。パウロが、あなたが恥と思わなくていいほど福音にはそんなに力強い効果 がある、と言った時、それは他の宗教がすること―改宗者を勝ち取ること―を、彼は単純に表したの だろうか?私はそうとは思わない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスは死にながら、主の前に置かれた将来の喜びを見つめることによって、恥に勝利を取られた。 パウロも、ローマ 1：16 で同じような意味合いが、その考えにあるのだと思う。あなたは福音を恥と 思う必要がない、なぜなら福音は改宗者を生みだすだけでなく、それらの改宗者を徹底的に救うか らである。福音は最終的安全と、永遠に続く栄光ある聖い神のご臨在の中にある、いや増す喜びへと彼らを導くからである。これこそが福音と共に私たちを大胆にするものである―福音が改宗者を生 みだすわけでなく。どんな宗教もそれを成すことができる―しかし福音だけが人々を永遠に救うこと ができ、永遠の神との喜びに導くことができる、この世で唯一の真理である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. “救い”は、パウロと新約聖書以外でも、永遠志向である。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
16 節の“救い”が、 信じる者を永遠の安全と、聖く栄光ある神のご臨在のうちにある喜びへと導くこ とにある、福音の最終的勝利 を言っていると私が思う、第二の理由は、「福音のため」あるいは「福 音に至る」という文句には、パウロの書簡や他の新約聖書の著者たちにおいても、永遠志向の意味 があるからである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、パウロは 2 テサロニケ 2：13 で言う、「神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、 あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。」と。さて、ここで、救いは改宗の際に起こ るものだけではなく、聖めへ導くもの、しかし、救いは“聖めによって”その後に起こるもので、未来に おけるものである。言い換えると、救いは聖徒を永遠の喜びと共に神のご臨在のもとへ導く、未来 の勝利である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいはまた、2 コリント 7：10 で、パウロはすでに改宗し救われたが、罪のための新たな悔い改め が必要なクリスチャンたちに語る、「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、 救いに至る 悔い 改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」と。ここでまた、「救いに至る」が、改宗で はなく、最終的、未来の安全の状態と、神のご臨在のうちにある喜びのことを言っている。（2 テモテ 3：15 も参照） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同様に、へブル 9：28 では、「キリストも、…二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる 人々の 救いのために来られるのです。」と言う。この最終的、完成した救いは、再臨のときに起こる。 1 ペテロ 1：5 は言う、「[信じる者]は、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに 現わされるように用意されている救いをいただくのです。」と。この救いは「終わりのとき現わされる よう用意されている」のである。これは改宗ではない。これは、私たちを救い、永遠に安全で、主のご臨在のうちにある喜びに満ち溢れるところへ導くための、神の最後の偉大なみ業である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ 5：9−10 で、パウロはこの救いを神の最終的み怒りからの救いとして語る―「ですから、今 すでにキリストの血によって義と認められた私たち[それが現在の救いの現実!]が、彼によって 神の 怒りから救われるの は、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解さ せられたのなら[これもまた、現在の救いの現実!]、和解させられた私たちが、彼のいのちによって 救いにあずかる のは、なおさらのことです。」言い換えると、救いの最大限の体験は、パウロの考え では、依然として未来にある。ローマ 13：11−「私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっ と近づいているからです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
であるから、パウロがローマ 1：16 で「[福音は]救いをもたらす神の力です」と言う時、福音は改宗へ だけでなく、永遠の安全と、聖く栄光ある神のご臨在のうちにある喜びへと、力強く人を連れていくこ とのできる、この世で唯一のメッセージである、と私はとらえる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 継続した確信がこの救いのための条件  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ 1：16 の“救い”が、 信じる者を永遠の安全と、聖く栄光ある神のご臨在のうちにある喜びへと 導くことにある、福音の最終的勝利 であると私が思う、第 3 の理由は、継続する確信がこの救いの ための条件、ということである。16 節は「福音は…信仰と救いを得させる神の力です」とは言ってい ないことに注意して欲しい。「福音は、…信じている[ギリシャ語の現在形で、継続した行為を意味す る]すべての人にとって、救いを得させる神の力」だという。言い換えると、パウロのここでのポイント は、信仰を造り出す福音の力ではなく、信仰のある者に救いをもたらす福音、ということである。であ るからポイントは、福音は信仰へと改宗させる力だということではない。ポイントは、福音は、信仰の 人生を 通して 未来の救いをもたらす力である、ということである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでの動詞、「信じる」の時制はとても重要である。それはあなたが改宗した時の、最初の信仰の 行為だけでなく、継続した行為を意味する―「福音は、…信じているすべての者[―信じ続けるもの] に救いを得させる、神の力である」それは 1 コリント 15：1−2 でパウロが言うのと同じである、「私 があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、 もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のこと ばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」 根気のない信仰は、無駄で空虚 な信仰である ―ヤコブはこれを「死んだ信仰」と呼ぶ(ヤコブ 2：17、26)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
であるからローマ 1：16 のポイントは、あなたは福音を恥と思う必要はない、なぜなら、もしあなたが それに日ごとに信頼するならば、すべての障害を乗り越え、あなたを永遠の安全と、聖く栄光ある神 のご臨在のうちにある喜びへと導く、この世で唯一の真理だからである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4.パウロは、福音は未信者のためだけのものではなく、信者のためのものであると言う &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
16 節において「救いが」このことを意味していると私がそのように思う理由は、この節が、パウロが 福音を信者(未信者だけでなく)に語りたいと思うその理由として上げられているからである。私たち はすでにそれを見てきたが、もう一度見てみよう。15 節において、パウロは言う、「私としては、ロー マにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」と。彼は、「あなたがた」に―あなたがた信 者に―未信者だけでなく、福音を伝えることに熱心である。そして彼はその理由を述べる―「なぜな ら私は福音を恥とは思わない。福音は、…そのようなすべての信者に救いを得させる神の力であ る。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
であるから、パウロが福音を恥と思わないその理由は、それはあなたが信仰をもって福音にいのち をささげるとき、それはあなたの信頼を裏切らない、この全世界でたった一つの真理だからである。 福音は私たちを、誘惑や迫害、死、永遠の安全と、聖く栄光ある神のご臨在のうちにある、いや増 す喜びへ至るさばきの中すべてを通らせてくれる。多くの改宗者を勝ち取るこの世の他のすべての「福音」は、最終的にあなたを見捨てる。ただお一人だけが、神の最終的怒りから救い、主のご臨在 の満ち溢れる喜びと、主の右の手にある永遠の喜びへと導いて下さる。それゆえ、誰が何と言おう が、何をしようが、福音を恥と思う必要はないのである。そして、ああ、信者、未信者に関わらず、私 たちはこの福音を彼らに語ることに、何と熱心にならなければならないことであろうか。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== あなたは日ごとに福音で育っているか?  ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これまで私が述べたことの暗示を持って、閉じる。あなたはこの勝利ある福音の約束をもって、信仰 を日ごとに育んでいるだろうか?信者として、日ごとに福音を読み、ローマ 8：32「私たちすべてのた めに、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのもの を、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」というようなみことばにあるその力を味わうだろ うか?福音は、私たちに必要なすべての良きものを獲得するため、神がご自分の御子を私たちにお 与えくださった、良い知らせである。それゆえ福音は、私たちが絶望や高ぶりやどん欲、性欲の誘惑 に勝利するための力である。福音だけがすべての障害に勝利し私たちを永遠の喜びへと導くことが できる。いかなる犠牲を払ってでも、福音に立ち、固く握りしめ、信じ、育まれ、味わい、銀や金より 価値あるものとして信頼せよ。福音はあなたを救う。そして福音だけが、である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
