<?xml version="1.0"?>
<?xml-stylesheet type="text/css" href="http://ja.gospeltranslations.org/w/skins/common/feed.css?239"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom" xml:lang="ja">
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/w/index.php?feed=atom&amp;target=Taiki&amp;title=%E7%89%B9%E5%88%A5%3A%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2%2FTaiki</id>
		<title>è�–æ›¸ã�®æœ¬ã�Šã‚ˆã�³èª¬æ•™ - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
		<link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://ja.gospeltranslations.org/w/index.php?feed=atom&amp;target=Taiki&amp;title=%E7%89%B9%E5%88%A5%3A%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2%2FTaiki"/>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/Taiki"/>
		<updated>2026-05-04T07:27:03Z</updated>
		<subtitle>提供: è�–æ›¸ã�®æœ¬ã�Šã‚ˆã�³èª¬æ•™</subtitle>
		<generator>MediaWiki 1.16alpha</generator>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E9%95%B7%E8%80%81</id>
		<title>「神の栄光の現れ、/長老</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E9%95%B7%E8%80%81"/>
				<updated>2009-09-25T02:28:03Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Taiki: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info| A Display of God's Glory/Elders}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
執事職同様重要であり、キリスト者として共に生きるうえでより本質 的な務めが、もう一つの群の働きであり、今からみる－ 長老たちです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅰ ． 長老の複数性''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地域教会における長老について、まず最初に言及すべきことは、彼 ら長老たちが複数形で存在するという点です。特定の会衆に対して、 長老の数は明確には述べられてはいませんが、新約聖書は一様に「長 老」を複数形で表しています（ 例: 使徒16:4&amp;amp;nbsp;; 20:17&amp;amp;nbsp;; 21:18&amp;amp;nbsp;; テトス1:5&amp;amp;nbsp;; ヤコブ5:14）。福音書や使徒の働きの中で言及されるイスラエルの長老 たちも複数形です。天における長老たちも複数形です（ 黙示 5:14&amp;amp;nbsp;; 11:16&amp;amp;nbsp;; 19:4 ）。使徒1 1 章3 0 節で、長老は複数です。使徒1 4 章1 節から2 3 節で、''「彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子として から、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たち の心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、･･･パウロとバ ルナバは彼らのために教会ごとに長老を任命し〔又は選び〕、断食して 祈った後、彼らをその信じていた主にゆだねた」''とあります。もし使 徒1 5 章を通して見るならば、2 節、4 節、6 節と2 3 節でそれぞれ複数 形で長老が用いられているのがわかります。使徒1 6 章4 節で、長老と いう単語は複数形で表れています。使徒2 0 章1 7 節では、パウロが自 分自身をエペソの教会の長老を呼んでいます。使徒2 0 章2 8 節や、'''Ⅰ''' テモテ4 章1 4 節、5 章1 7 節なども同様です。テトス1 章5 節では、パ ウロは次のように述べています。「''私があなたをクレテに残したのは、 あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町 ごとに長老たちを任命するためでした…'' 」。ヤゴブ5 章1 4 節でヤコブ は、地域教会（ 単数） の長老たち（ 複数形） が病気の人のために祈り に来る様子を描いています。'''Ⅰ''' ペテロ5 章1 節では、ペテロは彼らキ リスト者の中にいる長老たちに訴えかけています。実は、唯一の例外 が、第二、第三ヨハネにあります。そこでは作者は単に自らを「長老」 と言及し、'''Ⅰ''' テモテ5 章では、もし長老に対する訴えがでた場合に、 どのように対処すべきかについて教会の判例が挙げられています。し かしながら基本的に新約聖書における状況は、地域教会の中には一人 の長老ではなく、通常長老たちの群れが存在していたということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅱ ．長老の資格''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だれが長老になるべきでしょうか？ 彼らの資格はどのようなもので あるべきでしょうか？ 長老たちに対する資格は、聖書の'''Ⅰ''' テモテ3 章 とテトス1 章に明確に記されています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅰ''' テモテ3 章を見る前に、'''Ⅰ''' テモテ2 章で挙げられている重要な問 題について注意を払う必要があります。それは、女性が長老として仕 えることは神の御心ではないということです。'''Ⅰ''' テモテ2 章の曖昧な 表現をめぐっては、多くの質問が投げかけられてきました。常に安全 な方策は、曖昧な部分があるからと言ってすでに明確なところを疑う のではなく、聖書の明確な箇所から始めて、神がより曖昧なところに 光を当ててくださるよう祈ることにあります。'''Ⅰ''' テモテ2 章において 明確なことは、女性は教えたり、男性の上に権威を持つべきではない ということでした。パウロがここで不適切であると言わんとしている 正確な権威が何であろうとも、女性が教えることが含まれていること は明らかです。初代教会における慣例は、夫が妻を支配するという創 造の秩序がそのまま教会において慣例となっている、ということです。 ガラテヤ3 章2 8 節で明らかなことは、キリストにあっては男も女もな いということです。しかしながらこのことは、男女の間の性における すべての区別を無視するものではなく、かえって、救いにおける神の 恵みのすばらしく公平なことを単に確認しているのだと捉えます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上のことを踏まえて、'''Ⅰ''' テモテ3 章を見てみましょう。しばらく 時間を取って、'''Ⅰ''' テモテ3 章1 節から7 節を読んでください。D． A ． カーソン（ トリニティ神学校の新約学の教授） はかつて、このリスト に載っている特徴は、全く注目に値しないという点で、最も注目に値 すると述べています。彼が言わんとすることは、これらすべての特徴 は聖書のあらゆるところにおいて、キリスト者全員に課せられている ことであります－ すなわち、教える能力（ '''Ⅰ''' テモテ3&amp;amp;nbsp;: 2） 以外のすべて は。聖書はここで長老の特徴について十分な位に私たちに教えていま すが、パウロがこのリストを完全なものであると主張しているとは私 には思えません。むしろ彼の目的は、当時の周囲の文化からも道徳的 であるとみなされる一般的な特徴を羅列しただけであると考えます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会における指導者の目的は、外部の人たちに真理を推薦すること で、神に栄光を帰することです。このことは、パウロがコリントの教 会において互いの争いをこの世の裁判所に訴え出て、甚だしく不品行 な生活を送る者たちが教会と交際するのを許していることを怒った理 由でもあります。これらのことは両方とも福音の証言を台無しにする ことでしょう。従ってパウロは'''Ⅰ''' テモテで、エペソ教会で幾人かの偽 教師の明らかな不信仰によって、赦しと希望の福音の宣言、そして罪 人の回心という教会を通して現される神の栄光を徹底的に危険にさら されていることを指摘するのです。パウロが'''Ⅰ''' テモテ3 章（ またはテ トス1 章） で挙げている徳のリストは、キリスト者が現すべきすべて ではないのです。それらは、教会指導者たちを監督する立場にある人々 へ、福音を委託したところの徳です。規則正しい聖書朗読は良いこと ですし、祈りは必要です。しかし、パウロがここで述べていることは、 そのどちらでもないのです。それにもかかわらず、私は自分の教会の 長老たちにはそれらの徳の両方を備えてもらいたいと思います。聖書 の他のところで私が教えられてきたことは、それらの徳はすべてのキ リスト者を描写するためであり、ここでパウロが言わんとしているこ とは、私が思うに、時間どおりにお金を払うとか、いつも喜んでいる とか、謙虚で人の役に立つとか－ 異教徒でさえも良いと認める事柄を、 彼は強調したかったのではないでしょうか。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、どのようにして自分の教会でそのような指導者を見つけ出せ ばいいのでしょうか？ 私たちは、このことにおいて神の知恵があるよ うに祈ります。私たちは、特にそのような責任についての資格が教え られている'''Ⅰ''' テモテとテトスの箇所を学びたいと思います。指導者を 選ぶ際に、私たちはこの世の基準には従いません。ある教会が実際に 行っているような、単に会衆の中に地域の指導者を見つけ、そのまま 教会の指導者にするような真似はすべきではありません。オズ・ギネ スが彼の著書''「Dining with Devil」''の中で、日本人ビジネスマンが 滞在中のオーストリア人に言ったコメントを詳しく紹介しています： 「仏教指導者に会う時はいつも、私は聖職者に会います。キリスト教 の指導者に会う時はいつも、経営者に会うのです」（ p . 4 9 ）。その代わ りに、私たちは、人格者で、評判がよく、御言葉を論じる能力があり、 教会の中でよい指導者として特徴付けている豊かな実を備えている人 物を探すべきです。これら教会指導者の特色は、彼ら自身の上にでは なく、他者の上に建てられるということです。従って、彼らはお金に 無欲であり、かえって知らない人をもてなし－ まさにそれが「温かく もてなす」の字義的意味でもあります。真の教会指導者は、他者中心 であるべきなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅲ . 歴史的概観''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべての教会が、たとえ異なる名前で呼ばれていても、長老の働き をする個々人を擁しています。この職務に対する新約聖書の最も一般 的な名前は、episcopos (監督)とpresbuteros（ 長老） です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日福音派が単語で「長老」と聞くと、多くの人はすぐに「プレス ビテリェン（ 長老教会派の）」を思い浮かべることでしょう。しかしな がら、1 6 世紀の最初の組合教会主義者たちは、長老職が新約聖書の教 会におけるひとつの職務であると教えられました。長老を長老派と関 連させるのは歴史的には正確ですが、もっぱら長老派だけに関連させ るのは正確でありません。またその単語がバプテスト派にとって、無 関係であると考えることも正しくありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長老職は、1 8 世紀中から1 9 世紀にかけてアメリカのバプテスト派教 会に見つけることができます。1 南部バプテスト会議の初代議長であっ たW . B .ジョンソンが教会生活について記した本の中で、彼はひとつの 地域教会において複数の長老職が存在する考えを強く主張しました。 それが聖書に無関心なせいであろうと、又はフロンティア（ 未開拓地 域） の生活の多忙のためか（ 驚くべき速度で成長する教会！ ）、そのよ うな聖書的リーダーシップ（ textured leadership） を奨励する習慣が 衰退してきました。しかしバプテスト派の論文の中で、この聖書的な 職務を復活させようとする議論が継続しました。遅くても2 0 世紀初頭 には、バプテストの出版物は、指導者を「長老」という名称で言及し ています。この慣例は今日のバプテスト派教会の間で一風変わったも のにもかかわらず、そこに戻ろうとする傾向がみられるのです－ そし てそれにはもっともな理由が存在します。それは新約聖書の時代の教 会に長老が必要であったように、今も必要だからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではまず最初に長老と教会スタッフとの区別をし、次に執事、さら に牧師とほかの長老たちとの関係について見ていくことで、長老とは どういう意味か明確にしたいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅳ . 長老と教会スタッフとの関係''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代の多くの教会で、長老と教会スタッフを混同する傾向が見られ ました。スタッフとは、教会がその働きのために常勤で雇われている 人々のことを指します。彼らはしばしば日々起こる事柄について最も 精通しています。彼らの多くは神学教育を受けており、ある程度の信 仰と成熟を備えていなければなりません。そうでなければそもそも彼 らが雇われることはないはずです。勿論教会スタッフのメンバーが長 老であるかもしれません。実は、私たちの教会憲法には、その人物が 直ちに長老として認知される者でなければ、牧師として招聘すること はできない、と規定してあるのです。それは、賢い規定であると私は 考えます。しかしながら同じ教会憲法によって長老の過半数は、教会 で雇われていない者で構成されるよう規定されているのです。例えば、 私たちの牧会アシスタント（ 若い男性で、働きに有用で、すぐにでも 神学校を目指して進みそうな人物） は大抵の場合、長老としては認知 されていません。しかし彼らは教えることから教会員の訪問まで、す べてにおいて私たちにすばらしいケアを与えてくれています。私たち がこの規定を教会憲法に含める理由は、ただ単に長老たちを雇うとい うことだけではなく、彼らを私たちの中から見つけ出せる位、霊的に 豊かな実が結べるよう努力をすることで、私たちが会衆として確かに その責任の重さを実感することができるよう願っているからです。現 在私たちの教会で長老として認められている５ 人のうち、３ 人はこの 世の仕事をもち、牧師の私と教会管理者の二人だけが、教会に有給で 雇われています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅴ . 長老と執事の関係''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教理の面においてでなく実際に、多くの教会が新約聖書の執事と長 老の役割を混同してきました。今まで見てきたように、執事職の関心 事は、教会生活の実際的な事柄であり、管理、補修と物質的な必要に 伴う教会員の世話である－ それらすべてが教会の一致と御言葉の働き を促進するためにあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅰ''' テモテ3 章の長老と執事に対する資格のリストの比較で最も顕著 なのは、それらの違いではなく類似点です。監督（ 長老） と執事の両 方ともに評判が良く、非難されるところがなく、信頼に値し、ひとり の妻の夫であり、酒飲みでなく、慎み深く、寛容な人でなければなり ません。実際は、それら二つのリストの特徴があまりにも似ているの で、顕著なのは、パウロと初期のキリスト者たちが、二つの別々の指 導者の群れを明確に認識していた、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使徒6 章では、執事と長老の役割と責任の区別の根拠を見てきまし た。使徒6 章2 節では、エルサレムの教会で不平不満が始まった後に、 ''「なので1 2 使徒が弟子たち全員を集めて言った、『わたしたちが神の'' ことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません』」''。'' ここから、神の御言葉の務めは長老の責任の中心である、と言うこと ができます。それは、まさに教会にとって絶対的に中心的なことなの です。使徒6 章4 節でもう一度特色付けられているのは、「''私たちは、'' もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」''ということです。'' 彼らは、字義的には、みことばの執事と言うことができます。このこ とは、後にみます使徒1 5 章ともぴったり適合し、使徒2 0 章でも再び 登場、そして長老は教える能力がなければならない、という資格にお いても同様なのです。長老の役割は、基本的に神のみことばを教える ことで、神の民を導くことなのです。この教えは神のみことばの公の 取り扱いと、みことばが導くところの模範的な生き方によってなされ るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この特徴を要約すると、長老たちの権威は彼らの教える務めと直接 的に関係しています。彼は牧師／ 羊飼いとなるように求められている のです。長老である私たちは、監督として仕えるよう求められていま す。使徒6 章で、長老たちが集会において何か提案しています。Ⅰ テ モテ5 章でパウロは、長老のことを''「教会の事を指導し」''、''「みことば'' と教える者」''として言及しています。しかしながら長老たちの役割は'' 第一に、忍耐強くかつ注意深く教えることで彼らを導くことにあるの です。長老職と執事職の役割を再度明確することで、多くの教会が多 大な益を受けることになるでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅵ .長老と牧師の関係''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしあなたが次のような質問をするとします。「聖書は、長老制の中 に、またはそれに付随して、主任牧師という立場について何か教えて いますか？ 」質問に対する答えは「いいえ、直接にはない」です。そ うは言っても私たちは、長老の中に教会の主要な公の教師としての明 確な役割を見つけることができると思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「牧師」という語は新国際版（ NIV） のエペソ4 章1 1 節で、教会に 対する神の賜物リスト（ 教師とペアで） にのみに登場します。英語の 「パスター（ Pastor）」という単語の背後には、ギリシャ語のポイメナ スという単語があり、それは「シェパード（ Shepard ）」（ 羊飼い／ 牧師） と関連しています。そしてこのシェパードと関連する単語が何度か出 てくるのですが（ 例:Ⅰ ペテロ5:2 、使徒20:28）、しかしこれらの例は いずれも、長老と別々の立場であると示している箇所ではありません。 なるほど使徒2 0 章1 7 節、2 8 節では「長老」、「監督」（ Bishop ）、そし て「シェパード」（ 牧師） がすべて同じグループの人々のことを指し、 交代可能な形で用いられているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは次に、新約聖書において私が考える４ つの役割を挙げてみ たいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#新約聖書の中にも、長老として仕えながら、場所から場所へと 移動する（ テモテやテトスのような） 幾人かの者たちや、移動は しないが長老として働く（ 恐らくテトス（ テトス1 章5 節） のよ うに町ごとに任命する） 者たちが存在しました。このように、テ モテは外部から来ましたが、他の長老たちは地域教会の内部から 任命された者たちでした。 &lt;br /&gt;
#長老の幾人かは会衆によって常勤で支援を受けており（ 参照： Ⅰ テモテ5:17-18 ，ピリピ4:15-18 ）、別の仕事をしている（ パウ ロがしばしば最初にある地域に福音を定着させる際に行ったよう に） 者たちもいました。しかしながらある者は、テトスがクレテ で任命した長老たちの全員が常勤で雇われていたとは考えません。 &lt;br /&gt;
#使徒の働きから私たちは、エペソの教会にも他に長老たちが存 在していたことが分かっていますが、パウロがテモテだけに、教 会宛ての指示を書き送っていたことは興味深いことです。けれど も、テモテはある意味彼らの間でユニークな働きを担っていたと も言えます。 &lt;br /&gt;
#最後に、黙示録2 章と3 章にある７ つの教会宛のイエスの手紙 は、それぞれの教会の説教者（ 単数形）に宛てて記されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勿論、これらは厳格な命令ではありませんが、それらは私たちが実 際に行っていることとも一致します。それは、必ずしも自分たちの共 同体の中からである必要はありませんが、長老たちの中から少なくと も一人（ あるいはもっと多く） をより分け、支援をし、彼に教会にお ける主要な教えの責任を与えることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、説教者または牧師は基本的に会衆の長老たちの一人でもあ る、ということを覚えておく必要があります。私の牧会上の働きで、 最も助けとなったことを一つ挙げるとすれば、それは他の長老たちを 承認することでした。私と一緒にほかの長老たちが行う奉仕は、計り 知れない恩恵を与えてくれました。複数の長老の存在は、牧師の賜物 を完成させ、欠点や判断を補い、教会内の決議に際して支援を作り出 し、指導者たちが不当な批判にさらされる機会を減らすことで教会を 助けるべきです。そのような複数長老性が指導者の地位をより根付か せ永続したものにし、より成熟した連続性を教会に与えるのです。そ してそのことは、教会が自分たちの教会員の霊的成長のために責任を より自覚し、教会の専任スタッフに依存しすぎないようにもさせてい ます。ワシントンにある私たちの教会は、神が与えてくださった長老 という賜物のゆえに、これらの恩恵とそれ以上のものを享受している のです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅶ . 長老と教会の関係''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この件に関して後ほどより詳しく、会衆教会主義について考える時 に取り扱うことにします。一般的に長老と彼らが仕える地域の会衆と の関係は、神の特性の多くのしるしや神への相互信頼によって特徴付 けられるべきものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで上記関係を特徴付ける５ つ－ 承認、信頼、信心深さ、用心深 さと結果、について述べたいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''１ ） 明確な承認''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長老たちは教会のために神から賦与された賜物を、教会によって承 認されるべきです。教会はそれゆえに自分たちを教え導く任務を、彼 らに委任すべきなのです。それらの任務は、長老たちが明らかに聖書 とは反対のことを行った時にのみ撤回される種類のものです。そして 彼らにとっては、長老たちは、神が与えた教会における権威を認めな ければなりません（ 例: マタイ1 8 章； '''Ⅰ''' コリント5 章、'''Ⅱ''' コリント2 章）。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''２ ） 心からの信頼''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会は、長老たちを信頼し、守り、尊重し、そして尊敬すべきです。 パウロが'''Ⅰ''' テモテ5 章1 7 節で次のように記しています。''「よく指導の'' 任に当たっている長老は、二重の尊敬を受けるにふさわしいとしなさ い。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」''長'' 老たちは、教会の問題に対し監督し、教会は彼らの指導に服従すべき です。へブル1 3 章1 7 節で、''「あなたがたの指導者たちの言うことを聞'' き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなた がたのたましいのための見張りをしているのです。ですから、この人 たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることのならないようにしなさ い。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''３ ） 明白な信仰深さ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが記したテモテとテトスの手紙の中で私たちは、長老たちに 対して「''非難されるところがなく''」と強調されているのを見ました（ テ トス1&amp;amp;nbsp;: 6 節でパウロは「''長老は、非難されるところがなく、ひとりの'' 妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であった りしない信者であることが条件です''」）。それゆえ長老職に就く者は、'' 自分の生活が視察にオープンであり、そして家が外部の人に積極的に 開放されていて、もてなしを与え、他者を自分たちの生活に喜んで受 け入れるべきなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''４ ） 誠実な用心深さ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長老たちは、彼らに与えられた権威の用い方によって明らかにされ るべきです。そのことで、長老たちは教会が彼らに属するのではなく、 キリストに属するものであることを理解しているかが分かるからです。 