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		<title>è�–æ›¸ã�®æœ¬ã�Šã‚ˆã�³èª¬æ•™ - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
		<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/Pcain</link>
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		<lastBuildDate>Sun, 19 Apr 2026 01:55:47 GMT</lastBuildDate>
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			<title>神の御子にある喜び</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E5%96%9C%E3%81%B3</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「神の御子にある喜び」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Pleasure of God in His Son}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マタイ17:5&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; 「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 序====&lt;br /&gt;
今朝は新しいメッセージシリーズを始めますが、主のみこころであれば、4月19日の、イースターの日曜日の朝までつづくでしょう。では、私がどのようにこのシリーズを発展させたのかを説明することから、始めたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''見ることとは(その見ているものに)なること'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
説教という行為の中で、何が成されなければならないかを理解するとなると、私はいくつかの聖書箇所、特に2コリント3:18に導かれます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリストの似姿へと私たちが徐々に変えられていく方法の一つは、主の栄光を見ることであると、この箇所は教えていると信じます。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。」主のかたちに益々近づくには、主の栄光をしげしげと見つめ、主を絶えず見ることです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは好きな音楽を鼻歌で歌います。育った近辺のなまりで話します。親の礼儀作法を真似ます。そして自分の最もあこがれる人を自然と真似しがちになります。神も同じです。もし主にじっと目を注ぎ主の栄光を絶えず見つめるなら、栄光から栄光へ、私たちは主の似姿へと変えられていくのです。もし１０代の子たちが憧れのスターたちのように髪型を整える傾向があるのなら、クリスチャンは憧れの神のご性質を真似る傾向が出てくるのです。このような霊的な関わり合いで、見ることとは、ただ単に信じることではないのです。見ることとは、(その見ているものに)なることです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神の栄光を描写する説教'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここから私が教えられるのは、説教とは、その大部分が神の栄光の描写でなければならない、ということです。それは説教の目標が、人々を神の似姿に変えていくことにあるからです。これはパウロが説教をどのように見ているかにあてはまると思います。なぜなら4節後の2コリント4:4で、彼は自分の福音の内容を、「神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光」と、言い表しているからです。そしてその2節後の6節でも少し変えて、「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」と言い表しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので、パウロによると、説教とは、男女の暗い心に光を照らす手段です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4節で光は「福音の光」と呼ばれており、6節では「知識の光」 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; と呼ばれています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4節で福音とは、キリストの栄光の福音、6節では知識とは、神の栄光を知る知識です。ですから両節で、心に照らされた光とは栄光の光、キリストの栄光と神の栄光なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしこれらは二つの違った栄光ではありません。パウロは4節でそれを、神のかたちであられるキリストの栄光と言っています。そして6節では、神の栄光とは、神の御顔にある、と言っています。ですので説教によって照らされる光は栄光の光であり、神のかたちであられるキリストの栄光として、あるいはキリストに完璧に反映されている神の栄光として、この栄光を語っていいのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
説教とは、男女の心に対する、神の栄光の描写、表示、あるいは展示であり(それが4:4－4:6)、そうすれば、この栄光を見つめることによって、彼らが一つの栄光から次の栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくのです(それが3:18)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''体験から本当であると確信'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはうわべだけの、単なる知的解釈ではありません。これこそまさに、私が個人的に(多くの人たちと同じように!)体験して、本当であると確信したことです。神そのものを見ることこそ、聖さと主にある楽しみを追求するうえで、私にやる気を起こさせる、最も説得力のある力強いものであると、何度も証明されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皆さんも私も体験から良く知っていることですが、人の魂の葛藤の根源は、この世の栄光とそれがもたらすしばしの喜びと、それに対して神の栄光とそれがもたらす永遠の喜びの、この二つの栄光にあります。この二つの栄光は私たちの心の中で、忠誠と称賛、楽しみを獲得するために競い合うのです。そして説教の役割と言うのは、あなたが一つの栄光から次の栄光へと変えられていくよう、神の栄光を、最高の美であり価値のあるものとしてあなたの心に輝き照らすよう見せ、表現し、描き出すものなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''説教者が直面するチャレンジ'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
多くの人々が見て変えられていくには、どのようにして神の栄光を描くのが一番いいのだろうかと、説教者として私は絶えず自問させられます。2週間前静養先でその質問を自分に投げかけていた折り、新しい答えが思い浮かびました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その時私は、ヘンリー・スコウガルの、『人の魂にある神のいのち』の一部を再度読み返していました。彼は突き刺すようなコメントをします。「一つの魂の価値や美徳は、その愛の対象によって測られなければならない。」と（62ページ）。それは本当だと心を打たれました。そしてスコウガルが言おうとしたことが人にとって本当であるなら、それは神にとっても本当である、と思ったのです。「神の魂の価値や美徳は、ご自身の愛の対象によって測られなければならない」と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こで私は、神が愛され、楽しまれ、そのみこころにかない、好まれ、また喜ばれることが何であるかを教えてくれる箇所を求めて、数日間みことばを探りました。その結果が、「神の喜び」と題された13のメッセージを説教する計画です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでこれは私の祈りであり、また皆さんもご自分の祈りとしていただきたいのですが、神が喜ばれる対象を見ることによって、私たちが主の魂の美と価値を見ますように。そして主の魂の美と価値を見ることによって、私たちが主の栄光をみますように。そして主の栄光を見ることによって、私たちが一つの栄光から次の栄光へと、主の似姿に変えられていきますように。そして主の似姿に変えられることによって、偉大な、たまらなく魅力的な救い主の生き証人として、この街に、そして世界中の未踏の人々に、大胆に立ち向かうようになりますように。次の13週間を通して私たちが主を見、そして熱心に祈るところに、主が愛と聖と力の大きなリバイバルをお送りくださいますように。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 解説====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ご自身の愛の対象にある神のみ心の価値を描くには、私たちはまず最初に戻らなければなりません。神の喜びについて私たちが言える最も基本的なことは、神はご自身の御子をお喜びになる、ということです。5つの主張によって、この真理を明らかにしていこうと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1. 神はご自身の御子をお喜びになる'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
タイ17章で、イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネを高い山にお連れになります。彼らだけになったとき、驚くべきことが起こります。突然神が栄光のみ姿をイエスにお与えになるのです。2節、「御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」それから5節では、光り輝く雲が彼らを包み、神がその雲から語られます。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、神によって弟子たちは、イエスのまことの天の栄光を、ほんの一瞬垣間見ることができます。これがペテロが2ペテロ1:17で「キリストが父なる神から誉と栄光をお受けになった」と言うものです。それから神は御子にあるご自身のみこころをあらわされ、二つのことをおっしゃいます。「わたしは息子を愛している」（「これはわたしの愛する子」）、そして「わたしは息子を大いに喜んでいる」（「わたしはこれを喜ぶ」）と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主は同じことを別の場面の、イエスの受洗で、聖霊が下りイエスをその職務のために聖別し、み父の愛と後ろ盾の現れとして、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とおっしゃいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてヨハネによる福音書で、イエスはみ父の御子に対するご愛について数回お語りになります。たとえばヨハネ3:35、「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」ヨハネ5:20、「父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」(マタイ12:18でマタイがイエスに言及しているものとしてイザヤ42:1を引用している、「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。」の箇所もご参照ください。「喜ぶ」はヘブル語で*ratsah*で、「心にかなう」という意味です。)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ということで、父なる神は御子を、自己否定や犠牲的憐れみではなく、喜びと満足の愛を持って愛しておられる、というのが私たちの最初の告白です。主は御子を大いに喜んでおられるのです。御子は主のみこころにかなうのです!ご自分の御子を見るとき、見ているお方を主は楽しまれ、見惚れられ、大切にされ、尊重され、かみしめられるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 神の御子には神の満ち満ちたご性質がおありになる'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この真理は前述の真理について私たちが誤解しないよう助けてくれます。皆さんは、神は御子をお喜びになっているという言明に同意しておられるかも知れませんが、御子は、み父のみこころにかなったので養子にされた、ただ単なる並外れた聖人だと誤解するかも知れません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしコロサイ2:9では私たちはこれらを全く違う角度から見ることができます。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」神の御子はただ単に選ばれた人ではありません。神の満ち満ちたご性質がおありになるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それからコロサイ1:19ではこれを神の喜びと結びつけています。「満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、」あるいは（NIV訳と一緒に）「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、」 &amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; と言うことができるかも知れません。言い換えるなら、そうすることは神のみこころにかなったことだったのです。神はご自身の御旨にかなった人を探すため世界を見渡され、イエスをご自分の子として養子にされたのではありません。むしろ、神ご自身が率先してご自身の満ち満ちたご性質を、人となるという行為のうちに、人にお与えになったのです。あるいは主が率先して、神ご自身の満ち満ちたご性質の上に、人の性質をまとわれた、ということもできます。そしてコロサイ1:19では、主が喜んでそれをなされた、と言うのです。それは主の楽しみと喜びだったのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神はみこころにかなった御子を見つけられたのではなく、みこころにかなう御子にされた、と私たちは言いたくなるかも知れません。しかしそれもまた、誤解を招く恐れがあります。なぜならイエスのうちにこの形をとって宿る満ち満ちた神のご性質（コロサイ2:9）とは、イエスが人となられる以前に、すでにご人格のうちに存在していたからです。ここで私たちはさらに、三位一体の神に戻らなくてはなりません。第三の告白に移ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3. 神がお喜びになる御子は、神の永遠の似姿であり反映であり、それゆえ神ご自身であられる'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このコロサイ1:15でパウロは言います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です[つまり、以下の言葉があらわすように、すべての造られたものの上にある神の子であるという高い地位を持ち合わせたお方]。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
御子は神のかたちであられる。これはどういう意味でしょうか。答える前に、他の似たような称号を考えてみましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
へブル1:3では御子のことを以下のように言います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ピリピ2:6でパウロは言います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので神がお喜びになる御子は、神のかたちであられるのです。神ご自身の栄光を反映され、神のご性質そのもののかたちをお持ちになり、神のかたちそのままであられ、そして神と同格であられるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ使徒ヨハネがヨハネ1:1で以下のように言うとき、驚きではないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので神がお喜びになる御子は、つくられた、あるいは人となられる際にどこかで造られた、というのはまったく人を惑わせます。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」神が存在される限り、イエス・キリストのうちに人間性をとられた神の御子であられる神のことばは、存在するのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで神と同格であられるという主を、神の似姿、あるいは反映、型、現れ、と呼ぶ聖書の意味がより良くわかります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いにしえから絶えずあった現実は、神です。これは大変なミステリーです。なぜなら、神にはまったく始まりがなく、何からもあるいは誰からもそうされずに、そこに永遠にずっとずっとおられる―好むと好まざるとにかかわらず、私たちすべてが考えなければならない、まさに絶対不変の現実―というのは、私たちにとっては非常に理解しがたいからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書はこの永遠の神には絶えず、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ご自身の完全なみ姿がおありになり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ご自身の本質の完全な像がおありになり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ご自身のご性質の完全な型あるいはしるしがおありになり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ご自身のご栄光の完全な現れあるいは表現がおありになると、聖書は教えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはここで言い表すことができないようながけっぷちに立たされていますが、思い切って言うならば、これだけは言えるでしょう―神が神であられる限り、主はご自分を非常に意識しておられ、ご自身の生ける、ご人格の複製(あるいは子をもうけること)に関して、主が持っておられるご自身のイメージはまったく完璧、完全、そして十分なのです。この神の生ける、ご自身のイメージ、あるいは像、あるいは現れが、神、つまり、御子なる神です。そしてそれゆえ、御子なる神はみ父なる神と共に永遠であられ、ご栄光と本質において同格であられるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4. 神の御子にある喜びは、ご自身にある喜びである'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
御子が神の似姿、神の現れ、神のしるし、神のかたち、神と同格、そしてまさしく神ご自身であられるので、神の御子にある楽しみは、ご自身にある楽しみです。それゆえもともとの、根本の、もっとも深い、土台となる神の喜びは、御子に映し出された、ご自身の完全さにある喜びです。主は御子を愛され、御子を楽しまれ、御子をお喜びになります。それは御子ご自身が神であられるからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一見これは虚栄のようで、うぬぼれや気取りや身勝手さがあるように聞こえます。それはもし私たちのうちの誰かが、鏡の中の自分を見ることで初めて最も深い喜びを見出したとしたら、それこそその通りだからです。虚栄心が強くうぬぼれており気取って自己中心です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもなぜでしょう?それは私たちが、自己を熟視するより無限に優れた、壮大な、偉大な、そして深いもののために造られたからです。何でしょうか?神を熟視し楽しむことです!これ以外は偶像礼拝です。神こそすべてのものの中で最も輝かしいお方です。主を愛さないことと主を喜ばないことは、主のみ価値に対する最大の侮辱です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしそれは神にとっても同じです。神が無限に美しく輝かしいものを侮辱されるでしょうか?神が偶像礼拝をされるでしょうか?答えはただ一つです―神はすべてのもの以上にご自身の美しさと完璧さを愛し、喜ばなければならないのです。私たちがこれを鏡の前ですると、うぬぼれそのものです。神が御子のみ前でそれをされると、義そのものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義の本質とは、完璧に輝かしいものを完全に喜ぶことでなければならないのではないでしょうか?そして義の逆は、最高の愛情を小さいもの、あるいは無価値なものに注ぐ時を、言うのではないでしょうか?&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして神の義は、ご自身の価値と栄光にある、主の無限の熱心と喜びと楽しみです。そしてもし主がご自身の完璧さに対するこの永遠の熱心に反して行動されるなら、主は正しくないお方ということになり、偶像礼拝者ということになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここに私たちの救いの大きな障害があります―このような義なる神が、どうして私たちのような罪びとに愛情を注がれるのでしょうか?しかしここに、私たちの救いの真の基盤もあるのです。これこそまさしく、邪悪な罪人である私が御子にあって愛され受け入れられることを可能にする、み父が御子にもっておられる無限の高い評価です。なぜなら主は、私の罪を通してみ父のご栄光に対して犯したすべての侮辱と名誉棄損を、ご自身の死を通して修復してくださったからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の数週間でこのこと―いかにみ父のご自身の完全さにある無限の喜びが、私の贖いと希望と永遠の喜びの基盤であるか―を何度も見ていきます。今日はその初回です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第5番目の告白と最後の適用で終わります。もしスコウガルが言う、魂の価値と美徳は愛の対象(そして私はここで強調します)によって測られなければならないというのが正しいなら…&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5. 神はすべてのものの中で最も優れた価値あるお方である'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜでしょう?なぜなら主はご自身の栄光のかたちであられる御子を、永久に無限で完全な精力を持って愛しておられるからです。み父と御子と御霊の間を永久に流れている愛はなんと輝かしく幸いでしょう!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この偉大な神のみ前でおおのきましょう!そしてささいな恨み、はかない楽しみ、そして人生のつまらない探究をやめ、神の、ご自身の完全さの現れ、つまり御子、にある喜びに加わりましょう。祈りましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無限であられ、永遠であられ、そして義であられる神よ、あなたをしばしば軽くあしらい、御子のうちにあるあなただけのものである愛情の中心に、私たち自身をのし上げてきた罪を告白します。私たちの横柄な態度を悔い改め、三位一体の交わりのうちにある、あなたの永遠の独立自存の喜びの前に、喜んで恐れおののきます。そしてあなたの御子のみことば(ヨハネ17:26)にある、私たちの祈りは、御子を愛しておられるあなたの愛が私たちのうちにあり、御子が私たちのうちにおられますように。私たちがその喜びの交わりと愛の大海原の中に、永久に永遠に、いざなわれて行きますように。アーメン。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;hr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 日本聖書刊行会、新改訳聖書1970年版引用、脚注がない限り以下同様。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 「知識を輝かせて」(2コリ4:6、新改訳1970年版)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; コロ1:19、新共同訳1987年版引用&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 07 Dec 2018 20:53:06 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E5%96%9C%E3%81%B3</comments>		</item>
		<item>
			<title>神の御子にある喜び</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E5%96%9C%E3%81%B3</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|The Pleasure of God in His Son}}  マタイ17:5  &amp;gt; 「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt;  ==== 序==== 今朝は新し...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Pleasure of God in His Son}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マタイ17:5&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; 「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 序====&lt;br /&gt;
今朝は新しいメッセージシリーズを始めますが、主のみこころであれば、4月19日の、イースターの日曜日の朝までつづくでしょう。では、私がどのようにこのシリーズを発展させたのかを説明することから、始めたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''見ることとは(その見ているものに)なること'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
説教という行為の中で、何が成されなければならないかを理解するとなると、私はいくつかの聖書箇所、特に2コリント3:18に導かれます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリストの似姿へと私たちが徐々に変えられていく方法の一つは、主の栄光を見ることであると、この箇所は教えていると信じます。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。」主のかたちに益々近づくには、主の栄光をしげしげと見つめ、主を絶えず見ることです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは好きな音楽を鼻歌で歌います。育った近辺のなまりで話します。親の礼儀作法を真似ます。そして自分の最もあこがれる人を自然と真似しがちになります。神も同じです。もし主にじっと目を注ぎ主の栄光を絶えず見つめるなら、栄光から栄光へ、私たちは主の似姿へと変えられていくのです。もし１０代の子たちが憧れのスターたちのように髪型を整える傾向があるのなら、クリスチャンは憧れの神のご性質を真似る傾向が出てくるのです。このような霊的な関わり合いで、見ることとは、ただ単に信じることではないのです。見ることとは、(その見ているものに)なることです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神の栄光を描写する説教'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここから私が教えられるのは、説教とは、その大部分が神の栄光の描写でなければならない、ということです。それは説教の目標が、人々を神の似姿に変えていくことにあるからです。これはパウロが説教をどのように見ているかにあてはまると思います。なぜなら4節後の2コリント4:4で、彼は自分の福音の内容を、「神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光」と、言い表しているからです。そしてその2節後の6節でも少し変えて、「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」と言い表しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので、パウロによると、説教とは、男女の暗い心に光を照らす手段です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4節で光は「福音の光」と呼ばれており、6節では「知識の光」 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; と呼ばれています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4節で福音とは、キリストの栄光の福音、6節では知識とは、神の栄光を知る知識です。ですから両節で、心に照らされた光とは栄光の光、キリストの栄光と神の栄光なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしこれらは二つの違った栄光ではありません。パウロは4節でそれを、神のかたちであられるキリストの栄光と言っています。そして6節では、神の栄光とは、神の御顔にある、と言っています。ですので説教によって照らされる光は栄光の光であり、神のかたちであられるキリストの栄光として、あるいはキリストに完璧に反映されている神の栄光として、この栄光を語っていいのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
説教とは、男女の心に対する、神の栄光の描写、表示、あるいは展示であり(それが4:4－4:6)、そうすれば、この栄光を見つめることによって、彼らが一つの栄光から次の栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくのです(それが3:18)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''体験から本当であると確信'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはうわべだけの、単なる知的解釈ではありません。これこそまさに、私が個人的に(多くの人たちと同じように!)体験して、本当であると確信したことです。神そのものを見ることこそ、聖さと主にある楽しみを追求するうえで、私にやる気を起こさせる、最も説得力のある力強いものであると、何度も証明されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皆さんも私も体験から良く知っていることですが、人の魂の葛藤の根源は、この世の栄光とそれがもたらすしばしの喜びと、それに対して神の栄光とそれがもたらす永遠の喜びの、この二つの栄光にあります。この二つの栄光は私たちの心の中で、忠誠と称賛、楽しみを獲得するために競い合うのです。そして説教の役割と言うのは、あなたが一つの栄光から次の栄光へと変えられていくよう、神の栄光を、最高の美であり価値のあるものとしてあなたの心に輝き照らすよう見せ、表現し、描き出すものなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''説教者が直面するチャレンジ'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
多くの人々が見て変えられていくには、どのようにして神の栄光を描くのが一番いいのだろうかと、説教者として私は絶えず自問させられます。2週間前静養先でその質問を自分に投げかけていた折り、新しい答えが思い浮かびました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その時私は、ヘンリー・スコウガルの、『人の魂にある神のいのち』の一部を再度読み返していました。彼は突き刺すようなコメントをします。「一つの魂の価値や美徳は、その愛の対象によって測られなければならない。」と（62ページ）。それは本当だと心を打たれました。そしてスコウガルが言おうとしたことが人にとって本当であるなら、それは神にとっても本当である、と思ったのです。「神の魂の価値や美徳は、ご自身の愛の対象によって測られなければならない」と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こで私は、神が愛され、楽しまれ、そのみこころにかない、好まれ、また喜ばれることが何であるかを教えてくれる箇所を求めて、数日間みことばを探りました。その結果が、「神の喜び」と題された13のメッセージを説教する計画です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでこれは私の祈りであり、また皆さんもご自分の祈りとしていただきたいのですが、神が喜ばれる対象を見ることによって、私たちが主の魂の美と価値を見ますように。そして主の魂の美と価値を見ることによって、私たちが主の栄光をみますように。そして主の栄光を見ることによって、私たちが一つの栄光から次の栄光へと、主の似姿に変えられていきますように。そして主の似姿に変えられることによって、偉大な、たまらなく魅力的な救い主の生き証人として、この街に、そして世界中の未踏の人々に、大胆に立ち向かうようになりますように。次の13週間を通して私たちが主を見、そして熱心に祈るところに、主が愛と聖と力の大きなリバイバルをお送りくださいますように。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 解説====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ご自身の愛の対象にある神のみ心の価値を描くには、私たちはまず最初に戻らなければなりません。神の喜びについて私たちが言える最も基本的なことは、神はご自身の御子をお喜びになる、ということです。5つの主張によって、この真理を明らかにしていこうと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1. 神はご自身の御子をお喜びになる'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
タイ17章で、イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネを高い山にお連れになります。彼らだけになったとき、驚くべきことが起こります。突然神が栄光のみ姿をイエスにお与えになるのです。2節、「御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」それから5節では、光り輝く雲が彼らを包み、神がその雲から語られます。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、神によって弟子たちは、イエスのまことの天の栄光を、ほんの一瞬垣間見ることができます。これがペテロが2ペテロ1:17で「キリストが父なる神から誉と栄光をお受けになった」と言うものです。それから神は御子にあるご自身のみこころをあらわされ、二つのことをおっしゃいます。「わたしは息子を愛している」（「これはわたしの愛する子」）、そして「わたしは息子を大いに喜んでいる」（「わたしはこれを喜ぶ」）と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主は同じことを別の場面の、イエスの受洗で、聖霊が下りイエスをその職務のために聖別し、み父の愛と後ろ盾の現れとして、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とおっしゃいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてヨハネによる福音書で、イエスはみ父の御子に対するご愛について数回お語りになります。たとえばヨハネ3:35、「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」ヨハネ5:20、「父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」(マタイ12:18でマタイがイエスに言及しているものとしてイザヤ42:1を引用している、「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。」の箇所もご参照ください。「喜ぶ」はヘブル語で*ratsah*で、「心にかなう」という意味です。)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ということで、父なる神は御子を、自己否定や犠牲的憐れみではなく、喜びと満足の愛を持って愛しておられる、というのが私たちの最初の告白です。主は御子を大いに喜んでおられるのです。御子は主のみこころにかなうのです!ご自分の御子を見るとき、見ているお方を主は楽しまれ、見惚れられ、大切にされ、尊重され、かみしめられるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 神の御子には神の満ち満ちたご性質がおありになる'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この真理は前述の真理について私たちが誤解しないよう助けてくれます。皆さんは、神は御子をお喜びになっているという言明に同意しておられるかも知れませんが、御子は、み父のみこころにかなったので養子にされた、ただ単なる並外れた聖人だと誤解するかも知れません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしコロサイ2:9では私たちはこれらを全く違う角度から見ることができます。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」神の御子はただ単に選ばれた人ではありません。神の満ち満ちたご性質がおありになるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それからコロサイ1:19ではこれを神の喜びと結びつけています。「満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、」あるいは（NIV訳と一緒に）「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、」 &amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; と言うことができるかも知れません。言い換えるなら、そうすることは神のみこころにかなったことだったのです。神はご自身の御旨にかなった人を探すため世界を見渡され、イエスをご自分の子として養子にされたのではありません。むしろ、神ご自身が率先してご自身の満ち満ちたご性質を、人となるという行為のうちに、人にお与えになったのです。あるいは主が率先して、神ご自身の満ち満ちたご性質の上に、人の性質をまとわれた、ということもできます。そしてコロサイ1:19では、主が喜んでそれをなされた、と言うのです。それは主の楽しみと喜びだったのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神はみこころにかなった御子を見つけられたのではなく、みこころにかなう御子にされた、と私たちは言いたくなるかも知れません。しかしそれもまた、誤解を招く恐れがあります。なぜならイエスのうちにこの形をとって宿る満ち満ちた神のご性質（コロサイ2:9）とは、イエスが人となられる以前に、すでにご人格のうちに存在していたからです。ここで私たちはさらに、三位一体の神に戻らなくてはなりません。第三の告白に移ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3. 神がお喜びになる御子は、神の永遠の似姿であり反映であり、それゆえ神ご自身であられる'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このコロサイ1:15でパウロは言います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です[つまり、以下の言葉があらわすように、すべての造られたものの上にある神の子であるという高い地位を持ち合わせたお方]。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
御子は神のかたちであられる。これはどういう意味でしょうか。答える前に、他の似たような称号を考えてみましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
へブル1:3では御子のことを以下のように言います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ピリピ2:6でパウロは言います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので神がお喜びになる御子は、神のかたちであられるのです。神ご自身の栄光を反映され、神のご性質そのもののかたちをお持ちになり、神のかたちそのままであられ、そして神と同格であられるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ使徒ヨハネがヨハネ1:1で以下のように言うとき、驚きではないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので神がお喜びになる御子は、つくられた、あるいは人となられる際にどこかで造られた、というのはまったく人を惑わせます。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」神が存在される限り、イエス・キリストのうちに人間性をとられた神の御子であられる神のことばは、存在するのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで神と同格であられるという主を、神の似姿、あるいは反映、型、現れ、と呼ぶ聖書の意味がより良くわかります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いにしえから絶えずあった現実は、神です。これは大変なミステリーです。なぜなら、神にはまったく始まりがなく、何からもあるいは誰からもそうされずに、そこに永遠にずっとずっとおられる―好むと好まざるとにかかわらず、私たちすべてが考えなければならない、まさに絶対不変の現実―というのは、私たちにとっては非常に理解しがたいからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書はこの永遠の神には絶えず、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ご自身の完全なみ姿がおありになり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ご自身の本質の完全な像がおありになり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ご自身のご性質の完全な型あるいはしるしがおありになり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ご自身のご栄光の完全な現れあるいは表現がおありになると、聖書は教えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはここで言い表すことができないようながけっぷちに立たされていますが、思い切って言うならば、これだけは言えるでしょう―神が神であられる限り、主はご自分を非常に意識しておられ、ご自身の生ける、ご人格の複製(あるいは子をもうけること)に関して、主が持っておられるご自身のイメージはまったく完璧、完全、そして十分なのです。この神の生ける、ご自身のイメージ、あるいは像、あるいは現れが、神、つまり、御子なる神です。そしてそれゆえ、御子なる神はみ父なる神と共に永遠であられ、ご栄光と本質において同格であられるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4. 神の御子にある喜びは、ご自身にある喜びである'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
御子が神の似姿、神の現れ、神のしるし、神のかたち、神と同格、そしてまさしく神ご自身であられるので、神の御子にある楽しみは、ご自身にある楽しみです。それゆえもともとの、根本の、もっとも深い、土台となる神の喜びは、御子に映し出された、ご自身の完全さにある喜びです。主は御子を愛され、御子を楽しまれ、御子をお喜びになります。それは御子ご自身が神であられるからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一見これは虚栄のようで、うぬぼれや気取りや身勝手さがあるように聞こえます。それはもし私たちのうちの誰かが、鏡の中の自分を見ることで初めて最も深い喜びを見出したとしたら、それこそその通りだからです。虚栄心が強くうぬぼれており気取って自己中心です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもなぜでしょう?それは私たちが、自己を熟視するより無限に優れた、壮大な、偉大な、そして深いもののために造られたからです。何でしょうか?神を熟視し楽しむことです!これ以外は偶像礼拝です。神こそすべてのものの中で最も輝かしいお方です。主を愛さないことと主を喜ばないことは、主のみ価値に対する最大の侮辱です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしそれは神にとっても同じです。神が無限に美しく輝かしいものを侮辱されるでしょうか?神が偶像礼拝をされるでしょうか?答えはただ一つです―神はすべてのもの以上にご自身の美しさと完璧さを愛し、喜ばなければならないのです。私たちがこれを鏡の前ですると、うぬぼれそのものです。神が御子のみ前でそれをされると、義そのものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義の本質とは、完璧に輝かしいものを完全に喜ぶことでなければならないのではないでしょうか?そして義の逆は、最高の愛情を小さいもの、あるいは無価値なものに注ぐ時を、言うのではないでしょうか?&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして神の義は、ご自身の価値と栄光にある、主の無限の熱心と喜びと楽しみです。そしてもし主がご自身の完璧さに対するこの永遠の熱心に反して行動されるなら、主は正しくないお方ということになり、偶像礼拝者ということになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここに私たちの救いの大きな障害があります―このような義なる神が、どうして私たちのような罪びとに愛情を注がれるのでしょうか?しかしここに、私たちの救いの真の基盤もあるのです。これこそまさしく、邪悪な罪人である私が御子にあって愛され受け入れられることを可能にする、み父が御子にもっておられる無限の高い評価です。なぜなら主は、私の罪を通してみ父のご栄光に対して犯したすべての侮辱と名誉棄損を、ご自身の死を通して修復してくださったからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の数週間でこのこと―いかにみ父のご自身の完全さにある無限の喜びが、私の贖いと希望と永遠の喜びの基盤であるか―を何度も見ていきます。今日はその初回です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第5番目の告白と最後の適用で終わります。もしスコウガルが言う、魂の価値と美徳は愛の対象(そして私はここで強調します)によって測られなければならないというのが正しいなら…&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5. 神はすべてのものの中で最も優れた価値あるお方である'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜでしょう?なぜなら主はご自身の栄光のかたちであられる御子を、永久に無限で完全な精力を持って愛しておられるからです。み父と御子と御霊の間を永久に流れている愛はなんと輝かしく幸いでしょう!&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この偉大な神のみ前でおおのきましょう!そしてささいな恨み、はかない楽しみ、そして人生のつまらない探究をやめ、神の、ご自身の完全さの現れ、つまり御子、にある喜びに加わりましょう。祈りましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無限であられ、永遠であられ、そして義であられる神よ、あなたをしばしば軽くあしらい、御子のうちにあるあなただけのものである愛情の中心に、私たち自身をのし上げてきた罪を告白します。私たちの横柄な態度を悔い改め、三位一体の交わりのうちにある、あなたの永遠の独立自存の喜びの前に、喜んで恐れおののきます。そしてあなたの御子のみことば(ヨハネ17:26)にある、私たちの祈りは、御子を愛しておられるあなたの愛が私たちのうちにあり、御子が私たちのうちにおられますように。私たちがその喜びの交わりと愛の大海原の中に、永久に永遠に、いざなわれて行きますように。アーメン。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;hr&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 日本聖書刊行会、新改訳聖書1970年版引用、脚注がない限り以下同様。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 「知識を輝かせて」(2コリ4:6、新改訳1970年版)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; コロ1:19、新共同訳1987年版引用&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 07 Dec 2018 20:52:24 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E5%96%9C%E3%81%B3</comments>		</item>
		<item>
			<title>最悪の時に希望をもって子育てをする</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%9C%80%E6%82%AA%E3%81%AE%E6%99%82%E3%81%AB%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「最悪の時に希望をもって子育てをする」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Parenting with Hope in the Worst of Times}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようになった。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない。2 敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕えようとする。3 彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人は物を求め、さばきつかさは報酬に応じてさばき、有力者は自分の欲するままを語り、こうして事を曲げている。4 彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; あなたの刑罰の日が、あなたを見張る者の日が来る。今、彼らに混乱が起きる。5 友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。6 息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 7 しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。8私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。9 私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。10 それで、私に向かい、「あなたの神、主は、どこにいるのか。」と言った私の敵は、これを見て恥に包まれる。私もこの目で敵をながめる。今、敵は道の泥のように踏みにじられる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 11 あなたの石垣を立て直す日、その日、国境が広げられる。12 その日、アッシリヤからエジプトまで、エジプトから大川まで、海から海まで、山から山まで、人々はあなたのところに来る。13 しかし、その地は荒れ果てる。そこに住んでいた者たちのゆえに。これが彼らの行ないの結んだ実である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 14 どうか、あなたの杖で、あなたの民、あなたご自身のものである羊を飼ってください。彼らは林の中、果樹園の中に、ひとり離れて住んでいます。彼らが昔の日のように、バシャンとギルアデで草をはむようにしてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 15 「あなたがエジプトの国から出た日のように、わたしは奇しいわざを彼に見せよう。」16 異邦の民も見て、自分たちのすべての力を恥じ、手を口に当て、彼らの耳は聞こえなくなりましょう。17 彼らは、蛇のように、地をはうもののように、ちりをなめ、震えながら彼らのとりでから、私たちの神、主のみもとに出て来て、わなないて、あなたを恐れましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。19 もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。20 昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日は霊的子育てについてのシリーズを完結します。この最後のメッセージに選んだタイトルは、「最悪の時に希望をもって子育てをする」です。子どもを生み育てるのに簡単な時などありません。創世記3章のポイントは、罪がこの世に入ったとたん、出産と子育てがとても難しくなったということです。主はエバに、「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない」と言われました(創世記3:16)。彼女とアダムが二人の男児を育てた後、その子の一人がもう片方を殺すのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 自由になる唯一の方法  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その話のポイントは、今や罪がこの世に、すべての親とすべての子のうちにある、ということです。そしてこれが罪の成せるわざのようなものです。それは人を破壊し、家族を崩壊させます。この世の主な問題は、内在の罪の力です。そしてそれは事実、力です。人間の魂の力であり欠陥、堕落、腐敗です。それは一連の自由意思による選択ではありません。罪は人の自由を破壊する、強力な束縛です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人が、親が、あるいは子が自由となる唯一の方法は、神の霊によって新しく生まれ変わり、イエス･キリストを救い主として受け入れ、全世界の創造主によって罪赦され、罪の力に対し唯一の対抗勢力としての聖霊を受けることです。それのみがこの世にとって、親と子にとって、唯一の希望です。これはどの時代においても真実です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 子育てに簡単な時はない  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから子どもを謙遜で、愛があり、正しく、創造豊かで、生産的で、キリストをあがめる大人へと生み育てるのに、簡単な時はありません。簡単な時などないのです。時には他よりさらに大変な時もあります。でもそれが大変であるかないかは、あなたの置かれた個人的環境や社会的環境によります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日の私の願いは、最悪の環境のうちにある親御さんを、希望をもってお助けすることです。[最悪の環境というのは]家庭での最悪の環境、また文化での最悪の環境を言います。そして親ではない方々にも、私が言うことすべては適用されます。それは最悪の時に希望を持つ方法は、誰にとっても同じだからです。私たちはそれを違った理由で必要とします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 預言者ミカ  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ユダヤ人の預言者ミカは、ユダの王、ヨタム、アハズ、ヘゼキヤが在位した時代に、説教しました(ミカ1:1)。それは大体紀元前750から687年です。彼がその場面に来たその理由のはっきりとした説明が、ミカ3:8に見られます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち&amp;lt;br&amp;gt; ヤコブにはそのそむきの罪を、&amp;lt;br&amp;gt; イスラエルにはその罪を告げよう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== さばきと憐れみの宣告  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は人々に彼らの罪をはっきりさせるため、預言者たちを遣わされました。そしてその罪をもって、預言者たちはさばきを宣告し、憐れみを宣告しました。さばきと憐れみーこれは聖書を通して一貫しています。さばきと憐れみ。神は聖く、義であられ、罪深い人々にさばきをくだされます。そして神は憐れみ深く忍耐深く、また情け深く、罪深い人々をご自身のさばきから救われます。ミカはこれをミカ4:10で明確にします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; シオンの娘よ。 子を産む女のように、身もだえし、もがき回れ。 今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンまで行く。 そこであなたは救われる。 そこで主はあなたを敵の手から贖われる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主は彼らをさばきのうちにバビロンに送られます。そして主は憐れみのうちに、彼らを彼らの地に連れ戻されます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 処罰はやって来る  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7章で、ミカは最悪の時の子育て、つまり、家庭において最悪の時、文化において最悪の時について言及します。1節、「ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようになった。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない。」彼は自分がいかに食べ物に貧窮しているかを語っているかも知れません。でも私は、彼が比喩的に、敬虔な友や同僚が貧窮している状態を語っているのではないかと思います。なぜなら彼は2―3節で、「敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕えようとする。彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人は物を求め、さばきつかさは報酬に応じてさばき、有力者は自分の欲するままを語り、こうして事を曲げている」と言うからです。有力者は腐敗しています。彼らはできる限りの悪を企て(「練り上げ」)、上手にそれをやってのけるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4節、「彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。」もしミカが彼らに近づこうとすると、とげが刺さるのです。「あなたの刑罰の日が、あなたを見張る者の日が来る。今、彼らに混乱が起きる。」それゆえ敵がやって来ないかどうかを見るために任命された見張り役の日は近づいています。処罰がやって来るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 妻と子どもたちでさえも  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ミカはそれを文化から近所とそして家族に持って来ます。5節、「友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。」言い換えると、罪と腐敗と偽りは、気をつけないといけないほどまん延しており、自分の妻、つまり「あなたのふところに寝る者」、も自分を裏切りかねないほどである、と言うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは子どもたちです。6節、「息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。」5人の違った人たちがこの絵の中にいます。父親と母親。息子と娘。そして嫁です。ということは、息子は結婚しています。ミカはすでに、夫と妻の間の事がらも定かではないと言っています(「あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ」)。そしてここでは彼は息子が父親に対抗して立ち上がると言います。娘は母親に対抗して立ち上がり、嫁は娘の肩を持ち、しゅうとめに逆らうと。ミカは彼らを人の敵と呼びます。6節の終わり、「それぞれ自分の家の者を敵としている。」彼は特に息子たちに関して言及しているのです。娘たちは父親の妻に恨みを集中させているようです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは痛ましい光景です。中にはまさにこのような状況に置かれている人もいるでしょう。これは最悪の時です。文化は腐敗しており、結婚生活と家族は危険にさらされています。それがミカ7章の描くものです。皆さんの中には、それが今日描く自分の生活です。他の者にとっては、明日それがやって来ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様がこれをもたらされた?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この状況の中でミカの希望に注意を向ける前に、イエス様がこの6節の家族の肖像で何を成されるかを皆さんに見ていただきたいと思います。マタイ10:34―36を開いてください。イエスさまはご自身の来臨の結果を説明されます。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。[それから主はミカ7:６節を引用されます。]なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが[7節で登場する]同じ5人、あなたの家庭での敵に言及したものと同じものですが、一つだけ際立った違いがあります。イエス様がそれをもたらされたと言われるのです。35節、「わたしは人をその父に、･･･逆らわせるために来たからです。」主はもちろんのこと、家族を崩壊させることを好んでおられるわけではありません。主の弟子訓練の究極の召しが家族関係を破壊すると言っておられるのです。一人が信じ、他の一人は信じません。父親がイエス様に従い、息子は従いません。息子がイエス様に従い、父親は従いません。娘がイエス様に従い、母親は従わないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜイエス様はここに登場されるのでしょうか?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでの図のなかにイエス様を持ち込んだ理由は、まず第一に、ミカの時代の家族の崩壊は、必ずしも家族の腐敗が原因ではない、ということを示すためです。それは家族の中の義が原因かも知れません。誰かが神について、主の契約、そして主の御言葉について真剣になるまで、家庭内ですべてのことがスムーズに運んでいたかも知れません。そして責め合いが始まるのです。「信心深くなって、自分が他の人より良いと思っているんだろう!すべてうまく行っていたのに、今じゃ俺たち残りの者が正さなきゃいけないと思ってるんだろう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様がこのミカの聖句を引用さる別の理由は、それはミカの時代もユニークなことは一切無い、ということを示すためです。それは紀元前8世紀にその通りでした。それは紀元1世紀にもその通りでした。そしてこの21世紀でもそれは同様です。それはたとえあなたにとってそうでなくとも、誰かにとっては最悪の時なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それではミカは、最悪の時の子育てで希望を持つことについて、何を言わんとしているのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ミカが言おうとしていることーへりくだって大胆に  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は恐らく父親の代表として、またイスラエル人の代表として自分を描き、そしてへりくだって大胆な姿勢を取ります。それが私が最悪の時の子育てについてあなたにお伝えしたいことの本質です。へりくだって大胆な姿勢で子育てをしてください。「へりくだって」と言うのと、「大胆に」と言うのを皆さんが理解できるよう、質問させてください。彼は何についてへりくだっているのでしょうか?そして彼がそんなに大胆でいられるその根拠は何でしょう?その二つの質問の答えを得るため、7―9節を見てみましょう。彼は何についてヘりくだっているのでしょうか?そして彼がそんなに大胆でいられるその根拠は一体何でしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 己の義ではない  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
６節で「それぞれ自分の家の者を敵としている」と言ったそのすぐ後で、彼は7節で、「しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる」と言います。ですから私たちは最悪の時に、主を仰ぎ見ます。他のところを見よう[頼ろう]としたことがあるかも知れません。何をやってもダメです。すべてが崩れます。私たちは自分で家族[関係]がうまく行かせることができるはずだと思っていました。この子達は自分の力で、自分が選ぶどんなかたちにでも形作ることができるはずだと。結婚に関するいい本さえあれば、相互の深い信頼と尊敬と称賛と愛情を手に入れることができるはずだと。そして今です。今では私たちは主を仰ぎ見ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも気をつけてください。ミカは己の善を主に見ているでしょうか?そのようなものは可能です。彼は、「私は正しいことのすべて、父親がすべきすべてのことをした。もしこの家族がうまくいっていないとしたら、心は痛むが、私が問題なのではない。彼らだ。」それがこの人の姿勢でしょうか?いいえ、違います。そしてそれはあなたの姿勢でもないことを願います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 罪を犯されているけれども、自分の罪をも自覚する  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8、9節で彼が言うことに耳を傾けてください。大胆で、へりくだらされていることに耳を傾けてください。なぜ彼はへりくだらされているのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9節の冒頭を見逃さないでください。「私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。」配偶者や親たちがこれを見るのはとても重要です。それは、彼が、罪を実際に犯されている文脈の中でそれを言っているからです。8節で、彼は自分の敵(恐らく息子や妻でしょう)に、「私の敵。私のことで喜ぶな。」と言います。いい気味だと思うなと。そして9節の半ばで、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださると言います。「主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、彼は自分が罪を犯されていることを知っているのです。彼らの非難の中には間違ったものもあると言うことを知っています。彼は神が彼の敵ではなく、味方であられると言うことを知っています。神が彼を暗闇から光に導いて下さいます。彼に義を見させて下さいます。彼はこの確信と断言で大胆なのです。驚くほど大胆です。それにも関わらず、主のみ怒りと自分自身の暗闇を説明するために私たちの注意を引くのは、自分自身の罪です。「私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜそんなにへりくだらされているのか?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ彼はそんなにへりくだらされているのか、という質問に対する私の答えは、以下の通りです。それは彼が主に家庭内で罪を犯されているからではなく、彼自身が罪を犯すことにあります。最悪の時に希望を持って子育てをする姿勢は、へりくだらされた大胆さの姿勢です。へりくだらされているのは、まず何よりも、自分自身の罪のためで、そしてそうすることで初めて、罪を犯されていることのために、へりくだらされるのです。これが私たちが直面する大きな格闘なのです。神の恵みにより、自分の家族と自分自身をそのように見ることができるようなへりくだった姿勢を、私たちは探し出すことが出来るでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜそんなに大胆なのか?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二つ目の質問は、もし罪を犯して来たのなら、なぜ彼はそんなに大胆でいられるのか?と言うものです。自分の罪が頭の中でそんなに顕著であるのに、なぜ彼はそのように語ることができるのでしょうか?このような大胆さはどこから来ているのでしょう?「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。･･･主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
答えは7章の最後にあります。そしてその答えがこのミカ書の最後として出てくるあたり、またそれがそのように強調されていること自体、それがこの書、事実、聖書全体で、最も重要であることを示しています。18―19節、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ミカが打ちひしがれた中でそんなに大胆でいられるのは、彼が神を知っているからです。彼は神の一体何が素晴らしくユニークであるのかを知っています。「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか?」それは、あなたのような神は他にはない、と言っています。「あなたの道は私たちの道よりはるかに高いです。あなたの道はこの世のいかなる神々よりも高いです。あなたがユニークなのは何でしょう?それはあなたがご自身の民の咎を赦され、そむきの罪を見逃されることです。」それが聖書の神固有のユニークさです。そしてこの神以外に他に神はありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の赦しで深く進む  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それではあなたが、最悪の時にどのように希望を持って子育てをするのでしょうか?自分の家族が３対２、また２対３で分裂しているかも知れない時に、どのように希望を持って子育てをするのでしょうか?あなたは主を仰ぎ見るのです。主に叫び求めるのです(7節)。そして二つの深い確信を持って、主に叫び求めるのです。その一つは、あなたが罪人であり、一切のものを神から受けるに値しない者ということです。私たちは完璧な親ではありません。罪を犯してきました。私たちはそんなに愚かでも、うぶでもありません。自分が罪を犯されて来たことを知っています。でも私たちの肉のすべてがそれだけを考えようとします。聖霊だけが、私たちに自分自身の罪を見させることがおできになります。聖霊だけが、私たちに自分自身のあやまちの重さを感じさせることがおできになります。それが深い確信の一つです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つは私たちの神のように、咎を赦され、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみをお喜びになるお方は、他にはいない、と言うものです。私たちは自分の伴侶たちに罪を犯して来、子どもたちに罪を犯して来、そしてこれらすべてのことにおいて、神に対し罪を犯して来たということを、このことを確信するのと同じように、確信しています。その両者とも非常に重要である、両者がどのように一緒になって作用するのか、一方がもう一方を可能な限り深めている、というのが見えますか? もしあなたが自分の罪とあやまちの重さを感じることがなければ、神の赦しに深く進むことはありません。でもそれは逆でも同じです。もしあなたが神の赦しを知らなければ、自分自身の罪を深く掘り下げることはありませんーそしてこれは家庭内でとても重要です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この二つの深い確信はへりくだらされた大胆さという姿勢を生み出します。そしてそれが最悪の時に希望を持って子育てをする姿勢です。罪を犯される渦の中で自分自身の罪にへりくだり、そして大胆に、それは「あなたのように赦しの神が他にいるでしょうか!」だからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== へりくだらされた大胆さ—イエス様のうちにあって増す  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてクリスチャンにとって、この半々の姿勢は、イエス･キリストと、主が私たちのために十字架上で何をして下さったかを知ることで根ざし、また増します。ミカにとって、イエス様は5節ではただの希望でした。「ベツレヘム・エフラテよ。･･･あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。･･･彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、･･･」(ミカ5:2、4)。この良い羊飼いはご自身の羊のためにいのちをお捨てになりました(ヨハネ10:11)。そして主がご自身をお捨てになったとき、私たちはそれまで以上にはっきりと、私たちの罪の深さ(それは主の苦しみの度合いを要求しました)と、神がその罪を赦すことで解決されたその偉大さを知りました。それゆえ、へりくだりと大胆さは増すのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからもしあなたが最悪の時に子育てをしておられるのなら、あるいは最悪の時の子育ての準備をしたいと思っておられるなら、または、単純に最悪の時に希望が欲しいと思っておられるのなら、ミカを見て、イエス様を見て、そしてこの姿勢、自分自身の罪のゆえのへりくだり、またキリストのゆえの大胆さを取ってください。それから聖霊の力によって、イエス様のために、できる限り最高の、不完全な親になろうと心に決めてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 24 Jul 2018 20:30:09 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%9C%80%E6%82%AA%E3%81%AE%E6%99%82%E3%81%AB%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>最悪の時に希望をもって子育てをする</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%9C%80%E6%82%AA%E3%81%AE%E6%99%82%E3%81%AB%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|Parenting with Hope in the Worst of Times}}   &amp;amp;gt; ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Parenting with Hope in the Worst of Times}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようになった。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない。2 敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕えようとする。3 彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人は物を求め、さばきつかさは報酬に応じてさばき、有力者は自分の欲するままを語り、こうして事を曲げている。4 彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; あなたの刑罰の日が、あなたを見張る者の日が来る。今、彼らに混乱が起きる。5 友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。6 息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 7 しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。8私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。9 私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。10 それで、私に向かい、「あなたの神、主は、どこにいるのか。」と言った私の敵は、これを見て恥に包まれる。私もこの目で敵をながめる。今、敵は道の泥のように踏みにじられる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 11 あなたの石垣を立て直す日、その日、国境が広げられる。12 その日、アッシリヤからエジプトまで、エジプトから大川まで、海から海まで、山から山まで、人々はあなたのところに来る。13 しかし、その地は荒れ果てる。そこに住んでいた者たちのゆえに。これが彼らの行ないの結んだ実である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 14 どうか、あなたの杖で、あなたの民、あなたご自身のものである羊を飼ってください。彼らは林の中、果樹園の中に、ひとり離れて住んでいます。彼らが昔の日のように、バシャンとギルアデで草をはむようにしてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 15 「あなたがエジプトの国から出た日のように、わたしは奇しいわざを彼に見せよう。」16 異邦の民も見て、自分たちのすべての力を恥じ、手を口に当て、彼らの耳は聞こえなくなりましょう。17 彼らは、蛇のように、地をはうもののように、ちりをなめ、震えながら彼らのとりでから、私たちの神、主のみもとに出て来て、わなないて、あなたを恐れましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。19 もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。20 昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日は霊的子育てについてのシリーズを完結します。この最後のメッセージに選んだタイトルは、「最悪の時に希望をもって子育てをする」です。子どもを生み育てるのに簡単な時などありません。創世記3章のポイントは、罪がこの世に入ったとたん、出産と子育てがとても難しくなったということです。主はエバに、「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない」と言われました(創世記3:16)。彼女とアダムが二人の男児を育てた後、その子の一人がもう片方を殺すのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 自由になる唯一の方法  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その話のポイントは、今や罪がこの世に、すべての親とすべての子のうちにある、ということです。そしてこれが罪の成せるわざのようなものです。それは人を破壊し、家族を崩壊させます。この世の主な問題は、内在の罪の力です。そしてそれは事実、力です。人間の魂の力であり欠陥、堕落、腐敗です。それは一連の自由意思による選択ではありません。罪は人の自由を破壊する、強力な束縛です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人が、親が、あるいは子が自由となる唯一の方法は、神の霊によって新しく生まれ変わり、イエス･キリストを救い主として受け入れ、全世界の創造主によって罪赦され、罪の力に対し唯一の対抗勢力としての聖霊を受けることです。それのみがこの世にとって、親と子にとって、唯一の希望です。これはどの時代においても真実です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 子育てに簡単な時はない  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから子どもを謙遜で、愛があり、正しく、創造豊かで、生産的で、キリストをあがめる大人へと生み育てるのに、簡単な時はありません。簡単な時などないのです。時には他よりさらに大変な時もあります。でもそれが大変であるかないかは、あなたの置かれた個人的環境や社会的環境によります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日の私の願いは、最悪の環境のうちにある親御さんを、希望をもってお助けすることです。[最悪の環境というのは]家庭での最悪の環境、また文化での最悪の環境を言います。そして親ではない方々にも、私が言うことすべては適用されます。それは最悪の時に希望を持つ方法は、誰にとっても同じだからです。私たちはそれを違った理由で必要とします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 預言者ミカ  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ユダヤ人の預言者ミカは、ユダの王、ヨタム、アハズ、ヘゼキヤが在位した時代に、説教しました(ミカ1:1)。それは大体紀元前750から687年です。彼がその場面に来たその理由のはっきりとした説明が、ミカ3:8に見られます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち&amp;lt;br&amp;gt; ヤコブにはそのそむきの罪を、&amp;lt;br&amp;gt; イスラエルにはその罪を告げよう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== さばきと憐れみの宣告  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は人々に彼らの罪をはっきりさせるため、預言者たちを遣わされました。そしてその罪をもって、預言者たちはさばきを宣告し、憐れみを宣告しました。さばきと憐れみーこれは聖書を通して一貫しています。さばきと憐れみ。神は聖く、義であられ、罪深い人々にさばきをくだされます。そして神は憐れみ深く忍耐深く、また情け深く、罪深い人々をご自身のさばきから救われます。ミカはこれをミカ4:10で明確にします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; シオンの娘よ。 子を産む女のように、身もだえし、もがき回れ。 今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンまで行く。 そこであなたは救われる。 そこで主はあなたを敵の手から贖われる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主は彼らをさばきのうちにバビロンに送られます。そして主は憐れみのうちに、彼らを彼らの地に連れ戻されます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 処罰はやって来る  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7章で、ミカは最悪の時の子育て、つまり、家庭において最悪の時、文化において最悪の時について言及します。1節、「ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようになった。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない。」彼は自分がいかに食べ物に貧窮しているかを語っているかも知れません。でも私は、彼が比喩的に、敬虔な友や同僚が貧窮している状態を語っているのではないかと思います。なぜなら彼は2―3節で、「敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕えようとする。彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人は物を求め、さばきつかさは報酬に応じてさばき、有力者は自分の欲するままを語り、こうして事を曲げている」と言うからです。有力者は腐敗しています。彼らはできる限りの悪を企て(「練り上げ」)、上手にそれをやってのけるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4節、「彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。」もしミカが彼らに近づこうとすると、とげが刺さるのです。「あなたの刑罰の日が、あなたを見張る者の日が来る。今、彼らに混乱が起きる。」それゆえ敵がやって来ないかどうかを見るために任命された見張り役の日は近づいています。処罰がやって来るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 妻と子どもたちでさえも  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ミカはそれを文化から近所とそして家族に持って来ます。5節、「友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。」言い換えると、罪と腐敗と偽りは、気をつけないといけないほどまん延しており、自分の妻、つまり「あなたのふところに寝る者」、も自分を裏切りかねないほどである、と言うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは子どもたちです。6節、「息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。」5人の違った人たちがこの絵の中にいます。父親と母親。息子と娘。そして嫁です。ということは、息子は結婚しています。ミカはすでに、夫と妻の間の事がらも定かではないと言っています(「あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ」)。そしてここでは彼は息子が父親に対抗して立ち上がると言います。娘は母親に対抗して立ち上がり、嫁は娘の肩を持ち、しゅうとめに逆らうと。ミカは彼らを人の敵と呼びます。6節の終わり、「それぞれ自分の家の者を敵としている。」彼は特に息子たちに関して言及しているのです。娘たちは父親の妻に恨みを集中させているようです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは痛ましい光景です。中にはまさにこのような状況に置かれている人もいるでしょう。これは最悪の時です。文化は腐敗しており、結婚生活と家族は危険にさらされています。それがミカ7章の描くものです。皆さんの中には、それが今日描く自分の生活です。他の者にとっては、明日それがやって来ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様がこれをもたらされた?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この状況の中でミカの希望に注意を向ける前に、イエス様がこの6節の家族の肖像で何を成されるかを皆さんに見ていただきたいと思います。マタイ10:34―36を開いてください。イエスさまはご自身の来臨の結果を説明されます。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。[それから主はミカ7:６節を引用されます。]なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが[7節で登場する]同じ5人、あなたの家庭での敵に言及したものと同じものですが、一つだけ際立った違いがあります。イエス様がそれをもたらされたと言われるのです。35節、「わたしは人をその父に、･･･逆らわせるために来たからです。」主はもちろんのこと、家族を崩壊させることを好んでおられるわけではありません。主の弟子訓練の究極の召しが家族関係を破壊すると言っておられるのです。一人が信じ、他の一人は信じません。父親がイエス様に従い、息子は従いません。息子がイエス様に従い、父親は従いません。娘がイエス様に従い、母親は従わないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜイエス様はここに登場されるのでしょうか?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでの図のなかにイエス様を持ち込んだ理由は、まず第一に、ミカの時代の家族の崩壊は、必ずしも家族の腐敗が原因ではない、ということを示すためです。それは家族の中の義が原因かも知れません。誰かが神について、主の契約、そして主の御言葉について真剣になるまで、家庭内ですべてのことがスムーズに運んでいたかも知れません。そして責め合いが始まるのです。「信心深くなって、自分が他の人より良いと思っているんだろう!すべてうまく行っていたのに、今じゃ俺たち残りの者が正さなきゃいけないと思ってるんだろう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様がこのミカの聖句を引用さる別の理由は、それはミカの時代もユニークなことは一切無い、ということを示すためです。それは紀元前8世紀にその通りでした。それは紀元1世紀にもその通りでした。そしてこの21世紀でもそれは同様です。それはたとえあなたにとってそうでなくとも、誰かにとっては最悪の時なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それではミカは、最悪の時の子育てで希望を持つことについて、何を言わんとしているのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ミカが言おうとしていることーへりくだって大胆に  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は恐らく父親の代表として、またイスラエル人の代表として自分を描き、そしてへりくだって大胆な姿勢を取ります。それが私が最悪の時の子育てについてあなたにお伝えしたいことの本質です。へりくだって大胆な姿勢で子育てをしてください。「へりくだって」と言うのと、「大胆に」と言うのを皆さんが理解できるよう、質問させてください。彼は何についてへりくだっているのでしょうか?そして彼がそんなに大胆でいられるその根拠は何でしょう?その二つの質問の答えを得るため、7―9節を見てみましょう。彼は何についてヘりくだっているのでしょうか?そして彼がそんなに大胆でいられるその根拠は一体何でしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 己の義ではない  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
６節で「それぞれ自分の家の者を敵としている」と言ったそのすぐ後で、彼は7節で、「しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる」と言います。ですから私たちは最悪の時に、主を仰ぎ見ます。他のところを見よう[頼ろう]としたことがあるかも知れません。何をやってもダメです。すべてが崩れます。私たちは自分で家族[関係]がうまく行かせることができるはずだと思っていました。この子達は自分の力で、自分が選ぶどんなかたちにでも形作ることができるはずだと。結婚に関するいい本さえあれば、相互の深い信頼と尊敬と称賛と愛情を手に入れることができるはずだと。そして今です。今では私たちは主を仰ぎ見ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも気をつけてください。ミカは己の善を主に見ているでしょうか?そのようなものは可能です。彼は、「私は正しいことのすべて、父親がすべきすべてのことをした。もしこの家族がうまくいっていないとしたら、心は痛むが、私が問題なのではない。彼らだ。」それがこの人の姿勢でしょうか?いいえ、違います。そしてそれはあなたの姿勢でもないことを願います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 罪を犯されているけれども、自分の罪をも自覚する  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8、9節で彼が言うことに耳を傾けてください。大胆で、へりくだらされていることに耳を傾けてください。なぜ彼はへりくだらされているのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9節の冒頭を見逃さないでください。「私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。」配偶者や親たちがこれを見るのはとても重要です。それは、彼が、罪を実際に犯されている文脈の中でそれを言っているからです。8節で、彼は自分の敵(恐らく息子や妻でしょう)に、「私の敵。私のことで喜ぶな。」と言います。いい気味だと思うなと。そして9節の半ばで、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださると言います。「主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、彼は自分が罪を犯されていることを知っているのです。彼らの非難の中には間違ったものもあると言うことを知っています。彼は神が彼の敵ではなく、味方であられると言うことを知っています。神が彼を暗闇から光に導いて下さいます。彼に義を見させて下さいます。彼はこの確信と断言で大胆なのです。驚くほど大胆です。それにも関わらず、主のみ怒りと自分自身の暗闇を説明するために私たちの注意を引くのは、自分自身の罪です。「私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜそんなにへりくだらされているのか?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ彼はそんなにへりくだらされているのか、という質問に対する私の答えは、以下の通りです。それは彼が主に家庭内で罪を犯されているからではなく、彼自身が罪を犯すことにあります。最悪の時に希望を持って子育てをする姿勢は、へりくだらされた大胆さの姿勢です。へりくだらされているのは、まず何よりも、自分自身の罪のためで、そしてそうすることで初めて、罪を犯されていることのために、へりくだらされるのです。これが私たちが直面する大きな格闘なのです。神の恵みにより、自分の家族と自分自身をそのように見ることができるようなへりくだった姿勢を、私たちは探し出すことが出来るでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜそんなに大胆なのか?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二つ目の質問は、もし罪を犯して来たのなら、なぜ彼はそんなに大胆でいられるのか?と言うものです。自分の罪が頭の中でそんなに顕著であるのに、なぜ彼はそのように語ることができるのでしょうか?このような大胆さはどこから来ているのでしょう?「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。･･･主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
答えは7章の最後にあります。そしてその答えがこのミカ書の最後として出てくるあたり、またそれがそのように強調されていること自体、それがこの書、事実、聖書全体で、最も重要であることを示しています。18―19節、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ミカが打ちひしがれた中でそんなに大胆でいられるのは、彼が神を知っているからです。彼は神の一体何が素晴らしくユニークであるのかを知っています。「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか?」それは、あなたのような神は他にはない、と言っています。「あなたの道は私たちの道よりはるかに高いです。あなたの道はこの世のいかなる神々よりも高いです。あなたがユニークなのは何でしょう?それはあなたがご自身の民の咎を赦され、そむきの罪を見逃されることです。」それが聖書の神固有のユニークさです。そしてこの神以外に他に神はありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の赦しで深く進む  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それではあなたが、最悪の時にどのように希望を持って子育てをするのでしょうか?自分の家族が３対２、また２対３で分裂しているかも知れない時に、どのように希望を持って子育てをするのでしょうか?あなたは主を仰ぎ見るのです。主に叫び求めるのです(7節)。そして二つの深い確信を持って、主に叫び求めるのです。その一つは、あなたが罪人であり、一切のものを神から受けるに値しない者ということです。私たちは完璧な親ではありません。罪を犯してきました。私たちはそんなに愚かでも、うぶでもありません。自分が罪を犯されて来たことを知っています。でも私たちの肉のすべてがそれだけを考えようとします。聖霊だけが、私たちに自分自身の罪を見させることがおできになります。聖霊だけが、私たちに自分自身のあやまちの重さを感じさせることがおできになります。それが深い確信の一つです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つは私たちの神のように、咎を赦され、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみをお喜びになるお方は、他にはいない、と言うものです。私たちは自分の伴侶たちに罪を犯して来、子どもたちに罪を犯して来、そしてこれらすべてのことにおいて、神に対し罪を犯して来たということを、このことを確信するのと同じように、確信しています。その両者とも非常に重要である、両者がどのように一緒になって作用するのか、一方がもう一方を可能な限り深めている、というのが見えますか? もしあなたが自分の罪とあやまちの重さを感じることがなければ、神の赦しに深く進むことはありません。でもそれは逆でも同じです。もしあなたが神の赦しを知らなければ、自分自身の罪を深く掘り下げることはありませんーそしてこれは家庭内でとても重要です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この二つの深い確信はへりくだらされた大胆さという姿勢を生み出します。そしてそれが最悪の時に希望を持って子育てをする姿勢です。罪を犯される渦の中で自分自身の罪にへりくだり、そして大胆に、それは「あなたのように赦しの神が他にいるでしょうか!」だからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== へりくだらされた大胆さ—イエス様のうちにあって増す  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてクリスチャンにとって、この半々の姿勢は、イエス･キリストと、主が私たちのために十字架上で何をして下さったかを知ることで根ざし、また増します。ミカにとって、イエス様は5節ではただの希望でした。「ベツレヘム・エフラテよ。･･･あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。･･･彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、･･･」(ミカ5:2、4)。この良い羊飼いはご自身の羊のためにいのちをお捨てになりました(ヨハネ10:11)。そして主がご自身をお捨てになったとき、私たちはそれまで以上にはっきりと、私たちの罪の深さ(それは主の苦しみの度合いを要求しました)と、神がその罪を赦すことで解決されたその偉大さを知りました。それゆえ、へりくだりと大胆さは増すのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからもしあなたが最悪の時に子育てをしておられるのなら、あるいは最悪の時の子育ての準備をしたいと思っておられるなら、または、単純に最悪の時に希望が欲しいと思っておられるのなら、ミカを見て、イエス様を見て、そしてこの姿勢、自分自身の罪のゆえのへりくだり、またキリストのゆえの大胆さを取ってください。それから聖霊の力によって、イエス様のために、できる限り最高の、不完全な親になろうと心に決めてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 24 Jul 2018 20:29:45 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%9C%80%E6%82%AA%E3%81%AE%E6%99%82%E3%81%AB%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>私たちはこの方の栄光を見た、この方は恵みとまことに満ちておられた</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%AE%E6%96%B9%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%9F%E3%80%81%E3%81%93%E3%81%AE%E6%96%B9%E3%81%AF%E6%81%B5%E3%81%BF%E3%81%A8%E3%81%BE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E6%BA%80%E3%81%A1%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「私たちはこの方の栄光を見た、この方は恵みとまことに満ちておられた」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|We Beheld His Glory, Full of Grace and Truth}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。15ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」16私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。17というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。18いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この段落の主な要点を見るため、14節から始めましょう。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」1節に戻って、ことばが何を示しているかを思い出してください。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)ということで、''ことば''は神の御子を示します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「御子」という用語を用いましたが、それは14節でこの用語が用いられているからです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた''ひとり子''としての栄光である。」ですのでことばは神の御子です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 唯一の神、三位格 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イスラム教徒は、他の多くの人々も同様ですが、この''御子''ということばにつまずきます。中には神がマリアと性交し子をもうけたということを意味すると思っている人もいます。聖書はそうは言っていません。ヨハネ１:１では「初めに、ことばがあった。」と言います。それが神の御子です。そして主には始まりがありません。初めからそこにおられたのです。永遠までさかのぼることが可能な時から、主はおられたのです。３節では、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」と言っています。それは主は造られたものではない、ということを意味します。主は被造物の一部では決してありません。ですので私たちが神の御子について分かっているのは、1）主は神であられる。2）み父も神であられる。3）御子はみ父ではない。み父とともにおられた。4）主は造られたものではなく、永遠であられる、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三位一体の教理、つまり、み父、御子、聖霊は三位格のうちに唯一の神として存在される、という教えについて言えることは非常に多くあります。でも今は、それら多くの教えを皆さんの念頭と心に置いておいてください。御子とみ父は唯一の神であられますが、二つの位格であられ、一つの神のご性質をもっておられます。二つの現実を中心にした、唯一の神であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神が、神であられるまま、人となられた ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、14節で言っているのは、これは歴史の中で最も重要な出来事の一つですが、御子であられることばが、神であられるままに人となられた、ということです。これがその通りだとどうやって知ることができるのか、そしてそれは私たち自身に何を意味するのか?これがこの2週で私たちが見ていくものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ことばは人となられた。」つまり、神の御子であられる神のことばが、神であられるまま、人となられました。どのようにして私たちはそれを理解することが出来るでしょうか？それが私たちにとってどんなことを意味するのでしょうか？今日はこれに14節から答えることに時間をかけたいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ことばは''私たちの間に住まわれた'' ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神のことばは神であられるまま人となられたと私たちが言う第一の理由は、それが14節の、ことばは「私たちの間に住まわれた」という声明だからです。この「''住まわれた''」という動詞の主語は、''ことば''です。そしてことばは神であられます。ですのでこれを理解する最も自然な方法は、ことばである神が私たちの間に住まわれた、です。それゆえ御使いはマタイ1:23で、「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)と言うのです。御子であられることばは人となられたとき、神のままであられました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神のひとり子としての栄光 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちがこれを信じる第二の理由は、14節の次の句、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」です。誰の栄光でしょうか?神であられることば、ことばの栄光です。それはどのような栄光でしょうか?「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネが、人となられたことばの栄光は、「父のみもとから来られたひとり子''として''の栄光」であると言うとき、この「として」ということばは模倣した栄光ということを意味するのでしょうか?御子の本物の栄光ではなく、ただの御子としての栄光ということでしょうか?違うと思います。例えば、もし私が「あげたい本があるんだけれど、私が最初に選んだ人としてあなたにあげるよ。」と言ったとします。あなたは、「私はあなたが最初に選んだ人そのものではなくて、ただ最初に選んだ人として、ということでしょ?」とは応答しないでしょう。私が「最初に選んだ人としてあなたにあげるよ」と言う時、「として」と言うのはそういう意味ではありません。それは私が''事実''最初に選んだ人であるあなたにあげる、という意味です。ヨハネが「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」と言うとき、それは「私たちはこの方の栄光を見た。神の御子の栄光そのものとしての、栄光」ということを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
14節の最初でヨハネが単純にそして単刀直入に、「私たちは''この方''の栄光を見た」と言うところからも、私たちはこれが確かであると知っています。何の条件もありません。誰の栄光でしょうか?御子であられる永遠のことばの栄光です。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちは''この方''の栄光を見た。」ですので神が人となられるという驚くべきことをないがしろにしてはいません。ことばは人となられ、神であられるままそれを成されました。主は神の栄光のあらわれです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== これが私たちにとって何を意味するのか？ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ことばが神であられながら人となられたということを信じる理由を、15―18節でさらにあげています。主のお許しがあれば、来週それに触れますが、今は14節のことばが人となられた、神の御子が神であられながら人となられた、ということが''私たちに''何を意味するのかを、自問してみましょう。なぜそんな質問をするのでしょうか?第一に、それは聖句がそれに答えるからです。しかし他にも理由があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 人間関係を重視する文化を培う ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数ヶ月前私が神に懇願して、私たちを用いて教会に''人間関係を重視する文化''というものを培ってくださるように、と説教をしたのを、覚えていらっしゃいますか?ピリピ２:３―4の「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」を用いて、私が言わんとしていることを説明しました。言い換えれば、自分の殻を抜け出して、他人に仕え、他人の興味に関心を持つような教会に成長しよう、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそのしもべ的、人間関係を重視した思考態度の基本が何か、覚えていらっしゃいますか?その次の聖句で説明されています。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ２:５―７)。言い換えれば、謙虚さ、仕える者、愛の基本、そしてベツレヘム教会での人間関係を重視する新たな文化は、「''ことばは人となって私たちの間に住まわれ、そして私たちのために死んでくださった''」です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神が人となられたことと、その適用 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私がなぜそれ[神が人となられたこと]を指摘するのかと言うと、そうすれば「えっと、過ぎた夏私たちはあまり人間関係を強調しなかったんで、それで今回は神学に没頭しているんだ」とあなたは言わないからです。いいえ。価値がある神学とは、ピリピ2章的神学のみで、それはヨハネの福音書的神学とまさに同じものです。キリストと、キリストのうちにある栄光、そして愛のためにキリストの似姿に変えられる(13:34、15:12)というのは、人間関係において私たちの教会が変えられることを意味します。より愛のある、より助けになる、より仕える者の姿に、より謙虚に、より私心がなく、より社交的に、より思いやりのある者にしてくれるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので私が、「ことばが人となられたというのが、''私たちにとって''何を意味するのかというのを自問するまで、14節にとどまりましょう」と言う時、あなたはその質問の背後に心臓の鼓動を聞くことができると思います。私はこの素晴らしい神学が、私たちの個人的また人間関係の生き方をどのように変えてしまうかに、絶えず注目しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様のうちに私たちは神の栄光を見る ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではことばが人となられたということは、''私たちにとって''何の意味があるのでしょうか?14節、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」それは私たちがイエス・キリストのうちに神の栄光を見ることができるということを意味します。そしてイエス様のうちにあらわされた神の栄光は、罪ある私たちを焼き尽くさない、ということを意味します。その代わり、それは「恵みとまことに満ちて」いるのです。つまり、キリストのうちにある神の栄光は、主の真実さを妥協させることなく私たちにあらわすことのできる、主の恵み深いご性質です。そしてこの恵み深いご性質は、とても、とても、深いものです。そのため彼は''深い''と言う言葉を用います。深いということばは''栄光''を修飾します。神の御子の栄光は、神の真理を妥協させることなく、私たち罪人に対する恵みに満ち溢れています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 恵みに満ちておられ… ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは本当に良い知らせです。神は裁判官や死刑執行人として人となることがおできになったはずです。私たちのすべては主のみ前に有罪判決を受け、永遠の処罰を宣告されるべきです。しかし主はそのようにして人とはなられませんでした。御子なることば、神は、「''恵みとまことに満ち''」た神の栄光をあらわすため、人となられました。私たちに対し恵み深くあられるため、神のことばは人となられました。ことばは神の真実さと一致して、この私たちに対する恵み深さがあらわされるために、人となられました。これは弱々しい、無節操な、感傷的恵みではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは正しく神をたたえる、犠牲の大きい恵みです。イエス様の十字架上での死に直結しています。事実、そのために主は人となられました。死ぬためには主は人とならなければならなかったのです。私たちの代わりに神として人として死ぬためには、人とならなければならなかったのです(ヘブル2:14―15)。ことばはイエス・キリストの死を可能にするため、人となられました。十字架こそ恵みの満ち溢れが最も輝いている場所です。そこで成し遂げられ、そしてそこで買い取られました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== . . . そしてまことに満ちておられた ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそれが死を通して起こった訳は、神の御子が恵みと''まこと''に満ちておられるからです。神は私たちに対し恵み深く、ご自身に対して真実であられます。それゆえ主の御子が来られるとき、主は恵みとまことに満ちておられるのです。キリストが死なれたとき、神は''ご自身に真実で''あられました。それは罪が裁かれたからです。そしてキリストが死なれたとき、神は私たちに対し恵み深くあられました。それは私たちではなくキリストが処罰を受けてくださったからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ことばは人となられた」というのは私たちにとって、神の栄光が歴史の中でかつてなかったほどにあらわされているということ、つまり、イエス様の罪人のための死において、恵みの満ち溢れとまことの満ち溢れのうちに、それが最も光り輝いている、と言うことを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 霊的美しさを見ること ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「そんなら、主を見たことがあるわけじゃないし、私にはその栄光は見ることができないじゃないか。あんた方宗教人は神の御子の栄光について好き勝手に言ってるが、主は見えないじゃないか。」と言わないよう、気をつけてください。注意してください。14節のこの栄光を、外見の輝きや美しさと思わないでください。イエス様は肉体的には美しくも輝いてもおられませんでした。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」(イザヤ53:2) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また14節のこの栄光が、ただ単なる奇跡の実演だとも思わないでください。奇跡を見てそれが実際に起こったと分かっているのに、何の美しさも栄光も見なかった人たちがいるのです。彼らは主を殺そうとしました(ヨハネ11:45―48)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神の御子のあらわされた「栄光」、ことばの栄光、イエス・キリストの来臨のご栄光は、おもに霊的な栄光、霊的美しさです。それはあなたがその目で見えるものではなく、心の目で見るものです(エペソ1:18)。私たちは主のお話しのし方、みわざの行われ方、愛され方、死なれ方を見て、そして恵みにより、ご自身を証明する神の栄光、美しさを見るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 恵みとまことの比類なき混じり合い ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは2コリント４:４で、「この世の神が不信者の思いをくらませて、''神のかたちであるキリストの栄光''にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」というふうに言葉を並べています。「神のかたちであるキリストの栄光」とは、ヨハネ1:14で言われている、「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは地上におられたイエス様を一度も見たことがない人たちに語っており、またヨハネも、私たちのように地上におられたイエス様を見たことがない人たちに宛てて福音書を書いているのです。ヨハネ1:14の栄光と2コリント４:４の栄光は、イエス様の話を聞いたときにあなたが霊的に見る栄光です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主を物理的に見る必要はありません。ヨハネ20：29で、「見ずに信じる者は幸いです。」とイエス様は言われます。あなたはヨハネの福音書や聖書の他の書で主に出会います。そして主に出会うとき、これら霊感を受けて書かれた主の言葉とみわざを通して、その恵みとまことの比類なき混じり合いのご自身を証明する美しさを通して、主の栄光が輝くのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 福音によって生まれ変わる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12、13節で生まれ変わることを、そして14節で神の御子の栄光を見ることを述べているのは、偶然ではありません。12–14節、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「しかし、この方を''受け入れた''人々、すなわち、その名を''信じた''人々には、''神の子ども''とされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ''神によって生まれた''のである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を''見た''。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4節の「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」を思い出してください。霊的新しい''いのち''が与えられるとき、新しい''光''が起こります。光は物理的光ではありません。それは14節で言われている、神の御子の栄光の霊的輝きです。私たちはそのようにして見るようになるのです! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、霊的新しいいのちはどのようにして起こるのでしょうか？13節では、私たちは人によらずに神によって生まれるとき、それが起こると言います。新しく生まれることによって起こるのです。私たちはそのようにして信仰を持ち、キリストを受け入れ、神の子となるのです(ヨハネ1:12)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福音によって、イエス様の救いのみわざとみことばの話を聞くことによって、神は私たちのうちに霊的''いのち''を造られます。私たちは福音を通して神によって生まれます(1ペテロ1:23―25)。そしてその霊的新しいいのちはキリストの栄光の''光''を見ます(ヨハネ１:４)。即座に見るようになるのです。それゆえそれはヨハネ8:12で「いのちの光」と呼ばれています。霊的いのちが与えられるとき、あなたは霊的栄光を見ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 栄光を見る ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは別の方法で言うならば、12節によると、この新しいいのちと視覚は光を''信じ''、神の御子であられるイエス・キリストの真理と栄光としての光を''受け入れます''。そしてその''いのち''と''光''と''信じること''と''受け入れる''ことのうちに、私たちは神の子と呼ばれる特権を得ると、12節は言います。つまり、私たちが神の子であるのは、このいのちと光と信仰と受け入れることが神の子とされる特権だからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので人となられた神の御子を皆さんの前で高く掲げます。''ことばは神であられるまま人となられ、私たちの間に住まわれました''。主の栄光、恵みとまこととに満ちあふれた、神のみもとから来られたひとり子としての栄光を見てください。主を栄光そのものとして見て、そして生きてください。アーメン。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 12 Jul 2018 01:20:05 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%AE%E6%96%B9%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%9F%E3%80%81%E3%81%93%E3%81%AE%E6%96%B9%E3%81%AF%E6%81%B5%E3%81%BF%E3%81%A8%E3%81%BE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E6%BA%80%E3%81%A1%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F</comments>		</item>