語りつげばや &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
みよちまたは・・ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
飢え渇きたる、人に満てり &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こはげに古き、教えなれど &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日々新しき歌とぞなる &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
語りつげばや世を去る日まで &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
語りつげばやイエスの愛を&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>PagePush</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/6_%E5%88%86%E3%81%A7%E7%A6%8F%E9%9F%B3</id>
		<title>6 分で福音</title>
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				<updated>2009-08-24T16:38:09Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;PagePush: Automated: copied from main site&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | The Gospel in 6 Minutes}}'''福音とは何か?''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福音とは何か? 一文にしてみる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福音とは、信じるものが罪に定められることなく、永遠のいのちを受けるため、私たちの罪のために死なれ、よみがえられ、主のすべての敵に対し永遠に勝利された、義なるお方、イエス・キリストの知らせである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが福音である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''あなたは福音が要らなくなることはない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたは、福音が必要なくなることは、決して、決して、決してない。福音を、「それによって救われ、それを離れることによって強くなり、他のことをするのだ」などと、決して考えてはならない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
否! 私たちは、眠りに落ちる日まで、毎日、福音を通して神によって強められる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたは、自分自身に福音を語って聞かせる必要がなくなることは、決してない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''福音はどのように強めるのか''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下は実例であるが、私がこの実例を用いるのは、私の人生から語るので大したことではないというわけではなく、これが私が通ったもので、福音の力が私を強めたことを去年、痛烈に体験したことだからである。(あなたがたの多くは前立腺よりもっと―さらに― 重いものを通らされている。) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2 月に、私にとって絶大だったみことばをあなたがたと分かちあったのを、覚えているだろうか?それは、医者が、「バイオプシー(生体組織検査)をしなくてはいけないと思うよ」」と言ったその直後、恐怖の一刺しが襲ってきたときだった。ありがたいことに、それは長続きしなかった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそれが来た―何か?1 テサロニケ 5：9−10 である。それはこれ以上純粋にはなれないというほど、純粋な福音である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「神は、私たちがみ怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
落ち着いた。平安が川のようにやってきた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''福音はあなたの必要にぴったりである''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それがまさに福音である―私の必要に寸分の狂いもなく、完ぺきに当てはまり、まったくふさわしい。それで聖書はそんなに分厚いのだ―なぜならあなたには沢山の違った必要があるから。そして福音があなたにはっきり分かるような、ふさわしい箇所があり、もしあなたが、神の人との交流のこの分厚い、栄光ある歴史の中に、キリストがあなたのために何を形作られ、あなたのために何を買い取られたのかに目を注ぎながら、本(聖書)全体にどっぷり浸かるなら、主はあなたの必要なものをお与えくださる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、私のうちにあるすべてのものがこのように言い、また私が死ぬ日まで言い続けたい、「どうか、パウロの福音による、私を強めて下さるお方―それは神―に、栄光が世々限りなくありますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神はイエス・キリストによって、歴史の中に来られた。主は地獄と死とサタンと罪の力を破壊するため、死なれた。そして主はそれを、イエス・キリストの福音を通して成された。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''信じるよう嘆願''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを読んでいる人の中で、イエス・キリストに信頼しておらず、それゆえ罪の定めしか 予期できない人がいることを、私は知っている。そのためこの文書の終わりに、あなた にお願いしたい―その反抗を放棄しなさい。降伏しなさい。そして、イエス・キリスト、神 の御子、義なるお方は、あなたの罪のために死なれたという福音を、単純に受け入れなさい。主は 3 日目によみがえり、その敵すべてに勝利された。主はご自身の敵すべてを 主の足元におくまで、君臨される。罪の赦しと神との正しい関係は、主を通してのみ、信 仰によってのみ、ただでやって来る。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたにお願いする、あなた自身の力で強くなろうとするな。その力はあなたが必要な 時に出てこない。たった一つの力があるだけである―福音によって神が与えて下さる力。 (キリストに降伏することを)延期してはいけない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[この原文は音声の訂正された筆記録である。「神は私たちを福音によって強められる (“God Strengthens Us by the Gospel”) 」の説教から抜粋。]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>PagePush</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%881</id>
		<title>パート1</title>
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				<updated>2009-08-24T16:37:48Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;PagePush: Automated: copied from main site&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | TULIP, Part 1}}入門 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ベツレヘム講習会のためのセミナー &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このセミナーの残りは以下参照： &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