キリストは、その御血潮によって教会を買い取られました。それゆえ 教会は教会の益の中で、神の栄光のために、育成され、慎重かつやさ しく扱われ、信仰によって純粋に導かれるべきであるのです。長老た ちは彼らの奉仕について、キリストにその説明責任があるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''５ ） 有益な結果''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家庭においても、または私たちの神様との関係においても、正しい 権威の謙虚な認識は、益をもたらすものです。教会においては、会衆 の同意のもとに教会の益のために権威が用いられるならば、会衆は神 がお与えになった教師を通して、神が彼の教会を建て上げるという益 を享受します。サタンの嘘は－ その権威は決して信頼されることはあ りません。なぜならそれは常に非道で圧制的なので－ 会衆の文脈にお ける長老の権威の認知と、慈悲深い履行によって覆されるでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エドワード・グリフィン（ 1770年～1837年） が彼の長年の教会奉仕 から引退する時、彼は、牧師だけではなく（ グリフィンが意図したよ うに）、実に神様が私たちに長老としてお与えくださった、彼らすべて の人々をどのように尊重すべきかについて、いくつかの示唆に富む言 葉でもって会衆に熱心に勧めています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたがたとあなたがたの子どもたちのために、あなたがたが自分 たちの牧師として選んだ彼を育て、尊敬しなさい。彼はすでにあなた がたを愛しておられ、彼はしばらくすると「私の骨の骨、肉の肉」と してあなたがたを愛するようになるでしょう。牧師の働きが彼にとっ て限りなく喜びとなるようするのも、同じようにあなたがたの義務で あり関心となるでしょう。あまり多くを要求しないようにしなさい。 訪問を頻繁に求めないようにしなさい。このように彼が求めに応じて 半分の時間を費やすなら、もし早々と重荷によって潰れなければ、彼 は自分の学びをすっかり疎かにせざろう得ないでしょう。牧師に対し て言われているすべての不親切な事柄は、彼に報告してはいけません。 もし反対者が現れたら、たとえ頻繁でなくても彼の面前で彼らにそれ となく言及しなさい。彼はキリストの牧師ではあるが、彼は人の感情 を持ち合わせていることを考慮しなさい。2 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅷ .権威の賜物''' 今まで見てきた中で見逃してならないことは、指導者として奉仕す ることは大きな特権だということです。ある人々は忙しすぎると感じ るかもしれません。またはそのような働きは全く価値がないと考える かもしれません。私は俳優のゲーリー・クーパーが述べた次の言葉を 思い出ました：「私は無惨に失敗したのが、ゲーリー・クーパーでなく クラーク・ゲイブルであることをただ嬉しく思う」。これは、クーパー が「風とともに去りぬ」の主役の座を断った時に述べたとされること ばです。私たちが考えてきたことは、この世の名声や富をもたらすい かなることよりも、もっと重要なことです。パウロは長老であること は「高貴な仕事」で、人がもしそれを求めるならすばらしいことを求 めているのだ! 3、と述べています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が人との会話の中で最も寒気がすると感じた中のひとつは、私が ケンブリッジ大学で働くある人と話をしている時でした。私たちは食 事のために外に出かけていました。その時のこと、最近行われた市の 会議の決定について彼があからさまに怒りを表したのです。彼がそれ を続けるのをみて、私は私の友人の権威に対する典型的な怒りの反応 を思い出しました。そして私はある時点で彼に単純で直接的で、無条 件の質問を尋ねました。「権威はそんなに悪でしょうか？ 」通常、その ような質問には、ただ困惑した表情がかえってきたり、ナイーブな質 問に対してわざとへり下って鼻をすすったり、そして無数の条件によ って妨げられただらだらとした答えが返って来ます。しかしこの時ば かりは彼のあやのない、単純で直接的で無条件の「はい」という返答 にショックを受けてしまいました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
権威の堕落した性質とその濫用の可能性について、認識しているこ とはよいことであり、健全です。神の目的からかけ離れた権力は、常 にサタン的です。しかしながら、すべての権威を疑うこと、または生 まれつきの不信はとても悪いことです。実に、それは権威に対してと いうよりは、人に疑問を投げかけるように現れます。さらには、それ が、神のイメージに造られた者として働くための私たちの能力におい て、ガン細胞のように退化することを示すのです。神が意図したよう に私たちが生きるには、彼を信頼し、そして多くの範囲で、神に似て 創造された者を信頼することです。聖書の中のアダムとエバから黙示 録に登場する悪漢の支配に至るまで誰もが、根本的に神の権威を否定 し、それをあたかも自分たちのものとして奪うことによって、自分た ちの罪を現すのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信仰深い指導者によって仕えられていることの何たる特権。私たち のために見本とされ実践されてきた神からの権威を持っていることは、 すばらしい賜物です。私たちの時代に多く見受けられるように、権威 を否定することは、近視眼的であり、自己破壊状態です。権威なき世 界は、例えるならば際限のない欲望であり、制御の利かない車であり、 信号機のない十字路交差点であり、両親のいない家であり、神なきこ の世そのものであります。そのような状態はしばらくは続くかもしれ ません。しかしやがては無意味となり、そして悲惨な状況になり、し まいには悲劇的になるでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの無視しようとする傾向とは裏腹に、信仰に篤く聖書的な指 導者は、神の栄光を現すべき教会を建て上げるのに、不可欠な存在で す。私たちの教会における指導権の行使は、神の性質や人格と関わっ ています。もし私たちが適切な権威を、法律を通して、家族会議にお いて、仕事場において、スカウト分隊 において、家庭において、そし て特に教会において行使するなら、神のイメージを彼の被造物に現す 助けをしていることになるのです。これが私たちの召命であり、これ こそが、私たちの特権なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1 例えば、O.L.Hailey and J.R. Graves, Robertson’s Life of Broadus , p.34, 40 . 2 Edward Griffin, A Tearful Farewell from a Faithful Pastor , 1809. 3'''Ⅰ''' テモテ3:1&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Taiki</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E9%95%B7%E8%80%81</id>
		<title>「神の栄光の現れ、/長老</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E9%95%B7%E8%80%81"/>
				<updated>2009-09-25T02:24:25Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Taiki: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info| A Display of God's Glory/Elders}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
執事職同様重要であり、キリスト者として共に生きるうえでより本質 的な務めが、もう一つの群の働きであり、今からみる－ 長老たちです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅰ ． 長老の複数性''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地域教会における長老について、まず最初に言及すべきことは、彼 ら長老たちが複数形で存在するという点です。特定の会衆に対して、 長老の数は明確には述べられてはいませんが、新約聖書は一様に「長 老」を複数形で表しています（ 例: 使徒16:4&amp;amp;nbsp;; 20:17&amp;amp;nbsp;; 21:18&amp;amp;nbsp;; テトス1:5&amp;amp;nbsp;; ヤコブ5:14）。福音書や使徒の働きの中で言及されるイスラエルの長老 たちも複数形です。天における長老たちも複数形です（ 黙示 5:14&amp;amp;nbsp;; 11:16&amp;amp;nbsp;; 19:4 ）。使徒1 1 章3 0 節で、長老は複数です。使徒1 4 章1 節から2 3 節で、''「彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子として'' から、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たち の心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、･･･パウロとバ ルナバは彼らのために教会ごとに長老を任命し〔又は選び〕、断食して 祈った後、彼らをその信じていた主にゆだねた」''とあります。もし使'' 徒1 5 章を通して見るならば、2 節、4 節、6 節と2 3 節でそれぞれ複数 形で長老が用いられているのがわかります。使徒1 6 章4 節で、長老と いう単語は複数形で表れています。使徒2 0 章1 7 節では、パウロが自 分自身をエペソの教会の長老を呼んでいます。使徒2 0 章2 8 節や、'''Ⅰ''' テモテ4 章1 4 節、5 章1 7 節なども同様です。テトス1 章5 節では、パ ウロは次のように述べています。''「私があなたをクレテに残したのは、'' あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町 ごとに長老たちを任命するためでした… 」''。ヤゴブ5 章1 4 節でヤコブ'' は、地域教会（ 単数） の長老たち（ 複数形） が病気の人のために祈り に来る様子を描いています。'''Ⅰ''' ペテロ5 章1 節では、ペテロは彼らキ リスト者の中にいる長老たちに訴えかけています。実は、唯一の例外 が、第二、第三ヨハネにあります。そこでは作者は単に自らを「長老」 と言及し、'''Ⅰ''' テモテ5 章では、もし長老に対する訴えがでた場合に、 どのように対処すべきかについて教会の判例が挙げられています。し かしながら基本的に新約聖書における状況は、地域教会の中には一人 の長老ではなく、通常長老たちの群れが存在していたということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅱ ．長老の資格''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だれが長老になるべきでしょうか？ 彼らの資格はどのようなもので あるべきでしょうか？ 長老たちに対する資格は、聖書の'''Ⅰ''' テモテ3 章 とテトス1 章に明確に記されています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅰ''' テモテ3 章を見る前に、'''Ⅰ''' テモテ2 章で挙げられている重要な問 題について注意を払う必要があります。それは、女性が長老として仕 えることは神の御心ではないということです。'''Ⅰ''' テモテ2 章の曖昧な 表現をめぐっては、多くの質問が投げかけられてきました。常に安全 な方策は、曖昧な部分があるからと言ってすでに明確なところを疑う のではなく、聖書の明確な箇所から始めて、神がより曖昧なところに 光を当ててくださるよう祈ることにあります。'''Ⅰ''' テモテ2 章において 明確なことは、女性は教えたり、男性の上に権威を持つべきではない ということでした。パウロがここで不適切であると言わんとしている 正確な権威が何であろうとも、女性が教えることが含まれていること は明らかです。初代教会における慣例は、夫が妻を支配するという創 造の秩序がそのまま教会において慣例となっている、ということです。 ガラテヤ3 章2 8 節で明らかなことは、キリストにあっては男も女もな いということです。しかしながらこのことは、男女の間の性における すべての区別を無視するものではなく、かえって、救いにおける神の 恵みのすばらしく公平なことを単に確認しているのだと捉えます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上のことを踏まえて、'''Ⅰ''' テモテ3 章を見てみましょう。しばらく 時間を取って、'''Ⅰ''' テモテ3 章1 節から7 節を読んでください。D． A ． カーソン（ トリニティ神学校の新約学の教授） はかつて、このリスト に載っている特徴は、全く注目に値しないという点で、最も注目に値 すると述べています。彼が言わんとすることは、これらすべての特徴 は聖書のあらゆるところにおいて、キリスト者全員に課せられている ことであります－ すなわち、教える能力（ '''Ⅰ''' テモテ3&amp;amp;nbsp;: 2） 以外のすべて は。聖書はここで長老の特徴について十分な位に私たちに教えていま すが、パウロがこのリストを完全なものであると主張しているとは私 には思えません。むしろ彼の目的は、当時の周囲の文化からも道徳的 であるとみなされる一般的な特徴を羅列しただけであると考えます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会における指導者の目的は、外部の人たちに真理を推薦すること で、神に栄光を帰することです。このことは、パウロがコリントの教 会において互いの争いをこの世の裁判所に訴え出て、甚だしく不品行 な生活を送る者たちが教会と交際するのを許していることを怒った理 由でもあります。これらのことは両方とも福音の証言を台無しにする ことでしょう。従ってパウロは'''Ⅰ''' テモテで、エペソ教会で幾人かの偽 教師の明らかな不信仰によって、赦しと希望の福音の宣言、そして罪 人の回心という教会を通して現される神の栄光を徹底的に危険にさら されていることを指摘するのです。パウロが'''Ⅰ''' テモテ3 章（ またはテ トス1 章） で挙げている徳のリストは、キリスト者が現すべきすべて ではないのです。それらは、教会指導者たちを監督する立場にある人々 へ、福音を委託したところの徳です。規則正しい聖書朗読は良いこと ですし、祈りは必要です。しかし、パウロがここで述べていることは、 そのどちらでもないのです。それにもかかわらず、私は自分の教会の 長老たちにはそれらの徳の両方を備えてもらいたいと思います。聖書 の他のところで私が教えられてきたことは、それらの徳はすべてのキ リスト者を描写するためであり、ここでパウロが言わんとしているこ とは、私が思うに、時間どおりにお金を払うとか、いつも喜んでいる とか、謙虚で人の役に立つとか－ 異教徒でさえも良いと認める事柄を、 彼は強調したかったのではないでしょうか。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、どのようにして自分の教会でそのような指導者を見つけ出せ ばいいのでしょうか？ 私たちは、このことにおいて神の知恵があるよ うに祈ります。私たちは、特にそのような責任についての資格が教え られている'''Ⅰ''' テモテとテトスの箇所を学びたいと思います。指導者を 選ぶ際に、私たちはこの世の基準には従いません。ある教会が実際に 行っているような、単に会衆の中に地域の指導者を見つけ、そのまま 教会の指導者にするような真似はすべきではありません。オズ・ギネ スが彼の著書''「Dining with Devil」''の中で、日本人ビジネスマンが 滞在中のオーストリア人に言ったコメントを詳しく紹介しています： 「仏教指導者に会う時はいつも、私は聖職者に会います。キリスト教 の指導者に会う時はいつも、経営者に会うのです」（ p . 4 9 ）。その代わ りに、私たちは、人格者で、評判がよく、御言葉を論じる能力があり、 教会の中でよい指導者として特徴付けている豊かな実を備えている人 物を探すべきです。これら教会指導者の特色は、彼ら自身の上にでは なく、他者の上に建てられるということです。従って、彼らはお金に 無欲であり、かえって知らない人をもてなし－ まさにそれが「温かく もてなす」の字義的意味でもあります。真の教会指導者は、他者中心 であるべきなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅲ . 歴史的概観''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべての教会が、たとえ異なる名前で呼ばれていても、長老の働き をする個々人を擁しています。この職務に対する新約聖書の最も一般 的な名前は、episcopos (監督)とpresbuteros（ 長老） です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日福音派が単語で「長老」と聞くと、多くの人はすぐに「プレス ビテリェン（ 長老教会派の）」を思い浮かべることでしょう。しかしな がら、1 6 世紀の最初の組合教会主義者たちは、長老職が新約聖書の教 会におけるひとつの職務であると教えられました。長老を長老派と関 連させるのは歴史的には正確ですが、もっぱら長老派だけに関連させ るのは正確でありません。またその単語がバプテスト派にとって、無 関係であると考えることも正しくありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長老職は、1 8 世紀中から1 9 世紀にかけてアメリカのバプテスト派教 会に見つけることができます。1 南部バプテスト会議の初代議長であっ たW . B .ジョンソンが教会生活について記した本の中で、彼はひとつの 地域教会において複数の長老職が存在する考えを強く主張しました。 それが聖書に無関心なせいであろうと、又はフロンティア（ 未開拓地 域） の生活の多忙のためか（ 驚くべき速度で成長する教会！ ）、そのよ うな聖書的リーダーシップ（ textured leadership） を奨励する習慣が 衰退してきました。しかしバプテスト派の論文の中で、この聖書的な 職務を復活させようとする議論が継続しました。遅くても2 0 世紀初頭 には、バプテストの出版物は、指導者を「長老」という名称で言及し ています。この慣例は今日のバプテスト派教会の間で一風変わったも のにもかかわらず、そこに戻ろうとする傾向がみられるのです－ そし てそれにはもっともな理由が存在します。それは新約聖書の時代の教 会に長老が必要であったように、今も必要だからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではまず最初に長老と教会スタッフとの区別をし、次に執事、さら に牧師とほかの長老たちとの関係について見ていくことで、長老とは どういう意味か明確にしたいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅳ . 長老と教会スタッフとの関係''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代の多くの教会で、長老と教会スタッフを混同する傾向が見られ ました。スタッフとは、教会がその働きのために常勤で雇われている 人々のことを指します。彼らはしばしば日々起こる事柄について最も 精通しています。彼らの多くは神学教育を受けており、ある程度の信 仰と成熟を備えていなければなりません。そうでなければそもそも彼 らが雇われることはないはずです。勿論教会スタッフのメンバーが長 老であるかもしれません。実は、私たちの教会憲法には、その人物が 直ちに長老として認知される者でなければ、牧師として招聘すること はできない、と規定してあるのです。それは、賢い規定であると私は 考えます。しかしながら同じ教会憲法によって長老の過半数は、教会 で雇われていない者で構成されるよう規定されているのです。例えば、 私たちの牧会アシスタント（ 若い男性で、働きに有用で、すぐにでも 神学校を目指して進みそうな人物） は大抵の場合、長老としては認知 されていません。しかし彼らは教えることから教会員の訪問まで、す べてにおいて私たちにすばらしいケアを与えてくれています。私たち がこの規定を教会憲法に含める理由は、ただ単に長老たちを雇うとい うことだけではなく、彼らを私たちの中から見つけ出せる位、霊的に 豊かな実が結べるよう努力をすることで、私たちが会衆として確かに その責任の重さを実感することができるよう願っているからです。現 在私たちの教会で長老として認められている５ 人のうち、３ 人はこの 世の仕事をもち、牧師の私と教会管理者の二人だけが、教会に有給で 雇われています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅴ . 長老と執事の関係''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教理の面においてでなく実際に、多くの教会が新約聖書の執事と長 老の役割を混同してきました。今まで見てきたように、執事職の関心 事は、教会生活の実際的な事柄であり、管理、補修と物質的な必要に 伴う教会員の世話である－ それらすべてが教会の一致と御言葉の働き を促進するためにあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅰ''' テモテ3 章の長老と執事に対する資格のリストの比較で最も顕著 なのは、それらの違いではなく類似点です。監督（ 長老） と執事の両 方ともに評判が良く、非難されるところがなく、信頼に値し、ひとり の妻の夫であり、酒飲みでなく、慎み深く、寛容な人でなければなり ません。実際は、それら二つのリストの特徴があまりにも似ているの で、顕著なのは、パウロと初期のキリスト者たちが、二つの別々の指 導者の群れを明確に認識していた、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使徒6 章では、執事と長老の役割と責任の区別の根拠を見てきまし た。使徒6 章2 節では、エルサレムの教会で不平不満が始まった後に、 ''「なので1 2 使徒が弟子たち全員を集めて言った、『わたしたちが神の'' ことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません』」''。'' ここから、神の御言葉の務めは長老の責任の中心である、と言うこと ができます。それは、まさに教会にとって絶対的に中心的なことなの です。使徒6 章4 節でもう一度特色付けられているのは、「''私たちは、'' もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」''ということです。'' 彼らは、字義的には、みことばの執事と言うことができます。このこ とは、後にみます使徒1 5 章ともぴったり適合し、使徒2 0 章でも再び 登場、そして長老は教える能力がなければならない、という資格にお いても同様なのです。長老の役割は、基本的に神のみことばを教える ことで、神の民を導くことなのです。この教えは神のみことばの公の 取り扱いと、みことばが導くところの模範的な生き方によってなされ るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この特徴を要約すると、長老たちの権威は彼らの教える務めと直接 的に関係しています。彼は牧師／ 羊飼いとなるように求められている のです。長老である私たちは、監督として仕えるよう求められていま す。使徒6 章で、長老たちが集会において何か提案しています。Ⅰ テ モテ5 章でパウロは、長老のことを''「教会の事を指導し」''、''「みことば'' と教える者」''として言及しています。しかしながら長老たちの役割は'' 第一に、忍耐強くかつ注意深く教えることで彼らを導くことにあるの です。長老職と執事職の役割を再度明確することで、多くの教会が多 大な益を受けることになるでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅵ .長老と牧師の関係''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしあなたが次のような質問をするとします。「聖書は、長老制の中 に、またはそれに付随して、主任牧師という立場について何か教えて いますか？ 」質問に対する答えは「いいえ、直接にはない」です。そ うは言っても私たちは、長老の中に教会の主要な公の教師としての明 確な役割を見つけることができると思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「牧師」という語は新国際版（ NIV） のエペソ4 章1 1 節で、教会に 対する神の賜物リスト（ 教師とペアで） にのみに登場します。英語の 「パスター（ Pastor）」という単語の背後には、ギリシャ語のポイメナ スという単語があり、それは「シェパード（ Shepard ）」（ 羊飼い／ 牧師） と関連しています。そしてこのシェパードと関連する単語が何度か出 てくるのですが（ 例:Ⅰ ペテロ5:2 、使徒20:28）、しかしこれらの例は いずれも、長老と別々の立場であると示している箇所ではありません。 なるほど使徒2 0 章1 7 節、2 8 節では「長老」、「監督」（ Bishop ）、そし て「シェパード」（ 牧師） がすべて同じグループの人々のことを指し、 交代可能な形で用いられているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは次に、新約聖書において私が考える４ つの役割を挙げてみ たいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#新約聖書の中にも、長老として仕えながら、場所から場所へと 移動する（ テモテやテトスのような） 幾人かの者たちや、移動は しないが長老として働く（ 恐らくテトス（ テトス1 章5 節） のよ うに町ごとに任命する） 者たちが存在しました。このように、テ モテは外部から来ましたが、他の長老たちは地域教会の内部から 任命された者たちでした。 &lt;br /&gt;
#長老の幾人かは会衆によって常勤で支援を受けており（ 参照： Ⅰ テモテ5:17-18 ，ピリピ4:15-18 ）、別の仕事をしている（ パウ ロがしばしば最初にある地域に福音を定着させる際に行ったよう に） 者たちもいました。しかしながらある者は、テトスがクレテ で任命した長老たちの全員が常勤で雇われていたとは考えません。 &lt;br /&gt;
#使徒の働きから私たちは、エペソの教会にも他に長老たちが存 在していたことが分かっていますが、パウロがテモテだけに、教 会宛ての指示を書き送っていたことは興味深いことです。けれど も、テモテはある意味彼らの間でユニークな働きを担っていたと も言えます。 &lt;br /&gt;
