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		<title>è�–æ›¸ã�®æœ¬ã�Šã‚ˆã�³èª¬æ•™ - 新しいページ [ja]</title>
		<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8</link>
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			<title>神の御子にある喜び</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E5%96%9C%E3%81%B3</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「神の御子にある喜び」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Pleasure of God in His Son}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マタイ17:5&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; 「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 序====&lt;br /&gt;
今朝は新しいメッセージシリーズを始めますが、主のみこころであれば、4月19日の、イースターの日曜日の朝までつづくでしょう。では、私がどのようにこのシリーズを発展させたのかを説明することから、始めたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''見ることとは(その見ているものに)なること'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
説教という行為の中で、何が成されなければならないかを理解するとなると、私はいくつかの聖書箇所、特に2コリント3:18に導かれます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリストの似姿へと私たちが徐々に変えられていく方法の一つは、主の栄光を見ることであると、この箇所は教えていると信じます。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。」主のかたちに益々近づくには、主の栄光をしげしげと見つめ、主を絶えず見ることです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは好きな音楽を鼻歌で歌います。育った近辺のなまりで話します。親の礼儀作法を真似ます。そして自分の最もあこがれる人を自然と真似しがちになります。神も同じです。もし主にじっと目を注ぎ主の栄光を絶えず見つめるなら、栄光から栄光へ、私たちは主の似姿へと変えられていくのです。もし１０代の子たちが憧れのスターたちのように髪型を整える傾向があるのなら、クリスチャンは憧れの神のご性質を真似る傾向が出てくるのです。このような霊的な関わり合いで、見ることとは、ただ単に信じることではないのです。見ることとは、(その見ているものに)なることです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神の栄光を描写する説教'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここから私が教えられるのは、説教とは、その大部分が神の栄光の描写でなければならない、ということです。それは説教の目標が、人々を神の似姿に変えていくことにあるからです。これはパウロが説教をどのように見ているかにあてはまると思います。なぜなら4節後の2コリント4:4で、彼は自分の福音の内容を、「神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光」と、言い表しているからです。そしてその2節後の6節でも少し変えて、「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」と言い表しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので、パウロによると、説教とは、男女の暗い心に光を照らす手段です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4節で光は「福音の光」と呼ばれており、6節では「知識の光」 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; と呼ばれています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4節で福音とは、キリストの栄光の福音、6節では知識とは、神の栄光を知る知識です。ですから両節で、心に照らされた光とは栄光の光、キリストの栄光と神の栄光なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしこれらは二つの違った栄光ではありません。パウロは4節でそれを、神のかたちであられるキリストの栄光と言っています。そして6節では、神の栄光とは、神の御顔にある、と言っています。ですので説教によって照らされる光は栄光の光であり、神のかたちであられるキリストの栄光として、あるいはキリストに完璧に反映されている神の栄光として、この栄光を語っていいのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
説教とは、男女の心に対する、神の栄光の描写、表示、あるいは展示であり(それが4:4－4:6)、そうすれば、この栄光を見つめることによって、彼らが一つの栄光から次の栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくのです(それが3:18)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''体験から本当であると確信'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはうわべだけの、単なる知的解釈ではありません。これこそまさに、私が個人的に(多くの人たちと同じように!)体験して、本当であると確信したことです。神そのものを見ることこそ、聖さと主にある楽しみを追求するうえで、私にやる気を起こさせる、最も説得力のある力強いものであると、何度も証明されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皆さんも私も体験から良く知っていることですが、人の魂の葛藤の根源は、この世の栄光とそれがもたらすしばしの喜びと、それに対して神の栄光とそれがもたらす永遠の喜びの、この二つの栄光にあります。この二つの栄光は私たちの心の中で、忠誠と称賛、楽しみを獲得するために競い合うのです。そして説教の役割と言うのは、あなたが一つの栄光から次の栄光へと変えられていくよう、神の栄光を、最高の美であり価値のあるものとしてあなたの心に輝き照らすよう見せ、表現し、描き出すものなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''説教者が直面するチャレンジ'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
多くの人々が見て変えられていくには、どのようにして神の栄光を描くのが一番いいのだろうかと、説教者として私は絶えず自問させられます。2週間前静養先でその質問を自分に投げかけていた折り、新しい答えが思い浮かびました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その時私は、ヘンリー・スコウガルの、『人の魂にある神のいのち』の一部を再度読み返していました。彼は突き刺すようなコメントをします。「一つの魂の価値や美徳は、その愛の対象によって測られなければならない。」と（62ページ）。それは本当だと心を打たれました。そしてスコウガルが言おうとしたことが人にとって本当であるなら、それは神にとっても本当である、と思ったのです。「神の魂の価値や美徳は、ご自身の愛の対象によって測られなければならない」と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こで私は、神が愛され、楽しまれ、そのみこころにかない、好まれ、また喜ばれることが何であるかを教えてくれる箇所を求めて、数日間みことばを探りました。その結果が、「神の喜び」と題された13のメッセージを説教する計画です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでこれは私の祈りであり、また皆さんもご自分の祈りとしていただきたいのですが、神が喜ばれる対象を見ることによって、私たちが主の魂の美と価値を見ますように。そして主の魂の美と価値を見ることによって、私たちが主の栄光をみますように。そして主の栄光を見ることによって、私たちが一つの栄光から次の栄光へと、主の似姿に変えられていきますように。そして主の似姿に変えられることによって、偉大な、たまらなく魅力的な救い主の生き証人として、この街に、そして世界中の未踏の人々に、大胆に立ち向かうようになりますように。次の13週間を通して私たちが主を見、そして熱心に祈るところに、主が愛と聖と力の大きなリバイバルをお送りくださいますように。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 解説====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ご自身の愛の対象にある神のみ心の価値を描くには、私たちはまず最初に戻らなければなりません。神の喜びについて私たちが言える最も基本的なことは、神はご自身の御子をお喜びになる、ということです。5つの主張によって、この真理を明らかにしていこうと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1. 神はご自身の御子をお喜びになる'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
タイ17章で、イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネを高い山にお連れになります。彼らだけになったとき、驚くべきことが起こります。突然神が栄光のみ姿をイエスにお与えになるのです。2節、「御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」それから5節では、光り輝く雲が彼らを包み、神がその雲から語られます。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、神によって弟子たちは、イエスのまことの天の栄光を、ほんの一瞬垣間見ることができます。これがペテロが2ペテロ1:17で「キリストが父なる神から誉と栄光をお受けになった」と言うものです。それから神は御子にあるご自身のみこころをあらわされ、二つのことをおっしゃいます。「わたしは息子を愛している」（「これはわたしの愛する子」）、そして「わたしは息子を大いに喜んでいる」（「わたしはこれを喜ぶ」）と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主は同じことを別の場面の、イエスの受洗で、聖霊が下りイエスをその職務のために聖別し、み父の愛と後ろ盾の現れとして、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とおっしゃいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてヨハネによる福音書で、イエスはみ父の御子に対するご愛について数回お語りになります。たとえばヨハネ3:35、「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」ヨハネ5:20、「父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」(マタイ12:18でマタイがイエスに言及しているものとしてイザヤ42:1を引用している、「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。」の箇所もご参照ください。「喜ぶ」はヘブル語で*ratsah*で、「心にかなう」という意味です。)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ということで、父なる神は御子を、自己否定や犠牲的憐れみではなく、喜びと満足の愛を持って愛しておられる、というのが私たちの最初の告白です。主は御子を大いに喜んでおられるのです。御子は主のみこころにかなうのです!ご自分の御子を見るとき、見ているお方を主は楽しまれ、見惚れられ、大切にされ、尊重され、かみしめられるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 神の御子には神の満ち満ちたご性質がおありになる'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この真理は前述の真理について私たちが誤解しないよう助けてくれます。皆さんは、神は御子をお喜びになっているという言明に同意しておられるかも知れませんが、御子は、み父のみこころにかなったので養子にされた、ただ単なる並外れた聖人だと誤解するかも知れません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしコロサイ2:9では私たちはこれらを全く違う角度から見ることができます。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」神の御子はただ単に選ばれた人ではありません。神の満ち満ちたご性質がおありになるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それからコロサイ1:19ではこれを神の喜びと結びつけています。「満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、」あるいは（NIV訳と一緒に）「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、」 &amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; と言うことができるかも知れません。言い換えるなら、そうすることは神のみこころにかなったことだったのです。神はご自身の御旨にかなった人を探すため世界を見渡され、イエスをご自分の子として養子にされたのではありません。むしろ、神ご自身が率先してご自身の満ち満ちたご性質を、人となるという行為のうちに、人にお与えになったのです。あるいは主が率先して、神ご自身の満ち満ちたご性質の上に、人の性質をまとわれた、ということもできます。そしてコロサイ1:19では、主が喜んでそれをなされた、と言うのです。それは主の楽しみと喜びだったのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神はみこころにかなった御子を見つけられたのではなく、みこころにかなう御子にされた、と私たちは言いたくなるかも知れません。しかしそれもまた、誤解を招く恐れがあります。なぜならイエスのうちにこの形をとって宿る満ち満ちた神のご性質（コロサイ2:9）とは、イエスが人となられる以前に、すでにご人格のうちに存在していたからです。ここで私たちはさらに、三位一体の神に戻らなくてはなりません。第三の告白に移ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3. 神がお喜びになる御子は、神の永遠の似姿であり反映であり、それゆえ神ご自身であられる'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このコロサイ1:15でパウロは言います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です[つまり、以下の言葉があらわすように、すべての造られたものの上にある神の子であるという高い地位を持ち合わせたお方]。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
御子は神のかたちであられる。これはどういう意味でしょうか。答える前に、他の似たような称号を考えてみましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
へブル1:3では御子のことを以下のように言います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ピリピ2:6でパウロは言います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので神がお喜びになる御子は、神のかたちであられるのです。神ご自身の栄光を反映され、神のご性質そのもののかたちをお持ちになり、神のかたちそのままであられ、そして神と同格であられるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ使徒ヨハネがヨハネ1:1で以下のように言うとき、驚きではないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので神がお喜びになる御子は、つくられた、あるいは人となられる際にどこかで造られた、というのはまったく人を惑わせます。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」神が存在される限り、イエス・キリストのうちに人間性をとられた神の御子であられる神のことばは、存在するのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで神と同格であられるという主を、神の似姿、あるいは反映、型、現れ、と呼ぶ聖書の意味がより良くわかります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いにしえから絶えずあった現実は、神です。これは大変なミステリーです。なぜなら、神にはまったく始まりがなく、何からもあるいは誰からもそうされずに、そこに永遠にずっとずっとおられる―好むと好まざるとにかかわらず、私たちすべてが考えなければならない、まさに絶対不変の現実―というのは、私たちにとっては非常に理解しがたいからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書はこの永遠の神には絶えず、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ご自身の完全なみ姿がおありになり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ご自身の本質の完全な像がおありになり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ご自身のご性質の完全な型あるいはしるしがおありになり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ご自身のご栄光の完全な現れあるいは表現がおありになると、聖書は教えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはここで言い表すことができないようながけっぷちに立たされていますが、思い切って言うならば、これだけは言えるでしょう―神が神であられる限り、主はご自分を非常に意識しておられ、ご自身の生ける、ご人格の複製(あるいは子をもうけること)に関して、主が持っておられるご自身のイメージはまったく完璧、完全、そして十分なのです。この神の生ける、ご自身のイメージ、あるいは像、あるいは現れが、神、つまり、御子なる神です。そしてそれゆえ、御子なる神はみ父なる神と共に永遠であられ、ご栄光と本質において同格であられるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4. 神の御子にある喜びは、ご自身にある喜びである'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
御子が神の似姿、神の現れ、神のしるし、神のかたち、神と同格、そしてまさしく神ご自身であられるので、神の御子にある楽しみは、ご自身にある楽しみです。それゆえもともとの、根本の、もっとも深い、土台となる神の喜びは、御子に映し出された、ご自身の完全さにある喜びです。主は御子を愛され、御子を楽しまれ、御子をお喜びになります。それは御子ご自身が神であられるからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一見これは虚栄のようで、うぬぼれや気取りや身勝手さがあるように聞こえます。それはもし私たちのうちの誰かが、鏡の中の自分を見ることで初めて最も深い喜びを見出したとしたら、それこそその通りだからです。虚栄心が強くうぬぼれており気取って自己中心です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもなぜでしょう?それは私たちが、自己を熟視するより無限に優れた、壮大な、偉大な、そして深いもののために造られたからです。何でしょうか?神を熟視し楽しむことです!これ以外は偶像礼拝です。神こそすべてのものの中で最も輝かしいお方です。主を愛さないことと主を喜ばないことは、主のみ価値に対する最大の侮辱です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしそれは神にとっても同じです。神が無限に美しく輝かしいものを侮辱されるでしょうか?神が偶像礼拝をされるでしょうか?答えはただ一つです―神はすべてのもの以上にご自身の美しさと完璧さを愛し、喜ばなければならないのです。私たちがこれを鏡の前ですると、うぬぼれそのものです。神が御子のみ前でそれをされると、義そのものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義の本質とは、完璧に輝かしいものを完全に喜ぶことでなければならないのではないでしょうか?そして義の逆は、最高の愛情を小さいもの、あるいは無価値なものに注ぐ時を、言うのではないでしょうか?&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして神の義は、ご自身の価値と栄光にある、主の無限の熱心と喜びと楽しみです。そしてもし主がご自身の完璧さに対するこの永遠の熱心に反して行動されるなら、主は正しくないお方ということになり、偶像礼拝者ということになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここに私たちの救いの大きな障害があります―このような義なる神が、どうして私たちのような罪びとに愛情を注がれるのでしょうか?しかしここに、私たちの救いの真の基盤もあるのです。これこそまさしく、邪悪な罪人である私が御子にあって愛され受け入れられることを可能にする、み父が御子にもっておられる無限の高い評価です。なぜなら主は、私の罪を通してみ父のご栄光に対して犯したすべての侮辱と名誉棄損を、ご自身の死を通して修復してくださったからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の数週間でこのこと―いかにみ父のご自身の完全さにある無限の喜びが、私の贖いと希望と永遠の喜びの基盤であるか―を何度も見ていきます。今日はその初回です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第5番目の告白と最後の適用で終わります。もしスコウガルが言う、魂の価値と美徳は愛の対象(そして私はここで強調します)によって測られなければならないというのが正しいなら…&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5. 神はすべてのものの中で最も優れた価値あるお方である'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜでしょう?なぜなら主はご自身の栄光のかたちであられる御子を、永久に無限で完全な精力を持って愛しておられるからです。み父と御子と御霊の間を永久に流れている愛はなんと輝かしく幸いでしょう!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この偉大な神のみ前でおおのきましょう!そしてささいな恨み、はかない楽しみ、そして人生のつまらない探究をやめ、神の、ご自身の完全さの現れ、つまり御子、にある喜びに加わりましょう。祈りましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無限であられ、永遠であられ、そして義であられる神よ、あなたをしばしば軽くあしらい、御子のうちにあるあなただけのものである愛情の中心に、私たち自身をのし上げてきた罪を告白します。私たちの横柄な態度を悔い改め、三位一体の交わりのうちにある、あなたの永遠の独立自存の喜びの前に、喜んで恐れおののきます。そしてあなたの御子のみことば(ヨハネ17:26)にある、私たちの祈りは、御子を愛しておられるあなたの愛が私たちのうちにあり、御子が私たちのうちにおられますように。私たちがその喜びの交わりと愛の大海原の中に、永久に永遠に、いざなわれて行きますように。アーメン。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;hr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 日本聖書刊行会、新改訳聖書1970年版引用、脚注がない限り以下同様。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 「知識を輝かせて」(2コリ4:6、新改訳1970年版)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; コロ1:19、新共同訳1987年版引用&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 07 Dec 2018 20:52:24 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E5%96%9C%E3%81%B3</comments>		</item>
		<item>
			<title>最悪の時に希望をもって子育てをする</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%9C%80%E6%82%AA%E3%81%AE%E6%99%82%E3%81%AB%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「最悪の時に希望をもって子育てをする」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Parenting with Hope in the Worst of Times}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようになった。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない。2 敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕えようとする。3 彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人は物を求め、さばきつかさは報酬に応じてさばき、有力者は自分の欲するままを語り、こうして事を曲げている。4 彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; あなたの刑罰の日が、あなたを見張る者の日が来る。今、彼らに混乱が起きる。5 友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。6 息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 7 しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。8私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。9 私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。10 それで、私に向かい、「あなたの神、主は、どこにいるのか。」と言った私の敵は、これを見て恥に包まれる。私もこの目で敵をながめる。今、敵は道の泥のように踏みにじられる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 11 あなたの石垣を立て直す日、その日、国境が広げられる。12 その日、アッシリヤからエジプトまで、エジプトから大川まで、海から海まで、山から山まで、人々はあなたのところに来る。13 しかし、その地は荒れ果てる。そこに住んでいた者たちのゆえに。これが彼らの行ないの結んだ実である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 14 どうか、あなたの杖で、あなたの民、あなたご自身のものである羊を飼ってください。彼らは林の中、果樹園の中に、ひとり離れて住んでいます。彼らが昔の日のように、バシャンとギルアデで草をはむようにしてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 15 「あなたがエジプトの国から出た日のように、わたしは奇しいわざを彼に見せよう。」16 異邦の民も見て、自分たちのすべての力を恥じ、手を口に当て、彼らの耳は聞こえなくなりましょう。17 彼らは、蛇のように、地をはうもののように、ちりをなめ、震えながら彼らのとりでから、私たちの神、主のみもとに出て来て、わなないて、あなたを恐れましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。19 もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。20 昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日は霊的子育てについてのシリーズを完結します。この最後のメッセージに選んだタイトルは、「最悪の時に希望をもって子育てをする」です。子どもを生み育てるのに簡単な時などありません。創世記3章のポイントは、罪がこの世に入ったとたん、出産と子育てがとても難しくなったということです。主はエバに、「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない」と言われました(創世記3:16)。彼女とアダムが二人の男児を育てた後、その子の一人がもう片方を殺すのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 自由になる唯一の方法  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その話のポイントは、今や罪がこの世に、すべての親とすべての子のうちにある、ということです。そしてこれが罪の成せるわざのようなものです。それは人を破壊し、家族を崩壊させます。この世の主な問題は、内在の罪の力です。そしてそれは事実、力です。人間の魂の力であり欠陥、堕落、腐敗です。それは一連の自由意思による選択ではありません。罪は人の自由を破壊する、強力な束縛です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人が、親が、あるいは子が自由となる唯一の方法は、神の霊によって新しく生まれ変わり、イエス･キリストを救い主として受け入れ、全世界の創造主によって罪赦され、罪の力に対し唯一の対抗勢力としての聖霊を受けることです。それのみがこの世にとって、親と子にとって、唯一の希望です。これはどの時代においても真実です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 子育てに簡単な時はない  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから子どもを謙遜で、愛があり、正しく、創造豊かで、生産的で、キリストをあがめる大人へと生み育てるのに、簡単な時はありません。簡単な時などないのです。時には他よりさらに大変な時もあります。でもそれが大変であるかないかは、あなたの置かれた個人的環境や社会的環境によります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日の私の願いは、最悪の環境のうちにある親御さんを、希望をもってお助けすることです。[最悪の環境というのは]家庭での最悪の環境、また文化での最悪の環境を言います。そして親ではない方々にも、私が言うことすべては適用されます。それは最悪の時に希望を持つ方法は、誰にとっても同じだからです。私たちはそれを違った理由で必要とします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 預言者ミカ  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ユダヤ人の預言者ミカは、ユダの王、ヨタム、アハズ、ヘゼキヤが在位した時代に、説教しました(ミカ1:1)。それは大体紀元前750から687年です。彼がその場面に来たその理由のはっきりとした説明が、ミカ3:8に見られます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち&amp;lt;br&amp;gt; ヤコブにはそのそむきの罪を、&amp;lt;br&amp;gt; イスラエルにはその罪を告げよう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== さばきと憐れみの宣告  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は人々に彼らの罪をはっきりさせるため、預言者たちを遣わされました。そしてその罪をもって、預言者たちはさばきを宣告し、憐れみを宣告しました。さばきと憐れみーこれは聖書を通して一貫しています。さばきと憐れみ。神は聖く、義であられ、罪深い人々にさばきをくだされます。そして神は憐れみ深く忍耐深く、また情け深く、罪深い人々をご自身のさばきから救われます。ミカはこれをミカ4:10で明確にします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; シオンの娘よ。 子を産む女のように、身もだえし、もがき回れ。 今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンまで行く。 そこであなたは救われる。 そこで主はあなたを敵の手から贖われる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主は彼らをさばきのうちにバビロンに送られます。そして主は憐れみのうちに、彼らを彼らの地に連れ戻されます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 処罰はやって来る  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7章で、ミカは最悪の時の子育て、つまり、家庭において最悪の時、文化において最悪の時について言及します。1節、「ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようになった。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない。」彼は自分がいかに食べ物に貧窮しているかを語っているかも知れません。でも私は、彼が比喩的に、敬虔な友や同僚が貧窮している状態を語っているのではないかと思います。なぜなら彼は2―3節で、「敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕えようとする。彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人は物を求め、さばきつかさは報酬に応じてさばき、有力者は自分の欲するままを語り、こうして事を曲げている」と言うからです。有力者は腐敗しています。彼らはできる限りの悪を企て(「練り上げ」)、上手にそれをやってのけるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4節、「彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。」もしミカが彼らに近づこうとすると、とげが刺さるのです。「あなたの刑罰の日が、あなたを見張る者の日が来る。今、彼らに混乱が起きる。」それゆえ敵がやって来ないかどうかを見るために任命された見張り役の日は近づいています。処罰がやって来るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 妻と子どもたちでさえも  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ミカはそれを文化から近所とそして家族に持って来ます。5節、「友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。」言い換えると、罪と腐敗と偽りは、気をつけないといけないほどまん延しており、自分の妻、つまり「あなたのふところに寝る者」、も自分を裏切りかねないほどである、と言うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは子どもたちです。6節、「息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。」5人の違った人たちがこの絵の中にいます。父親と母親。息子と娘。そして嫁です。ということは、息子は結婚しています。ミカはすでに、夫と妻の間の事がらも定かではないと言っています(「あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ」)。そしてここでは彼は息子が父親に対抗して立ち上がると言います。娘は母親に対抗して立ち上がり、嫁は娘の肩を持ち、しゅうとめに逆らうと。ミカは彼らを人の敵と呼びます。6節の終わり、「それぞれ自分の家の者を敵としている。」彼は特に息子たちに関して言及しているのです。娘たちは父親の妻に恨みを集中させているようです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは痛ましい光景です。中にはまさにこのような状況に置かれている人もいるでしょう。これは最悪の時です。文化は腐敗しており、結婚生活と家族は危険にさらされています。それがミカ7章の描くものです。皆さんの中には、それが今日描く自分の生活です。他の者にとっては、明日それがやって来ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様がこれをもたらされた?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この状況の中でミカの希望に注意を向ける前に、イエス様がこの6節の家族の肖像で何を成されるかを皆さんに見ていただきたいと思います。マタイ10:34―36を開いてください。イエスさまはご自身の来臨の結果を説明されます。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。[それから主はミカ7:６節を引用されます。]なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが[7節で登場する]同じ5人、あなたの家庭での敵に言及したものと同じものですが、一つだけ際立った違いがあります。イエス様がそれをもたらされたと言われるのです。35節、「わたしは人をその父に、･･･逆らわせるために来たからです。」主はもちろんのこと、家族を崩壊させることを好んでおられるわけではありません。主の弟子訓練の究極の召しが家族関係を破壊すると言っておられるのです。一人が信じ、他の一人は信じません。父親がイエス様に従い、息子は従いません。息子がイエス様に従い、父親は従いません。娘がイエス様に従い、母親は従わないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜイエス様はここに登場されるのでしょうか?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでの図のなかにイエス様を持ち込んだ理由は、まず第一に、ミカの時代の家族の崩壊は、必ずしも家族の腐敗が原因ではない、ということを示すためです。それは家族の中の義が原因かも知れません。誰かが神について、主の契約、そして主の御言葉について真剣になるまで、家庭内ですべてのことがスムーズに運んでいたかも知れません。そして責め合いが始まるのです。「信心深くなって、自分が他の人より良いと思っているんだろう!すべてうまく行っていたのに、今じゃ俺たち残りの者が正さなきゃいけないと思ってるんだろう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様がこのミカの聖句を引用さる別の理由は、それはミカの時代もユニークなことは一切無い、ということを示すためです。それは紀元前8世紀にその通りでした。それは紀元1世紀にもその通りでした。そしてこの21世紀でもそれは同様です。それはたとえあなたにとってそうでなくとも、誰かにとっては最悪の時なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それではミカは、最悪の時の子育てで希望を持つことについて、何を言わんとしているのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ミカが言おうとしていることーへりくだって大胆に  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は恐らく父親の代表として、またイスラエル人の代表として自分を描き、そしてへりくだって大胆な姿勢を取ります。それが私が最悪の時の子育てについてあなたにお伝えしたいことの本質です。へりくだって大胆な姿勢で子育てをしてください。「へりくだって」と言うのと、「大胆に」と言うのを皆さんが理解できるよう、質問させてください。彼は何についてへりくだっているのでしょうか?そして彼がそんなに大胆でいられるその根拠は何でしょう?その二つの質問の答えを得るため、7―9節を見てみましょう。彼は何についてヘりくだっているのでしょうか?そして彼がそんなに大胆でいられるその根拠は一体何でしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 己の義ではない  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
６節で「それぞれ自分の家の者を敵としている」と言ったそのすぐ後で、彼は7節で、「しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる」と言います。ですから私たちは最悪の時に、主を仰ぎ見ます。他のところを見よう[頼ろう]としたことがあるかも知れません。何をやってもダメです。すべてが崩れます。私たちは自分で家族[関係]がうまく行かせることができるはずだと思っていました。この子達は自分の力で、自分が選ぶどんなかたちにでも形作ることができるはずだと。結婚に関するいい本さえあれば、相互の深い信頼と尊敬と称賛と愛情を手に入れることができるはずだと。そして今です。今では私たちは主を仰ぎ見ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも気をつけてください。ミカは己の善を主に見ているでしょうか?そのようなものは可能です。彼は、「私は正しいことのすべて、父親がすべきすべてのことをした。もしこの家族がうまくいっていないとしたら、心は痛むが、私が問題なのではない。彼らだ。」それがこの人の姿勢でしょうか?いいえ、違います。そしてそれはあなたの姿勢でもないことを願います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 罪を犯されているけれども、自分の罪をも自覚する  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8、9節で彼が言うことに耳を傾けてください。大胆で、へりくだらされていることに耳を傾けてください。なぜ彼はへりくだらされているのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9節の冒頭を見逃さないでください。「私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。」配偶者や親たちがこれを見るのはとても重要です。それは、彼が、罪を実際に犯されている文脈の中でそれを言っているからです。8節で、彼は自分の敵(恐らく息子や妻でしょう)に、「私の敵。私のことで喜ぶな。」と言います。いい気味だと思うなと。そして9節の半ばで、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださると言います。「主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、彼は自分が罪を犯されていることを知っているのです。彼らの非難の中には間違ったものもあると言うことを知っています。彼は神が彼の敵ではなく、味方であられると言うことを知っています。神が彼を暗闇から光に導いて下さいます。彼に義を見させて下さいます。彼はこの確信と断言で大胆なのです。驚くほど大胆です。それにも関わらず、主のみ怒りと自分自身の暗闇を説明するために私たちの注意を引くのは、自分自身の罪です。「私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜそんなにへりくだらされているのか?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ彼はそんなにへりくだらされているのか、という質問に対する私の答えは、以下の通りです。それは彼が主に家庭内で罪を犯されているからではなく、彼自身が罪を犯すことにあります。最悪の時に希望を持って子育てをする姿勢は、へりくだらされた大胆さの姿勢です。へりくだらされているのは、まず何よりも、自分自身の罪のためで、そしてそうすることで初めて、罪を犯されていることのために、へりくだらされるのです。これが私たちが直面する大きな格闘なのです。神の恵みにより、自分の家族と自分自身をそのように見ることができるようなへりくだった姿勢を、私たちは探し出すことが出来るでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜそんなに大胆なのか?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二つ目の質問は、もし罪を犯して来たのなら、なぜ彼はそんなに大胆でいられるのか?と言うものです。自分の罪が頭の中でそんなに顕著であるのに、なぜ彼はそのように語ることができるのでしょうか?このような大胆さはどこから来ているのでしょう?「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。･･･主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
答えは7章の最後にあります。そしてその答えがこのミカ書の最後として出てくるあたり、またそれがそのように強調されていること自体、それがこの書、事実、聖書全体で、最も重要であることを示しています。18―19節、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ミカが打ちひしがれた中でそんなに大胆でいられるのは、彼が神を知っているからです。彼は神の一体何が素晴らしくユニークであるのかを知っています。「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか?」それは、あなたのような神は他にはない、と言っています。「あなたの道は私たちの道よりはるかに高いです。あなたの道はこの世のいかなる神々よりも高いです。あなたがユニークなのは何でしょう?それはあなたがご自身の民の咎を赦され、そむきの罪を見逃されることです。」それが聖書の神固有のユニークさです。そしてこの神以外に他に神はありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の赦しで深く進む  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それではあなたが、最悪の時にどのように希望を持って子育てをするのでしょうか?自分の家族が３対２、また２対３で分裂しているかも知れない時に、どのように希望を持って子育てをするのでしょうか?あなたは主を仰ぎ見るのです。主に叫び求めるのです(7節)。そして二つの深い確信を持って、主に叫び求めるのです。その一つは、あなたが罪人であり、一切のものを神から受けるに値しない者ということです。私たちは完璧な親ではありません。罪を犯してきました。私たちはそんなに愚かでも、うぶでもありません。自分が罪を犯されて来たことを知っています。でも私たちの肉のすべてがそれだけを考えようとします。聖霊だけが、私たちに自分自身の罪を見させることがおできになります。聖霊だけが、私たちに自分自身のあやまちの重さを感じさせることがおできになります。それが深い確信の一つです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つは私たちの神のように、咎を赦され、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみをお喜びになるお方は、他にはいない、と言うものです。私たちは自分の伴侶たちに罪を犯して来、子どもたちに罪を犯して来、そしてこれらすべてのことにおいて、神に対し罪を犯して来たということを、このことを確信するのと同じように、確信しています。その両者とも非常に重要である、両者がどのように一緒になって作用するのか、一方がもう一方を可能な限り深めている、というのが見えますか? もしあなたが自分の罪とあやまちの重さを感じることがなければ、神の赦しに深く進むことはありません。でもそれは逆でも同じです。もしあなたが神の赦しを知らなければ、自分自身の罪を深く掘り下げることはありませんーそしてこれは家庭内でとても重要です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この二つの深い確信はへりくだらされた大胆さという姿勢を生み出します。そしてそれが最悪の時に希望を持って子育てをする姿勢です。罪を犯される渦の中で自分自身の罪にへりくだり、そして大胆に、それは「あなたのように赦しの神が他にいるでしょうか!」だからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== へりくだらされた大胆さ—イエス様のうちにあって増す  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてクリスチャンにとって、この半々の姿勢は、イエス･キリストと、主が私たちのために十字架上で何をして下さったかを知ることで根ざし、また増します。ミカにとって、イエス様は5節ではただの希望でした。「ベツレヘム・エフラテよ。･･･あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。･･･彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、･･･」(ミカ5:2、4)。この良い羊飼いはご自身の羊のためにいのちをお捨てになりました(ヨハネ10:11)。そして主がご自身をお捨てになったとき、私たちはそれまで以上にはっきりと、私たちの罪の深さ(それは主の苦しみの度合いを要求しました)と、神がその罪を赦すことで解決されたその偉大さを知りました。それゆえ、へりくだりと大胆さは増すのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからもしあなたが最悪の時に子育てをしておられるのなら、あるいは最悪の時の子育ての準備をしたいと思っておられるなら、または、単純に最悪の時に希望が欲しいと思っておられるのなら、ミカを見て、イエス様を見て、そしてこの姿勢、自分自身の罪のゆえのへりくだり、またキリストのゆえの大胆さを取ってください。それから聖霊の力によって、イエス様のために、できる限り最高の、不完全な親になろうと心に決めてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 24 Jul 2018 20:29:45 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%9C%80%E6%82%AA%E3%81%AE%E6%99%82%E3%81%AB%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>私たちはこの方の栄光を見た、この方は恵みとまことに満ちておられた</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%AE%E6%96%B9%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%9F%E3%80%81%E3%81%93%E3%81%AE%E6%96%B9%E3%81%AF%E6%81%B5%E3%81%BF%E3%81%A8%E3%81%BE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E6%BA%80%E3%81%A1%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「私たちはこの方の栄光を見た、この方は恵みとまことに満ちておられた」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|We Beheld His Glory, Full of Grace and Truth}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。15ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」16私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。17というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。18いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この段落の主な要点を見るため、14節から始めましょう。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」1節に戻って、ことばが何を示しているかを思い出してください。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)ということで、''ことば''は神の御子を示します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「御子」という用語を用いましたが、それは14節でこの用語が用いられているからです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた''ひとり子''としての栄光である。」ですのでことばは神の御子です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 唯一の神、三位格 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イスラム教徒は、他の多くの人々も同様ですが、この''御子''ということばにつまずきます。中には神がマリアと性交し子をもうけたということを意味すると思っている人もいます。聖書はそうは言っていません。ヨハネ１:１では「初めに、ことばがあった。」と言います。それが神の御子です。そして主には始まりがありません。初めからそこにおられたのです。永遠までさかのぼることが可能な時から、主はおられたのです。３節では、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」と言っています。それは主は造られたものではない、ということを意味します。主は被造物の一部では決してありません。ですので私たちが神の御子について分かっているのは、1）主は神であられる。2）み父も神であられる。3）御子はみ父ではない。み父とともにおられた。4）主は造られたものではなく、永遠であられる、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三位一体の教理、つまり、み父、御子、聖霊は三位格のうちに唯一の神として存在される、という教えについて言えることは非常に多くあります。でも今は、それら多くの教えを皆さんの念頭と心に置いておいてください。御子とみ父は唯一の神であられますが、二つの位格であられ、一つの神のご性質をもっておられます。二つの現実を中心にした、唯一の神であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神が、神であられるまま、人となられた ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、14節で言っているのは、これは歴史の中で最も重要な出来事の一つですが、御子であられることばが、神であられるままに人となられた、ということです。これがその通りだとどうやって知ることができるのか、そしてそれは私たち自身に何を意味するのか?これがこの2週で私たちが見ていくものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ことばは人となられた。」つまり、神の御子であられる神のことばが、神であられるまま、人となられました。どのようにして私たちはそれを理解することが出来るでしょうか？それが私たちにとってどんなことを意味するのでしょうか？今日はこれに14節から答えることに時間をかけたいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ことばは''私たちの間に住まわれた'' ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神のことばは神であられるまま人となられたと私たちが言う第一の理由は、それが14節の、ことばは「私たちの間に住まわれた」という声明だからです。この「''住まわれた''」という動詞の主語は、''ことば''です。そしてことばは神であられます。ですのでこれを理解する最も自然な方法は、ことばである神が私たちの間に住まわれた、です。それゆえ御使いはマタイ1:23で、「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)と言うのです。御子であられることばは人となられたとき、神のままであられました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神のひとり子としての栄光 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちがこれを信じる第二の理由は、14節の次の句、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」です。誰の栄光でしょうか?神であられることば、ことばの栄光です。それはどのような栄光でしょうか?「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネが、人となられたことばの栄光は、「父のみもとから来られたひとり子''として''の栄光」であると言うとき、この「として」ということばは模倣した栄光ということを意味するのでしょうか?御子の本物の栄光ではなく、ただの御子としての栄光ということでしょうか?違うと思います。例えば、もし私が「あげたい本があるんだけれど、私が最初に選んだ人としてあなたにあげるよ。」と言ったとします。あなたは、「私はあなたが最初に選んだ人そのものではなくて、ただ最初に選んだ人として、ということでしょ?」とは応答しないでしょう。私が「最初に選んだ人としてあなたにあげるよ」と言う時、「として」と言うのはそういう意味ではありません。それは私が''事実''最初に選んだ人であるあなたにあげる、という意味です。ヨハネが「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」と言うとき、それは「私たちはこの方の栄光を見た。神の御子の栄光そのものとしての、栄光」ということを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
14節の最初でヨハネが単純にそして単刀直入に、「私たちは''この方''の栄光を見た」と言うところからも、私たちはこれが確かであると知っています。何の条件もありません。誰の栄光でしょうか?御子であられる永遠のことばの栄光です。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちは''この方''の栄光を見た。」ですので神が人となられるという驚くべきことをないがしろにしてはいません。ことばは人となられ、神であられるままそれを成されました。主は神の栄光のあらわれです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== これが私たちにとって何を意味するのか？ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ことばが神であられながら人となられたということを信じる理由を、15―18節でさらにあげています。主のお許しがあれば、来週それに触れますが、今は14節のことばが人となられた、神の御子が神であられながら人となられた、ということが''私たちに''何を意味するのかを、自問してみましょう。なぜそんな質問をするのでしょうか?第一に、それは聖句がそれに答えるからです。しかし他にも理由があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 人間関係を重視する文化を培う ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数ヶ月前私が神に懇願して、私たちを用いて教会に''人間関係を重視する文化''というものを培ってくださるように、と説教をしたのを、覚えていらっしゃいますか?ピリピ２:３―4の「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」を用いて、私が言わんとしていることを説明しました。言い換えれば、自分の殻を抜け出して、他人に仕え、他人の興味に関心を持つような教会に成長しよう、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそのしもべ的、人間関係を重視した思考態度の基本が何か、覚えていらっしゃいますか?その次の聖句で説明されています。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ２:５―７)。言い換えれば、謙虚さ、仕える者、愛の基本、そしてベツレヘム教会での人間関係を重視する新たな文化は、「''ことばは人となって私たちの間に住まわれ、そして私たちのために死んでくださった''」です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神が人となられたことと、その適用 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私がなぜそれ[神が人となられたこと]を指摘するのかと言うと、そうすれば「えっと、過ぎた夏私たちはあまり人間関係を強調しなかったんで、それで今回は神学に没頭しているんだ」とあなたは言わないからです。いいえ。価値がある神学とは、ピリピ2章的神学のみで、それはヨハネの福音書的神学とまさに同じものです。キリストと、キリストのうちにある栄光、そして愛のためにキリストの似姿に変えられる(13:34、15:12)というのは、人間関係において私たちの教会が変えられることを意味します。より愛のある、より助けになる、より仕える者の姿に、より謙虚に、より私心がなく、より社交的に、より思いやりのある者にしてくれるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので私が、「ことばが人となられたというのが、''私たちにとって''何を意味するのかというのを自問するまで、14節にとどまりましょう」と言う時、あなたはその質問の背後に心臓の鼓動を聞くことができると思います。私はこの素晴らしい神学が、私たちの個人的また人間関係の生き方をどのように変えてしまうかに、絶えず注目しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様のうちに私たちは神の栄光を見る ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではことばが人となられたということは、''私たちにとって''何の意味があるのでしょうか?14節、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」それは私たちがイエス・キリストのうちに神の栄光を見ることができるということを意味します。そしてイエス様のうちにあらわされた神の栄光は、罪ある私たちを焼き尽くさない、ということを意味します。その代わり、それは「恵みとまことに満ちて」いるのです。つまり、キリストのうちにある神の栄光は、主の真実さを妥協させることなく私たちにあらわすことのできる、主の恵み深いご性質です。そしてこの恵み深いご性質は、とても、とても、深いものです。そのため彼は''深い''と言う言葉を用います。深いということばは''栄光''を修飾します。神の御子の栄光は、神の真理を妥協させることなく、私たち罪人に対する恵みに満ち溢れています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 恵みに満ちておられ… ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは本当に良い知らせです。神は裁判官や死刑執行人として人となることがおできになったはずです。私たちのすべては主のみ前に有罪判決を受け、永遠の処罰を宣告されるべきです。しかし主はそのようにして人とはなられませんでした。御子なることば、神は、「''恵みとまことに満ち''」た神の栄光をあらわすため、人となられました。私たちに対し恵み深くあられるため、神のことばは人となられました。ことばは神の真実さと一致して、この私たちに対する恵み深さがあらわされるために、人となられました。これは弱々しい、無節操な、感傷的恵みではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは正しく神をたたえる、犠牲の大きい恵みです。イエス様の十字架上での死に直結しています。事実、そのために主は人となられました。死ぬためには主は人とならなければならなかったのです。私たちの代わりに神として人として死ぬためには、人とならなければならなかったのです(ヘブル2:14―15)。ことばはイエス・キリストの死を可能にするため、人となられました。十字架こそ恵みの満ち溢れが最も輝いている場所です。そこで成し遂げられ、そしてそこで買い取られました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== . . . そしてまことに満ちておられた ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそれが死を通して起こった訳は、神の御子が恵みと''まこと''に満ちておられるからです。神は私たちに対し恵み深く、ご自身に対して真実であられます。それゆえ主の御子が来られるとき、主は恵みとまことに満ちておられるのです。キリストが死なれたとき、神は''ご自身に真実で''あられました。それは罪が裁かれたからです。そしてキリストが死なれたとき、神は私たちに対し恵み深くあられました。それは私たちではなくキリストが処罰を受けてくださったからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ことばは人となられた」というのは私たちにとって、神の栄光が歴史の中でかつてなかったほどにあらわされているということ、つまり、イエス様の罪人のための死において、恵みの満ち溢れとまことの満ち溢れのうちに、それが最も光り輝いている、と言うことを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 霊的美しさを見ること ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「そんなら、主を見たことがあるわけじゃないし、私にはその栄光は見ることができないじゃないか。あんた方宗教人は神の御子の栄光について好き勝手に言ってるが、主は見えないじゃないか。」と言わないよう、気をつけてください。注意してください。14節のこの栄光を、外見の輝きや美しさと思わないでください。イエス様は肉体的には美しくも輝いてもおられませんでした。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」(イザヤ53:2) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また14節のこの栄光が、ただ単なる奇跡の実演だとも思わないでください。奇跡を見てそれが実際に起こったと分かっているのに、何の美しさも栄光も見なかった人たちがいるのです。彼らは主を殺そうとしました(ヨハネ11:45―48)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神の御子のあらわされた「栄光」、ことばの栄光、イエス・キリストの来臨のご栄光は、おもに霊的な栄光、霊的美しさです。それはあなたがその目で見えるものではなく、心の目で見るものです(エペソ1:18)。私たちは主のお話しのし方、みわざの行われ方、愛され方、死なれ方を見て、そして恵みにより、ご自身を証明する神の栄光、美しさを見るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 恵みとまことの比類なき混じり合い ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは2コリント４:４で、「この世の神が不信者の思いをくらませて、''神のかたちであるキリストの栄光''にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」というふうに言葉を並べています。「神のかたちであるキリストの栄光」とは、ヨハネ1:14で言われている、「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは地上におられたイエス様を一度も見たことがない人たちに語っており、またヨハネも、私たちのように地上におられたイエス様を見たことがない人たちに宛てて福音書を書いているのです。ヨハネ1:14の栄光と2コリント４:４の栄光は、イエス様の話を聞いたときにあなたが霊的に見る栄光です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主を物理的に見る必要はありません。ヨハネ20：29で、「見ずに信じる者は幸いです。」とイエス様は言われます。あなたはヨハネの福音書や聖書の他の書で主に出会います。そして主に出会うとき、これら霊感を受けて書かれた主の言葉とみわざを通して、その恵みとまことの比類なき混じり合いのご自身を証明する美しさを通して、主の栄光が輝くのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 福音によって生まれ変わる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12、13節で生まれ変わることを、そして14節で神の御子の栄光を見ることを述べているのは、偶然ではありません。12–14節、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「しかし、この方を''受け入れた''人々、すなわち、その名を''信じた''人々には、''神の子ども''とされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ''神によって生まれた''のである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を''見た''。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4節の「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」を思い出してください。霊的新しい''いのち''が与えられるとき、新しい''光''が起こります。光は物理的光ではありません。それは14節で言われている、神の御子の栄光の霊的輝きです。私たちはそのようにして見るようになるのです! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、霊的新しいいのちはどのようにして起こるのでしょうか？13節では、私たちは人によらずに神によって生まれるとき、それが起こると言います。新しく生まれることによって起こるのです。私たちはそのようにして信仰を持ち、キリストを受け入れ、神の子となるのです(ヨハネ1:12)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福音によって、イエス様の救いのみわざとみことばの話を聞くことによって、神は私たちのうちに霊的''いのち''を造られます。私たちは福音を通して神によって生まれます(1ペテロ1:23―25)。そしてその霊的新しいいのちはキリストの栄光の''光''を見ます(ヨハネ１:４)。即座に見るようになるのです。それゆえそれはヨハネ8:12で「いのちの光」と呼ばれています。霊的いのちが与えられるとき、あなたは霊的栄光を見ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 栄光を見る ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは別の方法で言うならば、12節によると、この新しいいのちと視覚は光を''信じ''、神の御子であられるイエス・キリストの真理と栄光としての光を''受け入れます''。そしてその''いのち''と''光''と''信じること''と''受け入れる''ことのうちに、私たちは神の子と呼ばれる特権を得ると、12節は言います。つまり、私たちが神の子であるのは、このいのちと光と信仰と受け入れることが神の子とされる特権だからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので人となられた神の御子を皆さんの前で高く掲げます。''ことばは神であられるまま人となられ、私たちの間に住まわれました''。主の栄光、恵みとまこととに満ちあふれた、神のみもとから来られたひとり子としての栄光を見てください。主を栄光そのものとして見て、そして生きてください。アーメン。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 12 Jul 2018 01:19:24 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%AE%E6%96%B9%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%9F%E3%80%81%E3%81%93%E3%81%AE%E6%96%B9%E3%81%AF%E6%81%B5%E3%81%BF%E3%81%A8%E3%81%BE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E6%BA%80%E3%81%A1%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F</comments>		</item>
		<item>
			<title>ダビデの子の罪深い生まれ</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%93%E3%83%87%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%81%AE%E7%BD%AA%E6%B7%B1%E3%81%84%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|The Sinful Origin of the Son of David}}   1サムエル12:1-25 これは、「''壮大な罪とキリストの栄光にあるその世界的規模の目的''」と呼ば...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Sinful Origin of the Son of David}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1サムエル12:1-25 これは、「''壮大な罪とキリストの栄光にあるその世界的規模の目的''」と呼ばれる7つに分かれたシリーズの、6番目のメッセージです。このメッセージを「ダビデの子の罪深い生まれ」と題します。ポイントは、イスラエルの王位、つまりイスラエルに王たちがいたという事実は、罪のためであったということです。神の民がその造り主であられ、贖い主であられる方に、「私たちは他のすべての国のようになりたい、あなたに私たちの王であって欲しくはありません。人間の王が欲しいのです」と言うこと自体、壮大な罪でした。本当に壮大な罪です。サムエルは17節で、大きな悪 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; と呼びます。とは言っても、もしイスラエルに王位がなかったなら、イエス･キリストはイスラエルの王として、またダビデの子として、そして王の王として来られることはありませんでした。しかしイスラエルと全世界の上にあるキリストの王位は、神の後からの思いつきではありません。それはイスラエルの罪に応答した、計画外の応答ではありませんでした。主のご計画の一部だったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜこのように成されたのか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから質問は、もし神がこの壮大な罪が来るのをすでにお見通しで、それが起こることをお許しになり、それゆえイスラエルの王位を、キリストを王の王としてその栄光をたたえるというご自身の計画の一部とされたのであるならば、なぜ最初から単純に、その王位をイスラエルを統治するものとされなかったのでしょうか?なぜモーセを最初の王とされなかったのでしょうか?その後、ヨシュア、そしてその他の人々とされなかったのでしょうか?なぜ最初から直接的王位を計画されず、壮大な罪を通してイスラエルの後々の歴史に、人間の王位を採り入れようと計画されたのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== アブラハムと来るべき王位 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ストーリーそのものから始めましょう。創世記12章で、神はアブラムをイスラエルの民の父としてお選びになり、彼の子孫を通して全世界のすべての民族が祝福されるとお約束になります(創世記12:1―3)。メシアであられるイエス･キリストは、この系列を通して来られます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アブラムに起こる最初の出来事の一つは、創世記14:18で、メルキゼデクという名の奇妙な人物に出会うことです。彼は「いと高き神の祭司」、また「シャレムの王」と呼ばれます。その名は「義の王」を意味します。新約聖書のへブル書の著者は、メルキゼデクをキリストの予型、あるいは予表と見ています。なぜなら詩篇110:4で、来るべき救世主的王は「メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司」だからです。ですからへブル書では、「このメルキゼデクは、･･･その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。･･･神の子に似たものとされ･･･」(ヘブル7：1―3)と言われています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ハンナと来るべき王位 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ神のみむねの中では、来るべきメシアは、祭司であり王であるのです。その方が王となるのは後々に決断されたのではありません。私たちはこれをサムエルの誕生と献児に再度見ます。サムエルの母ハンナが不妊だったことを覚えておられるでしょう。エリが彼女が子を産むと預言します。サムエルが生まれ、ハンナは彼を神殿に連れて来て、彼を主に献げます。ハンナが言う驚くような素晴らしい事がらの一部が、1サムエル2:10にあります。これはイスラエルに王がいなかった何十年も前の出来事であることを思い出してください(サムエルが年をとってから、人々は王が欲しいと彼に迫ったのです)。「主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。主は地の果て果までさばき、''ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます''」&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; とハンナは言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== モーセと来るべき王位 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さかのぼって申命記17:14―20では、モーセが、もし人々が王を持つことになったとして、王位についての命令を与えます。そして申命記28:36で、もし人々が主に反抗した場合の、彼らと王の捕囚を預言します。ですから1サムエル12章で起こったことは、神にとって驚きではなかった、と私は結論づけます。主はこの壮大な罪が起こることを知っておられ、主がそれが起こることをお許しになるということを知っておられました。そして神がある事が起こることをお許しになろうと意図されるとき、主はそれを愚かにではなく、賢く成されます。それゆえ、この壮大な罪は、ご自身の御子の栄光のための、神の最も重要なご計画なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== どのようにして王位がやって来たのか ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主がどうしてこのようにして成されるのかを深く考える前に、王位がどのようにして起こったのかを見てみましょう。王が欲しいという要求は1サムエル記の、さかのぼって8章から始まりましたが、私たちはそれを12章に拾います。8節です。主は「あなたがたの先祖をエジプトから連れ出し、この地に住まわせた。」9節、「ところが彼らは彼らの神、主を忘れたので、主は彼らをハツォルの将軍シセラの手、ペリシテ人の手、モアブの王の手に売り渡された。それで彼らが戦いをいどまれたのである。」10節、「彼ら[イスラエルの民]が、『私たちは主を捨て、バアルやアシュタロテなどに仕えて罪を犯しました。私たちを敵の手から救い出してください。私たちはあなたに仕えます』と言って主に叫び求めたとき、」11節、「主はエルバアルとベダンとエフタとサムエルを遣わし、あなたがたを周囲の敵の手から救い出してくださった。それであなたがたは安らかに暮らしてきた。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 人々は神の王位を拒否した ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの節のポイントは、神は彼らの王として誠実であられたことを示すことです。彼らが主に叫び求めたとき、主は彼らを救われました。主は彼らに安全をお与えになったのです。人々に平安を与えるために王は存在するのです。そして彼らの応答はどうだったでしょうか?12節、「あなたがたは、アモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王がわたしたちを治めなければならない』と私[サムエル]に言った。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サムエルの声に、信じられないという彼の声が聞こえて来ます。「あなたがたは神が王であるのに、王が欲しいと言っている!」サムエルは何をしなければならないでしょうか?主は1サムエル8:7―9ですでに彼にこう言っておられます、「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。･･･今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 壮大な罪ー「犯した悪の大きかったこと」 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからサムエルは1サムエル12:13前半で、「見なさい。あなたがたが選び、あなたがたが求めた王を。」と言います。そして彼らの犯した罪が大きな悪であることを示すため、雷と雨を下されるよう、彼は主に呼び求めます。17節、「今は小麦の刈り入れの時期ではないか。しかし、わたしが主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。それを見てあなたたちは、自分たちのために王を求めて主の御前に''犯した悪の大きかったこと''を知り、悟りなさい。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この聖くない悪を通した神の聖いみわざを私たちが見逃さないように、パウロは使徒13:20―22で、イスラエルに最初の王をお与えになったのは神であるということを、明確にします。「[神は]預言者サムエルの時代までは、さばき人たちをお遣わしになりました。それから彼らが王を欲しがったので、''神は''ベニヤミン族の人、キスの子''サウロを四十年間お与えになりました。''それから、彼を退けて、''ダビデを立てて王とされました。''」私たちはこれを歴史の壮大な罪の中で繰り返し見てきました。人が計った悪を、神は良いことの計らいとなさったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ここから私たちは何を学ぶべきか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから質問は、もし神がこの壮大な罪が起こるのをあらかじめ見ておられ、そしてそれをお許しになり、それゆえイスラエルの王位が王の王であられるキリストに栄光が返されることをご計画の一部とされたのであるなら、なぜ最初から王位をイスラエルの支配の一部とされなかったのでしょうか?なぜモーセを最初の王とされなかったのでしょう?ヨシュアやその他の者たちは?なぜ神はご自身が王であることから始められ、イスラエルの後々の歴史に壮大な罪を通して人間の王位を立てられたのでしょうか?私たちはこれから何を学ぶべきでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
少なくとも6つの学ぶべき事がらがあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 私たちは頑なで、反抗的で、感謝しない者たちである''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここから私たちは、自分がいかに頑なで、反抗的で、感謝しないものであるかを学ぶべきです。そのため1サムエル12章は、神がどのようにして民をエジプトから救い出され、約束の地をお与えになり、彼らを悪しき王たちから助け出されたのかを、人々の思い出させるような方法で始めます。そしてその都度、彼らは神を忘れ、他のものを慕うのです。これはイスラエルに限った話ではありません。人間の話しです。私の、そしてあなたの人生の話しです。クリスチャンでさえ、絶えず神を慕っているわけではありません。感謝にあふれる日もあれば、全く感謝しない日もあります。しかもその感謝にあふれる日でさえ、感謝にあふれるべきほど感謝にあふれていません。私たちの心が神ご自身と主の何万という賜物に、主がお受けになるのにふさわしい称賛と感謝の思いで呼応しているなら、私たちがどれだけ喜びと感謝に満ち溢れていることか、考えて見てください。ですから神はこのような話の中に、自分自身の像を私たちにお見せになります。主はご自身の民がこのような感謝のない、偶像礼拝的な季節に陥るのをお許しになります。そうすればすべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するからです(ローマ3:19)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 神はご自身のみ名に誠実であられる''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはここから、神がいかにご自身のみ名に対し誠実であられるかを学ぶべきです。22節を見てください。「主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。」神の誠実さの最も深い礎とは何でしょうか?それはご自身のみ名に対する忠誠心です。ご自身の栄光に対するねたみと熱心です。同じ節をゆっくり、じっくりと考えながら読んでください。「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。」「彼らの偉大な名のために」とは言わず、主の偉大なみ名のために、と言っています。神はご自身のみ名の価値、真実さと義を維持することに、全力で取り組まれます。それゆえこのような話は、神の成されることはすべて、神のみ名の無限の価値に導かれた、無限の知恵によって支配されていることを私たちに教えるため、聖書にあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) 罪人に対する恵みは、ご自身のみ名に対する神の究極の忠誠から溢れ出る''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはここから、罪の真中にあって、ご自身のみ名に対する神の究極の忠誠から溢れ出る私たちのような罪人に対する恵みが、いかに驚くべきものであるかを学ぶべきです。これについて、19―22節にの驚くような例を見てください。19節で、人々は自分たちが神に対して犯した壮大な罪に、恐れおののきます。「あなたのしもべのために、あなたの神、主に祈り、私たちが死なないようにしてください。私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです」と彼らは言います。この後に続く言葉は、罪人に対する福音の無償の恵みの絵です。サムエルは人々に、「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った」と言います(20節)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで読むのをちょっとやめて、驚嘆してください。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。」これは印刷の間違いではないでしょうか?「恐れなさい。あなたがたはこのすべての悪を行った。」と言うべきではないでしょうか?しかし、「恐れてはならない。あなたがたはこのすべての悪を行った」と言っています。これは純粋な福音です。神の恵みは、私たちが受けるにふさわしくないような方法で私たちを取り扱います。「恐れなさい。あなたがたはこのすべての悪を行った」というのが私たちの受けるべき形です。しかし福音は私たちが受けるに値する以上の方法で私たちを取り扱います。「恐れてはならない。あなたがたはこのすべての悪を行った。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どうしてこんなことがありえましょう?この恵みの基盤は一体何でしょうか?私たちではありません!私たちは罪しか犯して来ていません。では一体何でしょう?それはすでに見ています。22節、恐れてはならない、「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。」ご自身のみ名に対する神の忠誠が、あなたに対する主の誠実さの基盤です。もし神がご自身に対する究極の忠誠を捨てられることがあったとしたら、私たちのための恵みはありません。もし主がご自身の私たちに対する慈愛の基盤を私たちの価値に据えられたなら、私たちに対する慈愛はありません。私たちは頑なで、反抗的で、感謝しない者たちだからです。無償の、値しない恵みが、私たちの唯一の希望です。そしてその恵みの基盤は私たちの名の価値にあるのではなく、神のみ名の無限の価値にあります。2テモテ2:13を思い出してください。「私たちは真実でなくても、彼は[主は]常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」神はこの壮大な罪から私たちが、私たちの救いの恵みは、主にとっての私たちの価値にではなく、ご自身のみ価値に最終的基盤があるということを学ぶよう、意図されています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4) 王位は神だけのもの''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イスラエルに王位をもたらされた神の方法から私たちが学ぶべきことは、王位は主だけのものであると言うことです。神は、神だけがイスラエルの王であるべきお方であることをはっきりさせるために、ご自身のイスラエルとの関係を、人間の王無しに開始されました。神だけが王であられます。イスラエルが王が欲しいとねだったとき、彼らはこの真理を拒否していたのです。神は1サムエル8:7で、「彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから」と、それをはっきりと言っておられます。もし神がイスラエルの歴史を、モーセとヨシュアを初代の王にして始められたのであったなら、神だけがイスラエルの王となることができるということが明確でなかったはずです。主には人間のライバルがいません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5) 神であられ人であられる方が王であるべき''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、人間の王を任命される神の方法から、神だけがイスラエルの王となることができるので、人であられるだけでなく神でもあられる王が来るまで、すべて失敗だらけの人間の王家を任命することが、主の目的であることを、私たちは学ぶべきです。イスラエルに人間の王をお与えになることで、神は神だけがイスラエルの正当な王であられるという考えを、変えられたわけではありません。ポイントは、神お一人だけがイスラエルの王であられ、他の者たちのように失敗しない、ダビデの子である王が来る、と言うことです。そのお方は他の罪深い人のようではありません。神であられ、人であられるお方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリサイ人たちを黙らせてしまうイエス様の口から出た最後の質問は、詩篇110:1でダビデが言う、「主[ヤーウェの神]は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』」の箇所をもとにしています。イエス様はこれを引用され、主の敵に、「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう」と質問なさいます。言い換えると、聞く耳のあるものにとって、イエス様はダビデの子以上のお方です。主はただの人間の王以上のお方です。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。･･･ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」(ヨハネ1:1、14)神だけがイスラエルの最終的に正当な王になることができるお方です。そのようにしてそれは始まりました。そのようにしてそれは終わるのです。イエス･キリストこそ、神であられ人であられるイスラエルの王です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''6) ご自分の民のために死なれた王''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、人間の王をイスラエルに立てられた神の方法から私たちが学ぶべきことは、人間の王が必要であった、と言うことです。神だけがイスラエルの正当な王になることがおできになる方です。しかし人間の王が必要でした。なぜでしょうか?それは神が支配し、愛するための人々を持つためには、その人々が自分の罪のために地獄にいるのではなく、人々のために王が死ななければなりませんでした。神は死ぬことができません。人は死ぬことができます。それゆえ神は神だけがイスラエルの正当な王になるということだけでなく、そのイスラエルの正当な王が人々の代わりに死ななければならない、ということをご計画になったのです。ですからイスラエルの王は神であられ人であられるお方です。そうすれば王が''神のままである''ことができ、それと同時に死ぬことができる、神であり''人である''王でいることがおできになるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サムエルが「恐れてはならない、反抗的で、かたくなで、感謝しない罪人らよ。あなたがたは、このすべての悪を行った」(1サムエル12:20)と言うとき、この恵みの基盤は一体何でしょうか?それは神のみ名の価値です。「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去られない。」(22節)神のみ名の維持と証明が、この恵みの基盤です。そしてその証明が最も顕著にまた最終的に示されているのはどこでしょうか?答えは、キリストの十字架です。ローマ3:25、「神は、キリスト･イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 十字架において、ご自分のみ名のために ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本当に主は見のがして来られたのです。まさにその日、王を求めたため滅ぼされるべきだった人々を、神はご自身のみ名のために、彼らをお赦しになり、その罪を見のがされたのです。しかし臭いものに蓋をしてもなお、義でありまた聖い神としてのみ名を維持することはできません。罪は取り扱わなければなりません。処罰されなければならないのです。そしてイエス様が死なれたとき、それは処罰されました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちのような罪深い者が、イエス様のような偉大で、力強く、良い、聖い、そして知恵ある王を、罪のゆえに破壊されずに持つことができる唯一の理由は、その王がご自分の臣民のために死んでよみがえられるよう、神がご計画になったからです。福音書のすべてで、イエス様が死なれる間際に「あなたはユダヤ人の王ですか」と尋ねられています。そして主は、「そのとおりです」(マタイ27：11、マルコ15：2、ルカ23:3、ヨハネ18:33)とお答えになります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== すべての者の来るべき王 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして主はユダヤ人の王であられるだけでなく、すべての者、特に主を信じる者たちの王であられます。その敵を足元に置かれるまで、また地上の諸国民の中から選ばれた者たちが集められるまで、主は今日み父の右の座に着いておられます。それから終わりがやって来るのです。そしてキリストは「二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(ヘブル9:28)。「その着物にも、ももにも、」ユダヤ人の王ではなく、「『王の王、主の主』という名が書かれていた」(黙示19:16)。アーメン。来りませ、王なるイエス様よ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新共同訳聖書、1987年版引用。新改訳では、「(主のみこころを)大いにそこなったこと」と訳されており、新共同訳(あるいは口語訳)聖書の方がESV訳に近い。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 03 Jul 2018 14:24:48 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%83%80%E3%83%93%E3%83%87%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%81%AE%E7%BD%AA%E6%B7%B1%E3%81%84%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C</comments>		</item>
		<item>
			<title>なぜ解説的説教はとりわけ神に栄光をお返しするのか</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E7%9A%84%E8%AA%AC%E6%95%99%E3%81%AF%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%82%8F%E3%81%91%E7%A5%9E%E3%81%AB%E6%A0%84%E5%85%89%E3%82%92%E3%81%8A%E8%BF%94%E3%81%97%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「なぜ解説的説教はとりわけ神に栄光をお返しするのか」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Why Expositional Preaching Is Particularly Glorifying to God}} &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このメッセージは4つに分かれています。まず最初に、私たちのこの現代に神が起こされるのを見たいと私が切に願うような、神の栄光の重みに形作られた説教について、じっくり考えます。次に、説教にこのように影響を与える神の栄光が一体何かを描きます。三つ目に、人々がどのようにしてこの栄光に目覚め、変えられて行くのかという、私の聖書的理解を提供します。そして最後に、これらのすべてが、どのように、私が''解説的歓喜''と呼ぶような説教を必要とするのかを説明します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の栄光の重みによって生まれるような説教に関する考察  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジョージ･ウィットフィールドは説教の力を信じ、そのために人生を捧げた人です。神はこの説教で、大西洋の両大陸で偉大な救いのみわざを成されました。彼のことを語る伝記作家、アーノルド･デリモアは、ウィットフィールドの説教が18世紀にイギリスとアメリカで与えた驚くべき影響を、年代順に記録しています。それは渇いた地に注ぐ雨のようにやって来て、砂漠に義の花を次々と咲かせました。デリモアはウィットフィールドの時代に枯れた地が変わって行ったところから目を上げて、神がもう一度それを成して下さるよう、切に願いました。ウィットフィールドのような説教者たちの新しい世代を叫び求めました。彼の言葉のうちに、私がこのアメリカと世界中で来るべき説教者たちの世代に私が切に願うものを、見出すことができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「そう、教会の偉大なかしらをもう一度見たい･･･このような栄光ある雇用のうちに、ご自身のために用いることのできる特定の若者たちを起こされるのを。それはどのような者たちであろうか?みことばに堅く立ち、神の偉大さ、威光と、聖さの認識で人生が支配され、素晴らしい恵みの教理で思いも心も輝いている者たちである。それは自分と、人の目標と、個人的野心に死ぬというのがどういうことなのかを学んだ者で、『キリストのために愚かに』なることを喜び、はずかしめとあざけりを身に受け、それでいながら主の偉大なさばきのみ座に進み出るとき、主人の称賛を受ける者たちである。砕けた心と涙であふれた目で説教し、神がその働きに聖霊のたぐいまれなほとばしりをお与えくださり、数多くの人の人生がしるしと不思議によって変えられるのを目撃する者である。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
みことばに堅く立ち、素晴らしい「恵みの教理」の真理で輝き、自己に死んでおり、労することと苦しむことをいとわず、人の称賛に無関心で、罪のゆえに砕かれており、''神の偉大さ、威光、そして聖さの認識に支配されている''。デリモアはウィットフィールドのように、説教とは神のみことばをそのような心から告げることであると信じていました。説教は議論ではありません。説教とは宗教的事がらを気さくに話すことではありません。説教はただ単に教えることではありません。説教とは、神の偉大さと威光と聖さの認識が浸透したメッセージを告げ知らせることです。取り上げる主題は日の下にある何ものでも構いません。しかしそれは神のみことばのうちにある、主の偉大さと威光の燃える光の下に、常に持って来なければなりません。そのようにしてウィットフィールドは説教しました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
20世紀でマーティン･ロイド･ジョーンズ以上にその見解を具体化した人はいません。彼はロンドンのウェストミンスター･チャペルで30年間奉仕をしました。J. I. パッカーが22歳の学生だった頃、彼は1948―1949年度まで、ロンドンでロイド･ジョーンズが説教するのを毎週日曜日聞きました。彼は「そんな説教を聞いたことが一度もなかった」と言います。(多くの人は本物の説教を聞いたことがないので、説教について最小限に評価したり愚かなことを言ったりするのです。彼らには本物の説教の有用性を評価する基盤がありません。)パッカーは自分が知らなかった、「何人にもない神の認識を、電気ショックを受ける力で」受けた、と言います。&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; それがウィットフィールドが意味していたものです。ああ、神の認識で衝撃を受ける霊的感覚、実在の神の無限の重みの認識を、聴く者にもたらす若い説教者を、神が起こして下さったなら! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが私がこの時代、そして皆さんに切に願うものです。すべての国民とすべての軍隊とすべての偽の宗教とすべてのテロリストとすべての津波とすべてのがん細胞と、そして宇宙のすべての銀河系に絶対的権威を持っておられる、十字架に掛けられよみがえられたキリストの福音にあらわされた、神の偉大さと威光と聖さの認識で支配された、心砕かれた、聖書で頭がいっぱいの説教者を、神が何千と起こして下さいますように。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神はご自身の栄光を軽くあしらうことが大したことではないということを伝えるために、キリストの十字架や火の池 &amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; をお定めになったのではありません。神の御子の死と、悔い改めない人間が永遠の地獄へ送られるのは、神が無限に聖いお方で、罪が無限に侮辱であり、み怒りは無限に正しく、恵みが無限に尊いと叫ぶ、天の下の最も大きな叫びであり、私たちの短い人生、そしてあなたの教会とあなたのコミュニティーのすべての人の人生が永遠の喜びか永遠の苦しみのどちらかに至るのです。もし私たちの説教がこれらの事がらの重みを人々に伝えなかったら、何が人々にそれを伝えるでしょうか?ベジー･テールですか?ラジオですか?テレビですか?討論会ですか?突発的な会話ですか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神はご自身の御子が十字架に掛けられること(黙示録13:8、2テモテ1:9)と、地獄が恐ろしい所であるよう(マタイ25:41)、ご計画になりました。そうすれば説教するとき何がかかっているのか、できる限り明確な証言を、私たちが理解することができるからです。説教を真剣にさせるのは、イエス様の血潮にどっぷり浸かり、地獄の火によって署名されている説教者のマントです。それがただのおしゃべりを説教者に変えるマントです。しかしながら不幸にも、今日の福音派の最も有名な声の中には、十字架の恐ろしさや地獄の恐ろしさ、すなわち一方で私たちの受けるべき罰を背負うためにその力のすべてをはぎ取られたお方と、他方で非人間化され、この世の社会的苦痛へ送られる神話的な要素を取り除かれた者を、最小限に抑えるものもあります。&amp;lt;sup&amp;gt;4&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ああ、若い世代がこの世は神についての真剣な認識で圧倒されていないと言うことを見たなら。教会で神の栄光の認識が過剰になると言うことは決してありません。教会で天の国と地獄と罪と救いについて過度に熱心になると言うことは決してありません。そしてそれゆえに、多くのクリスチャンの喜びというのは、一枚の紙切れのように薄っぺらいのです。巨大な世界的宗教の広報担当者が西側の主要な出版会社に手紙を書き、「私たちが皆さんをお招きする第一のものは、イスラム教です。イスラム教は良いものを楽しみ、悪を手と舌と心で制する宗教です。アラーの言葉と宗教が最高のものとして君臨するため、アラーの道で聖戦をする宗教です」 &amp;lt;sup&amp;gt;5&amp;lt;/sup&amp;gt; と言う傍らで、何百万もの人々が107インチのスクリーンでDVDや、携帯ゲームや、ドタバタ喜劇のような礼拝を死ぬほど楽しんでいるのです。そしてこの広報担当者らはファラファル店の前で子どもたちを巻き添えに自爆する自爆テロ犯を公に祝福し、それがパラダイスへの道だと言うのです。これが私たちが説教する世界です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでいて理解できないのは、このキリストをないがしろにする、魂を破壊する時代に、書籍やセミナーや神学校や教会成長専門家たちは、若い牧師たちに、「軽くしろ」「面白くしろ」「何か人を楽しませることをしろ」と言うことしか頭にないのです。これに対し私は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです」(マタイ16:24―25）&amp;lt;sup&amp;gt;6&amp;lt;/sup&amp;gt; と言われるイエス様の霊はどこにあるのか?と尋ねます。「もし右の目が、あなたをつまづかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです」(マタイ5:29)。「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産を全部捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」(ルカ14:33)。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まないものは、わたしの弟子になることができません」(ルカ14:26)。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」(マタイ8:22)。「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」(マルコ10:44)。「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。「中には殺される者もあり･･･ます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません」(ルカ21:16―19)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様に対する教会成長の助言は、「イエス様よ、軽く行こうじゃないか。何か面白いことをしろよ」でしょうか?そして若い牧師たちには、「若い牧師さんよ、やることは何であれ、福音にあるイエスのようになっちゃいかんよ。軽く行かなきゃいけない」でしょうか?永遠を近くに感じる昨今、私の見解から言って、牧師たちに対するそのようなメッセージは益々気が狂っているようにしか思えません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の栄光の肖像  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたが信じる説教の必要性と説教の性質は、神の偉大さと栄光に対するあなたの意識と、人々がその栄光に目覚め、その栄光に生きるようになると言うことをあなたがどのように信じているかに左右されます。ですから次の部では神の栄光の肖像と、三部目には人々がどのようにその栄光に目覚め、それによって変えられていくかについて触れて行きます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書の初めから終わりまで、神の思いとみこころにあるのは、他でもない、神の栄光、すなわち、神の美、主の多方面の完璧さの輝きです。神のあらわされたみわざの要所要所、主がそのみわざにあるご自身の最終的目標をはっきりとされるところでは、その目標は常に同じです。それはご自身の栄光を掲げ、また示すことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の栄光のために私たちを世界の基の置かれる前からお選びになった(エペソ1:6)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の栄光のために私たちを造られた(イザヤ43:7)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の栄光のためにイスラエルをご自身に結びつけられた(エレミヤ13:11)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の栄光のためにご自身の民をエジプトからお救いになった(詩篇106:8)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の栄光のために彼らを捕囚から救い出された(イザヤ48:9-11)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主は異邦人がその栄光のゆえに主を賛美するよう、キリストをこの世にお遣わしになった(ローマ15:9)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の民に、食べるのにも飲むのにも、何をするにも、主の栄光をあらわすためにしなさいとご命令になる(1コリント10:31)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主は贖われたすべての者がその栄光に驚嘆するよう、イエス様を再びお遣わしになる(2テサロニケ1:9-10)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ教会の使命は、「主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で」(詩篇96:3)です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはこれらと何百と言う聖書の他の箇所によって、神に対する最終的忠誠心へと連れ戻されます。神のご自身の栄光に対する情熱に言葉にほとんどならないほどに、ほとんどですが、感銘を受けること以外に、説教に深く影響を与えるものはありません。聖書全体の啓示から明確なのは、神ご自身の最終的忠誠というのは、ご自身を完璧に知ることと、ご自身を無限に愛すること、そしてこの体験を、可能な限りご自身の民と分かち合うことです。神のみわざの一つ一つに、「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしは、わたしの栄光を他の者には与えない」(イザヤ48:11、42:8も参照)と言う旗がひるがえります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永遠から、永遠に存在される、何か他のものになることは決してあられない、常に完全であられる神は、ご自身をご存知であられ、知っておられることを愛して来られました。永遠からご自身の美を見続けて来られ、その見ているものを味わって来られました。ご自身の現実についての主のご理解には欠点がなく、それを楽しまれる主の豊かさは無限です。不完全さがまったくないので、主には必要がまったくおありになりません。悪さをするよう誘惑する欠陥がまったくないので、主には悪に対する傾向性がまったくおありになりません。それゆえ主は考えうるすべての実在するものの中で、最も聖く、最も幸せなお方です。三位一体の個々の交わりのうちにある、無限の美しさに無限に喜ぶその無限の幸せの力以上に素晴らしい幸せを、私たちは思いつくことができません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この体験、すなわち主の栄光を知り、楽しむという体験を分かち合うことが、神がこの世を造られた理由です。主は、主を知るように、主が知っておられるご自身を知るように、また主そのものを楽しむように、私たちを導かれます。事実、主の目的は、ご自身について知っておられる知識と、ご自身のうちにある喜びが、私たちの知識と楽しみとなることです。そうすれば私たちが主ご自身の知識で主を知り、主ご自身の喜びで主を喜ぶからです。これがヨハネ17:26でイエス様が、「わたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです」とみ父に願われる祈りの、その根本的意味です。み父の「栄光の輝き」(ヘブル1:3)、それにはイエス･キリストという名がありますが、そのうちにある知識と喜びが、イエス様が私たちのうちにおられるゆえ、私たちのうちにあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし「神の(主を知り主を楽しむという)この体験を分かち合おうというその目的と、''神の愛''とは、どのように関連しているのか」と聞かれたら、「その体験を分かち合おうとする神の''目的そのもの''が、神の愛です」と言うのがその答えです。神の愛とは、ご自身の栄光の知識と楽しみを私たちと分かち合うその献身です。ヨハネが「神は愛である」と言うとき(1ヨハネ4:8、16)、それはご自身の栄光のうちにある楽しみを分かち合うことこそが、たとえそれがご自身の御子のいのちを犠牲にすることであるとしても、神のご性質である、と言っているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは神のご自身の栄光をあらわすその目的と、その栄光を喜ぶ私たちの喜びが、見事に調和していることを意味します。自分が楽しまないことをたたえることはありません。神は私たちがただ単に主を知ることでは、十分に栄光をお受けになりません。神は私たちが主を知ることと、私たちの人生が主の価値をあらわすようになるほど深く主を喜ぶことで、栄光をお受けになるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様は私たちに神の知る知識と神を喜ぶその喜びを私たちに与えるためのご自身の役割を強調して、二つのことを言われます。主は「子が父を知らせようと心に定めた人のほかには、だれも父を''知る者がありません''」(マタイ11:27)と言われます。また、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、''わたしの喜び''があなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(ヨハネ15:11)とも言われます。言い換えると、私たちは''御子を知る知識で''み父を知り、''御子を喜ぶその喜びで''み父を喜ぶのです。イエス様は私たちを、み父を知るご自身の知識と、み父を喜ぶご自身の喜びを分かち合う者にしてくださったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世がこれを見るようになるのは、第一に、日曜の朝の共同礼拝における私たちの熱心な態度によってではありません。それらは尊いひと時ではありますが、そうではなく、私たちのうちに生まれる変化によってこの世はそれを見るようになるのです。イエス様は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)と言われます。私たちの良い行いを通して輝き、人々に神を見させるその光が、主のすべてを満たす栄光の価値なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは次のように作用します。神の栄光が私たちの人生の宝であるとき、私たちは地上に宝を積まず、主の栄光を広めるために持っているものを費やします。人のものをむやみに欲しがるのではなく、あふれるばかりに気前よくなります。人の称賛を求めるのではなく、神を賛美するうちに自分を忘れてしまいます。罪深い、みだらな楽しみに心をとらわれずに、優れた約束の力によってそれらの根を断ち切るようになります。傷ついた自分のエゴを心のうちで養ったり、恨みを温めたり、復讐心を育んだりせず、神に原因をゆだね、自分を妬むものを祝福するようになります。''すべての罪は、神の栄光をすべてのものにまさって宝としないことから溢れ出ます''。それゆえ神の栄光の真理と価値をあらわすのに最も重要な、目に見える方法は、すべてを満たす神の栄光の湧き水からのみ溢れ出る、へりくだった、献身的に仕える人生という方法です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== この神の栄光にどのように人々は目覚め、変えられていくのか  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今度は人々が神の栄光にどのように目覚め、それによって変えられて行くのかという質問に移ります。それに対し欠くことのできない答えを使徒パウロが、2コリント3:18―4:6で答えます。彼は、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」と言います。主の栄光を見つめつつ、私たちは栄光から栄光へと変えられていきます。これがご自身の御子の似姿へと人々を変えられる神の方法です。そうすれば人々が主の栄光を反映するからです。神に栄光をお返しできるよう変えられるために、私たちは主の栄光をしげしげと見つめるのです。&amp;lt;sup&amp;gt;7&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはどのようにして起こるのでしょうか?(ここで私たちは説教の適用に限りなく近づいています。) パウロは2コリント4:3―4で、私たちがどのように主の栄光を見つめるのか、説明します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです[これが2コリント3:18の成就]。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは福音のうちに、主の栄光を最もはっきりと、また最も重要なものとして見つめます。それは「キリストの栄光にかかわる福音」とパウロが呼ぶほどです。これには説教のとても重要な適用がありますが、それは、主が雲に乗って戻って来られるときに見る主の栄光を、この時代に直接見ることができないとき、''主のみことば''という方法によって私たちがそれを最もはっきりと見るのです。福音はことばのメッセージです。逆説的になりますが、ことばは''聞くもの''であり、栄光は''見るもの''です。それゆえパウロは、私たちはキリストの栄光を主に目で見るのではなく、''耳で''見ると言うのです。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)、なぜならキリストの栄光を見ることは聞くことから来、聞くことはキリストの福音から来るからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
預言者サムエルの人生でこれがどのように表現されているかを考えて見てください。サムエルの時代には、丁度今日神の栄光を見て味わうことがまったくない飢饉があるように、主の幻がほとんど示されませんでした(1サムエル3:1)。しかしながら神は新しい預言者を起こされました。神はどのようにサムエルにご自身をあらわされたでしょうか?あなたやあなたの民にご自身をあらわさるのと同じ方法です。第一サムエル3:21、「主は再びシロで現れた。''主のことばによって''、主が''ご自身''をシロでサムエルに現されたからである。」主はご自身を''ご自身のことばによって''現されました。このようにして私たちの民も主の栄光を見つめ、そして主の栄光を知らせるような人々に変えられて行くのです。またパウロは神の栄光を最も明確に、中心的に現すことばは、福音であると私たちに教えます(2コリント4:4)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 解説的歓喜への間接的招き  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは''解説的歓喜''としての説教という結びのポイントへと最終的に私たちを導いてくれます。もし私たちが神の栄光をこの世であらわすことが主の目的であるのなら、もしその栄光を知ることと楽しむことによって変えられつつあるので、私たちはその栄光をあらわすのであるのなら、もし主の栄光を見つめることによってそれを私たちが知り、楽しむのであるのなら、もしその栄光をキリストの栄光の福音のうちに私たちが最もはっきりと、また中心的に見るのであるのなら、そしてもし福音はことばでこの世にもたらされるメッセージであるのなら、それに追付いするのは、説教者たちがそれらのみことばを明らかにし、それを喜ぶことを神は意図しておられると言うことです。私はそれを''解説的歓喜''と呼びます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一つ一つのことばが重要です。福音には解説され(開かれ、明らかにされ、解明され、はっきりされ、説明され、あらわされ)なければならないと叫び求める多くの事がらがあるので、それは解説的です。福音のメッセージの5つの基本的側面に注目するときに、私たちはこれを見ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*福音は''歴史的出来事''、すなわちキリストのご生涯と死とよみがえりについてのメッセージです。私たちはみことばの詳細な解説でそれを解くよう、要求されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*福音は、私たちがいかなることをも体験する前に、あるいは私たちが存在さえする前に、それらの出来事が''何を達成したか''に関するメッセージです。[主の]完全な従順の達成、私たちの罪の代価の支払い、神のみ怒りの取り除き、この全世界の、十字架に掛けられよみがえられたメシアであり王であられるイエス様の就任、[この世の]支配や権力の剥奪、死の破壊ーこれらのすべてが、みことばを詳細な解説で解くよう、私たちに要求します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*福音は達成されたこれらすべてのものが、キリストから特定の人々に、行ないによらず信仰によってのみキリストと一つとされることで''転嫁される''と言うことに関するメッセージです。それらをいくつものみことばで解説することで、信仰の性質と原動力を人々に解くことを私たちは要求されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*福音は、十字架で達成されたものがキリストにあって私たちに適用されるに当たり、''今や本物となった私たちの、良い事がら''に関するメッセージです。神が私たちに対し怒りに満ちておられる代わりに、今やただ憐れみ深くあられるということ(なだめの供え物)、私たちは今やキリストにあって義と認められると言うこと(義認)、私たちは罪の定めと罪の力から今や解放されているということ(贖い)、私たちは位置的にまた徐々に聖くされて行くということ(聖化)ーこれらのすべてが、みことばの詳細な解説で、これらの栄光ある現実を週ごとに人々に解くよう、私たちに要求します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*そして最後に、福音は私たちの最終的、永遠の、すべてを満たす宝としての栄光ある''神ご自身について''のメッセージです。「･･･私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス･キリストによって、私たちは''神を''大いに喜んでいるのです」(ローマ5:11)。私たちの宣べ伝える福音は、「''神のかたちであるキリストの栄光にかかわる''福音」(2コリント4:4)です。もし私たちの福音がこの目標、すなわち、赦しと地獄からの救いと永遠のいのちという主の賜物だけでなく、神そのものを楽しむことに到達しないのであるなら、私たちは「キリストの御顔にある神の栄光の福音」(2コリント4:6)を宣べ伝えていません。私たちの最終的目標は、神を知ることと楽しむことです。2コリント4章の最初で見たように、神がご自身を知る知識とご自身を楽しむ楽しみを私たちと分かち合うために、私たちは造られました。これが主が私たちを愛されるという意味です。これが十字架が私たちのために最終的に獲得したものです。そして、主の栄光のうちにある希望に目覚めさせるため、神によって霊感を受けて書かれた聖書 &amp;lt;sup&amp;gt;8&amp;lt;/sup&amp;gt; のすべての箇所が、人々が最大のまた最高の御国の食物で養われるような、最も豊かな解説を求めるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
みことばの解説は、福音がことばとなって私たちのところにやって来られたそのメッセージであるため、またキリストの栄光、すなわち「キリストの測りがたい富」(エペソ3:8)を、その福音のことばのうちに人々が見るよう神が定められたので、絶対不可欠です。聖書のことばと文章と段落を解き、「神のかたちであるキリストの栄光」をあらわす、というのが私たちの使命です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが最後に、''解説的歓喜''というフレーズの二つ目の言葉へと私たちを導いてくれます。もし私たちがそのような福音の解説を、喜ぶことなしに、つまり、明らかにしようとする真理を自分で喜ぶことなしに解説するのなら、私たちは呪われるべきです。パウロが2コリント4:5で、「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト･イエスを宣べ伝えます」と言うとき、彼が「宣べ伝える」と言う言葉に用いるのは、''kerussomen''、つまり、キリストを主として告げる、キリストを主として知らせる、という意味の言葉です。''kerux''—告げ知らせる者、「宣伝者」(1テモテ2:7、2テモテ1:11)は、もし人々が理解できなかったら、自分の言っていることを説明しなければなりません(そのようにして教えることが関わってくるのです)。しかしこの告知者を哲学者や書士や教師と分け隔てるのは、その人が知らせ、つまり私たちの場合、それは無限に良い知らせですが、その知らせを告知する者だと言うことです。それは無限に価値のある知らせです。この世で最も素晴らしい知らせです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この地上のいかなる宝にまさって栄光あり、欲されるべき全世界の創造者は、主に降参し、主の血で買い取られた恩赦を受け、ご自身の御子を救い主、主、宝として自分の人生に受け入れるこの世のどのような者にでも知られ、楽しまれるために、イエス･キリストのうちにご自身をあらわされました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ああ兄弟たちよ、自分の鈍い態度で福音の価値を偽らないでください。最も栄光ある現実の解説は、栄光ある現実です。もしそれが解説的''歓喜''、すなわち心から来る本物でないのなら、福音の価値について何かしらの偽りが語られているのです。福音はすべてを満たすキリストの栄光ではないと、自分の顔や自分の声や自分の人生で語らないでください。福音はすべてを満たすキリストの栄光です。神が皆さんのうちから、その解説が神の真理を価値あるものとする、その喜びが神の栄光を価値あるものとする説教者の世代を起こされますように。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; アーノルド･デリモア著、『ジョージ･ウィットフィールド』第一巻、1970年出版、真理の旗トラスト、ロンドン、16ページ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; クリストファー･キャサーウッド著、『5人の福音派の指導者たち』、ハロルド･ショー出版社、1985年出版、ウィートン、170ページ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; ルカ22：22でイエス様は、十字架は「[神によって]定められた[''horismenon'']」ものと言われ、マタイ25:41では、地獄の火は神によって備えられたものと言われます。「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;4&amp;lt;/sup&amp;gt; アメリカの現場から、福音の中心であり、聖書に明らかに基づいている(イザヤ53:4―6、8―10、ガラテヤ3:13、ローマ8:3)、教会が信じてきたものを前にしての、ジョエル･グリーンの息を飲むようなコメントを考えて見てください。「贖いというものの意味が何であれ、それが神の怒りを鎮めることや神の憐れみの注意をひこうとすることに焦点を置くものであると想像するのは、とんでもない間違いである。･･･聖書全体は贖いの供え物でなだめられる必要のある怒り狂った神の肖像を一切与えない。･･･パウロのイエスの死の理解について言えるものが何であろうが、彼の十字架の神学は神の報いの発展した認識に欠ける。」ジョエル･グリーン著、『十字架のスキャンダルを回復する:新約聖書における贖いと現代における文脈』(2000年出版、インター･バーシティー出版社、ドーナーズグローブ)、51、56ページ。イギリスの現場から、スティーブ･チョークはキリストが私たちの身代わりに神の怒りを背負われたという教えを、「世界的規模の幼児虐待」と呼びます。「事実は、十字架が世界的規模の幼児虐待、すなわち、復讐心に燃えたみ父が、犯したこともない罪のためにご自分の御子を罰せられるのは、世界的規模の幼児虐待である。当然のことながら、ともに教会の中と外にいる人々がこれをねじ曲げられた出来事の見解で、倫理的にうさんくさい、信仰を大きく妨げるものであると気づいている。しかしながらそれより深刻なのは、そのような考えは、「神は愛である」ということばと真っ向から反対する。もし十字架が主の御子によって背負われたものでなく、神が人間に対し実行された個人的暴力的行為であるならば、自分の敵を愛せよ、また悪に悪で報いてはならないというイエス自身の教えをあざ笑うことになる。」『イエスの失われたメッセージ』(2004年出版、ゾンダーバン出版会社、グランド･ラピッズ)、182―183ページ。N. T. ライトは、新約聖書の地獄の言及の「ほとんど」(それは「すべて」と言う意味でしょうか?)は、永遠に意識がある中での苦しみを受ける場所ではなく、私たちは「今日」地獄の教理を「再構築」あるいは「言い直し」する必要があると言います。1) 「自由の賜物」という人間が使用する言葉の観点から、「それらを完全に非人間化する」ことに、そして2) 社会的不公正と不幸の観点から、「この地上での人間の社会的そして共同体生活に関して、同じように適切でそれでいてもっと必要な地獄の聖書的教理がある」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;5&amp;lt;/sup&amp;gt; ディヴィッド･ブランケンホーン編集、『最初の事がら』より、「イスラム教と西欧の論争ーテロリズム、アメリカの政策と中近東に関する世界的論争からの記録」から引用。2006年3月発行、161号、71ページ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;6&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;7&amp;lt;/sup&amp;gt; 「そんなのできっこない」と言って、他のテクニックに移り、人を変える神の方法から離れないように気をつけてください。神のみことばのうちにある主の栄光を見つめるこの過程とは違うやり方や手段で、人を変えることができるかも知れませんが、それはキリストの栄光を拡大する変化でしょうか?すべての変化がキリストをたたえるわけではありません。パウロは2コリント4:3の最初で、「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです」と警鐘を鳴らします。言い換えると彼は自分の福音が全ての人を変えるわけではないと認めているのです。「滅びる人々」は神の栄光を福音のうちに見ることはありません。このため、パウロは自分の戦略を変えないのです。私たちも変えるべきではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;8&amp;lt;/sup&amp;gt; 2テモテ3:16-17、ローマ15:4 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Mon, 02 Jul 2018 19:03:20 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E7%9A%84%E8%AA%AC%E6%95%99%E3%81%AF%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%82%8F%E3%81%91%E7%A5%9E%E3%81%AB%E6%A0%84%E5%85%89%E3%82%92%E3%81%8A%E8%BF%94%E3%81%97%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>私たちはどのように私たちの隣人であるイスラム教徒を愛せばいいのか?</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E9%9A%A3%E4%BA%BA%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99%E5%BE%92%E3%82%92%E6%84%9B%E3%81%9B%E3%81%B0%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「私たちはどのように私たちの隣人であるイスラム教徒を愛せばいいのか?」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|How Shall We Love Our Muslim Neighbor?}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