TULIP, パート 2: 仮説―不可抵抗的恩恵 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
TULIP, パート 3: 不可抵抗的恩恵―完全堕落、完全無能性 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
TULIP, パート 4: 完全堕落―無条件的選び &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
TULIP, パート 5: 無条件的選び &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
TULIP, パート 6: 無条件的選び &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
TULIP, パート 7: 限定的贖罪 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
TULIP, パート 8: 聖徒の堅忍 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
TULIP, パート 9: カルヴァン派の５つの点を信じるゆえの１０の結果 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''セミナーノート''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#仮説 &lt;br /&gt;
#完全堕落、完全無能性 &lt;br /&gt;
#不可抵抗的恩恵 &lt;br /&gt;
#制限的贖罪 &lt;br /&gt;
#無条件的選び &lt;br /&gt;
#聖徒の堅忍&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 仮設  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1. 「聖書は神のことばであり、原本においては完全に霊感を受けた、誤りのないもの、聖霊の霊感のもとで書かれたものであり、信仰と行いのすべての事柄において最高権威を持つものである」''' (「ベツレヘム信仰信条」第一条より) 。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 聖書が神と人、そして救いについて教えていることを正しく理解することは、重要である。'''粗末な神学は神の名を汚し、また人を傷つける。真理の根を断つ教会は一時的には栄えるかも知れないが、最終的には枯れるか、キリスト教会以外のものに変わる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3. 御霊の働き、そして祈りによって御霊の働きを求めることは、聖書の真理を把握するのに必須である。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1 コリント 2:12-16 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。　この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。いったい、『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心があるのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4. 「考えること」は聖書の真理を理解するのに必須である。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1 コリント 14:20 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「兄弟たち。物の考え方において子どもではってはなりません。悪事については幼な子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2 テモテ 2:7 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5. 神は教会に、キリストのからだが、聖書の真理を理解し適応するのを助けるため、教師たちを任命される。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エペソ 4:11-12 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
へブル 13:7 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「神の言をあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の終末をよく見て、その信仰にならいなさい。」&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>PagePush</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%96%9C%E3%81%B3%E3%82%92%E5%8B%9D%E3%81%A1%E5%8F%96%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%82%88%E3%81%84%E3%81%AE%3F</id>
		<title>喜びを勝ち取るためにはどうすればよいの?</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%96%9C%E3%81%B3%E3%82%92%E5%8B%9D%E3%81%A1%E5%8F%96%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%82%88%E3%81%84%E3%81%AE%3F"/>
				<updated>2009-08-24T16:37:30Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;PagePush: Automated: copied from main site&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | How Shall We Fight for Joy?}}1. 神様への信仰による真の喜びは、神様からの贈り物だということを知ること &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2. 喜びとは、絶えずに勝ち取らなければならないものだということを知ること &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3. 自分の人生の中で自覚しているすべての罪を改める決意をすること &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4. 突然襲いいかかる罪悪感の秘密を、神様に正当化された罪人として戦うことによって、学ぶこと。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5. 戦いの主な目的は、神様のことを知ることだということを理解すること &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6. 神様の言葉を昼も夜も考え、祈ること &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7. 神様に対して常に心を開き、絶えず神様をもっと知ろうと祈ること &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8. 自分自身に耳を傾けるより、自分自身に説教をすることを学ぶこと &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9. 神様と真に飽和し、神様を知ること、そしてあなたが戦いに勝つことを助けてくれる人達と時間を過ごすこと。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10. 神様の存在が感じられない暗闇でも、忍耐強く信じること &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11. 適度に休み、正しい食生活をすることで、神様に創造された身体を大 切にすること。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12. 自然に現れる、神様のお告げを正しく理解し使うこと &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
13. 神様についての本や、偉大なキリストの使者たちの伝記を読むこと &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
14. 自分以外の人のために、その人達のためになることをすること。 　（キリスト様の証しや、奉仕） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
15. キリスト様のための地球規模のビジョンを持ち、イエス様を知らない 人たちに自分の人生を捧げること。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>PagePush</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%81%AE%E5%90%AB%E6%84%8F</id>