#最後に、黙示録2 章と3 章にある７ つの教会宛のイエスの手紙 は、それぞれの教会の説教者（ 単数形）に宛てて記されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勿論、これらは厳格な命令ではありませんが、それらは私たちが実 際に行っていることとも一致します。それは、必ずしも自分たちの共 同体の中からである必要はありませんが、長老たちの中から少なくと も一人（ あるいはもっと多く） をより分け、支援をし、彼に教会にお ける主要な教えの責任を与えることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、説教者または牧師は基本的に会衆の長老たちの一人でもあ る、ということを覚えておく必要があります。私の牧会上の働きで、 最も助けとなったことを一つ挙げるとすれば、それは他の長老たちを 承認することでした。私と一緒にほかの長老たちが行う奉仕は、計り 知れない恩恵を与えてくれました。複数の長老の存在は、牧師の賜物 を完成させ、欠点や判断を補い、教会内の決議に際して支援を作り出 し、指導者たちが不当な批判にさらされる機会を減らすことで教会を 助けるべきです。そのような複数長老性が指導者の地位をより根付か せ永続したものにし、より成熟した連続性を教会に与えるのです。そ してそのことは、教会が自分たちの教会員の霊的成長のために責任を より自覚し、教会の専任スタッフに依存しすぎないようにもさせてい ます。ワシントンにある私たちの教会は、神が与えてくださった長老 という賜物のゆえに、これらの恩恵とそれ以上のものを享受している のです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅶ . 長老と教会の関係''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この件に関して後ほどより詳しく、会衆教会主義について考える時 に取り扱うことにします。一般的に長老と彼らが仕える地域の会衆と の関係は、神の特性の多くのしるしや神への相互信頼によって特徴付 けられるべきものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで上記関係を特徴付ける５ つ－ 承認、信頼、信心深さ、用心深 さと結果、について述べたいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''１ ） 明確な承認''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長老たちは教会のために神から賦与された賜物を、教会によって承 認されるべきです。教会はそれゆえに自分たちを教え導く任務を、彼 らに委任すべきなのです。それらの任務は、長老たちが明らかに聖書 とは反対のことを行った時にのみ撤回される種類のものです。そして 彼らにとっては、長老たちは、神が与えた教会における権威を認めな ければなりません（ 例: マタイ1 8 章； '''Ⅰ''' コリント5 章、'''Ⅱ''' コリント2 章）。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''２ ） 心からの信頼''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会は、長老たちを信頼し、守り、尊重し、そして尊敬すべきです。 パウロが'''Ⅰ''' テモテ5 章1 7 節で次のように記しています。''「よく指導の'' 任に当たっている長老は、二重の尊敬を受けるにふさわしいとしなさ い。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」''長'' 老たちは、教会の問題に対し監督し、教会は彼らの指導に服従すべき です。へブル1 3 章1 7 節で、''「あなたがたの指導者たちの言うことを聞'' き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなた がたのたましいのための見張りをしているのです。ですから、この人 たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることのならないようにしなさ い。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''３ ） 明白な信仰深さ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが記したテモテとテトスの手紙の中で私たちは、長老たちに 対して「''非難されるところがなく''」と強調されているのを見ました（ テ トス1&amp;amp;nbsp;: 6 節でパウロは「''長老は、非難されるところがなく、ひとりの'' 妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であった りしない信者であることが条件です''」）。それゆえ長老職に就く者は、'' 自分の生活が視察にオープンであり、そして家が外部の人に積極的に 開放されていて、もてなしを与え、他者を自分たちの生活に喜んで受 け入れるべきなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''４ ） 誠実な用心深さ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長老たちは、彼らに与えられた権威の用い方によって明らかにされ るべきです。そのことで、長老たちは教会が彼らに属するのではなく、 キリストに属するものであることを理解しているかが分かるからです。 キリストは、その御血潮によって教会を買い取られました。それゆえ 教会は教会の益の中で、神の栄光のために、育成され、慎重かつやさ しく扱われ、信仰によって純粋に導かれるべきであるのです。長老た ちは彼らの奉仕について、キリストにその説明責任があるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''５ ） 有益な結果''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家庭においても、または私たちの神様との関係においても、正しい 権威の謙虚な認識は、益をもたらすものです。教会においては、会衆 の同意のもとに教会の益のために権威が用いられるならば、会衆は神 がお与えになった教師を通して、神が彼の教会を建て上げるという益 を享受します。サタンの嘘は－ その権威は決して信頼されることはあ りません。なぜならそれは常に非道で圧制的なので－ 会衆の文脈にお ける長老の権威の認知と、慈悲深い履行によって覆されるでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エドワード・グリフィン（ 1770年～1837年） が彼の長年の教会奉仕 から引退する時、彼は、牧師だけではなく（ グリフィンが意図したよ うに）、実に神様が私たちに長老としてお与えくださった、彼らすべて の人々をどのように尊重すべきかについて、いくつかの示唆に富む言 葉でもって会衆に熱心に勧めています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたがたとあなたがたの子どもたちのために、あなたがたが自分 たちの牧師として選んだ彼を育て、尊敬しなさい。彼はすでにあなた がたを愛しておられ、彼はしばらくすると「私の骨の骨、肉の肉」と してあなたがたを愛するようになるでしょう。牧師の働きが彼にとっ て限りなく喜びとなるようするのも、同じようにあなたがたの義務で あり関心となるでしょう。あまり多くを要求しないようにしなさい。 訪問を頻繁に求めないようにしなさい。このように彼が求めに応じて 半分の時間を費やすなら、もし早々と重荷によって潰れなければ、彼 は自分の学びをすっかり疎かにせざろう得ないでしょう。牧師に対し て言われているすべての不親切な事柄は、彼に報告してはいけません。 もし反対者が現れたら、たとえ頻繁でなくても彼の面前で彼らにそれ となく言及しなさい。彼はキリストの牧師ではあるが、彼は人の感情 を持ち合わせていることを考慮しなさい。2 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅷ .権威の賜物''' 今まで見てきた中で見逃してならないことは、指導者として奉仕す ることは大きな特権だということです。ある人々は忙しすぎると感じ るかもしれません。またはそのような働きは全く価値がないと考える かもしれません。私は俳優のゲーリー・クーパーが述べた次の言葉を 思い出ました：「私は無惨に失敗したのが、ゲーリー・クーパーでなく クラーク・ゲイブルであることをただ嬉しく思う」。これは、クーパー が「風とともに去りぬ」の主役の座を断った時に述べたとされること ばです。私たちが考えてきたことは、この世の名声や富をもたらすい かなることよりも、もっと重要なことです。パウロは長老であること は「高貴な仕事」で、人がもしそれを求めるならすばらしいことを求 めているのだ! 3、と述べています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が人との会話の中で最も寒気がすると感じた中のひとつは、私が ケンブリッジ大学で働くある人と話をしている時でした。私たちは食 事のために外に出かけていました。その時のこと、最近行われた市の 会議の決定について彼があからさまに怒りを表したのです。彼がそれ を続けるのをみて、私は私の友人の権威に対する典型的な怒りの反応 を思い出しました。そして私はある時点で彼に単純で直接的で、無条 件の質問を尋ねました。「権威はそんなに悪でしょうか？ 」通常、その ような質問には、ただ困惑した表情がかえってきたり、ナイーブな質 問に対してわざとへり下って鼻をすすったり、そして無数の条件によ って妨げられただらだらとした答えが返って来ます。しかしこの時ば かりは彼のあやのない、単純で直接的で無条件の「はい」という返答 にショックを受けてしまいました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
権威の堕落した性質とその濫用の可能性について、認識しているこ とはよいことであり、健全です。神の目的からかけ離れた権力は、常 にサタン的です。しかしながら、すべての権威を疑うこと、または生 まれつきの不信はとても悪いことです。実に、それは権威に対してと いうよりは、人に疑問を投げかけるように現れます。さらには、それ が、神のイメージに造られた者として働くための私たちの能力におい て、ガン細胞のように退化することを示すのです。神が意図したよう に私たちが生きるには、彼を信頼し、そして多くの範囲で、神に似て 創造された者を信頼することです。聖書の中のアダムとエバから黙示 録に登場する悪漢の支配に至るまで誰もが、根本的に神の権威を否定 し、それをあたかも自分たちのものとして奪うことによって、自分た ちの罪を現すのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信仰深い指導者によって仕えられていることの何たる特権。私たち のために見本とされ実践されてきた神からの権威を持っていることは、 すばらしい賜物です。私たちの時代に多く見受けられるように、権威 を否定することは、近視眼的であり、自己破壊状態です。権威なき世 界は、例えるならば際限のない欲望であり、制御の利かない車であり、 信号機のない十字路交差点であり、両親のいない家であり、神なきこ の世そのものであります。そのような状態はしばらくは続くかもしれ ません。しかしやがては無意味となり、そして悲惨な状況になり、し まいには悲劇的になるでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの無視しようとする傾向とは裏腹に、信仰に篤く聖書的な指 導者は、神の栄光を現すべき教会を建て上げるのに、不可欠な存在で す。私たちの教会における指導権の行使は、神の性質や人格と関わっ ています。もし私たちが適切な権威を、法律を通して、家族会議にお いて、仕事場において、スカウト分隊 において、家庭において、そし て特に教会において行使するなら、神のイメージを彼の被造物に現す 助けをしていることになるのです。これが私たちの召命であり、これ こそが、私たちの特権なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1 例えば、O.L.Hailey and J.R. Graves, Robertson’s Life of Broadus , p.34, 40 . 2 Edward Griffin, A Tearful Farewell from a Faithful Pastor , 1809. 3'''Ⅰ''' テモテ3:1&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Taiki</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E9%95%B7%E8%80%81</id>
		<title>「神の栄光の現れ、/長老</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E9%95%B7%E8%80%81"/>
				<updated>2009-09-25T02:22:12Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Taiki: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info| A Display of God's Glory/Elders}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
執事職同様重要であり、キリスト者として共に生きるうえでより本質 的な務めが、もう一つの群の働きであり、今からみる－ 長老たちです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅰ ． 長老の複数性''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地域教会における長老について、まず最初に言及すべきことは、彼 ら長老たちが複数形で存在するという点です。特定の会衆に対して、 長老の数は明確には述べられてはいませんが、新約聖書は一様に「長 老」を複数形で表しています（ 例: 使徒16:4&amp;amp;nbsp;; 20:17&amp;amp;nbsp;; 21:18&amp;amp;nbsp;; テトス1:5&amp;amp;nbsp;; ヤコブ5:14）。福音書や使徒の働きの中で言及されるイスラエルの長老 たちも複数形です。天における長老たちも複数形です（ 黙示 5:14&amp;amp;nbsp;; 11:16&amp;amp;nbsp;; 19:4 ）。使徒1 1 章3 0 節で、長老は複数です。使徒1 4 章1 節から2 3 節で、''「彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子として'' から、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たち の心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、･･･パウロとバ ルナバは彼らのために教会ごとに長老を任命し〔又は選び〕、断食して 祈った後、彼らをその信じていた主にゆだねた」''とあります。もし使'' 徒1 5 章を通して見るならば、2 節、4 節、6 節と2 3 節でそれぞれ複数 形で長老が用いられているのがわかります。使徒1 6 章4 節で、長老と いう単語は複数形で表れています。使徒2 0 章1 7 節では、パウロが自 分自身をエペソの教会の長老を呼んでいます。使徒2 0 章2 8 節や、'''Ⅰ''' テモテ4 章1 4 節、5 章1 7 節なども同様です。テトス1 章5 節では、パ ウロは次のように述べています。''「私があなたをクレテに残したのは、'' あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町 ごとに長老たちを任命するためでした… 」''。ヤゴブ5 章1 4 節でヤコブ'' は、地域教会（ 単数） の長老たち（ 複数形） が病気の人のために祈り に来る様子を描いています。'''Ⅰ''' ペテロ5 章1 節では、ペテロは彼らキ リスト者の中にいる長老たちに訴えかけています。実は、唯一の例外 が、第二、第三ヨハネにあります。そこでは作者は単に自らを「長老」 と言及し、'''Ⅰ''' テモテ5 章では、もし長老に対する訴えがでた場合に、 どのように対処すべきかについて教会の判例が挙げられています。し かしながら基本的に新約聖書における状況は、地域教会の中には一人 の長老ではなく、通常長老たちの群れが存在していたということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅱ ．長老の資格''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だれが長老になるべきでしょうか？ 彼らの資格はどのようなもので あるべきでしょうか？ 長老たちに対する資格は、聖書の'''Ⅰ''' テモテ3 章 とテトス1 章に明確に記されています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅰ''' テモテ3 章を見る前に、'''Ⅰ''' テモテ2 章で挙げられている重要な問 題について注意を払う必要があります。それは、女性が長老として仕 えることは神の御心ではないということです。'''Ⅰ''' テモテ2 章の曖昧な 表現をめぐっては、多くの質問が投げかけられてきました。常に安全 な方策は、曖昧な部分があるからと言ってすでに明確なところを疑う のではなく、聖書の明確な箇所から始めて、神がより曖昧なところに 光を当ててくださるよう祈ることにあります。'''Ⅰ''' テモテ2 章において 明確なことは、女性は教えたり、男性の上に権威を持つべきではない ということでした。パウロがここで不適切であると言わんとしている 正確な権威が何であろうとも、女性が教えることが含まれていること は明らかです。初代教会における慣例は、夫が妻を支配するという創 造の秩序がそのまま教会において慣例となっている、ということです。 ガラテヤ3 章2 8 節で明らかなことは、キリストにあっては男も女もな いということです。しかしながらこのことは、男女の間の性における すべての区別を無視するものではなく、かえって、救いにおける神の 恵みのすばらしく公平なことを単に確認しているのだと捉えます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上のことを踏まえて、'''Ⅰ''' テモテ3 章を見てみましょう。しばらく 時間を取って、'''Ⅰ''' テモテ3 章1 節から7 節を読んでください。D． A ． カーソン（ トリニティ神学校の新約学の教授） はかつて、このリスト に載っている特徴は、全く注目に値しないという点で、最も注目に値 すると述べています。彼が言わんとすることは、これらすべての特徴 は聖書のあらゆるところにおいて、キリスト者全員に課せられている ことであります－ すなわち、教える能力（ '''Ⅰ''' テモテ3&amp;amp;nbsp;: 2） 以外のすべて は。聖書はここで長老の特徴について十分な位に私たちに教えていま すが、パウロがこのリストを完全なものであると主張しているとは私 には思えません。むしろ彼の目的は、当時の周囲の文化からも道徳的 であるとみなされる一般的な特徴を羅列しただけであると考えます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会における指導者の目的は、外部の人たちに真理を推薦すること で、神に栄光を帰することです。このことは、パウロがコリントの教 会において互いの争いをこの世の裁判所に訴え出て、甚だしく不品行 な生活を送る者たちが教会と交際するのを許していることを怒った理 由でもあります。これらのことは両方とも福音の証言を台無しにする ことでしょう。従ってパウロは'''Ⅰ''' テモテで、エペソ教会で幾人かの偽 教師の明らかな不信仰によって、赦しと希望の福音の宣言、そして罪 人の回心という教会を通して現される神の栄光を徹底的に危険にさら されていることを指摘するのです。パウロが'''Ⅰ''' テモテ3 章（ またはテ トス1 章） で挙げている徳のリストは、キリスト者が現すべきすべて ではないのです。それらは、教会指導者たちを監督する立場にある人々 へ、福音を委託したところの徳です。規則正しい聖書朗読は良いこと ですし、祈りは必要です。しかし、パウロがここで述べていることは、 そのどちらでもないのです。それにもかかわらず、私は自分の教会の 長老たちにはそれらの徳の両方を備えてもらいたいと思います。聖書 の他のところで私が教えられてきたことは、それらの徳はすべてのキ リスト者を描写するためであり、ここでパウロが言わんとしているこ とは、私が思うに、時間どおりにお金を払うとか、いつも喜んでいる とか、謙虚で人の役に立つとか－ 異教徒でさえも良いと認める事柄を、 彼は強調したかったのではないでしょうか。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、どのようにして自分の教会でそのような指導者を見つけ出せ ばいいのでしょうか？ 私たちは、このことにおいて神の知恵があるよ うに祈ります。私たちは、特にそのような責任についての資格が教え られている'''Ⅰ''' テモテとテトスの箇所を学びたいと思います。指導者を 選ぶ際に、私たちはこの世の基準には従いません。ある教会が実際に 行っているような、単に会衆の中に地域の指導者を見つけ、そのまま 教会の指導者にするような真似はすべきではありません。オズ・ギネ スが彼の著書''「Dining with Devil」''の中で、日本人ビジネスマンが 滞在中のオーストリア人に言ったコメントを詳しく紹介しています： 「仏教指導者に会う時はいつも、私は聖職者に会います。キリスト教 の指導者に会う時はいつも、経営者に会うのです」（ p . 4 9 ）。その代わ りに、私たちは、人格者で、評判がよく、御言葉を論じる能力があり、 教会の中でよい指導者として特徴付けている豊かな実を備えている人 物を探すべきです。これら教会指導者の特色は、彼ら自身の上にでは なく、他者の上に建てられるということです。従って、彼らはお金に 無欲であり、かえって知らない人をもてなし－ まさにそれが「温かく もてなす」の字義的意味でもあります。真の教会指導者は、他者中心 であるべきなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅲ . 歴史的概観''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべての教会が、たとえ異なる名前で呼ばれていても、長老の働き をする個々人を擁しています。この職務に対する新約聖書の最も一般 的な名前は、episcopos (監督)とpresbuteros（ 長老） です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日福音派が単語で「長老」と聞くと、多くの人はすぐに「プレス ビテリェン（ 長老教会派の）」を思い浮かべることでしょう。しかしな がら、1 6 世紀の最初の組合教会主義者たちは、長老職が新約聖書の教 会におけるひとつの職務であると教えられました。長老を長老派と関 連させるのは歴史的には正確ですが、もっぱら長老派だけに関連させ るのは正確でありません。またその単語がバプテスト派にとって、無 関係であると考えることも正しくありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長老職は、1 8 世紀中から1 9 世紀にかけてアメリカのバプテスト派教 会に見つけることができます。1 南部バプテスト会議の初代議長であっ たW . B .ジョンソンが教会生活について記した本の中で、彼はひとつの 地域教会において複数の長老職が存在する考えを強く主張しました。 それが聖書に無関心なせいであろうと、又はフロンティア（ 未開拓地 域） の生活の多忙のためか（ 驚くべき速度で成長する教会！ ）、そのよ うな聖書的リーダーシップ（ textured leadership） を奨励する習慣が 衰退してきました。しかしバプテスト派の論文の中で、この聖書的な 職務を復活させようとする議論が継続しました。遅くても2 0 世紀初頭 には、バプテストの出版物は、指導者を「長老」という名称で言及し ています。この慣例は今日のバプテスト派教会の間で一風変わったも のにもかかわらず、そこに戻ろうとする傾向がみられるのです－ そし てそれにはもっともな理由が存在します。それは新約聖書の時代の教 会に長老が必要であったように、今も必要だからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではまず最初に長老と教会スタッフとの区別をし、次に執事、さら に牧師とほかの長老たちとの関係について見ていくことで、長老とは どういう意味か明確にしたいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅳ . 長老と教会スタッフとの関係''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代の多くの教会で、長老と教会スタッフを混同する傾向が見られ ました。スタッフとは、教会がその働きのために常勤で雇われている 人々のことを指します。彼らはしばしば日々起こる事柄について最も 精通しています。彼らの多くは神学教育を受けており、ある程度の信 仰と成熟を備えていなければなりません。そうでなければそもそも彼 らが雇われることはないはずです。勿論教会スタッフのメンバーが長 老であるかもしれません。実は、私たちの教会憲法には、その人物が 直ちに長老として認知される者でなければ、牧師として招聘すること はできない、と規定してあるのです。それは、賢い規定であると私は 考えます。しかしながら同じ教会憲法によって長老の過半数は、教会 で雇われていない者で構成されるよう規定されているのです。例えば、 私たちの牧会アシスタント（ 若い男性で、働きに有用で、すぐにでも 神学校を目指して進みそうな人物） は大抵の場合、長老としては認知 されていません。しかし彼らは教えることから教会員の訪問まで、す べてにおいて私たちにすばらしいケアを与えてくれています。私たち がこの規定を教会憲法に含める理由は、ただ単に長老たちを雇うとい うことだけではなく、彼らを私たちの中から見つけ出せる位、霊的に 豊かな実が結べるよう努力をすることで、私たちが会衆として確かに その責任の重さを実感することができるよう願っているからです。現 在私たちの教会で長老として認められている５ 人のうち、３ 人はこの 世の仕事をもち、牧師の私と教会管理者の二人だけが、教会に有給で 雇われています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅴ . 長老と執事の関係''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教理の面においてでなく実際に、多くの教会が新約聖書の執事と長 老の役割を混同してきました。今まで見てきたように、執事職の関心 事は、教会生活の実際的な事柄であり、管理、補修と物質的な必要に 伴う教会員の世話である－ それらすべてが教会の一致と御言葉の働き を促進するためにあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅰ''' テモテ3 章の長老と執事に対する資格のリストの比較で最も顕著 なのは、それらの違いではなく類似点です。監督（ 長老） と執事の両 方ともに評判が良く、非難されるところがなく、信頼に値し、ひとり の妻の夫であり、酒飲みでなく、慎み深く、寛容な人でなければなり ません。実際は、それら二つのリストの特徴があまりにも似ているの で、顕著なのは、パウロと初期のキリスト者たちが、二つの別々の指 導者の群れを明確に認識していた、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使徒6 章では、執事と長老の役割と責任の区別の根拠を見てきまし た。使徒6 章2 節では、エルサレムの教会で不平不満が始まった後に、 ''「なので1 2 使徒が弟子たち全員を集めて言った、『わたしたちが神の'' ことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません』」''。'' ここから、神の御言葉の務めは長老の責任の中心である、と言うこと ができます。それは、まさに教会にとって絶対的に中心的なことなの です。使徒6 章4 節でもう一度特色付けられているのは、「''私たちは、'' もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」''ということです。'' 彼らは、字義的には、みことばの執事と言うことができます。このこ とは、後にみます使徒1 5 章ともぴったり適合し、使徒2 0 章でも再び 登場、そして長老は教える能力がなければならない、という資格にお いても同様なのです。長老の役割は、基本的に神のみことばを教える ことで、神の民を導くことなのです。この教えは神のみことばの公の 取り扱いと、みことばが導くところの模範的な生き方によってなされ るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この特徴を要約すると、長老たちの権威は彼らの教える務めと直接 的に関係しています。彼は牧師／ 羊飼いとなるように求められている のです。長老である私たちは、監督として仕えるよう求められていま す。使徒6 章で、長老たちが集会において何か提案しています。Ⅰ テ モテ5 章でパウロは、長老のことを''「教会の事を指導し」''、''「みことば'' と教える者」''として言及しています。しかしながら長老たちの役割は'' 第一に、忍耐強くかつ注意深く教えることで彼らを導くことにあるの です。長老職と執事職の役割を再度明確することで、多くの教会が多 大な益を受けることになるでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅵ .長老と牧師の関係''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしあなたが次のような質問をするとします。「聖書は、長老制の中 に、またはそれに付随して、主任牧師という立場について何か教えて いますか？ 」質問に対する答えは「いいえ、直接にはない」です。そ うは言っても私たちは、長老の中に教会の主要な公の教師としての明 確な役割を見つけることができると思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「牧師」という語は新国際版（ NIV） のエペソ4 章1 1 節で、教会に 対する神の賜物リスト（ 教師とペアで） にのみに登場します。英語の 「パスター（ Pastor）」という単語の背後には、ギリシャ語のポイメナ スという単語があり、それは「シェパード（ Shepard ）」（ 羊飼い／ 牧師） と関連しています。そしてこのシェパードと関連する単語が何度か出 てくるのですが（ 例:Ⅰ ペテロ5:2 、使徒20:28）、しかしこれらの例は いずれも、長老と別々の立場であると示している箇所ではありません。 なるほど使徒2 0 章1 7 節、2 8 節では「長老」、「監督」（ Bishop ）、そし て「シェパード」（ 牧師） がすべて同じグループの人々のことを指し、 交代可能な形で用いられているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは次に、新約聖書において私が考える４ つの役割を挙げてみ たいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#新約聖書の中にも、長老として仕えながら、場所から場所へと 移動する（ テモテやテトスのような） 幾人かの者たちや、移動は しないが長老として働く（ 恐らくテトス（ テトス1 章5 節） のよ うに町ごとに任命する） 者たちが存在しました。このように、テ モテは外部から来ましたが、他の長老たちは地域教会の内部から 任命された者たちでした。 &lt;br /&gt;