不正を行うのではなく正しいことを行う方法が山ほどあるように、この質問には、答えが沢山あります。「愛は隣人に対して害を与えません」(ローマ13:10)。「[愛は]すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(1コリント13：7)。これらは今日、私たちの時代に強調される必要のあるものではないかと、私は思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[''更新'': 自分の敵を愛する、と触れているのは、すべてのイスラム教徒がクリスチャンに対し敵意を感じ敵意を持って行動している、ということを意味しているのではありません。イスラム教徒はそうではありません。ほとんどの場合、もてなすのが上手で、親切で、世話好きな人たちです。ここでのポイントはたとえ誰か(どんな宗教、あるいは無宗教の人)が私たちを敵意を持ってあしらったとしても、私たちは愛し続けるべきだと言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[今日の文脈では別のことも明確にする必要があります。愛は、肉体的必要を満たすような実践的な方法で人に良いことをするよう求める、と私が言うとき、それはこの助けがイスラム教徒がクリスチャンになることに付随するものであるとは言ってはいません。実践的愛というのは、キリストの愛を証しすることです。その証しは、それが最も必要とされるときに抑えられることはありません。武力や経済力で強要された改宗というのは、救いにいたる信仰そのものの性質と相反します。救いにいたる信仰というのは、イエス様を救い主、主、そして最高の宝として束縛されずに受け入れた結果のものです。主は宝に至る手段ではありません。主が宝そのものなのです。] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. イスラム教徒があなたを愛してくれようがくれまいが、キリストの満ち満ちた祝福があるように祈って下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ルカ6:28 – あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ12:14 - 「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1コリント4:12 - 「はずかしめられえるときにも祝福し、」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. イスラム教徒に対し、肉体的必要を満たすような実践的方法で良いことをしてあげて下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ルカ6:27 - 「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ルカ6:31 - 「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1テサロニケ5:15 - 「だれでも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ12:20 - 「もしあなたの敵が飢えたなら、彼らに食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼らの頭に燃える炭火を積むことになるのです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 個人的に不正を受けたら、復讐してはいけません。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1ペテロ3:9 - 「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ12:17、19 - 「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、･･･愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4. あなたに関する限り、イスラム教徒と平和を保って下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ12:18 - 「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 5. キリストの真理を伝えることによって、彼らに罪からと罪の定めからの喜びの自由が与えられるよう求めて下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ8:31-32 - 「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そしてあなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 6. 道であられるイエス･キリストを見せることによって、彼らがあなたに加わってみ父と共に天の御国に入れるよう、熱心に望んで下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ10:1 - 「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ14:6 - 「イエスは彼らに言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ3:16 - 「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 7. 彼らが言うことの意味を理解するよう心掛けて下さい。そうすればあなたの肯定や批判が、歪められたものや風刺されたものではなく、真に理解したものを基にしたものとなるからです。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1コリント13:6 - 「[愛は]不正を喜ばずに真理を喜びます。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 8. 世の罪を取りのぞかれるイエス･キリストを、十字架にかけられよみがえられた救い主として受け入れない者は、神の怒りのもとで滅びると言うことを、涙を持ってイスラム教徒に警告して下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ1:12 - 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ10:9 - 「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ピリピ3:18 - 「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も''涙をもって''言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 9. 「イスラム教徒はまことの神を礼拝している」と言うことによって、彼らを誤った方向に導いたり、間違った希望を与えたりしないで下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この言い方は、まことの神を知り、愛し、たたえる心を持ったイスラム教徒の好意的な映像をほとんどの人に伝えてしまいます。しかしイエス様は一人の人がご自身に対しどのように応答するかが、その人の神に対する応答が本物であるかどうかを知る、リトマス試験紙にしておられます。そして主は、もしその人がイエス様を罪の身代わりにご自身のいのちをささげられよみがえられた神であると認めない場合、その人はまことの神を知らないし、愛しておらず、たたえていないと、はっきりと言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ8:19 - 「すると、彼らはイエスに言った。『あなたの父はどこにいるのですか。』イエスは答えられた。『あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも'''''知っていた'''''でしょう。』」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ5:23 - 「子を敬わない者は、子を遣わした父をも'''''敬いません'''''。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ5:42-43 -「[イエスは言われた。]『わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、'''''神の愛がありません'''''。わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。』」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イスラム教徒がまことのイエス様をそのまま受け入れないのに、自分はまことの神を「知っている」とか「たたえている」とか「愛している」と言うとき、愛は彼らを、また彼らを気にかける人々を、間違った方向に導きません。私たちは人の心を見ることはできません。彼らがまことの神を知り、たたえ、愛しているかどうかを、私たちはどのようにして知ることができるでしょうか?私たちはイエス様を彼らにすすめるために、いのちを投げ出すのです。もし彼らがイエス様を受け入れるのなら、神を知っており愛しており、たたえているのです。もし彼らがイエス様を受け入れないのなら、彼らは神を知らないし愛していないし、たたえていないのです。イエス様が試験紙です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それがルカ10:16のイエス様のみことばのポイントです。「わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」またマタイ10:40、「わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」そしてヨハネ5:46、「もしあなたがたがモーセを信じているなら、わたしを信じたはずです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イスラム教徒に対して、あるいは誰に対してでも、私たちができる最も愛のあることは、彼らを見捨てるのではなく、犠牲を持って世話し、彼らのために苦しもうと決意し、「むだな礼拝」(マルコ7:7)をやめるよう懇願し、キリストを自分の罪の赦しと永遠のいのちの希望のため、十字架にかけられ、よみがえられた救い主として受け入れるよう懇願することで、イエス･キリストについての真理全体を彼らに伝えることです。世界中のイスラム教徒の中から兄弟姉妹を持つことができるようになることは、私たちの最高の喜びです。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 22 Jun 2018 19:30:43 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E9%9A%A3%E4%BA%BA%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99%E5%BE%92%E3%82%92%E6%84%9B%E3%81%9B%E3%81%B0%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</comments>		</item>
		<item>
			<title>新生で何が起こるのか? パート２</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%9F%E3%81%A7%E4%BD%95%E3%81%8C%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%3F_%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88%EF%BC%92</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「新生で何が起こるのか? パート２」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|What Happens in the New Birth? Part 2}}&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。2この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。6肉によって生まれたものは肉です。御霊によって生まれたものは霊です。7あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。8風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」9ニコデモは答えて言った。「どうしてそのようなことがありうるのでしょう。」10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日は、新生で何が起こるのかという先週のメッセージを完成させます。イエス様はヨハネ3:7でニコデモに、「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません」と言われます。また３節でも、主はニコデモと、そして私たちに、私たちの永遠のいのちは生まれ変わることにかかっていると、おっしゃいます。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ですので私たちはここでクリスチャン人生において、大して重要でないこと、あるいは随意の、あるいは表面上のことを扱っているのではありません。新生は、葬儀人が、遺体をあたかも生きているかのように見せるために用いるメイキャップのようではありません。新生は、霊的いのちの創造であり、いのちの真似ではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''新生で何が起こるのか?*という質問に答えていきます。前回の二つの陳述は、1) 新生で起こるのは、新しい宗教を得ることではなく、新しいいのちを得ることである、そして2) 新生で起こるのは、イエス様のうちにある超自然をただ単に肯定するだけでなく、自分自身のうちに超自然を体験すること、でした。'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖霊を通しての新しいいのち ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニコデモはパリサイ人で、宗教心に満ちあふれていました。でも彼には霊的いのちがなかったのです。彼はイエス様のうちに神の超自然のみわざを見ましたが、自分自身のうちに神の超自然のみわざを体験したことがありませんでした。ですから前回の二つの要点をまとめると、ニコデモが必要だったのは、イエス様が言われるように、聖霊を通して超自然的に授けられた新しい霊的いのちだったのです。新しいいのちを''霊的''、そして''超自然''にするのは、それが御霊なる神のみわざだからです。それは私たちの物理的心と脳にある自然の命を超えたものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6節でイエス様は、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」と言われます。肉にはある意味、実際に命があります。すべての人は、生きた肉です。しかしすべての人が生きた霊というわけではありません。生きた霊となるためには、あるいは霊的いのちを持つためには、私たちは「御霊によって生まれ」なければならないと、イエス様は言われます。ある意味、肉は命を与えることができます。御霊はいのちを別の種類まで引き上げます。もし私たちがこの後者の種類を持たなければ、神の国を見ることはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様にある、御霊によって ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから前回私たちは、終わりに、二つのとても重要な事がらに注目しました。それは、新生のイエス様との関係と、新生の信仰との関係です。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われました。使徒ヨハネは、「神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」(1ヨハネ5:11―12)と言います。ですから一方で、私たちが必要な新しいいのちは「御子にあり」ます。それは、イエス様がその''いのちであられる''からです。もしあなたが主を持っているなら、あなたには霊的新しい、永遠のいのちがあります。そしてもう一方で、イエス様はヨハネ6:63で、「いのちを与えるのは''御霊''です」と言われます。あなたは''御霊によって''生まれない限り、神の国に入ることはできません(ヨハネ3:5)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから私たちは、ご自身いのちであられる神の御子につなげられることによっていのちを持ち、そのいのちを御霊のみわざによって持ちます。それゆえ、再生における御霊のみわざは、私たちをキリストと一つとさせることによって、私たちに新しいいのちを授けることであると、私たちは結論づけました。ジョン･カルヴァンは、それを「聖霊はキリストが私たちをご自身と事実上一つにされる、そのつなぎであられる」(キリスト教要綱第三巻1、1)という風に言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 信仰によってイエス様と一つとされる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから私たちは以下のように信仰とつなげました。ヨハネ20:31は、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたが信じるため、また、''あなたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため''である」と言います。また1ヨハネ5:4では、「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの''信仰''、これこそ、世に打ち勝った勝利です」と言います。神によって生まれること、それは、勝利の鍵です。信仰、それは勝利の鍵です。なぜなら信仰こそ私たちが神によって生まれることを体験する方法だからです。ですので先週私たちは、メッセージ全体を以下のように要約しましたー''新生で、聖霊は私たちを信仰を通してイエス･キリストとつなげることにより、私たちに新しい霊的いのちを超自然的にお与えくださるのです*。'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新生とは、古いものの改善ではなく、新しい創造 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは、次に、新生で何が起こるかの、第三番目の方法へと私たちを導きます。新生で起こるのは、あなたの古い人間性の改善ではなく、新しい人間性、本物の''あなた''であり、罪赦されきよめられた性質、内在の神の御霊によって造られた、本当に新しい性質の創造です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私がこの所見に至った道のりの、その短いバージョンへと、皆さんをご案内します。イエス様はヨハネ3:5で、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」とニコデモに言われます。この「水と御霊によって」という二つの用語によって、イエス様は何を言おうとしておられるのでしょうか?ある教派はこれを、御霊が私たちがキリストと一つにされる方法としての、バプテスマだと信じます。例えば、あるサイトでは以下のように説明されています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「聖なるバプテスマはクリスチャン人生すべての基盤であり、御霊にあるいのちへの入口であり、他の聖礼典へ接近する道へと導く扉です。バプテスマを通して私たちは罪から解放され、神の子として生まれ変わるのです。私たちはキリストの一員となり、教会へと結合され、また教会の使命を分かち合う者とされるのです。『バプテスマはみことばにある水を通しての、再生の聖礼典です。』」 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何百万という人々が、洗礼を受けることで生まれ変わると教えられて来ています。もしそれが真実でないならば、それは大きな、地球規模の惨事です。そして私はそれが真実だとは思いません。それならば、イエス様は何を意味しておられるのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜ「水」はヨハネ3章ではバプテスマと関係がないのか ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下はここでの水の言及はキリスト教のバプテスマと関係がないと、私が思うそのいくつかの理由です。その後、この聖書個所の文脈がどこへ行くかを見ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 残りの章でバプテスマに触れている箇所が無い''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず第一に、もしこれがキリスト教のバプテスマに関することであれば、そしてもしある人々が言うようにそれが新生に必要不可欠なものであるとしたら、この章でイエス様が言われている、どのようにして私たちは永遠のいのちを得ることができるのか、ということが省かれているのは、奇妙に見えます。15節、「''信じる''者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」16節、「それは御子を''信じる''者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」18節、「御子を''信じる''者はさばかれない。」もしバプテスマが必要不可欠であるとすれば、それが信仰とともに触れられていないのは、とても奇妙に思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) バプテスマは風の類似にあてはまらない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、もし水のバプテスマが生まれ変わることとそこまで密着しているとしたら、8節の風の類似が奇妙に見えます。イエス様は、「風は思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」と言われます。これは神は再生を起こすのに、風のように自由であられると言っているように見えます。しかしもし赤ちゃんが滴礼を受けるたびにそれ(再生)が起こるのであれば、それは本当であるとは思われません。その場合風は、聖礼典によって自由を狭まれてしまいます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) バプテスマはイエス様がニコデモをお叱りになることと合わない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三つ目に、もしイエス様がここでキリスト教のバプテスマに言及されているのなら、パリサイ人であるニコデモに10節で、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」と言われるのは奇妙に思えます。もしイエス様が旧約聖書で教えられている何かに言及しておられるのなら、分かります。しかしもし主が後にやって来て、そしてイエス様のご生涯と死から意味を得たバプテスマに言及しておられるとしたら、イスラエルの教師なのに主が言っておられることを理解できないのかと、主がニコデモをお叱りになるはずはないように思われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4) 水と御霊は、新契約の約束においてつながっている''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、10節の同じ言及は旧約のいくつかの背景を私たちに思い起こさせ、水と御霊は新契約の約束、特にエゼキエル36章でぴったりつながっていることを私たちは見出します。ではそこに一緒に行ってみましょう。この箇所がこの残りのメッセージの基盤となるものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== エゼキエル36章の水と霊 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エゼキエルは神がご自身の民をバビロン捕囚から連れ戻されるときに、何を成されるかを預言します。ここでの意味は、イエス様が、ご自身を信じるすべての者のためにご自分の血によって新契約を確保されると主張されるので(ルカ22:20)、イスラエルの民だけのもの以上に大きなものです。そしてこれは、エレミヤ31:31にあるものと同様で、新契約の約束のうちの一つの型です。一緒に読みましょう。エゼキエル36：24―28、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これがイエス様が「人は、''水''と''御霊''によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」と言われる箇所であると、私は思います。主は誰に、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」(28節)とおっしゃるのでしょうか?25節、主はその人々に、「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる」と言われます。そして26節で、主はその人々に、「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい''霊''を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」とおっしゃいます。言い換えれば、御国に入る者とは、古いもののきよめと、新しいものの創造を巻き込んだ新しさを持った者です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので「水と御霊」は、私たちが生まれ変わるときに私たちが新しくされることの、二つの側面を意味するということで私は結論づけます。これがどうして重要なのかと言うと、新しい霊、または新しい心が私たちに与えられると言うとき、私たちがそれまで道徳的に自己責任を負った人間であったのが、その人間ではなくなる、という意味ではないからです。私は生まれ変わる前、ジョン･パイパーという一人の人間でした。そして生まれ変わった後も、ジョン･パイパーという一人の人間です。そこには継続性があります。ですからきよめが必要なのです。もし古い人、ジョン･パイパーが消されてしまったら、赦しときよめの発想自体が無意味なものとなってしまいます。赦されきよめられるべき過去が一切無くなります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは、古い自分は十字架につけられたと (ローマ6:6)、また私たちはキリストに死に(コロサイ3:3)、自分自身に対し「死んだものと思いなさい」(ローマ6:11)、そして「古い人を脱ぎ捨てるべき」だと(エペソ4:22)、聖書が教えるのを知っています。しかしそれらのどれも、人生一貫した同じ人間は考慮されていないという意味を示していません。そこには除かれなければならない古い性質、古い性格、あるいは素因、好みがあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからあなたが新しい心、新しい霊、新しい性質を解釈するとき、それらは変わらない、赦され、きよめられなければならないあなた、という風に解釈します。それが水に言及しているポイントです。私の咎は洗いきよめられなければなりません。水によってきよめられることが、その絵です。エレミヤ33:8では次のように言われています。「わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。」ですので存在し続ける私たちの人格は赦され、咎が洗いきよめられなければならないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新しくされなければならないその必要性 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし赦しときよめだけでは十分ではありません。私は新しくされる必要があります。私は変えられる必要があります。私にはいのちが必要です。物事を新しく見、考え、評価する必要があります。そのためエゼキエルは26、27節で新しい心と新しい霊について語るのです。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。私の''霊''をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下は私がそれらの節を理解する方法です。確かに、''石''の心とは、霊的現実を何も感じない、無反応の死んだ心、新生によって感じることのできる以前に、あなたが持っていた心を意味します。それ自体情熱を持って反応することができ、多くの事がらを切望します。しかし霊的真理やイエス･キリストの栄光、神の栄光、聖さへの道に対して石でした。私たちが神の国を見るためには、それが変えられなければならないのです。ですから新生において、神は石の心を取り除かれ、肉の心をお与えになります。''肉''とはヨハネ3:6で言われているような、「ただの人間」という意味ではありません。それは死んだ石の代わりに、柔らかで生きており、反応をし、感じるものです。新生において、私たちの死んだ、ことキリストに関しては石のような倦怠感が、イエス様のみ価値を(霊的感覚で)感じる心に、取り替えられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてエゼキエルが26、27で、「あなたがたのうちに新しい霊を授ける。･･･わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」と言うとき、それは新生において、神は生きた、超自然の霊的いのちを私たちの心にお与えになり、その新しいいのち、新しい霊自体が、聖霊ご自身が私たちの新しい心にかたちと性格をお造りになるみわざであると、彼は言っているのだと私は思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この新しい暖かい、感動させることができる、反応する、生きた心は、柔らかい粘土のかたまりのようなもので、聖霊がその中にご自身を押し込められ、ご自身の形どおりに霊的、道徳の形をそのうちにかたち造られるというものを私は思い浮かべます。私たちのうちにご自身を住まわされることによって、私たちの心と思いが、主のご性質、主の霊を帯びるのです(エペソ4:23参照)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 主をあなたの宝として受け入れる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではさかのぼって、この過去2週間をまとめてみましょう。新生で何が起こるのでしょうか?新生で、聖霊は超自然的に、信仰を通して私たちをイエス･キリストにつなげることによって、私たちに新しい霊的いのちをお与えになります。あるいは別の言い方をすると、御霊は、私たちの罪の洗いきよめのあるところで私たちをキリストと一つにさせられ、私たちの硬い、無反応な心を、イエス様を何にもまさる宝とする柔らかい心に取り替えられ、御霊のご臨在によって、神のみむねを行うことを愛するような心へと、変え続けてくださるのです(エゼキエル36:27)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらすべてを体験するのは信仰によってですので、罪赦され、あなたの人生の宝を変えられるお方として主を受け入れるよう、今、イエス様のみ名で、主の御霊の力によって、あなたをお招きします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; http://www.christusrex.org/www1/cdhn/baptism.html &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 12 Jun 2018 20:24:59 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%96%B0%E7%94%9F%E3%81%A7%E4%BD%95%E3%81%8C%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%3F_%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88%EF%BC%92</comments>		</item>
		<item>
			<title>新生で何が起こるのか</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%9F%E3%81%A7%E4%BD%95%E3%81%8C%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「新生で何が起こるのか」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|What Happens in the New Birth? Part 1}}&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。2この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。6肉によって生まれたものは肉です。御霊によって生まれたものは霊です。7あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。8風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」9ニコデモは答えて言った。「どうしてそのようなことがありうるのでしょう。」10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは新生についてのメッセージ･シリーズを始めたばかりです。ヨハネ3:3でイエス様はニコデモに、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われます。主はそれを言われるとき、私たちすべての者にも語っておられます。ニコデモが特別だったわけではありません。あなたと私は新しく生まれなければ、神の国を見ることはありません。それは私たちが救われないことを意味します。神の家族に加えられず、天の国へ行かずに、かえって地獄へ行きます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニコデモは最も敬虔なユダヤ教指導者、パリサイ派の一人でした。イエス様はマタイ23:15と33節で、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。･･･おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう」と彼らに対して言われます。ですから私たちが始めたこのシリーズは大して重要ではないものではありません。中心となるものです。新生を語るとき、私たちは永遠の生死のふちをさまようのです。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新生は心を動揺させる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回の第一回目のメッセージで、私たちはこのシリーズの理由と私たちが抱えるであろうある種の質問に注目しました。今日の質問は、新生で何が起こるのか?というものです。それに答える前に、このメッセージを語ることで、私が非常に懸念していることに、触れさせてください。イエス様の言葉をもし真剣に受け止めるなら、私たちは繰り返し動揺させられるように、皆さんの多くが、このメッセージ･シリーズに動揺されるかも知れない、ということに私は気づいています。これには最低でも3つの理由があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1) なぜなら私たちの絶望的状態のため ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様の新生についての教えで、私たちは自分自身の霊的、神の再生の恵みから離れた道徳的、また法的に絶望的な状態を突きつけられます。新生が起こる前は、私たちは*霊的*に死んでいます。私たちは*道徳的*に自己中心で反抗的です。そして私たちは神の律法の前に法的に有罪で、神のみ怒りの下にあります。イエス様が私たちに、私たちは新しく生まれなければならない、と言われるとき、主は、私たちの現状は絶望的に無反応で、腐敗しており、有罪であると言っておられるのです。驚くべき恵み無しには、私たちは自分自身の状態がどのようなものか、一切知りたくありません。ですのでイエス様が私たちは新しく生まれなければならないと言われるとき、私たちは動揺するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2) なぜなら私たちは新生を起こすことができないから ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新生についての教えが人を動揺させるのは、それが私たちがする何かではなく、私たちに成された何かを意味するからです。ヨハネ1:13でこれが強調されています。それは、「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ神によって生まれた」人々としての神の子を意味します。ペテロも同じことを強調します。「私たちの主イエス･キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はご自分の大きなあわれみのゆえに、･･･私たちを新しくうまれさせて」(1ペテロ1:3)。私たちが新生を起こすのではありません。神が新生を起こされるのです。私たちが成す良いことが新生を起こすのではなく、それは新生の結果です。これは、新生が私たちの手中にないことを意味します。私たちの思うがままにはなりません。そのためそれは私たちの無力と私たちの外部の誰かに対する完全な依存を、私たちに突きつけるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは動揺します。私たちはもし新しく生まれなければ、神の国を見ることはないと言われます。そして私たちは自分で自分を新しく生まれさせることはできない、とも言われます。これは動揺させられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3) なぜなら神の完全な自由が私たちの前に立ちふさがるから ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新生についてのイエス様の教えが人の心を動揺させる三つ目の理由は、それが神の完全な自由を私たちに突きつけるからです。神なしには、私たちは自分の自己中心さと反抗のうちに、霊的に死んでいます。私たちは生まれながらにして怒りの子らです(エペソ2:3)。私たちの反抗は、福音にあるキリストの栄光を察知したり求めたりすることができないほど、非常に深いのです(2コリント4:4)。それゆえ私たちが新しく生まれるとしたら、ズバリ、結局のところ、神によるのです。主の私たちを生き返らせようという決定は、私たち霊的死体が何をするかに対する応答ではなく、私たちが何をするかは、主が私たちを生き返らせられた、その応答です。ほとんどの人は、これに少なからず最初は動揺します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 動揺させるだけでなく、安定させ、救うのが、私の希望 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このシリーズを始めるにあたって、この新生の教えがいかに人の心を動揺させるものであるか、私は十分に理解しています。また、なんと気をつけたいことでしょうか!傷つきやすい魂に、不必要な苦悩を与えたくありません。また道徳や宗教を、霊的いのちと混乱させている人々に、間違った希望を与えたくもありません。どうぞ私のためにお祈りください。この数日、永遠の魂を私は自分の手中に握っているような気がします。それでいて、彼らにいのちを与える力が自分には無いことを、私は知っています。でも神にはおありになります。主がエペソ2:4―5で「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、ーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのですー」と言われることを成してくださると、私は大いに期待しています。神は、キリストが真理のうちに高く掲げられているところで、ご自身のいのち与える恵みを拡大して示されるのを好まれます。このシリーズが、心を動揺させるだけでなく、安定させ、救うこと、それが私の希望です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新生で何が起こるのか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では質問に取りかかりましょう。新生で何が起こるのでしょうか?その答えを、3つの文にして見たいと思います。その最初の二つを今日取り扱い、三つ目は(主のみこころならば)来週取り扱います。1) 新生で起こるのは、新しい宗教を得ることではなく、新しいいのちを得ることである。2) 新生で起こるのは、イエス様において起こる超自然的なものをただ単に肯定することではなく、自分自身のうちに超自然なものを体験することである。3) 新生で起こるのは、古い自分を改善することではなく、新しい人間性、本当の*あなた*であり、赦され、きよめられた、本当に*新しい*、神の内在の御霊によってかたち造られた性質の、創造である。それら一つ一つを見てみましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1) 新しい宗教ではなく、新しいいのち ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新生で起こるのは、新しい宗教を得ることではなく、新しいいのちを得ることです。ヨハネ3章の最初の三節を私と一緒に読んでください。「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。』イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネは、ニコデモがパリサイ人でありユダヤ人の指導者であるということを、私たちがあらかじめ知るようにしています。パリサイ人はユダヤ教宗派の中でも最も厳格な宗派でした。イエス様はこの一人に(３節で)、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われます。そして7節ではもっと個人的に、「あなたがたは新しくうまれなければならない」と言われます。ですからヨハネの要点の一つは、ニコデモの宗教のすべて、パリサイ派の驚くべき学問と鍛錬と律法に忠実であることのすべては、新生の必要性に取って変わることはできない、ということです。事実、それらは新生が必要であることをもっと明白にします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニコデモが必要なのは、そしてあなたと私が必要なのは、宗教ではなくいのちです。新生が示すポイントは、誕生は新しいいのちをこの世にもたらすと言うことです。ある意味、当前ですが、ニコデモは生きています。彼は息をしており、考えており、感じており、行動しています。彼は神の似姿に造られた人間です。しかしどうやらイエス様は、彼が死んでいると思っておられるようです。霊的いのちがニコデモにはないのです。彼は霊的には誕生していません。彼にはさらなる宗教活動や宗教的熱心さではなく、いのちが必要です。彼にはそれ[宗教的熱心さ]は十分にあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様がルカ9:60で、自分の父を葬るためにイエス様に従うのを延期しようとした人に言われたことを、覚えていますか?「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を広めなさい」とイエス様は言われました。それは埋葬が必要な肉体的に死んだ人々がいるということを意味します。そしてその人々を葬ることのできる、霊的に死んでいる人々がいます。言い換えれば、イエス様は、表向き活気があって歩き回っていながら死んでいる人々を、考えておられたのです。放蕩息子の主の譬えの中で、父が、「この息子は、*死んでいた*のが生き返り」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニコデモには宗教が必要だったのではありません。いのち、霊的いのちが必要だったのです。新生で起こるのは、何もなかったところにいのちがかたち造られることです。新しいいのちが、新しく生まれるときに起こるのです。これは宗教活動や鍛錬や決心ではありません。それが新生で起こることの第一の描写です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2) 超自然を、ただ単に肯定するだけでなく、体験する ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新生で起こるのは、イエス様のうちにある超自然的なものをただ単に肯定するだけでなく、超自然を自分のうちに体験することです。ニコデモは2節で、「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません」と言います。言い換えると、ニコデモはイエス様のうちに本物の神のみわざを見るのです。彼はイエス様が神から来られたお方であることを認めます。イエス様は神のみわざを成されます。これに対しイエス様は応答して、「パレスチナのすべての者が、あなたが見るわたしについての真理を見ることができたらいいのに」とは言われません。かえって、「あなたがたは新しく生まれなければ神の国を見ることはありません」と主は言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しるしや不思議を見ること、またそれらに驚くこと、「神から来たのだ」と奇跡を行う人々を賞賛することでは、誰も救われません。それらに驚くのに、新しい心は必要ないーこれがしるしと不思議が最も危険だという理由の一つです。古い、堕落した人間は、しるしと不思議に驚くのに十分な性質を備えています。古い、堕落した人間の性質は、奇跡を行う者を神から来た者と言う意志があります。悪魔自身、イエス様が神の御子であられ、奇跡を行われるお方だと知っています(マルコ1:24)。いいえ、ニコデモよ、わたしを神から遣わされた奇跡を成す者と見ることが、神の国へ入る鍵ではありません。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはありません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、重要なのは、イエス様のうちにある超自然をただ単に肯定することではなく、超自然を自分のうちに体験することが大切だと言うことです。新生は自然ではなく、超自然です。この世にすでに見つかったもので起こすことはできません。6節では新生の超自然性が強調されています。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」肉というのは私たちの自然の状態です。神の御霊が新生をもたらす、超自然なお方であられます。イエス様は8節でこれを再度言われます。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、その通りです。」御霊はこの自然の世から離れてはおられません。主は自然を越えて臨在しておられます。事実、主は神であられます。主が新生の直接の元であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからイエス様は言われます、ニコデモよ、新生で起こるのは、わたしのうちにある超自然をただ単に肯定するだけでなく、あなた自身のうちに超自然を体験することです。あなたは新しく生まれなければなりません。比喩的、自然な方法でではなく、超自然の方法でです。聖霊なる神があなたの上に臨み、新しいいのちを誕生させなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5節の「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」と言うことばを、私たちは次回見ます。ここでの水と御霊とは、何を示しているのでしょうか?そしてそれが、新生で起こることをどのように私たちに理解させてくれるのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様はいのち ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし今日は、御霊によって生まれ変わることと、イエス様にある信仰を通しての永遠のいのちの、とても重要なつながりを関連付けて、閉じたいと思います。私たちがここまで見たのは、新生で起こるのは、何もないところに霊的いのちをもたらす、聖霊の超自然のみわざだと言うことでした。イエス様はヨハネ6:63で、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません」と再度言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしヨハネの福音書は別の何かをも明確にします。それはイエス様が、聖霊の与えられるいのちであられる、と言うことです。あるいは、主がお与えくださる霊的いのちは、イエス様とのつながりのうちにのみ与えられる、と言うこともできます。イエス様と一つとされることで、私たちは超自然の、霊的いのちを体験するのです。ヨハネ14:6でイエス様は、「わたしが道であり、真理であり、*いのち*なのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われます。ヨハネ6:35でも、「わたしが*いのち*のパンです」とおっしゃいます。また20:31でもヨハネは、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたが信じるため、また、あなたが信じて、*イエスの御名によっていのち*を得るためである」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様無しにいのちは無い ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからイエス様とのつながりから離れては、またイエス様を信じることなしには、霊的いのち、永遠のいのちはありません。新生とイエス様にある信仰の関係については、沢山言うべきことがありますが、今はこのように言いましょう。新生で、聖霊は私たちを、生きた結合において、キリストと一つにさせてくださいます。キリストはいのちであられます。キリストこそいのちが流れ出るぶどうの木であられます。私たちはその枝です(ヨハネ15:1)。新生で起こるのは、新しい霊的いのちの超自然の創造であり、それはイエス･キリストと一つとなることによって造られます。聖霊は私たちを、道であり、真理であり、いのちであられるキリストとの生きたつながりに導いてくださいます。それが新生で起こる客観的な現実です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして私たちの側から、私たちがこれを体験する方法は、イエス様にある信仰が私たちの心に目覚めさせられることです。霊的いのちとイエス様にある信仰は一緒に誕生します。新しいいのちが信仰を可能にし、そして霊的いのちは絶えず信仰を起こし、信仰で表現されるので、イエス様にある信仰無しにはいのちはありません。それゆえ、新生をイエス様にある信仰から決して切り離してはいけません。神の側から、私たちは新生においてキリストと一つとされます。それが聖霊が成されることです。私たちの側から、私たちはイエス様にある信仰によって、この一つとされることを体験するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新生とイエス様にある信仰を決して切り離してはならない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネが1ヨハネ5:4でそれを言っているのを聞いてください。「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」神によって生まれた者、それが勝利の鍵です。信仰、それが勝利の鍵です。なぜなら信仰が、私たちが神によって生まれることを体験する方法だからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは、ヨハネが1ヨハネ5:11―12で言うのを聞いてください。「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」それゆえ、イエス様が「いのちを与えるのは*御霊*です。肉は何の益ももたらしません」(ヨハネ6:63)と言われるとき、またいのちを得るためには「あなたは新しく生まれなければなりません」と言われるとき、主は、新生において聖霊は、私たちを信仰を通してイエス･キリストとつなげることによって、私たちに超自然的に新しい霊的いのちをお与えくださるのです。なぜならイエス様がいのちであられるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでヨハネ3章でイエス様が言われるこれら二つのことを、決して切り離さないでください。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(３節)、そして「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」(36節)のです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 07 Jun 2018 20:03:39 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%96%B0%E7%94%9F%E3%81%A7%E4%BD%95%E3%81%8C%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>ヨセフと神の御子の売渡し</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95%E3%81%A8%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A3%B2%E6%B8%A1%E3%81%97</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「ヨセフと神の御子の売渡し」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Sale of Joseph and the Son of God}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== アブラムに対する(神の)驚くべきことば ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨセフとその兄弟の壮絶な罪の話と、イエス・キリストの栄光あるその世界的規模の目的を改めて語る前に、創世記12章に戻りましょう。神は世界中の国民の中からアブラムを、彼が正しいからではなく、惜しみない恵みによってお選びになりました。創世記12:2－3で、「あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; と神はアブラムに約束されます。これがメシアであり神の御子であられるイエス・キリストが、イスラエルの民を通して、私たちを罪から救って下さるためにこの世に来臨された、そのイスラエルの民の始まりです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして15章で、神はアブラムと同じ契約を結ばれます。主はここで異例の象徴的な行動をとられ、驚くようなことを言われます。創世記15:13－16で主はアブラハムに、「あなたはこのことをよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。…そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」と言われるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 四百年も! ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の民とのその契約関係の始まりで、神は400年のエジプト寄留と約束の地への帰還を予知されるのです。「彼らは四百年の間、苦しめられよう。」主には彼らがなぜ400年(考えて見てください!)も放浪し、その約束の地を相続しないのか、奇妙な理由がおありになります。つまり、15節 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 、「エモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」です。イスラエル人は400年後、ヨシュアのもとでその地を奪還するため帰ってくるとき、それらの国民を打ち滅ぼします。私たちはそれをどのように理解すればいいのでしょうか?申命記9:5節に神の答えがあります。「あなたが彼らの地を所有することができるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。」約束の地の制覇は、何世紀にも渡る満ち満ちた悪に対する神のみ裁きなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の民は多くの苦難を通して[神の国に]入る ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その間、主の民は彼らの土地ではない地、つまりエジプトでさまよい、400年間苦しめられると、神は言われます。ですので主の旅人たちには主のご計画があります。ちょうど御国へ行くまでの、この世でのあなたの人生をあらわしているようなものです。もし神が、約束の地へたどり着くまでの400年間の苦難をご自身の民に計画されるのなら(創世記15:13)、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」(使徒14:22)と主が言われることは、驚きではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 預言は壮大な罪を通して成就した ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神の民はどうしてエジプトにいることになったのでしょうか?そしてエジプトでのこの奇妙な放浪で、ご自身の道とその御子について、主は私たちに何を教えようとしておられるのでしょうか?これが、今日の私たちに対する質問です。神はこの預言を壮絶な罪を通して成就されるというのが、その答えです。そしてこの罪を通して、主はご自身の契約の民イスラエルだけでなく、ユダの獅子が人々を救い、支配されるために来られる、その系列をも生き残らせられます。ですのでヨセフの話には非常に大きな事柄がかかっているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== アブラハム、イサク、そしてヤコブ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アブラムに戻り、ヨセフの話をしましょう。アブラムには息子イサクがいます。イサクには息子ヤコブ(またの名をイスラエルといいます)、そしてヤコブにはイスラエルの12部族の父祖となる12人の息子がいます。ヤコブの12人の息子の一人、ヨセフは、二つの夢を見ます。その両方で、彼の11人の兄たちと両親が彼に頭を垂れます。創世記37:8で彼の兄弟はその夢のゆえに彼を憎んだと言います。また11節では彼らは妬んだと言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 夢見る者の撲滅 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
弟に対する彼らの憤りを発散する日がやって来ました。ヨセフの父は、兄たちが無事かどうかを確かめるため、ヨセフを遣わします(創世記37:14)。兄たちは彼がやってくるのを見て、次のように19-20節で言います。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」ルベンがヨセフを救おうとしますが、兄弟たちがヨセフをエジプトに向かっているイシュマエル人の商人に売り(25節)、その試みも一部しか成功しません。彼らはヨセフの特上の上着を取って獣の血にひたし、ヨセフの父はヨセフが野生の獣に食べられてしまったものと思い込みます。兄弟たちはそれで終わりだと思うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 見えない御手の業 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし彼らは一体何が起こっているのか、想像もつきません。自分たちの行動のうちに神の見えない御手があることに、まったく気づいていません。この夢見る者を滅ぼすという努力そのもので、ヨセフの夢を叶えてあげていることを知らないのです。ああ、神は何と頻繁にこのように働かれるでしょうか!主は破壊する者の罪そのものを用いて、破壊する者らを救われるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ポティファル、牢屋、そして神の摂理 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エジプトでヨセフは、パロの侍従長で護衛隊の長であるポティファルに売られます(創世記37:36)。そこでヨセフは神の奇妙な摂理に従い、ポティファルに忠実に仕えます。信頼をかい、ポティファルの一族に影響を与えるようになります。そして義人は栄えるようになると、あなたはそう思うでしょう。しかし違うようです。ポティファルの妻がヨセフをたぶらかそうとします。ヨセフは不倫から逃れます。はねつけられた女は憎悪に燃え、ヨセフの事で嘘をつきます。そしてその正しい行いにも関わらず、ヨセフは牢屋に入れられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牢屋で、再び神がこの苦しみの中で何を成しておられるか気づかず、彼は監獄の長に忠実に仕え、信頼を受けて仕事を与えられます。パロの執事と料理長の二つの夢解きを通して、最終的にヨセフはパロの夢をとくために牢屋から出されます。彼の夢解きは本物であると証明され、その知恵はパロにとって説得力があり、ヨセフはエジプトの司令官に任命されます。「あなたは私の家を治めてくれ」と、パロは言います。「私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」(創世記41:40)と。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 夢の実現 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨセフが言ったとおり、7年の豊穣の後に続いた7年の飢饉が地を打ちのめします。ヨセフは7年の豊穣の間に穀物を大量に蓄え、エジプトの飢餓を阻止します。やがてヨセフの兄弟たちがエジプトに穀物があることを聞きつけ、助けを求めにやって来ます。初めは自分たちの弟に気づきませんが、やがてヨセフは自分の正体を現します。兄たちが彼を奴隷として売ったのは、彼が17歳のときでした(37:2)。そして自分が一体誰なのかを兄たちに明かすとき、彼は39歳です(41:46,53;45:6)。26年の月日が経っていました。兄たちは驚きを隠せませんでした。彼らは夢見る者を排除しようとしたのですが、排除することによって、ヨセフの夢をかなえたのです。終いに彼らはヨセフの前にひれ伏しているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終的にヨセフは兄弟たちを救うため、彼らにエジプトに住むよう招き、アブラハムの子孫がエジプトで400年間さまようというはるか昔の預言の成就が、始まります。ここで再度、質問です。神のご計画の成就で、どのようにして神の民はエジプトに定着することになったのでしょうか?またエジプトでのこの奇妙な放浪で、ご自身の道とその御子について、主は私たちに何を教えようとしておられるのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== この実現の聖書的二つの表現 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民がどのようにしてエジプトに定着することになったのかについての答えは、ある意味明確です。彼らは殺害の企て、貪欲な奴隷取引、そして傷ついた年寄りについた冷酷な嘘という壮絶な罪という方法によって、エジプトにたどり着いたのです。しかし聖書はどのようにこの神の預言の成就を表現しているでしょうか?二つあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 神はいのちを救うためにヨセフを遣わされた''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一つは、創世記45:5で、「わたしをここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」と、ヨセフが彼を恐れている兄弟たちに言うところにあります。この兄たちの壮絶な罪を聖書は、ヨセフを殺そうとしていた者たちそのものを救うため、ヨセフをエジプトに遣わすといのが神の方法であると、まず最初に表現します。「神はあなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを大して意味のないものとしない限り、詩篇105:16-17で、さらに深く掘り下げただけで変わらない、まったく同じことを読むことができます。神はヨセフをエジプトに連れて行くためのこの兄たちの行動をご支配しておられただけでなく、飢饉をも支配しておられたのです。「主はききんを地の上に招き、パンのための棒をことごとく折られた。主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。」ですので神は飢饉が独自で起こることを想定しておられたとか、サタンによって起こったとかいう考えは、捨てて下さい。神が飢饉を招かれたのです。そして神が救いを備えられたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) 人が悪を計ることを、神は良いことにされる''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書においては、神の民がエジプトに来るという預言の成就を、神がヨセフを彼らに先だってそこへ送られたという風に表現するのが、まず最初の方法です。二つ目の聖書のこの預言の表現方法は、もっと突き刺すようで大ざっぱです。兄弟たちはヨセフのもとに再びやって来ます。今回は父の死後ですが、彼らはヨセフが彼らに復讐するのではないかと再び恐れます。創世記50:19-20でヨセフは言います。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二つ目の聖書における神の預言の成就の表現方法は、兄たちはヨセフの売り渡しを悪しきことのために計ったが、神はそれを良いことのための計らいとなさった、というものです。神は彼らの悪を、彼らが悪を計った後で、良いことのために用いられた、と言っていないことに注目してください。その悪行そのもののうちに、二つの計画があったと言っているのです。罪深い行いのうちに、彼らは悪しきことを計っており、その同じ罪深い行いのうちに、神は良いことを計っておられたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 指針、いのちを救う罪 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人―あるいは悪魔―が計る悪を、神は素晴らしく良いことのための計らいとされる、これを私たちはこれまで見てき、またこれから何度も見ていきます。創世記45:5で触れられている素晴らしく良いことというのは、「いのちを救う」ことです。そして創世記50:20で触れられている素晴らしく良いことと言うのは、「きょうのようにして、多くの人々を生かしておくため」です。しかしそれらの言葉と、神がどのようにご自身の民を救われるかという話すべては、イエス・キリストの栄光にある、この罪―このいのちを救う罪―の、世界的規模の目的を指し示しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様の栄光を示す3つの指針 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様のご栄光と主がどのようなお方でかるかを見るよう私たちに心構えをさせてくれる、3つの事柄をこの話のうちに見ていきましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 救いは罪と苦難を通してやって来る''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、聖書で繰り返し起こる一般的なパターン、すなわち、神の民の救いの勝利は、よく、罪と苦難を通してやってくるということを、私たちは見ます。ヨセフの兄たちはヨセフに対し罪を犯し、彼はそのため苦しみました。そしてこの一連のことにおいて、神はご自身の民―救済者をも滅ぼそうとしている者たちを含めた―を救うために働いておられるのです。イエス様がこのようにして来られたこと自体、多くの人にとって驚きであったわけですが、驚くことではないのです。主は主の民を救う途上で背かれ、苦しめられたということこそ、繰り返し起こるこのパターンから予想がつくことなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでヨセフと彼の兄弟たちの壮絶な罪の話で、私たちはキリストの栄光―主を排除しようとしている者たちに仕えられる、主の忍耐、謙遜、そしてしもべであられるみ姿―を見る心構えができるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ''わが主を十字架の　なやみと死にまで '' おいやりまつりし　われをもかえりみ すくいのみめぐみに　あずからしめたもう み神の愛こそ　まことの愛なれ''&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; '' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) 苦しまれるお方は義であられる''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に、ヨセフとその兄弟たちの劇的な罪は、イエス様を、神のその民をお救いになる勝利が苦難と罪を通して来るという一般的なパターンのゆえに見るよう、私たちが心構えをするように仕向けるだけでなく、もっと具体的に、この場合、苦しまれ背かれているお方はまさしく義なるお方であるということをも見るよう、心構えをさせてくれます。ヨセフは話の中で、すべての人間関係においての貞節さと忠実さにおいて際立っています。不当な扱いを受けても、彼はポティファルに対し忠実で、また監獄の長に対しても忠実です。創世記39:22、「監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこでヨセフの受けた報酬は何でしょうか?ポティファルの妻に嘘をつかれ、夢を解いてあげたパロの侍従長に感謝されもせず、夢ときの後2年間も忘れ去られたのです。ですのでこれらすべての要点は、罪と苦難はつきものであり、神はご自身の民を救うためその中で働いておられる、というだけではありません。もっと具体的に、義人は、たとえ長期間虐待されたとしても、最終的に神によって潔白が立証される、というのが要点です。たとえ人々がこの義なる石を見捨てたとしても、神が礎の石にされるのです(マタイ21:42)。神の擁護が、ご自身を迫害する者の、救いの方法となるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス・キリストこそが最終的な、究極の、完全な義なるお方です(使徒7:52)。他の人々には、主の人生が悲惨だったので、罪人であるかのように見えました。しかし最後には、背きの罪に遭いながら、完全な義で苦しみを耐え抜かれたことで、ご自身の無実が立証され、それゆえに、私たちの救いへと至ったのです。もしヨセフがその揺るがない強さで驚異的であったのなら、イエス様はその一万倍驚異的であられるお方です。それは、主がヨセフの一万倍の苦しみを受けられ、その一万倍苦しみを受けるに値しないお方であり、それでいてその間完全に不動であられ、忠実で、また義であられたからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) 王権はユダを離れない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他にもヨセフとイエス様の話には相似しているところがありますが、今度はイエス様についての話で、ヨセフとは相似していない、最も重要な点にいきたいと思います。それはもしこの罪深いヤコブの息子たちが、飢饉のため飢えで死んでいたら実現していなかった、イエス様の来臨の預言です。この兄弟たちの劇的な罪は、ユダの部族を絶滅から守るための神の方法でした。そうすれば、ユダの獅子、イエス・キリストがお生まれになり、死んでよみがえられ、全世界の民の上に君臨されるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
創世記49:8-10にこれをはっきりと見ることができます。父であるヤコブは死の床にあり、死ぬ前に自分の子供たちに預言の祝福を述べます。そしてユダについて、このように言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民はこれに従う。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これがイスラエルの最後の王、ユダの獅子、メシアの来臨の預言です。10節で王権―統治者の杖、王のしるし―は、イスラエルだけでなく''すべての''民が従うゆえに、普通の王ではないお方が来られるまで、ユダの系図にとどまると言っていることに、注目してください。10節、「国々のたみは彼に従う。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはイエス様によって成就します。ヨハネが十字架刑とよみがえりの後の、イエス様の御国での役割について述べているその表現の仕方に注目してください。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻物を開いて、七つの封印を解くことができます。…彼らは、新しい歌を歌って言った。『あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』」(黙示5:5,9-10) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ユダの獅子はほふられた小羊 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヤコブの預言の成就における、ユダ族の獅子について、もっとも素晴らしいのは、主が私たちの罪悪感を利用して私たちを主に従わせようと強制するのではなく、私たちの罪を背負ってくださり、私たちを、主を愛し、讃え、永遠の喜びを持って従うように解放することによって、国々の民の従順を獲得される、ということです。ユダの獅子は、ほふられた小羊です。主は私たちの罪をお赦しになり、義なるお方であるご自身の従順と、完璧さを、私たちが神に受け入れられる土台として下さることによって、私たちの従順を勝ち取られるのです。そしてこのはかり知れない安全と喜びの身分のうちに―すべて主の苦しみと義と死とよみがえりに負うものですが―、主は私たちの自由と幸せな服従を勝ち取られるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨセフの話は、背きの罪に遭い、苦しめられた一人の義人の話です。そうされることによってユダの部族が生き残り、獅子が来られ、それが小羊のような獅子であることが証明され、そしてそのお方の苦しみと死によって、国々の民―そのお方を殺した者でさえも―の喜びを伴った服従が買い取られ、可能になるためです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのお方にはあなたの服従がおありになるでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 日本聖書刊行会、新改訳聖書、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書では16節。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; 讃美歌第2編230番、日本基督教団賛美歌委員会、日本基督教団出版局、1967年版。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 22 Mar 2018 20:03:11 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95%E3%81%A8%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A3%B2%E6%B8%A1%E3%81%97</comments>		</item>
		<item>
			<title>アダムの致命的不従順とキリストの勝利の従順</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%AE%E8%87%B4%E5%91%BD%E7%9A%84%E4%B8%8D%E5%BE%93%E9%A0%86%E3%81%A8%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%81%AE%E5%BE%93%E9%A0%86</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「アダムの致命的不従順とキリストの勝利の従順」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Fatal Disobedience of Adam and the Triumphant Obedience of Christ}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして師が全人類に広がったのと同様に、ーそれというのも全人類が罪を犯したからです。13というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。14ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。15ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それみもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。16また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。17もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。18こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。20律法が入ってきたのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。21それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様は最高のお方 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このメッセージシリーズのねらいの一つは、み父なる神と御霊なる神以上ではありませんが、イエス・キリストこそ、この全宇宙で最も重要な人物であられるという事実を私たちの頭に強く認識させることです。主はその価値と美しさと知恵と義と愛と力において、彼ら[み父なる神と御霊なる神]とは同等であられます。しかし主はすべての人、それが御使いであれ悪魔であれ国王であれ総司令官であれ科学者であれ芸術家であれ哲学者であれスポーツ選手であれ音楽家であれ俳優であれ、今生きている者、過去に生きた者、将来生きる者、すべてを超えて、重要なお方です。イエス・キリストは最も優れたお方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 悪も含めた、すべてのものがイエス様のため ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このメッセージシリーズはまた、悪を含め、存在するものすべてが、無限に聖く完全に賢くあられる神によって、キリストの栄光をさらに輝かせるため定められているということをお見せすることを目的としています。皆さんの中には私たちの今週の聖書通読の箇所である、箴言16:4を読んだ方もおられると思います。「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。」神はこれを、悪者が責任逃れができないように、またご自身の罪なきみこころを維持しつつ、ご自身のやり方でなされています。2週間前に私たちは、すべてのものはキリストを通して、キリストのために造られた、ということを見ました(コロサイ1:16)。そしてそれは、十字架上でキリストによって打ち負かされた、「王座も主権も支配も権威も」含まれると、パウロは言います。彼らは「わざわいの日のために造られた」のです。そしてその日、キリストの権威と義とみ怒りと愛があらわされます。遅かれ早かれ、主に対するすべての不従順が滅ぼされます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== そこにおられる神 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このメッセージシリーズはまた、キリスト教は、それが神によって意図されようが人によって意図されようが、私たちの心身健康を目的としたただの思想や習わしや感情を集めたものではない、という確信を確固なものにすることをねらいとしています。それはキリスト教ではありません。キリスト教は、神は私たちなしに実在する現実であられる、という確信から始まります。私たちは神がどのようなお方であるかを、自分で好きなように想像して作り上げません。フランシス・シェーファーが言うように、主は''そこにおられる神''です。私たちは神を作り上げません。神が私たちをお造りになるのです。私たちは神がどのようなお方であるかを定めません。神が全宇宙をお造りになったのであり、それには''私たちが''与える意味ではなく、主ご自身のお与えになった意味があるのです。もし私たちがそれに与える意味が主のものと違うのであれば、私たちは愚かです。そして私たちの人生は悲惨なもので終わります。キリスト教はゲームではありません。治療法でもありません。そのすべての教理は、神がどのようなお方あられ、そして歴史の中で何を成しておられるかから発します。それらは動かぬ事実と一致します。キリスト教は事実以上です。信仰と希望と愛があります。しかしそれらは空中に浮かんではません。神の真理の岩の上で、大きな杉の木のように育つのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ私がこれをこのメッセージシリーズのねらいとするのかというと、あなたの永遠の楽しみと強さと聖さは、あなたの信仰の背骨に強い繊維を入れ込むこの堅固な世界観によるということを、私は聖書から深く確信しているからです。軟弱な世界観は軟弱なクリスチャンを作り上げます。そして軟弱なクリスチャンは、先の日に生きのびることはありません。キリスト教を治療選択肢のように扱う根のない感情論は、終わりの日には滅ぼしつくされます。立ち残るのは、その家を固い、イエス・キリストを基とし、中心とし、すべてのゴールとする、実在の真理の岩に家を建てた者です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様の栄光はアダムの罪のうちに計画された ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日注目するのは最初の人、アダムのあっと言わせるような罪と、それがどのようにイエス・キリストのもっと壮大な反撃の舞台を設定したかです。ローマ5:12-21を開いてみましょう。2000年の夏、私たちはこの箇所に5週間費やしました。今日はその5週間見たものとはまったく違うところに注目します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神がアダムの罪をご計画になり許され、そして人類のすべてがアダムと共に罪に堕落したとき、キリストの栄光が主な目的として神の頭の中にあったことに注目していただきたいのです。先週私が言ったことを思い出してください。何でも神がお許しになるとき、理由があります。そして主の理由は絶えず無限に賢く意図的です。主は人間の堕落が起こることをお許しにならなくてよかったのです。(先週見たように)サタンの堕落を引き止めることがおできになるはずであったように、それ[人間の堕落]も引き止めることがおできになったはずです。それをお引止めにならなかったこと自体、理由と、目的がおありになるのです。また主は時と次第によってご計画を立てられるのではありません。賢明であるとお分かりになることを、主は絶えず賢明なこととして[いにしえから]分かっておられます。それゆえ、アダムの罪と人類の罪への堕落と苦悩は、神に不意討ちをかけたのではなく、イエス・キリストの満ち満ちた栄光を現すためそれに関わるすべての計画の一部なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書からこれを示す最も明確な方法は、ここでその詳細には触れませんが、罪に打ち勝つキリストの犠牲が、この世の創造以前に神のご計画の中にあったことを示す箇所を、見ることです。(詳しくはメッセージ、「キリストの苦難と神の主権 &amp;quot;The Suffering of Christ and the Sovereignty of God.&amp;quot;」を見て下さい。) たとえば、黙示録13:8でヨハネは、「ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者」と書いています。つまりこの世の初め以前に「ほふられた小羊のいのちの書」という本があるのです。この世が造られる前に、神はこの書物に名前の記されているすべての者を救うため、ご自身の御子が小羊のようにほふられることをすでにご計画になっていたのです。キリストの罪のための苦難と死は、アダムが罪を犯した後ではなく、それ以前に計画されていたという聖書的見解を見せてくれる聖書の箇所は、いくつもあります(エペソ1:4-5、2テモテ1:9、テトス1:1-2、1ペテロ1:20)。それゆえ、アダムが罪を犯した時、神はそれに驚かれませんでした。それどころかそれはすでに主のご計画、つまり贖いの歴史の中で主の驚くべき忍耐と恵みと義とみ怒りをあらわし、そして最終的には、第二の人アダムとしてのご自身の御子が、最初のアダムよりそのすべてにおいて偉大であることを示すという、ご計画のうちだったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではローマ5:12-21を、今度はアダムのあっと言わせるような罪は、神のキリストを掲げる目的をくじいたのではなく、むしろかなえたのである、ということを念頭に、見ていきます。以下この聖書箇所を読む方法です。キリストについてはっきり言及しているものが５つあります。そのうちの一つはパウロが自分がキリストとアダムについて考えていることに、言及しています。残りの箇所はキリストがどのようにアダムよりも優れておられるかを示しています。そのうちの２つは酷似しているので、ひとかたまりにします。ということは、私たちはキリストの優位性の３つを見ることになります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様、「来たるべきお方」 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では14節でキリストがどのように引用されているかを、12-13節の文脈から読んでみましょう。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、ーそれというのも全人類が罪を犯したからです。13というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。14ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
14節でパウロは自分が残りの節で考えていることをまとめあげます。アダムは来たるべきお方、つまり、キリストの「ひな型」と呼ばれています。まず最もはっきりしていること、キリストは「きたるべき方」というところに注目してください。[世の]初めから、キリストは「きたるべき方」です。パウロはキリストが思いつきではないことを示します。キリストはアダムの複写として生まれたとは、パウロは言いません。神はアダムを、主の御子が栄光を受けるよう計画された、一つの型のように扱われました。その型とは後から来るものの影で、同じような型ですが、さらに優れたお方です。ですので神はアダムをキリストの型となるよう、取り扱われました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、その思考の流れの中でパウロがアダムはキリストのひな型であると選んで言っていることに、さらに注目してください。14節、「ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。」彼は、アダムと同じようには罪を犯さなかった人々さえ、アダムが受けた罰を受けた、と言ったそのすぐ後に、アダムはキリストの型であると、あえて言っているのです。なぜパウロは、ここでアダムはキリストの型であると言うのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様、私たちの代表格 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは、彼が前述したことが、キリストとアダムがどのように似ていてどのように違うのかのまさにその要素を突いているからです。以下類似点です。アダムのように罪を犯した人々はアダムのように死にました。なぜでしょう？それは彼らがアダムと結びついているからです。彼は人類の代表格であり、彼との結びつきのゆえに、彼の罪が人々の罪とみなされるのです。それがアダムがキリストの型と呼ばれる真髄です。私たちの従順はキリストの従順とは違い、それでいて私たちにはキリストと共にいられる永遠のいのちがあるからです。なぜでしょう?それは私たちが信仰によって、キリストと結びついているからです。主は新人類の代表格であられ、主の義は私たちの主との結びつきのゆえに、私たちの義としてみなされるのです(ローマ6:5参照)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アダムがキリストの型と呼ばれることを意味する類似点があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; アダム &amp;amp;gt; アダムの罪 &amp;amp;gt; 彼のうちに罪のとがめを受けた人類 &amp;amp;gt; 永遠の死 キリスト &amp;amp;gt; キリストの義 &amp;amp;gt; 主のうちに義とされた新人類&amp;amp;gt; 永遠のいのち &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下の聖書箇所ではキリストと主の救いのみ業が、アダムと彼の破滅的行為よりどれほど優れているかが、紐ほどかれています。私が最初に言ったことを覚えていてください。ここで私たちが見ているのは、この地上にいるすべての人がいる世であるという神の現実の啓示です。この地上にいるすべての人がこの聖書箇所に含まれています。それはアダムがすべての者の父だからです。ですので、アメリカであなたが出会うすべての人、あるいはいかなる国の人種も、この聖書箇所が言うことに匹敵します。アダムにある死かキリストにあるいのち。これはグローバルな聖書箇所です。見逃さないでください。これがあなたが出会う一人ひとりに定義される現実です。軟弱な世界観は軟弱なクリスチャンを生み出します。これは軟弱な世界観ではありません。歴史のすべてと地球上のすべてを超えて広がります。この世のすべての人と、ネット上のすべての見出しを大きく左右します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様の優位性をほめたたえる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、パウロがキリストとそのみ業が、アダムと彼の行為以上であるその優位性をほめたたえる、３つの方法を見てみましょう。それらは３つの文章にまとめられます。1)恵みの満ちあふれ、2)従順の完璧さ、3)いのちの支配 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 恵みの満ちあふれ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず15節と恵みの満ちあふれです。「ただし、恵み[つまり、17節の義の賜物]には違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」ここのポイントは、神の恵みはアダムの違反より力強いもの、ということです。それが「それにもまして」と言う言葉が示すものです。「それにもまして、神の恵み…は、多くの人々に満ちあふれるのです。」もしひとりの人の違反が死をもたらしたのであれば、なおさらのこと、神の恵みはいのちをもたらすことでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしパウロはそれよりもっと具体的です。神の恵みとは具体的に、「ひとりの人イエス・キリストの恵み」です。「それにもまして、神の恵みと''ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物''とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」二つの異なった恵みがあります。「ひとりの人イエス・キリストの恵み」とは、神の恵みの顕現 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; です。たとえば、テトス2:11、「すべての人を救う神の恵み[つまり、イエス様において]が現れ、」とパウロはそれをそのように言います。また2テモテ1:9でも、「この[ご自身の]恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに…与えられたものであって、」と言います。ですのでイエス様のうちにある恵みが、神の恵みなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これの恵みは主権の恵みです。それはその途上にあるすべてを制します。これには全宇宙の王の権威があることをこの後すぐに見ますが、これは絶対的な恵みです。それが第一のアダムを超えたキリストの優位性をほめたたえるゆえんです。ひとりの人アダムの違反とひとりの人イエス・キリストの恵みが出会うとき、アダムとその違反が敗北します。キリストと恵みが勝利します。キリストに属するものたちにとって、それはとても素晴らしい知らせです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) 従順の完璧さ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、パウロはキリストの恵みがアダムの違反と死に打ち勝つ、つまりキリストの従順の完璧さをほめたたえます。19節、「すなわち、ちょうどひとりの人[つまり、アダム]の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとり[つまり、キリスト]の従順によって多くの人が義人とされるのです。」ですのでひとりの人、イエス・キリストの恵みが、罪を犯すことから守り、死にまで、十字架の死にいたるまで従順であるよう、保ったのです(ピリピ2:8)。そうすれば信仰によって主に結びついている者たちのため、罪のない完全な従順をみ父にささげることができるからです。アダムは自身の従順で失敗しました。キリストは完全に成し遂げられました。アダムは罪と死の根源です。キリストは従順といのちの源です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリストはキリストの型であったアダムのようであられました。両者とも旧人類と新人類の代表格です。神はアダムの失敗をご自身の人類に転嫁され、また神はキリストの成功をご自身の人類に転嫁されるのです。なぜならこの二つの人類はその代表格に一つにされるためです。キリストの非常に優れたその優位性は、従順を完璧に遂行されただけでなく、主の従順のゆえに何百万人もの人々が義と認められるほどのものです。あなたはアダムだけに結びついていますか?あなたは死に至る最初の人類の一人ですか?あるいはあなたはキリストに結びついており、永遠のいのちに至る 新人類の一人ですか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) いのちの支配''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三に、パウロはキリストの満ちあふれる恵みとキリストの完全な従順をほめたたえるだけでなく、最終的にいのちの支配をほめたたえています。恵みはキリストの従順を通して永遠のいのちの勝利へと導きます。21節、「それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」恵みは義を通して(それは、キリストの完璧な義を通して)、永遠のいのちという最頂点に至るまで支配します。そしてそれらすべて、「私たちの主イエス・キリストによ」るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは17節に再び同じメッセージがあります。「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」義の賜物を通しての恵みはいのちの勝利へと導き、それらすべてはイエス・キリストによる。同じパターンです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先ほど、これらの節でパウロが言うキリストにある神の恵みとは、主権の恵みであると、私は述べました。ここで、いわゆる''支配''という言葉を見ます。死は人間に対しある種の権威を持っており、その支配は全体に行きわたります。すべてのものが死にます。しかし恵みは罪と死に打ち勝ちます。一度死んだ者たちでさえも、いのちで支配します。それが主権の恵みです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様の驚くべき従順 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主は最初の人アダムをはるかに超えて輝かれる、これがキリストの素晴らしい栄光です。アダムのあっと言わせるような罪は、キリストの驚くべき恵みと従順と永遠のいのちの賜物ほど大きくありません。事実その完全な義のうちにある神の初めからのご計画は、人類の代表格であるアダムが、新人類の代表格であられるキリストの型となるものだったのです。主のご計画は、この類似と対比によって、キリストの栄光がさらに光輝くようになるというものだったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
17節のみことばはあなたに対し非常に個人的に、そして切実に語りかけます。あなたはどこにいますか?「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、''恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々''は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」「恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々」ということばによく注意して、自分にあてはめて注目してください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 罪人に対する大切なことば ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらは罪人に対する大切なことばです。恵みは無償、賜物は無償、キリストの義は無償。あなたの人生の希望と宝として受け取りますか? もしそうであるならば、あなたは「ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」それを受け取ってください。受洗によってそれを証ししてください。そしてキリストの民の生きた一人となってください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 神が肉体をとられ人となられること。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 20 Mar 2018 19:57:56 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%AE%E8%87%B4%E5%91%BD%E7%9A%84%E4%B8%8D%E5%BE%93%E9%A0%86%E3%81%A8%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%81%AE%E5%BE%93%E9%A0%86</comments>		</item>
		<item>
			<title>新しい天と新しい地における福音の勝利</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E5%A4%A9%E3%81%A8%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E5%9C%B0%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%81%AE%E5%8B%9D%E5%88%A9</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|The Triumph of the Gospel in the New Heavens and the New Earth}}   聖書は最初の章の最初の節で、「初めに、神が天と地を創造された」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/su...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Triumph of the Gospel in the New Heavens and the New Earth}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書は最初の章の最初の節で、「初めに、神が天と地を創造された」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; と言います。27節では神は男と女をご自分の似姿にお造りになり、それから31節でそれはすべて非常に良いと、言われます。3章でアダムとエバは、自分にとって最高の知恵と美しさと望みとしての神を拒否し、神の呪いを自分たちと子孫、そして被造物の自然界にももたらします。「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」(創世記3:17)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
創世記3:15は神の被造物に対するこの呪いが最後の言葉ではないという望みを抱かせてくれます。神は、魂を破壊し被造物を破滅させる蛇に、「おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとにかみつく」と言われます。パウロはこの呪いの真ん中にあるこの希望を見て、ローマ8:20―21で次のように表現します。「被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、''望みがある''からです。被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 耐えられない苦しみの光景 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、以下は全体像の輪郭です。神は無から全宇宙をお造りになり、それら主がお造りになったものはすべて良かったのです。何の欠陥もなく、苦しみも痛みも、死も悪もありませんでした。そしてアダムとイブは非常に、ゾッとするほど恐ろしい悪、つまり、神との交わりよりも木の実を好むという、言葉では言い表せないほどの悪を自分の心の内に犯し、神は彼らに死刑を宣告されただけでなく(創世記2:17）、被造物のすべてをも、パウロが呼ぶところの「虚無」と「滅びの束縛」に服させられました(ローマ8:21―22)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、苦しみも痛みも死もなかったのが、今やすべての人は死に、苦しみ、動物も苦しみ、川が溢れて突然岸を超え村々を押し流し、雪崩はスキーをする者たちに覆いかぶさり、火山は都心を破壊し、津波は一晩で250,000もの人々の命を奪い、嵐は800人を乗せたフィリピンのフェリーを沈め、エイズやマラリア、癌、心臓病は何万という老若男女を殺害し、巨大な竜巻は中西部の町全体を吹き飛ばし、日照りと飢饉は何万という人々を飢え寸前へと追いやります。不慮の事故が起こり、友達の息子が穀物倉庫に落下して命を落とします。目を無くす人がいます。赤ちゃんが顔がないまま生まれます。もし私たちがこの世の一万分の一の苦しみをいかなる瞬間でも見ることができたら、私たちはその恐怖で卒倒するでしょう。神だけがその光景を見て絶えることができ、ご自分を維持することのできるお方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 被造物の虚無に描写される罪のおぞましさ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ神は、人間の罪のために、自然界を虚無に服させられたのでしょうか。自然界は罪を犯しませんでした。人間が罪を犯したのです。しかしパウロは、「''被造物''が虚無に服した」と言います。''被造物''は「滅びの束縛」の下に置かれたのです。なぜでしょうか?神は、「土地は、''あなたのゆえに*のろわれてしまった」(創世記3:17)と言われます。でもそれはなぜでしょう?なぜ被造物のうちには、人の道徳的失敗に応じた自然災害があるのでしょうか?なぜ罪を犯したアダムの子孫すべてに対する単純な死だけではおさまらないのでしょうか?なぜ万華鏡のように千変万化する恐ろしい苦しみが何世紀も続くのでしょうか?なぜ胸を締め付けられるような痛ましい障害を抱えた子供たちが多くいるのでしょうか?'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは私たちのまわりの病気や災害に見る物理的恐怖が、罪がいかにおぞましいものであるかという鮮明な絵となるよう、神が自然界を呪いの下に置かれたから、というのが私の答えです。言い換えれば、自然悪は、道徳的悪の言葉では表せないほどのおぞましさを指す、道路標識です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は道徳的そして霊的世界の混乱させられた、つまり、罪のために、自然界を混乱させられました。私たちの堕落した現状では、罪の異常な邪悪さに盲目である私たちの心を持っては、私たちは罪がいかに気持ちが悪いものであるかを見たり感じたりすることができません。神の栄光を自分がいかに軽くあしらっているかに頭にきたり吐き気を催す人は、ほとんど誰もいません。そのくせ自分の体が痛みで襲われると途端に、説明するよう神を呼び出します。私たちは主の栄光を傷つけることを何とも思いませんが、神が私たちの小指を傷つけられたら、途端に自分の道徳的憤りを沸騰させます。それこそ私たちがいかに自己を高くし、神を追い出す者たちであるかということを示しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ラッパの音である肉体的痛み ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
肉体的痛みは、道徳的そして霊的に何かが極端に間違っているということを私たちに教える、神が物理的ラッパで鳴らされる音です。病気と奇形はサタンのプライドです。しかし神の決定的摂理の下で、それらは、罪が霊の領域においてどのようなものであるかを表す神の描写です。中には最も信心深い人でそのような障害を負った人達がいますが、それは事実です。災害は罪の報酬であるということと、その一千倍もひどいものをいつの日か裁きで私たちが受けるという予告です。それらは警告なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ああ、私たちのすべてが、私たちの造り主より他のものを好むことが、主を無視し、主に信頼せず、主を卑しめることで、リビング・ルームのカーペットに注意を払うほど、心の中で主に注意を払わないことが、いかに不快で、いかに侮辱的で、いかに忌まわしいかを見て感じることができたなら!これを見なければ、私たちは罪からの救いのためにキリストに向くことはないですし、苦痛から逃れたいという以外の他の理由で御国へ行きたいと思うことはありません。そして、苦痛から逃れたいという理由で御国へ行きたいというのは、除外されるべきです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 目を覚ましなさい!罪とはこのようなものです! ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、憐れみ深い神は、病と痛みと災害のうちにある私たちにこう叫ばれますー目を覚ましなさい!罪とはこのようなものです!罪とは以下のようなものです。(黙示9:20、16:9、11参照)神と交わることより、テレビを好むこと。贖い主を求めるのではなく、苦痛から逃れるため御国を求めること。自然界は、神を卑しめることは大したことではないと考える夢の世界から、私たちを目覚めさせることをねらいとする恐ろしさでいっぱいです。それ(神を卑しめること)は恐ろしく大したことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ベツレヘム教会の中にはひどい困難に直面している人たちがいるということを知っておりながら、私はこの真理を９/11の4年目の記念日に、私たちの教会で説教しました。その２、３週間後、礼拝前の祈祷会で兄弟姉妹らと共におりましたら、重度の障害を負った子を抱える若い母親が、「愛する主よ、息子の障害の恐ろしさを感じるように、私に罪の恐ろしさを感じさせてください」と祈ったのです。兄弟の皆さん、私は、神のみことばにおののく特使である牧師であることを光栄に思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、全体像の描写に戻ります。神は無から全宇宙をお造りになりました。主がお造りになったものはすべて、良かったのです。何の欠陥も、苦しみも、痛みも、死も、悪もありませんでした。そしてアダムとエバが心の中で犯したことは、神が死刑を宣告しただけでなく(創世記2:17)、自然のすべてを「虚無」と「滅びの束縛」に服させるほど、非常に恐ろしい悪でした(ローマ8:21―22)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは神が虚無に服された私たちと被造物はどうなるのでしょうか?この世の人生において、6ヶ月の乳児以上の精神力を持つことのない子どものいる親に、何と言えばいいでしょうか?涙と希望の喜びをもって(「悲しんでいるようであっても、いつも喜んで」)、ローマ書8:18―25のこの残りの句を彼らに読んであげるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
若い牧師たちにとっては、明確にさせなければならないこれより重要な聖句がいくつかあります。27年前ベツレヘム教会へ来たとき、私が説いた最初の説教のうちの一つに、「キリストと癌」と言うものがあります。教会の人たちに、病いと苦しみに関する私の神学を知ってもらいたいと思ったのです。私が病院にお見舞いに伺ったときに、もしこの人に十分な信仰があったら神は当然癒してくださるだろうと、私が思わないことを、理解して欲しいと思ったのです。特に23節、「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいてる私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」を見て欲しいと思いました。御霊を受けている人々はうめき、自分の体が贖われることを待ち望んでいます。この聖句全体は聖書の中で、宇宙規模で重要で、牧会上最も貴重な箇所です。それは私たちを新しい天と新しい地と、新しい体へと導き、この時代における私たちの現在のうめきを、全く現実的絵画にして見せてくれ、そして自分が救われたことにある希望で、私たちを支えてくれます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから4つの見解でそれを説明させてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 神は、この被造物が虚無と滅びの束縛から解放されることを約束しておられる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
21節前半、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、」。自然界、つまり、物質的、物理的世界は、呪いと、虚無と滅びの服従から解放されます。これはパウロの、新しい天と新しい地を言う言い方です。この地とこの空は、解放されます。''この''地*は新しい地となります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; イザヤ65:17、「見よ。まことにわたしは''新しい天と新しい地''を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; イザヤ66:22、「わたしの造る''新しい天と新しい地''が、わたしの前にいつまでも続くように、――主の御告げ。――あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 2ペテロ3:13、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む''新しい天と新しい地''を待ち望んでいます。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 黙示録21:1、4、「また私は、''新しい天と新しい地''とを見た。以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。･･･彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 使徒3:19-21、「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの''万物の改まる時''まで、天にとどまっていなければなりません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ8:21のパウロの言葉は、古い地と新しい地の間の継続をはっきりと証ししています。「被造物自体も、滅びの束縛から''解放''され」。ですから彼は「新しい」というのが、取り替えられるのではなく、「新しくされる」という意味であると理解しています。それは、「新しい車を買ったよ」ではありません。あるものが解放されるとき、それは廃止されたり、放棄されたりはしません。変わりはするかも知れませんが、まだそこにあります。そして自由なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからその障害児を抱えた母親に言えることの一つは、「お母さん、聖書はあなたの子が生涯、神のご栄光のために、この地上でジャンプしたり走ったりすることはないかも知れませんが、病いと障害のない、新しい地がやって来ますよ。この子はその生涯だけでなく、永遠に、神のご栄光のために走ってジャンプするようになりますよ」です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. この自然界の滅びの束縛からの解放は、神の子たちの栄光の自由に加わることである ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
21節、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、''神の子どもたちの栄光の自由''の中に入れられます。」ここでの順序は重要です。被造物が堕落した人間の滅びに従ったように、被造物は贖われた人に従って、栄光へと加えられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(苦しんでいる子の親である)苦しんでいる聖人に、「聖書の言っていることを見てご覧なさい。自然の秩序、つまり被造物は滅びの束縛から解放されます。あなたの体、またあなたの息子さんの体もこの順序の一部ではないですか?そうです。そうであれば、あなたも、あなたの子も、滅びからの栄光の解放を体験して、新しいよみがえりの体を持ちます。なぜならあなたも解放されたものの一部だからです」と言いたくなるかも知れません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは断固として、パウロの見解ではありません。新しい秩序のもとに、私たちの体が贖われることは事実です。23節後半、「私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」しかし私たちのからだは、被造物の一部としてこの新しさの中に引きずり込まれて行くのではありません。それは逆です。被造物が「神の子どもたちの栄光の自由の中に」引きずり込まれて行くのです。21節、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、''神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます''。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神の子どもたちの栄光の自由が先にやって来ます。それから、主の子どもが、イエス様がみ父の国で太陽のように輝くであろうと言われた(マタイ13:43)、新しい、栄光あるからだへと変えられ、そして被造物のすべてが神によって、栄光ある家族にふさわしい住居へと変えられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから障害児を抱えた親にこう言うのです。「あなたの子が栄光ある新しい世界に合うよう変えられるのではありません。新しい世界が栄光へと変えられたあなたの子とあなたに合うよう変えられるのです。」21節のポイントは、神はご自身の子どもたちを愛され、彼らにとって最高のものをお与えになる、と言うことです。「''神の子どもたち''の栄光の自由」という文章に注意してください。聖人たちの栄光の自由でも、クリスチャンの栄光の自由でも、贖われた者の栄光の自由でもありません。それは事実ではあります。でもそれはパウロの見方ではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでパウロには、5節前のものが念頭にあります。ローマ8:16―17、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人です。」21節のポイントは、新しい天と新しい地は子どもたちの相続地だと言うことです。全世界そのものは重要ではありません。神の子どもたちの遊び場として、また神殿や畑や工芸所として、重要なのです。神はご自分の子供たちを全世界のためにデザインされるのではありません。全世界をご自分の子どもたちのために設計されるのです。これは初めから事実であり、終わりまで事実です。そして特に主の人となられた御子、神であられ人であられるイエス･キリストにとって、事実です。すべてのものは主のために造られました。あなたの障害を持ったお子さんは、新しいことを身につける必要がなくなります。お子さんのからだは完全に贖われ、新しくされます。被造物のすべてが主の養子とされるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 新しい、解放された被造物の到着は、この世との継続があるばかりでなく、この世との切れ目があるということで、出産と比較されている。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
22節、「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみ(''sunōdivei'')をしていることを知っています。」子どもが生まれる時、子どもは馬ではなく、人間です。そこには継続があります。しかし子どもは全く同じ人間ではありません。ここでこのように、子どもと母親の関係が、新しい地と古い地の関係と全く同じであると意味するように、新しい地の到着を子どもの出産に無理やり喩えることができるとは私は思いません。それは言葉に極端な意味を持たせることになります。でもそれらは切れ目かも知れないという質問を私たちのうちに起こし、他にどのような切れ目があるのだろうかと、他の聖書箇所を見てみるよう、私たちを促します。ここでの文脈は当然のことながら、このからだは虚無と滅びから解放される、と言うものです。でもそれ以上のものがあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際、私たちはこの継続と切れ目の両者をはっきりと指し示す箇所を見ます。パウロの中で一番はっきり指し示すのは、1コリント15章です。彼は35節で質問をします。「ところが、ある人はこう言うでしょう。『死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。』」そして37―51で次のように答えます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく［それは切れ目です］、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります[これは単に贖い主だけでなく、創造主のことを言っているように聞こえます。それは先祖たちのからだが腐敗し、そのからだを作っていた原子は今や何千という人々や植物や動物たちのからだの中であると考えると、慰められます]。･･･朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。［パウロは何度も何度も、''それ''が蒔かれ、''それ''がよみがえらせられると言います。それは継続です。］血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです［ですので''からだ''と言う言葉は、継続を意味し、''血肉''と''霊''という言葉は、切れ目を意味します］。･･･私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです［そのかたちは同じではありません。そこには切れ目と継続があります］。兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
確かに奥義です。私たちはみな、変えられるのです。しかし、ヨハネが言うように、「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません」(1ヨハネ3:2)。イエス様は、「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」(マタイ22:30)と言われます。事情は変わっているでしょう。例えば、ペテロはその第二の手紙で、今日の世が単純に回復されることや改善されることを見てはいません。彼は2ペテロ3:7で、「今の天と地は、同じみことばによって、''火に焼かれる''ためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです」と言います。使徒ヨハネは、「以前の天と、以前の地は過ぎ去り、''もはや海もない''」(黙示21:1)と言います。「都には、これを照らす''太陽も月もいらない''。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである」(黙示21:23)。「''もはや、夜がない''」(黙示22:5)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
夜がなく、太陽がなく、月がなく、海がなく、結婚がなく、この世の霊的体は火を通されます。それでいて、実際に継続があります。ピリピ3:21、「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」そして私たちのからだも同じ姿になる、イエス様のよみがえりのみからだとは、どのようなからだなのでしょうか?それは目に見えるものでした。空間で言うと説明し難いもので、並外れた方法で現れたり消えたりしました。ルカ24:39―43から驚くべきまた重要な言葉を見てください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「『わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主は魚をお食べになりました。ですから３つ目のポイントは、新しい天と新しい地においては、この世との''継続''と、私たちにとっては「奥義」である、''切れ目''がある、と言うことです。私たちがどのようなものになるかははっきりされていません。私たちが主のようになるというのは分かっています。ですから障害児を抱えた親が、「私たちの子は成長するのでしょうか?自分で食べるようになるのでしょうか?被造物で何かを作ることができるようになるのでしょうか?」と聞いてくるとき、私たちは、神はこの世を造られ、無駄にするために維持しておられるのではないと、答えます。あなたの子はイエス様と一緒に食べます。神はこの子の最高の喜びと、神の最高のご栄光のために、この子にある程度の発達をお与えになるでしょう。でもそれ以上の奥義があります。私たちはそれを鏡を通して見るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではこれら多くの奥義を踏まえて、彼らの深い確信は一体何でしょうか?そして彼らの子と、また彼ら自身にとっての最高の希望とは何でしょう?それが最終的な４つ目の見解と、イエス･キリストの福音になります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4. 新しい被造物のうちで贖われたからだを持つことの希望は、福音にある信仰を通して私たちがいただいた救いによって確保されているが、これが私たちの一番の希望ではない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特にローマ8:23後半―24に注意してください。「私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。''私たちは、この望みによって救われているのです''。」「私たちはこの望みによって救われている」とはどういう意味でしょうか?これは与格(tē gar elpidi esōthēmen)です。恐らく、私たちが救われたというこの望みに関連する、関係の与格です。これは、この望みはもちろん、私たちが救われたときに確保されたという意味を含んでいます。そしてキリストが私たちの罪のために死なれ、よみがえられた(1コリント15:1―3)という福音に信頼することによって私たちは救われているので、この望みは福音によって確保されています。福音は私たちをこの望みに導くことで勝利するのです(ローマ6:5、8:11）。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし私たちはそれをそのままにしておいてはいけません。福音は、新しい天と新しい地がやって来ることと、私たちが、永遠にそこで生きるために贖われたからだでよみがえることの、堅固な岩の保証だからです。私たちの身代わりに十字架につけられ、私たちに赦しを与え、義を与え、すべてを支配するそのみ力によって死からよみがえることによって、このみわざを立証されたキリストの福音ーそれが私たちが、恐れと罪悪感に苛まれ、立つことのできる岩を探し求めている親に、語ることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 福音の最終的賜物とは、十字架につけられたキリストのうちにおられる神 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし福音の最終的な賜物とは、新しい天と新しい地ではありません。福音の最終的良きこととは、贖われたからだではありません。福音の最終的良きこととは、赦し、贖い、なだめの供え物、あるいは義認ではありません。これらすべては目的を達成するための手段です。福音を良い知らせとし、それ無しにはこれらの他の賜物が良い知らせにならない、福音の最終的良きこととは、十字架につけられよみがえられた御子の栄光のうちにおられる、その無限の美しさのゆえに喜ばれ、その無限の価値のゆえに宝とされ、主の御子の似姿に私たちが変えられているゆえに反映されている、神ご自身です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 福音とは、神のご栄光の満ち満ちたあらわれ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして新しい天と新しい地がやって来るその最終的理由は、よみがえられたキリストがその人としてのみからだを投げ捨てる必要がもうなく、それを神の恵みの栄光が最も顕著にあらわされているカルバリの丘の永遠の紋章として保持するためです。物質的世界全体がまず最初に造られましたが、それはいずれ新しいかたちになります。それは神の御子が人として来られ、肉によって苦しまれ、十字架にかけられ、死からよみがえられ、神であり人であられるお方として君臨され、数え切れないほどの贖われた人々の群れに囲まれるためです。それらの人々はその世界で、霊的そして物理的に神の栄光で輝くからだを持っているので、主の栄光を最も詳細に、あふれんばかりに、見えるかたちで反映するように、霊的からだで歌い、話し、働き、遊び、愛し合います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳では40節が欠如しているため、ここでは新共同訳聖書、1987年版引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 02 Mar 2018 20:45:54 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E5%A4%A9%E3%81%A8%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E5%9C%B0%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%81%AE%E5%8B%9D%E5%88%A9</comments>		</item>
		<item>
			<title>繁栄の説教ー虚偽であり、また命取り</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%B9%81%E6%A0%84%E3%81%AE%E8%AA%AC%E6%95%99%E3%83%BC%E8%99%9A%E5%81%BD%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8A%E3%80%81%E3%81%BE%E3%81%9F%E5%91%BD%E5%8F%96%E3%82%8A</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「繁栄の説教ー虚偽であり、また命取り」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Prosperity Preaching: Deceitful and Deadly}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
繁栄の説教をする教会についての記事を読むとき、「もし自分がキリスト教の中の人間でなかったら、キリスト教に加わりたいと思わない」というのが私の反応です。言い換えれば、これがイエス様のメッセージであるならいらないよ、と言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
裕福になるために人々をキリストへと引き寄せるのは、ともに虚偽であり、命取りです。それは''虚偽''です。なぜならイエス様が私たちをご自身へと招かれるとき、「あなたがたはだれでも、自分の財産を全部捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」(ルカ14:33) &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; というふうに言われるからです。またそれは''命取り''です。なぜならお金持ちになりたいという願望は、「人を滅びと破滅に投げ入れる」(1テモテ6:9)欲に陥いさせるからです。それゆえ以下は福音を語る方々への私の嘆願です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 人が天の御国に入るのが困難になるようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様は、「裕福な者が神の国に入るのは、何とむずかしいことでしょう」と言われました。弟子たちは、「繁栄」運動に関わる人々もそうであるべきですが、大変驚きました。それでイエス様は彼らの驚きをさらに高く引き上げて、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と言われます。彼らは信じられないと言った気持ちで、「それでは、だれが救われることができるのでしょう?」と反応します。イエス様は、「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」と言われます(マルコ10:23―27)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
繁栄を語る説教者たちに対する、私の質問です。なぜあなた方は、人が神の国に入るのが困難になるようなミニストリーに焦点を合わせたいと思うのですか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. 人々のうちに自虐的な願望を起こすようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです」と言いました。しかしその一方で、裕福になりたがる欲に対し警告します。そして暗に、富を捨てるよう人々を助けるどころか欲をかき立てるような説教者たちに、このように警告します。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛を持って自分を刺し通しました」(1テモテ6:6―10)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから繁栄を語る説教者たちに対する私の質問は、なぜ滅びと破滅へと陥いさせる、数々のもので自分を痛めつけつけ刺し通すよう人々を励ますようなミニストリーを築き上げたいと思うのですか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 虫とさびのつくようなものをすすめるようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様はこの地上に宝をたくわえる努力に対し警告されます。すなわち、主は私たちに、たくわえる者ではなく、与える者になりなさいと言われるのです。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません」(マタイ６:19―20)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうです、私たちのすべてが何かしらの物をたくわえます。でも私たちのすべてが自分のうちに、生まれつき貪欲になる傾向を持っていながら、なぜイエス様から焦点をはずして、それを逆にするようなことをするのでしょう? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4. 富をたくわえる方法がむずかしくなるようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは私たちに盗んではいけないと言います。その変わり、自分の手で労しなさいと言います。でもその最大の目的は、ため込むためではなく、あるいは何かを''得る''ためでさえもありません。それは「人に''施しをするため''」です。「かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい」(エペソ4:28)。これはもっと与えるために''裕福になること''を正当化するものではありません。これはもっとお金を稼ぎ、手元に少なくたくわえなさい、そうすればもっと与えることができる、と言う召しです。年間20万ドルを稼ぐ人が、年間8万ドルを稼ぐ人と違う方法で生活しないといけない、と言う理由はまったくありません。戦時中の生活スタイルを探して下さい。支出の上限を設定して下さい。そして、残りを人にあげて下さい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ他人に惜しみなく与えるためには富を得なければないと考えるよう、人々を励まそうと思うのですか?もっとシンプルな生活をし、もっと惜しみなく与える者になるよう励まそうではありませんか。そうすることによって、所有物ではなく、キリストが彼らの宝であるという強い証が、彼らの惜しみなさに加えられるのではないでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 5. 神が私たちの見方であるという、お金ができない約束を、信じないよう促すようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヘブル人への手紙の著者が、持っているもので満足するよう私たちに教えるその理由は、その逆が神の約束を信じないことを意味するからです。彼は、「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう』」(ヘブル13:5―6)と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし聖書が、私たちが持っているもので満足するのは、神が私たちを決して見捨てられないという約束を尊重することであると教えるのであるなら、なぜ金持ちになりたいと思うよう人々に教えようとするのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 6. 人々がふさがれて息ができずに死んでしまうような原因になるミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様は、私たちにいのちを与えるものである神のみことばのその有効性を、富によってふさがれることが可能であると警告されます。それはいばらの中で成長し、ふさがれて死んでいく種のようだと主は言われます。「みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心遣いや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです」(ルカ8:14)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜイエス様が「ふさがれて死んでしまうよ」と警告されることそのものを追求するよう、人々を励まそうとするのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 7. 塩の塩気をなくし、明かりをカゴの下に置いてしまうようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クリスチャンを地の塩、世の光とするものとは、一体何でしょうか?それは富ではありません。富への憧れと富を追求することは、味も見た目もまさにこの世のものです。この世がすでに信じていることと何ら変わらないものを、この世に提供することと同じです。繁栄の説教の最悪の悲劇は、キリスト教を受け入れるための霊的覚醒が一切必要ない、もっと貪欲になるだけでいい、と教えることにあります。イエス様の御名によって金持ちになることは、地の塩でも世の光でもありません。そこにはこの世の反映が見えるだけです。そしてそれはうまく行きます。この世はそれを信じます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様が言われるこの文脈から、塩と光が一体何であるのかが分かります。それはイエス様のために喜んで苦しむその意欲です。イエス様はこのように言われます、「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪行を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。''喜びなさい''。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。･･･あなたがたは、地の塩です。･･･あなたがたは、世界の光です」(マタイ5:11―14)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちのうちにおられるキリストをこの世に味わわせ(塩)、見せる(光)のは、この世が愛するように富を愛することではありません。むしろ、苦しみを通して他人を愛し、その間ずっと、自分の報いはイエス様とともに御国にあると喜んでいられる、クリスチャンの意思と能力がこの世にキリストを味わわせ、見せるのです。これは人間の言葉では説明できないものです。超自然です。繁栄の約束で人々を魅了することの方が、単純に言って自然です。でもそれはイエス様のメッセージではありません。それは主が達成するために死なれたものではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 01 Mar 2018 21:03:32 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%B9%81%E6%A0%84%E3%81%AE%E8%AA%AC%E6%95%99%E3%83%BC%E8%99%9A%E5%81%BD%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8A%E3%80%81%E3%81%BE%E3%81%9F%E5%91%BD%E5%8F%96%E3%82%8A</comments>		</item>
		<item>