		<title>福音の含意</title>
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				<updated>2009-08-24T16:37:07Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;PagePush: Automated: copied from main site&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | Gospel Implications}}&amp;amp;nbsp; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''信者たちを福音の真理について考えさせ、まっすぐに歩むよう導く''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地域教会は次のようであれば健全である。（１）牧会する立場にある教師たちが、正しく効果的で、しかも幅広く信者たちに実生活の中で耐えていけるよう福音を伝達することができる。更に、（２）日々福音の善の中で生活できるよう、信者たちが福音の深い理解と正しい認識を持つ。私はこれを福音の&amp;lt;u&amp;gt;機能的中心&amp;lt;/u&amp;gt;と呼んでいる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この目的を達成するために重要なことは、福音とその教義上、行動上の関係を明確にすることである。これらの関係をそれぞれ「福音の真理」、「福音的行動」と呼ぶことができるかもしれない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三つ同心円を想像してみてほしい。中心にあるのは福音で、おそらくコリント人への手紙第一１５章３節の、「キリストはわたしたちの罪のために死なれた」という言葉が最も良く表している。この簡単な句は、私たちの罪の現実、神の罰、そしてキリストにあって神がご自身の怒りから救い出してくださったことを示している。パウロはこの「良き知らせ」を「最も重要なこと」として語り、彼の説教と書物の中で、このメッセージを優先していることがよくわかる（コリント人への手紙２章１～４節参照）。つまり、福音の中心である。しかし、&amp;lt;u&amp;gt;機能的な&amp;lt;/u&amp;gt;中心であるためには、信者たちが生活する領域と&amp;lt;u&amp;gt;結びついていなければ&amp;lt;/u&amp;gt;ならない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことは二つ目の円である福音の真実へと導く。福音の真実は、具体的で実際の教義上の福音の結果である。あるいはパウロが言っているように、「栄光の福音を形作る教え」（つまり、栄光の福音から形成される教え）である（テモテへの手紙第一１章１０～１１節）。これらの福音の真理は特に精神的に忍耐することができるために福音を導く。それらは、私たちの思考が更に福音の真理によって形成され、心を一新するのに役立つ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの期待するように、ローマ人への手紙は特に、これらの福音の真理に満たされている。三つの例を挙げてみよう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）ローマ人への手紙５章１節でパウロは次のように述べている。「&amp;lt;u&amp;gt;従って&amp;lt;/u&amp;gt;、私たちは信仰によって義と認められている&amp;lt;u&amp;gt;ので&amp;lt;/u&amp;gt;、私たちの主イエス・キリストによって神との平和を持っています。」この節の理論に注目してほしい。何かが重要な福音の真理から生じている。私たちの神との平和は福音そのものではなく、力強い福音の結果から生まれる、「福音の真理」なのである。そして、この福音の真理を理解することは、信者の考えを栄光の福音へと考えを適合させることの一部なのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）ローマ人への手紙８章１節では次のように書いてある。「&amp;lt;u&amp;gt;こういうわけで&amp;lt;/u&amp;gt;、&amp;lt;u&amp;gt;今は&amp;lt;/u&amp;gt;、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」再度、この議論に注目しよう。パウロはここで福音そのものではなく、「今」、&amp;lt;u&amp;gt;福音のゆえに&amp;lt;/u&amp;gt;真実である何かについて論じている。しかし、その影響は驚くべきものである。信者が完全に理解する時、それは彼らの精神世界を変革し、福音は力強く&amp;lt;u&amp;gt;機能する&amp;lt;/u&amp;gt;ことになる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）ローマ人への手紙８章３２節は私の気に入っている箇所だ。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、&amp;lt;u&amp;gt;御子といっしょに&amp;lt;/u&amp;gt;すべてのものも&amp;lt;u&amp;gt;同様に&amp;lt;/u&amp;gt;恵んでくださらないことがありましょう。」これらの「同様に」、「御子といっしょに」という言葉に注目してもらいたい。それらは福音から何かについて語っている。信者が福音の真理そのもの（「私たちすべてのためにご自分の御子さえ惜しまずに死に渡された」）と私たちが聖化（２８～２９節参照）のために必要なすべての神のあわれみ、深い賜物に関しての福音の真理との間の関係を見る時、福音は神の供給の中で日々の信頼を強化するのに役割を果たす。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、福音は私たちの考えを形成するだけでなく、福音による大きな行動上における影響もある。福音は私たちの心を一新するだけでなく、私たちの行いにも影響する。聖書はこの福音に基づく生活の多くの例を提示している。ガラテヤ人への手紙２章１４節でパウロはペテロを「福音の真理についてまっすぐに歩んでいない」ことについて非難しているし、ピリピ人への手紙１章２７節ではパウロは信者たちに「福音にふさわしく&amp;lt;u&amp;gt;ふるまう&amp;lt;/u&amp;gt;」ことを促している。言い換えれば、福音が機能すべき方法の一つは、具体的な行動をとることによってなのである。このようにして、私たちはこれらの関係を見つけられるように聖書を読むべきなのである。従って、例えば、パウロがコリント人たちに「不品行を避けなさい」と訴える時、彼は明確に福音に基づいているのである。「あなた方は自分自身のものではありません。代価を払って買い取られたのです。&amp;lt;u&amp;gt;ですから&amp;lt;/u&amp;gt;自分の体をもって、神の栄光を現しなさい」（コリント人への手紙第一６章１８節～２０節）。パウロが赦しを促す時、はっきりと福音の動機と模範を考慮している（エペソ人への手紙４章３２節）。また、夫たちに自分の妻を愛するように勧めているのは、直接福音に関わっている（エペソ人への手紙５章２５節）。コリント人へ、自発的に寛容さを示すよう呼びかけているのは、明らかに、福音の中での神の偉大な行為を思い起こさせる（コリント人への手紙第二８章７，９節、９章１２～１３，１５節）。他にももっとたくさんの例が挙げられるかもしれない。最終的には、すべてのクリスチャンの行為は福音に満たされているべきなのだ。働きすぎて疲れ果ててしまうのは避けるべきだが、この関係は生活のあらゆる面で存在するべきだ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧会する立場にある教師に課されている最大の課題と重要な仕事の一つは、これらの関係を明確に&amp;lt;u&amp;gt;示す&amp;lt;/u&amp;gt;ことだ。それにより、信者たちが彼らの思考と行いの両方に耐えるために具体的そして知恵を持って福音を用いることができる。このようにして、福音は個々のクリスチャンと地域教会にとって&amp;lt;u&amp;gt;機能的に&amp;lt;/u&amp;gt;中心となるのだ。&amp;lt;u&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;/u&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>PagePush</name></author>	</entry>