#長老の幾人かは会衆によって常勤で支援を受けており（ 参照： Ⅰ テモテ5:17-18 ，ピリピ4:15-18 ）、別の仕事をしている（ パウ ロがしばしば最初にある地域に福音を定着させる際に行ったよう に） 者たちもいました。しかしながらある者は、テトスがクレテ で任命した長老たちの全員が常勤で雇われていたとは考えません。 &lt;br /&gt;
#使徒の働きから私たちは、エペソの教会にも他に長老たちが存 在していたことが分かっていますが、パウロがテモテだけに、教 会宛ての指示を書き送っていたことは興味深いことです。けれど も、テモテはある意味彼らの間でユニークな働きを担っていたと も言えます。 &lt;br /&gt;
#最後に、黙示録2 章と3 章にある７ つの教会宛のイエスの手紙 は、それぞれの教会の説教者（ 単数形）に宛てて記されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勿論、これらは厳格な命令ではありませんが、それらは私たちが実 際に行っていることとも一致します。それは、必ずしも自分たちの共 同体の中からである必要はありませんが、長老たちの中から少なくと も一人（ あるいはもっと多く） をより分け、支援をし、彼に教会にお ける主要な教えの責任を与えることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、説教者または牧師は基本的に会衆の長老たちの一人でもあ る、ということを覚えておく必要があります。私の牧会上の働きで、 最も助けとなったことを一つ挙げるとすれば、それは他の長老たちを 承認することでした。私と一緒にほかの長老たちが行う奉仕は、計り 知れない恩恵を与えてくれました。複数の長老の存在は、牧師の賜物 を完成させ、欠点や判断を補い、教会内の決議に際して支援を作り出 し、指導者たちが不当な批判にさらされる機会を減らすことで教会を 助けるべきです。そのような複数長老性が指導者の地位をより根付か せ永続したものにし、より成熟した連続性を教会に与えるのです。そ してそのことは、教会が自分たちの教会員の霊的成長のために責任を より自覚し、教会の専任スタッフに依存しすぎないようにもさせてい ます。ワシントンにある私たちの教会は、神が与えてくださった長老 という賜物のゆえに、これらの恩恵とそれ以上のものを享受している のです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅶ . 長老と教会の関係''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この件に関して後ほどより詳しく、会衆教会主義について考える時 に取り扱うことにします。一般的に長老と彼らが仕える地域の会衆と の関係は、神の特性の多くのしるしや神への相互信頼によって特徴付 けられるべきものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで上記関係を特徴付ける５ つ－ 承認、信頼、信心深さ、用心深 さと結果、について述べたいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''１ ） 明確な承認''' 長老たちは教会のために神から賦与された賜物を、教会によって承 認されるべきです。教会はそれゆえに自分たちを教え導く任務を、彼 らに委任すべきなのです。それらの任務は、長老たちが明らかに聖書 とは反対のことを行った時にのみ撤回される種類のものです。そして 彼らにとっては、長老たちは、神が与えた教会における権威を認めな ければなりません（ 例: マタイ1 8 章； '''Ⅰ''' コリント5 章、'''Ⅱ''' コリント2 章）。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''２ ） 心からの信頼''' 教会は、長老たちを信頼し、守り、尊重し、そして尊敬すべきです。 パウロが'''Ⅰ''' テモテ5 章1 7 節で次のように記しています。''「よく指導の'' 任に当たっている長老は、二重の尊敬を受けるにふさわしいとしなさ い。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」''長'' 老たちは、教会の問題に対し監督し、教会は彼らの指導に服従すべき です。へブル1 3 章1 7 節で、''「あなたがたの指導者たちの言うことを聞'' き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなた がたのたましいのための見張りをしているのです。ですから、この人 たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることのならないようにしなさ い。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''３ ） 明白な信仰深さ''' パウロが記したテモテとテトスの手紙の中で私たちは、長老たちに 対して「''非難されるところがなく''」と強調されているのを見ました（ テ トス1&amp;amp;nbsp;: 6 節でパウロは「''長老は、非難されるところがなく、ひとりの'' 妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であった りしない信者であることが条件です''」）。それゆえ長老職に就く者は、'' 自分の生活が視察にオープンであり、そして家が外部の人に積極的に 開放されていて、もてなしを与え、他者を自分たちの生活に喜んで受 け入れるべきなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''４ ） 誠実な用心深さ''' 長老たちは、彼らに与えられた権威の用い方によって明らかにされ るべきです。そのことで、長老たちは教会が彼らに属するのではなく、 キリストに属するものであることを理解しているかが分かるからです。 キリストは、その御血潮によって教会を買い取られました。それゆえ 教会は教会の益の中で、神の栄光のために、育成され、慎重かつやさ しく扱われ、信仰によって純粋に導かれるべきであるのです。長老た ちは彼らの奉仕について、キリストにその説明責任があるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''５ ） 有益な結果''' 家庭においても、または私たちの神様との関係においても、正しい 権威の謙虚な認識は、益をもたらすものです。教会においては、会衆 の同意のもとに教会の益のために権威が用いられるならば、会衆は神 がお与えになった教師を通して、神が彼の教会を建て上げるという益 を享受します。サタンの嘘は－ その権威は決して信頼されることはあ りません。なぜならそれは常に非道で圧制的なので－ 会衆の文脈にお ける長老の権威の認知と、慈悲深い履行によって覆されるでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エドワード・グリフィン（ 1770年～1837年） が彼の長年の教会奉仕 から引退する時、彼は、牧師だけではなく（ グリフィンが意図したよ うに）、実に神様が私たちに長老としてお与えくださった、彼らすべて の人々をどのように尊重すべきかについて、いくつかの示唆に富む言 葉でもって会衆に熱心に勧めています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたがたとあなたがたの子どもたちのために、あなたがたが自分 たちの牧師として選んだ彼を育て、尊敬しなさい。彼はすでにあなた がたを愛しておられ、彼はしばらくすると「私の骨の骨、肉の肉」と してあなたがたを愛するようになるでしょう。牧師の働きが彼にとっ て限りなく喜びとなるようするのも、同じようにあなたがたの義務で あり関心となるでしょう。あまり多くを要求しないようにしなさい。 訪問を頻繁に求めないようにしなさい。このように彼が求めに応じて 半分の時間を費やすなら、もし早々と重荷によって潰れなければ、彼 は自分の学びをすっかり疎かにせざろう得ないでしょう。牧師に対し て言われているすべての不親切な事柄は、彼に報告してはいけません。 もし反対者が現れたら、たとえ頻繁でなくても彼の面前で彼らにそれ となく言及しなさい。彼はキリストの牧師ではあるが、彼は人の感情 を持ち合わせていることを考慮しなさい。2 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅷ .権威の賜物''' 今まで見てきた中で見逃してならないことは、指導者として奉仕す ることは大きな特権だということです。ある人々は忙しすぎると感じ るかもしれません。またはそのような働きは全く価値がないと考える かもしれません。私は俳優のゲーリー・クーパーが述べた次の言葉を 思い出ました：「私は無惨に失敗したのが、ゲーリー・クーパーでなく クラーク・ゲイブルであることをただ嬉しく思う」。これは、クーパー が「風とともに去りぬ」の主役の座を断った時に述べたとされること ばです。私たちが考えてきたことは、この世の名声や富をもたらすい かなることよりも、もっと重要なことです。パウロは長老であること は「高貴な仕事」で、人がもしそれを求めるならすばらしいことを求 めているのだ! 3、と述べています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が人との会話の中で最も寒気がすると感じた中のひとつは、私が ケンブリッジ大学で働くある人と話をしている時でした。私たちは食 事のために外に出かけていました。その時のこと、最近行われた市の 会議の決定について彼があからさまに怒りを表したのです。彼がそれ を続けるのをみて、私は私の友人の権威に対する典型的な怒りの反応 を思い出しました。そして私はある時点で彼に単純で直接的で、無条 件の質問を尋ねました。「権威はそんなに悪でしょうか？ 」通常、その ような質問には、ただ困惑した表情がかえってきたり、ナイーブな質 問に対してわざとへり下って鼻をすすったり、そして無数の条件によ って妨げられただらだらとした答えが返って来ます。しかしこの時ば かりは彼のあやのない、単純で直接的で無条件の「はい」という返答 にショックを受けてしまいました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
権威の堕落した性質とその濫用の可能性について、認識しているこ とはよいことであり、健全です。神の目的からかけ離れた権力は、常 にサタン的です。しかしながら、すべての権威を疑うこと、または生 まれつきの不信はとても悪いことです。実に、それは権威に対してと いうよりは、人に疑問を投げかけるように現れます。さらには、それ が、神のイメージに造られた者として働くための私たちの能力におい て、ガン細胞のように退化することを示すのです。神が意図したよう に私たちが生きるには、彼を信頼し、そして多くの範囲で、神に似て 創造された者を信頼することです。聖書の中のアダムとエバから黙示 録に登場する悪漢の支配に至るまで誰もが、根本的に神の権威を否定 し、それをあたかも自分たちのものとして奪うことによって、自分た ちの罪を現すのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信仰深い指導者によって仕えられていることの何たる特権。私たち のために見本とされ実践されてきた神からの権威を持っていることは、 すばらしい賜物です。私たちの時代に多く見受けられるように、権威 を否定することは、近視眼的であり、自己破壊状態です。権威なき世 界は、例えるならば際限のない欲望であり、制御の利かない車であり、 信号機のない十字路交差点であり、両親のいない家であり、神なきこ の世そのものであります。そのような状態はしばらくは続くかもしれ ません。しかしやがては無意味となり、そして悲惨な状況になり、し まいには悲劇的になるでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの無視しようとする傾向とは裏腹に、信仰に篤く聖書的な指 導者は、神の栄光を現すべき教会を建て上げるのに、不可欠な存在で す。私たちの教会における指導権の行使は、神の性質や人格と関わっ ています。もし私たちが適切な権威を、法律を通して、家族会議にお いて、仕事場において、スカウト分隊 において、家庭において、そし て特に教会において行使するなら、神のイメージを彼の被造物に現す 助けをしていることになるのです。これが私たちの召命であり、これ こそが、私たちの特権なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1 例えば、O.L.Hailey and J.R. Graves, Robertson’s Life of Broadus , p.34, 40 . 2 Edward Griffin, A Tearful Farewell from a Faithful Pastor , 1809. 3'''Ⅰ''' テモテ3:1&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Taiki</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E9%95%B7%E8%80%81</id>
		<title>「神の栄光の現れ、/長老</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E9%95%B7%E8%80%81"/>
				<updated>2009-09-25T02:20:46Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Taiki: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info| A Display of God's Glory/Elders}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
執事職同様重要であり、キリスト者として共に生きるうえでより本質&lt;br /&gt;
的な務めが、もう一つの群の働きであり、今からみる－ 長老たちです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅰ ． 長老の複数性'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地域教会における長老について、まず最初に言及すべきことは、彼&lt;br /&gt;
ら長老たちが複数形で存在するという点です。特定の会衆に対して、&lt;br /&gt;
長老の数は明確には述べられてはいませんが、新約聖書は一様に「長&lt;br /&gt;
老」を複数形で表しています（ 例: 使徒16:4 ; 20:17 ; 21:18 ; テトス1:5 ;&lt;br /&gt;
ヤコブ5:14）。福音書や使徒の働きの中で言及されるイスラエルの長老&lt;br /&gt;
たちも複数形です。天における長老たちも複数形です（ 黙示&lt;br /&gt;
5:14 ; 11:16 ; 19:4 ）。使徒1 1 章3 0 節で、長老は複数です。使徒1 4 章1&lt;br /&gt;
節から2 3 節で、''「彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子として&lt;br /&gt;
から、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たち&lt;br /&gt;
の心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、･･･パウロとバ&lt;br /&gt;
ルナバは彼らのために教会ごとに長老を任命し〔又は選び〕、断食して&lt;br /&gt;
祈った後、彼らをその信じていた主にゆだねた」''とあります。もし使&lt;br /&gt;
徒1 5 章を通して見るならば、2 節、4 節、6 節と2 3 節でそれぞれ複数&lt;br /&gt;
形で長老が用いられているのがわかります。使徒1 6 章4 節で、長老と&lt;br /&gt;
いう単語は複数形で表れています。使徒2 0 章1 7 節では、パウロが自&lt;br /&gt;
分自身をエペソの教会の長老を呼んでいます。使徒2 0 章2 8 節や、'''Ⅰ'''&lt;br /&gt;
テモテ4 章1 4 節、5 章1 7 節なども同様です。テトス1 章5 節では、パ&lt;br /&gt;
ウロは次のように述べています。''「私があなたをクレテに残したのは、&lt;br /&gt;
あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町&lt;br /&gt;
ごとに長老たちを任命するためでした… 」''。ヤゴブ5 章1 4 節でヤコブ&lt;br /&gt;
は、地域教会（ 単数） の長老たち（ 複数形） が病気の人のために祈り&lt;br /&gt;
に来る様子を描いています。'''Ⅰ''' ペテロ5 章1 節では、ペテロは彼らキ&lt;br /&gt;
リスト者の中にいる長老たちに訴えかけています。実は、唯一の例外&lt;br /&gt;
が、第二、第三ヨハネにあります。そこでは作者は単に自らを「長老」&lt;br /&gt;
と言及し、'''Ⅰ''' テモテ5 章では、もし長老に対する訴えがでた場合に、&lt;br /&gt;
どのように対処すべきかについて教会の判例が挙げられています。し&lt;br /&gt;
かしながら基本的に新約聖書における状況は、地域教会の中には一人&lt;br /&gt;
の長老ではなく、通常長老たちの群れが存在していたということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅱ ．長老の資格'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だれが長老になるべきでしょうか？ 彼らの資格はどのようなもので&lt;br /&gt;
あるべきでしょうか？ 長老たちに対する資格は、聖書の'''Ⅰ''' テモテ3 章&lt;br /&gt;
とテトス1 章に明確に記されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅰ''' テモテ3 章を見る前に、'''Ⅰ''' テモテ2 章で挙げられている重要な問&lt;br /&gt;
題について注意を払う必要があります。それは、女性が長老として仕&lt;br /&gt;
えることは神の御心ではないということです。'''Ⅰ''' テモテ2 章の曖昧な&lt;br /&gt;
表現をめぐっては、多くの質問が投げかけられてきました。常に安全&lt;br /&gt;
な方策は、曖昧な部分があるからと言ってすでに明確なところを疑う&lt;br /&gt;
のではなく、聖書の明確な箇所から始めて、神がより曖昧なところに&lt;br /&gt;
光を当ててくださるよう祈ることにあります。'''Ⅰ''' テモテ2 章において&lt;br /&gt;
明確なことは、女性は教えたり、男性の上に権威を持つべきではない&lt;br /&gt;
ということでした。パウロがここで不適切であると言わんとしている&lt;br /&gt;
正確な権威が何であろうとも、女性が教えることが含まれていること&lt;br /&gt;
は明らかです。初代教会における慣例は、夫が妻を支配するという創&lt;br /&gt;
造の秩序がそのまま教会において慣例となっている、ということです。&lt;br /&gt;
ガラテヤ3 章2 8 節で明らかなことは、キリストにあっては男も女もな&lt;br /&gt;
いということです。しかしながらこのことは、男女の間の性における&lt;br /&gt;
すべての区別を無視するものではなく、かえって、救いにおける神の&lt;br /&gt;
恵みのすばらしく公平なことを単に確認しているのだと捉えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上のことを踏まえて、'''Ⅰ''' テモテ3 章を見てみましょう。しばらく&lt;br /&gt;
時間を取って、'''Ⅰ''' テモテ3 章1 節から7 節を読んでください。D． A ．&lt;br /&gt;
カーソン（ トリニティ神学校の新約学の教授） はかつて、このリスト&lt;br /&gt;
に載っている特徴は、全く注目に値しないという点で、最も注目に値&lt;br /&gt;
すると述べています。彼が言わんとすることは、これらすべての特徴&lt;br /&gt;
は聖書のあらゆるところにおいて、キリスト者全員に課せられている&lt;br /&gt;
ことであります－ すなわち、教える能力（ '''Ⅰ''' テモテ3 : 2） 以外のすべて&lt;br /&gt;
は。聖書はここで長老の特徴について十分な位に私たちに教えていま&lt;br /&gt;
すが、パウロがこのリストを完全なものであると主張しているとは私&lt;br /&gt;
には思えません。むしろ彼の目的は、当時の周囲の文化からも道徳的&lt;br /&gt;
であるとみなされる一般的な特徴を羅列しただけであると考えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会における指導者の目的は、外部の人たちに真理を推薦すること&lt;br /&gt;
で、神に栄光を帰することです。このことは、パウロがコリントの教&lt;br /&gt;
会において互いの争いをこの世の裁判所に訴え出て、甚だしく不品行&lt;br /&gt;
な生活を送る者たちが教会と交際するのを許していることを怒った理&lt;br /&gt;
由でもあります。これらのことは両方とも福音の証言を台無しにする&lt;br /&gt;
ことでしょう。従ってパウロは'''Ⅰ''' テモテで、エペソ教会で幾人かの偽&lt;br /&gt;
教師の明らかな不信仰によって、赦しと希望の福音の宣言、そして罪&lt;br /&gt;
人の回心という教会を通して現される神の栄光を徹底的に危険にさら&lt;br /&gt;
されていることを指摘するのです。パウロが'''Ⅰ''' テモテ3 章（ またはテ&lt;br /&gt;
トス1 章） で挙げている徳のリストは、キリスト者が現すべきすべて&lt;br /&gt;
ではないのです。それらは、教会指導者たちを監督する立場にある人々&lt;br /&gt;
へ、福音を委託したところの徳です。規則正しい聖書朗読は良いこと&lt;br /&gt;
ですし、祈りは必要です。しかし、パウロがここで述べていることは、&lt;br /&gt;
そのどちらでもないのです。それにもかかわらず、私は自分の教会の&lt;br /&gt;
長老たちにはそれらの徳の両方を備えてもらいたいと思います。聖書&lt;br /&gt;
の他のところで私が教えられてきたことは、それらの徳はすべてのキ&lt;br /&gt;
リスト者を描写するためであり、ここでパウロが言わんとしているこ&lt;br /&gt;
とは、私が思うに、時間どおりにお金を払うとか、いつも喜んでいる&lt;br /&gt;
とか、謙虚で人の役に立つとか－ 異教徒でさえも良いと認める事柄を、&lt;br /&gt;
彼は強調したかったのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、どのようにして自分の教会でそのような指導者を見つけ出せ&lt;br /&gt;
ばいいのでしょうか？ 私たちは、このことにおいて神の知恵があるよ&lt;br /&gt;
うに祈ります。私たちは、特にそのような責任についての資格が教え&lt;br /&gt;
られている'''Ⅰ''' テモテとテトスの箇所を学びたいと思います。指導者を&lt;br /&gt;
選ぶ際に、私たちはこの世の基準には従いません。ある教会が実際に&lt;br /&gt;
行っているような、単に会衆の中に地域の指導者を見つけ、そのまま&lt;br /&gt;