			<title>結婚ー神の契約を守る恵みのショーケース</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%83%BC%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%A5%91%E7%B4%84%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%8B%E6%81%B5%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B9</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「結婚ー神の契約を守る恵みのショーケース」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Marriage: God's Showcase of Covenant-Keeping Grace}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。･･･3:12それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。18妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。19 夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結婚について言える最も基本的なことは、それが神の成されることで、また結婚について言える最も根本的なことは、それが神が展示されるものであるということを、この過去2週間で見てきました。この二つのポイントはモーセが創世記2章で指摘しています。でもイエス様とパウロが、新約聖書でそれらをもっとはっきりとさせています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様ー「結婚は神の成されること」  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様は結婚が神の成されることである、と言うことを最もはっきり述べておられます。マルコ10:6―9、「しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです[創世記1:27]。『それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです』[創世記2:24]。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」これは結婚が単に人が成すものではないと言う、聖書の最も明確な発言です。「神が結び合わせたもの」と言うのは、神が成された、と言うことを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== パウロー「結婚は神が展示されるもの」  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが最もはっきりさせるポイントは、結婚は神が展示されるように設計されている、と言うことです。エペソ5:31―32で彼は創世記2:24を引用し、それから結婚が絶えず含んできた奥義を述べます。「『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」言い換えると、父と母を離れ、妻と結ばれ、一体となることを含む契約は、キリストと主の教会の間の契約の肖像なのです。結婚は最終的には、キリストと主の教会の間の契約を守る愛を示すために存在します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== キリストと教会の型  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ノエルに今日私に他に言ってほしいことがあるか尋ねました。「結婚がキリストと教会の型であることを言い過ぎても言い過ぎることはないわよ」と彼女は言いました。そう言う彼女が正しいと思う少なくとも３つの理由がそこにはあります。1) これは結婚の薄汚いホームコメディー的イメージを払拭し、神が本来結婚にお与えになった素晴らしい意味を与えます。2) キリストがご自身の花嫁を、恵みによってのみ買い取って支えられるので、これは結婚に恵みの確固たる土台を与えます。そして3) これは夫の指導的地位と妻の従順がとても重要でまた十字架につけられたものであることを示します。すなわち、それらはキリストと教会を示すものとして結婚そのものの意味に織り込まれているのですが、夫と妻両者のプライドと奴隷のような関係を止めさせるため、キリストの自己否定のみわざによって定義されるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結婚が神の契約の愛を示すものであるという土台を築き上げることー私たちは、それらの理由の第一のものに、最初二つのメッセージを費やしました。結婚は、男女が一つとなる新しい肉の一致のうちに、一生涯をかけて誠実な夫と誠実な妻となることを約束する、二人の間の契約です。この契約は厳粛な誓約と性的結合によって封印され、神の契約を守る恵みを見せるために設計されています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 恵みのうちにある確固たる土台  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが今日のメッセージのタイトル、『結婚ー神の契約を守る恵みのショーケース』です。それでノエルが、結婚はキリストと教会の型であると言うことを言い過ぎても言い過ぎることはない、と言うのが正しい二つ目の理由に移ります。つまり、これは、キリストがご自身の花嫁を恵みによってのみ買い取って支えられるので、結婚に恵みのうちにある確固たる土台を築く、と言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えると、今日の要点は、キリストのこの教会との新しい契約が、血によって買い取られた恵みによって造られ支えられているので、それゆえ、人の結婚はその新しい契約の恵みを見せるためのものである、と言うことです。そして神の恵みに安息することと、神との縦の体験から彼ら自身の配偶者との横の関係へと外側に傾く方法によって、それを見せるのです。つまり、結婚においてあなたは、神の赦しと義認と助けがあるという約束の延長として、毎時神の赦しと義認と将来の恵みの約束に喜んでより頼むことと、あなた自身の伴侶に対し毎時折れることに生きるのです。それが今日の要点です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 赦しと義認の恵みの重要性  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(結婚しているクリスチャンだけでなく)すべてのクリスチャンがすべての人間関係においてこれ、つまり、神の赦しと、義認と、すべてを満たす恵みに毎時生き、それから自分の人生で出会うすべての人に対し傾くべきであると言うことを私は分かっています。イエス様は私たちの人生のすべてが神の栄光を見せるためのショーケースであると言われます(マタイ5:16)。しかし結婚は神の契約の恵みを示すユニークなものとして設計されています。それは、他のすべての人間関係と違って、夫と妻は契約によって一生涯の中で有り得る一番近い関係で結ばれるからです。指導的地位と従順というユニークな役割もありますが、それは今日の私の要点ではありません。それは後に触れたいと思います。今日は夫と妻を、頭とからだのたとえとしてではなく、クリスチャンそのものとして、考えます。男女が指導的地位と従順のユニークな役割を聖書的にまた喜んで適用する前に、彼らは赦しと義認と助けの約束の上に自分の人生を築き上げ、それからそれを自分の配偶者に向かって横に沿って傾けるということが、一体何であるかを発見しなければなりません。ですからそれが今日注目するものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは先週のメッセージの用語に置き換えてみると、裸でいながら恥ずかしいと思わない(創世記2:25)でいられる鍵は、事実、夫と妻が恥ずべき多くのことをするとき、神の縦の赦し、義の恵みが、横にお互いに折れ曲がり、そしてこの世に示される体験である、と言えます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 来るべき神の怒り  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この真理の基本をコロサイ書でちょっと見てみましょう。コロサイ3:6から始めます。「このようなことのために、神の怒りが下るのです。」もし、「自分の問題を抱えた結婚について最後に聞きたいのは、神の怒りだ」と言うのなら、あなたは2004年12月26日に「俺の行き詰まった漁業で一番最後に聞きたいのは、津波についてだね」と言う、インドネシアの西海岸にいるイラついた漁師のようなものです。神の怒りについての深い理解と恐れこそ、多くの結婚が必要とするものです。それは、それなしには福音がただ単なる人間関係に薄められ、その聖書的栄光を失うからです。そしてそれなしには、配偶者に対する自分の怒り、憤りは、無限に恐ろしい怒り、つまり、神のあなたに対する怒りが、恵みによっておさまると言うことがどういうものなのかをあなたが実際に味わったことがないため、どうしても大きすぎておさまらないと、考えたくなるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の怒りを取りのぞく  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから神の怒りとその取りのぞきから始めます。では私と一緒にコロサイ2:13―14に戻ってください。「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それら最後の言葉はとても重要です。これ、つまり、この私たちを責め立てている債務証書を、神は取りのけ、十字架に釘付けにされました。それはいつ起こったのでしょうか?2000年前です。それはあなたの内に起こったわけでも、あなたの助けを借りて起こったのでもありません。神があなたのために、あなたが生まれる以前にあなたの外で成されたのです。これが私たちの救いの偉大な客観性です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 債務証書が十字架で無効にされた  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このすべての真理で最も素晴らしい、驚くべきものを、必ず見てください。神はあなたを怒りの負債者にしていたあなたの罪のすべて(罪は神のみ怒りを引き起こす、主に対する犯罪です)を記録したものを取られ、あなたの目の前で持ち上げて、あなたを地獄へ送る認可書として用いる代わりに、ご自身の御子の手のひらに押し当て、釘を突き通されて十字架に貼り付けられたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
誰の罪が十字架に釘付けにされたのでしょうか?誰の罪が十字架上で罰せられたのでしょうか?答えは、私の罪です。そしてノエルの罪です。私の妻の罪と私の罪、自分を救うことに絶望し、キリストのみに信頼する者の罪です。誰の手が十字架に釘付けにされたのでしょうか?誰が十字架上で罰を受けられたでしょうか?イエス様です。これには美しい名称があります。「身代わり」と言われるものです。神は私の罪を、キリストの肉において有罪とされました(ローマ8:3)。夫たちよ、あなたはこれを強く信じ過ぎても信じ過ぎることはありません。妻たちよ、あなたはこれを強く信じ過ぎても信じ過ぎることはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 義認は赦しを越える  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてさかのぼって、ローマ書からの私たちの義人に関する理解のすべてをここに引き寄せると、私たちはさらに、「義認は赦しを越える」と言うことができます。私たちはキリストのゆえに赦されるだけでなく、神はキリストのゆえに私たちを正しいと宣言されるのです。神は私たちに二つのことを要求されます。私たちの罪が処罰されることと、私たちの人生が完璧であることです。私たちの罪が処罰され、人生が義でなければなりません。でも私たちは自分で処罰を受けることはできませんし(詩篇49:7―8)、また自分に義を与えることもできません。義人はいないからです。一人もいないのです(ローマ3:10)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、神は私たちに対するはかり知れない愛から、その両者を成すためにご自身の御子をお与えくださいました。キリストは私たちの罰を受けられ、キリストは私たちの義を行ってくださるのです。そして私たちがキリストを受け入れるとき(ヨハネ1:12)、主のお受けくださった罰と主の義のすべてが、私たちのものとみなされるのです(ローマ4:4―6、5:19、5:1、8:1、10:4、ピリピ3:8―9、2コリント5:21)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 外側に傾いた義認  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし結婚が神の契約を立てられ、契約を守られる恵みを示すものであるとしたら、これは自分の伴侶に向けて外側に、横に傾いていなければならない、縦の現実です。私たちはこれをコロサイ3:12―13に見ます。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」ーあなたの伴侶を許してください。主があなたを「忍ばれる」ように、あなたも自分の伴侶に忍耐深くあるべきです。主はあなたが主のみこころにはるかに及ばないのにあなたを毎日「忍ばれる」のです。事実、キリストがあなたに期待されることと、あなたが達成することの隔たりは、あなたが伴侶に期待することと、あなたの伴侶が達成することの隔たりよりも、はるか無限に大きいのです。キリストは絶えず私たちよりももっとお赦しになり、もっと忍耐されます。自分が赦されたように、許してください。主があなたを忍ばれるように、忍んでください。これはあなたが信者と結婚していようが、未信者と結婚していようが、同じです。キリストの十字架にある、あなたに対する神の恵みの測りを、あなたの伴侶に対するあなたの恵みの測りとして下さい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてもしあなたが信者と結婚しておられるなら、これを加えることができますー主がキリストにあってあなたを義と認められるように、あなたが実際の行動や態度で義でなくとも、あなたの伴侶を、たとえ彼が、あるいは彼女がそうでなくても、キリストにあって義と認めてください。言い換えると、コロサイ3章は、縦の赦しと義認の恵みを取って、それを自分の伴侶に向けて横に傾けさせなさい、と言います。キリストの契約を守られる恵みを示すこと、これこそ結婚が最終的に目的とすることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 福音に根ざした知恵の必要性  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さてここで、これらの福音の真理と長い年月を欠けた痛い、誠実な体験に根ざした霊的に深い知恵を求めて叫ぶ、何百という複雑な状況が浮かび上がってきます。つまり、私はこのメッセージをそれぞれの特定の必要に合わせて適用することなど、到底できません。説教することの他に、私たちには聖霊が必要です、祈りが必要です、一人ひとりがみことばを深く考える必要があります。他の人たちの見解を読んで学ぶ必要があります。困難を通され年季が入った知恵ある友の助言が必要です。私たちのすべてが崩れゆくときに支えてくれる教会が必要です。ですから私には、あなたに助けとなるために言うべきことすべてを言うことができるなどという錯覚は、ありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 縦に生き、そして外側に折れる  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
赦しと、他者を義と認める契約の愛を私がなぜ強調するのか、そのいくつかの理由を上げて閉じるのがいいでしょう。他者を喜ぶということを私は信じていないのでしょうか?信じています。自分の体験と聖書が私をそこへ押してくれます。確かに、イエス様はご自身の花嫁である教会と結婚され、そして主をお喜ばせすることは共に可能であり良いことである、というのは明確です(コロサイ1:10)。主はもちろんのこと、私たちが主を喜ぶのに無限にふさわしいお方です。二人の人がへりくだって、お互いを喜ばせようと神のみこころに従った方法で変わるよう求め、お互いの肉体的また感情的必要を満たし、あるいはすべての良い方法でお互いを喜ばせるーこれが結婚の理想です。そうです。キリストと教会の関係はそのすべてを含みます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし神の恵みから縦に生き、自分の伴侶に向かって赦しと義認において横ばいに傾くことを私が強調するその理由は、1) それは罪と違和感がもとで起こる対立があるからです(そしてあなたはお互いが単純に違うということと、何が罪であるかをお互いに認め合うことさえできないのです)。2) それは難しい、厳しい忍耐と赦しのわざが、愛情がすっかり無くなってしまったように見えるところに愛情を湧き起こさせるからです。そして、3) それは二人のまったく違う、とても不完全な人が、キリストにより頼むことによって、困難の炎の中で誠実な人生を築き上げるときに、神が栄光をお受けになるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== キリストにあって、神はあなたと、あなたの伴侶をお赦しくださった  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それを次回取り扱いますが、ノエルと私が発見したことをお話したいと思います。恐らくその説教は、「堆肥の山の説教」となるのではないかと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それまで、夫と妻の皆さん、神は、「私たちのすべての罪を赦し、私たちを責め立てている債務証書を無効にされ、十字架に釘づけにされた」というこの大きな真理、あなたの結婚生活で直面するいかなる問題よりも偉大な真理を、自分の良心にしっかり詰め込んでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 22 Feb 2018 21:10:20 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%83%BC%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%A5%91%E7%B4%84%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%8B%E6%81%B5%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B9</comments>		</item>
		<item>
			<title>神は私たちを福音によって強められる</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%82%92%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%BC%B7%E3%82%81%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|God Strengthens Us by the Gospel}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 私の福音とイエス･キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現されて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅くたたせることができる方、27知恵に富む唯一の神に、イエス･キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日は、今まで書かれた手紙の中で最も素晴らしい手紙、パウロのローマ人への手紙の、最後の段落から始めます。少なくとも皆さんのうちの何人かは、ローマ書はほぼ終了か?と疑問に思っておられるかと思います。皆さんのほとんどは、私たちがこの書簡を始めた7年半前の1998年4月26日には、ここにはおられませんでした。皆さんの多くは、ベツレヘム教会に来た日付を、ローマ書の章で覚えておられます。終わりが近づいています。もったいぶらずに、皆さんの切り替えの準備をお助けするために、次の計画をお教えしましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== アドベントに向けた、少しずつ、ゆっくりとした着陸 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この最後の段落(ローマ16:25―27)は、私たちを少しずつ、ゆっくりと安全に着陸させるほど、非常に多くの重要なテーマを抱えています。この共に過ごした7年間の飛行は急降下では終わりません。それは大ジェット機で、パイパーカブのような、空から直降下するようなものではありません。この三節に5週を費やすのが私の計画で、クリスマス前日、クリスマス･イブはそのクライマックスにふさわしいように思われますが、12月24日の日曜日にローマ書を完了したいと願っています。神が(来週から始まる)アドベントの日曜日を、キリストが崇められ、人々が信仰へと改宗し、主のうちに立て上げられる、私たちが見たこともないような最も力強いシーズンとしてくださるよう、どうぞ私と一緒にお祈りください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 頌栄は神の栄光へと私たちの注意を引く ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ書の最後の三節は、一般的に頌栄と呼ばれています。頌栄(Doxology)ということばは、ギリシャ語の栄光という意味のdoxaと、ことばという意味のlogosから来ています。ですから頌栄は神に栄光を帰することばです。新約聖書の頌栄の背後にある確信は、すべてのものは神の栄光に注意を引き付けるために存在し、起こる、というものです。そのため頌栄は説教や著書の山場や最終場面でよく起こります。パウロと一緒になって、私は私がこれまで述べたすべてのことが、神の栄光に注意を引くように祈ります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というわけでパウロは25節の最終頌栄(私の福音･･･)を書き始めるにあたって、神に栄光を帰する頌栄のことばが念頭にありますが、単純に「神に栄光がありますように」と言って手紙を書き終えることができません。代わりに彼は主、つまり、み父なる神、そして彼が書き記してきた16章の福音に関する文を、次々と加えます。そして27節で、書の最後のことばである栄光の帰属に戻って来ます。ですから25節の始めと27節の終わりの、始めと終わりを一緒にして、「(あなたがたを堅く立たせることができる)方、27知恵に富む唯一の神に、イエス･キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが頌栄を用いるのはここだけではありません。はじめ11章のクライマックスのローマ11:36で、自分が教えてきたことのより直接的適用を展開し始める前に、頌栄があります。「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ピリピ4:20とエペソ3:20―21も参照) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頌栄を好んだのはパウロだけではありません。ペテロは1ペテロ4:11で、「栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン」と言います。使徒ヨハネは黙示1:5―6で、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; と言っています。そしてイエス様の兄弟、ユダは、頌栄の中でも最も有名なものを書いています(ユダ1:24―25)。「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス･キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから頌栄がささげられ、あるいはうたわれるとき、それは、すべては神の栄光に注意を引くために存在するという、きわめて重要で、そしてすべてを包括する真理に根付いた、聖書的、使徒的形式の語りであることを理解してください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それがこれまでの5週間、ローマ書で取り扱ってきたものです。一頌栄としてそれはとても長く、また神と福音に関する真理であり、とても濃密なものです。パウロが書いた中で最も長く、偉大な手紙を終わらせるにあたって、彼が投げ捨てるような言葉を用いるはずがないと、どうぞご安心ください。一つ一つの言葉が重要です。これらがローマ人に対する、彼の最後の言葉です。彼のあなたに対する最後の言葉かも知れません。注意深くお聞きになってください。そして、この頌栄の5つの側面のすべてを見るため、この年の最後の週にここに戻って来られることを、皆さんに願います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神は福音を用いて信者を強められる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日は、神はご自身の民を福音によって強められる、という一文に主に注目したいと思います。25節、「私の福音･･･によって、･･･あなたがたを堅く立たせることができる方、」。25、26節でパウロが言うことのすべては、信者を強める福音についての説明です。この強める福音とは、「イエス･キリストの宣教」(25節前半)です。イエス様こそ福音の中心におられる現実です。この福音は、「世々にわたって長い間隠されていた･･･奥義の啓示」(25節中半)です。それは、異邦人、つまり諸国民は、イエス様にある信仰によって、ユダヤ人信者と変わらない同邦人である、という奥義です(エペソ3：6)。その良い知らせは「今や現され」(26節)、そして過ぎた時代には隠されていたのですが、「あらゆる国の人々」(26節)に対する奥義を現すため、パウロは旧約のまさに「預言者たちの書」(26節)そのものを用います。そしてこのあらゆる国の人々のための良い知らせのすべては、「永遠の神の命令」であり、「信仰の従順」(26節)を目指します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それらすべては25節の、神が信者を強めるために用いられる福音の、紐解きです。そうすれば彼らが信仰の従順において実際に屈せず、神の栄光に全注意を注ぐからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では今日注目するのは、パウロが最後の頌栄を述べる前に、この書の最後で神に栄光を帰そうと、神はあなたをご自身の福音によって強めてくださる、と言おうと決めたことです。神の栄光に目を向けるよう[私たちを]招くとき、彼は神が福音を信じる主の人々、つまりあなたを強められることにおいて、その栄光がよりきらびやかに輝くようにします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ご自身の栄光のために強められる神 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ここにはとても素晴らしいものがありますが、皆さんがそれを見落としてしまわないためにも、私はそれを通り過ごしたくありません。ですから再度、明白なものから先に述べ、そこまで明白ではないものをそこから引き出させてください。明白な事実は、神がご自身の栄光に注意を引き寄せるよう成されること、あるいは成されて来たことについて、はっきり言い切ることができることを、彼はこの一文、「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように」で強調しているということです。なぜ彼は、神は賢く、神は長い間何かを隠して来られ、あらゆる国の人々のためにその何かを現され、そして永遠の命令によってこれらすべてを成されたと言うのでしょうか?そうです。しかしパウロがこの頌栄を組み立てるそのやり方は、それらのすべてが、神は私たちを強めることがおできになる、というこのたった一つのことを支持し、説明するために備えられている、というものです。「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが明白な事実です。以下はそこまで明白ではありませんが、一度誰かが私たちの注意を引き寄せてくれたら非常に明瞭になることです。歴史上の数々の国王たちと今日の独裁者らの多くは栄光を得ようともくろみます。彼らは強く、富んでおり、賢いと思われたいと望みます。どのようにしてそれを達成してきたでしょうか?自分たちの国民を弱く、貧しく、無学にすることによってです。知識人は独裁者にとっては脅威です。富裕な中間層は独裁者にとっては脅威です。強い人々は独裁者の権力にとって脅威です。ということで、彼らは何をするでしょうか?彼らは自分の民を弱くさせておくことによって、自分の権力を確保するのです。衰弱した人々の背中に立つことによって、名誉を得るのです。ウズベキスタンのイスロム･カリモフ政権を見てみてください。他にも、強く富んでいる者になるために自分の民を弱くさせておく、小さな国王たちの数多くの例を挙げることができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 福音の力にある神の栄光 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで、パウロが神の栄光に注意を引く方法と対比させてください。もし反抗的人々の背中に乗ることによって自分の栄光を示す権利のある王がいるとすれば、それは神であられます。しかし主は何をなさるでしょうか?主はご自分の民を強めることによって、ご自身の栄光を示されます。「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように。」神はご自身の栄光を、福音であなたを強めることによって、高く掲げられます。神はあなたの強さに何の脅威も感じられません。事実、あなたがイエス･キリストの福音を通してその信仰と希望と愛において強くなればなるほど、主がますます偉大に見えるのです。神はご自身の民を弱くさせておくことによってご自分の権威を確保されません。ご自分の民を強めることによって、ご自身の力ある栄光を高められます。「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、パウロが神の栄光を福音の最終目標とするとき、また神の栄光の最高の価値に人々の注意をうながすことによって、自分の書き記した手紙の中で最も偉大な手紙を終わらせるとき、これは私たちにとって悪い知らせではありません。私たちがその栄光を自分のものにしようとしない限り、です。なぜこれは私たちにとって悪くない知らせなのでしょうか?それは神が、ご自身の価値なき民を強めることによって、ご自分の栄光に注意を引き寄せられるからです。神の栄光が素晴らしければ素晴らしいほど、私たちはますます強められます。神の栄光が多種多様で素晴らしいものであればあるほど、私たちの強さの源もますます多種多様で素晴らしいものになります。「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 福音のうちにある強さ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神が与えることがおできになる強さとは、どのような強さをパウロは言うのでしょうか?神はご自身が望まれるどのような強さもお与えになることができます。「私の神によって私は城壁を飛び越えます」(詩篇18:29)。しかしここでの強さは、ローマ1:11―2で言及されている力と同じものです。「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強く(stērikthēnai、16:25と同じ言葉)したいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」この強さの本質は、イエス･キリストにある信仰です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''福音のうちにある女性のための強さ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それはこの世が知らない、あるいは与えることのできない強さです。女性の皆さん、十代の女の子たち、強い女性と言うと、何を想像しますか?あるいは少女たち、強い女性へと成長したら、何をしたいですか?これをはっきりさせるのはとても重要です。なぜなら神はあなたに強くなって欲しいからです。そして、聖書と個人体験そのものが、あなたはある意味弱い器だと教えるからです(1ペテロ3:7)。この世の成人男性の95％は、肉体的に95％の成人女性より強いです。強い女性になったら、あなたは何をしたいと思うべきでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世は3つの方法で自分の強さを求めよと教えます。一つは色っぽくなり、色っぽい服装をし、色っぽく行動することによって、男はとてもだまされやすいので、男を支配することができます。他には自己主張が強い、強引で、攻撃的で、自信過剰な女性になることによってです。そして3つめに賢くなり、影響力のある経路を通して権力のある地位へと進むことによってです。それらすべての強さは、パウロが「あなたがたを堅く立たせることができるお方」と言う、彼が言っている強さではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロには、ペテロが1ペテロ3:6で、「あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです」と女性にサラや古き時代の聖い女性たちのようになりなさいと言う、その内なる強さが念頭にあります。また箴言31:25で「彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ」と言われているような強さが、念頭にあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、女性の皆さん、若い女の子たち、全宇宙の王なる神の娘として、神にあって自分がどのような者であるか、主があなたのために何を成してくださったか、そしてイエス･キリストにおいて何を成してくださり、何となってくださるかの約束を堅く信じ、たとえ何が起ころうとも神以外の何ものをも恐れず、後の日を笑って待ち望む者になるよう、望んでください。はっきり言いますが、色気は必ず失われます。それによって得た男性は、あなたが望むような男性ではありません。自己主張は、あなたが一緒にいたいような人々を遠ざけます。力の世界は、草のようなものです。風が吹くと無くなってしまいます。しかし神が福音を通してお与えくださる強さは永遠です。「私の福音･･･によって、･･･あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、御栄えがとこしえまでありますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''福音のうちにある男性のための強さ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男性、そして少年たち、あなた方はどうでしょうか?強くなったら、何をしたいと望みますか？アルトイズの缶 &amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; を握って、「興味深いほど強い」と見られるようになりたいと思いますか？あるいは最高のスポーツ選手になりたいと思いますか？すごいやり手の株式仲買人になって、金の力を掌握したいですか？学識のある者になって、月刊アトランティックを読んで、NPRを聞いて、カクテルを飲んで会話しながら人々が口にもしないような名を口にしてみたいと思いますか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いいえ、愚か者だけが衰退する強さを欲しがります。愚か者だけが、あなたが強さを最も必要としているときにだけ与えることができるような力を欲しがります。神が福音を通してあなたにお与えになることができるような強さをお教えしましょう。それはデボーションであなたの奥さんと家族をリードする強さです。高学歴を持った人や、この世のエリート主義者たちに囲まれたとき、単純な真理のことばを言うことのできる強さです。周りの者すべてがあなたを弱いもの呼ばわりするとき、悪しき行いに対し一歩も引かないで、「ノー」と言う強さです。これ以上やる気がまったく起こらないときに、義と憐れみと真理のゆえに、すべての障害に立ち向かい続ける強さです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''福音のうちにあるすべての者のための強さ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は男性であれ女性であれ、現代文化の流れで二つの足でふらふら浮いている何万という道徳的くらげより、車椅子のあなたをはるかに強くすることができる、キリストにある信仰による魂の内にある力を持って、あなたがたのすべてを強くすることがおできになります。私たちが欲しいのは、全身麻痺になり、質問に瞬きでしか答えることができないようなときに、そこにあるような強さです。私たちはそれがどこから来るのかを知っています。「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 私たちには福音の必要がなくなることがない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ書から7年間をかけて展開してきた、そしてもう4説教をかけて展開したい、最後の、とても重要な見解は、イエス様が来られるまですべての説教でそうしたいと祈りますが、神は福音を通して私たちを強められる、ということです。「私の福音･･･によって、･･･あなたがたを堅く立たせることができる方」。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福音の核心は、義なるお方イエス･キリストが、私たちの罪のために死なれ、よみがえられ、ご自身の敵すべてに対し永遠に勝利なさったと言うことです。ですから主を信じる者は罪に定められることがなく、永遠の喜びが与えられます。あなたは決して、決して、決して、福音の必要がなくなることはありません。あなたはクリスチャン人生をこれで始め、これを卒業して次の何かで強められるのではありません。神は私たちが死ぬまで、私たちを福音によって強めてくださるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 癌のための福音の力  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
終わりに私の個人的体験からたとえを紹介したいと思います。皆さんの多くが、より深く自分の強さを試されて、私よりも素晴らしい話を持っておられると思います。でも私が2月に癌を告知されたときに、神が私に成されたことを思い出してください。神は福音を持って私を強めてくださいました。主が用いられた聖書箇所を覚えておられるかと思います。そのどれも重要でないものは私にはありませんでした。1テサロニケ5:9―10、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス･キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、私のうちにあるものすべてが、最終診断の際にもそのように言えるよう願いますが、「私の福音･･･によって･･･あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、イエス･キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの神は、歴史の中で、罪とサタンと地獄と死に勝利するため、みわざを成しておられます。主はこれを、イエス･キリストの福音をとおして成されました。この福音をあなたの人生の最高の宝として受け入れてください。神はあなたを強めることによって、ご自身の栄光を高く掲げられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;&amp;lt;/sup&amp;gt;&amp;lt;sup&amp;gt;&amp;lt;/sup&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; ESV訳に限りなく近いということで、新共同訳聖書、1987年版引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; ミント、口臭予防剤 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 13 Feb 2018 21:14:35 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A5%9E%E3%81%AF%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%82%92%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%BC%B7%E3%82%81%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>聖い野心ーキリストの御名がまだ伝えられていないところで福音を宣べ伝える</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E8%81%96%E3%81%84%E9%87%8E%E5%BF%83%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%90%8D%E3%81%8C%E3%81%BE%E3%81%A0%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%A7%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%82%92%E5%AE%A3%E3%81%B9%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「聖い野心ーキリストの御名がまだ伝えられていないところで福音を宣べ伝える」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Holy Ambition: To Preach Where Christ Has Not Been Named}}&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうとなどとはしません。キリストは、ことばと行いにより、19また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。20このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。21それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」22そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、23今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを多年きぼうしていましたので24ーというのは、途中あなたがたに会い、まず、しばらくの間あなたがたとともにいて心を満たされてから、あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです、ー &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この聖書箇所から私たちが注目すべきだと思うものが３つあります。それらすべてに、(あなたが気がついていなくとも)あなたの人生に直接適用できるものがあり、それらすべてがこの21世紀に、神とその目的に直接関係しています。まず第一に、私に見えるのは、聖い野心です。二つ目に、絶大な必要。三つ目に世界的規模の戦略です。ですからその一つ一つがそれぞれどのように関連しているのか、また私たちそして私たちの住む今日の世界とどのように関係するのかを、一つ一つ見て行きましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 聖い野心 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
20節、「このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを''切に求めた''のです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは聖い野心に支配されていました。私が「支配されていた」と言うのは、パウロ自身が22節で、「そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、」と言うからです。また23節の後半で、「あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので」と言います。あることをしたいと何年も何年も望んでいながらそれをしないというのは、それは何かがあなたを支配しているからです。パウロを支配しローマに行くことを妨げていたのは、エルサレムからイルリコまでの地域の彼の野心が完了していないことでした。しかし最終的に彼は、23節で、「あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので」と言います。そして24節、「(イスパニヤに行く場合は)途中あなたがたに会い･･･と望んでいるからです」とも言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えると、パウロはエルサレムからイルリコまで(今日のアルバニア)、イエス様の御名をまだ聞いていない人々に福音を宣べ伝えたいという野心に支配されており、またこの野心が満たされるまで断念しないつもりでいました。しかしそれらの地域での働きを終え、彼の野心はイスパニヤへと移ります。それで彼は長年やりたいと思っていたこと、つまり、ローマの教会を訪れ、少しの間信徒らとの交わりを楽しみたい、と言うことがとうとうできるようになったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖い野心に支配されるのは良いことです。あなたは聖い野心に支配されていますか?私はこの野心を「聖い」と呼んでいますが、それはその目標、つまり、イエス様の御名を聞いたことのないあらゆる国の民が主を信じ、主に従うようになり、自分の罪と神のみ怒りから主によって救われる、という目標が聖いからです。そして私がこの野心を「聖い」と呼ぶのは、私たちはそれを次に見ていきますが、それが神ご自身と主の聖いみことばから来ているからです。聖い野心に支配されることは正しいことで、良いことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたには聖い野心がありますか?すべての人がパウロの野心を持つ必要はありません。種をまく人もいれば、水やりをする人もいます(1コリント3:6―8)。それぞれが違う賜物を持っています(1コリント7:7)。それぞれが主人の前に立ち、あるいは倒れます(ローマ14:4)。でももし神の子どもたちの一人一人が聖い野心を抱くと、神はそれをお喜びになると思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''少年少女のための聖い野心''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
子どもたち、しばらく私に注意して耳を傾けてください。「聖い野心」という言葉は普通でない言葉で、毎日の生活の中で私たちが使わない言葉です。「聖い野心」というのは、神があなたにやって欲しいと思われることを、あなたが''本当に''やりたい、と思うことです。あなたが他に本当にやりたいと思うことができないほど、それをやりたいと思うことです。パウロは何年もローマに行きたいと思っていました。でも他にやりたいことがあったので、それをしなかったのです。パウロはイエス様を知らない人々がいるアジアとギリシャで福音を宣べ伝えたいと思っていました。それをとっても、とっても、とってもしたかったのです。そのような欲を、「野心」と呼びます。そしてそれが神があなたにして欲しいと思われることであるとき、「聖い野心」と呼びます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたには「聖い野心」がありますか?恐らくまだないでしょう。まだ子どもですから。それは当然です。でもいつかあなたは子どもでなくなります。子どもであることと大人であることの違いの一つは、クリスチャンとしての大人と言うのは、聖い野心を抱きます。大抵の女の子は、私の娘のタリタも含めて、人形が欲しいか人形と遊びたいです。それは良いことです。でも女の子たち、人形で遊ぶ楽しみをやめ、本当の赤ん坊を子供部屋で世話する、より大きな、もっと喜びにあふれることをするように成長します。そして遠いところにいるお腹を空かせた、ママもパパもいない子どもたちを世話する奉仕に就く日がいつか来るかも知れません。それが聖い野心になる人も中にはいるでしょう。別の何かが聖い野心になる人もいます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして男の子たち、聞いてください。もし私のようであるなら、君が本当に欲しいのは、ボールやトラックや拳銃、遊び友達です。私は本物の銃を手にしたことはありません(空気ライフルを手にしたことはあります)。でも自分のマット･ディランのピストルや、ルーカス･マケインのような手元が円になっているライフルで、悪い奴らを沢山打ち負かしたことがあります。友達とフットボールをしたり、自分のおもちゃのトラックで道路を掘ったり、人が気づかないほどの速さで拳銃を描いたりするのが大好きでした。楽しかったです。それは良いことでした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもいつの日か、君は男の子ではなくなります。男の子であることと大人であることの違いの一つは、 クリスチャンとしての大人と言うのは、聖い野心を抱きます。それは、銃やトラックやボールの楽しみが小さくなり、正義と救いのために闘う喜びが大きくなることを意味します。大人になるということは、みことばの剣を巧みに操り、トラック一杯に積まれた愛を、それを必要とする人たちのところに届けるために出かけて行き、イエス様の御名によってサタンの尻を蹴飛ばす聖い野心を抱くことを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お父さんお母さん、独身の皆さん、若い人、年配の方々、クリスチャンは聖い野心を抱かなければなりません。神の栄光のために本当に、本当にやりたい何かです。あなたを支配する何かです。ローマに行かないでおこうと決心させてくれます。あなたの人生に永遠に続く焦点と情熱を与えてくれます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''聖い野心の源''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それはどこから来るのでしょうか?その答えの重要な部分は20節と21節の間のつながりにあります。「このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。それは、こう書いてあるとおりです。[パウロはイザヤ52:15を引用します]『彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、これが驚くべことで、私たちに関係のあることです。使徒9、22、26章から、私たちはパウロがダマスコに行く途上でよみがえりのキリストによって召されたことを知っています。使徒26:18で、イエス様はパウロにご自身の宣教をお与えになり、「わたしは･･･あなたを･･･彼ら[異邦人、民]のところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」と言われます。ですからパウロは異邦人に対する光となるため、よみがえりの、生ける、すべての者の主権者であられるイエス･キリストから直接召されたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしそれがローマ15:21でパウロが言うことではありません。彼は「イエス様がダマスコの途上で私を召されたので、私には国民に光となるという、この野心がある」とは言いません。彼は、「私は、キリストの御名がまだ伝えられていないところで福音を宣べ伝えたいという情熱に支配されており、その野心があります。それは、イザヤ52:15で、『彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。』と言われているからです」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここから何が言えるでしょうか?こう言えます。イエス様がダマスコの途上で、パウロに福音をまだ聞いたことのない異邦人に語りなさいと召されたとき、パウロはそれを確認するため、またこの召しが神の全体のご計画の中でどのようにかみ合うのかを解釈するため、旧約聖書を開きました。そして見つけたのです。そして私たちのために彼はこのような言い方をします。彼は自分のダマスコの途上での体験、私たちがすることのないような体験を、述べるだけではありません。私たちにもその体験がある、と神の記されたみことばを引用するのです。そして自分の野心をそこに根付かせます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから「''あなたの聖い野心はどこから来るのか''?」と言う質問に対する私の答えは、それは神の書き記されたみことばによって形作られ、告げられ、力づけられた、生けるキリストとの個人的出会い(ダマスコの途上のようにドラマチックである必要はありません)から来る、です。主のおきてを昼も夜も思ううちに、神のみことばにどっぷりと浸かるうちに、主が来られそのみことばの真理を、それが聖い野心となるまであなたの心に燃やして下さいます。それがまだあなたのうちに起こっていなかったら、神のみことばで頭をいっぱいにし、主にそれを求めてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. はかり知れない必要 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神はつかみ所のない野心、つまり、人生の終わりに来て私たちが悔いるような野心に、私たちを導かれることはありません。そこには聖い野心によって満たされなければならない必要、神の必要ではなく、この世の必要が、絶えずあります。聖い野心とは、自己高揚のことではありません。それは絶えず愛の型をしています。常に人の必要を満たします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、パウロがこの聖書箇所で言うところのはかり知れない必要とは、一体何でしょうか。20節、「このように、･･･キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。」つまり、パウロはキリストのことを聞いたことのない人たちに福音を宣べ伝えることに、毅然たる態度を取ったのです。それらの人々はキリストの御名さえ聞いたことがありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''国民には弁解の余地がない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、以下は質問です。もしこれらの人々がイエス様の御名を聞いたことさえないのであれば、彼らは救われ得るために主を信じる責任があるのでしょうか?もし責任がないのであれば、彼らを無知のままにしておき、神が彼らに憐れみをかけてくださると、イエス様のことを聞いたことがないので、彼らは救われるだろうと信じたほうが安全なのではないでしょうか?パウロさん、どうしてイエス様の御名を聞いたことがない人々に福音を語るためそんなに苦しむの? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはローマ1:18―23で答えます。私と一緒にゆっくりと、厳粛に読んで、パウロが語るその重みを感じてください。これらはイエス様の御名を一度も聞いたことがない人々や国民について書かれた言葉で、パウロを語りたいと駆り立てる、聖い野心です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。19それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。20神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、''彼らに弁解の余地はないのです''。[これはパウロが理解するところの、イエス様のことを聞いたことがない国民は、さばきの日には言い訳のしようがないと言う、はかり知れない必要性を定義する、致命的ことばです。]21それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。22彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、23不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはローマ2:12で、「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます」と言います。すべての者がそれぞれ利用したものに従ってさばかれるのです。福音を耳にしなかった者もすべて滅びます。それは、すべての者が実際に持っている真理をはばみ、神に反抗して生きているからです。希望はたった一つです。それはイエス･キリストの福音を聞き、信じることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様の御名を知らない国民の必要は、はかり知れない必要です。それは無限の必要です。イエス･キリストの福音を聞き、信じるという国民の必要は、すべての必要の中で最も大きな必要です。それはイエス様の福音こそ、「ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)そしてその福音以外に救われる者は誰もいません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皆さんのすべてがパウロのように出て行くよう召されているわけではありません。でも自分の人生がこの必要を満たすものと見なされたいと思わないのに、愛のある人にはなれません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 世界的規模の戦略 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも中にはパウロに加わって、個人的に、職業としてこの特殊な世界的規模の戦略に神によって召されている人もいます。以下が戦略です。それは驚くべきものです。もしあなたがベツレヘム教会に来たばかりでしたら、私たちがどのように宣教を理解しているかに注意して耳を傾けて下さい。以下がパウロの驚くべき発言です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず19節後半、「私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。」それはエルサレムからシリアに北上し、小アジア(トルコ)を横切り、ギリシャまで下って東へ進み、そして現在のアルバニアがある北イタリアの西側まで北上するものです。パウロはそこまで福音をくまなく宣べ伝えたと言います。そして23節の驚くべき発言を、「今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりました」と言うことによって、強調します。それから24節で、「イスパニアに行きます」と言うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エルサレムからイルリコまで自分の働く場所がなくなったとは、一体全体どういう意味でしょうか?それらの地域で福音を聞く必要のある人たちがまだ何万といる、と言っても危なくはありません。パウロがエペソ(まさに前述の地域)でテモテに手紙を書き、彼に「伝道者として働」く(2テモテ4:5)よう命じていることからも、私たちはそれを知っています。言い換えると、福音を聞く必要のある人々がそこにはいる、と言うことです。にも関わらずパウロは自分の働く場所がこの地域にはなくなったと言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはそれを、パウロは現地の伝道者ではなく、最先を行く宣教師、開拓宣教師であると理解します。つまり、彼の召しと彼の野心は、教会のすでに建てられたところで福音を伝えることではないのです。教会がそれをすべきです。パウロの召しと野心は、福音を伝える教会のないところで福音を宣べ伝えることです。クリスチャンがそこにはいないのです。クリスチャンと言う名前すら知らないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''宣教、伝道、そして聖い野心''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
用語が重要なのではありません。重要なのは違いです。最先を行く、あるいは先駆者である宣教師がおり、そして伝道者がいます。宣教師とは文化を超え、言葉を学びます。そして''最先を行く''宣教師たちは、王の王、この世の救い主を知らない人々を覆う、何千年もの暗闇とサタンの支配を打ち破るため、「みことばと行ないにより、しるしと不思議の力により、神の御霊の力により」、自分のいのちを注ぎ出します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これがパウロの野心でした。そしてすべての国民を弟子とするという大宣教命令はまだ期限が切れておらず、福音を知らない人々が今日もいるので、すべての教会が最先端を行く宣教師を沢山起こされ、私たちのすべてを伝道者にしてくださるよう祈るべきです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10年後、誰か、もしかすると皆さんのうちの10人が、未踏の民族がいるところから手紙を送ってきて、「ローマ15:20に『私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです」と書いてあるように、私は福音を一度も聞いたことがない人々に語り伝えるため、ここにいます。神がそのみことばを私の心のうちに燃やされ、ベツレヘム･バプテスト教会の聖い野心へと書いて下さいますように。2006年8月。」と言うのが想像できますし、またそのように祈ります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主よ、どうぞそれを成して下さい。アーメン。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
____ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 13 Feb 2018 20:11:21 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E8%81%96%E3%81%84%E9%87%8E%E5%BF%83%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%90%8D%E3%81%8C%E3%81%BE%E3%81%A0%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%A7%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%82%92%E5%AE%A3%E3%81%B9%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>なぜ、そしてどのようにして私たちは主の晩餐を執り行うのか</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E4%B8%BB%E3%81%AE%E6%99%A9%E9%A4%90%E3%82%92%E5%9F%B7%E3%82%8A%E8%A1%8C%E3%81%86%E3%81%AE%E3%81%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「なぜ、そしてどのようにして私たちは主の晩餐を執り行うのか」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Why and How We Celebrate the Lord's Supper}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。18 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。19 というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。20 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。27したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。33　ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。34　空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
来週ローマ書に (主のお許しがあれば)戻る前に、主の晩餐を聖書の文脈に置き、なぜ、そしてどのようにして私たちはこの聖餐式を守るかということに注目するのがいいだろうと、私は思いました。ですから今日は最初にメッセージをし、それからその説教をもって主の晩餐に移行します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの人生と私たちの教会の絶対的基盤である聖書の次に、私たちの教会の一生にとって最も大切な文書の一つは、『''ベツレヘムバプテスト教会の長老たちによる信仰告白''』です。皆さん全員がそれを読むようおすすめします。教会のウェブサイトや、デザイアリング・ゴッドのウェブサイトでも閲覧することができます。12.4項には主の晩餐について私たちが何を信じ、教えているかについての教理のまとめがあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ''私たちは主の晩餐が、集められた信者たちが、キリストの民のためにささげられた主のみからだを表すパンを食し、キリストの血潮のうちにある新契約を表す主の杯を飲む、主のご命令であることを信じます。私たちは主を覚えてこれにあずかり、このようにして主の来られるときまで主の死を告げ知らせます。物理的にではなく、霊的にキリストのみからだと血にふさわしいままであずかる者は、それによって、信仰により、主がご自身の死によって買い取られた益で養われ、そのようにして恵みのうちに成長するのです。'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この主の晩餐の理解の聖書的根拠を、6つの項目、1)歴史的起源、2)信者の参加、3)物理的行ない、4)精神的行ない、5)霊的行ない、そして6)侵すべからず深刻さ、に分けて説明したいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 主の晩餐の歴史的起源 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マタイによる福音書(26:26以下)、マルコ(14:22以下)、そしてルカ(22:14以下)のすべてが、イエス様が死なれる夜弟子たちと共にされた主の晩餐を、報じています。それぞれ、イエス様が感謝をささげられ、あるいはパンと杯を祝福され、弟子たちに渡されてこのパンは主のみからだであり、杯は契約の血、あるいは主の血における新しい契約であると、表現します。ルカ22:19でイエス様は、「わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われます。ヨハネの福音書では飲み食いは記録されていませんが、その夜をあふれんばかりに満たした主の教えとみわざを報じています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最も古い記録から私たちが言えるのは、教会はイエス様が言われた通りした、ということです。つまり、イエス様とその死を覚えて、彼らは晩餐を再現したのです。パウロの書簡が私たちの手元にある最も古い証言で、1コリント11:20で、彼は教会の一生における行事を、「主の晩餐」と呼んでいます。それが「主の晩餐」と呼ばれるのは、恐らくそれが主イエスによって定められた、あるいは命じられたもので、まさにそれそのものが、主の死を覚えて執り行われるものだからです。パウロは1コリント11:23―24で、「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』」と言います。「わたしは主から受けたことを･･･」とは、他の者たちが実際に起こったと報じる最後の晩餐を、恐らく主ご自身が、(他の使徒達のように最後の晩餐の席にいなかった)パウロに、お認めになったということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから主の晩餐の起源は、イエス様が十字架にかけられる前夜に、弟子たちと共に食されたその最後の夕食です。その行為と意味はすべてその夜、イエス様が言われ、成されたことに根付いています。イエス様ご自身が主の晩餐の起源であられます。主がそれを続けるよう命じられました。そして主がその焦点であり、中身であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. 主の晩餐にあずかる信者 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の晩餐とは、イエス様を信じる者たちの集まりである家族、教会の行為です。それは未信者のための行為ではありません。未信者がそこにはいるかも知れません。実際、彼らが立ち会うのを私たちは歓迎します。主の晩餐には何の隠し事もありません。公の場でなされます。公の意味がそれにはあります。極秘の、魔術を用いたカルト的儀式ではありません。集められた教会による公の礼拝の行為です。事実、1コリント11:26でパウロは、「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を''告げ知らせる''のです」と言います。ですのでこの晩餐には公表という側面があるのです。プライベートではなく、告げ知らせると言うところが、語調を強めるところです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
老人ホームや病院にいる人が主の晩餐にあずかることを禁じはしませんが、そのような個々人での執行は例外で、聖書的規範ではありません。1コリント11章でパウロは、主の晩餐にあずかるのは、教会が「集まる」ときであると5回言います。17節後半、「あなたがたの''集まり''が益にならないで、かえって害になっているからです。」18節、「まず第一に、あなたがたが教会の''集まり''をするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。」20節、「あなたがたはいっしょに''集まって''も、それは主の晩餐を食べるためではありません。」33節、「食事に''集まる''ときは、互いに待ち合わせなさい。」34節、「空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが''集まる''ことによって、さばきを受けないためです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、彼らは主の晩餐を自分たちの毎日の夕飯と関連させすぎて、風儀を乱しており、食べる料理が沢山あった人もいれば、何もなかった人もいたのです。そのため自分の家で夕飯を食べた後、主の晩餐にあずかるため集まりなさい、と彼は言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして18節の「教会」という言葉に注目してください。「あなたがたが''教会''の集まりをするとき」。これがキリストのからだ、イエス様に従う者たちの集まりです。偶像礼拝を離れ、イエス様にのみ自分の罪の赦し、永遠のいのちの望み、そして自分の魂の充足を信じる者たちです。それがクリスチャンです。ですので主の晩餐にあずかるのは、イエス様に信仰をおく、集められた者たちです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 主の晩餐の物理的行ない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の晩餐の物理的行為は、７コースの料理の消費ではありません。それはとてもシンプルなものです。パンを食べることと、杯を飲むことです。23節後半―25節、「主イエスは、･･･パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どのようなパンで、どのように裂くのかについては特筆されていません。たった一つ、マタイ、マルコ、ルカの一節で杯の中に何が入っているのか、ということだけ述べられています。「ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マタイ26:29。マルコ14:25、ルカ22:18も参照)。というわけで、それは「ぶどうの実で造った物」と呼ばれています。単なるグレープジュースが、あるいはワインが使われていると、大騒ぎするべきではないと思います。この箇所ではいっさい、どちらを用いるよう命じたり、禁じられたりしてはいません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが気にしなければならないのは、ふざけた代用品、例えばキャンプファイアの周りのベーグルですとか、コカ・コーラとかです。主の晩餐は遊びではありません。私たちは重い感覚をもってそれを執り行わなければなりません。それについてすぐに話したいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここを通過するにあたって、新約聖書ではこの主の晩餐の頻度についてもいっさい語っていない、ということにも触れておきたいと思います。中には毎週やったほうがいいという人もいますし、3ヶ月に一度やる人たちもいます。私たちはその中間で、一般的に毎月第一日曜日に執り行っています。これについて私たちは縛られておらず、問題は、1)いかに頻繁にあるいは希にやることが、神のみことばのミニストリーとの関わりで、その適度な重要性と一致するか?そして、2)いかに頻繁にあるいは希にやることが、それに対して無感覚にならずして、その価値を私たちが感じることができるか?というもののどちらかになると思います。それらは簡単に判断できることではなく、それぞれの教会がそれぞれで判断します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4. 主の晩餐の精神的行ない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の晩餐に参加する者の精神的行ないとは、イエス様、特に私たちの罪のために死なれた主の歴史的みわざに、思いを集中させることです。24と25節、「わたしを''覚えて''、これを行いなさい。」物理的な飲み食いという行為をするにあたって、私たちは覚えるという精神的行為をするべきです。すなわち、イエス様がかつて生きられたそのご人格と、イエス様が死なれそしてよみがえられたそのみわざ、そして私たちの罪の赦しのために成されたみわざが表すその意味を、私たちは意識的に思い浮かべるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の晩餐は、キリスト教がニューエイジ的宗教ではないということを、はっきりと何度も何度も思い出させます。それは自分の内なるものと交信することではありません。神秘主義ではありません。史実に基づいたものです。イエス様は実在されました。主には体と血液を循環させた心と、血が出る皮膚がおありになりました。主を信じる者は誰でも神のみ怒りから救われるように、罪人の身代わりとなって、ローマの十字架刑で公に死なれました。それは歴史上一度だけ起こった出来事です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、主の晩餐の精神的行いは、基本的に覚えることです。想像することではありません。分析することではありません。聞くことではありません。瞑想にふけることではありません。それはイエス様と、聖書から私たちが知っている主の、その歴史に意識的に思いを寄せることです。パンと杯。みからだと血。処刑と死、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 5.主の晩餐の霊的行ない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは非常に重要です。それは未信者も、私がこれまで説明してきたことすべてを成すことができるからです。実際、もし悪魔が人となることができるのであれば、彼もそれをすることができます。食べて、飲んで、覚える。本質的に霊的なものはいっさいありません。ですから主の晩餐がイエス様が言われるとおりのものであるためには、食べて、飲んで、覚える以上の何かが起こらなければなりません。未信者と悪魔が成し得ない何か、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『''長老たちによる信仰告白''』から鍵となる文章をもう一度読み、それからそれが聖書のどこから来ているのかをお見せしましょう。「''物理的にではなく、霊的にキリストのみからだと血にふさわしいままであずかる者は、それによって、信仰により、主がご自身の死によって買い取られた益で養われ、そのようにして恵みのうちに成長するのです。''」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この「霊的にキリストのみからだと血に･･･あずかる者は、･･･信仰によって」という発想はどこから来るのでしょうか?これを支持するこれに最も近い箇所は、前章の1コリント10:16―18にあります。私が読む際、「『あずかる』とはどういう意味だろう?」と問いかけてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかること(''koinōnia estin tou haimatos tou Christou'')ではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかること(''ouchi koinōnia tou sōmatos tou Christou estin'')ではありませんか。パンは一つですから、私たちは多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかる(''koinōnia tou thusiastēriou'')ではありませんか。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは、覚えることよりはるかに深いものです。これはイエス･キリストを信じ宝とする信者で、パウロは彼らはキリストのからだと血にあずかる者だと言います。文字通り、彼らは主のからだと血を共有すること(''koinōnia'')を体験しているのです。彼らは主の死に結びつき合うことを体験しているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 霊的に、信仰によって、キリストのみからだと血にあずか ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それではこのあずかること/共有すること/結びつき合うこととは、何を意味するのでしょうか?18節にそのヒントがあると思います。なぜなら18節で似たような、それでいてユダヤ教の供え物によって起こる何かと比較することばが用いられているからです。「肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇に''あずかる''[同じ用語の違う型]ではありませんか。」この祭壇を共有する者/(祭壇に)あずかる者/(祭壇と)結びつき合う者とは、何を意味するのでしょうか?それは、祭壇上で起こることを共有する、あるいは祭壇上で起こることから益を受ける、という意味です。例えば、人々は赦しと神との回復された交わりを楽しむのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから16、17節は、信者が物理的にパンを食べ杯を飲むとき、別の霊的な飲み食いをするという意味だと、私は理解します。私たちは飲み食い、すなわち、十字架で起こったことを私たちの命のうちに受け取るのです。私たちは信仰によって、イエス様にあって神が私たちのすべてであられることを信じることによって、イエス様が十字架上で血を流され死なれたときに私たちのために買い取ってくださったその益で、自分を養うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため月ごとに主の晩餐で、私たちは皆さんを様々な焦点(神との平安、キリストにある喜び、将来への希望、恐れからの解放、患難のうちにある安心、困惑のうちにある道案内、病からの癒し、誘惑に対する勝利、等々)へとお連れしているのです。それは、イエス様が死なれたとき、私たちの身代わりとして死ぬことによってお捧げになった主の流された血と砕かれたからだは、神のみ約束のすべてを買い取ったのです。パウロは、「神の約束はことごとく、この方において『しかり』となりました」(2コリント1:20)と言います。神の賜物のすべてと、神との喜ばしい交わりのすべては、イエス様の血によって買い取られたものです。パウロが「私たちが祝福する祝福の杯は、''キリストの血にあずかること''ではありませんか。私たちの裂くパンは、''キリストのからだにあずかること''ではありませんか」と言うとき、主の食卓で私たちは霊的に、キリストのみからだと血によって買い取られた霊的恵みのすべてを信じる信仰によって、喜び味わわないでしょうか、と言っているのです。どの未信者もそれをすることはできません。悪魔もできません。それは家族への賜物です。主の晩餐を執り行うとき、私たちはイエス様の血によって買い取られた神のみ約束のすべてを、霊的に、信仰によって喜び味わうのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 6. 主の晩餐の侵すべからず深刻さ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが1コリント11章を閉じるように、(このメッセージを)閉じたいと思います。彼は、もしあなたが主の晩餐に、十字架で起こったことの深刻さを理解しない横柄で、無感覚で、軽率な態度で来たなら、あなたがもし信者であるならば、み怒りでではなく、み父としての神の懲らしめで、命を失うかも知れません。ここで喜びつつまた真剣になって主の食卓に移るにあたり、1コリント11:27―32をゆっくり読ませてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; したがって、もし、ふさわしくないままで［''すなわち、キリストの尊い賜物を信じずまた宝とせず''］パンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して［''自分がある程度良いかどうかではなく、自分自信から離れ、自分の必要をイエス様に頼る意志があるかどうか吟味して''］、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。29 みからだをわきまえないで［''つまり、このパンは、コリントの教会である人々がしていたように、魚サンドイッチであるかのように扱ってはならないということに気づかないで］''、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。30 ［''そしてここがパウロの言いたいことです''］そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます［''地獄へ送られたのではありません。次の節でそれを説明しています''］。31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって［''つまり、ある者は弱く、病気で、死んでいっている'']、それは、私たちが、この世とともに罪に定められる［''つまり、地獄へ行く''］ことのないためです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の晩餐を軽く受け止めないでください。それはキリストが主の教会にお与えになった、最も尊い賜物の一つです。では共にいただきましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 03 Aug 2017 19:39:03 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E4%B8%BB%E3%81%AE%E6%99%A9%E9%A4%90%E3%82%92%E5%9F%B7%E3%82%8A%E8%A1%8C%E3%81%86%E3%81%AE%E3%81%8B</comments>		</item>
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			<title>神のみこころは何か、そしてどのようにしてそれを知るのか?</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「神のみこころは何か、そしてどのようにしてそれを知るのか?」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|What Is the Will of God and How Do We Know It?}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &amp;amp;gt; そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ12:1―2の目標は、人生のすべてが「霊的な礼拝」となることです。1節、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」神の目から見る人の人生全体の目標は、キリストが価値のあるお方として見られることです。礼拝とは、私たちの思いと心と体を用いて、神の価値と、主がイエス様にあって私たちの味方であられるそのすべてを表現することです。それを生きる方法、愛する方法があります。神の価値を表現できるあなたの役割を果たす方法があります。もしその方法を見出すことができないのであるならば、それはあなたが自分の役割を変えなければならないことを意味しているのかも知れません。あるいは起こらなければならない2節が[あなたの内に]起こっていないことを意味するのかも知れません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2節は、人生のすべてでどのように礼拝にするのかという、パウロの答えです。私たちは変えられなければなりません。外見の態度だけでなく、私たちの感じ方、考え方、つまり、思いが変えられなければならないのです。2節、「''心の一新によって''自分を変えなさい。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 本来の自分になりなさい ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリスト･イエスを信じる者はすでに、キリストにあって血によって買い取られた、新しく造られた者なのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(2 コリント 5:17). しかし私たちは、''本来の自分''にならなければなりません。「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種の''ないものだから''です」 (1 コリント 5:7)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[あなた方は] 新しい人を''着た''のです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます''新しくされ''、真の知識に至るのです」(コロサイ3:10)。あなた方はキリストにあって''新しくされた''のです。そしてあなた方は''日々新たにされています''。それが先週注目したところです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今回は2節の最後、すなわち新しくされた心のねらいに注目します。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、[ここでそのねらいです]''何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために''、心の一新によって自分を変えなさい。」ですから今日は、「神のみこころ」という用語の意味と、どのようにしてそれを見極めるのか、ということに注目します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の二つのみこころ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書では「神のみこころ」という用語に二つのはっきりした、全く違う意味があります。それらの意味を理解し、どちらの意味がこのローマ12:2で用いられているかをはっきりさせる必要があります。事実、この「神のみこころ」の二つの意味の違いを知ることは、聖書全体の最も大きなそして最もややこしい事の一つ、すなわち、神はすべてを支配しておられるが、それでいて多くの事がらを認めておられない、ということを理解するのに重要です。それは神が起こるよう定められる事がらの中には、主ご自身認めておられないこともあることを意味します。つまり、主が引き起こされる事の中には、ご自身禁じておられることもあるのです。そしてご自身が禁じる事がらをお命じになることもあります。あるいは最も逆説的に言うと、神はある意味意図されない出来事を、別の意味で意図されるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1. 神の定められたみこころ、または主権のみこころ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように私たちに考えさせるみことばの箇所を、見てみましょう。まず、起こるすべての事がらが、主の主権の支配としての「神のみこころ」であることを言い表す箇所を考えてください。イエス様がゲッセマネで祈られる時に口にされる神のみこころの言い回しは、その最もはっきりしているものの一つです。マタイ26:39で主は、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、''あなたのみこころ''のように、なさってください」と言われます。この節で「神のみこころ」とは一体何を言っているのでしょうか?それは数時間後に起こる神の主権のご計画を言っています。使徒4:27―28でこれをどのように言っているか、思い出してください。「実際ヘロデ［アンテパス］（王）と（総督）ポンテオ・ピラトとは、『異教人らや』イスラエル人の『民ども』と共に、『あなたに油を注がれ（救世主として聖別され)た、』あなたの聖なる僕イエスに敵対してこの（エルサレムの）都に集まり、あなたの力強い御心をもって実現しようと''あらかじめ定められていたこと''を、なしとげたからであります。」ですから「神のみこころ」とはイエス様が死なれることだったのです。これが主のご計画で、定められたことです。それは変えられることなく、そしてイエス様は頭を垂れ、「これが私の希望ですが、あなたの最善と思われることを成してください」と言われたのです。それが神の主権のみこころです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそれが人の罪というとても重要なものをここで含んでいることを、見逃さないでください。ヘロデ、ピラト、兵士ら、ユダヤ教指導者たちー彼らのすべてが神の御子を十字架に付ける(イザヤ53:10)という神のみこころを成就することで、罪を犯したのです。ですから、神はご自身が忌み嫌われる事がらを実現させることを意図される、ということをはっきりさせてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下は1ペテロからの例です。1ペテロ3:17で、ペテロは「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです」と書いています。言い換えると、クリスチャンが良いことをして苦しみを受けるのは、神のみこころかも知れない、と言うことです。彼には迫害が頭にあります。でも迫害を受けるに相当しないクリスチャンの迫害は、罪です。ですのでここで再び、神は罪を含んだ出来事が起こることを時によっては意図されるのです。「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、･･･よいのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはエペソ1:11でこの真理の大まかなまとめの発言をします。「私たちは彼[キリスト]にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、''みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って''、このようにあらかじめ定められていたのです。」神のみこころとは起こるすべての事がらの神の主権の支配です。そして聖書の他の多くの箇所で、神の全世界の上にある摂理は、自然と人間の決定の小さな詳細に至るまで及ぶと、教えます。一羽のつばめさえ、私たちの天のみ父のお許しなしに地に落ちることはありません(マタイ10:29)。「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」(箴言16:33)。「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる」(箴言16:1)。「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる」(箴言21:1)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが神のみこころの第一の意味です。それはすべてにおける神の主権の支配です。私たちはこれを主の「主権のみこころ」とか、主の「定められたみこころ」と呼びます。それは破られることがありません。必ず実現します。「彼[神]は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、『あなたは何をされるのか』と言う者もいない。」(ダニエル4:35) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 神のご命令のみこころ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、「神のみこころ」の聖書での別の意味は、私たちが主の「ご命令のみこころ」と呼ぶことができるものです。主のみこころとは、主が私たちに行うよう命令されるものです。これは私たちが従わず、また怠ることができる神のみこころです。それを信じようが信じまいが、私たちが行う、定められたみこころです。私たちが怠ることができる、命令のみこころです。例えば、イエス様は「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」(マタイ7:21)と言われました。すべての人が主のみ父のみこころを行うわけではありません。主がそう言われるのです。「すべてのものが天の御国に入るのではない。」なぜでしょうか?それはすべての者が神のみこころを行うわけではないからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは1テサロニケ4:3で、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、」と言います。ここで神が私たちに、聖さ、聖化、性的純粋さをご命令になる、その明確な例があります。これは主のご命令のみこころです。しかし、ああ、何と多くのものがそれに従わないことでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それからパウロは1テサロニケ5:18で、「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること[神のみこころ]です」と言います。再度、すべての事について感謝しなさい、という主のご命令のみこころの、はっきりとした側面です。しかし多くの者がこの神のみこころを行いません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つ例があります。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」(1ヨハネ2:17)。すべての者がいつまでもながらえるわけではありません。中にはながらえる者もあれば、中にはながらえないものもいます。違いは何でしょうか？中には神のみこころを行う者もいますが、中にはみこころを行わないものもいます。ここでの神のみこころの意味は、それが絶えず起こるわけではないと言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから、これらと聖書の他の多くの箇所から、神のみこころについて語る二つの方法があるということを、結論付けます。両者とも事実で、両者とも理解し信じるのに重要です。一つは神の''定められたみこころ''(あるいは主の''主権のみこころ'')と呼ぶことができ、もう一つは神の''ご命令のみこころ''と呼ぶことができます。主の定められたみこころは、私たちが信じようが信じまいが、必ず実現します。主のご命令のみこころは破ることができ、そしてそれは毎日破られているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== これらの真理の尊さ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これをローマ12:2と関連させる前に、この二つの真理がいかに大切かについてコメントさせてください。両者とも、私たちが深く傷ついているとき、あるいは大切なものを失う体験をしたときに抱える私たちすべての深い必要に、対応します。一方で、神がすべてを支配しておられ、それゆえ私の痛みと喪失のすべてを私の良いことのため、また主を愛するすべての者の良いことのために働かせることがおできになる、という確証が私たちには必要です。もう一方で、神は私たちの気持ちを理解され、私たちの罪や痛みをお喜びにならない、ということを私たちは理解する必要があります。この二つの必要は、神の定められたみこころと主のご命令のみこころと対応します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえば、もしあなたが子どもの頃ひどい虐待を受け、誰かが「それは神のみこころだったと思うかい？」と尋ねたとします。あなたには現在これを聖書的に理解する方法があり、その質問に対し、聖書と矛盾しないような返答をします。「いいえ、それは神のみこころではなかったと思います。なぜなら主は人間が虐待をするのではなく、互いに愛し合うようご命令になるからです。虐待は主のご命令に違反するものであり、それゆえ主の心を動かし、み怒りと悲しみを引き起こします(マルコ3:5)。でも、別の意味では、そうです、それ[私の受けた虐待]は神のみこころ(主権のみこころ)だったのです。なぜなら主は何百通りもの方法でそれを止めることがおできになったはずだからです。私がまだ十分に理解できない理由で、主はそれを止められませんでした」とあなたは言うことができるでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこの状況では、この二つのみこころに対応する二つの事がらがあなたには必要です。一つはそれを良いことに変えることができるほど強く、権力があられる神、そしてもう一つは、あなたの気持ちを理解してくださる神です。一方でキリストは最高主権者なる王であられ、主のみこころから離れては何事をも起こりません(マタイ28:18)。もう一方で、キリストは憐れみ深い大祭司であられ、私たちの弱さと痛みに同情なさるお方です(ヘブル4:15)。聖霊は主が意図されるとき私たちと私たちの罪に勝利され(ヨハネ1:13、ローマ9:15―16)、主が意図されるとき、ご自身を消され、悲しまれ、怒られるのです(エペソ4:30、1テサロニケ5:19)。主の主権のみこころは揺るぎなく、そして主のご命令のみこころは悲しいほどに反することができるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書を理解する上だけでなく、困難の中にあって神にしっかりしがみつくためにも、この両方の真理、両方の神のみこころの理解が私たちには必要です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ12:2ではどちらのみこころが言及されているのか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ローマ12:2の、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、''神のみこころ''は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」では、どちらの神のみこころを意味しているのでしょうか。答えはもちろんのこと、パウロは神のご命令のみこころを言っています。少なくとも二つの理由で私はそう言います。一つは神は主の主権のみこころのほとんどを、私たちが前もって知ることを意図されないと言うことです。「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、･･･私たちの･･･ものである」(申命記29:29)。もし神の定められたみこころの将来の詳細を知りたいのであれば、あなたは一新された心でなく、水晶球(占いに用いる)が欲しいのです。これは変えられること、または従順とは呼ばれません。占いや予言と呼ばれるものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ12:2の神のみこころが、神の定められたみこころではなく、ご命令のみこころであると私が言うもう一つの理由は、「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために」という一文が、私たちが神のみこころを認め、それを従順に行うと言う意味を含むからです。でも実際、たとえ神の主権のみこころであったとしても、私たちは罪を認め、あるいは犯すべきではありません。パウロのローマ12:2での意味は、ヘブル5:14でほとんど同じ意味で言い換えられています。「堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ピリピ1:9―11の別の言い換えを見てください。)神が成そうと''ご計画される''、''隠された''みこころを探し出すことではなく、私たちが''成すべき''神の''すでにあらわされた''みこころを見極めること、それがこの節のゴールです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神のすでにあらわされたみこころを知り行う3つの行程 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神のすでにあらわされたみこころ、すなわち、主のご命令のみこころを知り行う3つの工程があります。そしてそれらすべて、前回お話した聖霊にから受けた認識力で一新された心を必要とします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''第一段階''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一に、神のご命令のみこころは、最終的、決定的権威で聖書のみにおいてあらわされています。そしてみことばにある神のご命令が何かを理解し受け入れるため、一新されたこころが私たちには必要です。一新された心なしには、自己否定、愛、きよさ、そしてキリストのみにある最高の充足の究極の命令を避けるため、私たちはみことばを歪めてしまいます。神の権威あるご命令のみこころは聖書だけに見つけることができます。パウロはみことばが霊感を受けたものであり、クリスチャンを「すべての良い働きにふさわしい十分に整えられた者」(2テモテ3:16)とすると言います。良い働きのいくつか、ではありません。「すべての良い働き」です。ああ、いかにクリスチャンが、エネルギーと時間と情熱を、書き記された神のみことばを深く思うことに費やすべきでしょうか。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''第二段階''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神のご命令のみこころの第二段階は、聖書ではっきりと触れられている、あるいは触れられていないかも知れない新しい状況に、聖書の真理を適応させることです。聖書はあなたにどの人と結婚しなさいとか、どの車を運転しなさいとか、家を購入するべきかとか、どこで休暇を過ごすかとか、どの携帯の契約プランを選びなさいとか、どのメーカーのオレンジジュースを飲みなさいなど、あるいは他の何千という選択しなければならないことがらを言いはしません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
必要なのは、私たちに聖書であらわされた神のみこころによって形作られ、支配された一新された心があり、キリストの思いを持ってすべての関連要因を見、評価すし、神が私たちを何のために召しておられるかを見極めることです。これは神の声があれをしなさいとか、これをしなさいと言うのを常に聞こうとすることと随分違います。声を聞くことによって自分の人生を導こうとする人は、ローマ12:2と同期化していません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方で、神のみことばをどのようにして適用させるかを見極めるために一新された心を[与えてくださいと]祈ってそのために努力することと、もう一方で、何をすべきか神に新しい啓示をお与えくださいと求める癖とでは、雲泥の差があります。占いには変化は必要ありません。神の目標は当たららしい情報だけでなく、新しい心、新しい考え方と判断の仕方です。主の目標は私たちが変えられ、聖められ、主のあらわされたみことばの真理によって解放されることです(ヨハネ8:32、17:17)。ですから神のご命令のみこころの第二段階は、一新された心によってみことばを新しい状況に適用することのできる認識力です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''第三段階''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、神のご命令のみこころの第三段階は、生活の大部分である、行動を起こす前の意識的じっくり考えることがないところです。あえて言いますが、あなたの行動の95％はあらかじめ考えていないでしょう。つまり、あなたの思い、態度、行動の大半は、自発的です。それらは内側のものがあふれ出しただけです。イエス様は、「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません」(マタイ12:34―36)と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はなぜこれを神のご命令のみこころの一部と呼ぶのでしょうか?一つ理由があります。それは神が、憤ってはならない、高ぶってはならない、人のものを欲しがってはならない、わずらってはならない、ねたんではならない、うらやんではならないと言うような事がらをご命令になるからです。そしてそれらの行動はどれも、あらかじめ考えて起こすものではありません。憤り、高ぶり、貪欲、わずらい、嫉妬、ねたみ、それらはすべて、意識的に考えることや意図することなしに、心から沸き起こります。私たちはそれらのもののゆえに、有罪です。それらは神のご命令に反するものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえクリスチャン人生の大きな課題、つまり、心の一新によって自分を変える、というのは単純ではありません。新しい心と新しい思いが必要です。木を良くすれば、実が良くなるのです(マタイ12:33)。それは大きなチャレンジです。それが神があなたを召しておられることです。あなたは自分でそれを成すことができません。あなたの罪のために死んでくださったキリストが必要です。そしてキリストを高める真理にあなたを導き、真理を受け入れる謙遜をあなたのうちに働かせてくださる聖霊が必要です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに自分自身をささげてください。書き記された神のみことばにどっぷり浸ってください。みことばで自分の思いをいっぱいにしてください。そしてキリストの御霊が、あなたの内側からあふれ出てくるものが良いもので、受け入れられ、完全なもの、つまり神のみこころであるほどあなたを新しくしてくださるよう、祈ってください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
____ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 20 Jul 2017 20:18:54 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A5%9E%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</comments>		</item>
		<item>
			<title>選びの教理についての牧会的見解</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E9%81%B8%E3%81%B3%E3%81%AE%E6%95%99%E7%90%86%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E7%89%A7%E4%BC%9A%E7%9A%84%E8%A6%8B%E8%A7%A3</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「選びの教理についての牧会的見解」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Pastoral Thoughts on the Doctrine of Election}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。6もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。7では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ11章のような教理的に大変重い箇所を一通り説教することの、牧会的意味をあれこれ考えているうちに、解釈の流れの中で何週かごとに立ち止まって、一歩下がり、私たちがそれまで見てきたことの実用的意義を話すのがいいように思えました。ローマ11:1―10から再度、この数週間で見てきたのは(ローマ8:29―33とローマ9:10―24にも見ましたが)、無条件の選びという聖書的教理です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは、世界の基の置かれる前から(エペソ1:4)、誰が信じ、その罪にも関わらず救いという受けるに値しないものを受け、そして誰が反逆の罪を犯し続け、その罪のゆえに滅びという受けるに値するものを受けるかを、神がお選びになっているという教えです。言い換えれば、神のみむねである知恵と義と恵みは、この世で起こることすべての根本的解釈なのです。人間は神ではありません。私たちは何もないところから種を引き起こすことはできません。私たちベツレヘム教会のリーダーたちは、一方で神は主権者であられ、そしてもう一方で私たち全ての者は責任を負っており、罪を犯したのであり、み怒りを受けるべき者たちであるという聖書の逆説(矛盾ではありません)を堅持しています。もし私たちが信仰を持って、この罪過から救われるよう神がお選びになったのであるならば、私たちが受けるべき恩恵は一切ありません。それがローマ8、9章で、私たちが見てきたことで、11:1―10で今再度見ていることです。それが無条件の選びと私が言っている意味です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では今日はこの選びの教理に関する牧会的見解を見ていきます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. ''全部が全部私たちが知るべきことではないので、神には私たちに現されていない事がらがおありになり、また中には十分に説明できなくとも、私たちが知っておくと良いことがおありになる'' ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは部分的に、申命記29:29でモーセが、「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである」と言うところに基としています。神には私たちが知らないよう意図していることがおありになります。それは私たちにとって良いことではありません。例えば、使徒1:7でイエス様が、「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています」と言われます。未来を事細かに知ることは私たちにとって良くないのです。実際私たちは明日何が起こるかさえほとんど分かりません。ヤコブ4:14では、「あなたがたには、あすのことはわからないのです」と言います。他にも詩篇131篇でダビデは、「私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません」と言います。私たちの手の届かないものがあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神が私たちに現されているので私たちが知っている事は、私たちは部分的に知っています。ですからそれらは私たちが知るべきことです。しかしパウロが1コリント13:12で、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」と言うように、私たちは部分的にのみ知っていることに満足しなければなりません。これは特に、選びの教理において本当です。私たちは神がお答えになる以上のことを質問しがちです。私たちの質問が質問を通り越して非難に変わる危険性があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここまでで読み取れる意味は、聖書のある特定の教理が私たちにとっていいかどうか、私たちはそれを絶えず知ることはない、と言うことです。私たちアメリカ人は特に物事を割り切って考えがちで、要求が多いです。もし教理の見返りが即座に見えなかったら、それを無視する傾向があります。そのようなことをするとき、私たちは愚かな子どものようです。すべての親が、子どもはいつかそれがどのように役に立つか分からなくとも、物事を学ぶように造られていると言うことを知っています。例えば、子どもが幼いうちにテーブルマナーを教えます。そうすれば彼らがあらゆる社交場で礼儀正しく行動することができるようになるからです。子どもたちはなぜ親がスプーンを一定の方法で持ち、肘をテーブルにのせてはいけないと言うのか、全くワケが分かりません。太陽は静止しているんだとか、地球は丸いんだとか、緑色野菜は体にいいんだとか、少量の殺鼠剤は人を死に追いやることができるとか、あなたが言うことすべてを受け止めなければなりません。もし子どもがなぜとかどうしてかを理解する前にこれらのことを知らなければならないのであれば、私たち自身と神について私たちが知らなければならないことと、またそれがどのように私たちの助けとなるかを理解せずに、知らなければならないことが、いかに多いかということの距離を想像して見てください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが知っていることが与える私たちの人生への影響は、絶えず私たちが知っている以上、あるいは説明できる以上です。時として私たちは神がそれは本当だと言われるので、単純に学ばなければならないことがあります。後々、知識によっていかに私たちが守られ、力づけられ、へりくだらされ、清められ、導かれ、あるいは物事が事実であると見ることができるように変えられるかということを、理解することがあるかも知れません。詰まるところ、問題は信頼なのです。''私たちは神が私たちが知ると良いと現されている事がらを、信じるでしょうか?'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
選びの教理が、私たちにとって良いことであるかどうか、全部理解しているわけではありませんが、理解していることもあります。それが次の、選びの教理を知ることの影響に関する牧会的見解になります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. ''選びの教理は、真理とみことばに関して教会を厳格にさせる傾向があり、それゆえ教理の間違った解釈に陥り、文化に適合してしまうことから教会を守ってくれる。'' ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
選びの教理は、たるんだ頭を引き締め、頑丈にする傾向があります。健康で、トレンディーな、人間中心のアイディアに流されない、思いやりのあるクリスチャンを生み出す傾向があります。他の教理が薄められ失われていかないよう保存するという、驚くべき力が備わっています。一般的に選びの教理は、本当の客観的事実に基づいた、神中心の世界観を私たちの頭の中にめり込ませる傾向があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜそれが重要なのか、以下はその実例です。一番最近の『クリスチャニティー・トゥデー[''Christianity Today''] 』 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; で、チャック・コールソンが、「超越した真理などないと主張する哲学」である「ポストモダニズム」を議論しています。その中で、ポストモダニズムはその力を失っており、恐らくすぐに色あせていくであろう文化の、4つか５つの兆候を彼は述べていますが、彼が教会に語るその呼びかけを聞いてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「牧師、神学者、教会員たちが聖書的世界観にしっかりと立ち、真理を飢え渇いて求めている人々にそれを明確に弁護する重要なときは、今以外に考えられない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; でも私たちはそのようなチャレンジを受ける用意ができているだろうか?最近ジョージ･バーナはアメリカ全土の教会を巡るツアーを終え、その世論調査によると90パーセントのほとんどの教会のリーダーと信徒伝道者たちに、理解観がまったくない、という悲観的な報告を出した。もし我々が自分の真理のシステムに根を下ろしていないのであれば、競合する哲学とどのようにして競い合って行くことができるであろうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 皮肉なことに、この文化で励まされる兆候があるように思われる中、教会の知的レベルの低下と、御言葉に動かされるメッセージからイメージや感情に動かされるメッセージへと移行している兆候も見受けられる(いかに多くのクリスチャンのラジオ番組が、トークと説教から、最近はすべて音楽に変わっていることに注意)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; より広い文化がその行き止まりに来たと気づいた丁度そのときに、もし私たちがポストモダニズムに紛れ込んでいる自分たちを見つけたなら、それは最高の皮肉、またとんでもない悲劇である。」(『クリスチャニティー・トゥデー』より、「ポストモダニズムの墜落」2003年12月発行、47刊第12号、72ページより) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
選びの教理には、受け継いできた思い込みの川で漂流し、考えることを一切しない頭を持った人々を目覚めさせる、驚くべき効果があります。彼らは、聖書が徹底的に神中心であることと、自分の心がゾッとするほど人間中心であることに、突然衝撃を受けるのです。そして神を聖書的に考える方法を身につけるよう、またコールソンが警告する悲劇の世界、つまり、教会が、文化的関連性の名のもとに、教理は重要ではないと決断した丁度その時に、世界が真理は重要であるということを発見するようになることを、回避するような探求に、彼らは出かけるのです。選びの教理は、私たちが未だ想像できないような形で、私たちと私たちの子孫にとって良いものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 選びの教理に関する第３の牧会的見解は、''選びの教理は、神と自分の役割を置き換えているかどうかを試す、最も良い方法の一つである。'' ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは時代を越える問題ですが、特に人間の自治権を当然と思い込み、権威に対し疑問を抱き、神が存在するかどうかさえ決めることのできる判事席に人間が座る現代では、もっと深刻です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはこの問題を、ローマ9:6―23で最も力強く語っています。語りながら、彼は「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう」という、古代のそして現代の異論を耳にします。それに対し彼は、「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか』と言えるでしょうか」(ローマ9:19―20)と反論します。言い換えれば、神の役割を自分の役割と置き換えるのは、あなたにふさわしくありません。私たちが神を裁いているのか神が私たちを裁いているのかをこれだけはっきりと分析する教理が、他にあるでしょうか。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨブ記の最後でヨブが自分の弁護をし尽くし、人を惑わすような相談役であるエリファズとビルダデとツォファルがいなくなったときの、重要な部分を要約すると、以下のようになります。「ヨブは主に答えて言った。『あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。･･･まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。』」神は、「さあ聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ」とお答えになります。言い換えると、「ヨブよ、しっかりと腰を据えて聞きなさい。わたしに教えようとするのではなく、わたしから学びなさい。わたしを責めるのではなく、信頼しなさい」と神は言っておられ、それに対してヨブは、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」と最終的に応答します(ヨブ42:1―6)。選びの教理は、私たちの中にはそれを見た人達がすでにいますが、私たちが、非難するヨブの視点に立っているのか、あるいは信じるようになった、砕かれへりくだったヨブの視点に立っているのかを、私たちに吟味させます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
魚は自分が濡れていることを理解していません。魚にとっては、濡れることがすべてなのです。それを考えもしません。それと同じように、現代人、つまり、この過去200年以内に生きてきた人たちにとって、自分が神に対しいかに傲慢であるかということを理解するのは、至難の業です。現代の世の中は、神に対する傲慢さがすべてです。それが私たちの泳いでいる海であり、吸っている空気です。織物という私たちの頭のなかに、それがしっかり編みこまれているのです。私たちはそれがそこにあることを分かっていません。傲慢さを通して他のすべてのものを見るので、私たちにはそれが見えないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
C. S. ルイスは次のように言っています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「古代人は、被告が裁判官に近づくように、神に近づいた。ところが現代人はその役割を置き換えてしまっている。人が裁判官で、神が被告席に着いておられるのである。人はとても親切な裁判官で、もし神に、戦争や貧困や疫病をお許しになる神であることの納得のいく答弁がおありになれば、聞く用意ができている。裁判は神の無罪判決で終了するかも知れない。しかし重要なのは、人が判事席に着いており、神が被告人席に着いておられることである。(『''エッセイ集とその他短編''』より、「被告人席に着いておられる神」、レズリー・ウォルムスレー編集、C.S.ルイス著、[ロンドン、ハーパーコリン出版社、2000年出版]、36ページ) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとんど感じられない感情、それが事実上、現代という意味です。神に質問し神を裁いてさえいいと思うその感情を、自分が持っていることさえ分かっていない、思い込みなのです。選びの教理は、この現代世界の傲慢という土着の海から自分が解放されつつあるか、あるいは未だに骨まで浸かりきっているかを、とても効果的に試します。神の主権のうちにある試練にあって試されるのは、私たちにとって良いことです。そうすればヨブと共に、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」と言えるかも知れないからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4. 選びの教理に関する第４の牧会的見解は、''尊い選びの真理と主権の恵みの議論ではなく、知的信仰でもなく、へりくだってそれを受け入れるその受け入れは、究極の、愛のある、リスクを負った奉仕と宣教を、生み出す''ということである。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一例ですが(ウィリアム･キャレーやアドニラム･ジャドソン、ディビッド･リビングストン、ジョン･パットン、ジョージ･ミューラー、チャールズ･スポルジョン、ジョナサン･エドワーズやその他もっと沢山の人から得ることができると思いますが)、クリスティン･カールソンはアクション･インターナショナルという団体(彼らを知ってください。ディレクターの名前を挙げることができると思いますが、ダグ･二コールズは、過激なクリスチャンの一人で、選びの真理をへりくだって受け入れるがゆえ、結腸癌でルワンダに渡った人です)を通してザンビアで、ストリート･チルドレンのために約一年働いています。以下はクリスティンさんが感謝祭の朝にメールしてきたものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「まず何よりも、私をお選びくださった、神のはかり知れない恵みに感謝しています。私にはこれを受けるに値するものが何もなく、それにも関わらず、み父が私に良きことをなしてくださることに、驚かされ続けています。選ばれたことを私が感謝するその理由は、私が何のために選ばれたかを理解しているからです。神が卓越したお方であることを告げるために選ばれ、イエス様を通して神に永遠に満足するために選ばれ、暗闇ではなく光に生きるために選ばれ、主が良いお方であることを見て味わうために選ばれたということです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを見逃さないでください。皆さんの中には、選びの教理が真実でないか、何の役にも立たないと教えられてきたため、クリスティンさんが言っていることがさっぱり分からない人がいると思います。絶えず外観者で、疑わしい目で見、批判してきています。このメールで、無条件の選びを受け入れ、それに受け入れられることがどのようなことであるかを知っている人の、内側の話をあなたは今聞いています。その効果は、あなたが教えられてきたようなものではありません。その効果に耳を傾けてください。彼女は続けます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「私は神が、心が頑なで、無関心で、反抗的なストリート･チャイルドのヴァスコを、暗闇から主の素晴らしい光へとお選びになったことに、感謝しています。そしてヴァスコの人生にすでに見られる実は、彼がぶどうの木であられるイエス様にとどまっていることの、証しです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; この一年の神の溢れるばかりの慈愛に感謝します。･･･ストリート･チルドレンと友達になり、永遠に続く希望を彼らに分かち合うことができる働きの一部に携われるとは、何と素晴らしいことでしょう。挿入ですが、神が私にこの子供たちに対する思いをお与えくださったことに感謝しています。客観的に言って、汚れた臭い子供達と一緒にゴミの山を踏み歩き、ハイカラなソファ(ダンボール一枚がのった金属製の物)に座るのを好むのは、「普通」ではないと分かっていますが、それが事実で、私はそれを愛おしく思います。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無条件の選びから始まる主権の恵みの教理を受け入れることと、それに受け入れられることは、そのような過激な、リスクをいとわない、犠牲の愛をまず生み出します。それからこの美しさは自分たちで作り上げたのではなく、神が私たちのうちに創出されたという事実に喜んでへりくだるようになるのです。そして私たちは神に栄光をおかえしします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「これは聖書的な考え方ですか?」「聖書では実際に選びの真理はこれらの効果をあらわすよう、神によって意図されているのでしょうか?」とあなたがお尋ねになるなら、その答えは、その通り、です。コロサイ3:12―13の言葉遣いをまず考えて見てください。「それゆえ、''神に選ばれた者''、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に付けなさい。互いに忍び合い、だれか他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」関係があります。パウロの頭の中ではそれは明白で、はっきりしているのです。恵みによってあなたは選ばれており、神のために聖別されており、愛されている、ということの理解は、あなたを、虐待を耐え忍び、いつでも許す用意ができている、この世でもっともへりくだった者に作り上げるはずです。ザンビアや他のどの場所であれ、愛せないような人を愛するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他にもこれがどのように作用するのか、手がかりのある箇所があります。ローマ8:33でパウロは、「''神に選ばれた人''々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです」と言います。その答えは、もしあなたが神に選ばれた者であるならば、あなたを訴えることができる者はいない、です。神はあなたの永遠の味方です。パウロがこう言うのは、その実践的効果が私たちに起こることが当然であると予期しているからだというのは、非常に明瞭です。彼は私たちが確信と喜びを感じ、そして勇敢で恐れ知らずになるよう期待しています。今日あなたが正しくて愛があるように思える行為を前に、決断しなければならない立場に立たされており、それが危険を伴うことだと分かっているところで、「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」という質問の効果を感じますか?「選ばれた」という言葉に確信を生み出す福音の力を感じますか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは主として議論されるべき教理ではなく、楽しむべき教理です。それは論争されるものとして意図されていません。宣教のためのものとして意図されています。人々の間で分裂引き起こすものではありません(分裂を引き起こしますが)。人々を思いやりのある、親切で、へりくだっており、柔和で、寛容な者にさせるものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 5.最後の牧会的見解で終わりにします。''イエス･キリストから離れて選びを考えてはいけません。'' ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エペソ1:4で、「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼[キリスト]にあって選び」と言います。言い換えれば、私たちを罪の束縛から救い出すことを永遠からご計画になられた際、神にはキリストがそれを成す方法の念頭におありになりました。神はキリストの死とよみがえりを通して私たちを救おうと、世界の基が置く前に、ご計画になったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、私たちを救い、ご自身に召されるように成されたのは、私たちが選ばれた者であるかどうかを、私たちに事前に教えないことです。神はイエス･キリストとの関係を通して以外にこれを表示されることはありません。それはキリストが私たちの選びの中心となられるためです。私たちが選ばれた者であるかどうかを教える代わりに、神が成されたのは、ご自分の御子をお遣わしになり、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3:36)、「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています」と言われたのです。その人は自分が選ばれた者であることを知っています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからキリストの御名によって、あなたをお招きします。来て、主をあなたの救い主、あなたの主、あなたの人生の宝として受け入れてください。主は信仰を持って主のみもとに来る者を追い払われません。罪をお赦しになり、義をまとわせてくださいます。聖霊をお与えくださいます。あなたを守ってくださいます。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27)良い羊飼いの声を聞いて、み前に進み出てください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
_____ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; キリスト教月刊誌&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 11 Jul 2017 20:00:55 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E9%81%B8%E3%81%B3%E3%81%AE%E6%95%99%E7%90%86%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E7%89%A7%E4%BC%9A%E7%9A%84%E8%A6%8B%E8%A7%A3</comments>		</item>
		<item>
			<title>探求ー喜び! 見つけたーキリストを!</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%8E%A2%E6%B1%82%E3%83%BC%E5%96%9C%E3%81%B3!_%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%9F%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%92!</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「探求ー喜び! 見つけたーキリストを!」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Quest: Joy! Found: Christ!}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブレーズ･パスカルは1662年に亡くなったフランス人の天才数学者です。31歳になるまで神から逃げ回った後、1654年11月23日夜10:30、パスカルは神に出会い、深く、そして揺るぎなく、イエス･キリストへと改宗しました。そのことを小さな布切れに書き記し、自分のコートの内側に縫い付けているのが、8年後彼が亡くなった時に見つかりました。それにはこう書き記されていました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &amp;amp;gt; 「恵みの年1654年、11月23日月曜日、聖クレメントの晩餐･･･夜10時半を過ぎたあたりから深夜12時半頃、火事。哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。確信と、心からの喜び、平安。イエス･キリストの神。イエス･キリストの神。『私の神、そしてあなたの神。』･･･喜び、喜び、喜び、喜びの涙･･･イエス･キリスト。イエス･キリスト。二度と主から離れることがありませんように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1968年、パスカルとC. S. ルイスとジョナサン･エドワーズとダン･フラーと聖書が、その「喜び、喜び、喜び、喜びの涙」という言葉で、私の人生を永遠に変えるために、チームを組みました。皆さんの礼拝フォルダーの中にあるこの小冊子、『喜びを探し求めて(Quest for Joy)』は、その当時生まれたものです。15年かかって書かれたものではありません。その頃に書かれたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
表紙の裏を見てください。これが幸せを恐れていた私に反するパスカルの一撃です。 &amp;amp;gt; 「すべての人が幸せを求める。例外なしに。いかなる手段を用いてでも、すべての者がこの目的を達成しようとする傾向にある。戦争に行く者の動機も、それを避ける者の動機も、違った見解を伴った同じ望みである。これがすべての者のすべての行動の動機であり、自分の首を吊る者の動機でさえもある。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは事実だろうと思っていました。でもそれは罪だと、私は絶えず恐れていました。幸せになりたいと思うことは、倫理的欠陥だと。自己否定というのは、喜びを否定し、下等の喜びをより素晴らしい喜びのために否定することではない、と。しかし神は私に無理やり改めて聖書を読み直すよう、これらの著者たちを通してたくらまれました。真理が言うことにもう一度チャンスを与えるためです。そして喜びに関し私がそこで見つけたものは、私を永遠に変えました。以来それを理解し、それに生き、それを教えようとして来ました。それは新しいものではありません。何千年もそこにあり続けて来たものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 喜びについて聖書が語ること  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
喜びについて聖書が語っていることから、皆さんに少し味わっていただきたいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''教えられたことすべてにおいて、イエス様の目標は、主の民の喜びである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ヨハネ15:11 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''喜びこそ私たちがキリストに信頼をおくときに神が私たちを満たしてくださるものである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ローマ15:13 「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、･･･あふれさせてくださいますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神の御国は喜びである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ローマ14:17 「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''喜びこそ神の御霊が私たちの内におられることの実である。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; がラテヤ5:22 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、･･･。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''喜びこそ使徒達が成し、書き記したすべてのことの目標である。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 2コリント1:24 「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''クリスチャンになるということは、すべてのものを捨てるのをいとわないような喜びを見出すことである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; マタイ13:44 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''喜びは聖書にある神のことばによって養われ、支えられる。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇19:8 「主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ･･･。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キリストに信頼する者にとって、喜びはすべての悲しみを上回る。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇126:5 「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇30:5後半 「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神ご自身が私たちの喜びである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇43:4 「こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、･･･。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇16:11 「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神のうちにある喜びは、地上のすべての喜びをしのぐ。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇4:7 「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''もし喜びが神のうちにあるならば、誰もその喜びをあなたから奪うことはできない。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ヨハネ16:22 「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心の喜びは満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神は信じるすべての者に差し出しておられる喜びに加わりなさいと、すべての国民と人々を招いておられる。人種差別は一切ない。自民族中心主義も一切ない。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇67:4 「国民が喜び、また喜び歌いますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇66:1 「全地よ。神に向かって喜び叫べ。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''初めから終わりまで、キリスト教全体のメッセージは、素晴らしい喜びの良い知らせである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ルカ2:10 「御使いは彼らに言った。『恐ることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; イザヤ51:11 「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キリストの来臨の際主にまみえるとき、私たちは不滅の喜びに入る。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; マタイ25:23 「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。･･･主人の喜びをともに喜んでくれ。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1968年私にとって恐らく最も衝撃的だったのは、''この神にある喜び''が、命じられているという、単純明快な見解でした。それをその本[『喜びを探し求めて』]の次のページに見ることができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇37:4 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇33:1 「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇32:11 「正しい者たち。主にあって喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