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		<title>神は福音である</title>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | God Is the Gospel}}あなたは、一体神の赦しに価値があるのかどうか、質問したことがあるだろうか?あるい は、永遠のいのちについてはどうだろう?なぜ人は永遠のいのちが欲しいと思うのか、と 質問したことはあるだろうか? なぜ私たちは永遠に生きたいと思わなければならないの か?これらの質問は重要である、なぜなら赦しや永遠のいのちを持っていないという理 由で、それらが欲しいと思うことが可能だからである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、赦しをとってみよう。あなたは、罪悪感でさいなまれ大変惨めであるため、神の 赦しが欲しいと思うかも知れない。あなたはただ単に安堵が欲しいだけである。もし主 はあなたを赦して下さると、あなたが信じることができるなら、少々の安堵はあるかも知れないが、それが必ずしも救いとは限らない。もしあなたが感情的安堵のために赦しが 欲しいと思うのであるならば、あなたは神の赦しを受けることはない。主は、主ご自身で はなく、ただ単に主の賜物を受けるためだけに赦しを利用する人には、それをお与えにならない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいはあなたは病から癒されたい、いい仕事が欲しい、伴侶が欲しいと思うかもしれ ない。そして神がそれらを得ることを助けて下さるが、まずあなたの罪が赦されなけれ ばならないと聞く。誰かがあなたに、キリストはあなたの罪のため死なれたと信じなさい、もしこれを信じたなら、あなたの罪は赦されると言う。そのためあなたは、健康と仕事と 伴侶を受けるための障害を取り除くため、それを信じる。それは福音の救いであろうか? 私はそうは思わない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えると、赦しを通してあなたが願っていることは、とても重要である。あなたがどう してそれらが欲しいのかは、とても重要である。もし、あなたが被造物を満喫するためだ けに赦されたいと思うのであるなら、創造主は誉めたたえられないし、あなたは救われない。赦しとは、たった一つの究極な理由で、尊いもの―それは神との交わりをあなた が楽しむことを可能にするものである。もしあなたが神との交わりを楽しむために赦しを 受けたいと思わないのであるなら、あなたは赦しそのものさえも受けない。神を、偶像を買うための通貨として利用することはできない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同様に聞く―なぜ私たちは永遠のいのちが欲しいのか?ある人はこのように言うかも知 れない―なぜなら地獄がその代替のもので、それは痛いから。またある人はこのように 言うかも知れない―私の愛する人たちが天に行ったので、私も彼らと共にいたいから。他に、終わりのないセックスと食べ物を夢見ている人もいるかもしれない。あるいはより 良い富を。これらすべての目標のなかで、欠けているものが一つある―神である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永遠のいのちが欲しいというための救いの動機はヨハネ 17：3 で与えられている―「そ の永遠のいのちとは、彼らが唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエ ス・キリストを知ることです。」もし私たちが、神のうちにある喜びという意味なので、永遠のいのちが欲しくないと思うのなら、私たちは永遠のいのちを受けない。もし私たちがキ リストより他に愛するものを得るため、キリストの栄光ある福音を利用するのなら、私た ちはクリスチャンであることを単純にごまかしているだけである。「良い知らせ」が良いと、神が最高の良きお方でない人に対して、証明されることはない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジョナサン・エドワードは 1731 年、彼の会衆に対してこのように説教した。赦しといのち の真の良さがあなたのうちによみがえってくるよう、以下をゆっくり読んで欲しい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
贖われた者は神のうちにある物体のすべての良きものを持っている。神ご自身が、贖 いによって彼らが所有し楽しむように導かれて来た、最上の良きお方であられる。主は 最高に良きお方であり、キリストが買い取られたすべての良きものの集約であられる。神は聖徒の相続財産であられる。主は彼らの魂の分け与えられた地であられる。神は 彼らの富み、宝、彼らの食物、彼らのいのち、彼らの宿所、彼らの装飾また王冠、そして 彼らの永遠の栄誉と栄光であられる。彼らには天において、神以外に他には何もない。神こそが、贖われた者たちが死の際に受け入れていただき、この世の終わりによみが えるべき、偉大な良いお方である。主なる神、主こそ天上のエルサレムの光であられ、「神のパラダイスの真中」で流れ、いのちの木が育つ、「いのちの水の川」であられる。神の栄光ある優秀さと美しさは、聖徒の心を永遠に楽しませ、そして神の愛は彼らの永 遠の祝宴になる。贖われた者たちは事実他のものをも楽しむ。彼らはみ使いたちを楽し み、あるいはお互いを楽しむであろう。しかし、彼らがみ使いや、お互い、あるいは他の何ものをも楽しむのは、それらのうちにおられる神に見られる、喜びと幸せをもたらすも のである。(ジョナサン・エドワードの説教：選集 [New Haven: Yale University Press, 1999 年], 74-75 ページ) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたと共に福音を通して神を味わっている、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジョン牧師&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>生命の訓練</title>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | Disciplines for Life}}&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>クリスチャンの勇気</title>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | Christian Courage}}クリスチャンの勇気とは、神様がキリストを通してあなたを導き、救うという約束を信じて、この世の犠牲をかえりみずに正しいことを言い、また行うことです。これが苦痛を伴うものであれば、当然勇気が必要になります。苦痛には、戦争や救助活動のように肉体的な苦痛をともなうものもあれば、他人からの反対や論争のように精神的な苦痛をともなうものあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリストが訓えられた真理を広く伝え、また守っていくには、勇気がどうしても必要です。福音の伝道には人々の反感をともなうと、キリスト自身が訓えています。「その時、あなたがたは苦しめられ、殺されることもあるでしょう。また、わたしの弟子だとういだけで、世界中の人から憎まれるでしょう。」（マタイ 24:9）。またパウロは、教会内においてさえも、真理の信仰は困難に直面すると警告しました。「私が去ったあと、凶暴な狼のような儀教師たちが忍び込み、情け容赦なく群れをあらし回るでしょう。それだけじゃありません。あなたがたの中からも、弟子を自分の側に引き込みたいばかりに真理を曲げる者がでるでしょう。」（使徒の働き 20:29-30。テモテへの手紙第二 4:3-4も参照。） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから、真の福音の信仰と布教には勇気が必要なのです。福音の信仰や伝道の際に直面する人々の抵抗を避けては、キリストの名誉にそむきます。また、「言っても安全な真理のみを伝える」といった、ある種の臆病さがあるのも事実です。マルチン・ルターはこれを次のように述べています&amp;amp;nbsp;: &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえ私が神の真実をすべて声高らかに、限りなく明瞭に説いたとしても、世間や邪悪な者が批判している事柄を避けて通っては、キリストへの信仰を告白していることにはなりません。戦闘が激しさを増した時に、兵の忠誠が試されます。あらゆる戦場での忠誠も、いざという時に後ずさりしたのでは単なる逃避であり、不名誉に他なりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（パーカー・T.ウィリアムソン （1996） 『信仰に根ざして&amp;amp;nbsp;: 論争の時代におけるキリスト教信仰の復活Standing Firm: Reclaiming Christian Faith in Times of Controversy』 PLCパブリケーションズ（ペンシルバニア州スプリングフィールド）より抜粋） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、私たちはどのようにすれば、こうした勇気を持てるのでしょうか。以下の聖書の訓えを元に考えてみて下さい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''あなたは罪を赦され、神様に従っています。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「悪者はおわれもしないのに逃げ回りますが、神様を恐れる人にこわいものはありません。」（箴言 28:1） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「イエスはこの人たちの信仰を見て、病人に、『さあ、元気を出しなさい。わたしがあなたの罪を赦したのですから』と言われました。」（マタイによる福音書 9:2） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神様を信頼し、神様に希望を託す。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「さあ、元気を出しなさい。もし、神様に信頼しているなら、雄々しく立ち上がりなさい。」（詩篇 31:24。コリント人への手紙第二3:12も参照。） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''あなたは精霊に満たされています。