教会の指導者にするような真似はすべきではありません。オズ・ギネ&lt;br /&gt;
スが彼の著書''「Dining with Devil」''の中で、日本人ビジネスマンが&lt;br /&gt;
滞在中のオーストリア人に言ったコメントを詳しく紹介しています：&lt;br /&gt;
「仏教指導者に会う時はいつも、私は聖職者に会います。キリスト教&lt;br /&gt;
の指導者に会う時はいつも、経営者に会うのです」（ p . 4 9 ）。その代わ&lt;br /&gt;
りに、私たちは、人格者で、評判がよく、御言葉を論じる能力があり、&lt;br /&gt;
教会の中でよい指導者として特徴付けている豊かな実を備えている人&lt;br /&gt;
物を探すべきです。これら教会指導者の特色は、彼ら自身の上にでは&lt;br /&gt;
なく、他者の上に建てられるということです。従って、彼らはお金に&lt;br /&gt;
無欲であり、かえって知らない人をもてなし－ まさにそれが「温かく&lt;br /&gt;
もてなす」の字義的意味でもあります。真の教会指導者は、他者中心&lt;br /&gt;
であるべきなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅲ . 歴史的概観'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべての教会が、たとえ異なる名前で呼ばれていても、長老の働き&lt;br /&gt;
をする個々人を擁しています。この職務に対する新約聖書の最も一般&lt;br /&gt;
的な名前は、episcopos (監督)とpresbuteros（ 長老） です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日福音派が単語で「長老」と聞くと、多くの人はすぐに「プレス&lt;br /&gt;
ビテリェン（ 長老教会派の）」を思い浮かべることでしょう。しかしな&lt;br /&gt;
がら、1 6 世紀の最初の組合教会主義者たちは、長老職が新約聖書の教&lt;br /&gt;
会におけるひとつの職務であると教えられました。長老を長老派と関&lt;br /&gt;
連させるのは歴史的には正確ですが、もっぱら長老派だけに関連させ&lt;br /&gt;
るのは正確でありません。またその単語がバプテスト派にとって、無&lt;br /&gt;
関係であると考えることも正しくありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長老職は、1 8 世紀中から1 9 世紀にかけてアメリカのバプテスト派教&lt;br /&gt;
会に見つけることができます。1 南部バプテスト会議の初代議長であっ&lt;br /&gt;
たW . B .ジョンソンが教会生活について記した本の中で、彼はひとつの&lt;br /&gt;
地域教会において複数の長老職が存在する考えを強く主張しました。&lt;br /&gt;
それが聖書に無関心なせいであろうと、又はフロンティア（ 未開拓地&lt;br /&gt;
域） の生活の多忙のためか（ 驚くべき速度で成長する教会！ ）、そのよ&lt;br /&gt;
うな聖書的リーダーシップ（ textured leadership） を奨励する習慣が&lt;br /&gt;
衰退してきました。しかしバプテスト派の論文の中で、この聖書的な&lt;br /&gt;
職務を復活させようとする議論が継続しました。遅くても2 0 世紀初頭&lt;br /&gt;
には、バプテストの出版物は、指導者を「長老」という名称で言及し&lt;br /&gt;
ています。この慣例は今日のバプテスト派教会の間で一風変わったも&lt;br /&gt;
のにもかかわらず、そこに戻ろうとする傾向がみられるのです－ そし&lt;br /&gt;
てそれにはもっともな理由が存在します。それは新約聖書の時代の教&lt;br /&gt;
会に長老が必要であったように、今も必要だからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではまず最初に長老と教会スタッフとの区別をし、次に執事、さら&lt;br /&gt;
に牧師とほかの長老たちとの関係について見ていくことで、長老とは&lt;br /&gt;
どういう意味か明確にしたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅳ . 長老と教会スタッフとの関係'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代の多くの教会で、長老と教会スタッフを混同する傾向が見られ&lt;br /&gt;
ました。スタッフとは、教会がその働きのために常勤で雇われている&lt;br /&gt;
人々のことを指します。彼らはしばしば日々起こる事柄について最も&lt;br /&gt;
精通しています。彼らの多くは神学教育を受けており、ある程度の信&lt;br /&gt;
仰と成熟を備えていなければなりません。そうでなければそもそも彼&lt;br /&gt;
らが雇われることはないはずです。勿論教会スタッフのメンバーが長&lt;br /&gt;
老であるかもしれません。実は、私たちの教会憲法には、その人物が&lt;br /&gt;
直ちに長老として認知される者でなければ、牧師として招聘すること&lt;br /&gt;
はできない、と規定してあるのです。それは、賢い規定であると私は&lt;br /&gt;
考えます。しかしながら同じ教会憲法によって長老の過半数は、教会&lt;br /&gt;
で雇われていない者で構成されるよう規定されているのです。例えば、&lt;br /&gt;
私たちの牧会アシスタント（ 若い男性で、働きに有用で、すぐにでも&lt;br /&gt;
神学校を目指して進みそうな人物） は大抵の場合、長老としては認知&lt;br /&gt;
されていません。しかし彼らは教えることから教会員の訪問まで、す&lt;br /&gt;
べてにおいて私たちにすばらしいケアを与えてくれています。私たち&lt;br /&gt;
がこの規定を教会憲法に含める理由は、ただ単に長老たちを雇うとい&lt;br /&gt;
うことだけではなく、彼らを私たちの中から見つけ出せる位、霊的に&lt;br /&gt;
豊かな実が結べるよう努力をすることで、私たちが会衆として確かに&lt;br /&gt;
その責任の重さを実感することができるよう願っているからです。現&lt;br /&gt;
在私たちの教会で長老として認められている５ 人のうち、３ 人はこの&lt;br /&gt;
世の仕事をもち、牧師の私と教会管理者の二人だけが、教会に有給で&lt;br /&gt;
雇われています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅴ . 長老と執事の関係'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教理の面においてでなく実際に、多くの教会が新約聖書の執事と長&lt;br /&gt;
老の役割を混同してきました。今まで見てきたように、執事職の関心&lt;br /&gt;
事は、教会生活の実際的な事柄であり、管理、補修と物質的な必要に&lt;br /&gt;
伴う教会員の世話である－ それらすべてが教会の一致と御言葉の働き&lt;br /&gt;
を促進するためにあるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅰ''' テモテ3 章の長老と執事に対する資格のリストの比較で最も顕著&lt;br /&gt;
なのは、それらの違いではなく類似点です。監督（ 長老） と執事の両&lt;br /&gt;
方ともに評判が良く、非難されるところがなく、信頼に値し、ひとり&lt;br /&gt;
の妻の夫であり、酒飲みでなく、慎み深く、寛容な人でなければなり&lt;br /&gt;
ません。実際は、それら二つのリストの特徴があまりにも似ているの&lt;br /&gt;
で、顕著なのは、パウロと初期のキリスト者たちが、二つの別々の指&lt;br /&gt;
導者の群れを明確に認識していた、ということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使徒6 章では、執事と長老の役割と責任の区別の根拠を見てきまし&lt;br /&gt;
た。使徒6 章2 節では、エルサレムの教会で不平不満が始まった後に、&lt;br /&gt;
''「なので1 2 使徒が弟子たち全員を集めて言った、『わたしたちが神の&lt;br /&gt;
ことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません』」''。&lt;br /&gt;
ここから、神の御言葉の務めは長老の責任の中心である、と言うこと&lt;br /&gt;
ができます。それは、まさに教会にとって絶対的に中心的なことなの&lt;br /&gt;
です。使徒6 章4 節でもう一度特色付けられているのは、「''私たちは、&lt;br /&gt;
もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」''ということです。&lt;br /&gt;
彼らは、字義的には、みことばの執事と言うことができます。このこ&lt;br /&gt;
とは、後にみます使徒1 5 章ともぴったり適合し、使徒2 0 章でも再び&lt;br /&gt;
登場、そして長老は教える能力がなければならない、という資格にお&lt;br /&gt;
いても同様なのです。長老の役割は、基本的に神のみことばを教える&lt;br /&gt;
ことで、神の民を導くことなのです。この教えは神のみことばの公の&lt;br /&gt;
取り扱いと、みことばが導くところの模範的な生き方によってなされ&lt;br /&gt;
るのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この特徴を要約すると、長老たちの権威は彼らの教える務めと直接&lt;br /&gt;
的に関係しています。彼は牧師／ 羊飼いとなるように求められている&lt;br /&gt;
のです。長老である私たちは、監督として仕えるよう求められていま&lt;br /&gt;
す。使徒6 章で、長老たちが集会において何か提案しています。Ⅰ テ&lt;br /&gt;
モテ5 章でパウロは、長老のことを''「教会の事を指導し」''、''「みことば&lt;br /&gt;
と教える者」''として言及しています。しかしながら長老たちの役割は&lt;br /&gt;
第一に、忍耐強くかつ注意深く教えることで彼らを導くことにあるの&lt;br /&gt;
です。長老職と執事職の役割を再度明確することで、多くの教会が多&lt;br /&gt;
大な益を受けることになるでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅵ .長老と牧師の関係'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしあなたが次のような質問をするとします。「聖書は、長老制の中&lt;br /&gt;
に、またはそれに付随して、主任牧師という立場について何か教えて&lt;br /&gt;
いますか？ 」質問に対する答えは「いいえ、直接にはない」です。そ&lt;br /&gt;
うは言っても私たちは、長老の中に教会の主要な公の教師としての明&lt;br /&gt;
確な役割を見つけることができると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「牧師」という語は新国際版（ NIV） のエペソ4 章1 1 節で、教会に&lt;br /&gt;
対する神の賜物リスト（ 教師とペアで） にのみに登場します。英語の&lt;br /&gt;
「パスター（ Pastor）」という単語の背後には、ギリシャ語のポイメナ&lt;br /&gt;
スという単語があり、それは「シェパード（ Shepard ）」（ 羊飼い／ 牧師）&lt;br /&gt;
と関連しています。そしてこのシェパードと関連する単語が何度か出&lt;br /&gt;
てくるのですが（ 例:Ⅰ ペテロ5:2 、使徒20:28）、しかしこれらの例は&lt;br /&gt;
いずれも、長老と別々の立場であると示している箇所ではありません。&lt;br /&gt;
なるほど使徒2 0 章1 7 節、2 8 節では「長老」、「監督」（ Bishop ）、そし&lt;br /&gt;
て「シェパード」（ 牧師） がすべて同じグループの人々のことを指し、&lt;br /&gt;
交代可能な形で用いられているのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは次に、新約聖書において私が考える４ つの役割を挙げてみ&lt;br /&gt;
たいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１ ） 新約聖書の中にも、長老として仕えながら、場所から場所へと&lt;br /&gt;
移動する（ テモテやテトスのような） 幾人かの者たちや、移動は&lt;br /&gt;
しないが長老として働く（ 恐らくテトス（ テトス1 章5 節） のよ&lt;br /&gt;
うに町ごとに任命する） 者たちが存在しました。このように、テ&lt;br /&gt;
モテは外部から来ましたが、他の長老たちは地域教会の内部から&lt;br /&gt;
任命された者たちでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２ ） 長老の幾人かは会衆によって常勤で支援を受けており（ 参照：&lt;br /&gt;
Ⅰ テモテ5:17-18 ，ピリピ4:15-18 ）、別の仕事をしている（ パウ&lt;br /&gt;
ロがしばしば最初にある地域に福音を定着させる際に行ったよう&lt;br /&gt;
に） 者たちもいました。しかしながらある者は、テトスがクレテ&lt;br /&gt;
で任命した長老たちの全員が常勤で雇われていたとは考えません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３ ） 使徒の働きから私たちは、エペソの教会にも他に長老たちが存&lt;br /&gt;
在していたことが分かっていますが、パウロがテモテだけに、教&lt;br /&gt;
会宛ての指示を書き送っていたことは興味深いことです。けれど&lt;br /&gt;
も、テモテはある意味彼らの間でユニークな働きを担っていたと&lt;br /&gt;
も言えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
４ ） 最後に、黙示録2 章と3 章にある７ つの教会宛のイエスの手紙&lt;br /&gt;
は、それぞれの教会の説教者（ 単数形）に宛てて記されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勿論、これらは厳格な命令ではありませんが、それらは私たちが実&lt;br /&gt;
際に行っていることとも一致します。それは、必ずしも自分たちの共&lt;br /&gt;
同体の中からである必要はありませんが、長老たちの中から少なくと&lt;br /&gt;
も一人（ あるいはもっと多く） をより分け、支援をし、彼に教会にお&lt;br /&gt;
ける主要な教えの責任を与えることです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、説教者または牧師は基本的に会衆の長老たちの一人でもあ&lt;br /&gt;
る、ということを覚えておく必要があります。私の牧会上の働きで、&lt;br /&gt;
最も助けとなったことを一つ挙げるとすれば、それは他の長老たちを&lt;br /&gt;
承認することでした。私と一緒にほかの長老たちが行う奉仕は、計り&lt;br /&gt;
知れない恩恵を与えてくれました。複数の長老の存在は、牧師の賜物&lt;br /&gt;
を完成させ、欠点や判断を補い、教会内の決議に際して支援を作り出&lt;br /&gt;
し、指導者たちが不当な批判にさらされる機会を減らすことで教会を&lt;br /&gt;
助けるべきです。そのような複数長老性が指導者の地位をより根付か&lt;br /&gt;
せ永続したものにし、より成熟した連続性を教会に与えるのです。そ&lt;br /&gt;
してそのことは、教会が自分たちの教会員の霊的成長のために責任を&lt;br /&gt;
より自覚し、教会の専任スタッフに依存しすぎないようにもさせてい&lt;br /&gt;
ます。ワシントンにある私たちの教会は、神が与えてくださった長老&lt;br /&gt;
という賜物のゆえに、これらの恩恵とそれ以上のものを享受している&lt;br /&gt;
のです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅶ . 長老と教会の関係'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この件に関して後ほどより詳しく、会衆教会主義について考える時&lt;br /&gt;
に取り扱うことにします。一般的に長老と彼らが仕える地域の会衆と&lt;br /&gt;
の関係は、神の特性の多くのしるしや神への相互信頼によって特徴付&lt;br /&gt;
けられるべきものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで上記関係を特徴付ける５ つ－ 承認、信頼、信心深さ、用心深&lt;br /&gt;
さと結果、について述べたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''１ ） 明確な承認'''&lt;br /&gt;
長老たちは教会のために神から賦与された賜物を、教会によって承&lt;br /&gt;
認されるべきです。教会はそれゆえに自分たちを教え導く任務を、彼&lt;br /&gt;
らに委任すべきなのです。それらの任務は、長老たちが明らかに聖書&lt;br /&gt;
とは反対のことを行った時にのみ撤回される種類のものです。そして&lt;br /&gt;
彼らにとっては、長老たちは、神が与えた教会における権威を認めな&lt;br /&gt;
ければなりません（ 例: マタイ1 8 章； '''Ⅰ''' コリント5 章、'''Ⅱ''' コリント2 章）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''２ ） 心からの信頼'''&lt;br /&gt;
教会は、長老たちを信頼し、守り、尊重し、そして尊敬すべきです。&lt;br /&gt;
パウロが'''Ⅰ''' テモテ5 章1 7 節で次のように記しています。''「よく指導の&lt;br /&gt;
任に当たっている長老は、二重の尊敬を受けるにふさわしいとしなさ&lt;br /&gt;
い。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」''長&lt;br /&gt;
老たちは、教会の問題に対し監督し、教会は彼らの指導に服従すべき&lt;br /&gt;
です。へブル1 3 章1 7 節で、''「あなたがたの指導者たちの言うことを聞&lt;br /&gt;
き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなた&lt;br /&gt;
がたのたましいのための見張りをしているのです。ですから、この人&lt;br /&gt;
たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることのならないようにしなさ&lt;br /&gt;
い。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''３ ） 明白な信仰深さ'''&lt;br /&gt;
パウロが記したテモテとテトスの手紙の中で私たちは、長老たちに&lt;br /&gt;
対して「''非難されるところがなく''」と強調されているのを見ました（ テ&lt;br /&gt;
トス1 : 6 節でパウロは「''長老は、非難されるところがなく、ひとりの&lt;br /&gt;
妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であった&lt;br /&gt;
りしない信者であることが条件です''」）。それゆえ長老職に就く者は、&lt;br /&gt;
自分の生活が視察にオープンであり、そして家が外部の人に積極的に&lt;br /&gt;
開放されていて、もてなしを与え、他者を自分たちの生活に喜んで受&lt;br /&gt;
け入れるべきなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''４ ） 誠実な用心深さ'''&lt;br /&gt;
長老たちは、彼らに与えられた権威の用い方によって明らかにされ&lt;br /&gt;
るべきです。そのことで、長老たちは教会が彼らに属するのではなく、&lt;br /&gt;
キリストに属するものであることを理解しているかが分かるからです。&lt;br /&gt;
キリストは、その御血潮によって教会を買い取られました。それゆえ&lt;br /&gt;
教会は教会の益の中で、神の栄光のために、育成され、慎重かつやさ&lt;br /&gt;
しく扱われ、信仰によって純粋に導かれるべきであるのです。長老た&lt;br /&gt;
ちは彼らの奉仕について、キリストにその説明責任があるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''５ ） 有益な結果'''&lt;br /&gt;
家庭においても、または私たちの神様との関係においても、正しい&lt;br /&gt;
権威の謙虚な認識は、益をもたらすものです。教会においては、会衆&lt;br /&gt;
の同意のもとに教会の益のために権威が用いられるならば、会衆は神&lt;br /&gt;
がお与えになった教師を通して、神が彼の教会を建て上げるという益&lt;br /&gt;
を享受します。サタンの嘘は－ その権威は決して信頼されることはあ&lt;br /&gt;
りません。なぜならそれは常に非道で圧制的なので－ 会衆の文脈にお&lt;br /&gt;
ける長老の権威の認知と、慈悲深い履行によって覆されるでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エドワード・グリフィン（ 1770年～1837年） が彼の長年の教会奉仕&lt;br /&gt;
から引退する時、彼は、牧師だけではなく（ グリフィンが意図したよ&lt;br /&gt;
うに）、実に神様が私たちに長老としてお与えくださった、彼らすべて&lt;br /&gt;
の人々をどのように尊重すべきかについて、いくつかの示唆に富む言&lt;br /&gt;
葉でもって会衆に熱心に勧めています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたがたとあなたがたの子どもたちのために、あなたがたが自分&lt;br /&gt;
たちの牧師として選んだ彼を育て、尊敬しなさい。彼はすでにあなた&lt;br /&gt;
がたを愛しておられ、彼はしばらくすると「私の骨の骨、肉の肉」と&lt;br /&gt;
してあなたがたを愛するようになるでしょう。牧師の働きが彼にとっ&lt;br /&gt;
て限りなく喜びとなるようするのも、同じようにあなたがたの義務で&lt;br /&gt;
あり関心となるでしょう。あまり多くを要求しないようにしなさい。&lt;br /&gt;
訪問を頻繁に求めないようにしなさい。このように彼が求めに応じて&lt;br /&gt;
半分の時間を費やすなら、もし早々と重荷によって潰れなければ、彼&lt;br /&gt;
は自分の学びをすっかり疎かにせざろう得ないでしょう。牧師に対し&lt;br /&gt;
て言われているすべての不親切な事柄は、彼に報告してはいけません。&lt;br /&gt;
もし反対者が現れたら、たとえ頻繁でなくても彼の面前で彼らにそれ&lt;br /&gt;
となく言及しなさい。彼はキリストの牧師ではあるが、彼は人の感情&lt;br /&gt;
を持ち合わせていることを考慮しなさい。2&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅷ .権威の賜物'''&lt;br /&gt;
今まで見てきた中で見逃してならないことは、指導者として奉仕す&lt;br /&gt;
ることは大きな特権だということです。ある人々は忙しすぎると感じ&lt;br /&gt;
るかもしれません。またはそのような働きは全く価値がないと考える&lt;br /&gt;
かもしれません。私は俳優のゲーリー・クーパーが述べた次の言葉を&lt;br /&gt;
思い出ました：「私は無惨に失敗したのが、ゲーリー・クーパーでなく&lt;br /&gt;
クラーク・ゲイブルであることをただ嬉しく思う」。これは、クーパー&lt;br /&gt;
が「風とともに去りぬ」の主役の座を断った時に述べたとされること&lt;br /&gt;
ばです。私たちが考えてきたことは、この世の名声や富をもたらすい&lt;br /&gt;
かなることよりも、もっと重要なことです。パウロは長老であること&lt;br /&gt;
は「高貴な仕事」で、人がもしそれを求めるならすばらしいことを求&lt;br /&gt;
めているのだ! 3、と述べています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が人との会話の中で最も寒気がすると感じた中のひとつは、私が&lt;br /&gt;
ケンブリッジ大学で働くある人と話をしている時でした。私たちは食&lt;br /&gt;
事のために外に出かけていました。その時のこと、最近行われた市の&lt;br /&gt;
会議の決定について彼があからさまに怒りを表したのです。彼がそれ&lt;br /&gt;
を続けるのをみて、私は私の友人の権威に対する典型的な怒りの反応&lt;br /&gt;
を思い出しました。そして私はある時点で彼に単純で直接的で、無条&lt;br /&gt;
件の質問を尋ねました。「権威はそんなに悪でしょうか？ 」通常、その&lt;br /&gt;
ような質問には、ただ困惑した表情がかえってきたり、ナイーブな質&lt;br /&gt;
問に対してわざとへり下って鼻をすすったり、そして無数の条件によ&lt;br /&gt;
って妨げられただらだらとした答えが返って来ます。しかしこの時ば&lt;br /&gt;
かりは彼のあやのない、単純で直接的で無条件の「はい」という返答&lt;br /&gt;
にショックを受けてしまいました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
権威の堕落した性質とその濫用の可能性について、認識しているこ&lt;br /&gt;
とはよいことであり、健全です。神の目的からかけ離れた権力は、常&lt;br /&gt;
にサタン的です。しかしながら、すべての権威を疑うこと、または生&lt;br /&gt;
まれつきの不信はとても悪いことです。実に、それは権威に対してと&lt;br /&gt;
いうよりは、人に疑問を投げかけるように現れます。さらには、それ&lt;br /&gt;
が、神のイメージに造られた者として働くための私たちの能力におい&lt;br /&gt;
て、ガン細胞のように退化することを示すのです。神が意図したよう&lt;br /&gt;
に私たちが生きるには、彼を信頼し、そして多くの範囲で、神に似て&lt;br /&gt;
創造された者を信頼することです。聖書の中のアダムとエバから黙示&lt;br /&gt;
録に登場する悪漢の支配に至るまで誰もが、根本的に神の権威を否定&lt;br /&gt;
し、それをあたかも自分たちのものとして奪うことによって、自分た&lt;br /&gt;