命じられているのは、それが私たちの喜びだけでなく、神の栄光、神の栄誉と評判がかかっているからです。もし私たちが神に喜ばないなら、もし神が私たちの宝であり喜びであり満足でないのなら、主を侮辱することになります。主の栄光が軽くあしらわれます。主の評判に傷がつきます。それゆえ神は、私たちのためとご自身の栄光のため、私たちに喜ぶよう命じられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その発見で私はキリスト教の中心的メッセージ、福音、つまり、イエス･キリストの良い知らせを理解することができたのです。そして、キリスト教の福音と、それがどのように罪人を救い、永遠の喜びを与えてくれるのかのまとめを提供することが、この小冊子、『喜びを探し求めて』で意図されていることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大海を一つの雨つぶにおさめようとする、つまり、神の義と愛を小冊子におさめようとするのは、危険なことです。でもそれは危険であるだけでなく、愛あることであり、必要なことでもあります。神は一度それをなさいました。主は無限のご自身を一人の人間、イエス･キリストにおさめられました(コロサイ2:9)。それは大海を雨つぶにおさめることよりも、はるかに驚くべきことでした。そしてそれは愛あることだったのです。主はご自身神であられるのと同時に人間であられたので、私たち自身の罪のために死ぬことがおできになったのです。でも多くの者が主のうちに神を認めませんでした。私もこの小冊子に多くの人が福音を見ない危険をおかしています。そして私のおかそうとしている危険は大きいのです。それは私が神ではなく、完全無欠でもないからです。でもあなたを愛しており、また神があなたを救うために何を成してくださったかをあなたに見て欲しいのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから私と一緒にこの小冊子を一つ一つ見ていってくださいませんか?もしあなたがイエス様を信じておられないのであれば、神がご自身について、そしてあなたについてあなたに見せようとしておられることに単純に心を開いて、何が本当であるかをあなたに確認させてくださるよう、また本当でないことからあなた自身を守ってくださるよう、主にお願いして下さい。もしあなたが信者であられるなら、自分の人生を築いたものを新たにし、もし神がそう導かれるのなら、この小冊子を用いて世界で最高の知らせを分かち合う用意をしてください。このイースターの日曜日によみがえられたキリストが、あがめられますように! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初の二つの聖書的真理を一緒に考えてみましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その1ー神は私たちをご自身の栄光のために造られた。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。･･･わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ43:6―7) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その2ーすべての人間は神の栄光のために生きるべきである。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(1コリント10:31) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらはほとんど同じではないでしょうか?何が違うのでしょう?これらを一つにまとめてしまう代わりに、二ページにすることはどうして重要なのでしょうか?違いは、真理その１は神の設計を言い、真理その2は私たちの務めを言っているところです。それらを別々にしこのような順序に置くのは、それが現実について何かとても重要なことを語っているからです。もしそれに耳を貸さないなら、私たちはそれが貴重な知らせとしての福音であることを、恐らく見ることはありません。キリストの残酷な死が品のない過剰反応であるかのように恐らく思えるでしょう。重要なのは、神がすべてのものの根源であられ、すべてのものの測りであられ、すべてのもののゴールであられるという点です。そして全世界のすべては神です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の7歳の娘タリタと私は昨日土曜のデートでレーク通りのアービーズへ昼食へ出かけました。ハイワタから降りたところで青いバンが私たちの前へ来て、私はタリタに、「あの車のバンパーステッカーは良くないな」と言いました。娘が座っているところからはそれが見えなかったので、娘に読んであげました。「『すべては私』だって。」大文字の『私』です。イエス様の福音が多くの者にとってほとんど理解できないのはこのためです。それはまったく違った現実の幻に根付いています。私たちがすべてなのではありません。すべては神です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は私たちがご自身の栄光のために生きるよう設計なさいました。これは至るところに[書かれて]あります。そしてそれゆえ主の栄光のために生きることが私たちの人生の召しであり、私たちの務めなのです。自分を試してみてください。あなたに対する神の愛とは、あなたを中心に置くことでしょうか、それともあなたに、大きな犠牲を払ってでもご自身を中心にした永遠の喜びをあなたに与えることでしょうか?それがあなたが造られた理由です。それがあなたの喜びとなり、主の栄光となるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは次の二つの聖書的真理をご一緒に考えて見てください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その３ー私たちのすべては、神に栄光をお返しすべきようにはお返ししていない。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その4ー私たちのすべては、神の正しいさばきのもとにある。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「罪から来る報酬は死です。」（ローマ6:23) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらもまた、最初の二つのように、一ページに一緒にしてしまうことができないでしょうか?「私たちのすべては罪人であるので、神の罪の定めを受けるにあたいし、処罰を受けるにあたいする」と言うことができます。でももしそのように言ってしまうと、とても重要な何かが失われてしまいます。罪というのは私たちが人々をあしらって来ているそのあしらい方ではなく、私たちが神をあしらって来ているそのあしらい方であると言う、真理その3で強調されているものが、失われてしまうのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのバンパーステッカーが「私の罪は、すべて私である」と言う意味であったとしても、それは間違いです。神が被造物の中で主ご自身の意図の中心であられます。そして神が罪人であるということの、中心であられます。それは、ローマ3:23が言うように、神からの栄誉を受けることができない、つまり、神の偉大さ以外の別の偉大さを好み、楽しむ、という意味です。罪は第一にそして何よりもまず、私たちが人をどのようにあしらうかではなく、神をどのようにあしらうかということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神を侮辱することとしての罪の重さを感じなければ、私たちは地獄の恐ろしさやキリストの血にまみれた十字架を理解することは決してありません。罪とは人が人を悪用することだけではありません。罪とはおもに、人が神を悪用することです。人が神を拒否することです。人が神を無視することです。人が神以外のものを好むことです。それゆえ人は神を軽くあしらうのです。これこそが全世界で最悪の侮辱です。真理その4の罰がそんなに不公平に思えないようになるには、私たちはこれを感じなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちのすべてが神をさげすんで来ており、主の怒りは私たちに下っています。それは私たちたちにとって大きな問題です。それは経済よりも大きいです。イラクやあるいは北朝鮮との外交関係よりも大きいです。結婚問題や痛い癌よりも大きいです。これがキリスト教の福音が第一にそしておもに救済するものです。私たちはどのようにして神の正しいさばきから救われることができるでしょうか?福音にはそれ以外にも多くの素晴らしい効果がありますが、これが最も重要なもので、他の事がらは福音を基本としています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、福音です。最後の二つの聖書的真理を一緒に考えて見ましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その5ー神はご自身の唯一の御子イエス様を、永遠のいのちと喜びを与えるためにお遣わしになった。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「『キリスト･イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(1テモテ1:15) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その6ーキリストの死によって買い取られた恩恵は、悔い改め主に信頼する者のものである。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「こういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」(使徒3:19) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも･･･救われます。」(使徒16:31) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
再度、これらの二つのページを一つにすることができます。私たちは、「罪と咎と罪の定めの救済法は何でしょうか?答えは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます』です」と言うことができます。でもそれだと、大変中途半端は答えになってしまいます。もしあなたが溺れかけているなら、助けを叫び求めることだけが救済措置ではありません。救助員と救助ラインと(必要とあれば)人工呼吸が必要です。助けを求める叫びは、救助活動に連絡をつけることができます。もしあなたが心臓発作を起こしたら、911(救急電話)に電話をすることがおもな救済措置ではありません。救急車と救急隊と心肺機能蘇生と、看護師と外科医と薬品が救済措置です。911にかける電話は、救助活動に連絡をつけるだけです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の罪を悔い改め、イエス様を信じる(真理その6)と言うのは、そのようなものです。それがキリストにある神の救いのみわざにつながることです。キリストは2000年前に私たちを救うため、何かをなさいました。主は来られ、神の御子として完璧な人生を生きられました。主は主を信じるすべての者の代わりに、身代わりとして死なれました。1ペテロ3:18、「キリストも一度罪のために死なれました。それは、･･･私たちを神のみもとに導くためでした。」私たちの信仰は私たちの救いの基盤ではありません。それが私たちの救いの基盤と私たちをつなげるのです。''キリスト''が私たちの救いの基盤です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主が私たちの罪の定めの代わりに死なれ罪に定められたこと、主の私たちの罪と不完全さの代わりの完全な義、そして主の、私たちの救い、また私たちの喜びを永遠に有効にし確保するためのよみがえり。聖書は、「そして、もしキリストがよみがえられなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。･･･しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(1コリント15:17、20)と言います。主が私たちのために死なれそしてよみがえられたので、主に信頼する者はすべて永遠のいのちと止めどなく続く喜びを持つのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いのちをかけて主に信頼して下さい。あなたの結婚、あるいは独身を主に信頼してください。あなたのビジネスと経済的状態を主に信頼して下さい。あなたの富を主に信頼してください。そしてこれらすべての根底に、自分の罪と咎と恐れを主により頼んで下さい。主はすでに救いのみわざを成してくださったのです。すべてが終わりました。主は死なれ、主はよみがえられたのです。そして主の救いは、主にある信仰によって、あなたのものになります。そしてそうなったとき、あなたが造られたその目的、神の栄光があなたの永遠の喜びのうちに繁栄される、という目的の達成が、実現します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
___ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 23 Jun 2017 20:23:54 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%8E%A2%E6%B1%82%E3%83%BC%E5%96%9C%E3%81%B3!_%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%9F%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%92!</comments>		</item>
		<item>
			<title>偉大なそして憐れみに富むローマ1―8章のメッセージ</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%81%89%E5%A4%A7%E3%81%AA%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AB%E5%AF%8C%E3%82%80%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E1%E2%80%958%E7%AB%A0%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B8</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「偉大なそして憐れみに富むローマ1―8章のメッセージ」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Mighty and Merciful Message of Romans 1-8}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはスペイン宣教のための支援を集めるため、ローマの教会に手紙を書きます。ローマ15:24で彼は、「[イスパニアに行く]途中あなたがたに会い、･･･あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; と書いています。彼はまだ一度もローマに行ったことがなく、そこにいるクリスチャンのほとんどと出会ったことがまだありません。それで彼はこの16章で彼の福音を彼らが理解するよう、詳しく説明します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべての宣教師たちがローマ書を知り、ローマ書を説教しますように。そして送り出す私たちがローマ書を知り、ローマ書に生きますように。そうすれば、パウロがローマからスペインに送り出され支援されたように、宣教師らを送り出すようになるからです。この偉大なそして憐れみに富む書は、金持ちのアメリカ人の生活を戦時中のようなスタイルに変え、彼らに福音の目的に資金を注ぎ込ませるようになります。そしてこの書の偉大なまた憐れみに富むメッセージは、困難にある宣教師たちの口を通して、闇の力を破壊し、最も難しい場所にキリストの教会を立てるようになります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== この手紙の多文化的、グローバルな特徴  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのためこの手紙を読み始めるにあたって、多文化的、グローバルな要旨があることは、驚きではありません。ローマ1:5でパウロは彼の使徒としての目標を私たちに語ります。「私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。」そのため彼は説教するのです。そのため彼はスペインへ行こうとしているのです。イエス・キリストにある信仰とそこから来る従順を「あらゆる国の人々の中に!」もたらすため、彼はこの手紙を書くのです。ローマ書は諸国、キリストをまだ信じていない人種に関する書です。福音がたどり着いていなければ、義と認められず、聖化されず、それゆえ栄光へと変えられない人々のことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして14節で、彼は使徒としての務めを再び私たちに言います。「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」そこで私たちは彼はユダヤ人を忘れていると思いがちですが、16節で、「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と彼は言います。ユダヤ人、ギリシャ人、未開人、知識人、知識のない人!言い換えれば、このローマ書の偉大なそして憐れみに富むメッセージは、国や文化や学歴の違いを打ち破るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはキリストの教会が急速に広がった1世紀とほとんど変わらない、私たちの多元的な時代に見なければならない、とても重要なものです。キリスト教は一部族の宗教ではなく、すべての民族、言語、人々、国民から信仰と忠誠を呼び起こす宗教です。イエス様は沢山ある神々のうちの神ではありません。主の主、王の王であられ、そして天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は他にはないのです。ローマ書の偉大な、そして憐れみに富むメッセージは、救われるため沢山ある方法のうちの一方法ではありません。これこそ救われる道です。なぜならイエス・キリストは、神のひとり子であり、救い主であられるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この主張は絶えず論争されてきました。特に今日のアメリカでも、イスラム教徒やユダヤ教徒の間でも勿論のことですが、クリスチャンだと公言する者たちの間でさえ、論争されています。フライデー・スター・トリビューン &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; に、キリストにある信仰の必要性を否定する記事が載ったことがあります。カトリック司祭とアメリカ人ユダヤ教指導者の会は「契約と宣教についての考察」という文書を発表しましたが、著者が言うその主旨は、「ユダヤ人を改宗させようとする努力は、『神学的にこれ以上受け入れられない』･･･なぜならユダヤ人はすでに『神との契約のうちにある』からである。」(2002年9月20日金曜日、A23ページ)です。言い換えれば、キリストを拒否するユダヤ人には救いに至る道があり、キリストを受け入れるクリスチャンには別の救いの道がある、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)とイエス様が言われたことを踏まえると、これは間違った、そして心痛むキリスト教司教の発言です。それゆえ、主を受け入れる異邦人と主を拒否するユダヤ人に関して、イエス様は「たくさんの人[異邦人]が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子ら[主を受け入れないユダヤ人たち]は外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ8:11―12)と言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのためローマ書の偉大なそして憐れみに富むメッセージの普遍的主張を私たちが見ることは、この上もなく重要です。私たちは人の意見や人の哲学、あるいは自己向上プログラム、一部族の宗教、あるいは何か偏狭的で制限されたものをここで扱っているのではありません。ただお一人の、唯一の神が、ご自身のたったひとりの御子を罪人の代わりに死ぬため遣わされ、よみがえらせることによって人々を救うという、他に類のないみわざを歴史の中で成されたという、実際にあったニュースを扱っているのです。このニュースを拒否することは、滅ぶこと意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== この書簡のテーマであるローマ1:16―17  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは自分の趣旨をローマ1:16―17で述べ、それを説明し、残りの書簡で適用しています。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。17なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」パウロはまず、彼のメッセージ、つまり彼の福音には救う力があり、憐れみ深く、それは救いを得させる神の力である、と言います。そしてこの救いは信仰によって起こります。救いを得させる福音の力は、イエス・キリストにある信仰によって、私たちの魂を貫くのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして彼は17節でなぜ福音に力があるのかを説明します。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて」。福音は神の義をあらわすので、キリストを信じる者に救いを得させる力があります。それは何を意味するのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ1:18―20ー私たちのすべてはなぜ救われなければならないのか  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それを説明する前にパウロは、なぜ私たちのすべては救われる必要があるのかを、ローマ1:18―3:19にかけて示します。ローマ3：9に彼の要約を見ます。「私たちは前に、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」そして19節、「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。」ですので私たちのすべては罪人です。私たちすべてが神のみ怒りの下にあるのです(1:18）。私たちのうちには神に申し開きができる義がなく、3:20では私たちは自分で自分を救ったり、義とすることはできないということを明確にしています。「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。」私たちは罪人です。私たちは神の正しく聖いみ怒りの下にあるのです。そして私たちは行いによっては自分を救うことも義とすることもできません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ3:21―31ーイエス様にある信仰による神の義の啓示と、その意味  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこでパウロはローマ1:16―17の自分の趣旨に戻り、信仰による神の義が啓示されているので、福音は信じる者に救いを得させる神の力であるというのが、どういう意味なのかを説明します。21―22節で、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました[ここで彼は17節で言うところの神の義の啓示を取り上げています]。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では福音に信じるものを救う力を与える神の義の啓示とは、一体何でしょうか?それは「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」のあらわれです。それは信仰を通してあらわされる、私たちに対する賜物としての神の義です。それが義認と呼ばれるものです。それゆえパウロは24節で、キリストを信じる罪人は、「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです」と言うのです。福音を救いにいたる神の力とする神の義の啓示は、キリストを信じる罪人に対する神の義の実演と賜物です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ3:25では神がどのようにして、正しい方であるままで罪人を義と認めることができるのかが、説明されています。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」言い換えれば、神は私たちの代わりにご自身の御子が死なれるよう定められました。そうすればみ父のみ怒りと呪いが、信じる者にではなく、主にかけられるからです。主はこのようにして、罪に対するご自身の憎しみと正しいさばきを示されたのです。こうして、26節が言うように、今や主は「ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになる」ことができるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでキリストの死は私たちが義と認められるための土台です。もし私たちがイエス様を信じるなら、神はイエス様のために私たちを義とみなしてくださるのです。私たちは義人であるかのようにみなされ、待遇されるのです。それが義認です。そして28節でパウロは、この神のみ前で正しいとみなされることは、行いによらず、信仰によるのであると、はっきりさせます。「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで、この国際的、宣教的、多文化的暗示を見逃さないでください。パウロ自身29―30節でそれを引き出しています。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人[諸国民]にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。30神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。」キリストにある信仰による義認というのは、諸国民、すべての人種、そして私たちが出会うすべての人々に対し私たちが持っている、偉大な、憐れみに富む、国際的メッセージです。神と正しい関係になるのには、救い主はお一人、十字架は一つ、よみがえりは一つ、その方法も一つだけです。それは行いによるのではなく、キリストにある信仰によって、主の義が私たちのものとみなされることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ4章ー行いによらずした、信仰によるアブラハムの義認  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4章ではパウロはアブラハムを例えに、行いによらずした信仰による義認を論証しています。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」(３節)。この書の最も貴重な聖句の一つが、アブラハムの例から立てられています。(5節)「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」行いではなく、信仰が義とみなされるのです。そして正しいものではなく、正しくないものが義と認められるのです。これこそ事実、良い知らせです。これが偉大な、そして憐れみに富む、ローマ書のメッセージです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ5章ー苦難と死を目の前にしての希望と安心  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5章ではパウロは1節で[章全体を]要約しています。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」それから彼は義と認められた者たちの苦難と死の現実について語り始め、8章に出てくる強く強調された患難について先取りして言います。3節では私たちがなぜ患難の中で喜んでいることができるのかを説明しています。それは、それが忍耐と品性と希望を生み出すからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこの患難の背景に相反して、大きなことから小さなことへ、というように、彼は8章で主張するのと全く同じようにして、もし神が大変なことを成就してくださるのなら、簡単なことも成してくださるはずだ、と言います。ローマ8:32を思い出してください。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された[大変なこと]方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださら[簡単なこと]ないことがありましょう。」パウロはローマ5:9でそれと全く同じように主張します。「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たち[それは大変なことです]が、彼によって神の怒りから救われる[それは簡単なことです]のは、なおさらのことです。」10節でも同じような主張をしています。「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられた[それは大変なことです]のなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかる[それは簡単なことです]のは、なおさらのことです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
要するに、苦難と死を目の前にしての希望と安心は、ちょうど8章と同じようなものです。正常なキリスト教は患難に満ち溢れています。「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14:22)ローマ書の偉大なそして憐れみに富むメッセージは、困難を予期した上で述べられていることを、決して忘れないでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
死はどの文化においても、どっしりと重い現実です。もしあなたに福音があるなら、あなたには死についての弁明と、死を目の前にした希望がなければなりません。それがパウロがローマ5:12―21で言及していることです。彼はそれを、不従順によって罪と死をもたらしたアダムを、従順によって義といのちをもたらされたキリストと比較することによって、言及しています。19節はその比較が最も明確にされています。「すなわち、ちょうどひとりの人の[アダムの]不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの[キリストの]従順によって多くの人が義人とされるのです。」アダムの罪と罪の宣告は私たちのものとみなされました。それは私たちが生まれながらにして彼と一つだからです。そして、キリストの従順と免罪が私たちのものとみなされました。それは私たちが信仰によって主と一つとされているからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それからパウロは21節で、キリストを通しての恵みの勝利を要約しています。「罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ6章ーキリストと一体となることとは、罪に死に奴隷から解放されること  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私たちが信仰のみによって義と認められるのなら、そして罪のあるところには恵みも満ちあふれるのなら、恵みが満ちあふれるために、罪を犯そうではないか、と言う、解決しなければならない問題へと至ります。パウロは6章で、信仰は私たちをキリストと実際に一つにするので、私たちは実際に主とともに罪に死に、罪の奴隷から解放されるという体験をする、という教えを持って、それに答えます(6:6、17―18)。すべての義と認められた人々は、聖くされていくのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ7章ー他の人のものとなるため律法に死ぬ  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして7章でパウロは、律法を守ることが私たちを聖くするのではない、あるいは私たちをイエス様のようにするのではない、と主張します。いいえ、「あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。･･･私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(7:4、6) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クリスチャンの人生は、「他の人･･･と結ばれ」るため(7:4)、無償の賜物とイエス・キリストとの関係を熱心に求めた人生です。主こそクリスチャン人生の偉大な、憐れみ深い、模範となる権威者であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ8章ーキリストの愛から私たちを引き離すものは何もない  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ書8章は、私たちが最近学んだ素晴らしい8章です。私たちをキリストの愛から引き離すのは誰でしょう(35節)?それとローマ7:4のつながりが見えますか?他の人、つまり、死者の中からよみがえられたイエス・キリストと結ばれるため、律法に死ぬ、というものです。それが生きることの鍵と、死ぬことの鍵です。では私たちをキリストの愛から引き離すのは誰でしょうか?答えは、誰もいない、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」(ローマ14:8―9) 主のご支配のもとに生き、主のご支配のもとに死んでください。そしてキリストにある神の、何にも勝るもののない愛を歌ってください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
____ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 新聞&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 20 Jun 2017 20:37:36 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%81%89%E5%A4%A7%E3%81%AA%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AB%E5%AF%8C%E3%82%80%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E1%E2%80%958%E7%AB%A0%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B8</comments>		</item>
		<item>
			<title>寛大さ、真理を語ること、暴力、そして律法</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%AF%9B%E5%A4%A7%E3%81%95%E3%80%81%E7%9C%9F%E7%90%86%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%81%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E5%BE%8B%E6%B3%95</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|Tolerance, Truth-Telling, Violence, and Law}}   '''''クリスチャンはいかにして他の宗教を信奉する人たちと関わるべきか、その原則　'''''  ...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Tolerance, Truth-Telling, Violence, and Law}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''クリスチャンはいかにして他の宗教を信奉する人たちと関わるべきか、その原則　''''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2001年9月11日以来、キリスト教徒とイスラム教徒は互いにどのように関わっていけばよいのかという質問には、益々差し迫ったものがあります。この質問は、クリスチャンがどのようにこの多元的世界で生きていくように召されているかという大きな問題の一部です。さらに具体的に言うと、議会制民主主義の理想によって定義された多元的な文脈の中での宗教の自由に関して、アメリカ人クリスチャンとして、私たちはどのように考え行動すればいいのでしょうか?特に、強力な文化と宗教が自由を愛することあるいは民主主義の理想を分かち合わない世界で、私たちはどのようにキリストの主権を証しして行けばいいのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 2002年8月26日に、ベツレヘム･バプテスト教会の長老たちは、以下の20の原則を、聖書的で誠実なクリスチャンのガイドラインとして承認しました。私たちはまず第一に、私たちの監督の下にある教会の指導のために、教会に対し、第二に真剣に考えることとクリスチャンの益のために、より広いクリスチャンの共同体に対し、そして第三に、相互理解のために、クリスチャンでないコミュニティーに対し、それらの原則を推薦します。私たちの最大の目的は、イエス･キリストのユニークさと主権を、クリスチャンが謙遜と勇気を持ってすすめることができるように手助けすることです。そうすれば他者が信仰を持って主を褒めたたえ、永遠のいのちを持つことができるかも知れないからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1.''' 他者が認めようが認めまいが、私たちは神のまことの聖書的理解と主が備えられた救いの方法、キリストが形作られお教えになった愛ときよさと義の人生を、感謝と喜びを持って堅く握り締めるべきです。(1コリント15:2、ヘブル3:6、4:14、6:18、10:23、黙示録2:13、25、3:11) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2.''' 教会、またはこの世の両方で、霊感を受けた神のみことばである聖書、すなわちクリスチャンでない者たちが承認する部分と、承認しない部分のうちにあらわされている主のご計画の全体を、私たちははっきりとまた明確にさせなければなりません。私たちは批判や避難を避けるために私たちの信仰の解釈を隠蔽すべきではありません。(マタイ10:27―28、エペソ6:19―20、2コリント4:2、ガラテヤ1:10) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3.''' キリストを否定するような信仰の間違いや害を指摘するのは、愛です。害には一時的な影響があるだけでなく、特にキリストの真理を拒否することによって起こす永遠の痛みを伴います。これは、キリストを信頼しない結果危険な状態にある人々に良いものを切望する熱心さを持って、警告されなければなりません。(ルカ6:31-32、ローマ13:10、1テモテ4:8、2テサロニケ1:8-9、2コリント5:20) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4.''' 私たちクリスチャンは、自分の罪を認め、十字架に掛けられ、よみがえられた救い主の救いがどうしようもなく必要であることを認めるべきです。あたかも自分に優れた知性や知恵や良さがあるから救われる価値があったのだと、私たちが気取った態度を取らないようにするためです。私たちは恵みによって、いのちを与える真理と、赦しと、よろこびのパンを見つけた物乞いです。それをすべての人に与えたいと願うのです。それは彼らも私たちに加わって、キリストの素晴らしさをたたえ、楽しむようになるためです。(1コリント1:26-30、4:7、1ペテロ5:6、ヤコブ4:8-10、 ルカ18:13-14、マタイ10:8後半) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5.''' 私たちはキリストを、宗教間の議論の勝利としてではなく、歴史の中で最も信頼がおける、美しく、重要で、尊いお方で、また１)ご自身の苦しみと死によって、私たちの身代わりに神のみ怒りを吸収して下さった、2)罪のない生涯を生きることによって、まったき聖であられる神の御前で私たちの義となってくださり、その義が、イエス様を信じた時に私たちに転嫁された、この二つの意味で、どうしようもなく必要とされ、愛される身代わりとして提示するべきです。 (1コリント2:1-2、2コリント4:4、1ペテロ2:6-7、ローマ3:24-26、5:18-19、ガラテヤ3:13、2 コリント5:21) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''6.''' キリストと、主が買い取って下さった益のすべてと私たちを一つにしてくれるキリスト教信仰とは、自分の功績になるような行ないではなく、子どものような、自己に絶望しキリストの価値とみわざに信頼をおく信仰です。他者にクリスチャンになるよう召すとき、その召しは、神のために働く召し、あるいは正しいまたは愛のある行ないをすることによって主に認めてもらおうと言う召しではありません。私たちは、自立本願の一切を捨て、イエス･キリストの救いの人生と死に完全に依存するよう、人々を召すのです。(エペソ2:8-9、テトス3:5、ローマ4:4-5、ローマ10:1-4、ピリピ3:9) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''7.''' 他信仰の間違いを公に指摘することは、正しく愛あることだと私たちは信じます。もしそれが十分な証拠をもって指摘されたら、それらの信仰経典や代表広報担当者らは実際にその間違いを言い表します。他信仰を不正確に伝えることを避けようと努力するのはとても重要です。それは失礼なだけでなく、私たち自身の信頼性をも台無しにしてしまいます。(使徒 6:8-7:53、マルコ12:24、8:33、使徒3:15、5:30、出エジプト20:16、エペソ4:25) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''8.''' 他の宗教の間違いを掘り起こす際、救われるためにキリストを受け入れない人々に対し、私たちは悲しさと同情を感じ、またそれを表現すべきです。(ルカ19:41-42、ピリピ3:18、ローマ9:1-3、10:1) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''9.''' 私たちは第一にクリスチャンであり、アメリカ人であるのはその次であることを、明確にするべきです。私たちはこの世ではよそ者であり追放された者です。私たちの最も深い、まことの国籍は天にあります。私たちの最終的主であり指導者であられるのは、合衆国の大統領ではなく、イエス･キリストです。この第一のそして最も深い忠誠心は、私たちの世俗の国籍が他のアメリカ人と私たちを一つにするのより堅く、あらゆる国籍のクリスチャンたちと私たちを一つにします。多くのアメリカ人の価値観と態度に、私たちは異議を唱える国民です。アメリカ文化はキリスト教ではありません。自分自身の文化の不正で神を恐れない側面を批判するのは、愛国心のないことではないと、私たちは信じます。(ピリピ3:20、1ペテロ2:11、マタイ22:21、使徒5:29、1テモテ6:14-15、黙示録17:14、エペソ5:11) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''10.''' 神に敵意を持ち、キリストの真理の周りでは落ち着かない俗世間では、「公正な戦い」を期待するべきではありません。それゆえ、虐待や歪曲や悪口に対する私たちの応答は、怒りや恨みではなく、悪に対し善で返すことで真理に心を開かせるかも知れないと、希望のうちにまた祈りを持って、真理を忍耐を持って証しすることであるべきです。あらゆる種類の迫害は当然であり、アメリカで私たちが与えられている保護のほとんどは、この世の歴史の中では普通でないと言うことを私たちは認識する必要があります。私たちの証しは、自分の権利について恨みがましくフーフーと鼻息を切らすことによっては前進しません。それは「苦しみながら、絶えず喜ぶ」ことによって、また善で悪に打ち勝つことによって、そして真理についての揺るがない発言と論理的弁護によって、前進します。(マタイ5:43-45、ローマ12:17-21、1コリント4:12-13、1 テサロニケ5:15、2テモテ3:12、1ペテロ2:15、19-24、3:9、4:12) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''11.''' 自分の信仰を拡大するためにあらゆる暴力行為を用いることを、私たちは否認します。聖書的クリスチャンは政治的あるいは個人的暴力行為を用いて自分の信仰を広めることをしません。クリスチャンは苦しめることによってではなく、自分が苦しむことによって、自分の信仰を広めます。本物のクリスチャンは力やごまかしでは強要されません。(ルカ10:3、2 コリント5:11、コロサイ2:24、1ペテロ2:19-24、黙示12:11) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''12.''' キリストは、個人的にこの世にあらわれるとき、ご自身を拒否してきた者たちをさばかれると言うことを、私たちは認め、また告げ知らせるべきです。主は彼らを地獄の苦痛にある永遠のさばきへと送られます。しかしながらキリストの来るべき時代の終わりの暴力は、彼らの信仰のゆえであると、彼らに対する暴力を行使する決定的理由にするべきではなく、理由にすることさえないと言うことも、明確にする必要があります。これはキリストの権限であり、私たちの権限ではありません。(マタイ25:46、ローマ12:19、テサロニケ1:7-9、1ペテロ2:20-23、黙示録6:16) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''13.''' キリストご自身が直接来られる前のこの時代、民主権限は、その信仰のゆえに個々人を報いたり罰するために、腕力やあらゆる強制力を用いたり、援助を差し控えたりするべきではありません。(説得や見本の力によって求められる自発的信仰の聖書的パターンと、改宗を可能にする神の恵みの必要性のうちに、それが暗示されています。) (2コリント5:11、1 テサロニケ1:5-6、エペソ2:8-9、使徒6:14、ピリピ1:29、2テモテ2:24-26) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''14.''' 犯罪を犯すあるいは他者の犯罪を幇助する意思を示すために、しかるべき法手続きを踏まえた通信手段がそれを示さない限り、民主権限がその発言や著書や作品のゆえに個々人を処罰するために、腕力やいかなる強制力、援助差し控えも、用いるべきではありません。(これを支持する聖書箇所、第13項を参照) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''15.''' 神は個々人や教会ではなく、民間政府に、公正と安全を守るために「剣を保持する」務めをお与えになっていると私たちは信じます。(マタイ26:52、ローマ13:1-4、ローマ12:17-21、1ペテロ2:20-23、3:9、14) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''16.''' 私たちは武力侵略に対する自己防衛の戦争と、人々のその信仰のゆえの宗教戦争を区別するべきです。この識別は、その信仰を力によって文化を支配する権利を含んで定義する特定の宗教によっては恐らく認められないということを、私たちは認識すべきです。しかし私たちは、彼らの武力侵略に対する私たちの抵抗は、彼らの信仰に対する宗教的攻撃であるという侵略者の主張を受け入れるより、この識別を主張すべきです。そのような国防の根拠が(宗教と言論と報道と集会の)自由に対する公民権であり、宗教攻撃の強調を非難することではないと、私たちは議論すべきです。私たちは他の宗教にまったく同意しませんが、しかし武装した国防に同意しないわけではありません。私たちは一方で、宗教的に煽られた武力に対する事実上の軍の抵抗、その一方で、宗教の否定ではなく、非暴力的な説得や魅了するという方法を用いて改宗者を獲得しようとする、すべての宗教のための自由を求める、私たちの抵抗の動機を区別するべきです。 (前述の原則で暗示されています) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''17.''' 信仰と言動は法律の前では同じ順位を持っていないことを私たちは認めるべきです。いかなる信仰も民主権限によっては罰せられるべきではありません。しかし信仰に根付いた言動の中には法にそぐわないものも中にはあり、それゆえ民主権限によって罰せられることがあります。それらの言動には、他者殺害、暴行、強盗、あらゆる形の差別などが含まれます。信仰の自由と宗教の自由に基づいてその社会でどの言動が法律で禁じられるかは、行政機関や司法機関、または少数派の権利を守る憲法によって備えられた抑制と均衡で、説得や議論、代議員の選挙過程によって決められます。不明確さは認識されるべきです。(第13項を支持する聖書箇所と、前述の原則の意味から合わせ取っていることを参照) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''18.''' 一方で間違った信仰や罪深い言動を批判する権利と、もう一方で、この批判からある人々が出す、批判された信仰の主唱者が結果的に合法的に虐待を受けるような、誤った推測を区別すべきです。私たちは間違っていると、あるいは罪人として批判され非難されるのは、「虐待」の形態であるという主張を受け入れるべきではありません。誰かの信仰を間違っているとか、害があるとか、誰かの言動を罪深いとか有害であると公に呼ぶのは、犯罪(人種差別犯罪とは言われるかも知れませんが)ではありません。信仰や言動や提言のすべてに関して必要なのは、誰かが間違っており、正当な理由がなく、悪影響を及ぼすという議論です。政治的議論のすべてはこのようにして前進します。これは宗教の分野では規則違反ではありません。たとえば、合衆国代議員が、彼が提出した議案が不備のあるもので、誤った情報に基づいており、貧困者を傷つけてしまうと言うことで、議会の席で非難された後、路上で激しく暴行を受けたとします。私たちはその非難した議員を、後に起こった暴行と責めたり、暴力を煽ったと告発したりしません。従って私たちは一方で信仰と言動に対する公の場での批判と、もう一方で、これらの間違った信仰と踏み深い言動が虐待を受けることを認可する違法的な憶測を区別しなければなりません。(第3項と第7項を支持する聖書箇所を参照) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''19.''' 様々な信仰は確信と言動のすべての内面的な意味を変えますが、すべての確信と言動の形態は変えないと信じます。従って、たとえば、二人の人がそれぞれ違った信仰を持っておりながら、堕胎について同じ確信と言動の形態を持っていたとします。私たちはすべての人がキリストにある信仰を持ち、キリストが人生の主であり宝であるという内面的意味を持つ確信と言動を持つことを望みます。しかし、とは言え、私たちと違う信仰を持つ人たちが私たちと同じ確信と言動を持つことを喜びます。もしこの共有作用が私たちのキリストを掲げる確信の根拠と意味を損なわなければ、彼らと共に社会的問題で提携することは可能であると私たちは信じます。(1コリント10:31、コロサイ3:17、ローマ14:23) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''20.''' すべての宗教、世界観、人生観は私たちの文化に影響を与えることと形作る努力を自由にしていいと私たちは信じます。私たちはこの文化形成の努力で武力や賄賂や偽りを用いることを否認します。福音の宣教、真理を出版すること、愛と公正のモデル化、祈りの力、説得の行使、政治の進行に参加することを支持します。私たちは、すべての法はある団体の言動的確信をすべての者に「強要する」と言うことを認めます。それゆえ、言動を支配する法は、それが「誰かの倫理観を社会に強要する」ので、悪いと言うのは、説得力のある批判ではありません。とは言え、これは私たちが、法律を制定する過程に影響を与える数のない少数派の法的自由を守る原則、法、政策を支持することに、さらなる重要性をもたらします。これらの自由の度合いは上記で述べた原則、特に第17項で決定されます。(前述の原則とそれを支持する聖書箇所で暗示されている) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2001年9月11日以来、キリスト教徒とイスラム教徒は互いにどのように関わっていけばよいのかという質問には、益々差し迫ったものがあります。この質問は、クリスチャンがどのようにこの多元的世界で生きていくように召されているかという大きな問題の一部です。さらに具体的に言うと、議会制民主主義の理想によって定義された多元的な文脈の中での宗教の自由に関して、アメリカ人クリスチャンとして、私たちはどのように考え行動すればいいのでしょうか?特に、強力な文化と宗教が自由を愛することあるいは民主主義の理想を分かち合わない世界で、私たちはどのようにキリストの主権を証しして行けばいいのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 2002年8月26日に、ベツレヘム･バプテスト教会の長老たちは、以下の20の原則を、聖書的で誠実なクリスチャンのガイドラインとして承認しました。私たちはまず第一に、私たちの監督の下にある教会の指導のために、教会に対し、第二に真剣に考えることとクリスチャンの益のために、より広いクリスチャンの共同体に対し、そして第三に、相互理解のために、クリスチャンでないコミュニティーに対し、それらの原則を推薦します。私たちの最大の目的は、イエス･キリストのユニークさと主権を、クリスチャンが謙遜と勇気を持ってすすめることができるように手助けすることです。そうすれば他者が信仰を持って主を褒めたたえ、永遠のいのちを持つことができるかも知れないからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1.''' 他者が認めようが認めまいが、私たちは神のまことの聖書的理解と主が備えられた救いの方法、キリストが形作られお教えになった愛ときよさと義の人生を、感謝と喜びを持って堅く握り締めるべきです。(1コリント15:2、ヘブル3:6、4:14、6:18、10:23、黙示録2:13、25、3:11) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2.''' 教会、またはこの世の両方で、霊感を受けた神のみことばである聖書、すなわちクリスチャンでない者たちが承認する部分と、承認しない部分のうちにあらわされている主のご計画の全体を、私たちははっきりとまた明確にさせなければなりません。私たちは批判や避難を避けるために私たちの信仰の解釈を隠蔽すべきではありません。(マタイ10:27―28、エペソ6:19―20、2コリント4:2、ガラテヤ1:10) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3.''' キリストを否定するような信仰の間違いや害を指摘するのは、愛です。害には一時的な影響があるだけでなく、特にキリストの真理を拒否することによって起こす永遠の痛みを伴います。これは、キリストを信頼しない結果危険な状態にある人々に良いものを切望する熱心さを持って、警告されなければなりません。(ルカ6:31-32、ローマ13:10、1テモテ4:8、2テサロニケ1:8-9、2コリント5:20) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4.''' 私たちクリスチャンは、自分の罪を認め、十字架に掛けられ、よみがえられた救い主の救いがどうしようもなく必要であることを認めるべきです。あたかも自分に優れた知性や知恵や良さがあるから救われる価値があったのだと、私たちが気取った態度を取らないようにするためです。私たちは恵みによって、いのちを与える真理と、赦しと、よろこびのパンを見つけた物乞いです。それをすべての人に与えたいと願うのです。それは彼らも私たちに加わって、キリストの素晴らしさをたたえ、楽しむようになるためです。(1コリント1:26-30、4:7、1ペテロ5:6、ヤコブ4:8-10、 ルカ18:13-14、マタイ10:8後半) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5.''' 私たちはキリストを、宗教間の議論の勝利としてではなく、歴史の中で最も信頼がおける、美しく、重要で、尊いお方で、また１)ご自身の苦しみと死によって、私たちの身代わりに神のみ怒りを吸収して下さった、2)罪のない生涯を生きることによって、まったき聖であられる神の御前で私たちの義となってくださり、その義が、イエス様を信じた時に私たちに転嫁された、この二つの意味で、どうしようもなく必要とされ、愛される身代わりとして提示するべきです。 (1コリント2:1-2、2コリント4:4、1ペテロ2:6-7、ローマ3:24-26、5:18-19、ガラテヤ3:13、2 コリント5:21) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''6.''' キリストと、主が買い取って下さった益のすべてと私たちを一つにしてくれるキリスト教信仰とは、自分の功績になるような行ないではなく、子どものような、自己に絶望しキリストの価値とみわざに信頼をおく信仰です。他者にクリスチャンになるよう召すとき、その召しは、神のために働く召し、あるいは正しいまたは愛のある行ないをすることによって主に認めてもらおうと言う召しではありません。私たちは、自立本願の一切を捨て、イエス･キリストの救いの人生と死に完全に依存するよう、人々を召すのです。(エペソ2:8-9、テトス3:5、ローマ4:4-5、ローマ10:1-4、ピリピ3:9) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''7.''' 他信仰の間違いを公に指摘することは、正しく愛あることだと私たちは信じます。もしそれが十分な証拠をもって指摘されたら、それらの信仰経典や代表広報担当者らは実際にその間違いを言い表します。他信仰を不正確に伝えることを避けようと努力するのはとても重要です。それは失礼なだけでなく、私たち自身の信頼性をも台無しにしてしまいます。(使徒 6:8-7:53、マルコ12:24、8:33、使徒3:15、5:30、出エジプト20:16、エペソ4:25) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''8.''' 他の宗教の間違いを掘り起こす際、救われるためにキリストを受け入れない人々に対し、私たちは悲しさと同情を感じ、またそれを表現すべきです。(ルカ19:41-42、ピリピ3:18、ローマ9:1-3、10:1) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''9.''' 私たちは第一にクリスチャンであり、アメリカ人であるのはその次であることを、明確にするべきです。私たちはこの世ではよそ者であり追放された者です。私たちの最も深い、まことの国籍は天にあります。私たちの最終的主であり指導者であられるのは、合衆国の大統領ではなく、イエス･キリストです。この第一のそして最も深い忠誠心は、私たちの世俗の国籍が他のアメリカ人と私たちを一つにするのより堅く、あらゆる国籍のクリスチャンたちと私たちを一つにします。多くのアメリカ人の価値観と態度に、私たちは異議を唱える国民です。アメリカ文化はキリスト教ではありません。自分自身の文化の不正で神を恐れない側面を批判するのは、愛国心のないことではないと、私たちは信じます。(ピリピ3:20、1ペテロ2:11、マタイ22:21、使徒5:29、1テモテ6:14-15、黙示録17:14、エペソ5:11) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''10.''' 神に敵意を持ち、キリストの真理の周りでは落ち着かない俗世間では、「公正な戦い」を期待するべきではありません。それゆえ、虐待や歪曲や悪口に対する私たちの応答は、怒りや恨みではなく、悪に対し善で返すことで真理に心を開かせるかも知れないと、希望のうちにまた祈りを持って、真理を忍耐を持って証しすることであるべきです。あらゆる種類の迫害は当然であり、アメリカで私たちが与えられている保護のほとんどは、この世の歴史の中では普通でないと言うことを私たちは認識する必要があります。私たちの証しは、自分の権利について恨みがましくフーフーと鼻息を切らすことによっては前進しません。それは「苦しみながら、絶えず喜ぶ」ことによって、また善で悪に打ち勝つことによって、そして真理についての揺るがない発言と論理的弁護によって、前進します。(マタイ5:43-45、ローマ12:17-21、1コリント4:12-13、1 テサロニケ5:15、2テモテ3:12、1ペテロ2:15、19-24、3:9、4:12) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''11.''' 自分の信仰を拡大するためにあらゆる暴力行為を用いることを、私たちは否認します。聖書的クリスチャンは政治的あるいは個人的暴力行為を用いて自分の信仰を広めることをしません。クリスチャンは苦しめることによってではなく、自分が苦しむことによって、自分の信仰を広めます。本物のクリスチャンは力やごまかしでは強要されません。(ルカ10:3、2 コリント5:11、コロサイ2:24、1ペテロ2:19-24、黙示12:11) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''12.''' キリストは、個人的にこの世にあらわれるとき、ご自身を拒否してきた者たちをさばかれると言うことを、私たちは認め、また告げ知らせるべきです。主は彼らを地獄の苦痛にある永遠のさばきへと送られます。しかしながらキリストの来るべき時代の終わりの暴力は、彼らの信仰のゆえであると、彼らに対する暴力を行使する決定的理由にするべきではなく、理由にすることさえないと言うことも、明確にする必要があります。これはキリストの権限であり、私たちの権限ではありません。(マタイ25:46、ローマ12:19、テサロニケ1:7-9、1ペテロ2:20-23、黙示録6:16) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''13.''' キリストご自身が直接来られる前のこの時代、民主権限は、その信仰のゆえに個々人を報いたり罰するために、腕力やあらゆる強制力を用いたり、援助を差し控えたりするべきではありません。(説得や見本の力によって求められる自発的信仰の聖書的パターンと、改宗を可能にする神の恵みの必要性のうちに、それが暗示されています。) (2コリント5:11、1 テサロニケ1:5-6、エペソ2:8-9、使徒6:14、ピリピ1:29、2テモテ2:24-26) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''14.''' 犯罪を犯すあるいは他者の犯罪を幇助する意思を示すために、しかるべき法手続きを踏まえた通信手段がそれを示さない限り、民主権限がその発言や著書や作品のゆえに個々人を処罰するために、腕力やいかなる強制力、援助差し控えも、用いるべきではありません。(これを支持する聖書箇所、第13項を参照) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''15.''' 神は個々人や教会ではなく、民間政府に、公正と安全を守るために「剣を保持する」務めをお与えになっていると私たちは信じます。(マタイ26:52、ローマ13:1-4、ローマ12:17-21、1ペテロ2:20-23、3:9、14) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''16.''' 私たちは武力侵略に対する自己防衛の戦争と、人々のその信仰のゆえの宗教戦争を区別するべきです。この識別は、その信仰を力によって文化を支配する権利を含んで定義する特定の宗教によっては恐らく認められないということを、私たちは認識すべきです。しかし私たちは、彼らの武力侵略に対する私たちの抵抗は、彼らの信仰に対する宗教的攻撃であるという侵略者の主張を受け入れるより、この識別を主張すべきです。そのような国防の根拠が(宗教と言論と報道と集会の)自由に対する公民権であり、宗教攻撃の強調を非難することではないと、私たちは議論すべきです。私たちは他の宗教にまったく同意しませんが、しかし武装した国防に同意しないわけではありません。私たちは一方で、宗教的に煽られた武力に対する事実上の軍の抵抗、その一方で、宗教の否定ではなく、非暴力的な説得や魅了するという方法を用いて改宗者を獲得しようとする、すべての宗教のための自由を求める、私たちの抵抗の動機を区別するべきです。 (前述の原則で暗示されています) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''17.''' 信仰と言動は法律の前では同じ順位を持っていないことを私たちは認めるべきです。いかなる信仰も民主権限によっては罰せられるべきではありません。しかし信仰に根付いた言動の中には法にそぐわないものも中にはあり、それゆえ民主権限によって罰せられることがあります。それらの言動には、他者殺害、暴行、強盗、あらゆる形の差別などが含まれます。信仰の自由と宗教の自由に基づいてその社会でどの言動が法律で禁じられるかは、行政機関や司法機関、または少数派の権利を守る憲法によって備えられた抑制と均衡で、説得や議論、代議員の選挙過程によって決められます。不明確さは認識されるべきです。(第13項を支持する聖書箇所と、前述の原則の意味から合わせ取っていることを参照) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''18.''' 一方で間違った信仰や罪深い言動を批判する権利と、もう一方で、この批判からある人々が出す、批判された信仰の主唱者が結果的に合法的に虐待を受けるような、誤った推測を区別すべきです。私たちは間違っていると、あるいは罪人として批判され非難されるのは、「虐待」の形態であるという主張を受け入れるべきではありません。誰かの信仰を間違っているとか、害があるとか、誰かの言動を罪深いとか有害であると公に呼ぶのは、犯罪(人種差別犯罪とは言われるかも知れませんが)ではありません。信仰や言動や提言のすべてに関して必要なのは、誰かが間違っており、正当な理由がなく、悪影響を及ぼすという議論です。政治的議論のすべてはこのようにして前進します。これは宗教の分野では規則違反ではありません。たとえば、合衆国代議員が、彼が提出した議案が不備のあるもので、誤った情報に基づいており、貧困者を傷つけてしまうと言うことで、議会の席で非難された後、路上で激しく暴行を受けたとします。私たちはその非難した議員を、後に起こった暴行と責めたり、暴力を煽ったと告発したりしません。従って私たちは一方で信仰と言動に対する公の場での批判と、もう一方で、これらの間違った信仰と踏み深い言動が虐待を受けることを認可する違法的な憶測を区別しなければなりません。(第3項と第7項を支持する聖書箇所を参照) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''19.''' 様々な信仰は確信と言動のすべての内面的な意味を変えますが、すべての確信と言動の形態は変えないと信じます。従って、たとえば、二人の人がそれぞれ違った信仰を持っておりながら、堕胎について同じ確信と言動の形態を持っていたとします。私たちはすべての人がキリストにある信仰を持ち、キリストが人生の主であり宝であるという内面的意味を持つ確信と言動を持つことを望みます。しかし、とは言え、私たちと違う信仰を持つ人たちが私たちと同じ確信と言動を持つことを喜びます。もしこの共有作用が私たちのキリストを掲げる確信の根拠と意味を損なわなければ、彼らと共に社会的問題で提携することは可能であると私たちは信じます。(1コリント10:31、コロサイ3:17、ローマ14:23) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''20.''' すべての宗教、世界観、人生観は私たちの文化に影響を与えることと形作る努力を自由にしていいと私たちは信じます。私たちはこの文化形成の努力で武力や賄賂や偽りを用いることを否認します。福音の宣教、真理を出版すること、愛と公正のモデル化、祈りの力、説得の行使、政治の進行に参加することを支持します。私たちは、すべての法はある団体の言動的確信をすべての者に「強要する」と言うことを認めます。それゆえ、言動を支配する法は、それが「誰かの倫理観を社会に強要する」ので、悪いと言うのは、説得力のある批判ではありません。とは言え、これは私たちが、法律を制定する過程に影響を与える数のない少数派の法的自由を守る原則、法、政策を支持することに、さらなる重要性をもたらします。これらの自由の度合いは上記で述べた原則、特に第17項で決定されます。(前述の原則とそれを支持する聖書箇所で暗示されている) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 15 Jun 2017 19:36:24 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%AF%9B%E5%A4%A7%E3%81%95%E3%80%81%E7%9C%9F%E7%90%86%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%81%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E5%BE%8B%E6%B3%95</comments>		</item>
		<item>
			<title>ご自身の御子をさえ惜しまれなかった神</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%94%E8%87%AA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%82%92%E3%81%95%E3%81%88%E6%83%9C%E3%81%97%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%A5%9E</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「ご自身の御子をさえ惜しまれなかった神」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|God Did Not Spare His Own Son}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
真理の中には私たちを唖然とさせるようなものがあります。ローマ8:28―30はパウロを唖然とさせました。神はあなたのためにすべてのことを働かせて益としてくださいます。神がそれを取り計らってくださいます。それは、主がキリストとご自身のご栄光のために、あなたをあらかじめ知っておられ、あなたをお選びになっておられ、あなたが罪過のうちに死んでいたときにあなたを召され、ご自身の恵みにより、信仰のみを通してあなたを惜しみなく義と認められ、キリストのよみがえりの栄光のからだのようなからだにあなたが達する主の来臨の日まで、現在、あなたを栄光へと少しずつ変えてくださっているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これにはパウロはほとんど言葉が出ません。ほとんどです。彼は「では、これらのことからどう言えるでしょう」と言います。パウロと私たちを代弁して、二つのことがそれらの言葉から聞こえてきます。まず、「それらの素晴らしい事がらに言葉が見つかりません」と言うのが聞こえてきます。そして、「では、これらのことから何が言えるでしょう」と言うのも聞こえてきます。パウロが「では、これらのことからどう言えるでしょう」と言うとき、「別の方法で言わなければなりません」と言うのが彼の答えだと私は思います。違った言葉を探し出して言い直さなければなりません。それを彼は、「神が私たちの見方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」という言葉にします。それを彼は最初からずっと言い続けて来ているのです。しかし彼は別の方法で言わなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして私たちも同じです。もしあなたが子供や親や友人に栄光の福音を何度も語ったことがあるのなら、もう一度、別の方法で言わなければなりません。別のメールをもう一つ書き、別の手紙を書き、別の講義を教え、別の額を(壁に)飾り、別の詩を作り、別の歌を歌い、キリストの栄光についての別の文章を死にゆくお父さんに病床で語るのです。「では、これらのことからどう言えるでしょう?」私たちは別の方法で、死ぬまで、そして永遠に、何度も何度もそれを言います。その栄光を語る方法が尽きることはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神は私たちの味方であられる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは31節で今度はどのようにそれを言うでしょうか?「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と言います。彼のポイントは、前述のものをまとめることです。「神が私たちの味方であられるので、だれも私たちに敵対できません」。神は愛のうちに私たちをあらかじめ知っておられ、私たちを子としてあらかじめお定めになり、私たちを死から召され、私たちを義と認められ、そしてキリストの素晴らしい、喜びの日まで、栄光から栄光へと私たちをつくり変えてくださっているのです。それを私たちは再度どのように言えばいいでしょうか?「神は私たちの味方であられる」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ああ、「私たちの味方」という言葉は何と尊いでしょう。「神は私たちに敵対しておられる」という言葉ほど恐ろしいものは、この世界にはありません。もし無限に力強い怒りが私たちに向けられているとしたら、全滅は甘い恵みの賜物であるはずです。そのため、地獄ではなく、全滅が、裁きの意味するものであると私たちを説得しようとする人たちは、的から遠く離れています。神のみ怒りの下での全滅は裁きではありません。それは救済であり解放です(黙示6:16参照)。いいえ。人間の全滅はありません。私たちは神が敵対されるか、味方されるかのどちらかで、永遠に生きます。そしてキリストにあるすべての者たちは、ほとんど(!)言葉にできない喜びをもって、「神は私たちの味方であられる」と言うでしょう。主が私たちに味方してくださるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こういうわけで、今は、キリスト･イエスにある者が罪に定められることは決してありません(ローマ8:1)。神は全く私たちの味方であられ、私たちに敵対されることがありません。私たちのいかなる病いも、有罪を宣告する裁判官からの裁きではありません。ダメになった車や故障した家電のどれも、神の罰ではありません。私たちの物質的苦労のどれも、主の怒りの印ではありません。仕事を失うことはどれも、罪の報いではありません。子どもが私たちの言うことを聞かないのはどれも、神のムチ打ちの罰ではありません。もし私たちがキリストのうちにいるのなら、です。いいえ。神は私たちに敵対しておられるのではなく、すべてにおいて、平穏なときも痛みを抱えているときも、すべてを通して、私たちの味方であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== だれが私たちに敵対するでしょう? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは、また別の言い方をすれば、「誰が私たちに反対するのか?」と言うことができます。まだ31節を見ています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」パウロはそれを質問するとき、「誰も私たちに敵対できる者はいない」という答えを予測しています。それに対し私たちは、「本当?」と言いたくなりますが、それはどういう意味でしょうか?35節では患難と苦しみと迫害と剣がやって来る、と言われています。36節ではクリスチャンたちは一日中死に定められ、ほふられる羊とみなされると言われています。パウロがそう言うのです。では「だれが私たちに敵対できるでしょうか」とは、彼はどういう意味で言っているのでしょうか?だれも私たちに敵対し通すことのできる者はいない、という意味で言っているのだと、私は思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
悪魔と罪深い人はあなたを病気にすることができます。あなたの車を盗み、あなたの結婚に苦い種を蒔き、あなたの仕事を奪い、あなたの子どもを盗み去ることができます。しかし28節で、もしあなたが主を愛するなら、神はそれらすべてのことを働かせて益としてくださると、言います。そしてもしそれが最終的にあなたの益になるとしたら、敵の計画は妨害され、彼のあなたに敵対するというねらいが、キリストを崇め、魂を満足させ、信仰を強め、痛い益へと変えられるのです。神があなたの味方であられるのなら、主はこれらのことをあなたに惜しんで与えられないことはありません。でも敵が悪を計画するところで、主は良いことをご計画なさいます(創世記50:20、45:7)。あなたに敵対する事がらを、主はあなたの味方になるよう計画なさいます。だれもあなたに敵対し通すことのできる者はいません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは私たちの人生に、何と大きな影響を及ぼすことでしょうか!もしこれらが本当であるならば、私たちはこの世のもののようであってはなりません。この世の者のほとんどは、病いや窃盗やテロや仕事を失うことや、その他もろもろを恐れるその恐れで、自分の生き方を選びます。しかしイエス様に従う者には、「これらはみな、異邦人が求めているものです。あなたがたは神の国をまず第一に求めなさい」(マタイ6:32―33)と主は言われます。神はあなたが必要なものをお与えくださいます。そして愛と犠牲と苦難のうちにあなたが失うものあるいはあなたに足りないものは、あなた自身のためであり、それは神が設計なさった方法で、何百倍にも増して、御国であなたに返って来ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからカンカンであろうがギニアであろうがトルコのイスタンブールであろうが、インドネシアのテルナテであろうが、ミネソタのミネアポリスであろうが、自分の敵の前に立ちはだかり、福音を語ってください。そしてあなたの命を奪い取ろうとしている者にでさえ、「あなたがしなければならないことをしなさい。でも最終的にはあなたの言葉のすべてやあなたが私に与える傷で、私の信仰が精錬され、私の報酬が大きくされ、よみがえりのイエス･キリストがおられるパラダイスへと私は送られるだけです」と言うのです。ああ、もし神が私たちの味方であられ、だれも私たちに敵対できないということを信じるなら、私たちはどんなに違う者たちになるでしょう! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 御国の揺るがない論理 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは、私たちはそれに対し何と言えばいいのでしょうか?使徒パウロはそれに何を付け足すでしょうか?彼は別の方法で、同じことを言うでしょう。彼は32節で、敵対し通すことのできるものがいないことが約束されているばかりか、神の完全な、溢れんばかりの、終わりのない寛容さが私たちに約束されている、という風に言います。そしてそれらすべては、罪人のために死なれた主の御子のうちにある、揺るがない岩に基づいています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は一度、これを「御国の揺るがない論理」と呼びました。それは偉大なものからそうでないもの、難しいものから簡単なもの、ほとんど乗り越えることのできない障害から、簡単に乗り越えることのできる障害へ、という論理です。主は、大変難しく、私たちの救いを妨げるような、拷問とあざけりと罪を背負う死というものに、ご自分の御子を惜しまずにお渡しになりました。もしそれを成し遂げることができたのであるなら、それより些細なこと、容易なことはもちろん、おできになるはずです。それは、キリストが私たちのために得られたものすべてを私たちにお与えくださることです。すべてのものです!御国の揺るがない論理です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 主ご自身の御子 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
考えて見てください。まず、「ご自分の御子」というフレーズです。イエス･キリストとは、神が地上で発見され、自分の息子として養子にされたお方ではありません。イエス･キリストは、前から存在しておられた方で、事実永遠に存在され、み父と共存され、造られたお方ではなく、満ち満ちた神のご性質が形をとって宿っている、神のみ姿であられます(コロサイ2:9)。ローマ8:3で、神は「ご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしにな」ったというのを思い出してください。言い換えれば、御子は人となられる前にすでに存在しておられたのです。ただの預言者ではありません。御子なる神です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして32節で主を「ご自分の」御子と呼ぶとき、ポイントは、御子の他には誰もおらず、御子は神にとって無限に尊いお方であると言うことです。イエス様がこの地上におられたとき、少なくとも2度、神は「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17、17:５)と言われます。コロサイ1:13でパウロは主を、「[神の]愛する御子」と呼びます。イエス様ご自身、地主のたとえから、主人のしもべたちが来て小作人から収穫を回収しに来た時、袋叩きにして殺したというたとえを話されました。そして、「その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった」(マルコ12:6)とイエス様は言われます。ひとり子が、み父が持っておられるすべてです。主は[み父に]深く愛されていました。そしてみ父によって遣わされたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私には4人の息子がいます。父が息子を愛するほどの愛はありません。誤解しないでください。私は妻を愛しています。娘を愛しています。父やこの教会のスタッフである仲間らやあなた方を愛しています。父親が息子を愛する愛はそれらの愛よりまさっていると言っているのではありません。と言うか、それは違う部類のものなのです。他の愛も違います。でも私が言っているのは、父親が息子を愛する愛ほどのものはない、というこの一つだけです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
32節のポイントは、このたった一人の御子に対する神の愛は、主と私たちの救いの間に立ちはだかる巨大なエベレスト山のようなものでした。これはほとんど乗り越えることのできない障害でした。神は、ご自分の御子とのかけがえのない、うっとりするような愛おしい、燃えるような情緒的つながりを乗り越えて、偽られ、裏切られ、見捨てられ、欺かれ、鞭打たれ、殴られ、つばきをかけられ、十字架につけられ、動物が解体されるように剣で刺し通される仕業に、御子を引き渡すことがおできになったでしょうか、あるいはお引き渡しになるでしょうか?主は実際にそれをされるでしょうか?ご自身の愛される御子を引き渡すことがおできになるでしょうか?もし主がそれを成されたのなら、主が達成しようとしておられる目標を止めることはできないはずです。もしご自身の良きことを達成する上でその障害が乗り越えられるのであれば、どのような障害も乗り越えられるはずです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主はそう成されたでしょうか?パウロの答えは、はい、その通り、です。彼はそれをネガティブに、またポジティブに言っています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」。言い換えれば、「主はご自身の御子を惜しまれなかった」、困難と障害の莫大さが聞こえて来ます。神はご自分の御子の痛みや屈辱を好まれませんでした。神の御子がこのように扱われるのは、無限にひどいことです。罪はその時最悪の状態に達しました。神を攻撃するという、罪の性質そのものが暴かれたのです。すべての罪、私たちの罪は、神に対する攻撃です。主の権限と真理とその美しさに対する攻撃です。しかし主はご自分の御子がこの扱いを受けることを惜しまれませんでした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 御子を死に渡された ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代わりに御子を「死に渡され」ました。これを見逃さないでください。全世界で重要で貴重なもののほとんどすべてがこの史上前代未聞のときに集結するのです。神の人に対する愛と罪に対する憎しみがここに集結します。神の絶対的主権と、人間の責任と道徳的行為の永遠の重みがここに集結します。神の無限の知恵とみ力が、神がご自分の御子を死に引き渡されたとき、ここに集結するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書は、ユダが主を引き渡し(マルコ3:19)、またピラトが主を引渡し(マルコ15:15)、ヘロデとユダヤ人と異邦人が主を引渡し(使徒4:27―28)、そして私たちが主を引き渡した(1コリント15:3、ガラテヤ1:4、1ペテロ2:24)と言います。またイエス様がご自身を引き渡されたとさえ言います(ヨハネ10:17、19:30)。しかしパウロはこの32節で根本的なことを言っています。この人間の引渡しのすべてのうちと背後と下とそしてそれを通し、神がご自身の御子を死に引き渡されたのです。「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました」(使徒2：23)。ユダとピラトとヘロデとユダヤ人の群衆と異邦人の兵士らと私たちの罪とそしてイエス様の小羊のような従順のうちに、神がご自身の御子をお引き渡しになったのです。これ以上に素晴らしいことはこれまで起こったことがありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== これが本当であるなら、それで? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこれに対して私たちは何と言いましょう?「御国の論理が堅く立つ!」と私たちは言います。もし神がご自身の御子をそのように死に引き渡されたのであるならば、それで?答えは、主は私たちに、御子と共にすべてのものを当然そして惜しみなくお与えくださるはずです。もし神がご自分の御子を惜しまずお与えくださったのであれば、私たちにどのような良いものをも惜しまずお与えくださるはずです。これが詩篇84:11の最終的に獲得し達成したものです。「主は･･･正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」これが1コリント3:21―23、「すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです」の約束と理由です。これがエペソ1:3、「私たちの主イエス･キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」と言われる約束のしるしです。これがイエス様が言われる、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。･･･あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:31―33)という約束を、確保したものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ご自分の御子をさえ惜しまず、私たちのために死に引き渡されたのですから、主は道徳的絶対的確かさをもって、私たちに主とともにすべてのものをお与えくださいます。本当でしょうか?すべてですか?では「患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」(ローマ8:35)と言うのはどうでしょう?それに対する答えは、350年前のジョン･フレーベルの素晴らしい引用のうちにあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「『己の御子を惜まずして我ら衆のために付し給ひし者は、などか之にそへて萬物を我らに賜はざらんや』 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; (ローマ8:32)。神がこの後、霊的あるいは一時的なものを、ご自身の民に惜しんでお与えにならないであろうなどと、想像できようか? 主は私たちを効果的に召され、惜しみなく義と認められ、完全に聖化され、永遠に栄化されないであろうか? 私たちに着物を着せられ、食べさせられ、守られ、また救われないであろうか? もし主がご自分の御子から一打ち、涙一つ、うめき一つ、ため息一つ、惨めな状況の一つを惜しまれなかったのであれば、主がこの後、ご自身の民のため主がこれだけ苦しまれたその人々に、彼らにとって良きことである、霊的また一時的な憐れみと、慰めと、特権を否定、あるいは惜しまれるとは、考えられないことである。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は私たちに、絶えず良いことをしてくださいます。もし主がご自分の御子をあなたのためにお与えくださったと信じるのなら、これはあなたが信じることです。そしてクリスチャン人生のすべては、単純に、その信仰の実です。神の愛を見てください。その愛に生きてください。そしてますますおののいてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
___ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 文語訳、1917年版引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 15 Jun 2017 19:11:12 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%94%E8%87%AA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%82%92%E3%81%95%E3%81%88%E6%83%9C%E3%81%97%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%A5%9E</comments>		</item>
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			<title>イエス様は自民族中心主義の終わりである</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E6%A7%98%E3%81%AF%E8%87%AA%E6%B0%91%E6%97%8F%E4%B8%AD%E5%BF%83%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「イエス様は自民族中心主義の終わりである」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Jesus Is the End of Ethnocentrism}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」20 イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」22 みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。23 イエスは言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ。』というたとえを引いて、カペナウムで行なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」24 また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。25 わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、26 エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。27 また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、29 立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。30 しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先週の日曜日、私は「情熱を植えること」と呼ぶビジョンの警鐘を鳴らしました。全会衆として共に集まり、夢の周りで警報を鳴らし、ツイン･シティーやあるいはその向こう側(BGEAの動きと一致するため、シャーロットやNCなど)のどこかで2002年に教会を開拓することはできないでしょうか?これは私たちの教会の使命宣言、「''私たちはすべてのもののうちにある神の主権に対する情熱を、イエス･キリストを通しすべての人々の喜びのために広めるため、存在する''」というものに特に焦点を当てるために、それを「情熱を植えること」と呼びました。しかしどんなものでも良いから、ただ教会を開拓する、というのが目標ではないことをもはっきりさせました。神中心で、キリストをたたえる、聖書に没頭した、宣教を行使する、魂を獲得し、正義を求める等々の、[開拓する]具体的な教会を描写しました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 正義を求める ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「正義を求める」と言う用語を用いるとき、私の念頭には少なくとも二つの課題があります。今週注目する''人種間の調和''と、来週注目する''命の尊厳''です。我が国における21世紀初頭の二つの大きな問題は、''人種間の平等''と''胎児の公正''[堕胎問題]です。正義を求める教会と、神中心の、キリストを掲げ、聖書にどっぷり浸った教会の間には、つながりがあると私は信じます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 私たちはもっと神中心で、キリストを掲げ、聖書にどっぷり浸る必要がある ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福音派の教会、特に白人主義の福音派の教会(それさえも「黒人教会」のように、残念な呼び名ですが)が人種間の平等と胎児の公正を情熱を持って追求しない理由の一つは、私たちが、自分たちが思っているほど神中心でなく、キリストをたたえず、聖書にどっぷり浸っていないからです。「''私たちはすべてのもののうちにある神の主権に対する情熱を、イエス･キリストを通しすべての人々の喜びのために広めるため、存在する''」と言うとき、神がいかにして人種間の関係の中で最高主権者として存在しておられるかを、私たちは本当に深く考えたことがあるでしょうか?キリストが人種間の関係の中でどのようにして掲げられているかを考えたことがあるでしょうか?民族関係と、教育、家庭、経済、キリストの体である組織の中での人種問題について、聖書がどのように私たちの考え方や感じ方や行動に浸透しているかを、自問したことがあるでしょうか?神の主権とキリストの栄光と聖書の人種に関する教えは、「すべての人々の喜びのためのすべての事がら」において、私たちの考え方や感じ方、行動を形成しているでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 不完全さの麻痺 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから教会開拓を考えるとき、自分たちが[ある一定の目標に]到達したから、教会を倍増させる用意ができていると言っているのではありません。もし[ある一定の目標に]到達するまで待ったら、私たちは教会開拓をすることは決してありません。結婚することも、長年夫婦を続けることも、最初の仕事に就くことも、仕事を続けることも、宣教に出ていくことも、宣教地に留まることも、子どもを持とうと決心することも、ミニストリーを始めることも、決してありません。良い人々を自分自身の不完全さ以上に、麻痺させるものがあります。ああ、耳を傾け、学び、批判する人々の私たちを麻痺させてしまうようなその批判を容易に忘れる人々を神が起こして下さったなら!私たちは自分たちが完璧だから教会を開拓しようとするのではありません。それは私たちに夢があるからです。私たちがするよりももっと効果的に、同じ聖書的ビジョンを持って何かをやり遂げる、別の指導者たちが、新しい場所で新しい教会を開拓するという夢です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== より良い快適さではなく、偉大な目的のために生きる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「情熱を植える」ことに関して、私たちは''より良い快適さ''ではなく、''偉大な目標''のために生きることに身をささげる人々を植えると言うことを、私は考えています。以前「''クリスチャンになるということは、快適さではなく必要に向かって進むと言うこと''」といいうタイトルで説教をしたことがあります。[それは]自分の快適さをいかにして拡大するかではなく、神中心の何か素晴らしい目標を拡大することを夢見ながら、朝起きて、夜床に就くことです。「情熱を植える」と言うのは、自己保存、自己高揚、自己保養を求めることに日夜時間を費やすのではなく、自分自身や自分の家族や自分の教会より、もっと大きく素晴らしい何かを追求する人々を植える、と言う意味です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''あなたが生きている''と言うこと自体より素晴らしい目標とは何ですか?「神中心の、聖書に浸かった人種間の平等と人種間の調和を通して、イエス･キリストを掲げることが私の人生の最大の目標です」、あるいは「神中心で、聖書にどっぷり浸かり、胎児の公正を通してイエス･キリストを掲げることが私の人生の最大の目標です」という人が、今週と来週の日曜日、皆さんの中で何人、あるいは何百人、いるかどうか、お尋ねします。ああ、自己中心と一時的な忠誠心と締まりのない献身に反して、神がアドレナリンのようではなく、心臓のように、偉大な目標を維持する男女を起こして下さったなら!アドレナリンはその時必要なエネルギーを一時的に生み出し、それから体力を低下させます。心臓は良い時も困難な時も、冬でも夏でも、悲しい時でも嬉しい時でも、力がみなぎっている時でも弱っている時でも、病気の時でも健康な時でも、体中に生命を供給し続けます! ああ、副腎のようなクリスチャンだけでなく、人種間の平等という目標において、冠状動脈のようなクリスチャンがもっと起こされたなら! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 私たちにはウィリアム･ウィルバーフォースが必要 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皆さんの中でこの時代のウィリアム･ウィルバーフォースは誰でしょうか?彼は奥の深いクリスチャンで、活気に満ちた福音派で、イギリスの人種間の平等と言う目標の長期戦で熱心に活動した人でした。1787年10月28日、28歳で自分の日記に、「万軍の神は私の前に二つの大きな目標を置かれた。奴隷貿易の抑圧と、[倫理観の]改革である(ジョン･ポロック著、『ウィルバーフォース』、69ページ)。」アフリカ人奴隷の貿易は当時の国の経済の関心事を大きく占めていたので、国会がある事に彼は敗北しました。しかし彼はあきらめることなく、引き下がることもありませんでした。彼はアドレナリン的クリスチャンではなく、冠状動脈的クリスチャンだったのです。1807年2月24日の午前4時、彼が自分の日記に最初に記した20年後、奴隷貿易が違法になる最終的法律が可決されました。20年もの忍耐の後もやるべきことはまだ終えていません。奴隷業者そのものはどうなるのでしょう?その16年後の1833年7月26日、彼が死ぬ3日前、イギリスとイギリス植民地で奴隷制度が違法になる法律が可決されました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので「情熱を植える」と言うことを考えるとき、副腎のような情熱ではなく、この冠状動脈のような情熱を生み出すような教会を開拓することを私は考えています。神中心で、キリストを掲げ、聖書にどっぷり浸り、正義を求め、快適さではなく偉大な目標のため、決してあきらめることのない献身です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえもし神を中心におき、キリストを掲げ、聖書にどっぷり浸りたいのであれば、福音書でイエス様が言っておられることに耳を傾け、イエス様が自民族中心主義にどのように終止符を打たれるかを一緒に見ましょう。自民族中心主義とは、自分の民族が優勢あるいは特権階級として扱われるべきだと信じ込むこと、あるいは感じることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ルカ4:16-30ー神のみ国はあなたが考えている民族とは異なる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ルカ4:16―30から始めます。カペナウムで有名になった地元出身の男児が、その後自分の故郷、ナザレに戻ってきます。安息日に礼拝堂に行き、彼に聴こうと群衆が集まります。そして主がご自身のメッセージで言われることは、まったく信じられないことです。主は暴動を引き起こすところでした。それを意図的に成されるのです。まず彼らは主に預言者イザヤの書簡を読むよう手渡し、主はその中から61章をお選びになります。それは囚われ人を解放し、主の恵みの年を告げ知らせる贖い主の来臨についての箇所です(18後半―19節)。そしてそれが彼らの聞いたとおり実現したと、主は言われるのです。21節、「イエスは人々にこう言って話し始められた。『きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。』」それは驚くべきことでした。トップ記事ー「地元出身の男児が、自分がメシアであると主張する」。でもこれが暴動を起こすきっかけとなったのではありません。22節、「みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。」そこまでは良かったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に主が何と言われるかを見てください。まったく予期しなかったことです!もしあなたが以下のものが欲しいと思われるなら、不可解です。ただの教会成長が欲しいのなら、不可解です。主は旧約聖書から自分の郷里の自民族中心主義を前にして、二つの話をお選びになります。それはそれ以上に無礼にはなれないほどに無礼な話でした。主はどのような反応が彼らから返ってくるかを知っておられます。それは24節で、「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません」と言われるからです。言い換えると、「メシアが何をするか、またメシアのみ国がどのようなものであるか、あなた方は自分の理解で今わたしをほめている(22節)。しかしわたしがこれからしようとしていることと、わたし国がどのようなものかを話すのを聞いたら驚くでしょう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主はまず一つ目の話をなさいます。1列王17章から引用されていますが、25―26節、「わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六ヶ月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、(26)エリヤはだれのところにも遣わされず、シドン(フェニキア)のサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。」主はいきなり、外国であるシドン(フェニキア)の地から来ている異邦人に奇跡的恵みをもたらすために、すべてのユダヤ民族を通り過ぎられる神の話をされます。イスラエルにもやもめは多くいたが、神はこの外国人だけを祝福されたー主はこれを、話を柔らげることも、説明することもなく、あからさまにそして強い口調で言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそれが十分でないかのように、二つ目の話を2列王記5章から引用して、27節で話されます。「また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、ツァラアトに冒された人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」再度、ポイントは、神は癒そうと選ぶことができたはずのすべての人の中で、ユダヤ人ではなく、外国の王であったシリア人をお選びになった、と言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この二つの話はナザレの自民族中心主義に理解できない話ではありませんでした。28節、「これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、(29)立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。(30)しかしイエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた。」彼らはそれを理解し、好みませんでした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話のポイントは何でしょうか?ポイントは、「わたしのもたらす国は、」イエス様が言われるには、「あなたの考える民族国家とは違う。イスラエルとして選ばれたあなたがたの地位は、何の謙遜も同情も生み出さなかったどころか、自尊心と軽蔑を生み出した」です。イエス様が自民族中心主義の終わりです。「わたしを見なさい。わたしから習いなさい」と主は言われます。「わたしは一つ、あるいはいくつかの民族ではなく、すべての民族グループから民を贖うためにやって来たのです。祭司と友の国をすべての人々の中から集めようとされる神の熱心、義と憐れみを見ることができないあなたがたは、呪われよ。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== マタイ8:5-13ーイエス様にある信仰は民族性に勝利する ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらのナザレ人に呪いを宣告するなど、私はやりすぎでしょうか?次のマタイ8:5―13の別の話を考えながら、あなた自身がそれを判断してください。イエス様はマタイ5―7章で山上の垂訓を語り終えられ、それからマタイ8:1―4で、イスラエルの人々の中で最もさげすまれ、排斥されていたらい病の者に触れられ、癒されます。そしてマタイ8:5で主はカペナウムに入られ、そこで次に最もさげすまれ不快な種類の人物、ローマ軍の百人隊長に出会われます。それは丁度タリバンの解放軍にとってのアメリカ海軍兵のようなものです。この特定の百人隊長がユダヤ人の間で評判だった事実(ルカ7:3―5)は、マタイの福音書では省かれています。それはマタイにとっては自分の要点と関係のあることではありません。この男は外国人であり、ユダヤ人ではありません。マタイはその自分の要点に人々を引き付けます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話のポイントは何でしょうか?百人隊長はイエス様に懇願して、「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」何の質問もためらいもなく、イエス様は7節で「行って、直してあげよう」と言われます。すると百人隊長はイエス様が驚かれるようなことを言います。8節、「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。(9)と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10節で、これを聞いたときイエス様は、驚かれたと言います。そして主は、みんながこれは癒しと力と権威についての話であると思っていたこの状況全体を、まったく違うもの、すなわち、神の御国が外国人で形成されていることと、恵みを受けることを民族性に頼ることの危険性という状況に変えてしまわれます。10節後半、「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。(11)あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、･･･」東と西!それは何でしょうか?それはフェニキア(ガザ地区)、エジプト、ギリシャ、アラビア、ペルシャ(ヨルダン、イラン、イラク、アフガニスタン、パキスタン、インド、中国)です。彼ら、つまり、割礼を受けていない、コーシャーでない外国のやりかたと外国の身なりの外国人たちが来て、どうなるのでしょう?11節後半、「天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。(12)しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはまったく衝撃的な話です!この話の強さを感じなければなりません。イエス様はここで、イスラエルの選ばれた民に、まずこの信仰を持った百人隊長のようなローマ人が、それから汚れたあらゆる異邦人の民族が天の御国に入るが、あなた方「御国の子ら」は、暗やみに放り出されると言われるのです。選ばれた民族についてこのように語られるのは、ほとんど聞いたことがありません。主は何と言っておられるのでしょうか?イエス様が自民族中心主義の終わりである、と言っておられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいはもっと肯定的に言うと、主の来臨と共に、神の民の究極的に新しい定義がやって来たのです。すなわちそれは、主にある信仰です。イエス様にある信仰は民族性に勝ります。福音書の中でこれが何度も繰り返し起こるのを見ることができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#良きサマリアの話ー外国人が慈悲心の英雄(ルカ10:33)。 &lt;br /&gt;
#10人のらい病人が癒され、そのうちのたった一人が戻って来ます。彼はどのような人でしょうか?謙遜で感謝で輝く外国人の、サマリア人です(ルカ17:16)。 &lt;br /&gt;
#スロ･フェニキヤ人の娘の癒し(マルコ7:26)。 &lt;br /&gt;
#東、恐らくペルシャかアラビアから来た賢者たちの礼拝(マタイ2:1)。 &lt;br /&gt;
#そして最後にイエス様ご自身が前もって説明される、ぶどう園の主人のたとえのうちにある、ご自身の死とよみがえり(マタイ21:33―43)。ぶどう園の主人は収穫の分を受け取ろうと、自分の息子を農夫たちのところへ遣わします。彼らはその息子を殺します。イエス様は、「この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう」と聞かれます。43節にその答えがあります。「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== [肌の]色ではなく、キリストにある信仰 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マルチン･ルター･キングがその最も有名な演説で、「私には、私の幼い4人の子どもたちがいつの日か、自分の肌の色ではなく、持ち合わせている性格がどのようなものかで判断されるような国に住むようになる、と言う夢があります」と言ったとき、これを意味しているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様が自民族中心主義の終わりです。[肌の]色ではなく、キリストにある信仰、それが御国の特徴です。ノエルと私は、昨日シカゴにいる息子のベンジャミンと電話で話しながら、昔のことを思い出しました。1967年のアーバナです。ウォレン･ウェブスターは15,000人の学生たちの前で、「自分が宣教しているパキスタンで、自分の娘がパキスタン人と結婚しようと決心したらどうしますか?」と聞かれました。彼の答えは今でも私たちの耳に響いています。このメッセージが皆さんの耳にも響くよう願いますが、彼は「金持ちで白人で[キリストを]信じない銀行員のアメリカ人より、貧しいパキスタン人のクリスチャンの方がよっぽどマシです」と答えました。言い換えると、[肌の]色ではなく、キリストが争点なのです。イエス様が自民族中心主義の終わりです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私たちが神中心の、キリストを掲げる、聖書にどっぷり浸かった、公正を求める教会を開拓しようとするなら、自民族中心主義はここでも終わらせなければなりません。それが終わり、すべての民族と人種と民がキリストを共にたたえるとき、それは何と素晴らしいものでしょうか。主を、それを実際に起こして下さい! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
___ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 25 May 2017 20:06:41 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E6%A7%98%E3%81%AF%E8%87%AA%E6%B0%91%E6%97%8F%E4%B8%AD%E5%BF%83%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>ことばは人となられた</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%81%AF%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「ことばは人となられた」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Word Was Made Flesh}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2この方は、初めに神とともにおられた。3すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。4この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。5光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。６神から遣わされたヨハネという人が現れた。7この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。8彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。9すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。15ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」16私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。17というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。18いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1974年の春、私はドイツで学業を終えようとしていました。私の本教授が亡くなられ、教授の科目の一つを引き継ぐため、オスカー・クルマンという新約聖書の偉大な学者が、ヨハネの福音書を教えるためベイゼルからミューニッヒにやって来ました。一学期18週の最初の13週で私たちが学んだのは、思い出すに、ヨハネの書の最初のたった14節でした。それほどこの節は深いのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== クリスマスのキリストについての特別な真実のメッセージ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでこの聖書箇所を一つの説教で取り扱うことで私は不正を行うのではないかと、恐れおののきつつ選びました。しかし二つの理由でこれを選びます。一つはこれがクリスマスのすばらしい一節だということです。クリスマス向けだと示している鍵は14節です。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」これがクリスマスの意味です。神が、イエス・キリストの人となりにおいて、この世に来られ、処女からお生まれになりました。二つ目の理由は、私がこの箇所を選んだのは、この箇所に、私たちがどうしても知りそして受け入れる必要のある、イエス・キリストについての特別な真実が満ち溢れているからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは特に今日、重要です。なぜなら私が先週歓迎の挨拶で言ったように、この世のキリスト教でない主流の宗教も、昨今はイエス様を信奉することを、ある意味あたかも重んじたり尊重したりするからです。特に最近は、イスラム教さえも私たちよりイエス様を敬っているよ、なぜなら神が主が十字架上で犯罪者の恥ずべき死を忍ぶことをお許しになるなど信じないからである、という事実を引き合いに出す、イスラム教のリーダーたちの言葉を耳にします。ですのでクリスチャンがイエス・キリストを深く知り、聖書のキリストと、他の宗教が敬うというキリストを見分けることができるようになることは、とても重要です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので、この地上の誰よりも親密にイエス・キリストを知っていた者、使徒ヨハネによって書かれた主についてのこの段落で私がしたいのは、人となられたことばに関する5つの真実と、それから今朝あなたが主に対し応答するであろう二つの全く反対の応答の対比を示し、説明し、そして大いに喜びたいと思います。私のねらいは、あなたが主がどのようなお方であられるかを理解し、主をあなたの主、あなたの神、すべてにまさるあなたの宝として迎え入れるようになることです。そしてもしあなたが既に主を迎え入れているのであるなら、あなたが主を受け入れ、宝とし、主に喜び、主に従い、これまで以上に主を表に出すよう、祈ります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではこの箇所の人となられたことばについての５つの真実から始めましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''人となられたことばの地上での名は、イエス・キリスト'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
17節「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「イエス」というのは、主の御使いがヨセフに名づけなさいと言われた名前で、それは「救い主」というのを意味します。「主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』」&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「キリスト」というのは、人々に勝利を与え、この世の主権をその肩に担う、ユダヤ人たちが待ち望んだ王の称号をさします。ペテロの兄弟アンデレがイエス様に出会ったとき、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト[とヨハネは付け足します])に会った」とペテロに言いました(ヨハネ1:41)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでこの箇所で私たちが語るお方は、聖書でそして世界中で知られている、「イエス・キリスト」です。そしてそれぞれの名がとてつもない意味を抱えています。主は救い主で、王であられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''人となられた方はこの地上に人としてお生まれになる以前に、神として存在され、神とともにおられた'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1節、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この「ことばは神とともにあった」と「ことばは神であった」という二つの句に含まれる奥義を拒否する宗派が絶えずあります。彼らは人間の概念にとらわれ、両方を共有することはできない、と言います。主は神であるか、神とともにおられるかのどちらかだ。もし主が神とともにおられるのなら、神ではない。もし神であられるのなら、神とともにはおられない、と。そうやってこの二つの文章から逃れるため、時に彼らは(エホバの証人のように)訳を変え、「ことばは神とともにあった。ことばは一神[神々の中の]であった。」と言う風にします。しかしキリスト教教会がそのような教えを真理でありまた正当であるとして受け入れたことがない、確かな文法的理由、また他のヨハネの福音書や聖書の箇所からの文脈的理由があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この第一節が教えるのは、私たちが知っているイエス・キリストは、人となられる以前、神であられ、またみ父も神であられた、ということです。この二つの神格は一つの神であられました。これは私たちが三位一体として理解する、真理の一部です。このため私たちはイエス・キリストを礼拝し、ヨハネ20:28のトマスと共に、「私の主。私の神。」というのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''人となられる以前に、ヨハネは主を「ことば」と呼ぶ'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネ1:1「初めに、''ことば''があった。''ことば''は神とともにあった。''ことば''は神であった。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ主は「ことば」と呼ばれるのでしょうか?その答えの一つは、その答えの一つは、[ことばという名以外に]呼ばれたかも知れない名と、それがなぜ「ことば」との関係で不適切なのかを、じっくり考えることにあります。例えば、主は「わざ」という名で呼ばれていたとしましょう。「初めに、わざがあった。わざは神とともにあった。わざは神であった。」わざとことばの違いの一つは、わざはもっと曖昧です。もし私たちの''ことば''は時によって不明瞭で様々な解釈の対象になると思うのなら、私たちの''わざ''はそれより更に不明瞭で曖昧です。そのため私たちは良く言葉で自分を説明するのです。ことばは私たちの動作を、行いそのものよりより明確にとらえます。神は歴史の中で数多くの偉大なみわざを成されましたが、ことばには特別な優先順位をお与えになりました。その理由の一つは、明瞭さと意思疎通に高い価値を置いておられるからだと、私は思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他の例としてヨハネは主を「思い」と呼ぶこともできたかも知れません。「初めに、思いがあった。思いは神とともにあった。思いは神であった。」でも思いとことばの違いの一つは、言葉は一般的にコミュニケーションを確立するために考案者から出てくるものとして想像されます。ヨハネは私たちに神の御子が、ご自身とみ父のコミュニケーションのためと、神の私たちとのコミュニケーションとして歴史に現れるため存在されるということを、心に描いて欲しいからだと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3つめの例で、ヨハネは「感情」と呼ぶことができたかも知れません。「初めに、感情があった。感情は神とともにあった。感情は神であった。」しかし、再度申し上げますが、感情は明確な概念やあるいは意図、意味を含みません。わざと同じように、感情は曖昧で言葉による説明が必要です。ですのでイエス様を「ことば」と呼ぶのが、神の御子の存在そのものはコミュニケーションのためであることを強調する、ヨハネの方法のように思われます。第一にそして最も大切なことですが、主は神とともに、永遠から意思疎通のために存在され、絶えず存在してこられたのです。第二に、そして私たちにとっては無限に大切なことですが、神の御子は神の私たちに対するコミュニケーションとなってくださいました。要約すると、イエス様を「ことば」と呼ぶのは、主が「ご自身を表現される神」という意味であると言うことができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''ことばを通して神が造られたものでないすべて'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネ1:3「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネがことばについてここで言っているのには二つの理由があります。一つはそれが主が神であることを強調するからです。私たちが神を考えるとき、すぐさま創造主を思い浮かべます。神は神以外のすべてのものの源であり解釈であられます。ですのでヨハネが「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」というとき、主は神であられ''造られたものではない''、ということを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つの理由は10節にあります。「この方はもとから世におられ、''世はこの方によって造られた''のに、世はこの方を知らなかった。」ここでは要するに、この世の盲目の罪の深刻さと、イエス様を拒絶するこの世の悪の深さを強調しているように思われます。主は''創造主''として私たちのところに来られますが、この世は''未だ''に主を受け入れていません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではことばは人となられたということについて、私たちはここまで何を見てきたでしょうか?1）主は救い主、王なるイエス・キリスト、2）主は三位一体の第二位格の神、3）主は意思疎通をとられる神、ご自身を表現される神であられることば、3）主はすべてのものの創造主、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''人となられたことばにはいのちがあり、そのいのちは人の光となられる'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネ1:4「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべてのものの命はことばから始まります。それは私たちがすでに見てきたように、主がすべてのものの創造主であられるということから、明らかです。しかしここで注目しているのは、恐らく霊的いのちについてでしょう。言い換えれば、私たち人間には二つの不可抗力な問題があります。私たちは霊的に死んでおり、それゆえ霊的に盲目です。ヨハネは、イエス様はその二つの問題の解決である、主には私たちが必要ないのちがあり、このいのちは私たちに必要な光となってくれる、とここで言うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネ5:21で[主は]、「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」と言われます。言い換えれば、主はラザロの墓の前に立って、死んだ者に「ラザロよ、出て来なさい」と言われたことを、私たちに対し霊的にして下さるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそのイエス様から与えられるいのちが、光とどのように関係しているのでしょうか?二通りです。一つは、それが私たちに見させてくれます。死人にいのちがあたえられるとき、その死人は見ます。あるいはイメージを変えて、あなたが生まれた時、あなたは見ます。それは霊的なことでも同じです。イエス様はニコデモに、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、''新しく生まれ''なければ、神の国を''見る''ことはできません。」(ヨハネ3:3）と言われました。ですのでまずイエス様は''いのち''をお与えになり、そしてそのいのちは霊的現実を見ることのできる、''光''となります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様のお与えになるいのちが光と関係する他の方法は、それがあなたに見る目を与えてくれるというわけではなく、イエス様ご自身が見させてくださる光そのものというものです。私たちが不信者であるとき盲目であるのは、結局のところ、何に対してでしょうか?イエス様の栄光である、真理と美と価値に対して盲目なのです。ですからヨハネが「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」と言うとき、それは人となられたことばであるイエス・キリストは、霊的輝きを見る力と、''そして''見える輝きの両者だということを恐らく意味しているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
14節で、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちは''この方の栄光を見た。''」と言うのはそれです。それが、イエス様がヨハネ17:24で、「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。…わたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」と祈られたことです。そしてそれが、「わたしは、世の光です。」と二度繰り返して言われたとき(ヨハネ8:12、9:5)、主張されたことです。ですから人となられたことばにはいのちがあられ、そのいのちは人の光となられます。主が見る力と見える輝きなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まとめると、人となられたことばについての５つの真実とは何でしょうか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#主は人となられた後のイエス・キリストで、救い主で、神によって油塗られたすべてのものの王であられる。 &lt;br /&gt;
#主は神であられる。主は神とともにおられ、神であられた。 &lt;br /&gt;
#主は意思疎通される神、ご自身を表現される神であられる、ことばと呼ばれた。 &lt;br /&gt;
#主は創造主であられる。すべてのものは主を通して造られたが、主ご自身は造られたものではない。 &lt;br /&gt;
#主はいのちであり光であられる。見ることのできる生ける力であられ、すべてを満足させる見える輝きであられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、では人となられたことば、イエス様についてのこれらすべての啓示に対しあなたは応答できるでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 応答の一つー私は主を知らないし、主を受け入れない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一つは10、11節に描かれています。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民を受け入れなかった。」これを聞いてあなたは、「私は主を知らないし、受け入れいない」と言われるかも知れません。あなたの創造主、あなたのいのち、あなたの光についてそのように言うのはとても恐ろしいことです。せめて懇願させてください、このクリスマス、そのように簡単に言わないでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== その他の応答ー私は主を知っており、主を受け入れる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他の応答は12、13節に見られます。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」これが私が今朝祈る応答です。この素晴らしい人となられたことばを受け入れてください。主を救い主、王、神、ことば、創造主、いのち、そして光として受け入れてください。神が、主においてあなたのためであられるすべてを受け入れてください! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クリスマスはこの世のすべての暗闇と死の洞窟に隠れたビン・ラデンを探し出すため、ご自身の御子をこの世に遣わされた神のようなものです。洞窟にたいまつを投げ込む代わりに、主はまう洞窟の入り口に立って、このように言われます。「私は罪人の代わりに十字架で死んだのです。それゆえ光のもとに出てきなさい。もしあなたがわたしをあなたの神、あなたの身代わり、あなたの宝として受け入れるなら、わたしの死があなたの死とみなされ、わたしの義があなたの義と認められ、そしてあなたは永遠のいのちが与えられるでしょう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
___ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; マタイ1：20－21&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 18 May 2017 20:13:45 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%81%AF%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F</comments>		</item>
		<item>
			<title>十字架のみを誇りとする</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%82%92%E8%AA%87%E3%82%8A%E3%81%A8%E3%81%99%E3%82%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「十字架のみを誇りとする」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Boasting Only in the Cross}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; しかし私には、私たちの主イエス･キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世で持続する成果を発揮するのに、人生で多くのことを知る必要はありません。でもいくつかの重要なことは知っていなければなりません。そしてそのために生きることと死ぬことを覚悟しなければなりません。この世を耐久性のある変化を持って変える人とは、多くのことを習得した人ではなく、ある特定の偉大なことによって征服された人です。もしあなたが自分の人生を重視されたければ、あなたの落とす小石が地球の果てまで行き渡り、何世紀もそして永遠まで押し寄せる波になり、連鎖反応を起こして欲しいと思うならば、高いIQやEQを持つ必要はありません。見栄えのする外見や富を持つ必要はありません。良い家系や良い学校の出身である必要はありません。いくつかの素晴らしい、壮大な、不変の、明確で単純で、栄光のあることを知り、それによって燃やされなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもここにいるすべての人があなたに成果を上げて欲しいと思っているわけではありません。皆さんのうちの何百人という人たちが、自分が人生で何か偉大なことをして永遠に続く成果を発揮するかどうかなど、気にも留めていません。他人に好かれたいという、ただそれだけです。もし他人に好かれるなら、あなたは満足するのです。あるいはもしいい仕事といい奥さんと、いい子供を一人か二人、そしていい車と長い休暇と、何人かのいい友達と、楽しい隠居生活と、早くて楽な死と、地獄がなければ、もし(神以外に)それらを持つことができれば、あなたは満足するのです。それがあなたを待ち受けているものであれば、悲劇です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3週間前ルビー･エリエソンさんとローラ･エドワーズさんがカメルーンで亡くなったというニュースを、私たちの教会で聞きました。ルビーさんは80歳を超えていました。生涯独身で、未踏の人々、貧しい人々、病の人々の間でイエス･キリストを伝えるというこの一つの目標のために、すべてを捧げました。ローラさんは未亡人で、医師であり、80歳になるところで、カメルーンのルビーさんのそばで仕えていました。走行していた車のブレーキが故障し、車が崖から落ち、二人共即死でした。「それは悲劇だったと思う?」と私は教会の人たちに尋ねました。二つの命が、一つの偉大なビジョンに突き動かされ、イエス･キリストの栄光のために滅び行く人々に仕えるという、予想もしなかったことに費やされたのです。彼女たちのアメリカ人の同僚のほとんどが、フロリダやニュー･メキシコで、つまらないもので人生を棒に振るために定年退職する年齢の、その20年後です。いいえ、それは悲劇ではありません。栄光です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
悲劇とは何か、教えてあげましょう。リーダーズ･ダイジェスト(2000年2月発行、98ページ)から、悲劇とは一体何かをお読みします。「ボブとペニーは･･･5年前、ボブが59歳でペニーが51歳の時に北東の地で定年退職した。彼らは現在、フロリダのプンタ･ゴーダに住んでおり、そこで30フィートあるトロール漁船で船旅をしたり、ソフトボールしたり、貝殻を集めたりしている。」アメリカン･ドリームです。たった一度切りの自分の人生の終わりに来て、創造主の前に申し開きをする前の最後の偉大な仕事が、「貝殻を集めました。私の貝殻をご覧下さい」。それこそ悲劇です。今日人々はあなたにその悲劇の夢を受け入れるよう説得するため、何十億ドルというお金を費やしているのです。今日私にはあなたに懇願できる40分が与えられています。どうぞそれを信じないでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人生を無駄にしないでください。それはとても短く、尊いものです。私は父親が伝道師として、失われた者にイエス･キリストの福音を伝えるために自分の一生をささげた家庭で、育ちました。福音を宣べ伝えること、それが父の、たった一つの燃えるようなビジョンでした。子どものころ、ずっと家の台所に額が飾ってありました。その額は現在私たちのリビングに掛けられています。この48年間ほとんど毎日それを見続けて来ました。それには「たった一度切りの人生、すぐに終わってしまう人生。キリストのために成されたことのみが永遠に残る」と書かれてあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この『ワン･デイ』に父親のような気持ちで臨んでいます。私は54歳です。4人の息子と一人の娘がいます。カーステンは27、ベンジャミンが24、アブラハムが20、バルナバスは17、タリタは４歳です。成人になった息子たちが、命取りになるような[この世の]成功で自分の人生を無駄にしないようにという願いが、以前よりも増して、この数ヶ月、また数年、私の心を一杯にしています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから皆さんを自分の息子や娘のように思い、父として、お願いします。私は恐らく皆さんが持ったことがないような父、あるいは私があなたに対しビジョンを持っているようには、神があなたに対し持っているようには、ビジョンをあなたに対し持ったことがないお父さんとは違うかも知れません。あなたのお父さんはあなたに対しビジョンを持っているかも知れませんが、それはすべてお金や地位であるかも知れません。皆さんを自分の息子や娘のように見つめ、懇願します。人生を素晴らしく永遠に続く何かで価値あるものにしてください。それを求めてください。情熱なしに生涯を楽に進まないでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が『パッション98』、『パッション99』、そして『ワン･デイ』を愛するようになったその理由の一つは、その268の宣言が私の人生そのものだからです。その宣言はイザヤ26:8を基にしています。「主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。」ここには体だけでなく、魂があります。魂だけでなく、魂と共に情熱と願望があります。人に好かれたいとか、ソフトボールをしたいとか貝殻を集めたいという願望だけでなく、無限に素晴らしい何か、無限に美しく、無限に価値があり、無限に満足させてくれる何か、つまり、神の栄光を求める願望です。「私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが私が知りたいと、そして体験したいと思いつつ生きているものです。私の人生と私が仕えている教会の基本理念は、「私たちは、そして私は、すべての人々の喜びのために、すべてのもののうちにある神の主権に対する情熱を広めるために存在する」です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皆さんは私が言うように言う必要はありません。ルイ･ギグリオさんのように(あるいはベス・ムーアやヴォーディー・ボッカムのように)言う必要はありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも何をするにも、情熱を探し出し、それを表現し、それに生き、そのために死ぬ方法を見出してください。そうすれば持続する違いを生み出します。あなたは使徒パウロのようになります。パウロほど自分の人生において一途なビジョンを持った人はいません。彼はそのビジョンを様々な方法で語っています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 使徒20:24、「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