		<item>
			<title>私たちはこの方の栄光を見た、この方は恵みとまことに満ちておられた</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%AE%E6%96%B9%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%9F%E3%80%81%E3%81%93%E3%81%AE%E6%96%B9%E3%81%AF%E6%81%B5%E3%81%BF%E3%81%A8%E3%81%BE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E6%BA%80%E3%81%A1%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|We Beheld His Glory, Full of Grace and Truth}}   &amp;amp;gt; ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみ...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|We Beheld His Glory, Full of Grace and Truth}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。15ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」16私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。17というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。18いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この段落の主な要点を見るため、14節から始めましょう。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」1節に戻って、ことばが何を示しているかを思い出してください。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)ということで、''ことば''は神の御子を示します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「御子」という用語を用いましたが、それは14節でこの用語が用いられているからです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた''ひとり子''としての栄光である。」ですのでことばは神の御子です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 唯一の神、三位格 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イスラム教徒は、他の多くの人々も同様ですが、この''御子''ということばにつまずきます。中には神がマリアと性交し子をもうけたということを意味すると思っている人もいます。聖書はそうは言っていません。ヨハネ１:１では「初めに、ことばがあった。」と言います。それが神の御子です。そして主には始まりがありません。初めからそこにおられたのです。永遠までさかのぼることが可能な時から、主はおられたのです。３節では、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」と言っています。それは主は造られたものではない、ということを意味します。主は被造物の一部では決してありません。ですので私たちが神の御子について分かっているのは、1）主は神であられる。2）み父も神であられる。3）御子はみ父ではない。み父とともにおられた。4）主は造られたものではなく、永遠であられる、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三位一体の教理、つまり、み父、御子、聖霊は三位格のうちに唯一の神として存在される、という教えについて言えることは非常に多くあります。でも今は、それら多くの教えを皆さんの念頭と心に置いておいてください。御子とみ父は唯一の神であられますが、二つの位格であられ、一つの神のご性質をもっておられます。二つの現実を中心にした、唯一の神であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神が、神であられるまま、人となられた ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、14節で言っているのは、これは歴史の中で最も重要な出来事の一つですが、御子であられることばが、神であられるままに人となられた、ということです。これがその通りだとどうやって知ることができるのか、そしてそれは私たち自身に何を意味するのか?これがこの2週で私たちが見ていくものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ことばは人となられた。」つまり、神の御子であられる神のことばが、神であられるまま、人となられました。どのようにして私たちはそれを理解することが出来るでしょうか？それが私たちにとってどんなことを意味するのでしょうか？今日はこれに14節から答えることに時間をかけたいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ことばは''私たちの間に住まわれた'' ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神のことばは神であられるまま人となられたと私たちが言う第一の理由は、それが14節の、ことばは「私たちの間に住まわれた」という声明だからです。この「''住まわれた''」という動詞の主語は、''ことば''です。そしてことばは神であられます。ですのでこれを理解する最も自然な方法は、ことばである神が私たちの間に住まわれた、です。それゆえ御使いはマタイ1:23で、「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)と言うのです。御子であられることばは人となられたとき、神のままであられました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神のひとり子としての栄光 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちがこれを信じる第二の理由は、14節の次の句、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」です。誰の栄光でしょうか?神であられることば、ことばの栄光です。それはどのような栄光でしょうか?「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネが、人となられたことばの栄光は、「父のみもとから来られたひとり子''として''の栄光」であると言うとき、この「として」ということばは模倣した栄光ということを意味するのでしょうか?御子の本物の栄光ではなく、ただの御子としての栄光ということでしょうか?違うと思います。例えば、もし私が「あげたい本があるんだけれど、私が最初に選んだ人としてあなたにあげるよ。」と言ったとします。あなたは、「私はあなたが最初に選んだ人そのものではなくて、ただ最初に選んだ人として、ということでしょ?」とは応答しないでしょう。私が「最初に選んだ人としてあなたにあげるよ」と言う時、「として」と言うのはそういう意味ではありません。それは私が''事実''最初に選んだ人であるあなたにあげる、という意味です。ヨハネが「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」と言うとき、それは「私たちはこの方の栄光を見た。神の御子の栄光そのものとしての、栄光」ということを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
14節の最初でヨハネが単純にそして単刀直入に、「私たちは''この方''の栄光を見た」と言うところからも、私たちはこれが確かであると知っています。何の条件もありません。誰の栄光でしょうか?御子であられる永遠のことばの栄光です。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちは''この方''の栄光を見た。」ですので神が人となられるという驚くべきことをないがしろにしてはいません。ことばは人となられ、神であられるままそれを成されました。主は神の栄光のあらわれです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== これが私たちにとって何を意味するのか？ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ことばが神であられながら人となられたということを信じる理由を、15―18節でさらにあげています。主のお許しがあれば、来週それに触れますが、今は14節のことばが人となられた、神の御子が神であられながら人となられた、ということが''私たちに''何を意味するのかを、自問してみましょう。なぜそんな質問をするのでしょうか?第一に、それは聖句がそれに答えるからです。しかし他にも理由があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 人間関係を重視する文化を培う ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数ヶ月前私が神に懇願して、私たちを用いて教会に''人間関係を重視する文化''というものを培ってくださるように、と説教をしたのを、覚えていらっしゃいますか?ピリピ２:３―4の「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」を用いて、私が言わんとしていることを説明しました。言い換えれば、自分の殻を抜け出して、他人に仕え、他人の興味に関心を持つような教会に成長しよう、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそのしもべ的、人間関係を重視した思考態度の基本が何か、覚えていらっしゃいますか?その次の聖句で説明されています。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ２:５―７)。言い換えれば、謙虚さ、仕える者、愛の基本、そしてベツレヘム教会での人間関係を重視する新たな文化は、「''ことばは人となって私たちの間に住まわれ、そして私たちのために死んでくださった''」です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神が人となられたことと、その適用 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私がなぜそれ[神が人となられたこと]を指摘するのかと言うと、そうすれば「えっと、過ぎた夏私たちはあまり人間関係を強調しなかったんで、それで今回は神学に没頭しているんだ」とあなたは言わないからです。いいえ。価値がある神学とは、ピリピ2章的神学のみで、それはヨハネの福音書的神学とまさに同じものです。キリストと、キリストのうちにある栄光、そして愛のためにキリストの似姿に変えられる(13:34、15:12)というのは、人間関係において私たちの教会が変えられることを意味します。より愛のある、より助けになる、より仕える者の姿に、より謙虚に、より私心がなく、より社交的に、より思いやりのある者にしてくれるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので私が、「ことばが人となられたというのが、''私たちにとって''何を意味するのかというのを自問するまで、14節にとどまりましょう」と言う時、あなたはその質問の背後に心臓の鼓動を聞くことができると思います。私はこの素晴らしい神学が、私たちの個人的また人間関係の生き方をどのように変えてしまうかに、絶えず注目しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様のうちに私たちは神の栄光を見る ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではことばが人となられたということは、''私たちにとって''何の意味があるのでしょうか?14節、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」それは私たちがイエス・キリストのうちに神の栄光を見ることができるということを意味します。そしてイエス様のうちにあらわされた神の栄光は、罪ある私たちを焼き尽くさない、ということを意味します。その代わり、それは「恵みとまことに満ちて」いるのです。つまり、キリストのうちにある神の栄光は、主の真実さを妥協させることなく私たちにあらわすことのできる、主の恵み深いご性質です。そしてこの恵み深いご性質は、とても、とても、深いものです。そのため彼は''深い''と言う言葉を用います。深いということばは''栄光''を修飾します。神の御子の栄光は、神の真理を妥協させることなく、私たち罪人に対する恵みに満ち溢れています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 恵みに満ちておられ… ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは本当に良い知らせです。神は裁判官や死刑執行人として人となることがおできになったはずです。私たちのすべては主のみ前に有罪判決を受け、永遠の処罰を宣告されるべきです。しかし主はそのようにして人とはなられませんでした。御子なることば、神は、「''恵みとまことに満ち''」た神の栄光をあらわすため、人となられました。私たちに対し恵み深くあられるため、神のことばは人となられました。ことばは神の真実さと一致して、この私たちに対する恵み深さがあらわされるために、人となられました。これは弱々しい、無節操な、感傷的恵みではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは正しく神をたたえる、犠牲の大きい恵みです。イエス様の十字架上での死に直結しています。事実、そのために主は人となられました。死ぬためには主は人とならなければならなかったのです。私たちの代わりに神として人として死ぬためには、人とならなければならなかったのです(ヘブル2:14―15)。ことばはイエス・キリストの死を可能にするため、人となられました。十字架こそ恵みの満ち溢れが最も輝いている場所です。そこで成し遂げられ、そしてそこで買い取られました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== . . . そしてまことに満ちておられた ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそれが死を通して起こった訳は、神の御子が恵みと''まこと''に満ちておられるからです。神は私たちに対し恵み深く、ご自身に対して真実であられます。それゆえ主の御子が来られるとき、主は恵みとまことに満ちておられるのです。キリストが死なれたとき、神は''ご自身に真実で''あられました。それは罪が裁かれたからです。そしてキリストが死なれたとき、神は私たちに対し恵み深くあられました。それは私たちではなくキリストが処罰を受けてくださったからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ことばは人となられた」というのは私たちにとって、神の栄光が歴史の中でかつてなかったほどにあらわされているということ、つまり、イエス様の罪人のための死において、恵みの満ち溢れとまことの満ち溢れのうちに、それが最も光り輝いている、と言うことを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 霊的美しさを見ること ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「そんなら、主を見たことがあるわけじゃないし、私にはその栄光は見ることができないじゃないか。あんた方宗教人は神の御子の栄光について好き勝手に言ってるが、主は見えないじゃないか。」と言わないよう、気をつけてください。注意してください。14節のこの栄光を、外見の輝きや美しさと思わないでください。イエス様は肉体的には美しくも輝いてもおられませんでした。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」(イザヤ53:2) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また14節のこの栄光が、ただ単なる奇跡の実演だとも思わないでください。奇跡を見てそれが実際に起こったと分かっているのに、何の美しさも栄光も見なかった人たちがいるのです。彼らは主を殺そうとしました(ヨハネ11:45―48)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神の御子のあらわされた「栄光」、ことばの栄光、イエス・キリストの来臨のご栄光は、おもに霊的な栄光、霊的美しさです。それはあなたがその目で見えるものではなく、心の目で見るものです(エペソ1:18)。私たちは主のお話しのし方、みわざの行われ方、愛され方、死なれ方を見て、そして恵みにより、ご自身を証明する神の栄光、美しさを見るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 恵みとまことの比類なき混じり合い ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは2コリント４:４で、「この世の神が不信者の思いをくらませて、''神のかたちであるキリストの栄光''にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」というふうに言葉を並べています。「神のかたちであるキリストの栄光」とは、ヨハネ1:14で言われている、「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは地上におられたイエス様を一度も見たことがない人たちに語っており、またヨハネも、私たちのように地上におられたイエス様を見たことがない人たちに宛てて福音書を書いているのです。ヨハネ1:14の栄光と2コリント４:４の栄光は、イエス様の話を聞いたときにあなたが霊的に見る栄光です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主を物理的に見る必要はありません。ヨハネ20：29で、「見ずに信じる者は幸いです。」とイエス様は言われます。あなたはヨハネの福音書や聖書の他の書で主に出会います。そして主に出会うとき、これら霊感を受けて書かれた主の言葉とみわざを通して、その恵みとまことの比類なき混じり合いのご自身を証明する美しさを通して、主の栄光が輝くのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 福音によって生まれ変わる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12、13節で生まれ変わることを、そして14節で神の御子の栄光を見ることを述べているのは、偶然ではありません。12–14節、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「しかし、この方を''受け入れた''人々、すなわち、その名を''信じた''人々には、''神の子ども''とされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ''神によって生まれた''のである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を''見た''。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4節の「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」を思い出してください。霊的新しい''いのち''が与えられるとき、新しい''光''が起こります。光は物理的光ではありません。それは14節で言われている、神の御子の栄光の霊的輝きです。私たちはそのようにして見るようになるのです! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、霊的新しいいのちはどのようにして起こるのでしょうか？13節では、私たちは人によらずに神によって生まれるとき、それが起こると言います。新しく生まれることによって起こるのです。私たちはそのようにして信仰を持ち、キリストを受け入れ、神の子となるのです(ヨハネ1:12)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福音によって、イエス様の救いのみわざとみことばの話を聞くことによって、神は私たちのうちに霊的''いのち''を造られます。私たちは福音を通して神によって生まれます(1ペテロ1:23―25)。そしてその霊的新しいいのちはキリストの栄光の''光''を見ます(ヨハネ１:４)。即座に見るようになるのです。それゆえそれはヨハネ8:12で「いのちの光」と呼ばれています。霊的いのちが与えられるとき、あなたは霊的栄光を見ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 栄光を見る ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは別の方法で言うならば、12節によると、この新しいいのちと視覚は光を''信じ''、神の御子であられるイエス・キリストの真理と栄光としての光を''受け入れます''。そしてその''いのち''と''光''と''信じること''と''受け入れる''ことのうちに、私たちは神の子と呼ばれる特権を得ると、12節は言います。つまり、私たちが神の子であるのは、このいのちと光と信仰と受け入れることが神の子とされる特権だからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので人となられた神の御子を皆さんの前で高く掲げます。''ことばは神であられるまま人となられ、私たちの間に住まわれました''。主の栄光、恵みとまこととに満ちあふれた、神のみもとから来られたひとり子としての栄光を見てください。主を栄光そのものとして見て、そして生きてください。アーメン。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 12 Jul 2018 01:19:24 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%AE%E6%96%B9%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%9F%E3%80%81%E3%81%93%E3%81%AE%E6%96%B9%E3%81%AF%E6%81%B5%E3%81%BF%E3%81%A8%E3%81%BE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E6%BA%80%E3%81%A1%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F</comments>		</item>
		<item>
			<title>ダビデの子の罪深い生まれ</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%93%E3%83%87%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%81%AE%E7%BD%AA%E6%B7%B1%E3%81%84%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|The Sinful Origin of the Son of David}}   1サムエル12:1-25 これは、「''壮大な罪とキリストの栄光にあるその世界的規模の目的''」と呼ば...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Sinful Origin of the Son of David}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1サムエル12:1-25 これは、「''壮大な罪とキリストの栄光にあるその世界的規模の目的''」と呼ばれる7つに分かれたシリーズの、6番目のメッセージです。このメッセージを「ダビデの子の罪深い生まれ」と題します。ポイントは、イスラエルの王位、つまりイスラエルに王たちがいたという事実は、罪のためであったということです。神の民がその造り主であられ、贖い主であられる方に、「私たちは他のすべての国のようになりたい、あなたに私たちの王であって欲しくはありません。人間の王が欲しいのです」と言うこと自体、壮大な罪でした。本当に壮大な罪です。サムエルは17節で、大きな悪 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; と呼びます。とは言っても、もしイスラエルに王位がなかったなら、イエス･キリストはイスラエルの王として、またダビデの子として、そして王の王として来られることはありませんでした。しかしイスラエルと全世界の上にあるキリストの王位は、神の後からの思いつきではありません。それはイスラエルの罪に応答した、計画外の応答ではありませんでした。主のご計画の一部だったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜこのように成されたのか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから質問は、もし神がこの壮大な罪が来るのをすでにお見通しで、それが起こることをお許しになり、それゆえイスラエルの王位を、キリストを王の王としてその栄光をたたえるというご自身の計画の一部とされたのであるならば、なぜ最初から単純に、その王位をイスラエルを統治するものとされなかったのでしょうか?なぜモーセを最初の王とされなかったのでしょうか?その後、ヨシュア、そしてその他の人々とされなかったのでしょうか?なぜ最初から直接的王位を計画されず、壮大な罪を通してイスラエルの後々の歴史に、人間の王位を採り入れようと計画されたのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== アブラハムと来るべき王位 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ストーリーそのものから始めましょう。創世記12章で、神はアブラムをイスラエルの民の父としてお選びになり、彼の子孫を通して全世界のすべての民族が祝福されるとお約束になります(創世記12:1―3)。メシアであられるイエス･キリストは、この系列を通して来られます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アブラムに起こる最初の出来事の一つは、創世記14:18で、メルキゼデクという名の奇妙な人物に出会うことです。彼は「いと高き神の祭司」、また「シャレムの王」と呼ばれます。その名は「義の王」を意味します。新約聖書のへブル書の著者は、メルキゼデクをキリストの予型、あるいは予表と見ています。なぜなら詩篇110:4で、来るべき救世主的王は「メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司」だからです。ですからへブル書では、「このメルキゼデクは、･･･その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。･･･神の子に似たものとされ･･･」(ヘブル7：1―3)と言われています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ハンナと来るべき王位 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ神のみむねの中では、来るべきメシアは、祭司であり王であるのです。その方が王となるのは後々に決断されたのではありません。私たちはこれをサムエルの誕生と献児に再度見ます。サムエルの母ハンナが不妊だったことを覚えておられるでしょう。エリが彼女が子を産むと預言します。サムエルが生まれ、ハンナは彼を神殿に連れて来て、彼を主に献げます。ハンナが言う驚くような素晴らしい事がらの一部が、1サムエル2:10にあります。これはイスラエルに王がいなかった何十年も前の出来事であることを思い出してください(サムエルが年をとってから、人々は王が欲しいと彼に迫ったのです)。「主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。主は地の果て果までさばき、''ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます''」&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; とハンナは言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== モーセと来るべき王位 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さかのぼって申命記17:14―20では、モーセが、もし人々が王を持つことになったとして、王位についての命令を与えます。そして申命記28:36で、もし人々が主に反抗した場合の、彼らと王の捕囚を預言します。ですから1サムエル12章で起こったことは、神にとって驚きではなかった、と私は結論づけます。主はこの壮大な罪が起こることを知っておられ、主がそれが起こることをお許しになるということを知っておられました。そして神がある事が起こることをお許しになろうと意図されるとき、主はそれを愚かにではなく、賢く成されます。それゆえ、この壮大な罪は、ご自身の御子の栄光のための、神の最も重要なご計画なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== どのようにして王位がやって来たのか ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主がどうしてこのようにして成されるのかを深く考える前に、王位がどのようにして起こったのかを見てみましょう。王が欲しいという要求は1サムエル記の、さかのぼって8章から始まりましたが、私たちはそれを12章に拾います。8節です。主は「あなたがたの先祖をエジプトから連れ出し、この地に住まわせた。」9節、「ところが彼らは彼らの神、主を忘れたので、主は彼らをハツォルの将軍シセラの手、ペリシテ人の手、モアブの王の手に売り渡された。それで彼らが戦いをいどまれたのである。」10節、「彼ら[イスラエルの民]が、『私たちは主を捨て、バアルやアシュタロテなどに仕えて罪を犯しました。私たちを敵の手から救い出してください。私たちはあなたに仕えます』と言って主に叫び求めたとき、」11節、「主はエルバアルとベダンとエフタとサムエルを遣わし、あなたがたを周囲の敵の手から救い出してくださった。それであなたがたは安らかに暮らしてきた。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 人々は神の王位を拒否した ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの節のポイントは、神は彼らの王として誠実であられたことを示すことです。彼らが主に叫び求めたとき、主は彼らを救われました。主は彼らに安全をお与えになったのです。人々に平安を与えるために王は存在するのです。そして彼らの応答はどうだったでしょうか?12節、「あなたがたは、アモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王がわたしたちを治めなければならない』と私[サムエル]に言った。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サムエルの声に、信じられないという彼の声が聞こえて来ます。「あなたがたは神が王であるのに、王が欲しいと言っている!」サムエルは何をしなければならないでしょうか?主は1サムエル8:7―9ですでに彼にこう言っておられます、「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。･･･今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 壮大な罪ー「犯した悪の大きかったこと」 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからサムエルは1サムエル12:13前半で、「見なさい。あなたがたが選び、あなたがたが求めた王を。」と言います。そして彼らの犯した罪が大きな悪であることを示すため、雷と雨を下されるよう、彼は主に呼び求めます。17節、「今は小麦の刈り入れの時期ではないか。しかし、わたしが主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。それを見てあなたたちは、自分たちのために王を求めて主の御前に''犯した悪の大きかったこと''を知り、悟りなさい。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この聖くない悪を通した神の聖いみわざを私たちが見逃さないように、パウロは使徒13:20―22で、イスラエルに最初の王をお与えになったのは神であるということを、明確にします。「[神は]預言者サムエルの時代までは、さばき人たちをお遣わしになりました。それから彼らが王を欲しがったので、''神は''ベニヤミン族の人、キスの子''サウロを四十年間お与えになりました。''それから、彼を退けて、''ダビデを立てて王とされました。''」私たちはこれを歴史の壮大な罪の中で繰り返し見てきました。人が計った悪を、神は良いことの計らいとなさったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ここから私たちは何を学ぶべきか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから質問は、もし神がこの壮大な罪が起こるのをあらかじめ見ておられ、そしてそれをお許しになり、それゆえイスラエルの王位が王の王であられるキリストに栄光が返されることをご計画の一部とされたのであるなら、なぜ最初から王位をイスラエルの支配の一部とされなかったのでしょうか?なぜモーセを最初の王とされなかったのでしょう?ヨシュアやその他の者たちは?なぜ神はご自身が王であることから始められ、イスラエルの後々の歴史に壮大な罪を通して人間の王位を立てられたのでしょうか?私たちはこれから何を学ぶべきでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
少なくとも6つの学ぶべき事がらがあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 私たちは頑なで、反抗的で、感謝しない者たちである''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここから私たちは、自分がいかに頑なで、反抗的で、感謝しないものであるかを学ぶべきです。そのため1サムエル12章は、神がどのようにして民をエジプトから救い出され、約束の地をお与えになり、彼らを悪しき王たちから助け出されたのかを、人々の思い出させるような方法で始めます。そしてその都度、彼らは神を忘れ、他のものを慕うのです。これはイスラエルに限った話ではありません。人間の話しです。私の、そしてあなたの人生の話しです。クリスチャンでさえ、絶えず神を慕っているわけではありません。感謝にあふれる日もあれば、全く感謝しない日もあります。しかもその感謝にあふれる日でさえ、感謝にあふれるべきほど感謝にあふれていません。私たちの心が神ご自身と主の何万という賜物に、主がお受けになるのにふさわしい称賛と感謝の思いで呼応しているなら、私たちがどれだけ喜びと感謝に満ち溢れていることか、考えて見てください。ですから神はこのような話の中に、自分自身の像を私たちにお見せになります。主はご自身の民がこのような感謝のない、偶像礼拝的な季節に陥るのをお許しになります。そうすればすべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するからです(ローマ3:19)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 神はご自身のみ名に誠実であられる''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはここから、神がいかにご自身のみ名に対し誠実であられるかを学ぶべきです。22節を見てください。「主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。」神の誠実さの最も深い礎とは何でしょうか?それはご自身のみ名に対する忠誠心です。ご自身の栄光に対するねたみと熱心です。同じ節をゆっくり、じっくりと考えながら読んでください。「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。」「彼らの偉大な名のために」とは言わず、主の偉大なみ名のために、と言っています。神はご自身のみ名の価値、真実さと義を維持することに、全力で取り組まれます。それゆえこのような話は、神の成されることはすべて、神のみ名の無限の価値に導かれた、無限の知恵によって支配されていることを私たちに教えるため、聖書にあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) 罪人に対する恵みは、ご自身のみ名に対する神の究極の忠誠から溢れ出る''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはここから、罪の真中にあって、ご自身のみ名に対する神の究極の忠誠から溢れ出る私たちのような罪人に対する恵みが、いかに驚くべきものであるかを学ぶべきです。これについて、19―22節にの驚くような例を見てください。19節で、人々は自分たちが神に対して犯した壮大な罪に、恐れおののきます。「あなたのしもべのために、あなたの神、主に祈り、私たちが死なないようにしてください。私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです」と彼らは言います。この後に続く言葉は、罪人に対する福音の無償の恵みの絵です。サムエルは人々に、「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った」と言います(20節)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで読むのをちょっとやめて、驚嘆してください。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。」これは印刷の間違いではないでしょうか?「恐れなさい。あなたがたはこのすべての悪を行った。」と言うべきではないでしょうか?しかし、「恐れてはならない。あなたがたはこのすべての悪を行った」と言っています。これは純粋な福音です。神の恵みは、私たちが受けるにふさわしくないような方法で私たちを取り扱います。「恐れなさい。あなたがたはこのすべての悪を行った」というのが私たちの受けるべき形です。しかし福音は私たちが受けるに値する以上の方法で私たちを取り扱います。「恐れてはならない。あなたがたはこのすべての悪を行った。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どうしてこんなことがありえましょう?この恵みの基盤は一体何でしょうか?私たちではありません!私たちは罪しか犯して来ていません。では一体何でしょう?それはすでに見ています。22節、恐れてはならない、「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。」ご自身のみ名に対する神の忠誠が、あなたに対する主の誠実さの基盤です。もし神がご自身に対する究極の忠誠を捨てられることがあったとしたら、私たちのための恵みはありません。もし主がご自身の私たちに対する慈愛の基盤を私たちの価値に据えられたなら、私たちに対する慈愛はありません。私たちは頑なで、反抗的で、感謝しない者たちだからです。無償の、値しない恵みが、私たちの唯一の希望です。そしてその恵みの基盤は私たちの名の価値にあるのではなく、神のみ名の無限の価値にあります。2テモテ2:13を思い出してください。「私たちは真実でなくても、彼は[主は]常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」神はこの壮大な罪から私たちが、私たちの救いの恵みは、主にとっての私たちの価値にではなく、ご自身のみ価値に最終的基盤があるということを学ぶよう、意図されています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4) 王位は神だけのもの''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イスラエルに王位をもたらされた神の方法から私たちが学ぶべきことは、王位は主だけのものであると言うことです。神は、神だけがイスラエルの王であるべきお方であることをはっきりさせるために、ご自身のイスラエルとの関係を、人間の王無しに開始されました。神だけが王であられます。イスラエルが王が欲しいとねだったとき、彼らはこの真理を拒否していたのです。神は1サムエル8:7で、「彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから」と、それをはっきりと言っておられます。もし神がイスラエルの歴史を、モーセとヨシュアを初代の王にして始められたのであったなら、神だけがイスラエルの王となることができるということが明確でなかったはずです。主には人間のライバルがいません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5) 神であられ人であられる方が王であるべき''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、人間の王を任命される神の方法から、神だけがイスラエルの王となることができるので、人であられるだけでなく神でもあられる王が来るまで、すべて失敗だらけの人間の王家を任命することが、主の目的であることを、私たちは学ぶべきです。イスラエルに人間の王をお与えになることで、神は神だけがイスラエルの正当な王であられるという考えを、変えられたわけではありません。ポイントは、神お一人だけがイスラエルの王であられ、他の者たちのように失敗しない、ダビデの子である王が来る、と言うことです。そのお方は他の罪深い人のようではありません。神であられ、人であられるお方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリサイ人たちを黙らせてしまうイエス様の口から出た最後の質問は、詩篇110:1でダビデが言う、「主[ヤーウェの神]は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』」の箇所をもとにしています。イエス様はこれを引用され、主の敵に、「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう」と質問なさいます。言い換えると、聞く耳のあるものにとって、イエス様はダビデの子以上のお方です。主はただの人間の王以上のお方です。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。･･･ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」(ヨハネ1:1、14)神だけがイスラエルの最終的に正当な王になることができるお方です。そのようにしてそれは始まりました。そのようにしてそれは終わるのです。イエス･キリストこそ、神であられ人であられるイスラエルの王です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''6) ご自分の民のために死なれた王''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、人間の王をイスラエルに立てられた神の方法から私たちが学ぶべきことは、人間の王が必要であった、と言うことです。神だけがイスラエルの正当な王になることがおできになる方です。しかし人間の王が必要でした。なぜでしょうか?それは神が支配し、愛するための人々を持つためには、その人々が自分の罪のために地獄にいるのではなく、人々のために王が死ななければなりませんでした。神は死ぬことができません。人は死ぬことができます。それゆえ神は神だけがイスラエルの正当な王になるということだけでなく、そのイスラエルの正当な王が人々の代わりに死ななければならない、ということをご計画になったのです。ですからイスラエルの王は神であられ人であられるお方です。そうすれば王が''神のままである''ことができ、それと同時に死ぬことができる、神であり''人である''王でいることがおできになるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サムエルが「恐れてはならない、反抗的で、かたくなで、感謝しない罪人らよ。あなたがたは、このすべての悪を行った」(1サムエル12:20)と言うとき、この恵みの基盤は一体何でしょうか?それは神のみ名の価値です。「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去られない。」(22節)神のみ名の維持と証明が、この恵みの基盤です。そしてその証明が最も顕著にまた最終的に示されているのはどこでしょうか?答えは、キリストの十字架です。ローマ3:25、「神は、キリスト･イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 十字架において、ご自分のみ名のために ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本当に主は見のがして来られたのです。まさにその日、王を求めたため滅ぼされるべきだった人々を、神はご自身のみ名のために、彼らをお赦しになり、その罪を見のがされたのです。しかし臭いものに蓋をしてもなお、義でありまた聖い神としてのみ名を維持することはできません。罪は取り扱わなければなりません。処罰されなければならないのです。そしてイエス様が死なれたとき、それは処罰されました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちのような罪深い者が、イエス様のような偉大で、力強く、良い、聖い、そして知恵ある王を、罪のゆえに破壊されずに持つことができる唯一の理由は、その王がご自分の臣民のために死んでよみがえられるよう、神がご計画になったからです。福音書のすべてで、イエス様が死なれる間際に「あなたはユダヤ人の王ですか」と尋ねられています。そして主は、「そのとおりです」(マタイ27：11、マルコ15：2、ルカ23:3、ヨハネ18:33)とお答えになります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== すべての者の来るべき王 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして主はユダヤ人の王であられるだけでなく、すべての者、特に主を信じる者たちの王であられます。その敵を足元に置かれるまで、また地上の諸国民の中から選ばれた者たちが集められるまで、主は今日み父の右の座に着いておられます。それから終わりがやって来るのです。そしてキリストは「二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(ヘブル9:28)。「その着物にも、ももにも、」ユダヤ人の王ではなく、「『王の王、主の主』という名が書かれていた」(黙示19:16)。アーメン。来りませ、王なるイエス様よ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新共同訳聖書、1987年版引用。新改訳では、「(主のみこころを)大いにそこなったこと」と訳されており、新共同訳(あるいは口語訳)聖書の方がESV訳に近い。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 03 Jul 2018 14:24:48 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%83%80%E3%83%93%E3%83%87%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%81%AE%E7%BD%AA%E6%B7%B1%E3%81%84%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C</comments>		</item>
		<item>
			<title>なぜ解説的説教はとりわけ神に栄光をお返しするのか</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E7%9A%84%E8%AA%AC%E6%95%99%E3%81%AF%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%82%8F%E3%81%91%E7%A5%9E%E3%81%AB%E6%A0%84%E5%85%89%E3%82%92%E3%81%8A%E8%BF%94%E3%81%97%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「なぜ解説的説教はとりわけ神に栄光をお返しするのか」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Why Expositional Preaching Is Particularly Glorifying to God}} &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このメッセージは4つに分かれています。まず最初に、私たちのこの現代に神が起こされるのを見たいと私が切に願うような、神の栄光の重みに形作られた説教について、じっくり考えます。次に、説教にこのように影響を与える神の栄光が一体何かを描きます。三つ目に、人々がどのようにしてこの栄光に目覚め、変えられて行くのかという、私の聖書的理解を提供します。そして最後に、これらのすべてが、どのように、私が''解説的歓喜''と呼ぶような説教を必要とするのかを説明します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の栄光の重みによって生まれるような説教に関する考察  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジョージ･ウィットフィールドは説教の力を信じ、そのために人生を捧げた人です。神はこの説教で、大西洋の両大陸で偉大な救いのみわざを成されました。彼のことを語る伝記作家、アーノルド･デリモアは、ウィットフィールドの説教が18世紀にイギリスとアメリカで与えた驚くべき影響を、年代順に記録しています。それは渇いた地に注ぐ雨のようにやって来て、砂漠に義の花を次々と咲かせました。デリモアはウィットフィールドの時代に枯れた地が変わって行ったところから目を上げて、神がもう一度それを成して下さるよう、切に願いました。ウィットフィールドのような説教者たちの新しい世代を叫び求めました。彼の言葉のうちに、私がこのアメリカと世界中で来るべき説教者たちの世代に私が切に願うものを、見出すことができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「そう、教会の偉大なかしらをもう一度見たい･･･このような栄光ある雇用のうちに、ご自身のために用いることのできる特定の若者たちを起こされるのを。それはどのような者たちであろうか?みことばに堅く立ち、神の偉大さ、威光と、聖さの認識で人生が支配され、素晴らしい恵みの教理で思いも心も輝いている者たちである。それは自分と、人の目標と、個人的野心に死ぬというのがどういうことなのかを学んだ者で、『キリストのために愚かに』なることを喜び、はずかしめとあざけりを身に受け、それでいながら主の偉大なさばきのみ座に進み出るとき、主人の称賛を受ける者たちである。砕けた心と涙であふれた目で説教し、神がその働きに聖霊のたぐいまれなほとばしりをお与えくださり、数多くの人の人生がしるしと不思議によって変えられるのを目撃する者である。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
みことばに堅く立ち、素晴らしい「恵みの教理」の真理で輝き、自己に死んでおり、労することと苦しむことをいとわず、人の称賛に無関心で、罪のゆえに砕かれており、''神の偉大さ、威光、そして聖さの認識に支配されている''。デリモアはウィットフィールドのように、説教とは神のみことばをそのような心から告げることであると信じていました。説教は議論ではありません。説教とは宗教的事がらを気さくに話すことではありません。説教はただ単に教えることではありません。説教とは、神の偉大さと威光と聖さの認識が浸透したメッセージを告げ知らせることです。取り上げる主題は日の下にある何ものでも構いません。しかしそれは神のみことばのうちにある、主の偉大さと威光の燃える光の下に、常に持って来なければなりません。そのようにしてウィットフィールドは説教しました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
20世紀でマーティン･ロイド･ジョーンズ以上にその見解を具体化した人はいません。彼はロンドンのウェストミンスター･チャペルで30年間奉仕をしました。J. I. パッカーが22歳の学生だった頃、彼は1948―1949年度まで、ロンドンでロイド･ジョーンズが説教するのを毎週日曜日聞きました。彼は「そんな説教を聞いたことが一度もなかった」と言います。(多くの人は本物の説教を聞いたことがないので、説教について最小限に評価したり愚かなことを言ったりするのです。彼らには本物の説教の有用性を評価する基盤がありません。)パッカーは自分が知らなかった、「何人にもない神の認識を、電気ショックを受ける力で」受けた、と言います。&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; それがウィットフィールドが意味していたものです。ああ、神の認識で衝撃を受ける霊的感覚、実在の神の無限の重みの認識を、聴く者にもたらす若い説教者を、神が起こして下さったなら! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが私がこの時代、そして皆さんに切に願うものです。すべての国民とすべての軍隊とすべての偽の宗教とすべてのテロリストとすべての津波とすべてのがん細胞と、そして宇宙のすべての銀河系に絶対的権威を持っておられる、十字架に掛けられよみがえられたキリストの福音にあらわされた、神の偉大さと威光と聖さの認識で支配された、心砕かれた、聖書で頭がいっぱいの説教者を、神が何千と起こして下さいますように。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神はご自身の栄光を軽くあしらうことが大したことではないということを伝えるために、キリストの十字架や火の池 &amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; をお定めになったのではありません。神の御子の死と、悔い改めない人間が永遠の地獄へ送られるのは、神が無限に聖いお方で、罪が無限に侮辱であり、み怒りは無限に正しく、恵みが無限に尊いと叫ぶ、天の下の最も大きな叫びであり、私たちの短い人生、そしてあなたの教会とあなたのコミュニティーのすべての人の人生が永遠の喜びか永遠の苦しみのどちらかに至るのです。もし私たちの説教がこれらの事がらの重みを人々に伝えなかったら、何が人々にそれを伝えるでしょうか?ベジー･テールですか?ラジオですか?テレビですか?討論会ですか?突発的な会話ですか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神はご自身の御子が十字架に掛けられること(黙示録13:8、2テモテ1:9)と、地獄が恐ろしい所であるよう(マタイ25:41)、ご計画になりました。そうすれば説教するとき何がかかっているのか、できる限り明確な証言を、私たちが理解することができるからです。説教を真剣にさせるのは、イエス様の血潮にどっぷり浸かり、地獄の火によって署名されている説教者のマントです。それがただのおしゃべりを説教者に変えるマントです。しかしながら不幸にも、今日の福音派の最も有名な声の中には、十字架の恐ろしさや地獄の恐ろしさ、すなわち一方で私たちの受けるべき罰を背負うためにその力のすべてをはぎ取られたお方と、他方で非人間化され、この世の社会的苦痛へ送られる神話的な要素を取り除かれた者を、最小限に抑えるものもあります。&amp;lt;sup&amp;gt;4&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ああ、若い世代がこの世は神についての真剣な認識で圧倒されていないと言うことを見たなら。教会で神の栄光の認識が過剰になると言うことは決してありません。教会で天の国と地獄と罪と救いについて過度に熱心になると言うことは決してありません。そしてそれゆえに、多くのクリスチャンの喜びというのは、一枚の紙切れのように薄っぺらいのです。巨大な世界的宗教の広報担当者が西側の主要な出版会社に手紙を書き、「私たちが皆さんをお招きする第一のものは、イスラム教です。イスラム教は良いものを楽しみ、悪を手と舌と心で制する宗教です。アラーの言葉と宗教が最高のものとして君臨するため、アラーの道で聖戦をする宗教です」 &amp;lt;sup&amp;gt;5&amp;lt;/sup&amp;gt; と言う傍らで、何百万もの人々が107インチのスクリーンでDVDや、携帯ゲームや、ドタバタ喜劇のような礼拝を死ぬほど楽しんでいるのです。そしてこの広報担当者らはファラファル店の前で子どもたちを巻き添えに自爆する自爆テロ犯を公に祝福し、それがパラダイスへの道だと言うのです。これが私たちが説教する世界です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでいて理解できないのは、このキリストをないがしろにする、魂を破壊する時代に、書籍やセミナーや神学校や教会成長専門家たちは、若い牧師たちに、「軽くしろ」「面白くしろ」「何か人を楽しませることをしろ」と言うことしか頭にないのです。これに対し私は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです」(マタイ16:24―25）&amp;lt;sup&amp;gt;6&amp;lt;/sup&amp;gt; と言われるイエス様の霊はどこにあるのか?と尋ねます。「もし右の目が、あなたをつまづかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです」(マタイ5:29)。「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産を全部捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」(ルカ14:33)。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まないものは、わたしの弟子になることができません」(ルカ14:26)。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」(マタイ8:22)。「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」(マルコ10:44)。「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。「中には殺される者もあり･･･ます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません」(ルカ21:16―19)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様に対する教会成長の助言は、「イエス様よ、軽く行こうじゃないか。何か面白いことをしろよ」でしょうか?そして若い牧師たちには、「若い牧師さんよ、やることは何であれ、福音にあるイエスのようになっちゃいかんよ。軽く行かなきゃいけない」でしょうか?永遠を近くに感じる昨今、私の見解から言って、牧師たちに対するそのようなメッセージは益々気が狂っているようにしか思えません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の栄光の肖像  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたが信じる説教の必要性と説教の性質は、神の偉大さと栄光に対するあなたの意識と、人々がその栄光に目覚め、その栄光に生きるようになると言うことをあなたがどのように信じているかに左右されます。ですから次の部では神の栄光の肖像と、三部目には人々がどのようにその栄光に目覚め、それによって変えられていくかについて触れて行きます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書の初めから終わりまで、神の思いとみこころにあるのは、他でもない、神の栄光、すなわち、神の美、主の多方面の完璧さの輝きです。神のあらわされたみわざの要所要所、主がそのみわざにあるご自身の最終的目標をはっきりとされるところでは、その目標は常に同じです。それはご自身の栄光を掲げ、また示すことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の栄光のために私たちを世界の基の置かれる前からお選びになった(エペソ1:6)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の栄光のために私たちを造られた(イザヤ43:7)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の栄光のためにイスラエルをご自身に結びつけられた(エレミヤ13:11)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の栄光のためにご自身の民をエジプトからお救いになった(詩篇106:8)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の栄光のために彼らを捕囚から救い出された(イザヤ48:9-11)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主は異邦人がその栄光のゆえに主を賛美するよう、キリストをこの世にお遣わしになった(ローマ15:9)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の民に、食べるのにも飲むのにも、何をするにも、主の栄光をあらわすためにしなさいとご命令になる(1コリント10:31)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主は贖われたすべての者がその栄光に驚嘆するよう、イエス様を再びお遣わしになる(2テサロニケ1:9-10)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ教会の使命は、「主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で」(詩篇96:3)です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはこれらと何百と言う聖書の他の箇所によって、神に対する最終的忠誠心へと連れ戻されます。神のご自身の栄光に対する情熱に言葉にほとんどならないほどに、ほとんどですが、感銘を受けること以外に、説教に深く影響を与えるものはありません。聖書全体の啓示から明確なのは、神ご自身の最終的忠誠というのは、ご自身を完璧に知ることと、ご自身を無限に愛すること、そしてこの体験を、可能な限りご自身の民と分かち合うことです。神のみわざの一つ一つに、「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしは、わたしの栄光を他の者には与えない」(イザヤ48:11、42:8も参照)と言う旗がひるがえります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永遠から、永遠に存在される、何か他のものになることは決してあられない、常に完全であられる神は、ご自身をご存知であられ、知っておられることを愛して来られました。永遠からご自身の美を見続けて来られ、その見ているものを味わって来られました。ご自身の現実についての主のご理解には欠点がなく、それを楽しまれる主の豊かさは無限です。不完全さがまったくないので、主には必要がまったくおありになりません。悪さをするよう誘惑する欠陥がまったくないので、主には悪に対する傾向性がまったくおありになりません。それゆえ主は考えうるすべての実在するものの中で、最も聖く、最も幸せなお方です。三位一体の個々の交わりのうちにある、無限の美しさに無限に喜ぶその無限の幸せの力以上に素晴らしい幸せを、私たちは思いつくことができません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この体験、すなわち主の栄光を知り、楽しむという体験を分かち合うことが、神がこの世を造られた理由です。主は、主を知るように、主が知っておられるご自身を知るように、また主そのものを楽しむように、私たちを導かれます。事実、主の目的は、ご自身について知っておられる知識と、ご自身のうちにある喜びが、私たちの知識と楽しみとなることです。そうすれば私たちが主ご自身の知識で主を知り、主ご自身の喜びで主を喜ぶからです。これがヨハネ17:26でイエス様が、「わたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです」とみ父に願われる祈りの、その根本的意味です。み父の「栄光の輝き」(ヘブル1:3)、それにはイエス･キリストという名がありますが、そのうちにある知識と喜びが、イエス様が私たちのうちにおられるゆえ、私たちのうちにあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし「神の(主を知り主を楽しむという)この体験を分かち合おうというその目的と、''神の愛''とは、どのように関連しているのか」と聞かれたら、「その体験を分かち合おうとする神の''目的そのもの''が、神の愛です」と言うのがその答えです。神の愛とは、ご自身の栄光の知識と楽しみを私たちと分かち合うその献身です。ヨハネが「神は愛である」と言うとき(1ヨハネ4:8、16)、それはご自身の栄光のうちにある楽しみを分かち合うことこそが、たとえそれがご自身の御子のいのちを犠牲にすることであるとしても、神のご性質である、と言っているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは神のご自身の栄光をあらわすその目的と、その栄光を喜ぶ私たちの喜びが、見事に調和していることを意味します。自分が楽しまないことをたたえることはありません。神は私たちがただ単に主を知ることでは、十分に栄光をお受けになりません。神は私たちが主を知ることと、私たちの人生が主の価値をあらわすようになるほど深く主を喜ぶことで、栄光をお受けになるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様は私たちに神の知る知識と神を喜ぶその喜びを私たちに与えるためのご自身の役割を強調して、二つのことを言われます。主は「子が父を知らせようと心に定めた人のほかには、だれも父を''知る者がありません''」(マタイ11:27)と言われます。また、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、''わたしの喜び''があなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(ヨハネ15:11)とも言われます。言い換えると、私たちは''御子を知る知識で''み父を知り、''御子を喜ぶその喜びで''み父を喜ぶのです。イエス様は私たちを、み父を知るご自身の知識と、み父を喜ぶご自身の喜びを分かち合う者にしてくださったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世がこれを見るようになるのは、第一に、日曜の朝の共同礼拝における私たちの熱心な態度によってではありません。それらは尊いひと時ではありますが、そうではなく、私たちのうちに生まれる変化によってこの世はそれを見るようになるのです。イエス様は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)と言われます。私たちの良い行いを通して輝き、人々に神を見させるその光が、主のすべてを満たす栄光の価値なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは次のように作用します。神の栄光が私たちの人生の宝であるとき、私たちは地上に宝を積まず、主の栄光を広めるために持っているものを費やします。人のものをむやみに欲しがるのではなく、あふれるばかりに気前よくなります。人の称賛を求めるのではなく、神を賛美するうちに自分を忘れてしまいます。罪深い、みだらな楽しみに心をとらわれずに、優れた約束の力によってそれらの根を断ち切るようになります。傷ついた自分のエゴを心のうちで養ったり、恨みを温めたり、復讐心を育んだりせず、神に原因をゆだね、自分を妬むものを祝福するようになります。''すべての罪は、神の栄光をすべてのものにまさって宝としないことから溢れ出ます''。それゆえ神の栄光の真理と価値をあらわすのに最も重要な、目に見える方法は、すべてを満たす神の栄光の湧き水からのみ溢れ出る、へりくだった、献身的に仕える人生という方法です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== この神の栄光にどのように人々は目覚め、変えられていくのか  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今度は人々が神の栄光にどのように目覚め、それによって変えられて行くのかという質問に移ります。それに対し欠くことのできない答えを使徒パウロが、2コリント3:18―4:6で答えます。彼は、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」と言います。主の栄光を見つめつつ、私たちは栄光から栄光へと変えられていきます。これがご自身の御子の似姿へと人々を変えられる神の方法です。そうすれば人々が主の栄光を反映するからです。神に栄光をお返しできるよう変えられるために、私たちは主の栄光をしげしげと見つめるのです。&amp;lt;sup&amp;gt;7&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはどのようにして起こるのでしょうか?(ここで私たちは説教の適用に限りなく近づいています。) パウロは2コリント4:3―4で、私たちがどのように主の栄光を見つめるのか、説明します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです[これが2コリント3:18の成就]。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは福音のうちに、主の栄光を最もはっきりと、また最も重要なものとして見つめます。それは「キリストの栄光にかかわる福音」とパウロが呼ぶほどです。これには説教のとても重要な適用がありますが、それは、主が雲に乗って戻って来られるときに見る主の栄光を、この時代に直接見ることができないとき、''主のみことば''という方法によって私たちがそれを最もはっきりと見るのです。福音はことばのメッセージです。逆説的になりますが、ことばは''聞くもの''であり、栄光は''見るもの''です。それゆえパウロは、私たちはキリストの栄光を主に目で見るのではなく、''耳で''見ると言うのです。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)、なぜならキリストの栄光を見ることは聞くことから来、聞くことはキリストの福音から来るからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
預言者サムエルの人生でこれがどのように表現されているかを考えて見てください。サムエルの時代には、丁度今日神の栄光を見て味わうことがまったくない飢饉があるように、主の幻がほとんど示されませんでした(1サムエル3:1)。しかしながら神は新しい預言者を起こされました。神はどのようにサムエルにご自身をあらわされたでしょうか?あなたやあなたの民にご自身をあらわさるのと同じ方法です。第一サムエル3:21、「主は再びシロで現れた。''主のことばによって''、主が''ご自身''をシロでサムエルに現されたからである。」主はご自身を''ご自身のことばによって''現されました。このようにして私たちの民も主の栄光を見つめ、そして主の栄光を知らせるような人々に変えられて行くのです。またパウロは神の栄光を最も明確に、中心的に現すことばは、福音であると私たちに教えます(2コリント4:4)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 解説的歓喜への間接的招き  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは''解説的歓喜''としての説教という結びのポイントへと最終的に私たちを導いてくれます。もし私たちが神の栄光をこの世であらわすことが主の目的であるのなら、もしその栄光を知ることと楽しむことによって変えられつつあるので、私たちはその栄光をあらわすのであるのなら、もし主の栄光を見つめることによってそれを私たちが知り、楽しむのであるのなら、もしその栄光をキリストの栄光の福音のうちに私たちが最もはっきりと、また中心的に見るのであるのなら、そしてもし福音はことばでこの世にもたらされるメッセージであるのなら、それに追付いするのは、説教者たちがそれらのみことばを明らかにし、それを喜ぶことを神は意図しておられると言うことです。私はそれを''解説的歓喜''と呼びます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一つ一つのことばが重要です。福音には解説され(開かれ、明らかにされ、解明され、はっきりされ、説明され、あらわされ)なければならないと叫び求める多くの事がらがあるので、それは解説的です。福音のメッセージの5つの基本的側面に注目するときに、私たちはこれを見ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*福音は''歴史的出来事''、すなわちキリストのご生涯と死とよみがえりについてのメッセージです。私たちはみことばの詳細な解説でそれを解くよう、要求されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*福音は、私たちがいかなることをも体験する前に、あるいは私たちが存在さえする前に、それらの出来事が''何を達成したか''に関するメッセージです。[主の]完全な従順の達成、私たちの罪の代価の支払い、神のみ怒りの取り除き、この全世界の、十字架に掛けられよみがえられたメシアであり王であられるイエス様の就任、[この世の]支配や権力の剥奪、死の破壊ーこれらのすべてが、みことばを詳細な解説で解くよう、私たちに要求します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*福音は達成されたこれらすべてのものが、キリストから特定の人々に、行ないによらず信仰によってのみキリストと一つとされることで''転嫁される''と言うことに関するメッセージです。それらをいくつものみことばで解説することで、信仰の性質と原動力を人々に解くことを私たちは要求されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*福音は、十字架で達成されたものがキリストにあって私たちに適用されるに当たり、''今や本物となった私たちの、良い事がら''に関するメッセージです。神が私たちに対し怒りに満ちておられる代わりに、今やただ憐れみ深くあられるということ(なだめの供え物)、私たちは今やキリストにあって義と認められると言うこと(義認)、私たちは罪の定めと罪の力から今や解放されているということ(贖い)、私たちは位置的にまた徐々に聖くされて行くということ(聖化)ーこれらのすべてが、みことばの詳細な解説で、これらの栄光ある現実を週ごとに人々に解くよう、私たちに要求します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*そして最後に、福音は私たちの最終的、永遠の、すべてを満たす宝としての栄光ある''神ご自身について''のメッセージです。「･･･私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス･キリストによって、私たちは''神を''大いに喜んでいるのです」(ローマ5:11)。私たちの宣べ伝える福音は、「''神のかたちであるキリストの栄光にかかわる''福音」(2コリント4:4)です。もし私たちの福音がこの目標、すなわち、赦しと地獄からの救いと永遠のいのちという主の賜物だけでなく、神そのものを楽しむことに到達しないのであるなら、私たちは「キリストの御顔にある神の栄光の福音」(2コリント4:6)を宣べ伝えていません。私たちの最終的目標は、神を知ることと楽しむことです。2コリント4章の最初で見たように、神がご自身を知る知識とご自身を楽しむ楽しみを私たちと分かち合うために、私たちは造られました。これが主が私たちを愛されるという意味です。これが十字架が私たちのために最終的に獲得したものです。そして、主の栄光のうちにある希望に目覚めさせるため、神によって霊感を受けて書かれた聖書 &amp;lt;sup&amp;gt;8&amp;lt;/sup&amp;gt; のすべての箇所が、人々が最大のまた最高の御国の食物で養われるような、最も豊かな解説を求めるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
みことばの解説は、福音がことばとなって私たちのところにやって来られたそのメッセージであるため、またキリストの栄光、すなわち「キリストの測りがたい富」(エペソ3:8)を、その福音のことばのうちに人々が見るよう神が定められたので、絶対不可欠です。聖書のことばと文章と段落を解き、「神のかたちであるキリストの栄光」をあらわす、というのが私たちの使命です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが最後に、''解説的歓喜''というフレーズの二つ目の言葉へと私たちを導いてくれます。もし私たちがそのような福音の解説を、喜ぶことなしに、つまり、明らかにしようとする真理を自分で喜ぶことなしに解説するのなら、私たちは呪われるべきです。パウロが2コリント4:5で、「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト･イエスを宣べ伝えます」と言うとき、彼が「宣べ伝える」と言う言葉に用いるのは、''kerussomen''、つまり、キリストを主として告げる、キリストを主として知らせる、という意味の言葉です。''kerux''—告げ知らせる者、「宣伝者」(1テモテ2:7、2テモテ1:11)は、もし人々が理解できなかったら、自分の言っていることを説明しなければなりません(そのようにして教えることが関わってくるのです)。しかしこの告知者を哲学者や書士や教師と分け隔てるのは、その人が知らせ、つまり私たちの場合、それは無限に良い知らせですが、その知らせを告知する者だと言うことです。それは無限に価値のある知らせです。この世で最も素晴らしい知らせです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この地上のいかなる宝にまさって栄光あり、欲されるべき全世界の創造者は、主に降参し、主の血で買い取られた恩赦を受け、ご自身の御子を救い主、主、宝として自分の人生に受け入れるこの世のどのような者にでも知られ、楽しまれるために、イエス･キリストのうちにご自身をあらわされました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ああ兄弟たちよ、自分の鈍い態度で福音の価値を偽らないでください。最も栄光ある現実の解説は、栄光ある現実です。もしそれが解説的''歓喜''、すなわち心から来る本物でないのなら、福音の価値について何かしらの偽りが語られているのです。福音はすべてを満たすキリストの栄光ではないと、自分の顔や自分の声や自分の人生で語らないでください。福音はすべてを満たすキリストの栄光です。神が皆さんのうちから、その解説が神の真理を価値あるものとする、その喜びが神の栄光を価値あるものとする説教者の世代を起こされますように。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; アーノルド･デリモア著、『ジョージ･ウィットフィールド』第一巻、1970年出版、真理の旗トラスト、ロンドン、16ページ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; クリストファー･キャサーウッド著、『5人の福音派の指導者たち』、ハロルド･ショー出版社、1985年出版、ウィートン、170ページ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; ルカ22：22でイエス様は、十字架は「[神によって]定められた[''horismenon'']」ものと言われ、マタイ25:41では、地獄の火は神によって備えられたものと言われます。「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;4&amp;lt;/sup&amp;gt; アメリカの現場から、福音の中心であり、聖書に明らかに基づいている(イザヤ53:4―6、8―10、ガラテヤ3:13、ローマ8:3)、教会が信じてきたものを前にしての、ジョエル･グリーンの息を飲むようなコメントを考えて見てください。「贖いというものの意味が何であれ、それが神の怒りを鎮めることや神の憐れみの注意をひこうとすることに焦点を置くものであると想像するのは、とんでもない間違いである。･･･聖書全体は贖いの供え物でなだめられる必要のある怒り狂った神の肖像を一切与えない。･･･パウロのイエスの死の理解について言えるものが何であろうが、彼の十字架の神学は神の報いの発展した認識に欠ける。」ジョエル･グリーン著、『十字架のスキャンダルを回復する:新約聖書における贖いと現代における文脈』(2000年出版、インター･バーシティー出版社、ドーナーズグローブ)、51、56ページ。イギリスの現場から、スティーブ･チョークはキリストが私たちの身代わりに神の怒りを背負われたという教えを、「世界的規模の幼児虐待」と呼びます。「事実は、十字架が世界的規模の幼児虐待、すなわち、復讐心に燃えたみ父が、犯したこともない罪のためにご自分の御子を罰せられるのは、世界的規模の幼児虐待である。当然のことながら、ともに教会の中と外にいる人々がこれをねじ曲げられた出来事の見解で、倫理的にうさんくさい、信仰を大きく妨げるものであると気づいている。しかしながらそれより深刻なのは、そのような考えは、「神は愛である」ということばと真っ向から反対する。もし十字架が主の御子によって背負われたものでなく、神が人間に対し実行された個人的暴力的行為であるならば、自分の敵を愛せよ、また悪に悪で報いてはならないというイエス自身の教えをあざ笑うことになる。」『イエスの失われたメッセージ』(2004年出版、ゾンダーバン出版会社、グランド･ラピッズ)、182―183ページ。N. T. ライトは、新約聖書の地獄の言及の「ほとんど」(それは「すべて」と言う意味でしょうか?)は、永遠に意識がある中での苦しみを受ける場所ではなく、私たちは「今日」地獄の教理を「再構築」あるいは「言い直し」する必要があると言います。1) 「自由の賜物」という人間が使用する言葉の観点から、「それらを完全に非人間化する」ことに、そして2) 社会的不公正と不幸の観点から、「この地上での人間の社会的そして共同体生活に関して、同じように適切でそれでいてもっと必要な地獄の聖書的教理がある」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;5&amp;lt;/sup&amp;gt; ディヴィッド･ブランケンホーン編集、『最初の事がら』より、「イスラム教と西欧の論争ーテロリズム、アメリカの政策と中近東に関する世界的論争からの記録」から引用。2006年3月発行、161号、71ページ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;6&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;7&amp;lt;/sup&amp;gt; 「そんなのできっこない」と言って、他のテクニックに移り、人を変える神の方法から離れないように気をつけてください。神のみことばのうちにある主の栄光を見つめるこの過程とは違うやり方や手段で、人を変えることができるかも知れませんが、それはキリストの栄光を拡大する変化でしょうか?すべての変化がキリストをたたえるわけではありません。パウロは2コリント4:3の最初で、「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです」と警鐘を鳴らします。言い換えると彼は自分の福音が全ての人を変えるわけではないと認めているのです。「滅びる人々」は神の栄光を福音のうちに見ることはありません。このため、パウロは自分の戦略を変えないのです。私たちも変えるべきではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;8&amp;lt;/sup&amp;gt; 2テモテ3:16-17、ローマ15:4 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Mon, 02 Jul 2018 19:04:37 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E7%9A%84%E8%AA%AC%E6%95%99%E3%81%AF%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%82%8F%E3%81%91%E7%A5%9E%E3%81%AB%E6%A0%84%E5%85%89%E3%82%92%E3%81%8A%E8%BF%94%E3%81%97%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>なぜ解説的説教はとりわけ神に栄光をお返しするのか</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E7%9A%84%E8%AA%AC%E6%95%99%E3%81%AF%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%82%8F%E3%81%91%E7%A5%9E%E3%81%AB%E6%A0%84%E5%85%89%E3%82%92%E3%81%8A%E8%BF%94%E3%81%97%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|Why Expositional Preaching Is Particularly Glorifying to God}} &amp;lt;br&amp;gt;   このメッセージは4つに分かれています。まず最初に、私たちのこの現代に...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Why Expositional Preaching Is Particularly Glorifying to God}} &amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このメッセージは4つに分かれています。まず最初に、私たちのこの現代に神が起こされるのを見たいと私が切に願うような、神の栄光の重みに形作られた説教について、じっくり考えます。次に、説教にこのように影響を与える神の栄光が一体何かを描きます。三つ目に、人々がどのようにしてこの栄光に目覚め、変えられて行くのかという、私の聖書的理解を提供します。そして最後に、これらのすべてが、どのように、私が''解説的歓喜''と呼ぶような説教を必要とするのかを説明します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の栄光の重みによって生まれるような説教に関する考察  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジョージ･ウィットフィールドは説教の力を信じ、そのために人生を捧げた人です。神はこの説教で、大西洋の両大陸で偉大な救いのみわざを成されました。彼のことを語る伝記作家、アーノルド･デリモアは、ウィットフィールドの説教が18世紀にイギリスとアメリカで与えた驚くべき影響を、年代順に記録しています。それは渇いた地に注ぐ雨のようにやって来て、砂漠に義の花を次々と咲かせました。デリモアはウィットフィールドの時代に枯れた地が変わって行ったところから目を上げて、神がもう一度それを成して下さるよう、切に願いました。ウィットフィールドのような説教者たちの新しい世代を叫び求めました。彼の言葉のうちに、私がこのアメリカと世界中で来るべき説教者たちの世代に私が切に願うものを、見出すことができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「そう、教会の偉大なかしらをもう一度見たい･･･このような栄光ある雇用のうちに、ご自身のために用いることのできる特定の若者たちを起こされるのを。それはどのような者たちであろうか?みことばに堅く立ち、神の偉大さ、威光と、聖さの認識で人生が支配され、素晴らしい恵みの教理で思いも心も輝いている者たちである。それは自分と、人の目標と、個人的野心に死ぬというのがどういうことなのかを学んだ者で、『キリストのために愚かに』なることを喜び、はずかしめとあざけりを身に受け、それでいながら主の偉大なさばきのみ座に進み出るとき、主人の称賛を受ける者たちである。砕けた心と涙であふれた目で説教し、神がその働きに聖霊のたぐいまれなほとばしりをお与えくださり、数多くの人の人生がしるしと不思議によって変えられるのを目撃する者である。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
みことばに堅く立ち、素晴らしい「恵みの教理」の真理で輝き、自己に死んでおり、労することと苦しむことをいとわず、人の称賛に無関心で、罪のゆえに砕かれており、''神の偉大さ、威光、そして聖さの認識に支配されている''。デリモアはウィットフィールドのように、説教とは神のみことばをそのような心から告げることであると信じていました。説教は議論ではありません。説教とは宗教的事がらを気さくに話すことではありません。説教はただ単に教えることではありません。説教とは、神の偉大さと威光と聖さの認識が浸透したメッセージを告げ知らせることです。取り上げる主題は日の下にある何ものでも構いません。しかしそれは神のみことばのうちにある、主の偉大さと威光の燃える光の下に、常に持って来なければなりません。そのようにしてウィットフィールドは説教しました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
20世紀でマーティン･ロイド･ジョーンズ以上にその見解を具体化した人はいません。彼はロンドンのウェストミンスター･チャペルで30年間奉仕をしました。J. I. パッカーが22歳の学生だった頃、彼は1948―1949年度まで、ロンドンでロイド･ジョーンズが説教するのを毎週日曜日聞きました。彼は「そんな説教を聞いたことが一度もなかった」と言います。(多くの人は本物の説教を聞いたことがないので、説教について最小限に評価したり愚かなことを言ったりするのです。彼らには本物の説教の有用性を評価する基盤がありません。)パッカーは自分が知らなかった、「何人にもない神の認識を、電気ショックを受ける力で」受けた、と言います。&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; それがウィットフィールドが意味していたものです。ああ、神の認識で衝撃を受ける霊的感覚、実在の神の無限の重みの認識を、聴く者にもたらす若い説教者を、神が起こして下さったなら! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが私がこの時代、そして皆さんに切に願うものです。すべての国民とすべての軍隊とすべての偽の宗教とすべてのテロリストとすべての津波とすべてのがん細胞と、そして宇宙のすべての銀河系に絶対的権威を持っておられる、十字架に掛けられよみがえられたキリストの福音にあらわされた、神の偉大さと威光と聖さの認識で支配された、心砕かれた、聖書で頭がいっぱいの説教者を、神が何千と起こして下さいますように。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神はご自身の栄光を軽くあしらうことが大したことではないということを伝えるために、キリストの十字架や火の池 &amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; をお定めになったのではありません。神の御子の死と、悔い改めない人間が永遠の地獄へ送られるのは、神が無限に聖いお方で、罪が無限に侮辱であり、み怒りは無限に正しく、恵みが無限に尊いと叫ぶ、天の下の最も大きな叫びであり、私たちの短い人生、そしてあなたの教会とあなたのコミュニティーのすべての人の人生が永遠の喜びか永遠の苦しみのどちらかに至るのです。もし私たちの説教がこれらの事がらの重みを人々に伝えなかったら、何が人々にそれを伝えるでしょうか?ベジー･テールですか?ラジオですか?テレビですか?討論会ですか?突発的な会話ですか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神はご自身の御子が十字架に掛けられること(黙示録13:8、2テモテ1:9)と、地獄が恐ろしい所であるよう(マタイ25:41)、ご計画になりました。そうすれば説教するとき何がかかっているのか、できる限り明確な証言を、私たちが理解することができるからです。説教を真剣にさせるのは、イエス様の血潮にどっぷり浸かり、地獄の火によって署名されている説教者のマントです。それがただのおしゃべりを説教者に変えるマントです。しかしながら不幸にも、今日の福音派の最も有名な声の中には、十字架の恐ろしさや地獄の恐ろしさ、すなわち一方で私たちの受けるべき罰を背負うためにその力のすべてをはぎ取られたお方と、他方で非人間化され、この世の社会的苦痛へ送られる神話的な要素を取り除かれた者を、最小限に抑えるものもあります。&amp;lt;sup&amp;gt;4&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ああ、若い世代がこの世は神についての真剣な認識で圧倒されていないと言うことを見たなら。教会で神の栄光の認識が過剰になると言うことは決してありません。教会で天の国と地獄と罪と救いについて過度に熱心になると言うことは決してありません。そしてそれゆえに、多くのクリスチャンの喜びというのは、一枚の紙切れのように薄っぺらいのです。巨大な世界的宗教の広報担当者が西側の主要な出版会社に手紙を書き、「私たちが皆さんをお招きする第一のものは、イスラム教です。イスラム教は良いものを楽しみ、悪を手と舌と心で制する宗教です。アラーの言葉と宗教が最高のものとして君臨するため、アラーの道で聖戦をする宗教です」 &amp;lt;sup&amp;gt;5&amp;lt;/sup&amp;gt; と言う傍らで、何百万もの人々が107インチのスクリーンでDVDや、携帯ゲームや、ドタバタ喜劇のような礼拝を死ぬほど楽しんでいるのです。そしてこの広報担当者らはファラファル店の前で子どもたちを巻き添えに自爆する自爆テロ犯を公に祝福し、それがパラダイスへの道だと言うのです。これが私たちが説教する世界です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでいて理解できないのは、このキリストをないがしろにする、魂を破壊する時代に、書籍やセミナーや神学校や教会成長専門家たちは、若い牧師たちに、「軽くしろ」「面白くしろ」「何か人を楽しませることをしろ」と言うことしか頭にないのです。これに対し私は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです」(マタイ16:24―25）&amp;lt;sup&amp;gt;6&amp;lt;/sup&amp;gt; と言われるイエス様の霊はどこにあるのか?と尋ねます。「もし右の目が、あなたをつまづかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです」(マタイ5:29)。「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産を全部捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」(ルカ14:33)。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まないものは、わたしの弟子になることができません」(ルカ14:26)。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」(マタイ8:22)。「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」(マルコ10:44)。「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。「中には殺される者もあり･･･ます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません」(ルカ21:16―19)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様に対する教会成長の助言は、「イエス様よ、軽く行こうじゃないか。何か面白いことをしろよ」でしょうか?そして若い牧師たちには、「若い牧師さんよ、やることは何であれ、福音にあるイエスのようになっちゃいかんよ。軽く行かなきゃいけない」でしょうか?永遠を近くに感じる昨今、私の見解から言って、牧師たちに対するそのようなメッセージは益々気が狂っているようにしか思えません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の栄光の肖像  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたが信じる説教の必要性と説教の性質は、神の偉大さと栄光に対するあなたの意識と、人々がその栄光に目覚め、その栄光に生きるようになると言うことをあなたがどのように信じているかに左右されます。ですから次の部では神の栄光の肖像と、三部目には人々がどのようにその栄光に目覚め、それによって変えられていくかについて触れて行きます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書の初めから終わりまで、神の思いとみこころにあるのは、他でもない、神の栄光、すなわち、神の美、主の多方面の完璧さの輝きです。神のあらわされたみわざの要所要所、主がそのみわざにあるご自身の最終的目標をはっきりとされるところでは、その目標は常に同じです。それはご自身の栄光を掲げ、また示すことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の栄光のために私たちを世界の基の置かれる前からお選びになった(エペソ1:6)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の栄光のために私たちを造られた(イザヤ43:7)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の栄光のためにイスラエルをご自身に結びつけられた(エレミヤ13:11)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の栄光のためにご自身の民をエジプトからお救いになった(詩篇106:8)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の栄光のために彼らを捕囚から救い出された(イザヤ48:9-11)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主は異邦人がその栄光のゆえに主を賛美するよう、キリストをこの世にお遣わしになった(ローマ15:9)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主はご自身の民に、食べるのにも飲むのにも、何をするにも、主の栄光をあらわすためにしなさいとご命令になる(1コリント10:31)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*主は贖われたすべての者がその栄光に驚嘆するよう、イエス様を再びお遣わしになる(2テサロニケ1:9-10)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ教会の使命は、「主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で」(詩篇96:3)です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはこれらと何百と言う聖書の他の箇所によって、神に対する最終的忠誠心へと連れ戻されます。神のご自身の栄光に対する情熱に言葉にほとんどならないほどに、ほとんどですが、感銘を受けること以外に、説教に深く影響を与えるものはありません。聖書全体の啓示から明確なのは、神ご自身の最終的忠誠というのは、ご自身を完璧に知ることと、ご自身を無限に愛すること、そしてこの体験を、可能な限りご自身の民と分かち合うことです。神のみわざの一つ一つに、「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしは、わたしの栄光を他の者には与えない」(イザヤ48:11、42:8も参照)と言う旗がひるがえります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永遠から、永遠に存在される、何か他のものになることは決してあられない、常に完全であられる神は、ご自身をご存知であられ、知っておられることを愛して来られました。永遠からご自身の美を見続けて来られ、その見ているものを味わって来られました。ご自身の現実についての主のご理解には欠点がなく、それを楽しまれる主の豊かさは無限です。不完全さがまったくないので、主には必要がまったくおありになりません。悪さをするよう誘惑する欠陥がまったくないので、主には悪に対する傾向性がまったくおありになりません。それゆえ主は考えうるすべての実在するものの中で、最も聖く、最も幸せなお方です。三位一体の個々の交わりのうちにある、無限の美しさに無限に喜ぶその無限の幸せの力以上に素晴らしい幸せを、私たちは思いつくことができません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この体験、すなわち主の栄光を知り、楽しむという体験を分かち合うことが、神がこの世を造られた理由です。主は、主を知るように、主が知っておられるご自身を知るように、また主そのものを楽しむように、私たちを導かれます。事実、主の目的は、ご自身について知っておられる知識と、ご自身のうちにある喜びが、私たちの知識と楽しみとなることです。そうすれば私たちが主ご自身の知識で主を知り、主ご自身の喜びで主を喜ぶからです。これがヨハネ17:26でイエス様が、「わたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです」とみ父に願われる祈りの、その根本的意味です。み父の「栄光の輝き」(ヘブル1:3)、それにはイエス･キリストという名がありますが、そのうちにある知識と喜びが、イエス様が私たちのうちにおられるゆえ、私たちのうちにあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし「神の(主を知り主を楽しむという)この体験を分かち合おうというその目的と、''神の愛''とは、どのように関連しているのか」と聞かれたら、「その体験を分かち合おうとする神の''目的そのもの''が、神の愛です」と言うのがその答えです。神の愛とは、ご自身の栄光の知識と楽しみを私たちと分かち合うその献身です。ヨハネが「神は愛である」と言うとき(1ヨハネ4:8、16)、それはご自身の栄光のうちにある楽しみを分かち合うことこそが、たとえそれがご自身の御子のいのちを犠牲にすることであるとしても、神のご性質である、と言っているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは神のご自身の栄光をあらわすその目的と、その栄光を喜ぶ私たちの喜びが、見事に調和していることを意味します。自分が楽しまないことをたたえることはありません。神は私たちがただ単に主を知ることでは、十分に栄光をお受けになりません。神は私たちが主を知ることと、私たちの人生が主の価値をあらわすようになるほど深く主を喜ぶことで、栄光をお受けになるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様は私たちに神の知る知識と神を喜ぶその喜びを私たちに与えるためのご自身の役割を強調して、二つのことを言われます。主は「子が父を知らせようと心に定めた人のほかには、だれも父を''知る者がありません''」(マタイ11:27)と言われます。また、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、''わたしの喜び''があなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(ヨハネ15:11)とも言われます。言い換えると、私たちは''御子を知る知識で''み父を知り、''御子を喜ぶその喜びで''み父を喜ぶのです。イエス様は私たちを、み父を知るご自身の知識と、み父を喜ぶご自身の喜びを分かち合う者にしてくださったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世がこれを見るようになるのは、第一に、日曜の朝の共同礼拝における私たちの熱心な態度によってではありません。それらは尊いひと時ではありますが、そうではなく、私たちのうちに生まれる変化によってこの世はそれを見るようになるのです。イエス様は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)と言われます。私たちの良い行いを通して輝き、人々に神を見させるその光が、主のすべてを満たす栄光の価値なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは次のように作用します。神の栄光が私たちの人生の宝であるとき、私たちは地上に宝を積まず、主の栄光を広めるために持っているものを費やします。人のものをむやみに欲しがるのではなく、あふれるばかりに気前よくなります。人の称賛を求めるのではなく、神を賛美するうちに自分を忘れてしまいます。罪深い、みだらな楽しみに心をとらわれずに、優れた約束の力によってそれらの根を断ち切るようになります。傷ついた自分のエゴを心のうちで養ったり、恨みを温めたり、復讐心を育んだりせず、神に原因をゆだね、自分を妬むものを祝福するようになります。''すべての罪は、神の栄光をすべてのものにまさって宝としないことから溢れ出ます''。それゆえ神の栄光の真理と価値をあらわすのに最も重要な、目に見える方法は、すべてを満たす神の栄光の湧き水からのみ溢れ出る、へりくだった、献身的に仕える人生という方法です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== この神の栄光にどのように人々は目覚め、変えられていくのか  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今度は人々が神の栄光にどのように目覚め、それによって変えられて行くのかという質問に移ります。それに対し欠くことのできない答えを使徒パウロが、2コリント3:18―4:6で答えます。彼は、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」と言います。主の栄光を見つめつつ、私たちは栄光から栄光へと変えられていきます。これがご自身の御子の似姿へと人々を変えられる神の方法です。そうすれば人々が主の栄光を反映するからです。神に栄光をお返しできるよう変えられるために、私たちは主の栄光をしげしげと見つめるのです。&amp;lt;sup&amp;gt;7&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはどのようにして起こるのでしょうか?(ここで私たちは説教の適用に限りなく近づいています。) パウロは2コリント4:3―4で、私たちがどのように主の栄光を見つめるのか、説明します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです[これが2コリント3:18の成就]。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは福音のうちに、主の栄光を最もはっきりと、また最も重要なものとして見つめます。それは「キリストの栄光にかかわる福音」とパウロが呼ぶほどです。これには説教のとても重要な適用がありますが、それは、主が雲に乗って戻って来られるときに見る主の栄光を、この時代に直接見ることができないとき、''主のみことば''という方法によって私たちがそれを最もはっきりと見るのです。福音はことばのメッセージです。逆説的になりますが、ことばは''聞くもの''であり、栄光は''見るもの''です。それゆえパウロは、私たちはキリストの栄光を主に目で見るのではなく、''耳で''見ると言うのです。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)、なぜならキリストの栄光を見ることは聞くことから来、聞くことはキリストの福音から来るからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
預言者サムエルの人生でこれがどのように表現されているかを考えて見てください。サムエルの時代には、丁度今日神の栄光を見て味わうことがまったくない飢饉があるように、主の幻がほとんど示されませんでした(1サムエル3:1)。しかしながら神は新しい預言者を起こされました。神はどのようにサムエルにご自身をあらわされたでしょうか?あなたやあなたの民にご自身をあらわさるのと同じ方法です。第一サムエル3:21、「主は再びシロで現れた。''主のことばによって''、主が''ご自身''をシロでサムエルに現されたからである。」主はご自身を''ご自身のことばによって''現されました。このようにして私たちの民も主の栄光を見つめ、そして主の栄光を知らせるような人々に変えられて行くのです。またパウロは神の栄光を最も明確に、中心的に現すことばは、福音であると私たちに教えます(2コリント4:4)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 解説的歓喜への間接的招き  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは''解説的歓喜''としての説教という結びのポイントへと最終的に私たちを導いてくれます。もし私たちが神の栄光をこの世であらわすことが主の目的であるのなら、もしその栄光を知ることと楽しむことによって変えられつつあるので、私たちはその栄光をあらわすのであるのなら、もし主の栄光を見つめることによってそれを私たちが知り、楽しむのであるのなら、もしその栄光をキリストの栄光の福音のうちに私たちが最もはっきりと、また中心的に見るのであるのなら、そしてもし福音はことばでこの世にもたらされるメッセージであるのなら、それに追付いするのは、説教者たちがそれらのみことばを明らかにし、それを喜ぶことを神は意図しておられると言うことです。私はそれを''解説的歓喜''と呼びます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一つ一つのことばが重要です。福音には解説され(開かれ、明らかにされ、解明され、はっきりされ、説明され、あらわされ)なければならないと叫び求める多くの事がらがあるので、それは解説的です。福音のメッセージの5つの基本的側面に注目するときに、私たちはこれを見ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*福音は''歴史的出来事''、すなわちキリストのご生涯と死とよみがえりについてのメッセージです。私たちはみことばの詳細な解説でそれを解くよう、要求されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*福音は、私たちがいかなることをも体験する前に、あるいは私たちが存在さえする前に、それらの出来事が''何を達成したか''に関するメッセージです。[主の]完全な従順の達成、私たちの罪の代価の支払い、神のみ怒りの取り除き、この全世界の、十字架に掛けられよみがえられたメシアであり王であられるイエス様の就任、[この世の]支配や権力の剥奪、死の破壊ーこれらのすべてが、みことばを詳細な解説で解くよう、私たちに要求します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*福音は達成されたこれらすべてのものが、キリストから特定の人々に、行ないによらず信仰によってのみキリストと一つとされることで''転嫁される''と言うことに関するメッセージです。それらをいくつものみことばで解説することで、信仰の性質と原動力を人々に解くことを私たちは要求されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*福音は、十字架で達成されたものがキリストにあって私たちに適用されるに当たり、''今や本物となった私たちの、良い事がら''に関するメッセージです。神が私たちに対し怒りに満ちておられる代わりに、今やただ憐れみ深くあられるということ(なだめの供え物)、私たちは今やキリストにあって義と認められると言うこと(義認)、私たちは罪の定めと罪の力から今や解放されているということ(贖い)、私たちは位置的にまた徐々に聖くされて行くということ(聖化)ーこれらのすべてが、みことばの詳細な解説で、これらの栄光ある現実を週ごとに人々に解くよう、私たちに要求します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*そして最後に、福音は私たちの最終的、永遠の、すべてを満たす宝としての栄光ある''神ご自身について''のメッセージです。「･･･私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス･キリストによって、私たちは''神を''大いに喜んでいるのです」(ローマ5:11)。私たちの宣べ伝える福音は、「''神のかたちであるキリストの栄光にかかわる''福音」(2コリント4:4)です。もし私たちの福音がこの目標、すなわち、赦しと地獄からの救いと永遠のいのちという主の賜物だけでなく、神そのものを楽しむことに到達しないのであるなら、私たちは「キリストの御顔にある神の栄光の福音」(2コリント4:6)を宣べ伝えていません。私たちの最終的目標は、神を知ることと楽しむことです。2コリント4章の最初で見たように、神がご自身を知る知識とご自身を楽しむ楽しみを私たちと分かち合うために、私たちは造られました。これが主が私たちを愛されるという意味です。これが十字架が私たちのために最終的に獲得したものです。そして、主の栄光のうちにある希望に目覚めさせるため、神によって霊感を受けて書かれた聖書 &amp;lt;sup&amp;gt;8&amp;lt;/sup&amp;gt; のすべての箇所が、人々が最大のまた最高の御国の食物で養われるような、最も豊かな解説を求めるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
みことばの解説は、福音がことばとなって私たちのところにやって来られたそのメッセージであるため、またキリストの栄光、すなわち「キリストの測りがたい富」(エペソ3:8)を、その福音のことばのうちに人々が見るよう神が定められたので、絶対不可欠です。聖書のことばと文章と段落を解き、「神のかたちであるキリストの栄光」をあらわす、というのが私たちの使命です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが最後に、''解説的歓喜''というフレーズの二つ目の言葉へと私たちを導いてくれます。もし私たちがそのような福音の解説を、喜ぶことなしに、つまり、明らかにしようとする真理を自分で喜ぶことなしに解説するのなら、私たちは呪われるべきです。パウロが2コリント4:5で、「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト･イエスを宣べ伝えます」と言うとき、彼が「宣べ伝える」と言う言葉に用いるのは、''kerussomen''、つまり、キリストを主として告げる、キリストを主として知らせる、という意味の言葉です。''kerux''—告げ知らせる者、「宣伝者」(1テモテ2:7、2テモテ1:11)は、もし人々が理解できなかったら、自分の言っていることを説明しなければなりません(そのようにして教えることが関わってくるのです)。しかしこの告知者を哲学者や書士や教師と分け隔てるのは、その人が知らせ、つまり私たちの場合、それは無限に良い知らせですが、その知らせを告知する者だと言うことです。それは無限に価値のある知らせです。この世で最も素晴らしい知らせです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この地上のいかなる宝にまさって栄光あり、欲されるべき全世界の創造者は、主に降参し、主の血で買い取られた恩赦を受け、ご自身の御子を救い主、主、宝として自分の人生に受け入れるこの世のどのような者にでも知られ、楽しまれるために、イエス･キリストのうちにご自身をあらわされました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ああ兄弟たちよ、自分の鈍い態度で福音の価値を偽らないでください。最も栄光ある現実の解説は、栄光ある現実です。もしそれが解説的''歓喜''、すなわち心から来る本物でないのなら、福音の価値について何かしらの偽りが語られているのです。福音はすべてを満たすキリストの栄光ではないと、自分の顔や自分の声や自分の人生で語らないでください。福音はすべてを満たすキリストの栄光です。神が皆さんのうちから、その解説が神の真理を価値あるものとする、その喜びが神の栄光を価値あるものとする説教者の世代を起こされますように。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; アーノルド･デリモア著、『ジョージ･ウィットフィールド』第一巻、1970年出版、真理の旗トラスト、ロンドン、16ページ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; クリストファー･キャサーウッド著、『5人の福音派の指導者たち』、ハロルド･ショー出版社、1985年出版、ウィートン、170ページ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; ルカ22：22でイエス様は、十字架は「[神によって]定められた[''horismenon'']」ものと言われ、マタイ25:41では、地獄の火は神によって備えられたものと言われます。「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;4&amp;lt;/sup&amp;gt; アメリカの現場から、福音の中心であり、聖書に明らかに基づいている(イザヤ53:4―6、8―10、ガラテヤ3:13、ローマ8:3)、教会が信じてきたものを前にしての、ジョエル･グリーンの息を飲むようなコメントを考えて見てください。「贖いというものの意味が何であれ、それが神の怒りを鎮めることや神の憐れみの注意をひこうとすることに焦点を置くものであると想像するのは、とんでもない間違いである。･･･聖書全体は贖いの供え物でなだめられる必要のある怒り狂った神の肖像を一切与えない。･･･パウロのイエスの死の理解について言えるものが何であろうが、彼の十字架の神学は神の報いの発展した認識に欠ける。」ジョエル･グリーン著、『十字架のスキャンダルを回復する:新約聖書における贖いと現代における文脈』(2000年出版、インター･バーシティー出版社、ドーナーズグローブ)、51、56ページ。イギリスの現場から、スティーブ･チョークはキリストが私たちの身代わりに神の怒りを背負われたという教えを、「世界的規模の幼児虐待」と呼びます。「事実は、十字架が世界的規模の幼児虐待、すなわち、復讐心に燃えたみ父が、犯したこともない罪のためにご自分の御子を罰せられるのは、世界的規模の幼児虐待である。当然のことながら、ともに教会の中と外にいる人々がこれをねじ曲げられた出来事の見解で、倫理的にうさんくさい、信仰を大きく妨げるものであると気づいている。しかしながらそれより深刻なのは、そのような考えは、「神は愛である」ということばと真っ向から反対する。もし十字架が主の御子によって背負われたものでなく、神が人間に対し実行された個人的暴力的行為であるならば、自分の敵を愛せよ、また悪に悪で報いてはならないというイエス自身の教えをあざ笑うことになる。」『イエスの失われたメッセージ』(2004年出版、ゾンダーバン出版会社、グランド･ラピッズ)、182―183ページ。N. T. ライトは、新約聖書の地獄の言及の「ほとんど」(それは「すべて」と言う意味でしょうか?)は、永遠に意識がある中での苦しみを受ける場所ではなく、私たちは「今日」地獄の教理を「再構築」あるいは「言い直し」する必要があると言います。1) 「自由の賜物」という人間が使用する言葉の観点から、「それらを完全に非人間化する」ことに、そして2) 社会的不公正と不幸の観点から、「この地上での人間の社会的そして共同体生活に関して、同じように適切でそれでいてもっと必要な地獄の聖書的教理がある」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;5&amp;lt;/sup&amp;gt; ディヴィッド･ブランケンホーン編集、『最初の事がら』より、「イスラム教と西欧の論争ーテロリズム、アメリカの政策と中近東に関する世界的論争からの記録」から引用。2006年3月発行、161号、71ページ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;6&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;7&amp;lt;/sup&amp;gt; 「そんなのできっこない」と言って、他のテクニックに移り、人を変える神の方法から離れないように気をつけてください。神のみことばのうちにある主の栄光を見つめるこの過程とは違うやり方や手段で、人を変えることができるかも知れませんが、それはキリストの栄光を拡大する変化でしょうか?すべての変化がキリストをたたえるわけではありません。パウロは2コリント4:3の最初で、「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです」と警鐘を鳴らします。言い換えると彼は自分の福音が全ての人を変えるわけではないと認めているのです。「滅びる人々」は神の栄光を福音のうちに見ることはありません。このため、パウロは自分の戦略を変えないのです。私たちも変えるべきではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;8&amp;lt;/sup&amp;gt; 2テモテ3:16-17、ローマ15:4 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Mon, 02 Jul 2018 19:03:20 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E7%9A%84%E8%AA%AC%E6%95%99%E3%81%AF%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%82%8F%E3%81%91%E7%A5%9E%E3%81%AB%E6%A0%84%E5%85%89%E3%82%92%E3%81%8A%E8%BF%94%E3%81%97%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>私たちはどのように私たちの隣人であるイスラム教徒を愛せばいいのか?</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E9%9A%A3%E4%BA%BA%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99%E5%BE%92%E3%82%92%E6%84%9B%E3%81%9B%E3%81%B0%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「私たちはどのように私たちの隣人であるイスラム教徒を愛せばいいのか?」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|How Shall We Love Our Muslim Neighbor?}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