ちの罪を現すのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信仰深い指導者によって仕えられていることの何たる特権。私たち&lt;br /&gt;
のために見本とされ実践されてきた神からの権威を持っていることは、&lt;br /&gt;
すばらしい賜物です。私たちの時代に多く見受けられるように、権威&lt;br /&gt;
を否定することは、近視眼的であり、自己破壊状態です。権威なき世&lt;br /&gt;
界は、例えるならば際限のない欲望であり、制御の利かない車であり、&lt;br /&gt;
信号機のない十字路交差点であり、両親のいない家であり、神なきこ&lt;br /&gt;
の世そのものであります。そのような状態はしばらくは続くかもしれ&lt;br /&gt;
ません。しかしやがては無意味となり、そして悲惨な状況になり、し&lt;br /&gt;
まいには悲劇的になるでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの無視しようとする傾向とは裏腹に、信仰に篤く聖書的な指&lt;br /&gt;
導者は、神の栄光を現すべき教会を建て上げるのに、不可欠な存在で&lt;br /&gt;
す。私たちの教会における指導権の行使は、神の性質や人格と関わっ&lt;br /&gt;
ています。もし私たちが適切な権威を、法律を通して、家族会議にお&lt;br /&gt;
いて、仕事場において、スカウト分隊 において、家庭において、そし&lt;br /&gt;
て特に教会において行使するなら、神のイメージを彼の被造物に現す&lt;br /&gt;
助けをしていることになるのです。これが私たちの召命であり、これ&lt;br /&gt;
こそが、私たちの特権なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1 例えば、O.L.Hailey and J.R. Graves, Robertson’s Life of Broadus , p.34, 40 .&lt;br /&gt;
2 Edward Griffin, A Tearful Farewell from a Faithful Pastor , 1809.&lt;br /&gt;
3''' Ⅰ''' テモテ3:1&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Taiki</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E5%9F%B7%E4%BA%8B</id>
		<title>「神の栄光の現れ、/執事</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E5%9F%B7%E4%BA%8B"/>
				<updated>2009-09-23T22:51:19Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Taiki: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Deacons}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず初めに、今日の地域教会において最も馴染みのある職務の一つ、 執事について見ていきます。あなたがどのような背景の教会から来て いるのかによりますが、「執事」の単語から想起させるものとして、特 別にあてがわれた教会の特別室にある長く磨き上げられた机の周りに 座る、白髪交じりの銀行マンのイメージをもっているかもしれません。 あるいは、そのことばが、教会の必要から来る働きの調整や福音的な 伝道の働き、又は牧会的な配慮など教会の熱心な奉仕者を思い浮かべ るかもしれません。後者がまさに私たちの教会における執事なのです。 それでは聖書における執事とは何でしょうか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅰ 「執事」の定義&amp;lt;br&amp;gt;''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「執事」が仕えることという意味において、新約聖書の世界におけ る理解は私たちのものと似ていました。他者に仕えるということは、 ギリシャ人にとっては称賛されるべきことではありませんでした。か えって、彼らは自尊心を常に維持することに目を配り、自分自身の人 格や性格の発展を称賛しました。他者への執事的な奉仕は、「奴隷のよ うな」という軽蔑語によって表現される類のものと見なされていたの です。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら聖書は、奉仕をまったく別に描いています。 新約聖書の現代的な訳によれば、ディアコノスという単語は、通常「奉 仕者」と訳され、時には「しもべ・牧師」、そして時には単に字音的に 「執事」と訳出されています。それは、一般的な奉仕に言及したり （例： 使徒''''1:17、25、19:22'''； ローマ.'''12:7'''； '''Ⅰ''' コリ.'''12:5'''； '''16:15'''； エペ.'''4:12'''； コロ.'''4:17'''； ２ テモ.'''1:18'''； ピレモン'''13'''； へブ.'''6:10'''； '''Ⅰ''' ペテ'''4:10-11'''； 黙 示.'''2:19'''）、特に支配者として （例： ローマ.'''13:4'''）、又は物質的な必要へ の配慮として述べられています （例：マタイ.'''25:44'''；使徒.'''11:29'''；'''12:25'''； ローマ'''15:25',31'''； '''Ⅰ''' コリ.'''8:4,19-20'''；'''9:1,12-13'''； '''11:8'''）。新約聖書にお いて明らかなのは、女性が少なくともこれらの務めのいくつかをすることができる、ということです （例： マタイ.'''8:15'''； マルコ'''1:31'''； ルカ '''4:39'''； マタイ'''27:55'''； マルコ'''15:41'''； 参照.ルカ'''8:3'''； ルカ'''10:40'''； ヨハ ネ'''12:2'''； ローマ'''16:1'''）。天使はこのように仕えます （例： マタイ.'''4:11'''； マルコ'''1:13'''）。ときどきそれは、特に給仕のテーブルに言及され （例： マタイ'''22:13'''； ルカ'''10:40'''； '''17:8'''； ヨハネ'''2:5,9'''； '''12:2'''）、ギリシャ世界 においては、そのような務めは軽蔑の対象であったにもかかわらず、 イエスはそれを異なるものとして尊重しました。ヨハネ'''12''' 章'''26''' 節で イエスは''「わたしに仕えるというなら、その人はわたしについて来な さい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわ たしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます」''と言われまし た。マタイ'''20''' 章'''26''' 節でも再び （参照： マルコ'''9:35'''） イエスは''「偉く なりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」''と述べています。 そしてマタイ'''23''' 章'''11''' 節で （参照： マルコ'''10:43'''； ルカ'''22:26-27'''） 彼 は''「あながたがのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でな ければなりません」''と言っています。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際に、イエスは自分自身を執事の典型として紹介してさえいます&amp;amp;nbsp; （例： マタイ''''20:28'''；マルコ'''10:45'''； ルカ'''22:26-27'''； 参照.ヨハネ'''13'''； ルカ'''12:37'''； ローマ'''15:8'''）。キリスト者はキリスト、または彼の福音に 仕える者となるように描かれています。そのことは使徒たちがどのよ うに描写されたか （使徒'''6:1-7'''）、又パウロは自分自身や彼と共に働い た人々についても確かに言及しています （例：使徒20:24；'''Ⅰ'''コリ'''3:5'''； ２ コリ.'''3:3,6-9；4:1'''； '''5:18'''；'''6:3-4'''； '''11:23'''； エペソ'''3:7'''； コロ'''1:23'''； '''Ⅰ'''テモ'''1:12'''； '''Ⅱ'''テモ'''4:11'''）。彼は自分自身のことを、自分が特に仕えるよ う召された特定の群れである異邦人の間のしもべであると述べていま す （使徒'''21:19'''； ローマ'''11:13'''）。パウロはテモテをキリストの奉仕者と 呼び （例： '''Ⅰ''' テモテ'''4:6'''；'''Ⅱ'''テモテ'''4:5'''）、ペテロは旧約聖書の預言者た ちは、私たちキリスト者にとって奉仕であったと言っています （'''Ⅰ'''ペ テロ'''1:12'''）。御使いは仕える霊と呼ばれており （へブル'''1:14'''）、サタン さえも彼らのしもべが存在すると記されています （'''Ⅱ'''コリ'''3:6-9'''；'''11':15'''； ガラ'''2:17'''）。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは執事と長老の務めの間に常に明確な区別を維持する必要が あります。長老と執事はある意味において共に「仕える」ことに係わ り合いますが、その二つの務めはまったく異なる形式をとるのです。 私たちが重要と考える使徒６ 章の７ 節において、務めが伝統的な務め （テーブルでの給仕、物質的奉仕） と使徒たち （と後になって、長老） に託された御言葉の「務め」の種類に分けられているのを見ることが できます。使徒６ 章で述べられている執事は、少なくとも管理的な意 味において、教会のウェイターのようであると言えます。彼らは教会 の物質的な必要を配慮するようにと召されています。そしてこの特定 の務めのためにグループを形成することは重要です。なぜならそのよ うにしないことが、結果として二つの種類の務め― 御言葉 （長老） と テーブル （執事） ― を互いに混乱させ、どちらかひとつが忘れられて しまうからです。教会は、御言葉の宣べ伝えることも、教会の一致を 促進する助けと共に、私たちの互いに愛し合うという務めを満たす働 きをする教会員への実際的な配慮の両方とも疎かにしてはいけないの です。これら教会生活と働きの両方ともに重要なのです。教会におい て両方の務めがなされるために、私たちは執事の務めを長老のそれと 区別すべきなのです。 &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅱ ． 歴史的背景'''&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使徒の時代の間、複数長老性や複数執事性は十分安定していたにも かかわらず、諸教会における状況はかなり流動的でした。新約聖書の すぐ後の時代には、長老と執事それぞれ別々の職務が継続しました。 長老の役割は、主教と祭司の間に区別ができ始めましたが、しかし執 事職は継続して、常に監督や祭司と一緒かその後に加えられ、主教又 は監督を補助する重要な仕事を課せられた者としていつも見られてい ました。初代教会においては、その職務は一般的に生涯にわたって負 わされていました。しかしながらその職務の役割は、場所によって変わりました。執事的職務には次のようなものが含まれます：&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*教会における聖書朗読と賛美 &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
*献金の受領、誰が捧げたかの記録 &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
*監督、長老や自分たち自身、未婚女性ややもめ、そして貧しい者 への捧げ物の分配 &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
*聖餐の分餐 &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
*礼拝中の祈りを導き、そして儀式が執行される前に聖餐を受けな い者に去るように合図を与える &amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上は、２世紀から６世紀にかけての執事の職務のおおよその要約 です。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
君主的監督職が発展するに従い、君主的執事職のようなものが下方 へと追いやられました。監督の役割が発展するに従い、副監督の役割 も発展しました。副監督は、特定の場所における執事の長であり、物 質的な事柄に関係のある代理人として描写されていました。ローマの 副監督が、特に重要であったことは驚くに価しないことです。悪用が はびこり、執事と特に副監督が大変裕福になったと言えば十分です。 他者に仕えるべき者が、かえって自分の欲望に仕えるために他者を利 用するとは、なんと皮肉なことでしょうか。数多くの理由から、執事 の影響力は中世になって減少しました。貧しい者の世話をすることが、 寄付者にとっては神からの栄誉を得るための手段となり、また煉獄で の彼らの時間を減らすことを彼らは思いついたのでした。 &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東方正教会はその能力において仕える一般信徒として、常に執事を 分けていました。しかしながら西方教会において中世後期までは、執 事になるとは単に祭司、すなわち長老として任命される途中のステッ プであったのです。ローマ・カトリック教会と監督派の諸教会におけ る執事はまさしく一人前の祭司になる前一年間執事として奉仕をした 見習い牧師のようでした。第二バチカン会議は、ローマ・カトリック 教会における恒久的で異なるより聖書的な執事職の可能性を再び開き ました。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ルター派教会は、新約聖書の執事の考えを取り戻すことはありませ んでしたが、ルターは教会の物質的な必要、特に貧しい人々を教会が 世話をする責任について取り戻しました。今日のルター派の教会にお いては、慣例は変化しています。 いくつかの所では、執事は任命さ れないままであり、他の場所においては、誰であっても補牧師で特に 牧会的配慮と伝道に責任をもつ者は、執事と呼ばれています。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宗教改革の間、より福音的なプロテスタントの多くの教会では、聖 書的な慣例としての執事と長老や牧師との区別が認識されてきました。 宗教改革の時代において、何人かのプロテスタントは、例えばケンブ リッジのマーティン・ブットザー （'''Martin Butzer'''） は執事の職務を再 建すべきであると主張しました。彼らが言うには、執事はそれぞれの 教会において、援助を受けるに価する者とそうでない者とを区別し、 独立した調査を実施し、ひそかに援助の必要な者をお世話して、他の 者を教会から追放していたというのです。彼らはもし可能であるなら ば、教会員によって捧げられた寄金の書き記された記録を保持するべ きでした。 &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
監督派の教会において、執事は施し物を管理し貧しい者や病気の者 （これらの役目が大部分この世の政府に引き継がれてきてはいます が） の世話をする者のことです。執事は長老とは別の群れであり、彼 らに対して責任を負っています。これは多くのバプテスト派と会衆派 の教会が、かつて組織化したやり方です。いくつかの教会はいまだに このやり方で組織化されており、多くの教会は、少なくともある程度 は、この構造を維持しています。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら多くのバプテスト派と会衆派教会においては、より明 確な霊的役割が執事に命じられています。彼らは様々な方法で牧師を 助け、特に主の晩餐において、パンとぶどう酒を分餐し、長老会がな くなってしまった教会においては、教会の役員や財務委員会のように 発展してきました。ある人が執事としてその職務に認識される時、通 常は終身と考えられていますが、執事はしばしば期間限定で活発に奉仕をしています。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これがキリスト者がしていることなのです。では今、私たちの慣例 を改革するために、聖書は私たちに対していかなる言葉を持っている でしょうか？ &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅲ ． 使徒６章における執事の３つの目的 '''&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今まで見てきたように、ディアコノスという単語は、新約聖書に多 く登場します。しかしながら、最も明確な描写は、おそらく使徒の働 き'''6'''章から来ています。そこにおいて最初の執事が取り分けられたと 考えます。その箇所の説明から、執事の働きの３つの状態に注目した いと思います。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''まず第一に、執事は教会の物質的必要を世話するよう存在する、と いうことです。'''使徒６ 章１ 節を読むと、キリスト者の幾人かが「毎日 の配給でなおざりにされていた」とあります。すでに言及したように、 執事という単語の語根は、牧師や奉仕者を意味しています。そして特 にその単語は食卓時の給仕を表す時や、又は奉仕の様々な種類の中で、 いつも物質的・財政的な事柄を表す時に用いられました。使徒'''6''' 章'''2 '''節では、十二使徒はこの務めを「食卓に給仕すること」、又は字義的に 「食卓に仕えること」と描写しています。これは執事の務めの最初の 様相が― 物質的必要を満たす― ことであると理解できます。ここで、 使徒６ 章における執事たちが、すべてのことを自分たち自身でしたの ではない、ということを述べることは重要です。むしろその中の数人 の執事たちが、その働きがきちんとなされるように、おそらく教会にいる他の多くのキリスト者を組織化したのでしょう。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人々の世話をすること、特に他のキリスト者たち― そして最も念頭 にあるのが自分達の教会の他の教会員たち― が次の３つの理由で重要 です。 第一に彼らの関心のある物質的な福利のため、第二に彼らの霊 的な幸福のため、そして第三に外の人々への証人として、です。 イエ スはヨハネ１３章で、何と言われたでしょうか？ ''「'あなた方の互いの 間の愛によって'、世はあなた方が私の弟子であることを知るのです」''。 この一節に描かれている物質的な世話は、まさしくキリストのような 愛を提示しているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
にもかかわらず私たちは、この背後にある目的を見出します。それ はただ欠乏の中にある人々のためだけでなく、体全体のためであると いうことです。'''これが、使徒６章に見られる第二番目の執事の務めの 様態であり、それはからだの一致に中心点が置かれている働きなので す。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしこの一節をより抽象的な方法で見るならば、次のように尋ねる ことができるでしょう。「彼女ら未亡人を世話する中で、実際に彼らは 何をしたというのでしょうか？ 」彼らはやもめの間で、より平等に食 物を分配する働きをしていました。そのことは真実であったとして、 ではなぜ重要なのでしょうか？ それはこの物質的なことを疎かにする ことが、からだにおいて霊的不一致の原因になるからなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「そのころ、弟子たちがふえるにつれて、彼らのうちのギリシャ語を 話すユダヤ人がアラム語を話す群に対して不平不満を言った。なぜな ら彼らのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからであ る」''と、'''6'''章'''１'''節で始まっているとおりです。キリスト者の一つのグル ープが他のグループに対して不平を言い始めたのです。このことが、 十二使徒の注意を引き付けることになりました。彼らは単に、教会内 の親切な務めにおける問題を正そうとしているのではありませんでし た。彼らは、伝統的・文化的な分裂と共に、教会の一致が特に危険な 仕方において混乱するのを食い止めようとしているのです。執事は、 教会における不一致を避けるように任命されているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
互いに建て上げ互いに励まし合う、というまさにこのことが、神の 御霊が彼の教会に与えたすべての賜物の目標なのです （例： ロー マ.'''1:11-12'''）。パウロはコリントの人々に対して、神の御霊は''「みなの 益となるために」'' （'''Ⅰ''' コリント'''12:4-7，12'''） と述べています。彼は、初 期のキリスト者たちに、次のように熱心に勧めています。''「あなたがた は御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会が建て上げられる ような賜物においてまさるようにしなさい」'' （'''Ⅰ''' コリント'''14:12'''）。ゆえ にパウロは'''Ⅰ''' コリント'''14''' 章'''26''' 節で、''「すべてのことを、徳を高めるた めにしなさい」''と述べたのです。ジョン・カルヴァンは、'''Ⅰ '''コリント '''14''' 章'''12 '''節の注解で、「人が自分自身を立て上げることにより熱心であ ればあるほど、パウロはその人がより高く尊敬を受けるべきであると 望んでいる。」と言っています。またペテロは''「それぞれが賜物を受け ているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜 物を用いて、互いに仕え合いなさい」'' （'''Ⅰ''' ペテロ'''4:10'''）と記しています。 教会を教え一体化することは、使徒の働き'''6''' 章で見たように、主と して執事の務めです。それゆえ、教会と折の悪い執事が、同じ教会に よく仕えるということはできないはずです。執事というのは、教会に おいて最も大きな声で不平を述べたり、又彼らの行動や態度で教会を 困らせるような者ではありません。全く逆なのです！ 執事は音消し装 置のようであり、衝撃を吸収する、そのような存在なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、教会に執事として仕えようとする者たちは、心が狭量で あってはなりません。そのような会員たちは、自分たちの地域や、彼 らの権利と自分たちの地区の特権について心配します。又は彼らの領 域を邪魔するような他者からの奉仕には、静かに憤りさえ感じるよう な者たちで、彼らに決して縄張りを与えるべきではありません。執事 は、自分たちの問題を擁護するために取り分けられているのでも、又 は代議士やロビイストらのように、彼らの陣営のために反対の議論を するのでもありません。代りに、執事は特定の必要に仕えるために、 全体の代表として行動するのです。そうです、ただ全体として、とい う意味において、彼らの行いが全体の健康に貢献するという意味にお いてなのです。さらに、彼らはこの特定の務めが、全体として教会を 教え一体化する働きの一部であることを他の人が理解できるよう助け るようにと期待されているのです。彼らは親切と愛ある奉仕によって、 私たちを一致へと導く助けをします。そのような奉仕者になることで、教会を建て上げる者へと召されているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''三番目に、この人々は、御言葉の奉仕を支えるために任命されてい るのです。'''使徒６ 章３ 節では、十二使徒は物質的な必要を世話するこ とが教会のある意味では彼ら自身の負っている責任であることを認め ています。しかし６ 章３ 節において、彼らはこの責任を教会内の他の グループに任せるように述べています。この意味においては、これら の執事は群れ全体を助けているのではないのです。しかしながらそう することで、彼らは主な責任が別のところにある十二使徒／ 長老など をサポートしていたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同様に、執事は教会において単独のパワーブロックではありません。 彼らは法案が通過するために必要な、立法府の第二議院ではないので す。彼らは、主だった教師たちがすることのできない責任を助けるこ とで、全体として教会に仕えるしもべでした。執事は彼らの務めにお いて、御言葉の教師を援助したのです。執事は本質的に、長老たちの 務めの励まし手であり支援者なのです。もしこのことがあてはまるな らば、教会に執事として仕えるべき人々とは、教会において最も支え となる人々、と言うことになります。私たちは、励ましの賜物を求め るべきであり、そうすることで、少数ではなく、より多くの人々が、 執事らの奉仕によって祝福を受けることでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ワシントン'''D.C.'''にある私たちの教会では、執事は審議をする群とし てではなく、むしろ教会の特定の必要な働きを調整する人々として認 識されています。私たちが望み祈っていることは、執事として奉仕を している一人ひとりが、さまざまな務めを通して、私たちが一致する のを助け、個々人を助け、からだを助け、すべてにおいて、神に栄光 を帰することです。 執事の中には、もてなしの務めを監督する者や、 ラジオやウェブを用いた働きを調整する者、音響設備を受け持つ者、 教会員を世話する執事たちもいます。これを執筆している今、'''14 '''人の 執事たちがそれぞれ別々の執事職について仕えています。私たちは調 整の必要がなくなった働きを定期的になくし、急に発展した働きを二つにしたり、さらには群れの中で明白に必要と機会が生じたところに は、新しく働きを創設したりしています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが望むことは、これら執事の幾人かが、教会の人的資源の指 導的利用者となることです。私たちは、彼らが教会のために祈り、全 体を知り、そして彼らの調整している奉仕が、いかに教会の働きを全 体として前進させているかを認識することにおいて、彼らが勤勉であ ることを望むのです。私たちは、彼らが教会に対してするこの奉仕が、 多くの犠牲を払ったものであることを知っています。彼らは、その立 場で奉仕している間は、教会における主な務めは執事職であることを 理解する必要があるのです。教会を建て上げることにおいて、彼らを 訓練していく中で、あれこれと特定の務めの役割が見えていき、他の 兄弟姉妹の間において彼らが務めの核心を進展させていくにつれて、 そのような奉仕者が与えられていることの何と祝福なことでしょう。 彼らの活動や奉仕を通して、私たちの執事たちは、彼らがその職務を 保っているよりもさらに長い間、私たちの教会にとって祝福となるで しょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅳ 執事の資質 ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅰ''' テモテ'''3''' 章'''8 '''節から'''13 '''節で、パウロはエペソの教会の牧師である テモテに対して、執事がどうあるべきかについて簡単に説明していま す。そこに上げられている特徴と使徒６ 章で選ばれている資質を組み 合わせると、執事として私たちに仕えているその人たちは、聖霊に満 たされているという点で確かに知られていました （なぜなら物質的な 事柄に関心があるにしても、それらは確かに霊的働きであるからです）。 彼ら執事たちは知恵に満たされていたことでも知られていました。彼 らは会衆の信任によって、会衆によって選ばれるべきであります。彼 らは執事の務めが仕えるように意図されているように、快く勤勉に特 定の必要のために責任を果たすべきです。執事は尊敬に値し、誠実で 大酒飲みでなく、不正な利を求めず、きよい良心をもって信仰の奥義を保っており、ひとりの妻の夫であって自分の子どもと家庭をよく治 める、そのような審査を受け承認されたしもべであるべきなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「ひとりの妻の夫」''であるべきだと命令されている執事は、執事職の 地位に女性の奉仕を除外するものではありません。ローマ'''16''' 章'''１''' 節の フィベの例と、聖書のどこかに女性の「執事」の単語が使われている 用法、又ある程度少なめにではありますが、バプテスト教会における 女性執事の長い歴史からも、私たちの教会では執事としての女性の務 めがなされていることを喜んで受け入れています。しかしながら、'''Ⅰ''' テモテ'''２''' 章と、男性がかしらとして描かれている広い聖書的な事実か ら、私たちは執事の職務が長老（ が執事として今日多くの教会でみな されている） のそれと混乱している場合には、教会として女性を執事 として認めることを思い留まらせています。長老の明確な役割につい て明快なことと、また長老たちが男性であるべきだという事実から、 私たちが教会によって認められた姉妹を自由に執事または女性執事と して励ますことを可能にしています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''まとめ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