重要なのは一つだけ、それは自分の与えられた走るべき行程を走り尽くすこと、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ピリピ3:7-8、「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト･イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私にはキリストを得･･･ることができる、という望みがあるからです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はどのように皆さんをお助けしたら良いでしょうか?『ワン･デイ』のこの場で、私はどのようにしたら神に用いられ、あなたを解放し、取るに足りない夢から解放し、あなたを地球の果てまで送ってしまうような一つの素晴らしい現実をもって、皆さんの心に一つの目的に対するまっすぐな情熱を目覚めさせることができるでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主が私にお与えくださったと思うその答えは、その核心に限りなく近い聖書の一聖句に行き、なぜパウロがそのように言うのかを皆さんにお見せすることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その箇所はガラテヤ6:14です。「しかし私には、私たちの主イエス･キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは肯定的に言うと、「イエス･キリストのみを誇りとします」となります。それは一つの概念です。一つの目標、一つの情熱です。十字架のみを誇る、その「誇る」という言葉は、「喜ぶ」とか「大喜びする」と言う言葉に訳することもできます。キリストの十字架のみを誇りとする。パウロはこれを自分の真っすぐな情熱、たった一つの誇り、喜び、そして歓喜としなさい、と言います。この『ワン･デイ』という素晴らしい時に、あなたが愛し、大切にし、喜んで大いに楽しむものを、たった一つ[『ワン･シング』]、イエス･キリストの十字架にしてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは二つの理由で衝撃的です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 1) その一つは、それが「[死刑用の]電気椅子だけを誇りなさい」、「ガス室だけに喜びなさい」、「[死刑用の]薬物注射に喜びなさい」、「あなたのたった一つの誇りとたった一つの喜びを、公開リンチのロープとしなさい」と言っているようだからです。「私たちの主イエス･キリストの十字架以外には、誇りとするものが決してないように。」十字架に釘付けにされるほど残酷で苦痛に満ちた死刑法はありません。それはひどいものでした。あなたは叫ばずに、自分の毛を引っ張らずに、そして服を裂かずには見ていられないないでしょう。これをあなたの人生のたった一つの情熱としてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 2) それがパウロの言葉が衝撃的である理由の一つです。もう一つは、彼がこれだけを自分の人生の誇りとすべきであると言うところにあります。「私たちの主イエス･キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはここで何を言っているのでしょうか?本当ですか?他には誇りとするものがあってはならない?他に歓喜するものがあってはならない?イエス様の十字架、イエス様の死以外には喜びとするものがあってはならない? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロ自身が同じ「誇り」や「喜び」という言葉を他のものに使う聖書箇所はどうなるでしょうか?例えば、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ローマ5:2、「私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ローマ5:3、「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 2コリント12:9、「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 1テサロニケ 2:19、「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから、もしパウロがこれらすべてを誇りとし喜びとするのであるならば、彼は、「私には、私たちの主イエス･キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならない」と言うとき、一体何を言わんとしているのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それはどういう意味でしょうか?でたらめな言葉で話しているのでしょうか?一つのことに喜んで、別のことで喜んでいると言っているのでしょうか?いいえ。すべての大いなる喜び、すべての喜び、すべての誇りは、イエス･キリストの十字架のうちにある喜びであるべきである、と言うのには、とても深い理由があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クリスチャンにとって、他のすべての誇りは、十字架にある誇りであるべきであると、彼は言っているのです。すべての大いなる喜びは、十字架にある大いなる喜びであるべきである、と。もしあなたが栄光の望みを喜ぶのであるなら、それはキリストの十字架のうちにある大いなる喜びであるべきであります。もしあなたが患難を喜ぶのであるならば、それは患難は希望を生み出すので、キリストの十字架を喜ぶべきです。もしあなたが自分の弱さ、あるいは神の人々を喜ぶのであれば、キリストの十字架のうちに喜ぶべきです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜそのようになるのでしょうか?理由はこれです。贖われた罪人にとって、すべての良きもの、実に、神が良きことに変えてくださる悪いこと一つ一つでさえも、キリストの十字架によって、私たちのために獲得されました。キリストの死から離れては、罪人はさばき以外に受けるものは一切ありません。キリストの十字架から離れては、そこには有罪宣告があるだけです。それゆえあなたがキリストにあって楽しむすべてのこと、クリスチャンとして、キリストを信じるものとして楽しむすべてのことは、キリストの死のおかげなのです。それゆえあなたが喜ぶすべてのことは、神の御子であられるイエス･キリストの死の代価によって、その恵みのすべてがあなたのために買い取られた場所である十字架を、喜ぶべきなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちがキリスト中心、十字架いっぱいであるべきなのにそうでないその理由の一つは、すべてのこと、すべての良いことと、神がご自身の子どもたちのために良いことに変えてくださる悪いことは、私たちのためにキリストの死によって買い取られたという事実に、私たちが気づいていないからです。私たちは命と息と健康と友人とすべてを、当然のものと単純に思い込んでいます。私たちにはそれを持つ権利があると思っています。でも事実は、私たちにはそれらを持つ権利がありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは二重にそれを受けるにふさわしくない者たちです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 1) 私たちは被造物で、私たちの創造主には、私たちに何も、命や健康など、一切のものを与える義務や責任がおありになりません。主は与えられ、主は取られる、そして主は私たちにまったく不公平であられないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 2) そして被造物であり何の不平も創造主にないばかりか、私たちは罪人です。私たちは神からの栄誉を受けることができないのです。主を無視し、主に従わず、主を愛さず、主を信じないで生きています。義なる主のみ怒りは私たちに向けられています。私たちが受けるべきものは、さばきのみです。それゆえ、私たちのする息のすべて、私たちの心臓が鼓動するすべて、太陽が昇る毎日、目が見、耳が聴き、口が語り、足が一歩を踏み出すそのすべてのときは、さばきを受けるしか値しない罪人に対する、無償の、受けるに値しない賜物なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
誰がこの賜物を私たちのために獲得してくださったでしょうか?イエス･キリストです。そしてどのようにして主はそれを獲得してくださったでしょうか?ご自身の血によってです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人生の恵みのすべては、キリストの十字架をたたえるために意図されています。あるいは別の言い方をすると、人生の良きことのすべては、キリストと、十字架にかけられた主をあがめるためにあります。ですから、例えば、先週私たちは1991年製ドッジのスピリット[車]をめちゃめちゃにしてしまいましたが、誰も負傷しませんでした。ですので守られたことを私は喜びます。それをたたえます。でもなぜ誰も負傷しなかったのでしょう?それは私や私の家族の誰もが受けるに値しない賜物です。私たちは罪人であり、キリストから離れては、生まれながらに怒りの子です。それでは私たちはどのようにしてそのような良い賜物を受けるに至ったのでしょうか？答えは、キリストが私たちの罪のために十字架で死んでくださり、神のみ怒りを私たちから取り除かれ、私たちに益となって働く神の全能の恵みのすべてを、私たちが受けるに値しないにも関わらず、確保してくださったからです。ですから守られたことを喜ぶとき、私はキリストの十字架を喜んでいるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして破損した車のために保険が$2800おり、ノエルがお金を受け取り、アイオワまで行って92年製シェビーのルミナを購入し、雪の中を運転して帰って来ました。私たちは車をまた所有することができました。私は驚くような、惜しみない恵みに喜んでいます。車を破損します。無傷でそこから出てきます。保険がおります。別のものを購入します。このようにです。そして何も起こらなかったかのように生活し続けるのです。感謝のうちに私は頭を下げ、語られないそのような小さな物質的なことでさえも憐れみをお与えくださる主に、喜びます。このような憐れみはどこから来るのでしょうか?もしあなたが救われた罪人、イエス様を信じる者であるならば、それは十字架を通して来ます。十字架を離れては、さばきがあるのみです。忍耐と憐れみがある一定の時期には与えられるかもしれませんが、拒絶し続けるなら、憐れみのすべてはさばきをさらに増すだけです。それゆえすべての賜物は血で買い取られた賜物です。すべての誇り、すべての喜びは、十字架にある誇りです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私の恵みに喜ぶその喜びがキリストの十字架に喜ぶ喜びでないなら、私はわざわいです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
別の方法でこれを言うと、十字架が意図しているのは、キリストの栄光です。十字架にある神のみむねはキリストがたたえられることです。ガラテヤ6:14でパウロが「私には、私たちの主イエス･キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と言うとき、神のみこころは、キリストが絶えず私たちの誇りと歓喜と喜びと賛美である十字架が絶えずあがめられ、私たちの人生のすべての良きことと、神が良きことに変えてくださるすべての悪しきことのゆえに、キリストが感謝と栄誉を受けられることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで質問です。もしそれがキリストの死にある神のみむね、すなわち十字架にかけられたキリストが、すべてのことのゆえにあがめられ、栄光をお受けになることであるのならば、キリストはどのようにしてその受けるにふさわしい栄光をお受けになるのでしょうか?その答えは、老若男女がこれらのことを教えられなければならない、です。あるいは別の言い方をすると、キリストの十字架にある喜びの源は、キリストの十字架を教育することです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたにこれらのことを教えることによって、イエス様に栄光をお返しする、それが私の仕事です。そしてあなたの仕事は、これらのことに従って行動し、さらに多くの人々にこれらのことを教えることによって、イエス様にさらなる栄光をお返しすることです。イエス様を教えることは、イエス様にあって喜ぶことです。もし十字架以外に喜ぶものがあって欲しくないのであれば、私たちは十字架について教えること、また十字架の下で教えることを追求しなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは「十字架の上で」と言うべきかも知れません。十字架を教えることは十字架に喜ぶことに至ります。それはどういう意味でしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
14節の残りを見てください。「私には、私たちの主イエス･キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」十字架を誇りとするのは、自分が十字架につけられたときに起こります。それが14節の言っていることではないでしょうか?世界は私に対して十字架につけられ、私は世界に対して十字架につけられる。世界は私に対して死に、私も世界に対して死ぬのです。なぜでしょうか?なぜなら私は十字架につけられたからです。私たちは十字架の上にいるときに、十字架を誇り、十字架を喜びとすることを学ぶのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それはどういう意味でしょうか?それはいつ起こったのでしょうか?いつあなたは十字架につけられたのでしょうか?答えは、ガラテヤ2:20、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」キリストが死なれたとき、私たちも死んだのです。キリストの死の栄光の意味は、主が死なれたとき、主のすべての者が、主にあって死んだということです。主が私たちすべてのために死なれたその死が、私たちが信仰によってキリストと一つとされた時に、私たち自身の死となるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもあなたは、「私は生きていないのか?生きているように感じるけれど」と言います。ここで、教育が必要なのです。何が私たちに起こったのかを学ばなければなりません。私たちはこれらのことを教えられなければならないのです。そのためガラテヤ2:20と6:14が聖書にあるのです。神は私たちに一体何が起こったのかを教えておられます。そうすれば、自分と、そして私たちとともに働かれる主の方法を知り、喜ばなければならないことである、主と主の御子と十字架に私たちが喜ぶことができるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからガラテヤ2:20を読んで、そうです、私たちは死んでおり、そして、そうです、私たちは生きているということを、私たちは再度見るのです。「私はキリストとともに十字架につけられました[それゆえ私は死んでおり、主は生き続けられるのです]。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです[なぜでしょうか?それは、私が死に、つまり、私の古い反抗的な、不信仰な自分が死に、そして主は生き続けられるのです]。いま私が肉にあって生きているのは[ですから、そうです、私は生きているのですが、死んだ『私』と同じ『私』ではありません]、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」言い換えると、生きている「私」は信仰による新しい「私」なのです。新しい被造物は生き続けます。信じる者は生き続けるのです。古い自己はイエス様と共に十字架で死にました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし「この現実と連携させているその鍵は何だ?どのようにしてそれが私のものになるんだ?」とあなたが聞いたとします。答えはガラテヤ2:20の信仰に関する言葉のうちに含まれています。「いま私が肉にあって生きているのは、･･･神の御子を信じる信仰によっているのです。」それがつながりです。神があなたを信仰によって、ご自身の御子とつなげてくださいます。そして神がそうなされるとき、神の御子との一致がそこにはあります。それは主の死があなたの死となり、主のいのちがあなたのいのちとなるためです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ガラテヤ6:14をもう一度最初から見てみましょう。「私には、私たちの主イエス･キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」十字架以外の何ものをも誇りとしないでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは私の喜びのすべてが十字架にたどり着くためには、私はどのようにして徹底的に十字架中心になることが出来るでしょうか?答えは、キリストが十字架上で死なれたとき、あなたも死んだということ、またあなたが主を信じたとき、その死があなたの人生で有効化された、ということを認めることです。パウロは、それがあなたの世界に対する死であり、世界のあなたに対する死であると言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その意味は、あなたがキリストに信頼するとき、この世に束縛されているあなたの束縛がほどかれ、この世の抗し難い魅力が破壊されるのです。あなたは世界に対し死骸であり、世界はあなたに対し死骸となります。あるいは肯定的に言うと、15節によると、あなたは「新しい創造」です。古いあなたは死んだのです。新しいあなたが生きています。そして新しいあなたは、信仰のあなたです。信仰が喜ぶものはこの世界にはなく、キリスト、特に十字架につけられたキリストにあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようにしてあなたは、パウロとともに、「私には、私たちの主イエス･キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と言う、非常に十字架中心な者となるのです。「この世はもう私の宝ではない。それは私のいのちの源でなく、私の満足や喜びでもない。キリストが私の満足であり喜びであられる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「それでは車の事故から守られたことはどうでしょうか?保険がおりたことは?あなたはそれを喜んだと言わなかったでしょうか?それはこの世ではないのですか?それではあなたはこの世に対し死んでいるのですか?」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は死ぬことができます。そのように望みます。なぜならこの世に対し死ぬことは、この世から出て行くことを意味しないからです。またこの世について感じることがらをまったく感じないという意味でもありません。否定的であり、肯定的です(1ヨハネ2:15、1テモテ4:3)。この世の筋の通った喜びはすべて、血で買い取られたキリストの愛の証明と、十字架を誇りとする機会となるのです。お金が自分を満足させてくれるのでなく、十字架につけられたキリスト、お与えくださるお方が自分を満足してくださるお方であるとき、保険がおりることに対し死んでいるのです。私たちの心が恵みの光線をたどって十字架の源に戻って来るとき、この世的恵みは死に、十字架につけられたキリストがすべてとなるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
十字架に喜ぶ、それが喜びを教育することの目標です。ああ、神が私たちにキリストと、十字架につけられたお方の栄光のために夢を見させ、計画させ、わざを成させ、与えさせ、教えさせ、生かせてくださいますように。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 30 Mar 2017 20:26:13 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%82%92%E8%AA%87%E3%82%8A%E3%81%A8%E3%81%99%E3%82%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>イエス様はなぜ死刑に処せられ、よみがえられたのか?</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E6%A7%98%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%AD%BB%E5%88%91%E3%81%AB%E5%87%A6%E3%81%9B%E3%82%89%E3%82%8C%E3%80%81%E3%82%88%E3%81%BF%E3%81%8C%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「イエス様はなぜ死刑に処せられ、よみがえられたのか?」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Why Was Jesus Put to Death and Raised Again?}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。23しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、24また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。25主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 来週取りあつかう三つの質問 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は当初22―25節のこの短い4節から一つのメッセージを説教するつもりでいました。でもそれらの句をとくと考えながら、特に聖餐式の日曜であるということもあり、また特にこの章の最後で、ある種のクライマックスに直面することも踏まえて、この素晴らしい聖句に二回の日曜日をかけようと思いました。以下は私が挙げたい質問ですが、今日はその一つを、来週はその三つを取りあつかいます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1) なぜ信仰はアブラハムと私たちの義とみなされたのでしょうか?「だからこそ、それ[信仰]が彼[アブラハム]の義とみなされたのです。」という22節の最初の、「だからこそ」というのは、何を意味するのでしょうか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2) 一体どのような信仰がアブラハムと私たちの義としてみなされるのでしょうか?神がアブラハムにお語りになり、カルデヤのウルを離れなさいと言われたときの、最初の行為の信仰なのでしょうか、あるいは創世記15:6で神がアブラハムに星の数ほどの子孫をお与えになると約束されたときの信仰でしょうか、あるいは創世記17章で神が、彼の年齢やサラの不妊にも関わらず来年子を産むと約束されたときの信仰でしょうか、あるいは創世記22章でアブラハムがイサクを捧げたときの信仰でしょうか?私たちは最初の一瞬の信仰で義とされるのでしょうか、あるいは生涯をかけた信仰で義とされるのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3) 信仰はアブラハムや私たちのものとどのようにしてみなされるのでしょうか?信仰が義とみなされるというのは、信仰そのものが私たちが行なう義のようなもので、義認に値するのに十分であると神が認められるという意味でしょうか?あたかも、義認には500万ドルかかり、私は100万ドルしか支払うことができないので、神が憐れみ深くも、その100万ドルを500万ドルとして認め、残りを帳消しにしてあげるよ、と言われるようなものでしょうか?あるいは義認というのは本当は私に対するキリストにある神の義の転嫁で、もしそうであるならば、信仰が義とみなされるというのは、何を意味するのでしょうか?信仰はアブラハムや私たちにどのように与えられるのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
来週それらを話します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 義と認められるためには私たちは誰を、あるいは何を信じなければならないのか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が今週注目したいのは、義と認められるためには私たちは誰を、あるいは何を信じなければならないのか?ということです。ということで、24節の中ごろにこれを拾い上げていきます。23―24節で、創世記15:6でアブラハムの信仰が彼の義とみなされたと書かれてあるその理由は、彼だけのためでなく私たちのためでもあったと言います。「『彼の義とみなされた』と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。」これを見逃さないでください。イエス・キリストの使徒はここで、神はモーセに霊感をお与えになり、「彼の義とみなされた」と書かせたとき、私たちのことを考慮に入れておられたと、言います。神はこれをあなたにとても個人的なものとして受け取って欲しいのです。これを読んで、聞いて、そしてあなた自身に個人的に語っていると理解して欲しいのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「信仰があなたとわたしの関係を正しくする。わたしを信頼しなさい。あなたの信仰を義と認めるよ」と神はあなたに今語っておられます。それが聞こえますか？「わたしを信頼しなさい。わたしに安息しなさい。わたしにより頼みなさい。わたしを信じなさい。すべてがうまくいくよ。あなたのための義がわたしにはある。あなたにはないものだ。わたしにはある。わたしを信頼しなさい。それがあなたの義とみなされるよ。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして24節の中間では、私たちが誰を信じなければならないのかを、彼[パウロ]は私たちに語り始めます。「…私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じるわたしたちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」このお方こそ、私たちが義とみなされるために信じるお方です。パウロは私たちが神を信頼することを、主が成されたことと同一視しています。ですので彼が、「信仰は[神によって]義とみなされる」と言うとき、あるいはこれは信仰を持つ私たちのために書かれたと言うとき、そして神が何を成就されたかを私たちに語るとき、私たちは私たちの信仰の基盤とその中身を学ばなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神に関する三つの声明をまとめてみましょう。1) 私たちが信じる神は、想像もできないような力で物事を成されます。2) 私たちが信じる神は、憐れみ深い贖いのみわざを成就されます。3) 私たちが信じる神は、勝ち誇れる正義を全うされます。この章全体は信仰によって義と認められる基盤ではなく、義と認められるその方法について語っています。でもこの章の最後の文章で、パウロは信仰によって義とみとめられるその基盤(ローマ3:24―26で言うところの)に戻ります。義と認められる基盤は、歴史の中で神がキリストのみわざのうちに成されたことです。義と認められる方法は、信仰によって私たちがその偉大なみわざとどのように関係するかにあります。両者ともとても重要ですが、その中でも基盤は最も重要なものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
既に[この世を去り]主とともにいるジョン・ミューレーは、ウェスト・ミンスター神学校でかつて教えていましたが、『*完成され適用された贖い*』と言う素晴らしい短編を著しました。私はそれを25年前に読みました。皆さんお一人お一人に読んでいただきたいです。あなたの信仰の木に強い繊維を入れ込んでくれます。「完成され適用された」という二語は、私のここで話している、基盤と方法を示しています。完成された贖いーそれが神がキリストのうちに成された基盤であり、私たちとは別にそして私たち抜きで、それは完成されました。適用された贖いーそれが神が私たちに対しまた私たちのうちに成してくださる贖いの、素晴らしい、完成されたみわざと私たちを結びつけてくれるものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはこの章を、完成された贖いについて力強い声明で終わらせます。残りの章すべての土台となる基盤は、信仰による贖いの適用についてです。私たちが信じるお方は、私たちが存在する以前に私たちのために贖いを完成してくださったお方です。主こそ私たちが信じ、私たちがより頼み、私たちが信頼するお方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので、主は想像もできないようなみ力をあらわされ、憐れみ深い贖いを成就され、勝ち誇れる正義を下されるお方ーこれが私たちが単純にそしてざっと見るものです。その一つ一つを取って聖書のうちに見ていき、私たちの頭と心で味わってみましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 私たちは想像もできないようなみ力をあらわされるお方を信じる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
24節後半で、私たちは「主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる」と言います。イエス様のよみがえりを最初に持ってきているそのポイントは、17節のイサクが誕生するのに必要だった力と関係させているところにあります。17節のそれらの言葉をもう一度見てください。「彼[アブラハム]が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。」アブラハムは死者にいのちをお与えになり、無いものを有るもののようにお呼びになるお方を信じたのです。アブラハムが100歳で、彼の妻が不妊だったとき、イサクが生まれるという神のみ約束が、アブラハムにとっては直接の焦点でした。それは不可能でした。しかしそれこそがアブラハムの信仰を模範的なものとするのです。19節、「自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでここでパウロは、今日の私たちもこの同じ神を信じ、死人、つまり、私たちの主イエス・キリストをよみがえらせる神にある信仰、神が義と認められるような信仰を持つことができると、言います。私たちの主イエスを死人の中からよみがえらせられるお方、それが私たちの信頼するお方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はこれを「想像を超えた」力と呼びます。それはあなたがそれを想像できないかもしれないからではなく、信念であれ、信仰であれ、自然でないものは何もないという独特の自然主義があり、信仰という超自然的なものは実在しないという、今世紀の終わりに私たちは来ているからです。それは想像不可能だ、と彼らは言います。私たち抜きに存在される超自然の創造主を信じることなしに、すべてのものの起源を説明しようと努力する自然主義進化論は、この信仰の最も浸透した型です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし歴史を自然主義的方法で学ぶのもこの世紀に浸透しているものです。聖書学ではこの信仰は破壊的です。ルドルフ・ブルトマンが、この信仰についての最も有名な言葉を残しています。「死からのよみがえりに関わる歴史的事実は、まったく想像不可能である。」(カール・F・H・ヘンリー著、『神、啓示、そして権威』4巻[ウィートン、クロスウェイ出版社、1979年出版、1999年版]、333ページ)「想像を超えた」という私が引用した言葉は、ここから来ています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神が私たちの義とみなされる信仰は、想像を超えた力を持っておられるお方を信じる信仰です。ちょうどブルトマンがいうところの「想像不可能」、つまり死人をよみがえらせることを、主は成されます。主は人々ができるはずがないということを成されるのです。主は90歳の女性の死んだ胎からイサクを生まれさせました。そして主はイエス・キリストを死後3日目に墓の中からよみがえらされ、宇宙の主とされたのです。それゆえ神はいかなる約束をも成就されます。だから私たちは主を信頼するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. 私たちは憐れみに富む贖いを成してくださるお方を信じる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
25節の前半に注目してください。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され」、ここで見るべき主なものは、神がよみがえらされた方の死は、ご計画による死だった、ということです。神はただ単に想像を超えた力を発揮したいがために、死からよみがえらせるために、殺す人を見つけ出されたわけではありません。神ご自身がこの死をご計画になったのであり、それには目的があったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　25節の鍵となる二つの文章に、これを見ることができます。「(1)死に渡された、(2)私たちの罪のために」。イエス様は「死に渡され」ました。誰によってでしょうか?兵士によってでしょうか?ピラトによってでしょうか?ヘロデによってでしょうか?ユダヤ人の暴徒たちによってでしょうか?いいえ、最終的には誰によってでもありません。なぜなら主は「私たちの罪のために」引き渡されたと言っているからです。兵士やピラトやヘロデやユダヤ人が「私たちの罪のために」イエス様を引き渡したのではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 使徒2:23ではっきりとした、率直な答えが書かれてあります。「神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方」ー神が主を死に引き渡されたのです。ローマ８:３では、「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、」と言い、またローマ8:32では「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」と言います。ですのでイエス・キリストの死は神の意図だったのです。神が主の死をご計画になりました。主はただ死なれたのではありません。主は神によって死に渡されたのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこの計画には目的がありました(25節前半)。「私たちの罪のため」神のご計画は私たちの罪に対処するためでした。私たちの罪の問題を解決するために何かをしようとされたのです。何でしょうか?主は私たちが私たち自身の罪のために死ななくてもいいよう、身代わりの死を備えようとされたのです。そして唯一その問題を解決することのできる死が、ご自分の御子の死だったのです。ですのでローマ８:３では、「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」と言います。そうすれば私たちの罪が隠蔽されることがないからです。見逃されないからです。それは処罰されました。死刑に処せられたのです。しかし私たちが死刑にされたのではありませんでした。キリストが[死刑にされた]のです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようにして私たちはキリストの死によって贖われました。つまり、私たちは私たち自身の罪から救われたのです。地獄という処罰から救われました。神の裁きから身代金を支払って救われたのです。そして私たちはこの贖いのすべてを受けるにふさわしい者ではありませんでした。死んで地獄へ送られ、神の裁きを受けるに値する者です。でもこれは憐れみに富む贖いです。神はご自分の御子の死を通して私たちを私たち自身の罪から救うため、ご計画になったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 最後に、私たちは勝ち誇れる正義を全うされるお方を信じる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは想像を越える力を発揮され、憐れみに富む贖いを成され、そして今度は勝ち誇れる正義を全うされるお方を信じます。それはどういう意味で、またどこから取っているのでしょうか?私はそれを25節の後半から取り上げました。私たちの信じる神とはどなたでしょうか?それは「私たちが義と認められるために」、イエス様を死からよみがえらされたお方です。イエス様が私たちの罪のために死なれたとき、私たちが赦されるため、また義と認められるために足りる、十分な支払いが成されたという意味だと、私は受け止めます。それゆえ、キリストは私たちの罪のための代価を十分に支払って下さったので、主を墓の中に残しておくのは不当です。それゆえ神はキリストの贖罪と従順の完全さを立証するため、主を死からよみがえらせました。イエス様のよみがえりは、主がその死によって達成されたこと、つまり、私たちが義と認められるための支払いは完璧であった、という宣言なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは私たちは、以下のように言うことができるかも知れません。キリストが私たちの罪のために死んで血を流してくださったとき、ご自身を殺す罪の、贖いの代価を支払われたのです。それらの罪はすでに覆われ代価が支払われたので、イエス様が死んだままでおられる必要はないのです。主の死はひとえに、私たちの罪の代価を支払うためのものでした。それらが完璧に支払われたとき、主の死が保証する必要のあるものは、もう無いのです。主を墓に閉じ込めておくのは不当です。主は墓に居残ることができませんでした。「この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」(使徒2:24) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので私たちが信じるお方は、勝ち誇れる正義を全うされたお方です。イエス様のよみがえりは、それが死に打ち勝つので、勝利です。それは義がイエス様を死からよみがえらせるよう要求したので、勝利です。主は罪、つまり、主を死に至らせた罪の代価を、完全に支払われました。もし主を死に至らせた罪、私たちの罪の代価が、十字架上で完璧にまた完全に支払われたのなら、キリストの死の所以は、過去のものです。私たちの義認は完全に確保されました(信仰によって実行されていなくとも、確保され代価が支払われたのです）。ゆえにキリストが死んだままでおられるのは不当です。それは大義のない処罰になります。それゆえ神がキリストを死からよみがえらせるのは、義であり正しいことでした。それは勝ち誇れる正義だったのです(ヘブル13:20を参照)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 義と認められるためには、私たちは誰を信じなければならないのか ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では最初にあげた質問を持って、閉じたいと思います。義と認められるため、神と正しい関係にあるためには、私たちは誰を、あるいは何を信じなければならないのでしょうか?答えは、私たちは、1)ご自分の御子イエス様を、想像を超えた力を持って死からよみがえらされた、2)私たちを私たち自身の罪から救うため、ご自分の御子の死をご計画になり、憐れみに富む贖いを成就してくださった、3)ご自身の御子の死のうちに、私たちの義と認められる基盤が完璧に達成されたということを示すため、イエス様を死からよみがえらせることによって、勝ち誇れる正義を全うされた、神を信じなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので今日、主を信じてください。心を開いて、この想像を超えた力、憐れみに富む贖い、勝ち誇れる正義である、栄光の救いを受け入れてください。これを信じてください、神があなたの信仰を義とみなされます。主に間違いはありません。あなたはあなた自身のものでない義を受け、揺るぎない、永遠の岩の上に立つことができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
___ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 10 Mar 2017 20:30:02 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E6%A7%98%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%AD%BB%E5%88%91%E3%81%AB%E5%87%A6%E3%81%9B%E3%82%89%E3%82%8C%E3%80%81%E3%82%88%E3%81%BF%E3%81%8C%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</comments>		</item>
		<item>
			<title>神のご自身の御子に関する良い知らせ</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E3%81%94%E8%87%AA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E8%89%AF%E3%81%84%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「神のご自身の御子に関する良い知らせ」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|God's Good News Concerning His Son}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、ー2この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、3御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、4聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の義の立証  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先週私たちは1節から、パウロはキリスト･イエスのしもべ、つまりキリストによって買い取られ、所有され、支配される者である、ということを見ました。彼はキリストをお喜ばせするために生きます。そしてキリストが、パウロの率先した奴隷的労働に頼っているという、間違った考えを私たちが持たないように、パウロはキリストに仕えることで彼が成すすべてのことを、キリストに依存しているとローマ15:18で言うことに、注意すべきです。「私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。」言い換えれば、パウロはキリストがパウロにお与えくださる力によって、キリストに仕えるのです。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり」(マルコ10:45参照、1コリント15:10、1ペテロ4:11も参照)。パウロが仕えることでキリストが栄光をお受けになるため(1ペテロ4:11参照)、パウロはキリストがお与えくださる力によってキリストに仕えるのだということを、もし私たちが理解できないのなら、私たちはローマ書全体の意味を、最初から歪めることになります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この主権者であられ、すべてを備えてくださるキリストに、「使徒として召された」という次の一文で私たちは謁見します。キリストはダマスカスへの途上でパウロを召され、まことの教えを持って教会を立ち上げる、権威ある主の代行として任命されました。そして神の主権の、すべてをご計画されるみ手を、次の一文、「神の福音のために選び分けられ」、に見ることができます。神はパウロが生まれる前から選び分けられたと、ガラテヤ1:15で言います。神はご自身の福音の到来と啓示を、抜かりが無いほどに、熱心に実行されるお方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、今日はこの「神の福音」(1:1)という用語と、パウロがどのようにそれを2―4節で説いて行くかを見ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 「神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもの」  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福音は実現するはるか以前に計画されていたことを示されるほど、神は熱心なお方である、という私たちがたった今見たものと全く同じことを、パウロは最初に述べます。2節、「･･･神の福音のために選び分けられ[たパウロ]、･･･この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので」。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら3つのことを2節から考えて見てください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 神の福音は旧約聖書の成就である''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは新しい宗教ではありません。古い宗教の成就です。旧契約の神は新契約の神です。準備されお約束になったことを、主はイエス様の来臨により成就されました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) 神はお約束を守られる''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何百年もの歳月が過ぎました。ユダヤ人たちは、本当にメシアは来るのだろうかと怪しみます。彼らは壮絶な苦難を通されます。そして神は行動をおこされ、約束を成就されます。これは神は信頼できるお方であるということを意味します。あたかも主が約束をお忘れになったかのように見えるかも知れません。でも主はお忘れになりません。2節は、福音の内容の具体的な説明だけでなく、それを信じるべき理由でもあります。もしキリストが来られる何世紀も前に神がキリストをお約束になられ、その約束を詳細に成就されるということを私たちが見ることができたら、私たちの信仰が強められます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) これらは私たちが尊び信じるべき、聖い、霊感を受けた書物である''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2節の聖書の教理に関する非常に重要な意味に注目してください。まず、神がおられます。それから神が結ばれる約束があります。そして主のその約束を語る預言者たち(預言者たち「によって」ではなく、預言者たち「を通して」というところに良く注意してください。神がお語りになる方です)がいます。そして聖いと呼ばれる書物があります。なぜ聖いのでしょうか?他の書物と区別され、他に類のない貴重なものだからでしょうか?それは、その書物で語られるのが神だからです。2節を注意して読んでください。「神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもの」。神は聖書でお約束になったのです。神は聖書で語っておられます。それがその書物を聖くするのです。これがパウロの聖書についての理解で、私たちのものでもあるべきです。なぜ聖書は「聖書」と表紙に書かれてあるのか、不思議に思ったことがおありでしたら、ローマ1:2がその答えです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてローマ書の釈義でこの直接関連することを私たちが見過ごさないように、3つのことを思い出してください。(1) パウロはキリスト･イエスの弟子として、教会の設立者として、キリストに代わって権威を持って語り、書いているのだと１:１で自分自身を捉えています。言い換えれば、旧約時代の預言者の一人のようなものです(エペソ2:20)。(2) パウロは1コリント2:13で、「･･･人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。」つまり、パウロはこの教えは特別な霊感を受けたものだと主張しているのです。(3) 2ペテロ3:16でペテロは、ある「人たちは、聖書の他の箇所の場合もそうするのですが、それら[パウロ]の手紙を曲解し」ていると言います。ですからペテロはパウロの手紙を、私たちがここで読んでいる聖書と同じ部類に入れています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これゆえに説教は私たちが共に生きるのに、とても重大なものです。私たちはパウロのローマ人に宛てた手紙が、ただ単なる人のことばではなく、神のことばであることを信じます。福音は神によって霊感を受けて書かれた聖い書物のうちに約束されたもので、福音は神によって霊感を受けて書かれた聖い書物のうちに、私たちのために明らかにされ、保存されています。これが私たちが信じることで、それは真理、教理、説教、礼拝、そしてこの世のすべてに関する私たちの理解を大きく変えます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからパウロが神の福音について最初に言うのは、それははるか昔に計画され、予言されていたということです(1:2)。それは「神が預言者たちを通して、聖書において前から約束された」福音です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 「御子に関すること」  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二番目に神の福音について彼が言うのは(1:3)、主の御子に関することだということです。「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。」神の福音は、神の御子に関わりのあるものです。神の御子について２つのことを、この場で明らかにしなければなりません。そうでなければ、私たちは全く間違った方向に行ってしまう可能性があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 神の御子は人となられる前に存在しておられた''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ8:3を見てください。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、」。神は主を、人となるためにお遣わしになりました。ゆえに御子は人となる前に、神の御子として存在しておられたのです。これはキリストが、私たちが神の子らであるように(ローマ8:14、19)ではなく、とてもユニークなかたちで神の御子であられた、ということを意味しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) キリストご自身が神であられた''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ9:5で、イスラエルの特権に言及して、パウロは「父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼ら[つまり、イスラエル]から出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン」と言います。またコロサイ2:9でも、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」とパウロは言います。ですからパウロが神の福音とは御子に関するものであると言うとき、それは神であられ、以前から存在しておられた御子を、意味します。神の福音とは、神が人間の出来事をより良くアレンジされることに関するものではありません。それは人間の出来事に、み父の完全なみ姿であられ、ご本人も神であられた御子の人となりを通して、外部から入り込まれることに関するものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでまず、それが実現する以前に神によって約束、ご計画されたものであり、二番目に、それは御子に関するものである、と言うことによって、パウロは「神の福音」というものに、非常に重い重点を置いています。主権者なる宇宙の創造主は、この世にとって良い事がらをご計画になられていますが、このご計画の中心は、ご自身の御子です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 「･･･肉によればダビデの子孫として生まれ」  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが神の福音に関して三番目に言うのは、この神の御子は「肉によればダビデの子孫として生まれ」られた、と言うことです。これは二つのことを一度で述べています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 神の御子は人となられた''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主はお生まれになりました。主が成さなければならなかったみわざ、主の任務は、主が神のご性質を持っておられるのと共に、人の性質を持たなければならないものでした。神は人を一人お選びになり、その人をご自身の御子にされたのではありません。ご自身の、永遠の、唯一でたった一人の御子を、人とすることをお選びになったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) 主は旧約聖書のダビデ王の家系からお生まれになった''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜそれは神の福音の一部なのでしょうか?それはなぜ良い知らせなのでしょう?答えは、旧約聖書のすべての約束が、油注がれた者、ダビデの家系の王として支配し、神の民の敵を征服し、義と永遠の平安をもたらす、来るべきメシアにかかっていたからです。主こそ、神の約束のすべてが「しかり」となられるお方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
旧約聖書のいくつかの約束を考えて見てください。エレミヤ23:5、「見よ。その日が来る。ー主の御告げーその日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。」あるいは、イザヤ11:10、「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ神の福音は良い知らせで、何百年も後の今や、神はそのご計画と、イザヤ9:6―7で「主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、」と言われるように、ダビデの家系から王が出るという約束を成就するため行動を起こされました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので「神の福音」は、時が満ち、神の国が近づいた(マルコ1:14―15、「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」)という、良い知らせなのです。神の御子のこの世への来臨は、約束された王、「ダビデの子」の来臨です。主は国々を支配され、神の敵を征服され、義と平和を持って支配され、そしてイザヤ35:10によると、「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る」のです。それが3節の「神の福音」にするのです。ダビデの子としての神の御子の来臨は、主に贖われた者たちにとって、神のみ前でのとこしえの喜びを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方」  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは「神の福音」に関してもう一つ言います。それは実現する以前に計画され、約束されただけではありません。そして神の、以前から存在しておられた御子に関することだと言うことだけではありません。この御子が、旧約聖書の希望と義の夢と平和と神のみ国の喜びを成就するため、ダビデの子としてお生まれになったという知らせだけでもありません。4節で、パウロは痛烈で爽快なことを言います。神の御子は「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された」とパウロは言うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ私はそれが痛烈だと言うのでしょうか?パウロの時代のほとんどのユダヤ人は、メシアが権力と政治的支配で来られ、この世の横暴な支配者であるローマ人を倒し、エルサレムに地上の王国を確立し、主の民と共に勝利のうちに永遠に住むと、期待していました。しかしパウロが4節で言っているのは、３節と4節の間で、ダビデの子は死なれると言うことを意味します。主は死なれたのです! 主がメシアだと思っていた人々は、途方に暮れました。メシアは死にません。生きて征服し、支配する者です。捕らえられ、鞭打たれ、あざけりを受け、十字架にかけられ、自分の民を困窮に追いやりません。これはまったく衝撃的でした。(ルカ24:21、「しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。」) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは3章、5章、8章でキリストの死に戻ります。でもここでは、神の福音にある爽快な勝利を彼は即座に特筆します。この死なれたメシアは、4節でパウロが言うように、死からよみがえられました。これが神の福音の真髄です。そしてパウロはこのよみがえりに関して、二つのことを言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) この死からのよみがえりは、「聖い御霊による」もの''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは何を意味するのでしょうか? これは少なくとも二つのことを意味すると私は理解します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''a. 神の聖霊がイエス様を死からよみがえらせられた'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はこの手がかりを、「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト･イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」とパウロが言う、ローマ8:11から得ています。これは、キリストがよみがえられたように、私たちのうちに住まわれる神の御霊によって、私たちもよみがえるということを教えています。ですから御霊はイエス様の死からのよみがえりに関わっておられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''b. でもなぜパウロは(新約聖書のどこにも見当たらない)、「聖い御霊」というこの奇妙な表現を用いるのか?'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下は私の意見です。死者を扱うというのは、汚れた仕事でした。サウル王が死者と交信しようとしたとき、エン･ドルの魔術師のところへ行きましたが(1サムエル28:7)、それは秘密であり、律法に反する商用でした。霊媒師や占い師や魔術師は、イスラエルでは忌み嫌われた者たちでした。死者が出ると、[死体を]放っておいて一切関わりを持ちませんでした。降霊術は当時、そして今でも信者にとっては不法です。死者を扱うというのは、美しくない、清くない、聖でもない、ある種の黒魔術です。他でもない死刑で死んだ人が死からよみがえったという話など、多くの者の耳に実にひどい、気持ち悪い、汚れた、不潔な、邪悪な霊媒や黒魔術のように聞こえたに違いありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これと比べて、パウロは全く逆のものに強調をおきます。キリストは、暗闇の霊や悪霊や、あるいは穢れた霊ではなく、聖さで言えばすべてにまさる、まさに神ご自身の霊、聖い御霊によって死からよみがえられました。御霊ご自身はイエス様をよみがえらせることによっては汚れませんでした。それ自体聖なることだったのです。それは正しく良いことで、美しく、神を軽くあしらうことではなく、神をたたえることでした。聖いことだったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) このよみがえりにより、キリストは「大能によって公に神の御子として示された[あるいは、定められた]」''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでの鍵となるフレーズは、「大能によって」です。NASB訳や欽定訳やRSV訳はこのフレーズが「神の御子」を修飾するよう表現しているところで、正しいと思います。&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;ポイントは、キリストはよみがえられる以前は神の御子ではなかった、というものではありません。キリストはよみがえられたとき、卑しい、人間の限界と弱さのうちに神の御子であられたところから、力ある神の御子に移行された、というのがポイントです。鍵となるフレーズは、「力ある」です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが、イエス様がよみがえられた後、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(マタイ28:18)と言われる意味です。それがパウロが1コリント15:25―26で、よみがえりのキリストを言うときに意味するものです。「キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。」言い換えれば、イエス様は救世主的王であられます。主は現在、全世界の上に君臨しておられます。すべての敵をその足元に置いておられます。主がその目に見えない支配から目に見える栄光をもって一気に飛び出して来られ、主のみ国をこの地上に公にそして見事に確立される日がやって来ます。それがパウロが意味する「力ある神の御子」です。主は現在支配しておられます。主はご自身の御霊とご自身の教会を通して、ご自身のみ旨を成しておられます。そしてキリストがすべての敵を打ち破られ、すべての者が膝をついて、父なる神がほめたたえられるために、キリストは主であると、告白する日がやって来ます(ピリピ2:11)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが神の福音の完了です。それに対し私たちは、「アーメン、主イエスよ、来りませ」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
____ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 日本語訳では、新共同訳聖書で、「聖い霊によれば死人たちからの復活によって力ある神の子と定められた方、」と訳されている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 27 Jan 2017 21:01:05 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A5%9E%E3%81%AE%E3%81%94%E8%87%AA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E8%89%AF%E3%81%84%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B</comments>		</item>
		<item>
			<title>あなたのみおしえのうちにある奇しいこと</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%8A%E3%81%97%E3%81%88%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%A1%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E5%A5%87%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%A8</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「あなたのみおしえのうちにある奇しいこと」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Wonderful Things from Your Word}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の啓示を切実に必要とする私たち ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先週この節から私たちが見た３つのポイントは、1)神のみことばのうちには素晴らしい事がらがある。2)誰も神の助けなしに、この素晴らしい事がらが実際に何であるかを見ることはできない。3)それゆえ聖書を読むとき、私たちは神の超自然の啓示を祈らなければならない、ということでした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので先週強調したのは祈りと、私たちは霊的事がら、つまり、神の栄光と美しさと素晴らしさを見させてくれる、神の超自然の啓示を切実に必要としている、ということでした。神が目を開いてくださらなくとも、みことばの前に来るとき私たちは多くのことを見ることができます。単語と文法構造を見ることができます。論理的な関係を見ることができます。史実を見ることができます。著者の合理的意図を見ることができます。人間の感情を見ることができます。これらすべては、神が特別に霊的な方法で目を開いて下さらなくてもできることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし見ることができないのは、神と御子の霊的美しさとこの世でのみ業です。神がすべてのものにまさって無限に魅力的であることを見ることはできません。盲目の人は、太陽に関する多くの事実を知ってはいても、また天文学のテストで、太陽を見ることができる人よりいい成績で合格したとしても、太陽を見ることはできません。知ることと見て理解することは、同じではありません。はちみつが甘いのを知ることと、はちみつを味見することは同じではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神の特別な、救いに至る啓示なしの、私たちの状態を最大限に描いている、パウロの描写をもう一度読ませてください。エペソ4:17後半―18でパウロは、もし私たちが霊的現実を見るとしたら、神のご介入が必要なほどひどい人間の、５つの特徴に触れています。異邦人(言い換えると、恵みから離れた、諸国民のうちのごく普通の世界の人々)は、「むなしい心で歩んで」おり、「その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れてい」ると、彼は言います。逆に読むと、神の深い恵みなしには、私たちすべてのもののうちには、知性といのちを無意味にする、暗闇にいたる、神から遠く離れさせる、無知にいたるかたくなな心があるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて先週のポイントは、もし神のみことばのうちにある素晴らしい事がらを私たちが見ることができる望みがあるのであれば、それは私たちが生まれながらに持っていない、神の超自然の能力を、神に授からなければならない、ということでした。ですので私たちは、「私の目を開いて下さい」と祈らなければならないのです。そして神のうちに生き続け、私たちが現実に、本当に、夢中で主を愛するためにはこの権能を授からなければならないと、毎日必死に求めなければならないのです。ですから祈り、祈り、祈りです。詩篇119篇を読んで、筆者が神と主の道を知ることで、どれほど主の助けを祈っているか、見て下さい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 見ることとはなること ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日は、違うポイントがあります。でもそのポイントを述べる前に、なぜそれが重要なのかを皆さんに気づいていただきたいと思います。イエスの似姿に変えられることは、神と御子の美しさ、尊さ、素晴らしさと、そのみことばとみ業を見ることによって、起こります。2コリント3:18でパウロは、「わたしたちはみな、顔のおおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; と言います。見ることとは、なることなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これこそが神をたたえる、自分の態度を変える唯一のクリスチャンの方法です。私たちは卓越した美しさと尊さと素晴らしさを見たので、変えられるのです。もしキリストの御顔を見たうえで、スポーツ・イラストレーテッド &amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; やグラマー &amp;lt;sup&amp;gt;4&amp;lt;/sup&amp;gt; を見て、キリストの卓越した美しさや尊さ、素晴らしさ、望ましさに動かされないのなら、あなたの思いはかたくなで、盲目で、無知です。「あなたのみことばの奇しいことがらが見えるように、私の目を開いてください!」と泣き叫ばなければなりません。あなたの人生がそれを現します。あなたの宝のあるところ、つまり、あなたの願望、喜び、美しさに、あなたの心、つまり、あなたの夕方[趣味]、土曜日[休日の過ごし方]、そしてお金があるからです。私たちは、神のみことばのうちにある神の栄光を見ることによって、変えられます。もし神があなたにとって、この世の輝きと栄光よりさらに栄光のあるお方で、さらに迫り来るお方でないのなら、あなたは主を見たことがありません。3ヨハネ11は、「悪を行う者は神を見たことのない者です」と言います(1ヨハネ3:6も参照)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので、神をたたえる、霊的価値のある真の人生の変化は、宗教上の行儀作法のリストを作ってそれらを真似ようとすることから来るのではなく、神の栄光を見ることから来るので、このすべてが重要です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神はキリストの美しさを、ご自身のみことばを通してあらわされる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日のみことばからのポイントは、神はキリストの美しさと素晴らしさを、神のみことばをのぞき込む者だけにあらわされる、ということです。本当の霊的変化は、聖書を読み、じっくり考え、暗唱することから来る、というのはこのためです。規則を守ることを学ぶことからではありません。そこが主がキリストの美しさと素晴らしさを現されるところだからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでもう少しはっきり言わせてください。たとえば、私たちが変えられるためには神の栄光を見なければならないのですが、心が死んでおりかたくなで、盲目なために見ることができず、それゆえ私たちは神に、私たちを生き返らせて、柔軟にし、目を開いて下さいと祈らなければならないという、先週のメッセージを聞いたとします。そしてあなたが、ふーん、それならばどうせただの人間は論理的思考では見なければならないものが見えないのだから、聖書を学んだり読んだり暗唱するのではなく、私は祈りに徹しなければならない、と結論付けたとします。このみことばから私が語ったことからそのような結論を引き出すのは、とんでもないことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ポイントは、神は私たちがみことばを見ているときに、みことばのうちにある神のご栄光を見ることのできる、盲目の目を開いてくださる、ということです。たとえばあなたはグランドキャニオンの壮大さを見たいのですが、盲目であったとします。そしてたとえば、神があなたに、私のところに来てわたしを呼び求めれば、あなたの目を開いてグランドキャニオンの壮大さを見させてあげよう、と言われたとします。あなたはアリゾナからフロリダに移って祈りますか?あるいは神が下さった筋肉と感覚を使ってグランドキャニオンに行き、神がお約束になった方向に目を注ぎますか?要するに、もしあなたがエバーグレーズの側に住むことにこだわるなら、あなたがたとえどんなに祈ったとしても、主はあなたにグランドキャニオンの壮大さを見させてくださいません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
別の言い方をさせてください。神は、目を開く主の霊のみ業が、頭に伝達する主のみことばの働きと絶えず結びつくよう、定められています。主のみむねは、私たちが御子の栄光を見ること(そして変えられること)です。ですので主は私たちがドラマやセールのチラシを見ているときではなく、御子を見ているときに、私たちの目を開いて下さいます。神のまことの霊的自己啓示方法において、御霊のみ業とみことばのわざは絶えず同時に起こります。御霊のみ業は、私たちの思いがみことばのうちに見る、栄光と美しさと価値を見させてくださることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが神の御霊から必要なのは新情報である、と勘違いしてはいけません。私たちが理解できあるいは楽しむことができる以上に、何千倍もの神についての情報が、聖書にはすでにあります。私たちが必要なのは、心の目で見ることです!みことばのうちに私たちが見る、御霊によるキリストのどんな追加情報も、私たちをさらに霊的にすることはありませんし、神をお喜ばせするわけでもありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえば御霊が、不妊症を抱えたあなたの友達が妊娠すると、あなたに新たな情報を啓示したとします。あなたがそれを彼女に伝えて、それが実際に起こったとき、あなたと彼女は預言と妊娠の奇跡に興奮し感激します。あなたは霊的に何を得たでしょうか?何も得ていません。あなたがみことばに向き、心の目で、聖書に描かれているキリストの栄光と美しさ、罪人を救うため、そしてそれゆえあなたを恵んでくださった神に栄光をお返しするため、十字架に掛けられよみがえられた、ナザレ人イエスを見ない限り、[何も得ないの]です。奇跡を目の当たりにした宗教的興奮は自然に起こるものであり、霊的あるいは超自然的次元を必要としません。霊的賜物は尊いものですが、もっと無限に重要なのは、私たちがみことばにキリストの栄光を見るようになる、聖霊の目を開いてくれる明かりです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが必要なのは新情報ではありません。神のみことばのうちにすでに啓示されていることがらを見る、新しい目が必要なのです。私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 祈ってあてもなくさまよってはいけない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに関連することがらをいくつか説明させてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず第一に、目が見えるように祈るとき、あなたは頭を中立の状態に設定してはいけません。祈りの必要不可欠さを、神のみことばに注目した思いの必要不可欠さという意味であると思い込んではいけません。キリストの栄光を見るため祈るとき、頭の中であてもなくさまよったり、惰走してはいけません。ただ何もせずに待ってはいけません。それは大きな間違いで、東洋精神文化から来るもので、聖書から来るものではありません。キリスト教がユニークなのは、それが史実に基づくもので、特定であるからです。イエス様は実際にある時と場所に実在されました。神のご計画は、聖書にあらわされているこの特定の人物の霊的美しさと尊さを見る目を開くことです。もし見えるよう祈りながら、頭の中であてもなくさまようと、それを見ることはありません。ですので、祈ってあてもなくさまよってはいけません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ではどうすればいいのでしょうか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1. 祈って読む''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
みことばを読んでください。何という光栄でしょうか!また何という義務でしょうか!そして神を見ることができるという、何という素晴らしい可能性でしょうか!エペソ3:3後半―4を見て下さい。「この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです」とパウロは言います。あなたが読めば、です!神は、読むことを通して最も素晴らしいいのちの奥義が分かるよう、定められたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから1:18でパウロが、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか…知ることができますように」と言っているのと比べてください。それゆえエペソ3:4は、奥義は読むことによって知ることができる、と言うのです。また、エペソ1:18は私たちが知るべきことを知るためには、祈りの答えとして私たちの目が開かれなければならない、と言います。そうです、私たちは祈らなければなりません。そうです、神のみ助けなしには私たちは盲目です。さて今週のポイントは、私たちは読まなければならない、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。」祈ることが読むことに取って代わることは不可能です。祈ることで読むことを見ることに変えることは可能です。しかしもし私たちが読まないなら、見ることはありません。聖霊はイエス様に栄光をお返しするために遣わされ、イエス様の栄光はみことばに描かれています。読んでください。読むことができることを、喜んでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 祈って学ぶ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2テモテ2:15、「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め(あるいは欽定訳では「学び」)励みなさい。」神は私たちが古い、いい加減な方法で、好きなように読むために、ご自身に関する本を私たちにお与えになったのではありません。パウロは、「真理のみことばをまっすぐに説き明かす…よう、学び励みなさい」と言います。それはもしみことばから最大限のものが欲しいのなら、それに取り組みなさい、という意味です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
振り子は前後に揺れます。ある人は、ひたすら祈って、非霊的な、勉強と言う人間の努力に頼るなと言います。ある人は、神は祈りのうちにはみことばの意味を教えてくださらないから、ひたすら勉強しなさいと言います。しかし聖書はこの両分とも何の関わりもありません。私たちは神のみことばを学び、まっすぐに説き明かさなければならないですし、祈らなければなりません。でないとみことばのうちに、不可欠なこと、つまりキリストのみ顔にある神の栄光を見ることはありません(2コリント4:4、6)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
偉大な聖書の勉強家、ベンジャミン・ワーフィールドは、1911に自身の著書でこう書いています。「10時間本の前で格闘するより、10分ひざまずいて祈るだけで、より正しく、深く、より適切な神の知識を得ることができる、というのを時々聞くことがある。『何と!』というのが『10時間ひざまずいて本の前で格闘する?』より、適切な反応である。」(『神学生の信仰生活(The Religious Life of Theological Students)』マーク・ノル編集, プリンストン神学, [グランド・ラピッズ、ベーカーブックハウス出版, 1983年], 263ページ)。これは聖書的霊を正しくとらえています。そうです、私たちは祈らなければなりません。神が目を開いてくださらなければ、私たちは主のみことばのうちにある素晴らしい事がらを見ることはありません。しかし祈りは学びにとって変わることはできません。なぜなら、「みことばをまっすぐに説き明かすよう…学び励みなさい」とパウロは言うからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3. 祈って徹底的に探索する''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書に対する私たちの取り組み方は、ゴールドラッシュ &amp;lt;sup&amp;gt;5&amp;lt;/sup&amp;gt; のけちん坊たち、あるいは家のどこかで婚約指輪を無くした婚約者のようであるべきです。彼女は家中をくまなく探し回ります。そのようにして、私たちは聖書にある神を求めるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
箴言2:1-6はこう言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、2あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、3もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、4銀のように、これを探し、隠された宝のように、これを探り出すなら、5そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。6主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
受け入れ、たくわえ、耳を傾け、心を向け、呼び求め、声をあげ、銀を求め、隠された宝を探すーこれは聖書を価値あるものとして徹底的に探し回ることです。もし隠された宝があるのなら、それがあるように行動してください。銀があるのであれば、それがあるように行動してください。なんとしてでも祈ってください(3節で言うように)、でもくまなく探し回ることを祈りに置き換えてはいけません(エレミヤ29:13)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4. 祈って考える''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2テモテ2:7を考えて見て下さい。NASB訳 &amp;lt;sup&amp;gt;6&amp;lt;/sup&amp;gt; は「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。」と言います。直訳では、「私が言っていることをよく考えなさい(noei)」です。パウロの教えを理解することは、考えるという人間の、自然の企てだということでしょうか?いいえ。節の後半で、「主が理解する力を与えてくださる」と言っています。あなたが自分の力で見るのではありません。霊的理解力は神の賜物です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は私たちに考えることを通して超自然の光の賜物をお与えくださるよう、定めておられます。「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。」ですので何としてでも祈り、あなたが必要とする光をお与えくださるよう、神に求めてください。でも祈ることを、考えることと取り換えてはいけません。考え、祈って下さい。これが神がお定めになったやり方です。史実に基づくキリスト。保存され啓示された書物。それらすべて、読んで勉強して徹底的に探し回って考えよ、と言うのです。しかしこれらすべて、祈りなくしては無意味です。両者であって、どちらか、ではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5. 祈って語る''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は、書かれたみことばが主の民の説教において、また相互の奨励、戒め、警告、励まし、助言において、話し言葉になるよう意図されます。コロサイ3:16は、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、」と言います。キリストのことばが私たちにとって、私たちお互いのことばとなるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は説教します。これは神のみことばが繰り返し新たに布告されるようにとの、主のみこころです。そして皆さんは神のみことばを互いに語り合います。私たちに対する神のみことばを、私たちを通しての神のみことばにするーこれがこの教会がスモールグループを持つ、基本的理由の一つです。みことばを互いに語り合って下さい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはスモールグループの時に祈らなくていいということでしょうか?私たちが確信を持って、あるいは説得力のある議論を持って、あるいは創造的言い回しや言葉遣いを持って語っているので、神のみことばのうちにある素晴らしい事がらを見る目を、何とか開くことができる、と言うことでしょうか?パウロはそう教えているわけではありません。同じ書簡(コロサイ1:9-10)で彼は祈ります。祈るんです!「私たちは…絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしキリストのことばが私たちのうちに豊かに住まわれるとき、神を知ることと霊的知恵と理解力を得ることが自動的に起こるのであれば、パウロは神が私たちにそれをお与えくださるよう、熱心に祈る必要はないはずです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== みことばと祈りは一緒 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、もし私たちが神のみことばのうちにある神の栄光を見るのには、祈りが必要不可欠である、ということを私たちは繰り返し見てきました。それと同時に、みことばを読むこと、学ぶこと、徹底的に探し回ること、考えること、語ることも必要であることを見てきました。御霊が目を開くみ業は、必ず主のみことばが頭に伝達する働きと連結するよう、神はお定めになっています。主のみむねは私たちが神の栄光を見、神の栄光を映し出すことです。それゆえみことばのうちにある神の栄光を私たちが見ているとき、主は私たちの目を開いてくださるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
読み、学び、徹底的に探し回り、考え、語り、聞いてください。そして、「私の目を開いて下さい。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」と祈って下さい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(更なる熟考のために、以下、ルカ24:45、使徒16:14、2列王記6:17、マタイ16:17、11:2-6、11:27参照。) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
____ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 口語訳聖書、1955年版引用。新共同訳、新改訳と比べ比較的ESV訳に近いと判断し、口語訳聖書引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; スポーツ誌 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;4&amp;lt;/sup&amp;gt; ファッション誌 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;5&amp;lt;/sup&amp;gt; 一攫千金を狙う採掘者たちが殺到すること &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;6&amp;lt;/sup&amp;gt; New American Standard Bible訳。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 20 Jan 2017 20:44:03 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%8A%E3%81%97%E3%81%88%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%A1%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E5%A5%87%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%A8</comments>		</item>
		<item>
			<title>お金をもって神をたたえる</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%8A%E9%87%91%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A6%E7%A5%9E%E3%82%92%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%88%E3%82%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「お金をもって神をたたえる」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Magnifying God with Money}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。33持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。34あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
礼拝の内なる本質は、神をすべてのものにまさる無限に価値あるお方として宝とすることです。礼拝の外なる形は、私たちが神をどれほど宝としているかを見せる行為です。それゆえ人生のすべてが礼拝であるべきです。それは神が食べるのにも飲むのにも、何をするのにも、人生のすべてにおいて、神の栄光が自分にとっていかに価値あるものであるかを見せるために、すべてのことをしなさい(1コリント10:31)、と言われるからです。お金と物は人生の大きな部分を占めますが、それゆえ神は、人生のすべてが礼拝であるべきであるので、それらのお金と物が礼拝の大部分を占めるよう意図されます。ですから自分のお金と自分の所有物であなたが礼拝をささげる方法が、あなたがどれほどお金ではなく神を宝としているかを見せる方法、またそれらを得、それらを用い、それらを失う方法です。それがこの聖書箇所が言っていることです。ですからこれは礼拝についての聖書箇所です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが日曜の朝、ここに集まってする、共同礼拝と言うものは確かにあります。礼拝の本質は、神を無限に価値あるお方として心の内で宝とする、また礼拝の型は、心の内で神を宝とすることを表現する行為(神のみことばを語ることと聞くこと、祈ること、賛美すること、ささげること、主の聖餐にあずかること、等々)、と言う同じ定義が、他のすべての箇所でも含まれているように、ここでも含まれています。ここベツレヘム教会でする共同礼拝の行為の一つが、私たちの呼ぶところの「献金」、つまり、私たちの共同礼拝の中間点あたりで、お金をもって、それを自分の手や銀行から手放し、宣教やキリストの奉仕に移す、と言うものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この共同礼拝での特定の礼拝の行為は、私たちが毎日、お金を稼ぎ、費やし、貯め、捧げるという、お金で礼拝をする大きなパターンの、ごく小さな一部です。今日の聖書箇所である、ルカ12:32―34は、私たちが自分のお金でどのように礼拝するかの大きなパターンと関係があり、それゆえ、共同礼拝で私たちが自分のお金で何をするかと言うことにも暗に関係します。それではこの聖書箇所の主な要点をいくつか見ていき、私たちの一般的な人生と、特に共同で捧げると言うことに適用させて行きましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 恐れてはならない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この聖書箇所の最初のポイント(32節)は、神が、お金と物に関しては恐れてはならないと、私たちにご命令になることです。心配してはならない、恐れてはならない。「恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」しかしそれ以上に深いポイントを、別の方法で言うことができます。神がお金と物に関して私たちに恐れて欲しくないのは、それがご自身についての５つの素晴らしい事がらをたたえるからです。恐れないことが、この神に関する5つの事がらを私たちがどれほど宝としているか、と言うことと呼応するからです。言い換えると、恐れないことは、礼拝の内なる美しい行為となるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず第一に、恐れないことは、私たちが神を私たちの羊飼いとして宝としている、と言うことを示します。「小さな群れよ。恐れることはない。」私たちは主の群れで、主は私たちの羊飼いです。もし主が私たちの羊飼いであられるのであれば、詩篇23篇が当てはまります。「主は私の羊飼いであって、私には乏しいことがありません。」つまり、私は自分が本当に必要なものに欠くことがないのです。恐れないことは、私たちの羊飼いの尊さをたたえます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、恐れないことは、私たちが神を自分の父として宝としていることを示します。「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」私たちは主の小さな群れで、主の子どもたちでもあり、そして主は私たちのみ父です。30節からもその意味の深さは明らかです。「これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。」言い換えると、あなたの父はあなたのことを本当に気にかけておられ、何があなたに必要で何があなたにとって最善であるかを本当に知っておられ、あなたにその必要なものを必ず与えられます。(神が私にとって何が必要だと考えておられるかを学ぶ代わりに、神に自分が「必要」と思うものを与えるよう指示しないよう用心して下さい!) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三に、恐れないことは、私たちが神を自分の王として宝としていることを示します。「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」主は王であられるので、私たちに「御国」を与えることがおできになります。これは私たちにお与えくださる方の、とてつもなく大きな力の要素を増大します。「羊飼い」は守りと供給を暗示します。「父」は愛と優しさと権威と供給と導きを暗示します。「王」は力と主権と富を暗示します。ですから私たちは神を、羊飼い、父、そして王として信頼し、お金や物のことで恐れたりせず、そうやって神がこれらすべてのことにおいて、私たちにとっていかに本当で尊いかを示すのです。神は[そのようにして]礼拝されます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第四に、恐れないことは、神がいかに自由で惜しみなく与えられるお方であるかを示します。「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」主が御国をお与えになることに注目して下さい。主は御国を売ったり、貸したり、賃貸に出したりはされません。お与えになるのです。主は無限に富めるお方で、私たちからの支払いを必要とはされません。私たちが主にささげようとするものすべては、結局は主のものです。「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか」(1コリント4:7)。それゆえ神は惜しみなくお与えくださる方で、その気前の良さは縛られることがありません。恐れず、自分の必要を主に信頼するときに、私たちは主をたたえるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、恐れないことは、私たちが神を幸せとして宝としていることを示します。「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」それは「喜び」なのです。あなたに御国を与えることは、主の「喜び」なのです。主はそうされたいのです。それをすることを喜びとされるのです。私たちのすべてにこのような父、物を与えることを喜びとする、受けるより与えることで幸せを感じる父がいるわけではありません。しかしそれは重要ではありません。なぜならあなたは今やそのような父、羊飼い、王を持つことができるからです。イエス様の和解のみわざを通して、主を自分の父として信頼してください。そうすれば主があなたの父であることを発見します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ということでこの聖書箇所の第一のポイントは、私たちは神を、惜しみなく与えられる、神のみ国を喜んで私たちに与えてくださる、天の御国をお与えくださり、永遠のいのちと喜びをお与えくださり、御国へ行くために必要なもののすべてを私たちにお与えくださる、自分の羊飼い、父、王として宝とすべきである、と言うことです。もし私たちはこのように神を宝とするなら、私たちが主を信頼するなら、私たちは恐れを知らないものとなり、神は礼拝されます。これがこの残りの聖書箇所と、この説教の土台です。この約束のゆえに、来るべきことが可能なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 蓄積よりむしろ、質素さに向かった勢い ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二のポイントはこれです。神にこのように信頼することは、蓄積というものよりむしろ、質素さに向かう強い勢いを伝えます。33節、「持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「持ち物を売って」ということばにしばらくの間注目してください。主は誰に語っておられるでしょうか?22節にその答えがあります。「それから[イエス様は]弟子たちに言われた。」これらの人々は概して、裕福ではありませんでした。彼らは沢山の持ち物を持ってはいなかったのです。しかしそれでもなお、主は「持ち物を売りなさい」と言われます。どれほどの持ち物を売りなさいとは言われません。ある金持ちの役人に対してイエス様はルカ18:22で、「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。その上で、わたしについて来なさい」と言われます。あなたの持ち物を全部売り払いなさい。ザアカイがイエス様に出会ったとき、彼は主に(ルカ19:8)、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」と言います。ザアカイは自分の持ち物の50パーセントを売り払ったのです。使徒4:37では、「[バルナバは]畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」と言います。バルナバは持っていた土地の少なくとも一つを売り払ったわけです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから聖書は持ち物をどれほど売りなさいと私たちに言いません。でもなぜ持ち物をとにかく売りなさいと言うのでしょうか?なぜでしょう?施しをするというのは、生活に必要不可欠なものがない人、福音(永遠のいのちに必要不可欠なもの)を聞いたことがない人に愛を示すため、自分のお金を用いることですが、それはもし自分に固定資産がなかったら、施しができるよう何かを売ってでもする必要があるほど、とても重要なことです。しかしそれではこの文脈の中でそれが何を意味しているかを考えて見てください。この弟子たちは、自分のお金がすべて担保や不動産に縛られているような現金不足の金持ちではありません。そのような人たちのほとんどは実際、比較的安定した貯蓄があります。でもイエス様は、「自分の貯金をおろして施しをしなさい」とは言われません。「何かを売って、施しをしなさい」と言われるのです。なぜでしょうか?単純に想像できるのは、彼らが施しをできるほどの現金を持たないほどギリギリの生活をしており、何かを売らなければ施しができなかったからです。イエス様はご自身の民に、蓄積にではなく、質素に向けて進んで欲しいのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではポイントは何でしょう?ポイントは、蓄積よりむしろ質素に向かっているクリスチャン生活のうちに、力強い勢いがあると言うことです。その勢いは、自分の持ち物を宝とする以上に、神を羊飼い、父、王として宝とすることから来ます。そしてその勢いは二つの理由で強いのです。その一つは、イエス様が、「裕福な者(直訳ー物を持っている人)が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」(ルカ18:24)と言われるからです。ルカ8:14で、イエス様は神のみことばが富によって「ふさがれる」と言われます。でも私たちは物を所有することよりも、大抵の場合、御国に入りたいと思います。神のみことばが私たちの人生でふさがれてしまって欲しくはありません。ですので蓄積より、質素さに強い勢いがあるのです。もう一つの理由は、神の尊さをこの世にあらわしたいと私たちが思うからです。イエス様はここで私たちに、持ち物を売ることと施しをすることが、神がまことで尊い羊飼い、父、そして王であられることを示す一つの方法である、と言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と言うことで、第二のポイントは、神を羊飼い、父、王として信頼することは、蓄積よりむしろ質素さ向かうことに強い勢いがあると言うことを伝える、と言うことです。そしてこれは心の内側の隠れたところから、神の栄光のためのもっと目に見える表面に礼拝をもたらします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 自分の宝を地上ではなく、御国で最大限にする ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この聖書箇所の第三のポイントは、お金の目的は、自分の宝を地上ではなく、御国で最大限にすることです。再び33節、「持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。」他者の必要を満たすために自分の持ち物を売ること(この節の前半)と、自分の宝を天に積み上げること(この節の後半)のつながりは何でしょう? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つながりは、古くならない財布を作る方法と朽ちることのない宝を天に積み上げる方法は、他者の必要を満たすために自分の持ち物を売ることであるようです。言い換えると、愛のためにこの地上で質素になることが、自分の喜びを天で最大限にすることなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この過激なポイントを見逃さないでください。これがイエス様が絶えず考えられ、お語りになる方法です。天を常に思う思いは、この世では過激な愛という違いを生み出します。天の宝の方が、この世でお金を積み上げることより重要であると強く確信する人々は、質素な生活を送って他人に仕え、質素で仕えることを絶えず夢見る人々です。そういう人々は与えに与えます。もちろんそのような人々は、パウロがエペソ4:28で「かえって、困っている人に施しをするため、･･･ほねおって働きなさい」と言うように、働きに働きもします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
礼拝とのつながりは、以下の通りです。イエス様は私たちに、天に宝を積み上げなさいと命じられました。つまり、神にある自分の喜びを最大限にする、と言うことです。他人のために持ち物を売って、質素になることによって、それをするのだと主は言われます。それゆえ神にある自分の喜びを最大限にしたいという私たちの切なる願いによって、主は私たちに質素になって仕えるよう、励まされます。それは私たちのお金の用い方が、私たちがお金と物以上に神のうちにいかに喜んでいるか、ということをあらわすことを意味します。それが礼拝なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== あなたの心は、あなたが大切にするものによって動かされる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この聖書箇所からの今朝の最後のポイントは、あなたの心はあなたが大切にするものによって動かされ、神はあなたに主に動かされて欲しいと願われている、と言うことです。34節、「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」これは私たちが朽ちることのない宝を天に追求すべきであるその理由として、あげられています。「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」もしあなたの宝が神のおられる天にあるのなら、あなたの心もそこにあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この単純なように思える節は、本当は何を言っているのでしょうか?この「宝」ということばを、「大切にしている何か」と言う意味として私は受け取ります。そして「心」と言うことばを、「[何かを]大切にする器官」と言う意味として受け取ります。ということで、この節を以下のように読むことができます。「あなたが大切にするものがあるところに、それを大切にするあなたの器官がある。」もしあなたの大切にするものが天におられる神であるなら、あなたの心は天におられる神と共にあります。あなたは神と共にいることになります。しかしもしあなたの大切にするものがこの地上のお金や物であるなら、あなたの心はこの地上にあります。あなたは神から切り離され、地上にいることになります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それがイエス様がルカ16:13で、「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と言われるときに、意味しておられることです。富に仕えるというのは、お金を大切にし、お金がもたらすあらゆる利益を追求することをです。心はお金を求めます。しかし神に仕えるというのは、神を大切にし、神が与えることがおできになる益のすべてを追求することを意味します。心は神を求めます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神を大切にする心と、すべてのものにまさる宝として主を求めること、それが礼拝です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 献金ー礼拝行為 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この４つのポイントを、私たちが呼ぶところの「献金」と言う共同の礼拝行為と簡単に関連させて、終わらせます。この礼拝での時間とこの行為[献金]は、量に関わらず、あなたにとって礼拝です。やもめの一硬貨から億万長者の数千ドルまで、捧げることによって、1)神よ、他者の必要を供給するためのお金が十分にないときでも恐れないように、私はここで、あなたを喜んで惜しみなく与えてくださる羊飼い、父、王として信頼します。2)私はここで、もっと蓄えよと言う私たちの文化の凄まじい圧力を拒否し、他者のために質素になるその勢いと運命を共にします。3)私はここで、神にある自分の喜びを永遠に最大限にするため、この地上ではなく天に宝を積みます。4)この献金で私は、自分の宝が天にあるので、私の心は神を求めるのであると、宣言します。ーと心から祈るなら、それはあなたにとって礼拝です。 ____ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 19 Jan 2017 20:17:42 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%8A%E9%87%91%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A6%E7%A5%9E%E3%82%92%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%88%E3%82%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>イエス様と共にはずかしめを身に負って行こう</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E6%A7%98%E3%81%A8%E5%85%B1%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%81%9A%E3%81%8B%E3%81%97%E3%82%81%E3%82%92%E8%BA%AB%E3%81%AB%E8%B2%A0%E3%81%A3%E3%81%A6%E8%A1%8C%E3%81%93%E3%81%86</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「イエス様と共にはずかしめを身に負って行こう」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Let Us Go with Jesus Bearing Reproach}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。13 ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。14 私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。15 ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。16 善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 快適さにではなく、必要に向かって進む ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヘブル13:12―16のポイントは明快です。クリスチャン、快適さにではなく、必要に向かって進みなさい!快適さにではなく、必要に向かって進みなさい! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちに対する召しの中心は13節です。「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」すなわち、イエス様とともに、快適さに向かってではなく、必要に向かって進みなさい、ということです。この13節の命令は、イエス様の死、それがどのように起こり、そして何を達成したかと言うことに基づいています。12節、「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために[達成されたもの]、門の外で苦しみを受けられました[どのように起こったかと言うこと]。」「ですから、私たちは、･･･宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」言い換えれば、「クリスチャンよ、イエス様の苦しみに加わろう!」と彼は言っているのです。イエス様が宿営の外で苦しまれたので、安全で親しんできた気楽な宿営から出て、カルバリの道を主と共にはずかしめを喜んで身に負いましょう。主はあなたを聖別するために死なれたので、単なる真似の行為として自分の力や徳でそれをしないでください。キリストがご自身の死であなたのために買い取られた力と聖さでしてください。さもなければ、それは信仰の行ないではなく英雄的行為になってしまいます。キリストではなく、あなたが栄光を受けることになってしまい、神はそれをお喜びになりません。なぜなら信仰なしには神をお喜ばせすることは不可能だからです(11:6)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから要点は、クリスチャン、このような救い主がおられるのですから、快適さではなく、必要に向かって進みなさいーこれが[あなたの]生き方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、この奨励は乱用される可能性があることを私は承知しています。独身女性が、「そうか、一番弱い、貧しい男性を探し出して良い行ないを彼に対してすることができる望みを持って、結婚すればいいんだ」と言うかも知れません。あるいは車の修理が必要なあなたが、「そうか、能力がないために倒産間際の修理業者を探して、自分の車を持って行って助けてあげればいいんだ」と言うかも知れません。「快適さではなく必要のために進めなんて、説教はそれまでにしておいてよ」とも。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様の究極の召し ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらのイエス様の召しの乱用は、彼らが徹底していないことに問題があります。彼らはただ愚かなだけです。なぜ結婚しなければならないと思い込むのでしょうか?快適さではなく必要に向かって進みなさいと言うイエス様の召しは、さらに大きな奉仕のために一生独身でいなさいという召しかも知れません。あるいは多くの結婚がそうであるように、快適で自分のことしか念頭にない小さな下水槽に沈んで行く代わりに、あなたと共に宿営の外に出て行くだけの強さと過激さを持ち合わせているような人と結婚し、他人のために共に人生を最大限に活かす召しかも知れません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またクリスチャンがほとんどいない、あなたの光がたまらなく必要とされている国々で、似たような仕事が得られるのに、なぜ安定していようがいまいが、アメリカの会社で仕事を探そうなんて、どうして考えなければならないのでしょう。あるいは御国の価値を広めることや、集計表を用いてすべてのうちにある神の主権を現すことで、広い範囲で影響を与えることの出来る機会があるので、滅び行く人々のいるこの国の強靭な会社に勤めるべきかも知れません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ車がなければいけないと思い込むのでしょうか?イエス様のあなたの人生に対する召しは、道もない、教会もない、クリスチャンもいない、車もいらないようなところに移り住むことかも知れません。あるいは快適さではなく必要のために確実に運転できるよう、ちゃんと動く車が必要なのかも知れません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
カルバリの道でイエス様に連なる宿営の外に出て行き、主と共にはずかしめを身に負うという、主の過激な召しは、常に茶化され、あざ笑われ、愚かであるかのように見られがちです。それが一番簡単な逃げる方法だからです。非常に魅力的です。自分があたかも賢い者であるかのように見せることができます。イエス様が無能なお方であるかのように見えます。そしてある人々が人生と呼ぶ、無意味な、底の浅い、快適さを求めた習慣へと、(騙されてもう数年)あなたを解き放ちます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか(13節)。なぜなら(12節)、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられたからです。」主の死に方と、なぜ主が死なれたのかは、主が共に行こうと召しておられる私たちを一変させます。主の死に方は、門の外でした。それは、聖なる都、エルサレムの外見の快適さ、安全、親しみやすさの外でした。門の外のゴルゴタの丘で敢えて、犠牲を払って、愛を持って死なれたのです。そしてなぜ主が死なれたのか(13節)と言うと、人々を聖別するため、私たちを他のあらゆるものと違うものにするため、私たちを聖め、愛のある者にし、過激で危険をいとわない、この世が差し出すものよりも、別の運命によってまったくとりこにされた者たちにするために、死なれたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖化とは一体どういう意味? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この聖なる民というのが一体何であるのかを理解するために、次の節(14節)を考えて見てください。聖化とは一体何でしょう?キリストは民を聖めるために死なれました。つまり、自分の人生すべてが、キリストと共にはずかしめを背負うため宿営の外へ出て行くことだとみなす意志のあるような人々を生み出すことです。それはなぜでしょうか?それらの人々に一体何が起こったのでしょうか。14節に見ることができます。彼らはカルバリの道で、快適さではなく、必要に向かってイエス様と共に進みゆく意志があるのです。「[それは]、私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでのポイントは何でしょうか?ポイントは、キリストはミネアポリスをこの時代においてパラダイスにするために死なれたのではない、と言うことです。主は私たちがミネアポリスであれ、どこであれ、自分の私生活を地上の楽園にしようとすることをやめようと思うようになるために、死なれたのです。何の力によってでしょうか?それは私たちがマゾヒストだからでしょうか?私たちが困難を好むからでしょうか?いいえ。それは私たちが、「後に来ようとしている都を求めている」からです。それが見えますか?14節、「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」私たちの、快適さではなく必要に向かうため、はずかしめを背負うために、人々を思いやるために、宿営の外に出るというその動機は、それは来るべき都、「生ける神の都」(ヘブル12：22)があるからです。それはこの時代が差し出すものよりもはるかに良い都で、永遠に続き、特に、神が、衰えることのない栄光のうちに(12:23)そこにおられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはへブル書の中でこのかたちを繰り返し見て来ました。10:34で、クリスチャンたちが、刑務所にいる人々を訪ねることによって、快適さではなく必要に向かって進むのを見ました。それが彼らの財産を失うことになったとき、彼らは喜びました。ヘブル書が言うには、それは、「もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていた」からです。彼らはこの地上での快適さや楽園ではなく、来るべき都を求めていたのです。ですから、彼らは快適さではなく、必要に向かって進みました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11:25―26では、モーセが快適さではなく、必要に向かって進むところで私たちはそれを見ました。「はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選びました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。」なぜでしょうか?26節で、それは「彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったからです」と言います。つまり、彼は来るべき都を待ち望んでいたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12:2ではイエス様が、「はずかしめをものともせずに十字架を忍」ばれたとき、快適さではなく、必要に向かって突き進まれるところで、それを見ました。どのようにでしょうか?何の力によってでしょう？２節でそれはご自分の前におかれた喜びのゆえ、と言います。つまり、主は来るべき都を見ておられたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
13:5―6ではクリスチャンたちが、金銭を愛する生活を避け、持っているもので満足することによって、快適さではなく必要に向かって進むところに、私たちはそれを見ました。どのようにでしょうか?何の力によってでしょうか?5節、「[それは]、主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。』」私は今も、そして常に、神のみ手の中で安全です。私はやがて来る都の市民であり、何ものをも私をそれから引き離すことはできないのです。ですから私は快適さにではなく、必要に向かって進みます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからヘブル13:14の、キリストはこの時代の楽園である都市、あるいは郊外を作り上げるために死なれたのではない、というポイントは、繰り返し裏付けられています。主は私たちが自分の人生を、都市あるいは郊外で、地上の楽園にしようとすることをやめようと思うようになるために、そしてイエス様と共に快適さと親しみやすさと安全な宿営の外に出て、必要があるところへ、そして主が、「今日(あなたが死ぬ日)、あなたは私と一緒にパラダイスにいます」(ルカ23:43)と言われるところへ行くようになるため、死なれたのです。私たちは快適さではなく、必要に向かって進みます。それは、私たちが来るべき都を待ち望んでいるからです。神とともにある栄光の未来のうちにある、究極の確信こそ、キリストが生み出すために死なれたものです。そしてそれによってあなたが捕らえられるとき、あなたは聖められ(12節)、イエス様と共に、快適さではなく必要に向かって進むのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神に向かったパラダイスの人生と人々の愛 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっと詳細に見て行きましょう。この世の人生、つまり、宿営の外のカルバリの道で、自分の前にある来るべき都にある喜びのゆえ、イエス様と共に苦しみに向かって進む、その快適さではなく必要に向かって進むために関わってくるものは、一体何でしょうか?15節でその答えの一つが、そして16節でもう一つが挙げられています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
15節ではそれが神への賛美の人生、つまり、まことの、心からの、言葉にされた賛美、果実として口から出る、また心から沸き起こるような、賛美の人生だと言います。15節、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげよう[直訳:告白しよう]ではありませんか。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
16節では、それは人々に対する愛の人生、まことの、実質的な、他人の良きことのために自分の人生を分かち合う人生であると言います。「善を行うことと、持ち物を人に分け与えることを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、イエス様と共に宿営の外の主がいけにえをささげられた場所へ行くとき、私たちは主の私たちのためにささげられたいけにえ、つまり、罪人のためにたった一度、ご自身をささげられたそのいけにえ(ヘブル9:26、28)が、二つの事がらを除くすべてのいけにえを終わらせたのです。その二つと言うのは、神への賛美のいけにえ(15節)と、そしてもう一つ、人々を愛する愛のいけにえ(16節)です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから私たちは宿営の外のカルバリの道でイエス様と共に、はずかしめを背負って、快適さではなく必要に向かって進んでいるのです。それはどのような道でしょうか?どこへ向かって進んでいるのでしょうか?実際に今日の午後ですか?あなたのために?今週?今年? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*それは10/40ウィンドウのまだ福音の伝えられていない人々のために断食をし、祈るに至る道かも知れません。 &lt;br /&gt;
*あるいはウクライナの孤児たちのために働く奉仕の玄関口に至る道か、 &lt;br /&gt;
*またはサラとナオミや他の人々と、命を守るために立ち上がるのを手伝うため、南5番街通りの人工中絶クリニック、「女性のためのミッドウェスト・ヘルス・センター」の近所という新しい場所に至る道か、 &lt;br /&gt;
*グレンとパティ･ラーソン夫婦や他の永遠の崖っぷちに立たされている人たちの家を、訪問するに至る道か、 &lt;br /&gt;
*世界中で苦しんでいるクリスチャンたちを実際にケアする方法を教えてくれる仲介者を、『迫害されている教会のための祈りのしおり』の18ページで探すのに至る道か、 &lt;br /&gt;
*道からはずれている友人にイエス様に戻って来るよう懇願する、簡単ではない電話をかけるに至る道か、 &lt;br /&gt;
*あるいは不信心で滅び行くと分かっている近所の人たちに至る道かも知れません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
快適さではなく必要に向かうカルバリの道は、何千という愛と賛美が現される可能性のある場所へと至ります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神があなたを解放するためにヘブル13:13を用いられますように ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今朝の私の祈りは、自分の進む道がまだはっきり定まっていないあなた方若い人たちの中から、またまだエネルギーが余っておりかなりの自由がきく定年退職した方々、そしてここ何年もこの教会で、何人もの独身の、または夫婦らがやって来たように、所有する財産を持って、自分の人生で何か極端に違うことをやりたいと思っているかも知れないその他の人々を、土台から揺すぶるために、神がヘブル13:13のこの言葉を用いられ、今いる所からあなたを解放され、イエス･キリストにある神の栄光の恵みである福音を持って、世界のまだ福音の伝えられていない人々のところに、あなたがたを遣わしてくださいますように、という祈りです。今週は宣教週間ではないことは分かっていますが、でもこれが今朝あなたがたのために、この聖書箇所から私自身に聞こえてくることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
世界中の何十万ものクリスチャンたちが、今朝、クリスチャンであるだけで自分の命を危険にさらしています。黙示録5:11からキリストが宿営の外へ出られ苦しまれたのは、すべての民族、国語、民、国民の中から人々を贖うためである、ということを私たちは知っています。もしそうであるならば、ヘブル13:13で「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」と言うとき、それは何を意味しているのでしょうか?それは私たちの多くにとって、「宿営を離れなさい!宿営を離れなさい!ベツレヘムの快適な宿営を離れなさい。ミネアポリスの快適な宿営を離れなさい。快適で安定した仕事を離れなさい。そしてカルバリの道をイエス様に加わって、快適さではなく、必要に向かって進みなさい」ということを意味しているのではないでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いいえ、この聖書箇所に従うために文化を超えて行く必要はありません。すでに先ほど７つの例を挙げました。でも聞いてください。キリストは教会のない、本もない、キリストは罪人を救うためにこの世に来られたという知らせを語ることができる宣教団体もない国民のために、宿営の外で苦しまれました。ですので、ヘブル13:13は快適さではなく必要に向かって進もうという召しである、と言うことを私は強調します。そしてこの日曜に私の耳に聞こえてくる叫びは、迫害でクリスチャンたちが死んで行きつつある所と、そして迫害されてもいいと思うクリスチャンがいないために、罪人が滅んで行きつつあるところのニーズが大きい、と言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皆さんにお願いします。あなたが8歳であれ、18歳であれ、38歳であれ、80歳であれ、将来の夢を見るとき、ヘブル13:13の「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」を夢見てください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 私たちは一人で進むのではない  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皆さんの手元の賛美集の中にある一番最後の賛美、「なれにやすまん」を歌って、私たち自身を聖別したいと思います。皆さんの多くが、今この時にこの賛美歌の背後にあるストーリーが特別な力を醸し出しているのを知っています。ジム･エリオット、ピート･フレミング、エド･マクーリー、ネート･セイント、そしてロジャー･ヨウデリアンは、快適さではなく、アウカ･インディアンの必要に向かって進んでいる最中、1956年１月に、エクアドルで殺害されました。エリザベス･エリオットの、その殉教が記されている本の16章の題は、この賛美の歌詞、「我らは一人で行くのではない」から来ています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
亡くなる直前、彼らはこの賛美歌をパームビーチで歌いました。エリオットはこう著しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「祈りの最後に五人の男たちは、彼らが好んだ賛美、『なれにやすまん』を、『フィンランディア』の深いメロディーに合わせて歌った。ジムとエドは大学時代からこの賛美歌を歌っていて、心で歌詞を覚えていた。最後の節に来ると、彼らの声が深い確信と共に響き渡った。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 『なれにやすまん、わが盾、わが救い主、なれこそ戦、なれこそ賛美。しろかねのように輝く勝利者の門を通りゆくとき、我らはとこしえまでなれにやすまん』 」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その確信を持って、彼らは宿営の外のイエス様のもとへ行きました。彼らは快適さではなく、必要に向かって進み、そして死にました。ジム･エリオットの、「失うことのできないものを得るために、持ち続けられないものを与える人は、決して愚かではない」と言う信条が証明されました。「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」(14節) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一緒に歌いましょう。そして「なれの名において我らはゆかん」という箇所に来たら、本気でそれを歌い、出て行く用意をして下さい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
___ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 13 Jan 2017 20:13:57 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E6%A7%98%E3%81%A8%E5%85%B1%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%81%9A%E3%81%8B%E3%81%97%E3%82%81%E3%82%92%E8%BA%AB%E3%81%AB%E8%B2%A0%E3%81%A3%E3%81%A6%E8%A1%8C%E3%81%93%E3%81%86</comments>		</item>
		<item>
			<title>バプテスマが表すもの</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%81%8C%E8%A1%A8%E3%81%99%E3%82%82%E3%81%AE</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「バプテスマが表すもの」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|What Baptism Portrays}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日がこの短いバプテスマのシリーズの最後のメッセージです。もっと言うべきことがあります。もし皆さんの質問に答えていなかったなら、お許しください。でもこれらのことを話し合う機会が様々な場であると思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この夏の初めにここで、このシリーズを発展させる私たちの主要な動機は、新約聖書はキリストに人前で堂々と来るよう人々を招いていると、私たちが信じるということであると言ったのを思い出してください。私たちはすでに信者である者が公に(キリストの)証人になるのを見たいですし、その証とみことばの奉仕を通して信者になる者が起こされるのを、ここでこの夏を通して見たいです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様はなぜバプテスマという行為を定められたのか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは時として、なぜバプテスマのこの行為をイエス様はお定めになったのか、疑問に思うことがあるかも知れません。なぜバプテスマというものがあるのでしょうか?もし救いが恵みにより、信仰によるものであるのであれば、なぜその信仰を行動で示す儀式や象徴するものを制定されたのでしょうか?聖書はそれに答えません。でも体験を通して興味深いことを学ぶことができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、3週間前、私の最初のメッセージの後に、フィリピンへ遣わされたことのある宣教師が来て、メッセージ･シリーズに感謝していることを述べ、そしてなぜ感謝するのかその理由を教えてくれました。名ばかりの、そして混合したカトリック教徒が多いフィリピンでは、彼女が言うには、(プロテスタントへの)改宗者は大目に見られ、バプテスマを受けるまで、家族に(その改宗を)気づかれることがほとんどないそうです。その(バプテスマの)後敵意と離別という、聖書が予告するものが起こりるのです。この新発見した信仰の、公の儀式には、この人の立場と、この人が何をしているかを明確にさせる何かがあります。言い換えれば、今日の多くの文化で起こるこの境遇は、バプテスマのヨハネの境遇とよく似ています。ヨハネは悔い改めのバプテスマを説くために来、そして必要なものはすべてすでに持っていると思っていた者たちが、彼に激怒しました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その同じ週にこの宣教誌(『夜明けの報告”The Dawn Report”』、5月30日出版)が出版されました。7ページに、宣教地のある川で男性が一人バプテスマを授けている写真がありますが、その写真の下に、「アウトドアの奉仕と川での受洗式は時として成長にとって最善の車(目的達成手段)である」という説明文があります。バプテスマがキリストにある信仰の表現と、主と主の民と一つとされるという表現方法としてお定めになった神の、様々な理由のそのすべてを、私たちは全く理解できません。それが良いことであるといういくつかの理由は考えられますが、恐らく神が意図されるその良い影響すべてを思いつくことさえ、私たちはできません。結局のところ、それ(バプテスマ)はご自分の成されることを理解しておられるみ父を信じるということを表す行為であり、私たちは主のご命令に喜んで従います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 浸礼か滴礼か? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日はローマ5:20―6:4前半からその行為の意味をもう少しお見せしたいと思います。バプテスマの様式、すなわち滴礼よりも浸礼、ということに関する皆さんの質問にも向き合います。実際、滴礼ではなく浸礼、ということに関する一般的言葉で始めさせてください。新約聖書の意味とバプテスマの慣習は、浸礼によるものであるということを信じる、少なくとも3つの理由がそこにはあります。1) ギリシャ語のbaptizo という言葉はおもに、「浸す」、あるいは「沈める」という意味で、ふりかけるという意味ではありません。2) 新約聖書にあるバプテスマは、水を容器に入れて運んできて注ぐ、あるいはふりかけるというよりも、人々がどっぷり浸かれるよう水辺に下って行くという風に描写されています(マタイ3:6「ヨルダン川で」、3:16「イエスは･･･水から上がられた」、使徒8:38「水の中へ降りて行き」)。3) 浸礼はキリストと共に葬られるという象徴と一致します(ローマ6:1―4、コロサイ2:12)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何時間もここにとどまりませんが、私たちの教会と教団が浸礼によるバプテスマを、一地域の契約共同体(キリストの宇宙的からだではなく、)における会員制の決定的部分にしているという事実を、私たちがどのように理解すればよいかについて、一言言わせてください。私たちはバプテスマの様式が救いにとって必要不可欠な行為であるとは信じていません。ですから私たちは一個人のクリスチャンとしての位置を、ただ単なるバプテスマを受けた様式をもとに、疑問視したりはしません。「それなら本当に生まれ変わった人たちではなく、信者として滴礼を受けた人たちを会員として受け入れるべきなのではないか?」と質問する方がおられるかも知れません。私たちがそうしない、２つの主な釈明があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1) もしキリストが任命された型から離れてしまう十分な証拠であると私たちが認めるのに、人が造った方法でのバプテスマを「バプテスマ」と呼ぶべきでしょうか?これは、キリストご自身がこの聖礼典で任命された意義を、軽くみなす危険を冒すことにならないでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2) 教会と呼ばれるキリスト教の地域の共同体は、共通の聖書信念、救いに関して必要不可欠なものであったりそうではないものもありますが、その信念を中心にして築かれています。人の救いに関して、可能な限りもっとも狭い信仰によって、私たちが共にする契約のいのちを定義したりはしません。むしろ、キリスト教信仰の共同体が、自分たちの信念が疑問視されるたびに会員制の意味を再定義するより、自分たちを聖書信仰を持つ群れとし、群れに力になることによって、真理の重要性とみことばの権威がより尊ばれることを私たちは信じます。個々のクリスチャンの共同体が愛し合い、他の信者らに兄弟愛を示しつつこれを成すとき、真理と愛の両方がいきわたります。例えば、ベツレヘム教会で行われる牧師のためのカンファレンスに招く講演者たちのほとんどは、この教会の会員になることができないという事実こそ、私たちが愛と一致を真剣に受け止め、真理を真剣に受け止めていることを語っています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