不正を行うのではなく正しいことを行う方法が山ほどあるように、この質問には、答えが沢山あります。「愛は隣人に対して害を与えません」(ローマ13:10)。「[愛は]すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(1コリント13：7)。これらは今日、私たちの時代に強調される必要のあるものではないかと、私は思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[''更新'': 自分の敵を愛する、と触れているのは、すべてのイスラム教徒がクリスチャンに対し敵意を感じ敵意を持って行動している、ということを意味しているのではありません。イスラム教徒はそうではありません。ほとんどの場合、もてなすのが上手で、親切で、世話好きな人たちです。ここでのポイントはたとえ誰か(どんな宗教、あるいは無宗教の人)が私たちを敵意を持ってあしらったとしても、私たちは愛し続けるべきだと言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[今日の文脈では別のことも明確にする必要があります。愛は、肉体的必要を満たすような実践的な方法で人に良いことをするよう求める、と私が言うとき、それはこの助けがイスラム教徒がクリスチャンになることに付随するものであるとは言ってはいません。実践的愛というのは、キリストの愛を証しすることです。その証しは、それが最も必要とされるときに抑えられることはありません。武力や経済力で強要された改宗というのは、救いにいたる信仰そのものの性質と相反します。救いにいたる信仰というのは、イエス様を救い主、主、そして最高の宝として束縛されずに受け入れた結果のものです。主は宝に至る手段ではありません。主が宝そのものなのです。] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. イスラム教徒があなたを愛してくれようがくれまいが、キリストの満ち満ちた祝福があるように祈って下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ルカ6:28 – あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ12:14 - 「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1コリント4:12 - 「はずかしめられえるときにも祝福し、」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. イスラム教徒に対し、肉体的必要を満たすような実践的方法で良いことをしてあげて下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ルカ6:27 - 「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ルカ6:31 - 「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1テサロニケ5:15 - 「だれでも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ12:20 - 「もしあなたの敵が飢えたなら、彼らに食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼らの頭に燃える炭火を積むことになるのです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 個人的に不正を受けたら、復讐してはいけません。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1ペテロ3:9 - 「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ12:17、19 - 「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、･･･愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4. あなたに関する限り、イスラム教徒と平和を保って下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ12:18 - 「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 5. キリストの真理を伝えることによって、彼らに罪からと罪の定めからの喜びの自由が与えられるよう求めて下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ8:31-32 - 「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そしてあなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 6. 道であられるイエス･キリストを見せることによって、彼らがあなたに加わってみ父と共に天の御国に入れるよう、熱心に望んで下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ10:1 - 「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ14:6 - 「イエスは彼らに言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ3:16 - 「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 7. 彼らが言うことの意味を理解するよう心掛けて下さい。そうすればあなたの肯定や批判が、歪められたものや風刺されたものではなく、真に理解したものを基にしたものとなるからです。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1コリント13:6 - 「[愛は]不正を喜ばずに真理を喜びます。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 8. 世の罪を取りのぞかれるイエス･キリストを、十字架にかけられよみがえられた救い主として受け入れない者は、神の怒りのもとで滅びると言うことを、涙を持ってイスラム教徒に警告して下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ1:12 - 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ10:9 - 「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ピリピ3:18 - 「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も''涙をもって''言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 9. 「イスラム教徒はまことの神を礼拝している」と言うことによって、彼らを誤った方向に導いたり、間違った希望を与えたりしないで下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この言い方は、まことの神を知り、愛し、たたえる心を持ったイスラム教徒の好意的な映像をほとんどの人に伝えてしまいます。しかしイエス様は一人の人がご自身に対しどのように応答するかが、その人の神に対する応答が本物であるかどうかを知る、リトマス試験紙にしておられます。そして主は、もしその人がイエス様を罪の身代わりにご自身のいのちをささげられよみがえられた神であると認めない場合、その人はまことの神を知らないし、愛しておらず、たたえていないと、はっきりと言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ8:19 - 「すると、彼らはイエスに言った。『あなたの父はどこにいるのですか。』イエスは答えられた。『あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも'''''知っていた'''''でしょう。』」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ5:23 - 「子を敬わない者は、子を遣わした父をも'''''敬いません'''''。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ5:42-43 -「[イエスは言われた。]『わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、'''''神の愛がありません'''''。わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。』」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イスラム教徒がまことのイエス様をそのまま受け入れないのに、自分はまことの神を「知っている」とか「たたえている」とか「愛している」と言うとき、愛は彼らを、また彼らを気にかける人々を、間違った方向に導きません。私たちは人の心を見ることはできません。彼らがまことの神を知り、たたえ、愛しているかどうかを、私たちはどのようにして知ることができるでしょうか?私たちはイエス様を彼らにすすめるために、いのちを投げ出すのです。もし彼らがイエス様を受け入れるのなら、神を知っており愛しており、たたえているのです。もし彼らがイエス様を受け入れないのなら、彼らは神を知らないし愛していないし、たたえていないのです。イエス様が試験紙です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それがルカ10:16のイエス様のみことばのポイントです。「わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」またマタイ10:40、「わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」そしてヨハネ5:46、「もしあなたがたがモーセを信じているなら、わたしを信じたはずです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イスラム教徒に対して、あるいは誰に対してでも、私たちができる最も愛のあることは、彼らを見捨てるのではなく、犠牲を持って世話し、彼らのために苦しもうと決意し、「むだな礼拝」(マルコ7:7)をやめるよう懇願し、キリストを自分の罪の赦しと永遠のいのちの希望のため、十字架にかけられ、よみがえられた救い主として受け入れるよう懇願することで、イエス･キリストについての真理全体を彼らに伝えることです。世界中のイスラム教徒の中から兄弟姉妹を持つことができるようになることは、私たちの最高の喜びです。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 22 Jun 2018 19:30:57 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E9%9A%A3%E4%BA%BA%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99%E5%BE%92%E3%82%92%E6%84%9B%E3%81%9B%E3%81%B0%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</comments>		</item>
		<item>
			<title>私たちはどのように私たちの隣人であるイスラム教徒を愛せばいいのか?</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E9%9A%A3%E4%BA%BA%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99%E5%BE%92%E3%82%92%E6%84%9B%E3%81%9B%E3%81%B0%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|How Shall We Love Our Muslim Neighbor?}}   不正を行うのではなく正しいことを行う方法が山ほどあるように、この質問には、答えが沢山...&lt;/p&gt;
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&lt;div&gt;{{info|How Shall We Love Our Muslim Neighbor?}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
不正を行うのではなく正しいことを行う方法が山ほどあるように、この質問には、答えが沢山あります。「愛は隣人に対して害を与えません」(ローマ13:10)。「[愛は]すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(1コリント13：7)。これらは今日、私たちの時代に強調される必要のあるものではないかと、私は思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[''更新'': 自分の敵を愛する、と触れているのは、すべてのイスラム教徒がクリスチャンに対し敵意を感じ敵意を持って行動している、ということを意味しているのではありません。イスラム教徒はそうではありません。ほとんどの場合、もてなすのが上手で、親切で、世話好きな人たちです。ここでのポイントはたとえ誰か(どんな宗教、あるいは無宗教の人)が私たちを敵意を持ってあしらったとしても、私たちは愛し続けるべきだと言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[今日の文脈では別のことも明確にする必要があります。愛は、肉体的必要を満たすような実践的な方法で人に良いことをするよう求める、と私が言うとき、それはこの助けがイスラム教徒がクリスチャンになることに付随するものであるとは言ってはいません。実践的愛というのは、キリストの愛を証しすることです。その証しは、それが最も必要とされるときに抑えられることはありません。武力や経済力で強要された改宗というのは、救いにいたる信仰そのものの性質と相反します。救いにいたる信仰というのは、イエス様を救い主、主、そして最高の宝として束縛されずに受け入れた結果のものです。主は宝に至る手段ではありません。主が宝そのものなのです。] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. イスラム教徒があなたを愛してくれようがくれまいが、キリストの満ち満ちた祝福があるように祈って下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ルカ6:28 – あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ12:14 - 「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1コリント4:12 - 「はずかしめられえるときにも祝福し、」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. イスラム教徒に対し、肉体的必要を満たすような実践的方法で良いことをしてあげて下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ルカ6:27 - 「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ルカ6:31 - 「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」&lt;br /&gt;
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*1テサロニケ5:15 - 「だれでも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ12:20 - 「もしあなたの敵が飢えたなら、彼らに食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼らの頭に燃える炭火を積むことになるのです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 個人的に不正を受けたら、復讐してはいけません。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1ペテロ3:9 - 「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ12:17、19 - 「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、･･･愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4. あなたに関する限り、イスラム教徒と平和を保って下さい。 ====&lt;br /&gt;
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*ローマ12:18 - 「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」&lt;br /&gt;
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==== 5. キリストの真理を伝えることによって、彼らに罪からと罪の定めからの喜びの自由が与えられるよう求めて下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ8:31-32 - 「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そしてあなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」&lt;br /&gt;
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==== 6. 道であられるイエス･キリストを見せることによって、彼らがあなたに加わってみ父と共に天の御国に入れるよう、熱心に望んで下さい。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ10:1 - 「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ14:6 - 「イエスは彼らに言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ3:16 - 「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 7. 彼らが言うことの意味を理解するよう心掛けて下さい。そうすればあなたの肯定や批判が、歪められたものや風刺されたものではなく、真に理解したものを基にしたものとなるからです。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1コリント13:6 - 「[愛は]不正を喜ばずに真理を喜びます。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 8. 世の罪を取りのぞかれるイエス･キリストを、十字架にかけられよみがえられた救い主として受け入れない者は、神の怒りのもとで滅びると言うことを、涙を持ってイスラム教徒に警告して下さい。 ====&lt;br /&gt;
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*ヨハネ1:12 - 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ10:9 - 「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ピリピ3:18 - 「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も''涙をもって''言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 9. 「イスラム教徒はまことの神を礼拝している」と言うことによって、彼らを誤った方向に導いたり、間違った希望を与えたりしないで下さい。 ====&lt;br /&gt;
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この言い方は、まことの神を知り、愛し、たたえる心を持ったイスラム教徒の好意的な映像をほとんどの人に伝えてしまいます。しかしイエス様は一人の人がご自身に対しどのように応答するかが、その人の神に対する応答が本物であるかどうかを知る、リトマス試験紙にしておられます。そして主は、もしその人がイエス様を罪の身代わりにご自身のいのちをささげられよみがえられた神であると認めない場合、その人はまことの神を知らないし、愛しておらず、たたえていないと、はっきりと言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ8:19 - 「すると、彼らはイエスに言った。『あなたの父はどこにいるのですか。』イエスは答えられた。『あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも'''''知っていた'''''でしょう。』」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ5:23 - 「子を敬わない者は、子を遣わした父をも'''''敬いません'''''。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ヨハネ5:42-43 -「[イエスは言われた。]『わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、'''''神の愛がありません'''''。わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。』」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イスラム教徒がまことのイエス様をそのまま受け入れないのに、自分はまことの神を「知っている」とか「たたえている」とか「愛している」と言うとき、愛は彼らを、また彼らを気にかける人々を、間違った方向に導きません。私たちは人の心を見ることはできません。彼らがまことの神を知り、たたえ、愛しているかどうかを、私たちはどのようにして知ることができるでしょうか?私たちはイエス様を彼らにすすめるために、いのちを投げ出すのです。もし彼らがイエス様を受け入れるのなら、神を知っており愛しており、たたえているのです。もし彼らがイエス様を受け入れないのなら、彼らは神を知らないし愛していないし、たたえていないのです。イエス様が試験紙です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それがルカ10:16のイエス様のみことばのポイントです。「わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」またマタイ10:40、「わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」そしてヨハネ5:46、「もしあなたがたがモーセを信じているなら、わたしを信じたはずです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イスラム教徒に対して、あるいは誰に対してでも、私たちができる最も愛のあることは、彼らを見捨てるのではなく、犠牲を持って世話し、彼らのために苦しもうと決意し、「むだな礼拝」(マルコ7:7)をやめるよう懇願し、キリストを自分の罪の赦しと永遠のいのちの希望のため、十字架にかけられ、よみがえられた救い主として受け入れるよう懇願することで、イエス･キリストについての真理全体を彼らに伝えることです。世界中のイスラム教徒の中から兄弟姉妹を持つことができるようになることは、私たちの最高の喜びです。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 22 Jun 2018 19:30:43 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E9%9A%A3%E4%BA%BA%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99%E5%BE%92%E3%82%92%E6%84%9B%E3%81%9B%E3%81%B0%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</comments>		</item>
		<item>
			<title>なぜ私たちは生まれ変わらなければならない のか? パート1</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%91%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84_%E3%81%AE%E3%81%8B%3F_%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%881</link>
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&lt;hr /&gt;
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			<pubDate>Tue, 19 Jun 2018 00:42:18 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%91%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84_%E3%81%AE%E3%81%8B%3F_%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%881</comments>		</item>
		<item>
			<title>なぜ私たちは生まれ変わらなければならない のか?</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%91%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84_%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</link>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | Why Do We Need to Be Born Again?}} &lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;'''エペソ 2:1-10''' 1あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、2そのころは、そ れらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も 不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。3私たちもみな、か つては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むま まを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでし た。4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆ えに、5罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたが たが救われたのは、ただ恵みによるのです。―6キリスト・イエスにおいて、ともに よみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。7それは、あとに来る 世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに 賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。8あなたがたは、恵みのゆ えに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神 からの賜物です。9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためで す。10私たちは神の作品であって、良い行ないをするために、キリスト・イエスに あって造られたのである。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行な いをもあらかじめ備えてくださったのです。 &amp;lt;/blockquote&amp;gt; &lt;br /&gt;
神についてこれまで書かれた最も素晴らしい本の一つ、すなわち、ジャン・カルヴァンの 「綱要(Institutes )」は、この一文で始まる―「私たちの所有する知恵のほとんど、すな わち、まことのそして堅実な知恵は二つの部分から成り立っている。―神を知る知識と 私たち自身を知る知識である。」今日私たちが思い出さなければならないのは、神の知 識は理解し受け入れることが難しいわけではなく―それは多少明白である―しかし私た ち自身を知る知識も同じように、理解し受けいれることが難しい、ということである。事実、 それはもっと難しいかも知れない。なぜなら、まず第一に、私たち自身を知るまことの知 識は、神を知るまことの知識を当然のものとして決めてかかるからであり、そして第二に、 私たちの状態の真相が、実は神の助けなしには理解できないものであるにも関わらず、 私たちは、自分自身のことを知っていると思いがちだからである。だれが人の心を知る ことができるのか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
預言者エレミヤはこう記す、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それ を知ることができよう。」(エレミヤ17:9)と。 ダビデも詩篇19:12で言う、「だれが自分 の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください」 と。 言い換えると、私たちは私たち自身の罪深さの根底に辿り着くことはないのである。 もし罪の赦しが、私たちの罪を知る知識の完全さによって決まるのであったなら、私たち はみな、滅んでいたであろう。だれも自分の罪深さの程度を知る者はいない。それは誰 が知るよりも深い。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし聖書は、私たち自身を知るための助けなしには、私たちを放ってはおかない。私 たちがいかに罪深いか十分に理解できないという事実は、私たちがいかに罪深いかを 深く知ることができない、という意味ではない。聖書には私たち自身の魂の状態につい て、明確で衝撃的なメッセージがある。なぜ聖書にそのようなメッセージがあるのかと言 うと、そうすれば私たちが何が必要かを理解し、神がそれを私たちに与えてくださるとき、 喜びで叫ぶからである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜ私たちは生まれ変わらなければならないのか?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは、新生のシリーズにある。イエスがヨハネ3:7で、「あなたがたは新しく生まれ なければならない」と言われるのを、私たちは聞いてきた。またヨハネ3:3、「人は、新し く生まれなければ、神の国を見ることはできません。」とも。言い換えるならば、新しく生 まれ変わるということは、非常に重要なことである。天と地獄が天秤にかかっている。私 たちは新しく生まれ変わらなければ、神の国を見ることはない。そこで今日の質問は、 「なぜ?」である。なぜ新しく生まれ変わることはそんなに必要なのか?なぜ新しく出直す ことや、道徳の向上や、自己訓練のような、他の改善方法は十分ではないのか?なぜこ の究極の、霊的な、超自然的なものは、新生あるいは再生と呼ばれるのか?それが今 日と来週、私たちが答えようとする質問である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 診断:私たちは死んでいる  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初に私たちがとるみことばは、エペソ2章である。1節と5節で二度、パウロは、自分 の罪過にあって私たちは死んでいる、と言う。1節、「あなたは自分の罪過と罪との中に 死んでいた者であって、...」 4-5節、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してく ださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生 かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―」というわけで、パウロ は二度、私たちを「死んでいた者」として表現する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 改善方法:「神が私たちを生かしてくださった」  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこの状態に対する改善方法は5節、「神は私たちを生かしてくださった」である。 もし主の愛を、あなたの以前の死んだ状態に関係して理解しないなら、神のあなたに対 する愛の卓越した豊かさを体験することは決してない。なぜなら4節で、主の愛の大き さはこれに詳細に現わされているからである―それが死んでいた私たちを生かすから である。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえ に、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」。主の私たちに対する 大きな愛のゆえ、主は私たちを生かしてくださった。もしあなたが死んでいた者であるこ とを知らないのならば、神の愛の豊かさを知ることはない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はこの、「神は私たちを生かしてくださった」という奇跡を、イエスが呼ばれる新生とほ とんど同じものであると捉える。私たちはかつて霊的いのちのまったくないものであった が、神は霊的死の状態から私たちをよみがえらせられた。そして今や、私たちは生きて いる。これはイエスが言われる、私たちは御霊によって生まれなければならない(ヨハネ 3:5)、そして「いのちを与えるのは御霊です」(ヨハネ6:63)というものと同じである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新契約の愛  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それで、再生のわざ、新生のわざ、生きかえらせるわざは、神の憐れみの豊かさとその 愛の大きさから溢れ出る。「しかし、(1)あわれみ豊かな神は、(2)私たちを愛してくださっ たその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」。 これは新契約の愛である。これは、神がご自身の花嫁に持たれるような、愛である。主 は花嫁が死んでいるのを発見され(エゼキエル16:4-8)、それからご自身の御子を彼 女の身代わりに死ぬためにお与えになり、そして彼女を生き返らせられる。そして主は 彼女を永遠に保持されるのである。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」イエスは 言われる、「彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去る ようなことはありません」(ヨハネ10:28)と。なぜ、新しく生まれ変わることは必要なのか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで質問は、「これはどういう意味か?この死んだ状態とは?」である。少なくとも10の 答えが新約聖書にはある。もしわたしたちがそれらの答えを、正直に、そして祈り心を 持って熟慮するならば、私たちは深くへりくだらされ、新生の賜物に驚かされる。そこで 私が目標とするのは、そのうちの7つを今日話し、残りの3つをより大きな質問と共に 語る。それらの質問は、「私たちは本当に変えられなければならないのか?ただ赦され、 義と認められるだけではいけないのか?それが私たちを天に辿りつかせてくれるもので はないのか?」であるが、次回に取っておこう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下が新生から離れての私たちの状態と、なぜ新生がそんなに必要なのかという、7つ の聖書的説明である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 1. 新生から離れては、私たちは罪過と罪の中で死んでいる(エペソ2:1‐2)。  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
死はいのちがないことを意味する。肉体的、あるいは道徳的いのちがないということで はない。2節、私たちはこの世に「従って」、「歩んで」いる。3節、私たちには肉の「欲」 があり、「肉と心の望むまま」を行う。というわけで、私たちは罪を犯すことができないと いう意味で、死んでいるわけではない。私たちは、キリストの栄光を見る、あるいは感じ ることができないという意味で、死んでいる。私たちは霊的に死んでいる。私たちは神と キリストと、このみことばに反応しない。新生が起こる以前の私たちの状態を展開する 残り9つの表現を考えてみよ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 2. 新生から離れては、私たちは生まれながらにみ怒りを受けるべき子らである(エペソ 2:3)。  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3節、「私たちもみな、...ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき 子らでした。」ここでのポイントは、私たちの問題は、私たちの行ないにあるのではなく、 私たちが何であるかということにある、ということを明確にすることである。新生から離れ ては、私が私の問題である。あなたは私の主要な問題ではない。私の両親は私の主要 な問題ではない。私の敵は私の主要な問題ではない。私が、私の主要な問題である。 私の行ないではなく、私の周囲の環境でもなく、また私の人生における人々でもなく、私 の性質が、私の最も深い個人的問題である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は最初はよい性質を持っていたが、後になって悪いことをするようになり、悪い性質を 持つようになったのではない。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は 私をみごもりました」(詩篇51:5)。これが私である。私の性質は、わがままで、自己中心 で、要求が激しく、あなたが問題であるかのように感じさせることにとてもたけている。 も しこの陳述に対するあなたの最初の反応が、「そのような人たちを私は知っている」であ るならば、あなたはあなた自身の心の欺きに完全に盲目であろう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは新生以前の私たちの性質を、「御怒りを受けるべき子ら」と表現する。言い換え るならば、神のみ怒りは、親が子に属するように、私たちに属する。私たちの性質はとて も不従順で、とてもわがままで、神の荘厳さにとても無感覚で、神の聖いみ怒りは私た ちに対して自然でもっともな反応である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 3. 新生から離れては、私たちは闇を愛し光を嫌う(ヨハネ3:19‐20)。  =====&lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛し た。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明 るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。(ヨハネ3:19-20) &amp;lt;/blockquote&amp;gt; &lt;br /&gt;
このイエスのことばは、新生から離れての私たちの性質がいかなるものかの一部分を、 詳細に説明する。私たちは、霊的光が近づくとき、中立の人ではない。私たちはそれを 拒否する。また私たちは、闇が私たちを包むとき、中立の人ではない。私たちはそれを 受け入れる。愛と憎しみは再生されてない心のなかで活発である。そしてそれらはまさ に間違った方向に移動する―愛すべきものを憎み、憎むべきものを愛する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 4. 新生から離れては、私たちの心は石のように頑なである(エゼキエル36:26、エペソ 4:18)。  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先週私たちは、エゼキエル36:26から、神が「わたしはあなたがたのからだから石の心 を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」と言われる箇所を見た。エペソ4:18では、 パウロは、暗闇、疎外、無知、心のかたくなさへと私たちの状態をたどる。「彼らは、その 知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのち から遠く離れています。」私たちの問題の根底は、無知ではない。それより深いものが ある。「彼らのうちにある無知は、かたくなな心のゆえ(原文)」である。私たちの無知は、 有罪の無知であり、罪のない無知ではない。それはかたくなで抵抗する心に根付いたも のである。パウロはローマ1:18で、私たちは不義をもって真理をはばむと言う。無知は 私たちの最も大きな問題ではない。かたくなさと抵抗が、である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 5. 新生から離れては、私たちは神に従うことや、神を喜ばせることができない(ローマ 8:7‐8)。  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ8:7でパウロは言う、「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは 神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にあるものは神を喜ばせるこ とができません」と。私たちは、次の節からパウロが「肉の思い」と「肉にある者」の意味 が何であるかを言い当てることができる。9節で彼は言う、「けれども、もし神の御霊が あなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中に いるのです」と。言い換えると、パウロは生まれ変わって御霊を持っている者と、生まれ 変わっておらず御霊を持っておらずただ肉を持っている者とを対比させているのである。 御霊によって生まれた者は霊で、肉によって生まれた者は肉である(ヨハネ3:6)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロのポイントは、御霊なしには、私たちの心は神の権威を拒否し、それだから、私 たちは神に従わない、そしてそれゆえ、従うことができない、ということである。「肉の思 いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従 できないのです。」そしてもし私たちが神に服従することができないのであるなら、神を 喜ばせることはできない。「肉にある者は神を喜ばせることができません。」神が私たち を生まれ変わらせてくださらない限り、私たちは神に対し、そのように死んでおり、暗く、 かたくななのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 6. 新生から離れては、私たちは福音を受け入れることができない(エペソ4:18、1コリ ント2:14)  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1コリント2:14で、パウロは、私たちができない事柄の理由が、この死んでかたくなな 状態にあることを意味する他の一瞥を私たちに見せてくれる。彼は言う、「生まれながら の人間(つまり、生まれながらの再生されていない人)は、神の御霊に属することを受け 入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。 なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです」と。問題は神に属する ことがらが、彼にとって知的な面で複雑すぎて理解できないということではない。問題は、 彼がそれらを愚かなこととしてとらえることである。「生まれながらの人間は、神の御霊 に属することを受け入れません。(なぜなら)それらは彼には愚かなことだからです。」事 実、それらは彼にとってとても愚か過ぎて、悟ることができないのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは道徳的に「できない」ことであって、肉体的に「できない」ことではないことに、注意 せよ。パウロが「生まれながらの人間は...それを悟ることができません」というとき、そ の心がそれらを受け入れることを非常に強く拒み過ぎて、それらを愚かであるととらえる ことによって、その思いが不従順な心を正しいとするのである。この不従順は非常に堅 く完成され過ぎており、その心は御霊に属することがらを本当に受け入れることができ ない。これが本物の不能性である。しかし強要された不能性ではない。再生されていな い者はできない、なぜなら彼はしないからである。彼の罪を好むことが強すぎて、良いこ とを選ぶことができない。それは本物で恐ろしい束縛である。しかしそれは、悪意のない 束縛ではない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 7. 新生から離れては、私たちはキリストに来ること、あるいはキリストを主として受け入 れることができない(ヨハネ6:44、1コリント12:3)。  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1コリント12:3でパウロは宣言する、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主 です。』と言うことはできません」と。舞台に立った俳優、あるいは教会の偽善者が「イエ スは主である」と、聖霊なしに言うことはできない、ということを、彼は意味しているので はない。御霊によって生まれなければ、だれもそれを言うことはできないし、それが本当 であると心から意味することができないということを、パウロは意味しているのである。 生まれ変わることなしには、死んで、暗く、かたくなな、拒絶する心が、イエスの彼のい のちにある支配をほめたたえることは、道徳的に不可能である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは、イエスがヨハネ6章で言われるように、み父が引き寄せてくださらない限り、 誰も主のみもとに来ることはできない。そして人がその引き寄せによってイエスとの生き た関係に導かれるとき、私たちはそれを新生と呼ぶ。37節、「父がわたしにお与えにな る者はみな、わたしのところに来ます。」44節、「わたしを遣わした父が引き寄せられな いかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」65節、「父のみこころによる のでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。」これらすべての素晴らし い引き寄せ、許可、授与のわざは、再生における神のみわざである。それらなしには、 私たちはキリストのみもとに来ることはできない。なぜなら、私たちはみもとに来たいと 思わないからである。それが新生において変えられなければならないものである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 個人的、急を要する応答  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ新生が必要なのか、言うべき事はもっとあるが、今日はこれで十分である。エペソ 2:4‐5の希望に満ちた驚くべきみことばにもどって、結びとする、「しかし、あわれみ豊か な神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの 私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるので す」 。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このみことばに応答する二つの方法がある。一つは論理的で非個人的であり、もう一つ は個人的で緊急である。ある人はこのように言う、「どのようにしてこうなるのであろう、 どのようにしてあのようになるであろう?」他の者が言う、「神は私をここに導いてくださっ た。神はこれらのみことばを通して私に語られた。神の憐れみと愛と恵みは今日、私に とってとても必要なものであり、美しいもののように思われる。ああ主よ、今日、私をここ に導き、覚醒させ、和らげ、開いてくれたあなたのその驚くべき恵みに従います。その憐 れみの豊かさと、愛の大きさと、恵みの力のゆえに、主に感謝。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 19 Jun 2018 00:42:18 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%91%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84_%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</comments>		</item>
		<item>
			<title>なぜ私たちは生まれ変わらなければならない のか?</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%91%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84_%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | Why Do We Need to Be Born Again?}} &lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;'''エペソ 2:1-10''' 1あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、2そのころは、そ れらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も 不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。3私たちもみな、か つては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むま まを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでし た。4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆ えに、5罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたが たが救われたのは、ただ恵みによるのです。―6キリスト・イエスにおいて、ともに よみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。7それは、あとに来る 世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに 賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。8あなたがたは、恵みのゆ えに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神 からの賜物です。9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためで す。10私たちは神の作品であって、良い行ないをするために、キリスト・イエスに あって造られたのである。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行な いをもあらかじめ備えてくださったのです。 &amp;lt;/blockquote&amp;gt; &lt;br /&gt;
神についてこれまで書かれた最も素晴らしい本の一つ、すなわち、ジャン・カルヴァンの 「綱要(Institutes )」は、この一文で始まる―「私たちの所有する知恵のほとんど、すな わち、まことのそして堅実な知恵は二つの部分から成り立っている。―神を知る知識と 私たち自身を知る知識である。」今日私たちが思い出さなければならないのは、神の知 識は理解し受け入れることが難しいわけではなく―それは多少明白である―しかし私た ち自身を知る知識も同じように、理解し受けいれることが難しい、ということである。事実、 それはもっと難しいかも知れない。なぜなら、まず第一に、私たち自身を知るまことの知 識は、神を知るまことの知識を当然のものとして決めてかかるからであり、そして第二に、 私たちの状態の真相が、実は神の助けなしには理解できないものであるにも関わらず、 私たちは、自分自身のことを知っていると思いがちだからである。だれが人の心を知る ことができるのか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
預言者エレミヤはこう記す、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それ を知ることができよう。」(エレミヤ17:9)と。 ダビデも詩篇19:12で言う、「だれが自分 の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください」 と。 言い換えると、私たちは私たち自身の罪深さの根底に辿り着くことはないのである。 もし罪の赦しが、私たちの罪を知る知識の完全さによって決まるのであったなら、私たち はみな、滅んでいたであろう。だれも自分の罪深さの程度を知る者はいない。それは誰 が知るよりも深い。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし聖書は、私たち自身を知るための助けなしには、私たちを放ってはおかない。私 たちがいかに罪深いか十分に理解できないという事実は、私たちがいかに罪深いかを 深く知ることができない、という意味ではない。聖書には私たち自身の魂の状態につい て、明確で衝撃的なメッセージがある。なぜ聖書にそのようなメッセージがあるのかと言 うと、そうすれば私たちが何が必要かを理解し、神がそれを私たちに与えてくださるとき、 喜びで叫ぶからである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜ私たちは生まれ変わらなければならないのか?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは、新生のシリーズにある。イエスがヨハネ3:7で、「あなたがたは新しく生まれ なければならない」と言われるのを、私たちは聞いてきた。またヨハネ3:3、「人は、新し く生まれなければ、神の国を見ることはできません。」とも。言い換えるならば、新しく生 まれ変わるということは、非常に重要なことである。天と地獄が天秤にかかっている。私 たちは新しく生まれ変わらなければ、神の国を見ることはない。そこで今日の質問は、 「なぜ?」である。なぜ新しく生まれ変わることはそんなに必要なのか?なぜ新しく出直す ことや、道徳の向上や、自己訓練のような、他の改善方法は十分ではないのか?なぜこ の究極の、霊的な、超自然的なものは、新生あるいは再生と呼ばれるのか?それが今 日と来週、私たちが答えようとする質問である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 診断:私たちは死んでいる  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初に私たちがとるみことばは、エペソ2章である。1節と5節で二度、パウロは、自分 の罪過にあって私たちは死んでいる、と言う。1節、「あなたは自分の罪過と罪との中に 死んでいた者であって、...」 4-5節、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してく ださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生 かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―」というわけで、パウロ は二度、私たちを「死んでいた者」として表現する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 改善方法:「神が私たちを生かしてくださった」  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこの状態に対する改善方法は5節、「神は私たちを生かしてくださった」である。 もし主の愛を、あなたの以前の死んだ状態に関係して理解しないなら、神のあなたに対 する愛の卓越した豊かさを体験することは決してない。なぜなら4節で、主の愛の大き さはこれに詳細に現わされているからである―それが死んでいた私たちを生かすから である。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえ に、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」。主の私たちに対する 大きな愛のゆえ、主は私たちを生かしてくださった。もしあなたが死んでいた者であるこ とを知らないのならば、神の愛の豊かさを知ることはない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はこの、「神は私たちを生かしてくださった」という奇跡を、イエスが呼ばれる新生とほ とんど同じものであると捉える。私たちはかつて霊的いのちのまったくないものであった が、神は霊的死の状態から私たちをよみがえらせられた。そして今や、私たちは生きて いる。これはイエスが言われる、私たちは御霊によって生まれなければならない(ヨハネ 3:5)、そして「いのちを与えるのは御霊です」(ヨハネ6:63)というものと同じである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新契約の愛  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それで、再生のわざ、新生のわざ、生きかえらせるわざは、神の憐れみの豊かさとその 愛の大きさから溢れ出る。「しかし、(1)あわれみ豊かな神は、(2)私たちを愛してくださっ たその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」。 これは新契約の愛である。これは、神がご自身の花嫁に持たれるような、愛である。主 は花嫁が死んでいるのを発見され(エゼキエル16:4-8)、それからご自身の御子を彼 女の身代わりに死ぬためにお与えになり、そして彼女を生き返らせられる。そして主は 彼女を永遠に保持されるのである。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」イエスは 言われる、「彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去る ようなことはありません」(ヨハネ10:28)と。なぜ、新しく生まれ変わることは必要なのか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで質問は、「これはどういう意味か?この死んだ状態とは?」である。少なくとも10の 答えが新約聖書にはある。もしわたしたちがそれらの答えを、正直に、そして祈り心を 持って熟慮するならば、私たちは深くへりくだらされ、新生の賜物に驚かされる。そこで 私が目標とするのは、そのうちの7つを今日話し、残りの3つをより大きな質問と共に 語る。それらの質問は、「私たちは本当に変えられなければならないのか?ただ赦され、 義と認められるだけではいけないのか?それが私たちを天に辿りつかせてくれるもので はないのか?」であるが、次回に取っておこう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下が新生から離れての私たちの状態と、なぜ新生がそんなに必要なのかという、7つ の聖書的説明である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 1. 新生から離れては、私たちは罪過と罪の中で死んでいる(エペソ2:1‐2)。  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
死はいのちがないことを意味する。肉体的、あるいは道徳的いのちがないということで はない。2節、私たちはこの世に「従って」、「歩んで」いる。3節、私たちには肉の「欲」 があり、「肉と心の望むまま」を行う。というわけで、私たちは罪を犯すことができないと いう意味で、死んでいるわけではない。私たちは、キリストの栄光を見る、あるいは感じ ることができないという意味で、死んでいる。私たちは霊的に死んでいる。私たちは神と キリストと、このみことばに反応しない。新生が起こる以前の私たちの状態を展開する 残り9つの表現を考えてみよ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 2. 新生から離れては、私たちは生まれながらにみ怒りを受けるべき子らである(エペソ 2:3)。  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3節、「私たちもみな、...ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき 子らでした。」ここでのポイントは、私たちの問題は、私たちの行ないにあるのではなく、 私たちが何であるかということにある、ということを明確にすることである。新生から離れ ては、私が私の問題である。あなたは私の主要な問題ではない。私の両親は私の主要 な問題ではない。私の敵は私の主要な問題ではない。私が、私の主要な問題である。 私の行ないではなく、私の周囲の環境でもなく、また私の人生における人々でもなく、私 の性質が、私の最も深い個人的問題である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は最初はよい性質を持っていたが、後になって悪いことをするようになり、悪い性質を 持つようになったのではない。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は 私をみごもりました」(詩篇51:5)。これが私である。私の性質は、わがままで、自己中心 で、要求が激しく、あなたが問題であるかのように感じさせることにとてもたけている。 も しこの陳述に対するあなたの最初の反応が、「そのような人たちを私は知っている」であ るならば、あなたはあなた自身の心の欺きに完全に盲目であろう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは新生以前の私たちの性質を、「御怒りを受けるべき子ら」と表現する。言い換え るならば、神のみ怒りは、親が子に属するように、私たちに属する。私たちの性質はとて も不従順で、とてもわがままで、神の荘厳さにとても無感覚で、神の聖いみ怒りは私た ちに対して自然でもっともな反応である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 3. 新生から離れては、私たちは闇を愛し光を嫌う(ヨハネ3:19‐20)。  =====&lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛し た。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明 るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。(ヨハネ3:19-20) &amp;lt;/blockquote&amp;gt; &lt;br /&gt;
このイエスのことばは、新生から離れての私たちの性質がいかなるものかの一部分を、 詳細に説明する。私たちは、霊的光が近づくとき、中立の人ではない。私たちはそれを 拒否する。また私たちは、闇が私たちを包むとき、中立の人ではない。私たちはそれを 受け入れる。愛と憎しみは再生されてない心のなかで活発である。そしてそれらはまさ に間違った方向に移動する―愛すべきものを憎み、憎むべきものを愛する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 4. 新生から離れては、私たちの心は石のように頑なである(エゼキエル36:26、エペソ 4:18)。  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先週私たちは、エゼキエル36:26から、神が「わたしはあなたがたのからだから石の心 を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」と言われる箇所を見た。エペソ4:18では、 パウロは、暗闇、疎外、無知、心のかたくなさへと私たちの状態をたどる。「彼らは、その 知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのち から遠く離れています。」私たちの問題の根底は、無知ではない。それより深いものが ある。「彼らのうちにある無知は、かたくなな心のゆえ(原文)」である。私たちの無知は、 有罪の無知であり、罪のない無知ではない。それはかたくなで抵抗する心に根付いたも のである。パウロはローマ1:18で、私たちは不義をもって真理をはばむと言う。無知は 私たちの最も大きな問題ではない。かたくなさと抵抗が、である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 5. 新生から離れては、私たちは神に従うことや、神を喜ばせることができない(ローマ 8:7‐8)。  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ8:7でパウロは言う、「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは 神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にあるものは神を喜ばせるこ とができません」と。私たちは、次の節からパウロが「肉の思い」と「肉にある者」の意味 が何であるかを言い当てることができる。9節で彼は言う、「けれども、もし神の御霊が あなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中に いるのです」と。言い換えると、パウロは生まれ変わって御霊を持っている者と、生まれ 変わっておらず御霊を持っておらずただ肉を持っている者とを対比させているのである。 御霊によって生まれた者は霊で、肉によって生まれた者は肉である(ヨハネ3:6)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロのポイントは、御霊なしには、私たちの心は神の権威を拒否し、それだから、私 たちは神に従わない、そしてそれゆえ、従うことができない、ということである。「肉の思 いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従 できないのです。」そしてもし私たちが神に服従することができないのであるなら、神を 喜ばせることはできない。「肉にある者は神を喜ばせることができません。」神が私たち を生まれ変わらせてくださらない限り、私たちは神に対し、そのように死んでおり、暗く、 かたくななのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 6. 新生から離れては、私たちは福音を受け入れることができない(エペソ4:18、1コリ ント2:14)  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1コリント2:14で、パウロは、私たちができない事柄の理由が、この死んでかたくなな 状態にあることを意味する他の一瞥を私たちに見せてくれる。彼は言う、「生まれながら の人間(つまり、生まれながらの再生されていない人)は、神の御霊に属することを受け 入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。 なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです」と。問題は神に属する ことがらが、彼にとって知的な面で複雑すぎて理解できないということではない。問題は、 彼がそれらを愚かなこととしてとらえることである。「生まれながらの人間は、神の御霊 に属することを受け入れません。(なぜなら)それらは彼には愚かなことだからです。」事 実、それらは彼にとってとても愚か過ぎて、悟ることができないのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは道徳的に「できない」ことであって、肉体的に「できない」ことではないことに、注意 せよ。パウロが「生まれながらの人間は...それを悟ることができません」というとき、そ の心がそれらを受け入れることを非常に強く拒み過ぎて、それらを愚かであるととらえる ことによって、その思いが不従順な心を正しいとするのである。この不従順は非常に堅 く完成され過ぎており、その心は御霊に属することがらを本当に受け入れることができ ない。これが本物の不能性である。しかし強要された不能性ではない。再生されていな い者はできない、なぜなら彼はしないからである。彼の罪を好むことが強すぎて、良いこ とを選ぶことができない。それは本物で恐ろしい束縛である。しかしそれは、悪意のない 束縛ではない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 7. 新生から離れては、私たちはキリストに来ること、あるいはキリストを主として受け入 れることができない(ヨハネ6:44、1コリント12:3)。  =====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1コリント12:3でパウロは宣言する、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主 です。』と言うことはできません」と。舞台に立った俳優、あるいは教会の偽善者が「イエ スは主である」と、聖霊なしに言うことはできない、ということを、彼は意味しているので はない。御霊によって生まれなければ、だれもそれを言うことはできないし、それが本当 であると心から意味することができないということを、パウロは意味しているのである。 生まれ変わることなしには、死んで、暗く、かたくなな、拒絶する心が、イエスの彼のい のちにある支配をほめたたえることは、道徳的に不可能である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは、イエスがヨハネ6章で言われるように、み父が引き寄せてくださらない限り、 誰も主のみもとに来ることはできない。そして人がその引き寄せによってイエスとの生き た関係に導かれるとき、私たちはそれを新生と呼ぶ。37節、「父がわたしにお与えにな る者はみな、わたしのところに来ます。」44節、「わたしを遣わした父が引き寄せられな いかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」65節、「父のみこころによる のでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。」これらすべての素晴らし い引き寄せ、許可、授与のわざは、再生における神のみわざである。それらなしには、 私たちはキリストのみもとに来ることはできない。なぜなら、私たちはみもとに来たいと 思わないからである。それが新生において変えられなければならないものである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 個人的、急を要する応答  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ新生が必要なのか、言うべき事はもっとあるが、今日はこれで十分である。エペソ 2:4‐5の希望に満ちた驚くべきみことばにもどって、結びとする、「しかし、あわれみ豊か な神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの 私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるので す」 。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このみことばに応答する二つの方法がある。一つは論理的で非個人的であり、もう一つ は個人的で緊急である。ある人はこのように言う、「どのようにしてこうなるのであろう、 どのようにしてあのようになるであろう?」他の者が言う、「神は私をここに導いてくださっ た。神はこれらのみことばを通して私に語られた。神の憐れみと愛と恵みは今日、私に とってとても必要なものであり、美しいもののように思われる。ああ主よ、今日、私をここ に導き、覚醒させ、和らげ、開いてくれたあなたのその驚くべき恵みに従います。その憐 れみの豊かさと、愛の大きさと、恵みの力のゆえに、主に感謝。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 19 Jun 2018 00:41:40 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%91%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84_%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</comments>		</item>
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			<title>なぜ私たちは生まれ変わらなければならない のか? パート 2</title>
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			<description>&lt;p&gt;Pcain: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ info | Free at Last: The Miracle of New Birth}} &lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;'''1 ヨハネ1:1-10'''&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt; 1初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさ わったもの、すなわち、いのちのことばについて、2―このいのちが現われ、私た ちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えま す。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。―3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私た ちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエ ス・キリストとの交わりです。4私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜 びが全きものとなるためです。5神は光であって、神のうちには暗いところが少し もない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいる なら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。7しかし、 もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互 いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。8もし、 罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありませ ん。9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、 その罪を許し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。10もし、罪を犯し てはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たち のうちにありません。 &amp;lt;/blockquote&amp;gt; &lt;br /&gt;
先週、私たちは、エペソ2:4‐5に述べられている、「しかし、あわれみ豊かな神は、私た ちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリス トとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―」によって、 ''なぜ私たちは生まれ変わらなければならないのか''? という質問に対する回答をし始めた。 「神は私たちを生かしてくださった」とは、新生とほとんど同じであると私は言った。そし て私たちが新生を必要とするその理由は、私たちが死んでいたためである。「罪過の中 に死んでいたこの私たちを、(神は)生かし」。これが私たちの必要なものである―私たち の心の中につくられる霊的いのちの奇跡。そして、私たちが新生を必要とする理由は、 私たちが霊的に死んでいる―つまり、私たちはキリストそのものであられる、主の美しさ と価値を見たり感じたり、悟ることができない―からである。生まれ変わっていない者は、 パウロと共に、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、 いっさいのことを損と思っています」と言うことはできない。 それから私たちは、この死んでいると呼ばれる私たちの状態をひも解き始めた。私は、 旧約聖書からこの状態を描く10の方法を述べると申し上げた。先週、私たちは以下の ものを述べた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#私たちは罪過と罪の中に死んでいる(エペソ 2:5)。 &lt;br /&gt;
#私たちは生まれながらに御怒りを受けるべき子らである(エペソ2:3)。 &lt;br /&gt;
#私たちはやみを愛し、光を憎む (ヨハネ3:19-20)。 &lt;br /&gt;
#私たちの心は石のようにかたくなである(エゼキエル36:26、エペソ4:18)。 &lt;br /&gt;
#私たちは神に従うことや神を喜ばせることができない (ローマ8:7-8)。 &lt;br /&gt;
#私たちは福音を受け入れることができない(エペソ4:18、1 コリント2:14)。 &lt;br /&gt;
#私たちはキリストのみもとに来ることやキリストを主として受け入れること ができない(ヨハネ6:44, 65、1 コリント12:3)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新生から離れての私たちの状態  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、新生から離れての私たちの状態の、残り3つの描写に戻る。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''8. 新生から離れては、私たちは罪の奴隷である (ローマ6:17)。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは私たちの罪の奴隷からの解放を、神に感謝をささげることによって祝う。彼は ローマ6:17で言う、「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でした が、伝えられた教の規準に心から服従し」と。私たちはかつて、離れることも殺すことも できないほど、罪を愛した。そして何かが起こった。新生が起こったのだ。神は私たちに 霊的新しいいのちと罪を憎み義を愛する新しい性質を与えられた。それゆえパウロは 人ではなく、神に、この偉大な解放を感謝する―「神に感謝すべきことは、あなたがたは もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し」と。神が私たちを霊 的死から目覚めさせ、罪を殺し聖くなることに喜びを見出すいのちを与えてくださらなけ れば、私たちは奴隷で、自由を受けることができない。そのため新生は必要である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''9. 新生から離れては、私たちはサタンの奴隷である(エペソ2:1-2、2 テモテ2:24-26)。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが霊的死が恐ろしいことの一つである。私たちの死んだ状態は、悪魔に無反応で はない。それは完璧に悪魔と調子が合う。パウロが私たちの死んだ状態をエペソ2:1‐2 で描いている様を聞いてみよ。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者で あって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ 支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」言い 換えると、再生されていない人のしるしは、空中の権威を持つ支配者に「従って」いる彼 らの欲求や選択である。再生されていない者は悪魔というその考えさえあざ笑うかも知 れない。 そしてもちろん、悪魔の存在の否定ほど、偽りの父と調和しているものはない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし悪魔の束縛は2テモテ2:24‐26にもっともはっきり言述されている。これは奉仕 者たちに対する、どのように悪魔の束縛から人々を解放するかについての奨励である ―「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍 び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの 心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで''悪魔に捕えられて思うままにされて いる人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。」'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが、「もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるで しょう」と言うとき、それは実質的に新生で起こることである。そしてこれが、悪魔の束縛 から人々を解放する鍵である。神が悔い改めの心を与えて下さる―つまり、主が罪の 醜さと危険さと、キリストの美しさと価値を見るいのちを目覚めさせ、そしてその真理が 囚人を自由にする。それは、暗闇にいる人がその首にかかっているブローチをなで回し ているときに起こる。霊的光が照って彼がそれはブローチではなくゴキブリであることを 見て放り投げる。そのように人々は悪魔から解放されるのである。そして神が新生のそ の奇跡を行われない限り、私たちは偽りの父の束縛にとどまる。なぜなら、私たちは自 分が喜ぶことを自分自身に伝えることができることを好むからである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''10. 新生から離れては、私のうちには善がない (ローマ7:18)。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、これは、善を知っており、多くの良いことを行い、現在行っているよりもさらに悪い 悪行をすることができると良く知っている再生されていない者にとっては、理解しがたい 言明である。この言明―新生以前の私たちのうちには善がまったくないということ―は、 神がつくられそして支えておられるすべてのものが、神の恵みに依存し、神の栄光の追 求において成されたものでないとき堕落したものになる、という確信なしにはまったく意 味を成さない。それゆえ、もちろん、ある意味人間の身体(魂、思い、心、脳、目、手)と人 間の社会構造(結婚、家族、政治、商業)はすべて良い。神がそれらを造られ、任命され、 支えられる。それらが存在することは正しいことである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしそれらのすべてが神の栄光のために存在する。神は、私たちが心を尽くし、思い を尽くし、知力を尽くして主を愛することをご命令になる(マタイ22:37)。主の恵みにより 頼むことによって、また主の価値をあらわすため、主の造られたすべてのものを用いる ことを、主はご命令になる(1ペテロ4:11)。人々が、神の恵みにより頼むことをせず、ま た主の価値をあらわそうとせずに、神が造られたものすべてを用いるときに、彼らはそ れを不信心の手段にする。そして彼らはそれを破壊する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのためパウロがローマ7:18で、「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住 んでいないことを知っています」と言うとき、限定語である、「すなわち、私の肉のうち」を 付け足すのは、このゆえである。新生の後、パウロのうちには何か良いものが住んでい る。信仰は良い。聖霊は良いお方である。新しい霊的性質は良い。聖く成長することは 良い。しかし彼の肉、すなわち、新生から離れての彼の生まれながらの人格には、善が 宿っていない。造られたすべての良いものが、神中心のものではなく、人間中心のしも べにされることによって、破壊された。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが、新生から離れた10倍の私たちの状態である。再生から離れては、パウロのエ ペソ2:12の言葉を用いるならば、「キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約 束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人」である。こ のため私たちは生まれ変わらなければならないのである。新生なしには、私たちの状態 は望みがなく、また道徳向上によってはこの状態を改正することができない。死んでい る人は向上できない。 死んでいる人は他の何かが起こりうる以前に、ただ一つのことが 必要である―生き返らせられなければならない。生まれ変わらなければならない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 残り半分の質問  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点まで、私はなぜという質問の半分しか訊ねていない。なぜ新生は必要なのか? には、二つの意味がある。以下が私たちが答えようとしてきたものである―なぜ私には 霊的いのちがないのか、そしてなぜ自分でそれを得ることができないのか?私たちは不 従順で自分勝手でわがままで頑なで、霊的事がらを拒否し、キリストの美しさと価値を 見ることができないので、いのちを得るために主のみもとに来ることができないのである。 そしてそれゆえ、私たちは、私たちを生き返らせる神の超自然の力が必要なのである。 私たちは生まれ変わらなければならない。それがなぜ新生は必要なのか?という質問に 対する答えの第一の方法である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし他にも方法がある。その質問は「新生は何のために必要なのか?あなたが必要な ことの、それは何をもたらすのか?それぬきで得ることができないのは何か?」ということ も意味する。質問に答える最初の方法は、振り返って、私たちがどのような状態で新生 が必要なのかを訊ねる。二つ目の質問方法は、先を見て、新生だけがもたらすために は、何が起こらなければならないのか?と訊ねる。それを私たちは見ていこう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新生なしには、私たちには何がないのか?  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ私たちは、イエスと結ばれることによる新しい霊的いのちが必要なのか?答えの一 つ―なぜならば私たちは死んでいるから。他の答え―なぜならこのいのちなしには、私 たちにはない...何か?それが今の質問である。このいのちなしには、私たちには何がな いのか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日はまとめの形でそれに答えるようにし、来週実践的詳細でひも解いていくようにす る。来週はクリスマス前の日曜日で、1ヨハネ3:8後半、「神の子が現われたのは、悪 魔のしわざをうちこわすためです。」がみことばとして私の頭の中にある。つまり、主が 人としての姿を取られた―クリスマスのため―その理由は、悪魔のしわざを打ち壊すた めである。あなたは、人としての姿を取ることと再生、あるいは新生とイエスの誕生の間 のつながりをその背景に見るであろう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 天の国  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし今日のまとめの答えを挙げさせて欲しい―新生なしには、私たちには何がないの か?イエスの答えは単純で大雑把で、衝撃的である。「まことに、まことに、あなたに告げ ます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」新生なしには、私 たちは神の国を見ることはない。つまり、私たちは天国に行くことはない。永遠に滅ぶの である。新生なしには、私たちには何がないのか?私たちに何の良いものもない。永遠 の苦しみがあるだけである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしそれが何かを具体的にすることは重要である。私たちは新生を通して神が私たち を救う方法―主が私たちをみ国へ入れてくださる方法―を解かなければならない。私た ちは新生と、イエスの死とよみがえりを通して私たちを救うため、主が何を成してくださっ たか、その間の関係を見なければならない。それで、私は質問に対する5つの相互に 関係している答えをあげる。まず最初に否定的形式で、そして終りに、肯定的形式で。 新生なしには、私たちには何がないのか?以下がまとめた答えである: &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#新生なしには、私たちには救いにいたる信仰がなく、不信心があるだけ である (ヨハネ1:11-13、 1 ヨハネ5:1、エペソ2:8-9、ピリピ1:29、1 テモ テ1:14、2 テモテ1:3)。 &lt;br /&gt;
#新生なしには、私たちは義と認められることがなく、罪の定めがあるだけ である。(ローマ8:1、2 コリント5:21、ガラテヤ2:17、ピリピ3:9)。 &lt;br /&gt;
#新生なしには、私たちは神の子どもとなることはなく、悪魔の子どもであ る (1 ヨハネ3:9-10)。 &lt;br /&gt;
#新生なしには、私たちは聖霊による愛の実を実らせることはなく、死の実 を実らせるだけである (ローマ6:20-21、7:4-6、15:16、1 コリント1:2、2 コリント5:17、エペソ2:10、ガラテヤ5:6、2 テサロニケ2:13、1 ペテロ 1:2、1 ヨハネ3:14)。 &lt;br /&gt;
#新生なしには、私たちには神との交わりにある永遠の喜びがなく、悪魔と その使いらとの永遠のみじめさがあるだけである (マタイ25:41、ヨハネ 3:3、ローマ6:23、黙示2:11、20:15)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分自身を知ることと、キリストの素晴らしさと私たちの救いの素晴らしさを知るために は、新生がそれらの5つとどのように関係しているかを知る必要がある。次回私たちは そこに行く。しかしそれら5つをもう一度、今度は肯定的に、神のみことばを持って言うこ とによって、終わりにしたい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#神が私たちを生まれ変わらせられるとき、救いにいたる信仰が目覚めさ せられ、私たちはキリストと一つにされる。1ヨハネ5:1、「イエスがキリス トであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。」神によって 生まれ「る」ではなく、神によって「すでに」生まれた、のである。私たちの 最初の信仰は新生のそよぎである。 &lt;br /&gt;
#新生が信仰を目覚めさせるとき、そして私たちをキリストと一つにするとき、 私たちはその信仰を通して、義と認められる―つまり、義とみなされる。 ローマ5:1、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの 主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」新生は信仰を 目覚めさせ、信仰はキリストを義として見、そして神は、信仰だけによる キリストただお一人のゆえに、私たちを義とみなされる。 &lt;br /&gt;
#新生が信仰を目覚めさせ、私たちをキリストと一つにするとき、神に受け 入れられるためのすべての法的障害が、義と認められることを通して取 り除かれる。ゆえに神はご自身の家族のうちに私たちを子として受け入 れられ、ご自身の御子の似姿へと私たちをつくりかえられる。ヨハネ1:12、 13、「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神 の子供とされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、 肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのであ る。」私たちは人の意志によって生まれたのではなく、神から生まれたも のであり、キリストを信じ、受け入れ、神が私たちを主の合法的継承者、 また霊的子どもとしてくださるのである。 &lt;br /&gt;
#新生が信仰を目覚めさせ、私たちをキリストと一つにし、罪の定めのすべ てが義と認められることと子とされる御霊が私たちのうちに働くとき、主は 愛の実を生みだされる。ガラテヤ5:6、「キリスト・イエスにあっては、割礼 を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事 なのです。」1ヨハネ3:14、「私たちは、自分が死からいのちに移ったこと を知っています。それは、兄弟を愛しているからです。」新生があるところ には、愛がある。 &lt;br /&gt;
#最後に、新生が信仰を目覚めさせ、私たちを私たちの義であられるキリ ストと一つにするとき、そして聖霊の聖めの力を解き放つとき、私たちは 天国へ至る狭い道の途上にある。そして天の喜びの頂点は、神との交わ りになる。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一まことの神であるあなたと、 あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3)。私 たちの新生の喜びの頂点は、神ご自身である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
“まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見るこ とはできません。...あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったこと を不思議に思ってはなりません」(ヨハネ3:3、7)。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 15 Jun 2018 20:27:12 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%91%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84_%E3%81%AE%E3%81%8B%3F_%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88_2</comments>		</item>
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			<title>新生で何が起こるのか? パート２</title>
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			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「新生で何が起こるのか? パート２」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|What Happens in the New Birth? Part 2}}&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。2この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。6肉によって生まれたものは肉です。御霊によって生まれたものは霊です。7あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。8風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」9ニコデモは答えて言った。「どうしてそのようなことがありうるのでしょう。」10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日は、新生で何が起こるのかという先週のメッセージを完成させます。イエス様はヨハネ3:7でニコデモに、「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません」と言われます。また３節でも、主はニコデモと、そして私たちに、私たちの永遠のいのちは生まれ変わることにかかっていると、おっしゃいます。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ですので私たちはここでクリスチャン人生において、大して重要でないこと、あるいは随意の、あるいは表面上のことを扱っているのではありません。新生は、葬儀人が、遺体をあたかも生きているかのように見せるために用いるメイキャップのようではありません。新生は、霊的いのちの創造であり、いのちの真似ではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''新生で何が起こるのか?*という質問に答えていきます。前回の二つの陳述は、1) 新生で起こるのは、新しい宗教を得ることではなく、新しいいのちを得ることである、そして2) 新生で起こるのは、イエス様のうちにある超自然をただ単に肯定するだけでなく、自分自身のうちに超自然を体験すること、でした。'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖霊を通しての新しいいのち ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニコデモはパリサイ人で、宗教心に満ちあふれていました。でも彼には霊的いのちがなかったのです。彼はイエス様のうちに神の超自然のみわざを見ましたが、自分自身のうちに神の超自然のみわざを体験したことがありませんでした。ですから前回の二つの要点をまとめると、ニコデモが必要だったのは、イエス様が言われるように、聖霊を通して超自然的に授けられた新しい霊的いのちだったのです。新しいいのちを''霊的''、そして''超自然''にするのは、それが御霊なる神のみわざだからです。それは私たちの物理的心と脳にある自然の命を超えたものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6節でイエス様は、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」と言われます。肉にはある意味、実際に命があります。すべての人は、生きた肉です。しかしすべての人が生きた霊というわけではありません。生きた霊となるためには、あるいは霊的いのちを持つためには、私たちは「御霊によって生まれ」なければならないと、イエス様は言われます。ある意味、肉は命を与えることができます。御霊はいのちを別の種類まで引き上げます。もし私たちがこの後者の種類を持たなければ、神の国を見ることはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様にある、御霊によって ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから前回私たちは、終わりに、二つのとても重要な事がらに注目しました。それは、新生のイエス様との関係と、新生の信仰との関係です。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われました。使徒ヨハネは、「神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」(1ヨハネ5:11―12)と言います。ですから一方で、私たちが必要な新しいいのちは「御子にあり」ます。それは、イエス様がその''いのちであられる''からです。もしあなたが主を持っているなら、あなたには霊的新しい、永遠のいのちがあります。そしてもう一方で、イエス様はヨハネ6:63で、「いのちを与えるのは''御霊''です」と言われます。あなたは''御霊によって''生まれない限り、神の国に入ることはできません(ヨハネ3:5)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから私たちは、ご自身いのちであられる神の御子につなげられることによっていのちを持ち、そのいのちを御霊のみわざによって持ちます。それゆえ、再生における御霊のみわざは、私たちをキリストと一つとさせることによって、私たちに新しいいのちを授けることであると、私たちは結論づけました。ジョン･カルヴァンは、それを「聖霊はキリストが私たちをご自身と事実上一つにされる、そのつなぎであられる」(キリスト教要綱第三巻1、1)という風に言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 信仰によってイエス様と一つとされる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから私たちは以下のように信仰とつなげました。ヨハネ20:31は、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたが信じるため、また、''あなたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため''である」と言います。また1ヨハネ5:4では、「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの''信仰''、これこそ、世に打ち勝った勝利です」と言います。神によって生まれること、それは、勝利の鍵です。信仰、それは勝利の鍵です。なぜなら信仰こそ私たちが神によって生まれることを体験する方法だからです。ですので先週私たちは、メッセージ全体を以下のように要約しましたー''新生で、聖霊は私たちを信仰を通してイエス･キリストとつなげることにより、私たちに新しい霊的いのちを超自然的にお与えくださるのです*。'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新生とは、古いものの改善ではなく、新しい創造 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは、次に、新生で何が起こるかの、第三番目の方法へと私たちを導きます。新生で起こるのは、あなたの古い人間性の改善ではなく、新しい人間性、本物の''あなた''であり、罪赦されきよめられた性質、内在の神の御霊によって造られた、本当に新しい性質の創造です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私がこの所見に至った道のりの、その短いバージョンへと、皆さんをご案内します。イエス様はヨハネ3:5で、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」とニコデモに言われます。この「水と御霊によって」という二つの用語によって、イエス様は何を言おうとしておられるのでしょうか?ある教派はこれを、御霊が私たちがキリストと一つにされる方法としての、バプテスマだと信じます。例えば、あるサイトでは以下のように説明されています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「聖なるバプテスマはクリスチャン人生すべての基盤であり、御霊にあるいのちへの入口であり、他の聖礼典へ接近する道へと導く扉です。バプテスマを通して私たちは罪から解放され、神の子として生まれ変わるのです。私たちはキリストの一員となり、教会へと結合され、また教会の使命を分かち合う者とされるのです。『バプテスマはみことばにある水を通しての、再生の聖礼典です。』」 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何百万という人々が、洗礼を受けることで生まれ変わると教えられて来ています。もしそれが真実でないならば、それは大きな、地球規模の惨事です。そして私はそれが真実だとは思いません。それならば、イエス様は何を意味しておられるのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜ「水」はヨハネ3章ではバプテスマと関係がないのか ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下はここでの水の言及はキリスト教のバプテスマと関係がないと、私が思うそのいくつかの理由です。その後、この聖書個所の文脈がどこへ行くかを見ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 残りの章でバプテスマに触れている箇所が無い''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず第一に、もしこれがキリスト教のバプテスマに関することであれば、そしてもしある人々が言うようにそれが新生に必要不可欠なものであるとしたら、この章でイエス様が言われている、どのようにして私たちは永遠のいのちを得ることができるのか、ということが省かれているのは、奇妙に見えます。15節、「''信じる''者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」16節、「それは御子を''信じる''者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」18節、「御子を''信じる''者はさばかれない。」もしバプテスマが必要不可欠であるとすれば、それが信仰とともに触れられていないのは、とても奇妙に思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) バプテスマは風の類似にあてはまらない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、もし水のバプテスマが生まれ変わることとそこまで密着しているとしたら、8節の風の類似が奇妙に見えます。イエス様は、「風は思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」と言われます。これは神は再生を起こすのに、風のように自由であられると言っているように見えます。しかしもし赤ちゃんが滴礼を受けるたびにそれ(再生)が起こるのであれば、それは本当であるとは思われません。その場合風は、聖礼典によって自由を狭まれてしまいます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) バプテスマはイエス様がニコデモをお叱りになることと合わない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三つ目に、もしイエス様がここでキリスト教のバプテスマに言及されているのなら、パリサイ人であるニコデモに10節で、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」と言われるのは奇妙に思えます。もしイエス様が旧約聖書で教えられている何かに言及しておられるのなら、分かります。しかしもし主が後にやって来て、そしてイエス様のご生涯と死から意味を得たバプテスマに言及しておられるとしたら、イスラエルの教師なのに主が言っておられることを理解できないのかと、主がニコデモをお叱りになるはずはないように思われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4) 水と御霊は、新契約の約束においてつながっている''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、10節の同じ言及は旧約のいくつかの背景を私たちに思い起こさせ、水と御霊は新契約の約束、特にエゼキエル36章でぴったりつながっていることを私たちは見出します。ではそこに一緒に行ってみましょう。この箇所がこの残りのメッセージの基盤となるものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== エゼキエル36章の水と霊 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エゼキエルは神がご自身の民をバビロン捕囚から連れ戻されるときに、何を成されるかを預言します。ここでの意味は、イエス様が、ご自身を信じるすべての者のためにご自分の血によって新契約を確保されると主張されるので(ルカ22:20)、イスラエルの民だけのもの以上に大きなものです。そしてこれは、エレミヤ31:31にあるものと同様で、新契約の約束のうちの一つの型です。一緒に読みましょう。エゼキエル36：24―28、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これがイエス様が「人は、''水''と''御霊''によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」と言われる箇所であると、私は思います。主は誰に、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」(28節)とおっしゃるのでしょうか?25節、主はその人々に、「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる」と言われます。そして26節で、主はその人々に、「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい''霊''を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」とおっしゃいます。言い換えれば、御国に入る者とは、古いもののきよめと、新しいものの創造を巻き込んだ新しさを持った者です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので「水と御霊」は、私たちが生まれ変わるときに私たちが新しくされることの、二つの側面を意味するということで私は結論づけます。これがどうして重要なのかと言うと、新しい霊、または新しい心が私たちに与えられると言うとき、私たちがそれまで道徳的に自己責任を負った人間であったのが、その人間ではなくなる、という意味ではないからです。私は生まれ変わる前、ジョン･パイパーという一人の人間でした。そして生まれ変わった後も、ジョン･パイパーという一人の人間です。そこには継続性があります。ですからきよめが必要なのです。もし古い人、ジョン･パイパーが消されてしまったら、赦しときよめの発想自体が無意味なものとなってしまいます。赦されきよめられるべき過去が一切無くなります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは、古い自分は十字架につけられたと (ローマ6:6)、また私たちはキリストに死に(コロサイ3:3)、自分自身に対し「死んだものと思いなさい」(ローマ6:11)、そして「古い人を脱ぎ捨てるべき」だと(エペソ4:22)、聖書が教えるのを知っています。しかしそれらのどれも、人生一貫した同じ人間は考慮されていないという意味を示していません。そこには除かれなければならない古い性質、古い性格、あるいは素因、好みがあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからあなたが新しい心、新しい霊、新しい性質を解釈するとき、それらは変わらない、赦され、きよめられなければならないあなた、という風に解釈します。それが水に言及しているポイントです。私の咎は洗いきよめられなければなりません。水によってきよめられることが、その絵です。エレミヤ33:8では次のように言われています。「わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。」ですので存在し続ける私たちの人格は赦され、咎が洗いきよめられなければならないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新しくされなければならないその必要性 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし赦しときよめだけでは十分ではありません。私は新しくされる必要があります。私は変えられる必要があります。私にはいのちが必要です。物事を新しく見、考え、評価する必要があります。そのためエゼキエルは26、27節で新しい心と新しい霊について語るのです。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。私の''霊''をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下は私がそれらの節を理解する方法です。確かに、''石''の心とは、霊的現実を何も感じない、無反応の死んだ心、新生によって感じることのできる以前に、あなたが持っていた心を意味します。それ自体情熱を持って反応することができ、多くの事がらを切望します。しかし霊的真理やイエス･キリストの栄光、神の栄光、聖さへの道に対して石でした。私たちが神の国を見るためには、それが変えられなければならないのです。ですから新生において、神は石の心を取り除かれ、肉の心をお与えになります。''肉''とはヨハネ3:6で言われているような、「ただの人間」という意味ではありません。それは死んだ石の代わりに、柔らかで生きており、反応をし、感じるものです。新生において、私たちの死んだ、ことキリストに関しては石のような倦怠感が、イエス様のみ価値を(霊的感覚で)感じる心に、取り替えられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてエゼキエルが26、27で、「あなたがたのうちに新しい霊を授ける。･･･わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」と言うとき、それは新生において、神は生きた、超自然の霊的いのちを私たちの心にお与えになり、その新しいいのち、新しい霊自体が、聖霊ご自身が私たちの新しい心にかたちと性格をお造りになるみわざであると、彼は言っているのだと私は思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この新しい暖かい、感動させることができる、反応する、生きた心は、柔らかい粘土のかたまりのようなもので、聖霊がその中にご自身を押し込められ、ご自身の形どおりに霊的、道徳の形をそのうちにかたち造られるというものを私は思い浮かべます。私たちのうちにご自身を住まわされることによって、私たちの心と思いが、主のご性質、主の霊を帯びるのです(エペソ4:23参照)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 主をあなたの宝として受け入れる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではさかのぼって、この過去2週間をまとめてみましょう。新生で何が起こるのでしょうか?新生で、聖霊は超自然的に、信仰を通して私たちをイエス･キリストにつなげることによって、私たちに新しい霊的いのちをお与えになります。あるいは別の言い方をすると、御霊は、私たちの罪の洗いきよめのあるところで私たちをキリストと一つにさせられ、私たちの硬い、無反応な心を、イエス様を何にもまさる宝とする柔らかい心に取り替えられ、御霊のご臨在によって、神のみむねを行うことを愛するような心へと、変え続けてくださるのです(エゼキエル36:27)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらすべてを体験するのは信仰によってですので、罪赦され、あなたの人生の宝を変えられるお方として主を受け入れるよう、今、イエス様のみ名で、主の御霊の力によって、あなたをお招きします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; http://www.christusrex.org/www1/cdhn/baptism.html &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 12 Jun 2018 20:25:32 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%96%B0%E7%94%9F%E3%81%A7%E4%BD%95%E3%81%8C%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%3F_%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88%EF%BC%92</comments>		</item>
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			<title>新生で何が起こるのか? パート２</title>