要約すると、新約聖書は、使徒６ 章で見てきた執事の務めの３つの 側面、つまり御言葉の奉仕の下にからだの一致を目的として、物質的 な必要のために世話をすることへと行き着きます。執事とは、長老の 奉仕を援助し、キリストのからだを一体化し、そして貧しい者の世話 をする者です。彼らは励まし手であり、平和をつくる者であり、しも べであります。ディートリッヒ・ボンフェッファーが次のように述べ ています。「教会は優秀な人物ではなく、イエスの忠実なしもべと同胞 を必要としているのである」 （ボンフェッファー、共に生きる生活、ｐ '''109'''）。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Taiki</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E5%9F%B7%E4%BA%8B</id>
		<title>「神の栄光の現れ、/執事</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E5%9F%B7%E4%BA%8B"/>
				<updated>2009-09-23T22:39:23Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Taiki: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Deacons}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず初めに、今日の地域教会において最も馴染みのある職務の一つ、 執事について見ていきます。あなたがどのような背景の教会から来て いるのかによりますが、「執事」の単語から想起させるものとして、特 別にあてがわれた教会の特別室にある長く磨き上げられた机の周りに 座る、白髪交じりの銀行マンのイメージをもっているかもしれません。 あるいは、そのことばが、教会の必要から来る働きの調整や福音的な 伝道の働き、又は牧会的な配慮など教会の熱心な奉仕者を思い浮かべ るかもしれません。後者がまさに私たちの教会における執事なのです。 それでは聖書における執事とは何でしょうか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅰ 「執事」の定義&amp;lt;br&amp;gt;''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「執事」が仕えることという意味において、新約聖書の世界におけ る理解は私たちのものと似ていました。他者に仕えるということは、 ギリシャ人にとっては称賛されるべきことではありませんでした。か えって、彼らは自尊心を常に維持することに目を配り、自分自身の人 格や性格の発展を称賛しました。他者への執事的な奉仕は、「奴隷のよ うな」という軽蔑語によって表現される類のものと見なされていたの です。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら聖書は、奉仕をまったく別に描いています。 新約聖書の現代的な訳によれば、ディアコノスという単語は、通常「奉 仕者」と訳され、時には「しもべ・牧師」、そして時には単に字音的に 「執事」と訳出されています。それは、一般的な奉仕に言及したり（ 例： 使徒''''1:17、25、19:22'''； ローマ.'''12:7'''； '''Ⅰ''' コリ.'''12:5'''； '''16:15'''； エペ.'''4:12'''； コロ.'''4:17'''； ２ テモ.'''1:18'''； ピレモン'''13'''； へブ.'''6:10'''； '''Ⅰ''' ペテ'''4:10-11'''； 黙 示.'''2:19'''）、特に支配者として（ 例： ローマ.'''13:4'''）、又は物質的な必要へ の配慮として述べられています（ 例：マタイ.'''25:44'''；使徒.'''11:29'''；'''12:25'''； ローマ'''15:25',31'''； '''Ⅰ''' コリ.'''8:4,19-20'''；'''9:1,12-13'''； '''11:8'''）。新約聖書にお いて明らかなのは、女性が少なくともこれらの務めのいくつかをすることができる、ということです（ 例： マタイ.'''8:15'''； マルコ'''1:31'''； ルカ '''4:39'''； マタイ'''27:55'''； マルコ'''15:41'''； 参照.ルカ'''8:3'''； ルカ'''10:40'''； ヨハ ネ'''12:2'''； ローマ'''16:1'''）。天使はこのように仕えます（ 例： マタイ.'''4:11'''； マルコ'''1:13'''）。ときどきそれは、特に給仕のテーブルに言及され（ 例： マタイ'''22:13'''； ルカ'''10:40'''； '''17:8'''； ヨハネ'''2:5,9'''； '''12:2'''）、ギリシャ世界 においては、そのような務めは軽蔑の対象であったにもかかわらず、 イエスはそれを異なるものとして尊重しました。ヨハネ'''12''' 章'''26''' 節で イエスは''「わたしに仕えるというなら、その人はわたしについて来な さい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわ たしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます」''と言われまし た。マタイ'''20''' 章'''26''' 節でも再び（ 参照： マルコ'''9:35'''） イエスは''「偉く なりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」''と述べています。 そしてマタイ'''23''' 章'''11''' 節で（ 参照： マルコ'''10:43'''； ルカ'''22:26-27'''） 彼 は''「あながたがのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でな ければなりません」''と言っています。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際に、イエスは自分自身を執事の典型として紹介してさえいます （ 例： マタイ''''20:28'''；マルコ'''10:45'''； ルカ'''22:26-27'''； 参照.ヨハネ'''13'''； ルカ'''12:37'''； ローマ'''15:8'''）。キリスト者はキリスト、または彼の福音に 仕える者となるように描かれています。そのことは使徒たちがどのよ うに描写されたか（ 使徒'''6:1-7'''）、又パウロは自分自身や彼と共に働い た人々についても確かに言及しています（ 例：使徒20:24；'''Ⅰ'''コリ'''3:5'''； ２ コリ.'''3:3,6-9；4:1'''； '''5:18'''；'''6:3-4'''； '''11:23'''； エペソ'''3:7'''； コロ'''1:23'''； '''Ⅰ'''テモ'''1:12'''； '''Ⅱ'''テモ'''4:11'''）。彼は自分自身のことを、自分が特に仕えるよ う召された特定の群れである異邦人の間のしもべであると述べていま す（ 使徒'''21:19'''； ローマ'''11:13'''）。パウロはテモテをキリストの奉仕者と 呼び（ 例： '''Ⅰ''' テモテ'''4:6'''；'''Ⅱ'''テモテ'''4:5'''）、ペテロは旧約聖書の預言者た ちは、私たちキリスト者にとって奉仕であったと言っています（ '''Ⅰ'''ペ テロ'''1:12'''）。御使いは仕える霊と呼ばれており（ へブル'''1:14'''）、サタン さえも彼らのしもべが存在すると記されています（'''Ⅱ'''コリ'''3:6-9'''；'''11':15'''； ガラ'''2:17'''）。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは執事と長老の務めの間に常に明確な区別を維持する必要が あります。長老と執事はある意味において共に「仕える」ことに係わ り合いますが、その二つの務めはまったく異なる形式をとるのです。 私たちが重要と考える使徒６ 章の７ 節において、務めが伝統的な務め （ テーブルでの給仕、物質的奉仕） と使徒たち（ と後になって、長老） に託された御言葉の「務め」の種類に分けられているのを見ることが できます。使徒６ 章で述べられている執事は、少なくとも管理的な意 味において、教会のウェイターのようであると言えます。彼らは教会 の物質的な必要を配慮するようにと召されています。そしてこの特定 の務めのためにグループを形成することは重要です。なぜならそのよ うにしないことが、結果として二つの種類の務め― 御言葉（ 長老） と テーブル（ 執事） ― を互いに混乱させ、どちらかひとつが忘れられて しまうからです。教会は、御言葉の宣べ伝えることも、教会の一致を 促進する助けと共に、私たちの互いに愛し合うという務めを満たす働 きをする教会員への実際的な配慮の両方とも疎かにしてはいけないの です。これら教会生活と働きの両方ともに重要なのです。教会におい て両方の務めがなされるために、私たちは執事の務めを長老のそれと 区別すべきなのです。 &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅱ ． 歴史的背景'''&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使徒の時代の間、複数長老性や複数執事性は十分安定していたにも かかわらず、諸教会における状況はかなり流動的でした。新約聖書の すぐ後の時代には、長老と執事それぞれ別々の職務が継続しました。 長老の役割は、主教と祭司の間に区別ができ始めましたが、しかし執 事職は継続して、常に監督や祭司と一緒かその後に加えられ、主教又 は監督を補助する重要な仕事を課せられた者としていつも見られてい ました。初代教会においては、その職務は一般的に生涯にわたって負 わされていました。しかしながらその職務の役割は、場所によって変わりました。執事的職務には次のようなものが含まれます：&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
■ 教会における聖書朗読と賛美 &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
■ 献金の受領、誰が捧げたかの記録 &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
■ 監督、長老や自分たち自身、未婚女性ややもめ、そして貧しい者 への捧げ物の分配 &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
■ 聖餐の分餐 &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
■ 礼拝中の祈りを導き、そして儀式が執行される前に聖餐を受けな い者に去るように合図を与える &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上は、２ 世紀から６ 世紀にかけての執事の職務のおおよその要約 です。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
君主的監督職が発展するに従い、君主的執事職のようなものが下方 へと追いやられました。監督の役割が発展するに従い、副監督の役割 も発展しました。副監督は、特定の場所における執事の長であり、物 質的な事柄に関係のある代理人として描写されていました。ローマの 副監督が、特に重要であったことは驚くに価しないことです。悪用が はびこり、執事と特に副監督が大変裕福になったと言えば十分です。 他者に仕えるべき者が、かえって自分の欲望に仕えるために他者を利 用するとは、なんと皮肉なことでしょうか。数多くの理由から、執事 の影響力は中世になって減少しました。貧しい者の世話をすることが、 寄付者にとっては神からの栄誉を得るための手段となり、また煉獄で の彼らの時間を減らすことを彼らは思いついたのでした。 &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東方正教会はその能力において仕える一般信徒として、常に執事を 分けていました。しかしながら西方教会において中世後期までは、執 事になるとは単に祭司、すなわち長老として任命される途中のステッ プであったのです。ローマ・カトリック教会と監督派の諸教会におけ る執事はまさしく一人前の祭司になる前一年間執事として奉仕をした 見習い牧師のようでした。第二バチカン会議は、ローマ・カトリック 教会における恒久的で異なるより聖書的な執事職の可能性を再び開き ました。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ルター派教会は、新約聖書の執事の考えを取り戻すことはありませ んでしたが、ルターは教会の物質的な必要、特に貧しい人々を教会が 世話をする責任について取り戻しました。今日のルター派の教会にお いては、慣例は変化しています。 いくつかの所では、執事は任命さ れないままであり、他の場所においては、誰であっても補牧師で特に 牧会的配慮と伝道に責任をもつ者は、執事と呼ばれています。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宗教改革の間、より福音的なプロテスタントの多くの教会では、聖 書的な慣例としての執事と長老や牧師との区別が認識されてきました。 宗教改革の時代において、何人かのプロテスタントは、例えばケンブ リッジのマーティン・ブットザー（ '''Mar t in But ze r'''） は執事の職務を再 建すべきであると主張しました。彼らが言うには、執事はそれぞれの 教会において、援助を受けるに価する者とそうでない者とを区別し、 独立した調査を実施し、ひそかに援助の必要な者をお世話して、他の 者を教会から追放していたというのです。彼らはもし可能であるなら ば、教会員によって捧げられた寄金の書き記された記録を保持するべ きでした。 &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
監督派の教会において、執事は施し物を管理し貧しい者や病気の者 （ これらの役目が大部分この世の政府に引き継がれてきてはいます が） の世話をする者のことです。執事は長老とは別の群れであり、彼 らに対して責任を負っています。これは多くのバプテスト派と会衆派 の教会が、かつて組織化したやり方です。いくつかの教会はいまだに このやり方で組織化されており、多くの教会は、少なくともある程度 は、この構造を維持しています。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら多くのバプテスト派と会衆派教会においては、より明 確な霊的役割が執事に命じられています。彼らは様々な方法で牧師を 助け、特に主の晩餐において、パンとぶどう酒を分餐し、長老会がな くなってしまった教会においては、教会の役員や財務委員会のように 発展してきました。ある人が執事としてその職務に認識される時、通 常は終身と考えられていますが、執事はしばしば期間限定で活発に奉仕をしています。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これがキリスト者がしていることなのです。では今、私たちの慣例 を改革するために、聖書は私たちに対していかなる言葉を持っている でしょうか？ &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅲ ． 使徒６ 章における執事の３ つの目的 '''&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今まで見てきたように、ディアコノスという単語は、新約聖書に多 く登場します。しかしながら、最も明確な描写は、おそらく使徒の働 き'''6'''章から来ています。そこにおいて最初の執事が取り分けられたと 考えます。その箇所の説明から、執事の働きの３ つの状態に注目した いと思います。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''まず第一に、執事は教会の物質的必要を世話するよう存在する、と いうことです。'''使徒６ 章１ 節を読むと、キリスト者の幾人かが「毎日 の配給でなおざりにされていた」とあります。すでに言及したように、 執事という単語の語根は、牧師や奉仕者を意味しています。そして特 にその単語は食卓時の給仕を表す時や、又は奉仕の様々な種類の中で、 いつも物質的・財政的な事柄を表す時に用いられました。使徒'''6''' 章'''2 '''節では、十二使徒はこの務めを「食卓に給仕すること」、又は字義的に 「食卓に仕えること」と描写しています。これは執事の務めの最初の 様相が― 物質的必要を満たす― ことであると理解できます。ここで、 使徒６ 章における執事たちが、すべてのことを自分たち自身でしたの ではない、ということを述べることは重要です。むしろその中の数人 の執事たちが、その働きがきちんとなされるように、おそらく教会に いる他の多くのキリスト者を組織化したのでしょう。&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人々の世話をすること、特に他のキリスト者たち― そして最も念頭 にあるのが自分達の教会の他の教会員たち― が次の３ つの理由で重要 です。第一に彼らの関心のある物質的な福利のため、第二に彼らの霊 的な幸福のため、そして第三に外の人々への証人として、です。イエ スはヨハネ１ ３ 章で、何と言われたでしょうか？ ''「'あなた方の互いの 間の愛によって'、世はあなた方が私の弟子であることを知るのです」''。 この一節に描かれている物質的な世話は、まさしくキリストのような 愛を提示しているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
にもかかわらず私たちは、この背後にある目的を見出します。それ はただ欠乏の中にある人々のためだけでなく、体全体のためであると いうことです。'''これが、使徒６章に見られる第二番目の執事の務めの 様態であり、それはからだの一致に中心点が置かれている働きなので す。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしこの一節をより抽象的な方法で見るならば、次のように尋ねる ことができるでしょう。「彼女ら未亡人を世話する中で、実際に彼らは 何をしたというのでしょうか？ 」彼らはやもめの間で、より平等に食 物を分配する働きをしていました。そのことは真実であったとして、 ではなぜ重要なのでしょうか？ それはこの物質的なことを疎かにする ことが、からだにおいて霊的不一致の原因になるからなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「そのころ、弟子たちがふえるにつれて、彼らのうちのギリシャ語を 話すユダヤ人がアラム語を話す群に対して不平不満を言った。なぜな ら彼らのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからであ る」''と、'''6''' 章'''１''' 節で始まっているとおりです。キリスト者の一つのグル ープが他のグループに対して不平を言い始めたのです。このことが、 十二使徒の注意を引き付けることになりました。彼らは単に、教会内 の親切な務めにおける問題を正そうとしているのではありませんでし た。彼らは、伝統的・文化的な分裂と共に、教会の一致が特に危険な 仕方において混乱するのを食い止めようとしているのです。執事は、 教会における不一致を避けるように任命されているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
互いに建て上げ互いに励まし合う、というまさにこのことが、神の 御霊が彼の教会に与えたすべての賜物の目標なのです（ 例： ロー マ.'''1:11-12'''）。パウロはコリントの人々に対して、神の御霊は''「みなの 益となるために」''（ '''Ⅰ''' コリント'''12:4-7， 12'''） と述べています。彼は、初 期のキリスト者たちに、次のように熱心に勧めています。''「あなたがた は御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会が建て上げられる ような賜物においてまさるようにしなさい」''（ '''Ⅰ''' コリント'''14:12'''）。ゆえ にパウロは'''Ⅰ''' コリント'''14''' 章'''26''' 節で、''「すべてのことを、徳を高めるた めにしなさい」''と述べたのです。ジョン・カルヴァンは、'''Ⅰ''' コリント '''14 '''章'''12 '''節の注解で、「人が自分自身を立て上げることにより熱心であ ればあるほど、パウロはその人がより高く尊敬を受けるべきであると 望んでいる。」と言っています。またペテロは''「それぞれが賜物を受け ているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜 物を用いて、互いに仕え合いなさい」''（ '''Ⅰ''' ペテロ'''4:10'''）と記しています。 教会を教え一体化することは、使徒の働き'''6''' 章で見たように、主と して執事の務めです。それゆえ、教会と折の悪い執事が、同じ教会に よく仕えるということはできないはずです。執事というのは、教会に おいて最も大きな声で不平を述べたり、又彼らの行動や態度で教会を 困らせるような者ではありません。全く逆なのです！ 執事は音消し装 置のようであり、衝撃を吸収する、そのような存在なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、教会に執事として仕えようとする者たちは、心が狭量で あってはなりません。そのような会員たちは、自分たちの地域や、彼 らの権利と自分たちの地区の特権について心配します。又は彼らの領 域を邪魔するような他者からの奉仕には、静かに憤りさえ感じるよう な者たちで、彼らに決して縄張りを与えるべきではありません。執事 は、自分たちの問題を擁護するために取り分けられているのでも、又 は代議士やロビイストらのように、彼らの陣営のために反対の議論を するのでもありません。代りに、執事は特定の必要に仕えるために、 全体の代表として行動するのです。そうです、ただ全体として、とい う意味において、彼らの行いが全体の健康に貢献するという意味にお いてなのです。さらに、彼らはこの特定の務めが、全体として教会を 教え一体化する働きの一部であることを他の人が理解できるよう助け るようにと期待されているのです。彼らは親切と愛ある奉仕によって、 私たちを一致へと導く助けをします。そのような奉仕者になることで、教会を建て上げる者へと召されているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''三番目に、この人々は、御言葉の奉仕を支えるために任命されてい るのです。'''使徒６ 章３ 節では、十二使徒は物質的な必要を世話するこ とが教会のある意味では彼ら自身の負っている責任であることを認め ています。しかし６ 章３ 節において、彼らはこの責任を教会内の他の グループに任せるように述べています。この意味においては、これら の執事は群れ全体を助けているのではないのです。しかしながらそう することで、彼らは主な責任が別のところにある十二使徒／ 長老など をサポートしていたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同様に、執事は教会において単独のパワーブロックではありません。 彼らは法案が通過するために必要な、立法府の第二議院ではないので す。彼らは、主だった教師たちがすることのできない責任を助けるこ とで、全体として教会に仕えるしもべでした。執事は彼らの務めにお いて、御言葉の教師を援助したのです。執事は本質的に、長老たちの 務めの励まし手であり支援者なのです。もしこのことがあてはまるな らば、教会に執事として仕えるべき人々とは、教会において最も支え となる人々、と言うことになります。私たちは、励ましの賜物を求め るべきであり、そうすることで、少数ではなく、より多くの人々が、 執事らの奉仕によって祝福を受けることでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ワシントン'''D.C.''' にある私たちの教会では、執事は審議をする群とし てではなく、むしろ教会の特定の必要な働きを調整する人々として認 識されています。私たちが望み祈っていることは、執事として奉仕を している一人ひとりが、さまざまな務めを通して、私たちが一致する のを助け、個々人を助け、からだを助け、すべてにおいて、神に栄光 を帰することです。 執事の中には、もてなしの務めを監督する者や、 ラジオやウェブを用いた働きを調整する者、音響設備を受け持つ者、 教会員を世話する執事たちもいます。これを執筆している今、'''14 '''人の 執事たちがそれぞれ別々の執事職について仕えています。私たちは調 整の必要がなくなった働きを定期的になくし、急に発展した働きを二つにしたり、さらには群れの中で明白に必要と機会が生じたところに は、新しく働きを創設したりしています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが望むことは、これら執事の幾人かが、教会の人的資源の指 導的利用者となることです。私たちは、彼らが教会のために祈り、全 体を知り、そして彼らの調整している奉仕が、いかに教会の働きを全 体として前進させているかを認識することにおいて、彼らが勤勉であ ることを望むのです。私たちは、彼らが教会に対してするこの奉仕が、 多くの犠牲を払ったものであることを知っています。彼らは、その立 場で奉仕している間は、教会における主な務めは執事職であることを 理解する必要があるのです。教会を建て上げることにおいて、彼らを 訓練していく中で、あれこれと特定の務めの役割が見えていき、他の 兄弟姉妹の間において彼らが務めの核心を進展させていくにつれて、 そのような奉仕者が与えられていることの何と祝福なことでしょう。 彼らの活動や奉仕を通して、私たちの執事たちは、彼らがその職務を 保っているよりもさらに長い間、私たちの教会にとって祝福となるで しょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅳ 執事の資質 ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Ⅰ''' テモテ'''3''' 章'''8 '''節から'''13 '''節で、パウロはエペソの教会の牧師である テモテに対して、執事がどうあるべきかについて簡単に説明していま す。そこに上げられている特徴と使徒６ 章で選ばれている資質を組み 合わせると、執事として私たちに仕えているその人たちは、聖霊に満 たされているという点で確かに知られていました（ なぜなら物質的な 事柄に関心があるにしても、それらは確かに霊的働きであるからです）。 彼ら執事たちは知恵に満たされていたことでも知られていました。彼 らは会衆の信任によって、会衆によって選ばれるべきであります。彼 らは執事の務めが仕えるように意図されているように、快く勤勉に特 定の必要のために責任を果たすべきです。執事は尊敬に値し、誠実で 大酒飲みでなく、不正な利を求めず、きよい良心をもって信仰の奥義を保っており、ひとりの妻の夫であって自分の子どもと家庭をよく治 める、そのような審査を受け承認されたしもべであるべきなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「ひとりの妻の夫」''であるべきだと命令されている執事は、執事職の 地位に女性の奉仕を除外するものではありません。ローマ'''16''' 章'''１''' 節の フィベの例と、聖書のどこかに女性の「執事」の単語が使われている 用法、又ある程度少なめにではありますが、バプテスト教会における 女性執事の長い歴史からも、私たちの教会では執事としての女性の務 めがなされていることを喜んで受け入れています。しかしながら、'''Ⅰ''' テモテ'''２''' 章と、男性がかしらとして描かれている広い聖書的な事実か ら、私たちは執事の職務が長老（ が執事として今日多くの教会でみな されている） のそれと混乱している場合には、教会として女性を執事 として認めることを思い留まらせています。長老の明確な役割につい て明快なことと、また長老たちが男性であるべきだという事実から、 私たちが教会によって認められた姉妹を自由に執事または女性執事と して励ますことを可能にしています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''まとめ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