共同体を定義する上で代々、どの非重要な教理を含めるかというのは、主として環境や、どの真理が強調されなければいけないかという状況によって変わります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== バプテスマが表すもの ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そういったことを背景に、バプテスマが何を表すのか、また補助的に、バプテスマの様式に何が適用されるのかを、ローマ5:20―6:4に見ていきましょう。ここでの私のねらいは、バプテスマが指し示す栄光ある現実を皆さんにお見せすることです。そうすれば第一に、その現実に皆さんがとらえられ、そして二番目に、その行為の美しさと意義が、皆さんの頭と心に沸き起こるからです。ローマ5:20―6:4、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この聖書箇所の最も素晴らしいことの一つは、もしバプテスマが何を表すかをあなたが理解するなら、クリスチャンになった時に実際に自分に何が起こったのかをあなたは理解する、ということです。私たちのうちのほとんどは、ほとんど何も知らないままで信仰を持ち、バプテスマを受けました。これは良いことです。バプテスマは、あなたがほとんど何も知らないとき、クリスチャン人生の最初に起こるものです。ですからそれが何を意味するのかは、後々になって学ぶものでもあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ああ、バプテスマを受け直さなきゃいけない。これだけの意味があったなんて、知らなかったよ」と思わないでください。いえいえ。ということは聖書神学の新しい課目を受けるたびに、あなたはバプテスマを受けることになります。むしろ、イエス様に従うことを単純な信仰で過去に表し、それが何を意味するかを現在徐々に学んでいることを喜んでください。それをパウロはここでしているのです。彼は読者が自分が受けたバプテスマの意味を理解していることを望みつつ、万が一彼らが理解していないか、忘れてしまっている場合を考え、敢えて教えます。神の御前でかつて自分が表したものと、クリスチャンになることで実際に自分に何が起こったのかということを、この聖句から学んでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この聖句に従って、バプテスマが表すことの二つだけを扱います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1) バプテスマは、キリストの死にある私たちの死を表します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３節と4節前半、「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト･イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」これは私たちクリスチャンについての素晴らしい真理です。私たちは死んだのです。キリストが死なれたとき、私たちの死を死んでくださったのです。これは少なくとも二つのことを意味します。1) 一つは、私たちはかつての自分ではない、ということです。古い自分は死にました。もう同じ自分ではないのです。2) 自らの将来の物理的死は、もしキリストが私たちの死を死んでくださらなかったら同じ意味であったはずですが、私たちにとってもう同じ意味ではありません。私たちはキリストとともに死んだので、そして主は私たちの死を死んでくださったので、私たち自身の死は恐ろしいものであるはずだったのが、もう恐ろしいものではありません。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」(1コリント15:55)。その答えは、死のとげと勝利はキリストによってぐっと飲み込まれた、です。先週(のメッセージを)思い出してください。主は水槽タンクを飲み下さたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３節と4節の「に」という言葉の復唱に注目してください。「キリスト･イエスに」つくバプテスマ(3節)、そして「キリストの死に」あずかるバプテスマ(4節前半)。これが何を言っているのかというと、バプテスマは私たちのキリストと一致することを表しており、すなわち、主の死が私たちの死となり、主のいのちがわたしたちのいのちとなるため、私たちは霊的に主と一つとされるのです。私たちはこれをどのように体験するでしょうか?これが実際に自分に起こったと、どのようにして知ることができるでしょうか?それは、信仰によって体験されます。これと類似した聖句に聞くことができます。ガラテヤ2:20でそれを信仰とつなげています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、･･･神の御子を信じる信仰によっているのです。」言い換えれば、死んだ「私」は不信仰で反抗的な古い「私」であり、生きるようになった「私」は信仰による「私」、つまり、「肉にあって生きているのは、･･･神の御子を信じる信仰によっている」私です。そしてこれらすべての基盤が、キリストと一つとされること、つまり、「キリストが私のうちに生きておられる」ということです。主の死は私の死であり、主のいのちは私のうちに生きているいのちです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを説明している他の箇所は、コロサイ2:6―7です。「あなたがたは、このように主キリスト･イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、･･･。」ここで、キリストにある信仰が、キリストと一つとされたことを体験する方法であると、再度確認することができます。主を主として、また救い主として受け入れ、その信仰によってあなたは主と一つとされ、「主にあって」歩み、「主にあって」建てられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからローマ6:3―4前半が私たちはキリストにつくバプテスマとキリストにあずかるバプテスマを受けたというとき、私はそれを、バプテスマが、私たちがキリストとの一致を体験することにある信仰を表現する、という意味であるととらえます。恐らくこのため神は、バプテスマの様式が埋葬を表すよう設計されたのだと思います。私たちがキリストと一つとされるとき、私たちが体験する死を象徴します。それゆえ私たちは水にどっぷり浸かります。それは埋葬を象徴します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから信者の方、あなたはすでに死んだということを知ってください。不信仰で反抗的な古い「私」はキリストとともに十字架につけられたのです。これがバプテスマが(バプテスマを受けたときに)表したもので、また今現在も表すものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2) バプテスマはキリストにある新しいいのちを表します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4節、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストがみ父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」バプテスマの水に浸かったままの人はいません。私たちは水から上がります。死の後には新しいいのちがやって来ます。不信仰と反抗であふれた古い「私」は、信仰によってキリストと一つとされたときに、死にました。しかし古い「私」が死んだとたん、新しい「私」、つまり、言ってみれば死からよみがえった霊的に新しい人が、生まれるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この真理についての最も重要な注釈は、コロサイ2:12です。パウロは、「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」ちょうどローマ6:4で、私たちはいのちにあって新しい歩みをすると言われているように、私たちはキリストとともによみがえらされたと言うところに注目してください。そしてちょうどローマ6:4で、キリストはみ父の栄光によって死からよみがえられたと言われているように、死から主をよみがえらされた神の御力が、そこにはあるのです。これはイエス様を死からよみがえらされた神の御力にある信仰を通して、起こります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからコロサイ2:12は、バプテスマはイエス様を死からよみがえらされた神の御力にある信仰を表すとローマ6:4で暗示するものを、明示します。キリストは墓からよみがえられ、天の御国にあるみ父の右の手で今日君臨しておられ、力と栄光のうちにそこから戻って来られると、私たちは信じます。そしてパウロが神の栄光と呼ぶ、神のみ力にある信仰こそ、キリストご自身のうちにある、新しいいのちに私たちがあずかる方法なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際、新しいいのちとは、神のご栄光とみ力を信じるいのちです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、･･･神の御子を信じる信仰によっているのです。」新しいいのちとは、神の栄光である、神のみ力を日毎に信頼するいのちです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== バプテスマはクリスチャンになったとき私たちに何が起こったのかを表す ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではまとめに入って、結論を出しましょう。バプテスマは、クリスチャンになったときに私たちに何が起こったのかを表します。私たちはキリストと一つとされた、これが私たちに起こったことです。主の死が私たちの死となりました。私たちは主とともに死んだのです。そしてそれと同時に、主のいのちが私たちのいのちとなりました。今や私たちは私たちのうちにおられるキリストのいのちに生きています。そしてこれらすべてを、私たちは信仰をとおして体験します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バプテスマが表す現実に生きる、これがクリスチャンであるという意味です。日毎に私たちは自分たちから目をそらし、神を見て、こう言うのです。「あなたの御子、キリストのゆえに、私はあなたの御前に進み出ます。主にあって、私はあなたのものです。あなたとともにおります。主があなたに受け入れられる唯一の希望です。私は毎日あなたに新しく受け入れられます。私の希望は主の私のための死と、主にある私の死に基づいています。主にある私の人生は、父よ、あなたにある信仰の人生です。主のゆえに、私は私のうちに、そして私のために働いているあなたのみ力を信じます。主を死からよみがえらされたあなたの御力と栄光で、あなたは私をお助けくださいます。その将来の恵みのみ約束を私は信じ、それに望みをおきます。それこそが私のいのちを新しくします。ああキリストよ、私のバプテスマが表すものを、私は何と誇りに思うことでしょうか!私の死を私のために死んで下さり、新しいいのちをお与えくださったことに、感謝します。アーメン」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
--- &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 21 Jun 2016 18:51:13 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%83%90%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%81%8C%E8%A1%A8%E3%81%99%E3%82%82%E3%81%AE</comments>		</item>
		<item>
			<title>神の主権に対する情熱 パート2</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E4%B8%BB%E6%A8%A9%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E6%83%85%E7%86%B1_%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%882</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「神の主権に対する情熱 パート2」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Passion for the Supremacy of God, Part 2}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(以下は録音メッセージから書き起こしたものです) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の主権に対する情熱 パート1の復習 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神は神中心であられる''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昨日、氷河に火をつけることと、すべての人々の喜びのため、すべてのうちにある神の主権に対する情熱を広めるため、神はすべてのことをご自身のみ名の栄光のために成される、と強調しようとしました。神は神をたたえられます。この全世界で神に対して最も情熱的なのは、神ご自身です。それが要点でした。『パッション'97』は、私が理解する限り、神の神ご自身に対する情熱に関する集会です。主が成されるすべてのこと、つまり創造から終わりまでは、主がご自身のみ名の栄光を示し、掲げることを念頭に、成されています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神の神中心さは愛の無いものではない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昨日の二つ目のポイントは、それは愛の無いものではない、ということでした。なぜ神がご自身をこのようにたたえることが愛の無いことではないのかと言うと、それは神を知ることと、神をたたえることに飲み込まれて行くことが、人の魂を満足させるからです。「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)それゆえもし神が、主がどのようなお方であるかを私たちが見えるところまでご自分を引き上げることが、私たちの魂を満足させるのであれば、神こそこの全世界で唯一、自画自賛が最高の美徳であり、愛の本質であるお方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたは主の自画自賛を真似できないでしょう。他人を楽しませようと、あなたが自分を自賛すればするほど、憎たらしい、愛の無い者になります。なぜならそれはあなたがその人たちの魂を真に満たすことのできるお方から、その人たちの注意をそらすからです。それゆえ、私たちは神が神であられることを真似てはいけません。神だけがこの全世界で、自画自賛が愛の本質と土台であられる、唯一、無条件にユニークなお方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは、人を中心とするような人間的愛のように、主に私たちを愛して欲しいと思うかも知れませんが、主は神でありつつそのように私たちを愛することはできません。神ご自身、無限に価値のあるお方です。神ほど価値のあるものは他にはありません。それゆえ主は、ぶっちゃけた話、あなたを必要とすることをまったく無く、壮大で、輝かしく、すべてを満たし、自己充足されるお方であられます。これが恵みの基盤です。もしあなたが自分を恵みの中心にすると、それは恵みでは無くなります。神中心の恵みが、聖書的恵みなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の喜びは私を全世界の中心にする神のうちにありません。私の喜びは、神が永遠に全世界の中心であられ、私をご自身との交わりに引き寄せてくださり、永遠の人生の中でずっと主を見て、主を知り、主を楽しみ、主を宝とし、主に満足することのうちにあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが昨日のメッセージでした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の、人類のための神中心さの意味 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて今日は･･･もし私がこれまで述べてきたことが本当であるならば、それが聖書的であるならば、あなたの人生にとって驚くような意味があります。それは、この場所を去って自分の教会や大学に戻るとき、あなたが何をしなければならないかと言うと、神にあってできる限り幸せでいることを、自分の使命にすることです。ですから神のみ名によって、皆さんをお招きします。神があなたのうちに与えてくださる力を尽くして、楽しみを追求することを、自分の永遠の使命としてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の人生の問題は、そしてあなたの人生の問題は、自分の役割を果たさなければならないときに、楽しみを追求してしまうことではありません。それがあなたの抱えている問題に関する私の、あるいは神の、または聖書の診断ではありません。C.S. ルイスは『栄光の重み』と呼ばれる、人の人生を変えてしまうような説教の中で、私たちの問題は、私たちが自分の楽しみを熱心過ぎるほど追求していることではなく、私たちが中々楽しまないことである、とそれを正しく言い当てています。私たちは海辺での休暇がどのようなものか想像もつかないため、スラム街の泥まんじゅうをいじくっている子供のようだと彼は言います。私たちの問題は、黄金の現実が私たちの目の前に立っているのに、アルミ製の偶像にしがみついていることです。私たちは中々楽しみません。この世の問題は快楽主義ではありません。快楽主義が、本当に満足させてくれるもののところまで到達しないと言うのが問題なのです。それが私の今朝のポイントです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしそれが本当であるならば、その意味は、あなたは朝起き上がって、ジョージ･ミューラーのように、外出する前にそして何かをし始める前に、「神にあって幸せな心を私は持たなければならない。そうでなければ私は誰の役にも立たない。それを用いて、私の欲求と心の虚しさを満たすんだ」と言うのです。もしあなたが愛の人になりたいのなら、もしあなたが他人のために喜んで命を投げ出す人になりたいのなら、神にあって幸せであることを自分の目標としなければなりません。私たちは中々喜ぶことがない、それが今日のメッセージです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはそんなちっぽけな、長生きしない、不十分な、満足できない楽しみを受け入れてしまい、私たちの喜ぶ能力は、神によって動かされたことがない、変えられていない自分の心を隠すかのように、喜びのない義務を美徳の本質としてしまうほどに、萎縮しているのです。それが現実逃避であることが分かりますか?私は今朝、道徳的行為のうちに自分の利益を求めれば求めるほど、あなたはその徳を失うと言った、啓蒙主義の哲学者たちである、ストア派[禁欲主義]とインマニュエル･カントに反対するキャンペーンを行っています。それは聖書にはありません。そしてそれはそこら中の礼拝、徳、勇気、また神中心さを破壊します。それは人間、自分の義務を、神が自分の魂を満たしてくださると考えたことのない徳のある人を、持ち上げます。何たることでしょう!私たちの心からそれが永遠になくなってしまいますように。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は福音派の空気に漂っているものに反対するキャンペーンを行っています。25年ほど前からこのキャンペーンをしており、依頼ずっと続けていますが、それで家族を養い、その上に教会を建て、それに関して本を著し、それを生きようと努力しています。少しずつ反論が起こっています。そうやって人は成長するのです。皆さんのうちの何人かの方が、自分の世界がこの集会でひっくり返ったと私に話してくれました。自分のパラダイムが揺さぶられたと。コペルニクス革命がもうすぐ起こりそうで、まさにそのようにして人は変わり始めるのです。異論の後にまた異論、もしかすると15年かかるかも知れません。私は1968年に、ダン･フラーやC.S.ルイス、ジョナサン･エドワーズ、ダビデ王、聖人パウロ、そしてイエス･キリストの助けで、これらを部分的に見始めました。次から次へと異論が持ち上がるたびに、私は縮み上がり、そして聖書を開いて涙を流し、号泣し、格闘し、質問し、祈り、そして話す、そうやって私の頭は回転してきたのです。そうやって異論がビジョンを少しずつ精錬するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 異論 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1. 聖書は心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして自分の喜びを追い求めよと本当に教えているのか。あるいはそれは人の注意を引こうとするジョン･パイパーの巧みな説教法なのか? 2. 自己否認はどうであろうか?イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨てなさい」と言われなかっただろうか? 3. それは人間の感情に必要以上の強調を置くことにならないだろうか?キリスト教は基本的に、献身と決心を意思表示する宗教ではないか。 4. 義務としての神に仕えるという高貴な概念は、それが辛く、やる気がしないとき、どうなるのか? 5. これは神ではなく自分を物ごとの中心にするのではないか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 異論に対する応答 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1. 聖書は自分の喜びを求めるべきだと本当に教えているのか?''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の答えは、そうです、聖書は少なくとも４つの方法で教えています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''a) 命令を持って'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
詩篇37:4を考えてみてください。「主をおのれの喜びとせよ。」これは提案ではありません。命令です。もしあなたが、「姦淫を犯してはならない」というのを自分が従うべきものであると信じるなら、「主をおのれの喜びとせよ」と言うのにも従うべきです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは詩篇32:11、「正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべての心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ」、または、詩篇100、「喜びをもって主に仕えよ。」それは命令です。「喜びをもって主に仕えよ!」喜びをもってあるいはそれ無しに主に仕えることに無関心であればあるほど、あなたは神に対し無関心であります。主はあなたに、喜びをもって主に仕えなさいと言っておられます。あるいはピリピ4:4、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」とも言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは聖書中で見られます。命令です。それが聖書がこれを教える最初の方法です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''b) 脅しを持って'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジェレミー･テイラーはかつて、「神はもし私たちが幸せでなかったら、恐ろしいことを起こされると脅される」と言いました。私は初めてそれを聞いたとき、うまく言ったものだと思いましたが、それはうまい言葉ではありません。申命記28:47を引用したもので、それは衝撃的です。「あなたがすべてのものに豊かになっても、あなたの神、主に、心から喜び楽しんで仕えようとしないので、あなたは飢えて渇き、裸となって、あらゆるものに欠乏して、主があなたに差し向ける敵に仕えることになる。主は、あなたの首に鉄のくびきを置き、ついにはあなたを根絶やしにされる。」もし私たちが主にあって幸せでなかったら、神は恐ろしいことを起こされると脅されます。それが快楽主義の認可でなかったら、一体何でしょう?神にある自分の喜びを力の限り追求することを自分の人生の使命とすることを、正当化するものでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''c) 救いに至る信仰を、イエス様にあって神はあなたの味方であられるそのすべてに基本的に満足することであると、示すことによって'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」もしあなたが神を喜ばせたいのなら、信仰を持たなければなりません。信仰とは一体何でしょう?近づく私に、報いてくださるという深い確信を持って、神に近づくことです。もしあなたがそれを信じないのであれば、あるいはもしあなたが他のいかなる理由を持って神に近づくのなら、神をお喜ばせすることはできません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいはヨハネ6:35でイエス様が「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」と言われるみことばをとって見てください。「わたしを信じる者は、どんなときにも、決して渇くことがありません」というみことばに印をつけてください。信仰とは何を意味すると言っているでしょうか?信仰とは何でしょう?ヨハネの神学では、信仰とは、何ものも満たすことのできない私たちの魂を満たしてくださるイエス様のみ前に来ることです。それが信仰です。信仰とはそれ以外の何ものでもありません。私はキリスト教の基本を、皆さんがあまり耳慣れない言葉で紐解いています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''d) 神のうちにある楽しみを追求することをやめるということが狂気の沙汰であるとして、罪を定義することによって'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪とは神のうちにある楽しみを追求することをやめる、狂気の沙汰です。以下はそれを示す聖書箇所です。エレミヤ2:12―13、「天よ。このことに色を失え。おぞ気立て。干上がれ。ー主の御告げーわたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」悪とは一体何か、私に教えてください。宇宙をがくぜんとさせる、神の御使いに「そんなばかな!」と言わせる悪の定義とは、一体何でしょう?すべてを満足させる源であられ、生ける水であられる神を見て、「ありがとう、でもいらないです」と言って、テレビやセックス、パーティー、酒、金、名声、都市近郊の家、休暇、新しいパソコンのプログラム、に向かって、「やった!」と言うことです。それは狂気の沙汰です!そしてそれは、エレミヤ2:12によると、天にいるものすべてを愕然とさせるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
少なくともその4つの方法で、ジョン･パイパーが今朝、神のうちにある満足を追求することに人生をささげなさいと言うのは、本当だと聖書は言っています。ですから異論その1は成り立ちません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 自己否認はどうなるのか?''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「イエス様はマルコ8:34で、『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』と言われたじゃないか?十字架が自分の死ぬ死刑所。それはやかましい姑や、悪いルームメイト、骨の病気ではない。自己の死である。それゆえパイパーよ、魂の満足を追求することを人生の使命とせよと説くお前は異端だ。」私もそう感じたことがあります。でも(マルコ8章の)残りの節を読みます (時々文脈を読むと理解できます)。「[なぜなら]いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」ここでの論理は何でしょうか?この箇所でのイエス様の論理は一体何でしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その論理は以下のとおりです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; --「わたしの弟子たちよ、いのちを失ってはならない。自分のいのちを失ってはならない。救いなさい!自分のいのちを救いなさい!」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ―「どうやってですか?･･･どうやってですか、イエス様?」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; --「それを捨てるのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; --「分かりません･･･意味が分かりません、イエス様。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; --「わたしの弟子たち、愛する者たちよ。わたしが言っているのは、わたし以外のすべてを捨てるという意味で自分のいのちを捨てると言うことです。『一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかしもし死ねば、豊かな実を結びます。』この世に死になさい。名声に死になさい。富に死になさい。罪深いセックスに死になさい、ずるをして出生することに死になさい、人から認められたいと思うことに死になさい。死んで、わたしを得なさい。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は自己否定を信じます。金を得るために、ブリキの自分を否定しなさい。岩の上に立つために、砂の自分を否定しなさい。ワインを得るために、まずい水である自分を否定しなさい。完全な自己否定と言うのはありません。イエス様もそのようには言われませんでした。私は自己否定を信じます。イエス様ご自身が言われる、マタイ13:44のこのみことばを信じます。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、''大喜びで''帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」あなたはそれを自己否定と呼びますか?そうです!彼は自分の持ち物すべてを売り払ったのです。キリストを得るために、彼はすべてのものをごみやくずとみなしたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから、そうです、それが自己否定です。そしていいえ、それは自己否定ではありません。この世を愛する自分という、十字架にかけられなければならない自己があります。しかし新しい自己、すなわち、キリストをすべてのものに勝って愛し、主にのみ満足を見出す自分は、その自己を殺さないのです。それが新しい被造物です。その自己を神で満腹させてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ああ、私は自己否定を信じます。若い金持ちには理解できなかったのですが、イエス様がそのとき教えられた自己否定を信じます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。」そして彼はそれをしようとしませんでした。イエス様は弟子たちに、「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と言われます。弟子たちはものすごく驚いて、「それでは、だれが救われることができるのだろうか」と言います。イエス様は、「それは人にはできないことです。だれもわたしが言っている心を自分で持つことはできません。でも神にはできます」と言われ、「どんなことでも神にはできるのです」と言われます。するとペテロが甲高い声で、「私たちはすべてを捨ててあなたに従って来ました。私たちはどうでしょうか?すべてを犠牲にしたのです」と言います。どのような口調で話されたのか、知ることができたならと思いますが、イエス様は、「ペテロよ。わたしのために、また福音のために、この世からの迫害で、家、父、母、兄弟、姉妹、畑や子を捨てた者で、永遠のいのちという後の世で、その百倍の母、姉妹、兄弟、土地、子を受けない者はありません。犠牲にしたものの何千倍もの報酬を受けないものは誰もいません。自分の首が切り落とされるとき、自分を可哀想に思ってはいけません」と言われます(マルコ10:17―31)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その通り、私は自己否定を信じます。自分が神にあって十分に満足するのを妨げるすべての自己を否定することを信じます。そしてそれが聖書の言うところの自己否定であると、私は理解しています。偉大な宣教師、ディビッド･リビングストンとハドソン･テイラーが、妻を亡くし、健康を損ない、一つのこと以外すべてを失った晩年、「私は犠牲を払ったことはありません」とケンブリッジ大学の生徒らやあらゆる人々に言ったことは、まったくその通りです。そうです、その通りなのです!彼らが何を言っているのか、私は分かりますし、皆さんもお分かりになると思います。若いながらにして自分の命を投げ出したジム･エリオットが、「失うことのできないものを得るために、維持し続けることのできないものを与える人は、愚か者ではない」と言うのは、まったくその通りです。それが自己否定について私が信じるものです。ですから異論その2は成り立ちません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3. 人の感情に強調を置きすぎてしまわないか? ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「キリスト教とは基本的に、献身という意思の決断ではないだろうか?感情というのは後についてくる、随意的な、飾りではないか?パイパーさん、あなたの語るキリスト教とは、感情を突出した聖書的でないところまで引き上げると思う。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも聖書を読み、議論している最中に聖書を読むと助けられますが、以下のものを私は見つけました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''私たちは喜んでいるように命じられています。ピリピ4:4、「主にあって喜びなさい。」'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''私たちは望みを持つように命じられています。詩篇42:5、「神を待ち望め。」'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''私たちは恐れを持つように命じられています。ルカ12:5、「ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。」'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''私たちは平安を持つように命じられています。コロサイ3:15、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''私たちは熱心になるよう命じられてします。ローマ12:11、「霊に燃え、主に仕えなさい。」これは選ぶ余地のあることではありません。飾りでもありません。命令です!「主に仕えなさい。」'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''私たちは悲しむよう命じられています。ローマ12:15、「泣く者といっしょに泣きなさい。」私たちには選択の余地がありません。泣かなければならないのです、泣く者と共に泣かなければならないのです。'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''私たちは慕い求めるように命じられています。1ペテロ2:2、「純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」それは選択肢ではありません。「自分のうちにその慕い求めを起こさせることができないよ。これが命令なはずがない。」間違っています!その通り、自分の意志で自分のうちにそのような感情を起こさせたり消したりすることはできません。でもいいえ、それでもそれは義務なのです。そこに、昨夜聞いた、私たちの絶望的な状態があるのです。'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今私が言っている、私たちが命じられていることのすべては、この場の意志力や決断や献身でできることではありません。奇跡の力のみによってできることです。絶望的でありませんか?全能の神に、自分ができないことをしなさいと言われるのは、絶望的ではありませんか?もしあなたの心が正しければ、あなたはそれをすることができます。私たちは堕落しており、優しい心を持ちなさいと命じられています。「互いを思いやり、親切にし合いなさい。」許しは「ごめんなさい」と言うことだけではありません。それを心で感じなければならないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''私たちは感謝をささげなさいと命じられています。クリスマスの朝におばあちゃんからプレゼントをもらった子どもを想像して見てください。それは黒の靴下でした!ウエッ!クリスマスに靴下、しかも黒の靴下をもらって喜ぶ子はいません。あなたは「おばあちゃんにありがとうと言いなさい」と言います。子どもは「靴下ありがとう」と言います。そのようなことを聖書は言っているのではありません。子どもは意志力で「ありがとう」と言うことができます。でも意志力でその靴下を心から感謝することはできません。あなたも、エペソ5:20の「すべてのことについて･･･感謝しなさい」という命令に従って、意志力で神に感謝することはできません。全能の神が働いてくださらなければ、私たちはおしまいです。'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
異論その3?私はそうは思いません。聖書が教える以上に気持ちや感情を持ち上げているとは、私は信じません。アメリカ的決断力、献身で苦しむ、「自分でできるんだ」的意志力の宗教を捨て、自分の支配を超えたものであるそれ(気持ちや感情)を、私は元の位置に戻しているのだと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4. 神に仕えるという高貴な概念はどうか? ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「神に仕えるというのは義務ではないのか?パイパーさん、あなたの言っているキリスト教は仕えることには聞こえないよ。それは仕えるのが大変な時に神のみこころを成す、と言うチャレンジを受けて立つという、同じ義務である仕えることのようには聞こえない。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それに対し、「仕える者のたとえを形作っている聖書箇所を一緒に見てみましょう」と答えることを、私は学びました。給仕する者であれ、息子や娘であれ、友人であれ、自分の神との関係についてのすべてのたとえは、もしそれを強調すると、間違いになります。中にはもしそれを強調すると、本当である要素もあります。仕える者のたとえの中で、間違いと事実であるものとは、一体何でしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神に仕えるとき神を冒とくすることにならないため、分けるべき二つのことを見分けさせてくれる聖書の箇所は、使徒17:25、「(神は)何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです」です。神には仕えられる必要はないのです、皆さん。気をつけてください。主にはあなたやあなたの奉仕が必要であるかのように、仕えられる必要はおありになりません。主はそのようなお方ではありません。あるいは、マルコ10:45のような箇所もあります。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」主は仕えられるために来られたのではありません。気をつけてください!もしあなたが主に仕えることを誓約するなら、主の目的を邪魔することになります!ややこしいようですが、ややこしくありません。パウロはその書簡のほとんどすべてで、自分のことを主のしもべと呼んでいます。それなのに、この使徒17:25とマルコ10:45では神は仕えられる必要がないとか、人の子は仕えられるために来たのではないと言います。悪い奉仕と良い奉仕があるはずです。何が良い奉仕なのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
良い奉仕というのは、1ペテロ4:11です。「奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス･キリストを通して神があがめられるためです。」神は何かに不自由なことでもあるかのように人の手によって仕えられる必要はありません。あなたは自分が絶えず受ける側であるかのように礼拝し、文書をタイプ打ちし、講義を聴き、車を運転し、おむつを変え、説教する方法を探さなければなりません。なぜなら与えてくださるお方が栄光をお受けになり、受ける側が喜びを得るからです。私たちは使徒17:25の、「[神は]何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって[あたかも主が受ける側であるかのように]仕えられる必要はありません」を越えてしまうときはいつでも、私たちは神を冒とくするのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昨日私はこの集会のリーダーのメンバーに、奉仕について語る、マタイ6：24の、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」というみことばから、たとえを話しました。奉仕についての話しです。みなさんはどのようにお金に仕えますか?お金の必要を満たすことによっては仕えません。お金から益を得るよう、自分のエネルギーと時間と努力のすべてをもって、自分の生活を執拗に気取らせることによって、お金に仕えます。いかに利口な投資ができるか、いかにいい取引ができるか、後で価格が上がるから、今価格が下がっているものにいかにして投資すればいいか、お金があなたの源であるため、あなたはお金からできる限り益を得ることに、夢中になるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしそれがあなたのお金を貯める方法であるなら、どのようにしてあなたは神に仕えることが出来るでしょうか?姿勢を整え、自分の生活を操り、神の絶え間ない恵みの滝の下に自分を置くために、エネルギーと努力と時間と創造力を費やす、というのと全く同じです。そうすることによって、主が源であり続け、あなたが空っぽの受ける側であり続けるからです。あなたが恩恵を受ける側で、主が恩恵を施すお方であり続けます。あなたが飢えている者で、主がパンであり続けます。あなたが渇いた者で、主が泉であり続けます。あなたは神を冒とくして立場を逆転させることはありません。私たちは神がお与えくださる力によって仕えるという方法を見つけなければなりません。私は仕えているとき、受ける側なのです。そうでなければ私は神を、恩恵を受ける側に置いてしまいます。私が主に恩恵を施す者になってしまい、ということは私が神ということになってしまいます。そのような宗教は世界中にあります。ですから異論その４は成り立ちません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5. 自分を中心に置くことにならないのか? ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「あなたは自分の喜びと楽しみを追求することを話している。私たちが知っている義務とは違う、別のものを話しているが、あなたは私たちは奉仕について気をつけなければならないと言う。それは自分を中心に置くために、聖書のことばを操って巧みに扱っているようにしか聞こえない。」それはとても辛辣な批判だと思いませんか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下が私の答えです。今度の12月21日で、私は結婚して28年になります。ノエルを心から愛しています。本当に大変だったことと、本当に嬉しかったことなど、沢山のことを共に経験しました。私たちの十代の子どもたちが、大変な思春期を通るのを見ました。息子たちと幼い娘のことを思うと、私はすぐに泣いてしまいます。その私がたとえば、12月21日に、家に帰って来て、28本の長い茎の赤いバラを背後に隠し、玄関のベルを鳴らしたとします。なぜ私が自分の家のベルを鳴らしたのか分からずちょっと困惑した顔でノエルがドアを開け、そして私がバラを取り出し、「結婚記念日おめでとう、ノエル」と言います。「ジョニー、何て綺麗なの!どうして?」と彼女は言い、私は「それが私の義務だよ」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは間違った答えです。巻き戻ししましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; [ピンポーン] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; --「結婚記念日おめでとう、ノエル!」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; --「ジョニー、何て綺麗なの!どうして?」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; --「君のためにバラを買うことほど嬉しいことはないよ。洋服を着替えてきたら?実はベビーシッターを雇ったんだ。今夜は特別なことをするんだ。君と夜を過ごす以外僕には他にしたいことはないからね。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが正しい答えです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜでしょう?なぜノエルは、「あなたは私が出会った中で一番自己中心なクリスチャンの快楽主義者よ!あなたが考えることは自分を幸せにすることばかり!」と言わないのでしょう?ここで何が一体起こっているのでしょうか?なぜ義務は間違った答えで、喜びが正しい答えなのでしょうか?皆さんはお分かりになりますか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしあなたがこれを理解することができたら、理解したのです。そしたら私はミネアポリスに戻り、神を賛美することができます。私の妻は、私が彼女で最も満足しているときに、たたえられるのです。もし私が自分の人間関係を、奉仕の関係に変えたら、彼女のうちに自分の喜びを求めない義務の関係に変えたら、彼女は軽くあしらわれることになります。神も同様です。あなたが御国へ行き、み父があなたを見て、「なぜお前はここにいるのか?なぜわたしのために自分の命を投げ出したのか?」と言われるとき、「私はクリスチャンですので、ここに来るのがわたしの義務でした」とはあなたは言わない方がいいでしょう。「他に行きたいところがありましょうか?あなた以外に行き着きたいところがありましょうか?あなたは私の魂が慕うお方です!」と言ったほうがいいでしょう。そしてそれがこの集会です。この集会は、イザヤ26:8と268の宣言を下に、二つの素晴らしいことを求めて集まった会です。それは神の、ご自身のみ名と呼び名に対する情熱と、自分の切望するものすべてにおいて満足したいという私の情熱です。それはこの全世界で揺るぐことのないものです。それらは一つであることを皆さんが見ることができたらと望みます。なぜなら神と神のみ名と呼び名は、私が主のうちに最も満足しているときに、もっともたたえられるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 17 Mar 2016 19:53:07 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A5%9E%E3%81%AE%E4%B8%BB%E6%A8%A9%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E6%83%85%E7%86%B1_%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%882</comments>		</item>
		<item>
			<title>神の主権に対する情熱 パート1</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E4%B8%BB%E6%A8%A9%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E6%83%85%E7%86%B1_%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%881</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「神の主権に対する情熱 パート1」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Passion for the Supremacy of God, Part 1}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(以下は録音メッセージから書き起こしたものです) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== パッション'97に来る理由 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''理由その1''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ私がここにいるのか、その理由を皆さんにお話することから始めたいと思います。一つの地域教会に牧師として16―17年間いることの素晴らしい利点の一つは、教会のビジョンと牧師のビジョンが年月を超えて一つとなることです。1年ほど前に私たちは理念を作成しましたが、それは以下のとおりです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「私たちは、すべての人の喜びのため、すべてのうちにある神の主権に対する情熱を広めるために存在する。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はためらわずに、それが私の人生の使命であり、そしてベツレヘム･バプテスト教会の使命でもあると、言うことができると思います。ですから招待状をいただいてこの集会について[の説明を]読み、「情熱」という言葉を見て、そしてイザヤ26:8、「私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います」というみこととばがその背後にあるという事実を知り、私はとりこになりました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、皆さんのすべてとこの世界の人々すべての喜びのために、すべてのもののうちにある神の主権を伝えたいです。ですからそれが私がここにいる、第一の理由です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''理由その２''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
理由その2は、私はあなたの喜びに火をつける、小さなマッチとなりたいからです。皆さんに、神にあってワクワクで、幸せで、この場から立ち去って欲しいのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''理由その3''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして三つ目の理由は、皆さんに理由その１と理由その２は共に同じ理由であるということを、聖書に見て欲しいからです。その二つは一つです。すなわち、神の主権に対する情熱を広めることと、神にあって幸せであることは、事実上全く同じです。なぜなら神は、あなたが主のうちに最も満足するときに、最もたたえられるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は、あなたが主のうちに最も満足するときに、最もたたえられるーこれが私が何度も何度も帰ってくる一文です。ですから先ほど私たちが歌った賛美や表現した飢え渇きは、神に栄光をお返しする方法です。なぜなら主のうちに満足感を見出せば見出すほど、私たちは主からより深く飲みまた宴席であられる主を食し、主のみ価値とすべてを満たされるそのご性質が、よりたからかにたたえられるからです。ですからそこには競い合いはありません。そしてこれこそ、神が私の人生にみわざを成しておられた1968年、69年、70年に私が発見した驚くべきことであり、私にとっての福音です。神の、栄光を受けたいと思われるその情熱と、あなたの満足したいという情熱は競合しません。なぜならそれらは一つだからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私がここにいる三つ目の理由を別の方法で言うと、氷河に火をつけるため、私はここにいます。私には一つの絵が念頭にあります。それはマタイ24章から描かれたものです。マタイ24:12で、イエス様は終わりの時代を見られて、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」と言われます。私は冷たくなることが死ぬほど恐ろしいです。神に対する自分の愛や、人々に対する自分の愛が、いつの日か乾ききって凍ってしまうかも知れないと考えるのも嫌です。けれどもイエス様は「それがやって来るよ!」とおっしゃいます。世界をまたぐ氷河のようにやってきます。ですからこの終わりの日に対する私の予測は、不法がはびこり、多くの人の愛が冷たくなるということです。それは終わりの日のとても暗い描写かも知れません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもマタイ24章を続けて読んでいくと、下って13節、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます」と言います。ですので誰かは耐え忍ぶのです。そしてその次の節で、「この御国の福音」、言い換えると、「この王なるイエス様の主権に対する情熱を広める福音」は、「全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」と言います。ここで、12節と14節を並べて、そこにある緊張が感じられるかどうか、見てください。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」が、キリストの主権の支配の「この御国の福音」は、「全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで、その二つの間には緊張感があります。どうしてそれがあると私が分かるのかと言うと、それは皆さんの大学キャンパスに福音を持ち帰るのは、冷たい人々ではないからです。福音を世界の未踏の人々に持っていくのは、冷たい人々ではないからです。どうやって私にはそれが分かるのでしょうか?なぜならもし数節逆戻りするなら、9節で、全く違う預言的言葉の中にあなたは何かを見出すからです。「人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます」とイエス様は言われます。もしそれが本当であるなら、私たちが宣教の働きで警察当局に訴えられるのであれば、私たちが行くところすべての国で人々に憎まれるのであるならば、メッセージを運ぶのは冷たい人々ではないということは、確実だと言うことを私は知っています。王なるイエス様の熱烈な礼拝者がそれを遂行するのです。それゆえ、マタイ24章の9―14節で私が見るのは、終わりの日が近づくにつれ、さらに氷のように冷たくなる人々と、世界のすべての人々のうちでイエス様のために命を投げ出すほど熱烈な人々が出てくる、と言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからベツレヘム･バプテスト教会における私の奉仕と、ここに到着した私の奉仕は、氷河に火をつけることです。私はこのイメージを私の教会で一度話したことがあります。私の教会では、子供たちに私の説教から絵を描くよう奨励していますが、6、7歳の少女が礼拝の後私のところにやって来て、「これが私の見たものです」と言いました。彼女はミネアポリスがのっている、驚くような氷河を描いていました。その上にはたいまつを掲げた棒状の小さい人がおり、氷河に穴が開いていたのです。その穴を通してまばゆい太陽の光が照っていました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、以下は私の一言で言う終末論です。イエス様が来臨されたとき、あなたの大学のキャンパスはどんな風になるだろうと思ったことがおありでしたら、あるいはオースティンやミネアポリス、自分の出身地がどのようになるだろうと思ったことがおありでしたら、氷河は動き続けており、多くの人々の神に対する愛が冷たくなり、乾いて、凍っています。しかし聖書には「ベツレヘム･バプテスト教会」や「ミネアポリス」や、「在オースティンのテキサス大学は氷河の下にならなければならない」と言う、終わりについての記述は一切ありません。一切です。もしたいまつがともっている、神に熱烈な人々がある程度いて、氷山に火をつければ、あなたのキャンパス、あなたの地域教会、あなたの町に大きな穴を開けることができます。そしてそれが私がここにいる理由です。わたしのたいまつに火をともしたいのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スポルジョンは100年ほど前に、イギリスのメトロポリタン幕屋教会で説教していたとき、「人々は私が燃えるのを見るためにやって来る」、と良く言いました。彼らはちらちらちらついているたいまつを受け取るためにやって来て、私のたいまつにその先端を突っ込み、出て行ってもう一週間、イエス様のために火を灯すのです。皆さんが今朝ここにちらちらちらついているたいまつを持ってきておられ、それを私の火に突っ込んで下さったなら、とても嬉しく思います。そのために私はここにいます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== このメッセージの目的は、土台を築くこと ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私がやりたいことには土台があります。ここでの私の任務は神の栄光のために生きるということと、神の栄光に対する情熱を持つということを語ることです。今朝と明日の朝の二回メッセージをします。今朝は土台で、明日は適用です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土台はこれです。神のすべてのもののうちにある主権に対するあなたの情熱は、言う間でもなく、すべてのもののうちにあるご自身の主権に対する神の情熱に基づいています。あなたの神中心さ(もしそれが持ちこたえるとすれば)は、神の神中心さに根付いていなければなりません。もし自分の生涯において神が最上位であって欲しいとあなたが思うのなら、あなたは神が神のご生涯で最高位であられるという真理を見て、信じて、愛さなければなりません。もし先ほど歌ったように、神があなたの宝となって欲しいと、そうすればあなたが神を他の何よりも大切にするからと、あなたが思うのなら、神の宝は神ご自身であり、神は他の何よりも神ご自身を大切にされるということを、あなたは見て、信じなければなりません。この全世界の最高の楽しみ、すなわち神を礼拝することを、神から取り上げることは、私たちはしないでしょう。それが土台です。それが今日私が話したいことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから明日は、神のうちにある喜びを追い求めること、そしてこの追求は、あなたの人生におけるご自身の栄光を求められる神の追求を必然的に意味する、ということについて話したいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神はご自身の栄光に対し熱烈であられる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず短い話で始めさせてください。8、9年前に私の母校であるウィートン大学で講演しました。それはこの大きくてシャンデリアのある、青い、美しいチャペルでの初めての機会でした。立ち上がって、「神の最も重要な目的は、神の栄光をあらわし、主を永遠に喜ぶことです」と言いました。バルコニー席に座っていた私の友人たちすべてが、「ああ、何てことだ。卒業後20年後に自分の母校で学生たちに語る初めての機会に、彼はウェストミンスター大教理問答を早速間違って引用しているよ。『人間の最も重要な目的』という代わりに、『神の最も重要な目的』って言っちゃってるよ」と思いました。そして彼らを安堵させるために、「私はそう思います」と続けて言ったのです。今朝私は、神の最も重要な目的は、神の栄光をあらわし、主を永遠に喜ぶことだと、そう思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は伝道者の家庭で育ちました。私の父であるビル･パイパーは、私が幼い時から1コリント10:31、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」というみことばを教えてくれました。でも神は神のご栄光のためにすべてのことをなされると言うのを誰からも聞いたことがありませんでした。私が神のご栄光のために生きることの根底は、神が神ご自身のご栄光のために存在しておられることにあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
子供たちが家に持ち帰ってくる日曜学校の文書に、「神はあなたを愛する以上にご自身を愛しておられ、それこそが、価値のないあなたを主が愛してくださるという、唯一の希望なのです」と書いてあるのを、私は見たことがありません。どの日曜学校の文書でも見たことがないので、私たちはベツレヘム･バプテスト教会で、現在カリキュラムを作成しています。私たちのほとんどが、神中心であられる神にワクワクする程度ではなく、神が私たちにワクワクしていると思う程度で、クリスチャンであることに興奮する家庭や教会で育ちました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自尊心が最高の価値である人間中心の世界で、神なしで取り敢えず自分ができたであろうことを強化する程度のクリスチャンであることは、とても簡単です。誰がクリスチャンになりたがらないでしょう?もしあなたが、神中心の神の美しさを突きつけられないで、今まで愛してきたものだけを愛するのなら、あなたはクリスチャンではありません。もしあなたの見る神が、ご自身の栄光の現れであふれる、無限に栄光あるお方ではなく、あなたの自己向上と自己高揚の方法であるならば、あなたは自分の改心を吟味する必要があります。ですからここオースティンでのパッション'97は、現実を把握させるものです。ごく少数の人が、神は私をご自身のご栄光のためにお選びになったと、私が聖書に見るようになったものを、教えてくれ、あるいは見せてくれました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1976年にエペソ人への手紙1章を、その当時のベテル大学の「インタリム(中間)」と呼ばれるクラスで教えたのですが、エペソ書の最初の14節を一節一節組織的に進みながら、私の世界が再びバッと開けたのを覚えています。それは6節、12節、14節で三度、主は私たちを世界の基が置かれる前から主にあって選ばれたのですが、それは主の恵みの栄光がほめたたえられるためであると言うからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主はあなたをお選びになりました。なぜでしょうか?それは主の栄光と恵みがたたえられ、掲げられるためです。あなたの救いは、神の栄光をあらわすためです。あなたの選びは、神の栄光をあらわすためです。あなたの再生は、神の栄光をあらわすためでした。あなたの義認は、神の栄光のためでした。あなたの聖化は神の栄光のためです。そしていつの日か、あなたの栄化は神の栄光へと吸い込まれて行きます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''あなたは神の栄光のために造られた''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イザヤ43:6、(7)「わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。私の名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神はご自分の栄光のためにご自身の民イスラエルをエジプトから救出された''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「私たちの先祖はエジプトにおいて、あなたの奇しいわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思い出さず、かえって、海のほとり、葦の海で逆らった。しかし主は、御名のために彼らを救われた。それは、ご自分の力を知らせるためだった。」詩篇106:7、８ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えると、主はご自身の偉大な力を知らせるため、葦の海(紅海)を真っ二つに分けられ、ご自身の不従順な民をお救いになったのです。そしてそれははるか遠くのエリコまで知れわたり、イスラエル人がエリコに到着し、ラッパを鳴らす準備が整ったとき、「あなたがたの名と名声を聞いています」と言ったために、生まれ変わったその売春婦を救ったのです。一人の女性とその家族が、神中心の神を信じ、破壊から逃れました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神はご自身の栄光のために、荒野でイスラエルに憐れみをお示しになった''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神はイスラエルを荒野で繰り返しお赦しになりました。「イスラエルの家は荒野でわたしに逆らった」とエゼキエルは神のみことばを引用して言います。「わたしは怒りを注ぎ出そうと思ったが、わたしの名が諸国の民の間で汚されないよう、わたしの名のためにわざを行った。」そしてその後最終的に、神は彼らをバビロンでの裁きへと送られ、75年後の主の憐れみによって彼らは暖められます。主はご自身の契約の花嫁と離婚なさらず、彼らを連れ戻されます。なぜでしょうか? 神のみこころに根ざしているその動機は、一体何でしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イザヤ48章[9―11]に耳を傾けてください。「わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを押さえて、あなたを断ち滅ぼさなかった。見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合と違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。」それは憐れみを示される神の、神中心の動機です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''イエス様は神の栄光のために来られ、死なれた''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様がこの世に来られたのはなぜでしょうか?ああ、私たちは何度、ヨハネ3:16を引用して来たでしょうか?それは素晴らしい真実です。そして今朝のこの会を終える前に、あるいは少なくとも明日の朝までには、この今強調されていることと、皆さんが恐らく長い間親しんで来たその強調は、食い違っていないことを見るでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもなぜ主は来られたのでしょうか?なぜイエス様は来られたのでしょうか?ローマ15:8によると、主はこのために来られましたー「キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。それは父祖たちに与えられた約束を保証するためであり、また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。」キリストは地上に来られ、肉体をとられ、死なれました。そうすればあなたが憐れみのゆえに、神をあがめるようになるからです。主のみ父の栄光のため、それが主が来臨された主な理由です。そして主の栄光は、憐れみの満ちあふれるところでその頂点に達します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ書3章[25、26]のこの言葉を聞いてください。「神は、キリスト･イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。･･･それは、今の時にご自身の義を現すためであり、」。主はそのために死なれました。主はダビデの姦淫や殺人のような罪を見逃して来られた神の義を立証するために、死なれたのです。神が[ダビデの罪を]見逃され、ダビデは王のままでいたということを、疑問に思ったことがありますか?パウロは、罪を見逃されるなんて神は義なるお方ではないではないかと、それに心底悩みました。そしてそれはダビデだけではありません。主がその罪を単純にお忘れになり、見逃される、旧約時代と今日においても、数多くの聖人がいるのです。パウロは「神であられながら、どうしてそれが出来るんだ?義なるお方でありながら、どうしてそれが出来るんだ?正しくあられながら、どうしてそれが出来るんだ?礼拝を受けるにふさわしいお方でありながら、どうしてそれが出来るんだ?」と叫びます。もし判事が幼児虐待者や強姦者や殺人犯を無罪としたら、もしオースティンの判事がそのようなことをしたら、一瞬のうちに退場させられます。「そして神はそれを毎日成されるのですから、一体どんな神なのでしょう?」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
十字架が、巨大な神学的問題、すなわち、神が罪をお赦しになりながら、どうやって神であることができるのかという問題の、解決です。キリストは、あなたのような人々を救われる神の正しさを立証するために、来られました。救いは壮大にまた素晴らしく、神中心なものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様は栄光をお受けになるため戻って来られる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ主は戻って来られるのでしょうか?皆さん、イエス様は戻って来られます。戻って来られるのです。なぜ主が戻って来られるのか、また主の再臨に際して、あなたにいつでも準備ができているよう、何が出来るのかをお話させてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2テサロニケ1:8―10、「(そのとき主は、)私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の･･･感嘆の的となられます。」ここから二つの事がらが見えますか?主はご自分の聖徒たちから栄光をお受けになり、あがめられ、感嘆の的となられるために、来られるのです。もしあなたが今それを始めないなら、主が来られたときにそれをすることができません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この集会は、王なるイエス様に謁見するためにあなたを準備させるため、またあなたの骨に火を灯し、あなたの頭と心に点火するために存在します。そうすれば主があなたを造られたその目的、すなわち、主に感嘆し、主をあがめるということを、永遠から永遠まで続けることができるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 私たちは望遠鏡のように神を拡大しなければならない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主を拡大するのですが、顕微鏡のように拡大してはいけません。この二つの拡大の違いがお分かりになりますよね?望遠鏡で拡大するのと、顕微鏡で拡大する方法がありますが、神を顕微鏡で拡大するかのように拡大するのは、冒とくです。顕微鏡のようにして神を拡大するというのは、小さいものをそれよりも大きく見せることです。もしあなたがそのようにしようとするのであれば、それは神を冒とくしています。でも望遠鏡は、想像もできないような巨大なものの偉大さをレンズに置き、それそのものを見せるようにします。望遠鏡はそのためにあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「キラキラ光るお空の星よ」ー夜に空を見上げたら、それらの星は点にしか見えません。でもそれが星なわけではありません。皆さんは大学生ですので、知っておられますよね?それらは大きいです。とてもとても大きくて、熱いのです!昔誰かが望遠鏡を発明して、それを目に当てて、「これは地球よりも大きい、地球よりも何百万倍も大きい」と思ったこと以外、あなたにはまったく分かりません。神はそのようなものです。あなたの人生は、神の栄光を望遠鏡であなたのキャンパスに拡大するためにあるのです。それはとても大きな召命です。どのようにそれをするのか、明日話したいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== もし神が神中心であられるなら、どのようにして愛なるお方でいることが出来るのか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これがこのメッセージを閉じたい鍵となる質問です。なぜならそこから膨れ上がり始めるからです。神は神中心の神であられ、そして主の神中心さは私の神中心さの根底だという真理を、私は述べました。それを20年間人々に言い続けてきたのですが、疑問が沸き起こって来ます。「それは愛のあるお方のように聞こえない。なぜなら聖書は、1コリント13:5で、『愛は自分の利益を求めない』と言っている。先生はこの15分間、神はご自身の利益を求めることにその時間すべてを費やしておられると言っている。だから神が愛のないお方であるか、先生が嘘つきか、そのどちらかだ。」それは大問題です。ですから神がご自身があがめられることを求められることにおいて、愛あるお方であるということがどのようなことであるのか、答えさせてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''C.S. ルイスの助け''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はC.S. ルイスにその鍵を見出しました。もし『デザイアリング･ゴッド[神を慕い求める]』を読んだことがおありの方がおられましたら、この引用を覚えておられると思います。ルイスは20代後半まで偶像礼拝者で、神のうぬぼれを嫌っていました。詩篇の、「主をほめよ、主をほめよ」という言葉を読むたびに、彼は詩篇が影響を受けているキリスト教の教理を知っており、そしてそれは神が「わたしをほめよ、わたしをほめよ」と言っておられるのを分かっていて、それはあたかも年配の女性が褒め言葉を求めているように聞こえたのです。それは『詩篇を考える』からの引用です。そしてその後突然、C.S.ルイスの人生に神がご介入になります。以下彼が書いていることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「賛美についての最も明らかな事実―それが神のものであろうが何のものであろうが―が奇妙にも思いつかないのだ。ほめ言葉、賛辞、あるいは敬意を払うことの観点からそれを考えて見た。恥ずかしさや、人を退屈させてしまうのではないかという恐怖が意図的に持ち込まれない限り(時にはそれが持ち込まれたとしても)、楽しみのすべては無意識のうちに賛美へとあふれ出すことに、私は気づいたことがなかった。この世には賛美が響き渡っている。恋人たちはお互いをたたえ合い、読者は好きな詩人をたたえ、散策を好む者たちは田園風景をたたえ、スポーツを好む者たちは好きな競技をたたえる。天気、酒、食器、俳優、馬、大学、国、歴史上の人物、子供、花、山、珍しい切手、珍しいカブトムシ、時には政治家や学者だって、たたえるのだ。神をほめたたえることについて理解に苦しんだため、[賛美と言うのは]最も価値あるお方以外で最も大切にするものを、私たちが喜んですること、事実しないではいられないことであるということを、私は愚かなほどに認められなかった。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、以下が鍵となる文章です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「私たちは楽しむものを喜んでたたえると思う。なぜなら称賛はその楽しみを表現するだけでなく、楽しみを達成するからだ。それがその楽しみの定められた到達点なのである。お世辞で恋人はその愛する人に彼女がいかに美しいかを言い続けるのではない。嬉しさは言葉で伝えられて初めて完成する。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが私にとって、神がその成されることすべてにおいて自画自賛されながら、いかにして愛あるお方であることができるのか、ということを明らかにする鍵でした。それはこのようになります。皆さんのために、パズルのピースを合わせてみましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''疑問に対する答え''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし神があなたを愛しておられるなら、主はあなたに何をあげなければならないでしょうか?主はあなたにとって最高のものをあなたにあげなければなりません。この全世界で最高のものとは、神です。もし神が完全な健康と、最高の仕事、最高の伴侶、最高のパソコン、最高の休暇、あらゆる業界における最高の成功をあなたに与えておいて、もしご自身をお与えにならなかったら、神はあなたを憎んでおられるということになります。もし主が他の何ものも与えずご自身をあなたにお与えになるなら、主はあなたを無限に愛しておられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし神が私を愛し続けてくださるなら、私は神を自分の楽しみとして持たなければなりません。ルイスはもし神が、あなたが永遠に主を楽しむためご自身をお与えになるのなら、その喜びはあなたが賛美で表現しない限り、完成しないと言っています。それゆえ、神があなたを十分に愛するためには、あなたが賛美を通して自分の喜びを完成させるために喜ぶかどうかに、無関心ではいられません。それゆえあなたが主によって愛されるためには、神はあなたの賛美を求めなければならないのです。お分かりになりますか? 皆さんにそれを復唱してもらった方がいいでしょうか。それが私の人生の核心です。それが聖書の核心でもあると私は信じます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたを愛するために、主はあなたにとって最高のものを与えなければなりません。神があなたにとって最高のものです。「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11) 神は私たちの楽しみのために、ご自身を私たちにお与えくださいます。でもルイスは、その楽しみが神への賛美で表現されない限り、その楽しみが制限されてしまうということを見せてくれています。それゆえ神は、あなたの楽しみをまったく制限したくないがため、「わたしをほめよ。あなたのするすべてのことにおいて、わたしをほめよ。あなたのするすべてのことにおいて、わたしをたたえよ。あなたのするすべてのことにおいて、わたしの主権に対する情熱を持ちなさい」と言われます。それは、神のご自身の栄光を現そうという情熱と、あなたの喜びたい、満足したい、という情熱は、食い違っていない、ということを単純に意味します。それは一致します。あなたが主のうちに最も満足しているときに、神の栄光が最もあらわされます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、それが今朝のメッセージの終わりです。明日は私たちはどこへ行くのかを説明させてください。そうすれば皆さんがそれに向けて祈り、願わくば、このメッセージを私に終わらさせてくれるからです。私はまだメッセージを終えていません。もし、あなたが主のうちに、最も満足しているときに、神の栄光が最もあらわされると言うことが本当であるなら、それゆえあなたが主のうちに満足することと、主のあなたのうちでの栄光化の間には、緊張や矛盾がまったく無いというのが本当であるなら、あなたの人生の使命は、自分自身の楽しみを追求することです。私はこれを、クリスチャン快楽主義と呼びます。どのようにしてそれを追求すればよいのか、そしてそれがなぜあなたの人間関係、あなたのキャンパス、あなたの礼拝、あなたの永遠を変えるのかを、明日話したいと思います。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Wed, 16 Mar 2016 20:41:11 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A5%9E%E3%81%AE%E4%B8%BB%E6%A8%A9%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E6%83%85%E7%86%B1_%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%881</comments>		</item>
		<item>
			<title>永久保全はコミュニティープロジェクト</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%85%A8%E3%81%AF%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「永久保全はコミュニティープロジェクト」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Eternal Security Is a Community Project}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。13 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。16 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。18 また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 二つの大きな「もし」 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先週私たちは6節と14節の二つの大きな「もし」に注目しました。再度それを開いて、私たちがベツレヘム教会で共にしている人生が、どのようにしてこの大きな「もし」を達成させることができるかに注目してみましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6節後半、「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神[キリスト]の家[家族、主の民]なのです。」気をつけて注目してください。もし私たちが希望をしっかり持ち続けるなら、キリストの家になる、とは言ってはいません。もし私たちが希望をしっかり持ち続けるならば、主の家である、と言っています。言い換えれば希望をしっかり持ち続けることが、私たちが主の家であることの現れであり、証しであるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから14節の「もし」を見てください。「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」再度、言い回しに注意して注目してください。「もし最初の確信をしっかり保ちさえすれば、私たちは、将来キリストにあずかる者となるのです」とは言いません。「もし最初の確信をしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となっているのです(過去に)」と言います。&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 言い換えれば、確信を最後までしっかり持ち続けることが、現実にそして永続する何かが私たちに起こったということ、すなわち、私たちはキリストに預かるものになったということを、立証するのです。私たちは本当に生まれ変わったのです。本当に改宗したのです。本当にキリストの家の一員とされたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私たちが最初の確信を保ち続けなかったら、結論はどうなるでしょうか?それはキリストにあずかる者でなくなるということではなく、キリストにあずかる者になったことがなかった、と言うことです。気をつけて読んでください。「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者とな[ってい]るのです。」そしてそれがそうであるならば、「もし私たちが最初の告白を保ち続けなかったら、私たちはキリストにあずかる者となったことがなかったのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== へブル人への手紙は永久保全&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt;を教える ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は先週、この箇所をもとに、この書簡は永久保全を教えると言いました。つまり、もしあなたが本当にキリストにあずかる者となっているのであれば、あなたは絶えずキリストにあずかる者です。主があなたのうちに働いて、あなたの信仰と希望を維持してくださいます。それを他の方法で言うならば、もしあなたが神の子であるなら、神の子でなくなることがあるはずがない、と言えます。でもクリスチャン人生をスタートしたのに、キリストから離れ去っていく人が多くいることを私たちは知っています。そのような人こそが、この[へブル書の]著者の念頭にあります。彼はそれが実際に起こることを知っており、この箇所でどのようにそれが起こらないようにするかを論じています。もしそれが起こってしまったら、その人がキリストにあずかる者ではなく、キリストにあずかったことのない者であった、という説明を彼はします。もし私たちが最初の確信を保ち続けるなら、私たちは、キリストにあずかる者となっているのです。もし私たちが確信を保ち続けないなら、キリストにあずかる者になったことがなかったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、信仰と希望を堅く持ち続けることと、神にある確信をしっかり持ち続けることとは、キリストのうちにあるあなたの身分を失わないようにする方法ではありません。それはあなたがキリストのうちに身分があるということをあらわす方法です。その身分を失うことは決してありません。なぜなら神の恵みの賜物によって、あなたはそれを保持しているからです。またキリストが契約と誓いを持って(ヘブル6:17―19)、主のものである者たちを守るとお約束になっているからです(ヘブル13:5、20―21)。言い換えれば、私の安心と確信は、過去に私が[キリストを信じると]決断したことや祈った[罪の悔い改めの]祈りを思い出すことではなく、私の安心と確信は、将来私が絶えず神に希望を置くようにしてくださる神の誠実さと力です。私の安心は、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト･イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」(ピリピ1:6)です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== もし信じる者になったことがないのであれば、どうやって「神から離れる」ことができるのか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ここでいくつかの質問があげられます。一つは、もし私たちが希望と確信を保ち続けることができないのは、私たちがキリストにあずかる者となったことがなかったという意味であるなら、12節で私たちは何から離れているのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる[あるいは顔をそむける]者がないように気をつけなさい。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが本当に神に属したことがないのなら、どのような意味で神から離れたり顔をそむけたりすることが出来るのでしょうか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
簡単な答えは、妻から離れるのではなく、婚約者から離れるという、起こりうる痛い離別がある、ということです。これについて著者が私たちに考えさせようとしているのは、7―11節(詩篇95)のイスラエルの民の例にあると私は思います。9節で彼は、民は「四十年の間、わたしのわざを見た」のにも関わらず、神に対し心をかたくなにし(8節)、心が迷った(10節)と、指摘します。言い換えれば、彼らは神が紅海を二つに分けられ、彼らをエジプトから救い出されるという大きな憐れみを示してくださったのを見ました。主が岩から水を、空からマナを、雲と火の柱による導きと、敵からの救出、生きるための良き律法をお与えくださり、彼らの反抗に対する寛大さをお示しくださったのを見ました。これらすべてにも関わらず、彼らの心はかたくなになり、神に望みをおくことを放棄したのです。彼らはエジプトに戻りたがり、偶像を造り、不平をこぼしました。これが[へブル書の]著者が言う、「生ける神から離れる」と言う意味です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼らは神の偉大なみわざのうちに引きずり込まれていきました。主のみ力を味わい、主の御霊と慈愛から利益を得ました。神の啓示をこの世のどの民よりはるかに深く理解していました。そして離れたのです。それは新約聖書時代の民も同じでした。今日でも同じです。これらの人々はヘブル2:4で触れられているしるしと不思議に引き込まれて行きました。来るべき時の神の力を味わいました。彼らは愛してくれる人々のうちに引きずり込まれて行き、彼らの間と彼らの人生のうちに働かれる御霊のみわざを、ある程度体験しました。福音の光をそれとなく見ました。洗礼を受け、聖餐にあずかり、説教を聞き、恐らく自分でも驚いてしまうようなわざを行いました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしイスラエル人と同様、彼らの心はかたくなになり、不信心の悪しき心が優勢になり、キリストよりも他のものに望みを置くようになり、そのうち彼らを取り巻いていた良き事がらのすべてから離れました。へブル書では、これは彼らが「キリストにあずかる者となってはいなかった」ためと説明します。彼らはある程度の悟りと力と喜びにあずかりましたが、(イエス様のみことばをお借りすると)そこには根がないので枯れてしまい、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれてしまったのです(ルカ8:13―14)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、あなたはある程度神のみわざ、つまり、主の民の愛、みことばの光、祈りの特権、主が見本を示された道徳の力、主の御霊の賜物と奇跡、主の導きの恵み、そして日毎の太陽と雨の啓示に近づいた上で、神から離れることができるのです。これらの事がらを味わい、それらに深く影響を受けていながら、不信仰のうちに救われていない者であることは可能です。なぜならイエス･キリストがその人の心の喜びと希望と確信と報酬ではないからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様はこれらは間違った[救いの]確信であると警告するために、それを何度も繰り返してお教えになりました。例えば、マタイ7:21―23で、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」と言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
預言すること、悪霊を追い出すこと、イエス様のみ名によって偉大なわざを成すことは、イエス様が私たちを「知っておられる」ということ、あるいは私たちがキリストにあずかる者である、ということを証明しません。かたくなな、変えられていない心で、それらのことを成すことは可能です。イエス様によって「知られている」という証拠は、イエス様が私たちの希望、確信、宝、報酬である、ということです(ヘブル10:24、11:25―26)。それが私たちの人生を変える、内なる現実です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
質問は、もしキリストにあずかる者となったことがなかったのであるならば、どうやって神から離れ、あるいは神に背を向けることができるのか?というものでした。そしてその答えは、神を信じ、主に望みをおき、主を愛することなしに、主の臨在にあずかる方法は沢山ある、です。そしてキリストご自身にあずかる者となることなしに、キリストから離れる方法も沢山あります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== どのようにしたら自分の永久保全を確信できるのか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では二番目の質問は、私たちはどうすればいいか?どのようにしたら私たちは永久保全を理解し、喜び、確信できるのか?というものです。12、13節に二つの答えがあります。一つは大雑把なもので、もう一つはもっと具体的です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず最初に12節の大雑把な答えです。「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」大雑把な答えは、「気をつけなさい!」「心に留めなさい!」「注意しなさい!」です。言い換えれば、自分の心の状態に不注意であったり、無頓着であったり、怠慢であってはならない、ということです。気をつけてください。パウロが2コリント13:5で言うように、信仰に立っているかどうか自分自身をためし、吟味してください。あるいはペテロが2ペテロ1:10で言うように、「ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。」楽に進もうと思ったり、放浪したりして、信仰の忍耐を特に注意を払う必要のないことのように思わないでください。代わりとなるようなあらゆる種類の情熱が、あなたの信仰を盗んでキリストを他の宝とすり替えようと、毎日あなたの心に戦いをしかけます。気をつけてください!しっかり見張ってください!熱心になってください!あなたの心を注意深く見つめてください。箴言4:23で言うように、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」それが12節の答えです。心に留めてください! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「それなら、もし私がキリストに本当にあずかる者であるなら、私はそうであると信じるけれど、私は永遠に守られていてキリストにある自分の身分を失うことはまずない、とあなたが言うのに、なぜ私は心に留めて用心深くならなければならないの?」と聞いてくる方がおられるかも知れません。そのような疑問は、新約聖書でそれが本当ではないと言っていると、決めてかかっているものだと思います。神の選ばれた者たちを御国へ導く神の方法は、警戒心や用心深さ、自己評価、そしてありとあらゆる方法を用いる勤勉さを必要としないと、決めてかかっています。しかし事実イエス様はルカ13:24で、「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから」と言われます。またペテロも、「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」と言っています。本物のクリスチャンは自分の心に注意し用心する必要がない、というのは真理ではありません。もし自分の心に注意を払い用心するなら、それであなたは本物のクリスチャンであると知ることができるというのが、真理です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の身分を心配しなくてはならないのは、傲慢なクリスチャンです。受洗し、[イエス様を受け入れると決心して前に進み出て教会堂の座席間の]通路を歩き、[イエス様を信じるという]祈りを祈り、聖餐にあずかり、教会に通ったけれども、イエス様を愛さず、自分の最愛の宝とせず、あるいは主に望みをおかず、主にまみえる日を心待ちにせず、「生きることはキリスト、死ぬことも益です」と言うことができない人々です。それらは不安を感じなければならない(申命記29:19参照)、自己安堵に浸っている人たちです。彼らは、よく教会の中で、自分の救いをあたかも予防接種のように扱う人たちです。何年も前に予防接種を受けたので、不信仰の危険がまわりにあることを一切考えもせずに、すべてうまく行っていると思い込んでいます。「生後8日目で、あるいは6歳のときに地獄に対する予防接種を受けた」と彼らは言います。ですから天国へ行くということは、自分の心がかたくなになったり不信仰になったりしないよう、用心することではないのです。単純に、予防接種を確実に受けることが大事なのです。非常に危険なのはそう言う人たちです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
心に留めなさい、不信仰に警戒しなさいーそれが私たちが自分の永久保全をどのようにして確信し続けるかの、最初の答えです。つまり、競り合うすべての宝に対抗して、キリストにのみ自分の確信と望みを置き続けるよう用心深くなる、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二つ目の答えは13節にあり、もっと具体的です。「『きょう』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。」二つ目の答えは、永久保全は共同体のプロジェクトだと言うことです。「悪い不信仰の心」と、イエス様を宝とするよりももっと大切な宝にさせようと、私たちを毎日誘惑してくる罪の惑わしでかたくなにならないために、ベツレヘム教会で私たちは何をしなければならないでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 教会はどのようにして私たちが「悪い不信仰の心」にならないために、助けるのか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その答えは、私たちがお互いのために教会にならなければならない、ということです。そして教会はお互いのためにおもに何をするのでしょうか?私たちは罪の誘惑に惑わされないよう、お互いに語り合います。あるいはキッパリと言うならば、すべてのものにまさるキリストの最上の価値を私たちが信じるよう、お互いに語り合うのです。お互いの信仰を保つため、人々を真理とイエス様のみ価値にさし向けるような言葉を語ることによって、私たちは戦います。そのようにして悪い不信仰の心から自分を守るのです。不信仰とは、イエス様が自分の最も大切な宝であるということに安息しない、ということを意味します。ですから信じるようお互い助け合うというのは、なぜイエス様は他の何よりも強く望まれ、信頼され、愛されるべきお方であるかを、人々に見せるということを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでは神がなぜクリスチャン人生を個人と共同体で気配りするよう定められたのか、またなぜ永久保全を共同体のプロジェクトとして設計されたのかという説明がなされています。クリスチャン人生のこのような生き方というのは、キリストの栄光を私たちの相互関係の中心とする、というのがその説明です。もし永久保全が予防接種のようなものであるとしたら、キリストは予防接種を受けた当日は栄光をお受けになるかも知れませんが、その後、私たちが予防接種したことを忘れてしまうように、主のことをも忘れるかも知れません。しかしもし永久保全が不信仰に対する日常の格闘を伴うとしたら、勝利の武器は、キリストが信頼できるお方であられること、キリストが偉大であられること、そしてキリストがすべてにまさって価値あるお方であられるという、信仰を建て上げる励ましです。もし私たちが主に信頼し続けるよう、毎日お互いにこのように語り合わなければならないのなら、主は日毎に大切にされます。主が絶えず語られ、絶えず注目の的になります。ですから神は、主の御子が予防接種のように忘れ去られないように、全宇宙の最大の宝として毎日ほめたたえられるよう、永久保全を共同体のプロジェクトと定められたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、12、13節から、ここでは説教以上の何かが念頭におかれているというのは、はっきりしています。それが私の説教でしようとしていることでもあります。つまり、悪い不信仰の心を持たないよう週ごとにあなたを励ますことです。でもこの箇所はそれ以上の、二つのことを言っています。一つは(13節で)、この励ましは週一度だけでなく、「日々」なされるべきである、ということです。もう一つは、これは「互いに」(13節)なされるべきである、つまり、説教者から受けるだけでなく、お互いに励まし合うべきである、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この確信、つまり、お互いに対するミニストリーは、あなたの信仰における堅忍とあなたの救いにとって、とても重要です。この確信を基に、この秋ベツレヘムで小グループのミニストリーの波長を合わせようと、長老たちが決めました。この大きさの教会でこのような共同体としての信仰の戦いを勧めるには、小グループのために広い場所を設けて多数参加に合わせることより、いい方法はないと私たちは信じます。ですから9月上旬から毎週日曜の夜は小グループに時間を取っておき、水曜の夜は週の半ばに食事を囲みながらお互いに交わり合い、教会として礼拝を共にし、グループのうちで神が成しておられる信仰を建て上げる話を語り合い、私たちのうちで誰も不信仰な心で生ける神から離れてしまわないよう、子供たち、若者、大人たちに神のみことばを教えることにささげます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この両者の動き、つまり、1)多くのグループが日々お互いを励まし合うミニストリーチームになるように期待して、毎日曜夜を利用可能にすることによる、小グループの波長合わせと、2)水曜の夜の様式を交わり、礼拝、教え、そして神のご臨在の力の話にする、というミニストリーの可能性に、私は興奮しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたの人生がこのクリスチャン人生の様式と一致するかどうかを吟味する際、この聖書の箇所を真剣に受け止めるよう、心底あなたにおすすめします。お互いの信仰のために戦うことに熱心な信者との小グループの定期的集まりは、あなたが知りもしなかった確信と安心の喜びにあなたを導き、勇気ある伝道と世界宣教へとあなたを解き放たないでしょうか?それが神が私たちを召しておられるものだと私は思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳(その他新共同訳、口語訳でも)では「あずかる者となるのです」と未来形であるかのように訳されているが、岩波翻訳委員会訳(1995年版)では、「私たちは、はじめのものを終りまでしっかりしたものとして堅持[さえ]しているなら、キリストに参与するものとなっているのである。」と現在進行形で訳されており、こちらの方がESV訳に限りなく近い。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; 永久保全(英語では”Eternal Security”、日本語訳は Wikipedia から借用)は、日本語では聖徒の堅忍(Perseverance of the Saints)という用語の方で広く知られている。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Wed, 02 Mar 2016 20:45:50 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%B0%B8%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%85%A8%E3%81%AF%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88</comments>		</item>
		<item>
			<title>主権の恵みによって支えられる―永遠に</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E4%B8%BB%E6%A8%A9%E3%81%AE%E6%81%B5%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E6%94%AF%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E2%80%95%E6%B0%B8%E9%81%A0%E3%81%AB</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「主権の恵みによって支えられる―永遠に」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Sustained by Sovereign Grace—Forever}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; それゆえ今イスラエルの神、主は、この町、すなわちあなたがたが、『つるぎと、ききんと、疫病のためにバビロンの王の手に渡される』といっている町についてこう仰せられる、37 見よ、わたしは、わたしの怒りと憤りと大いなる怒りをもって、彼らを追いやったもろもろの国から彼らを集め、この所へ導きかえって、安らかに住まわせる。38 そして彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。39 わたしは彼らに一つの心と一つの道を与えて常にわたしを恐れさせる。これは彼らが彼ら自身とその後の子孫の幸を得るためである。40 わたしは彼らと永遠の契約を立てて、彼らを見捨てずに恵みを施すことを誓い、またわたしを恐れる恐れを彼らの心に置いて、わたしを離れることのないようにしよう。41 わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、心をつくし、精神をつくし、真実をもって彼らをこの地に植える。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 支えの恵みとは? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは125年来の神の支えの恵みを祝っています。それは何でしょう?支えの恵みとは一体何でしょうか?それを4行の韻を踏んだ詩にさせてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 最高の喜びを妨げる恵みなら、いらない、 苦悩から逃避するための恵みも。でもこれが欲しい。 私たちの苦しみと痛みを定め、 それでいて、暗闇の中で支えてくれる恵み。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はこれを強調します。それは、最高の喜びを妨げ、苦悩から逃避させ、私たちに痛みを与えない恵みをたたえるのは、聖書的に間違っており、また経験から言っても現実味がないからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''. . . 瀕死の衝突事故で''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
恵みというのは、痛みから私たちを守ってくれるどころか、痛みを定め、調整し、またはかり分け、そして暗闇の中で支えようとそこにいてくれるものだと、体験やみことばから私たちは教えられています。たとえば、バプテスト連合の理事であられるボブ・リッカー師が昨日、神の支えの恵みを思い起こさせる貴重なことを話されました。10年あまり前のこと、リッカー師夫妻のお嬢さんが、大きな交通事故に遭いました。彼女が今日生きている理由はただひとつ、彼女の後ろに並んでいた車両に、ポケットに空気管を潜ませていた医者が居合わせたのです。その医者が彼女のところに来た時には、彼女はすでに蒼白になっていました。医者は彼女ののどに管を押し込み、彼女のいのちを救ったのです。その数年後、彼女の結婚式でリッカー師は彼女にいいました、「生涯背負わなければいけないその顔の傷は、支えのみ恵みの思い出だよ」と。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ボブ・リッカー師はナイーブではありません。娘の背後の車に医者が乗っていて、その医者が救命器をポケットに潜ませており、そして落ち着いてその機器を使うことができるよう、神がはからうことがおできになるのであれば、この神はそもそもこの事故を予防することが問題なくおできになるはずだと、リッカー師は分かっています。事実、先にリッカー師はエペソ1:11「''みこころによりご計画のままをみな行う方''の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。」 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; を引用しました。そしてこのように強調したのです、「みなとは、みなです。」と。それは、車、飛行機、矢、そして弾丸の通る道を含めて、だと私は思います。それが私の短い詩、「支えの恵みとは?」のインスピレーションとなったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 最高の喜びを妨げる恵みなら、いらない、 苦悩から逃避するための恵みも。でもこれが欲しい。 私たちの苦しみと痛みを定め、 それでいて、暗闇の中で支えてくれる恵み。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''. . . 車が故障するとき''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2週間前の土曜日、ノエルとアブラハムとバルナバスとタリタがジョージア州に向けて車で旅行中、インディアナポリスから南に約一時間行った何もないところで、車が故障しました。ラジエーターが駄目になってしまったのです。60代半ばの農夫が車を止め、助けを申し出ます。モーテルに泊る必要があるかも知れないと、月曜日の午前中には車両修理工場が開くといいがと、ノエルがいいます。農夫は、「うちに泊まらないですか?」と言います。ノエルは彼らを追い出すことになりはしないかと、ためらいます。「私たちが他人に仕えるとき、それは主に仕えるのと同じであると言われますよ」と農夫は言います。「それじゃ、朝教会にご一緒していいですか?」とノエルが言うと、「バプテスト教会でよければ。」と農夫がいいます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで一同は農夫の家に滞在します。その農夫は、航空整備士でもあり、車の故障を診断し、月曜の朝町まで運転し、新しいラジエーターを買い戻ってきて、支払った額も請求せず、一家を途上へ送り出すのです。その間バルナバスは車から自分の釣竿を取り出し、19インチ(約48センチ)のナマズを釣ったのです―更に素晴らしいことに! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ノエルを助けるため農夫を立ち止まらせ、その農夫がクリスチャン(しかもバプテストの!)であるよう配慮され、そして一家が泊ることができるよう彼と奥さんの家に部屋があり、彼が整備士で、月曜日朝一でラジエーターを彼が探し出し、時間を惜しまず、ナマズがいる池を持っており―この神は、インディアナ州の真っただ中でラジエーターがはじけ飛ばないよう守ることが完全におできになるお方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''. . . 癒しが起こらないとき''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしこの堕落した無益な世の中では、神の支えの恵みがなすのはそれだけではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 最高の喜びを妨げる恵みなら、いらない、 苦悩から逃避するための恵みも。でもこれが欲しい。 私たちの苦しみと痛みを定め、 それでいて、暗闇の中で支えてくれる恵み。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの教会の若者の一人が、現在信仰を限界まで試されるような深い淵を通されています。最近彼は、イエス様が癒されたことがなく、癒しがないことを耐えさえてくださる恵みをお与えくださったなら良かったのに、と私に言いました。私が彼に、2コリント12:9-10で、イエス様はまさにそのことをなされたのだよ―まさにそのためにだよ、と言いました。神の恵みは、パウロがへりくだるよう肉にとげがあり、祈りの答えのとおりそれが取り除かれないよう、定めるのです。わたしの[支えの]恵みは、あなたに対して十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからであると、神は言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはそれに対し、以下のように応答します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 　ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。 &amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 最高の喜びを妨げる恵みなら、いらない、 苦悩から逃避するための恵みも。でもこれが欲しい。 私たちの苦しみと痛みを定め、 それでいて、暗闇の中で支えてくれる恵み。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''. . . 教会が焼き払われるとき''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1885年3月16日の月曜日、ベツレヘム・バプテスト教会が創立14年目で、(ダグラス社が現在ある)6番街12番通りの角にあったとき、教会が火事になりました。修復も不可能なほどめちゃめちゃになりました。しかしその暗闇の中に、驚くような神の恵みがあったのです。消防士が上り立った場所だけが、屋根全体で崩れ落ちなかった部分でした。そして数週間のうちに、第二会衆派教会の建物を教会が買い、現在の建物が完成する1991年までの106年間、その建物で礼拝を持ったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
弱った屋根の一部を支えることによって消防士を助けられ、7週間のうちに新しくより良い建物を用意された神は、そもそもこの火事を防ぐことがおできになるお方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ポイントが分かってきたでしょうか。私たちは支えの恵みをたたえています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 私たちの苦しみと痛みを定め、 それでいて、暗闇の中で支えてくれる恵み。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神は絶えず惨事から守ってはくださらない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エレミヤ32章の今日の聖書箇所では、このような支えの恵みを語っており、ベツレヘム・バプテスト教会が125年もの試練の後も今日この町でなお生き続けている、その鍵があります。エルサレムと神の選ばれた民は暗闇と苦悩のただ中にあります。そして神ご自身がそれを定められました。36節を見てください。「それゆえ今イスラエルの神、主は、この町、すなわちあなたがたが、『つるぎと、ききんと、疫病のためにバビロンの王の手に渡される』といっている町についてこう仰せられる、」彼らはそう言っているのです。そしてそれは本当です。恵みは彼らを災難から守りませんでした。同じように神の恵みは皆さんをも、定められた災難から守りません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし神の選ばれた民について''彼らが言っている''のが最終的なことばではありません。''神が''最終的決定権を持っておられます。37節、「見よ、わたしは、わたしの怒りと憤りと大いなる怒りをもって、彼らを追いやったもろもろの国から彼らを集め、この所へ導きかえって、安らかに住まわせる。かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。」それゆえ苦しみと痛みをお定めになったと、神が仰せになるのです。これらの国々に「''(わたしが)追いやった…彼ら''」と。そして神ご自身が彼らを救い出し、彼らの地に連れ戻されると言われます。つまり、主権の恵みは最終的に災難に勝利をもたらすのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== どうしたら恵みの勝利を確信することができるのか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どうしたら恵みの勝利を確信することができるでしょうか?もし神がイスラエルを、彼らの罪と不従順の結果多くの命が失われたひどい国外追放に追いやることのできる義の神であられたなら、それを今日の神の選ばれた民―教会、キリストのからだ、キリストの花嫁、主の御子の交わりに招き入れられた皆さんと私に、起こされるはずがないと、どうして確信することができるでしょうか?なぜベツレヘム教会は125年間も持ちこたえてきたのだろうか?と疑問を投げかけるのは一つですが、もっと差し迫っているのは、どのようにしたら将来ベツレヘム教会と私たち自身の人生で、恵みによって勝利するだろうか?という質問です。どのようにしたら恵みが信仰と聖さにおいてあなたを終わりまで支えてくれ、み国へと無事に導いてくれると、確信することができるでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが、残りのみことばの箇所が言っているところです。答えは、神の選ばれた民に対する支えの恵みは、主権の恵みである、です。つまり、支えの恵みは全能の恵みです。恵みがすべての障害を乗り越え、私たちを天国へと導く、信仰と聖さを守ってくれるのです。これが私たちの将来に対する唯一の確固たる自信です。皆さんと私たち自身は、まったく気まぐれで信用できない者たちです。もし私たちが自分の力で自分を守っていかなければいけないとしたら、自分の信仰を遭難させてしまうことは間違いありません。このため何世紀にも渡って聖者たちは祈り続けました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; めぐみに負い目ありし者 日ごとにしばられし なんじのよきことを足かせのように さらに結びつけんこの身をみ神に さまよいしこの身を、主よ、 愛しまつるみ神を離れしこの身、 この心を、おお主よ、封じたまえ あめなるみくににゆきつく日まで&amp;lt;sup&amp;gt;4&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖者はそのように祈るべきでしょうか?皆さんの将来とベツレヘム教会の将来のためにそのように祈るべきでしょうか?それは聖書的な祈りでしょうか?あなたの良きことを、さまようわが心をあなたに結び付ける足かせ―くさり―としたまえ。壊れない結び目でわが心をみくにのために封じたまえ。言い換えると、守ってください!保ってください!湧き起ってくる不従順をたたきのめしてください!すべてのつまらぬ疑いに勝利してください!すべての有害な誘惑から救い出してください!すべての破壊的に魅了するものを無にしてください!すべての悪しき偽りを暴いてください!すべての高ぶった言い争いを破壊してください!私をかたち作ってください!私に心を向けて下さい!私を抱きしめてください!私を服従させてください!イエス様が来臨なさるか、私をお召しになるまで、どうぞ私があなたに信頼しあなたを恐れ続けるよう、しなければならないどんなことをもなしてください。そのように祈り歌いませんか?祈り歌うべきではありませんか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この箇所から来る答えは、然り、です。そのような歌や祈りは、神の支えの恵みの新契約に基づいています。読んでみましょう。これは旧約聖書の約束の一つで、イエス様が主にある者すべてのために、ご自身の血潮で封印なさったものだということを、覚えていてください。それはユダヤ人のためだけではなく、イエス様と一つとなることによるまことのユダヤ人たち、アブラハムの子孫のためでもあるのです(ガラテヤ3:7,16)。エレミヤ32:38-41、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。39わたしは彼らに一つの心と一つの道を与えて常にわたしを恐れさせる。これは彼らが彼ら自身とその子孫の幸いを得るためである。40わたしは彼らと永遠の契約を立てて、彼らを見捨てずに恵みを施すことを近い、またわたしを恐れる恐れを彼らに置いて、わたしを離れることのないようにしよう。41わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、心をつくし、精神をつくし、真実をもって彼らをこの地に植える。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の支えの恵みの4つの約束 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神の支えの恵みの、4つの約束を見て下さい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1. 神は私たちの神になられると約束される''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は、私たちの神となられると約束されます。38節、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」主の民に対する約束のすべては、「わたしは彼らの神となる」、のこの一文にまとめられます。つまり、あなたがたが私の民であり続けるため、わたしはわたしが神であることのすべて―わたしのすべての知恵、すべての力、すべての愛―を用いる。わたしが神であることすべてを、あなたの幸せのために用いる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 神は私たちの心を変えると約束される''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は私たちの心を変え、主を愛し恐れるようにさせると、約束されます。39節、「わたしは彼らに一つの心と一つの道を与えて常にわたしを恐れさせ」る。言い換えるなら、神は私たちのそばにいて、私たちが自力で主を恐れるかどうかを見てみるのではなく、主権的に、絶大に、憐れみ深く、私たちに必要な心をお与えになり、私たちを無事に天国へと帰らせてくれる、信仰と神に対する恐れをくださるのです。これが主権の、支えの恵みです。(申命記30:6、エゼキエル11:19-20、36:27参照) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3. 神は私たちが主から離れることはないと約束される''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は私たちから離れられることはなく、私たちが主から去ることはないと、約束されます。40節、「わたしは彼らと永遠の契約を立てて、''彼らを見捨てずに恵みを施す''ことを誓い、またわたしを恐れる恐れを彼らの心に置いて、''わたしを離れることのないように''しよう。」言い換えるなら、心に働かれる主のみ業は、私たちが主から離れないと保証するほど、力強いものなのです。これが、神がご自身のみ力を持って、私たちが達成しなければならない条件を成し遂げて下さる、新契約が新しいとされるものです。私たちは主を恐れ、主を愛し、主に信頼しなければなりません。そして主が、その責任を持って下さるのです。「わたしは、わたしを恐れる恐れを彼らの心に置く」―それで彼らがどうするかを見るのではなく、「彼らがわたしから離れることのないよう」に見てくださるのです。これが主権の、支えの恵みです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4. 神はこれを無限の激しさを持ってされると約束される''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、神はこれをありとあらゆる手段で、強烈な激しさを持ってなされると約束されます。主はそれを二つの方法によって表現されます。まず一つは41節の冒頭で、そしてもう一つは41節の終わりです。「わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、心を尽くし、精神を尽くし、真実をもって彼らをこの地に植える。」まず主は喜びを持ってこの主権の、支えの恵みを用いると言われます。「わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、」それから(41節の最後で)「心を尽くし、精神を尽くして」この主権の、支えの恵みを用いられると、主は言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神のあなたに恵みを施したいという思いは、どのくらい大きいのか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主は喜びを持ってあなたを支え、喜びをもって心を尽くし、思いを尽くされるのです。さて、説教の誇張でなく、修辞法の見せびらかしでもなく、あるいは大げさな言い回しでも何でもなく、皆さんにお聞きします。お聞きすると同時に、皆さんにチャレンジします。「神の心を尽くして、神の精神を尽くして」によって権限を与えられた思いより偉大な、強烈な思いを想像することができますか?食べ物と、セックスと、お金と、名誉と、権力と、意義と、友人と、心の安定と、地上にいる約60億のすべての人間の魂の欲望を取って、その60億の心と魂で倍増した欲望を一つの容器に入れたとします。それをどのように、「わたしの心を''尽くし''、精神を''尽くし''て」ということばで倍増した、神の、あなたに恵みを施したいという思いと比べることができるでしょうか?それは指ぬきを太平洋と比べるようなものです。それは、神の心と思いは無限だからです。人の心と魂には限りがあります。「神の心を尽くし、神の精神を尽くし」た激しさより激しいものはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして主権の恵みであなたを支えることのうちに、主はその深い喜びを持っておられます。「わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、心をつくし、精神をつくし…」今朝、この恵みのかぐわしさを、初めて味わっている方が皆さんの中にいるかも知れません。それがあなたの人生における御霊のみ業で、主権の、支えの恵みによってそれに身をあずけることをお勧めします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他にこのかぐわしい確信のうちに何年も生きて来ており、今朝私に連なって、私たちの人生におけるこの輝かしい現実を大喜びしている方がおられるでしょう。125年間教会として私たちを守って下さり、そしてイエス様が来られるまで、あるいはイエス様がお招きになるまで、神の選ばれた者を信仰において守ってくれる、主権の、支えの恵みのゆえに、み父と御子と御霊に、共に賛美をささげましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 最高の喜びを妨げる恵みなら、いらない、 苦悩から逃避するための恵みも。でもこれが欲しい。 私たちの苦しみと痛みを定め、 それでいて、暗闇の中で支えてくれる恵み。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== *** ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 口語訳聖書、1955年版引用。以下エレミヤ36章のテキストは、新共同訳、新改訳と比べ比較的ESV訳に近いと判断し、口語訳聖書引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、1970年版 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、1970年版 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;4&amp;lt;/sup&amp;gt; 聖歌273番『いのちのいずみに』3節、「たれかは断ちうるめぐみのいとを　さらにむすびつけんこのみをかみに　かよわきわがみをみちびきたまえ　あめなるみくにに ゆきつく日まで」に、原文に近づけて訳を追加 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 25 Feb 2016 19:52:00 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E4%B8%BB%E6%A8%A9%E3%81%AE%E6%81%B5%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E6%94%AF%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E2%80%95%E6%B0%B8%E9%81%A0%E3%81%AB</comments>		</item>
		<item>
			<title>苦み喜ぶことに召されている(私たち)：重い永遠の栄光のため</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E8%8B%A6%E3%81%BF%E5%96%9C%E3%81%B6%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E5%8F%AC%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B(%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1)%EF%BC%9A%E9%87%8D%E3%81%84%E6%B0%B8%E9%81%A0%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「苦み喜ぶことに召されている(私たち)：重い永遠の栄光のため」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Called to Suffer and Rejoice: For an Eternal Weight of Glory}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。13 「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
16節では今朝ここにいる誰もが体験したいと思うようなことを言っています。「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」とパウロは言います。誰もが欲しいと思うことと、誰も欲しいと思わないことが、そこにはあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 誰もが欲しいと思うことと誰も欲しいと思わないこと  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今朝ここにいる誰も、勇気を失いたいとは思いません。ここに来て、「自分の勇気を失うような賛美を歌ったり説教を聴いたりすることを願うよ。ジョン師が今朝言うことで、本当に気を落としたいんだ」という人は誰もいません。あなたがたの中にはいないでしょう。生きているこの心をこてんぱんにやっつけられたいと思う人はいません。パウロも同様でした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逆に誰もが内側から日々新たにされたいと願います。エネルギーや新しさや希望や活力や勇気や生きることへの熱意という感情はしばらくは続きますが、次第になくなっていくと言うことを私たちはみんな知っています。もし私たちが内面的に強くなり、希望と喜びと底力と愛を持つためには、日々新たにされなければならないのです。私たちはそれを知っています。人生は無変化で無変動なものではありません。絶えず上がり下がり、また上がりがあります。一杯になり渇き、また一杯になります。新たにされて疲れ切って、疲れ切ってまた新たにされるのです。そして誰もが新たな力を求めるのです。誰も渇いて空っぽで落ち込んだ谷に取り残されたいと思いません。もし日々絶えず強くされ、希望に満ち、喜びにあふれ、愛にあふれる秘訣があるとしたら、私たちは興味があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 「ですから」そして「なぜならば」、二つの重要な言葉  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それはこの聖書箇所で二つのことばに注意を払わなければならないことを意味します。16節の最初の、「ですから」と言う言葉と、17節の最初の、「なぜならば」という言葉です。 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; なぜそれらは重要なのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 三角形の頂点としての16節  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
16節を、両サイドから支えられている三角形の頂点として頭の中で描いてください。この、「私たちは勇気を失いません。･･･内なる人は日々新たにされています」という二つの文章が、私たちの切望を支えています。それを言うことができ、また本気でそう思うことができたらーそれが私たちのすべてが今朝願うものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
16節、「私たちは勇気を失いません。日々新たにされています。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 頂点を一サイドから支える7―15節  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ですから」という16節の最初の言葉は、パウロがこの体験に導かれそれを支持する何かをこれまで述べて来たことを意味しています。7―15節で、「これは本当であり、これも本当。そしてこれも本当、」「ですから、私たちは勇気を失いません。･･･なぜなら、私たちは日々新たにされています。」ですので三角形の第一の直線は、この体験に至り、それを支持する7―15節です。私たちはここで注意を払い、それが一体何なのか、それらの節を探るべきです。それは私たちに対し言っていることでもあるかも知れません! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 別のサイドから頂点を支える17―18節  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後の節(17節)の最初の「なぜならば」という言葉は、パウロが16節の理由になる何かを述べようとしていることを意味します。「私たちは勇気を失いません。内なる人は日々新たにされています。」なぜならば、これは本当であり、これも本当。そしてこれも本当だからです。ですから三角形の反対側にある第二の直線は、彼がつい先ほどを描いた体験を支持する、17―18節の真理です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それを見ることができますか?私たちが切望する体験は、両側から支えられたこの三角形の頂点に座っているのです。7―15節は本当です、「ですから、私たちは勇気を失いません。内なる人は日々新たにされています。」それが一サイドです。「私たちは勇気を失いません。内なる人は日々新たにされています、」なぜならば、17―18節は本当だからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と言うことで、私たちのねらいは、この三角形の両側面を見て、そしてパウロを支えた真理を、私たちを支える真理とすることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 16節は苦しみの真っ只中で起こる  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもまず、一つ短い見解があります。16節では、勇気を失わないことと日々新たにされることは、苦しみの真っ只中にあって起こるということを認めています。「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」パウロは自分が死に行くと言うこと、またすべての人が死に行くと言うことを知っていました。彼はすさまじい苦しみを体験し、その中で自分の地上の命が朽ちまた衰えて行くのを見ました。そこには弱さと病、傷、患難、抑圧、いら立ち、そして落胆がありました。そしてそれら一つ一つが彼の命をむしばんだのです。それを一言で言うと、「死は私のうちに働き」(12節参照)です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが「私たちは勇気を失いません。･･･日々新たにされています」と言う、その背景でした。ですから私たちが自問しているのは、「どのようにしたら人生で勇気を失わないでいることができるだろう?」あるいは「どのようにしたら日々新たにされることができるだろう?」という質問だけでなく、「どのようにしたら勇気を失わずに苦しむ用意をすることができるだろう?」「いかにしてこの衰えいく体、地上で失われて行く命を受け入れ、同時に勇気を失わず、むしろ愛の行いを持って終わらせることを喜ぶその喜びで新たにされる、内なる強さを見出すことができるだろう?」です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで、私たちはこれに対するパウロの答えを見る準備ができました。まず7―15節を、そして17―18節を見て行きます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 7–15節: 勇気を失わない４つの理由  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7–15節では、「ですから、私たちは勇気を失いません」とパウロに言わせる４つの理由があります。そしてその一つ一つが彼自身の地上での命が衰えて行くその重要性を考慮に入れています。 ですからこれらの節で彼がしているのは、自分の外なる人が朽ち、また衰えつつあるにも関わらず、それゆえなおさらのこと、本当であることを見せようとしているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1. 神の力と神の御子の賛美''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、彼の外なる人は衰え行きますが、この苦しみのうちに、またこの苦しみを通して、神の力と神の御子のいのちが現され、たたえられています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7節、「私たちは、この宝を、土の器[すなわち朽ちる、弱い、外なる人]、に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」それゆえ、私たちは勇気を失いません。それは神の力が私たちの弱さのうちにたたえられているからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10節、「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが[外なる人が衰えるその一面です]、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」ですから、私たちは勇気を失いません。それは神の御子のいのちが私たちの日々の死においてあがめられているからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11節、「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」ですから、私たちは勇気を失いません。それは神の御子のいのちが、私たちの衰えゆく体において現され、たたえられているからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから自分の外なる人が衰え行くにあたり、パウロが勇気を失わない第一の理由は、自分の弱さと自分が他人のために日々死に渡されることのうちに、神の力と神の御子のいのちがたたえられ、そしてそれこそ、パウロが何よりも愛することであると言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 教会を力づける''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、彼の外なる人は衰えつつありますが、この苦しみのうちに、そして苦しみを通して、教会に対して彼からいのちがあふれ出ています。クリスチャンはパウロが弱くさせられることによって、強められるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12節、「こうして、死は私のうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。」ですから、私たちは勇気を失いません。それは神がたたえられているからだけでなく、あなたがた私の愛する者たちが、いのちと力と望みを受けているからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
15節、「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人に[パウロの彼らのための苦しみを通して]及んで、感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。」それゆえ、私たちは勇気を失いません。それは(15節では最初の二つの理由がまとめられていることに注目してください)、私の苦しみの奉仕のうちに、あなた方に恵みが及んでおり、栄光が神に帰されているからです。恵みを他の人々にもたらすことと、栄光を神にお返しすること、これがパウロの人生の二つの大きな愛です。そしてこの節で、この二つはまさにその同じ体験の中で起こると言っています。それゆえ、パウロは勇気を失わないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3. 神の支えの臨在''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三に、彼の外なる人は衰え行きますが、この苦しみのうちに、またこの苦しみを通して、神は彼が苦しみに打ち負かされないように彼を支えてくださいます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8–9節(これらのペアの一つ一つで彼が実際に言っているのは、「そうです、私たちの外なる人は衰え行きますが、しかし、いいえ、私たちは勇気を失いません」と言うことに注目してください)、「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きるまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」ですから、私たちは勇気を失いません。それは神が私たちが打ち負かされないように支えてくださるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4. 私たちの死からのよみがえり''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第四に、彼の外なる人は衰え行きますが、彼は教会と共に死からよみがえらされ、イエス様とともにいるようになります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
14節、「[私たちは]主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。」ですから、私たちは勇気を失いません。それはすべてのことが益となるからです。死さえもストーリーを悪い結末にすることはできません。私は再び生きるのです。私の愛する人々であるあなたがたと再び生きるのです。イエス様と共に生き、主の栄光を永遠に永久まで、分かち合うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから･･･それが、勇気を失わないどころか、日々新たにされるという素晴らしい体験を支持する、三角形の第一の側面(7―15節)です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1. 私は日々新たにされています。それは神の力と神の御子のいのちが私の衰えゆく弱さのうちに現され、たたえられているからです。 2. 私は日々新たにされています。それは私の苦しみからいのちが溢れ出て、私が心から愛する教会へと流れているからです。 3. 私は日々新たにされています。それは神が苦しみのうちに私を支えてくださり、それに負けないようにしてくださるからです。 4. 私は日々新たにされています。それはあなたと共に、そしてイエス様と共に永遠に永久まで生きるため、私は死からよみがえらせられることを知っているからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから、私は勇気を失いません! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 17–18節: 勇気を失わない４つの理由  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは16節のパウロの素晴らしい体験を支持する、三角形の反対側の直線、すなわち、17―18節を見てみましょう。彼は勇気を失いません。また日々新たにされています。それは、17―18節が本当だからです。再び自分の外なる人は朽ちゆくとも、自分の弱さ、病、傷、患難にも関わらず、パウロが勇気を失わない４つの理由です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1. 今の時の患難''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は勇気を失いません、それは彼の患難は一時的だからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