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			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|What Happens in the New Birth? Part 2}}&amp;lt;br&amp;gt;   &amp;amp;gt; さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。2この人...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|What Happens in the New Birth? Part 2}}&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。2この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。6肉によって生まれたものは肉です。御霊によって生まれたものは霊です。7あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。8風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」9ニコデモは答えて言った。「どうしてそのようなことがありうるのでしょう。」10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日は、新生で何が起こるのかという先週のメッセージを完成させます。イエス様はヨハネ3:7でニコデモに、「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません」と言われます。また３節でも、主はニコデモと、そして私たちに、私たちの永遠のいのちは生まれ変わることにかかっていると、おっしゃいます。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ですので私たちはここでクリスチャン人生において、大して重要でないこと、あるいは随意の、あるいは表面上のことを扱っているのではありません。新生は、葬儀人が、遺体をあたかも生きているかのように見せるために用いるメイキャップのようではありません。新生は、霊的いのちの創造であり、いのちの真似ではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''新生で何が起こるのか?*という質問に答えていきます。前回の二つの陳述は、1) 新生で起こるのは、新しい宗教を得ることではなく、新しいいのちを得ることである、そして2) 新生で起こるのは、イエス様のうちにある超自然をただ単に肯定するだけでなく、自分自身のうちに超自然を体験すること、でした。'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖霊を通しての新しいいのち ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニコデモはパリサイ人で、宗教心に満ちあふれていました。でも彼には霊的いのちがなかったのです。彼はイエス様のうちに神の超自然のみわざを見ましたが、自分自身のうちに神の超自然のみわざを体験したことがありませんでした。ですから前回の二つの要点をまとめると、ニコデモが必要だったのは、イエス様が言われるように、聖霊を通して超自然的に授けられた新しい霊的いのちだったのです。新しいいのちを''霊的''、そして''超自然''にするのは、それが御霊なる神のみわざだからです。それは私たちの物理的心と脳にある自然の命を超えたものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6節でイエス様は、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」と言われます。肉にはある意味、実際に命があります。すべての人は、生きた肉です。しかしすべての人が生きた霊というわけではありません。生きた霊となるためには、あるいは霊的いのちを持つためには、私たちは「御霊によって生まれ」なければならないと、イエス様は言われます。ある意味、肉は命を与えることができます。御霊はいのちを別の種類まで引き上げます。もし私たちがこの後者の種類を持たなければ、神の国を見ることはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様にある、御霊によって ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから前回私たちは、終わりに、二つのとても重要な事がらに注目しました。それは、新生のイエス様との関係と、新生の信仰との関係です。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われました。使徒ヨハネは、「神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」(1ヨハネ5:11―12)と言います。ですから一方で、私たちが必要な新しいいのちは「御子にあり」ます。それは、イエス様がその''いのちであられる''からです。もしあなたが主を持っているなら、あなたには霊的新しい、永遠のいのちがあります。そしてもう一方で、イエス様はヨハネ6:63で、「いのちを与えるのは''御霊''です」と言われます。あなたは''御霊によって''生まれない限り、神の国に入ることはできません(ヨハネ3:5)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから私たちは、ご自身いのちであられる神の御子につなげられることによっていのちを持ち、そのいのちを御霊のみわざによって持ちます。それゆえ、再生における御霊のみわざは、私たちをキリストと一つとさせることによって、私たちに新しいいのちを授けることであると、私たちは結論づけました。ジョン･カルヴァンは、それを「聖霊はキリストが私たちをご自身と事実上一つにされる、そのつなぎであられる」(キリスト教要綱第三巻1、1)という風に言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 信仰によってイエス様と一つとされる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから私たちは以下のように信仰とつなげました。ヨハネ20:31は、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたが信じるため、また、''あなたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため''である」と言います。また1ヨハネ5:4では、「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの''信仰''、これこそ、世に打ち勝った勝利です」と言います。神によって生まれること、それは、勝利の鍵です。信仰、それは勝利の鍵です。なぜなら信仰こそ私たちが神によって生まれることを体験する方法だからです。ですので先週私たちは、メッセージ全体を以下のように要約しましたー''新生で、聖霊は私たちを信仰を通してイエス･キリストとつなげることにより、私たちに新しい霊的いのちを超自然的にお与えくださるのです*。'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新生とは、古いものの改善ではなく、新しい創造 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは、次に、新生で何が起こるかの、第三番目の方法へと私たちを導きます。新生で起こるのは、あなたの古い人間性の改善ではなく、新しい人間性、本物の''あなた''であり、罪赦されきよめられた性質、内在の神の御霊によって造られた、本当に新しい性質の創造です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私がこの所見に至った道のりの、その短いバージョンへと、皆さんをご案内します。イエス様はヨハネ3:5で、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」とニコデモに言われます。この「水と御霊によって」という二つの用語によって、イエス様は何を言おうとしておられるのでしょうか?ある教派はこれを、御霊が私たちがキリストと一つにされる方法としての、バプテスマだと信じます。例えば、あるサイトでは以下のように説明されています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「聖なるバプテスマはクリスチャン人生すべての基盤であり、御霊にあるいのちへの入口であり、他の聖礼典へ接近する道へと導く扉です。バプテスマを通して私たちは罪から解放され、神の子として生まれ変わるのです。私たちはキリストの一員となり、教会へと結合され、また教会の使命を分かち合う者とされるのです。『バプテスマはみことばにある水を通しての、再生の聖礼典です。』」 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何百万という人々が、洗礼を受けることで生まれ変わると教えられて来ています。もしそれが真実でないならば、それは大きな、地球規模の惨事です。そして私はそれが真実だとは思いません。それならば、イエス様は何を意味しておられるのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== なぜ「水」はヨハネ3章ではバプテスマと関係がないのか ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下はここでの水の言及はキリスト教のバプテスマと関係がないと、私が思うそのいくつかの理由です。その後、この聖書個所の文脈がどこへ行くかを見ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 残りの章でバプテスマに触れている箇所が無い''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず第一に、もしこれがキリスト教のバプテスマに関することであれば、そしてもしある人々が言うようにそれが新生に必要不可欠なものであるとしたら、この章でイエス様が言われている、どのようにして私たちは永遠のいのちを得ることができるのか、ということが省かれているのは、奇妙に見えます。15節、「''信じる''者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」16節、「それは御子を''信じる''者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」18節、「御子を''信じる''者はさばかれない。」もしバプテスマが必要不可欠であるとすれば、それが信仰とともに触れられていないのは、とても奇妙に思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) バプテスマは風の類似にあてはまらない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、もし水のバプテスマが生まれ変わることとそこまで密着しているとしたら、8節の風の類似が奇妙に見えます。イエス様は、「風は思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」と言われます。これは神は再生を起こすのに、風のように自由であられると言っているように見えます。しかしもし赤ちゃんが滴礼を受けるたびにそれ(再生)が起こるのであれば、それは本当であるとは思われません。その場合風は、聖礼典によって自由を狭まれてしまいます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) バプテスマはイエス様がニコデモをお叱りになることと合わない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三つ目に、もしイエス様がここでキリスト教のバプテスマに言及されているのなら、パリサイ人であるニコデモに10節で、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」と言われるのは奇妙に思えます。もしイエス様が旧約聖書で教えられている何かに言及しておられるのなら、分かります。しかしもし主が後にやって来て、そしてイエス様のご生涯と死から意味を得たバプテスマに言及しておられるとしたら、イスラエルの教師なのに主が言っておられることを理解できないのかと、主がニコデモをお叱りになるはずはないように思われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4) 水と御霊は、新契約の約束においてつながっている''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、10節の同じ言及は旧約のいくつかの背景を私たちに思い起こさせ、水と御霊は新契約の約束、特にエゼキエル36章でぴったりつながっていることを私たちは見出します。ではそこに一緒に行ってみましょう。この箇所がこの残りのメッセージの基盤となるものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== エゼキエル36章の水と霊 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エゼキエルは神がご自身の民をバビロン捕囚から連れ戻されるときに、何を成されるかを預言します。ここでの意味は、イエス様が、ご自身を信じるすべての者のためにご自分の血によって新契約を確保されると主張されるので(ルカ22:20)、イスラエルの民だけのもの以上に大きなものです。そしてこれは、エレミヤ31:31にあるものと同様で、新契約の約束のうちの一つの型です。一緒に読みましょう。エゼキエル36：24―28、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これがイエス様が「人は、''水''と''御霊''によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」と言われる箇所であると、私は思います。主は誰に、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」(28節)とおっしゃるのでしょうか?25節、主はその人々に、「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる」と言われます。そして26節で、主はその人々に、「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい''霊''を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」とおっしゃいます。言い換えれば、御国に入る者とは、古いもののきよめと、新しいものの創造を巻き込んだ新しさを持った者です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので「水と御霊」は、私たちが生まれ変わるときに私たちが新しくされることの、二つの側面を意味するということで私は結論づけます。これがどうして重要なのかと言うと、新しい霊、または新しい心が私たちに与えられると言うとき、私たちがそれまで道徳的に自己責任を負った人間であったのが、その人間ではなくなる、という意味ではないからです。私は生まれ変わる前、ジョン･パイパーという一人の人間でした。そして生まれ変わった後も、ジョン･パイパーという一人の人間です。そこには継続性があります。ですからきよめが必要なのです。もし古い人、ジョン･パイパーが消されてしまったら、赦しときよめの発想自体が無意味なものとなってしまいます。赦されきよめられるべき過去が一切無くなります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは、古い自分は十字架につけられたと (ローマ6:6)、また私たちはキリストに死に(コロサイ3:3)、自分自身に対し「死んだものと思いなさい」(ローマ6:11)、そして「古い人を脱ぎ捨てるべき」だと(エペソ4:22)、聖書が教えるのを知っています。しかしそれらのどれも、人生一貫した同じ人間は考慮されていないという意味を示していません。そこには除かれなければならない古い性質、古い性格、あるいは素因、好みがあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからあなたが新しい心、新しい霊、新しい性質を解釈するとき、それらは変わらない、赦され、きよめられなければならないあなた、という風に解釈します。それが水に言及しているポイントです。私の咎は洗いきよめられなければなりません。水によってきよめられることが、その絵です。エレミヤ33:8では次のように言われています。「わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。」ですので存在し続ける私たちの人格は赦され、咎が洗いきよめられなければならないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新しくされなければならないその必要性 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし赦しときよめだけでは十分ではありません。私は新しくされる必要があります。私は変えられる必要があります。私にはいのちが必要です。物事を新しく見、考え、評価する必要があります。そのためエゼキエルは26、27節で新しい心と新しい霊について語るのです。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。私の''霊''をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下は私がそれらの節を理解する方法です。確かに、''石''の心とは、霊的現実を何も感じない、無反応の死んだ心、新生によって感じることのできる以前に、あなたが持っていた心を意味します。それ自体情熱を持って反応することができ、多くの事がらを切望します。しかし霊的真理やイエス･キリストの栄光、神の栄光、聖さへの道に対して石でした。私たちが神の国を見るためには、それが変えられなければならないのです。ですから新生において、神は石の心を取り除かれ、肉の心をお与えになります。''肉''とはヨハネ3:6で言われているような、「ただの人間」という意味ではありません。それは死んだ石の代わりに、柔らかで生きており、反応をし、感じるものです。新生において、私たちの死んだ、ことキリストに関しては石のような倦怠感が、イエス様のみ価値を(霊的感覚で)感じる心に、取り替えられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてエゼキエルが26、27で、「あなたがたのうちに新しい霊を授ける。･･･わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」と言うとき、それは新生において、神は生きた、超自然の霊的いのちを私たちの心にお与えになり、その新しいいのち、新しい霊自体が、聖霊ご自身が私たちの新しい心にかたちと性格をお造りになるみわざであると、彼は言っているのだと私は思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この新しい暖かい、感動させることができる、反応する、生きた心は、柔らかい粘土のかたまりのようなもので、聖霊がその中にご自身を押し込められ、ご自身の形どおりに霊的、道徳の形をそのうちにかたち造られるというものを私は思い浮かべます。私たちのうちにご自身を住まわされることによって、私たちの心と思いが、主のご性質、主の霊を帯びるのです(エペソ4:23参照)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 主をあなたの宝として受け入れる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではさかのぼって、この過去2週間をまとめてみましょう。新生で何が起こるのでしょうか?新生で、聖霊は超自然的に、信仰を通して私たちをイエス･キリストにつなげることによって、私たちに新しい霊的いのちをお与えになります。あるいは別の言い方をすると、御霊は、私たちの罪の洗いきよめのあるところで私たちをキリストと一つにさせられ、私たちの硬い、無反応な心を、イエス様を何にもまさる宝とする柔らかい心に取り替えられ、御霊のご臨在によって、神のみむねを行うことを愛するような心へと、変え続けてくださるのです(エゼキエル36:27)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらすべてを体験するのは信仰によってですので、罪赦され、あなたの人生の宝を変えられるお方として主を受け入れるよう、今、イエス様のみ名で、主の御霊の力によって、あなたをお招きします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; http://www.christusrex.org/www1/cdhn/baptism.html &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 12 Jun 2018 20:24:59 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%96%B0%E7%94%9F%E3%81%A7%E4%BD%95%E3%81%8C%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%3F_%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88%EF%BC%92</comments>		</item>
		<item>
			<title>新生で何が起こるのか</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%9F%E3%81%A7%E4%BD%95%E3%81%8C%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「新生で何が起こるのか」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|What Happens in the New Birth? Part 1}}&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。2この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。6肉によって生まれたものは肉です。御霊によって生まれたものは霊です。7あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。8風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」9ニコデモは答えて言った。「どうしてそのようなことがありうるのでしょう。」10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは新生についてのメッセージ･シリーズを始めたばかりです。ヨハネ3:3でイエス様はニコデモに、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われます。主はそれを言われるとき、私たちすべての者にも語っておられます。ニコデモが特別だったわけではありません。あなたと私は新しく生まれなければ、神の国を見ることはありません。それは私たちが救われないことを意味します。神の家族に加えられず、天の国へ行かずに、かえって地獄へ行きます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニコデモは最も敬虔なユダヤ教指導者、パリサイ派の一人でした。イエス様はマタイ23:15と33節で、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。･･･おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう」と彼らに対して言われます。ですから私たちが始めたこのシリーズは大して重要ではないものではありません。中心となるものです。新生を語るとき、私たちは永遠の生死のふちをさまようのです。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新生は心を動揺させる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回の第一回目のメッセージで、私たちはこのシリーズの理由と私たちが抱えるであろうある種の質問に注目しました。今日の質問は、新生で何が起こるのか?というものです。それに答える前に、このメッセージを語ることで、私が非常に懸念していることに、触れさせてください。イエス様の言葉をもし真剣に受け止めるなら、私たちは繰り返し動揺させられるように、皆さんの多くが、このメッセージ･シリーズに動揺されるかも知れない、ということに私は気づいています。これには最低でも3つの理由があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1) なぜなら私たちの絶望的状態のため ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様の新生についての教えで、私たちは自分自身の霊的、神の再生の恵みから離れた道徳的、また法的に絶望的な状態を突きつけられます。新生が起こる前は、私たちは*霊的*に死んでいます。私たちは*道徳的*に自己中心で反抗的です。そして私たちは神の律法の前に法的に有罪で、神のみ怒りの下にあります。イエス様が私たちに、私たちは新しく生まれなければならない、と言われるとき、主は、私たちの現状は絶望的に無反応で、腐敗しており、有罪であると言っておられるのです。驚くべき恵み無しには、私たちは自分自身の状態がどのようなものか、一切知りたくありません。ですのでイエス様が私たちは新しく生まれなければならないと言われるとき、私たちは動揺するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2) なぜなら私たちは新生を起こすことができないから ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新生についての教えが人を動揺させるのは、それが私たちがする何かではなく、私たちに成された何かを意味するからです。ヨハネ1:13でこれが強調されています。それは、「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ神によって生まれた」人々としての神の子を意味します。ペテロも同じことを強調します。「私たちの主イエス･キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はご自分の大きなあわれみのゆえに、･･･私たちを新しくうまれさせて」(1ペテロ1:3)。私たちが新生を起こすのではありません。神が新生を起こされるのです。私たちが成す良いことが新生を起こすのではなく、それは新生の結果です。これは、新生が私たちの手中にないことを意味します。私たちの思うがままにはなりません。そのためそれは私たちの無力と私たちの外部の誰かに対する完全な依存を、私たちに突きつけるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは動揺します。私たちはもし新しく生まれなければ、神の国を見ることはないと言われます。そして私たちは自分で自分を新しく生まれさせることはできない、とも言われます。これは動揺させられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3) なぜなら神の完全な自由が私たちの前に立ちふさがるから ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新生についてのイエス様の教えが人の心を動揺させる三つ目の理由は、それが神の完全な自由を私たちに突きつけるからです。神なしには、私たちは自分の自己中心さと反抗のうちに、霊的に死んでいます。私たちは生まれながらにして怒りの子らです(エペソ2:3)。私たちの反抗は、福音にあるキリストの栄光を察知したり求めたりすることができないほど、非常に深いのです(2コリント4:4)。それゆえ私たちが新しく生まれるとしたら、ズバリ、結局のところ、神によるのです。主の私たちを生き返らせようという決定は、私たち霊的死体が何をするかに対する応答ではなく、私たちが何をするかは、主が私たちを生き返らせられた、その応答です。ほとんどの人は、これに少なからず最初は動揺します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 動揺させるだけでなく、安定させ、救うのが、私の希望 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このシリーズを始めるにあたって、この新生の教えがいかに人の心を動揺させるものであるか、私は十分に理解しています。また、なんと気をつけたいことでしょうか!傷つきやすい魂に、不必要な苦悩を与えたくありません。また道徳や宗教を、霊的いのちと混乱させている人々に、間違った希望を与えたくもありません。どうぞ私のためにお祈りください。この数日、永遠の魂を私は自分の手中に握っているような気がします。それでいて、彼らにいのちを与える力が自分には無いことを、私は知っています。でも神にはおありになります。主がエペソ2:4―5で「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、ーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのですー」と言われることを成してくださると、私は大いに期待しています。神は、キリストが真理のうちに高く掲げられているところで、ご自身のいのち与える恵みを拡大して示されるのを好まれます。このシリーズが、心を動揺させるだけでなく、安定させ、救うこと、それが私の希望です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新生で何が起こるのか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では質問に取りかかりましょう。新生で何が起こるのでしょうか?その答えを、3つの文にして見たいと思います。その最初の二つを今日取り扱い、三つ目は(主のみこころならば)来週取り扱います。1) 新生で起こるのは、新しい宗教を得ることではなく、新しいいのちを得ることである。2) 新生で起こるのは、イエス様において起こる超自然的なものをただ単に肯定することではなく、自分自身のうちに超自然なものを体験することである。3) 新生で起こるのは、古い自分を改善することではなく、新しい人間性、本当の*あなた*であり、赦され、きよめられた、本当に*新しい*、神の内在の御霊によってかたち造られた性質の、創造である。それら一つ一つを見てみましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1) 新しい宗教ではなく、新しいいのち ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新生で起こるのは、新しい宗教を得ることではなく、新しいいのちを得ることです。ヨハネ3章の最初の三節を私と一緒に読んでください。「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。』イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネは、ニコデモがパリサイ人でありユダヤ人の指導者であるということを、私たちがあらかじめ知るようにしています。パリサイ人はユダヤ教宗派の中でも最も厳格な宗派でした。イエス様はこの一人に(３節で)、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われます。そして7節ではもっと個人的に、「あなたがたは新しくうまれなければならない」と言われます。ですからヨハネの要点の一つは、ニコデモの宗教のすべて、パリサイ派の驚くべき学問と鍛錬と律法に忠実であることのすべては、新生の必要性に取って変わることはできない、ということです。事実、それらは新生が必要であることをもっと明白にします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニコデモが必要なのは、そしてあなたと私が必要なのは、宗教ではなくいのちです。新生が示すポイントは、誕生は新しいいのちをこの世にもたらすと言うことです。ある意味、当前ですが、ニコデモは生きています。彼は息をしており、考えており、感じており、行動しています。彼は神の似姿に造られた人間です。しかしどうやらイエス様は、彼が死んでいると思っておられるようです。霊的いのちがニコデモにはないのです。彼は霊的には誕生していません。彼にはさらなる宗教活動や宗教的熱心さではなく、いのちが必要です。彼にはそれ[宗教的熱心さ]は十分にあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様がルカ9:60で、自分の父を葬るためにイエス様に従うのを延期しようとした人に言われたことを、覚えていますか?「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を広めなさい」とイエス様は言われました。それは埋葬が必要な肉体的に死んだ人々がいるということを意味します。そしてその人々を葬ることのできる、霊的に死んでいる人々がいます。言い換えれば、イエス様は、表向き活気があって歩き回っていながら死んでいる人々を、考えておられたのです。放蕩息子の主の譬えの中で、父が、「この息子は、*死んでいた*のが生き返り」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニコデモには宗教が必要だったのではありません。いのち、霊的いのちが必要だったのです。新生で起こるのは、何もなかったところにいのちがかたち造られることです。新しいいのちが、新しく生まれるときに起こるのです。これは宗教活動や鍛錬や決心ではありません。それが新生で起こることの第一の描写です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2) 超自然を、ただ単に肯定するだけでなく、体験する ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新生で起こるのは、イエス様のうちにある超自然的なものをただ単に肯定するだけでなく、超自然を自分のうちに体験することです。ニコデモは2節で、「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません」と言います。言い換えると、ニコデモはイエス様のうちに本物の神のみわざを見るのです。彼はイエス様が神から来られたお方であることを認めます。イエス様は神のみわざを成されます。これに対しイエス様は応答して、「パレスチナのすべての者が、あなたが見るわたしについての真理を見ることができたらいいのに」とは言われません。かえって、「あなたがたは新しく生まれなければ神の国を見ることはありません」と主は言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しるしや不思議を見ること、またそれらに驚くこと、「神から来たのだ」と奇跡を行う人々を賞賛することでは、誰も救われません。それらに驚くのに、新しい心は必要ないーこれがしるしと不思議が最も危険だという理由の一つです。古い、堕落した人間は、しるしと不思議に驚くのに十分な性質を備えています。古い、堕落した人間の性質は、奇跡を行う者を神から来た者と言う意志があります。悪魔自身、イエス様が神の御子であられ、奇跡を行われるお方だと知っています(マルコ1:24)。いいえ、ニコデモよ、わたしを神から遣わされた奇跡を成す者と見ることが、神の国へ入る鍵ではありません。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはありません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、重要なのは、イエス様のうちにある超自然をただ単に肯定することではなく、超自然を自分のうちに体験することが大切だと言うことです。新生は自然ではなく、超自然です。この世にすでに見つかったもので起こすことはできません。6節では新生の超自然性が強調されています。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」肉というのは私たちの自然の状態です。神の御霊が新生をもたらす、超自然なお方であられます。イエス様は8節でこれを再度言われます。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、その通りです。」御霊はこの自然の世から離れてはおられません。主は自然を越えて臨在しておられます。事実、主は神であられます。主が新生の直接の元であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからイエス様は言われます、ニコデモよ、新生で起こるのは、わたしのうちにある超自然をただ単に肯定するだけでなく、あなた自身のうちに超自然を体験することです。あなたは新しく生まれなければなりません。比喩的、自然な方法でではなく、超自然の方法でです。聖霊なる神があなたの上に臨み、新しいいのちを誕生させなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5節の「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」と言うことばを、私たちは次回見ます。ここでの水と御霊とは、何を示しているのでしょうか?そしてそれが、新生で起こることをどのように私たちに理解させてくれるのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様はいのち ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし今日は、御霊によって生まれ変わることと、イエス様にある信仰を通しての永遠のいのちの、とても重要なつながりを関連付けて、閉じたいと思います。私たちがここまで見たのは、新生で起こるのは、何もないところに霊的いのちをもたらす、聖霊の超自然のみわざだと言うことでした。イエス様はヨハネ6:63で、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません」と再度言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしヨハネの福音書は別の何かをも明確にします。それはイエス様が、聖霊の与えられるいのちであられる、と言うことです。あるいは、主がお与えくださる霊的いのちは、イエス様とのつながりのうちにのみ与えられる、と言うこともできます。イエス様と一つとされることで、私たちは超自然の、霊的いのちを体験するのです。ヨハネ14:6でイエス様は、「わたしが道であり、真理であり、*いのち*なのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われます。ヨハネ6:35でも、「わたしが*いのち*のパンです」とおっしゃいます。また20:31でもヨハネは、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたが信じるため、また、あなたが信じて、*イエスの御名によっていのち*を得るためである」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様無しにいのちは無い ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからイエス様とのつながりから離れては、またイエス様を信じることなしには、霊的いのち、永遠のいのちはありません。新生とイエス様にある信仰の関係については、沢山言うべきことがありますが、今はこのように言いましょう。新生で、聖霊は私たちを、生きた結合において、キリストと一つにさせてくださいます。キリストはいのちであられます。キリストこそいのちが流れ出るぶどうの木であられます。私たちはその枝です(ヨハネ15:1)。新生で起こるのは、新しい霊的いのちの超自然の創造であり、それはイエス･キリストと一つとなることによって造られます。聖霊は私たちを、道であり、真理であり、いのちであられるキリストとの生きたつながりに導いてくださいます。それが新生で起こる客観的な現実です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして私たちの側から、私たちがこれを体験する方法は、イエス様にある信仰が私たちの心に目覚めさせられることです。霊的いのちとイエス様にある信仰は一緒に誕生します。新しいいのちが信仰を可能にし、そして霊的いのちは絶えず信仰を起こし、信仰で表現されるので、イエス様にある信仰無しにはいのちはありません。それゆえ、新生をイエス様にある信仰から決して切り離してはいけません。神の側から、私たちは新生においてキリストと一つとされます。それが聖霊が成されることです。私たちの側から、私たちはイエス様にある信仰によって、この一つとされることを体験するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新生とイエス様にある信仰を決して切り離してはならない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネが1ヨハネ5:4でそれを言っているのを聞いてください。「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」神によって生まれた者、それが勝利の鍵です。信仰、それが勝利の鍵です。なぜなら信仰が、私たちが神によって生まれることを体験する方法だからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは、ヨハネが1ヨハネ5:11―12で言うのを聞いてください。「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」それゆえ、イエス様が「いのちを与えるのは*御霊*です。肉は何の益ももたらしません」(ヨハネ6:63)と言われるとき、またいのちを得るためには「あなたは新しく生まれなければなりません」と言われるとき、主は、新生において聖霊は、私たちを信仰を通してイエス･キリストとつなげることによって、私たちに超自然的に新しい霊的いのちをお与えくださるのです。なぜならイエス様がいのちであられるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでヨハネ3章でイエス様が言われるこれら二つのことを、決して切り離さないでください。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(３節)、そして「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」(36節)のです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 07 Jun 2018 20:04:11 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%96%B0%E7%94%9F%E3%81%A7%E4%BD%95%E3%81%8C%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>新生で何が起こるのか</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%9F%E3%81%A7%E4%BD%95%E3%81%8C%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|What Happens in the New Birth? Part 1}}&amp;lt;br&amp;gt;   &amp;amp;gt; さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。2この人...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|What Happens in the New Birth? Part 1}}&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。2この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。6肉によって生まれたものは肉です。御霊によって生まれたものは霊です。7あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。8風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」9ニコデモは答えて言った。「どうしてそのようなことがありうるのでしょう。」10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは新生についてのメッセージ･シリーズを始めたばかりです。ヨハネ3:3でイエス様はニコデモに、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われます。主はそれを言われるとき、私たちすべての者にも語っておられます。ニコデモが特別だったわけではありません。あなたと私は新しく生まれなければ、神の国を見ることはありません。それは私たちが救われないことを意味します。神の家族に加えられず、天の国へ行かずに、かえって地獄へ行きます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニコデモは最も敬虔なユダヤ教指導者、パリサイ派の一人でした。イエス様はマタイ23:15と33節で、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。･･･おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう」と彼らに対して言われます。ですから私たちが始めたこのシリーズは大して重要ではないものではありません。中心となるものです。新生を語るとき、私たちは永遠の生死のふちをさまようのです。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新生は心を動揺させる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回の第一回目のメッセージで、私たちはこのシリーズの理由と私たちが抱えるであろうある種の質問に注目しました。今日の質問は、新生で何が起こるのか?というものです。それに答える前に、このメッセージを語ることで、私が非常に懸念していることに、触れさせてください。イエス様の言葉をもし真剣に受け止めるなら、私たちは繰り返し動揺させられるように、皆さんの多くが、このメッセージ･シリーズに動揺されるかも知れない、ということに私は気づいています。これには最低でも3つの理由があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1) なぜなら私たちの絶望的状態のため ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様の新生についての教えで、私たちは自分自身の霊的、神の再生の恵みから離れた道徳的、また法的に絶望的な状態を突きつけられます。新生が起こる前は、私たちは*霊的*に死んでいます。私たちは*道徳的*に自己中心で反抗的です。そして私たちは神の律法の前に法的に有罪で、神のみ怒りの下にあります。イエス様が私たちに、私たちは新しく生まれなければならない、と言われるとき、主は、私たちの現状は絶望的に無反応で、腐敗しており、有罪であると言っておられるのです。驚くべき恵み無しには、私たちは自分自身の状態がどのようなものか、一切知りたくありません。ですのでイエス様が私たちは新しく生まれなければならないと言われるとき、私たちは動揺するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2) なぜなら私たちは新生を起こすことができないから ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新生についての教えが人を動揺させるのは、それが私たちがする何かではなく、私たちに成された何かを意味するからです。ヨハネ1:13でこれが強調されています。それは、「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ神によって生まれた」人々としての神の子を意味します。ペテロも同じことを強調します。「私たちの主イエス･キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はご自分の大きなあわれみのゆえに、･･･私たちを新しくうまれさせて」(1ペテロ1:3)。私たちが新生を起こすのではありません。神が新生を起こされるのです。私たちが成す良いことが新生を起こすのではなく、それは新生の結果です。これは、新生が私たちの手中にないことを意味します。私たちの思うがままにはなりません。そのためそれは私たちの無力と私たちの外部の誰かに対する完全な依存を、私たちに突きつけるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは動揺します。私たちはもし新しく生まれなければ、神の国を見ることはないと言われます。そして私たちは自分で自分を新しく生まれさせることはできない、とも言われます。これは動揺させられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3) なぜなら神の完全な自由が私たちの前に立ちふさがるから ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新生についてのイエス様の教えが人の心を動揺させる三つ目の理由は、それが神の完全な自由を私たちに突きつけるからです。神なしには、私たちは自分の自己中心さと反抗のうちに、霊的に死んでいます。私たちは生まれながらにして怒りの子らです(エペソ2:3)。私たちの反抗は、福音にあるキリストの栄光を察知したり求めたりすることができないほど、非常に深いのです(2コリント4:4)。それゆえ私たちが新しく生まれるとしたら、ズバリ、結局のところ、神によるのです。主の私たちを生き返らせようという決定は、私たち霊的死体が何をするかに対する応答ではなく、私たちが何をするかは、主が私たちを生き返らせられた、その応答です。ほとんどの人は、これに少なからず最初は動揺します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 動揺させるだけでなく、安定させ、救うのが、私の希望 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このシリーズを始めるにあたって、この新生の教えがいかに人の心を動揺させるものであるか、私は十分に理解しています。また、なんと気をつけたいことでしょうか!傷つきやすい魂に、不必要な苦悩を与えたくありません。また道徳や宗教を、霊的いのちと混乱させている人々に、間違った希望を与えたくもありません。どうぞ私のためにお祈りください。この数日、永遠の魂を私は自分の手中に握っているような気がします。それでいて、彼らにいのちを与える力が自分には無いことを、私は知っています。でも神にはおありになります。主がエペソ2:4―5で「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、ーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのですー」と言われることを成してくださると、私は大いに期待しています。神は、キリストが真理のうちに高く掲げられているところで、ご自身のいのち与える恵みを拡大して示されるのを好まれます。このシリーズが、心を動揺させるだけでなく、安定させ、救うこと、それが私の希望です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新生で何が起こるのか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では質問に取りかかりましょう。新生で何が起こるのでしょうか?その答えを、3つの文にして見たいと思います。その最初の二つを今日取り扱い、三つ目は(主のみこころならば)来週取り扱います。1) 新生で起こるのは、新しい宗教を得ることではなく、新しいいのちを得ることである。2) 新生で起こるのは、イエス様において起こる超自然的なものをただ単に肯定することではなく、自分自身のうちに超自然なものを体験することである。3) 新生で起こるのは、古い自分を改善することではなく、新しい人間性、本当の*あなた*であり、赦され、きよめられた、本当に*新しい*、神の内在の御霊によってかたち造られた性質の、創造である。それら一つ一つを見てみましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1) 新しい宗教ではなく、新しいいのち ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新生で起こるのは、新しい宗教を得ることではなく、新しいいのちを得ることです。ヨハネ3章の最初の三節を私と一緒に読んでください。「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。』イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネは、ニコデモがパリサイ人でありユダヤ人の指導者であるということを、私たちがあらかじめ知るようにしています。パリサイ人はユダヤ教宗派の中でも最も厳格な宗派でした。イエス様はこの一人に(３節で)、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われます。そして7節ではもっと個人的に、「あなたがたは新しくうまれなければならない」と言われます。ですからヨハネの要点の一つは、ニコデモの宗教のすべて、パリサイ派の驚くべき学問と鍛錬と律法に忠実であることのすべては、新生の必要性に取って変わることはできない、ということです。事実、それらは新生が必要であることをもっと明白にします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニコデモが必要なのは、そしてあなたと私が必要なのは、宗教ではなくいのちです。新生が示すポイントは、誕生は新しいいのちをこの世にもたらすと言うことです。ある意味、当前ですが、ニコデモは生きています。彼は息をしており、考えており、感じており、行動しています。彼は神の似姿に造られた人間です。しかしどうやらイエス様は、彼が死んでいると思っておられるようです。霊的いのちがニコデモにはないのです。彼は霊的には誕生していません。彼にはさらなる宗教活動や宗教的熱心さではなく、いのちが必要です。彼にはそれ[宗教的熱心さ]は十分にあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様がルカ9:60で、自分の父を葬るためにイエス様に従うのを延期しようとした人に言われたことを、覚えていますか?「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を広めなさい」とイエス様は言われました。それは埋葬が必要な肉体的に死んだ人々がいるということを意味します。そしてその人々を葬ることのできる、霊的に死んでいる人々がいます。言い換えれば、イエス様は、表向き活気があって歩き回っていながら死んでいる人々を、考えておられたのです。放蕩息子の主の譬えの中で、父が、「この息子は、*死んでいた*のが生き返り」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニコデモには宗教が必要だったのではありません。いのち、霊的いのちが必要だったのです。新生で起こるのは、何もなかったところにいのちがかたち造られることです。新しいいのちが、新しく生まれるときに起こるのです。これは宗教活動や鍛錬や決心ではありません。それが新生で起こることの第一の描写です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2) 超自然を、ただ単に肯定するだけでなく、体験する ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新生で起こるのは、イエス様のうちにある超自然的なものをただ単に肯定するだけでなく、超自然を自分のうちに体験することです。ニコデモは2節で、「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません」と言います。言い換えると、ニコデモはイエス様のうちに本物の神のみわざを見るのです。彼はイエス様が神から来られたお方であることを認めます。イエス様は神のみわざを成されます。これに対しイエス様は応答して、「パレスチナのすべての者が、あなたが見るわたしについての真理を見ることができたらいいのに」とは言われません。かえって、「あなたがたは新しく生まれなければ神の国を見ることはありません」と主は言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しるしや不思議を見ること、またそれらに驚くこと、「神から来たのだ」と奇跡を行う人々を賞賛することでは、誰も救われません。それらに驚くのに、新しい心は必要ないーこれがしるしと不思議が最も危険だという理由の一つです。古い、堕落した人間は、しるしと不思議に驚くのに十分な性質を備えています。古い、堕落した人間の性質は、奇跡を行う者を神から来た者と言う意志があります。悪魔自身、イエス様が神の御子であられ、奇跡を行われるお方だと知っています(マルコ1:24)。いいえ、ニコデモよ、わたしを神から遣わされた奇跡を成す者と見ることが、神の国へ入る鍵ではありません。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはありません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、重要なのは、イエス様のうちにある超自然をただ単に肯定することではなく、超自然を自分のうちに体験することが大切だと言うことです。新生は自然ではなく、超自然です。この世にすでに見つかったもので起こすことはできません。6節では新生の超自然性が強調されています。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」肉というのは私たちの自然の状態です。神の御霊が新生をもたらす、超自然なお方であられます。イエス様は8節でこれを再度言われます。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、その通りです。」御霊はこの自然の世から離れてはおられません。主は自然を越えて臨在しておられます。事実、主は神であられます。主が新生の直接の元であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからイエス様は言われます、ニコデモよ、新生で起こるのは、わたしのうちにある超自然をただ単に肯定するだけでなく、あなた自身のうちに超自然を体験することです。あなたは新しく生まれなければなりません。比喩的、自然な方法でではなく、超自然の方法でです。聖霊なる神があなたの上に臨み、新しいいのちを誕生させなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5節の「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」と言うことばを、私たちは次回見ます。ここでの水と御霊とは、何を示しているのでしょうか?そしてそれが、新生で起こることをどのように私たちに理解させてくれるのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様はいのち ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし今日は、御霊によって生まれ変わることと、イエス様にある信仰を通しての永遠のいのちの、とても重要なつながりを関連付けて、閉じたいと思います。私たちがここまで見たのは、新生で起こるのは、何もないところに霊的いのちをもたらす、聖霊の超自然のみわざだと言うことでした。イエス様はヨハネ6:63で、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません」と再度言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしヨハネの福音書は別の何かをも明確にします。それはイエス様が、聖霊の与えられるいのちであられる、と言うことです。あるいは、主がお与えくださる霊的いのちは、イエス様とのつながりのうちにのみ与えられる、と言うこともできます。イエス様と一つとされることで、私たちは超自然の、霊的いのちを体験するのです。ヨハネ14:6でイエス様は、「わたしが道であり、真理であり、*いのち*なのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われます。ヨハネ6:35でも、「わたしが*いのち*のパンです」とおっしゃいます。また20:31でもヨハネは、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたが信じるため、また、あなたが信じて、*イエスの御名によっていのち*を得るためである」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様無しにいのちは無い ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからイエス様とのつながりから離れては、またイエス様を信じることなしには、霊的いのち、永遠のいのちはありません。新生とイエス様にある信仰の関係については、沢山言うべきことがありますが、今はこのように言いましょう。新生で、聖霊は私たちを、生きた結合において、キリストと一つにさせてくださいます。キリストはいのちであられます。キリストこそいのちが流れ出るぶどうの木であられます。私たちはその枝です(ヨハネ15:1)。新生で起こるのは、新しい霊的いのちの超自然の創造であり、それはイエス･キリストと一つとなることによって造られます。聖霊は私たちを、道であり、真理であり、いのちであられるキリストとの生きたつながりに導いてくださいます。それが新生で起こる客観的な現実です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして私たちの側から、私たちがこれを体験する方法は、イエス様にある信仰が私たちの心に目覚めさせられることです。霊的いのちとイエス様にある信仰は一緒に誕生します。新しいいのちが信仰を可能にし、そして霊的いのちは絶えず信仰を起こし、信仰で表現されるので、イエス様にある信仰無しにはいのちはありません。それゆえ、新生をイエス様にある信仰から決して切り離してはいけません。神の側から、私たちは新生においてキリストと一つとされます。それが聖霊が成されることです。私たちの側から、私たちはイエス様にある信仰によって、この一つとされることを体験するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 新生とイエス様にある信仰を決して切り離してはならない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネが1ヨハネ5:4でそれを言っているのを聞いてください。「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」神によって生まれた者、それが勝利の鍵です。信仰、それが勝利の鍵です。なぜなら信仰が、私たちが神によって生まれることを体験する方法だからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは、ヨハネが1ヨハネ5:11―12で言うのを聞いてください。「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」それゆえ、イエス様が「いのちを与えるのは*御霊*です。肉は何の益ももたらしません」(ヨハネ6:63)と言われるとき、またいのちを得るためには「あなたは新しく生まれなければなりません」と言われるとき、主は、新生において聖霊は、私たちを信仰を通してイエス･キリストとつなげることによって、私たちに超自然的に新しい霊的いのちをお与えくださるのです。なぜならイエス様がいのちであられるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでヨハネ3章でイエス様が言われるこれら二つのことを、決して切り離さないでください。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(３節)、そして「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」(36節)のです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 07 Jun 2018 20:03:39 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%96%B0%E7%94%9F%E3%81%A7%E4%BD%95%E3%81%8C%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>ヨセフと神の御子の売渡し</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95%E3%81%A8%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A3%B2%E6%B8%A1%E3%81%97</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「ヨセフと神の御子の売渡し」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Sale of Joseph and the Son of God}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== アブラムに対する(神の)驚くべきことば ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨセフとその兄弟の壮絶な罪の話と、イエス・キリストの栄光あるその世界的規模の目的を改めて語る前に、創世記12章に戻りましょう。神は世界中の国民の中からアブラムを、彼が正しいからではなく、惜しみない恵みによってお選びになりました。創世記12:2－3で、「あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; と神はアブラムに約束されます。これがメシアであり神の御子であられるイエス・キリストが、イスラエルの民を通して、私たちを罪から救って下さるためにこの世に来臨された、そのイスラエルの民の始まりです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして15章で、神はアブラムと同じ契約を結ばれます。主はここで異例の象徴的な行動をとられ、驚くようなことを言われます。創世記15:13－16で主はアブラハムに、「あなたはこのことをよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。…そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」と言われるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 四百年も! ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の民とのその契約関係の始まりで、神は400年のエジプト寄留と約束の地への帰還を予知されるのです。「彼らは四百年の間、苦しめられよう。」主には彼らがなぜ400年(考えて見てください!)も放浪し、その約束の地を相続しないのか、奇妙な理由がおありになります。つまり、15節 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 、「エモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」です。イスラエル人は400年後、ヨシュアのもとでその地を奪還するため帰ってくるとき、それらの国民を打ち滅ぼします。私たちはそれをどのように理解すればいいのでしょうか?申命記9:5節に神の答えがあります。「あなたが彼らの地を所有することができるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。」約束の地の制覇は、何世紀にも渡る満ち満ちた悪に対する神のみ裁きなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の民は多くの苦難を通して[神の国に]入る ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その間、主の民は彼らの土地ではない地、つまりエジプトでさまよい、400年間苦しめられると、神は言われます。ですので主の旅人たちには主のご計画があります。ちょうど御国へ行くまでの、この世でのあなたの人生をあらわしているようなものです。もし神が、約束の地へたどり着くまでの400年間の苦難をご自身の民に計画されるのなら(創世記15:13)、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」(使徒14:22)と主が言われることは、驚きではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 預言は壮大な罪を通して成就した ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神の民はどうしてエジプトにいることになったのでしょうか?そしてエジプトでのこの奇妙な放浪で、ご自身の道とその御子について、主は私たちに何を教えようとしておられるのでしょうか?これが、今日の私たちに対する質問です。神はこの預言を壮絶な罪を通して成就されるというのが、その答えです。そしてこの罪を通して、主はご自身の契約の民イスラエルだけでなく、ユダの獅子が人々を救い、支配されるために来られる、その系列をも生き残らせられます。ですのでヨセフの話には非常に大きな事柄がかかっているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== アブラハム、イサク、そしてヤコブ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アブラムに戻り、ヨセフの話をしましょう。アブラムには息子イサクがいます。イサクには息子ヤコブ(またの名をイスラエルといいます)、そしてヤコブにはイスラエルの12部族の父祖となる12人の息子がいます。ヤコブの12人の息子の一人、ヨセフは、二つの夢を見ます。その両方で、彼の11人の兄たちと両親が彼に頭を垂れます。創世記37:8で彼の兄弟はその夢のゆえに彼を憎んだと言います。また11節では彼らは妬んだと言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 夢見る者の撲滅 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
弟に対する彼らの憤りを発散する日がやって来ました。ヨセフの父は、兄たちが無事かどうかを確かめるため、ヨセフを遣わします(創世記37:14)。兄たちは彼がやってくるのを見て、次のように19-20節で言います。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」ルベンがヨセフを救おうとしますが、兄弟たちがヨセフをエジプトに向かっているイシュマエル人の商人に売り(25節)、その試みも一部しか成功しません。彼らはヨセフの特上の上着を取って獣の血にひたし、ヨセフの父はヨセフが野生の獣に食べられてしまったものと思い込みます。兄弟たちはそれで終わりだと思うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 見えない御手の業 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし彼らは一体何が起こっているのか、想像もつきません。自分たちの行動のうちに神の見えない御手があることに、まったく気づいていません。この夢見る者を滅ぼすという努力そのもので、ヨセフの夢を叶えてあげていることを知らないのです。ああ、神は何と頻繁にこのように働かれるでしょうか!主は破壊する者の罪そのものを用いて、破壊する者らを救われるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ポティファル、牢屋、そして神の摂理 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エジプトでヨセフは、パロの侍従長で護衛隊の長であるポティファルに売られます(創世記37:36)。そこでヨセフは神の奇妙な摂理に従い、ポティファルに忠実に仕えます。信頼をかい、ポティファルの一族に影響を与えるようになります。そして義人は栄えるようになると、あなたはそう思うでしょう。しかし違うようです。ポティファルの妻がヨセフをたぶらかそうとします。ヨセフは不倫から逃れます。はねつけられた女は憎悪に燃え、ヨセフの事で嘘をつきます。そしてその正しい行いにも関わらず、ヨセフは牢屋に入れられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牢屋で、再び神がこの苦しみの中で何を成しておられるか気づかず、彼は監獄の長に忠実に仕え、信頼を受けて仕事を与えられます。パロの執事と料理長の二つの夢解きを通して、最終的にヨセフはパロの夢をとくために牢屋から出されます。彼の夢解きは本物であると証明され、その知恵はパロにとって説得力があり、ヨセフはエジプトの司令官に任命されます。「あなたは私の家を治めてくれ」と、パロは言います。「私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」(創世記41:40)と。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 夢の実現 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨセフが言ったとおり、7年の豊穣の後に続いた7年の飢饉が地を打ちのめします。ヨセフは7年の豊穣の間に穀物を大量に蓄え、エジプトの飢餓を阻止します。やがてヨセフの兄弟たちがエジプトに穀物があることを聞きつけ、助けを求めにやって来ます。初めは自分たちの弟に気づきませんが、やがてヨセフは自分の正体を現します。兄たちが彼を奴隷として売ったのは、彼が17歳のときでした(37:2)。そして自分が一体誰なのかを兄たちに明かすとき、彼は39歳です(41:46,53;45:6)。26年の月日が経っていました。兄たちは驚きを隠せませんでした。彼らは夢見る者を排除しようとしたのですが、排除することによって、ヨセフの夢をかなえたのです。終いに彼らはヨセフの前にひれ伏しているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終的にヨセフは兄弟たちを救うため、彼らにエジプトに住むよう招き、アブラハムの子孫がエジプトで400年間さまようというはるか昔の預言の成就が、始まります。ここで再度、質問です。神のご計画の成就で、どのようにして神の民はエジプトに定着することになったのでしょうか?またエジプトでのこの奇妙な放浪で、ご自身の道とその御子について、主は私たちに何を教えようとしておられるのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== この実現の聖書的二つの表現 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民がどのようにしてエジプトに定着することになったのかについての答えは、ある意味明確です。彼らは殺害の企て、貪欲な奴隷取引、そして傷ついた年寄りについた冷酷な嘘という壮絶な罪という方法によって、エジプトにたどり着いたのです。しかし聖書はどのようにこの神の預言の成就を表現しているでしょうか?二つあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 神はいのちを救うためにヨセフを遣わされた''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一つは、創世記45:5で、「わたしをここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」と、ヨセフが彼を恐れている兄弟たちに言うところにあります。この兄たちの壮絶な罪を聖書は、ヨセフを殺そうとしていた者たちそのものを救うため、ヨセフをエジプトに遣わすといのが神の方法であると、まず最初に表現します。「神はあなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを大して意味のないものとしない限り、詩篇105:16-17で、さらに深く掘り下げただけで変わらない、まったく同じことを読むことができます。神はヨセフをエジプトに連れて行くためのこの兄たちの行動をご支配しておられただけでなく、飢饉をも支配しておられたのです。「主はききんを地の上に招き、パンのための棒をことごとく折られた。主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。」ですので神は飢饉が独自で起こることを想定しておられたとか、サタンによって起こったとかいう考えは、捨てて下さい。神が飢饉を招かれたのです。そして神が救いを備えられたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) 人が悪を計ることを、神は良いことにされる''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書においては、神の民がエジプトに来るという預言の成就を、神がヨセフを彼らに先だってそこへ送られたという風に表現するのが、まず最初の方法です。二つ目の聖書のこの預言の表現方法は、もっと突き刺すようで大ざっぱです。兄弟たちはヨセフのもとに再びやって来ます。今回は父の死後ですが、彼らはヨセフが彼らに復讐するのではないかと再び恐れます。創世記50:19-20でヨセフは言います。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二つ目の聖書における神の預言の成就の表現方法は、兄たちはヨセフの売り渡しを悪しきことのために計ったが、神はそれを良いことのための計らいとなさった、というものです。神は彼らの悪を、彼らが悪を計った後で、良いことのために用いられた、と言っていないことに注目してください。その悪行そのもののうちに、二つの計画があったと言っているのです。罪深い行いのうちに、彼らは悪しきことを計っており、その同じ罪深い行いのうちに、神は良いことを計っておられたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 指針、いのちを救う罪 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人―あるいは悪魔―が計る悪を、神は素晴らしく良いことのための計らいとされる、これを私たちはこれまで見てき、またこれから何度も見ていきます。創世記45:5で触れられている素晴らしく良いことというのは、「いのちを救う」ことです。そして創世記50:20で触れられている素晴らしく良いことと言うのは、「きょうのようにして、多くの人々を生かしておくため」です。しかしそれらの言葉と、神がどのようにご自身の民を救われるかという話すべては、イエス・キリストの栄光にある、この罪―このいのちを救う罪―の、世界的規模の目的を指し示しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様の栄光を示す3つの指針 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様のご栄光と主がどのようなお方でかるかを見るよう私たちに心構えをさせてくれる、3つの事柄をこの話のうちに見ていきましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 救いは罪と苦難を通してやって来る''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、聖書で繰り返し起こる一般的なパターン、すなわち、神の民の救いの勝利は、よく、罪と苦難を通してやってくるということを、私たちは見ます。ヨセフの兄たちはヨセフに対し罪を犯し、彼はそのため苦しみました。そしてこの一連のことにおいて、神はご自身の民―救済者をも滅ぼそうとしている者たちを含めた―を救うために働いておられるのです。イエス様がこのようにして来られたこと自体、多くの人にとって驚きであったわけですが、驚くことではないのです。主は主の民を救う途上で背かれ、苦しめられたということこそ、繰り返し起こるこのパターンから予想がつくことなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでヨセフと彼の兄弟たちの壮絶な罪の話で、私たちはキリストの栄光―主を排除しようとしている者たちに仕えられる、主の忍耐、謙遜、そしてしもべであられるみ姿―を見る心構えができるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ''わが主を十字架の　なやみと死にまで '' おいやりまつりし　われをもかえりみ すくいのみめぐみに　あずからしめたもう み神の愛こそ　まことの愛なれ''&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; '' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) 苦しまれるお方は義であられる''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に、ヨセフとその兄弟たちの劇的な罪は、イエス様を、神のその民をお救いになる勝利が苦難と罪を通して来るという一般的なパターンのゆえに見るよう、私たちが心構えをするように仕向けるだけでなく、もっと具体的に、この場合、苦しまれ背かれているお方はまさしく義なるお方であるということをも見るよう、心構えをさせてくれます。ヨセフは話の中で、すべての人間関係においての貞節さと忠実さにおいて際立っています。不当な扱いを受けても、彼はポティファルに対し忠実で、また監獄の長に対しても忠実です。創世記39:22、「監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこでヨセフの受けた報酬は何でしょうか?ポティファルの妻に嘘をつかれ、夢を解いてあげたパロの侍従長に感謝されもせず、夢ときの後2年間も忘れ去られたのです。ですのでこれらすべての要点は、罪と苦難はつきものであり、神はご自身の民を救うためその中で働いておられる、というだけではありません。もっと具体的に、義人は、たとえ長期間虐待されたとしても、最終的に神によって潔白が立証される、というのが要点です。たとえ人々がこの義なる石を見捨てたとしても、神が礎の石にされるのです(マタイ21:42)。神の擁護が、ご自身を迫害する者の、救いの方法となるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス・キリストこそが最終的な、究極の、完全な義なるお方です(使徒7:52)。他の人々には、主の人生が悲惨だったので、罪人であるかのように見えました。しかし最後には、背きの罪に遭いながら、完全な義で苦しみを耐え抜かれたことで、ご自身の無実が立証され、それゆえに、私たちの救いへと至ったのです。もしヨセフがその揺るがない強さで驚異的であったのなら、イエス様はその一万倍驚異的であられるお方です。それは、主がヨセフの一万倍の苦しみを受けられ、その一万倍苦しみを受けるに値しないお方であり、それでいてその間完全に不動であられ、忠実で、また義であられたからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) 王権はユダを離れない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他にもヨセフとイエス様の話には相似しているところがありますが、今度はイエス様についての話で、ヨセフとは相似していない、最も重要な点にいきたいと思います。それはもしこの罪深いヤコブの息子たちが、飢饉のため飢えで死んでいたら実現していなかった、イエス様の来臨の預言です。この兄弟たちの劇的な罪は、ユダの部族を絶滅から守るための神の方法でした。そうすれば、ユダの獅子、イエス・キリストがお生まれになり、死んでよみがえられ、全世界の民の上に君臨されるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
創世記49:8-10にこれをはっきりと見ることができます。父であるヤコブは死の床にあり、死ぬ前に自分の子供たちに預言の祝福を述べます。そしてユダについて、このように言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民はこれに従う。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これがイスラエルの最後の王、ユダの獅子、メシアの来臨の預言です。10節で王権―統治者の杖、王のしるし―は、イスラエルだけでなく''すべての''民が従うゆえに、普通の王ではないお方が来られるまで、ユダの系図にとどまると言っていることに、注目してください。10節、「国々のたみは彼に従う。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはイエス様によって成就します。ヨハネが十字架刑とよみがえりの後の、イエス様の御国での役割について述べているその表現の仕方に注目してください。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻物を開いて、七つの封印を解くことができます。…彼らは、新しい歌を歌って言った。『あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』」(黙示5:5,9-10) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ユダの獅子はほふられた小羊 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヤコブの預言の成就における、ユダ族の獅子について、もっとも素晴らしいのは、主が私たちの罪悪感を利用して私たちを主に従わせようと強制するのではなく、私たちの罪を背負ってくださり、私たちを、主を愛し、讃え、永遠の喜びを持って従うように解放することによって、国々の民の従順を獲得される、ということです。ユダの獅子は、ほふられた小羊です。主は私たちの罪をお赦しになり、義なるお方であるご自身の従順と、完璧さを、私たちが神に受け入れられる土台として下さることによって、私たちの従順を勝ち取られるのです。そしてこのはかり知れない安全と喜びの身分のうちに―すべて主の苦しみと義と死とよみがえりに負うものですが―、主は私たちの自由と幸せな服従を勝ち取られるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨセフの話は、背きの罪に遭い、苦しめられた一人の義人の話です。そうされることによってユダの部族が生き残り、獅子が来られ、それが小羊のような獅子であることが証明され、そしてそのお方の苦しみと死によって、国々の民―そのお方を殺した者でさえも―の喜びを伴った服従が買い取られ、可能になるためです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのお方にはあなたの服従がおありになるでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 日本聖書刊行会、新改訳聖書、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書では16節。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; 讃美歌第2編230番、日本基督教団賛美歌委員会、日本基督教団出版局、1967年版。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 22 Mar 2018 20:03:58 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95%E3%81%A8%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A3%B2%E6%B8%A1%E3%81%97</comments>		</item>
		<item>
			<title>ヨセフと神の御子の売渡し</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95%E3%81%A8%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A3%B2%E6%B8%A1%E3%81%97</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|The Sale of Joseph and the Son of God}}   ==== アブラムに対する(神の)驚くべきことば ====  ヨセフとその兄弟の壮絶な罪の話と、イエス・...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Sale of Joseph and the Son of God}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== アブラムに対する(神の)驚くべきことば ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨセフとその兄弟の壮絶な罪の話と、イエス・キリストの栄光あるその世界的規模の目的を改めて語る前に、創世記12章に戻りましょう。神は世界中の国民の中からアブラムを、彼が正しいからではなく、惜しみない恵みによってお選びになりました。創世記12:2－3で、「あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; と神はアブラムに約束されます。これがメシアであり神の御子であられるイエス・キリストが、イスラエルの民を通して、私たちを罪から救って下さるためにこの世に来臨された、そのイスラエルの民の始まりです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして15章で、神はアブラムと同じ契約を結ばれます。主はここで異例の象徴的な行動をとられ、驚くようなことを言われます。創世記15:13－16で主はアブラハムに、「あなたはこのことをよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。…そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」と言われるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 四百年も! ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の民とのその契約関係の始まりで、神は400年のエジプト寄留と約束の地への帰還を予知されるのです。「彼らは四百年の間、苦しめられよう。」主には彼らがなぜ400年(考えて見てください!)も放浪し、その約束の地を相続しないのか、奇妙な理由がおありになります。つまり、15節 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 、「エモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」です。イスラエル人は400年後、ヨシュアのもとでその地を奪還するため帰ってくるとき、それらの国民を打ち滅ぼします。私たちはそれをどのように理解すればいいのでしょうか?申命記9:5節に神の答えがあります。「あなたが彼らの地を所有することができるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。」約束の地の制覇は、何世紀にも渡る満ち満ちた悪に対する神のみ裁きなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の民は多くの苦難を通して[神の国に]入る ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その間、主の民は彼らの土地ではない地、つまりエジプトでさまよい、400年間苦しめられると、神は言われます。ですので主の旅人たちには主のご計画があります。ちょうど御国へ行くまでの、この世でのあなたの人生をあらわしているようなものです。もし神が、約束の地へたどり着くまでの400年間の苦難をご自身の民に計画されるのなら(創世記15:13)、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」(使徒14:22)と主が言われることは、驚きではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 預言は壮大な罪を通して成就した ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神の民はどうしてエジプトにいることになったのでしょうか?そしてエジプトでのこの奇妙な放浪で、ご自身の道とその御子について、主は私たちに何を教えようとしておられるのでしょうか?これが、今日の私たちに対する質問です。神はこの預言を壮絶な罪を通して成就されるというのが、その答えです。そしてこの罪を通して、主はご自身の契約の民イスラエルだけでなく、ユダの獅子が人々を救い、支配されるために来られる、その系列をも生き残らせられます。ですのでヨセフの話には非常に大きな事柄がかかっているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== アブラハム、イサク、そしてヤコブ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アブラムに戻り、ヨセフの話をしましょう。アブラムには息子イサクがいます。イサクには息子ヤコブ(またの名をイスラエルといいます)、そしてヤコブにはイスラエルの12部族の父祖となる12人の息子がいます。ヤコブの12人の息子の一人、ヨセフは、二つの夢を見ます。その両方で、彼の11人の兄たちと両親が彼に頭を垂れます。創世記37:8で彼の兄弟はその夢のゆえに彼を憎んだと言います。また11節では彼らは妬んだと言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 夢見る者の撲滅 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
弟に対する彼らの憤りを発散する日がやって来ました。ヨセフの父は、兄たちが無事かどうかを確かめるため、ヨセフを遣わします(創世記37:14)。兄たちは彼がやってくるのを見て、次のように19-20節で言います。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」ルベンがヨセフを救おうとしますが、兄弟たちがヨセフをエジプトに向かっているイシュマエル人の商人に売り(25節)、その試みも一部しか成功しません。彼らはヨセフの特上の上着を取って獣の血にひたし、ヨセフの父はヨセフが野生の獣に食べられてしまったものと思い込みます。兄弟たちはそれで終わりだと思うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 見えない御手の業 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし彼らは一体何が起こっているのか、想像もつきません。自分たちの行動のうちに神の見えない御手があることに、まったく気づいていません。この夢見る者を滅ぼすという努力そのもので、ヨセフの夢を叶えてあげていることを知らないのです。ああ、神は何と頻繁にこのように働かれるでしょうか!主は破壊する者の罪そのものを用いて、破壊する者らを救われるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ポティファル、牢屋、そして神の摂理 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エジプトでヨセフは、パロの侍従長で護衛隊の長であるポティファルに売られます(創世記37:36)。そこでヨセフは神の奇妙な摂理に従い、ポティファルに忠実に仕えます。信頼をかい、ポティファルの一族に影響を与えるようになります。そして義人は栄えるようになると、あなたはそう思うでしょう。しかし違うようです。ポティファルの妻がヨセフをたぶらかそうとします。ヨセフは不倫から逃れます。はねつけられた女は憎悪に燃え、ヨセフの事で嘘をつきます。そしてその正しい行いにも関わらず、ヨセフは牢屋に入れられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牢屋で、再び神がこの苦しみの中で何を成しておられるか気づかず、彼は監獄の長に忠実に仕え、信頼を受けて仕事を与えられます。パロの執事と料理長の二つの夢解きを通して、最終的にヨセフはパロの夢をとくために牢屋から出されます。彼の夢解きは本物であると証明され、その知恵はパロにとって説得力があり、ヨセフはエジプトの司令官に任命されます。「あなたは私の家を治めてくれ」と、パロは言います。「私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」(創世記41:40)と。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 夢の実現 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨセフが言ったとおり、7年の豊穣の後に続いた7年の飢饉が地を打ちのめします。ヨセフは7年の豊穣の間に穀物を大量に蓄え、エジプトの飢餓を阻止します。やがてヨセフの兄弟たちがエジプトに穀物があることを聞きつけ、助けを求めにやって来ます。初めは自分たちの弟に気づきませんが、やがてヨセフは自分の正体を現します。兄たちが彼を奴隷として売ったのは、彼が17歳のときでした(37:2)。そして自分が一体誰なのかを兄たちに明かすとき、彼は39歳です(41:46,53;45:6)。26年の月日が経っていました。兄たちは驚きを隠せませんでした。彼らは夢見る者を排除しようとしたのですが、排除することによって、ヨセフの夢をかなえたのです。終いに彼らはヨセフの前にひれ伏しているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終的にヨセフは兄弟たちを救うため、彼らにエジプトに住むよう招き、アブラハムの子孫がエジプトで400年間さまようというはるか昔の預言の成就が、始まります。ここで再度、質問です。神のご計画の成就で、どのようにして神の民はエジプトに定着することになったのでしょうか?またエジプトでのこの奇妙な放浪で、ご自身の道とその御子について、主は私たちに何を教えようとしておられるのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== この実現の聖書的二つの表現 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民がどのようにしてエジプトに定着することになったのかについての答えは、ある意味明確です。彼らは殺害の企て、貪欲な奴隷取引、そして傷ついた年寄りについた冷酷な嘘という壮絶な罪という方法によって、エジプトにたどり着いたのです。しかし聖書はどのようにこの神の預言の成就を表現しているでしょうか?二つあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 神はいのちを救うためにヨセフを遣わされた''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一つは、創世記45:5で、「わたしをここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」と、ヨセフが彼を恐れている兄弟たちに言うところにあります。この兄たちの壮絶な罪を聖書は、ヨセフを殺そうとしていた者たちそのものを救うため、ヨセフをエジプトに遣わすといのが神の方法であると、まず最初に表現します。「神はあなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを大して意味のないものとしない限り、詩篇105:16-17で、さらに深く掘り下げただけで変わらない、まったく同じことを読むことができます。神はヨセフをエジプトに連れて行くためのこの兄たちの行動をご支配しておられただけでなく、飢饉をも支配しておられたのです。「主はききんを地の上に招き、パンのための棒をことごとく折られた。主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。」ですので神は飢饉が独自で起こることを想定しておられたとか、サタンによって起こったとかいう考えは、捨てて下さい。神が飢饉を招かれたのです。そして神が救いを備えられたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) 人が悪を計ることを、神は良いことにされる''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書においては、神の民がエジプトに来るという預言の成就を、神がヨセフを彼らに先だってそこへ送られたという風に表現するのが、まず最初の方法です。二つ目の聖書のこの預言の表現方法は、もっと突き刺すようで大ざっぱです。兄弟たちはヨセフのもとに再びやって来ます。今回は父の死後ですが、彼らはヨセフが彼らに復讐するのではないかと再び恐れます。創世記50:19-20でヨセフは言います。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二つ目の聖書における神の預言の成就の表現方法は、兄たちはヨセフの売り渡しを悪しきことのために計ったが、神はそれを良いことのための計らいとなさった、というものです。神は彼らの悪を、彼らが悪を計った後で、良いことのために用いられた、と言っていないことに注目してください。その悪行そのもののうちに、二つの計画があったと言っているのです。罪深い行いのうちに、彼らは悪しきことを計っており、その同じ罪深い行いのうちに、神は良いことを計っておられたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 指針、いのちを救う罪 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人―あるいは悪魔―が計る悪を、神は素晴らしく良いことのための計らいとされる、これを私たちはこれまで見てき、またこれから何度も見ていきます。創世記45:5で触れられている素晴らしく良いことというのは、「いのちを救う」ことです。そして創世記50:20で触れられている素晴らしく良いことと言うのは、「きょうのようにして、多くの人々を生かしておくため」です。しかしそれらの言葉と、神がどのようにご自身の民を救われるかという話すべては、イエス・キリストの栄光にある、この罪―このいのちを救う罪―の、世界的規模の目的を指し示しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様の栄光を示す3つの指針 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様のご栄光と主がどのようなお方でかるかを見るよう私たちに心構えをさせてくれる、3つの事柄をこの話のうちに見ていきましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 救いは罪と苦難を通してやって来る''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、聖書で繰り返し起こる一般的なパターン、すなわち、神の民の救いの勝利は、よく、罪と苦難を通してやってくるということを、私たちは見ます。ヨセフの兄たちはヨセフに対し罪を犯し、彼はそのため苦しみました。そしてこの一連のことにおいて、神はご自身の民―救済者をも滅ぼそうとしている者たちを含めた―を救うために働いておられるのです。イエス様がこのようにして来られたこと自体、多くの人にとって驚きであったわけですが、驚くことではないのです。主は主の民を救う途上で背かれ、苦しめられたということこそ、繰り返し起こるこのパターンから予想がつくことなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでヨセフと彼の兄弟たちの壮絶な罪の話で、私たちはキリストの栄光―主を排除しようとしている者たちに仕えられる、主の忍耐、謙遜、そしてしもべであられるみ姿―を見る心構えができるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ''わが主を十字架の　なやみと死にまで '' おいやりまつりし　われをもかえりみ すくいのみめぐみに　あずからしめたもう み神の愛こそ　まことの愛なれ''&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; '' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) 苦しまれるお方は義であられる''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に、ヨセフとその兄弟たちの劇的な罪は、イエス様を、神のその民をお救いになる勝利が苦難と罪を通して来るという一般的なパターンのゆえに見るよう、私たちが心構えをするように仕向けるだけでなく、もっと具体的に、この場合、苦しまれ背かれているお方はまさしく義なるお方であるということをも見るよう、心構えをさせてくれます。ヨセフは話の中で、すべての人間関係においての貞節さと忠実さにおいて際立っています。不当な扱いを受けても、彼はポティファルに対し忠実で、また監獄の長に対しても忠実です。創世記39:22、「監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこでヨセフの受けた報酬は何でしょうか?ポティファルの妻に嘘をつかれ、夢を解いてあげたパロの侍従長に感謝されもせず、夢ときの後2年間も忘れ去られたのです。ですのでこれらすべての要点は、罪と苦難はつきものであり、神はご自身の民を救うためその中で働いておられる、というだけではありません。もっと具体的に、義人は、たとえ長期間虐待されたとしても、最終的に神によって潔白が立証される、というのが要点です。たとえ人々がこの義なる石を見捨てたとしても、神が礎の石にされるのです(マタイ21:42)。神の擁護が、ご自身を迫害する者の、救いの方法となるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス・キリストこそが最終的な、究極の、完全な義なるお方です(使徒7:52)。他の人々には、主の人生が悲惨だったので、罪人であるかのように見えました。しかし最後には、背きの罪に遭いながら、完全な義で苦しみを耐え抜かれたことで、ご自身の無実が立証され、それゆえに、私たちの救いへと至ったのです。もしヨセフがその揺るがない強さで驚異的であったのなら、イエス様はその一万倍驚異的であられるお方です。それは、主がヨセフの一万倍の苦しみを受けられ、その一万倍苦しみを受けるに値しないお方であり、それでいてその間完全に不動であられ、忠実で、また義であられたからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) 王権はユダを離れない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他にもヨセフとイエス様の話には相似しているところがありますが、今度はイエス様についての話で、ヨセフとは相似していない、最も重要な点にいきたいと思います。それはもしこの罪深いヤコブの息子たちが、飢饉のため飢えで死んでいたら実現していなかった、イエス様の来臨の預言です。この兄弟たちの劇的な罪は、ユダの部族を絶滅から守るための神の方法でした。そうすれば、ユダの獅子、イエス・キリストがお生まれになり、死んでよみがえられ、全世界の民の上に君臨されるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
創世記49:8-10にこれをはっきりと見ることができます。父であるヤコブは死の床にあり、死ぬ前に自分の子供たちに預言の祝福を述べます。そしてユダについて、このように言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民はこれに従う。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これがイスラエルの最後の王、ユダの獅子、メシアの来臨の預言です。10節で王権―統治者の杖、王のしるし―は、イスラエルだけでなく''すべての''民が従うゆえに、普通の王ではないお方が来られるまで、ユダの系図にとどまると言っていることに、注目してください。10節、「国々のたみは彼に従う。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはイエス様によって成就します。ヨハネが十字架刑とよみがえりの後の、イエス様の御国での役割について述べているその表現の仕方に注目してください。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻物を開いて、七つの封印を解くことができます。…彼らは、新しい歌を歌って言った。『あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』」(黙示5:5,9-10) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ユダの獅子はほふられた小羊 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヤコブの預言の成就における、ユダ族の獅子について、もっとも素晴らしいのは、主が私たちの罪悪感を利用して私たちを主に従わせようと強制するのではなく、私たちの罪を背負ってくださり、私たちを、主を愛し、讃え、永遠の喜びを持って従うように解放することによって、国々の民の従順を獲得される、ということです。ユダの獅子は、ほふられた小羊です。主は私たちの罪をお赦しになり、義なるお方であるご自身の従順と、完璧さを、私たちが神に受け入れられる土台として下さることによって、私たちの従順を勝ち取られるのです。そしてこのはかり知れない安全と喜びの身分のうちに―すべて主の苦しみと義と死とよみがえりに負うものですが―、主は私たちの自由と幸せな服従を勝ち取られるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨセフの話は、背きの罪に遭い、苦しめられた一人の義人の話です。そうされることによってユダの部族が生き残り、獅子が来られ、それが小羊のような獅子であることが証明され、そしてそのお方の苦しみと死によって、国々の民―そのお方を殺した者でさえも―の喜びを伴った服従が買い取られ、可能になるためです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのお方にはあなたの服従がおありになるでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 日本聖書刊行会、新改訳聖書、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書では16節。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; 讃美歌第2編230番、日本基督教団賛美歌委員会、日本基督教団出版局、1967年版。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 22 Mar 2018 20:03:11 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95%E3%81%A8%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A3%B2%E6%B8%A1%E3%81%97</comments>		</item>
		<item>
			<title>アダムの致命的不従順とキリストの勝利の従順</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%AE%E8%87%B4%E5%91%BD%E7%9A%84%E4%B8%8D%E5%BE%93%E9%A0%86%E3%81%A8%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%81%AE%E5%BE%93%E9%A0%86</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「アダムの致命的不従順とキリストの勝利の従順」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Fatal Disobedience of Adam and the Triumphant Obedience of Christ}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして師が全人類に広がったのと同様に、ーそれというのも全人類が罪を犯したからです。13というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。14ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。15ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それみもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。16また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。17もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。18こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。20律法が入ってきたのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。21それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様は最高のお方 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このメッセージシリーズのねらいの一つは、み父なる神と御霊なる神以上ではありませんが、イエス・キリストこそ、この全宇宙で最も重要な人物であられるという事実を私たちの頭に強く認識させることです。主はその価値と美しさと知恵と義と愛と力において、彼ら[み父なる神と御霊なる神]とは同等であられます。しかし主はすべての人、それが御使いであれ悪魔であれ国王であれ総司令官であれ科学者であれ芸術家であれ哲学者であれスポーツ選手であれ音楽家であれ俳優であれ、今生きている者、過去に生きた者、将来生きる者、すべてを超えて、重要なお方です。イエス・キリストは最も優れたお方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 悪も含めた、すべてのものがイエス様のため ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このメッセージシリーズはまた、悪を含め、存在するものすべてが、無限に聖く完全に賢くあられる神によって、キリストの栄光をさらに輝かせるため定められているということをお見せすることを目的としています。皆さんの中には私たちの今週の聖書通読の箇所である、箴言16:4を読んだ方もおられると思います。「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。」神はこれを、悪者が責任逃れができないように、またご自身の罪なきみこころを維持しつつ、ご自身のやり方でなされています。2週間前に私たちは、すべてのものはキリストを通して、キリストのために造られた、ということを見ました(コロサイ1:16)。そしてそれは、十字架上でキリストによって打ち負かされた、「王座も主権も支配も権威も」含まれると、パウロは言います。彼らは「わざわいの日のために造られた」のです。そしてその日、キリストの権威と義とみ怒りと愛があらわされます。遅かれ早かれ、主に対するすべての不従順が滅ぼされます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== そこにおられる神 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このメッセージシリーズはまた、キリスト教は、それが神によって意図されようが人によって意図されようが、私たちの心身健康を目的としたただの思想や習わしや感情を集めたものではない、という確信を確固なものにすることをねらいとしています。それはキリスト教ではありません。キリスト教は、神は私たちなしに実在する現実であられる、という確信から始まります。私たちは神がどのようなお方であるかを、自分で好きなように想像して作り上げません。フランシス・シェーファーが言うように、主は''そこにおられる神''です。私たちは神を作り上げません。神が私たちをお造りになるのです。私たちは神がどのようなお方であるかを定めません。神が全宇宙をお造りになったのであり、それには''私たちが''与える意味ではなく、主ご自身のお与えになった意味があるのです。もし私たちがそれに与える意味が主のものと違うのであれば、私たちは愚かです。そして私たちの人生は悲惨なもので終わります。キリスト教はゲームではありません。治療法でもありません。そのすべての教理は、神がどのようなお方あられ、そして歴史の中で何を成しておられるかから発します。それらは動かぬ事実と一致します。キリスト教は事実以上です。信仰と希望と愛があります。しかしそれらは空中に浮かんではません。神の真理の岩の上で、大きな杉の木のように育つのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ私がこれをこのメッセージシリーズのねらいとするのかというと、あなたの永遠の楽しみと強さと聖さは、あなたの信仰の背骨に強い繊維を入れ込むこの堅固な世界観によるということを、私は聖書から深く確信しているからです。軟弱な世界観は軟弱なクリスチャンを作り上げます。そして軟弱なクリスチャンは、先の日に生きのびることはありません。キリスト教を治療選択肢のように扱う根のない感情論は、終わりの日には滅ぼしつくされます。立ち残るのは、その家を固い、イエス・キリストを基とし、中心とし、すべてのゴールとする、実在の真理の岩に家を建てた者です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様の栄光はアダムの罪のうちに計画された ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日注目するのは最初の人、アダムのあっと言わせるような罪と、それがどのようにイエス・キリストのもっと壮大な反撃の舞台を設定したかです。ローマ5:12-21を開いてみましょう。2000年の夏、私たちはこの箇所に5週間費やしました。今日はその5週間見たものとはまったく違うところに注目します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神がアダムの罪をご計画になり許され、そして人類のすべてがアダムと共に罪に堕落したとき、キリストの栄光が主な目的として神の頭の中にあったことに注目していただきたいのです。先週私が言ったことを思い出してください。何でも神がお許しになるとき、理由があります。そして主の理由は絶えず無限に賢く意図的です。主は人間の堕落が起こることをお許しにならなくてよかったのです。(先週見たように)サタンの堕落を引き止めることがおできになるはずであったように、それ[人間の堕落]も引き止めることがおできになったはずです。それをお引止めにならなかったこと自体、理由と、目的がおありになるのです。また主は時と次第によってご計画を立てられるのではありません。賢明であるとお分かりになることを、主は絶えず賢明なこととして[いにしえから]分かっておられます。それゆえ、アダムの罪と人類の罪への堕落と苦悩は、神に不意討ちをかけたのではなく、イエス・キリストの満ち満ちた栄光を現すためそれに関わるすべての計画の一部なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書からこれを示す最も明確な方法は、ここでその詳細には触れませんが、罪に打ち勝つキリストの犠牲が、この世の創造以前に神のご計画の中にあったことを示す箇所を、見ることです。(詳しくはメッセージ、「キリストの苦難と神の主権 &amp;quot;The Suffering of Christ and the Sovereignty of God.&amp;quot;」を見て下さい。) たとえば、黙示録13:8でヨハネは、「ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者」と書いています。つまりこの世の初め以前に「ほふられた小羊のいのちの書」という本があるのです。この世が造られる前に、神はこの書物に名前の記されているすべての者を救うため、ご自身の御子が小羊のようにほふられることをすでにご計画になっていたのです。キリストの罪のための苦難と死は、アダムが罪を犯した後ではなく、それ以前に計画されていたという聖書的見解を見せてくれる聖書の箇所は、いくつもあります(エペソ1:4-5、2テモテ1:9、テトス1:1-2、1ペテロ1:20)。それゆえ、アダムが罪を犯した時、神はそれに驚かれませんでした。それどころかそれはすでに主のご計画、つまり贖いの歴史の中で主の驚くべき忍耐と恵みと義とみ怒りをあらわし、そして最終的には、第二の人アダムとしてのご自身の御子が、最初のアダムよりそのすべてにおいて偉大であることを示すという、ご計画のうちだったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではローマ5:12-21を、今度はアダムのあっと言わせるような罪は、神のキリストを掲げる目的をくじいたのではなく、むしろかなえたのである、ということを念頭に、見ていきます。以下この聖書箇所を読む方法です。キリストについてはっきり言及しているものが５つあります。そのうちの一つはパウロが自分がキリストとアダムについて考えていることに、言及しています。残りの箇所はキリストがどのようにアダムよりも優れておられるかを示しています。そのうちの２つは酷似しているので、ひとかたまりにします。ということは、私たちはキリストの優位性の３つを見ることになります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様、「来たるべきお方」 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では14節でキリストがどのように引用されているかを、12-13節の文脈から読んでみましょう。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、ーそれというのも全人類が罪を犯したからです。13というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。14ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
14節でパウロは自分が残りの節で考えていることをまとめあげます。アダムは来たるべきお方、つまり、キリストの「ひな型」と呼ばれています。まず最もはっきりしていること、キリストは「きたるべき方」というところに注目してください。[世の]初めから、キリストは「きたるべき方」です。パウロはキリストが思いつきではないことを示します。キリストはアダムの複写として生まれたとは、パウロは言いません。神はアダムを、主の御子が栄光を受けるよう計画された、一つの型のように扱われました。その型とは後から来るものの影で、同じような型ですが、さらに優れたお方です。ですので神はアダムをキリストの型となるよう、取り扱われました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、その思考の流れの中でパウロがアダムはキリストのひな型であると選んで言っていることに、さらに注目してください。14節、「ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。」彼は、アダムと同じようには罪を犯さなかった人々さえ、アダムが受けた罰を受けた、と言ったそのすぐ後に、アダムはキリストの型であると、あえて言っているのです。なぜパウロは、ここでアダムはキリストの型であると言うのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様、私たちの代表格 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは、彼が前述したことが、キリストとアダムがどのように似ていてどのように違うのかのまさにその要素を突いているからです。以下類似点です。アダムのように罪を犯した人々はアダムのように死にました。なぜでしょう？それは彼らがアダムと結びついているからです。彼は人類の代表格であり、彼との結びつきのゆえに、彼の罪が人々の罪とみなされるのです。それがアダムがキリストの型と呼ばれる真髄です。私たちの従順はキリストの従順とは違い、それでいて私たちにはキリストと共にいられる永遠のいのちがあるからです。なぜでしょう?それは私たちが信仰によって、キリストと結びついているからです。主は新人類の代表格であられ、主の義は私たちの主との結びつきのゆえに、私たちの義としてみなされるのです(ローマ6:5参照)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アダムがキリストの型と呼ばれることを意味する類似点があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; アダム &amp;amp;gt; アダムの罪 &amp;amp;gt; 彼のうちに罪のとがめを受けた人類 &amp;amp;gt; 永遠の死 キリスト &amp;amp;gt; キリストの義 &amp;amp;gt; 主のうちに義とされた新人類&amp;amp;gt; 永遠のいのち &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下の聖書箇所ではキリストと主の救いのみ業が、アダムと彼の破滅的行為よりどれほど優れているかが、紐ほどかれています。私が最初に言ったことを覚えていてください。ここで私たちが見ているのは、この地上にいるすべての人がいる世であるという神の現実の啓示です。この地上にいるすべての人がこの聖書箇所に含まれています。それはアダムがすべての者の父だからです。ですので、アメリカであなたが出会うすべての人、あるいはいかなる国の人種も、この聖書箇所が言うことに匹敵します。アダムにある死かキリストにあるいのち。これはグローバルな聖書箇所です。見逃さないでください。これがあなたが出会う一人ひとりに定義される現実です。軟弱な世界観は軟弱なクリスチャンを生み出します。これは軟弱な世界観ではありません。歴史のすべてと地球上のすべてを超えて広がります。この世のすべての人と、ネット上のすべての見出しを大きく左右します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様の優位性をほめたたえる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、パウロがキリストとそのみ業が、アダムと彼の行為以上であるその優位性をほめたたえる、３つの方法を見てみましょう。それらは３つの文章にまとめられます。1)恵みの満ちあふれ、2)従順の完璧さ、3)いのちの支配 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 恵みの満ちあふれ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず15節と恵みの満ちあふれです。「ただし、恵み[つまり、17節の義の賜物]には違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」ここのポイントは、神の恵みはアダムの違反より力強いもの、ということです。それが「それにもまして」と言う言葉が示すものです。「それにもまして、神の恵み…は、多くの人々に満ちあふれるのです。」もしひとりの人の違反が死をもたらしたのであれば、なおさらのこと、神の恵みはいのちをもたらすことでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしパウロはそれよりもっと具体的です。神の恵みとは具体的に、「ひとりの人イエス・キリストの恵み」です。「それにもまして、神の恵みと''ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物''とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」二つの異なった恵みがあります。「ひとりの人イエス・キリストの恵み」とは、神の恵みの顕現 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; です。たとえば、テトス2:11、「すべての人を救う神の恵み[つまり、イエス様において]が現れ、」とパウロはそれをそのように言います。また2テモテ1:9でも、「この[ご自身の]恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに…与えられたものであって、」と言います。ですのでイエス様のうちにある恵みが、神の恵みなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これの恵みは主権の恵みです。それはその途上にあるすべてを制します。これには全宇宙の王の権威があることをこの後すぐに見ますが、これは絶対的な恵みです。それが第一のアダムを超えたキリストの優位性をほめたたえるゆえんです。ひとりの人アダムの違反とひとりの人イエス・キリストの恵みが出会うとき、アダムとその違反が敗北します。キリストと恵みが勝利します。キリストに属するものたちにとって、それはとても素晴らしい知らせです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) 従順の完璧さ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、パウロはキリストの恵みがアダムの違反と死に打ち勝つ、つまりキリストの従順の完璧さをほめたたえます。19節、「すなわち、ちょうどひとりの人[つまり、アダム]の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとり[つまり、キリスト]の従順によって多くの人が義人とされるのです。」ですのでひとりの人、イエス・キリストの恵みが、罪を犯すことから守り、死にまで、十字架の死にいたるまで従順であるよう、保ったのです(ピリピ2:8)。そうすれば信仰によって主に結びついている者たちのため、罪のない完全な従順をみ父にささげることができるからです。アダムは自身の従順で失敗しました。キリストは完全に成し遂げられました。アダムは罪と死の根源です。キリストは従順といのちの源です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリストはキリストの型であったアダムのようであられました。両者とも旧人類と新人類の代表格です。神はアダムの失敗をご自身の人類に転嫁され、また神はキリストの成功をご自身の人類に転嫁されるのです。なぜならこの二つの人類はその代表格に一つにされるためです。キリストの非常に優れたその優位性は、従順を完璧に遂行されただけでなく、主の従順のゆえに何百万人もの人々が義と認められるほどのものです。あなたはアダムだけに結びついていますか?あなたは死に至る最初の人類の一人ですか?あるいはあなたはキリストに結びついており、永遠のいのちに至る 新人類の一人ですか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) いのちの支配''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三に、パウロはキリストの満ちあふれる恵みとキリストの完全な従順をほめたたえるだけでなく、最終的にいのちの支配をほめたたえています。恵みはキリストの従順を通して永遠のいのちの勝利へと導きます。21節、「それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」恵みは義を通して(それは、キリストの完璧な義を通して)、永遠のいのちという最頂点に至るまで支配します。そしてそれらすべて、「私たちの主イエス・キリストによ」るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは17節に再び同じメッセージがあります。「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」義の賜物を通しての恵みはいのちの勝利へと導き、それらすべてはイエス・キリストによる。同じパターンです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先ほど、これらの節でパウロが言うキリストにある神の恵みとは、主権の恵みであると、私は述べました。ここで、いわゆる''支配''という言葉を見ます。死は人間に対しある種の権威を持っており、その支配は全体に行きわたります。すべてのものが死にます。しかし恵みは罪と死に打ち勝ちます。一度死んだ者たちでさえも、いのちで支配します。それが主権の恵みです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様の驚くべき従順 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主は最初の人アダムをはるかに超えて輝かれる、これがキリストの素晴らしい栄光です。アダムのあっと言わせるような罪は、キリストの驚くべき恵みと従順と永遠のいのちの賜物ほど大きくありません。事実その完全な義のうちにある神の初めからのご計画は、人類の代表格であるアダムが、新人類の代表格であられるキリストの型となるものだったのです。主のご計画は、この類似と対比によって、キリストの栄光がさらに光輝くようになるというものだったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