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「一同はたちまち精霊に満たされて、大胆に神の教えを語り始めました。」（使徒の働き 4:31） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神様は常に、あなたとともにいると約束されました。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「さあ、男らしく勇気を出せ。恐れや迷いを蹴散らせ。いいか、どこへ行っても、おまえの神であるわたしが、ついているのだ。」（ヨシュア記 1:9） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''あなたとともにおられる神様にとっては、どのような困難も困難ではありません。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「強く、勇敢であれ。アッシリヤ王とその大軍を恐れるな。アッシリヤ王よりもはるかに偉大な方が、われわれと共におれれるのだ！アッシリヤ王の率いる大軍は、ただの人間の集まりにすぎない。わが軍には、われわれのために戦ってくださる神様が、ついておれるのだ！」（歴代誌第二 32:7） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''どのような困難の行方も、神様が支配しておられます。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「勇気を出せ！われわれの肩には同胞のいのちと、神様の町々の安全がかかっている。がんばるんだ。必ず神様のおこころのとおりになるのだからな！」（サムエル記第二 10:12） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神様へお祈りする。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「必ず私の祈りに答えて、力を与え、励ましてくださいます。」（詩篇 138:3。エペソ人への手紙６：１９－２０も参照） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''他のクリスチャンの経験から学ぶ。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「また、私を見て、ここにいる多くのクリスチャンは、投獄など恐れなくなりました。ともかく、彼らは耐え忍んでいる私の姿に勇気づけられ、ますます大胆に、キリスト様のことを人々に語るようになったのです。」（ピリピ人への手紙 1:14） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ご一緒に勇気を持ち、信仰を深めて参りましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジョン・パイパー（牧師）&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>PagePush</name></author>	</entry>

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		<title>キリストは今の悪の世界から私たちを救い 出すため、苦しんで死なれた</title>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | Christ Suffered and Died to Deliver Us from the Present Evil}} &lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;ガラテヤ 1:4 &amp;lt;/blockquote&amp;gt;&amp;lt;blockquote&amp;gt;キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 &amp;lt;/blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
私たちが死ぬまで、あるいはキリストがご自身のみ国を確立するため戻られるまで、私 たちは「今の悪の世界[時代]」に生きる。それゆえ、聖書がキリストは「今の悪の世界[時 代]から私たちを救い出そうとして」ご自身をお捨てになったというとき、それは私たちをこの世から連れ出される、という意味ではなく、この世にいる悪しき者の力から私たちを 救い出される、という意味である。イエスはこのように私たちのために祈られた―「彼ら をこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるように お願いします」(ヨハネ 17：15)と。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスが「悪い者」からの救出を祈られる理由は、「今の悪の世界[時代]」がサタンが騙 し破壊する自由を与えられている時代だからである。聖書は言う、「全世界は悪い者の 支配下にあることを知っています」(1 ヨハネ 5：19)と。この「悪い者」は、「この世の神」と 呼ばれており、彼の主な目的は人々を真理に対し盲目にすることである。「この世の神 が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を 輝かせ[見]ないようにしているのです。」(2 コリント 4：4) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの盲目にさせられた霊的状態に気付かない限り、私たちは「今の悪の世界[時代]」 とその支配者に同調して、生きるのである。「(あなた方は)そのころは、それらの罪の中 にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」(エペソ 2：2)。知らずに、私たちは悪魔にへ つらう者たちであった。束縛のない者のように感じていたことは、束縛であった。聖書が 「その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです」(2 ペテロ 2：19)と言うとき、21 世紀 の流行、楽しみ、依存症に、直接語っている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書にある自由を鳴り響かせる叫びは、「この世と調子を合せてはいけません。いや、むしろ、…心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ 12：2)である。言い換えると、自 由になりなさい!この時代のグルたちに騙されてはいけない。彼らは今日は存在するが、明日はいなくなる。奴隷にしてしまう一つの流行は、他の流行に取って代わる。30 年後 には入れ墨は自由の印ではなく、消すことのできないこの世に対する服従を思い出させ るものになる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時代の知恵は、永遠から見ると愚かである。「だれも自分を欺いてはいけません。 もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには 愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神のみ前では愚かだからです。…十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かです」(1 コリント 3：18−19、1：18)。それでは、この時代の神の知恵とは何か?それはイエス・キリストの、私たちを自由にさせる偉大な 死である。初代のイエスの弟子たちはこのように言った、「しかし私たちは十字架につけ られたキリストを宣べ伝えるのです。…キリストは神の力、神の知恵なのです」(1 コリン ト 1：23)と。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリストが十字架へ上られたとき、多くの捕虜を自由にされた。主は悪魔の詐欺を暴き、 その力を打ち破られた。十字架に架けられる前夜、主が、「今、この世を支配する者は 追いだされるのです」(ヨハネ 12：31)と言われたとき、そのことを意味したのである。打ち負かされた者に従ってはならない。それは犠牲を払うことになる。あなたはこの時代 では追放者になるかも知れない。しかしあなたは自由になる。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>PagePush</name></author>	</entry>

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		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%80%85%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A1%E3%81%AE%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B6%88%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B_%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</id>