17節、「今の時の軽い患難は･･･」これは患難が60秒間だけである、と言っているのではありません。それがただ生涯(千年王国の無数の時代に比べるとそれは一時的です)で続くだけで、それまでです。それは「今の時」を意味しますが、つまり、「今の時の患難」で、この現在の生涯を超えて続く患難ではありません。私は勇気を失いません。それは、私の患難がいずれ終わるからです。それは私の人生の最終的決定権を持っていません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 軽い患難''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は勇気を失いません。それは、彼の患難は軽いからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
17節、「今の時の軽い患難は･･･」これは現代の快適な生活を送るアメリカ人の判断ではありません。これはパウロ自身の判断です。また、パウロは2コリント11:23―27で言うことを忘れてしまっているわけでもありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが自分の患難は軽いと言うとき、それは簡単であるとか痛みがないと言っているのではありません。来るべきものに比べると、それらは何でもないと言っているのです。来るべき重い栄光に比べると、それらは計りの上の羽のようなものです。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」(ローマ8:18)。ですから、私は勇気を失いません。それは私の患難は軽いからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3. 重い永遠の栄光 ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は勇気を失いません。それは、その患難はパウロに、測り知れない、重い永遠の栄光を実際にもたらしているからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
17節、「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」パウロにもたらすのは、一時的でない、永遠のものです。それは軽くなく、重いものです。それは患難ではなく、栄光です。そしてそれは測り知れないものです。目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの、神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうです(1コリント2:9)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ポイントは、患難がただ単に栄光に先行すると言うことではありません。それが栄光をもたらすと言うことです。私たちがいかに現在の困難を耐え抜くかと言うことと、私たちが来るべき時代にいかに神の栄光を楽しむことができるかと言うことの間に、実際の因果関係があります。痛みを耐え抜くその一秒たりとも、無駄ではありません。ですから、私は勇気を失いません。･･･それは、私の困難のすべてが、測り知れない、重い永遠の栄光を、私にもたらすからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4. 来るべき、目に見えない、永遠の栄光 ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは勇気を失いません。それは、彼が目に見えない、来るべき永遠の栄光を熱望してやまないからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
18節、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。」神はあなたが勇気を失わないように、また日々新しくされるように、この全世界の栄光のすべてをお与えくださるかも知れませんが、もしあなたがそれを見ないなら、何も起こりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の惜しみない招き  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事実それがこの説教で今神が成しておられることです。この聖書箇所は、あなたが勇気を失う必要のない理由のすべて、あなたが日々新しくされることができる理由のすべてをあなたに見せるための、神の惜しみない招きの一つです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*見てください!神の力と主の御子のいのちは、あなたの弱さのうちに現されています。 &lt;br /&gt;
*見てください!イエス様のいのちは、あなたの苦しみを通して、他の人々の人生に溢れ出ています。 &lt;br /&gt;
*見てください!神は患難の中であなたを支えてくださり、あなたがダメになってしまわないように守ってくださいます。 &lt;br /&gt;
*見てください! あなたの患難は最終的決定権を持っていません。あなたはイエス様とそして神の教会と共に死からよみがえり、永遠にそして永久まで喜びのうちに生きるのです。 &lt;br /&gt;
*見てください! あなたの患難は一時的です。それは今だけで、来るべき時まで続くものではありません。 &lt;br /&gt;
*見てください! あなたの患難は軽いのです。来るべき楽しみに比べたら、それらは何でもありません。 &lt;br /&gt;
*見てください! これらの患難はあなたに、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから、見てください! 注目してください! 思いめぐらしてください! それらを考えてみてください! 神が言っておられることを信じてください。そうすればあなたは勇気を失うことはありません。それどころか、あなたの内なる人は日々新たにされます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== *** ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳では17節の「なぜならば」ということばが省略されてあるが、岩波翻訳委員会訳では「なぜならば」、または口語訳では「なぜなら」とあり、原文に近い。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 03 Dec 2015 12:49:53 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E8%8B%A6%E3%81%BF%E5%96%9C%E3%81%B6%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E5%8F%AC%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B(%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1)%EF%BC%9A%E9%87%8D%E3%81%84%E6%B0%B8%E9%81%A0%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81</comments>		</item>
		<item>
			<title>苦み喜ぶことに召されている(私たち)：キリストの苦しみのねらいを完了するため</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E8%8B%A6%E3%81%BF%E5%96%9C%E3%81%B6%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E5%8F%AC%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B(%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1)%EF%BC%9A%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E8%8B%A6%E3%81%97%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%81%AD%E3%82%89%E3%81%84%E3%82%92%E5%AE%8C%E4%BA%86%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「苦み喜ぶことに召されている(私たち)：キリストの苦しみのねらいを完了するため」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Called to Suffer and Rejoice: To Finish the Aim of Christ's Afflictions}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。25 私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。26 これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
24節のパウロが、「キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです」と言うところに注目していただきたいと思います。一体キリストの苦しみに欠けたところがあるのでしょうか?主の私たちのための苦しみと死は、まったくを持って十分なものではなかったのでしょうか?それでは24節で彼は何を言っており、またどのようにそれが私たちに適用されるのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== この段落のまとめ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
24節を適切に見るために、残りの節との関係の中で見て行きましょう。29節から始めて、24節まで逆にさかのぼり、パウロがこの段落で何を言っているのかをまとめましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
29節: パウロは自分が労苦することには目的があると言います。そしてこの奮闘、苦悩の労苦は、ただ単に彼自身のエネルギーによるのではありません。それは彼のうちに力強く働くキリストの力なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
28節ではパウロの労苦の目的、つまり、すべての人を「キリストにある聖人として立たせる」ためのものであることを説明します。彼はこれをキリストを宣べ伝え、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えることによってします。これがキリストがお与えくださる力によってする、パウロの絶え間のない労苦です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
26–27節では、パウロが宣べ伝えることと教えることが何であるかを、具体的に定義しています。26節でそれは「奥義」と呼ばれています。それはそれが理解できないことだからではなく、それが長い間隠されて来たのですが、今や聖徒たちに現されているからです。それから27節ではこの奥義が栄光に富んでいることを説明します。それは「あなたがた(異邦人)の中におられるキリスト、栄光の望み」です。かつて十分に現されていなかったのは、このユダヤ人のメシアであられるキリストが、ユダヤ人でない諸国民とユダヤ人たちの間にいるユダヤ人でない人々に手を差し伸ばされ、実際に彼らと住まわれ、アブラハムの望み、聖徒らと共に神の御国にある栄光の望みをお与えになる、と言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし奥義は今や現されており、パウロはキリストを宣べ伝え、あらゆる地でメシアの内在と神の栄光の望みは、キリストを信じ神の栄光を心から望む人々のものであると、教えます(1:4, 23)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
25節では単純に、キリストを宣べ伝えることは、神のみことばを広めるため神がパウロにお与えになった務めであると言います。彼は教会に仕える者であり、神の執事です。彼の任務は神のみことばを諸国民に伝え、栄光の望みを示し、彼らを信仰へ招くことです。そしてそれゆえ彼は神の選ばれた者たちを諸国から集めることと、彼らをキリストにある成人として立たせることができるよう、彼らを教え、戒めるということで、教会の奉仕者なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
24節では、このキリストの奥義と栄光の望みを諸国民に知らせることと、それから彼らを戒め教えることには、苦しみが伴うと言います。「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために(それは教会のことです)、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 「苦しみの欠けたところを満たしている」とはどういう意味か? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで、パウロが教会のために苦しむとき、すなわち栄光の望みをさらなる人々に告げ知らせ、キリストの奥義について教え、これをすることで苦しむとき、彼が「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」とはどういう意味でしょうか?どの苦しみよりも間違いなく十分である苦しみを、人がどのようにして満たすことができるでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''文脈がその意味を教えてくれる''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちがつい先ほど見た文脈が、パウロの苦しみがキリストの苦しみを、その価値に何かを加えることによってではなく、その価値そのものが人々に恵みを与えるという意味で、人々に告げ知らせることによって満たすのだと教えてくれていると、私は思います。キリストの苦しみの欠けたところとは、キリストの苦しみが信じるすべての者の罪を十分に覆うことができないように、あたかもその価値や益において不十分であるのではありません。欠けているのは、キリストの無限に価値のある苦しみが世に知れ渡っていないことです。それはほとんどの人々にとって、まだ奥義(隠されたもの)です。そして神の意図は、この奥義が現され、すべての異邦人に告げ知らされることです。ですからその苦しみが諸国民の間で見えない、あるいは知られていないという意味で、欠けているのです。それはみことばの奉仕者たちによって伝えられなければなりません。そしてそのみことばの奉仕者たちは、キリストの苦しみを他の人々に告げ知らせることによって、欠けたところを満たすのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ピリピ2:30の似たような言葉''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ピリピ2:30にはこれを強く裏付ける、似たような言葉づかいがあります。ピリピの教会に、エパフロデトという人がいました。パウロを支援するために(恐らく経済的にあるいは物資的に、あるいは本の支援で)教会が集まったとき、エパフロデトの手によって、それをローマにいるパウロに届けることを決定したのです。この支援を届ける途上で、エパフロデトは命を失う危険な目に遭います。27節で彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神が彼をあわれんでくださったと言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから29節で、パウロはピリピの教会に、エパフロデトが戻ったら尊敬を払うようにと言い、30節で、コロサイ1:24で用いているのと似たような言葉でその理由を説明します。「なぜなら、彼はキリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分[欠けた分]を果たそうと[満たそうと]したのです。」原文では、あなたがたが私に仕えることの「できなかった分を果たそうとした」と言うのは、コロサイ1:24の、キリストの苦しみの「欠けたところを満たしている」と言うのとほとんど同じです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、一体どう言った意味で、ピリピの教会がパウロに仕えることの「できない分」があり、エパフロデトがその欠けた分を「果たそうと」したのでしょうか?100年前の、マーヴィン･ヴィンセントという解説者が、それを正しく理解していると思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「パウロの賜物は[キリストの]みからだとしての教会の賜物である。それは犠牲の愛のささげものであった。欠けていたのは、そしてパウロとそして教会両者にとって感謝であったであろうことは、教会が贈るこのささげものを、直接[パウロに]手渡すことであった。これが不可能であったので、パウロは、エパフロデトをその愛のこもった、熱心な奉仕によって、この欠けたところを満たす代理人としたのである。」(ピリピ人へとピレモンへの手紙, ICC, p. 78) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''私たちはどのようにしてキリストの苦しみの「欠けたところを満たす」のか''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それがコロサイ1:24で言っていることの意味だと私も思います。キリストは罪人のために苦しみ、死ぬことによって、この世のために愛の賜物を用意なさいました。それは十分であり、欠けたところは一切ありません。が、一つだけ欠けたところがあります。それは、この世の諸国の民とあなたの職場に対するキリストご自身の個人的提示です。この欠けたところに対する応答として、世界にキリストの苦しみを示すため、それをエルサレムから地上の果てまで伝えるため、神はキリストの民(パウロのような人々)を召されるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それをすることで、私たちは「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」のです。私たちはそれが意図されたこと、すなわち、キリストの苦しみの無限の価値を知らないこの世の人々に、それを個人的に示すことで、欠けたところを完成するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしパウロが24節でこれを言うその言い方に注目して下さい。彼は、自分の苦しみと自分の肉体、すなわち、実際に彼自身が肉体的苦しみを負うことが、キリストの苦しみの欠けたところを満たすと言っています。ですからパウロは自分の苦しみとキリストの苦しみの間に強いつながりを見ているのです。それは、神がキリストの苦しみを、ご自身の民の苦しみを通してこの世に提示することを意図しておられるのだと、私は思います。神は実際に、キリストのみからだである教会に、キリストが経験された苦しみの一部を経験させようとしておられるのです。そうすれば私たちが人々に十字架のキリストを提供するとき、彼らが私たちのうちに十字架のキリストを見るからです。私たちはキリストを人々に提供することのうちに苦しみを実際に体験し、主が生きられた愛の人生を生きることによって、キリストの苦しみを人々に現実のものとして示すのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています･･･キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」キリストは世界に対するご自身の苦しみの個人的提示を望んでおられます。そしてこの世のために、この世に対して苦しまれたお方として主が意図される方法は、主のような、世界のために苦しむ用意がある人々を通してです。主の苦しみは私たちの苦しみのうちに完成されます。それは、この世は私たちの苦しみのうちに、主の苦しみを見、そしてそれに定められた効果があるからです。キリストの罪人のための苦しみの愛は、主の民の罪人のための苦しみの愛のうちに見られます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コロサイ1:24で私たちが見るのは、マルコ8:35のイエス様のみことばそのものを生きることだと思います。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」救いに至る道は、「福音のためにいのちを失う」道です。要するに、人々(それが事務所を渡った向こう側であれ、海を渡った向こう側であれ)に福音を伝えることは通常、犠牲と苦しみ、命を失うことや自己否定を伴います。これがキリストがご自身の救う苦しみを、ご自身の民の苦しみを通して世界に伝えようとされる方法です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== この召しにあるパウロの喜び ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてパウロはそれを喜ぶと言っています。24節、「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。」カルバリの道は喜びのない道ではありません。それは痛いものですが、とても幸せなものです。宣教と伝道の犠牲と苦しみより、はかない楽しみと快楽と安心を選ぶとき、私たちは喜びに反して選ぶのです。私たちは、水を貯めることのできない壊れた水ためを選び、水の枯れない湧き水の泉を拒否するのです(イザヤ58:11)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世で一番幸せな人というのは、自分のうちにある栄光の望み、自分の心の奥底にある切望を満たすキリストの奥義を知っており、自分の苦しみを通してこの世にキリストの苦しみを広める自由を持った人々です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神はこの聖書箇所で、私たちを福音のために生きるよう、そして苦しみを通してそれをすることに召しておられます。キリストは苦しみをお選びになりました。それは偶然起こったのではありません。主は教会を造り、完成するための方法としてそれをお選びになりました。今や主は苦しみを選ぶことに私たちを召しておられます。すなわち、自分の十字架を背負ってカルバリの道で主に従い、自分を否定し、主の苦しみを世界に示すため、また教会に仕えるために犠牲を払うことに、私たちを召しておられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「キリストの十字架はなだめの供え物のためであった。私たちの苦しみもなだめの供え物のためである。」私はこの忘れられない言葉を、ルーマニア人の牧師で宣教局長であるヨセフ･ツォンからつい最近聞きました。つまり、キリストは救いを完成するために苦しまれました。私たちは救いを広めるために苦しみます。そして私たちの、他人の良いことのために患難を耐え抜こうという意思は、キリストの苦しみを満たすことなのです。それは彼らにその苦しみが行き渡り、その苦しみが目に見えるものとなるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 現地インド人宣教師の話 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月に宣教に関する本を著している最中、私はJ.オズワルド･サンダースの講義を聴く機会がありました。彼のメッセージは苦しみについて深く言及したものでした。彼は89歳ですが、今もなお世界を飛び回って語り歩いています。70歳になった翌年から、本を著し続けています。私がそれを口にするのは、65歳から墓場まで気ままに楽に行こうという考えもなしに、福音のためにそのすべてを捧げた人生に、ただ大喜びするためです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
インドで、素足で村々を歩き回り福音を宣べ伝えた現地人宣教師の話を彼はしてくれました。その宣教師は多くの患難に遭いました。長い距離を一日中歩き、かなり落胆した後、彼はある村に到着して福音を語ろうとしたのですが、村を追い出され拒絶されました。それで彼は村の端に行き、意気消沈して木のふもとで横たわり、疲れからうたた寝をしました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
目覚めると人々が彼を囲んでおり、村全体が彼の話を聞こうと集まっていました。村長が、彼が寝ている間に村人が彼の様子を見にやって来たのだと説明しました。彼のボコボコになった足の裏を見て、この人は聖人に違いないという結論に至り、彼を拒否し悪いことをしたと思ったのです。彼らは謝り、彼がそんなに苦しんまで伝えようとしたメッセージを聞きたいと言いました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからこの伝道者はイエス様の苦しみを、自分のボコボコになった美しい足の裏で満たしたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ヨセフというマサイ族の勇士の話 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アムステルダムで行われた、ビリー･グラハム協会の主催による巡業伝道者大会に参加した人たちの中で、最も参加しそうにないのが、マサイ族の勇士でヨセフという名の人でした。でも彼の話は、グラハム博士自身も聞き入ってしまうほどのものでした。マイケル･カードという人がその話を語りました。 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日ヨセフは、アフリカの汚れた、灼熱の道を歩いているとき、イエス･キリストの福音を語る人と出会いました。そこで彼はイエス様を自分の主、救い主として受け入れました。御霊の力が彼の人生を変え始めました。彼は、まず最初に自分の村に戻って同じ良い知らせを自分の部族のメンバーらに伝えたいと思うほど、興奮と喜びに包まれていたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨセフは家を一件一件周り、イエス様の十字架[苦しみです!]とそれが差し出す救いを、出会う人すべてに語り、自分のがそうであったように、彼らの顔がパッと明るくなるのを期待しました。彼はびっくり仰天したのですが、村人は気にもしなかったどころが、乱暴になりました。村の男たちが彼を取り押さえ、女たちが彼を有刺鉄線の束で殴っている間、地面に押さえ込みました。彼は村から引きずり出され、やぶの中で野垂れ死にするよう放置されました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨセフは水たまりまで何とか這いつくばって行き、そこで何日も生死の境をさまよったあと、起き上がる力が戻ってきました。彼は自分が生まれたときから知っている村人たちから、敵意を持って迎えられたことを不思議に思いました。自分が何かを言い忘れたか、イエス様の話を間違って伝えたに違いないと思いました。自分が最初に聞いたメッセージを繰り返し練習したあと、戻ってもう一度自分の信仰を語ろうと決心します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨセフは小屋小屋の中心までびっこを引いて行き、イエス様を宣べ伝え始めました。「主はあなたのために死なれたのです。あなたが赦しを得、生ける神を知るようになるためです。」彼は &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人々に請いました。再び村の男らが彼をわしずかみにし、女たちが彼を殴り、良くなり始めたその傷口をまた開いている間、彼を押さえました。彼らは再度意識のない彼を村から引きずり出し、彼を死ぬためにそこに放置しました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初の暴力から生還したこと自体、驚くべきことでした。二回目の暴力を生き抜くのは、まさに奇跡です。何日も経って、ヨセフは再び荒野でアザだらけ、傷だらけの状態で目覚め、また戻ろうと決心します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼はその小さな村に戻りましたが、今度は彼が口を開く前に、村人が彼を襲撃しました。彼らが3度目、そして恐らくこれが最後であろうこの鞭打ちの刑を彼に与えている間、彼はまた彼らに主なるイエス･キリストのことを話しました。彼が意識を失う直前に見たのは、自分を殴っている女たちが泣き始めたその光景でした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今度は彼は自分のベッドで目覚めました。自分を激しく殴った人たちが、自分の命を救おうと、元の健康な状態に彼が戻るよう看護していました。村全体がキリストを信じるようになったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはパウロが、「キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです」ということの、鮮明な一例です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリストが私たちを福音のために犠牲を払うよう召しておられるというのを知ると、そこには何か驚くほどの解放があり安定があります。患難に遭うとき油断してしまわないよう私たちを守ってくれます。愛が必要とされるとき、患難を敢えて選ぶことに私たちを解放してくれます。そしてアメリカ的繁栄の見事な誘惑から私たちを解放し始めます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ハイチでの犠牲的献身の話 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカ人にとって、イエス様の、「乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れた」(ルカ21:4)未亡人に対する称賛を受け入れることは、ほとんど不可能です。主は実際に彼女をたたえられました。彼女の無責任さを非難されたのではありません。この肉付けされていない霊を見るためには、私たちはアメリカを離れて別の場所に行かなければなりません。スタンフォード･ケリーはそれをハイチから例えて言っています。 &amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会では感謝祭が執り行われ、それぞれのクリスチャンが愛のささげものを持ってくるよう招かれていました。ハイチ人でエドムンドという名の人が献げた一通の封筒には13ドルが入っていました。それはハイチの一人の男性が3ヶ月かけて稼ぐ金額でした。ケリーはそれが米国の日曜の献金で6000ドルに相当する贈り物を受け取ることに匹敵すると、驚きました。エドムンドを探しましたが、見つけることができませんでした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後ケリーは村で彼に会い、尋ねました。説明するようプレッシャーをかけると、エドムンドが福音のために神に13ドルをささげようと、自分の馬を売ったことが分かりました。「でもなぜ教会の感謝祭に現れなかったのかい?」彼は恥ずかしがって、答えたがりませんでした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「僕には何の着るものもなかったから。」最終的にエドムンドはそう答えました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この数週間で私たちが見ているのは、神が私たちを、苦しむ用意をするよう召しておられる、ということです。それは聖めと精錬という道徳的効果のためだけではありません。イエス様とのより深い交わりと、主をもっと深く知る、という親密関係の要因のためだけではありません。それはキリストの苦しみの欠けたところが、その苦しみを世界に広め、キリストの犠牲の愛を、ご自身の民の犠牲の愛を通して示すことによって、満たされるべきである、ということのためでもあるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== *** ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; マイケル･カード、「友人の家で傷つく」。『ヴァーチュー』28―29、69ページ、1991年3、4月号。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; ノーム･ルイス著、「優先順位、神が求められるもの」(1988年プロミス出版社出版、カリフォルニア州、オレンジ郡)、120ページ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 03 Dec 2015 12:42:40 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E8%8B%A6%E3%81%BF%E5%96%9C%E3%81%B6%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E5%8F%AC%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B(%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1)%EF%BC%9A%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E8%8B%A6%E3%81%97%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%81%AD%E3%82%89%E3%81%84%E3%82%92%E5%AE%8C%E4%BA%86%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81</comments>		</item>
		<item>
			<title>苦み喜ぶことに召されている(私たち):キリストを得るため</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E8%8B%A6%E3%81%BF%E5%96%9C%E3%81%B6%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E5%8F%AC%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B(%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1):%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%92%E5%BE%97%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「苦み喜ぶことに召されている(私たち):キリストを得るため」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Called to Suffer and Rejoice: That We Might Gain Christ}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。2 どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。4ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書は神の民に苦しみを約束している  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはこの数週間、苦しむ用意ができていることの必要性に注目しています。その理由は今の時が悪い時代であり、義の道に犠牲が伴うという私の印象だけではなく、神の民は苦しむという聖書の約束でもあるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、使徒14:22でパウロはまだ若い教会に、「私たちが神の国へ入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言います。イエス様もまた、「もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します」と言っておられます。ペテロも、「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、」(1ペテロ4:12)と言います。言い換えれば、それは思いがけないことではなく、起こって当然のことなのです。パウロは(2テモテ3:12で)、「キリスト･イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから私たちが地の塩、世の光となることと、またまだ福音の伝えられていないこの世の人々に伝えること、闇のわざを明るみに出すこと、そして罪とサタンの縄をゆるめることに熱心になればなるほど、私たちはますます苦しむのです。そういうわけで、私たちは苦しむ用意ができていなければならないのです。またそういうわけで、この数週間、私たちにその用意をさせてくれるいくつかの聖書箇所から、私は説教しているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この数週間のメッセージで、私たちが神に仕えることで苦しむことにある、神の４つの目的を取り扱います。一つ目は道徳的あるいは霊的目的です。苦しむことで私たちは神にますます望みを置くようになり、この世の事がらにますます信頼を置かなくなります。二つ目は、親密さの目的です。それは私たちがキリストの苦しみにあずかると、キリストをより深く知るようになるからです。それが私たちが今日注目するものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== キリストとのより深い親密関係の目的  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は私たちに、苦しみを通して私たちはキリストとの深い関係に導かれることを意図していることを教えられ、お見せになることによって、私たちを苦しむ用意ができるようにしてくださいます。あなたは主の痛みにあずかることによって、主をより深く知るのです。キリストの尊さを最も深く、優しく書く人というのは、主とともに深く苦しんだ人です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ジェリー･ブリッジズの人生における苦しみ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、ジェリー･ブリッジズの本、『主を信頼する、たとえ人生で痛んでいたとしても(Trusting God, Even When Life Hurts)』は、苦しみと困難を通して神との深い関係に導かれることについて深く書いた、ためになる本です。彼が14歳の時に、彼のお母さんがまったく予期しない時に隣の部屋から助けを求め、部屋にたどり着いた時には息を引き取っているときだったというのは、驚きではありません。彼はまた肉体的に普通にスポーツができない状態でもあります。そして数年前に自分の奥さんを癌で亡くしました。ナビゲーターを持って神に仕えることが彼を痛みから守ってくれるわけではありません。苦しむことでキリストとの深い関係に導かれているので、彼は苦しみについて深く語ることができるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ホラティウス･ボーナーの人生における苦しみ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スコットランド人の牧師で賛美歌作詞家のホラティウス･ボーナーは、100年以上前、『嘆く夜(Night of Weeping)』あるいは『神の子が苦しむとき(&amp;quot;When God's Children Suffer&amp;quot;)』という短編を著しました。彼の[本を著した]目標は、「聖者を助けるため･･･彼らの重荷を負い、傷を包み、また彼らのいくつかの涙を拭ってあげたいと願う」とその本の中で言っています。優しく、深く、知恵ある本です。ですから彼が、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「この本は試練によって益を得たいと願い、その試練が岩の上を通り抜ける風のようになって、以前とした固い岩で終わってしまわないかと震える者、悲しみの一つ一つにおいて、神をもっと知ることができるように主に近づく者、それでいて主をまだ少ししか知らないと告白する意志のある者によって書かれた本である」と言うのを耳にするのは、驚きではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブリッジズとボーナーは、苦しみが神のみこころの奥深くまで至る道であることを私たちに見せてくれます。神には、ご自身の苦しんでいる子どもたちに、ご自身の特別な栄光の啓示がおありになります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ヨブ、ステパノ、ペテロのことば''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何ヶ月もの苦難の後、ヨブは最終的に、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」(ヨブ42:5)と神に言います。ヨブは正しく真っすぐな人で、神に喜ばれる人でしたが、繁栄のうちに彼の知っていた神と、不幸のうちに彼の知っていた神との違いというのは、聞いて知るのと見て知ることの違いでした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ステパノが自分の信仰のために逮捕され裁判にかけられ、そして説教をする機会が与えられたとき、結果的に宗教指導者たちは彼に怒り狂い、歯ぎしりして悔しがりました。彼らはステパノを街に引きずっていき、殺すところでした。丁度そのとき、「聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、」(使徒7:55)とルカは私たちに語ります。キリストと共に苦しむ人々には、特別な啓示、特別な親密な関係が用意されているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ペテロは次のように言います。「もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」(1ペテロ4:14)。別の言い方をすると、神はご自身の名のゆえに苦しむ子どもたちには、主の御霊の特別な来臨ととどまり、そして主の栄光を備えてくださっているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書箇所からの3つの考察  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから今日のメッセージで注目するのは、苦しみにある親密関係の要因です。聖者の苦しみの目的の一つは、彼らの神との関係がよりよそよそしくなくなり、より上辺だけでなくなり、より距離がなくなり、より個人的で現実で親密で近く、深くなっていく、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日の聖書箇所(ピリピ3:5–11)で、少なくとも３つのことを皆さんに見て欲しいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1. 第一に、パウロの、自分の価値観を逆さまにすることによって苦しむ用意をする方法 2. 第二に、パウロの、キリストに従うことによる犠牲としての苦しみと失うことの経験 3. 第三に、これらすべてにおけるパウロのねらい、すなわち、キリストを得ること、主を知り、主にあり、主とのもっと深い、自分の親友バルナバとシラスといた時に知っていたより現実的な交わり &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 苦しむ用意をするパウロ  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5節と6節でパウロは自分がクリスチャンになる前に楽しんだ特有性を並べます。アブラハムの家系の育ちの良い子孫、きっすいのヘブル人としての自分の民族的血統を挙げます。これに彼は大きな利益を得、特別なそして保証された地位を感じていました。彼はイスラエル人でした。それから自分がクリスチャンになる以前の人生の中心に至る、３つの事がらを述べます(5節の終わり)。「律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キリストに出会う前のパウロの価値観''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これがパウロの人生でした。これにパウロは人生の意味と意義を感じていたのです。これが彼にとって益であり、富であり、喜びでした。人の好みは様々ですが、パウロの好みは律法主義者たちの上流階級、パリサイ派に属することであり、その中でも彼は、神の敵、イエス様の教会を率先して迫害し、また律法を細心の注意を払って守るほど非常に熱心でした。彼は属すことを好み、秀でることを好み、神から好まれることを好んだのです。そして実際、責められるところのない自分の律法厳守のゆえに、神から好まれていると思っていました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして彼はキリスト、生ける神の御子に、ダマスカスへの途上で出会います。キリストは彼がどれほど苦しむことになるかを教えます(使徒9:16)。そしてパウロはその用意をします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''パウロは自分の価値観を損とみなす''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その用意をする彼の方法は7節に説明されています。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」パウロは宗教界の上流階級、パリサイ派にある自分の立場を見ます。そのグループのまさにトップであることの栄光を響きと喝采をもって見ます。自分の律法を守ることに対する厳しさと、彼自身楽しんだ道徳的プライドを見ます。そして自分の世界全体を逆さまにすること、自分の価値観を逆にすることによって、苦しむ用意をするのです。「私にとって得であったこのようなもの[それは5、6節です]をみな、損と思うようになりました。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クリスチャンになる以前、彼には二つの欄がある台帳がありました。一方には得、もう一方には損と書かれてあります。得の欄には5―6節の人間的栄光があります。損の欄にはこのイエス運動が手に負えなくなり、イエスが本物でありいつか勝利するかも知れないというひどく嫌な可能性があります。ダマスカスへの途上でキリストに出会ったとき、パウロは大きな赤ペンで、彼の台帳の得の欄全体に、「損」という大きな赤字を書きました。そしてキリストという名のうちにしかない、「得」という文字を、損の欄に大きく書いたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそれだけでなく、この世における人生の相対的価値とキリストの偉大さを考えれば考えるほど、パウロは５―６節で述べるいくつかの事がらを超えて、キリスト以外のすべてを最初の欄に入れるようになったのです。8節、「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」彼は最も尊い自分の功績を損とみなすことから始め、キリスト以外のすべてを損と思うことで終えています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''普通のキリスト教''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それがパウロにとって、クリスチャンになるということでした。私たちのうちの誰かが彼はユニークだとか特別だとか思わないように、17節で彼は自分の使徒的権威を十分に用いて、「兄弟たち。私を見ならう者になってください」と言うところに注目してください。これは普通のキリスト教なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロがここでしているのは、イエス様の教えがどのように生き抜かれているかということを見せることです。たとえばイエス様は、「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」(マタイ 13:44)と言われます。クリスチャンになるということは、(王なる)キリストが聖い喜びの宝の箱であられることを発見し、主を得るためにこの世のすべてのものに「損」と書くことを意味します。「持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいはルカ14:33でイエス様は、「あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」と言われます。言い換えると、イエス様の弟子となるというのは、自分のすべての所有物、そしてこの世が魅了するすべてに、大きな赤字で「損」と書くことを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''これは実質的に何を意味するのか''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではそれは実質的に何を意味するのでしょうか?４つのことを意味していると私は思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1. それはこの世のものとキリストのどちらかを選ぶよう迫られるとき、私はキリストを選ぶことを意味する。 2. この世の事がらに対処するとき、自分がキリストに近づくように対処することを意味する。そうすれば私がキリストをもっと得、この世を用いるように主をもっと楽しむからである。 3. それはこの世の事がらに、それが自分の宝でなく、むしろキリストが私の宝であるということを見せるように、対処することを意味する。 4. それは私がこの世が差し出すいかなるものをも、あるいはすべてを失ったとしても、キリストがすべてであられるので、自分の人生の喜びや宝を失わないということを意味する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それがパウロが自分の魂のうちでみなしていた考えでした(8節)。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」キリストがすべてで、その他はすべて損なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''なぜこれが苦しむ用意をする方法なのか?''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて一歩下がって自分の位置を確かめましょう。私はまだ第一のポイント、すなわち、これがパウロの苦しむ用意をする方法である、ということを扱っています。なぜ私はそう言うのでしょうか?なぜクリスチャンになることと、自分の人生でキリスト以外のすべてに「損」と書くことは、苦しむ用意をする道なのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは、苦しむと言うことが、自分の楽しみのためにこの世が提供する悪いことと良いこと、つまり、評判、同僚の間での尊敬、仕事、お金、配偶者、性生活、子供、友人、健康、強さ、視力、聴力、成功、等々、を取り上げられること以外の何ものでもないからです。これらが取り去られるとき(強制的に、あるいは状況によって、あるいは選ぶことによって)、私たちは苦しみます。でももし私たちがパウロとイエス様の教えに従い、キリストを得ることの何にも勝る価値のゆえに、それらを損とすでに思っているのであるならば、私たちは苦しむ用意ができているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしあなたがクリスチャンになったとき、キリスト以外のこの世のすべてのものに「損」と赤い大きな文字を書くのであれば、キリストがそれらの一部を犠牲にするよう召されるとき、それは奇妙でも予期せぬことでもないのです。痛みと悲しみは大きいかも知れません。イエス様がゲッセマネの園でそうされたように、涙もいっぱい流すかもしれません。でも私たちは整えられます。キリストの価値が、この世が差し出すすべてのものをしのぐと言うことと、それらを失うことで私たちはキリストをさらに得ることになると言うことを知るでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. パウロの苦しみの経験  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ8節の後半でパウロは苦しむ用意をすることから、実際に苦しむことに移行します。8節の前半でいっさいのものを損とみなすことから、後半ではいっさいのものを失うことの苦しみというものに移行します。「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、･･･るためです。」 パウロはこの世の一般的恩恵と快適さのすべてを失い苦しみましたが、それゆえにそれを損と思うとただ言っているのではなく、それを損失したと言うことができるのです。これを来週私たちは見ていきます。彼は自分の価値観を逆転させることで、[苦しむ]用意をし、そして今やそれが試されているのです。彼はキリストをすべてのものに勝って価値あるお方とみなしたでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 苦しみのうちにあるパウロの目標(そして神の目的)  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからこの苦しみのうちにあるパウロの目標と神の目的に私たちの注意を引き寄せることで、終わらせてください。なぜ神は、パウロにとって損失がクリスチャンであるという意味であるということを定められ、パウロはそれを受け入れたのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは私たちが核心を見失わないように、それに対してこの箇所で繰り返し答えています。彼はこの損失に受身ではありませんでした。それを目的を持って受け入れていたのです。そしてその目的はキリストを得ることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*7節:「私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」 &lt;br /&gt;
*8節前半: 「私の主であるキリスト･イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」 &lt;br /&gt;
*8節半ば:「キリストのゆえに、私はすべてを失いました」 &lt;br /&gt;
*8節後半:「それらをちりあくたと思っています。それは、･･･キリストを得･･･るためです。」 &lt;br /&gt;
*9節: 「キリストの中にあるものと認められ[自分の義ではなく、神から与えられる義を持つ者として]･･･」 &lt;br /&gt;
*10節前半: (すべてのことを失うことを受け入れることにある、彼のねらいを説明) 「キリスト･･･を知り、」 &lt;br /&gt;
*10後半–11節: (キリストを知るということが何かを４つに分けて詳細に説明)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:*「キリストの復活の力を知り、」そして &amp;amp;gt; * 「キリストの苦しみにあずかることを知って、」 &lt;br /&gt;
:*「キリストの死と同じ状態になり、」 &lt;br /&gt;
:*「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
別の言い方をすると、すべてのものを失った苦しみのうちにあるパウロを支えるのは、この世の価値あるものを失うことのうちに、さらに価値のあるもの、すなわちキリストを得るという確信である、と言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして得ることは、知ることであると、ここで2度言っています。8節前半、「それどころか、私の主であるキリスト･イエスを知ることのすばらしさのゆえに、」。10節、「キリスト･･･を知り、」。これが苦しむことのうちにある親密関係を維持する要因です。私たちは主を知りたいでしょうか?このすべての宝に勝るものを得るために、すべてのものを損と思うほどに、主ともっと個人的に、深く、正直に、そして親密関係を持ちたいでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしそう思うならば、私たちには苦しむ用意ができています。もしそう思わないのであれば、私たちは苦難に不意打ちをくらって、それに反抗します。主がキリストを知ることの素晴らしさに、私たちの目を開いてくださいますように! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 19 Nov 2015 20:49:06 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E8%8B%A6%E3%81%BF%E5%96%9C%E3%81%B6%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E5%8F%AC%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B(%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1):%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%92%E5%BE%97%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81</comments>		</item>
		<item>
			<title>苦み喜ぶことに召されている(私たち)：聖さと望みのため</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E8%8B%A6%E3%81%BF%E5%96%9C%E3%81%B6%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E5%8F%AC%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B(%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1)%EF%BC%9A%E8%81%96%E3%81%95%E3%81%A8%E6%9C%9B%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「苦み喜ぶことに召されている(私たち)：聖さと望みのため」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Called to Suffer and Rejoice: For Holiness and Hope}} &amp;amp;gt; ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の4週間でキリストのために苦しむよう皆さんを用意させることができることを望みます。私たちがキリストのために苦しむ用意ができているべきであると私が信じる理由の一つは、聖書がそうしなければならないと教えるからであり、またそれとは別に、現代の状況がそうしなければならないと語っているからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 苦しむ用意をすること  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宣教師であり学者であり、オックスフォード世界キリスト教百科事典の編集をしたディビッド･バレットは、2000年に事情がどうなっているかという予測で、キリスト教動向の現状の更新を毎年発行しています。今年の更新で彼は、1980年で270,000人のキリスト教殉教者があったのですが、今年は恐らく308,000人、2000年には500,000人の殉教者が出るだろうと推定しています。&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;これらは多かれ少なかれ、クリスチャンであるがゆえに死んでいく人々です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日のソマリアでは、何万というクリスチャンが対立勢力によって意図的に孤立させられ、餓死させられています。ナイジェリアのイスラム教徒とキリスト教徒間の緊張は爆発寸前の状態です。中国やあるいは他の諸国の何十万というクリスチャンが、嫌がらせと監禁の絶え間無い危険の中で生きています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
世俗社会が一般的である私たちの国でも、特に知的エリート階級やメディアの指導者たちは、福音派教会や私たちが立つところの義や高潔さという聖書のビジョンに対し、ますます敵意を表しています。世俗の敵対者に対応するため、憲法修正第1項がひどくねじ曲げられ、キリスト教教会の建物に水や電気や下水を公的に供給することは、政府の資源と規則に違反する宗教的行為であるということに反論する判事がいることでさえ、考えられなくなっています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公共の場所でただ単に祈る、穏和な妊娠中絶反対の抗議者は、ニューヨークのバッファロー郡で起きたように、中絶擁護者たちによって激しく暴行され、警察の保護を受けるどころか、犯罪者として責任を問われることもあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様の御名は有名なエンターテイナーによって公にさげすまれ冒とくされ、数十年前には一般社会から非難されるような行為だったものが、今日では承認され見逃されています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 大宣教命令の代償  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらすべては、クリスチャンであることは今後数年でますます大変になる、ということを示しています。そして大宣教命令を完了させることは、すでに犠牲を払って来ており、また常にそうであったようにですが、私たちのうちの何人かの犠牲を払うことになります。1800年前に、ターテュリアンという人は、「私たち[クリスチャン]はあなたたちに大量殺りくされるたびに繁殖する。クリスチャンの血が種である」(アポロゲティカス、50)と言いました。そしてその200年後に、聖ジェロームは、「キリストの教会は、誰のものでもなく、自身の血を流すことによって建てられて来た。屈辱を加えることによってではなく、屈辱に耐えることによって。迫害がそれを成長させて来たのである。殉教がそれに王冠を与えて来たのである」(手紙82)と言いました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは今日、禁教国について語ってばかりで、神があたかも宣教が楽で安全であるよう意図されたかのように、宣教に関する神の視点をほとんど見失っています。福音を広めることで起こりうる迫害、監禁、そして死を当然として受け止める人々にとって、閉ざされた国はありません。そしてイエス様もはっきりと、そのような結果が起こりうると言っておられます。「そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます」(マタイ24:9)。「もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します」(ヨハネ 15:20). &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは神の、苦しみと福音の拡大についての視点を取り戻さない限り、主がご計画になっている恵みの勝利に喜ぶことはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宣教と社会正義に従うこととは、絶えず犠牲を伴ってきており、今後も絶えず犠牲を伴います。ナイジェリアのミアンゴという村では、SIMゲストハウスとカークチャペルという小さな教会があります。そのチャペルの裏庭には56の小さな墓があります。そのうちの33は宣教師の子どもたちの遺体を抱えています。墓石には、「エスィル･アーノルド、享年1928年9月1日―1928年9月2日」、「バーバラ･J･スワンソン、享年1946―1952年」、「エイリーン･ルイース･ウィットモーヤー、享年1952年5月6日―1955年7月3日」と記されてあります。これが近年、多くの家族にとって、ナイジェリアに福音を持ち込んでいくことの、犠牲です。チャールズ･ホワイトはこの小さな墓を訪れたことを、非常に力強い文章を持って語っています。「私たちがミアンゴにある墓地を理解することができる方法はたった一つ、それは神もご自身の御子を宣教地で葬られたということを思い出すことである」と彼は言います。&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして主が御子を死からよみがえらせられたとき、主は教会に、同じ「全世界」という危険な地まで御子に従うよう召されました。しかし私たちにはそれに従う意志があるでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== あなたは2テモテ3:12をどうするか?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2年前、オランダのアルメロで、アンドリュー兄弟が市の12人ほどの牧師らとハンガリーのブダペストで座って、聖書から人々に教えていたときの話をしてくれました。古い友人で、最近刑務所から出所した、ルーマニア人の牧師が歩いて近寄ってきました。アンドリュー兄弟は教えるのを中断し、彼の話に耳を傾ける時だと思いました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長い沈黙の後、そのルーマニア人の牧師が「アンドリュー君、オランダでは刑務所に入れられている牧師はいるかい?」と尋ねました。「いいえ」とアンドリュー兄弟は答えます。「なぜいないのかな?」牧師は尋ねます。アンドリュー兄弟はちょっと考えて、「恐らく神が私たちにお与えくださるすべての機会を私たちが十分に活かしていないからだと思います」と答えました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから最も難しい質問を投げかけました。「アンドリュー君、君は2テモテ3:12をどうしているかい?」アンドリュー兄弟は自分の聖書を開き、その箇所を開けて声を出して読みました。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」彼は聖書をゆっくり閉じ、そして「兄弟、どうぞ許してください。私たちはその聖書箇所について何もしていません」と言いました。&amp;lt;sup&amp;gt;4&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは敬けんという概念を、当たり障りのない、中流階級の倫理観と戒律厳守なるものに飼い慣らしてしまい、2テモテ3:12が私たちにとって理解できないものとなっているのです。私たちのほとんどが福音のために苦しむ用意ができていないと思います。そのためこのことについて聖書が何と言っているか、また今日神が私たちを何に召しておられるかを4週間かけて取り扱うよう、私は召されている気がするのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 苦難の4つの聖書的目的  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それぞれのメッセージが、苦難に関する4つの目的のうちのそれぞれに対応しています。そして私たちが苦難の目的を語ることができるのは、私たちが時によって義のためにまた福音のために苦しむことが、神のみむねであるということが明白だからです。例えば、「神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」(1 ペテロ4:19、その他に3:17、ヘブル 12:4–11参照)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の念頭にある苦難の４つの目的は、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1. 道徳的目的、なぜなら苦難は私たちの聖さと希望を精錬するから(ローマ5:1–8) 2. 親密さの目的、なぜなら苦しむことによって私たちのキリストとの関係が深まり喜ばしいものになるから(ピリピ 3:7–14) 3. 宣教目的、なぜなら私たちがキリストの価値を私たちの現実を通して広めることにより、キリストの苦しみを満たすよう、神が私たちを召しておられるから(コロサイ1:24) 4. そして栄光目的、なぜなら今のこの軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすから(2コリント4:16–18). &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 苦難の道徳的(霊的)目的  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日は私たちは苦難の道徳的(あるいは霊的)目的に注目します。神は私たちが福音のため、また義のために苦しむよう定めておられます。それはそれが道徳的また霊的効果を私たちにもたらすからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
‘’’神の栄光の望みに大いに喜ぶ’’’ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この点に関する素晴らしい聖書箇所の一つを一緒に読みましょう。ローマ5:3―4です。私たちは信仰によって義とされること、また私たちはイエス様を通して恵みに導き入れられ、私たちは恵みのうちに立っているということを示した後、パウロは2節で私たちクリスチャンは「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」と言います。クリスチャン人生における喜びの最も基本的要因は、私たちが神の栄光を見、そして分かち合うようになる日を熱心に待ち望むことです。神の栄光の望みが私たちの喜びの中心です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さてもしそれが本当であるならば、パウロが続けて3、4節で、私たちは私たちの望みを増す事がらにも大いに喜ぶ、と言うことには、完璧に一貫性があります。それがここでの論理の道筋です。2節の終わりで神の栄光を望むことから始め、そして4節の終わりで望みで終えます。ポイントは、もし私たちが望みに大いに喜ぶのなら、私たちは望みをもたらす事をも大いに喜ぶ、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''望みをもたらすこと''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから３、４節ではそれが何かを説明しています。「そればかりではなく[私たちは神の栄光を望んで大いに喜んでいるだけでなく]、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性[受け入れられた者であるという感覚]を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが患難を喜ぶ理由は、私たちが苦痛や不幸や不安や苦悩を好むからではなく(私たちは自虐的な者たちではありません)、患難が私たちの好むもの、すなわち、耐え抜いた堅忍と受け入れられた者という感覚を体験することを通して来る、ますます強められた望みの感覚を生み出すからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神はご自身の民の苦難に目的がおありになる''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからここでの主な教訓は、神はご自身の民の苦難に目的がおありにある、ということです。そしてその目的は、彼らが労力を尽くしているミニストリーの目標とは違うものであることが多々あります。ミニストリーの目標はツイン･シティー[ミネアポリスの中心地]の教会に行っていない独身の人々、あるいは郊外の専門的職業に就いている人たち、あるいはトルコ系イスラム教徒たちに伝道することかも知れません。しかし神の目的は、聖職者や宣教師たちを刑務所に入れることによって、彼らのうちにさらなる希望を生み出すことかも知れません。神は常にそれ以上のこと(私たちは次の数週間でそれを見て行きますが)成しておられますが、それだけでも十分なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
別の言い方をすれば、神は、私たちがせっせとこなすほど、ミニストリーの生産性や効率の良さまでには取り組まれません。パウロは自分の投獄やむち打ちの刑、遭難や台無しになった計画のうちにある神の奇妙なみわざを、何度も何度も考えなければなりませんでした。自分の宣教をこのように何度も阻まれるとは、神はそんなにも無能であられようか?聖書のその答えは(それが唯一の答えではありませんが)、神は失われたものに手を差し伸べる過程のうちに、ご自身の民の希望と聖さを増すことに熱心であられる、というものです。そして神のみがその二つをうまく釣り合わせ、最善の方法で実現させる方法を知っておられるお方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 患難の3つの効果  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では患難の効果をもっと具体的に見て行きましょう。3節と4節では３つの具体的な効果に言及しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1. 忍耐''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、患難が忍耐、あるいは粘り強い耐久力を生み出します。パウロはそれが普遍的に本当であると言っているのではありません。多くの人にとって、患難は憎しみや恨み、怒り、憤り、また不満を爆発させます。しかしキリストの御霊を持っている者たちには、これは継続する効果ではありません。彼らにとって御霊の実は忍耐ですので、その効果は粘り強い耐久力です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでのポイントは、困難、特にキリストと主の義のための困難が来るまで、キリストに対する愛の度合いと深さを体験することはない、ということです。苦しい時期がやって来るまで、私たちは自分が都合のいい時だけのクリスチャン、つまり、イエス様がマルコ4:16―17で４つの地に落ちた種のたとえで説明されるようなクリスチャンであるかどうかを経験し、知ることはないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; みことばを聞いてすぐに喜びを持って受け入れますが、根がないので、一時は耐えるかも知れませんが、みことばのせいで患難や迫害が起こるとすぐに離れて行く人というのは、固い岩の上に落ちた人々のことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから、患難の素晴らしい効果の一つは、粘り強い耐久力と忍耐を神の民のうちに生み出すとパウロは言っているのです。それは彼らが自分の人生における神の誠実さを見て、自分がまことに主のものであるということを知ることができるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 練られた品性''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが４節で言及されている二つ目の効果のポイントです。「忍耐が練られた品性を生み出し、」。Dokimenという言葉の直訳は、「試され認められる経験」です。「認められる」あるいは「証明される」と言うことができると思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは理解に苦しむものではありません。もし患難がやって来て、キリストに対する愛において耐え忍び主に背かなかったら、あなたは自分が本物で、証明され、偽善者ではないというより強い感覚を経験するでしょう。信頼の木が曲げられ、折れなかったのです。あなたの忠実さと忠誠が試され、合格したのです。今や「練られた品性」を持ち合わせています。あなたの金の信仰が火の中を通され、燃やし尽くされずに精錬されたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 汝が道が燃えるような試練のうちに横たわるとき 我が恵み、十分な恵が汝の備え 炎は汝に害を与えない 汝の価値のないものを燃え尽くし、汝の金を精錬することだけを目的とするのみ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様に対する私たちの忠誠心の金を証明しまた精錬する、それが二つ目の患難の効果です。忍耐が証明された確信を生み出します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3. 希望''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３つ目の効果は、試され、認められ、精錬されたこの認識力から来ます。４節後半、「練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」これは私たちを2節に戻らせます。「私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」クリスチャンの人生は福音にある神の約束に希望を持つことから始まり、そして患難を通してさらなる希望へとらせん状に上昇します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
認められることはさらなる希望を生み出します。それは私たちの希望が、試されることを通して自分が実際に本物であるということを体験するとき、私たちの希望が成長するからです。神を最も良く知っている人というのは、キリストと共に苦しんだ人です。自分の希望のうちにまったく揺るがない人というのは、深く試されたことのある人です。栄光の希望を最も熱心に、根強く、そしてしきりに見つめる人というのは、患難を通して人生の快適さをはぎ取られた人です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 患難の中で栄光の望みに大いに喜ぶ  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからこのシリーズで苦しみと患難について私たちが言える第一のことは、神がそのうちに目的を持っておられる、ということです。そしてその目的は、ご自身のみ名のために、ご自分の民の粘り強い忍耐力を生み出されるということです。それを通して信仰の現実とキリストに対する忠誠心が試され、証明され、精錬されるのです。それを通して私たちの希望を強め、深め、増大するために認められたという感覚が生み出されるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは教会としてミニストリーのゴールがあります(都市弟子訓練、小グループ牧会、伝道ネットワーク、まだ生まれていない子たちの擁護、ユースと子どもたちの動員)。私たちには、2000年までに2000人の宣教師を送り出すという素晴らしい宣教のビジョンがあります。キリストとその御国のために、教会建築費の支払いとそれを支援する予算があります。これらのどれだけが、神のその主権の中で実現するのか、私には分かりません。でもこれだけは分かります。これらの目標を私たちが従順に追い求めることのうちに、神は私たちが直面する障害のすべてと苛立ちのすべてと、痛みのすべて、患難のすべてに目的がおありになり、その目的、つまり私たちの忍耐、練られた品性、そして神のご栄光にある望みは、目標そのものと同じように重要です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれにせよ、私たちの人生の計画段階で成しておられるかも知れないみわざを、神は絶えず私たちの人生の中心で成しておられます。それゆえパウロと共に、栄光の望みに、そして来るべき患難に大いに喜びましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ***  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 『宣教調査のインターナショナル公報(International Bulletin of Missionary Research)』、第16巻, 第1号, 1992年1月発行、 27ページ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; チャールズ･ホワイト著、『小さな犠牲( &amp;quot;Small Sacrifices,&amp;quot; )』、クリスチャニティー･トゥデー、第36巻、第7号、1992年6月22日発行、33ページ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;4&amp;lt;/sup&amp;gt; 『苦難に召され、勝利に召されている(Called to Suffer, Called to Triumph)』エー &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 13 Nov 2015 01:32:54 GMT</pubDate>			<dc:creator>Kathyyee</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E8%8B%A6%E3%81%BF%E5%96%9C%E3%81%B6%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E5%8F%AC%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B(%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1)%EF%BC%9A%E8%81%96%E3%81%95%E3%81%A8%E6%9C%9B%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81</comments>		</item>
		<item>
			<title>神は不敬虔な者を義と認められた</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E4%B8%8D%E6%95%AC%E8%99%94%E3%81%AA%E8%80%85%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E8%AA%8D%E3%82%81%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「神は不敬虔な者を義と認められた」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|God Justified the Ungodly}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。22すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。25神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されてきた罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。26それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。27それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。28人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。29それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。30神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。31それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。4:1それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。2もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。3聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。4働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。5何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。6ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。7「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。8主が罪を認めない人は幸いである。」&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の義の立証 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先週私は、キリストの死によって解決された非常に難しい問題とは、罪の宣告を受けて当然である数多くの罪を見のがして来られたことで、神ご自身が不当であられるように見えるという問題であることを、お見せしようとしました。 旧約聖書全体が神は「あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す」(出エジプト34:6―7)お方であることが、まことであることを証ししています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして私たちの罪や義についての考え方が神中心になるまで、私たちはこの問題に気づくことはないと、私は言いました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪(ローマ3:23)は本来、人に対して犯されるものではありません。それは神に対して犯されるものです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」。罪を犯すというのは常に、この世のものを神よりも大切にすることです。それは主の栄光を軽くあしらうことです。主のみ名を汚すことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし神の義とは、最終的に正しいこと、すなわち、主のみ名の栄誉と主の栄光の価値を保つことに対する、主の義務です。義は罪の逆です。罪とは主と逆のものを選ぶことによって神のみ価値を軽くあしらうことで、義とは神を選ぶことによって神のみ価値を大きく見せることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ神が罪を見のがし、罪人を裁くことなく自由にされるとき、主は不正なお方であるかのように思われます。あたかも「わたしの価値をあざ笑うのは大したことではない、わたしの栄光を軽くあしらうことはささいなこと、わたしの名を汚すことなど一向に構わないよ」と言っておられるかのようです。もしそれが本当であるならば、神は不正なお方です。そして私たちに希望はありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし神はそれを肯定されませんでした。主はご自分の御子、イエス・キリストの死を通して、神が義であられることを示すため、御子を全面に押し出されました。神の御子の死は、ご自身の栄光の価値、そして罪に対するご自身の憎しみ、罪人に対するご自身の愛の宣言です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 不敬虔な者を義と認める ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神が不正なお方であられるかのように見える、罪を見のがすという行為の別の言葉は、「義認」、つまり、不敬虔な者を義と認めること(ローマ4:5)です。それが今日私がお話ししたいことです。神が罪を見のがされたのは大昔だけでなく、主はご自身の民の罪、つまり私たちが昨日、あるいは今朝犯した、また明日犯すであろう罪も、見のがされているという事実をお話ししようと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
26節では、イエス様が死なれたとき、一つだけでなく、二つのことが起こったと言われています。「それは[キリストの死は]、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」神が義であられることが示され、そして信じる者たちが義と認められるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところで今日は私たちが義と認められる、主観的な信仰の行いについては注目したくありません。義と認められる神の客観的なみわざについて注目したいと思います。なぜならもし私たちが何をするかではなく、神が何を成されるのか、その偉大なみわざについて注目するなら、それを受け入れる、心から沸き起こる信仰を、私たちが見出すからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様を信じることを通して賜物を受ける者たちにとって、義と認められることが意味する４つのことを、見ていきましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 私たちの罪のすべてが赦される ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一に、義と認められるというのは、私たちの罪のすべてが赦されるということを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''過去、現在、未来のすべての罪''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ4:5―8で、パウロが旧約聖書を引用して義認の真理を説いているのを見てください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「5) 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。6) ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。7) 『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。8) 主が罪を認めない人は幸いである。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが義認のまさに中心にあるものです。7―8節の、「不法を赦され」、「罪をおおわれ」、「主が罪を認めない人」のこれら3つの素晴らしい表現を大切にしてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは、赦される罪が私たちが信じる以前に犯したものに限っていないことに、注意してください。あなたの過去の罪は赦されたが、未来は容易には手に入らないよ、というような制限は一切していません。義認の恵みとは、不法が赦され、罪がおおわれ、「主が罪を認めない」ということです。それは絶対でありまた無条件であると、明言されています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''それはキリストが私たちの罪と咎を負ってくださったから''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主はそれをどのように成されるのでしょうか?ローマ3:24では私たちは「キリスト・イエスによる贖いのゆえに」義と認められる、と言います。「贖い」という言葉は、ある束縛や監禁から自由にする、釈放する、あるいは解放することを意味します。ですからポイントは、イエス様が私たちのために死なれたとき、主は私たちを自分の罪の束縛から解放してくださった、ということです。私たちを罪に定めていた罪の縄目を、主は断ち切ってくださったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ガラテヤ3:13でパウロは、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」と言います。ペテロは(1ペテロ2:24で)、「[キリストは]自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に追われました」と言います。イザヤは「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(53:6)と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ義認、つまり罪の赦しは、キリストが私たちの罪を負ってくださり、私たちののろいを負ってくださり、私たちの咎を負ってくださり、そして罪の定めから私たちを解放してくださったため、実現するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キリストはたった一度苦しまれた''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主はたった一度苦しまれた、ということに注目してください。主は、聖餐式やミサで、あたかも主の最初の犠牲が不十分だったかのように、毎回ほふられているのではありません。ヘブル9:26では、「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」と言います(ヘブル7:27参照)。9:12でも、「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」と再度言います。これは十字架上で神が私たちのために成されたことの栄光を理解するためには、非常に重要です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ一度切りのキリストの死と、あなたの罪と神の民すべての罪の全体性の関係が見えますか?それはある一部の罪、あるいは特定の種類の罪、あるいは過去の罪のみではありません。キリストがご自身のすべての民から取り除いたのは、罪、すべての罪です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ義認の赦しは、私たちの過去、現在、未来の罪すべての赦しです。キリストが死なれたとき、それが起こったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. 縁もゆかりも無い方の義をもって義とみなされる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義と認められるというのは、神の義が私たちに転嫁され、義とみなされる、あるいはその義が私たちのものとみなされる、ということを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは神のみ前に立場の無いまま、ただ赦されるのではありません。神は私たちの罪を取りのけられるだけでなく、私たちを義とみなされ、神との正しい関係においてくださるのです。主は私たちにご自身の義をお与えになるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''イエス様にある信仰を通しての神の義''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
21―22節を見てください。パウロは20節で、律法を行うことによっては誰も義と認められることはないと、言ったばかりです。戒律主義的努力の基盤によっては、あなたは神との正しい関係を得ることはできません。そして彼は(どのようにして義と認められるかを示すため)、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。22) すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ律法を行うことによっては誰も義と認められないのですが、イエス・キリストを信じる信仰を通してあなたが持つことのできる神の義があるのです。これが、義と認められるというのは義とみなされるという意味だと、私が言うものです。信仰によって、神の義が私たちのものとされるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先週私たちが25―26節から見たように、神の義を現すためイエス様が死なれたとき、主はその義を、賜物として罪人が得ることができるようにしてくださるのです。もし神が罪を見のがされたことで義であられることを、キリストが死ぬことによって示されなかったのなら、神の義を示す唯一の方法は、私たちを罪に定めることによってしかありません。しかしキリストは死なれたのです。ですから今や神の義は、罪の宣告ではなく、信じる者すべてにとっていのちの賜物なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2コリント5:21''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2コリント5:21はこの義の転嫁の素晴らしい賜物についての、息を飲むような最も素晴らしい聖句の一つです。「神は、罪を知らない方[キリスト]を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリストは罪を知らないお方でした。主は完璧な人であられたのです。罪を犯したことがおありになりませんでした。ご自身の生涯と死において、神のご栄光のために完全に生きられたのです。主は義であられました。その反対に私たちのすべては罪を犯したのです。神のご栄光を軽くあしらってきました。私たちは不義の者たちです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしキリスト･イエスにあって私たちをこの世の初めからお選びになった神は、キリストを、罪人ではなく、罪、つまり、私たちの罪、私たちの咎、私たちの罰、私たちの神から離れた状態、私たちの不義、とすることによって、見事な交換を定められたのです。そして主はキリストが見事に立証された神の義を取って、キリストが私たちの罪を背負われたように、神の義を私たちに負わせ、着せ、所有させられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでのポイントは、キリストが道徳的に罪人になられ、私たちが道徳的に義となる、ということではありません。ポイントは、キリストがご自分とは縁もゆかりも無い罪を負って苦しまれ、私たちが縁もゆかりも無い義を受けそれによって生きる、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''義認は聖化より先に起こる''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この客観的な現実が私たちの外部にあることを見てください。これは聖化、つまり私たちの考え方、感じ方、生き方の上で道徳的に義とされる、実際の過程の実現にまだ至っていません。それそのものも賜物です(次の3週でそれを見ていきます)。しかしそれ(聖化)はこれ(義認)を基とします。部分的に義と認められたところにまことの福音を進展させる前に、私たちは完全に義と認められたと信じなければなりません。あるいは別の言い方をすれば、神の力によって実際に私たちが打ち勝つことができる罪は、赦された罪です。義認の素晴らしい賜物は、聖化の過程より先に起こり、そして聖化を可能にします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 神に愛され、恵みをもって取り扱われる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義と認められるというのは、神に愛され恵みをもって取り扱われるということを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キリストは神の私たちに対する愛の度合いを証明する''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし神があなたを愛されなかったのなら、ご自分の御子の死によって解決すべき問題は一切なかったはずです。ご自身のあなたに対する愛のゆえ、主はあなたの罪を見のがされ、そのため主は不正なお方であるかのように見えました。もし主があなたを愛されなかったのなら、私たちのすべてを単純に罪の滅びに定めることによって、罪の問題を解決されたはずです。それで神の義が立証されたはずです。しかし主はそうされませんでした。その理由は、神はあなたを愛しておられるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはローマ5:6―8でもっとも美しく描かれてあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神がご自分の御子の死において証明しておられるのは、ご自身の義だけでなく、ご自身の愛の度合いをも証明しておられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神の無償の賜物''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ3:24でパウロは、私たちは「神の恵みにより、･･･値なしに」義と認められる、と言います。神の罪人に対する愛は、恵みの賜物、つまり、私たちの行いや私たちの価値からくるのではなく、神の惜しみない慈悲深さから来る賜物に、満ちあふれています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪の赦しと神の義は、無償の賜物です。それはキリストがご自身のすべてを犠牲にしてくださったので、私たちは一切支払う必要がない、ということを意味します。行ないや、親から受け継いだり、儀式を取り入れることによって得られるものではありません。それは無償で、信仰によって受けるものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ5:17では次のように言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪の赦しと神の義は、神の愛からあふれ出る、無償の賜物です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義と認められるというのは、赦され、義とみなされ、神から愛される、ということを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4. 神によって永遠に保証される ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、義と認められるというのは、神によって永遠に保証されるということを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはこの上ない恵みです。パウロはローマ8:30で、それを宣言します。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしあなたが義と認められているのなら、あなたは栄光を受けます。来るべき世の栄光を受け、喜びと聖のうちに神と共に永遠に生きるのです。どうしてそうはっきりと言えるのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜなら神の御子の死の効果は神の民にとって実在するものであり、現実であり、確かであり、無敵だからです。それが達成したものは、永遠に達成されます。キリストの血潮の効果は、今救う力があったかと思うとその力を突然失ったり、失ったかと思うと救うことができたりと、当てにならないものではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが32節、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」のポイントです。すなわち、主は私たちに栄光をお与えにならないことがありましょうか!そうです!私たちの義認を確保するその同じ犠牲が、私たちが栄光へと変えられることをも確保するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしあなたが今朝義と認められておられるなら、あなたは罪の告発と罪の定めを越えています。33節、「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」もし神が、ご自分の御子の死を通してあなたを義と認められたのなら、誰も、天においても地においても地の下においても、あなたを告発することのできるものはいないのです。あなたは栄光を受けます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜでしょうか?あなたに罪がないからでしょうか?いいえ。あなたがキリストの血潮によって義と認められているからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== *** ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 06 Nov 2015 21:16:09 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A5%9E%E3%81%AF%E4%B8%8D%E6%95%AC%E8%99%94%E3%81%AA%E8%80%85%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E8%AA%8D%E3%82%81%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F</comments>		</item>
		<item>
			<title>預言の賜物の権威と性質</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E9%A0%90%E8%A8%80%E3%81%AE%E8%B3%9C%E7%89%A9%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%A8%81%E3%81%A8%E6%80%A7%E8%B3%AA</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「預言の賜物の権威と性質」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Authority and Nature of the Gift of Prophecy}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言っ8/29た。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先週1コリント13:8―12で、実際の生きた顔が、鏡にぼんやり映ったイメージに取って代わるのと同じように、預言の賜物は、イエス様が再臨されるときにすたれる、と教えられているのを、お見せしようとしました。またそれゆえ預言の賜物は、今日の教会でまだ有効であるということを、論じました。今日は「預言の賜物は一体どのようなもので、どのようにして行使されるべきであるか」と言う疑問を取り上げます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== みことばの完了状態と十分性 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、みことばである聖書の66巻の完了状態と、十分性を確認することから始めさせてください。私が言うところの今日の預言のいかなるものも、みことばが私たちの人生に持っているような権威を持ってはいません。今日語られるどのような預言も、みことばに付け足されることはありません。それらはみことばによって吟味されるべきものです。みことばは堅く閉じられ、最終的です。土台であって、構築中のものではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを見ることができる最も良い方法は、初代教会で使徒達の教えがいかにして最終的権限であったか、また他の預言が最終的権限を持っていなかったかを見ることです。例えば、1コリント14:37―38でパウロは、「自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。もしそれを認めないなら、その人は認められません」と言います。その意味は明らかです。使徒の教えが最終的権限を持っているのです。教会で預言と呼ばれるものには、昔も今も、この権威がありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2テサロニケ2:1―3にもこれと同じものを見ることができます。パウロはここで、もし誰かが「霊」によって、主の再臨についての情報をあなたに提供するよと言ったとしても、それが自分の教えと異なるものであるならば、信じてはいけない、と言います。「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス･キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」言い換えると、預言は使徒のことばによって吟味されなければならないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新約聖書は今日、使徒達が立ったところに立つ、と言うのがここのポイントです。彼らの権威は今日、彼らの書簡と、ルカやマルコやヤコブ(イエス様の兄弟)のような、彼らの近しい仲間の書簡によって、行使されます。ですからパウロが当時使徒の教えを最終的権限としたのと同じように、私たちは今日使徒の教えを最終的権限とするのです。それは新約聖書が私たちの権威であることを意味します。そして新約聖書が旧約聖書を神の霊感を受けたことばとして承認するので、私たちは聖書全体を、私たちが何を信じ、どのように生きるべきかに関するすべての教えとすべての預言の規範と、ものさしであると受け止めます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ペンテコステで何が起こったのか ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では今度は新約聖書の預言の賜物について私たちが学ぶことができるものを見るため、使徒2:16に移ります。状況ーそれはペンテコステ(五旬節)の日で、イエス様がよみがえられてから50日経ったときでした。120人の男女がエルサレムで、「いと高き所から力を着せられる」(ルカ24:49)のを待っていました。使徒2:2によると、聖霊が激しい風が吹いて来るような響きと共にやって来られます。4節で、「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」とルカは言います。11節では彼らが何を話していたのか、具体的に説明されています。何人かの外国人が彼らが語るのを聞いて、「私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは」と言います。彼らのことばの内容によく注意してください。それが預言の賜物の性質を理解するのに重要になります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ヨエルの預言の成就''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
16節でペテロは何が起こっているのかを説明します。これが預言者ヨエルによって語られたことだと彼は言います。これはヨエル2:28の成就の始まりです。ペテロはヨエル書17―18節を引用して、「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨエルは、終わりの日に御霊の世界的(「すべての人」)注ぎがあり、その注ぎの印は、老若男女、高低層階級に至る預言の充満であると言います。それは「終わりの日」に起こるとヨエルは言うのです。それはいつでしょうか?ペテロは今起こっているそれがその注ぎであると言います。「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。」しかしその当時終わりの日が始まっていたのであるなら、私たちはどこに当てはまるのでしょう? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''終わりの日''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは終わりの日におさまります。イエス様が来られたので、私たちは終わりの日に生きています。ヘブル1:2は、「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。･･･」と言います。御子が来られたので、私たちは「終わりの時」に生きているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからこれは、先週見たように、預言は私たちが今日予期すべきものであるということを裏付けます。老若男女、高低層階級が終わりの日(私たちの時代)に預言し、これは世界的現象になります。なぜなら17節が言うように、神はユダヤ人だけでなく、『すべての人』にご自身の御霊を注がれるからです。ペテロの説教は使徒2:39で終了します。「この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」それは神によって召された私たち異邦人も含まれます。悔い改めて信じるすべての者が預言するわけではありません(1コリント12:29)。でも悔い改めて信じるすべての者が聖霊を受けます(38節)。そしてこの終わりの日に、御霊が注がれたというその現れの一つは、驚くほど広範囲に渡る預言の賜物です(17―18節)。「あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 御霊によって引き起こされた、それでいて本来備わっていない、神の権威 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、この質問を自問してみて下さい。ヨエルとペテロとルカは、すべての男女、つまり若いものも年寄りも、しもべもはしためも、預言者であったモーセやイザヤやエレミヤ、つまり、逐語霊感と神の権威そのものを持って語り、誤りの全くないみことばを書くことのできた預言者たちと同じように、預言者たちになると思っているでしょうか?使徒2:17の預言は、そのような預言なのでしょうか?あるいはそこには違いがあるでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこには違いがあると私は信じます。今日の預言の賜物は、旧約聖書の預言者の権威や、イエス様や使徒達の権威を持っているとは思いません。あるいは、より肯定的に言うなら、これらの種の預言は御霊によって促され保たれるものですが、それでいて本来備わっている神の権威がありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日このような種類の預言を管理するのがとても大変な理由の一つは、それは私たちのほとんどにとって、本来備わっている神の権威がない、御霊に促された発言、というもののカテゴリーが、頭の中にないからです。それは矛盾しているように聞こえます。私たちは聖霊によって促され維持され、それでいて間違いのある、ある種のスピーチにつまづきます。でも私は今朝と今晩、これが新約聖書と今日の預言の賜物であると言うことを、お見せしようと思います。それは本来備わっている神の権威をもたない、誤りが含まれる、御霊によって促され、御霊によって保たれることばです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、もし預言の賜物がそれほど重要でなく、[教会を]建て上げるようなものではないように思えるのでしたら、教える賜物のたとえを考えて見てください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 教える賜物のたとえ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教えるという御霊の賜物が行使されているとき、その教えは御霊によって促され保たれ、誤りの全くない神の啓示、すなわち聖書に根付いている、と言わないでしょうか?教える賜物は、御霊によって促され、御霊によって保たれた、教会を高めるために聖書の真理を説明する行為です。私たちのすべてがそれは教会のいのちにとても欠かせないものであると言います。でも教師のスピーチが、その教師が教える賜物を行使している時に、それには誤りがあると言う人がいるでしょうか?いいえ、いません。それは神の権威を持っていると言うでしょうか?二次的な意味でのみ、そう言います。その教えそのものが、本来備わっている神の権威を持っていると言うのではなく、その教えのもとである聖書に神の権威がある、という意味で言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ御霊に促され、御霊に支えられ、誤りの全くない啓示(聖書)に根付いた賜物は、それにも関わらず、誤りがあり、不完全さと混ざっており、二次的な模倣した権威なのでしょう?その答えは、教師の聖書の真理の認知が当てにならないからです。教師の聖書の真理の説明があてにならないからです。誤りの全くない聖書と教会のつながりが、誤りの全くないつながりだという保証はどこにもありません。教える賜物が誤りのない教えだという保証はありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それなのに、教える賜物が誤りがあるものであったとしても、それが本来備わっている神の権威を欠いていたとしても、それが教会にとっては大変価値あるものであることを私たちは知っています。私たちはみな、優れた教師たちによって高められ、建て上げられます。神がそのうちにおられるのです。神がそれを用いられるのです。それは御霊の賜物です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、これを預言の賜物と比較してみてください。それは御霊によって促され、御霊によって保たれ、神からの啓示に基づいたものです。神は預言者の頭に何かをあらわされ(普通の知覚を超えた方法で)、そして神は間違いを犯されることはないので、主の啓示はまことであることを私たちは知っています。その啓示には誤りが一切ありません。しかし預言の賜物は、その啓示の誤りのない伝達であることを保証しません。預言者がその啓示を不完全に感知するかも知れませんし、不完全に理解するかも知れませんし、また不完全に伝達するかも知れません。そのためパウロは、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていると言うのです(1コリント13:12)。誤りのある預言に終わってしまう預言の賜物は、丁度、誤りのある教えに終わってしまう教えの賜物のようなものです。ですから私は、「もし教えが教会を高めるために良いものであることができるならば、パウロが言うように(1コリント14:3、12、26)、たとえその両者[教えるのと預言の賜物]に誤りがあり、人間の不完全さが混ざっており、吟味される必要のあるものであっても、預言も良いものであることができるのではないでしょうか?」と質問します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 私たちの頭の中に新しいカテゴリーを作る ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が言っていることのポイントは以下の通りです。私たちは、御霊に促され、御霊に保たれ、啓示に基づいており、それでいて吟味されふるいにかけられる必要のあるようなスピーチという、カテゴリーを作る必要があります。一方で、誤りのない、逐語霊感で語るまことの預言者(聖書の預言書の著者とイエス様と使徒達)と、もう一方で、申命記13:3、18:20(エレミヤ23:16も参照)で咎められている偽預言者のほかに、別のカテゴリーの預言者が必要です。預言について聖書で私たちが見る教えは、この二つのカテゴリーで単純に語り尽くされてはいません。つまり、御霊に促され、御霊に保たれ、啓示に根付いており、でも人間の不完全さと誤ちとが混ざっており、それゆえ振るわれる必要のある「預言という御霊の賜物」、という三番目のカテゴリーが、私たちには必要です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ふるいにかけられると言うのは、1テサロニケ5:19―22で、それが実際に成されているからです。預言者が本物か偽物かを吟味されるのではありません。預言が良いものか悪いものかを見分けるため、ふるいにかけられるのです。「御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい。」これは本物の、誤りのない預言者か、あるいは偽物の、出しゃばった預言者のどちらか／あるいはという状況ではありません。預言の中には良いものも、良くないものもある、という状況です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはこの不完全さのゆえに預言をさげすむと、私たちは御霊を消すことになる、と言います。皆さんが心からそれを避けたいと思うよう願います。私たちはどのようにすべきでしょうか?それについてはもっと言うべきことがあります。それを理由と実践的応用を加えて、今晩取り上げます。主ご自身が今日の午後にでも私たちにお教え下さいますように。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== *** ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Wed, 28 Oct 2015 19:52:14 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E9%A0%90%E8%A8%80%E3%81%AE%E8%B3%9C%E7%89%A9%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%A8%81%E3%81%A8%E6%80%A7%E8%B3%AA</comments>		</item>
		<item>
			<title>主は男と女に、ご自身のかたちに造られた</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E4%B8%BB%E3%81%AF%E7%94%B7%E3%81%A8%E5%A5%B3%E3%81%AB%E3%80%81%E3%81%94%E8%87%AA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AB%E9%80%A0%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「主は男と女に、ご自身のかたちに造られた」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Male and Female He Created Them in the Image of God}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この聖書箇所が教える３つの事がらを、今朝皆さんと一緒に考えたいと思います。一つは神が人間を造られたということ、二つ目は神は私たちをご自身のかたちに造られたということ、三つ目は、神は私たち男と女を造られた、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; この３つの真理を信じながらクリスチャンでないことは可能です。何だかんだ言っても、これらすべてのことはこのユダヤ教の聖典で教えられているからです。それゆえ、聖書を信じる良いユダヤ人は、これらの真理を受け入れるはずです。でもあなたがこれら３つの真理を信じていながらクリスチャンでなくても、これらすべてはキリスト教を指します。これらすべてが、キリストのみわざとともにやって来る完成をせがむからです。それが、特に３つ目の真理、私たちは男と女として神のかたちに造られた、というのが、私の話したいことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 神は人間を造られた  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間は神によって創造されたという、第一の真理を見てみましょう。これは説明を必要とすると思います。なぜ、主は私たちをお造りになったのでしょうか?何かを作るとき、あなたにはそれを作る理由があります。でも私たちが知っているこの世はその質問に対する十分な答えを出してくれるでしょうか?旧約聖書は人の支配の下にこの世界がもたらされたと言います。神の栄光を現し出すために造られたと言います(イザヤ43:7)。地は主の栄光を知ることで満ちあふれていると言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも私たちは[実際に]何を見るでしょうか?私たちはこの世が創造主に反抗しているのを見ます。ユダヤ教の聖典はまったく中途半端な話で、栄光の望みはまだやって来ていない状態で終わっています。ですからユダヤ教の聖典が教えるように神が人間をお造りになったと言うことをただ信じるだけでは、残りの話、すなわちキリスト教が、語られる必要があるのです。キリストにおいてのみ、創造の目的を達成することができるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. 神は私たちをご自身のかたちに造られた  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは例えば、神は私たちをご自身のかたちに造られたという、第二の真理を見てみてください。これはもちろん私たちがこの世にいることと、何か関係があるはずです。主の私たちをお造りになった目的は、私たちがカエルやトカゲや鳥や、ましてサルではないという事実と、何か素晴らしい関係があるはずです。私たちは神のかたちである人間であり、私たちだけがそうです。他のどの動物も神のかたちであるものはいません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも私たちはこの恐れ多い尊厳を、何とめちゃくちゃにしてしまったことでしょう。私たちは神に似ているでしょうか?はい、そしていいえ。はい、私たちは神に似ています。たとえ罪深く不信心であっても、主の似姿を持っているのです。私たちはこれを、創世記9:6で神がノアに、「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから」と言われるところから、知っています。つまり、たとえ罪(殺人のような)にあふれた世であっても、それにも関わらず人間は神のかたちなのです。彼らはネズミや蚊のように殺されてはいけません。もしあなたが人間を殺したら、あなたは自分のいのちを失います(ヤコブ3:9参照)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも私たちは神がそうなるようにと造られたかたちを持っているでしょうか?そのかたちは、場合によっては認識が不可能なほど損なわれていないでしょうか?あなたは神のかたちであるべきように、神に似ていますか?ですからここで再び、私たちが神のかたちに造られたという信仰が、完成を必要とするのです。この場合、それは贖い、転換、新しい創造のようなものです。そしてキリスト教はまさにそれをもたらすのです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。･･･真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」(エペソ2:8―10、4:24)。神は私たちをご自身のかたちに造られましたが、私たちはそれを認識することができないほどに損なってしまいました。そしてイエス様がその答えです。主は信仰によって来られ、主はお赦しになり、主はきよめられ、そして主は、神が最初に人間のために意図された、栄光のうちに終結する、聖化と呼ばれる再生のプロジェクトを始められます。それゆえ私たちは神のかたちに造られたということを知っているので、罪と腐敗が解決策を必要とします。そしてその解決策はイエス様なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 神は私たちを男と女に造られた  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三つ目の真理は、神が私たちを男と女に造られたということです。そしてこれもまた、キリスト教を指し、キリストによる完成を必要とします。どのようにでしょうか?二つの方法によってです。一つは結婚の奥義から来ます。もう一つは罪における歴史的男女の関係の醜態から来ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''結婚の奥義''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結婚の奥義を見てみてください。創世記2:24では、女が造られた記事のすぐ後、モーセ(創世記の著者)が次のように言います。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」さて、パウロはこの句をエペソ5:31で引用し、「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです」と言います。それを手がかりとして、彼は結婚の意義を明らかにします。それは夫の妻に対する愛ある指導的地位において表されている、キリストの教会に対する愛の象徴です。そしてそれは妻の夫との関係に表されている、教会のキリストに対し喜んで従うその姿の象徴です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは創世記2:24を「奥義」と呼びますが、それは神が男と女の結婚に対するご自身の目的を、創世記においてはっきり示されないからです。旧約聖書には、結婚が神とご自身の民との結婚のようなものであるというヒントや指針があります。でもキリストが来られたときにだけ、結婚の奥義が詳細に説明されます。それはキリストと主の民の契約、主の教会に対する誓約の描写です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、神が人を男と女に造られ、結婚を、男が契約義務のうちに母親と父親を離れ、自分の妻につながるということと、この創造のみわざと結婚の命令が、キリストとその教会の啓示を必要とするのが、見えますか?それらはキリスト教を奥義の啓示として要求します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとんどの人にとって、これは非常に馴染みのない考えです。それは結婚がキリスト教の慣例であるのと同時に世俗の慣例でもあるからです。キリスト教社会のみならず、すべての文化において結婚を見ることができます。ですから私たちは、私たちの知っているノンクリスチャンの結婚をキリストの教会との関係の象徴としては見ない傾向があります。でもそれはキリストと教会との関係を象徴しています。そして結婚における私たち男と女としての存在そのものが、キリストに、主の教会との関係におけるご自身を表してくださるよう、叫び求めるのです。キリスト教は結婚契約に関する私たちの理解を完成してくれます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたが考えたこともないような、工夫を凝らした絵を描かせてください。キリストはこの地上に戻って来られます。主が去れらるのをあなたがたが見たのと同じように戻って来られると、御使いは言います。ですから私と一緒にその日を想像して見てください。天が開け、ラッパの音が鳴り、人の子が何万という太陽のように輝く聖い御使いたちと共に、雲に乗って、力と素晴らしい栄光を持って現れます。主は４つの風からご自身の選ばれた者たちを集めるため、御使いたちを遣わされ、キリストにあって死んだ者たちを死からよみがえらせられます。主は彼らにご自身のような新しい栄光の体をお与えになり、一瞬のうちに私たち残りの者たちを、栄光にふさわしい者に変えられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何世紀にも渡るキリストの花嫁(教会です!)の準備がようやく整い、主は花嫁の手を取るかのように、彼女を祝宴の席へと導きます。小羊の婚礼の宴の到来です。主は祝宴の当主として席に立たれ、何億という聖徒たちが、深い沈黙に包まれます。そして主は、「これが私の愛するもので、結婚の意味である。これが結婚が指し示したものである。このためにわたしはあなた方を男と女に造り、結婚の契約を定めたのだ。それゆえもうめとったりとついだりすることはない、それは、最終的実物が到着し、今やその影が去りゆくことができるからである」と言われます(マルコ12:25、ルカ20:34―36参照)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、私たちが何をしているか思い出してください。私たちは、神が私たちを男と女として、ご自身のかたちに造られたということが、その完成としてのキリスト教を指し示すという、第三の真理を見ようとしています。そして私は二つの方法で指し示すと言いました。まず一つは結婚の奥義によってです。男と女としての人間の創造は、結婚をさだめるための創造に必要な骨組みを作ります。男と女なしでは結婚は有り得ませんでした。またキリストの教会との関係のたとえとして私たちが結婚を理解しない限り、結婚の意味の本質、あるいはそのものを十分に理解することはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから男と女の創造は結婚を指し、結婚はキリストと教会を指すのです。そしてそれゆえ、神が私たちを男と女として、ご自身のかたちに造られたという信仰は、キリスト教、つまり、キリストと、主が教会のためになされた救いのみわざなしには、完成しません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''歴史的男女関係の醜態''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、男女の神のかたちの創造が必要不可欠な完成としてキリスト教を指し示すもう一つの方法は、すなわち、歴史的男女関係の醜態におけるその歪曲からである、と私は言いました。説明させてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪がこの世に入ったとき、私たち男と女としての関係に与えた影響は悲惨なものでした。神はアダムが禁断の実を食べた後、彼のところに来て、何が起こったのかをお尋ねになります。創世記3:12で、アダムは「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」と答えます。言い換えれば、「それは女の責任(あるいは女を私にくださったあなたの責任!)で、それゆえもしあの実を食べたために誰かが死なないといけないとしたら、それは女であるべきです!」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そういうわけで、家庭内暴力のすべて、妻虐待のすべて、強姦のすべて、性的中傷のすべて、神がご自身のかたちに造られた女性を軽視する方法のすべての始まりです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
創世記3:16では堕落した男と女に次のように呪いを宣告しています。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」つまり、罪の結果と私たちの時代に対する呪いは、男女間の対立なのです。この句は、物事がそうあるべきことを説明しているのではありません。これは、罪が支配する限り、のろわれた物事はこのようであると言う説明です。高圧的な男と歪曲した女。これは神のかたちの男と女ではありません。罪の醜態です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、この醜態がどのようにしてキリスト教を指すのでしょうか?それはそれがキリスト教がもたらす男女間の関係の癒しを必要とするため、キリスト教を指すのです。もし神が私たちを『男と女』としてご自身の似姿に造られたのなら、それは人としての平等、尊厳の平等、相互の尊重、調和、相補性、同一のさだめを意味します。でもこの世の歴史のどこにそれがあるでしょうか?それはイエス様がもたらす癒しのうちにあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様がもたらす癒しに関する二つの見解  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで言わなければならないことが多くありますが、二つの事だけ触れさせてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3.1. 男と女に造られたことのさだめ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず最初に、ペテロは1ペテロ3:7で、クリスチャンの夫と妻は「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」であると言います。これはどういう意味でしょうか?それは男女が神のかたちに造られたもともとの意味を、男と女がキリストにあって回復することを意味します。それは男と女として、共に神の栄光のかたちをあらわし、共同相続人として、神の栄光を受け継ぐと言うことを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男と女としての神のかたちの創造は(罪と一緒にそれを見るとき)、キリストの造り変えのみわざとともに来る癒しと、罪人のために主が買い取られた財産の完成を要求します。キリストは、男と女がいのちの恵みの共同相続人であるという現実を、罪から回復されます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3.2. 男と女として独身であることの意味''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリストが物事を逆転し、私たちの対立の醜態を打ち破られ、男女が神のかたちに造られたもともとのさだめを実現させられるその方法に関してもう一つ触れなければならないことは、1コリント7章にあります。パウロはその当時の人にとっては信じられないような過激なことを言います。「結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです･･･独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。･･･独身の女や処女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配りますが、･･･私がこう言っているのは、･･･あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが･･･ひたすら主に奉仕できるためなのです」(1コリント7:８、32―35)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが何を意味しているのかがお分かりになりますか?これはキリストが神のかたちに造られた男女にもたらす癒しは結婚によらない、ということを意味しています。実際パウロの独身としての彼自身の体験(そして独身としてのイエス様の見本)で彼は、一般的に結婚した聖徒たちの取り分ではない、独身の男女にとって可能な、主に対するある種のひたむきな献身というものを、学びました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを別の方法で言うと、結婚は死からの復活までの、この時代でだけの一時的慣例、と言えます。結婚の本来の意味と目的は、キリストの教会との関係を象徴するためにあります。実物が来たとき、私たちの知っている象徴はなくなります。そして来るべき時代には、めとることもとつぐこともありません。独身で主に献身してきた者たちは、小羊の婚礼の席に、いのちの恵みを受け継ぐ完全な共同相続人として、着くのです。そして彼らは主に対する彼らの献身と犠牲に従って、想像のすべてを超えた愛情と関係と喜びをもって、主から報われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== まとめ  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では私たちが見てきたことをまとめさせてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1. 神は人を作られました。そして旧約聖書が閉じるように、この素晴らしい事実は、神が何をしておられるかということを理解するため、話の残り、つまり、キリスト教を要求するのです。創造における主の目的は、キリストのみわざ抜きには完成しません。 2. 神は私たちを『ご自身のかたちに』造られました。しかし私たちは、そのかたちを認識が不可能なほどめちゃくちゃにしてしまったのです。それゆえこの真理はキリスト教の完成を必要とします。それはイエス様が成されるのは、失われたものを取り戻すことだからです。それは「キリストにある新しい創造」と呼ばれます。[神の]かたちは義と聖のうちに回復されます。 3. 神は『男と女として』私たちをご自身のかたちに造られました。そしてこれもまた、キリスト教の真理のうちに完成を必要とします。結婚において男と女であるのが何を意味するのかは、結婚がキリストと教会を描くためのものであることを見ない限り、誰も十分に理解することはできません。そして男と女として神のかたちに造られたことのさだめは、男と女がいのちの恵みをともに受け継ぐ共同相続人であるということを知らない限り、誰も知ることはできません。そして最後に、神のかたちの男と女として独身であることの意味は、やがて来るべき時代には結婚がなく、それゆえ神のかたちである男と女の栄光ある運命は、結婚によらず、主に対する献身による、ということをキリストから学ばない限り、誰も十分に理解することはできません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、神があなたを造られた、主はあなたをご自身のかたちに造られた、主はあなたを、あなたがまったく、究極に、そしてユニークに主に献身するように、男と女に造られたという、これらの真理をじっくり考えて見てください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== *** ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 27 Oct 2015 19:26:17 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E4%B8%BB%E3%81%AF%E7%94%B7%E3%81%A8%E5%A5%B3%E3%81%AB%E3%80%81%E3%81%94%E8%87%AA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AB%E9%80%A0%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F</comments>		</item>