17節のみことばはあなたに対し非常に個人的に、そして切実に語りかけます。あなたはどこにいますか?「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、''恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々''は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」「恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々」ということばによく注意して、自分にあてはめて注目してください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 罪人に対する大切なことば ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらは罪人に対する大切なことばです。恵みは無償、賜物は無償、キリストの義は無償。あなたの人生の希望と宝として受け取りますか? もしそうであるならば、あなたは「ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」それを受け取ってください。受洗によってそれを証ししてください。そしてキリストの民の生きた一人となってください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 神が肉体をとられ人となられること。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 20 Mar 2018 19:58:23 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%AE%E8%87%B4%E5%91%BD%E7%9A%84%E4%B8%8D%E5%BE%93%E9%A0%86%E3%81%A8%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%81%AE%E5%BE%93%E9%A0%86</comments>		</item>
		<item>
			<title>アダムの致命的不従順とキリストの勝利の従順</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%AE%E8%87%B4%E5%91%BD%E7%9A%84%E4%B8%8D%E5%BE%93%E9%A0%86%E3%81%A8%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%81%AE%E5%BE%93%E9%A0%86</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|The Fatal Disobedience of Adam and the Triumphant Obedience of Christ}}   &amp;amp;gt; そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Fatal Disobedience of Adam and the Triumphant Obedience of Christ}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして師が全人類に広がったのと同様に、ーそれというのも全人類が罪を犯したからです。13というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。14ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。15ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それみもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。16また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。17もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。18こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。20律法が入ってきたのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。21それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様は最高のお方 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このメッセージシリーズのねらいの一つは、み父なる神と御霊なる神以上ではありませんが、イエス・キリストこそ、この全宇宙で最も重要な人物であられるという事実を私たちの頭に強く認識させることです。主はその価値と美しさと知恵と義と愛と力において、彼ら[み父なる神と御霊なる神]とは同等であられます。しかし主はすべての人、それが御使いであれ悪魔であれ国王であれ総司令官であれ科学者であれ芸術家であれ哲学者であれスポーツ選手であれ音楽家であれ俳優であれ、今生きている者、過去に生きた者、将来生きる者、すべてを超えて、重要なお方です。イエス・キリストは最も優れたお方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 悪も含めた、すべてのものがイエス様のため ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このメッセージシリーズはまた、悪を含め、存在するものすべてが、無限に聖く完全に賢くあられる神によって、キリストの栄光をさらに輝かせるため定められているということをお見せすることを目的としています。皆さんの中には私たちの今週の聖書通読の箇所である、箴言16:4を読んだ方もおられると思います。「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。」神はこれを、悪者が責任逃れができないように、またご自身の罪なきみこころを維持しつつ、ご自身のやり方でなされています。2週間前に私たちは、すべてのものはキリストを通して、キリストのために造られた、ということを見ました(コロサイ1:16)。そしてそれは、十字架上でキリストによって打ち負かされた、「王座も主権も支配も権威も」含まれると、パウロは言います。彼らは「わざわいの日のために造られた」のです。そしてその日、キリストの権威と義とみ怒りと愛があらわされます。遅かれ早かれ、主に対するすべての不従順が滅ぼされます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== そこにおられる神 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このメッセージシリーズはまた、キリスト教は、それが神によって意図されようが人によって意図されようが、私たちの心身健康を目的としたただの思想や習わしや感情を集めたものではない、という確信を確固なものにすることをねらいとしています。それはキリスト教ではありません。キリスト教は、神は私たちなしに実在する現実であられる、という確信から始まります。私たちは神がどのようなお方であるかを、自分で好きなように想像して作り上げません。フランシス・シェーファーが言うように、主は''そこにおられる神''です。私たちは神を作り上げません。神が私たちをお造りになるのです。私たちは神がどのようなお方であるかを定めません。神が全宇宙をお造りになったのであり、それには''私たちが''与える意味ではなく、主ご自身のお与えになった意味があるのです。もし私たちがそれに与える意味が主のものと違うのであれば、私たちは愚かです。そして私たちの人生は悲惨なもので終わります。キリスト教はゲームではありません。治療法でもありません。そのすべての教理は、神がどのようなお方あられ、そして歴史の中で何を成しておられるかから発します。それらは動かぬ事実と一致します。キリスト教は事実以上です。信仰と希望と愛があります。しかしそれらは空中に浮かんではません。神の真理の岩の上で、大きな杉の木のように育つのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ私がこれをこのメッセージシリーズのねらいとするのかというと、あなたの永遠の楽しみと強さと聖さは、あなたの信仰の背骨に強い繊維を入れ込むこの堅固な世界観によるということを、私は聖書から深く確信しているからです。軟弱な世界観は軟弱なクリスチャンを作り上げます。そして軟弱なクリスチャンは、先の日に生きのびることはありません。キリスト教を治療選択肢のように扱う根のない感情論は、終わりの日には滅ぼしつくされます。立ち残るのは、その家を固い、イエス・キリストを基とし、中心とし、すべてのゴールとする、実在の真理の岩に家を建てた者です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様の栄光はアダムの罪のうちに計画された ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日注目するのは最初の人、アダムのあっと言わせるような罪と、それがどのようにイエス・キリストのもっと壮大な反撃の舞台を設定したかです。ローマ5:12-21を開いてみましょう。2000年の夏、私たちはこの箇所に5週間費やしました。今日はその5週間見たものとはまったく違うところに注目します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神がアダムの罪をご計画になり許され、そして人類のすべてがアダムと共に罪に堕落したとき、キリストの栄光が主な目的として神の頭の中にあったことに注目していただきたいのです。先週私が言ったことを思い出してください。何でも神がお許しになるとき、理由があります。そして主の理由は絶えず無限に賢く意図的です。主は人間の堕落が起こることをお許しにならなくてよかったのです。(先週見たように)サタンの堕落を引き止めることがおできになるはずであったように、それ[人間の堕落]も引き止めることがおできになったはずです。それをお引止めにならなかったこと自体、理由と、目的がおありになるのです。また主は時と次第によってご計画を立てられるのではありません。賢明であるとお分かりになることを、主は絶えず賢明なこととして[いにしえから]分かっておられます。それゆえ、アダムの罪と人類の罪への堕落と苦悩は、神に不意討ちをかけたのではなく、イエス・キリストの満ち満ちた栄光を現すためそれに関わるすべての計画の一部なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書からこれを示す最も明確な方法は、ここでその詳細には触れませんが、罪に打ち勝つキリストの犠牲が、この世の創造以前に神のご計画の中にあったことを示す箇所を、見ることです。(詳しくはメッセージ、「キリストの苦難と神の主権 &amp;quot;The Suffering of Christ and the Sovereignty of God.&amp;quot;」を見て下さい。) たとえば、黙示録13:8でヨハネは、「ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者」と書いています。つまりこの世の初め以前に「ほふられた小羊のいのちの書」という本があるのです。この世が造られる前に、神はこの書物に名前の記されているすべての者を救うため、ご自身の御子が小羊のようにほふられることをすでにご計画になっていたのです。キリストの罪のための苦難と死は、アダムが罪を犯した後ではなく、それ以前に計画されていたという聖書的見解を見せてくれる聖書の箇所は、いくつもあります(エペソ1:4-5、2テモテ1:9、テトス1:1-2、1ペテロ1:20)。それゆえ、アダムが罪を犯した時、神はそれに驚かれませんでした。それどころかそれはすでに主のご計画、つまり贖いの歴史の中で主の驚くべき忍耐と恵みと義とみ怒りをあらわし、そして最終的には、第二の人アダムとしてのご自身の御子が、最初のアダムよりそのすべてにおいて偉大であることを示すという、ご計画のうちだったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではローマ5:12-21を、今度はアダムのあっと言わせるような罪は、神のキリストを掲げる目的をくじいたのではなく、むしろかなえたのである、ということを念頭に、見ていきます。以下この聖書箇所を読む方法です。キリストについてはっきり言及しているものが５つあります。そのうちの一つはパウロが自分がキリストとアダムについて考えていることに、言及しています。残りの箇所はキリストがどのようにアダムよりも優れておられるかを示しています。そのうちの２つは酷似しているので、ひとかたまりにします。ということは、私たちはキリストの優位性の３つを見ることになります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様、「来たるべきお方」 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では14節でキリストがどのように引用されているかを、12-13節の文脈から読んでみましょう。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、ーそれというのも全人類が罪を犯したからです。13というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。14ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
14節でパウロは自分が残りの節で考えていることをまとめあげます。アダムは来たるべきお方、つまり、キリストの「ひな型」と呼ばれています。まず最もはっきりしていること、キリストは「きたるべき方」というところに注目してください。[世の]初めから、キリストは「きたるべき方」です。パウロはキリストが思いつきではないことを示します。キリストはアダムの複写として生まれたとは、パウロは言いません。神はアダムを、主の御子が栄光を受けるよう計画された、一つの型のように扱われました。その型とは後から来るものの影で、同じような型ですが、さらに優れたお方です。ですので神はアダムをキリストの型となるよう、取り扱われました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、その思考の流れの中でパウロがアダムはキリストのひな型であると選んで言っていることに、さらに注目してください。14節、「ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。」彼は、アダムと同じようには罪を犯さなかった人々さえ、アダムが受けた罰を受けた、と言ったそのすぐ後に、アダムはキリストの型であると、あえて言っているのです。なぜパウロは、ここでアダムはキリストの型であると言うのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様、私たちの代表格 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは、彼が前述したことが、キリストとアダムがどのように似ていてどのように違うのかのまさにその要素を突いているからです。以下類似点です。アダムのように罪を犯した人々はアダムのように死にました。なぜでしょう？それは彼らがアダムと結びついているからです。彼は人類の代表格であり、彼との結びつきのゆえに、彼の罪が人々の罪とみなされるのです。それがアダムがキリストの型と呼ばれる真髄です。私たちの従順はキリストの従順とは違い、それでいて私たちにはキリストと共にいられる永遠のいのちがあるからです。なぜでしょう?それは私たちが信仰によって、キリストと結びついているからです。主は新人類の代表格であられ、主の義は私たちの主との結びつきのゆえに、私たちの義としてみなされるのです(ローマ6:5参照)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アダムがキリストの型と呼ばれることを意味する類似点があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; アダム &amp;amp;gt; アダムの罪 &amp;amp;gt; 彼のうちに罪のとがめを受けた人類 &amp;amp;gt; 永遠の死 キリスト &amp;amp;gt; キリストの義 &amp;amp;gt; 主のうちに義とされた新人類&amp;amp;gt; 永遠のいのち &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下の聖書箇所ではキリストと主の救いのみ業が、アダムと彼の破滅的行為よりどれほど優れているかが、紐ほどかれています。私が最初に言ったことを覚えていてください。ここで私たちが見ているのは、この地上にいるすべての人がいる世であるという神の現実の啓示です。この地上にいるすべての人がこの聖書箇所に含まれています。それはアダムがすべての者の父だからです。ですので、アメリカであなたが出会うすべての人、あるいはいかなる国の人種も、この聖書箇所が言うことに匹敵します。アダムにある死かキリストにあるいのち。これはグローバルな聖書箇所です。見逃さないでください。これがあなたが出会う一人ひとりに定義される現実です。軟弱な世界観は軟弱なクリスチャンを生み出します。これは軟弱な世界観ではありません。歴史のすべてと地球上のすべてを超えて広がります。この世のすべての人と、ネット上のすべての見出しを大きく左右します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様の優位性をほめたたえる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、パウロがキリストとそのみ業が、アダムと彼の行為以上であるその優位性をほめたたえる、３つの方法を見てみましょう。それらは３つの文章にまとめられます。1)恵みの満ちあふれ、2)従順の完璧さ、3)いのちの支配 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1) 恵みの満ちあふれ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず15節と恵みの満ちあふれです。「ただし、恵み[つまり、17節の義の賜物]には違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」ここのポイントは、神の恵みはアダムの違反より力強いもの、ということです。それが「それにもまして」と言う言葉が示すものです。「それにもまして、神の恵み…は、多くの人々に満ちあふれるのです。」もしひとりの人の違反が死をもたらしたのであれば、なおさらのこと、神の恵みはいのちをもたらすことでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしパウロはそれよりもっと具体的です。神の恵みとは具体的に、「ひとりの人イエス・キリストの恵み」です。「それにもまして、神の恵みと''ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物''とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」二つの異なった恵みがあります。「ひとりの人イエス・キリストの恵み」とは、神の恵みの顕現 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; です。たとえば、テトス2:11、「すべての人を救う神の恵み[つまり、イエス様において]が現れ、」とパウロはそれをそのように言います。また2テモテ1:9でも、「この[ご自身の]恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに…与えられたものであって、」と言います。ですのでイエス様のうちにある恵みが、神の恵みなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これの恵みは主権の恵みです。それはその途上にあるすべてを制します。これには全宇宙の王の権威があることをこの後すぐに見ますが、これは絶対的な恵みです。それが第一のアダムを超えたキリストの優位性をほめたたえるゆえんです。ひとりの人アダムの違反とひとりの人イエス・キリストの恵みが出会うとき、アダムとその違反が敗北します。キリストと恵みが勝利します。キリストに属するものたちにとって、それはとても素晴らしい知らせです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2) 従順の完璧さ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、パウロはキリストの恵みがアダムの違反と死に打ち勝つ、つまりキリストの従順の完璧さをほめたたえます。19節、「すなわち、ちょうどひとりの人[つまり、アダム]の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとり[つまり、キリスト]の従順によって多くの人が義人とされるのです。」ですのでひとりの人、イエス・キリストの恵みが、罪を犯すことから守り、死にまで、十字架の死にいたるまで従順であるよう、保ったのです(ピリピ2:8)。そうすれば信仰によって主に結びついている者たちのため、罪のない完全な従順をみ父にささげることができるからです。アダムは自身の従順で失敗しました。キリストは完全に成し遂げられました。アダムは罪と死の根源です。キリストは従順といのちの源です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリストはキリストの型であったアダムのようであられました。両者とも旧人類と新人類の代表格です。神はアダムの失敗をご自身の人類に転嫁され、また神はキリストの成功をご自身の人類に転嫁されるのです。なぜならこの二つの人類はその代表格に一つにされるためです。キリストの非常に優れたその優位性は、従順を完璧に遂行されただけでなく、主の従順のゆえに何百万人もの人々が義と認められるほどのものです。あなたはアダムだけに結びついていますか?あなたは死に至る最初の人類の一人ですか?あるいはあなたはキリストに結びついており、永遠のいのちに至る 新人類の一人ですか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3) いのちの支配''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三に、パウロはキリストの満ちあふれる恵みとキリストの完全な従順をほめたたえるだけでなく、最終的にいのちの支配をほめたたえています。恵みはキリストの従順を通して永遠のいのちの勝利へと導きます。21節、「それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」恵みは義を通して(それは、キリストの完璧な義を通して)、永遠のいのちという最頂点に至るまで支配します。そしてそれらすべて、「私たちの主イエス・キリストによ」るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは17節に再び同じメッセージがあります。「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」義の賜物を通しての恵みはいのちの勝利へと導き、それらすべてはイエス・キリストによる。同じパターンです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先ほど、これらの節でパウロが言うキリストにある神の恵みとは、主権の恵みであると、私は述べました。ここで、いわゆる''支配''という言葉を見ます。死は人間に対しある種の権威を持っており、その支配は全体に行きわたります。すべてのものが死にます。しかし恵みは罪と死に打ち勝ちます。一度死んだ者たちでさえも、いのちで支配します。それが主権の恵みです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様の驚くべき従順 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主は最初の人アダムをはるかに超えて輝かれる、これがキリストの素晴らしい栄光です。アダムのあっと言わせるような罪は、キリストの驚くべき恵みと従順と永遠のいのちの賜物ほど大きくありません。事実その完全な義のうちにある神の初めからのご計画は、人類の代表格であるアダムが、新人類の代表格であられるキリストの型となるものだったのです。主のご計画は、この類似と対比によって、キリストの栄光がさらに光輝くようになるというものだったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
17節のみことばはあなたに対し非常に個人的に、そして切実に語りかけます。あなたはどこにいますか?「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、''恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々''は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」「恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々」ということばによく注意して、自分にあてはめて注目してください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 罪人に対する大切なことば ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらは罪人に対する大切なことばです。恵みは無償、賜物は無償、キリストの義は無償。あなたの人生の希望と宝として受け取りますか? もしそうであるならば、あなたは「ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」それを受け取ってください。受洗によってそれを証ししてください。そしてキリストの民の生きた一人となってください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 神が肉体をとられ人となられること。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 20 Mar 2018 19:57:56 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%AE%E8%87%B4%E5%91%BD%E7%9A%84%E4%B8%8D%E5%BE%93%E9%A0%86%E3%81%A8%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%81%AE%E5%BE%93%E9%A0%86</comments>		</item>
		<item>
			<title>新しい天と新しい地における福音の勝利</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E5%A4%A9%E3%81%A8%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E5%9C%B0%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%81%AE%E5%8B%9D%E5%88%A9</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|The Triumph of the Gospel in the New Heavens and the New Earth}}   聖書は最初の章の最初の節で、「初めに、神が天と地を創造された」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/su...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Triumph of the Gospel in the New Heavens and the New Earth}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書は最初の章の最初の節で、「初めに、神が天と地を創造された」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; と言います。27節では神は男と女をご自分の似姿にお造りになり、それから31節でそれはすべて非常に良いと、言われます。3章でアダムとエバは、自分にとって最高の知恵と美しさと望みとしての神を拒否し、神の呪いを自分たちと子孫、そして被造物の自然界にももたらします。「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」(創世記3:17)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
創世記3:15は神の被造物に対するこの呪いが最後の言葉ではないという望みを抱かせてくれます。神は、魂を破壊し被造物を破滅させる蛇に、「おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとにかみつく」と言われます。パウロはこの呪いの真ん中にあるこの希望を見て、ローマ8:20―21で次のように表現します。「被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、''望みがある''からです。被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 耐えられない苦しみの光景 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、以下は全体像の輪郭です。神は無から全宇宙をお造りになり、それら主がお造りになったものはすべて良かったのです。何の欠陥もなく、苦しみも痛みも、死も悪もありませんでした。そしてアダムとイブは非常に、ゾッとするほど恐ろしい悪、つまり、神との交わりよりも木の実を好むという、言葉では言い表せないほどの悪を自分の心の内に犯し、神は彼らに死刑を宣告されただけでなく(創世記2:17）、被造物のすべてをも、パウロが呼ぶところの「虚無」と「滅びの束縛」に服させられました(ローマ8:21―22)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、苦しみも痛みも死もなかったのが、今やすべての人は死に、苦しみ、動物も苦しみ、川が溢れて突然岸を超え村々を押し流し、雪崩はスキーをする者たちに覆いかぶさり、火山は都心を破壊し、津波は一晩で250,000もの人々の命を奪い、嵐は800人を乗せたフィリピンのフェリーを沈め、エイズやマラリア、癌、心臓病は何万という老若男女を殺害し、巨大な竜巻は中西部の町全体を吹き飛ばし、日照りと飢饉は何万という人々を飢え寸前へと追いやります。不慮の事故が起こり、友達の息子が穀物倉庫に落下して命を落とします。目を無くす人がいます。赤ちゃんが顔がないまま生まれます。もし私たちがこの世の一万分の一の苦しみをいかなる瞬間でも見ることができたら、私たちはその恐怖で卒倒するでしょう。神だけがその光景を見て絶えることができ、ご自分を維持することのできるお方です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 被造物の虚無に描写される罪のおぞましさ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ神は、人間の罪のために、自然界を虚無に服させられたのでしょうか。自然界は罪を犯しませんでした。人間が罪を犯したのです。しかしパウロは、「''被造物''が虚無に服した」と言います。''被造物''は「滅びの束縛」の下に置かれたのです。なぜでしょうか?神は、「土地は、''あなたのゆえに*のろわれてしまった」(創世記3:17)と言われます。でもそれはなぜでしょう?なぜ被造物のうちには、人の道徳的失敗に応じた自然災害があるのでしょうか?なぜ罪を犯したアダムの子孫すべてに対する単純な死だけではおさまらないのでしょうか?なぜ万華鏡のように千変万化する恐ろしい苦しみが何世紀も続くのでしょうか?なぜ胸を締め付けられるような痛ましい障害を抱えた子供たちが多くいるのでしょうか?'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは私たちのまわりの病気や災害に見る物理的恐怖が、罪がいかにおぞましいものであるかという鮮明な絵となるよう、神が自然界を呪いの下に置かれたから、というのが私の答えです。言い換えれば、自然悪は、道徳的悪の言葉では表せないほどのおぞましさを指す、道路標識です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は道徳的そして霊的世界の混乱させられた、つまり、罪のために、自然界を混乱させられました。私たちの堕落した現状では、罪の異常な邪悪さに盲目である私たちの心を持っては、私たちは罪がいかに気持ちが悪いものであるかを見たり感じたりすることができません。神の栄光を自分がいかに軽くあしらっているかに頭にきたり吐き気を催す人は、ほとんど誰もいません。そのくせ自分の体が痛みで襲われると途端に、説明するよう神を呼び出します。私たちは主の栄光を傷つけることを何とも思いませんが、神が私たちの小指を傷つけられたら、途端に自分の道徳的憤りを沸騰させます。それこそ私たちがいかに自己を高くし、神を追い出す者たちであるかということを示しています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ラッパの音である肉体的痛み ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
肉体的痛みは、道徳的そして霊的に何かが極端に間違っているということを私たちに教える、神が物理的ラッパで鳴らされる音です。病気と奇形はサタンのプライドです。しかし神の決定的摂理の下で、それらは、罪が霊の領域においてどのようなものであるかを表す神の描写です。中には最も信心深い人でそのような障害を負った人達がいますが、それは事実です。災害は罪の報酬であるということと、その一千倍もひどいものをいつの日か裁きで私たちが受けるという予告です。それらは警告なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ああ、私たちのすべてが、私たちの造り主より他のものを好むことが、主を無視し、主に信頼せず、主を卑しめることで、リビング・ルームのカーペットに注意を払うほど、心の中で主に注意を払わないことが、いかに不快で、いかに侮辱的で、いかに忌まわしいかを見て感じることができたなら!これを見なければ、私たちは罪からの救いのためにキリストに向くことはないですし、苦痛から逃れたいという以外の他の理由で御国へ行きたいと思うことはありません。そして、苦痛から逃れたいという理由で御国へ行きたいというのは、除外されるべきです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 目を覚ましなさい!罪とはこのようなものです! ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、憐れみ深い神は、病と痛みと災害のうちにある私たちにこう叫ばれますー目を覚ましなさい!罪とはこのようなものです!罪とは以下のようなものです。(黙示9:20、16:9、11参照)神と交わることより、テレビを好むこと。贖い主を求めるのではなく、苦痛から逃れるため御国を求めること。自然界は、神を卑しめることは大したことではないと考える夢の世界から、私たちを目覚めさせることをねらいとする恐ろしさでいっぱいです。それ(神を卑しめること)は恐ろしく大したことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ベツレヘム教会の中にはひどい困難に直面している人たちがいるということを知っておりながら、私はこの真理を９/11の4年目の記念日に、私たちの教会で説教しました。その２、３週間後、礼拝前の祈祷会で兄弟姉妹らと共におりましたら、重度の障害を負った子を抱える若い母親が、「愛する主よ、息子の障害の恐ろしさを感じるように、私に罪の恐ろしさを感じさせてください」と祈ったのです。兄弟の皆さん、私は、神のみことばにおののく特使である牧師であることを光栄に思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、全体像の描写に戻ります。神は無から全宇宙をお造りになりました。主がお造りになったものはすべて、良かったのです。何の欠陥も、苦しみも、痛みも、死も、悪もありませんでした。そしてアダムとエバが心の中で犯したことは、神が死刑を宣告しただけでなく(創世記2:17)、自然のすべてを「虚無」と「滅びの束縛」に服させるほど、非常に恐ろしい悪でした(ローマ8:21―22)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは神が虚無に服された私たちと被造物はどうなるのでしょうか?この世の人生において、6ヶ月の乳児以上の精神力を持つことのない子どものいる親に、何と言えばいいでしょうか?涙と希望の喜びをもって(「悲しんでいるようであっても、いつも喜んで」)、ローマ書8:18―25のこの残りの句を彼らに読んであげるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
若い牧師たちにとっては、明確にさせなければならないこれより重要な聖句がいくつかあります。27年前ベツレヘム教会へ来たとき、私が説いた最初の説教のうちの一つに、「キリストと癌」と言うものがあります。教会の人たちに、病いと苦しみに関する私の神学を知ってもらいたいと思ったのです。私が病院にお見舞いに伺ったときに、もしこの人に十分な信仰があったら神は当然癒してくださるだろうと、私が思わないことを、理解して欲しいと思ったのです。特に23節、「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいてる私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」を見て欲しいと思いました。御霊を受けている人々はうめき、自分の体が贖われることを待ち望んでいます。この聖句全体は聖書の中で、宇宙規模で重要で、牧会上最も貴重な箇所です。それは私たちを新しい天と新しい地と、新しい体へと導き、この時代における私たちの現在のうめきを、全く現実的絵画にして見せてくれ、そして自分が救われたことにある希望で、私たちを支えてくれます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから4つの見解でそれを説明させてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 神は、この被造物が虚無と滅びの束縛から解放されることを約束しておられる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
21節前半、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、」。自然界、つまり、物質的、物理的世界は、呪いと、虚無と滅びの服従から解放されます。これはパウロの、新しい天と新しい地を言う言い方です。この地とこの空は、解放されます。''この''地*は新しい地となります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; イザヤ65:17、「見よ。まことにわたしは''新しい天と新しい地''を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; イザヤ66:22、「わたしの造る''新しい天と新しい地''が、わたしの前にいつまでも続くように、――主の御告げ。――あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 2ペテロ3:13、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む''新しい天と新しい地''を待ち望んでいます。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 黙示録21:1、4、「また私は、''新しい天と新しい地''とを見た。以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。･･･彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 使徒3:19-21、「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの''万物の改まる時''まで、天にとどまっていなければなりません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ8:21のパウロの言葉は、古い地と新しい地の間の継続をはっきりと証ししています。「被造物自体も、滅びの束縛から''解放''され」。ですから彼は「新しい」というのが、取り替えられるのではなく、「新しくされる」という意味であると理解しています。それは、「新しい車を買ったよ」ではありません。あるものが解放されるとき、それは廃止されたり、放棄されたりはしません。変わりはするかも知れませんが、まだそこにあります。そして自由なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからその障害児を抱えた母親に言えることの一つは、「お母さん、聖書はあなたの子が生涯、神のご栄光のために、この地上でジャンプしたり走ったりすることはないかも知れませんが、病いと障害のない、新しい地がやって来ますよ。この子はその生涯だけでなく、永遠に、神のご栄光のために走ってジャンプするようになりますよ」です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. この自然界の滅びの束縛からの解放は、神の子たちの栄光の自由に加わることである ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
21節、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、''神の子どもたちの栄光の自由''の中に入れられます。」ここでの順序は重要です。被造物が堕落した人間の滅びに従ったように、被造物は贖われた人に従って、栄光へと加えられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(苦しんでいる子の親である)苦しんでいる聖人に、「聖書の言っていることを見てご覧なさい。自然の秩序、つまり被造物は滅びの束縛から解放されます。あなたの体、またあなたの息子さんの体もこの順序の一部ではないですか?そうです。そうであれば、あなたも、あなたの子も、滅びからの栄光の解放を体験して、新しいよみがえりの体を持ちます。なぜならあなたも解放されたものの一部だからです」と言いたくなるかも知れません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは断固として、パウロの見解ではありません。新しい秩序のもとに、私たちの体が贖われることは事実です。23節後半、「私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」しかし私たちのからだは、被造物の一部としてこの新しさの中に引きずり込まれて行くのではありません。それは逆です。被造物が「神の子どもたちの栄光の自由の中に」引きずり込まれて行くのです。21節、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、''神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます''。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神の子どもたちの栄光の自由が先にやって来ます。それから、主の子どもが、イエス様がみ父の国で太陽のように輝くであろうと言われた(マタイ13:43)、新しい、栄光あるからだへと変えられ、そして被造物のすべてが神によって、栄光ある家族にふさわしい住居へと変えられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから障害児を抱えた親にこう言うのです。「あなたの子が栄光ある新しい世界に合うよう変えられるのではありません。新しい世界が栄光へと変えられたあなたの子とあなたに合うよう変えられるのです。」21節のポイントは、神はご自身の子どもたちを愛され、彼らにとって最高のものをお与えになる、と言うことです。「''神の子どもたち''の栄光の自由」という文章に注意してください。聖人たちの栄光の自由でも、クリスチャンの栄光の自由でも、贖われた者の栄光の自由でもありません。それは事実ではあります。でもそれはパウロの見方ではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでパウロには、5節前のものが念頭にあります。ローマ8:16―17、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人です。」21節のポイントは、新しい天と新しい地は子どもたちの相続地だと言うことです。全世界そのものは重要ではありません。神の子どもたちの遊び場として、また神殿や畑や工芸所として、重要なのです。神はご自分の子供たちを全世界のためにデザインされるのではありません。全世界をご自分の子どもたちのために設計されるのです。これは初めから事実であり、終わりまで事実です。そして特に主の人となられた御子、神であられ人であられるイエス･キリストにとって、事実です。すべてのものは主のために造られました。あなたの障害を持ったお子さんは、新しいことを身につける必要がなくなります。お子さんのからだは完全に贖われ、新しくされます。被造物のすべてが主の養子とされるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 新しい、解放された被造物の到着は、この世との継続があるばかりでなく、この世との切れ目があるということで、出産と比較されている。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
22節、「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみ(''sunōdivei'')をしていることを知っています。」子どもが生まれる時、子どもは馬ではなく、人間です。そこには継続があります。しかし子どもは全く同じ人間ではありません。ここでこのように、子どもと母親の関係が、新しい地と古い地の関係と全く同じであると意味するように、新しい地の到着を子どもの出産に無理やり喩えることができるとは私は思いません。それは言葉に極端な意味を持たせることになります。でもそれらは切れ目かも知れないという質問を私たちのうちに起こし、他にどのような切れ目があるのだろうかと、他の聖書箇所を見てみるよう、私たちを促します。ここでの文脈は当然のことながら、このからだは虚無と滅びから解放される、と言うものです。でもそれ以上のものがあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際、私たちはこの継続と切れ目の両者をはっきりと指し示す箇所を見ます。パウロの中で一番はっきり指し示すのは、1コリント15章です。彼は35節で質問をします。「ところが、ある人はこう言うでしょう。『死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。』」そして37―51で次のように答えます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく［それは切れ目です］、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります[これは単に贖い主だけでなく、創造主のことを言っているように聞こえます。それは先祖たちのからだが腐敗し、そのからだを作っていた原子は今や何千という人々や植物や動物たちのからだの中であると考えると、慰められます]。･･･朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。［パウロは何度も何度も、''それ''が蒔かれ、''それ''がよみがえらせられると言います。それは継続です。］血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです［ですので''からだ''と言う言葉は、継続を意味し、''血肉''と''霊''という言葉は、切れ目を意味します］。･･･私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです［そのかたちは同じではありません。そこには切れ目と継続があります］。兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
確かに奥義です。私たちはみな、変えられるのです。しかし、ヨハネが言うように、「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません」(1ヨハネ3:2)。イエス様は、「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」(マタイ22:30)と言われます。事情は変わっているでしょう。例えば、ペテロはその第二の手紙で、今日の世が単純に回復されることや改善されることを見てはいません。彼は2ペテロ3:7で、「今の天と地は、同じみことばによって、''火に焼かれる''ためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです」と言います。使徒ヨハネは、「以前の天と、以前の地は過ぎ去り、''もはや海もない''」(黙示21:1)と言います。「都には、これを照らす''太陽も月もいらない''。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである」(黙示21:23)。「''もはや、夜がない''」(黙示22:5)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
夜がなく、太陽がなく、月がなく、海がなく、結婚がなく、この世の霊的体は火を通されます。それでいて、実際に継続があります。ピリピ3:21、「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」そして私たちのからだも同じ姿になる、イエス様のよみがえりのみからだとは、どのようなからだなのでしょうか?それは目に見えるものでした。空間で言うと説明し難いもので、並外れた方法で現れたり消えたりしました。ルカ24:39―43から驚くべきまた重要な言葉を見てください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「『わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主は魚をお食べになりました。ですから３つ目のポイントは、新しい天と新しい地においては、この世との''継続''と、私たちにとっては「奥義」である、''切れ目''がある、と言うことです。私たちがどのようなものになるかははっきりされていません。私たちが主のようになるというのは分かっています。ですから障害児を抱えた親が、「私たちの子は成長するのでしょうか?自分で食べるようになるのでしょうか?被造物で何かを作ることができるようになるのでしょうか?」と聞いてくるとき、私たちは、神はこの世を造られ、無駄にするために維持しておられるのではないと、答えます。あなたの子はイエス様と一緒に食べます。神はこの子の最高の喜びと、神の最高のご栄光のために、この子にある程度の発達をお与えになるでしょう。でもそれ以上の奥義があります。私たちはそれを鏡を通して見るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではこれら多くの奥義を踏まえて、彼らの深い確信は一体何でしょうか?そして彼らの子と、また彼ら自身にとっての最高の希望とは何でしょう?それが最終的な４つ目の見解と、イエス･キリストの福音になります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4. 新しい被造物のうちで贖われたからだを持つことの希望は、福音にある信仰を通して私たちがいただいた救いによって確保されているが、これが私たちの一番の希望ではない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特にローマ8:23後半―24に注意してください。「私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。''私たちは、この望みによって救われているのです''。」「私たちはこの望みによって救われている」とはどういう意味でしょうか?これは与格(tē gar elpidi esōthēmen)です。恐らく、私たちが救われたというこの望みに関連する、関係の与格です。これは、この望みはもちろん、私たちが救われたときに確保されたという意味を含んでいます。そしてキリストが私たちの罪のために死なれ、よみがえられた(1コリント15:1―3)という福音に信頼することによって私たちは救われているので、この望みは福音によって確保されています。福音は私たちをこの望みに導くことで勝利するのです(ローマ6:5、8:11）。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし私たちはそれをそのままにしておいてはいけません。福音は、新しい天と新しい地がやって来ることと、私たちが、永遠にそこで生きるために贖われたからだでよみがえることの、堅固な岩の保証だからです。私たちの身代わりに十字架につけられ、私たちに赦しを与え、義を与え、すべてを支配するそのみ力によって死からよみがえることによって、このみわざを立証されたキリストの福音ーそれが私たちが、恐れと罪悪感に苛まれ、立つことのできる岩を探し求めている親に、語ることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 福音の最終的賜物とは、十字架につけられたキリストのうちにおられる神 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし福音の最終的な賜物とは、新しい天と新しい地ではありません。福音の最終的良きこととは、贖われたからだではありません。福音の最終的良きこととは、赦し、贖い、なだめの供え物、あるいは義認ではありません。これらすべては目的を達成するための手段です。福音を良い知らせとし、それ無しにはこれらの他の賜物が良い知らせにならない、福音の最終的良きこととは、十字架につけられよみがえられた御子の栄光のうちにおられる、その無限の美しさのゆえに喜ばれ、その無限の価値のゆえに宝とされ、主の御子の似姿に私たちが変えられているゆえに反映されている、神ご自身です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 福音とは、神のご栄光の満ち満ちたあらわれ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして新しい天と新しい地がやって来るその最終的理由は、よみがえられたキリストがその人としてのみからだを投げ捨てる必要がもうなく、それを神の恵みの栄光が最も顕著にあらわされているカルバリの丘の永遠の紋章として保持するためです。物質的世界全体がまず最初に造られましたが、それはいずれ新しいかたちになります。それは神の御子が人として来られ、肉によって苦しまれ、十字架にかけられ、死からよみがえられ、神であり人であられるお方として君臨され、数え切れないほどの贖われた人々の群れに囲まれるためです。それらの人々はその世界で、霊的そして物理的に神の栄光で輝くからだを持っているので、主の栄光を最も詳細に、あふれんばかりに、見えるかたちで反映するように、霊的からだで歌い、話し、働き、遊び、愛し合います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳では40節が欠如しているため、ここでは新共同訳聖書、1987年版引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 02 Mar 2018 20:45:54 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E5%A4%A9%E3%81%A8%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E5%9C%B0%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%81%AE%E5%8B%9D%E5%88%A9</comments>		</item>
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			<title>繁栄の説教ー虚偽であり、また命取り</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%B9%81%E6%A0%84%E3%81%AE%E8%AA%AC%E6%95%99%E3%83%BC%E8%99%9A%E5%81%BD%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8A%E3%80%81%E3%81%BE%E3%81%9F%E5%91%BD%E5%8F%96%E3%82%8A</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「繁栄の説教ー虚偽であり、また命取り」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Prosperity Preaching: Deceitful and Deadly}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
繁栄の説教をする教会についての記事を読むとき、「もし自分がキリスト教の中の人間でなかったら、キリスト教に加わりたいと思わない」というのが私の反応です。言い換えれば、これがイエス様のメッセージであるならいらないよ、と言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
裕福になるために人々をキリストへと引き寄せるのは、ともに虚偽であり、命取りです。それは''虚偽''です。なぜならイエス様が私たちをご自身へと招かれるとき、「あなたがたはだれでも、自分の財産を全部捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」(ルカ14:33) &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; というふうに言われるからです。またそれは''命取り''です。なぜならお金持ちになりたいという願望は、「人を滅びと破滅に投げ入れる」(1テモテ6:9)欲に陥いさせるからです。それゆえ以下は福音を語る方々への私の嘆願です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 人が天の御国に入るのが困難になるようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様は、「裕福な者が神の国に入るのは、何とむずかしいことでしょう」と言われました。弟子たちは、「繁栄」運動に関わる人々もそうであるべきですが、大変驚きました。それでイエス様は彼らの驚きをさらに高く引き上げて、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と言われます。彼らは信じられないと言った気持ちで、「それでは、だれが救われることができるのでしょう?」と反応します。イエス様は、「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」と言われます(マルコ10:23―27)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
繁栄を語る説教者たちに対する、私の質問です。なぜあなた方は、人が神の国に入るのが困難になるようなミニストリーに焦点を合わせたいと思うのですか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. 人々のうちに自虐的な願望を起こすようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです」と言いました。しかしその一方で、裕福になりたがる欲に対し警告します。そして暗に、富を捨てるよう人々を助けるどころか欲をかき立てるような説教者たちに、このように警告します。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛を持って自分を刺し通しました」(1テモテ6:6―10)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから繁栄を語る説教者たちに対する私の質問は、なぜ滅びと破滅へと陥いさせる、数々のもので自分を痛めつけつけ刺し通すよう人々を励ますようなミニストリーを築き上げたいと思うのですか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 虫とさびのつくようなものをすすめるようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様はこの地上に宝をたくわえる努力に対し警告されます。すなわち、主は私たちに、たくわえる者ではなく、与える者になりなさいと言われるのです。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません」(マタイ６:19―20)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうです、私たちのすべてが何かしらの物をたくわえます。でも私たちのすべてが自分のうちに、生まれつき貪欲になる傾向を持っていながら、なぜイエス様から焦点をはずして、それを逆にするようなことをするのでしょう? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4. 富をたくわえる方法がむずかしくなるようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは私たちに盗んではいけないと言います。その変わり、自分の手で労しなさいと言います。でもその最大の目的は、ため込むためではなく、あるいは何かを''得る''ためでさえもありません。それは「人に''施しをするため''」です。「かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい」(エペソ4:28)。これはもっと与えるために''裕福になること''を正当化するものではありません。これはもっとお金を稼ぎ、手元に少なくたくわえなさい、そうすればもっと与えることができる、と言う召しです。年間20万ドルを稼ぐ人が、年間8万ドルを稼ぐ人と違う方法で生活しないといけない、と言う理由はまったくありません。戦時中の生活スタイルを探して下さい。支出の上限を設定して下さい。そして、残りを人にあげて下さい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ他人に惜しみなく与えるためには富を得なければないと考えるよう、人々を励まそうと思うのですか?もっとシンプルな生活をし、もっと惜しみなく与える者になるよう励まそうではありませんか。そうすることによって、所有物ではなく、キリストが彼らの宝であるという強い証が、彼らの惜しみなさに加えられるのではないでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 5. 神が私たちの見方であるという、お金ができない約束を、信じないよう促すようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヘブル人への手紙の著者が、持っているもので満足するよう私たちに教えるその理由は、その逆が神の約束を信じないことを意味するからです。彼は、「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう』」(ヘブル13:5―6)と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし聖書が、私たちが持っているもので満足するのは、神が私たちを決して見捨てられないという約束を尊重することであると教えるのであるなら、なぜ金持ちになりたいと思うよう人々に教えようとするのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 6. 人々がふさがれて息ができずに死んでしまうような原因になるミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様は、私たちにいのちを与えるものである神のみことばのその有効性を、富によってふさがれることが可能であると警告されます。それはいばらの中で成長し、ふさがれて死んでいく種のようだと主は言われます。「みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心遣いや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです」(ルカ8:14)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜイエス様が「ふさがれて死んでしまうよ」と警告されることそのものを追求するよう、人々を励まそうとするのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 7. 塩の塩気をなくし、明かりをカゴの下に置いてしまうようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クリスチャンを地の塩、世の光とするものとは、一体何でしょうか?それは富ではありません。富への憧れと富を追求することは、味も見た目もまさにこの世のものです。この世がすでに信じていることと何ら変わらないものを、この世に提供することと同じです。繁栄の説教の最悪の悲劇は、キリスト教を受け入れるための霊的覚醒が一切必要ない、もっと貪欲になるだけでいい、と教えることにあります。イエス様の御名によって金持ちになることは、地の塩でも世の光でもありません。そこにはこの世の反映が見えるだけです。そしてそれはうまく行きます。この世はそれを信じます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様が言われるこの文脈から、塩と光が一体何であるのかが分かります。それはイエス様のために喜んで苦しむその意欲です。イエス様はこのように言われます、「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪行を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。''喜びなさい''。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。･･･あなたがたは、地の塩です。･･･あなたがたは、世界の光です」(マタイ5:11―14)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちのうちにおられるキリストをこの世に味わわせ(塩)、見せる(光)のは、この世が愛するように富を愛することではありません。むしろ、苦しみを通して他人を愛し、その間ずっと、自分の報いはイエス様とともに御国にあると喜んでいられる、クリスチャンの意思と能力がこの世にキリストを味わわせ、見せるのです。これは人間の言葉では説明できないものです。超自然です。繁栄の約束で人々を魅了することの方が、単純に言って自然です。でもそれはイエス様のメッセージではありません。それは主が達成するために死なれたものではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 01 Mar 2018 21:04:28 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%B9%81%E6%A0%84%E3%81%AE%E8%AA%AC%E6%95%99%E3%83%BC%E8%99%9A%E5%81%BD%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8A%E3%80%81%E3%81%BE%E3%81%9F%E5%91%BD%E5%8F%96%E3%82%8A</comments>		</item>
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			<title>繁栄の説教ー虚偽であり、また命取り</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%B9%81%E6%A0%84%E3%81%AE%E8%AA%AC%E6%95%99%E3%83%BC%E8%99%9A%E5%81%BD%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8A%E3%80%81%E3%81%BE%E3%81%9F%E5%91%BD%E5%8F%96%E3%82%8A</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|Prosperity Preaching: Deceitful and Deadly}}   繁栄の説教をする教会についての記事を読むとき、「もし自分がキリスト教の中の人間でな...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Prosperity Preaching: Deceitful and Deadly}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
繁栄の説教をする教会についての記事を読むとき、「もし自分がキリスト教の中の人間でなかったら、キリスト教に加わりたいと思わない」というのが私の反応です。言い換えれば、これがイエス様のメッセージであるならいらないよ、と言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
裕福になるために人々をキリストへと引き寄せるのは、ともに虚偽であり、命取りです。それは''虚偽''です。なぜならイエス様が私たちをご自身へと招かれるとき、「あなたがたはだれでも、自分の財産を全部捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」(ルカ14:33) &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; というふうに言われるからです。またそれは''命取り''です。なぜならお金持ちになりたいという願望は、「人を滅びと破滅に投げ入れる」(1テモテ6:9)欲に陥いさせるからです。それゆえ以下は福音を語る方々への私の嘆願です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 人が天の御国に入るのが困難になるようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様は、「裕福な者が神の国に入るのは、何とむずかしいことでしょう」と言われました。弟子たちは、「繁栄」運動に関わる人々もそうであるべきですが、大変驚きました。それでイエス様は彼らの驚きをさらに高く引き上げて、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と言われます。彼らは信じられないと言った気持ちで、「それでは、だれが救われることができるのでしょう?」と反応します。イエス様は、「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」と言われます(マルコ10:23―27)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
繁栄を語る説教者たちに対する、私の質問です。なぜあなた方は、人が神の国に入るのが困難になるようなミニストリーに焦点を合わせたいと思うのですか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. 人々のうちに自虐的な願望を起こすようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです」と言いました。しかしその一方で、裕福になりたがる欲に対し警告します。そして暗に、富を捨てるよう人々を助けるどころか欲をかき立てるような説教者たちに、このように警告します。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛を持って自分を刺し通しました」(1テモテ6:6―10)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから繁栄を語る説教者たちに対する私の質問は、なぜ滅びと破滅へと陥いさせる、数々のもので自分を痛めつけつけ刺し通すよう人々を励ますようなミニストリーを築き上げたいと思うのですか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 虫とさびのつくようなものをすすめるようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様はこの地上に宝をたくわえる努力に対し警告されます。すなわち、主は私たちに、たくわえる者ではなく、与える者になりなさいと言われるのです。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません」(マタイ６:19―20)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうです、私たちのすべてが何かしらの物をたくわえます。でも私たちのすべてが自分のうちに、生まれつき貪欲になる傾向を持っていながら、なぜイエス様から焦点をはずして、それを逆にするようなことをするのでしょう? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4. 富をたくわえる方法がむずかしくなるようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは私たちに盗んではいけないと言います。その変わり、自分の手で労しなさいと言います。でもその最大の目的は、ため込むためではなく、あるいは何かを''得る''ためでさえもありません。それは「人に''施しをするため''」です。「かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい」(エペソ4:28)。これはもっと与えるために''裕福になること''を正当化するものではありません。これはもっとお金を稼ぎ、手元に少なくたくわえなさい、そうすればもっと与えることができる、と言う召しです。年間20万ドルを稼ぐ人が、年間8万ドルを稼ぐ人と違う方法で生活しないといけない、と言う理由はまったくありません。戦時中の生活スタイルを探して下さい。支出の上限を設定して下さい。そして、残りを人にあげて下さい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ他人に惜しみなく与えるためには富を得なければないと考えるよう、人々を励まそうと思うのですか?もっとシンプルな生活をし、もっと惜しみなく与える者になるよう励まそうではありませんか。そうすることによって、所有物ではなく、キリストが彼らの宝であるという強い証が、彼らの惜しみなさに加えられるのではないでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 5. 神が私たちの見方であるという、お金ができない約束を、信じないよう促すようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヘブル人への手紙の著者が、持っているもので満足するよう私たちに教えるその理由は、その逆が神の約束を信じないことを意味するからです。彼は、「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう』」(ヘブル13:5―6)と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし聖書が、私たちが持っているもので満足するのは、神が私たちを決して見捨てられないという約束を尊重することであると教えるのであるなら、なぜ金持ちになりたいと思うよう人々に教えようとするのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 6. 人々がふさがれて息ができずに死んでしまうような原因になるミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様は、私たちにいのちを与えるものである神のみことばのその有効性を、富によってふさがれることが可能であると警告されます。それはいばらの中で成長し、ふさがれて死んでいく種のようだと主は言われます。「みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心遣いや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです」(ルカ8:14)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜイエス様が「ふさがれて死んでしまうよ」と警告されることそのものを追求するよう、人々を励まそうとするのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 7. 塩の塩気をなくし、明かりをカゴの下に置いてしまうようなミニストリーの哲学を発展させてはいけない。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クリスチャンを地の塩、世の光とするものとは、一体何でしょうか?それは富ではありません。富への憧れと富を追求することは、味も見た目もまさにこの世のものです。この世がすでに信じていることと何ら変わらないものを、この世に提供することと同じです。繁栄の説教の最悪の悲劇は、キリスト教を受け入れるための霊的覚醒が一切必要ない、もっと貪欲になるだけでいい、と教えることにあります。イエス様の御名によって金持ちになることは、地の塩でも世の光でもありません。そこにはこの世の反映が見えるだけです。そしてそれはうまく行きます。この世はそれを信じます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様が言われるこの文脈から、塩と光が一体何であるのかが分かります。それはイエス様のために喜んで苦しむその意欲です。イエス様はこのように言われます、「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪行を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。''喜びなさい''。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。･･･あなたがたは、地の塩です。･･･あなたがたは、世界の光です」(マタイ5:11―14)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちのうちにおられるキリストをこの世に味わわせ(塩)、見せる(光)のは、この世が愛するように富を愛することではありません。むしろ、苦しみを通して他人を愛し、その間ずっと、自分の報いはイエス様とともに御国にあると喜んでいられる、クリスチャンの意思と能力がこの世にキリストを味わわせ、見せるのです。これは人間の言葉では説明できないものです。超自然です。繁栄の約束で人々を魅了することの方が、単純に言って自然です。でもそれはイエス様のメッセージではありません。それは主が達成するために死なれたものではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 01 Mar 2018 21:03:32 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%B9%81%E6%A0%84%E3%81%AE%E8%AA%AC%E6%95%99%E3%83%BC%E8%99%9A%E5%81%BD%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8A%E3%80%81%E3%81%BE%E3%81%9F%E5%91%BD%E5%8F%96%E3%82%8A</comments>		</item>
		<item>
			<title>結婚ー神の契約を守る恵みのショーケース</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%83%BC%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%A5%91%E7%B4%84%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%8B%E6%81%B5%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B9</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「結婚ー神の契約を守る恵みのショーケース」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Marriage: God's Showcase of Covenant-Keeping Grace}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。･･･3:12それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。18妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。19 夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結婚について言える最も基本的なことは、それが神の成されることで、また結婚について言える最も根本的なことは、それが神が展示されるものであるということを、この過去2週間で見てきました。この二つのポイントはモーセが創世記2章で指摘しています。でもイエス様とパウロが、新約聖書でそれらをもっとはっきりとさせています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様ー「結婚は神の成されること」  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様は結婚が神の成されることである、と言うことを最もはっきり述べておられます。マルコ10:6―9、「しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです[創世記1:27]。『それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです』[創世記2:24]。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」これは結婚が単に人が成すものではないと言う、聖書の最も明確な発言です。「神が結び合わせたもの」と言うのは、神が成された、と言うことを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== パウロー「結婚は神が展示されるもの」  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが最もはっきりさせるポイントは、結婚は神が展示されるように設計されている、と言うことです。エペソ5:31―32で彼は創世記2:24を引用し、それから結婚が絶えず含んできた奥義を述べます。「『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」言い換えると、父と母を離れ、妻と結ばれ、一体となることを含む契約は、キリストと主の教会の間の契約の肖像なのです。結婚は最終的には、キリストと主の教会の間の契約を守る愛を示すために存在します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== キリストと教会の型  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ノエルに今日私に他に言ってほしいことがあるか尋ねました。「結婚がキリストと教会の型であることを言い過ぎても言い過ぎることはないわよ」と彼女は言いました。そう言う彼女が正しいと思う少なくとも３つの理由がそこにはあります。1) これは結婚の薄汚いホームコメディー的イメージを払拭し、神が本来結婚にお与えになった素晴らしい意味を与えます。2) キリストがご自身の花嫁を、恵みによってのみ買い取って支えられるので、これは結婚に恵みの確固たる土台を与えます。そして3) これは夫の指導的地位と妻の従順がとても重要でまた十字架につけられたものであることを示します。すなわち、それらはキリストと教会を示すものとして結婚そのものの意味に織り込まれているのですが、夫と妻両者のプライドと奴隷のような関係を止めさせるため、キリストの自己否定のみわざによって定義されるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結婚が神の契約の愛を示すものであるという土台を築き上げることー私たちは、それらの理由の第一のものに、最初二つのメッセージを費やしました。結婚は、男女が一つとなる新しい肉の一致のうちに、一生涯をかけて誠実な夫と誠実な妻となることを約束する、二人の間の契約です。この契約は厳粛な誓約と性的結合によって封印され、神の契約を守る恵みを見せるために設計されています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 恵みのうちにある確固たる土台  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが今日のメッセージのタイトル、『結婚ー神の契約を守る恵みのショーケース』です。それでノエルが、結婚はキリストと教会の型であると言うことを言い過ぎても言い過ぎることはない、と言うのが正しい二つ目の理由に移ります。つまり、これは、キリストがご自身の花嫁を恵みによってのみ買い取って支えられるので、結婚に恵みのうちにある確固たる土台を築く、と言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えると、今日の要点は、キリストのこの教会との新しい契約が、血によって買い取られた恵みによって造られ支えられているので、それゆえ、人の結婚はその新しい契約の恵みを見せるためのものである、と言うことです。そして神の恵みに安息することと、神との縦の体験から彼ら自身の配偶者との横の関係へと外側に傾く方法によって、それを見せるのです。つまり、結婚においてあなたは、神の赦しと義認と助けがあるという約束の延長として、毎時神の赦しと義認と将来の恵みの約束に喜んでより頼むことと、あなた自身の伴侶に対し毎時折れることに生きるのです。それが今日の要点です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 赦しと義認の恵みの重要性  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(結婚しているクリスチャンだけでなく)すべてのクリスチャンがすべての人間関係においてこれ、つまり、神の赦しと、義認と、すべてを満たす恵みに毎時生き、それから自分の人生で出会うすべての人に対し傾くべきであると言うことを私は分かっています。イエス様は私たちの人生のすべてが神の栄光を見せるためのショーケースであると言われます(マタイ5:16)。しかし結婚は神の契約の恵みを示すユニークなものとして設計されています。それは、他のすべての人間関係と違って、夫と妻は契約によって一生涯の中で有り得る一番近い関係で結ばれるからです。指導的地位と従順というユニークな役割もありますが、それは今日の私の要点ではありません。それは後に触れたいと思います。今日は夫と妻を、頭とからだのたとえとしてではなく、クリスチャンそのものとして、考えます。男女が指導的地位と従順のユニークな役割を聖書的にまた喜んで適用する前に、彼らは赦しと義認と助けの約束の上に自分の人生を築き上げ、それからそれを自分の配偶者に向かって横に沿って傾けるということが、一体何であるかを発見しなければなりません。ですからそれが今日注目するものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは先週のメッセージの用語に置き換えてみると、裸でいながら恥ずかしいと思わない(創世記2:25)でいられる鍵は、事実、夫と妻が恥ずべき多くのことをするとき、神の縦の赦し、義の恵みが、横にお互いに折れ曲がり、そしてこの世に示される体験である、と言えます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 来るべき神の怒り  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この真理の基本をコロサイ書でちょっと見てみましょう。コロサイ3:6から始めます。「このようなことのために、神の怒りが下るのです。」もし、「自分の問題を抱えた結婚について最後に聞きたいのは、神の怒りだ」と言うのなら、あなたは2004年12月26日に「俺の行き詰まった漁業で一番最後に聞きたいのは、津波についてだね」と言う、インドネシアの西海岸にいるイラついた漁師のようなものです。神の怒りについての深い理解と恐れこそ、多くの結婚が必要とするものです。それは、それなしには福音がただ単なる人間関係に薄められ、その聖書的栄光を失うからです。そしてそれなしには、配偶者に対する自分の怒り、憤りは、無限に恐ろしい怒り、つまり、神のあなたに対する怒りが、恵みによっておさまると言うことがどういうものなのかをあなたが実際に味わったことがないため、どうしても大きすぎておさまらないと、考えたくなるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の怒りを取りのぞく  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから神の怒りとその取りのぞきから始めます。では私と一緒にコロサイ2:13―14に戻ってください。「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それら最後の言葉はとても重要です。これ、つまり、この私たちを責め立てている債務証書を、神は取りのけ、十字架に釘付けにされました。それはいつ起こったのでしょうか?2000年前です。それはあなたの内に起こったわけでも、あなたの助けを借りて起こったのでもありません。神があなたのために、あなたが生まれる以前にあなたの外で成されたのです。これが私たちの救いの偉大な客観性です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 債務証書が十字架で無効にされた  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このすべての真理で最も素晴らしい、驚くべきものを、必ず見てください。神はあなたを怒りの負債者にしていたあなたの罪のすべて(罪は神のみ怒りを引き起こす、主に対する犯罪です)を記録したものを取られ、あなたの目の前で持ち上げて、あなたを地獄へ送る認可書として用いる代わりに、ご自身の御子の手のひらに押し当て、釘を突き通されて十字架に貼り付けられたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
誰の罪が十字架に釘付けにされたのでしょうか?誰の罪が十字架上で罰せられたのでしょうか?答えは、私の罪です。そしてノエルの罪です。私の妻の罪と私の罪、自分を救うことに絶望し、キリストのみに信頼する者の罪です。誰の手が十字架に釘付けにされたのでしょうか?誰が十字架上で罰を受けられたでしょうか?イエス様です。これには美しい名称があります。「身代わり」と言われるものです。神は私の罪を、キリストの肉において有罪とされました(ローマ8:3)。夫たちよ、あなたはこれを強く信じ過ぎても信じ過ぎることはありません。妻たちよ、あなたはこれを強く信じ過ぎても信じ過ぎることはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 義認は赦しを越える  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてさかのぼって、ローマ書からの私たちの義人に関する理解のすべてをここに引き寄せると、私たちはさらに、「義認は赦しを越える」と言うことができます。私たちはキリストのゆえに赦されるだけでなく、神はキリストのゆえに私たちを正しいと宣言されるのです。神は私たちに二つのことを要求されます。私たちの罪が処罰されることと、私たちの人生が完璧であることです。私たちの罪が処罰され、人生が義でなければなりません。でも私たちは自分で処罰を受けることはできませんし(詩篇49:7―8)、また自分に義を与えることもできません。義人はいないからです。一人もいないのです(ローマ3:10)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、神は私たちに対するはかり知れない愛から、その両者を成すためにご自身の御子をお与えくださいました。キリストは私たちの罰を受けられ、キリストは私たちの義を行ってくださるのです。そして私たちがキリストを受け入れるとき(ヨハネ1:12)、主のお受けくださった罰と主の義のすべてが、私たちのものとみなされるのです(ローマ4:4―6、5:19、5:1、8:1、10:4、ピリピ3:8―9、2コリント5:21)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 外側に傾いた義認  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし結婚が神の契約を立てられ、契約を守られる恵みを示すものであるとしたら、これは自分の伴侶に向けて外側に、横に傾いていなければならない、縦の現実です。私たちはこれをコロサイ3:12―13に見ます。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」ーあなたの伴侶を許してください。主があなたを「忍ばれる」ように、あなたも自分の伴侶に忍耐深くあるべきです。主はあなたが主のみこころにはるかに及ばないのにあなたを毎日「忍ばれる」のです。事実、キリストがあなたに期待されることと、あなたが達成することの隔たりは、あなたが伴侶に期待することと、あなたの伴侶が達成することの隔たりよりも、はるか無限に大きいのです。キリストは絶えず私たちよりももっとお赦しになり、もっと忍耐されます。自分が赦されたように、許してください。主があなたを忍ばれるように、忍んでください。これはあなたが信者と結婚していようが、未信者と結婚していようが、同じです。キリストの十字架にある、あなたに対する神の恵みの測りを、あなたの伴侶に対するあなたの恵みの測りとして下さい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてもしあなたが信者と結婚しておられるなら、これを加えることができますー主がキリストにあってあなたを義と認められるように、あなたが実際の行動や態度で義でなくとも、あなたの伴侶を、たとえ彼が、あるいは彼女がそうでなくても、キリストにあって義と認めてください。言い換えると、コロサイ3章は、縦の赦しと義認の恵みを取って、それを自分の伴侶に向けて横に傾けさせなさい、と言います。キリストの契約を守られる恵みを示すこと、これこそ結婚が最終的に目的とすることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 福音に根ざした知恵の必要性  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さてここで、これらの福音の真理と長い年月を欠けた痛い、誠実な体験に根ざした霊的に深い知恵を求めて叫ぶ、何百という複雑な状況が浮かび上がってきます。つまり、私はこのメッセージをそれぞれの特定の必要に合わせて適用することなど、到底できません。説教することの他に、私たちには聖霊が必要です、祈りが必要です、一人ひとりがみことばを深く考える必要があります。他の人たちの見解を読んで学ぶ必要があります。困難を通され年季が入った知恵ある友の助言が必要です。私たちのすべてが崩れゆくときに支えてくれる教会が必要です。ですから私には、あなたに助けとなるために言うべきことすべてを言うことができるなどという錯覚は、ありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 縦に生き、そして外側に折れる  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
赦しと、他者を義と認める契約の愛を私がなぜ強調するのか、そのいくつかの理由を上げて閉じるのがいいでしょう。他者を喜ぶということを私は信じていないのでしょうか?信じています。自分の体験と聖書が私をそこへ押してくれます。確かに、イエス様はご自身の花嫁である教会と結婚され、そして主をお喜ばせすることは共に可能であり良いことである、というのは明確です(コロサイ1:10)。主はもちろんのこと、私たちが主を喜ぶのに無限にふさわしいお方です。二人の人がへりくだって、お互いを喜ばせようと神のみこころに従った方法で変わるよう求め、お互いの肉体的また感情的必要を満たし、あるいはすべての良い方法でお互いを喜ばせるーこれが結婚の理想です。そうです。キリストと教会の関係はそのすべてを含みます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし神の恵みから縦に生き、自分の伴侶に向かって赦しと義認において横ばいに傾くことを私が強調するその理由は、1) それは罪と違和感がもとで起こる対立があるからです(そしてあなたはお互いが単純に違うということと、何が罪であるかをお互いに認め合うことさえできないのです)。2) それは難しい、厳しい忍耐と赦しのわざが、愛情がすっかり無くなってしまったように見えるところに愛情を湧き起こさせるからです。そして、3) それは二人のまったく違う、とても不完全な人が、キリストにより頼むことによって、困難の炎の中で誠実な人生を築き上げるときに、神が栄光をお受けになるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== キリストにあって、神はあなたと、あなたの伴侶をお赦しくださった  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それを次回取り扱いますが、ノエルと私が発見したことをお話したいと思います。恐らくその説教は、「堆肥の山の説教」となるのではないかと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それまで、夫と妻の皆さん、神は、「私たちのすべての罪を赦し、私たちを責め立てている債務証書を無効にされ、十字架に釘づけにされた」というこの大きな真理、あなたの結婚生活で直面するいかなる問題よりも偉大な真理を、自分の良心にしっかり詰め込んでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 22 Feb 2018 21:10:41 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%83%BC%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%A5%91%E7%B4%84%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%8B%E6%81%B5%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B9</comments>		</item>
		<item>
			<title>結婚ー神の契約を守る恵みのショーケース</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%83%BC%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%A5%91%E7%B4%84%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%8B%E6%81%B5%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B9</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|Marriage: God's Showcase of Covenant-Keeping Grace}}   &amp;amp;gt; あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そ...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Marriage: God's Showcase of Covenant-Keeping Grace}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。･･･3:12それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。18妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。19 夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結婚について言える最も基本的なことは、それが神の成されることで、また結婚について言える最も根本的なことは、それが神が展示されるものであるということを、この過去2週間で見てきました。この二つのポイントはモーセが創世記2章で指摘しています。でもイエス様とパウロが、新約聖書でそれらをもっとはっきりとさせています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イエス様ー「結婚は神の成されること」  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様は結婚が神の成されることである、と言うことを最もはっきり述べておられます。マルコ10:6―9、「しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです[創世記1:27]。『それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです』[創世記2:24]。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」これは結婚が単に人が成すものではないと言う、聖書の最も明確な発言です。「神が結び合わせたもの」と言うのは、神が成された、と言うことを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== パウロー「結婚は神が展示されるもの」  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが最もはっきりさせるポイントは、結婚は神が展示されるように設計されている、と言うことです。エペソ5:31―32で彼は創世記2:24を引用し、それから結婚が絶えず含んできた奥義を述べます。「『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」言い換えると、父と母を離れ、妻と結ばれ、一体となることを含む契約は、キリストと主の教会の間の契約の肖像なのです。結婚は最終的には、キリストと主の教会の間の契約を守る愛を示すために存在します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== キリストと教会の型  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ノエルに今日私に他に言ってほしいことがあるか尋ねました。「結婚がキリストと教会の型であることを言い過ぎても言い過ぎることはないわよ」と彼女は言いました。そう言う彼女が正しいと思う少なくとも３つの理由がそこにはあります。1) これは結婚の薄汚いホームコメディー的イメージを払拭し、神が本来結婚にお与えになった素晴らしい意味を与えます。2) キリストがご自身の花嫁を、恵みによってのみ買い取って支えられるので、これは結婚に恵みの確固たる土台を与えます。そして3) これは夫の指導的地位と妻の従順がとても重要でまた十字架につけられたものであることを示します。すなわち、それらはキリストと教会を示すものとして結婚そのものの意味に織り込まれているのですが、夫と妻両者のプライドと奴隷のような関係を止めさせるため、キリストの自己否定のみわざによって定義されるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結婚が神の契約の愛を示すものであるという土台を築き上げることー私たちは、それらの理由の第一のものに、最初二つのメッセージを費やしました。結婚は、男女が一つとなる新しい肉の一致のうちに、一生涯をかけて誠実な夫と誠実な妻となることを約束する、二人の間の契約です。この契約は厳粛な誓約と性的結合によって封印され、神の契約を守る恵みを見せるために設計されています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 恵みのうちにある確固たる土台  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが今日のメッセージのタイトル、『結婚ー神の契約を守る恵みのショーケース』です。それでノエルが、結婚はキリストと教会の型であると言うことを言い過ぎても言い過ぎることはない、と言うのが正しい二つ目の理由に移ります。つまり、これは、キリストがご自身の花嫁を恵みによってのみ買い取って支えられるので、結婚に恵みのうちにある確固たる土台を築く、と言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えると、今日の要点は、キリストのこの教会との新しい契約が、血によって買い取られた恵みによって造られ支えられているので、それゆえ、人の結婚はその新しい契約の恵みを見せるためのものである、と言うことです。そして神の恵みに安息することと、神との縦の体験から彼ら自身の配偶者との横の関係へと外側に傾く方法によって、それを見せるのです。つまり、結婚においてあなたは、神の赦しと義認と助けがあるという約束の延長として、毎時神の赦しと義認と将来の恵みの約束に喜んでより頼むことと、あなた自身の伴侶に対し毎時折れることに生きるのです。それが今日の要点です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 赦しと義認の恵みの重要性  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(結婚しているクリスチャンだけでなく)すべてのクリスチャンがすべての人間関係においてこれ、つまり、神の赦しと、義認と、すべてを満たす恵みに毎時生き、それから自分の人生で出会うすべての人に対し傾くべきであると言うことを私は分かっています。イエス様は私たちの人生のすべてが神の栄光を見せるためのショーケースであると言われます(マタイ5:16)。しかし結婚は神の契約の恵みを示すユニークなものとして設計されています。それは、他のすべての人間関係と違って、夫と妻は契約によって一生涯の中で有り得る一番近い関係で結ばれるからです。指導的地位と従順というユニークな役割もありますが、それは今日の私の要点ではありません。それは後に触れたいと思います。今日は夫と妻を、頭とからだのたとえとしてではなく、クリスチャンそのものとして、考えます。男女が指導的地位と従順のユニークな役割を聖書的にまた喜んで適用する前に、彼らは赦しと義認と助けの約束の上に自分の人生を築き上げ、それからそれを自分の配偶者に向かって横に沿って傾けるということが、一体何であるかを発見しなければなりません。ですからそれが今日注目するものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは先週のメッセージの用語に置き換えてみると、裸でいながら恥ずかしいと思わない(創世記2:25)でいられる鍵は、事実、夫と妻が恥ずべき多くのことをするとき、神の縦の赦し、義の恵みが、横にお互いに折れ曲がり、そしてこの世に示される体験である、と言えます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 来るべき神の怒り  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この真理の基本をコロサイ書でちょっと見てみましょう。コロサイ3:6から始めます。「このようなことのために、神の怒りが下るのです。」もし、「自分の問題を抱えた結婚について最後に聞きたいのは、神の怒りだ」と言うのなら、あなたは2004年12月26日に「俺の行き詰まった漁業で一番最後に聞きたいのは、津波についてだね」と言う、インドネシアの西海岸にいるイラついた漁師のようなものです。神の怒りについての深い理解と恐れこそ、多くの結婚が必要とするものです。それは、それなしには福音がただ単なる人間関係に薄められ、その聖書的栄光を失うからです。そしてそれなしには、配偶者に対する自分の怒り、憤りは、無限に恐ろしい怒り、つまり、神のあなたに対する怒りが、恵みによっておさまると言うことがどういうものなのかをあなたが実際に味わったことがないため、どうしても大きすぎておさまらないと、考えたくなるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の怒りを取りのぞく  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから神の怒りとその取りのぞきから始めます。では私と一緒にコロサイ2:13―14に戻ってください。「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それら最後の言葉はとても重要です。これ、つまり、この私たちを責め立てている債務証書を、神は取りのけ、十字架に釘付けにされました。それはいつ起こったのでしょうか?2000年前です。それはあなたの内に起こったわけでも、あなたの助けを借りて起こったのでもありません。神があなたのために、あなたが生まれる以前にあなたの外で成されたのです。これが私たちの救いの偉大な客観性です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 債務証書が十字架で無効にされた  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このすべての真理で最も素晴らしい、驚くべきものを、必ず見てください。神はあなたを怒りの負債者にしていたあなたの罪のすべて(罪は神のみ怒りを引き起こす、主に対する犯罪です)を記録したものを取られ、あなたの目の前で持ち上げて、あなたを地獄へ送る認可書として用いる代わりに、ご自身の御子の手のひらに押し当て、釘を突き通されて十字架に貼り付けられたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
誰の罪が十字架に釘付けにされたのでしょうか?誰の罪が十字架上で罰せられたのでしょうか?答えは、私の罪です。そしてノエルの罪です。私の妻の罪と私の罪、自分を救うことに絶望し、キリストのみに信頼する者の罪です。誰の手が十字架に釘付けにされたのでしょうか?誰が十字架上で罰を受けられたでしょうか?イエス様です。これには美しい名称があります。「身代わり」と言われるものです。神は私の罪を、キリストの肉において有罪とされました(ローマ8:3)。夫たちよ、あなたはこれを強く信じ過ぎても信じ過ぎることはありません。妻たちよ、あなたはこれを強く信じ過ぎても信じ過ぎることはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 義認は赦しを越える  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてさかのぼって、ローマ書からの私たちの義人に関する理解のすべてをここに引き寄せると、私たちはさらに、「義認は赦しを越える」と言うことができます。私たちはキリストのゆえに赦されるだけでなく、神はキリストのゆえに私たちを正しいと宣言されるのです。神は私たちに二つのことを要求されます。私たちの罪が処罰されることと、私たちの人生が完璧であることです。私たちの罪が処罰され、人生が義でなければなりません。でも私たちは自分で処罰を受けることはできませんし(詩篇49:7―8)、また自分に義を与えることもできません。義人はいないからです。一人もいないのです(ローマ3:10)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、神は私たちに対するはかり知れない愛から、その両者を成すためにご自身の御子をお与えくださいました。キリストは私たちの罰を受けられ、キリストは私たちの義を行ってくださるのです。そして私たちがキリストを受け入れるとき(ヨハネ1:12)、主のお受けくださった罰と主の義のすべてが、私たちのものとみなされるのです(ローマ4:4―6、5:19、5:1、8:1、10:4、ピリピ3:8―9、2コリント5:21)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 外側に傾いた義認  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし結婚が神の契約を立てられ、契約を守られる恵みを示すものであるとしたら、これは自分の伴侶に向けて外側に、横に傾いていなければならない、縦の現実です。私たちはこれをコロサイ3:12―13に見ます。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」ーあなたの伴侶を許してください。主があなたを「忍ばれる」ように、あなたも自分の伴侶に忍耐深くあるべきです。主はあなたが主のみこころにはるかに及ばないのにあなたを毎日「忍ばれる」のです。事実、キリストがあなたに期待されることと、あなたが達成することの隔たりは、あなたが伴侶に期待することと、あなたの伴侶が達成することの隔たりよりも、はるか無限に大きいのです。キリストは絶えず私たちよりももっとお赦しになり、もっと忍耐されます。自分が赦されたように、許してください。主があなたを忍ばれるように、忍んでください。これはあなたが信者と結婚していようが、未信者と結婚していようが、同じです。キリストの十字架にある、あなたに対する神の恵みの測りを、あなたの伴侶に対するあなたの恵みの測りとして下さい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてもしあなたが信者と結婚しておられるなら、これを加えることができますー主がキリストにあってあなたを義と認められるように、あなたが実際の行動や態度で義でなくとも、あなたの伴侶を、たとえ彼が、あるいは彼女がそうでなくても、キリストにあって義と認めてください。言い換えると、コロサイ3章は、縦の赦しと義認の恵みを取って、それを自分の伴侶に向けて横に傾けさせなさい、と言います。キリストの契約を守られる恵みを示すこと、これこそ結婚が最終的に目的とすることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 福音に根ざした知恵の必要性  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さてここで、これらの福音の真理と長い年月を欠けた痛い、誠実な体験に根ざした霊的に深い知恵を求めて叫ぶ、何百という複雑な状況が浮かび上がってきます。つまり、私はこのメッセージをそれぞれの特定の必要に合わせて適用することなど、到底できません。説教することの他に、私たちには聖霊が必要です、祈りが必要です、一人ひとりがみことばを深く考える必要があります。他の人たちの見解を読んで学ぶ必要があります。困難を通され年季が入った知恵ある友の助言が必要です。私たちのすべてが崩れゆくときに支えてくれる教会が必要です。ですから私には、あなたに助けとなるために言うべきことすべてを言うことができるなどという錯覚は、ありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 縦に生き、そして外側に折れる  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
赦しと、他者を義と認める契約の愛を私がなぜ強調するのか、そのいくつかの理由を上げて閉じるのがいいでしょう。他者を喜ぶということを私は信じていないのでしょうか?信じています。自分の体験と聖書が私をそこへ押してくれます。確かに、イエス様はご自身の花嫁である教会と結婚され、そして主をお喜ばせすることは共に可能であり良いことである、というのは明確です(コロサイ1:10)。主はもちろんのこと、私たちが主を喜ぶのに無限にふさわしいお方です。二人の人がへりくだって、お互いを喜ばせようと神のみこころに従った方法で変わるよう求め、お互いの肉体的また感情的必要を満たし、あるいはすべての良い方法でお互いを喜ばせるーこれが結婚の理想です。そうです。キリストと教会の関係はそのすべてを含みます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし神の恵みから縦に生き、自分の伴侶に向かって赦しと義認において横ばいに傾くことを私が強調するその理由は、1) それは罪と違和感がもとで起こる対立があるからです(そしてあなたはお互いが単純に違うということと、何が罪であるかをお互いに認め合うことさえできないのです)。2) それは難しい、厳しい忍耐と赦しのわざが、愛情がすっかり無くなってしまったように見えるところに愛情を湧き起こさせるからです。そして、3) それは二人のまったく違う、とても不完全な人が、キリストにより頼むことによって、困難の炎の中で誠実な人生を築き上げるときに、神が栄光をお受けになるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== キリストにあって、神はあなたと、あなたの伴侶をお赦しくださった  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それを次回取り扱いますが、ノエルと私が発見したことをお話したいと思います。恐らくその説教は、「堆肥の山の説教」となるのではないかと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それまで、夫と妻の皆さん、神は、「私たちのすべての罪を赦し、私たちを責め立てている債務証書を無効にされ、十字架に釘づけにされた」というこの大きな真理、あなたの結婚生活で直面するいかなる問題よりも偉大な真理を、自分の良心にしっかり詰め込んでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 22 Feb 2018 21:10:20 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%83%BC%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%A5%91%E7%B4%84%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%8B%E6%81%B5%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B9</comments>		</item>
		<item>