		<title>再生された者の名がいのちの書から消される ことがあるのか?</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%80%85%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A1%E3%81%AE%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B6%88%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B_%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%3F"/>
				<updated>2009-08-24T16:35:32Z</updated>
		
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | Can the Regenerate Be Erased From the Book of Life?}}''黙示 3：5 における黙想'' &lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;黙示 3:5&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&amp;lt;blockquote&amp;gt;&amp;amp;nbsp;勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から 消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い 表わす。 &amp;lt;/blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
年末が近づいている。終末は私たちに忍耐について考えさせる。新しい年(もうすぐ)まで辿りついた。またこの年も乗り越えることができるだろうか?さらに大切なこと―イエスが言われるように、最後ま で、私たちは救われるため、耐え忍ぶだろうか?忍耐は貴重な約束であり、賜物である。それは苦闘 なしにはない。しかし私たちは勝利者として苦闘する。であるからこの年の背に、よい戦いを再度闘 い抜き、神はあなたの名をいのちの書から消されるようなことはないと、深く確信するため、ここであ なたを励ましたい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖徒は最後まで信仰を貫き通して救われるという、貴重な聖書的真理は、代々容赦なく反対されて きている。それにも関わらず、その真理は、選ばれた者の救いを完成するための、神の主権的誠実 さの上に堅くあり、持ちこたえる。主はそれを永遠のうちに計画され、十字架上でのキリストの死の うちに買い取られ、そして御霊を通して適応しておられる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ 8：30 は言う、「[神は]召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与え になりました。」と。言い換えると、私たちのクリスチャン人生の最初の信仰における義認と、私たち の体のよみがえりの際の栄光化の出来事(ピリピ 3：21)の間には、脱落者、緊急脱出者、あるいは 中途退学者はいないのである。「[神が]義と認めた人々には、さらに栄光をお与えになった」―それ らすべての者、である。神が義と認められた者は、神が守られ聖くされ、彼らが信仰を保ち、最後ま で耐え忍んで救われるよう、主がされる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1 ヨハネ 2：19 は、私たちがどのように、脱落したかのように見える者たちを理解しなければならな いか、描く―「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。 もし私たちの中まであったのなら、私たちといっしょにとどまっていた ことでしょう。しかし、そうなった のは、彼らがみな私たちの中までなかったことが明らかにされるためなのです。」と。言い換えると、 耐え忍ばなかったのは、真に生まれ変わって義と認められて、堕落したしるしではない。むしろ、耐 え忍ばなかったのは、真に神の再生された民のうちのものでは決してなかった、というしるしである。 それが 1 ヨハネ 2：19 のあからさまなポイントである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とは言え、中にはこの教えを拒否するようある人々を納得させたみことばもある。私がここで考える み言葉の一つは、主イエスが言われる、黙示録 3：5 の、「勝利を得る者は、このように白い衣を着 せられる。そして、 わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない 。わたしは彼の 名をわたしの父の御前とみ使いたちの前で言い表わす。」である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中にはこのみことばが、聖徒の堅忍の教理が間違いのない教えであることを否定するみことばであ ると言う者もいる。彼らは、黙示 3：5 で神が彼の名をいのちの書から消さないと言われているのは、 主がいのちの書から名を消す者もおり、それは一度義と認められ、その後とがめられた者たちであ ることを意味する、と推測する。しかしそれは正当な推測であろうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「わたしは彼の名をいのちの書から消さない」という約束は、中には名が消される者もいる、というこ とを必ずしも暗示しない。それは、書に名が記され、信仰において勝利する者に対し、「あなたの名 を一掃しない」と単純に言うだけである。言い換えると、末梢されるということは恐ろしい予想で、私 はそれが起こることを許さない。書にあなたの名が残されるよう守るよ。それが耐え忍び勝利する者 に約束されたその約束の一つである。それは、勝利せずキリストから離れ去る者の名が書にしるさ れたが、抹消された、とは言わない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事実、黙示録には、あなたの名が書にしるされるということは、あなたが間違いなく耐え忍び勝利す ることであると、教えているように思われる箇所が二つある。黙示録 13：8 をよく考えて見よ。「地に 住むもので、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者は み な、彼[獣]を拝むようになる。」この節は、「この世の初めから」小羊のいのちの書にその名が書き記 されている者は、間違いなく獣を拝ま ない ということを暗示している。言い換えると、この世の初めか らいのちの書に名が書き記されることは、神があなたを堕落から守られ、神に対する忠誠において あなたが耐え忍ぶことをかなえてくださる、という意味のように思われる。いのちの書に名があると は、あなたが信仰を捨てることはない、と言う意味である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同様に、黙示録 17：8 を熟考してみよ。「あなたが見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、や がて底知れぬ所から上って来ます。そして彼は、ついには滅びます。地上に住む者たちで、世の初 めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて 現れるのを見て驚きます。」再度、この世の初めからいのちの書に名が書き記されているということは、獣を「見て驚く」ことからその人を守るようである。この世の初めからいのちの書に名が書き記さ れて いない 者たちは、見て驚く。もしあなたの名がそれに書き記されて いる のであれば、あなたは獣 を見て驚か ない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで教えているのは、書に名前が書きしるされていることは十分、ということである。すなわち、そ れが人の反応を明確に左右するのである。この世の初めからあなたの名が小羊のいのちの書に書 きしるされていることが、あなたが獣を拝んだり驚いたりしないことを保証する。ヨハネは、「もしあな たが獣を拝んだら、あなたの名は消される」とは言わない。彼は、「もしあなたの名が書きしるされて いるならば、あなたは獣を拝まない」と言う。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは黙示録 3：5 の、「勝利を得る者は…わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決 してしない。」というのと合致する。3：5 の勝利の要求は、13：8 と 17：8 で保証されている。これは、 「恐れおののいて自分の救いを達成してください。なぜなら[原文]神は、みこころのままに、あなたが たのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ 2：12−13)とパウロが言う のと矛盾しない。条件を述べること―もしあなたが勝利するならば、神はあなたの名を消すことはな さらない(3：5)、保証を述べること―もしあなたの名が書きしるされているなら、あなたは勝利する (13：8 と 17：8)は、ナンセンスではない。神の「名が書き記された者たち」は勝利 しなければならなく 、そして勝利 する のである。一方で私たちの責務を強調、他方で神の主権を強調する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この真理の実践上の効果は、私たちが信仰と愛と聖さについていんぎんな紳士になる、ということ にあるのではない。クリスチャン人生において、用心(へブル 3：12)と、努力(ルカ 13：24)と、追及(へ ブル 12：14)は必要である。しかしむしろその効果は、この「信仰の戦い」において、私たちは置き去 りにされていないという保証の上に安息する、ということにある。あなたを召された神は、「あなたが たを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保って下さ る」(1 コリント 1：8)誠実なお方である。「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのこと[あ なたを聖くすること]をしてくださいます。」(1 テサロニケ 5：24)。主は、主が始められた救いを完成し てくださる(ピリピ 1：6)。私たちは神の御力によって守られている(1 ペテロ 1：5)。私たちは戦わ なけ ればならない 、なぜなら耐え忍ぶ者だけが救われるからである(マルコ 13：13)。そして私たちは戦う、なぜなら主のみこころにかなったことを私たちが行うことができるよう、主が私たちのうちに働いてお られるからである(へブル 13：21)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(この記事は 1997 年に最初に書かれ、Taste and See (味わって見よ)に掲載されている。)&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>PagePush</name></author>	</entry>