		<item>
			<title>神のみ名によって力づける</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E3%81%BF%E5%90%8D%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%8A%9B%E3%81%A5%E3%81%91%E3%82%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「神のみ名によって力づける」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Strengthen Each Other's Hands in God}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ダビデは、サウルが自分のいのちをねらって出て来たので恐れていた。そのときダビデはジフの荒野のホレシュにいた。16 サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の御名によってダビデを力づけた。17 彼はダビデに言った。「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。」18 こうして、ふたりは主の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家へ帰った。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日のメッセージは、先週日曜から始まったエペソ書のシリーズを中断してのメッセージです。なぜ中断したのかと言うと、ベツレヘム教会の会員の皆さんすべてに、信仰の戦いを戦い抜くよう互いに助け合うため、何らかの小グループに参加するようおすすめしなければいけないと、私たちが感じている深い確信のゆえです。ですから今日注目するのは、神のみ名によって互いを力づけ合うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 永久保全は共同体のプロジェクト  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは、永久保全は共同体のプロジェクトであると信じます。聖者の堅忍は共同責任であると、私たちは信じます。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハネ10:27―28)と言われた慈愛にあふれる主は、「最後まで耐え忍ぶものは救われます」(マタイ24:13)とも言われました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、神から生まれた者は、イエス様のみ手の中で永遠に安全なのです。そして、神から生まれた者はまた、最終的に救われるため、最後まで耐え忍ばなくてはいけないのです。そこで質問です。神は、ご自身の民が安全で誰一人失われることがないというみ約束を確実に成就するため、どのようにして彼らが信仰において最後まで耐え忍ぶようお定めになったのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今朝はその質問に対する答えの最も重要な部分、つまり、神は私たちが、来る日も来る日も、最後まで信仰の戦いをうまく戦い抜くよう互いに助け合うため、他の信者たちと結びつき合うようお定めになっているということに、焦点を当てます。この答えに関する聖書的根拠は、ヘブル3:12―14にあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。『きょう』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は、私たちに私たち自身の確信を最後まで貫き通させるよう、ある方法を制定されました。それは、神の約束を堅持し、罪の偽りを逃れるよう互いに助け合うため、クリスチャンの関係を築き上げることです。堅く立って神の武具を身に付けるため、日毎に互いに励まし合ってください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== クリスチャンの集まりの一員になる  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
子供たち、中学生、高校生、大学生、独身、既婚者、未亡人の皆さん!皆さんは信仰の戦いを戦い抜くため互いに助け合い、罪の巧妙な侵害からお互いを守り合うことを固く誓う、クリスチャンの友達の集まりの一員ですか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
組織立った小グループに所属しない限り、あなたは救われないと言っているのではありません。でも、もしあなたのそのような信仰における仲間がいないのであれば、信仰における自分の保全と堅忍のために制定された神の方法を、あなたはないがしろにしていると、私は敢えて言います。そして恵みの方法をないがしろにすると、自分の魂を危険にさらすことになります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今朝の私の目標はとても単純です。日毎に信仰の戦いを戦い抜くよう励まし、励まされる、クリスチャンの何らかの小さな集まりに属そうという気持ちを、皆さんのうちに起こさせることです。このメッセージの終わりに、皆さんが祈りつつ考慮しているところで、ピーター･ネルソン氏が、空きのある小グループのネットワークを簡単にご紹介します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ヨナタンのダビデとの対面から学ぶ4つの教訓  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書箇所は1サムエル23:15―18です。これは、いつまでも続く信仰の戦いにおいて何が起こるべきであるかを、単純にそして深く説明しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ダビデは、サウルが自分のいのちをねらって出て来たので恐れていた。そのときダビデはジフの荒野のホレシュにいた。サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の御名によってダビデを力づけた。彼はダビデに言った。『恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。』こうして、ふたりは主の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家へ帰った。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このヨナタンとダビデの対面は、信仰の戦いを戦い抜くため互いを助け合うことに関して、少なくとも４つの教訓を説いています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1. すべての人はクリスチャンの仲間を必要としている''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最も深い聖人も最も強い指導者も、神のみ名によって力づけられるために、クリスチャンの仲間を必要とします。ダビデは深く、強かったのですが、ダビデはヨナタンを必要としました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クリスチャンの友情というのは、新しい人を勧誘するためだけのものではありません。それはすべての信者のためのものです。私たちには他のクリスチャンの自分に対する奉仕が要らなくなるということは、決してありません。もしあなたが、信仰の戦いで人からの励ましを必要とする段階をすでに卒業したと思っておられるなら、あなたの心は恐らく罪の偽りの餌食にすでになっているでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ダビデは神のみこころにかなう人でした。偉大な戦士でした。彼は多分、その強さと知能と神学的理解の深さにおいて、ヨナタンにまさっていました。しかし16節では、ヨナタンが来て、神のみ名によって彼を力づけたと言っています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人は神のみ名によって力づけられる必要がないほど強いとは、決して思わないでください。また、ある人はあなたよりはるかに強いので、あなたが神の器になってその人を力づける必要などないと、決して思わないでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
チャールズ･スポルジョンは、クリスチャン指導者たちの多くを代表して、以下のように著しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「何年か前、私は恐ろしい霊的うつ病の対象となってしまった。様々な不況に襲われ、私自身体調不良で、心が沈んでいた。心の底から主に泣き叫んだ。メントンに休養のため出かける間際に体調をひどく崩し、自分の霊が打ちのめされたため、魂はもっとひどく苦しんだ。このプレッシャーにも関わらず、『主よ、主よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか?』という御言葉から説教した。自分でも予想できなかったほど、私自身それまで以上にその御言葉から説教をするのにふさわしい者であった。事実、兄弟たちの中には、その心が張り裂けるようなみことばに深くのめり込むことができたのではないかと思う。私は神から見捨てられる魂の恐ろしさを、十分に感じた。それは望むような体験ではない。魂の月食をもう一度通されることなど、そんなことを考えただけで震えてしまう。二度とあのようなかたちで苦しまないように祈る。(''自伝、''第二巻、415ページ) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最も偉大な聖人、最も勇敢な戦士は、神のみ名によって力づけられる必要がないということはない、ということを強調するため、私はこのことを話しています。実際、彼らに対する悪魔の攻撃が、もっと彼らの必要を大きくします。ですから最も深い聖人や最も強い指導者こそ、神のみ名によって力づけられるため仲間を必要とするのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 意識的な努力''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二の教訓は、神のみ名によって人を力づけるのには、意識的な努力を要するということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは意図的です。去り際にそれをするのではありません。あなたは立ち上がって、ホレシュまで下って行くのです。16節、「サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の御名によってダビデを力づけた。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし、私たちの教会で私たちのすべてが朝起きたとき、神のみ名によって誰かを強めようと計画を立てるとしたら、それはどんなに大きな影響を及ぼすことでしょう!ヨナタンはホレシュでダビデと偶然出会ったのではありません(時にはそれが起こることもありますが!)。彼はダビデを力づけるため、出かけることを計画したのです。クリスチャンが成熟しているサインは、神のみ名によって誰かを力づけたいと望み、機会を作るよう、自分の生活の中で築いていくことにあります。あなたは今日、神のみ名によって、誰を力づけるでしょうか?今週それをしますか?このように、信仰の戦いを戦い抜くため助け合うことに、自分自身を(意図的に!)ささげている仲間の集まりが、あなたにはありますか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『サミュエル･ピアースの思い出(“''Memoirs of Samuel Pearce''”)』という、1792年に最初のバプテスト宣教会を設立した牧師たちの小さな集まりの一人を描いた本を、私は読んでいます。その中にはジョン･ライランドや、ジョン･サットクリフ、アンドリュー･フラー、サミュエル･ピアース、そしてウィリアム・キャレーがいます。最近、他の誰よりも目立つことを一つ発見しました。それは、この男たちは互いに愛し合い、一緒に集まり、そして神のみ名によって互いを力づけることに大いに情熱を注いだのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サミュエル･ピアースはキャレーがインドへと旅立った後、彼からの最初の手紙が届くのを一年以上待ちました。そしてそれが届いたとき、彼はキャレーにこのように返事を書いたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「あなたがくれた報告は、私たちを新しい活力で刺激し、主にあって非常に強く力づけてくれました。私たちは読んで涙を流し、主をほめたたえ、祈りました。ああ、私たちの愛する主イエス･キリストのゆえにこのように友情でつながっていることをこんなにも喜ぶのは、クリスチャン以外に他に誰がいるでしょうか?」(58ページ) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「私たちの愛する主イエス･キリストの''ゆえ''の友情」とは、素晴らしいフレーズではありませんか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今朝私が懇願しているのは、皆さんのすべてが、イエス・キリストのゆえの友情を築くこと、つまり、希望と力をイエス･キリストに見出すよう互いに継続して励まし合うよう、双方の合意の下にある信仰の仲間の集まりを持つことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3. ''神のみ名によって''お互いを力づける''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが第三番目の教訓です。私たちが互いに力づけ合うのは、私たち自身の力ではなく、神のみ力によってです。16節ではヨナタンははるか遠くから、ダビデの自身を高めるためにホレシュまで来たとは、言ってはいません。彼はそうしませんでした。彼は立ち上がって、ホレシュにいるダビデのところへ来て、神のみ名によって彼を力づけたと言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これがクリスチャンの仲間と、他のすべての支援グループや心理療法グループや自立支援グループとの、違いです。クリスチャン仲間において重要なのは、人間ではなくキリストに助けと力を求めるよう、お互いを励まし合うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある種の矛盾がここにあります。一方で私はあなたが必要であると言います。神は、私を最後まで耐え忍ばせるため、恵みの方法としてあなたをお遣わしになりました。しかしもう一方で、あなたが私を本当に助けることができる方法はたった一つ、私があなたでなく、神に頼るようにすることを言い、そしてする方法です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで、私たちの最も共通するテーマがまた出てきました。人間の連帯感であれ、仲間意識であれ、友情関係であれ、私たちが成すすべてのことにある、徹底的神中心さです。それはイエス様のゆえの友情関係でなくてはなりません。すべての現存するクリスチャングループは、人によってではなく、神によって互いを力づけるために存在するべきです。それが御言葉からの第三番目の教訓です。「ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神のみ名によってダビデを力づけた。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4. 神の約束を互いに思い出させる''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、どのようにして彼はこれをしたのでしょうか?私たちはどのようにしてそれをするのでしょうか?ヨナタンは(17節で)言います。「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨナタンはどのようにしてダビデがイスラエルの王になることを知っていたのでしょうか?彼らは深い親友でしたので、預言者サムエルが少年のダビデを、イスラエルの王として油を注いだ16章の出来事を、ダビデがヨナタンに言わなかったはずがありません。ですのでヨナタンが神のみ名によってダビデを力づけたとき、彼はダビデに神がお約束になったこと(1サムエル16:12)を思い出させたのです。神がダビデの背後におられたので、サウルはダビデの地位を奪い取ることができませんでした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそれは私たちにとっても同じです。私たちは特にお互いの必要にふさわしいよう神がお約束になっていることを互いに思い出させることによって、神のみ名によってお互いを力づけます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしあなたが、故郷から15,000マイル(約24,000キロ)離れたところで、何十万という未信者に囲まれて、一人きりで信仰の戦いを戦っているウィリアム・キャレーであるとしたら、あなたの友人たちから何を聞く必要があるでしょうか?あなたは、キャレーを神のみ名によって力づける方法を知っていた、尊い友人であるサミュエル･ピアースの言葉のようなものを、聞く必要があります。彼の1794年10月4日に書いた手紙が、いかに神の約束で満たされていたかに聞き入ってください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「兄弟よ、あなたのそばにいて、試練の攻撃のすべて、臆病者しか敗北しないような何でもない攻撃に参加することができたらと思います。そうです、私たちの救いの君は私たちの頭上で行進しておられます。時に主は、私たちの霊的腕と天からの武具で私たちの腕前を試されるため、ご自身のご臨在から退かれることがあるかも知れません(でもご自身のみ力を退けられることはありません)。ああ、生きた信仰が、キリストの兵士に何をすることが出来るでしょうか!それは救い主を天から遣わします。それは、主を血に染まった衣で美しく着飾ります。それは主を戦いの前線に配置し、私たちの口で新しい歌、「これらは小羊に戦を挑んだが、小羊は彼らに打ち勝たれる」を歌わせます。そうです。主は打ち勝たれます。勝利は我らが戦場に入場する前に、確実です。王冠は私たちの額を飾るためすでに用意されており、その朽ちることのない栄光の冠さえ、私たちはそれをどうするかすでに決めています。私たちはそれを勝利者の足元におろし、そして天のすべてのものが声を一つにして、「小羊は、賛美を受けるにふさわしいお方」と唱う間、私たちは「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく、み名にのみ帰してください。」と言います。(『''思い出''』、66ページ) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちのすべてがそのような言葉をもって仲間を力づけることのできる賜物を持っているわけではありません。しかしもし自分の頭を神のことばにどっぷり浸し、詩篇1篇で言われているように、昼夜それを深く思うなら、あなたは生けるいのちの水となり、神にあって多くの者たちを力づけるようになるでしょう。今朝のあなたに対する神の招きはこれですー来て、神のみ名によって、お互いを力づけ合いましょう!アーメン &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Mon, 03 Aug 2015 20:54:13 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A5%9E%E3%81%AE%E3%81%BF%E5%90%8D%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%8A%9B%E3%81%A5%E3%81%91%E3%82%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>神は私たちの味方か、あるいはご自身の味方なのか</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E5%91%B3%E6%96%B9%E3%81%8B%E3%80%81%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%84%E3%81%AF%E3%81%94%E8%87%AA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%91%B3%E6%96%B9%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「神は私たちの味方か、あるいはご自身の味方なのか」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Is God for Us or for Himself? }}&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何年も前ですが、カリフォルニアのアナハイムであったビリー・グラハムのクルセードに行きました。その夜そこに恐らく5万人がいたと思うのですが、外野席の左側に座り、大会衆が野球場を囲んでいるのを見ることができました。「輝く日を仰ぐとき」&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt;を全員で合唱したとき、最初の何音かは何とか音を取ることができたのですが、その後はほとんど歌うことができませんでした。あれほどのものは聞いたことがありませんでした。5万人分の声が神に賛美の歌をささげているのです!忘れられないほど強く感銘を受けました。5万の被造物が心を尽くして神に賛美をささげることほど、正しく、美しく、喜びにあふれたものはないように思えました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その夜、私はわずかに、ほんの少しだけ天国を見たと信じます。なぜなら黙示録5:11-13では天国を以下のように描いているからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中になる生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天国の幻は、数えきれないほど多くの生き物がみ父と御子を、力を尽くして賛美する幻です。そして小羊の栄光を味わったものは、それをまず見逃すことはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神はご自身の賛美を求められる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小羊は尊いお方です。み父なる神は尊いお方です。それゆえ、神をほめたたえるべきです。そして私たちはほめたたえるのです。ほとんどの信者がその真理と苦闘しません。しかしこの2週間、私たちはみことばから、神はただ単に賛美を受けるためだけではなく、さらに、賛美を受けること自体を意図されて、み業を成される、ということを見てきました。神はご自身の力と義と憐れみのゆえに崇められるのを、ただ単にお待ちになりません。ご自身のみ名が地の上で崇められるよう、またご自身の栄光を啓示するため、いにしえからご自身で率先して働いておられます。主が成されることはすべて、ご自身が栄光をお受けになるようにというご意志のもとに働いています。イザヤ48:11は神のみ業すべてにおけるスローガンです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者に与えない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エレミヤ13:11では以下のように言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。―主の御告げ―それは、彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるためだったのに、… &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神の成されるすべての事柄の目標は、ご自身のみ名の栄光のゆえにほめたたえられることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは旧約聖書で強調されていることであると私たちが思わないように、今朝の聖書箇所、エペソ1章を注意深く見て下さい。節が11節まで至るだけでなく、天のみ国と言う高さまで至っているのです。何と素晴らしい書簡でしょうか! 6、12、14節で同じフレーズが3度繰り返されていますが、私たちを罪から、そしてご自身のためにお救いになる、パウロが考えるところの神の目標が、明確にされています。5、6節に注目してください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして12節: &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、14節: &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえるためです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いにしえの、あらかじめ定められた事がらにおける神の永遠の定めから、次の時代に私たちが受け継ぐ永遠の楽しみまで、神の栄光、特にご自身の恵みの栄光がほめたたえられるのが、主の目標と目的です。 神はほめたたえられるべきお方で、私たちは主をほめたたえるべきで、実際にほめたたえるのですが、これらはクリスチャンなら誰でも知っている事実で、私たちはそれを喜んで認めます。しかし神の栄光をほめたたえることは主のみ業の結果だけでなく、そのみ業が[ほめたたえられる]目標であり目的である、という事実を耳にすることは、あまりありません。主は、私たちが主を称賛し、感嘆し、崇め、ほめたたえるよう、世界をその終わりまで正確に治めておられます。パウロは2テサロニケ1:10で、この世の終わりに「ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の…感嘆の的とな」るためキリストは来られると、言います。けれども私の経験から言って、この事実を人々はある種の不快感を持って受け止めます。神がほめたたえられるのは構わないけれど、ほめたたえられることを主が求めるというのは、ちょっとおかしいのではないでしょうか。イエス様は、「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」と言われなかったでしょうか?しかし、みことばから、神のはっきりした目的は、人の前でご自身がほめたたえられることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私のこのメッセージでの狙いは、神のご自身の栄光をたたえる目標と努力は、まったきことであり、何の誤りもなく、そしてそれはご愛の表現であって人の自画自賛とはまったく違うものである、ということを可能な限りを尽くしてお見せすることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の神中心さにつまづく二つの所以 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ私たちは、ご自身の栄光に対する神の愛と、それがゆえに人が主をほめたたえるようにされるという主の熱心さにつまづくのでしょうか。二つの理由があると私は思います。一つは私たちはそういう風にふるまう人を嫌うということ、そしてもう一つは聖書が、人は自分の栄光を求めてはならないと教えているようだからです。ですので人々は、自分たちの日常の体験とみことばが理由で、神の自画自賛につまづくのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは自分の特技や権力や外見に夢中になっている人々を毛嫌いします。専門知識を見せびらかそうとしたり、自分の最近の著書や講義を復唱したりする学者が嫌いです。いかに大金を抜かりなく投資し、いかに株の相場の上がり下がりで毎回成功しているかを、長々と語るビジネスマンを嫌います。人の一歩前を常に行こうとする子供を嫌います。そして、機能的な格好でなく、シンプルでも当たり障りのない格好でもなく、代わりにかっこいいとか、パンクっぽいとか、ちょっとオールディーズっぽいとか思われるため、今週はこれが流行と世間が言うような、最新のスタイルで着飾る男女に、そのうちの一人でない限り、私たちは難色を示します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ私たちはそういうのが嫌いなのでしょう?私が思うに、それは、そのような人たちが本物でないからです。彼らはアイン・ランド&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt;が言うところの、「セカンド・ハンダーズ[中古品ならぬ中古者]」です。彼らは価値観そのものを達成することから来る喜びで生きていません。むしろ、他者の称賛と褒め言葉からくる受け売りに生きているのです。私たちはセカンド・ハンダーズに憧れません。落ち着きがあって、弱点を補強しなきゃいけないとか、実際の欠陥をできるだけ多くの褒め言葉を集めることによって補わなきゃいけないと感じずに、安定している人に憧れます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえクリスチャンが神をセカンド・ハンダーズの分類に入れるような教えを考え出すのも当然です。多くの人にとって、神が賛美を求められ、崇められたいと思われ、ご自分の栄誉のためにみ業を成されるという教えは、実際神がそのような分類に入るように思われるのです。しかしそうでなければならないのでしょうか?これだけははっきりと言えます。神は弱いお方ではなく、欠陥もありません。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神にいたるからです」(ローマ11:36)。神は絶えず存在しておられ、すべてのものが、それが何であれ、神のお陰で存在しており、それゆえ主からあふれ出ないものを主に加えることはまったくできないのです。それが単純に、永遠の神であり、被造物ではない、という意味なのです。それゆえ、神のご自身の栄光と人に崇められることを求める熱心は、弱さを補うとか欠陥を埋め合わせることから来るものではありません。外見はセカンド・ハンダーズの分類に入るように思われるかも知れませんが、主は彼ら[セカンド・ハンダーズ]とは違います。その外見の類似を別に説明しなければなりません。ご自身の栄光に対する賛美を主が求められるのには、訳があるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の栄誉を求める人たちを私たちが嫌うのには、体験から言って、他にも理由があります。それはその人たちが本物でなく、弱さや欠陥を隠そうとするからだけではありません。彼らが、愛の無い人たちだからです。彼らは自分のイメージや名誉を気にし過ぎて、他人に何が起ころうと、まったく気にしないのです。この見解から私たちは、神がご自身の栄光を求められることが侮辱であるかのように思われる、聖書的理由に辿り着きます。1コリント13:5は、「(愛は)自分の利益を求めず」と言います。これは本当に、もしみことばが単純に、神がほめたたえられ崇められることをご自身の最終目標とされると教えるのなら、では、主が愛あるお方であるはずがあろうか?という危機感を起こさせます。なぜなら「(愛は)自分の利益を求めず」だからです。この3週間、神はご自身の味方であられるということをみことばに見てきました。「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。…わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。」(イザヤ48:11)しかし神が愛の神であられるなら、私たちの味方であられるはずです。では神はご自身の味方でしょうか、それとも私たちの味方でしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ご自身の賛美を求められる神の無限の愛 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が皆さんに納得していただきたい真実はこれです―神はすべてのもののなかで最も栄光あるお方で、また完全に自給自足であられるので、私たちの味方であるためには、ご自身の味方でなければならないのです。もし主がご自身の自己称賛の目標をお捨てになったとしたら、私たちは敗者になります。主がほめたたえられることと、主がご自身の民に喜びをもたらすことは、一つの目標であり、生死を共にするのです。次の質問をすれば、その答えが見えると思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神の無限に優れた美しさと力と知恵を前提に、被造物に対する主の愛には何が伴うでしょうか?あるいは言い方を変えて、神が、ご自身が最も慈しみ深いお方であることを示すには、私たちに何をお与えになることができるでしょうか?考えられる答えは一つしかないでしょう。ご自身です!もし神が最高の、もっとも満足できるものを私たちに下さるなら、つまり主が私たちを完璧に愛されるなら、私たちの黙想と交わりのために、主にはご自身以外に私たちに提供できるものはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これこそまさに、ご自身の御子をお遣わしになった神の意図です。エペソ2:18では、キリストは私たちが「一つの御霊において、父のみもとに近づくことができる」ため来られた、と言っています。また1ペテロ3:18では、「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、…私たちを神のみもとに導くためでした」と言います。神は人をご自身のみもとに連れ戻すため、贖いの全計画を宿されました。それは詩篇の作者が、「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」(16:11)と言うとおりです。神は最高のもの―この世の名声、富、あるいは健康ではなく、本格的なご自身の光景とご自身との交わり―を私たちに与えるため、私たちを追い求められます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし私たちは今、私にとっては極めて重大な発見、また私たちの抱える問題の解決の瀬戸際に立たされていると思います。最も慈しみ深いお方であるために、神は私たちにとって最もいいもの、また私たちを最も喜ばせるものを私たちにお与えにならなければなりません。私たちは何か素晴らしいもの、あるいは楽しめるものを与えられるとき、何をするでしょうか?それをたたえます。私たちは出産で[頭が]いびつにならずに生まれてきた赤ちゃんをほめます。「わあ、なんて丸いいい頭でしょう。髪の毛も、手も、大きな手じゃない!」しばらく会えなかった、愛する人の顔をたたえます。「あなたの目って青空のようね。髪はまるでシルクのよう。なんて美しい人でしょう。」9回目の裏で3人の走者が出た後の満塁ホームランを、私たちはたたえます。私たちは秋に川下りをしながら、セントクロイ川の川沿いの並木をたたえます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし私の偉大な発見は、C. S. ルイスの助けを借りると、私たちは自分が楽しむものを称賛するだけでなく、その称賛こそが喜びそのものの絶頂だということです。後から付いてくるものでなく、楽しみの一部なのです。ルイスが詩篇についての自身の著書で次のようにその洞察を表現しているのを聞いてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 賛美についての最も明らかな事実―それが神のものであろうが何のものであろうが―が奇妙にも思いつかないのだ。ほめ言葉、賛辞、あるいは敬意を払うことの観点からそれを考えて見た。恥ずかしさや、人を退屈させてしまうのではないかという恐怖が意図的に持ち込まれない限り(時にはそれが持ち込まれたとしても)、楽しみのすべては無意識のうちに賛美へとあふれ出すことに、私は気づいたことがなかった。この世には賛美が響き渡っている。恋人たちはお互いをたたえ合い、読者は好きな詩人をたたえ、散策を好む者たちは田園風景をたたえ、スポーツを好む者たちは好きな競技をたたえる。天気、酒、食器、俳優、馬、大学、国、歴史上の人物、子供、花、山、珍しい切手、珍しいカブトムシ、時には政治家や学者だって、たたえるのだ。神を賛美することについて理解に苦しんだため、[賛美と言うのは]最も価値あるお方以外で最も大切にするものを、私たちが喜んですること、事実しないではいられないことであるということを、私は愚かなほどに認められなかった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 私たちは楽しむものを喜んでたたえると思う。なぜなら称賛はその楽しみを表現するだけでなく、楽しみを達成するからだ。それがその楽しみの定められた到達点なのである。お世辞で恋人はその愛する人に彼女がいかに美しいかを言い続けるのではない。嬉しさは言葉で伝えられて初めて完成する。(Reflections on the Psalms[『詩篇を考える』], p. 93–95) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが鍵です―私たちは楽しむものをたたえる、なぜなら嬉しさは称賛で表現されて初めて完成するから―です。もし私たちが大切にし、ほめたたえるもの、愛して称賛するもの、憧れるものを語ることが許されなかったなら、私たちの喜びは満ち足りません。ですのでもし神が私たちの味方であられるのなら、もし主が最高のものを下さり私たちの喜びを満たして下さるのなら、主ご自身がほめたたえられるよう、それをご自身の目標としなければなりません。それは弱点を補うため、あるいは欠陥を埋め合わるためではなく、私たちを愛され、すべてのもののうちで最も麗しい主を知ることとほめたたえることのみにある、私たちの喜びが満ち溢れることを、主が追い求められるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この全宇宙で神にとってのみ、自分に対する称賛を追い求めることが、最も愛ある行為です。自画自賛は主にとって、最高の美徳なのです。エペソ1章で言われるように、主が「その栄光がほめたたえられるため」にすべてを成されるとき、私たちの切望を満たすことのできる、この世でたった一つのものを取っておいて、私たちにお与えになるのです。神は私たちの味方であられます。そしてそれがゆえ、これまでも今も、そしてこれからも、ご自身の味方であられるのです。主はほむべきかな!息のあるものすべて、主をほめたたえよ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 讃美歌第二編161番(聖歌480番) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; 米国の小説家(1905－82)&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 24 Jul 2015 19:41:18 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A5%9E%E3%81%AF%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E5%91%B3%E6%96%B9%E3%81%8B%E3%80%81%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%84%E3%81%AF%E3%81%94%E8%87%AA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%91%B3%E6%96%B9%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>私の目を開いて見させてください</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A7%81%E3%81%AE%E7%9B%AE%E3%82%92%E9%96%8B%E3%81%84%E3%81%A6%E8%A6%8B%E3%81%95%E3%81%9B%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「私の目を開いて見させてください」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Open My Eyes That I May See }}&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; あなたのしもべを豊かにあしらい、私を生かし、私があなたのことばを守るようにしてください。18私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。19私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。20私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。21あなたは、あなたの仰せから迷い出る高ぶる者、のろわれるべき者をお叱りになります。どうか、私から、そしりとさげすみとを取り去ってください。わたしはあなたのさとしを守っているからです。たとい君主たちが座して、私に敵対して語り合ってもあなたのしもべはあなたのおきてに思いを潜めます。24まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 私たちの魂の軌道に並行して走る線路  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年を迎えるに当たり、神の私たちに対するみむねは、私たちが聖さと愛、宣教と御国に向けて二つの線路に乗ることです。この鉄道の二つの線路は神のみ座のみ前にささげる祈りと、神のみことばを深く思うことです。皆さんの中には「[教会]基本理念」の小冊子の2ページにある、「霊的原動力」を思い起こす方もいるでしょう。こう書かれてあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 私たちは神に加わり、神が神であられることのすべてを宝とし、主が愛されるものすべてを愛し、主のみ旨であることすべてを祈り、主のみことばのすべてを深く思い、主のみ恵みのすべてによって支えられることによって、私たちの主イエス・キリストを通し、聖霊のみ力において、神の栄光の主権をかかげる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神のみ座のみ前で祈ることと、神のみことばを深く思うことは、聖さへとみ国へと向かう私たちの魂の列車が走り続けることができる、並行して走る線路のようなものです。年始にあたり、私たちは祈りと聖書を深く思うことに対する熱意を新たにする必要があります。再復興と刷新と回復がなければ、すべては古び、すたれ、弱ります。ということで、毎年祈祷週間に、祈りとみことばに対する私たちの情熱を再燃焼するため、私たちはこれらの素晴らしく尊い事がらに心を留めます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 詩篇119:18から学ぶ３つの事がら  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今年は祈祷週間をはさんで、詩篇119:18から二つのメッセージが生まれました。「わたしの目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」この節は祈りとみことばが組み合わさっており、どのようにそれがなっているのか、私たちは見なければなりません。そうすれば私たちの日常生活と教会にそのように[祈りとみことばを]組み合わせることができるからです。この節から3つの事を学ぶことができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*一つ目は神のみことばには素晴らしいことがある、ということです。「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」この「みおしえ」という言葉は「トーラー」であり、この詩篇では「諭し」あるいは「教え」を意味します。神の私たちに対するみおしえには素晴らしいことがあります。事実、それらは真に理解するとき、私たちをすっかり変えてしまい、聖さと愛と宣教の重荷を与えてくれるほど素晴らしいものです(2コリント3:18)。それゆえ神のみことばを読み、知り、深く思い、暗唱することは、とても重要なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*二つ目にこの節から私たちが学ぶことは、神の超自然の助けなしには、誰もこれらの素晴らしい事がらが実際に何であるかを理解することはできない、ということです。「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」もし神が私の目を開いてくださらなかったら、私たちはみことばが奇しいのを見ることはありません。私たちは生まれながらにして、霊的素晴らしさを見ることはできません。神のみ助けなしに聖書を読むとき、み教えや聖書の出来事のうちにある神の栄光は、盲目の人の顔に照らす太陽のようなものです。表向きの意味を理解できないというわけではなく、あなたの心をとりこにしてしまうような奇しさ、美しさ、栄光を見ることができないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*それが次の3つ目にこの節から私たちが学ぶことにつながりますが、すなわち聖書を読むとき、私たちは神に超自然の啓示を祈らなければなりません。「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」神のみ恵みの啓示なしには、自分では聖書の教えと出来事のうちにある神の霊的美しさと奇しさを見ることができないので、それをくださいと私たちは祈るべきなのです。「目を開いてください。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3つのステップの真理  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
来週神のみことばにある奇しいことがらと、どのようにしたらそれを私たちの頭と心にたくわえることができるのかに注目しようと予定していますが、今日は祈りに注目します。この核心を突く、3つのステップの真理に注目してください。みことばは、み国へと導かれ、またこの地上で力と意義を持つ、神方向の人生を歩むのにとても重要です。神の超自然の助けなしには、私たちはみことばが実際に何であるかさえも見ることができません。ですので私たちは神がどんなことをしてでもみことばの奇しさを私たちの心と人生にたくわえさせてくださるよう、毎日祈る人々でなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この３つのステップを一つ一つ見ていき、それらが聖書の様々な箇所で確認できることを見ていきましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1. みことばは聖い生活にとても重要である''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一番目のポイントは、私たちのうちでみことばを見ること、知ること、たくわえることは、神のご計画のために、聖く、愛があり、力のある生活を送るのにとても重要である、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11節にもどってください。「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」どのようにして私たちは人生で罪を避けることができるでしょうか?神のみことばを心にたくわえることによって、です。何と多くの人々が、神のみことばを深く思うことなく、愛さず、暗唱しないことで、人生を台無しにしてしまうことでしょうか!聖くなりたいですか?つまり、罪を克服し、徹底的な敬虔と犠牲の愛、キリストゆえの徹底した献身の生活を送る力が欲しいですか?ならば軌道修正してください。神は聖さと力の道を備えてくださっています。それは心に聖書をたくわえる方法です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
年配の方々にもお子さんのいる親たちにも言います。みことばにある神の戒めと警告と約束を深く思い、覚え、大切にしてください。特に年をとってからは、それは簡単なことではありません。でもやりがいのある事がらのほとんどは、簡単ではありません。上質の家具を作ること、いい詩を書くこと、素晴らしい音楽作品を作ること、祝いのための特別な料理を作ることーこれらすべては簡単ではありません。でもやりがいのあることです。いい人生を切り開くことは価値のあることではありませんか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
タリタは現在2歳です。心で聖書箇所を学び始めています。また祈りのことばも覚え始めています。なぜでしょうか？なぜわざわざ時間と労力をかけて聖書を何度も彼女に言い聞かせているのでしょうか?単純です。彼女が10代になったとき、敬虔で清く、また聖く愛あり、謙遜で優しく、従順で賢い子になって欲しいからです。そして聖書は極めて明白に、それは神のみことばを心にたくわえることから来る、と言います。「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様はヨハネ17:17の私たちのために祈られたその祈りの中でこのように言われます。「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」「聖め別ける」というのは人を聖く、敬虔で、愛あり、清く、貞淑で、霊的に賢くするという、聖書的表現です。そして私は自分自身と私の子供たちと皆さんに、それを望みます。それでは今年は私たちは何をしましょうか?もし私たちが真理によって聖め別たれ、そして神のみことばが真理であるなら、私たちは何をしなければならないでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし医者が、「あなたは深刻な病に侵されていて、死に至る可能性がありますが、もしこの薬を飲んだら良くなり生き延びるでしょう。」と言ったとします。あなたは忙しいし、錠剤は大きくて飲みにくいし、忘れっぽいため、薬を飲むことを忘れてしまい、病に侵され続け、死ぬかもしれません。それが罪と霊的未熟さの行く末です。神があなたを聖別され、あなたを成長させられ、強く、聖くされるということを無視するなら、あなたは成熟しないし、強くも聖くもなりません。神のみことばを読み、深く思い、暗唱し、大切にすることが、罪を克服し、強く、敬虔で成熟し、愛のある賢い人になるという、神の定められた方法なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神のみことばには、もしあなたが見て大切にするなら、あなたを深く変える、素晴らしい事がらがあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 神のみ助けなしには私たちは見ることができない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この聖書箇所の第2のポイントは、みことばのうちにある素晴らしい事がらは、神の超自然の助けなしには、私たちは実際にそれらが何であるかを見ることができない、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは私たちが堕落し、腐敗し、罪に死んでおり、そのため盲目で、無知で、かたくなだからです。パウロはエペソ4:18で私たちの事を次のように表現しています。「その知性において暗くなり、[私たちの]うちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
モーセはこの問題を申命記29:2-4で次のように記しています。「モーセは、イスラエルのすべてを呼び寄せて言った、『あなたがたは、エジプトの地で、…主があなたがたの目の前でなさった事を、ことごとく見た。…それは大きなしるしと不思議[「奇しい事がら」]であった。しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。』」注意:あなたがたは…ことごとく見た。しかし神の超自然のみわざなしには、あなたは見ることができない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが私たちの状態です。私たちは神の覚醒、活性化、軟化、へりくだり、清め、教え導くみわざがない限り、罪あるもので、腐敗しており、かたくなで、無知で、盲目です。神の啓示がない限り、霊的現実の美しさを見ることはありません。神が心の目を開いて、霊的感覚をお与えくださらない限り、みことばが教えるものの奇しさと栄光を見ることはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを教えることとこれを知ることのポイントは、聖書を読むことによって私たちが神を必死に求め、神に飢え渇くようになり、神に助けを懇願し叫び求めるようになることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(ポイント2に関して、マタイ16:17と11:4、ルカ24:45、1コリント2:14-16、ヨハネ3:6-8、ローマ8:5-8も参照ください)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3. 私たちは神に見させてくださいと祈る必要がある''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが最後の要点につながります。もし神のみことばの真理を知ることとたくわえることが、聖さと愛と成熟と天国行きに重要であるのなら、そしてもし私たちが生まれながらに神のみことばの奇しさを見ることができず、その栄光に魅了されないのなら、私たちは絶望的な状態にあり、神に見させてくださいと祈る必要があります。「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえうのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えるなら、クリスチャン生活にとって祈りは欠くことのできないものです。それは祈りがみことばが私たちのうちに働くその力を解く鍵だからです。みことばの栄光は、神がその栄光に対する私たちの目を開いて下さらない限り、盲目の人の顔に照る太陽のようなものです。そしてその栄光を見ないなら、私たちは変えられません(2コリント3:18、ヨハネ17:17)し、もし変えられないのなら、私たちはクリスチャンではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エペソ1:18でパウロは次のように祈ります。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか…」言い換えるなら、「これらのことを私はあなたがたに教えたし、あなたがたもそれをうわべだけの感覚で受け入れましたが、その栄光を霊的感覚(「心の目」)で理解しない限り、あなたがたは変えられませんよ」(エペソ3:14-19、コロサイ1:9参照)。パウロはこれをクリスチャンたちに宛てて書いているのですが、私たちは霊的目が開かれるよう、み国へ行くまで祈り続けなければならないことを示しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書通読に浸からせる7種の祈り  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし詩篇119:18、「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」というのが私たちの今日の聖書箇所ですので、神のみことばを読むにあたってどのように祈るのかを、この詩篇の作者に見せてもらいましょう。では詩篇119篇のちょっとしたツアーにお連れし、今年の聖書通読に皆さんをどっぷり浸からせる、7種の祈りをお見せしましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはこのように祈るべきです… &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#神がご自身のみことばをお教え下さるように。詩篇119:12の後半、「あなたのおきてを私に教えてください。」(33、64後半、66、68後半、135節も参照)。神のことばの真の学びは、神ご自身が教師となってあらゆる教授法をもって教えてくださることによって、またそれを通してのみ、実現します。 &lt;br /&gt;
#神がご自身のみことばを私たちから隠されないように。詩篇119:19の後半、「あなたの仰せを私に隠さないでください。」聖書は神のことばが私たちから取り去られる、恐ろしい罰、あるいは裁きを警告します(アモス8:11)(43節も参照)。 &lt;br /&gt;
#神がご自身のみことばを私たちに理解させて下さるように。詩篇119:27、「あなたの戒めの道を私に悟らせてください。」(34、73後半、144後半、169篇も参照)。ここでは神がいかなる方法を用いてでも私たちがみことばを理解することができるよう、私たちを理解させてくださるよう懇願します。 &lt;br /&gt;
#神がご自身のみことばに私たちの心を傾けさせて下さるように。詩篇119:36、「私の心をあなたのさとしに傾けさせ、不正な利得に傾かないようにしてください。」私たちにとっての最大の問題は、そもそも私たちの動機ではありません、私たちの意志なのです。私たちは生まれながらにしてみことばを読み、思い、暗唱することに傾かないのです。ですので神が私たちの意志を傾けさせて下さるよう、祈らなければなりません。 &lt;br /&gt;
#私たちが主のみことばを守るよう、神が私たちにいのちをお与え下さるように。詩篇119:88、「あなたの恵みによって、私を生かしてください。私はあなたの御口のさとしを守ります。」私たちがみことばにどっぷり浸り従うためには、いのちとエネルギーが必要であることを、主は十分にご存知です。そこで作者は神に、基本的必要を仰いでいるのです。(154節後半も参照)。 &lt;br /&gt;
#神がご自身のみことばによって私たちの歩みを確かにして下さるように。詩篇119:133、「あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、…」私たちは理解といのちだけを主に依存しているのではなく、みことばの実行をも主に依存しているのです。みことばが私たちの人生に確かなものとなるようにと。自分ではそれを成し遂げることはできません。 &lt;br /&gt;
#私たちがみことばから迷い出るとき、神が私たちを捜し求めて下さるように。詩篇119:176、「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。」注目すべきはこの敬虔な作者が、罪の告白と、神が彼を捜し求め連れ戻す必要のあるものであることで詩篇を終わらせていることです。これもまた、私たちは何度も繰り返して祈らなければなりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== みことば、私たちの宝  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
終わりに、この1998年を迎えるにあたり、聖く愛あるものとなりたいと、またこの都市と諸国民のうちにある神のみむねに徹底的に捧げていきたいと願うにあたり、私たちはみことばを心にたくわえる人々になるよう、またそれ以上に、神から離れては私たちは絶望的状態であることを理解し、主は私たちの目が開かれみことばの奇しきことを見て変えられるような祈りを備えてくださっていることを、知っている人々にならなければなりません。「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような祈りで、彼[詩篇の作者]はどれだけ真剣だったでしょうか?私たちはどれだけ真剣になるべきでしょうか?その答えの一つが詩篇119:147にあります。「私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。」彼は早起きするのです!最優先です。あなたはそれを[最優先]しますか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 21 Jul 2015 20:38:37 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A7%81%E3%81%AE%E7%9B%AE%E3%82%92%E9%96%8B%E3%81%84%E3%81%A6%E8%A6%8B%E3%81%95%E3%81%9B%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84</comments>		</item>
		<item>
			<title>聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E8%81%96%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%81%E8%81%96%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%81%E8%81%96%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%81%E4%B8%87%E8%BB%8D%E3%81%AE%E4%B8%BB</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Holy, Holy, Holy Is the Lord of Hosts }}&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1973年6月1日、ウォーターゲート事件が紙面で大騒ぎになっている最中、チャールズ・コールソンは友人のトム・フィリップスを訪ねました。彼はフィリップスの、「イエス・キリストを受け入れた」という説明に、当惑し、ショックを受けました。しかしトムは平安で、自分はそうでないことに気づきました。コールソンが[フィリップスの]を家を去ったとき、号泣していたため車の点火装置に鍵を入れることができませんでした。彼は次のように言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; その夜私は自分の罪を突きつけられた。それはウォーターゲート事件の汚いごまかしだけでなく、自分の奥深くにある罪、誰しもの心に潜んでいる隠れた罪を、突きつけられたのだ。痛くて、そこから逃げることができなかった。神に叫び求め、主の待ち構えていたみ腕に、いやおうなしに引き込まれていく自分があった。それが私がイエス・キリストに人生をゆだね、人生の偉大な冒険が始まった夜である。(Loving God(神を愛すること), p. 247) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== チャールズ・コールソンの神についての新しい理解 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話は過去10年間、何百回も語り伝えられています。私たちはそれを好んで聞きます。非常に多くの人が、この話を自分たちの内輪か、あるいは教会内だけでとどめています。しかしチャールズ・コールソンは違います。ホワイト・ハウスの憎まれ役は1973年に、降参する覚悟をしていただけではありません。彼は数年後、神についての自分の嘆かわしいほどに不適切な見解をも、悔い改めようともしていたのです。それは格別に霊的に飢え乾いていた時期でした。(もしあなたがその一人であるなら、元気を出してください!あなたが思う以上に多くの聖者が、荒野の真っただ中で、人生を変えられるような神との出会いを体験しているのです。) 友人がコールソンに、R. C.スプロウルの神の聖さについてのビデオテープの講義を見るよう、勧めたのです。以下、コールソンの新しい著書、「Loving God(神を愛すること)」(p. 14-15)で彼自身が言っていることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; スプロウルについて私が知っているのは、彼が神学者であるということだった。なので、私はあまり気が進まなかった。結局のところ、神学とは人間のニーズという戦場からはるか遠く離れた、象牙の塔[俗世間から離れた場所]に囲まれて勉強する時間のある人のためにあるものだ、と言い訳をした。けれども友人の強い勧めで、私は結局スプロウルのシリーズを見ることに同意した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 6講義目の最後で、私は、神の絶対的聖さに畏れおののき、ひざまずいて深い祈りのうちにあった。私の信じ礼拝する聖い神の、全く新しい理解を得るにあたり、人生を変えられる体験だった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 　霊的飢餓は過ぎ去ったが、この神の威光を味わうことで、主に対するうえ渇きが益々湧いてくるだけだった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1973年にコールソンは神と自分がいかに神を必要としているかに気づかされ、神のみ腕に「いやがおう」に(彼が言うように)引き寄せられました。そして数年後、さらに素晴らしいことが起こったのです。神学者が神の聖さについて語り、チャールズ・コールソンは、ひれ伏し「聖い神の全く新しい理解を得た」と言うのです。それ以来、彼曰く、「神の威光を味わう」ようになったと。あなたは神の聖さを、飽き足らぬほどの主の威光を味わうほど、思い存分見ていますか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ヨブは改めて神を見る ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」(ヨブ1:1)&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; ヨブは神を信じる者で、信心深く、祈りの人でした。当然神を知っていたはずです。「神の威光を味わ」ったことがあるはずでした。しかし霊的、また肉体的な荒野の痛みと苦悩がやってきたのです。その暗闇の中で、神は威光のうちにヨブに語られました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。あなたには神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴をとどろき渡らせるのか。さあ、誉れ、気高さで身を装い、尊厳と威光を身につけよ。…すべて高ぶる者を見て、これを押さえ、悪者どもを、その場で踏みにじれ。そうすれば、わたしはあなたをたたえて言おう。あなたの右の手があなたを救えると。…だから、だれがいったい、わたしの前に立つことができよう。だれがわたしにささげたのか、わたしが報いなければならないほどに?天の下にあるものはみな、わたしのものだ。 (ヨブ40:8–14; 41:10–11) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結局ヨブは、コールソンのように、「まったく新しい聖い神の理解」に応答し、次のように述べます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; まことに、私は、自分でさとりえないことを告げました。自分でも知りえない不思議なことを。私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。(42:3–6) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖い神を追い求めることにある忍耐と希望 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ベツレヘム教会でそれは起こりうるでしょうか?起こりえますし、また起こっています。もしその兆候が見当たらなかったら、忍耐がリバイバルの鍵であると分かっていたとしても、私には続けることが困難です。A. J. ゴードンは、その著書、「The Holy Spirit in Missions(宣教における聖霊)」(p. 139, 140)で、以下のように書き記しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; それはケリーがインドで最初の受洗者を出す7年前のことだった。それはジャドソンがビルマで最初の弟子を勝ち取る7年前のことだった。モリソンは最初の中国人をキリストへ導くまで7年奮闘した。モファットはアフリカのベチュアナ族の上に聖霊が最初に明らかに働かれたのを見るまで、7年待ったという。ヘンリー・リチャーズはバンザ・マンテカで最初の回心者を得るまで、コンゴの地で7年働いた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忍耐、祈り、労苦はリバイバルの鍵です。しかしまた、期待と希望も同様です。そして神は私に、もし私たちが聖い神を熱心に求め続けるなら、イザヤやヨブ、チャールズ・コールソンのような体験は、ここでも起こりうるという希望のしるしをお与えくださっています。たとえば、一人の教会員が一週間前に私に手紙を送ってきて、この教会での働きが &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; …以前これこそが山頂だと思っていたものをはるかに超え、私を思っていた以上にさらに偉大な、素晴らしい、大きな、さらに栄光ある神のみ姿へと導いてくれています。…私の神の見解がさらに膨らみ、主の全能の壮大さから、すべてにおける完全な充足があふれ出るのです。ベツレヘム教会に来て以来10か月がたちますが、私の心に素晴らしいリバイバルが起きており、炎は以前以上にはっきりと、さらに明るく燃え上がっています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
リバイバルは、私たちが神がその聖さのうちに威光あるお方であると分かるとき、また自分自身が不従順なちりだと分かるとき、起こります。砕かれること、悔い改め、赦されることの言葉に表せないような喜び、「神の偉大さを味わ」うこと、主の聖さに対するうえ渇き―もっと見たい、もっとそのように生きたい―それがリバイバルです。そしてそれは、神を見ることから来ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イザヤの幻における神の７つの一瞥 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イザヤはイザヤ6:1-4で、私たちを彼の見た神の幻へと招いています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いによびかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮はその煙で満たされた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この4節で、７つ、少なくとも７つ、神に関する一瞥を私は見ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1. 神は生きておられる''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず第一に、主は生きておられます。ウジヤ王は死んでいますが、神は生き続けられます。「とこしえからとこしえまで、あなたは神です。」(詩篇90:2)神はこの宇宙がドンと誕生するとき、生きておられたのです。ソクラテスが毒を飲んだ時、神は生きておられました。ウィリアム・ブラッドフォードがプリモスの植民地を治めていたとき、主は生ける神であられました。1966年にトーマス・アルティザーが神は死んだと言い、タイム誌がそれを表紙にしたとき、主は生ける神であられました。主の存在に対するつまらない批判がすべて、太平洋の底にあるBB玉[空気銃の小さな玉]のように、忘却のかなたへと沈んでいくとき、主はその先30兆年生き続けられるのです。「ウジヤ王が死んだ年に、私は、…主を見た。」世界中で現在国の頭首である人で、この先50年同じ地位にとどまっている人は一人もいません。世界の指導者の交代は100％やってきます。110年ものうちに、この地球は1000億人の新しい世代で埋め尽くされ、今現在生きている私たちのうち400億人はウジヤ王のように、この世から消えていなくなってしまいます。しかし神は違います。主には始まりがなく、ゆえに何にも依存せずに存在されるのです。主は絶えず存在してこられ、絶えず存在し続けられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 神は権威であられる''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二つ目に、神は権威であられます。「私は、高くあげられた王座に座しておられる主をみた。」天国を見たという幻で、神が畑を耕しておられたり、芝刈りや、靴磨き、レポートをまとめられたり、トラックに荷を積んでおられるのを見た、というものはありません。天のみ国は縫い目があちこちほころんでいるものではありません。神はご自身の天上界で途方に暮れられることはまずありません。神は座しておられます。王座に座しておられるのです。万事うまくいっており、主は支配しておられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
王座は主が世界を支配する権利です。私たちが神に、私たちを支配する権利を与えるのではありません。私たちが好むと好まざるとに関わらず、主はそれをお持ちになるのです。神の存在意義を問う権利があると自分にあるかのように振る舞うとは、なんと愚かでしょう!私たちは時々、先月の「Reformed Journal [改革派の月刊誌]」で、ヴァージニア・ステム・オーウェンズの言ったような、単刀直入な言葉に耳を傾ける必要があるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; このことを正しく理解しようじゃないか。神はなんだって自分勝手にできるんだ、地獄に落とすことだってな。もし神が人間を地獄に落とすことが嬉しけりゃ、そうするさ。実際に、うまくな。神のすることは神のすることさ。それ以外には何もないんだ。それがなけりゃ、すべてのものの創造主を裁こうとするでしゃばった人間も含めた、すべてのものが存在しないんだ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は絶対的権威であられるという事実ほど、へりくだらされ、神の輝かしい威光を感じさせるものはありません。主が最高裁であられ、立法議会、また最高責任者であられるのです。主の上に上訴できるところはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3. 神は全能''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3つめに、神は全能であられます。主の主権の王座は、沢山あるうちの一つではありません。それは高くあげられたものです。「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。」神の王座はどの王座よりも高いということは、ご自身の権威を行使する、神の優れた力を意味します。どの権力も神の判決を無効にすることはできません。主が意図されることは、主が成就されるのです。「わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる」(イザヤ46:10)。「彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、『あなたは何をされるのか』と言う者もいない」(ダニエル4:35)。神の全能の力(あるいは主権)にとらえられることは、神が私たちを受け入れておられるという意味でとても素晴らしいか、神が私たちに反対しておられるという意味で非常に恐ろしいかのどちらかです。主の全能の力に無関心であることは、それが一体何なのかを見たことがないということです。生ける神の主権の権威は、主の契約を守るものたちにとって、喜びと力に満ちあふれる砦です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4. 神は光輝燦爛''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4つ目に、神はまばゆく輝いておられます。「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、」階段とプラットフォームを覆うほどのドレスに囲まれた花嫁の写真を見たことがあるでしょう。もし[教会の]通路と座席とクァイア席すべてを埋め尽くすようなそのすそが、一つの布によっておられていたら、それは何を意味するでしょうか?神の衣が天の神殿全体を満たすというのは、主が他に比べうるもののない輝きを持っておられる神であることを意味します。神はご自身の輝きが満ち溢れていることそのものを、何千通りも見させてくださいます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小さな例えですが、一月号の「レンジャー・リック」に、深く暗い海中に生息し、自力で発光する仕組みが備わっている種の魚の記事があります。あるものには顎から明かりがぶらさがっていたり、あるものには発光性のある鼻があったり、目の下に信号があったり。私たちが誰も実際に見て驚くことができないような、深い海に生息する、自力発光する何千種という魚がいるのです。非常に美しく奇妙です。それらはなぜそこにいるのでしょうか?12種くらいの、有能な合理化されたモデルでもいいのでは?なぜなら神は輝きに満ちあふれておられるからです。主のその創造力の豊かさは、美しさを超えてあふれ出ます。もしこの世界がそのようであるなら、それらを思われ造られた主はもっと光り輝いていることでしょう! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5. 神は崇められている''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5つ目に、神は崇められています。「セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、」目と足と知能を持ったこの六つの翼の生き物が一体何なのか、誰も知りません。聖書ではここ以外に、少なくともセラフィムという名前では、この生き物が登場することはありません。場面の豪華さと御使いたちの力を考えると、やや太めの翼を持った赤ちゃんがひらひらと主の耳の周りを飛び回っているのは想像しない方がいいでしょう。4節によると、その生き物の一つが叫ぶと、神殿の基盤がゆるいだと言います。ブルー・エンジェルズ[アクロバット飛行隊]が大統領側近の顔の前で、防音壁を割りながら、目の前で一列になって飛び込んでいくのを想像する方がいいでしょう。か弱い、あるいはくだらない生き物は天のみ国にはいません。壮大なものだけです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてポイントは、その生き物は主を見ることもできず、主のみ前でその足をむき出しにしたままにすることさえ、値しないように思っているということです。彼らは素晴らしく良いもので、人間の罪に染まっておらず、深い謙遜をもって彼らの造り主を崇めます。御使いはその輝かしさと力で人を恐れさせますが、御使いたち自身は聖なる怖れと畏敬の念をもって、神の威光から隠れます。主の御使いたちの輝きにさえ耐えられない私たちは、主のみ前でどんなにか震えおののくでしょう! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''6. 神は聖''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6つ目に、神は聖いです。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。」『アズラン王と魔法の島[ナルニア国物語第三章]』の最後で、勇敢なネズミのリーピチープが、自分の小さなかご舟で世の終わりまで帆走するのを覚えているでしょうか。「聖」ということばが、言語の海において、その小舟で私たちがたどり着く世界の終わりです。神を表す可能な限りの言語がついに尽き、はかり知れない世界の端まであふれ出てしまうのです。「聖さ」は私たちを崖っぷちまでいざない、そこからの神の体験というのは、言葉にし難いものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ私がそういうのかと言うと、神の聖さを定義しようとするすべての努力が、この一文、「神は聖いというのは、神は神であられる、ということ」に落ち着くからです。[どういうことなのか]説明させてください。聖さの語源は、おそらく、切る、あるいは切り離すです。聖いものは切断して、普通の(私たちは俗世間と言いますが)用途から切り離します。この世のものや人々は、この世とは別のものとされ、聖なるものとして神にささげられます。ですので聖書は、聖なる地(出エジプト3:5)、聖なる会合(12:16)、聖なる安息日(出エジプト16:23)、聖なる国民(出エジプト19:6)、聖なる装束(出エジプト28:2)、聖なる都(ネヘミヤ11:1)、聖なることば(詩篇105:42)、聖い人(2ペテロ1:21)&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; と、聖い婦人たち(1ペテロ3:5)&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; 、聖書(2テモテ3:15)、きよい手(1テモテ2:8)、聖なる口づけ(ローマ16:16)、そして聖い信仰(ユダ20)、と言います。もし普通のものから切り離され、神にささげられたものであれば、そのほとんどすべてが聖くなるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしこの定義が神ご自身に適応されるとき、どうなるでしょうか?神を聖くするため、何から切り離すことができるでしょうか?神のその神らしさというのは、神でないものすべてと別であることを意味します。創造主と被造物の間には、その性質上はかり知れない違いがあるのです。神とは一つの種です。独特です。他に類がありません。その意味で、神は全く聖いのです。しかしながらそうは言っても、それは主は神であられると言っているに過ぎません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいはもし人の聖さが、この世から切り離されて神にささげられたものであることから来るのなら、神が聖くなるために誰にささげられるのでしょうか?誰にでもなくご自身にです。主が聖くなるためには従わなければならない、神以上に崇高な存在があると言うのは、神への冒とくです。神こそただ単なる神以上の、絶対的存在です。出エジプト3:14で名前を尋ねられた時、主は、「わたしは、『わたしはある』という者である。」と言われました。ご自身の存在とご性質は、ご自身以外のものではまったく確立できないのです。主は規定を守られるので聖いのではありません。主が規定を定められたのです。律法を守られるので聖いのではありません。律法は神を現すので聖いのです。神は絶対です。それ以外はみな派生物です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは、主の聖さとは何でしょう?3つの聖書箇所に注目してください。1サムエル2:2、「主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。」イザヤ40:25、「『わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。』と聖なる方は仰せられる。」ホセア11:9、「わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。」つまり、神は神であられ人ではない、ということで、神は聖いのです(レビ記19:2と20:7を比べて見てください。イザヤの5:16と並行していることに注目してください)。主には比べうるものがありません。主の聖さというのは、まったくユニークな、ご自身が神であられる本質なのです。主のご性質と主が成されることのすべてをその聖さが定め、それ以外の誰によっても定められないのです。聖さこそ他の誰でもない、また誰もそうならない、神が神であられることです。 それを非常に高価な真珠のような、主の威光、神性、偉大さ、み価値であると言っていいでしょう。つまるところ、言語が尽きてしまうのです。「聖さ」ということばの中で、私たちは畏敬と不思議と恐れのまったき静けさのうちに、世界の終わりまで帆走してきたのです。「主は、その聖なる宮におられる。全地よ。そのみ前に静まれ。」(ハバクク2:20) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''7. 神は栄光あるお方''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしその静けさと、地の揺るぎと、すべてを隠してしまう煙以前に、私たちは神について最後に、7つ目のことを学びます。神は栄光あるお方です。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」神の栄光とは、主の聖さの現れです。神の聖さはそのご性質の比類なき完全さであり、そして主の栄光はその聖さの現れです。「神は栄光あるお方」とは、神の聖さが公に示された、ということを意味します。主の栄光はご自身の隠されていた聖さの開示です。レビ記10:3で、「わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す。」と神は言われます。神がご自身を聖いお方として現されるとき、私たちが見るのは栄光です。神の聖さというのは、ご自身の隠れた栄光です。神の栄光とは、ご自身の明らかにされた聖さです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
セラフィムが「その栄光は全地に満つ」と言うとき、それは天の高いところから、世界の終わりが見えるからです。この地上から見える神の栄光は限られています。しかし限られているのは、余計なものに対する私たちの愚かな嗜好のためです。ソレン・キルケゴールの例えを借りると、それは私たちが神の栄光を見るために夜中に馬車に乗って郊外へ行くようなものです。馬車席の頭上の両サイドには、灯篭が炊かれてします。私たちの頭の周りにこの人工の明かりがある限り、頭上のはるか上の空には栄光はありません。しかしもし御霊の恵みあふれる風が私たちのこの世的明かりを吹き消すとき、私たちの暗闇に、神の天上が星で満ちあふれるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いつの日か、神は[ご自身の栄光と]競り合う栄光のすべてを吹き飛ばされ、へりくだった生きものすべてに対し、素晴らしい輝きのうちにご自身の聖さを現されます。でもそれを待っている必要はありません。ヨブ、イザヤ、チャールズ・コールソン、そして多くの人々が、へりくだり、聖い神を熱心に追い求めて、その威光を愛するようになったのです。それを最近感じ始めるようになった方々には、永遠に生きておられ、権威をお持ちになり、全能であられ、まばゆく輝いておられ、崇められ、聖く、栄光ある神のみ約束を差し上げます―「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ29:12-13) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書では「聖霊に動かされた人たち」。 &amp;lt;sup&amp;gt;&amp;lt;/sup&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書では「敬虔な婦人たち」。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 21 Jul 2015 19:39:27 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E8%81%96%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%81%E8%81%96%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%81%E8%81%96%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%81%E4%B8%87%E8%BB%8D%E3%81%AE%E4%B8%BB</comments>		</item>
		<item>
			<title>奉仕としての自分の職</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%A5%89%E4%BB%95%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E8%81%B7</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「奉仕としての自分の職」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Your Job as Ministry}}&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今朝の私のメッセージの主要ポイントは、宣言と祈りでまとめることができます。*宣言*としては、「あなたがどのように仕事の要求を満たすかは、クリスチャンの弟子訓練に欠かせないものである」、です。あるいは別の言い方をすると、「あなたがどのように仕事を遂行するかは、イエス様に従うことの、重要な部分を占める」と言うことができます。*祈り*として述べるならば、「父よ、私たちの職場であなたのご臨在を意識し、職場の人間関係のすべてにおいてあなたのご命令に従うことができるよう、恵みのすべてをお与えください」と言うのが今日の主要ポイントです。これが今日の私たちに対する神のことばであると私は信じます。1コリント7:17―24から数分間、それを紐解いて行きたいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書箇所を読む前に、前述の文脈から確認して行きましょう。コリントの教会の抱えていた問題の一つは、キリストにある信仰が、どのように日常生活の人間関係に影響するのかがはっきり分からないことでした。例えば、1コリント7章で、キリストにある信仰とは、夫と妻が性的関係を絶つことを意味するのかどうかの質問があげられています。パウロは断固とした「*否*」を3節で鳴らします。別の12―16節の例は、夫婦の一人がキリストを信じ、もう一人が信じない場合はどうなるのか、という質問です。信者は聖さを保つために離婚するべきでしょうか?パウロの答えは再び、「否」です。自分が召されたときの状態にとどまっていなさい、と言います。キリストを主とし、救い主と信じる信仰は、神が全世界を創造されたときに定められた結婚の契約を、決して破棄することはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし12、13節でそう言っておきながら、使徒パウロは、もし未信者の伴侶が信者の伴侶を見捨て、信者と何の関係も持ちたくないのであれば、信者はその結婚関係に永遠に縛られないと、許可します。言い換えると、キリストを信じるようになることは、神が定められた関係を捨てたいと思う者を生み出すのではなく、その人を聖めるのです。辛抱強く祈り、へりくだり、模範となる行動を持って、信者である伴侶は未信者を勝ち取りたいと切望するのです。しかしイエス様がマタイ10:34で予期しておられるように、未信者である配偶者の不従順と不信仰は、キリスト教を、癒してくれる平穏な塗り薬にする代わりに、断ち切ってしまう刀に変えてしまうかも知れません。ですから使徒パウロが従う*原則*は、神が定められた関係にとどまっていなさい、彼らを見捨てたり、破壊しようとしてはいけない、ということです。でももし自分の願望や支配とは裏腹に、未信者の伴侶によって関係が破棄され、破壊されるのであれば、そうさせなさい、と彼は例外を許してもいます。無実の信者は、見放す者に縛られる必要がありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは1コリント7:17を始めましょう。クリスチャンになったときの神が定められた結婚関係にとどまるという原則を話しましたが、ここでパウロはこの原則を二つの別の関係で語っています。1コリント7:17―24を読みましょう。 &amp;amp;gt; ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。18 召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。19 割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。20 おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。21 奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。22 奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。24 兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが結婚関係ですでに教えてきた原則が、ここで3度はっきりと触れられています。17節に注目してください。「おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。」そして20節、「おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。」それから24節、「兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。」このパウロが述べる3つの原則は、この聖書箇所を二つに分けることができます。その3原則を、二段重ねた3枚パンのサンドイッチ(ビッグマックのような)に想像すると分かりやすいかも知れません。上の段の2枚のパンの間に、割礼と無割礼の問題に適用された原則が書かれてある18、19節があります。下の段には奴隷と自由人に適用された原則が書かれてある21―23があります。しかしこのいずれの適用を理解する前に、私たちは原則そのもののキーワードをはっきりさせなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== どのような召しが視野にあるのか?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この原則を述べているそれぞれの文とこの段落で、合わせて9度繰り返される言葉は、「召し」という言葉です。パウロが17節で「おのおのが、･･･神がおのおのをお召しになったときの状態で歩むべきです」、また24節で「おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい」と言うとき、彼はキリストを信じるように引き寄せられたその神の召しのことを意味しているのです。私たちは「召し」という言葉を、自分の使命を意味する言葉として頻繁に用います。私の召しは主婦、私の召しはセールスマン、等々です。でもそれがパウロがこの段落で9回繰り返すうちの8回、用いている言葉ではありません。一度だけ彼は「召し」という言葉を職としての意味で、すなわち20節で用いています。文字通り、「おのおの自分が召されたときの『*召し*』(状態ではなく)のままでいなさい」と言います。ここでの「召し」という言葉は、人生における天職、あるいは持ち場立場という意味をあらわします。そして人生におけるこの天職や持ち場立場で、別の召しを神から受けます。この召しが、キリストとの交わりに入れてくださる聖霊の引き寄せです。単純に、自分の使命において与えられる神の召しは、福音を通して魂を改心させる神の力です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは1コリント1章で明確にされています。1章の9節でパウロは、「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは、神の御子、私たちの主イエス･キリストとの交わりに入れられました」と言います。ですからすべてのクリスチャン、そしてクリスチャンだけが、この意味で召されているのです。この神からの召しは、一方で、私たちの天職としての「召し」と違い、その一方で、すべての人に差し出される悔い改めの一般的召しとも違います。イエス様がマタイ22:14で、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」と言われるとき、主は多くの人が耳にして拒否し、自分の破滅を招いている、福音の世界的召しを意味しておられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしこれがパウロの念頭にある召しではありません。私たちを信じさせ、イエス様との交わりを愛するようにさせる神の召しは、私たちを御子に引き寄せる、力ある効果的召しです(ヨハネ6:44、65)。これは1コリント1:23、24節でパウロが、「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」と言うところで、最もはっきり見ることができます。召された者がすべて説教を聞くのではなく、それを知恵として受け止めるものが、聞くのです。一般的召命と効果的証明の違いを見せるためにこの聖書箇所を意訳することができます。パウロは、「私たちは十字架につけられたキリストを信じるよう、すべての者を*召し*ますが、多くのユダヤ人がこの*召し*をつまづきとしてとらえ、多くの異邦人がこの*召し*を愚かだととらえます。しかし召された者(つまり、キリストに力強く効果的に引き寄せられた者)は、福音の召しを神の力と知恵ととらえます」と言っているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、パウロが1コリント7:17、20、24で私たちは召されたときの状態でとどまり、神と共に歩むべきであると言うとき、彼は、改宗し、ご自身の御子を信じ、御子との交わりを愛するように神に引き寄せられときの状態に、とどまっていなさいと言っているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ユダヤ人と異邦人に適用された原則  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、私たちは、パウロがどのようにこの原則を彼の時代に適用したのか、そしてそれが今日の私たちにどのような意味を持つのかを見なければなりません。その過程でその神学的根拠が浮上します。パウロの最初の原則の適用は、職ではなく、割礼と無割礼に対してです。彼は次のようにそれを適用します。もしあなたが異邦人として改宗したのであれば、ユダヤ人になろうとしてはいけない。もしあなたがユダヤ人として改宗したのであれば、異邦人になろうとしてはいけない。それが無割礼と割礼が基本的に表すものです。これには広範囲に及ぶ文化的意味があります。もしあなたが黒人であるならば、白人になろうとしてはいけない。もしあなたが白人であるならば、黒人になろうとしてはいけない。もしあなたがメキシコ人であるならば、アメリカ人になろうとしてはいけない。もしあなたがアメリカ人であるならば、メキシコ人になろうとしてはいけない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてパウロはこの忠告に対する神学的根拠を述べます。19節で文字通り、「割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ること(がすべてである)です」と言います。「割礼は取るに足らぬこと」とは、恐らくパウロがユダヤ人に言うことができる、最も侮辱的なことでした。そして私たちがもし広範囲に渡るその文化的適用を理解したら、私たちもそれに気分を害します。しかしそれは事実です。パウロの論理的根拠が、私たちの時代の最新の論拠にまさって、自分の文化的特徴を維持し続けるということに対して、いかに極端に違うかに注目して下さい。私たちは、白は美しく、黒は美しく、赤は美しくで黄色は美しい、それゆえ文化を取り替えようとしてはならない、と言います。パウロは、白は無で黒は無、赤は無で黄色は無、しかし神のご命令を守ることが全てである、それゆえ、文化を取り替えようとしてはならない、と言います。あなたの今いるところにとどまって、神に従いなさい、と。パウロは考え方がとてもファッショナブルな人で、それゆえ彼の考えることは、永遠に今日的意味を帯びています。彼は徹底的に神を重視する人です。彼にとってはすべてが神優先の前に落ちるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを理解することは絶対に必要です。そうでなければ私たちは新しい律法主義を生み出すからです。古い律法主義は、「救われるためには割礼を受けなければならない(使徒15:1)、認められるためには白人でなければならない」と言います。新しい律法主義は、「もし救われたいのなら割礼を受けてはならない。受け入れられたいのなら白人ではいけない」と言います。私たちは「割礼を受けていないものに割礼を受けさせてはならない」(18節)という文章を聞いて、パウロの教えを曲げ、彼の意図を見逃し、それを文化的順応の絶対的禁止としてしまうのです。パウロは他の文化的側面に順応し、自分の文化的側面を投げ出す人々を激しく批判しているのではありません。これは自らテモテに割礼を施したという事実と(使徒16:3)、何とかして幾人かでも救うために、すべての人に、すべてのものとなった(1コリント9:22)、という彼自身の言葉からも、明確です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロがここでしているのは、神のご命令に*従うこと*は、いかなる文化的特徴よりも重要で、これらの特徴を単に変えることは、クリスチャンにとってはまったく重要でない、ということを見せようとしているのです。言い換えれば、自分が割礼を受けているか受けていないか、あるいは自分が白人であるか黒人であるか赤人であるかスウェーデン人であるかを、大騒ぎしてはいけない、と言うことです。その代わりに、従順であることに大騒ぎしなさい、神の道徳的律法に従うことを、人生のねらいの*すべて*としなさい、と。そのとき初めて、信仰の従順の表現方法として二次的、そして派生的に、(パウロがローマ2:25で意味するところの)割礼と、様々な文化的特徴が美しくなるのです。パウロの文化的特徴の適応の原則は、一言で言えば、自分の現在の文化的特徴の位置に苛立ったり、誇りとしてはいけません。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」というこの一つで成就される、あなたが魂と思いと体を尽くして主のご命令に従っているかどうかに比べたら、それらは神にとっては対して重要ではありません(ローマ13:8―10、ガラテヤ5:14)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 奴隷と自由人に適応されている原則  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それからパウロは、奴隷か自由人であるかの問題に自分の原則を適用するため、21―23に戻ります。21節の翻訳の問題はとても難しいものです。ほとんどの現代訳が、「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい」と訳しています。これは正しい訳かも知れませんが、20節の「おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい」、そして24節の「おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい」という表現でこの原則を彼が描いているので、この訳は受け入れがたいものがあります。この２つの節の間で「もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい」というのは、まったく場違いのような気がします。それだけでなく、この訳は(「たとえ」と「むしろ」という)ギリシャ語の言葉にも忠実ではありません。それは以下の代訳で出てきます。「あなたが奴隷として召されたのなら、そのことで悩まぬようにしなさい。しかし、*たとえ*あなたが自由人になることができるとしても、あなたは*むしろ*〔現在のあなたの立場を〕用いなさい。」 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 本当の対比は、「奴隷であることで悩んではならない。むしろそれを用いなさい」という表現でなければならないと、私は思います。それをキリストに従うことのためにそれを用いなさい、そうすれば「あらゆる点で私たちの救い主〔である〕神の教えを美しく飾る」(テトス2:10) &amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; ことになるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終的分析においては、18節が割礼を絶対的に禁止しているのと違い、自由になることを絶対的に禁じているのではない、というのは事実だと思います。しかしもし自由になることを求めよという命令形として訳してしまうと、この箇所の本当の要点が見えなくなってしまいます。要するに、もしあなたがキリストとの交わりに召されたのであれば、あなたは新しい、徹底的にキリスト中心の優先事項を得ます。それは非常にキリスト中心で、もしあなたが奴隷であれば、それを悩んではいけません。「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。」あなたの仕事は大したことのない仕事ですか?それを気にしてはいけません。それは他の職業と比べてそんなに重んじられていない仕事ですか?気にしてはいけません。これが彼が割礼のような文化的違いを述べているのと同じポイントです。あなたは割礼を受けていませんか?気にしてはいけません。割礼を受けていますか?気にしてはいけません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは19節でするように、この姿勢に関する同じ神学的理由をあげることができたはずです。「奴隷であることは取るに足らないこと、自由であることは取るに足らないこと、でも神の命令を守ることはすべてです」と言うことが出来たはずです。これは事実です。しかしパウロは新しい神学的理由で私たちの理解を深めてくれます。一人の人が、奴隷であったとしても、「気にしてはいけません」と言うことができるその理由は、22節、「奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人･･･だからです。」そして自由である人が「気にしてはいけません」と言うことが出来る理由も同様で、「自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」私はこのように自分の神学を働かせるパウロを見るのが大好きです。彼は、福音には、取るに足りない仕事に落胆している人のための解毒剤と、高い評価を受けている仕事を誇っている人のための解毒剤があると言っています。希望を失っているような奴隷を見て、「キリストにあってあなたは自由です。あなたは代価を払って買い取られたのです。自分の魂を誰の奴隷にしてはなりません。主にあって喜び、主にあって希望を持ちなさい、そうすれば不安を抱えたどんな貴族階級の人よりも自由になります」と言うのです。それから自由な貴族階級の人を見て、「傲慢になってはいけません。なぜならあなたはキリストにあって奴隷だからです。権力をもっておられる方があなたを支配しています。あなたはへりくだり、従順にならなければなりません」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
要するに、その人が奴隷であろうが自由であろうが、それに絶望したり誇りにしたりしてはならない、と言うことです。その人は、「気にしてはいけない」と言うことが出来るようでなければなりません。もしその人が医者や弁護士や重役であったとしても、傲慢になってはいけないし、またその人が社会から重視されない仕事に就いていたとしても、それを自己憐憫したり憂鬱に思ったりしてはいけません。「兄弟たち、」パウロは24節でまとめます。「おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。」神の*御前*です!それはとても重要なフレーズです。人生で、そして永遠のいのちで重要なのは、神の近くにいることと、主のご臨在を楽しむことです。私たちの仕事が人の目に重視されているかされていないかが重要なのではありません。私たちが神のご臨在によって励まされ、へりくだされているかどうかが、重要なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロの原則のこの二つの適用を一つにすると、その教えは以下のようになりそうです。「神の命令に従うこと(19節)、主のご臨在を楽しむこと(24節)は、自分の文化や自分の職業がどのようなものであるかよりはるかに重要で、自分の置かれた立場を変えなければならないという衝動にかられる必要はまったくありません。恐れや絶望に駆られる必要はまったくないし、富やプライドで他人を魅了する必要もまったくありません。自分の置かれた立場に、『気にしてはいけない。お前は私の人生ではない。私の人生は神に従い、主のご臨在を楽しむためにある』と言うことが出来るようでなければなりません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4つの実際に役立つ適用  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いくつかの実際に役立つ適用で、このメッセージをまとめさせてください。第一に、神はあなたが新しい仕事を得るかどうかより、今与えられている仕事であなたがどのように振舞っているかをはるかに気にしておられます。この会衆の中には、看護師、教師、大工、芸術家、秘書、簿記係、弁護士、受付係、会計士、社会福祉担当員、あらゆる種の修理師、技術者、業務マネージャー、ウェイトレス、配管工、セールスマン、セキュリティガード、医者、軍関係者、カウンセラー、銀行員、警察官、装飾者、音楽家、建築家、画家、掃除屋、学校管理者、主婦、宣教師、牧師、戸棚製造業者、等々、の人たちがいます。そして私たちが聞かなければならないことは、神は、私たちが一つの仕事から別の仕事に移ることではなく、私たちが神のご臨在を現在の*職場で*楽しんでいるか、また主のご命令に、仕事に取り掛かるように従っているか、ということを最も気にしておられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、すでに見てきたように、改宗したときの召された状態にとどまっていなさいという命令は、絶対的ではありません。それは仕事を変えることを非難するものではありません。私たちはパウロがこの1コリント7章(例えば15節)で自分の原則の例外を許すところからだけでなく、聖書がそのような変化を描き、認めているところから、これが分かります。旧約聖書では奴隷を解放することが書かれており、また説教家になった税金取りや、宣教師になった漁師がいることを私たちは良く知っています。さらに、仕事によってはとどまりつつ神の命令に従うことが不可能なもの、例えば売春、あらゆる型のいかがわしい、心を乱すようなエンターテイメントや、人々を食い物にするよう強要されるような仕事等があることを、私たちは知っています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは盗難のプロやコリントのカルト売春婦が、召されたときのままでとどまっているべきであると言っているのではありません。コリントでの疑問は、私たちがキリストに来るとき、何を捨てなければならないのか、と言うことでした。パウロの答えは、もしあなたが*神と共に*そのうちにとどまっていることができるのであれば、自分の職業を投げ捨てる必要はない、というものです。彼の関心は、仕事を変えることを非難することではなく、いかなる仕事であってもキリストにあって達成感を味わうことができるということを教えることです。これはこの世的野心の神経を切断してしまうという理由で、現代の西欧社会ではまったくダサい教えです。私たちは、自分の子供たちに伝達する成功というものが、聖書的かあるいはただアメリカ的であるのかを、長く深く考える必要があります。「成功追求者」に対する神のことばは、「あなたが自分の上昇志向に注いでいるすべての野心と意欲を、その上昇志向の代わりに神の臨在を楽しみ、みことばに現されたそのみこころに従うことを養う霊的熱心に注ぎなさい」です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三に、職にまだ就いていない若い人たちに対して与えられた聖書箇所の適用は、「神の私の人生に対するみこころは何だろう?」と自問するとき、はっきりとした自答を出さなければなりません。それは、「主のみこころは、私が主との深い交わりを維持し、主のご命令に従うことに尽くすこと」です。神の、あなたに対しすでに現されているみこころ(あなたが従う義務を負っている唯一のみこころ)は、あなたの*聖化*(1テサロニケ4:3)であって、あなたの使命ではありません。心を尽くしてそのみこころに従い、いかなる仕事であっても、自分がそれが欲しいのであれば、就いてください。もしこの若者たちが神にとどまり、みことばに従うことにできる限りの努力を注ぐなら、神が世界で彼らの影響力が必要なまさにその場所に、彼らを割り当てられると、私は信じて疑いません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第四に、そして最後に、この聖書箇所はあなたの現在の仕事は、あなたがそこに就いている限り、神があなたに*割り当てられた*仕事です。17節では、「おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです」と言います。神は主権者であられます。あなたがその場所にいるのは、偶然ではありません。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」(箴言16:9)。「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」(箴言19:21)。「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」(箴言16:33)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたは、たとえあなたが詐欺によってそこにいたとしても、神が割り当てられたところにいます。あなたの仕事は、私の仕事がそうであるように、あなたの割り当てられた奉仕です。あなたがどのようにその仕事の要求を満たしていくかは、あなたが日曜日にここですることと同じように、とても重要です。私たちの多くの者にとって、それは明日の朝心機一転せざるを得ないということを意味するでしょう。仕事を始める前に、一緒に祈りましょう。「神よ、今日私と共にいてくださり、あなたのご臨在を常に意識させてください。私が希望を失いがちになるとき、私の心を励まして、私が傲慢になりがちになるとき、へりくだらせてください。おお神よ、あなたのご命令を一言でまとめている、私の隣人を私自身を愛するように愛するという、そのあなたのご命令に従うことができるよう、恵みをお与えください。アーメン。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 岩波翻訳委員会訳。1995年版。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; 同上。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 14 Jul 2015 20:25:48 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%A5%89%E4%BB%95%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E8%81%B7</comments>		</item>
		<item>
			<title>喜びを探し求めて</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%96%9C%E3%81%B3%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%81%97%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%A6</link>
			<description>&lt;p&gt;Kathyyee: 「喜びを探し求めて」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Quest for Joy}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神は私たちに「喜びなさい」とご命令になるのを、知っていますか?''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇 37:4)'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1)神は私たちをご自身の栄光のために造られた''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。･･･わたしの栄光'' のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ 43:6-7) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
望遠鏡が星を拡大するように、神は私たちがご自身の偉大さを拡大するよう、私たちを造ら れました。ご自身のいつくしみとまこと、美しさ、知恵、義を映し出すよう、私たちをお造りに なりました。神のご栄光をもっとも顕著に映し出すのは、神が私たちにとって神であられるこ とのすべてを心の底から喜ぶところから来ます。これはつまり、神が賛美をお受けになり、 私たちが喜びを得るということを意味します。私たちが神にあって最も満足するときに、主 が私たちのうちで最もあがめられるよう、神は私たちをお造りになったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) すべての人間は神のご栄光のために生きなければならない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現'' すためにしなさい。」(1 コリント 10:31) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私たちが神のご栄光のために造られたのなら、主のために生きなければならないのは 明らかです。私たちの義務は、主の目的からきます。　ですので私たちのまず第一の義務は、 神が私たちにとって神であられるそのすべてに満足することで、神のその御価値を見せる ことです。それが神を愛することの本質であり(マタイ 22:37)、主を信頼することであり(1 ヨハ ネ 5:3-4)、また主に感謝することです(詩篇 100:2-4)。それが特に他人を愛するという、真の 従順の根本です(コロサイ 1:4-5)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) 私たちのすべては神に栄光をお返ししていない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ 3:23)'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「神からの栄誉を受けることができず」とはどういう意味でしょうか? それは、私たちのうち誰 も神を信頼せず、大切にしていない、という意味です。誰も主の偉大さに満足し、主の道を 歩んでいません。私たちは他のものに満足を求め、それらを神より価値あるものとしていま す。そしてそれが、偶像礼拝の本質なのです(ローマ 1:21-23)。罪がこの世に入ってきて以 来、私たちのすべては、神をすべてを満たして下さる宝として受け入れることを、断固として 拒否し続けています(エペソ 2:3)。これは神の偉大さに対する最悪の侮辱です(エレミヤ 2:12-13)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4) 私たちのすべては、神の正しい有罪宣告の下にある''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「罪から来る報酬は死です。」(ローマ 6:23)'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちのすべてが神のご栄光を軽くあしらってきました。どのようにでしょうか?主よりも他の ものを好むことによってです。主に感謝せず、信頼せず、反抗することによってです。ですの &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
で神が、私たちを、ご自身の栄光を楽しむことのないよう、締め出されるのは当然です。「そ のような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受 けるのです」(2 テサロニケ 1:9)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「地獄｣と言う言葉は新約聖書では 14 回用いられています。そのうちの 12 回はイエスご自 身が用いておられます。この言葉は陰険で怒ってばかりいる説教家たちによって作り上げ られた、でっち上げではありません。これは、罪人を、その呪いから助け出すために死なれ た、神のみ子からの、厳粛な忠告なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし聖書が人間の現状を分析するところで終わっていたなら、私たちは絶望的将来に追い やられているでしょう。でも、聖書はここで終わりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5) 神は永遠のいのちと喜びを与えるため、ご自身のみ子イエスをお遣わしになった''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「『キリスト･イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そ'' のまま受け入れるに値するものです。」(1 テモテ 1:15) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
良い知らせは、キリストは私たちのような罪人のために死なれた、ということです。そして主 は、その死に救う力があることを立証するため、また永遠のいのちと喜びの扉を開くため、 死から物理的によみがえられました(1 コリント 15:20)。これは、神が、有罪の罪人を無罪で あると宣言してもなお、正しくあられることができる、ということを意味します。「キリストも一 度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、… 私たちを神のみもとに導くためでした。」(1 ペテロ 3:18)神のみもとへ帰ることにこそ、深く永 遠に続く満足があるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''6) キリストの死によって買い取られた恵みは、悔い改め、主に信頼する人々のもの''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に 立ち返りなさい。」(使徒 3:19) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒 16:31) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「悔い改める」というのは、罪の偽りの約束すべてから離れるという意味です。「信仰」とは、 イエスにあって、神が私たちにとってどのようなお方であられるか、という約束に、満足する ことです。「わたしを信じる者は、」「決して渇くことがありません」とイエスは言われます(ヨハ ネ 6:35)。私たちは自分で救いを得ることができません。救いを受けるに値しないのです(ロ ーマ 4:4-5)。信仰を通しての恵みによってのみ(救われるの)です(エペソ 2:8-9)。それは無 償の贈り物です(ローマ 3:24)。もしそれ(救い)をすべてに優るものとして大切にするなら、私 たちのものになります(マタイ 13:44)。そうすると、私たちが主にあって永遠に満足するとき、 主は私たちのうちでご栄光を受けられる、という創造における神の目的が、達成されるので す。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''分かりますか?''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスにおいて、神が私たちのすべてであられるということに満足することからくる喜びが、 欲しいと思いますか?もしそうでしたら、あなたの人生に神は働きかけて下さっています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''何をしなければならないのでしょう?''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪の偽りの約束から離れてください。罪と罰と束縛から救われるよう、イエスを呼び求めてく ださい。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです(ローマ 10:13)。イエスに あって、神が私たちのすべてであられるという希望に頼りはじめてください。神のみ約束の、 何にも勝る満足感を信じることによって、罪の約束の力を断ち切ってください。あなたを自由 にしてくれる、主の尊い偉大な約束を見つけるため、聖書を読み始めてください(2 ペテロ 1:3-4)。聖書を信じる教会を探し出し、キリストを何にも勝る宝とする人々と一緒に礼拝し、 成長してください(ピリピ 3:7)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世で最も素晴らしい知らせは、私たちの幸せと神の聖さには何ら矛盾がない、というこ とです。神がイエスにあって私たちのすべてであられる、ということに満足することこそ、神 を最高の宝としてあがめることなのです。 「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あな &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''たの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇 16:11)'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 01 May 2012 22:50:30 GMT</pubDate>			<dc:creator>Kathyyee</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%96%9C%E3%81%B3%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%81%97%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%A6</comments>		</item>
		<item>
			<title>どのように時間を過ごすべきか?</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E6%99%82%E9%96%93%E3%82%92%E9%81%8E%E3%81%94%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%8D%E3%81%8B%3F</link>
			<description>&lt;p&gt;Kathyyee: ページの作成: {{info|How should I spend my time?}}   ''以下は、音声から書き起こされ、編集されたものです。''   &amp;lt;br&amp;gt; '''どのように時間を過ごすべきか？'''&amp;amp;...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|How should I spend my time?}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''以下は、音声から書き起こされ、編集されたものです。'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; '''どのように時間を過ごすべきか？'''&amp;amp;nbsp;&amp;amp;nbsp; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
わたしの時間の使い方――自分が望んでいるほど上手ではありませんが、わたしが知っている唯一の聖書的な時間の使い方――は、ローマ人への手紙12章2節にあることを経験することです。今日、この午後、何かを優先し、選び取る際に、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か……をわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」。 &amp;amp;nbsp; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日決めなければならないことを前にして、どのようにすれば、神の御心は何か、つまり、何がよいことで、神に受け入れられ、完全であるのか、が分かるのでしょうか？聖書による答えは、「心を新たにしなさい」というものです。 &amp;amp;nbsp; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どのような行為がおおよそ神に受け入れられ、受け入れられないのか、といったことを見分けるために、御言葉と祈りに専心するのではなく、物事に対して、キリストが行われるように考え、感じる心を手に入れるために、御言葉と祈りに専心するのです。そうすれば、電話が鳴ったり、どこかへ行く機会が生じたり、これかあれかを選ばなければならないとき、どのようにすればキリストが強調されるか、信仰が打ち立てられるか、人々が愛されるか、を見分ける心のようなものがあるはずです。 &amp;amp;nbsp; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
面白いのは、神聖さとか愛といった場合に、正式な神学のように説明することはほとんどできないけれども、非常にうまく見分けることができる人々がいるということです。そういった人々は、瞬間的に、またたく間に、どのような言葉が最も効果的で、どのような行動が最も適切であるか、を見極めることができるようです。そして、「どうしてそんなことをしたの？」と尋ねたとしても、そういった人たちは分かりやすく説明することはできないでしょう。彼らはすぐに分かったのであり、霊的な直観であって、やっていいことと悪いことのリストを検討したわけではありません。 &amp;amp;nbsp; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、これこそがわたしたちが望んでいるものです。朝起きて、御言葉に親しみ、祈ったうえで、心を新たにしたいものです。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 07 Apr 2011 01:50:50 GMT</pubDate>			<dc:creator>Kathyyee</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E6%99%82%E9%96%93%E3%82%92%E9%81%8E%E3%81%94%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%8D%E3%81%8B%3F</comments>		</item>
		<item>
			<title>危機に際して、どのようにすれば信仰を保てるか?</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%81%AB%E9%9A%9B%E3%81%97%E3%81%A6%E3%80%81%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%82%92%E4%BF%9D%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%8B%3F</link>
			<description>&lt;p&gt;Kathyyee: ページの作成: {{info|How can I have faith in times of crisis?}}   ''以下は、音声から書き起こされ、編集されたものです。''   '''危機に際して、どのようにす...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|How can I have faith in times of crisis?}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''以下は、音声から書き起こされ、編集されたものです。'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''危機に際して、どのようにすれば信仰を保てるか？''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
危機にないとき、神への信頼を養い、育てなければなりません。危機が訪れるのを待っていては、信仰を保ち続けるのに必要な力や深さは身につかないでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日々、神の愛と力に深い信頼を寄せるようにしましょう。着実に成長するよう、毎日キリストと交わるようにしましょう。危機が訪れても、恵みにしっかりと根づき、根が強くなるよう、成長しましょう。そうすれば、危機が訪れると非常に多くのクリスチャンが陥るほど、くじけることはないでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
順調なときには、眠くなり、霊的なことに無関心になります。危機が訪れても、信仰があれば大丈夫なような気がしますが、実はそうではありません。このため、非常に多くのクリスチャンが、危機のただ中にあっても、深く静かに信頼して、主にゆだねることをせず、神の御前でこぶしを振りかざし、「あなたはどこにいるのか？」と嘆くのです。こういった人たちは、神が、順調なときにも困難なときにも、支配しておられ、愛し、気遣っておられることを知らないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書では一貫して、神が善も悪も支配しておられる、と述べられていることを踏まえ、信仰を育てていかなければなりません。そうすれば、よいときも悪いときも、神への信頼は揺らがないのです。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 05 Apr 2011 12:56:33 GMT</pubDate>			<dc:creator>Kathyyee</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%81%AB%E9%9A%9B%E3%81%97%E3%81%A6%E3%80%81%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%82%92%E4%BF%9D%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%8B%3F</comments>		</item>
		<item>
			<title>日本のための祈り - ジョン･パイパー師</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A_-_%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%EF%BD%A5%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%BC%E5%B8%AB</link>
			<description>&lt;p&gt;Kathyyee: ページの作成: {{info|A Prayer for Japan}}   日本の津波の映像は終末を思わせる。   水を動かす力というのは、私たちの想像を超える。太刀打ちできるも...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|A Prayer for Japan}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の津波の映像は終末を思わせる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
水を動かす力というのは、私たちの想像を超える。太刀打ちできるものがない。私たちはた だ膝をかがめさせられる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天の父よ、あなたは地の揺るぎ、海の高まり、波の荒れを絶対的に支配しておられる主権 者であられます。あなたのみ力のまえにおののき、あなたの測り知れないみ裁きとみ業の 前にひれ伏します。私たちは顔を覆い、あなたの全能のみ腕に接吻します。自分ではどう することもできず祈りのうちに地にひれ伏しつつ、この膝もとの地は何ともろいものか、と思 います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神よ、あなたの聖い威光の御前にへりくだり、悔い改めます。一瞬のうちに、瞬きをするうち に、私たちも流されてしまってもおかしくありません。私たちは、同じ人間である日本の人た ちより、堅固な地がふさわしい者たちではありません。私たちには、この体と、家と車と家族 と、大切な場所があります。もし私たちの罪相応の扱いを受けたなら、誰がみ前に立ちえま しょう。一瞬のうちにすべてが無くなってしまうでしょう。それゆえこの暗闇の中、あなたにで はなく、私たち自身の罪に背を向けます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本のために、憐れみを請います。父よ、彼らが受けるべきものではなく、(あなたの)憐れ みです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちを励ましてくださったではないですか。あなたは寛容さ、辛抱強さ、忍耐深さは、聖書 では何百回と語られているではないですか。あなたは何千回とみ裁きを抑えられ、不従順 のこの世を悔い改めへと導かれるではないですか。そうです主よ、あなたの道は私たちの 道とは異なり、あなたの思いは私たちのとは異なります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ああ神よ、悪しき者にその道を離れ、不義の者にその思いを捨てさせてください。あなたが 情けをかけてくださるよう、私たち罪深い被造物があなたに立ち返ることをおゆるしください。 あなたはきっと、惜しみなくお赦しくださるでしょう。あなたの最愛のみ子、主イエスの名を呼 び求める者は、誰でも救われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
よみがえりのキリストの傷ついたそのみ手によって、数多くのものを失い痛んだ心が癒され ますように。あなたは被造物の痛みを知らない方ではありません。私たちのすべてのため に、ご自身の御子をさえ惜しまずに死に渡されたからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスにあって、あなたは失うことを経験なさいました。イエスにあって、あなたは私たちの、 打ちのめさせられるような悲しみと苦しみを分かちあわれました。イエスにあって、私たちの 痛みの真中で、あなたは親身になってくださる司祭であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父よ、この傷ついた民を、そっとお取り扱いください。懇願してください。勝ち取ってください。 お救いください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして彼らが非常に恐れている洪水が、彼らの上に恵みとなって怒涛のように流れ出しま すように。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どうぞ彼らが乏しい感覚であなたを裁くことなく、あなたの恵みのゆえにあなたに信頼しま すように。この神のみ業の背後に、まもなく(人々の)笑顔をみることができますように。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスの憐れみ深いみ名によって、アーメン&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 22 Mar 2011 12:59:20 GMT</pubDate>			<dc:creator>Kathyyee</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A_-_%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%EF%BD%A5%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%BC%E5%B8%AB</comments>		</item>
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