			<title>神は私たちを福音によって強められる</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%82%92%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%BC%B7%E3%82%81%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|God Strengthens Us by the Gospel}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 私の福音とイエス･キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現されて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅くたたせることができる方、27知恵に富む唯一の神に、イエス･キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日は、今まで書かれた手紙の中で最も素晴らしい手紙、パウロのローマ人への手紙の、最後の段落から始めます。少なくとも皆さんのうちの何人かは、ローマ書はほぼ終了か?と疑問に思っておられるかと思います。皆さんのほとんどは、私たちがこの書簡を始めた7年半前の1998年4月26日には、ここにはおられませんでした。皆さんの多くは、ベツレヘム教会に来た日付を、ローマ書の章で覚えておられます。終わりが近づいています。もったいぶらずに、皆さんの切り替えの準備をお助けするために、次の計画をお教えしましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== アドベントに向けた、少しずつ、ゆっくりとした着陸 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この最後の段落(ローマ16:25―27)は、私たちを少しずつ、ゆっくりと安全に着陸させるほど、非常に多くの重要なテーマを抱えています。この共に過ごした7年間の飛行は急降下では終わりません。それは大ジェット機で、パイパーカブのような、空から直降下するようなものではありません。この三節に5週を費やすのが私の計画で、クリスマス前日、クリスマス･イブはそのクライマックスにふさわしいように思われますが、12月24日の日曜日にローマ書を完了したいと願っています。神が(来週から始まる)アドベントの日曜日を、キリストが崇められ、人々が信仰へと改宗し、主のうちに立て上げられる、私たちが見たこともないような最も力強いシーズンとしてくださるよう、どうぞ私と一緒にお祈りください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 頌栄は神の栄光へと私たちの注意を引く ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ書の最後の三節は、一般的に頌栄と呼ばれています。頌栄(Doxology)ということばは、ギリシャ語の栄光という意味のdoxaと、ことばという意味のlogosから来ています。ですから頌栄は神に栄光を帰することばです。新約聖書の頌栄の背後にある確信は、すべてのものは神の栄光に注意を引き付けるために存在し、起こる、というものです。そのため頌栄は説教や著書の山場や最終場面でよく起こります。パウロと一緒になって、私は私がこれまで述べたすべてのことが、神の栄光に注意を引くように祈ります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というわけでパウロは25節の最終頌栄(私の福音･･･)を書き始めるにあたって、神に栄光を帰する頌栄のことばが念頭にありますが、単純に「神に栄光がありますように」と言って手紙を書き終えることができません。代わりに彼は主、つまり、み父なる神、そして彼が書き記してきた16章の福音に関する文を、次々と加えます。そして27節で、書の最後のことばである栄光の帰属に戻って来ます。ですから25節の始めと27節の終わりの、始めと終わりを一緒にして、「(あなたがたを堅く立たせることができる)方、27知恵に富む唯一の神に、イエス･キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが頌栄を用いるのはここだけではありません。はじめ11章のクライマックスのローマ11:36で、自分が教えてきたことのより直接的適用を展開し始める前に、頌栄があります。「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ピリピ4:20とエペソ3:20―21も参照) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頌栄を好んだのはパウロだけではありません。ペテロは1ペテロ4:11で、「栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン」と言います。使徒ヨハネは黙示1:5―6で、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; と言っています。そしてイエス様の兄弟、ユダは、頌栄の中でも最も有名なものを書いています(ユダ1:24―25)。「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス･キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから頌栄がささげられ、あるいはうたわれるとき、それは、すべては神の栄光に注意を引くために存在するという、きわめて重要で、そしてすべてを包括する真理に根付いた、聖書的、使徒的形式の語りであることを理解してください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それがこれまでの5週間、ローマ書で取り扱ってきたものです。一頌栄としてそれはとても長く、また神と福音に関する真理であり、とても濃密なものです。パウロが書いた中で最も長く、偉大な手紙を終わらせるにあたって、彼が投げ捨てるような言葉を用いるはずがないと、どうぞご安心ください。一つ一つの言葉が重要です。これらがローマ人に対する、彼の最後の言葉です。彼のあなたに対する最後の言葉かも知れません。注意深くお聞きになってください。そして、この頌栄の5つの側面のすべてを見るため、この年の最後の週にここに戻って来られることを、皆さんに願います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神は福音を用いて信者を強められる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日は、神はご自身の民を福音によって強められる、という一文に主に注目したいと思います。25節、「私の福音･･･によって、･･･あなたがたを堅く立たせることができる方、」。25、26節でパウロが言うことのすべては、信者を強める福音についての説明です。この強める福音とは、「イエス･キリストの宣教」(25節前半)です。イエス様こそ福音の中心におられる現実です。この福音は、「世々にわたって長い間隠されていた･･･奥義の啓示」(25節中半)です。それは、異邦人、つまり諸国民は、イエス様にある信仰によって、ユダヤ人信者と変わらない同邦人である、という奥義です(エペソ3：6)。その良い知らせは「今や現され」(26節)、そして過ぎた時代には隠されていたのですが、「あらゆる国の人々」(26節)に対する奥義を現すため、パウロは旧約のまさに「預言者たちの書」(26節)そのものを用います。そしてこのあらゆる国の人々のための良い知らせのすべては、「永遠の神の命令」であり、「信仰の従順」(26節)を目指します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それらすべては25節の、神が信者を強めるために用いられる福音の、紐解きです。そうすれば彼らが信仰の従順において実際に屈せず、神の栄光に全注意を注ぐからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では今日注目するのは、パウロが最後の頌栄を述べる前に、この書の最後で神に栄光を帰そうと、神はあなたをご自身の福音によって強めてくださる、と言おうと決めたことです。神の栄光に目を向けるよう[私たちを]招くとき、彼は神が福音を信じる主の人々、つまりあなたを強められることにおいて、その栄光がよりきらびやかに輝くようにします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ご自身の栄光のために強められる神 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ここにはとても素晴らしいものがありますが、皆さんがそれを見落としてしまわないためにも、私はそれを通り過ごしたくありません。ですから再度、明白なものから先に述べ、そこまで明白ではないものをそこから引き出させてください。明白な事実は、神がご自身の栄光に注意を引き寄せるよう成されること、あるいは成されて来たことについて、はっきり言い切ることができることを、彼はこの一文、「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように」で強調しているということです。なぜ彼は、神は賢く、神は長い間何かを隠して来られ、あらゆる国の人々のためにその何かを現され、そして永遠の命令によってこれらすべてを成されたと言うのでしょうか?そうです。しかしパウロがこの頌栄を組み立てるそのやり方は、それらのすべてが、神は私たちを強めることがおできになる、というこのたった一つのことを支持し、説明するために備えられている、というものです。「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが明白な事実です。以下はそこまで明白ではありませんが、一度誰かが私たちの注意を引き寄せてくれたら非常に明瞭になることです。歴史上の数々の国王たちと今日の独裁者らの多くは栄光を得ようともくろみます。彼らは強く、富んでおり、賢いと思われたいと望みます。どのようにしてそれを達成してきたでしょうか?自分たちの国民を弱く、貧しく、無学にすることによってです。知識人は独裁者にとっては脅威です。富裕な中間層は独裁者にとっては脅威です。強い人々は独裁者の権力にとって脅威です。ということで、彼らは何をするでしょうか?彼らは自分の民を弱くさせておくことによって、自分の権力を確保するのです。衰弱した人々の背中に立つことによって、名誉を得るのです。ウズベキスタンのイスロム･カリモフ政権を見てみてください。他にも、強く富んでいる者になるために自分の民を弱くさせておく、小さな国王たちの数多くの例を挙げることができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 福音の力にある神の栄光 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで、パウロが神の栄光に注意を引く方法と対比させてください。もし反抗的人々の背中に乗ることによって自分の栄光を示す権利のある王がいるとすれば、それは神であられます。しかし主は何をなさるでしょうか?主はご自分の民を強めることによって、ご自身の栄光を示されます。「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように。」神はご自身の栄光を、福音であなたを強めることによって、高く掲げられます。神はあなたの強さに何の脅威も感じられません。事実、あなたがイエス･キリストの福音を通してその信仰と希望と愛において強くなればなるほど、主がますます偉大に見えるのです。神はご自身の民を弱くさせておくことによってご自分の権威を確保されません。ご自分の民を強めることによって、ご自身の力ある栄光を高められます。「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、パウロが神の栄光を福音の最終目標とするとき、また神の栄光の最高の価値に人々の注意をうながすことによって、自分の書き記した手紙の中で最も偉大な手紙を終わらせるとき、これは私たちにとって悪い知らせではありません。私たちがその栄光を自分のものにしようとしない限り、です。なぜこれは私たちにとって悪くない知らせなのでしょうか?それは神が、ご自身の価値なき民を強めることによって、ご自分の栄光に注意を引き寄せられるからです。神の栄光が素晴らしければ素晴らしいほど、私たちはますます強められます。神の栄光が多種多様で素晴らしいものであればあるほど、私たちの強さの源もますます多種多様で素晴らしいものになります。「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 福音のうちにある強さ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神が与えることがおできになる強さとは、どのような強さをパウロは言うのでしょうか?神はご自身が望まれるどのような強さもお与えになることができます。「私の神によって私は城壁を飛び越えます」(詩篇18:29)。しかしここでの強さは、ローマ1:11―2で言及されている力と同じものです。「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強く(stērikthēnai、16:25と同じ言葉)したいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」この強さの本質は、イエス･キリストにある信仰です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''福音のうちにある女性のための強さ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それはこの世が知らない、あるいは与えることのできない強さです。女性の皆さん、十代の女の子たち、強い女性と言うと、何を想像しますか?あるいは少女たち、強い女性へと成長したら、何をしたいですか?これをはっきりさせるのはとても重要です。なぜなら神はあなたに強くなって欲しいからです。そして、聖書と個人体験そのものが、あなたはある意味弱い器だと教えるからです(1ペテロ3:7)。この世の成人男性の95％は、肉体的に95％の成人女性より強いです。強い女性になったら、あなたは何をしたいと思うべきでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世は3つの方法で自分の強さを求めよと教えます。一つは色っぽくなり、色っぽい服装をし、色っぽく行動することによって、男はとてもだまされやすいので、男を支配することができます。他には自己主張が強い、強引で、攻撃的で、自信過剰な女性になることによってです。そして3つめに賢くなり、影響力のある経路を通して権力のある地位へと進むことによってです。それらすべての強さは、パウロが「あなたがたを堅く立たせることができるお方」と言う、彼が言っている強さではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロには、ペテロが1ペテロ3:6で、「あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです」と女性にサラや古き時代の聖い女性たちのようになりなさいと言う、その内なる強さが念頭にあります。また箴言31:25で「彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ」と言われているような強さが、念頭にあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、女性の皆さん、若い女の子たち、全宇宙の王なる神の娘として、神にあって自分がどのような者であるか、主があなたのために何を成してくださったか、そしてイエス･キリストにおいて何を成してくださり、何となってくださるかの約束を堅く信じ、たとえ何が起ころうとも神以外の何ものをも恐れず、後の日を笑って待ち望む者になるよう、望んでください。はっきり言いますが、色気は必ず失われます。それによって得た男性は、あなたが望むような男性ではありません。自己主張は、あなたが一緒にいたいような人々を遠ざけます。力の世界は、草のようなものです。風が吹くと無くなってしまいます。しかし神が福音を通してお与えくださる強さは永遠です。「私の福音･･･によって、･･･あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、御栄えがとこしえまでありますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''福音のうちにある男性のための強さ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男性、そして少年たち、あなた方はどうでしょうか?強くなったら、何をしたいと望みますか？アルトイズの缶 &amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; を握って、「興味深いほど強い」と見られるようになりたいと思いますか？あるいは最高のスポーツ選手になりたいと思いますか？すごいやり手の株式仲買人になって、金の力を掌握したいですか？学識のある者になって、月刊アトランティックを読んで、NPRを聞いて、カクテルを飲んで会話しながら人々が口にもしないような名を口にしてみたいと思いますか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いいえ、愚か者だけが衰退する強さを欲しがります。愚か者だけが、あなたが強さを最も必要としているときにだけ与えることができるような力を欲しがります。神が福音を通してあなたにお与えになることができるような強さをお教えしましょう。それはデボーションであなたの奥さんと家族をリードする強さです。高学歴を持った人や、この世のエリート主義者たちに囲まれたとき、単純な真理のことばを言うことのできる強さです。周りの者すべてがあなたを弱いもの呼ばわりするとき、悪しき行いに対し一歩も引かないで、「ノー」と言う強さです。これ以上やる気がまったく起こらないときに、義と憐れみと真理のゆえに、すべての障害に立ち向かい続ける強さです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''福音のうちにあるすべての者のための強さ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は男性であれ女性であれ、現代文化の流れで二つの足でふらふら浮いている何万という道徳的くらげより、車椅子のあなたをはるかに強くすることができる、キリストにある信仰による魂の内にある力を持って、あなたがたのすべてを強くすることがおできになります。私たちが欲しいのは、全身麻痺になり、質問に瞬きでしか答えることができないようなときに、そこにあるような強さです。私たちはそれがどこから来るのかを知っています。「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 私たちには福音の必要がなくなることがない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ書から7年間をかけて展開してきた、そしてもう4説教をかけて展開したい、最後の、とても重要な見解は、イエス様が来られるまですべての説教でそうしたいと祈りますが、神は福音を通して私たちを強められる、ということです。「私の福音･･･によって、･･･あなたがたを堅く立たせることができる方」。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福音の核心は、義なるお方イエス･キリストが、私たちの罪のために死なれ、よみがえられ、ご自身の敵すべてに対し永遠に勝利なさったと言うことです。ですから主を信じる者は罪に定められることがなく、永遠の喜びが与えられます。あなたは決して、決して、決して、福音の必要がなくなることはありません。あなたはクリスチャン人生をこれで始め、これを卒業して次の何かで強められるのではありません。神は私たちが死ぬまで、私たちを福音によって強めてくださるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 癌のための福音の力  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
終わりに私の個人的体験からたとえを紹介したいと思います。皆さんの多くが、より深く自分の強さを試されて、私よりも素晴らしい話を持っておられると思います。でも私が2月に癌を告知されたときに、神が私に成されたことを思い出してください。神は福音を持って私を強めてくださいました。主が用いられた聖書箇所を覚えておられるかと思います。そのどれも重要でないものは私にはありませんでした。1テサロニケ5:9―10、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス･キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、私のうちにあるものすべてが、最終診断の際にもそのように言えるよう願いますが、「私の福音･･･によって･･･あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、イエス･キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの神は、歴史の中で、罪とサタンと地獄と死に勝利するため、みわざを成しておられます。主はこれを、イエス･キリストの福音をとおして成されました。この福音をあなたの人生の最高の宝として受け入れてください。神はあなたを強めることによって、ご自身の栄光を高く掲げられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;&amp;lt;/sup&amp;gt;&amp;lt;sup&amp;gt;&amp;lt;/sup&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; ESV訳に限りなく近いということで、新共同訳聖書、1987年版引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; ミント、口臭予防剤 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 13 Feb 2018 21:15:28 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A5%9E%E3%81%AF%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%82%92%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%BC%B7%E3%82%81%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>神は私たちを福音によって強められる</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%82%92%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%BC%B7%E3%82%81%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|God Strengthens Us by the Gospel}}   &amp;amp;gt; 私の福音とイエス･キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|God Strengthens Us by the Gospel}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 私の福音とイエス･キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現されて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅くたたせることができる方、27知恵に富む唯一の神に、イエス･キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日は、今まで書かれた手紙の中で最も素晴らしい手紙、パウロのローマ人への手紙の、最後の段落から始めます。少なくとも皆さんのうちの何人かは、ローマ書はほぼ終了か?と疑問に思っておられるかと思います。皆さんのほとんどは、私たちがこの書簡を始めた7年半前の1998年4月26日には、ここにはおられませんでした。皆さんの多くは、ベツレヘム教会に来た日付を、ローマ書の章で覚えておられます。終わりが近づいています。もったいぶらずに、皆さんの切り替えの準備をお助けするために、次の計画をお教えしましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== アドベントに向けた、少しずつ、ゆっくりとした着陸 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この最後の段落(ローマ16:25―27)は、私たちを少しずつ、ゆっくりと安全に着陸させるほど、非常に多くの重要なテーマを抱えています。この共に過ごした7年間の飛行は急降下では終わりません。それは大ジェット機で、パイパーカブのような、空から直降下するようなものではありません。この三節に5週を費やすのが私の計画で、クリスマス前日、クリスマス･イブはそのクライマックスにふさわしいように思われますが、12月24日の日曜日にローマ書を完了したいと願っています。神が(来週から始まる)アドベントの日曜日を、キリストが崇められ、人々が信仰へと改宗し、主のうちに立て上げられる、私たちが見たこともないような最も力強いシーズンとしてくださるよう、どうぞ私と一緒にお祈りください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 頌栄は神の栄光へと私たちの注意を引く ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ書の最後の三節は、一般的に頌栄と呼ばれています。頌栄(Doxology)ということばは、ギリシャ語の栄光という意味のdoxaと、ことばという意味のlogosから来ています。ですから頌栄は神に栄光を帰することばです。新約聖書の頌栄の背後にある確信は、すべてのものは神の栄光に注意を引き付けるために存在し、起こる、というものです。そのため頌栄は説教や著書の山場や最終場面でよく起こります。パウロと一緒になって、私は私がこれまで述べたすべてのことが、神の栄光に注意を引くように祈ります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というわけでパウロは25節の最終頌栄(私の福音･･･)を書き始めるにあたって、神に栄光を帰する頌栄のことばが念頭にありますが、単純に「神に栄光がありますように」と言って手紙を書き終えることができません。代わりに彼は主、つまり、み父なる神、そして彼が書き記してきた16章の福音に関する文を、次々と加えます。そして27節で、書の最後のことばである栄光の帰属に戻って来ます。ですから25節の始めと27節の終わりの、始めと終わりを一緒にして、「(あなたがたを堅く立たせることができる)方、27知恵に富む唯一の神に、イエス･キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが頌栄を用いるのはここだけではありません。はじめ11章のクライマックスのローマ11:36で、自分が教えてきたことのより直接的適用を展開し始める前に、頌栄があります。「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ピリピ4:20とエペソ3:20―21も参照) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頌栄を好んだのはパウロだけではありません。ペテロは1ペテロ4:11で、「栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン」と言います。使徒ヨハネは黙示1:5―6で、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; と言っています。そしてイエス様の兄弟、ユダは、頌栄の中でも最も有名なものを書いています(ユダ1:24―25)。「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス･キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから頌栄がささげられ、あるいはうたわれるとき、それは、すべては神の栄光に注意を引くために存在するという、きわめて重要で、そしてすべてを包括する真理に根付いた、聖書的、使徒的形式の語りであることを理解してください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それがこれまでの5週間、ローマ書で取り扱ってきたものです。一頌栄としてそれはとても長く、また神と福音に関する真理であり、とても濃密なものです。パウロが書いた中で最も長く、偉大な手紙を終わらせるにあたって、彼が投げ捨てるような言葉を用いるはずがないと、どうぞご安心ください。一つ一つの言葉が重要です。これらがローマ人に対する、彼の最後の言葉です。彼のあなたに対する最後の言葉かも知れません。注意深くお聞きになってください。そして、この頌栄の5つの側面のすべてを見るため、この年の最後の週にここに戻って来られることを、皆さんに願います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神は福音を用いて信者を強められる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日は、神はご自身の民を福音によって強められる、という一文に主に注目したいと思います。25節、「私の福音･･･によって、･･･あなたがたを堅く立たせることができる方、」。25、26節でパウロが言うことのすべては、信者を強める福音についての説明です。この強める福音とは、「イエス･キリストの宣教」(25節前半)です。イエス様こそ福音の中心におられる現実です。この福音は、「世々にわたって長い間隠されていた･･･奥義の啓示」(25節中半)です。それは、異邦人、つまり諸国民は、イエス様にある信仰によって、ユダヤ人信者と変わらない同邦人である、という奥義です(エペソ3：6)。その良い知らせは「今や現され」(26節)、そして過ぎた時代には隠されていたのですが、「あらゆる国の人々」(26節)に対する奥義を現すため、パウロは旧約のまさに「預言者たちの書」(26節)そのものを用います。そしてこのあらゆる国の人々のための良い知らせのすべては、「永遠の神の命令」であり、「信仰の従順」(26節)を目指します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それらすべては25節の、神が信者を強めるために用いられる福音の、紐解きです。そうすれば彼らが信仰の従順において実際に屈せず、神の栄光に全注意を注ぐからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では今日注目するのは、パウロが最後の頌栄を述べる前に、この書の最後で神に栄光を帰そうと、神はあなたをご自身の福音によって強めてくださる、と言おうと決めたことです。神の栄光に目を向けるよう[私たちを]招くとき、彼は神が福音を信じる主の人々、つまりあなたを強められることにおいて、その栄光がよりきらびやかに輝くようにします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ご自身の栄光のために強められる神 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ここにはとても素晴らしいものがありますが、皆さんがそれを見落としてしまわないためにも、私はそれを通り過ごしたくありません。ですから再度、明白なものから先に述べ、そこまで明白ではないものをそこから引き出させてください。明白な事実は、神がご自身の栄光に注意を引き寄せるよう成されること、あるいは成されて来たことについて、はっきり言い切ることができることを、彼はこの一文、「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように」で強調しているということです。なぜ彼は、神は賢く、神は長い間何かを隠して来られ、あらゆる国の人々のためにその何かを現され、そして永遠の命令によってこれらすべてを成されたと言うのでしょうか?そうです。しかしパウロがこの頌栄を組み立てるそのやり方は、それらのすべてが、神は私たちを強めることがおできになる、というこのたった一つのことを支持し、説明するために備えられている、というものです。「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが明白な事実です。以下はそこまで明白ではありませんが、一度誰かが私たちの注意を引き寄せてくれたら非常に明瞭になることです。歴史上の数々の国王たちと今日の独裁者らの多くは栄光を得ようともくろみます。彼らは強く、富んでおり、賢いと思われたいと望みます。どのようにしてそれを達成してきたでしょうか?自分たちの国民を弱く、貧しく、無学にすることによってです。知識人は独裁者にとっては脅威です。富裕な中間層は独裁者にとっては脅威です。強い人々は独裁者の権力にとって脅威です。ということで、彼らは何をするでしょうか?彼らは自分の民を弱くさせておくことによって、自分の権力を確保するのです。衰弱した人々の背中に立つことによって、名誉を得るのです。ウズベキスタンのイスロム･カリモフ政権を見てみてください。他にも、強く富んでいる者になるために自分の民を弱くさせておく、小さな国王たちの数多くの例を挙げることができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 福音の力にある神の栄光 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで、パウロが神の栄光に注意を引く方法と対比させてください。もし反抗的人々の背中に乗ることによって自分の栄光を示す権利のある王がいるとすれば、それは神であられます。しかし主は何をなさるでしょうか?主はご自分の民を強めることによって、ご自身の栄光を示されます。「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように。」神はご自身の栄光を、福音であなたを強めることによって、高く掲げられます。神はあなたの強さに何の脅威も感じられません。事実、あなたがイエス･キリストの福音を通してその信仰と希望と愛において強くなればなるほど、主がますます偉大に見えるのです。神はご自身の民を弱くさせておくことによってご自分の権威を確保されません。ご自分の民を強めることによって、ご自身の力ある栄光を高められます。「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、パウロが神の栄光を福音の最終目標とするとき、また神の栄光の最高の価値に人々の注意をうながすことによって、自分の書き記した手紙の中で最も偉大な手紙を終わらせるとき、これは私たちにとって悪い知らせではありません。私たちがその栄光を自分のものにしようとしない限り、です。なぜこれは私たちにとって悪くない知らせなのでしょうか?それは神が、ご自身の価値なき民を強めることによって、ご自分の栄光に注意を引き寄せられるからです。神の栄光が素晴らしければ素晴らしいほど、私たちはますます強められます。神の栄光が多種多様で素晴らしいものであればあるほど、私たちの強さの源もますます多種多様で素晴らしいものになります。「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 福音のうちにある強さ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神が与えることがおできになる強さとは、どのような強さをパウロは言うのでしょうか?神はご自身が望まれるどのような強さもお与えになることができます。「私の神によって私は城壁を飛び越えます」(詩篇18:29)。しかしここでの強さは、ローマ1:11―2で言及されている力と同じものです。「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強く(stērikthēnai、16:25と同じ言葉)したいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」この強さの本質は、イエス･キリストにある信仰です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''福音のうちにある女性のための強さ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それはこの世が知らない、あるいは与えることのできない強さです。女性の皆さん、十代の女の子たち、強い女性と言うと、何を想像しますか?あるいは少女たち、強い女性へと成長したら、何をしたいですか?これをはっきりさせるのはとても重要です。なぜなら神はあなたに強くなって欲しいからです。そして、聖書と個人体験そのものが、あなたはある意味弱い器だと教えるからです(1ペテロ3:7)。この世の成人男性の95％は、肉体的に95％の成人女性より強いです。強い女性になったら、あなたは何をしたいと思うべきでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世は3つの方法で自分の強さを求めよと教えます。一つは色っぽくなり、色っぽい服装をし、色っぽく行動することによって、男はとてもだまされやすいので、男を支配することができます。他には自己主張が強い、強引で、攻撃的で、自信過剰な女性になることによってです。そして3つめに賢くなり、影響力のある経路を通して権力のある地位へと進むことによってです。それらすべての強さは、パウロが「あなたがたを堅く立たせることができるお方」と言う、彼が言っている強さではありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロには、ペテロが1ペテロ3:6で、「あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです」と女性にサラや古き時代の聖い女性たちのようになりなさいと言う、その内なる強さが念頭にあります。また箴言31:25で「彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ」と言われているような強さが、念頭にあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、女性の皆さん、若い女の子たち、全宇宙の王なる神の娘として、神にあって自分がどのような者であるか、主があなたのために何を成してくださったか、そしてイエス･キリストにおいて何を成してくださり、何となってくださるかの約束を堅く信じ、たとえ何が起ころうとも神以外の何ものをも恐れず、後の日を笑って待ち望む者になるよう、望んでください。はっきり言いますが、色気は必ず失われます。それによって得た男性は、あなたが望むような男性ではありません。自己主張は、あなたが一緒にいたいような人々を遠ざけます。力の世界は、草のようなものです。風が吹くと無くなってしまいます。しかし神が福音を通してお与えくださる強さは永遠です。「私の福音･･･によって、･･･あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、御栄えがとこしえまでありますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''福音のうちにある男性のための強さ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男性、そして少年たち、あなた方はどうでしょうか?強くなったら、何をしたいと望みますか？アルトイズの缶 &amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; を握って、「興味深いほど強い」と見られるようになりたいと思いますか？あるいは最高のスポーツ選手になりたいと思いますか？すごいやり手の株式仲買人になって、金の力を掌握したいですか？学識のある者になって、月刊アトランティックを読んで、NPRを聞いて、カクテルを飲んで会話しながら人々が口にもしないような名を口にしてみたいと思いますか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いいえ、愚か者だけが衰退する強さを欲しがります。愚か者だけが、あなたが強さを最も必要としているときにだけ与えることができるような力を欲しがります。神が福音を通してあなたにお与えになることができるような強さをお教えしましょう。それはデボーションであなたの奥さんと家族をリードする強さです。高学歴を持った人や、この世のエリート主義者たちに囲まれたとき、単純な真理のことばを言うことのできる強さです。周りの者すべてがあなたを弱いもの呼ばわりするとき、悪しき行いに対し一歩も引かないで、「ノー」と言う強さです。これ以上やる気がまったく起こらないときに、義と憐れみと真理のゆえに、すべての障害に立ち向かい続ける強さです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''福音のうちにあるすべての者のための強さ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は男性であれ女性であれ、現代文化の流れで二つの足でふらふら浮いている何万という道徳的くらげより、車椅子のあなたをはるかに強くすることができる、キリストにある信仰による魂の内にある力を持って、あなたがたのすべてを強くすることがおできになります。私たちが欲しいのは、全身麻痺になり、質問に瞬きでしか答えることができないようなときに、そこにあるような強さです。私たちはそれがどこから来るのかを知っています。「あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、･･･御栄えがとこしえまでありますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 私たちには福音の必要がなくなることがない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ書から7年間をかけて展開してきた、そしてもう4説教をかけて展開したい、最後の、とても重要な見解は、イエス様が来られるまですべての説教でそうしたいと祈りますが、神は福音を通して私たちを強められる、ということです。「私の福音･･･によって、･･･あなたがたを堅く立たせることができる方」。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福音の核心は、義なるお方イエス･キリストが、私たちの罪のために死なれ、よみがえられ、ご自身の敵すべてに対し永遠に勝利なさったと言うことです。ですから主を信じる者は罪に定められることがなく、永遠の喜びが与えられます。あなたは決して、決して、決して、福音の必要がなくなることはありません。あなたはクリスチャン人生をこれで始め、これを卒業して次の何かで強められるのではありません。神は私たちが死ぬまで、私たちを福音によって強めてくださるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 癌のための福音の力 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
終わりに私の個人的体験からたとえを紹介したいと思います。皆さんの多くが、より深く自分の強さを試されて、私よりも素晴らしい話を持っておられると思います。でも私が2月に癌を告知されたときに、神が私に成されたことを思い出してください。神は福音を持って私を強めてくださいました。主が用いられた聖書箇所を覚えておられるかと思います。そのどれも重要でないものは私にはありませんでした。1テサロニケ5:9―10、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス･キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、私のうちにあるものすべてが、最終診断の際にもそのように言えるよう願いますが、「私の福音･･･によって･･･あなたがたを堅く立たせることができる方･･･に、イエス･キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの神は、歴史の中で、罪とサタンと地獄と死に勝利するため、みわざを成しておられます。主はこれを、イエス･キリストの福音をとおして成されました。この福音をあなたの人生の最高の宝として受け入れてください。神はあなたを強めることによって、ご自身の栄光を高く掲げられます。 ____ &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; ESV訳に限りなく近いということで、新共同訳聖書、1987年版引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt; ミント、口臭予防剤 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 13 Feb 2018 21:14:35 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A5%9E%E3%81%AF%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%82%92%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%BC%B7%E3%82%81%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>聖い野心ーキリストの御名がまだ伝えられていないところで福音を宣べ伝える</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E8%81%96%E3%81%84%E9%87%8E%E5%BF%83%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%90%8D%E3%81%8C%E3%81%BE%E3%81%A0%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%A7%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%82%92%E5%AE%A3%E3%81%B9%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「聖い野心ーキリストの御名がまだ伝えられていないところで福音を宣べ伝える」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Holy Ambition: To Preach Where Christ Has Not Been Named}}&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうとなどとはしません。キリストは、ことばと行いにより、19また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。20このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。21それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」22そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、23今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを多年きぼうしていましたので24ーというのは、途中あなたがたに会い、まず、しばらくの間あなたがたとともにいて心を満たされてから、あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです、ー &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この聖書箇所から私たちが注目すべきだと思うものが３つあります。それらすべてに、(あなたが気がついていなくとも)あなたの人生に直接適用できるものがあり、それらすべてがこの21世紀に、神とその目的に直接関係しています。まず第一に、私に見えるのは、聖い野心です。二つ目に、絶大な必要。三つ目に世界的規模の戦略です。ですからその一つ一つがそれぞれどのように関連しているのか、また私たちそして私たちの住む今日の世界とどのように関係するのかを、一つ一つ見て行きましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 聖い野心 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
20節、「このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを''切に求めた''のです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは聖い野心に支配されていました。私が「支配されていた」と言うのは、パウロ自身が22節で、「そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、」と言うからです。また23節の後半で、「あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので」と言います。あることをしたいと何年も何年も望んでいながらそれをしないというのは、それは何かがあなたを支配しているからです。パウロを支配しローマに行くことを妨げていたのは、エルサレムからイルリコまでの地域の彼の野心が完了していないことでした。しかし最終的に彼は、23節で、「あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので」と言います。そして24節、「(イスパニヤに行く場合は)途中あなたがたに会い･･･と望んでいるからです」とも言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えると、パウロはエルサレムからイルリコまで(今日のアルバニア)、イエス様の御名をまだ聞いていない人々に福音を宣べ伝えたいという野心に支配されており、またこの野心が満たされるまで断念しないつもりでいました。しかしそれらの地域での働きを終え、彼の野心はイスパニヤへと移ります。それで彼は長年やりたいと思っていたこと、つまり、ローマの教会を訪れ、少しの間信徒らとの交わりを楽しみたい、と言うことがとうとうできるようになったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖い野心に支配されるのは良いことです。あなたは聖い野心に支配されていますか?私はこの野心を「聖い」と呼んでいますが、それはその目標、つまり、イエス様の御名を聞いたことのないあらゆる国の民が主を信じ、主に従うようになり、自分の罪と神のみ怒りから主によって救われる、という目標が聖いからです。そして私がこの野心を「聖い」と呼ぶのは、私たちはそれを次に見ていきますが、それが神ご自身と主の聖いみことばから来ているからです。聖い野心に支配されることは正しいことで、良いことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたには聖い野心がありますか?すべての人がパウロの野心を持つ必要はありません。種をまく人もいれば、水やりをする人もいます(1コリント3:6―8)。それぞれが違う賜物を持っています(1コリント7:7)。それぞれが主人の前に立ち、あるいは倒れます(ローマ14:4)。でももし神の子どもたちの一人一人が聖い野心を抱くと、神はそれをお喜びになると思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''少年少女のための聖い野心''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
子どもたち、しばらく私に注意して耳を傾けてください。「聖い野心」という言葉は普通でない言葉で、毎日の生活の中で私たちが使わない言葉です。「聖い野心」というのは、神があなたにやって欲しいと思われることを、あなたが''本当に''やりたい、と思うことです。あなたが他に本当にやりたいと思うことができないほど、それをやりたいと思うことです。パウロは何年もローマに行きたいと思っていました。でも他にやりたいことがあったので、それをしなかったのです。パウロはイエス様を知らない人々がいるアジアとギリシャで福音を宣べ伝えたいと思っていました。それをとっても、とっても、とってもしたかったのです。そのような欲を、「野心」と呼びます。そしてそれが神があなたにして欲しいと思われることであるとき、「聖い野心」と呼びます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたには「聖い野心」がありますか?恐らくまだないでしょう。まだ子どもですから。それは当然です。でもいつかあなたは子どもでなくなります。子どもであることと大人であることの違いの一つは、クリスチャンとしての大人と言うのは、聖い野心を抱きます。大抵の女の子は、私の娘のタリタも含めて、人形が欲しいか人形と遊びたいです。それは良いことです。でも女の子たち、人形で遊ぶ楽しみをやめ、本当の赤ん坊を子供部屋で世話する、より大きな、もっと喜びにあふれることをするように成長します。そして遠いところにいるお腹を空かせた、ママもパパもいない子どもたちを世話する奉仕に就く日がいつか来るかも知れません。それが聖い野心になる人も中にはいるでしょう。別の何かが聖い野心になる人もいます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして男の子たち、聞いてください。もし私のようであるなら、君が本当に欲しいのは、ボールやトラックや拳銃、遊び友達です。私は本物の銃を手にしたことはありません(空気ライフルを手にしたことはあります)。でも自分のマット･ディランのピストルや、ルーカス･マケインのような手元が円になっているライフルで、悪い奴らを沢山打ち負かしたことがあります。友達とフットボールをしたり、自分のおもちゃのトラックで道路を掘ったり、人が気づかないほどの速さで拳銃を描いたりするのが大好きでした。楽しかったです。それは良いことでした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもいつの日か、君は男の子ではなくなります。男の子であることと大人であることの違いの一つは、 クリスチャンとしての大人と言うのは、聖い野心を抱きます。それは、銃やトラックやボールの楽しみが小さくなり、正義と救いのために闘う喜びが大きくなることを意味します。大人になるということは、みことばの剣を巧みに操り、トラック一杯に積まれた愛を、それを必要とする人たちのところに届けるために出かけて行き、イエス様の御名によってサタンの尻を蹴飛ばす聖い野心を抱くことを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お父さんお母さん、独身の皆さん、若い人、年配の方々、クリスチャンは聖い野心を抱かなければなりません。神の栄光のために本当に、本当にやりたい何かです。あなたを支配する何かです。ローマに行かないでおこうと決心させてくれます。あなたの人生に永遠に続く焦点と情熱を与えてくれます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''聖い野心の源''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それはどこから来るのでしょうか?その答えの重要な部分は20節と21節の間のつながりにあります。「このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。それは、こう書いてあるとおりです。[パウロはイザヤ52:15を引用します]『彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、これが驚くべことで、私たちに関係のあることです。使徒9、22、26章から、私たちはパウロがダマスコに行く途上でよみがえりのキリストによって召されたことを知っています。使徒26:18で、イエス様はパウロにご自身の宣教をお与えになり、「わたしは･･･あなたを･･･彼ら[異邦人、民]のところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」と言われます。ですからパウロは異邦人に対する光となるため、よみがえりの、生ける、すべての者の主権者であられるイエス･キリストから直接召されたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしそれがローマ15:21でパウロが言うことではありません。彼は「イエス様がダマスコの途上で私を召されたので、私には国民に光となるという、この野心がある」とは言いません。彼は、「私は、キリストの御名がまだ伝えられていないところで福音を宣べ伝えたいという情熱に支配されており、その野心があります。それは、イザヤ52:15で、『彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。』と言われているからです」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここから何が言えるでしょうか?こう言えます。イエス様がダマスコの途上で、パウロに福音をまだ聞いたことのない異邦人に語りなさいと召されたとき、パウロはそれを確認するため、またこの召しが神の全体のご計画の中でどのようにかみ合うのかを解釈するため、旧約聖書を開きました。そして見つけたのです。そして私たちのために彼はこのような言い方をします。彼は自分のダマスコの途上での体験、私たちがすることのないような体験を、述べるだけではありません。私たちにもその体験がある、と神の記されたみことばを引用するのです。そして自分の野心をそこに根付かせます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから「''あなたの聖い野心はどこから来るのか''?」と言う質問に対する私の答えは、それは神の書き記されたみことばによって形作られ、告げられ、力づけられた、生けるキリストとの個人的出会い(ダマスコの途上のようにドラマチックである必要はありません)から来る、です。主のおきてを昼も夜も思ううちに、神のみことばにどっぷりと浸かるうちに、主が来られそのみことばの真理を、それが聖い野心となるまであなたの心に燃やして下さいます。それがまだあなたのうちに起こっていなかったら、神のみことばで頭をいっぱいにし、主にそれを求めてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. はかり知れない必要 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神はつかみ所のない野心、つまり、人生の終わりに来て私たちが悔いるような野心に、私たちを導かれることはありません。そこには聖い野心によって満たされなければならない必要、神の必要ではなく、この世の必要が、絶えずあります。聖い野心とは、自己高揚のことではありません。それは絶えず愛の型をしています。常に人の必要を満たします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、パウロがこの聖書箇所で言うところのはかり知れない必要とは、一体何でしょうか。20節、「このように、･･･キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。」つまり、パウロはキリストのことを聞いたことのない人たちに福音を宣べ伝えることに、毅然たる態度を取ったのです。それらの人々はキリストの御名さえ聞いたことがありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''国民には弁解の余地がない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、以下は質問です。もしこれらの人々がイエス様の御名を聞いたことさえないのであれば、彼らは救われ得るために主を信じる責任があるのでしょうか?もし責任がないのであれば、彼らを無知のままにしておき、神が彼らに憐れみをかけてくださると、イエス様のことを聞いたことがないので、彼らは救われるだろうと信じたほうが安全なのではないでしょうか?パウロさん、どうしてイエス様の御名を聞いたことがない人々に福音を語るためそんなに苦しむの? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはローマ1:18―23で答えます。私と一緒にゆっくりと、厳粛に読んで、パウロが語るその重みを感じてください。これらはイエス様の御名を一度も聞いたことがない人々や国民について書かれた言葉で、パウロを語りたいと駆り立てる、聖い野心です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。19それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。20神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、''彼らに弁解の余地はないのです''。[これはパウロが理解するところの、イエス様のことを聞いたことがない国民は、さばきの日には言い訳のしようがないと言う、はかり知れない必要性を定義する、致命的ことばです。]21それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。22彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、23不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはローマ2:12で、「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます」と言います。すべての者がそれぞれ利用したものに従ってさばかれるのです。福音を耳にしなかった者もすべて滅びます。それは、すべての者が実際に持っている真理をはばみ、神に反抗して生きているからです。希望はたった一つです。それはイエス･キリストの福音を聞き、信じることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様の御名を知らない国民の必要は、はかり知れない必要です。それは無限の必要です。イエス･キリストの福音を聞き、信じるという国民の必要は、すべての必要の中で最も大きな必要です。それはイエス様の福音こそ、「ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)そしてその福音以外に救われる者は誰もいません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皆さんのすべてがパウロのように出て行くよう召されているわけではありません。でも自分の人生がこの必要を満たすものと見なされたいと思わないのに、愛のある人にはなれません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 世界的規模の戦略 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも中にはパウロに加わって、個人的に、職業としてこの特殊な世界的規模の戦略に神によって召されている人もいます。以下が戦略です。それは驚くべきものです。もしあなたがベツレヘム教会に来たばかりでしたら、私たちがどのように宣教を理解しているかに注意して耳を傾けて下さい。以下がパウロの驚くべき発言です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず19節後半、「私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。」それはエルサレムからシリアに北上し、小アジア(トルコ)を横切り、ギリシャまで下って東へ進み、そして現在のアルバニアがある北イタリアの西側まで北上するものです。パウロはそこまで福音をくまなく宣べ伝えたと言います。そして23節の驚くべき発言を、「今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりました」と言うことによって、強調します。それから24節で、「イスパニアに行きます」と言うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エルサレムからイルリコまで自分の働く場所がなくなったとは、一体全体どういう意味でしょうか?それらの地域で福音を聞く必要のある人たちがまだ何万といる、と言っても危なくはありません。パウロがエペソ(まさに前述の地域)でテモテに手紙を書き、彼に「伝道者として働」く(2テモテ4:5)よう命じていることからも、私たちはそれを知っています。言い換えると、福音を聞く必要のある人々がそこにはいる、と言うことです。にも関わらずパウロは自分の働く場所がこの地域にはなくなったと言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはそれを、パウロは現地の伝道者ではなく、最先を行く宣教師、開拓宣教師であると理解します。つまり、彼の召しと彼の野心は、教会のすでに建てられたところで福音を伝えることではないのです。教会がそれをすべきです。パウロの召しと野心は、福音を伝える教会のないところで福音を宣べ伝えることです。クリスチャンがそこにはいないのです。クリスチャンと言う名前すら知らないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''宣教、伝道、そして聖い野心''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
用語が重要なのではありません。重要なのは違いです。最先を行く、あるいは先駆者である宣教師がおり、そして伝道者がいます。宣教師とは文化を超え、言葉を学びます。そして''最先を行く''宣教師たちは、王の王、この世の救い主を知らない人々を覆う、何千年もの暗闇とサタンの支配を打ち破るため、「みことばと行ないにより、しるしと不思議の力により、神の御霊の力により」、自分のいのちを注ぎ出します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これがパウロの野心でした。そしてすべての国民を弟子とするという大宣教命令はまだ期限が切れておらず、福音を知らない人々が今日もいるので、すべての教会が最先端を行く宣教師を沢山起こされ、私たちのすべてを伝道者にしてくださるよう祈るべきです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10年後、誰か、もしかすると皆さんのうちの10人が、未踏の民族がいるところから手紙を送ってきて、「ローマ15:20に『私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです」と書いてあるように、私は福音を一度も聞いたことがない人々に語り伝えるため、ここにいます。神がそのみことばを私の心のうちに燃やされ、ベツレヘム･バプテスト教会の聖い野心へと書いて下さいますように。2006年8月。」と言うのが想像できますし、またそのように祈ります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主よ、どうぞそれを成して下さい。アーメン。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
____ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 13 Feb 2018 20:12:51 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E8%81%96%E3%81%84%E9%87%8E%E5%BF%83%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%90%8D%E3%81%8C%E3%81%BE%E3%81%A0%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%A7%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%82%92%E5%AE%A3%E3%81%B9%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>聖い野心ーキリストの御名がまだ伝えられていないところで福音を宣べ伝える</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E8%81%96%E3%81%84%E9%87%8E%E5%BF%83%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%90%8D%E3%81%8C%E3%81%BE%E3%81%A0%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%A7%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%82%92%E5%AE%A3%E3%81%B9%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|Holy Ambition: To Preach Where Christ Has Not Been Named}}&amp;lt;br&amp;gt;   &amp;amp;gt; 私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げ...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Holy Ambition: To Preach Where Christ Has Not Been Named}}&amp;lt;br&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうとなどとはしません。キリストは、ことばと行いにより、19また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。20このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。21それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」22そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、23今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを多年きぼうしていましたので24ーというのは、途中あなたがたに会い、まず、しばらくの間あなたがたとともにいて心を満たされてから、あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです、ー &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この聖書箇所から私たちが注目すべきだと思うものが３つあります。それらすべてに、(あなたが気がついていなくとも)あなたの人生に直接適用できるものがあり、それらすべてがこの21世紀に、神とその目的に直接関係しています。まず第一に、私に見えるのは、聖い野心です。二つ目に、絶大な必要。三つ目に世界的規模の戦略です。ですからその一つ一つがそれぞれどのように関連しているのか、また私たちそして私たちの住む今日の世界とどのように関係するのかを、一つ一つ見て行きましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 聖い野心 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
20節、「このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを''切に求めた''のです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは聖い野心に支配されていました。私が「支配されていた」と言うのは、パウロ自身が22節で、「そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、」と言うからです。また23節の後半で、「あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので」と言います。あることをしたいと何年も何年も望んでいながらそれをしないというのは、それは何かがあなたを支配しているからです。パウロを支配しローマに行くことを妨げていたのは、エルサレムからイルリコまでの地域の彼の野心が完了していないことでした。しかし最終的に彼は、23節で、「あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので」と言います。そして24節、「(イスパニヤに行く場合は)途中あなたがたに会い･･･と望んでいるからです」とも言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えると、パウロはエルサレムからイルリコまで(今日のアルバニア)、イエス様の御名をまだ聞いていない人々に福音を宣べ伝えたいという野心に支配されており、またこの野心が満たされるまで断念しないつもりでいました。しかしそれらの地域での働きを終え、彼の野心はイスパニヤへと移ります。それで彼は長年やりたいと思っていたこと、つまり、ローマの教会を訪れ、少しの間信徒らとの交わりを楽しみたい、と言うことがとうとうできるようになったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖い野心に支配されるのは良いことです。あなたは聖い野心に支配されていますか?私はこの野心を「聖い」と呼んでいますが、それはその目標、つまり、イエス様の御名を聞いたことのないあらゆる国の民が主を信じ、主に従うようになり、自分の罪と神のみ怒りから主によって救われる、という目標が聖いからです。そして私がこの野心を「聖い」と呼ぶのは、私たちはそれを次に見ていきますが、それが神ご自身と主の聖いみことばから来ているからです。聖い野心に支配されることは正しいことで、良いことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたには聖い野心がありますか?すべての人がパウロの野心を持つ必要はありません。種をまく人もいれば、水やりをする人もいます(1コリント3:6―8)。それぞれが違う賜物を持っています(1コリント7:7)。それぞれが主人の前に立ち、あるいは倒れます(ローマ14:4)。でももし神の子どもたちの一人一人が聖い野心を抱くと、神はそれをお喜びになると思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''少年少女のための聖い野心''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
子どもたち、しばらく私に注意して耳を傾けてください。「聖い野心」という言葉は普通でない言葉で、毎日の生活の中で私たちが使わない言葉です。「聖い野心」というのは、神があなたにやって欲しいと思われることを、あなたが''本当に''やりたい、と思うことです。あなたが他に本当にやりたいと思うことができないほど、それをやりたいと思うことです。パウロは何年もローマに行きたいと思っていました。でも他にやりたいことがあったので、それをしなかったのです。パウロはイエス様を知らない人々がいるアジアとギリシャで福音を宣べ伝えたいと思っていました。それをとっても、とっても、とってもしたかったのです。そのような欲を、「野心」と呼びます。そしてそれが神があなたにして欲しいと思われることであるとき、「聖い野心」と呼びます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたには「聖い野心」がありますか?恐らくまだないでしょう。まだ子どもですから。それは当然です。でもいつかあなたは子どもでなくなります。子どもであることと大人であることの違いの一つは、クリスチャンとしての大人と言うのは、聖い野心を抱きます。大抵の女の子は、私の娘のタリタも含めて、人形が欲しいか人形と遊びたいです。それは良いことです。でも女の子たち、人形で遊ぶ楽しみをやめ、本当の赤ん坊を子供部屋で世話する、より大きな、もっと喜びにあふれることをするように成長します。そして遠いところにいるお腹を空かせた、ママもパパもいない子どもたちを世話する奉仕に就く日がいつか来るかも知れません。それが聖い野心になる人も中にはいるでしょう。別の何かが聖い野心になる人もいます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして男の子たち、聞いてください。もし私のようであるなら、君が本当に欲しいのは、ボールやトラックや拳銃、遊び友達です。私は本物の銃を手にしたことはありません(空気ライフルを手にしたことはあります)。でも自分のマット･ディランのピストルや、ルーカス･マケインのような手元が円になっているライフルで、悪い奴らを沢山打ち負かしたことがあります。友達とフットボールをしたり、自分のおもちゃのトラックで道路を掘ったり、人が気づかないほどの速さで拳銃を描いたりするのが大好きでした。楽しかったです。それは良いことでした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもいつの日か、君は男の子ではなくなります。男の子であることと大人であることの違いの一つは、 クリスチャンとしての大人と言うのは、聖い野心を抱きます。それは、銃やトラックやボールの楽しみが小さくなり、正義と救いのために闘う喜びが大きくなることを意味します。大人になるということは、みことばの剣を巧みに操り、トラック一杯に積まれた愛を、それを必要とする人たちのところに届けるために出かけて行き、イエス様の御名によってサタンの尻を蹴飛ばす聖い野心を抱くことを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お父さんお母さん、独身の皆さん、若い人、年配の方々、クリスチャンは聖い野心を抱かなければなりません。神の栄光のために本当に、本当にやりたい何かです。あなたを支配する何かです。ローマに行かないでおこうと決心させてくれます。あなたの人生に永遠に続く焦点と情熱を与えてくれます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''聖い野心の源''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それはどこから来るのでしょうか?その答えの重要な部分は20節と21節の間のつながりにあります。「このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。それは、こう書いてあるとおりです。[パウロはイザヤ52:15を引用します]『彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、これが驚くべことで、私たちに関係のあることです。使徒9、22、26章から、私たちはパウロがダマスコに行く途上でよみがえりのキリストによって召されたことを知っています。使徒26:18で、イエス様はパウロにご自身の宣教をお与えになり、「わたしは･･･あなたを･･･彼ら[異邦人、民]のところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」と言われます。ですからパウロは異邦人に対する光となるため、よみがえりの、生ける、すべての者の主権者であられるイエス･キリストから直接召されたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしそれがローマ15:21でパウロが言うことではありません。彼は「イエス様がダマスコの途上で私を召されたので、私には国民に光となるという、この野心がある」とは言いません。彼は、「私は、キリストの御名がまだ伝えられていないところで福音を宣べ伝えたいという情熱に支配されており、その野心があります。それは、イザヤ52:15で、『彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。』と言われているからです」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここから何が言えるでしょうか?こう言えます。イエス様がダマスコの途上で、パウロに福音をまだ聞いたことのない異邦人に語りなさいと召されたとき、パウロはそれを確認するため、またこの召しが神の全体のご計画の中でどのようにかみ合うのかを解釈するため、旧約聖書を開きました。そして見つけたのです。そして私たちのために彼はこのような言い方をします。彼は自分のダマスコの途上での体験、私たちがすることのないような体験を、述べるだけではありません。私たちにもその体験がある、と神の記されたみことばを引用するのです。そして自分の野心をそこに根付かせます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから「''あなたの聖い野心はどこから来るのか''?」と言う質問に対する私の答えは、それは神の書き記されたみことばによって形作られ、告げられ、力づけられた、生けるキリストとの個人的出会い(ダマスコの途上のようにドラマチックである必要はありません)から来る、です。主のおきてを昼も夜も思ううちに、神のみことばにどっぷりと浸かるうちに、主が来られそのみことばの真理を、それが聖い野心となるまであなたの心に燃やして下さいます。それがまだあなたのうちに起こっていなかったら、神のみことばで頭をいっぱいにし、主にそれを求めてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. はかり知れない必要 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神はつかみ所のない野心、つまり、人生の終わりに来て私たちが悔いるような野心に、私たちを導かれることはありません。そこには聖い野心によって満たされなければならない必要、神の必要ではなく、この世の必要が、絶えずあります。聖い野心とは、自己高揚のことではありません。それは絶えず愛の型をしています。常に人の必要を満たします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、パウロがこの聖書箇所で言うところのはかり知れない必要とは、一体何でしょうか。20節、「このように、･･･キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。」つまり、パウロはキリストのことを聞いたことのない人たちに福音を宣べ伝えることに、毅然たる態度を取ったのです。それらの人々はキリストの御名さえ聞いたことがありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''国民には弁解の余地がない''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、以下は質問です。もしこれらの人々がイエス様の御名を聞いたことさえないのであれば、彼らは救われ得るために主を信じる責任があるのでしょうか?もし責任がないのであれば、彼らを無知のままにしておき、神が彼らに憐れみをかけてくださると、イエス様のことを聞いたことがないので、彼らは救われるだろうと信じたほうが安全なのではないでしょうか?パウロさん、どうしてイエス様の御名を聞いたことがない人々に福音を語るためそんなに苦しむの? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはローマ1:18―23で答えます。私と一緒にゆっくりと、厳粛に読んで、パウロが語るその重みを感じてください。これらはイエス様の御名を一度も聞いたことがない人々や国民について書かれた言葉で、パウロを語りたいと駆り立てる、聖い野心です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。19それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。20神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、''彼らに弁解の余地はないのです''。[これはパウロが理解するところの、イエス様のことを聞いたことがない国民は、さばきの日には言い訳のしようがないと言う、はかり知れない必要性を定義する、致命的ことばです。]21それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。22彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、23不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはローマ2:12で、「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます」と言います。すべての者がそれぞれ利用したものに従ってさばかれるのです。福音を耳にしなかった者もすべて滅びます。それは、すべての者が実際に持っている真理をはばみ、神に反抗して生きているからです。希望はたった一つです。それはイエス･キリストの福音を聞き、信じることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様の御名を知らない国民の必要は、はかり知れない必要です。それは無限の必要です。イエス･キリストの福音を聞き、信じるという国民の必要は、すべての必要の中で最も大きな必要です。それはイエス様の福音こそ、「ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)そしてその福音以外に救われる者は誰もいません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皆さんのすべてがパウロのように出て行くよう召されているわけではありません。でも自分の人生がこの必要を満たすものと見なされたいと思わないのに、愛のある人にはなれません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 世界的規模の戦略 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも中にはパウロに加わって、個人的に、職業としてこの特殊な世界的規模の戦略に神によって召されている人もいます。以下が戦略です。それは驚くべきものです。もしあなたがベツレヘム教会に来たばかりでしたら、私たちがどのように宣教を理解しているかに注意して耳を傾けて下さい。以下がパウロの驚くべき発言です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず19節後半、「私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。」それはエルサレムからシリアに北上し、小アジア(トルコ)を横切り、ギリシャまで下って東へ進み、そして現在のアルバニアがある北イタリアの西側まで北上するものです。パウロはそこまで福音をくまなく宣べ伝えたと言います。そして23節の驚くべき発言を、「今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりました」と言うことによって、強調します。それから24節で、「イスパニアに行きます」と言うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エルサレムからイルリコまで自分の働く場所がなくなったとは、一体全体どういう意味でしょうか?それらの地域で福音を聞く必要のある人たちがまだ何万といる、と言っても危なくはありません。パウロがエペソ(まさに前述の地域)でテモテに手紙を書き、彼に「伝道者として働」く(2テモテ4:5)よう命じていることからも、私たちはそれを知っています。言い換えると、福音を聞く必要のある人々がそこにはいる、と言うことです。にも関わらずパウロは自分の働く場所がこの地域にはなくなったと言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちはそれを、パウロは現地の伝道者ではなく、最先を行く宣教師、開拓宣教師であると理解します。つまり、彼の召しと彼の野心は、教会のすでに建てられたところで福音を伝えることではないのです。教会がそれをすべきです。パウロの召しと野心は、福音を伝える教会のないところで福音を宣べ伝えることです。クリスチャンがそこにはいないのです。クリスチャンと言う名前すら知らないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''宣教、伝道、そして聖い野心''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
用語が重要なのではありません。重要なのは違いです。最先を行く、あるいは先駆者である宣教師がおり、そして伝道者がいます。宣教師とは文化を超え、言葉を学びます。そして''最先を行く''宣教師たちは、王の王、この世の救い主を知らない人々を覆う、何千年もの暗闇とサタンの支配を打ち破るため、「みことばと行ないにより、しるしと不思議の力により、神の御霊の力により」、自分のいのちを注ぎ出します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これがパウロの野心でした。そしてすべての国民を弟子とするという大宣教命令はまだ期限が切れておらず、福音を知らない人々が今日もいるので、すべての教会が最先端を行く宣教師を沢山起こされ、私たちのすべてを伝道者にしてくださるよう祈るべきです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10年後、誰か、もしかすると皆さんのうちの10人が、未踏の民族がいるところから手紙を送ってきて、「ローマ15:20に『私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです」と書いてあるように、私は福音を一度も聞いたことがない人々に語り伝えるため、ここにいます。神がそのみことばを私の心のうちに燃やされ、ベツレヘム･バプテスト教会の聖い野心へと書いて下さいますように。2006年8月。」と言うのが想像できますし、またそのように祈ります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主よ、どうぞそれを成して下さい。アーメン。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
____ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 13 Feb 2018 20:11:21 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E8%81%96%E3%81%84%E9%87%8E%E5%BF%83%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%90%8D%E3%81%8C%E3%81%BE%E3%81%A0%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%A7%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%82%92%E5%AE%A3%E3%81%B9%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>なぜ、そしてどのようにして私たちは主の晩餐を執り行うのか</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E4%B8%BB%E3%81%AE%E6%99%A9%E9%A4%90%E3%82%92%E5%9F%B7%E3%82%8A%E8%A1%8C%E3%81%86%E3%81%AE%E3%81%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「なぜ、そしてどのようにして私たちは主の晩餐を執り行うのか」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Why and How We Celebrate the Lord's Supper}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。18 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。19 というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。20 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。27したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。33　ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。34　空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
来週ローマ書に (主のお許しがあれば)戻る前に、主の晩餐を聖書の文脈に置き、なぜ、そしてどのようにして私たちはこの聖餐式を守るかということに注目するのがいいだろうと、私は思いました。ですから今日は最初にメッセージをし、それからその説教をもって主の晩餐に移行します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの人生と私たちの教会の絶対的基盤である聖書の次に、私たちの教会の一生にとって最も大切な文書の一つは、『''ベツレヘムバプテスト教会の長老たちによる信仰告白''』です。皆さん全員がそれを読むようおすすめします。教会のウェブサイトや、デザイアリング・ゴッドのウェブサイトでも閲覧することができます。12.4項には主の晩餐について私たちが何を信じ、教えているかについての教理のまとめがあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ''私たちは主の晩餐が、集められた信者たちが、キリストの民のためにささげられた主のみからだを表すパンを食し、キリストの血潮のうちにある新契約を表す主の杯を飲む、主のご命令であることを信じます。私たちは主を覚えてこれにあずかり、このようにして主の来られるときまで主の死を告げ知らせます。物理的にではなく、霊的にキリストのみからだと血にふさわしいままであずかる者は、それによって、信仰により、主がご自身の死によって買い取られた益で養われ、そのようにして恵みのうちに成長するのです。'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この主の晩餐の理解の聖書的根拠を、6つの項目、1)歴史的起源、2)信者の参加、3)物理的行ない、4)精神的行ない、5)霊的行ない、そして6)侵すべからず深刻さ、に分けて説明したいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 主の晩餐の歴史的起源 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マタイによる福音書(26:26以下)、マルコ(14:22以下)、そしてルカ(22:14以下)のすべてが、イエス様が死なれる夜弟子たちと共にされた主の晩餐を、報じています。それぞれ、イエス様が感謝をささげられ、あるいはパンと杯を祝福され、弟子たちに渡されてこのパンは主のみからだであり、杯は契約の血、あるいは主の血における新しい契約であると、表現します。ルカ22:19でイエス様は、「わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われます。ヨハネの福音書では飲み食いは記録されていませんが、その夜をあふれんばかりに満たした主の教えとみわざを報じています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最も古い記録から私たちが言えるのは、教会はイエス様が言われた通りした、ということです。つまり、イエス様とその死を覚えて、彼らは晩餐を再現したのです。パウロの書簡が私たちの手元にある最も古い証言で、1コリント11:20で、彼は教会の一生における行事を、「主の晩餐」と呼んでいます。それが「主の晩餐」と呼ばれるのは、恐らくそれが主イエスによって定められた、あるいは命じられたもので、まさにそれそのものが、主の死を覚えて執り行われるものだからです。パウロは1コリント11:23―24で、「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』」と言います。「わたしは主から受けたことを･･･」とは、他の者たちが実際に起こったと報じる最後の晩餐を、恐らく主ご自身が、(他の使徒達のように最後の晩餐の席にいなかった)パウロに、お認めになったということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから主の晩餐の起源は、イエス様が十字架にかけられる前夜に、弟子たちと共に食されたその最後の夕食です。その行為と意味はすべてその夜、イエス様が言われ、成されたことに根付いています。イエス様ご自身が主の晩餐の起源であられます。主がそれを続けるよう命じられました。そして主がその焦点であり、中身であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. 主の晩餐にあずかる信者 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の晩餐とは、イエス様を信じる者たちの集まりである家族、教会の行為です。それは未信者のための行為ではありません。未信者がそこにはいるかも知れません。実際、彼らが立ち会うのを私たちは歓迎します。主の晩餐には何の隠し事もありません。公の場でなされます。公の意味がそれにはあります。極秘の、魔術を用いたカルト的儀式ではありません。集められた教会による公の礼拝の行為です。事実、1コリント11:26でパウロは、「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を''告げ知らせる''のです」と言います。ですのでこの晩餐には公表という側面があるのです。プライベートではなく、告げ知らせると言うところが、語調を強めるところです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
老人ホームや病院にいる人が主の晩餐にあずかることを禁じはしませんが、そのような個々人での執行は例外で、聖書的規範ではありません。1コリント11章でパウロは、主の晩餐にあずかるのは、教会が「集まる」ときであると5回言います。17節後半、「あなたがたの''集まり''が益にならないで、かえって害になっているからです。」18節、「まず第一に、あなたがたが教会の''集まり''をするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。」20節、「あなたがたはいっしょに''集まって''も、それは主の晩餐を食べるためではありません。」33節、「食事に''集まる''ときは、互いに待ち合わせなさい。」34節、「空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが''集まる''ことによって、さばきを受けないためです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、彼らは主の晩餐を自分たちの毎日の夕飯と関連させすぎて、風儀を乱しており、食べる料理が沢山あった人もいれば、何もなかった人もいたのです。そのため自分の家で夕飯を食べた後、主の晩餐にあずかるため集まりなさい、と彼は言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして18節の「教会」という言葉に注目してください。「あなたがたが''教会''の集まりをするとき」。これがキリストのからだ、イエス様に従う者たちの集まりです。偶像礼拝を離れ、イエス様にのみ自分の罪の赦し、永遠のいのちの望み、そして自分の魂の充足を信じる者たちです。それがクリスチャンです。ですので主の晩餐にあずかるのは、イエス様に信仰をおく、集められた者たちです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 主の晩餐の物理的行ない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の晩餐の物理的行為は、７コースの料理の消費ではありません。それはとてもシンプルなものです。パンを食べることと、杯を飲むことです。23節後半―25節、「主イエスは、･･･パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どのようなパンで、どのように裂くのかについては特筆されていません。たった一つ、マタイ、マルコ、ルカの一節で杯の中に何が入っているのか、ということだけ述べられています。「ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マタイ26:29。マルコ14:25、ルカ22:18も参照)。というわけで、それは「ぶどうの実で造った物」と呼ばれています。単なるグレープジュースが、あるいはワインが使われていると、大騒ぎするべきではないと思います。この箇所ではいっさい、どちらを用いるよう命じたり、禁じられたりしてはいません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが気にしなければならないのは、ふざけた代用品、例えばキャンプファイアの周りのベーグルですとか、コカ・コーラとかです。主の晩餐は遊びではありません。私たちは重い感覚をもってそれを執り行わなければなりません。それについてすぐに話したいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここを通過するにあたって、新約聖書ではこの主の晩餐の頻度についてもいっさい語っていない、ということにも触れておきたいと思います。中には毎週やったほうがいいという人もいますし、3ヶ月に一度やる人たちもいます。私たちはその中間で、一般的に毎月第一日曜日に執り行っています。これについて私たちは縛られておらず、問題は、1)いかに頻繁にあるいは希にやることが、神のみことばのミニストリーとの関わりで、その適度な重要性と一致するか?そして、2)いかに頻繁にあるいは希にやることが、それに対して無感覚にならずして、その価値を私たちが感じることができるか?というもののどちらかになると思います。それらは簡単に判断できることではなく、それぞれの教会がそれぞれで判断します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4. 主の晩餐の精神的行ない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の晩餐に参加する者の精神的行ないとは、イエス様、特に私たちの罪のために死なれた主の歴史的みわざに、思いを集中させることです。24と25節、「わたしを''覚えて''、これを行いなさい。」物理的な飲み食いという行為をするにあたって、私たちは覚えるという精神的行為をするべきです。すなわち、イエス様がかつて生きられたそのご人格と、イエス様が死なれそしてよみがえられたそのみわざ、そして私たちの罪の赦しのために成されたみわざが表すその意味を、私たちは意識的に思い浮かべるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の晩餐は、キリスト教がニューエイジ的宗教ではないということを、はっきりと何度も何度も思い出させます。それは自分の内なるものと交信することではありません。神秘主義ではありません。史実に基づいたものです。イエス様は実在されました。主には体と血液を循環させた心と、血が出る皮膚がおありになりました。主を信じる者は誰でも神のみ怒りから救われるように、罪人の身代わりとなって、ローマの十字架刑で公に死なれました。それは歴史上一度だけ起こった出来事です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、主の晩餐の精神的行いは、基本的に覚えることです。想像することではありません。分析することではありません。聞くことではありません。瞑想にふけることではありません。それはイエス様と、聖書から私たちが知っている主の、その歴史に意識的に思いを寄せることです。パンと杯。みからだと血。処刑と死、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 5.主の晩餐の霊的行ない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは非常に重要です。それは未信者も、私がこれまで説明してきたことすべてを成すことができるからです。実際、もし悪魔が人となることができるのであれば、彼もそれをすることができます。食べて、飲んで、覚える。本質的に霊的なものはいっさいありません。ですから主の晩餐がイエス様が言われるとおりのものであるためには、食べて、飲んで、覚える以上の何かが起こらなければなりません。未信者と悪魔が成し得ない何か、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『''長老たちによる信仰告白''』から鍵となる文章をもう一度読み、それからそれが聖書のどこから来ているのかをお見せしましょう。「''物理的にではなく、霊的にキリストのみからだと血にふさわしいままであずかる者は、それによって、信仰により、主がご自身の死によって買い取られた益で養われ、そのようにして恵みのうちに成長するのです。''」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この「霊的にキリストのみからだと血に･･･あずかる者は、･･･信仰によって」という発想はどこから来るのでしょうか?これを支持するこれに最も近い箇所は、前章の1コリント10:16―18にあります。私が読む際、「『あずかる』とはどういう意味だろう?」と問いかけてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかること(''koinōnia estin tou haimatos tou Christou'')ではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかること(''ouchi koinōnia tou sōmatos tou Christou estin'')ではありませんか。パンは一つですから、私たちは多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかる(''koinōnia tou thusiastēriou'')ではありませんか。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは、覚えることよりはるかに深いものです。これはイエス･キリストを信じ宝とする信者で、パウロは彼らはキリストのからだと血にあずかる者だと言います。文字通り、彼らは主のからだと血を共有すること(''koinōnia'')を体験しているのです。彼らは主の死に結びつき合うことを体験しているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 霊的に、信仰によって、キリストのみからだと血にあずか ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それではこのあずかること/共有すること/結びつき合うこととは、何を意味するのでしょうか?18節にそのヒントがあると思います。なぜなら18節で似たような、それでいてユダヤ教の供え物によって起こる何かと比較することばが用いられているからです。「肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇に''あずかる''[同じ用語の違う型]ではありませんか。」この祭壇を共有する者/(祭壇に)あずかる者/(祭壇と)結びつき合う者とは、何を意味するのでしょうか?それは、祭壇上で起こることを共有する、あるいは祭壇上で起こることから益を受ける、という意味です。例えば、人々は赦しと神との回復された交わりを楽しむのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから16、17節は、信者が物理的にパンを食べ杯を飲むとき、別の霊的な飲み食いをするという意味だと、私は理解します。私たちは飲み食い、すなわち、十字架で起こったことを私たちの命のうちに受け取るのです。私たちは信仰によって、イエス様にあって神が私たちのすべてであられることを信じることによって、イエス様が十字架上で血を流され死なれたときに私たちのために買い取ってくださったその益で、自分を養うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため月ごとに主の晩餐で、私たちは皆さんを様々な焦点(神との平安、キリストにある喜び、将来への希望、恐れからの解放、患難のうちにある安心、困惑のうちにある道案内、病からの癒し、誘惑に対する勝利、等々)へとお連れしているのです。それは、イエス様が死なれたとき、私たちの身代わりとして死ぬことによってお捧げになった主の流された血と砕かれたからだは、神のみ約束のすべてを買い取ったのです。パウロは、「神の約束はことごとく、この方において『しかり』となりました」(2コリント1:20)と言います。神の賜物のすべてと、神との喜ばしい交わりのすべては、イエス様の血によって買い取られたものです。パウロが「私たちが祝福する祝福の杯は、''キリストの血にあずかること''ではありませんか。私たちの裂くパンは、''キリストのからだにあずかること''ではありませんか」と言うとき、主の食卓で私たちは霊的に、キリストのみからだと血によって買い取られた霊的恵みのすべてを信じる信仰によって、喜び味わわないでしょうか、と言っているのです。どの未信者もそれをすることはできません。悪魔もできません。それは家族への賜物です。主の晩餐を執り行うとき、私たちはイエス様の血によって買い取られた神のみ約束のすべてを、霊的に、信仰によって喜び味わうのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 6. 主の晩餐の侵すべからず深刻さ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが1コリント11章を閉じるように、(このメッセージを)閉じたいと思います。彼は、もしあなたが主の晩餐に、十字架で起こったことの深刻さを理解しない横柄で、無感覚で、軽率な態度で来たなら、あなたがもし信者であるならば、み怒りでではなく、み父としての神の懲らしめで、命を失うかも知れません。ここで喜びつつまた真剣になって主の食卓に移るにあたり、1コリント11:27―32をゆっくり読ませてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; したがって、もし、ふさわしくないままで［''すなわち、キリストの尊い賜物を信じずまた宝とせず''］パンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して［''自分がある程度良いかどうかではなく、自分自信から離れ、自分の必要をイエス様に頼る意志があるかどうか吟味して''］、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。29 みからだをわきまえないで［''つまり、このパンは、コリントの教会である人々がしていたように、魚サンドイッチであるかのように扱ってはならないということに気づかないで］''、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。30 ［''そしてここがパウロの言いたいことです''］そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます［''地獄へ送られたのではありません。次の節でそれを説明しています''］。31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって［''つまり、ある者は弱く、病気で、死んでいっている'']、それは、私たちが、この世とともに罪に定められる［''つまり、地獄へ行く''］ことのないためです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の晩餐を軽く受け止めないでください。それはキリストが主の教会にお与えになった、最も尊い賜物の一つです。では共にいただきましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 03 Aug 2017 19:39:35 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E4%B8%BB%E3%81%AE%E6%99%A9%E9%A4%90%E3%82%92%E5%9F%B7%E3%82%8A%E8%A1%8C%E3%81%86%E3%81%AE%E3%81%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>なぜ、そしてどのようにして私たちは主の晩餐を執り行うのか</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E4%B8%BB%E3%81%AE%E6%99%A9%E9%A4%90%E3%82%92%E5%9F%B7%E3%82%8A%E8%A1%8C%E3%81%86%E3%81%AE%E3%81%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|Why and How We Celebrate the Lord's Supper}}   &amp;amp;gt; ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがた...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Why and How We Celebrate the Lord's Supper}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。18 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。19 というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。20 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。27したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。33　ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。34　空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
来週ローマ書に (主のお許しがあれば)戻る前に、主の晩餐を聖書の文脈に置き、なぜ、そしてどのようにして私たちはこの聖餐式を守るかということに注目するのがいいだろうと、私は思いました。ですから今日は最初にメッセージをし、それからその説教をもって主の晩餐に移行します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの人生と私たちの教会の絶対的基盤である聖書の次に、私たちの教会の一生にとって最も大切な文書の一つは、『''ベツレヘムバプテスト教会の長老たちによる信仰告白''』です。皆さん全員がそれを読むようおすすめします。教会のウェブサイトや、デザイアリング・ゴッドのウェブサイトでも閲覧することができます。12.4項には主の晩餐について私たちが何を信じ、教えているかについての教理のまとめがあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ''私たちは主の晩餐が、集められた信者たちが、キリストの民のためにささげられた主のみからだを表すパンを食し、キリストの血潮のうちにある新契約を表す主の杯を飲む、主のご命令であることを信じます。私たちは主を覚えてこれにあずかり、このようにして主の来られるときまで主の死を告げ知らせます。物理的にではなく、霊的にキリストのみからだと血にふさわしいままであずかる者は、それによって、信仰により、主がご自身の死によって買い取られた益で養われ、そのようにして恵みのうちに成長するのです。'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この主の晩餐の理解の聖書的根拠を、6つの項目、1)歴史的起源、2)信者の参加、3)物理的行ない、4)精神的行ない、5)霊的行ない、そして6)侵すべからず深刻さ、に分けて説明したいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. 主の晩餐の歴史的起源 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マタイによる福音書(26:26以下)、マルコ(14:22以下)、そしてルカ(22:14以下)のすべてが、イエス様が死なれる夜弟子たちと共にされた主の晩餐を、報じています。それぞれ、イエス様が感謝をささげられ、あるいはパンと杯を祝福され、弟子たちに渡されてこのパンは主のみからだであり、杯は契約の血、あるいは主の血における新しい契約であると、表現します。ルカ22:19でイエス様は、「わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われます。ヨハネの福音書では飲み食いは記録されていませんが、その夜をあふれんばかりに満たした主の教えとみわざを報じています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最も古い記録から私たちが言えるのは、教会はイエス様が言われた通りした、ということです。つまり、イエス様とその死を覚えて、彼らは晩餐を再現したのです。パウロの書簡が私たちの手元にある最も古い証言で、1コリント11:20で、彼は教会の一生における行事を、「主の晩餐」と呼んでいます。それが「主の晩餐」と呼ばれるのは、恐らくそれが主イエスによって定められた、あるいは命じられたもので、まさにそれそのものが、主の死を覚えて執り行われるものだからです。パウロは1コリント11:23―24で、「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』」と言います。「わたしは主から受けたことを･･･」とは、他の者たちが実際に起こったと報じる最後の晩餐を、恐らく主ご自身が、(他の使徒達のように最後の晩餐の席にいなかった)パウロに、お認めになったということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから主の晩餐の起源は、イエス様が十字架にかけられる前夜に、弟子たちと共に食されたその最後の夕食です。その行為と意味はすべてその夜、イエス様が言われ、成されたことに根付いています。イエス様ご自身が主の晩餐の起源であられます。主がそれを続けるよう命じられました。そして主がその焦点であり、中身であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. 主の晩餐にあずかる信者 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の晩餐とは、イエス様を信じる者たちの集まりである家族、教会の行為です。それは未信者のための行為ではありません。未信者がそこにはいるかも知れません。実際、彼らが立ち会うのを私たちは歓迎します。主の晩餐には何の隠し事もありません。公の場でなされます。公の意味がそれにはあります。極秘の、魔術を用いたカルト的儀式ではありません。集められた教会による公の礼拝の行為です。事実、1コリント11:26でパウロは、「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を''告げ知らせる''のです」と言います。ですのでこの晩餐には公表という側面があるのです。プライベートではなく、告げ知らせると言うところが、語調を強めるところです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