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		<title>神様からのあなたへの約束</title>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Promise for You!}}''“わたしは彼らと永遠の契約を立てて、彼らを見捨てずに恵みを施すことを誓い、また私を恐れる恐れを彼らの心の置いて、私を離れることがないようにしよう。私は、彼らに恵みを施すことを喜びとし、心を尽くし、精神をつくし、真実をもって彼らをこの地に植える”（エレミヤ書　３２：４０，４１）'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この章が、落ち込んだとき、私が何度も思い出す神様の約束の中のひとつです。（牧師だって、落ち込むことがあります！）神様が、私達に喜んで良いことをしてくれるということ以上に、勇気づけられる事実があるでしょうか？神様は、嫌々私達との約束を果たすお方ではありません。（ローマ書８：２８）私たちに良いことをもたらすのは、神様の喜びなのです。しかも、時々ではなくて、どんな時もです！神様は、こう言います“私は、彼らに良いことをもたらすことを決してやめない。” &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも、あまりにも状況が難局すぎて、喜びを見出せないこともあります。そういう状況に陥ったとき、私は、アブラハムの真似をしてみます。“彼は望みえないのに、望みつつ信じた”（ローマ書　４：１８） 神様は、そんな状況にいる私の、ほんの少しの信仰を忠実に守ってくれます。そして（すぐにではないですが）、最終的に、その消えかけの火のような信仰を、幸せと強い自信の炎へと燃え上がらせてくれます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神様の一番幸せは、私とあなたに、良いことをもたらすことだという事実が、私を幸せにします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神様の約束に安静して、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジョン牧師&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>私が神の霊感による聖書に感謝する１０の理由</title>
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&lt;div&gt;{{ info | 10 Reasons Why I Am Thankful for the God-Breathed Bible}}'''１ 聖書はすべての従順の源である信仰を自覚させる。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのように、信仰は'''聞く'''ことから始まり、聞くことは、'''キリストについてのみことば'''によるのです。(ローマ10:17) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''２ 聖書は罪から解放する。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、あなたがたは'''真理'''を知り、'''真理'''はあなたがたを自由にします。(ヨハネ 8:32) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''３ 聖書はサタンから解放する。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、'''よく教え'''、よく忍び、 反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて'''真理を悟らせてくださる'''でしょう。 &amp;lt;br&amp;gt;それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。(2 テモテ 2:24-26) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''４ 聖書は聖別する。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''真理'''によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。(ヨハネ 17:17) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''５ 聖書は堕落から解放し、神の性質を与える。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが'''知ったこ'''とによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。 &amp;lt;br&amp;gt;その栄光と徳によって、尊い、すばらしい'''約束'''が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束'''のゆえに'''、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(2 ペテロ 1:3-4) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''６ 聖書は愛を供給する。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は祈っています。あなたがたの愛が真の'''知識'''とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり。(ピリピ 1:9) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この'''命令'''は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。(1 テモテ 1:5) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''７ 聖書は救う。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分自身にも、'''教える事'''にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。(1 テモテ 4:16) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、'''神のご計画の全体'''を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。 (使徒の働き20:26-27) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために'''真理'''への愛を受け入れなかったからです。(2 テサロニケ2:10) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''８ 聖書は喜びを与える。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
わたしがこれらのことをあなたがたに'''話した'''のは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。(ヨハネ 15:11) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''９ 聖書は主を現す。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主は再びシロで現われた。主のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現わされたからである。(1 サムエル 3:21) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''１０ 従って、'''聖書は私の幸福な家庭、人生、奉仕の基盤であり、永遠に神と共にいることへの希望である。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>PagePush</name></author>	</entry>

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