要約すると、新約聖書は、使徒６ 章で見てきた執事の務めの３ つの 側面、つまり御言葉の奉仕の下にからだの一致を目的として、物質的 な必要のために世話をすることへと行き着きます。執事とは、長老の 奉仕を援助し、キリストのからだを一体化し、そして貧しい者の世話 をする者です。彼らは励まし手であり、平和をつくる者であり、しも べであります。ディートリッヒ・ボンフェッファーが次のように述べ ています。「教会は優秀な人物ではなく、イエスの忠実なしもべと同胞 を必要としているのである」（ ボンフェッファー、共に生きる生活、ｐ '''109'''）。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Taiki</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E5%B0%8E%E5%85%A5</id>
		<title>「神の栄光の現れ、/導入</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E5%B0%8E%E5%85%A5"/>
				<updated>2009-09-22T23:12:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Taiki: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Introduction}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が中学２ 年生（ ８ 年生） の時に書いた作文の中で、「政体（ pol i ty）」 という単語を使ったところ、当時24 歳だった私の英語教師がその単語 を丸で囲み、間違いだと指摘した時のことを今でも覚えています。そ れは、少年の愉快さから、私は彼女のところに辞書を持って行き、該 当箇所を開き、彼女にその意味を読み聞かせました。それは、「物事を 管理するための組織、特に公の事柄； 政府」のような意味でした。政 体とは、つまり、管理、組織、統治、そして権威の構造の意味がある のです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリスト者として私たちは、自分の生活が聖書の教えの上に築かれ るよう努力します。にもかかわらず、次の質問を尋ねなければなりま せん。聖書は、教会の政体や組織についての質問を明らかに取り扱っ ているのでしょうか？ もし答えが「はい」ならば、では聖書はどのよ うに教えているのでしょう。勿論、私たちキリスト者は、説教や戒規、 私たちの霊性とキリストに従う喜び、そして教会成長と私たちの福音 宣教の理解について、聖書の十全性を信じています。しかし、聖書は、 私たちが教会でキリスト者として共に生きることについて、いかに組 織立てればよいのかについても語っているでしょうか？ それとも単純 に、最善の方法を調べるよう私たちに委ねられているのでしょうか？ 私たちの教会組織はどうでもよい事柄なのでしょうか？ そのことは、 最もふさわしく機能し最も効果的に問題を避けるようなことなら何で もいい、という単なる実用主義を基礎にして決められるべきことなの でしょうか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、私たちが神を愛し彼に仕えるために知るべきすべてのことは、 神ご自身がみことばを通して啓示しておられ、教会の組織についてさ えも、私たちが知るべきことを含んでいると信じます。団体としての 教会生活に対する聖書の十全性は、過去においてバプテスト派や会衆 派、長老派や他の多くの教派の信仰告白の中に含まれており、神が聖 職者として召し出された人たちによっても考えられてきました。ここ __で明確にしておきたいのは、私たちが教会の組織は新約聖書の中に見 つけることができると言う時、それは自分たちの慣行の正しさを仮定 し、そのことを正当化する聖書的根拠を捜すという意味ではありませ ん。むしろ、私たちの目標は、聖書にその答えを求め、そこで教えら れているいくつかの構造や組織の基本的な見方を認識し、聖書の教え に従って教会形成をなすべき点にあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新約聖書は、初期のキリスト者たちがいかにして彼らの教会を構成 していたかの例で満ちています。ある箇所には、明白な団体としての 会合や（ 使徒20:7; ヘブル10:25）、選挙（ 使徒1:23-26;6:5-6）、役員（ 例： ピリピ1:1;使徒20:17,28）、戒規の例（ Ⅰ コリント5 章）、献金（ ロー マ15:26;Ⅰ コリント16:1-2）、推薦状（ 使徒18:27;Ⅱ コリント3:1）、儀 式の運営（ 使徒2:41;Ⅰ コリント11:23-26）、と教会の教会籍の資格（ マ タイ28:19;使徒2:47） について記されています。明らかに、神は教会 の共同生活と構造について多くの見方の方向を、みことばの中に与え てくださっているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神がそのようにされていることは、なんと素晴らしいことでしょ う！ 神のみことばが、私たちの共同生活や教会組織についてさえも規 定されていると確信することは、最近の流行である専制政治から私た ちを自由にします。今日幾人かの牧師たちは、聖歌隊や委員会は必ず 持つべきであり、説教は単にしても差し支えないことと考えます（ も し私たちのビデオ・ミニストリーがすでにそのタイム・スポットを満 たすと考えていないなら）。または教会の教会籍を導入しても差し支え ないとも考えます（ もし私たちが他になすべき独創的なことを考えら れなければの話ですが）。神のことばは、教会についての私たちの考え を再統合してくれます。私たちは、聖書は私たちの指導について明確 なパラメーターを設計してくれます（ それらのパラメーターの内に柔 軟性はありますが）。私たちは、説教と教会籍がなくてはならないこと、 そして聖歌隊や委員会はあってもいいことを学び始めていくことにし ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジョン・ドラグ（ John L.Dagg、1794 年から1884 年） は、次のよう に記しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会の秩序と宗教の儀式は、新しい心に比べたら、さほど重要では ありません。いくつかを考慮して、それらを尊重してなされる骨の折 れる質問のいかなる調査も不必要で無駄なように思えます。しかし私 たちが聖書から分かっていること。それはキリストがこれらの事柄に 命令を与え、私たちは従うしかないということなのです。愛は私たち を服従するように促がします。そして愛は、神の意思を確かめる必要 があるような調査を喚起します。それゆえに、私たちの前におかれた 研究を、熱い祈りによって遂行しようではありませんか。すべての真 理へと導いてくださる聖霊が、私たちが最上に愛し崇拝する神のみこ ころを学ぶ助けをしてくださるのです。（'''''Manual of Chur ch Order, p.12'''''） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことを認識することで、私たちは教会の組織についての多くの 中心的な見方について、聖書の教えをよりよく考慮することができる でしょう。ここで多くの質問が考慮されるべきですが、私は教会組織 の最も基本となる４ つの事柄、執事、長老、会衆主義と教会の会員籍 について、聖書は明確に何を教えているかに焦点をあわせたいと思い ます。神が私たちの試みを用いてくださり、教会で共に生きるとはど ういうことなのかについて、神の意図を理解する助けを与えてくださ いますように。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Taiki</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E5%B0%8E%E5%85%A5</id>
		<title>「神の栄光の現れ、/導入</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E5%B0%8E%E5%85%A5"/>
				<updated>2009-09-22T23:09:52Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Taiki: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Introduction}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が中学２ 年生（ ８ 年生） の時に書いた作文の中で、「政体（ pol i ty）」 という単語を使ったところ、当時24 歳だった私の英語教師がその単語 を丸で囲み、間違いだと指摘した時のことを今でも覚えています。そ れは、少年の愉快さから、私は彼女のところに辞書を持って行き、該 当箇所を開き、彼女にその意味を読み聞かせました。それは、「物事を 管理するための組織、特に公の事柄； 政府」のような意味でした。政 体とは、つまり、管理、組織、統治、そして権威の構造の意味がある のです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリスト者として私たちは、自分の生活が聖書の教えの上に築かれ るよう努力します。にもかかわらず、次の質問を尋ねなければなりま せん。聖書は、教会の政体や組織についての質問を明らかに取り扱っ ているのでしょうか？ もし答えが「はい」ならば、では聖書はどのよ うに教えているのでしょう。勿論、私たちキリスト者は、説教や戒規、 私たちの霊性とキリストに従う喜び、そして教会成長と私たちの福音 宣教の理解について、聖書の十全性を信じています。しかし、聖書は、 私たちが教会でキリスト者として共に生きることについて、いかに組 織立てればよいのかについても語っているでしょうか？ それとも単純 に、最善の方法を調べるよう私たちに委ねられているのでしょうか？ 私たちの教会組織はどうでもよい事柄なのでしょうか？ そのことは、 最もふさわしく機能し最も効果的に問題を避けるようなことなら何で もいい、という単なる実用主義を基礎にして決められるべきことなの でしょうか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、私たちが神を愛し彼に仕えるために知るべきすべてのことは、 神ご自身がみことばを通して啓示しておられ、教会の組織についてさ えも、私たちが知るべきことを含んでいると信じます。団体としての 教会生活に対する聖書の十全性は、過去においてバプテスト派や会衆 派、長老派や他の多くの教派の信仰告白の中に含まれており、神が聖 職者として召し出された人たちによっても考えられてきました。ここ __で明確にしておきたいのは、私たちが教会の組織は新約聖書の中に見 つけることができると言う時、それは自分たちの慣行の正しさを仮定 し、そのことを正当化する聖書的根拠を捜すという意味ではありませ ん。むしろ、私たちの目標は、聖書にその答えを求め、そこで教えら れているいくつかの構造や組織の基本的な見方を認識し、聖書の教え に従って教会形成をなすべき点にあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新約聖書は、初期のキリスト者たちがいかにして彼らの教会を構成 していたかの例で満ちています。ある箇所には、明白な団体としての 会合や（ 使徒20:7; ヘブル10:25）、選挙（ 使徒1:23-26;6:5-6）、役員（ 例： ピリピ1:1;使徒20:17,28）、戒規の例（ Ⅰ コリント5 章）、献金（ ロー マ15:26;Ⅰ コリント16:1-2）、推薦状（ 使徒18:27;Ⅱ コリント3:1）、儀 式の運営（ 使徒2:41;Ⅰ コリント11:23-26）、と教会の教会籍の資格（ マ タイ28:19;使徒2:47） について記されています。明らかに、神は教会 の共同生活と構造について多くの見方の方向を、みことばの中に与え てくださっているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神がそのようにされていることは、なんと素晴らしいことでしょ う！ 神のみことばが、私たちの共同生活や教会組織についてさえも規 定されていると確信することは、最近の流行である専制政治から私た ちを自由にします。今日幾人かの牧師たちは、聖歌隊や委員会は必ず 持つべきであり、説教は単にしても差し支えないことと考えます（ も し私たちのビデオ・ミニストリーがすでにそのタイム・スポットを満 たすと考えていないなら）。または教会の教会籍を導入しても差し支え ないとも考えます（ もし私たちが他になすべき独創的なことを考えら れなければの話ですが）。神のことばは、教会についての私たちの考え を再統合してくれます。私たちは、聖書は私たちの指導について明確 なパラメーターを設計してくれます（ それらのパラメーターの内に柔 軟性はありますが）。私たちは、説教と教会籍がなくてはならないこと、 そして聖歌隊や委員会はあってもいいことを学び始めていくことにし ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジョン・ドラグ（ John L.Dagg、1794 年から1884 年） は、次のよう に記しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会の秩序と宗教の儀式は、新しい心に比べたら、さほど重要では ありません。いくつかを考慮して、それらを尊重してなされる骨の折 れる質問のいかなる調査も不必要で無駄なように思えます。しかし私 たちが聖書から分かっていること。それはキリストがこれらの事柄に 命令を与え、私たちは従うしかないということなのです。愛は私たち を服従するように促がします。そして愛は、神の意思を確かめる必要 があるような調査を喚起します。それゆえに、私たちの前におかれた 研究を、熱い祈りによって遂行しようではありませんか。すべての真 理へと導いてくださる聖霊が、私たちが最上に愛し崇拝する神のみこ ころを学ぶ助けをしてくださるのです。（'''''Manual of Chur ch Order, p.12'''''） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことを認識することで、私たちは教会の組織についての多くの 中心的な見方について、聖書の教えをよりよく考慮することができる でしょう。ここで多くの質問が考慮されるべきですが、私は教会組織 の最も基本となる４ つの事柄、執事、長老、会衆主義と教会の会員籍 について、聖書は明確に何を教えているかに焦点をあわせたいと思い ます。神が私たちの試みを用いてくださり、教会で共に生きるとはど ういうことなのかについて、神の意図を理解する助けを与えてくださ いますように。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Taiki</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E5%B0%8E%E5%85%A5</id>
		<title>「神の栄光の現れ、/導入</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E3%82%8C%E3%80%81/%E5%B0%8E%E5%85%A5"/>
				<updated>2009-09-22T23:06:22Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Taiki: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | A Display of God's Glory/Introduction}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''導入''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が中学２ 年生（ ８ 年生） の時に書いた作文の中で、「政体（ pol i ty）」&lt;br /&gt;
という単語を使ったところ、当時24 歳だった私の英語教師がその単語&lt;br /&gt;
を丸で囲み、間違いだと指摘した時のことを今でも覚えています。そ&lt;br /&gt;
れは、少年の愉快さから、私は彼女のところに辞書を持って行き、該&lt;br /&gt;
当箇所を開き、彼女にその意味を読み聞かせました。それは、「物事を&lt;br /&gt;
管理するための組織、特に公の事柄； 政府」のような意味でした。政&lt;br /&gt;
体とは、つまり、管理、組織、統治、そして権威の構造の意味がある&lt;br /&gt;
のです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリスト者として私たちは、自分の生活が聖書の教えの上に築かれ&lt;br /&gt;
るよう努力します。にもかかわらず、次の質問を尋ねなければなりま&lt;br /&gt;
せん。聖書は、教会の政体や組織についての質問を明らかに取り扱っ&lt;br /&gt;
ているのでしょうか？ もし答えが「はい」ならば、では聖書はどのよ&lt;br /&gt;
うに教えているのでしょう。勿論、私たちキリスト者は、説教や戒規、&lt;br /&gt;
私たちの霊性とキリストに従う喜び、そして教会成長と私たちの福音&lt;br /&gt;
宣教の理解について、聖書の十全性を信じています。しかし、聖書は、&lt;br /&gt;
私たちが教会でキリスト者として共に生きることについて、いかに組&lt;br /&gt;
織立てればよいのかについても語っているでしょうか？ それとも単純&lt;br /&gt;
に、最善の方法を調べるよう私たちに委ねられているのでしょうか？&lt;br /&gt;
私たちの教会組織はどうでもよい事柄なのでしょうか？ そのことは、&lt;br /&gt;
最もふさわしく機能し最も効果的に問題を避けるようなことなら何で&lt;br /&gt;
もいい、という単なる実用主義を基礎にして決められるべきことなの&lt;br /&gt;
でしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、私たちが神を愛し彼に仕えるために知るべきすべてのことは、&lt;br /&gt;
神ご自身がみことばを通して啓示しておられ、教会の組織についてさ&lt;br /&gt;
えも、私たちが知るべきことを含んでいると信じます。団体としての&lt;br /&gt;
教会生活に対する聖書の十全性は、過去においてバプテスト派や会衆&lt;br /&gt;
派、長老派や他の多くの教派の信仰告白の中に含まれており、神が聖&lt;br /&gt;
職者として召し出された人たちによっても考えられてきました。ここ&lt;br /&gt;
__で明確にしておきたいのは、私たちが教会の組織は新約聖書の中に見&lt;br /&gt;
つけることができると言う時、それは自分たちの慣行の正しさを仮定&lt;br /&gt;
し、そのことを正当化する聖書的根拠を捜すという意味ではありませ&lt;br /&gt;
ん。むしろ、私たちの目標は、聖書にその答えを求め、そこで教えら&lt;br /&gt;
れているいくつかの構造や組織の基本的な見方を認識し、聖書の教え&lt;br /&gt;
に従って教会形成をなすべき点にあるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新約聖書は、初期のキリスト者たちがいかにして彼らの教会を構成&lt;br /&gt;
していたかの例で満ちています。ある箇所には、明白な団体としての&lt;br /&gt;
会合や（ 使徒20:7; ヘブル10:25）、選挙（ 使徒1:23-26;6:5-6）、役員（ 例：&lt;br /&gt;
ピリピ1:1;使徒20:17,28）、戒規の例（ Ⅰ コリント5 章）、献金（ ロー&lt;br /&gt;
マ15:26;Ⅰ コリント16:1-2）、推薦状（ 使徒18:27;Ⅱ コリント3:1）、儀&lt;br /&gt;
式の運営（ 使徒2:41;Ⅰ コリント11:23-26）、と教会の教会籍の資格（ マ&lt;br /&gt;
タイ28:19;使徒2:47） について記されています。明らかに、神は教会&lt;br /&gt;
の共同生活と構造について多くの見方の方向を、みことばの中に与え&lt;br /&gt;
てくださっているのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神がそのようにされていることは、なんと素晴らしいことでしょ&lt;br /&gt;
う！ 神のみことばが、私たちの共同生活や教会組織についてさえも規&lt;br /&gt;
定されていると確信することは、最近の流行である専制政治から私た&lt;br /&gt;
ちを自由にします。今日幾人かの牧師たちは、聖歌隊や委員会は必ず&lt;br /&gt;
持つべきであり、説教は単にしても差し支えないことと考えます（ も&lt;br /&gt;
し私たちのビデオ・ミニストリーがすでにそのタイム・スポットを満&lt;br /&gt;
たすと考えていないなら）。または教会の教会籍を導入しても差し支え&lt;br /&gt;
ないとも考えます（ もし私たちが他になすべき独創的なことを考えら&lt;br /&gt;
れなければの話ですが）。神のことばは、教会についての私たちの考え&lt;br /&gt;
を再統合してくれます。私たちは、聖書は私たちの指導について明確&lt;br /&gt;
なパラメーターを設計してくれます（ それらのパラメーターの内に柔&lt;br /&gt;
軟性はありますが）。私たちは、説教と教会籍がなくてはならないこと、&lt;br /&gt;
そして聖歌隊や委員会はあってもいいことを学び始めていくことにし&lt;br /&gt;
ます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジョン・ドラグ（ John L.Dagg、1794 年から1884 年） は、次のよう&lt;br /&gt;
に記しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会の秩序と宗教の儀式は、新しい心に比べたら、さほど重要では&lt;br /&gt;
ありません。いくつかを考慮して、それらを尊重してなされる骨の折&lt;br /&gt;
れる質問のいかなる調査も不必要で無駄なように思えます。しかし私&lt;br /&gt;
たちが聖書から分かっていること。それはキリストがこれらの事柄に&lt;br /&gt;
命令を与え、私たちは従うしかないということなのです。愛は私たち&lt;br /&gt;
を服従するように促がします。そして愛は、神の意思を確かめる必要&lt;br /&gt;
があるような調査を喚起します。それゆえに、私たちの前におかれた&lt;br /&gt;
研究を、熱い祈りによって遂行しようではありませんか。すべての真&lt;br /&gt;
理へと導いてくださる聖霊が、私たちが最上に愛し崇拝する神のみこ&lt;br /&gt;
ころを学ぶ助けをしてくださるのです。（'''''Manual of Chur ch Order, p.12'''''）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことを認識することで、私たちは教会の組織についての多くの&lt;br /&gt;
中心的な見方について、聖書の教えをよりよく考慮することができる&lt;br /&gt;
でしょう。ここで多くの質問が考慮されるべきですが、私は教会組織&lt;br /&gt;
の最も基本となる４ つの事柄、執事、長老、会衆主義と教会の会員籍&lt;br /&gt;
について、聖書は明確に何を教えているかに焦点をあわせたいと思い&lt;br /&gt;
ます。神が私たちの試みを用いてくださり、教会で共に生きるとはど&lt;br /&gt;
ういうことなのかについて、神の意図を理解する助けを与えてくださ&lt;br /&gt;
いますように。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Taiki</name></author>	</entry>

	</feed>