老人ホームや病院にいる人が主の晩餐にあずかることを禁じはしませんが、そのような個々人での執行は例外で、聖書的規範ではありません。1コリント11章でパウロは、主の晩餐にあずかるのは、教会が「集まる」ときであると5回言います。17節後半、「あなたがたの''集まり''が益にならないで、かえって害になっているからです。」18節、「まず第一に、あなたがたが教会の''集まり''をするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。」20節、「あなたがたはいっしょに''集まって''も、それは主の晩餐を食べるためではありません。」33節、「食事に''集まる''ときは、互いに待ち合わせなさい。」34節、「空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが''集まる''ことによって、さばきを受けないためです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、彼らは主の晩餐を自分たちの毎日の夕飯と関連させすぎて、風儀を乱しており、食べる料理が沢山あった人もいれば、何もなかった人もいたのです。そのため自分の家で夕飯を食べた後、主の晩餐にあずかるため集まりなさい、と彼は言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして18節の「教会」という言葉に注目してください。「あなたがたが''教会''の集まりをするとき」。これがキリストのからだ、イエス様に従う者たちの集まりです。偶像礼拝を離れ、イエス様にのみ自分の罪の赦し、永遠のいのちの望み、そして自分の魂の充足を信じる者たちです。それがクリスチャンです。ですので主の晩餐にあずかるのは、イエス様に信仰をおく、集められた者たちです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 主の晩餐の物理的行ない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の晩餐の物理的行為は、７コースの料理の消費ではありません。それはとてもシンプルなものです。パンを食べることと、杯を飲むことです。23節後半―25節、「主イエスは、･･･パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どのようなパンで、どのように裂くのかについては特筆されていません。たった一つ、マタイ、マルコ、ルカの一節で杯の中に何が入っているのか、ということだけ述べられています。「ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マタイ26:29。マルコ14:25、ルカ22:18も参照)。というわけで、それは「ぶどうの実で造った物」と呼ばれています。単なるグレープジュースが、あるいはワインが使われていると、大騒ぎするべきではないと思います。この箇所ではいっさい、どちらを用いるよう命じたり、禁じられたりしてはいません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが気にしなければならないのは、ふざけた代用品、例えばキャンプファイアの周りのベーグルですとか、コカ・コーラとかです。主の晩餐は遊びではありません。私たちは重い感覚をもってそれを執り行わなければなりません。それについてすぐに話したいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここを通過するにあたって、新約聖書ではこの主の晩餐の頻度についてもいっさい語っていない、ということにも触れておきたいと思います。中には毎週やったほうがいいという人もいますし、3ヶ月に一度やる人たちもいます。私たちはその中間で、一般的に毎月第一日曜日に執り行っています。これについて私たちは縛られておらず、問題は、1)いかに頻繁にあるいは希にやることが、神のみことばのミニストリーとの関わりで、その適度な重要性と一致するか?そして、2)いかに頻繁にあるいは希にやることが、それに対して無感覚にならずして、その価値を私たちが感じることができるか?というもののどちらかになると思います。それらは簡単に判断できることではなく、それぞれの教会がそれぞれで判断します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4. 主の晩餐の精神的行ない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の晩餐に参加する者の精神的行ないとは、イエス様、特に私たちの罪のために死なれた主の歴史的みわざに、思いを集中させることです。24と25節、「わたしを''覚えて''、これを行いなさい。」物理的な飲み食いという行為をするにあたって、私たちは覚えるという精神的行為をするべきです。すなわち、イエス様がかつて生きられたそのご人格と、イエス様が死なれそしてよみがえられたそのみわざ、そして私たちの罪の赦しのために成されたみわざが表すその意味を、私たちは意識的に思い浮かべるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の晩餐は、キリスト教がニューエイジ的宗教ではないということを、はっきりと何度も何度も思い出させます。それは自分の内なるものと交信することではありません。神秘主義ではありません。史実に基づいたものです。イエス様は実在されました。主には体と血液を循環させた心と、血が出る皮膚がおありになりました。主を信じる者は誰でも神のみ怒りから救われるように、罪人の身代わりとなって、ローマの十字架刑で公に死なれました。それは歴史上一度だけ起こった出来事です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、主の晩餐の精神的行いは、基本的に覚えることです。想像することではありません。分析することではありません。聞くことではありません。瞑想にふけることではありません。それはイエス様と、聖書から私たちが知っている主の、その歴史に意識的に思いを寄せることです。パンと杯。みからだと血。処刑と死、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 5.主の晩餐の霊的行ない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは非常に重要です。それは未信者も、私がこれまで説明してきたことすべてを成すことができるからです。実際、もし悪魔が人となることができるのであれば、彼もそれをすることができます。食べて、飲んで、覚える。本質的に霊的なものはいっさいありません。ですから主の晩餐がイエス様が言われるとおりのものであるためには、食べて、飲んで、覚える以上の何かが起こらなければなりません。未信者と悪魔が成し得ない何か、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『''長老たちによる信仰告白''』から鍵となる文章をもう一度読み、それからそれが聖書のどこから来ているのかをお見せしましょう。「''物理的にではなく、霊的にキリストのみからだと血にふさわしいままであずかる者は、それによって、信仰により、主がご自身の死によって買い取られた益で養われ、そのようにして恵みのうちに成長するのです。''」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この「霊的にキリストのみからだと血に･･･あずかる者は、･･･信仰によって」という発想はどこから来るのでしょうか?これを支持するこれに最も近い箇所は、前章の1コリント10:16―18にあります。私が読む際、「『あずかる』とはどういう意味だろう?」と問いかけてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかること(''koinōnia estin tou haimatos tou Christou'')ではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかること(''ouchi koinōnia tou sōmatos tou Christou estin'')ではありませんか。パンは一つですから、私たちは多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかる(''koinōnia tou thusiastēriou'')ではありませんか。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは、覚えることよりはるかに深いものです。これはイエス･キリストを信じ宝とする信者で、パウロは彼らはキリストのからだと血にあずかる者だと言います。文字通り、彼らは主のからだと血を共有すること(''koinōnia'')を体験しているのです。彼らは主の死に結びつき合うことを体験しているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 霊的に、信仰によって、キリストのみからだと血にあずか ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それではこのあずかること/共有すること/結びつき合うこととは、何を意味するのでしょうか?18節にそのヒントがあると思います。なぜなら18節で似たような、それでいてユダヤ教の供え物によって起こる何かと比較することばが用いられているからです。「肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇に''あずかる''[同じ用語の違う型]ではありませんか。」この祭壇を共有する者/(祭壇に)あずかる者/(祭壇と)結びつき合う者とは、何を意味するのでしょうか?それは、祭壇上で起こることを共有する、あるいは祭壇上で起こることから益を受ける、という意味です。例えば、人々は赦しと神との回復された交わりを楽しむのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから16、17節は、信者が物理的にパンを食べ杯を飲むとき、別の霊的な飲み食いをするという意味だと、私は理解します。私たちは飲み食い、すなわち、十字架で起こったことを私たちの命のうちに受け取るのです。私たちは信仰によって、イエス様にあって神が私たちのすべてであられることを信じることによって、イエス様が十字架上で血を流され死なれたときに私たちのために買い取ってくださったその益で、自分を養うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため月ごとに主の晩餐で、私たちは皆さんを様々な焦点(神との平安、キリストにある喜び、将来への希望、恐れからの解放、患難のうちにある安心、困惑のうちにある道案内、病からの癒し、誘惑に対する勝利、等々)へとお連れしているのです。それは、イエス様が死なれたとき、私たちの身代わりとして死ぬことによってお捧げになった主の流された血と砕かれたからだは、神のみ約束のすべてを買い取ったのです。パウロは、「神の約束はことごとく、この方において『しかり』となりました」(2コリント1:20)と言います。神の賜物のすべてと、神との喜ばしい交わりのすべては、イエス様の血によって買い取られたものです。パウロが「私たちが祝福する祝福の杯は、''キリストの血にあずかること''ではありませんか。私たちの裂くパンは、''キリストのからだにあずかること''ではありませんか」と言うとき、主の食卓で私たちは霊的に、キリストのみからだと血によって買い取られた霊的恵みのすべてを信じる信仰によって、喜び味わわないでしょうか、と言っているのです。どの未信者もそれをすることはできません。悪魔もできません。それは家族への賜物です。主の晩餐を執り行うとき、私たちはイエス様の血によって買い取られた神のみ約束のすべてを、霊的に、信仰によって喜び味わうのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 6. 主の晩餐の侵すべからず深刻さ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロが1コリント11章を閉じるように、(このメッセージを)閉じたいと思います。彼は、もしあなたが主の晩餐に、十字架で起こったことの深刻さを理解しない横柄で、無感覚で、軽率な態度で来たなら、あなたがもし信者であるならば、み怒りでではなく、み父としての神の懲らしめで、命を失うかも知れません。ここで喜びつつまた真剣になって主の食卓に移るにあたり、1コリント11:27―32をゆっくり読ませてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; したがって、もし、ふさわしくないままで［''すなわち、キリストの尊い賜物を信じずまた宝とせず''］パンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して［''自分がある程度良いかどうかではなく、自分自信から離れ、自分の必要をイエス様に頼る意志があるかどうか吟味して''］、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。29 みからだをわきまえないで［''つまり、このパンは、コリントの教会である人々がしていたように、魚サンドイッチであるかのように扱ってはならないということに気づかないで］''、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。30 ［''そしてここがパウロの言いたいことです''］そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます［''地獄へ送られたのではありません。次の節でそれを説明しています''］。31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって［''つまり、ある者は弱く、病気で、死んでいっている'']、それは、私たちが、この世とともに罪に定められる［''つまり、地獄へ行く''］ことのないためです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主の晩餐を軽く受け止めないでください。それはキリストが主の教会にお与えになった、最も尊い賜物の一つです。では共にいただきましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 03 Aug 2017 19:39:03 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E4%B8%BB%E3%81%AE%E6%99%A9%E9%A4%90%E3%82%92%E5%9F%B7%E3%82%8A%E8%A1%8C%E3%81%86%E3%81%AE%E3%81%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>神のみこころは何か、そしてどのようにしてそれを知るのか?</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「神のみこころは何か、そしてどのようにしてそれを知るのか?」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|What Is the Will of God and How Do We Know It?}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &amp;amp;gt; そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ12:1―2の目標は、人生のすべてが「霊的な礼拝」となることです。1節、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」神の目から見る人の人生全体の目標は、キリストが価値のあるお方として見られることです。礼拝とは、私たちの思いと心と体を用いて、神の価値と、主がイエス様にあって私たちの味方であられるそのすべてを表現することです。それを生きる方法、愛する方法があります。神の価値を表現できるあなたの役割を果たす方法があります。もしその方法を見出すことができないのであるならば、それはあなたが自分の役割を変えなければならないことを意味しているのかも知れません。あるいは起こらなければならない2節が[あなたの内に]起こっていないことを意味するのかも知れません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2節は、人生のすべてでどのように礼拝にするのかという、パウロの答えです。私たちは変えられなければなりません。外見の態度だけでなく、私たちの感じ方、考え方、つまり、思いが変えられなければならないのです。2節、「''心の一新によって''自分を変えなさい。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 本来の自分になりなさい ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリスト･イエスを信じる者はすでに、キリストにあって血によって買い取られた、新しく造られた者なのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(2 コリント 5:17). しかし私たちは、''本来の自分''にならなければなりません。「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種の''ないものだから''です」 (1 コリント 5:7)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[あなた方は] 新しい人を''着た''のです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます''新しくされ''、真の知識に至るのです」(コロサイ3:10)。あなた方はキリストにあって''新しくされた''のです。そしてあなた方は''日々新たにされています''。それが先週注目したところです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今回は2節の最後、すなわち新しくされた心のねらいに注目します。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、[ここでそのねらいです]''何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために''、心の一新によって自分を変えなさい。」ですから今日は、「神のみこころ」という用語の意味と、どのようにしてそれを見極めるのか、ということに注目します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の二つのみこころ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書では「神のみこころ」という用語に二つのはっきりした、全く違う意味があります。それらの意味を理解し、どちらの意味がこのローマ12:2で用いられているかをはっきりさせる必要があります。事実、この「神のみこころ」の二つの意味の違いを知ることは、聖書全体の最も大きなそして最もややこしい事の一つ、すなわち、神はすべてを支配しておられるが、それでいて多くの事がらを認めておられない、ということを理解するのに重要です。それは神が起こるよう定められる事がらの中には、主ご自身認めておられないこともあることを意味します。つまり、主が引き起こされる事の中には、ご自身禁じておられることもあるのです。そしてご自身が禁じる事がらをお命じになることもあります。あるいは最も逆説的に言うと、神はある意味意図されない出来事を、別の意味で意図されるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1. 神の定められたみこころ、または主権のみこころ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように私たちに考えさせるみことばの箇所を、見てみましょう。まず、起こるすべての事がらが、主の主権の支配としての「神のみこころ」であることを言い表す箇所を考えてください。イエス様がゲッセマネで祈られる時に口にされる神のみこころの言い回しは、その最もはっきりしているものの一つです。マタイ26:39で主は、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、''あなたのみこころ''のように、なさってください」と言われます。この節で「神のみこころ」とは一体何を言っているのでしょうか?それは数時間後に起こる神の主権のご計画を言っています。使徒4:27―28でこれをどのように言っているか、思い出してください。「実際ヘロデ［アンテパス］（王）と（総督）ポンテオ・ピラトとは、『異教人らや』イスラエル人の『民ども』と共に、『あなたに油を注がれ（救世主として聖別され)た、』あなたの聖なる僕イエスに敵対してこの（エルサレムの）都に集まり、あなたの力強い御心をもって実現しようと''あらかじめ定められていたこと''を、なしとげたからであります。」ですから「神のみこころ」とはイエス様が死なれることだったのです。これが主のご計画で、定められたことです。それは変えられることなく、そしてイエス様は頭を垂れ、「これが私の希望ですが、あなたの最善と思われることを成してください」と言われたのです。それが神の主権のみこころです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそれが人の罪というとても重要なものをここで含んでいることを、見逃さないでください。ヘロデ、ピラト、兵士ら、ユダヤ教指導者たちー彼らのすべてが神の御子を十字架に付ける(イザヤ53:10)という神のみこころを成就することで、罪を犯したのです。ですから、神はご自身が忌み嫌われる事がらを実現させることを意図される、ということをはっきりさせてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下は1ペテロからの例です。1ペテロ3:17で、ペテロは「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです」と書いています。言い換えると、クリスチャンが良いことをして苦しみを受けるのは、神のみこころかも知れない、と言うことです。彼には迫害が頭にあります。でも迫害を受けるに相当しないクリスチャンの迫害は、罪です。ですのでここで再び、神は罪を含んだ出来事が起こることを時によっては意図されるのです。「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、･･･よいのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはエペソ1:11でこの真理の大まかなまとめの発言をします。「私たちは彼[キリスト]にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、''みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って''、このようにあらかじめ定められていたのです。」神のみこころとは起こるすべての事がらの神の主権の支配です。そして聖書の他の多くの箇所で、神の全世界の上にある摂理は、自然と人間の決定の小さな詳細に至るまで及ぶと、教えます。一羽のつばめさえ、私たちの天のみ父のお許しなしに地に落ちることはありません(マタイ10:29)。「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」(箴言16:33)。「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる」(箴言16:1)。「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる」(箴言21:1)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが神のみこころの第一の意味です。それはすべてにおける神の主権の支配です。私たちはこれを主の「主権のみこころ」とか、主の「定められたみこころ」と呼びます。それは破られることがありません。必ず実現します。「彼[神]は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、『あなたは何をされるのか』と言う者もいない。」(ダニエル4:35) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 神のご命令のみこころ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、「神のみこころ」の聖書での別の意味は、私たちが主の「ご命令のみこころ」と呼ぶことができるものです。主のみこころとは、主が私たちに行うよう命令されるものです。これは私たちが従わず、また怠ることができる神のみこころです。それを信じようが信じまいが、私たちが行う、定められたみこころです。私たちが怠ることができる、命令のみこころです。例えば、イエス様は「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」(マタイ7:21)と言われました。すべての人が主のみ父のみこころを行うわけではありません。主がそう言われるのです。「すべてのものが天の御国に入るのではない。」なぜでしょうか?それはすべての者が神のみこころを行うわけではないからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは1テサロニケ4:3で、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、」と言います。ここで神が私たちに、聖さ、聖化、性的純粋さをご命令になる、その明確な例があります。これは主のご命令のみこころです。しかし、ああ、何と多くのものがそれに従わないことでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それからパウロは1テサロニケ5:18で、「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること[神のみこころ]です」と言います。再度、すべての事について感謝しなさい、という主のご命令のみこころの、はっきりとした側面です。しかし多くの者がこの神のみこころを行いません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つ例があります。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」(1ヨハネ2:17)。すべての者がいつまでもながらえるわけではありません。中にはながらえる者もあれば、中にはながらえないものもいます。違いは何でしょうか？中には神のみこころを行う者もいますが、中にはみこころを行わないものもいます。ここでの神のみこころの意味は、それが絶えず起こるわけではないと言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから、これらと聖書の他の多くの箇所から、神のみこころについて語る二つの方法があるということを、結論付けます。両者とも事実で、両者とも理解し信じるのに重要です。一つは神の''定められたみこころ''(あるいは主の''主権のみこころ'')と呼ぶことができ、もう一つは神の''ご命令のみこころ''と呼ぶことができます。主の定められたみこころは、私たちが信じようが信じまいが、必ず実現します。主のご命令のみこころは破ることができ、そしてそれは毎日破られているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== これらの真理の尊さ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これをローマ12:2と関連させる前に、この二つの真理がいかに大切かについてコメントさせてください。両者とも、私たちが深く傷ついているとき、あるいは大切なものを失う体験をしたときに抱える私たちすべての深い必要に、対応します。一方で、神がすべてを支配しておられ、それゆえ私の痛みと喪失のすべてを私の良いことのため、また主を愛するすべての者の良いことのために働かせることがおできになる、という確証が私たちには必要です。もう一方で、神は私たちの気持ちを理解され、私たちの罪や痛みをお喜びにならない、ということを私たちは理解する必要があります。この二つの必要は、神の定められたみこころと主のご命令のみこころと対応します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえば、もしあなたが子どもの頃ひどい虐待を受け、誰かが「それは神のみこころだったと思うかい？」と尋ねたとします。あなたには現在これを聖書的に理解する方法があり、その質問に対し、聖書と矛盾しないような返答をします。「いいえ、それは神のみこころではなかったと思います。なぜなら主は人間が虐待をするのではなく、互いに愛し合うようご命令になるからです。虐待は主のご命令に違反するものであり、それゆえ主の心を動かし、み怒りと悲しみを引き起こします(マルコ3:5)。でも、別の意味では、そうです、それ[私の受けた虐待]は神のみこころ(主権のみこころ)だったのです。なぜなら主は何百通りもの方法でそれを止めることがおできになったはずだからです。私がまだ十分に理解できない理由で、主はそれを止められませんでした」とあなたは言うことができるでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこの状況では、この二つのみこころに対応する二つの事がらがあなたには必要です。一つはそれを良いことに変えることができるほど強く、権力があられる神、そしてもう一つは、あなたの気持ちを理解してくださる神です。一方でキリストは最高主権者なる王であられ、主のみこころから離れては何事をも起こりません(マタイ28:18)。もう一方で、キリストは憐れみ深い大祭司であられ、私たちの弱さと痛みに同情なさるお方です(ヘブル4:15)。聖霊は主が意図されるとき私たちと私たちの罪に勝利され(ヨハネ1:13、ローマ9:15―16)、主が意図されるとき、ご自身を消され、悲しまれ、怒られるのです(エペソ4:30、1テサロニケ5:19)。主の主権のみこころは揺るぎなく、そして主のご命令のみこころは悲しいほどに反することができるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書を理解する上だけでなく、困難の中にあって神にしっかりしがみつくためにも、この両方の真理、両方の神のみこころの理解が私たちには必要です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ12:2ではどちらのみこころが言及されているのか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ローマ12:2の、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、''神のみこころ''は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」では、どちらの神のみこころを意味しているのでしょうか。答えはもちろんのこと、パウロは神のご命令のみこころを言っています。少なくとも二つの理由で私はそう言います。一つは神は主の主権のみこころのほとんどを、私たちが前もって知ることを意図されないと言うことです。「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、･･･私たちの･･･ものである」(申命記29:29)。もし神の定められたみこころの将来の詳細を知りたいのであれば、あなたは一新された心でなく、水晶球(占いに用いる)が欲しいのです。これは変えられること、または従順とは呼ばれません。占いや予言と呼ばれるものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ12:2の神のみこころが、神の定められたみこころではなく、ご命令のみこころであると私が言うもう一つの理由は、「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために」という一文が、私たちが神のみこころを認め、それを従順に行うと言う意味を含むからです。でも実際、たとえ神の主権のみこころであったとしても、私たちは罪を認め、あるいは犯すべきではありません。パウロのローマ12:2での意味は、ヘブル5:14でほとんど同じ意味で言い換えられています。「堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ピリピ1:9―11の別の言い換えを見てください。)神が成そうと''ご計画される''、''隠された''みこころを探し出すことではなく、私たちが''成すべき''神の''すでにあらわされた''みこころを見極めること、それがこの節のゴールです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神のすでにあらわされたみこころを知り行う3つの行程 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神のすでにあらわされたみこころ、すなわち、主のご命令のみこころを知り行う3つの工程があります。そしてそれらすべて、前回お話した聖霊にから受けた認識力で一新された心を必要とします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''第一段階''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一に、神のご命令のみこころは、最終的、決定的権威で聖書のみにおいてあらわされています。そしてみことばにある神のご命令が何かを理解し受け入れるため、一新されたこころが私たちには必要です。一新された心なしには、自己否定、愛、きよさ、そしてキリストのみにある最高の充足の究極の命令を避けるため、私たちはみことばを歪めてしまいます。神の権威あるご命令のみこころは聖書だけに見つけることができます。パウロはみことばが霊感を受けたものであり、クリスチャンを「すべての良い働きにふさわしい十分に整えられた者」(2テモテ3:16)とすると言います。良い働きのいくつか、ではありません。「すべての良い働き」です。ああ、いかにクリスチャンが、エネルギーと時間と情熱を、書き記された神のみことばを深く思うことに費やすべきでしょうか。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''第二段階''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神のご命令のみこころの第二段階は、聖書ではっきりと触れられている、あるいは触れられていないかも知れない新しい状況に、聖書の真理を適応させることです。聖書はあなたにどの人と結婚しなさいとか、どの車を運転しなさいとか、家を購入するべきかとか、どこで休暇を過ごすかとか、どの携帯の契約プランを選びなさいとか、どのメーカーのオレンジジュースを飲みなさいなど、あるいは他の何千という選択しなければならないことがらを言いはしません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
必要なのは、私たちに聖書であらわされた神のみこころによって形作られ、支配された一新された心があり、キリストの思いを持ってすべての関連要因を見、評価すし、神が私たちを何のために召しておられるかを見極めることです。これは神の声があれをしなさいとか、これをしなさいと言うのを常に聞こうとすることと随分違います。声を聞くことによって自分の人生を導こうとする人は、ローマ12:2と同期化していません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方で、神のみことばをどのようにして適用させるかを見極めるために一新された心を[与えてくださいと]祈ってそのために努力することと、もう一方で、何をすべきか神に新しい啓示をお与えくださいと求める癖とでは、雲泥の差があります。占いには変化は必要ありません。神の目標は当たららしい情報だけでなく、新しい心、新しい考え方と判断の仕方です。主の目標は私たちが変えられ、聖められ、主のあらわされたみことばの真理によって解放されることです(ヨハネ8:32、17:17)。ですから神のご命令のみこころの第二段階は、一新された心によってみことばを新しい状況に適用することのできる認識力です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''第三段階''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、神のご命令のみこころの第三段階は、生活の大部分である、行動を起こす前の意識的じっくり考えることがないところです。あえて言いますが、あなたの行動の95％はあらかじめ考えていないでしょう。つまり、あなたの思い、態度、行動の大半は、自発的です。それらは内側のものがあふれ出しただけです。イエス様は、「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません」(マタイ12:34―36)と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はなぜこれを神のご命令のみこころの一部と呼ぶのでしょうか?一つ理由があります。それは神が、憤ってはならない、高ぶってはならない、人のものを欲しがってはならない、わずらってはならない、ねたんではならない、うらやんではならないと言うような事がらをご命令になるからです。そしてそれらの行動はどれも、あらかじめ考えて起こすものではありません。憤り、高ぶり、貪欲、わずらい、嫉妬、ねたみ、それらはすべて、意識的に考えることや意図することなしに、心から沸き起こります。私たちはそれらのもののゆえに、有罪です。それらは神のご命令に反するものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえクリスチャン人生の大きな課題、つまり、心の一新によって自分を変える、というのは単純ではありません。新しい心と新しい思いが必要です。木を良くすれば、実が良くなるのです(マタイ12:33)。それは大きなチャレンジです。それが神があなたを召しておられることです。あなたは自分でそれを成すことができません。あなたの罪のために死んでくださったキリストが必要です。そしてキリストを高める真理にあなたを導き、真理を受け入れる謙遜をあなたのうちに働かせてくださる聖霊が必要です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに自分自身をささげてください。書き記された神のみことばにどっぷり浸ってください。みことばで自分の思いをいっぱいにしてください。そしてキリストの御霊が、あなたの内側からあふれ出てくるものが良いもので、受け入れられ、完全なもの、つまり神のみこころであるほどあなたを新しくしてくださるよう、祈ってください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
____ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 20 Jul 2017 20:19:48 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A5%9E%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</comments>		</item>
		<item>
			<title>神のみこころは何か、そしてどのようにしてそれを知るのか?</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|What Is the Will of God and How Do We Know It?}}   &amp;lt;br&amp;gt; &amp;amp;gt; そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたに...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|What Is the Will of God and How Do We Know It?}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &amp;amp;gt; そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ12:1―2の目標は、人生のすべてが「霊的な礼拝」となることです。1節、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」神の目から見る人の人生全体の目標は、キリストが価値のあるお方として見られることです。礼拝とは、私たちの思いと心と体を用いて、神の価値と、主がイエス様にあって私たちの味方であられるそのすべてを表現することです。それを生きる方法、愛する方法があります。神の価値を表現できるあなたの役割を果たす方法があります。もしその方法を見出すことができないのであるならば、それはあなたが自分の役割を変えなければならないことを意味しているのかも知れません。あるいは起こらなければならない2節が[あなたの内に]起こっていないことを意味するのかも知れません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2節は、人生のすべてでどのように礼拝にするのかという、パウロの答えです。私たちは変えられなければなりません。外見の態度だけでなく、私たちの感じ方、考え方、つまり、思いが変えられなければならないのです。2節、「''心の一新によって''自分を変えなさい。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 本来の自分になりなさい ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリスト･イエスを信じる者はすでに、キリストにあって血によって買い取られた、新しく造られた者なのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(2 コリント 5:17). しかし私たちは、''本来の自分''にならなければなりません。「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種の''ないものだから''です」 (1 コリント 5:7)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[あなた方は] 新しい人を''着た''のです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます''新しくされ''、真の知識に至るのです」(コロサイ3:10)。あなた方はキリストにあって''新しくされた''のです。そしてあなた方は''日々新たにされています''。それが先週注目したところです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今回は2節の最後、すなわち新しくされた心のねらいに注目します。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、[ここでそのねらいです]''何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために''、心の一新によって自分を変えなさい。」ですから今日は、「神のみこころ」という用語の意味と、どのようにしてそれを見極めるのか、ということに注目します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神の二つのみこころ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書では「神のみこころ」という用語に二つのはっきりした、全く違う意味があります。それらの意味を理解し、どちらの意味がこのローマ12:2で用いられているかをはっきりさせる必要があります。事実、この「神のみこころ」の二つの意味の違いを知ることは、聖書全体の最も大きなそして最もややこしい事の一つ、すなわち、神はすべてを支配しておられるが、それでいて多くの事がらを認めておられない、ということを理解するのに重要です。それは神が起こるよう定められる事がらの中には、主ご自身認めておられないこともあることを意味します。つまり、主が引き起こされる事の中には、ご自身禁じておられることもあるのです。そしてご自身が禁じる事がらをお命じになることもあります。あるいは最も逆説的に言うと、神はある意味意図されない出来事を、別の意味で意図されるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1. 神の定められたみこころ、または主権のみこころ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように私たちに考えさせるみことばの箇所を、見てみましょう。まず、起こるすべての事がらが、主の主権の支配としての「神のみこころ」であることを言い表す箇所を考えてください。イエス様がゲッセマネで祈られる時に口にされる神のみこころの言い回しは、その最もはっきりしているものの一つです。マタイ26:39で主は、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、''あなたのみこころ''のように、なさってください」と言われます。この節で「神のみこころ」とは一体何を言っているのでしょうか?それは数時間後に起こる神の主権のご計画を言っています。使徒4:27―28でこれをどのように言っているか、思い出してください。「実際ヘロデ［アンテパス］（王）と（総督）ポンテオ・ピラトとは、『異教人らや』イスラエル人の『民ども』と共に、『あなたに油を注がれ（救世主として聖別され)た、』あなたの聖なる僕イエスに敵対してこの（エルサレムの）都に集まり、あなたの力強い御心をもって実現しようと''あらかじめ定められていたこと''を、なしとげたからであります。」ですから「神のみこころ」とはイエス様が死なれることだったのです。これが主のご計画で、定められたことです。それは変えられることなく、そしてイエス様は頭を垂れ、「これが私の希望ですが、あなたの最善と思われることを成してください」と言われたのです。それが神の主権のみこころです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそれが人の罪というとても重要なものをここで含んでいることを、見逃さないでください。ヘロデ、ピラト、兵士ら、ユダヤ教指導者たちー彼らのすべてが神の御子を十字架に付ける(イザヤ53:10)という神のみこころを成就することで、罪を犯したのです。ですから、神はご自身が忌み嫌われる事がらを実現させることを意図される、ということをはっきりさせてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下は1ペテロからの例です。1ペテロ3:17で、ペテロは「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです」と書いています。言い換えると、クリスチャンが良いことをして苦しみを受けるのは、神のみこころかも知れない、と言うことです。彼には迫害が頭にあります。でも迫害を受けるに相当しないクリスチャンの迫害は、罪です。ですのでここで再び、神は罪を含んだ出来事が起こることを時によっては意図されるのです。「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、･･･よいのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはエペソ1:11でこの真理の大まかなまとめの発言をします。「私たちは彼[キリスト]にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、''みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って''、このようにあらかじめ定められていたのです。」神のみこころとは起こるすべての事がらの神の主権の支配です。そして聖書の他の多くの箇所で、神の全世界の上にある摂理は、自然と人間の決定の小さな詳細に至るまで及ぶと、教えます。一羽のつばめさえ、私たちの天のみ父のお許しなしに地に落ちることはありません(マタイ10:29)。「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」(箴言16:33)。「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる」(箴言16:1)。「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる」(箴言21:1)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが神のみこころの第一の意味です。それはすべてにおける神の主権の支配です。私たちはこれを主の「主権のみこころ」とか、主の「定められたみこころ」と呼びます。それは破られることがありません。必ず実現します。「彼[神]は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、『あなたは何をされるのか』と言う者もいない。」(ダニエル4:35) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2. 神のご命令のみこころ''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、「神のみこころ」の聖書での別の意味は、私たちが主の「ご命令のみこころ」と呼ぶことができるものです。主のみこころとは、主が私たちに行うよう命令されるものです。これは私たちが従わず、また怠ることができる神のみこころです。それを信じようが信じまいが、私たちが行う、定められたみこころです。私たちが怠ることができる、命令のみこころです。例えば、イエス様は「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」(マタイ7:21)と言われました。すべての人が主のみ父のみこころを行うわけではありません。主がそう言われるのです。「すべてのものが天の御国に入るのではない。」なぜでしょうか?それはすべての者が神のみこころを行うわけではないからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは1テサロニケ4:3で、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、」と言います。ここで神が私たちに、聖さ、聖化、性的純粋さをご命令になる、その明確な例があります。これは主のご命令のみこころです。しかし、ああ、何と多くのものがそれに従わないことでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それからパウロは1テサロニケ5:18で、「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること[神のみこころ]です」と言います。再度、すべての事について感謝しなさい、という主のご命令のみこころの、はっきりとした側面です。しかし多くの者がこの神のみこころを行いません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つ例があります。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」(1ヨハネ2:17)。すべての者がいつまでもながらえるわけではありません。中にはながらえる者もあれば、中にはながらえないものもいます。違いは何でしょうか？中には神のみこころを行う者もいますが、中にはみこころを行わないものもいます。ここでの神のみこころの意味は、それが絶えず起こるわけではないと言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから、これらと聖書の他の多くの箇所から、神のみこころについて語る二つの方法があるということを、結論付けます。両者とも事実で、両者とも理解し信じるのに重要です。一つは神の''定められたみこころ''(あるいは主の''主権のみこころ'')と呼ぶことができ、もう一つは神の''ご命令のみこころ''と呼ぶことができます。主の定められたみこころは、私たちが信じようが信じまいが、必ず実現します。主のご命令のみこころは破ることができ、そしてそれは毎日破られているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== これらの真理の尊さ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これをローマ12:2と関連させる前に、この二つの真理がいかに大切かについてコメントさせてください。両者とも、私たちが深く傷ついているとき、あるいは大切なものを失う体験をしたときに抱える私たちすべての深い必要に、対応します。一方で、神がすべてを支配しておられ、それゆえ私の痛みと喪失のすべてを私の良いことのため、また主を愛するすべての者の良いことのために働かせることがおできになる、という確証が私たちには必要です。もう一方で、神は私たちの気持ちを理解され、私たちの罪や痛みをお喜びにならない、ということを私たちは理解する必要があります。この二つの必要は、神の定められたみこころと主のご命令のみこころと対応します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえば、もしあなたが子どもの頃ひどい虐待を受け、誰かが「それは神のみこころだったと思うかい？」と尋ねたとします。あなたには現在これを聖書的に理解する方法があり、その質問に対し、聖書と矛盾しないような返答をします。「いいえ、それは神のみこころではなかったと思います。なぜなら主は人間が虐待をするのではなく、互いに愛し合うようご命令になるからです。虐待は主のご命令に違反するものであり、それゆえ主の心を動かし、み怒りと悲しみを引き起こします(マルコ3:5)。でも、別の意味では、そうです、それ[私の受けた虐待]は神のみこころ(主権のみこころ)だったのです。なぜなら主は何百通りもの方法でそれを止めることがおできになったはずだからです。私がまだ十分に理解できない理由で、主はそれを止められませんでした」とあなたは言うことができるでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこの状況では、この二つのみこころに対応する二つの事がらがあなたには必要です。一つはそれを良いことに変えることができるほど強く、権力があられる神、そしてもう一つは、あなたの気持ちを理解してくださる神です。一方でキリストは最高主権者なる王であられ、主のみこころから離れては何事をも起こりません(マタイ28:18)。もう一方で、キリストは憐れみ深い大祭司であられ、私たちの弱さと痛みに同情なさるお方です(ヘブル4:15)。聖霊は主が意図されるとき私たちと私たちの罪に勝利され(ヨハネ1:13、ローマ9:15―16)、主が意図されるとき、ご自身を消され、悲しまれ、怒られるのです(エペソ4:30、1テサロニケ5:19)。主の主権のみこころは揺るぎなく、そして主のご命令のみこころは悲しいほどに反することができるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書を理解する上だけでなく、困難の中にあって神にしっかりしがみつくためにも、この両方の真理、両方の神のみこころの理解が私たちには必要です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ12:2ではどちらのみこころが言及されているのか? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ローマ12:2の、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、''神のみこころ''は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」では、どちらの神のみこころを意味しているのでしょうか。答えはもちろんのこと、パウロは神のご命令のみこころを言っています。少なくとも二つの理由で私はそう言います。一つは神は主の主権のみこころのほとんどを、私たちが前もって知ることを意図されないと言うことです。「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、･･･私たちの･･･ものである」(申命記29:29)。もし神の定められたみこころの将来の詳細を知りたいのであれば、あなたは一新された心でなく、水晶球(占いに用いる)が欲しいのです。これは変えられること、または従順とは呼ばれません。占いや予言と呼ばれるものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ12:2の神のみこころが、神の定められたみこころではなく、ご命令のみこころであると私が言うもう一つの理由は、「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために」という一文が、私たちが神のみこころを認め、それを従順に行うと言う意味を含むからです。でも実際、たとえ神の主権のみこころであったとしても、私たちは罪を認め、あるいは犯すべきではありません。パウロのローマ12:2での意味は、ヘブル5:14でほとんど同じ意味で言い換えられています。「堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ピリピ1:9―11の別の言い換えを見てください。)神が成そうと''ご計画される''、''隠された''みこころを探し出すことではなく、私たちが''成すべき''神の''すでにあらわされた''みこころを見極めること、それがこの節のゴールです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神のすでにあらわされたみこころを知り行う3つの行程 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神のすでにあらわされたみこころ、すなわち、主のご命令のみこころを知り行う3つの工程があります。そしてそれらすべて、前回お話した聖霊にから受けた認識力で一新された心を必要とします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''第一段階''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一に、神のご命令のみこころは、最終的、決定的権威で聖書のみにおいてあらわされています。そしてみことばにある神のご命令が何かを理解し受け入れるため、一新されたこころが私たちには必要です。一新された心なしには、自己否定、愛、きよさ、そしてキリストのみにある最高の充足の究極の命令を避けるため、私たちはみことばを歪めてしまいます。神の権威あるご命令のみこころは聖書だけに見つけることができます。パウロはみことばが霊感を受けたものであり、クリスチャンを「すべての良い働きにふさわしい十分に整えられた者」(2テモテ3:16)とすると言います。良い働きのいくつか、ではありません。「すべての良い働き」です。ああ、いかにクリスチャンが、エネルギーと時間と情熱を、書き記された神のみことばを深く思うことに費やすべきでしょうか。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''第二段階''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神のご命令のみこころの第二段階は、聖書ではっきりと触れられている、あるいは触れられていないかも知れない新しい状況に、聖書の真理を適応させることです。聖書はあなたにどの人と結婚しなさいとか、どの車を運転しなさいとか、家を購入するべきかとか、どこで休暇を過ごすかとか、どの携帯の契約プランを選びなさいとか、どのメーカーのオレンジジュースを飲みなさいなど、あるいは他の何千という選択しなければならないことがらを言いはしません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
必要なのは、私たちに聖書であらわされた神のみこころによって形作られ、支配された一新された心があり、キリストの思いを持ってすべての関連要因を見、評価すし、神が私たちを何のために召しておられるかを見極めることです。これは神の声があれをしなさいとか、これをしなさいと言うのを常に聞こうとすることと随分違います。声を聞くことによって自分の人生を導こうとする人は、ローマ12:2と同期化していません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方で、神のみことばをどのようにして適用させるかを見極めるために一新された心を[与えてくださいと]祈ってそのために努力することと、もう一方で、何をすべきか神に新しい啓示をお与えくださいと求める癖とでは、雲泥の差があります。占いには変化は必要ありません。神の目標は当たららしい情報だけでなく、新しい心、新しい考え方と判断の仕方です。主の目標は私たちが変えられ、聖められ、主のあらわされたみことばの真理によって解放されることです(ヨハネ8:32、17:17)。ですから神のご命令のみこころの第二段階は、一新された心によってみことばを新しい状況に適用することのできる認識力です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''第三段階''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、神のご命令のみこころの第三段階は、生活の大部分である、行動を起こす前の意識的じっくり考えることがないところです。あえて言いますが、あなたの行動の95％はあらかじめ考えていないでしょう。つまり、あなたの思い、態度、行動の大半は、自発的です。それらは内側のものがあふれ出しただけです。イエス様は、「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません」(マタイ12:34―36)と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はなぜこれを神のご命令のみこころの一部と呼ぶのでしょうか?一つ理由があります。それは神が、憤ってはならない、高ぶってはならない、人のものを欲しがってはならない、わずらってはならない、ねたんではならない、うらやんではならないと言うような事がらをご命令になるからです。そしてそれらの行動はどれも、あらかじめ考えて起こすものではありません。憤り、高ぶり、貪欲、わずらい、嫉妬、ねたみ、それらはすべて、意識的に考えることや意図することなしに、心から沸き起こります。私たちはそれらのもののゆえに、有罪です。それらは神のご命令に反するものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえクリスチャン人生の大きな課題、つまり、心の一新によって自分を変える、というのは単純ではありません。新しい心と新しい思いが必要です。木を良くすれば、実が良くなるのです(マタイ12:33)。それは大きなチャレンジです。それが神があなたを召しておられることです。あなたは自分でそれを成すことができません。あなたの罪のために死んでくださったキリストが必要です。そしてキリストを高める真理にあなたを導き、真理を受け入れる謙遜をあなたのうちに働かせてくださる聖霊が必要です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに自分自身をささげてください。書き記された神のみことばにどっぷり浸ってください。みことばで自分の思いをいっぱいにしてください。そしてキリストの御霊が、あなたの内側からあふれ出てくるものが良いもので、受け入れられ、完全なもの、つまり神のみこころであるほどあなたを新しくしてくださるよう、祈ってください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
____ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 20 Jul 2017 20:18:54 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A5%9E%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%3F</comments>		</item>
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			<title>選びの教理についての牧会的見解</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E9%81%B8%E3%81%B3%E3%81%AE%E6%95%99%E7%90%86%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E7%89%A7%E4%BC%9A%E7%9A%84%E8%A6%8B%E8%A7%A3</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「選びの教理についての牧会的見解」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Pastoral Thoughts on the Doctrine of Election}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。6もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。7では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ11章のような教理的に大変重い箇所を一通り説教することの、牧会的意味をあれこれ考えているうちに、解釈の流れの中で何週かごとに立ち止まって、一歩下がり、私たちがそれまで見てきたことの実用的意義を話すのがいいように思えました。ローマ11:1―10から再度、この数週間で見てきたのは(ローマ8:29―33とローマ9:10―24にも見ましたが)、無条件の選びという聖書的教理です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは、世界の基の置かれる前から(エペソ1:4)、誰が信じ、その罪にも関わらず救いという受けるに値しないものを受け、そして誰が反逆の罪を犯し続け、その罪のゆえに滅びという受けるに値するものを受けるかを、神がお選びになっているという教えです。言い換えれば、神のみむねである知恵と義と恵みは、この世で起こることすべての根本的解釈なのです。人間は神ではありません。私たちは何もないところから種を引き起こすことはできません。私たちベツレヘム教会のリーダーたちは、一方で神は主権者であられ、そしてもう一方で私たち全ての者は責任を負っており、罪を犯したのであり、み怒りを受けるべき者たちであるという聖書の逆説(矛盾ではありません)を堅持しています。もし私たちが信仰を持って、この罪過から救われるよう神がお選びになったのであるならば、私たちが受けるべき恩恵は一切ありません。それがローマ8、9章で、私たちが見てきたことで、11:1―10で今再度見ていることです。それが無条件の選びと私が言っている意味です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では今日はこの選びの教理に関する牧会的見解を見ていきます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. ''全部が全部私たちが知るべきことではないので、神には私たちに現されていない事がらがおありになり、また中には十分に説明できなくとも、私たちが知っておくと良いことがおありになる'' ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは部分的に、申命記29:29でモーセが、「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである」と言うところに基としています。神には私たちが知らないよう意図していることがおありになります。それは私たちにとって良いことではありません。例えば、使徒1:7でイエス様が、「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています」と言われます。未来を事細かに知ることは私たちにとって良くないのです。実際私たちは明日何が起こるかさえほとんど分かりません。ヤコブ4:14では、「あなたがたには、あすのことはわからないのです」と言います。他にも詩篇131篇でダビデは、「私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません」と言います。私たちの手の届かないものがあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神が私たちに現されているので私たちが知っている事は、私たちは部分的に知っています。ですからそれらは私たちが知るべきことです。しかしパウロが1コリント13:12で、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」と言うように、私たちは部分的にのみ知っていることに満足しなければなりません。これは特に、選びの教理において本当です。私たちは神がお答えになる以上のことを質問しがちです。私たちの質問が質問を通り越して非難に変わる危険性があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここまでで読み取れる意味は、聖書のある特定の教理が私たちにとっていいかどうか、私たちはそれを絶えず知ることはない、と言うことです。私たちアメリカ人は特に物事を割り切って考えがちで、要求が多いです。もし教理の見返りが即座に見えなかったら、それを無視する傾向があります。そのようなことをするとき、私たちは愚かな子どものようです。すべての親が、子どもはいつかそれがどのように役に立つか分からなくとも、物事を学ぶように造られていると言うことを知っています。例えば、子どもが幼いうちにテーブルマナーを教えます。そうすれば彼らがあらゆる社交場で礼儀正しく行動することができるようになるからです。子どもたちはなぜ親がスプーンを一定の方法で持ち、肘をテーブルにのせてはいけないと言うのか、全くワケが分かりません。太陽は静止しているんだとか、地球は丸いんだとか、緑色野菜は体にいいんだとか、少量の殺鼠剤は人を死に追いやることができるとか、あなたが言うことすべてを受け止めなければなりません。もし子どもがなぜとかどうしてかを理解する前にこれらのことを知らなければならないのであれば、私たち自身と神について私たちが知らなければならないことと、またそれがどのように私たちの助けとなるかを理解せずに、知らなければならないことが、いかに多いかということの距離を想像して見てください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが知っていることが与える私たちの人生への影響は、絶えず私たちが知っている以上、あるいは説明できる以上です。時として私たちは神がそれは本当だと言われるので、単純に学ばなければならないことがあります。後々、知識によっていかに私たちが守られ、力づけられ、へりくだらされ、清められ、導かれ、あるいは物事が事実であると見ることができるように変えられるかということを、理解することがあるかも知れません。詰まるところ、問題は信頼なのです。''私たちは神が私たちが知ると良いと現されている事がらを、信じるでしょうか?'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
選びの教理が、私たちにとって良いことであるかどうか、全部理解しているわけではありませんが、理解していることもあります。それが次の、選びの教理を知ることの影響に関する牧会的見解になります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. ''選びの教理は、真理とみことばに関して教会を厳格にさせる傾向があり、それゆえ教理の間違った解釈に陥り、文化に適合してしまうことから教会を守ってくれる。'' ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
選びの教理は、たるんだ頭を引き締め、頑丈にする傾向があります。健康で、トレンディーな、人間中心のアイディアに流されない、思いやりのあるクリスチャンを生み出す傾向があります。他の教理が薄められ失われていかないよう保存するという、驚くべき力が備わっています。一般的に選びの教理は、本当の客観的事実に基づいた、神中心の世界観を私たちの頭の中にめり込ませる傾向があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜそれが重要なのか、以下はその実例です。一番最近の『クリスチャニティー・トゥデー[''Christianity Today''] 』 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; で、チャック・コールソンが、「超越した真理などないと主張する哲学」である「ポストモダニズム」を議論しています。その中で、ポストモダニズムはその力を失っており、恐らくすぐに色あせていくであろう文化の、4つか５つの兆候を彼は述べていますが、彼が教会に語るその呼びかけを聞いてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「牧師、神学者、教会員たちが聖書的世界観にしっかりと立ち、真理を飢え渇いて求めている人々にそれを明確に弁護する重要なときは、今以外に考えられない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; でも私たちはそのようなチャレンジを受ける用意ができているだろうか?最近ジョージ･バーナはアメリカ全土の教会を巡るツアーを終え、その世論調査によると90パーセントのほとんどの教会のリーダーと信徒伝道者たちに、理解観がまったくない、という悲観的な報告を出した。もし我々が自分の真理のシステムに根を下ろしていないのであれば、競合する哲学とどのようにして競い合って行くことができるであろうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 皮肉なことに、この文化で励まされる兆候があるように思われる中、教会の知的レベルの低下と、御言葉に動かされるメッセージからイメージや感情に動かされるメッセージへと移行している兆候も見受けられる(いかに多くのクリスチャンのラジオ番組が、トークと説教から、最近はすべて音楽に変わっていることに注意)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; より広い文化がその行き止まりに来たと気づいた丁度そのときに、もし私たちがポストモダニズムに紛れ込んでいる自分たちを見つけたなら、それは最高の皮肉、またとんでもない悲劇である。」(『クリスチャニティー・トゥデー』より、「ポストモダニズムの墜落」2003年12月発行、47刊第12号、72ページより) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
選びの教理には、受け継いできた思い込みの川で漂流し、考えることを一切しない頭を持った人々を目覚めさせる、驚くべき効果があります。彼らは、聖書が徹底的に神中心であることと、自分の心がゾッとするほど人間中心であることに、突然衝撃を受けるのです。そして神を聖書的に考える方法を身につけるよう、またコールソンが警告する悲劇の世界、つまり、教会が、文化的関連性の名のもとに、教理は重要ではないと決断した丁度その時に、世界が真理は重要であるということを発見するようになることを、回避するような探求に、彼らは出かけるのです。選びの教理は、私たちが未だ想像できないような形で、私たちと私たちの子孫にとって良いものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 選びの教理に関する第３の牧会的見解は、''選びの教理は、神と自分の役割を置き換えているかどうかを試す、最も良い方法の一つである。'' ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは時代を越える問題ですが、特に人間の自治権を当然と思い込み、権威に対し疑問を抱き、神が存在するかどうかさえ決めることのできる判事席に人間が座る現代では、もっと深刻です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはこの問題を、ローマ9:6―23で最も力強く語っています。語りながら、彼は「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう」という、古代のそして現代の異論を耳にします。それに対し彼は、「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか』と言えるでしょうか」(ローマ9:19―20)と反論します。言い換えれば、神の役割を自分の役割と置き換えるのは、あなたにふさわしくありません。私たちが神を裁いているのか神が私たちを裁いているのかをこれだけはっきりと分析する教理が、他にあるでしょうか。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨブ記の最後でヨブが自分の弁護をし尽くし、人を惑わすような相談役であるエリファズとビルダデとツォファルがいなくなったときの、重要な部分を要約すると、以下のようになります。「ヨブは主に答えて言った。『あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。･･･まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。』」神は、「さあ聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ」とお答えになります。言い換えると、「ヨブよ、しっかりと腰を据えて聞きなさい。わたしに教えようとするのではなく、わたしから学びなさい。わたしを責めるのではなく、信頼しなさい」と神は言っておられ、それに対してヨブは、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」と最終的に応答します(ヨブ42:1―6)。選びの教理は、私たちの中にはそれを見た人達がすでにいますが、私たちが、非難するヨブの視点に立っているのか、あるいは信じるようになった、砕かれへりくだったヨブの視点に立っているのかを、私たちに吟味させます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
魚は自分が濡れていることを理解していません。魚にとっては、濡れることがすべてなのです。それを考えもしません。それと同じように、現代人、つまり、この過去200年以内に生きてきた人たちにとって、自分が神に対しいかに傲慢であるかということを理解するのは、至難の業です。現代の世の中は、神に対する傲慢さがすべてです。それが私たちの泳いでいる海であり、吸っている空気です。織物という私たちの頭のなかに、それがしっかり編みこまれているのです。私たちはそれがそこにあることを分かっていません。傲慢さを通して他のすべてのものを見るので、私たちにはそれが見えないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
C. S. ルイスは次のように言っています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「古代人は、被告が裁判官に近づくように、神に近づいた。ところが現代人はその役割を置き換えてしまっている。人が裁判官で、神が被告席に着いておられるのである。人はとても親切な裁判官で、もし神に、戦争や貧困や疫病をお許しになる神であることの納得のいく答弁がおありになれば、聞く用意ができている。裁判は神の無罪判決で終了するかも知れない。しかし重要なのは、人が判事席に着いており、神が被告人席に着いておられることである。(『''エッセイ集とその他短編''』より、「被告人席に着いておられる神」、レズリー・ウォルムスレー編集、C.S.ルイス著、[ロンドン、ハーパーコリン出版社、2000年出版]、36ページ) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとんど感じられない感情、それが事実上、現代という意味です。神に質問し神を裁いてさえいいと思うその感情を、自分が持っていることさえ分かっていない、思い込みなのです。選びの教理は、この現代世界の傲慢という土着の海から自分が解放されつつあるか、あるいは未だに骨まで浸かりきっているかを、とても効果的に試します。神の主権のうちにある試練にあって試されるのは、私たちにとって良いことです。そうすればヨブと共に、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」と言えるかも知れないからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4. 選びの教理に関する第４の牧会的見解は、''尊い選びの真理と主権の恵みの議論ではなく、知的信仰でもなく、へりくだってそれを受け入れるその受け入れは、究極の、愛のある、リスクを負った奉仕と宣教を、生み出す''ということである。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一例ですが(ウィリアム･キャレーやアドニラム･ジャドソン、ディビッド･リビングストン、ジョン･パットン、ジョージ･ミューラー、チャールズ･スポルジョン、ジョナサン･エドワーズやその他もっと沢山の人から得ることができると思いますが)、クリスティン･カールソンはアクション･インターナショナルという団体(彼らを知ってください。ディレクターの名前を挙げることができると思いますが、ダグ･二コールズは、過激なクリスチャンの一人で、選びの真理をへりくだって受け入れるがゆえ、結腸癌でルワンダに渡った人です)を通してザンビアで、ストリート･チルドレンのために約一年働いています。以下はクリスティンさんが感謝祭の朝にメールしてきたものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「まず何よりも、私をお選びくださった、神のはかり知れない恵みに感謝しています。私にはこれを受けるに値するものが何もなく、それにも関わらず、み父が私に良きことをなしてくださることに、驚かされ続けています。選ばれたことを私が感謝するその理由は、私が何のために選ばれたかを理解しているからです。神が卓越したお方であることを告げるために選ばれ、イエス様を通して神に永遠に満足するために選ばれ、暗闇ではなく光に生きるために選ばれ、主が良いお方であることを見て味わうために選ばれたということです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを見逃さないでください。皆さんの中には、選びの教理が真実でないか、何の役にも立たないと教えられてきたため、クリスティンさんが言っていることがさっぱり分からない人がいると思います。絶えず外観者で、疑わしい目で見、批判してきています。このメールで、無条件の選びを受け入れ、それに受け入れられることがどのようなことであるかを知っている人の、内側の話をあなたは今聞いています。その効果は、あなたが教えられてきたようなものではありません。その効果に耳を傾けてください。彼女は続けます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「私は神が、心が頑なで、無関心で、反抗的なストリート･チャイルドのヴァスコを、暗闇から主の素晴らしい光へとお選びになったことに、感謝しています。そしてヴァスコの人生にすでに見られる実は、彼がぶどうの木であられるイエス様にとどまっていることの、証しです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; この一年の神の溢れるばかりの慈愛に感謝します。･･･ストリート･チルドレンと友達になり、永遠に続く希望を彼らに分かち合うことができる働きの一部に携われるとは、何と素晴らしいことでしょう。挿入ですが、神が私にこの子供たちに対する思いをお与えくださったことに感謝しています。客観的に言って、汚れた臭い子供達と一緒にゴミの山を踏み歩き、ハイカラなソファ(ダンボール一枚がのった金属製の物)に座るのを好むのは、「普通」ではないと分かっていますが、それが事実で、私はそれを愛おしく思います。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無条件の選びから始まる主権の恵みの教理を受け入れることと、それに受け入れられることは、そのような過激な、リスクをいとわない、犠牲の愛をまず生み出します。それからこの美しさは自分たちで作り上げたのではなく、神が私たちのうちに創出されたという事実に喜んでへりくだるようになるのです。そして私たちは神に栄光をおかえしします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「これは聖書的な考え方ですか?」「聖書では実際に選びの真理はこれらの効果をあらわすよう、神によって意図されているのでしょうか?」とあなたがお尋ねになるなら、その答えは、その通り、です。コロサイ3:12―13の言葉遣いをまず考えて見てください。「それゆえ、''神に選ばれた者''、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に付けなさい。互いに忍び合い、だれか他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」関係があります。パウロの頭の中ではそれは明白で、はっきりしているのです。恵みによってあなたは選ばれており、神のために聖別されており、愛されている、ということの理解は、あなたを、虐待を耐え忍び、いつでも許す用意ができている、この世でもっともへりくだった者に作り上げるはずです。ザンビアや他のどの場所であれ、愛せないような人を愛するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他にもこれがどのように作用するのか、手がかりのある箇所があります。ローマ8:33でパウロは、「''神に選ばれた人''々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです」と言います。その答えは、もしあなたが神に選ばれた者であるならば、あなたを訴えることができる者はいない、です。神はあなたの永遠の味方です。パウロがこう言うのは、その実践的効果が私たちに起こることが当然であると予期しているからだというのは、非常に明瞭です。彼は私たちが確信と喜びを感じ、そして勇敢で恐れ知らずになるよう期待しています。今日あなたが正しくて愛があるように思える行為を前に、決断しなければならない立場に立たされており、それが危険を伴うことだと分かっているところで、「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」という質問の効果を感じますか?「選ばれた」という言葉に確信を生み出す福音の力を感じますか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは主として議論されるべき教理ではなく、楽しむべき教理です。それは論争されるものとして意図されていません。宣教のためのものとして意図されています。人々の間で分裂引き起こすものではありません(分裂を引き起こしますが)。人々を思いやりのある、親切で、へりくだっており、柔和で、寛容な者にさせるものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 5.最後の牧会的見解で終わりにします。''イエス･キリストから離れて選びを考えてはいけません。'' ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エペソ1:4で、「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼[キリスト]にあって選び」と言います。言い換えれば、私たちを罪の束縛から救い出すことを永遠からご計画になられた際、神にはキリストがそれを成す方法の念頭におありになりました。神はキリストの死とよみがえりを通して私たちを救おうと、世界の基が置く前に、ご計画になったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、私たちを救い、ご自身に召されるように成されたのは、私たちが選ばれた者であるかどうかを、私たちに事前に教えないことです。神はイエス･キリストとの関係を通して以外にこれを表示されることはありません。それはキリストが私たちの選びの中心となられるためです。私たちが選ばれた者であるかどうかを教える代わりに、神が成されたのは、ご自分の御子をお遣わしになり、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3:36)、「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています」と言われたのです。その人は自分が選ばれた者であることを知っています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからキリストの御名によって、あなたをお招きします。来て、主をあなたの救い主、あなたの主、あなたの人生の宝として受け入れてください。主は信仰を持って主のみもとに来る者を追い払われません。罪をお赦しになり、義をまとわせてくださいます。聖霊をお与えくださいます。あなたを守ってくださいます。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27)良い羊飼いの声を聞いて、み前に進み出てください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
_____ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; キリスト教月刊誌&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 11 Jul 2017 20:01:38 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E9%81%B8%E3%81%B3%E3%81%AE%E6%95%99%E7%90%86%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E7%89%A7%E4%BC%9A%E7%9A%84%E8%A6%8B%E8%A7%A3</comments>		</item>
		<item>
			<title>選びの教理についての牧会的見解</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E9%81%B8%E3%81%B3%E3%81%AE%E6%95%99%E7%90%86%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E7%89%A7%E4%BC%9A%E7%9A%84%E8%A6%8B%E8%A7%A3</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|Pastoral Thoughts on the Doctrine of Election}}   &amp;amp;gt; それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。6もし恵みによる...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Pastoral Thoughts on the Doctrine of Election}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。6もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。7では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ11章のような教理的に大変重い箇所を一通り説教することの、牧会的意味をあれこれ考えているうちに、解釈の流れの中で何週かごとに立ち止まって、一歩下がり、私たちがそれまで見てきたことの実用的意義を話すのがいいように思えました。ローマ11:1―10から再度、この数週間で見てきたのは(ローマ8:29―33とローマ9:10―24にも見ましたが)、無条件の選びという聖書的教理です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは、世界の基の置かれる前から(エペソ1:4)、誰が信じ、その罪にも関わらず救いという受けるに値しないものを受け、そして誰が反逆の罪を犯し続け、その罪のゆえに滅びという受けるに値するものを受けるかを、神がお選びになっているという教えです。言い換えれば、神のみむねである知恵と義と恵みは、この世で起こることすべての根本的解釈なのです。人間は神ではありません。私たちは何もないところから種を引き起こすことはできません。私たちベツレヘム教会のリーダーたちは、一方で神は主権者であられ、そしてもう一方で私たち全ての者は責任を負っており、罪を犯したのであり、み怒りを受けるべき者たちであるという聖書の逆説(矛盾ではありません)を堅持しています。もし私たちが信仰を持って、この罪過から救われるよう神がお選びになったのであるならば、私たちが受けるべき恩恵は一切ありません。それがローマ8、9章で、私たちが見てきたことで、11:1―10で今再度見ていることです。それが無条件の選びと私が言っている意味です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では今日はこの選びの教理に関する牧会的見解を見ていきます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1. ''全部が全部私たちが知るべきことではないので、神には私たちに現されていない事がらがおありになり、また中には十分に説明できなくとも、私たちが知っておくと良いことがおありになる'' ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは部分的に、申命記29:29でモーセが、「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである」と言うところに基としています。神には私たちが知らないよう意図していることがおありになります。それは私たちにとって良いことではありません。例えば、使徒1:7でイエス様が、「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています」と言われます。未来を事細かに知ることは私たちにとって良くないのです。実際私たちは明日何が起こるかさえほとんど分かりません。ヤコブ4:14では、「あなたがたには、あすのことはわからないのです」と言います。他にも詩篇131篇でダビデは、「私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません」と言います。私たちの手の届かないものがあるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神が私たちに現されているので私たちが知っている事は、私たちは部分的に知っています。ですからそれらは私たちが知るべきことです。しかしパウロが1コリント13:12で、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」と言うように、私たちは部分的にのみ知っていることに満足しなければなりません。これは特に、選びの教理において本当です。私たちは神がお答えになる以上のことを質問しがちです。私たちの質問が質問を通り越して非難に変わる危険性があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここまでで読み取れる意味は、聖書のある特定の教理が私たちにとっていいかどうか、私たちはそれを絶えず知ることはない、と言うことです。私たちアメリカ人は特に物事を割り切って考えがちで、要求が多いです。もし教理の見返りが即座に見えなかったら、それを無視する傾向があります。そのようなことをするとき、私たちは愚かな子どものようです。すべての親が、子どもはいつかそれがどのように役に立つか分からなくとも、物事を学ぶように造られていると言うことを知っています。例えば、子どもが幼いうちにテーブルマナーを教えます。そうすれば彼らがあらゆる社交場で礼儀正しく行動することができるようになるからです。子どもたちはなぜ親がスプーンを一定の方法で持ち、肘をテーブルにのせてはいけないと言うのか、全くワケが分かりません。太陽は静止しているんだとか、地球は丸いんだとか、緑色野菜は体にいいんだとか、少量の殺鼠剤は人を死に追いやることができるとか、あなたが言うことすべてを受け止めなければなりません。もし子どもがなぜとかどうしてかを理解する前にこれらのことを知らなければならないのであれば、私たち自身と神について私たちが知らなければならないことと、またそれがどのように私たちの助けとなるかを理解せずに、知らなければならないことが、いかに多いかということの距離を想像して見てください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが知っていることが与える私たちの人生への影響は、絶えず私たちが知っている以上、あるいは説明できる以上です。時として私たちは神がそれは本当だと言われるので、単純に学ばなければならないことがあります。後々、知識によっていかに私たちが守られ、力づけられ、へりくだらされ、清められ、導かれ、あるいは物事が事実であると見ることができるように変えられるかということを、理解することがあるかも知れません。詰まるところ、問題は信頼なのです。''私たちは神が私たちが知ると良いと現されている事がらを、信じるでしょうか?'' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
選びの教理が、私たちにとって良いことであるかどうか、全部理解しているわけではありませんが、理解していることもあります。それが次の、選びの教理を知ることの影響に関する牧会的見解になります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2. ''選びの教理は、真理とみことばに関して教会を厳格にさせる傾向があり、それゆえ教理の間違った解釈に陥り、文化に適合してしまうことから教会を守ってくれる。'' ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
選びの教理は、たるんだ頭を引き締め、頑丈にする傾向があります。健康で、トレンディーな、人間中心のアイディアに流されない、思いやりのあるクリスチャンを生み出す傾向があります。他の教理が薄められ失われていかないよう保存するという、驚くべき力が備わっています。一般的に選びの教理は、本当の客観的事実に基づいた、神中心の世界観を私たちの頭の中にめり込ませる傾向があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜそれが重要なのか、以下はその実例です。一番最近の『クリスチャニティー・トゥデー[''Christianity Today''] 』 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; で、チャック・コールソンが、「超越した真理などないと主張する哲学」である「ポストモダニズム」を議論しています。その中で、ポストモダニズムはその力を失っており、恐らくすぐに色あせていくであろう文化の、4つか５つの兆候を彼は述べていますが、彼が教会に語るその呼びかけを聞いてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「牧師、神学者、教会員たちが聖書的世界観にしっかりと立ち、真理を飢え渇いて求めている人々にそれを明確に弁護する重要なときは、今以外に考えられない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; でも私たちはそのようなチャレンジを受ける用意ができているだろうか?最近ジョージ･バーナはアメリカ全土の教会を巡るツアーを終え、その世論調査によると90パーセントのほとんどの教会のリーダーと信徒伝道者たちに、理解観がまったくない、という悲観的な報告を出した。もし我々が自分の真理のシステムに根を下ろしていないのであれば、競合する哲学とどのようにして競い合って行くことができるであろうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 皮肉なことに、この文化で励まされる兆候があるように思われる中、教会の知的レベルの低下と、御言葉に動かされるメッセージからイメージや感情に動かされるメッセージへと移行している兆候も見受けられる(いかに多くのクリスチャンのラジオ番組が、トークと説教から、最近はすべて音楽に変わっていることに注意)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; より広い文化がその行き止まりに来たと気づいた丁度そのときに、もし私たちがポストモダニズムに紛れ込んでいる自分たちを見つけたなら、それは最高の皮肉、またとんでもない悲劇である。」(『クリスチャニティー・トゥデー』より、「ポストモダニズムの墜落」2003年12月発行、47刊第12号、72ページより) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
選びの教理には、受け継いできた思い込みの川で漂流し、考えることを一切しない頭を持った人々を目覚めさせる、驚くべき効果があります。彼らは、聖書が徹底的に神中心であることと、自分の心がゾッとするほど人間中心であることに、突然衝撃を受けるのです。そして神を聖書的に考える方法を身につけるよう、またコールソンが警告する悲劇の世界、つまり、教会が、文化的関連性の名のもとに、教理は重要ではないと決断した丁度その時に、世界が真理は重要であるということを発見するようになることを、回避するような探求に、彼らは出かけるのです。選びの教理は、私たちが未だ想像できないような形で、私たちと私たちの子孫にとって良いものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3. 選びの教理に関する第３の牧会的見解は、''選びの教理は、神と自分の役割を置き換えているかどうかを試す、最も良い方法の一つである。'' ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは時代を越える問題ですが、特に人間の自治権を当然と思い込み、権威に対し疑問を抱き、神が存在するかどうかさえ決めることのできる判事席に人間が座る現代では、もっと深刻です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはこの問題を、ローマ9:6―23で最も力強く語っています。語りながら、彼は「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう」という、古代のそして現代の異論を耳にします。それに対し彼は、「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか』と言えるでしょうか」(ローマ9:19―20)と反論します。言い換えれば、神の役割を自分の役割と置き換えるのは、あなたにふさわしくありません。私たちが神を裁いているのか神が私たちを裁いているのかをこれだけはっきりと分析する教理が、他にあるでしょうか。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨブ記の最後でヨブが自分の弁護をし尽くし、人を惑わすような相談役であるエリファズとビルダデとツォファルがいなくなったときの、重要な部分を要約すると、以下のようになります。「ヨブは主に答えて言った。『あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。･･･まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。』」神は、「さあ聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ」とお答えになります。言い換えると、「ヨブよ、しっかりと腰を据えて聞きなさい。わたしに教えようとするのではなく、わたしから学びなさい。わたしを責めるのではなく、信頼しなさい」と神は言っておられ、それに対してヨブは、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」と最終的に応答します(ヨブ42:1―6)。選びの教理は、私たちの中にはそれを見た人達がすでにいますが、私たちが、非難するヨブの視点に立っているのか、あるいは信じるようになった、砕かれへりくだったヨブの視点に立っているのかを、私たちに吟味させます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
魚は自分が濡れていることを理解していません。魚にとっては、濡れることがすべてなのです。それを考えもしません。それと同じように、現代人、つまり、この過去200年以内に生きてきた人たちにとって、自分が神に対しいかに傲慢であるかということを理解するのは、至難の業です。現代の世の中は、神に対する傲慢さがすべてです。それが私たちの泳いでいる海であり、吸っている空気です。織物という私たちの頭のなかに、それがしっかり編みこまれているのです。私たちはそれがそこにあることを分かっていません。傲慢さを通して他のすべてのものを見るので、私たちにはそれが見えないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
C. S. ルイスは次のように言っています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「古代人は、被告が裁判官に近づくように、神に近づいた。ところが現代人はその役割を置き換えてしまっている。人が裁判官で、神が被告席に着いておられるのである。人はとても親切な裁判官で、もし神に、戦争や貧困や疫病をお許しになる神であることの納得のいく答弁がおありになれば、聞く用意ができている。裁判は神の無罪判決で終了するかも知れない。しかし重要なのは、人が判事席に着いており、神が被告人席に着いておられることである。(『''エッセイ集とその他短編''』より、「被告人席に着いておられる神」、レズリー・ウォルムスレー編集、C.S.ルイス著、[ロンドン、ハーパーコリン出版社、2000年出版]、36ページ) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとんど感じられない感情、それが事実上、現代という意味です。神に質問し神を裁いてさえいいと思うその感情を、自分が持っていることさえ分かっていない、思い込みなのです。選びの教理は、この現代世界の傲慢という土着の海から自分が解放されつつあるか、あるいは未だに骨まで浸かりきっているかを、とても効果的に試します。神の主権のうちにある試練にあって試されるのは、私たちにとって良いことです。そうすればヨブと共に、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」と言えるかも知れないからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4. 選びの教理に関する第４の牧会的見解は、''尊い選びの真理と主権の恵みの議論ではなく、知的信仰でもなく、へりくだってそれを受け入れるその受け入れは、究極の、愛のある、リスクを負った奉仕と宣教を、生み出す''ということである。 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一例ですが(ウィリアム･キャレーやアドニラム･ジャドソン、ディビッド･リビングストン、ジョン･パットン、ジョージ･ミューラー、チャールズ･スポルジョン、ジョナサン･エドワーズやその他もっと沢山の人から得ることができると思いますが)、クリスティン･カールソンはアクション･インターナショナルという団体(彼らを知ってください。ディレクターの名前を挙げることができると思いますが、ダグ･二コールズは、過激なクリスチャンの一人で、選びの真理をへりくだって受け入れるがゆえ、結腸癌でルワンダに渡った人です)を通してザンビアで、ストリート･チルドレンのために約一年働いています。以下はクリスティンさんが感謝祭の朝にメールしてきたものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「まず何よりも、私をお選びくださった、神のはかり知れない恵みに感謝しています。私にはこれを受けるに値するものが何もなく、それにも関わらず、み父が私に良きことをなしてくださることに、驚かされ続けています。選ばれたことを私が感謝するその理由は、私が何のために選ばれたかを理解しているからです。神が卓越したお方であることを告げるために選ばれ、イエス様を通して神に永遠に満足するために選ばれ、暗闇ではなく光に生きるために選ばれ、主が良いお方であることを見て味わうために選ばれたということです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを見逃さないでください。皆さんの中には、選びの教理が真実でないか、何の役にも立たないと教えられてきたため、クリスティンさんが言っていることがさっぱり分からない人がいると思います。絶えず外観者で、疑わしい目で見、批判してきています。このメールで、無条件の選びを受け入れ、それに受け入れられることがどのようなことであるかを知っている人の、内側の話をあなたは今聞いています。その効果は、あなたが教えられてきたようなものではありません。その効果に耳を傾けてください。彼女は続けます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「私は神が、心が頑なで、無関心で、反抗的なストリート･チャイルドのヴァスコを、暗闇から主の素晴らしい光へとお選びになったことに、感謝しています。そしてヴァスコの人生にすでに見られる実は、彼がぶどうの木であられるイエス様にとどまっていることの、証しです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; この一年の神の溢れるばかりの慈愛に感謝します。･･･ストリート･チルドレンと友達になり、永遠に続く希望を彼らに分かち合うことができる働きの一部に携われるとは、何と素晴らしいことでしょう。挿入ですが、神が私にこの子供たちに対する思いをお与えくださったことに感謝しています。客観的に言って、汚れた臭い子供達と一緒にゴミの山を踏み歩き、ハイカラなソファ(ダンボール一枚がのった金属製の物)に座るのを好むのは、「普通」ではないと分かっていますが、それが事実で、私はそれを愛おしく思います。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無条件の選びから始まる主権の恵みの教理を受け入れることと、それに受け入れられることは、そのような過激な、リスクをいとわない、犠牲の愛をまず生み出します。それからこの美しさは自分たちで作り上げたのではなく、神が私たちのうちに創出されたという事実に喜んでへりくだるようになるのです。そして私たちは神に栄光をおかえしします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「これは聖書的な考え方ですか?」「聖書では実際に選びの真理はこれらの効果をあらわすよう、神によって意図されているのでしょうか?」とあなたがお尋ねになるなら、その答えは、その通り、です。コロサイ3:12―13の言葉遣いをまず考えて見てください。「それゆえ、''神に選ばれた者''、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に付けなさい。互いに忍び合い、だれか他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」関係があります。パウロの頭の中ではそれは明白で、はっきりしているのです。恵みによってあなたは選ばれており、神のために聖別されており、愛されている、ということの理解は、あなたを、虐待を耐え忍び、いつでも許す用意ができている、この世でもっともへりくだった者に作り上げるはずです。ザンビアや他のどの場所であれ、愛せないような人を愛するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他にもこれがどのように作用するのか、手がかりのある箇所があります。ローマ8:33でパウロは、「''神に選ばれた人''々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです」と言います。その答えは、もしあなたが神に選ばれた者であるならば、あなたを訴えることができる者はいない、です。神はあなたの永遠の味方です。パウロがこう言うのは、その実践的効果が私たちに起こることが当然であると予期しているからだというのは、非常に明瞭です。彼は私たちが確信と喜びを感じ、そして勇敢で恐れ知らずになるよう期待しています。今日あなたが正しくて愛があるように思える行為を前に、決断しなければならない立場に立たされており、それが危険を伴うことだと分かっているところで、「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」という質問の効果を感じますか?「選ばれた」という言葉に確信を生み出す福音の力を感じますか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは主として議論されるべき教理ではなく、楽しむべき教理です。それは論争されるものとして意図されていません。宣教のためのものとして意図されています。人々の間で分裂引き起こすものではありません(分裂を引き起こしますが)。人々を思いやりのある、親切で、へりくだっており、柔和で、寛容な者にさせるものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 5.最後の牧会的見解で終わりにします。''イエス･キリストから離れて選びを考えてはいけません。'' ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エペソ1:4で、「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼[キリスト]にあって選び」と言います。言い換えれば、私たちを罪の束縛から救い出すことを永遠からご計画になられた際、神にはキリストがそれを成す方法の念頭におありになりました。神はキリストの死とよみがえりを通して私たちを救おうと、世界の基が置く前に、ご計画になったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、私たちを救い、ご自身に召されるように成されたのは、私たちが選ばれた者であるかどうかを、私たちに事前に教えないことです。神はイエス･キリストとの関係を通して以外にこれを表示されることはありません。それはキリストが私たちの選びの中心となられるためです。私たちが選ばれた者であるかどうかを教える代わりに、神が成されたのは、ご自分の御子をお遣わしになり、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3:36)、「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています」と言われたのです。その人は自分が選ばれた者であることを知っています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからキリストの御名によって、あなたをお招きします。来て、主をあなたの救い主、あなたの主、あなたの人生の宝として受け入れてください。主は信仰を持って主のみもとに来る者を追い払われません。罪をお赦しになり、義をまとわせてくださいます。聖霊をお与えくださいます。あなたを守ってくださいます。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27)良い羊飼いの声を聞いて、み前に進み出てください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
_____ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; キリスト教月刊誌&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 11 Jul 2017 20:00:55 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E9%81%B8%E3%81%B3%E3%81%AE%E6%95%99%E7%90%86%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E7%89%A7%E4%BC%9A%E7%9A%84%E8%A6%8B%E8%A7%A3</comments>		</item>
		<item>
			<title>探求ー喜び! 見つけたーキリストを!</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%8E%A2%E6%B1%82%E3%83%BC%E5%96%9C%E3%81%B3!_%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%9F%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%92!</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「探求ー喜び! 見つけたーキリストを!」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Quest: Joy! Found: Christ!}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブレーズ･パスカルは1662年に亡くなったフランス人の天才数学者です。31歳になるまで神から逃げ回った後、1654年11月23日夜10:30、パスカルは神に出会い、深く、そして揺るぎなく、イエス･キリストへと改宗しました。そのことを小さな布切れに書き記し、自分のコートの内側に縫い付けているのが、8年後彼が亡くなった時に見つかりました。それにはこう書き記されていました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &amp;amp;gt; 「恵みの年1654年、11月23日月曜日、聖クレメントの晩餐･･･夜10時半を過ぎたあたりから深夜12時半頃、火事。哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。確信と、心からの喜び、平安。イエス･キリストの神。イエス･キリストの神。『私の神、そしてあなたの神。』･･･喜び、喜び、喜び、喜びの涙･･･イエス･キリスト。イエス･キリスト。二度と主から離れることがありませんように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1968年、パスカルとC. S. ルイスとジョナサン･エドワーズとダン･フラーと聖書が、その「喜び、喜び、喜び、喜びの涙」という言葉で、私の人生を永遠に変えるために、チームを組みました。皆さんの礼拝フォルダーの中にあるこの小冊子、『喜びを探し求めて(Quest for Joy)』は、その当時生まれたものです。15年かかって書かれたものではありません。その頃に書かれたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
表紙の裏を見てください。これが幸せを恐れていた私に反するパスカルの一撃です。 &amp;amp;gt; 「すべての人が幸せを求める。例外なしに。いかなる手段を用いてでも、すべての者がこの目的を達成しようとする傾向にある。戦争に行く者の動機も、それを避ける者の動機も、違った見解を伴った同じ望みである。これがすべての者のすべての行動の動機であり、自分の首を吊る者の動機でさえもある。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは事実だろうと思っていました。でもそれは罪だと、私は絶えず恐れていました。幸せになりたいと思うことは、倫理的欠陥だと。自己否定というのは、喜びを否定し、下等の喜びをより素晴らしい喜びのために否定することではない、と。しかし神は私に無理やり改めて聖書を読み直すよう、これらの著者たちを通してたくらまれました。真理が言うことにもう一度チャンスを与えるためです。そして喜びに関し私がそこで見つけたものは、私を永遠に変えました。以来それを理解し、それに生き、それを教えようとして来ました。それは新しいものではありません。何千年もそこにあり続けて来たものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 喜びについて聖書が語ること  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
喜びについて聖書が語っていることから、皆さんに少し味わっていただきたいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''教えられたことすべてにおいて、イエス様の目標は、主の民の喜びである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ヨハネ15:11 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''喜びこそ私たちがキリストに信頼をおくときに神が私たちを満たしてくださるものである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ローマ15:13 「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、･･･あふれさせてくださいますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神の御国は喜びである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ローマ14:17 「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''喜びこそ神の御霊が私たちの内におられることの実である。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; がラテヤ5:22 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、･･･。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''喜びこそ使徒達が成し、書き記したすべてのことの目標である。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 2コリント1:24 「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''クリスチャンになるということは、すべてのものを捨てるのをいとわないような喜びを見出すことである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; マタイ13:44 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''喜びは聖書にある神のことばによって養われ、支えられる。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇19:8 「主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ･･･。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キリストに信頼する者にとって、喜びはすべての悲しみを上回る。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇126:5 「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇30:5後半 「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神ご自身が私たちの喜びである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇43:4 「こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、･･･。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇16:11 「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神のうちにある喜びは、地上のすべての喜びをしのぐ。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇4:7 「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''もし喜びが神のうちにあるならば、誰もその喜びをあなたから奪うことはできない。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ヨハネ16:22 「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心の喜びは満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神は信じるすべての者に差し出しておられる喜びに加わりなさいと、すべての国民と人々を招いておられる。人種差別は一切ない。自民族中心主義も一切ない。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇67:4 「国民が喜び、また喜び歌いますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇66:1 「全地よ。神に向かって喜び叫べ。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''初めから終わりまで、キリスト教全体のメッセージは、素晴らしい喜びの良い知らせである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ルカ2:10 「御使いは彼らに言った。『恐ることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; イザヤ51:11 「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キリストの来臨の際主にまみえるとき、私たちは不滅の喜びに入る。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; マタイ25:23 「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。･･･主人の喜びをともに喜んでくれ。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1968年私にとって恐らく最も衝撃的だったのは、''この神にある喜び''が、命じられているという、単純明快な見解でした。それをその本[『喜びを探し求めて』]の次のページに見ることができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇37:4 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇33:1 「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇32:11 「正しい者たち。主にあって喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
命じられているのは、それが私たちの喜びだけでなく、神の栄光、神の栄誉と評判がかかっているからです。もし私たちが神に喜ばないなら、もし神が私たちの宝であり喜びであり満足でないのなら、主を侮辱することになります。主の栄光が軽くあしらわれます。主の評判に傷がつきます。それゆえ神は、私たちのためとご自身の栄光のため、私たちに喜ぶよう命じられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その発見で私はキリスト教の中心的メッセージ、福音、つまり、イエス･キリストの良い知らせを理解することができたのです。そして、キリスト教の福音と、それがどのように罪人を救い、永遠の喜びを与えてくれるのかのまとめを提供することが、この小冊子、『喜びを探し求めて』で意図されていることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大海を一つの雨つぶにおさめようとする、つまり、神の義と愛を小冊子におさめようとするのは、危険なことです。でもそれは危険であるだけでなく、愛あることであり、必要なことでもあります。神は一度それをなさいました。主は無限のご自身を一人の人間、イエス･キリストにおさめられました(コロサイ2:9)。それは大海を雨つぶにおさめることよりも、はるかに驚くべきことでした。そしてそれは愛あることだったのです。主はご自身神であられるのと同時に人間であられたので、私たち自身の罪のために死ぬことがおできになったのです。でも多くの者が主のうちに神を認めませんでした。私もこの小冊子に多くの人が福音を見ない危険をおかしています。そして私のおかそうとしている危険は大きいのです。それは私が神ではなく、完全無欠でもないからです。でもあなたを愛しており、また神があなたを救うために何を成してくださったかをあなたに見て欲しいのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから私と一緒にこの小冊子を一つ一つ見ていってくださいませんか?もしあなたがイエス様を信じておられないのであれば、神がご自身について、そしてあなたについてあなたに見せようとしておられることに単純に心を開いて、何が本当であるかをあなたに確認させてくださるよう、また本当でないことからあなた自身を守ってくださるよう、主にお願いして下さい。もしあなたが信者であられるなら、自分の人生を築いたものを新たにし、もし神がそう導かれるのなら、この小冊子を用いて世界で最高の知らせを分かち合う用意をしてください。このイースターの日曜日によみがえられたキリストが、あがめられますように! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初の二つの聖書的真理を一緒に考えてみましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その1ー神は私たちをご自身の栄光のために造られた。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。･･･わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ43:6―7) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その2ーすべての人間は神の栄光のために生きるべきである。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(1コリント10:31) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらはほとんど同じではないでしょうか?何が違うのでしょう?これらを一つにまとめてしまう代わりに、二ページにすることはどうして重要なのでしょうか?違いは、真理その１は神の設計を言い、真理その2は私たちの務めを言っているところです。それらを別々にしこのような順序に置くのは、それが現実について何かとても重要なことを語っているからです。もしそれに耳を貸さないなら、私たちはそれが貴重な知らせとしての福音であることを、恐らく見ることはありません。キリストの残酷な死が品のない過剰反応であるかのように恐らく思えるでしょう。重要なのは、神がすべてのものの根源であられ、すべてのものの測りであられ、すべてのもののゴールであられるという点です。そして全世界のすべては神です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の7歳の娘タリタと私は昨日土曜のデートでレーク通りのアービーズへ昼食へ出かけました。ハイワタから降りたところで青いバンが私たちの前へ来て、私はタリタに、「あの車のバンパーステッカーは良くないな」と言いました。娘が座っているところからはそれが見えなかったので、娘に読んであげました。「『すべては私』だって。」大文字の『私』です。イエス様の福音が多くの者にとってほとんど理解できないのはこのためです。それはまったく違った現実の幻に根付いています。私たちがすべてなのではありません。すべては神です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は私たちがご自身の栄光のために生きるよう設計なさいました。これは至るところに[書かれて]あります。そしてそれゆえ主の栄光のために生きることが私たちの人生の召しであり、私たちの務めなのです。自分を試してみてください。あなたに対する神の愛とは、あなたを中心に置くことでしょうか、それともあなたに、大きな犠牲を払ってでもご自身を中心にした永遠の喜びをあなたに与えることでしょうか?それがあなたが造られた理由です。それがあなたの喜びとなり、主の栄光となるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは次の二つの聖書的真理をご一緒に考えて見てください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その３ー私たちのすべては、神に栄光をお返しすべきようにはお返ししていない。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その4ー私たちのすべては、神の正しいさばきのもとにある。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「罪から来る報酬は死です。」（ローマ6:23) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらもまた、最初の二つのように、一ページに一緒にしてしまうことができないでしょうか?「私たちのすべては罪人であるので、神の罪の定めを受けるにあたいし、処罰を受けるにあたいする」と言うことができます。でももしそのように言ってしまうと、とても重要な何かが失われてしまいます。罪というのは私たちが人々をあしらって来ているそのあしらい方ではなく、私たちが神をあしらって来ているそのあしらい方であると言う、真理その3で強調されているものが、失われてしまうのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのバンパーステッカーが「私の罪は、すべて私である」と言う意味であったとしても、それは間違いです。神が被造物の中で主ご自身の意図の中心であられます。そして神が罪人であるということの、中心であられます。それは、ローマ3:23が言うように、神からの栄誉を受けることができない、つまり、神の偉大さ以外の別の偉大さを好み、楽しむ、という意味です。罪は第一にそして何よりもまず、私たちが人をどのようにあしらうかではなく、神をどのようにあしらうかということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神を侮辱することとしての罪の重さを感じなければ、私たちは地獄の恐ろしさやキリストの血にまみれた十字架を理解することは決してありません。罪とは人が人を悪用することだけではありません。罪とはおもに、人が神を悪用することです。人が神を拒否することです。人が神を無視することです。人が神以外のものを好むことです。それゆえ人は神を軽くあしらうのです。これこそが全世界で最悪の侮辱です。真理その4の罰がそんなに不公平に思えないようになるには、私たちはこれを感じなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちのすべてが神をさげすんで来ており、主の怒りは私たちに下っています。それは私たちたちにとって大きな問題です。それは経済よりも大きいです。イラクやあるいは北朝鮮との外交関係よりも大きいです。結婚問題や痛い癌よりも大きいです。これがキリスト教の福音が第一にそしておもに救済するものです。私たちはどのようにして神の正しいさばきから救われることができるでしょうか?福音にはそれ以外にも多くの素晴らしい効果がありますが、これが最も重要なもので、他の事がらは福音を基本としています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、福音です。最後の二つの聖書的真理を一緒に考えて見ましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その5ー神はご自身の唯一の御子イエス様を、永遠のいのちと喜びを与えるためにお遣わしになった。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「『キリスト･イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(1テモテ1:15) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その6ーキリストの死によって買い取られた恩恵は、悔い改め主に信頼する者のものである。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「こういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」(使徒3:19) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも･･･救われます。」(使徒16:31) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
再度、これらの二つのページを一つにすることができます。私たちは、「罪と咎と罪の定めの救済法は何でしょうか?答えは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます』です」と言うことができます。でもそれだと、大変中途半端は答えになってしまいます。もしあなたが溺れかけているなら、助けを叫び求めることだけが救済措置ではありません。救助員と救助ラインと(必要とあれば)人工呼吸が必要です。助けを求める叫びは、救助活動に連絡をつけることができます。もしあなたが心臓発作を起こしたら、911(救急電話)に電話をすることがおもな救済措置ではありません。救急車と救急隊と心肺機能蘇生と、看護師と外科医と薬品が救済措置です。911にかける電話は、救助活動に連絡をつけるだけです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の罪を悔い改め、イエス様を信じる(真理その6)と言うのは、そのようなものです。それがキリストにある神の救いのみわざにつながることです。キリストは2000年前に私たちを救うため、何かをなさいました。主は来られ、神の御子として完璧な人生を生きられました。主は主を信じるすべての者の代わりに、身代わりとして死なれました。1ペテロ3:18、「キリストも一度罪のために死なれました。それは、･･･私たちを神のみもとに導くためでした。」私たちの信仰は私たちの救いの基盤ではありません。それが私たちの救いの基盤と私たちをつなげるのです。''キリスト''が私たちの救いの基盤です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主が私たちの罪の定めの代わりに死なれ罪に定められたこと、主の私たちの罪と不完全さの代わりの完全な義、そして主の、私たちの救い、また私たちの喜びを永遠に有効にし確保するためのよみがえり。聖書は、「そして、もしキリストがよみがえられなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。･･･しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(1コリント15:17、20)と言います。主が私たちのために死なれそしてよみがえられたので、主に信頼する者はすべて永遠のいのちと止めどなく続く喜びを持つのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いのちをかけて主に信頼して下さい。あなたの結婚、あるいは独身を主に信頼してください。あなたのビジネスと経済的状態を主に信頼して下さい。あなたの富を主に信頼してください。そしてこれらすべての根底に、自分の罪と咎と恐れを主により頼んで下さい。主はすでに救いのみわざを成してくださったのです。すべてが終わりました。主は死なれ、主はよみがえられたのです。そして主の救いは、主にある信仰によって、あなたのものになります。そしてそうなったとき、あなたが造られたその目的、神の栄光があなたの永遠の喜びのうちに繁栄される、という目的の達成が、実現します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
___ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 23 Jun 2017 20:24:10 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%8E%A2%E6%B1%82%E3%83%BC%E5%96%9C%E3%81%B3!_%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%9F%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%92!</comments>		</item>
		<item>
			<title>探求ー喜び! 見つけたーキリストを!</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E6%8E%A2%E6%B1%82%E3%83%BC%E5%96%9C%E3%81%B3!_%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%9F%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%92!</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|Quest: Joy! Found: Christ!}}   ブレーズ･パスカルは1662年に亡くなったフランス人の天才数学者です。31歳になるまで神から逃げ回っ...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Quest: Joy! Found: Christ!}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブレーズ･パスカルは1662年に亡くなったフランス人の天才数学者です。31歳になるまで神から逃げ回った後、1654年11月23日夜10:30、パスカルは神に出会い、深く、そして揺るぎなく、イエス･キリストへと改宗しました。そのことを小さな布切れに書き記し、自分のコートの内側に縫い付けているのが、8年後彼が亡くなった時に見つかりました。それにはこう書き記されていました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt; &amp;amp;gt; 「恵みの年1654年、11月23日月曜日、聖クレメントの晩餐･･･夜10時半を過ぎたあたりから深夜12時半頃、火事。哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。確信と、心からの喜び、平安。イエス･キリストの神。イエス･キリストの神。『私の神、そしてあなたの神。』･･･喜び、喜び、喜び、喜びの涙･･･イエス･キリスト。イエス･キリスト。二度と主から離れることがありませんように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1968年、パスカルとC. S. ルイスとジョナサン･エドワーズとダン･フラーと聖書が、その「喜び、喜び、喜び、喜びの涙」という言葉で、私の人生を永遠に変えるために、チームを組みました。皆さんの礼拝フォルダーの中にあるこの小冊子、『喜びを探し求めて(Quest for Joy)』は、その当時生まれたものです。15年かかって書かれたものではありません。その頃に書かれたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
表紙の裏を見てください。これが幸せを恐れていた私に反するパスカルの一撃です。 &amp;amp;gt; 「すべての人が幸せを求める。例外なしに。いかなる手段を用いてでも、すべての者がこの目的を達成しようとする傾向にある。戦争に行く者の動機も、それを避ける者の動機も、違った見解を伴った同じ望みである。これがすべての者のすべての行動の動機であり、自分の首を吊る者の動機でさえもある。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは事実だろうと思っていました。でもそれは罪だと、私は絶えず恐れていました。幸せになりたいと思うことは、倫理的欠陥だと。自己否定というのは、喜びを否定し、下等の喜びをより素晴らしい喜びのために否定することではない、と。しかし神は私に無理やり改めて聖書を読み直すよう、これらの著者たちを通してたくらまれました。真理が言うことにもう一度チャンスを与えるためです。そして喜びに関し私がそこで見つけたものは、私を永遠に変えました。以来それを理解し、それに生き、それを教えようとして来ました。それは新しいものではありません。何千年もそこにあり続けて来たものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 喜びについて聖書が語ること  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
喜びについて聖書が語っていることから、皆さんに少し味わっていただきたいと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''教えられたことすべてにおいて、イエス様の目標は、主の民の喜びである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ヨハネ15:11 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''喜びこそ私たちがキリストに信頼をおくときに神が私たちを満たしてくださるものである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ローマ15:13 「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、･･･あふれさせてくださいますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神の御国は喜びである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ローマ14:17 「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''喜びこそ神の御霊が私たちの内におられることの実である。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; がラテヤ5:22 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、･･･。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''喜びこそ使徒達が成し、書き記したすべてのことの目標である。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 2コリント1:24 「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''クリスチャンになるということは、すべてのものを捨てるのをいとわないような喜びを見出すことである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; マタイ13:44 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''喜びは聖書にある神のことばによって養われ、支えられる。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇19:8 「主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ･･･。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キリストに信頼する者にとって、喜びはすべての悲しみを上回る。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇126:5 「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇30:5後半 「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神ご自身が私たちの喜びである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇43:4 「こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、･･･。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇16:11 「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神のうちにある喜びは、地上のすべての喜びをしのぐ。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇4:7 「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''もし喜びが神のうちにあるならば、誰もその喜びをあなたから奪うことはできない。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ヨハネ16:22 「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心の喜びは満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神は信じるすべての者に差し出しておられる喜びに加わりなさいと、すべての国民と人々を招いておられる。人種差別は一切ない。自民族中心主義も一切ない。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇67:4 「国民が喜び、また喜び歌いますように。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇66:1 「全地よ。神に向かって喜び叫べ。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''初めから終わりまで、キリスト教全体のメッセージは、素晴らしい喜びの良い知らせである。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ルカ2:10 「御使いは彼らに言った。『恐ることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; イザヤ51:11 「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''キリストの来臨の際主にまみえるとき、私たちは不滅の喜びに入る。''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; マタイ25:23 「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。･･･主人の喜びをともに喜んでくれ。』」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1968年私にとって恐らく最も衝撃的だったのは、''この神にある喜び''が、命じられているという、単純明快な見解でした。それをその本[『喜びを探し求めて』]の次のページに見ることができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇37:4 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇33:1 「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 詩篇32:11 「正しい者たち。主にあって喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
命じられているのは、それが私たちの喜びだけでなく、神の栄光、神の栄誉と評判がかかっているからです。もし私たちが神に喜ばないなら、もし神が私たちの宝であり喜びであり満足でないのなら、主を侮辱することになります。主の栄光が軽くあしらわれます。主の評判に傷がつきます。それゆえ神は、私たちのためとご自身の栄光のため、私たちに喜ぶよう命じられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その発見で私はキリスト教の中心的メッセージ、福音、つまり、イエス･キリストの良い知らせを理解することができたのです。そして、キリスト教の福音と、それがどのように罪人を救い、永遠の喜びを与えてくれるのかのまとめを提供することが、この小冊子、『喜びを探し求めて』で意図されていることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大海を一つの雨つぶにおさめようとする、つまり、神の義と愛を小冊子におさめようとするのは、危険なことです。でもそれは危険であるだけでなく、愛あることであり、必要なことでもあります。神は一度それをなさいました。主は無限のご自身を一人の人間、イエス･キリストにおさめられました(コロサイ2:9)。それは大海を雨つぶにおさめることよりも、はるかに驚くべきことでした。そしてそれは愛あることだったのです。主はご自身神であられるのと同時に人間であられたので、私たち自身の罪のために死ぬことがおできになったのです。でも多くの者が主のうちに神を認めませんでした。私もこの小冊子に多くの人が福音を見ない危険をおかしています。そして私のおかそうとしている危険は大きいのです。それは私が神ではなく、完全無欠でもないからです。でもあなたを愛しており、また神があなたを救うために何を成してくださったかをあなたに見て欲しいのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから私と一緒にこの小冊子を一つ一つ見ていってくださいませんか?もしあなたがイエス様を信じておられないのであれば、神がご自身について、そしてあなたについてあなたに見せようとしておられることに単純に心を開いて、何が本当であるかをあなたに確認させてくださるよう、また本当でないことからあなた自身を守ってくださるよう、主にお願いして下さい。もしあなたが信者であられるなら、自分の人生を築いたものを新たにし、もし神がそう導かれるのなら、この小冊子を用いて世界で最高の知らせを分かち合う用意をしてください。このイースターの日曜日によみがえられたキリストが、あがめられますように! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初の二つの聖書的真理を一緒に考えてみましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その1ー神は私たちをご自身の栄光のために造られた。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。･･･わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ43:6―7) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その2ーすべての人間は神の栄光のために生きるべきである。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(1コリント10:31) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらはほとんど同じではないでしょうか?何が違うのでしょう?これらを一つにまとめてしまう代わりに、二ページにすることはどうして重要なのでしょうか?違いは、真理その１は神の設計を言い、真理その2は私たちの務めを言っているところです。それらを別々にしこのような順序に置くのは、それが現実について何かとても重要なことを語っているからです。もしそれに耳を貸さないなら、私たちはそれが貴重な知らせとしての福音であることを、恐らく見ることはありません。キリストの残酷な死が品のない過剰反応であるかのように恐らく思えるでしょう。重要なのは、神がすべてのものの根源であられ、すべてのものの測りであられ、すべてのもののゴールであられるという点です。そして全世界のすべては神です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の7歳の娘タリタと私は昨日土曜のデートでレーク通りのアービーズへ昼食へ出かけました。ハイワタから降りたところで青いバンが私たちの前へ来て、私はタリタに、「あの車のバンパーステッカーは良くないな」と言いました。娘が座っているところからはそれが見えなかったので、娘に読んであげました。「『すべては私』だって。」大文字の『私』です。イエス様の福音が多くの者にとってほとんど理解できないのはこのためです。それはまったく違った現実の幻に根付いています。私たちがすべてなのではありません。すべては神です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は私たちがご自身の栄光のために生きるよう設計なさいました。これは至るところに[書かれて]あります。そしてそれゆえ主の栄光のために生きることが私たちの人生の召しであり、私たちの務めなのです。自分を試してみてください。あなたに対する神の愛とは、あなたを中心に置くことでしょうか、それともあなたに、大きな犠牲を払ってでもご自身を中心にした永遠の喜びをあなたに与えることでしょうか?それがあなたが造られた理由です。それがあなたの喜びとなり、主の栄光となるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは次の二つの聖書的真理をご一緒に考えて見てください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その３ー私たちのすべては、神に栄光をお返しすべきようにはお返ししていない。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その4ー私たちのすべては、神の正しいさばきのもとにある。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「罪から来る報酬は死です。」（ローマ6:23) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらもまた、最初の二つのように、一ページに一緒にしてしまうことができないでしょうか?「私たちのすべては罪人であるので、神の罪の定めを受けるにあたいし、処罰を受けるにあたいする」と言うことができます。でももしそのように言ってしまうと、とても重要な何かが失われてしまいます。罪というのは私たちが人々をあしらって来ているそのあしらい方ではなく、私たちが神をあしらって来ているそのあしらい方であると言う、真理その3で強調されているものが、失われてしまうのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのバンパーステッカーが「私の罪は、すべて私である」と言う意味であったとしても、それは間違いです。神が被造物の中で主ご自身の意図の中心であられます。そして神が罪人であるということの、中心であられます。それは、ローマ3:23が言うように、神からの栄誉を受けることができない、つまり、神の偉大さ以外の別の偉大さを好み、楽しむ、という意味です。罪は第一にそして何よりもまず、私たちが人をどのようにあしらうかではなく、神をどのようにあしらうかということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神を侮辱することとしての罪の重さを感じなければ、私たちは地獄の恐ろしさやキリストの血にまみれた十字架を理解することは決してありません。罪とは人が人を悪用することだけではありません。罪とはおもに、人が神を悪用することです。人が神を拒否することです。人が神を無視することです。人が神以外のものを好むことです。それゆえ人は神を軽くあしらうのです。これこそが全世界で最悪の侮辱です。真理その4の罰がそんなに不公平に思えないようになるには、私たちはこれを感じなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちのすべてが神をさげすんで来ており、主の怒りは私たちに下っています。それは私たちたちにとって大きな問題です。それは経済よりも大きいです。イラクやあるいは北朝鮮との外交関係よりも大きいです。結婚問題や痛い癌よりも大きいです。これがキリスト教の福音が第一にそしておもに救済するものです。私たちはどのようにして神の正しいさばきから救われることができるでしょうか?福音にはそれ以外にも多くの素晴らしい効果がありますが、これが最も重要なもので、他の事がらは福音を基本としています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、福音です。最後の二つの聖書的真理を一緒に考えて見ましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その5ー神はご自身の唯一の御子イエス様を、永遠のいのちと喜びを与えるためにお遣わしになった。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「『キリスト･イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(1テモテ1:15) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 聖書的真理その6ーキリストの死によって買い取られた恩恵は、悔い改め主に信頼する者のものである。  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「こういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」(使徒3:19) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも･･･救われます。」(使徒16:31) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
再度、これらの二つのページを一つにすることができます。私たちは、「罪と咎と罪の定めの救済法は何でしょうか?答えは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます』です」と言うことができます。でもそれだと、大変中途半端は答えになってしまいます。もしあなたが溺れかけているなら、助けを叫び求めることだけが救済措置ではありません。救助員と救助ラインと(必要とあれば)人工呼吸が必要です。助けを求める叫びは、救助活動に連絡をつけることができます。もしあなたが心臓発作を起こしたら、911(救急電話)に電話をすることがおもな救済措置ではありません。救急車と救急隊と心肺機能蘇生と、看護師と外科医と薬品が救済措置です。911にかける電話は、救助活動に連絡をつけるだけです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の罪を悔い改め、イエス様を信じる(真理その6)と言うのは、そのようなものです。それがキリストにある神の救いのみわざにつながることです。キリストは2000年前に私たちを救うため、何かをなさいました。主は来られ、神の御子として完璧な人生を生きられました。主は主を信じるすべての者の代わりに、身代わりとして死なれました。1ペテロ3:18、「キリストも一度罪のために死なれました。それは、･･･私たちを神のみもとに導くためでした。」私たちの信仰は私たちの救いの基盤ではありません。それが私たちの救いの基盤と私たちをつなげるのです。''キリスト''が私たちの救いの基盤です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主が私たちの罪の定めの代わりに死なれ罪に定められたこと、主の私たちの罪と不完全さの代わりの完全な義、そして主の、私たちの救い、また私たちの喜びを永遠に有効にし確保するためのよみがえり。聖書は、「そして、もしキリストがよみがえられなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。･･･しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(1コリント15:17、20)と言います。主が私たちのために死なれそしてよみがえられたので、主に信頼する者はすべて永遠のいのちと止めどなく続く喜びを持つのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いのちをかけて主に信頼して下さい。あなたの結婚、あるいは独身を主に信頼してください。あなたのビジネスと経済的状態を主に信頼して下さい。あなたの富を主に信頼してください。そしてこれらすべての根底に、自分の罪と咎と恐れを主により頼んで下さい。主はすでに救いのみわざを成してくださったのです。すべてが終わりました。主は死なれ、主はよみがえられたのです。そして主の救いは、主にある信仰によって、あなたのものになります。そしてそうなったとき、あなたが造られたその目的、神の栄光があなたの永遠の喜びのうちに繁栄される、という目的の達成が、実現します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
___ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 23 Jun 2017 20:23:54 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%8E%A2%E6%B1%82%E3%83%BC%E5%96%9C%E3%81%B3!_%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%9F%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%92!</comments>		</item>
		<item>
			<title>偉大なそして憐れみに富むローマ1―8章のメッセージ</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%81%89%E5%A4%A7%E3%81%AA%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AB%E5%AF%8C%E3%82%80%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E1%E2%80%958%E7%AB%A0%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B8</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「偉大なそして憐れみに富むローマ1―8章のメッセージ」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Mighty and Merciful Message of Romans 1-8}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはスペイン宣教のための支援を集めるため、ローマの教会に手紙を書きます。ローマ15:24で彼は、「[イスパニアに行く]途中あなたがたに会い、･･･あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; と書いています。彼はまだ一度もローマに行ったことがなく、そこにいるクリスチャンのほとんどと出会ったことがまだありません。それで彼はこの16章で彼の福音を彼らが理解するよう、詳しく説明します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべての宣教師たちがローマ書を知り、ローマ書を説教しますように。そして送り出す私たちがローマ書を知り、ローマ書に生きますように。そうすれば、パウロがローマからスペインに送り出され支援されたように、宣教師らを送り出すようになるからです。この偉大なそして憐れみに富む書は、金持ちのアメリカ人の生活を戦時中のようなスタイルに変え、彼らに福音の目的に資金を注ぎ込ませるようになります。そしてこの書の偉大なまた憐れみに富むメッセージは、困難にある宣教師たちの口を通して、闇の力を破壊し、最も難しい場所にキリストの教会を立てるようになります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== この手紙の多文化的、グローバルな特徴  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのためこの手紙を読み始めるにあたって、多文化的、グローバルな要旨があることは、驚きではありません。ローマ1:5でパウロは彼の使徒としての目標を私たちに語ります。「私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。」そのため彼は説教するのです。そのため彼はスペインへ行こうとしているのです。イエス・キリストにある信仰とそこから来る従順を「あらゆる国の人々の中に!」もたらすため、彼はこの手紙を書くのです。ローマ書は諸国、キリストをまだ信じていない人種に関する書です。福音がたどり着いていなければ、義と認められず、聖化されず、それゆえ栄光へと変えられない人々のことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして14節で、彼は使徒としての務めを再び私たちに言います。「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」そこで私たちは彼はユダヤ人を忘れていると思いがちですが、16節で、「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と彼は言います。ユダヤ人、ギリシャ人、未開人、知識人、知識のない人!言い換えれば、このローマ書の偉大なそして憐れみに富むメッセージは、国や文化や学歴の違いを打ち破るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはキリストの教会が急速に広がった1世紀とほとんど変わらない、私たちの多元的な時代に見なければならない、とても重要なものです。キリスト教は一部族の宗教ではなく、すべての民族、言語、人々、国民から信仰と忠誠を呼び起こす宗教です。イエス様は沢山ある神々のうちの神ではありません。主の主、王の王であられ、そして天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は他にはないのです。ローマ書の偉大な、そして憐れみに富むメッセージは、救われるため沢山ある方法のうちの一方法ではありません。これこそ救われる道です。なぜならイエス・キリストは、神のひとり子であり、救い主であられるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この主張は絶えず論争されてきました。特に今日のアメリカでも、イスラム教徒やユダヤ教徒の間でも勿論のことですが、クリスチャンだと公言する者たちの間でさえ、論争されています。フライデー・スター・トリビューン &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; に、キリストにある信仰の必要性を否定する記事が載ったことがあります。カトリック司祭とアメリカ人ユダヤ教指導者の会は「契約と宣教についての考察」という文書を発表しましたが、著者が言うその主旨は、「ユダヤ人を改宗させようとする努力は、『神学的にこれ以上受け入れられない』･･･なぜならユダヤ人はすでに『神との契約のうちにある』からである。」(2002年9月20日金曜日、A23ページ)です。言い換えれば、キリストを拒否するユダヤ人には救いに至る道があり、キリストを受け入れるクリスチャンには別の救いの道がある、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)とイエス様が言われたことを踏まえると、これは間違った、そして心痛むキリスト教司教の発言です。それゆえ、主を受け入れる異邦人と主を拒否するユダヤ人に関して、イエス様は「たくさんの人[異邦人]が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子ら[主を受け入れないユダヤ人たち]は外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ8:11―12)と言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのためローマ書の偉大なそして憐れみに富むメッセージの普遍的主張を私たちが見ることは、この上もなく重要です。私たちは人の意見や人の哲学、あるいは自己向上プログラム、一部族の宗教、あるいは何か偏狭的で制限されたものをここで扱っているのではありません。ただお一人の、唯一の神が、ご自身のたったひとりの御子を罪人の代わりに死ぬため遣わされ、よみがえらせることによって人々を救うという、他に類のないみわざを歴史の中で成されたという、実際にあったニュースを扱っているのです。このニュースを拒否することは、滅ぶこと意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== この書簡のテーマであるローマ1:16―17  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは自分の趣旨をローマ1:16―17で述べ、それを説明し、残りの書簡で適用しています。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。17なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」パウロはまず、彼のメッセージ、つまり彼の福音には救う力があり、憐れみ深く、それは救いを得させる神の力である、と言います。そしてこの救いは信仰によって起こります。救いを得させる福音の力は、イエス・キリストにある信仰によって、私たちの魂を貫くのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして彼は17節でなぜ福音に力があるのかを説明します。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて」。福音は神の義をあらわすので、キリストを信じる者に救いを得させる力があります。それは何を意味するのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ1:18―20ー私たちのすべてはなぜ救われなければならないのか  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それを説明する前にパウロは、なぜ私たちのすべては救われる必要があるのかを、ローマ1:18―3:19にかけて示します。ローマ3：9に彼の要約を見ます。「私たちは前に、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」そして19節、「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。」ですので私たちのすべては罪人です。私たちすべてが神のみ怒りの下にあるのです(1:18）。私たちのうちには神に申し開きができる義がなく、3:20では私たちは自分で自分を救ったり、義とすることはできないということを明確にしています。「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。」私たちは罪人です。私たちは神の正しく聖いみ怒りの下にあるのです。そして私たちは行いによっては自分を救うことも義とすることもできません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ3:21―31ーイエス様にある信仰による神の義の啓示と、その意味  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこでパウロはローマ1:16―17の自分の趣旨に戻り、信仰による神の義が啓示されているので、福音は信じる者に救いを得させる神の力であるというのが、どういう意味なのかを説明します。21―22節で、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました[ここで彼は17節で言うところの神の義の啓示を取り上げています]。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では福音に信じるものを救う力を与える神の義の啓示とは、一体何でしょうか?それは「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」のあらわれです。それは信仰を通してあらわされる、私たちに対する賜物としての神の義です。それが義認と呼ばれるものです。それゆえパウロは24節で、キリストを信じる罪人は、「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです」と言うのです。福音を救いにいたる神の力とする神の義の啓示は、キリストを信じる罪人に対する神の義の実演と賜物です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ3:25では神がどのようにして、正しい方であるままで罪人を義と認めることができるのかが、説明されています。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」言い換えれば、神は私たちの代わりにご自身の御子が死なれるよう定められました。そうすればみ父のみ怒りと呪いが、信じる者にではなく、主にかけられるからです。主はこのようにして、罪に対するご自身の憎しみと正しいさばきを示されたのです。こうして、26節が言うように、今や主は「ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになる」ことができるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでキリストの死は私たちが義と認められるための土台です。もし私たちがイエス様を信じるなら、神はイエス様のために私たちを義とみなしてくださるのです。私たちは義人であるかのようにみなされ、待遇されるのです。それが義認です。そして28節でパウロは、この神のみ前で正しいとみなされることは、行いによらず、信仰によるのであると、はっきりさせます。「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで、この国際的、宣教的、多文化的暗示を見逃さないでください。パウロ自身29―30節でそれを引き出しています。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人[諸国民]にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。30神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。」キリストにある信仰による義認というのは、諸国民、すべての人種、そして私たちが出会うすべての人々に対し私たちが持っている、偉大な、憐れみに富む、国際的メッセージです。神と正しい関係になるのには、救い主はお一人、十字架は一つ、よみがえりは一つ、その方法も一つだけです。それは行いによるのではなく、キリストにある信仰によって、主の義が私たちのものとみなされることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ4章ー行いによらずした、信仰によるアブラハムの義認  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4章ではパウロはアブラハムを例えに、行いによらずした信仰による義認を論証しています。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」(３節)。この書の最も貴重な聖句の一つが、アブラハムの例から立てられています。(5節)「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」行いではなく、信仰が義とみなされるのです。そして正しいものではなく、正しくないものが義と認められるのです。これこそ事実、良い知らせです。これが偉大な、そして憐れみに富む、ローマ書のメッセージです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ5章ー苦難と死を目の前にしての希望と安心  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5章ではパウロは1節で[章全体を]要約しています。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」それから彼は義と認められた者たちの苦難と死の現実について語り始め、8章に出てくる強く強調された患難について先取りして言います。3節では私たちがなぜ患難の中で喜んでいることができるのかを説明しています。それは、それが忍耐と品性と希望を生み出すからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこの患難の背景に相反して、大きなことから小さなことへ、というように、彼は8章で主張するのと全く同じようにして、もし神が大変なことを成就してくださるのなら、簡単なことも成してくださるはずだ、と言います。ローマ8:32を思い出してください。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された[大変なこと]方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださら[簡単なこと]ないことがありましょう。」パウロはローマ5:9でそれと全く同じように主張します。「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たち[それは大変なことです]が、彼によって神の怒りから救われる[それは簡単なことです]のは、なおさらのことです。」10節でも同じような主張をしています。「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられた[それは大変なことです]のなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかる[それは簡単なことです]のは、なおさらのことです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
要するに、苦難と死を目の前にしての希望と安心は、ちょうど8章と同じようなものです。正常なキリスト教は患難に満ち溢れています。「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14:22)ローマ書の偉大なそして憐れみに富むメッセージは、困難を予期した上で述べられていることを、決して忘れないでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
死はどの文化においても、どっしりと重い現実です。もしあなたに福音があるなら、あなたには死についての弁明と、死を目の前にした希望がなければなりません。それがパウロがローマ5:12―21で言及していることです。彼はそれを、不従順によって罪と死をもたらしたアダムを、従順によって義といのちをもたらされたキリストと比較することによって、言及しています。19節はその比較が最も明確にされています。「すなわち、ちょうどひとりの人の[アダムの]不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの[キリストの]従順によって多くの人が義人とされるのです。」アダムの罪と罪の宣告は私たちのものとみなされました。それは私たちが生まれながらにして彼と一つだからです。そして、キリストの従順と免罪が私たちのものとみなされました。それは私たちが信仰によって主と一つとされているからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それからパウロは21節で、キリストを通しての恵みの勝利を要約しています。「罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ6章ーキリストと一体となることとは、罪に死に奴隷から解放されること  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私たちが信仰のみによって義と認められるのなら、そして罪のあるところには恵みも満ちあふれるのなら、恵みが満ちあふれるために、罪を犯そうではないか、と言う、解決しなければならない問題へと至ります。パウロは6章で、信仰は私たちをキリストと実際に一つにするので、私たちは実際に主とともに罪に死に、罪の奴隷から解放されるという体験をする、という教えを持って、それに答えます(6:6、17―18)。すべての義と認められた人々は、聖くされていくのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ7章ー他の人のものとなるため律法に死ぬ  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして7章でパウロは、律法を守ることが私たちを聖くするのではない、あるいは私たちをイエス様のようにするのではない、と主張します。いいえ、「あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。･･･私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(7:4、6) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クリスチャンの人生は、「他の人･･･と結ばれ」るため(7:4)、無償の賜物とイエス・キリストとの関係を熱心に求めた人生です。主こそクリスチャン人生の偉大な、憐れみ深い、模範となる権威者であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ8章ーキリストの愛から私たちを引き離すものは何もない  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ書8章は、私たちが最近学んだ素晴らしい8章です。私たちをキリストの愛から引き離すのは誰でしょう(35節)?それとローマ7:4のつながりが見えますか?他の人、つまり、死者の中からよみがえられたイエス・キリストと結ばれるため、律法に死ぬ、というものです。それが生きることの鍵と、死ぬことの鍵です。では私たちをキリストの愛から引き離すのは誰でしょうか?答えは、誰もいない、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」(ローマ14:8―9) 主のご支配のもとに生き、主のご支配のもとに死んでください。そしてキリストにある神の、何にも勝るもののない愛を歌ってください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
____ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 新聞&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 20 Jun 2017 20:38:50 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%81%89%E5%A4%A7%E3%81%AA%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AB%E5%AF%8C%E3%82%80%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E1%E2%80%958%E7%AB%A0%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B8</comments>		</item>
		<item>
			<title>偉大なそして憐れみに富むローマ1―8章のメッセージ</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%81%89%E5%A4%A7%E3%81%AA%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AB%E5%AF%8C%E3%82%80%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E1%E2%80%958%E7%AB%A0%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B8</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Mighty and Merciful Message of Romans 1-8}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはスペイン宣教のための支援を集めるため、ローマの教会に手紙を書きます。ローマ15:24で彼は、「[イスパニアに行く]途中あなたがたに会い、･･･あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; と書いています。彼はまだ一度もローマに行ったことがなく、そこにいるクリスチャンのほとんどと出会ったことがまだありません。それで彼はこの16章で彼の福音を彼らが理解するよう、詳しく説明します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべての宣教師たちがローマ書を知り、ローマ書を説教しますように。そして送り出す私たちがローマ書を知り、ローマ書に生きますように。そうすれば、パウロがローマからスペインに送り出され支援されたように、宣教師らを送り出すようになるからです。この偉大なそして憐れみに富む書は、金持ちのアメリカ人の生活を戦時中のようなスタイルに変え、彼らに福音の目的に資金を注ぎ込ませるようになります。そしてこの書の偉大なまた憐れみに富むメッセージは、困難にある宣教師たちの口を通して、闇の力を破壊し、最も難しい場所にキリストの教会を立てるようになります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== この手紙の多文化的、グローバルな特徴  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのためこの手紙を読み始めるにあたって、多文化的、グローバルな要旨があることは、驚きではありません。ローマ1:5でパウロは彼の使徒としての目標を私たちに語ります。「私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。」そのため彼は説教するのです。そのため彼はスペインへ行こうとしているのです。イエス・キリストにある信仰とそこから来る従順を「あらゆる国の人々の中に!」もたらすため、彼はこの手紙を書くのです。ローマ書は諸国、キリストをまだ信じていない人種に関する書です。福音がたどり着いていなければ、義と認められず、聖化されず、それゆえ栄光へと変えられない人々のことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして14節で、彼は使徒としての務めを再び私たちに言います。「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」そこで私たちは彼はユダヤ人を忘れていると思いがちですが、16節で、「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と彼は言います。ユダヤ人、ギリシャ人、未開人、知識人、知識のない人!言い換えれば、このローマ書の偉大なそして憐れみに富むメッセージは、国や文化や学歴の違いを打ち破るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはキリストの教会が急速に広がった1世紀とほとんど変わらない、私たちの多元的な時代に見なければならない、とても重要なものです。キリスト教は一部族の宗教ではなく、すべての民族、言語、人々、国民から信仰と忠誠を呼び起こす宗教です。イエス様は沢山ある神々のうちの神ではありません。主の主、王の王であられ、そして天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は他にはないのです。ローマ書の偉大な、そして憐れみに富むメッセージは、救われるため沢山ある方法のうちの一方法ではありません。これこそ救われる道です。なぜならイエス・キリストは、神のひとり子であり、救い主であられるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この主張は絶えず論争されてきました。特に今日のアメリカでも、イスラム教徒やユダヤ教徒の間でも勿論のことですが、クリスチャンだと公言する者たちの間でさえ、論争されています。フライデー・スター・トリビューン &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; に、キリストにある信仰の必要性を否定する記事が載ったことがあります。カトリック司祭とアメリカ人ユダヤ教指導者の会は「契約と宣教についての考察」という文書を発表しましたが、著者が言うその主旨は、「ユダヤ人を改宗させようとする努力は、『神学的にこれ以上受け入れられない』･･･なぜならユダヤ人はすでに『神との契約のうちにある』からである。」(2002年9月20日金曜日、A23ページ)です。言い換えれば、キリストを拒否するユダヤ人には救いに至る道があり、キリストを受け入れるクリスチャンには別の救いの道がある、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)とイエス様が言われたことを踏まえると、これは間違った、そして心痛むキリスト教司教の発言です。それゆえ、主を受け入れる異邦人と主を拒否するユダヤ人に関して、イエス様は「たくさんの人[異邦人]が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子ら[主を受け入れないユダヤ人たち]は外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ8:11―12)と言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのためローマ書の偉大なそして憐れみに富むメッセージの普遍的主張を私たちが見ることは、この上もなく重要です。私たちは人の意見や人の哲学、あるいは自己向上プログラム、一部族の宗教、あるいは何か偏狭的で制限されたものをここで扱っているのではありません。ただお一人の、唯一の神が、ご自身のたったひとりの御子を罪人の代わりに死ぬため遣わされ、よみがえらせることによって人々を救うという、他に類のないみわざを歴史の中で成されたという、実際にあったニュースを扱っているのです。このニュースを拒否することは、滅ぶこと意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== この書簡のテーマであるローマ1:16―17  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは自分の趣旨をローマ1:16―17で述べ、それを説明し、残りの書簡で適用しています。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。17なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」パウロはまず、彼のメッセージ、つまり彼の福音には救う力があり、憐れみ深く、それは救いを得させる神の力である、と言います。そしてこの救いは信仰によって起こります。救いを得させる福音の力は、イエス・キリストにある信仰によって、私たちの魂を貫くのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして彼は17節でなぜ福音に力があるのかを説明します。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて」。福音は神の義をあらわすので、キリストを信じる者に救いを得させる力があります。それは何を意味するのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ1:18―20ー私たちのすべてはなぜ救われなければならないのか  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それを説明する前にパウロは、なぜ私たちのすべては救われる必要があるのかを、ローマ1:18―3:19にかけて示します。ローマ3：9に彼の要約を見ます。「私たちは前に、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」そして19節、「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。」ですので私たちのすべては罪人です。私たちすべてが神のみ怒りの下にあるのです(1:18）。私たちのうちには神に申し開きができる義がなく、3:20では私たちは自分で自分を救ったり、義とすることはできないということを明確にしています。「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。」私たちは罪人です。私たちは神の正しく聖いみ怒りの下にあるのです。そして私たちは行いによっては自分を救うことも義とすることもできません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ3:21―31ーイエス様にある信仰による神の義の啓示と、その意味  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこでパウロはローマ1:16―17の自分の趣旨に戻り、信仰による神の義が啓示されているので、福音は信じる者に救いを得させる神の力であるというのが、どういう意味なのかを説明します。21―22節で、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました[ここで彼は17節で言うところの神の義の啓示を取り上げています]。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では福音に信じるものを救う力を与える神の義の啓示とは、一体何でしょうか?それは「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」のあらわれです。それは信仰を通してあらわされる、私たちに対する賜物としての神の義です。それが義認と呼ばれるものです。それゆえパウロは24節で、キリストを信じる罪人は、「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです」と言うのです。福音を救いにいたる神の力とする神の義の啓示は、キリストを信じる罪人に対する神の義の実演と賜物です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ3:25では神がどのようにして、正しい方であるままで罪人を義と認めることができるのかが、説明されています。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」言い換えれば、神は私たちの代わりにご自身の御子が死なれるよう定められました。そうすればみ父のみ怒りと呪いが、信じる者にではなく、主にかけられるからです。主はこのようにして、罪に対するご自身の憎しみと正しいさばきを示されたのです。こうして、26節が言うように、今や主は「ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになる」ことができるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでキリストの死は私たちが義と認められるための土台です。もし私たちがイエス様を信じるなら、神はイエス様のために私たちを義とみなしてくださるのです。私たちは義人であるかのようにみなされ、待遇されるのです。それが義認です。そして28節でパウロは、この神のみ前で正しいとみなされることは、行いによらず、信仰によるのであると、はっきりさせます。「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで、この国際的、宣教的、多文化的暗示を見逃さないでください。パウロ自身29―30節でそれを引き出しています。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人[諸国民]にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。30神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。」キリストにある信仰による義認というのは、諸国民、すべての人種、そして私たちが出会うすべての人々に対し私たちが持っている、偉大な、憐れみに富む、国際的メッセージです。神と正しい関係になるのには、救い主はお一人、十字架は一つ、よみがえりは一つ、その方法も一つだけです。それは行いによるのではなく、キリストにある信仰によって、主の義が私たちのものとみなされることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ4章ー行いによらずした、信仰によるアブラハムの義認  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4章ではパウロはアブラハムを例えに、行いによらずした信仰による義認を論証しています。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」(３節)。この書の最も貴重な聖句の一つが、アブラハムの例から立てられています。(5節)「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」行いではなく、信仰が義とみなされるのです。そして正しいものではなく、正しくないものが義と認められるのです。これこそ事実、良い知らせです。これが偉大な、そして憐れみに富む、ローマ書のメッセージです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ5章ー苦難と死を目の前にしての希望と安心  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5章ではパウロは1節で[章全体を]要約しています。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」それから彼は義と認められた者たちの苦難と死の現実について語り始め、8章に出てくる強く強調された患難について先取りして言います。3節では私たちがなぜ患難の中で喜んでいることができるのかを説明しています。それは、それが忍耐と品性と希望を生み出すからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこの患難の背景に相反して、大きなことから小さなことへ、というように、彼は8章で主張するのと全く同じようにして、もし神が大変なことを成就してくださるのなら、簡単なことも成してくださるはずだ、と言います。ローマ8:32を思い出してください。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された[大変なこと]方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださら[簡単なこと]ないことがありましょう。」パウロはローマ5:9でそれと全く同じように主張します。「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たち[それは大変なことです]が、彼によって神の怒りから救われる[それは簡単なことです]のは、なおさらのことです。」10節でも同じような主張をしています。「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられた[それは大変なことです]のなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかる[それは簡単なことです]のは、なおさらのことです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
要するに、苦難と死を目の前にしての希望と安心は、ちょうど8章と同じようなものです。正常なキリスト教は患難に満ち溢れています。「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14:22)ローマ書の偉大なそして憐れみに富むメッセージは、困難を予期した上で述べられていることを、決して忘れないでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
死はどの文化においても、どっしりと重い現実です。もしあなたに福音があるなら、あなたには死についての弁明と、死を目の前にした希望がなければなりません。それがパウロがローマ5:12―21で言及していることです。彼はそれを、不従順によって罪と死をもたらしたアダムを、従順によって義といのちをもたらされたキリストと比較することによって、言及しています。19節はその比較が最も明確にされています。「すなわち、ちょうどひとりの人の[アダムの]不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの[キリストの]従順によって多くの人が義人とされるのです。」アダムの罪と罪の宣告は私たちのものとみなされました。それは私たちが生まれながらにして彼と一つだからです。そして、キリストの従順と免罪が私たちのものとみなされました。それは私たちが信仰によって主と一つとされているからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それからパウロは21節で、キリストを通しての恵みの勝利を要約しています。「罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ6章ーキリストと一体となることとは、罪に死に奴隷から解放されること  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私たちが信仰のみによって義と認められるのなら、そして罪のあるところには恵みも満ちあふれるのなら、恵みが満ちあふれるために、罪を犯そうではないか、と言う、解決しなければならない問題へと至ります。パウロは6章で、信仰は私たちをキリストと実際に一つにするので、私たちは実際に主とともに罪に死に、罪の奴隷から解放されるという体験をする、という教えを持って、それに答えます(6:6、17―18)。すべての義と認められた人々は、聖くされていくのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ7章ー他の人のものとなるため律法に死ぬ  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして7章でパウロは、律法を守ることが私たちを聖くするのではない、あるいは私たちをイエス様のようにするのではない、と主張します。いいえ、「あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。･･･私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(7:4、6) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クリスチャンの人生は、「他の人･･･と結ばれ」るため(7:4)、無償の賜物とイエス・キリストとの関係を熱心に求めた人生です。主こそクリスチャン人生の偉大な、憐れみ深い、模範となる権威者であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ8章ーキリストの愛から私たちを引き離すものは何もない  ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ書8章は、私たちが最近学んだ素晴らしい8章です。私たちをキリストの愛から引き離すのは誰でしょう(35節)?それとローマ7:4のつながりが見えますか?他の人、つまり、死者の中からよみがえられたイエス・キリストと結ばれるため、律法に死ぬ、というものです。それが生きることの鍵と、死ぬことの鍵です。では私たちをキリストの愛から引き離すのは誰でしょうか?答えは、誰もいない、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」(ローマ14:8―9) 主のご支配のもとに生き、主のご支配のもとに死んでください。そしてキリストにある神の、何にも勝るもののない愛を歌ってください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
____ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 新聞&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 20 Jun 2017 20:38:27 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%81%89%E5%A4%A7%E3%81%AA%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AB%E5%AF%8C%E3%82%80%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E1%E2%80%958%E7%AB%A0%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B8</comments>		</item>
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			<title>偉大なそして憐れみに富むローマ1―8章のメッセージ</title>
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			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|The Mighty and Merciful Message of Romans 1–8}}   パウロはスペイン宣教のための支援を集めるため、ローマの教会に手紙を書きます。ロ...&lt;/p&gt;
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&lt;div&gt;{{info|The Mighty and Merciful Message of Romans 1–8}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはスペイン宣教のための支援を集めるため、ローマの教会に手紙を書きます。ローマ15:24で彼は、「[イスパニアに行く]途中あなたがたに会い、･･･あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです。」 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; と書いています。彼はまだ一度もローマに行ったことがなく、そこにいるクリスチャンのほとんどと出会ったことがまだありません。それで彼はこの16章で彼の福音を彼らが理解するよう、詳しく説明します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべての宣教師たちがローマ書を知り、ローマ書を説教しますように。そして送り出す私たちがローマ書を知り、ローマ書に生きますように。そうすれば、パウロがローマからスペインに送り出され支援されたように、宣教師らを送り出すようになるからです。この偉大なそして憐れみに富む書は、金持ちのアメリカ人の生活を戦時中のようなスタイルに変え、彼らに福音の目的に資金を注ぎ込ませるようになります。そしてこの書の偉大なまた憐れみに富むメッセージは、困難にある宣教師たちの口を通して、闇の力を破壊し、最も難しい場所にキリストの教会を立てるようになります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== この手紙の多文化的、グローバルな特徴 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのためこの手紙を読み始めるにあたって、多文化的、グローバルな要旨があることは、驚きではありません。ローマ1:5でパウロは彼の使徒としての目標を私たちに語ります。「私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。」そのため彼は説教するのです。そのため彼はスペインへ行こうとしているのです。イエス・キリストにある信仰とそこから来る従順を「あらゆる国の人々の中に!」もたらすため、彼はこの手紙を書くのです。ローマ書は諸国、キリストをまだ信じていない人種に関する書です。福音がたどり着いていなければ、義と認められず、聖化されず、それゆえ栄光へと変えられない人々のことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして14節で、彼は使徒としての務めを再び私たちに言います。「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」そこで私たちは彼はユダヤ人を忘れていると思いがちですが、16節で、「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と彼は言います。ユダヤ人、ギリシャ人、未開人、知識人、知識のない人!言い換えれば、このローマ書の偉大なそして憐れみに富むメッセージは、国や文化や学歴の違いを打ち破るのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはキリストの教会が急速に広がった1世紀とほとんど変わらない、私たちの多元的な時代に見なければならない、とても重要なものです。キリスト教は一部族の宗教ではなく、すべての民族、言語、人々、国民から信仰と忠誠を呼び起こす宗教です。イエス様は沢山ある神々のうちの神ではありません。主の主、王の王であられ、そして天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は他にはないのです。ローマ書の偉大な、そして憐れみに富むメッセージは、救われるため沢山ある方法のうちの一方法ではありません。これこそ救われる道です。なぜならイエス・キリストは、神のひとり子であり、救い主であられるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この主張は絶えず論争されてきました。特に今日のアメリカでも、イスラム教徒やユダヤ教徒の間でも勿論のことですが、クリスチャンだと公言する者たちの間でさえ、論争されています。フライデー・スター・トリビューン &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; に、キリストにある信仰の必要性を否定する記事が載ったことがあります。カトリック司祭とアメリカ人ユダヤ教指導者の会は「契約と宣教についての考察」という文書を発表しましたが、著者が言うその主旨は、「ユダヤ人を改宗させようとする努力は、『神学的にこれ以上受け入れられない』･･･なぜならユダヤ人はすでに『神との契約のうちにある』からである。」(2002年9月20日金曜日、A23ページ)です。言い換えれば、キリストを拒否するユダヤ人には救いに至る道があり、キリストを受け入れるクリスチャンには別の救いの道がある、ということです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)とイエス様が言われたことを踏まえると、これは間違った、そして心痛むキリスト教司教の発言です。それゆえ、主を受け入れる異邦人と主を拒否するユダヤ人に関して、イエス様は「たくさんの人[異邦人]が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子ら[主を受け入れないユダヤ人たち]は外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ8:11―12)と言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのためローマ書の偉大なそして憐れみに富むメッセージの普遍的主張を私たちが見ることは、この上もなく重要です。私たちは人の意見や人の哲学、あるいは自己向上プログラム、一部族の宗教、あるいは何か偏狭的で制限されたものをここで扱っているのではありません。ただお一人の、唯一の神が、ご自身のたったひとりの御子を罪人の代わりに死ぬため遣わされ、よみがえらせることによって人々を救うという、他に類のないみわざを歴史の中で成されたという、実際にあったニュースを扱っているのです。このニュースを拒否することは、滅ぶこと意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== この書簡のテーマであるローマ1:16―17 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは自分の趣旨をローマ1:16―17で述べ、それを説明し、残りの書簡で適用しています。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。17なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」パウロはまず、彼のメッセージ、つまり彼の福音には救う力があり、憐れみ深く、それは救いを得させる神の力である、と言います。そしてこの救いは信仰によって起こります。救いを得させる福音の力は、イエス・キリストにある信仰によって、私たちの魂を貫くのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして彼は17節でなぜ福音に力があるのかを説明します。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて」。福音は神の義をあらわすので、キリストを信じる者に救いを得させる力があります。それは何を意味するのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ1:18―20ー私たちのすべてはなぜ救われなければならないのか ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それを説明する前にパウロは、なぜ私たちのすべては救われる必要があるのかを、ローマ1:18―3:19にかけて示します。ローマ3：9に彼の要約を見ます。「私たちは前に、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」そして19節、「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。」ですので私たちのすべては罪人です。私たちすべてが神のみ怒りの下にあるのです(1:18）。私たちのうちには神に申し開きができる義がなく、3:20では私たちは自分で自分を救ったり、義とすることはできないということを明確にしています。「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。」私たちは罪人です。私たちは神の正しく聖いみ怒りの下にあるのです。そして私たちは行いによっては自分を救うことも義とすることもできません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ3:21―31ーイエス様にある信仰による神の義の啓示と、その意味 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこでパウロはローマ1:16―17の自分の趣旨に戻り、信仰による神の義が啓示されているので、福音は信じる者に救いを得させる神の力であるというのが、どういう意味なのかを説明します。21―22節で、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました[ここで彼は17節で言うところの神の義の啓示を取り上げています]。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では福音に信じるものを救う力を与える神の義の啓示とは、一体何でしょうか?それは「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」のあらわれです。それは信仰を通してあらわされる、私たちに対する賜物としての神の義です。それが義認と呼ばれるものです。それゆえパウロは24節で、キリストを信じる罪人は、「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです」と言うのです。福音を救いにいたる神の力とする神の義の啓示は、キリストを信じる罪人に対する神の義の実演と賜物です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ3:25では神がどのようにして、正しい方であるままで罪人を義と認めることができるのかが、説明されています。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」言い換えれば、神は私たちの代わりにご自身の御子が死なれるよう定められました。そうすればみ父のみ怒りと呪いが、信じる者にではなく、主にかけられるからです。主はこのようにして、罪に対するご自身の憎しみと正しいさばきを示されたのです。こうして、26節が言うように、今や主は「ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになる」ことができるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでキリストの死は私たちが義と認められるための土台です。もし私たちがイエス様を信じるなら、神はイエス様のために私たちを義とみなしてくださるのです。私たちは義人であるかのようにみなされ、待遇されるのです。それが義認です。そして28節でパウロは、この神のみ前で正しいとみなされることは、行いによらず、信仰によるのであると、はっきりさせます。「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで、この国際的、宣教的、多文化的暗示を見逃さないでください。パウロ自身29―30節でそれを引き出しています。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人[諸国民]にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。30神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。」キリストにある信仰による義認というのは、諸国民、すべての人種、そして私たちが出会うすべての人々に対し私たちが持っている、偉大な、憐れみに富む、国際的メッセージです。神と正しい関係になるのには、救い主はお一人、十字架は一つ、よみがえりは一つ、その方法も一つだけです。それは行いによるのではなく、キリストにある信仰によって、主の義が私たちのものとみなされることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ4章ー行いによらずした、信仰によるアブラハムの義認 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4章ではパウロはアブラハムを例えに、行いによらずした信仰による義認を論証しています。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」(３節)。この書の最も貴重な聖句の一つが、アブラハムの例から立てられています。(5節)「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」行いではなく、信仰が義とみなされるのです。そして正しいものではなく、正しくないものが義と認められるのです。これこそ事実、良い知らせです。これが偉大な、そして憐れみに富む、ローマ書のメッセージです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ5章ー苦難と死を目の前にしての希望と安心 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5章ではパウロは1節で[章全体を]要約しています。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」それから彼は義と認められた者たちの苦難と死の現実について語り始め、8章に出てくる強く強調された患難について先取りして言います。3節では私たちがなぜ患難の中で喜んでいることができるのかを説明しています。それは、それが忍耐と品性と希望を生み出すからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこの患難の背景に相反して、大きなことから小さなことへ、というように、彼は8章で主張するのと全く同じようにして、もし神が大変なことを成就してくださるのなら、簡単なことも成してくださるはずだ、と言います。ローマ8:32を思い出してください。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された[大変なこと]方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださら[簡単なこと]ないことがありましょう。」パウロはローマ5:9でそれと全く同じように主張します。「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たち[それは大変なことです]が、彼によって神の怒りから救われる[それは簡単なことです]のは、なおさらのことです。」10節でも同じような主張をしています。「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられた[それは大変なことです]のなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかる[それは簡単なことです]のは、なおさらのことです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
要するに、苦難と死を目の前にしての希望と安心は、ちょうど8章と同じようなものです。正常なキリスト教は患難に満ち溢れています。「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14:22)ローマ書の偉大なそして憐れみに富むメッセージは、困難を予期した上で述べられていることを、決して忘れないでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
死はどの文化においても、どっしりと重い現実です。もしあなたに福音があるなら、あなたには死についての弁明と、死を目の前にした希望がなければなりません。それがパウロがローマ5:12―21で言及していることです。彼はそれを、不従順によって罪と死をもたらしたアダムを、従順によって義といのちをもたらされたキリストと比較することによって、言及しています。19節はその比較が最も明確にされています。「すなわち、ちょうどひとりの人の[アダムの]不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの[キリストの]従順によって多くの人が義人とされるのです。」アダムの罪と罪の宣告は私たちのものとみなされました。それは私たちが生まれながらにして彼と一つだからです。そして、キリストの従順と免罪が私たちのものとみなされました。それは私たちが信仰によって主と一つとされているからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それからパウロは21節で、キリストを通しての恵みの勝利を要約しています。「罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ6章ーキリストと一体となることとは、罪に死に奴隷から解放されること ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私たちが信仰のみによって義と認められるのなら、そして罪のあるところには恵みも満ちあふれるのなら、恵みが満ちあふれるために、罪を犯そうではないか、と言う、解決しなければならない問題へと至ります。パウロは6章で、信仰は私たちをキリストと実際に一つにするので、私たちは実際に主とともに罪に死に、罪の奴隷から解放されるという体験をする、という教えを持って、それに答えます(6:6、17―18)。すべての義と認められた人々は、聖くされていくのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ7章ー他の人のものとなるため律法に死ぬ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして7章でパウロは、律法を守ることが私たちを聖くするのではない、あるいは私たちをイエス様のようにするのではない、と主張します。いいえ、「あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。･･･私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(7:4、6) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クリスチャンの人生は、「他の人･･･と結ばれ」るため(7:4)、無償の賜物とイエス・キリストとの関係を熱心に求めた人生です。主こそクリスチャン人生の偉大な、憐れみ深い、模範となる権威者であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ローマ8章ーキリストの愛から私たちを引き離すものは何もない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ書8章は、私たちが最近学んだ素晴らしい8章です。私たちをキリストの愛から引き離すのは誰でしょう(35節)?それとローマ7:4のつながりが見えますか?他の人、つまり、死者の中からよみがえられたイエス・キリストと結ばれるため、律法に死ぬ、というものです。それが生きることの鍵と、死ぬことの鍵です。では私たちをキリストの愛から引き離すのは誰でしょうか?答えは、誰もいない、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」(ローマ14:8―9) 主のご支配のもとに生き、主のご支配のもとに死んでください。そしてキリストにある神の、何にも勝るもののない愛を歌ってください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
____ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 新聞&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 20 Jun 2017 20:37:36 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%81%89%E5%A4%A7%E3%81%AA%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AB%E5%AF%8C%E3%82%80%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E1%E2%80%958%E7%AB%A0%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B8</comments>		</item>
		<item>
			<title>寛大さ、真理を語ること、暴力、そして律法</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%AF%9B%E5%A4%A7%E3%81%95%E3%80%81%E7%9C%9F%E7%90%86%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%81%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E5%BE%8B%E6%B3%95</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|Tolerance, Truth-Telling, Violence, and Law}}   '''''クリスチャンはいかにして他の宗教を信奉する人たちと関わるべきか、その原則　'''''  ...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Tolerance, Truth-Telling, Violence, and Law}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''''クリスチャンはいかにして他の宗教を信奉する人たちと関わるべきか、その原則　''''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2001年9月11日以来、キリスト教徒とイスラム教徒は互いにどのように関わっていけばよいのかという質問には、益々差し迫ったものがあります。この質問は、クリスチャンがどのようにこの多元的世界で生きていくように召されているかという大きな問題の一部です。さらに具体的に言うと、議会制民主主義の理想によって定義された多元的な文脈の中での宗教の自由に関して、アメリカ人クリスチャンとして、私たちはどのように考え行動すればいいのでしょうか?特に、強力な文化と宗教が自由を愛することあるいは民主主義の理想を分かち合わない世界で、私たちはどのようにキリストの主権を証しして行けばいいのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 2002年8月26日に、ベツレヘム･バプテスト教会の長老たちは、以下の20の原則を、聖書的で誠実なクリスチャンのガイドラインとして承認しました。私たちはまず第一に、私たちの監督の下にある教会の指導のために、教会に対し、第二に真剣に考えることとクリスチャンの益のために、より広いクリスチャンの共同体に対し、そして第三に、相互理解のために、クリスチャンでないコミュニティーに対し、それらの原則を推薦します。私たちの最大の目的は、イエス･キリストのユニークさと主権を、クリスチャンが謙遜と勇気を持ってすすめることができるように手助けすることです。そうすれば他者が信仰を持って主を褒めたたえ、永遠のいのちを持つことができるかも知れないからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1.''' 他者が認めようが認めまいが、私たちは神のまことの聖書的理解と主が備えられた救いの方法、キリストが形作られお教えになった愛ときよさと義の人生を、感謝と喜びを持って堅く握り締めるべきです。(1コリント15:2、ヘブル3:6、4:14、6:18、10:23、黙示録2:13、25、3:11) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2.''' 教会、またはこの世の両方で、霊感を受けた神のみことばである聖書、すなわちクリスチャンでない者たちが承認する部分と、承認しない部分のうちにあらわされている主のご計画の全体を、私たちははっきりとまた明確にさせなければなりません。私たちは批判や避難を避けるために私たちの信仰の解釈を隠蔽すべきではありません。(マタイ10:27―28、エペソ6:19―20、2コリント4:2、ガラテヤ1:10) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3.''' キリストを否定するような信仰の間違いや害を指摘するのは、愛です。害には一時的な影響があるだけでなく、特にキリストの真理を拒否することによって起こす永遠の痛みを伴います。これは、キリストを信頼しない結果危険な状態にある人々に良いものを切望する熱心さを持って、警告されなければなりません。(ルカ6:31-32、ローマ13:10、1テモテ4:8、2テサロニケ1:8-9、2コリント5:20) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4.''' 私たちクリスチャンは、自分の罪を認め、十字架に掛けられ、よみがえられた救い主の救いがどうしようもなく必要であることを認めるべきです。あたかも自分に優れた知性や知恵や良さがあるから救われる価値があったのだと、私たちが気取った態度を取らないようにするためです。私たちは恵みによって、いのちを与える真理と、赦しと、よろこびのパンを見つけた物乞いです。それをすべての人に与えたいと願うのです。それは彼らも私たちに加わって、キリストの素晴らしさをたたえ、楽しむようになるためです。(1コリント1:26-30、4:7、1ペテロ5:6、ヤコブ4:8-10、 ルカ18:13-14、マタイ10:8後半) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5.''' 私たちはキリストを、宗教間の議論の勝利としてではなく、歴史の中で最も信頼がおける、美しく、重要で、尊いお方で、また１)ご自身の苦しみと死によって、私たちの身代わりに神のみ怒りを吸収して下さった、2)罪のない生涯を生きることによって、まったき聖であられる神の御前で私たちの義となってくださり、その義が、イエス様を信じた時に私たちに転嫁された、この二つの意味で、どうしようもなく必要とされ、愛される身代わりとして提示するべきです。 (1コリント2:1-2、2コリント4:4、1ペテロ2:6-7、ローマ3:24-26、5:18-19、ガラテヤ3:13、2 コリント5:21) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''6.''' キリストと、主が買い取って下さった益のすべてと私たちを一つにしてくれるキリスト教信仰とは、自分の功績になるような行ないではなく、子どものような、自己に絶望しキリストの価値とみわざに信頼をおく信仰です。他者にクリスチャンになるよう召すとき、その召しは、神のために働く召し、あるいは正しいまたは愛のある行ないをすることによって主に認めてもらおうと言う召しではありません。私たちは、自立本願の一切を捨て、イエス･キリストの救いの人生と死に完全に依存するよう、人々を召すのです。(エペソ2:8-9、テトス3:5、ローマ4:4-5、ローマ10:1-4、ピリピ3:9) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''7.''' 他信仰の間違いを公に指摘することは、正しく愛あることだと私たちは信じます。もしそれが十分な証拠をもって指摘されたら、それらの信仰経典や代表広報担当者らは実際にその間違いを言い表します。他信仰を不正確に伝えることを避けようと努力するのはとても重要です。それは失礼なだけでなく、私たち自身の信頼性をも台無しにしてしまいます。(使徒 6:8-7:53、マルコ12:24、8:33、使徒3:15、5:30、出エジプト20:16、エペソ4:25) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''8.''' 他の宗教の間違いを掘り起こす際、救われるためにキリストを受け入れない人々に対し、私たちは悲しさと同情を感じ、またそれを表現すべきです。(ルカ19:41-42、ピリピ3:18、ローマ9:1-3、10:1) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''9.''' 私たちは第一にクリスチャンであり、アメリカ人であるのはその次であることを、明確にするべきです。私たちはこの世ではよそ者であり追放された者です。私たちの最も深い、まことの国籍は天にあります。私たちの最終的主であり指導者であられるのは、合衆国の大統領ではなく、イエス･キリストです。この第一のそして最も深い忠誠心は、私たちの世俗の国籍が他のアメリカ人と私たちを一つにするのより堅く、あらゆる国籍のクリスチャンたちと私たちを一つにします。多くのアメリカ人の価値観と態度に、私たちは異議を唱える国民です。アメリカ文化はキリスト教ではありません。自分自身の文化の不正で神を恐れない側面を批判するのは、愛国心のないことではないと、私たちは信じます。(ピリピ3:20、1ペテロ2:11、マタイ22:21、使徒5:29、1テモテ6:14-15、黙示録17:14、エペソ5:11) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''10.''' 神に敵意を持ち、キリストの真理の周りでは落ち着かない俗世間では、「公正な戦い」を期待するべきではありません。それゆえ、虐待や歪曲や悪口に対する私たちの応答は、怒りや恨みではなく、悪に対し善で返すことで真理に心を開かせるかも知れないと、希望のうちにまた祈りを持って、真理を忍耐を持って証しすることであるべきです。あらゆる種類の迫害は当然であり、アメリカで私たちが与えられている保護のほとんどは、この世の歴史の中では普通でないと言うことを私たちは認識する必要があります。私たちの証しは、自分の権利について恨みがましくフーフーと鼻息を切らすことによっては前進しません。それは「苦しみながら、絶えず喜ぶ」ことによって、また善で悪に打ち勝つことによって、そして真理についての揺るがない発言と論理的弁護によって、前進します。(マタイ5:43-45、ローマ12:17-21、1コリント4:12-13、1 テサロニケ5:15、2テモテ3:12、1ペテロ2:15、19-24、3:9、4:12) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''11.''' 自分の信仰を拡大するためにあらゆる暴力行為を用いることを、私たちは否認します。聖書的クリスチャンは政治的あるいは個人的暴力行為を用いて自分の信仰を広めることをしません。クリスチャンは苦しめることによってではなく、自分が苦しむことによって、自分の信仰を広めます。本物のクリスチャンは力やごまかしでは強要されません。(ルカ10:3、2 コリント5:11、コロサイ2:24、1ペテロ2:19-24、黙示12:11) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''12.''' キリストは、個人的にこの世にあらわれるとき、ご自身を拒否してきた者たちをさばかれると言うことを、私たちは認め、また告げ知らせるべきです。主は彼らを地獄の苦痛にある永遠のさばきへと送られます。しかしながらキリストの来るべき時代の終わりの暴力は、彼らの信仰のゆえであると、彼らに対する暴力を行使する決定的理由にするべきではなく、理由にすることさえないと言うことも、明確にする必要があります。これはキリストの権限であり、私たちの権限ではありません。(マタイ25:46、ローマ12:19、テサロニケ1:7-9、1ペテロ2:20-23、黙示録6:16) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''13.''' キリストご自身が直接来られる前のこの時代、民主権限は、その信仰のゆえに個々人を報いたり罰するために、腕力やあらゆる強制力を用いたり、援助を差し控えたりするべきではありません。(説得や見本の力によって求められる自発的信仰の聖書的パターンと、改宗を可能にする神の恵みの必要性のうちに、それが暗示されています。) (2コリント5:11、1 テサロニケ1:5-6、エペソ2:8-9、使徒6:14、ピリピ1:29、2テモテ2:24-26) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''14.''' 犯罪を犯すあるいは他者の犯罪を幇助する意思を示すために、しかるべき法手続きを踏まえた通信手段がそれを示さない限り、民主権限がその発言や著書や作品のゆえに個々人を処罰するために、腕力やいかなる強制力、援助差し控えも、用いるべきではありません。(これを支持する聖書箇所、第13項を参照) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''15.''' 神は個々人や教会ではなく、民間政府に、公正と安全を守るために「剣を保持する」務めをお与えになっていると私たちは信じます。(マタイ26:52、ローマ13:1-4、ローマ12:17-21、1ペテロ2:20-23、3:9、14) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''16.''' 私たちは武力侵略に対する自己防衛の戦争と、人々のその信仰のゆえの宗教戦争を区別するべきです。この識別は、その信仰を力によって文化を支配する権利を含んで定義する特定の宗教によっては恐らく認められないということを、私たちは認識すべきです。しかし私たちは、彼らの武力侵略に対する私たちの抵抗は、彼らの信仰に対する宗教的攻撃であるという侵略者の主張を受け入れるより、この識別を主張すべきです。そのような国防の根拠が(宗教と言論と報道と集会の)自由に対する公民権であり、宗教攻撃の強調を非難することではないと、私たちは議論すべきです。私たちは他の宗教にまったく同意しませんが、しかし武装した国防に同意しないわけではありません。私たちは一方で、宗教的に煽られた武力に対する事実上の軍の抵抗、その一方で、宗教の否定ではなく、非暴力的な説得や魅了するという方法を用いて改宗者を獲得しようとする、すべての宗教のための自由を求める、私たちの抵抗の動機を区別するべきです。 (前述の原則で暗示されています) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''17.''' 信仰と言動は法律の前では同じ順位を持っていないことを私たちは認めるべきです。いかなる信仰も民主権限によっては罰せられるべきではありません。しかし信仰に根付いた言動の中には法にそぐわないものも中にはあり、それゆえ民主権限によって罰せられることがあります。それらの言動には、他者殺害、暴行、強盗、あらゆる形の差別などが含まれます。信仰の自由と宗教の自由に基づいてその社会でどの言動が法律で禁じられるかは、行政機関や司法機関、または少数派の権利を守る憲法によって備えられた抑制と均衡で、説得や議論、代議員の選挙過程によって決められます。不明確さは認識されるべきです。(第13項を支持する聖書箇所と、前述の原則の意味から合わせ取っていることを参照) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''18.''' 一方で間違った信仰や罪深い言動を批判する権利と、もう一方で、この批判からある人々が出す、批判された信仰の主唱者が結果的に合法的に虐待を受けるような、誤った推測を区別すべきです。私たちは間違っていると、あるいは罪人として批判され非難されるのは、「虐待」の形態であるという主張を受け入れるべきではありません。誰かの信仰を間違っているとか、害があるとか、誰かの言動を罪深いとか有害であると公に呼ぶのは、犯罪(人種差別犯罪とは言われるかも知れませんが)ではありません。信仰や言動や提言のすべてに関して必要なのは、誰かが間違っており、正当な理由がなく、悪影響を及ぼすという議論です。政治的議論のすべてはこのようにして前進します。これは宗教の分野では規則違反ではありません。たとえば、合衆国代議員が、彼が提出した議案が不備のあるもので、誤った情報に基づいており、貧困者を傷つけてしまうと言うことで、議会の席で非難された後、路上で激しく暴行を受けたとします。私たちはその非難した議員を、後に起こった暴行と責めたり、暴力を煽ったと告発したりしません。従って私たちは一方で信仰と言動に対する公の場での批判と、もう一方で、これらの間違った信仰と踏み深い言動が虐待を受けることを認可する違法的な憶測を区別しなければなりません。(第3項と第7項を支持する聖書箇所を参照) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''19.''' 様々な信仰は確信と言動のすべての内面的な意味を変えますが、すべての確信と言動の形態は変えないと信じます。従って、たとえば、二人の人がそれぞれ違った信仰を持っておりながら、堕胎について同じ確信と言動の形態を持っていたとします。私たちはすべての人がキリストにある信仰を持ち、キリストが人生の主であり宝であるという内面的意味を持つ確信と言動を持つことを望みます。しかし、とは言え、私たちと違う信仰を持つ人たちが私たちと同じ確信と言動を持つことを喜びます。もしこの共有作用が私たちのキリストを掲げる確信の根拠と意味を損なわなければ、彼らと共に社会的問題で提携することは可能であると私たちは信じます。(1コリント10:31、コロサイ3:17、ローマ14:23) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''20.''' すべての宗教、世界観、人生観は私たちの文化に影響を与えることと形作る努力を自由にしていいと私たちは信じます。私たちはこの文化形成の努力で武力や賄賂や偽りを用いることを否認します。福音の宣教、真理を出版すること、愛と公正のモデル化、祈りの力、説得の行使、政治の進行に参加することを支持します。私たちは、すべての法はある団体の言動的確信をすべての者に「強要する」と言うことを認めます。それゆえ、言動を支配する法は、それが「誰かの倫理観を社会に強要する」ので、悪いと言うのは、説得力のある批判ではありません。とは言え、これは私たちが、法律を制定する過程に影響を与える数のない少数派の法的自由を守る原則、法、政策を支持することに、さらなる重要性をもたらします。これらの自由の度合いは上記で述べた原則、特に第17項で決定されます。(前述の原則とそれを支持する聖書箇所で暗示されている) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2001年9月11日以来、キリスト教徒とイスラム教徒は互いにどのように関わっていけばよいのかという質問には、益々差し迫ったものがあります。この質問は、クリスチャンがどのようにこの多元的世界で生きていくように召されているかという大きな問題の一部です。さらに具体的に言うと、議会制民主主義の理想によって定義された多元的な文脈の中での宗教の自由に関して、アメリカ人クリスチャンとして、私たちはどのように考え行動すればいいのでしょうか?特に、強力な文化と宗教が自由を愛することあるいは民主主義の理想を分かち合わない世界で、私たちはどのようにキリストの主権を証しして行けばいいのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 2002年8月26日に、ベツレヘム･バプテスト教会の長老たちは、以下の20の原則を、聖書的で誠実なクリスチャンのガイドラインとして承認しました。私たちはまず第一に、私たちの監督の下にある教会の指導のために、教会に対し、第二に真剣に考えることとクリスチャンの益のために、より広いクリスチャンの共同体に対し、そして第三に、相互理解のために、クリスチャンでないコミュニティーに対し、それらの原則を推薦します。私たちの最大の目的は、イエス･キリストのユニークさと主権を、クリスチャンが謙遜と勇気を持ってすすめることができるように手助けすることです。そうすれば他者が信仰を持って主を褒めたたえ、永遠のいのちを持つことができるかも知れないからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''1.''' 他者が認めようが認めまいが、私たちは神のまことの聖書的理解と主が備えられた救いの方法、キリストが形作られお教えになった愛ときよさと義の人生を、感謝と喜びを持って堅く握り締めるべきです。(1コリント15:2、ヘブル3:6、4:14、6:18、10:23、黙示録2:13、25、3:11) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''2.''' 教会、またはこの世の両方で、霊感を受けた神のみことばである聖書、すなわちクリスチャンでない者たちが承認する部分と、承認しない部分のうちにあらわされている主のご計画の全体を、私たちははっきりとまた明確にさせなければなりません。私たちは批判や避難を避けるために私たちの信仰の解釈を隠蔽すべきではありません。(マタイ10:27―28、エペソ6:19―20、2コリント4:2、ガラテヤ1:10) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''3.''' キリストを否定するような信仰の間違いや害を指摘するのは、愛です。害には一時的な影響があるだけでなく、特にキリストの真理を拒否することによって起こす永遠の痛みを伴います。これは、キリストを信頼しない結果危険な状態にある人々に良いものを切望する熱心さを持って、警告されなければなりません。(ルカ6:31-32、ローマ13:10、1テモテ4:8、2テサロニケ1:8-9、2コリント5:20) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''4.''' 私たちクリスチャンは、自分の罪を認め、十字架に掛けられ、よみがえられた救い主の救いがどうしようもなく必要であることを認めるべきです。あたかも自分に優れた知性や知恵や良さがあるから救われる価値があったのだと、私たちが気取った態度を取らないようにするためです。私たちは恵みによって、いのちを与える真理と、赦しと、よろこびのパンを見つけた物乞いです。それをすべての人に与えたいと願うのです。それは彼らも私たちに加わって、キリストの素晴らしさをたたえ、楽しむようになるためです。(1コリント1:26-30、4:7、1ペテロ5:6、ヤコブ4:8-10、 ルカ18:13-14、マタイ10:8後半) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''5.''' 私たちはキリストを、宗教間の議論の勝利としてではなく、歴史の中で最も信頼がおける、美しく、重要で、尊いお方で、また１)ご自身の苦しみと死によって、私たちの身代わりに神のみ怒りを吸収して下さった、2)罪のない生涯を生きることによって、まったき聖であられる神の御前で私たちの義となってくださり、その義が、イエス様を信じた時に私たちに転嫁された、この二つの意味で、どうしようもなく必要とされ、愛される身代わりとして提示するべきです。 (1コリント2:1-2、2コリント4:4、1ペテロ2:6-7、ローマ3:24-26、5:18-19、ガラテヤ3:13、2 コリント5:21) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''6.''' キリストと、主が買い取って下さった益のすべてと私たちを一つにしてくれるキリスト教信仰とは、自分の功績になるような行ないではなく、子どものような、自己に絶望しキリストの価値とみわざに信頼をおく信仰です。他者にクリスチャンになるよう召すとき、その召しは、神のために働く召し、あるいは正しいまたは愛のある行ないをすることによって主に認めてもらおうと言う召しではありません。私たちは、自立本願の一切を捨て、イエス･キリストの救いの人生と死に完全に依存するよう、人々を召すのです。(エペソ2:8-9、テトス3:5、ローマ4:4-5、ローマ10:1-4、ピリピ3:9) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''7.''' 他信仰の間違いを公に指摘することは、正しく愛あることだと私たちは信じます。もしそれが十分な証拠をもって指摘されたら、それらの信仰経典や代表広報担当者らは実際にその間違いを言い表します。他信仰を不正確に伝えることを避けようと努力するのはとても重要です。それは失礼なだけでなく、私たち自身の信頼性をも台無しにしてしまいます。(使徒 6:8-7:53、マルコ12:24、8:33、使徒3:15、5:30、出エジプト20:16、エペソ4:25) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''8.''' 他の宗教の間違いを掘り起こす際、救われるためにキリストを受け入れない人々に対し、私たちは悲しさと同情を感じ、またそれを表現すべきです。(ルカ19:41-42、ピリピ3:18、ローマ9:1-3、10:1) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''9.''' 私たちは第一にクリスチャンであり、アメリカ人であるのはその次であることを、明確にするべきです。私たちはこの世ではよそ者であり追放された者です。私たちの最も深い、まことの国籍は天にあります。私たちの最終的主であり指導者であられるのは、合衆国の大統領ではなく、イエス･キリストです。この第一のそして最も深い忠誠心は、私たちの世俗の国籍が他のアメリカ人と私たちを一つにするのより堅く、あらゆる国籍のクリスチャンたちと私たちを一つにします。多くのアメリカ人の価値観と態度に、私たちは異議を唱える国民です。アメリカ文化はキリスト教ではありません。自分自身の文化の不正で神を恐れない側面を批判するのは、愛国心のないことではないと、私たちは信じます。(ピリピ3:20、1ペテロ2:11、マタイ22:21、使徒5:29、1テモテ6:14-15、黙示録17:14、エペソ5:11) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''10.''' 神に敵意を持ち、キリストの真理の周りでは落ち着かない俗世間では、「公正な戦い」を期待するべきではありません。それゆえ、虐待や歪曲や悪口に対する私たちの応答は、怒りや恨みではなく、悪に対し善で返すことで真理に心を開かせるかも知れないと、希望のうちにまた祈りを持って、真理を忍耐を持って証しすることであるべきです。あらゆる種類の迫害は当然であり、アメリカで私たちが与えられている保護のほとんどは、この世の歴史の中では普通でないと言うことを私たちは認識する必要があります。私たちの証しは、自分の権利について恨みがましくフーフーと鼻息を切らすことによっては前進しません。それは「苦しみながら、絶えず喜ぶ」ことによって、また善で悪に打ち勝つことによって、そして真理についての揺るがない発言と論理的弁護によって、前進します。(マタイ5:43-45、ローマ12:17-21、1コリント4:12-13、1 テサロニケ5:15、2テモテ3:12、1ペテロ2:15、19-24、3:9、4:12) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''11.''' 自分の信仰を拡大するためにあらゆる暴力行為を用いることを、私たちは否認します。聖書的クリスチャンは政治的あるいは個人的暴力行為を用いて自分の信仰を広めることをしません。クリスチャンは苦しめることによってではなく、自分が苦しむことによって、自分の信仰を広めます。本物のクリスチャンは力やごまかしでは強要されません。(ルカ10:3、2 コリント5:11、コロサイ2:24、1ペテロ2:19-24、黙示12:11) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''12.''' キリストは、個人的にこの世にあらわれるとき、ご自身を拒否してきた者たちをさばかれると言うことを、私たちは認め、また告げ知らせるべきです。主は彼らを地獄の苦痛にある永遠のさばきへと送られます。しかしながらキリストの来るべき時代の終わりの暴力は、彼らの信仰のゆえであると、彼らに対する暴力を行使する決定的理由にするべきではなく、理由にすることさえないと言うことも、明確にする必要があります。これはキリストの権限であり、私たちの権限ではありません。(マタイ25:46、ローマ12:19、テサロニケ1:7-9、1ペテロ2:20-23、黙示録6:16) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''13.''' キリストご自身が直接来られる前のこの時代、民主権限は、その信仰のゆえに個々人を報いたり罰するために、腕力やあらゆる強制力を用いたり、援助を差し控えたりするべきではありません。(説得や見本の力によって求められる自発的信仰の聖書的パターンと、改宗を可能にする神の恵みの必要性のうちに、それが暗示されています。) (2コリント5:11、1 テサロニケ1:5-6、エペソ2:8-9、使徒6:14、ピリピ1:29、2テモテ2:24-26) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''14.''' 犯罪を犯すあるいは他者の犯罪を幇助する意思を示すために、しかるべき法手続きを踏まえた通信手段がそれを示さない限り、民主権限がその発言や著書や作品のゆえに個々人を処罰するために、腕力やいかなる強制力、援助差し控えも、用いるべきではありません。(これを支持する聖書箇所、第13項を参照) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''15.''' 神は個々人や教会ではなく、民間政府に、公正と安全を守るために「剣を保持する」務めをお与えになっていると私たちは信じます。(マタイ26:52、ローマ13:1-4、ローマ12:17-21、1ペテロ2:20-23、3:9、14) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''16.''' 私たちは武力侵略に対する自己防衛の戦争と、人々のその信仰のゆえの宗教戦争を区別するべきです。この識別は、その信仰を力によって文化を支配する権利を含んで定義する特定の宗教によっては恐らく認められないということを、私たちは認識すべきです。しかし私たちは、彼らの武力侵略に対する私たちの抵抗は、彼らの信仰に対する宗教的攻撃であるという侵略者の主張を受け入れるより、この識別を主張すべきです。そのような国防の根拠が(宗教と言論と報道と集会の)自由に対する公民権であり、宗教攻撃の強調を非難することではないと、私たちは議論すべきです。私たちは他の宗教にまったく同意しませんが、しかし武装した国防に同意しないわけではありません。私たちは一方で、宗教的に煽られた武力に対する事実上の軍の抵抗、その一方で、宗教の否定ではなく、非暴力的な説得や魅了するという方法を用いて改宗者を獲得しようとする、すべての宗教のための自由を求める、私たちの抵抗の動機を区別するべきです。 (前述の原則で暗示されています) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''17.''' 信仰と言動は法律の前では同じ順位を持っていないことを私たちは認めるべきです。いかなる信仰も民主権限によっては罰せられるべきではありません。しかし信仰に根付いた言動の中には法にそぐわないものも中にはあり、それゆえ民主権限によって罰せられることがあります。それらの言動には、他者殺害、暴行、強盗、あらゆる形の差別などが含まれます。信仰の自由と宗教の自由に基づいてその社会でどの言動が法律で禁じられるかは、行政機関や司法機関、または少数派の権利を守る憲法によって備えられた抑制と均衡で、説得や議論、代議員の選挙過程によって決められます。不明確さは認識されるべきです。(第13項を支持する聖書箇所と、前述の原則の意味から合わせ取っていることを参照) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''18.''' 一方で間違った信仰や罪深い言動を批判する権利と、もう一方で、この批判からある人々が出す、批判された信仰の主唱者が結果的に合法的に虐待を受けるような、誤った推測を区別すべきです。私たちは間違っていると、あるいは罪人として批判され非難されるのは、「虐待」の形態であるという主張を受け入れるべきではありません。誰かの信仰を間違っているとか、害があるとか、誰かの言動を罪深いとか有害であると公に呼ぶのは、犯罪(人種差別犯罪とは言われるかも知れませんが)ではありません。信仰や言動や提言のすべてに関して必要なのは、誰かが間違っており、正当な理由がなく、悪影響を及ぼすという議論です。政治的議論のすべてはこのようにして前進します。これは宗教の分野では規則違反ではありません。たとえば、合衆国代議員が、彼が提出した議案が不備のあるもので、誤った情報に基づいており、貧困者を傷つけてしまうと言うことで、議会の席で非難された後、路上で激しく暴行を受けたとします。私たちはその非難した議員を、後に起こった暴行と責めたり、暴力を煽ったと告発したりしません。従って私たちは一方で信仰と言動に対する公の場での批判と、もう一方で、これらの間違った信仰と踏み深い言動が虐待を受けることを認可する違法的な憶測を区別しなければなりません。(第3項と第7項を支持する聖書箇所を参照) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''19.''' 様々な信仰は確信と言動のすべての内面的な意味を変えますが、すべての確信と言動の形態は変えないと信じます。従って、たとえば、二人の人がそれぞれ違った信仰を持っておりながら、堕胎について同じ確信と言動の形態を持っていたとします。私たちはすべての人がキリストにある信仰を持ち、キリストが人生の主であり宝であるという内面的意味を持つ確信と言動を持つことを望みます。しかし、とは言え、私たちと違う信仰を持つ人たちが私たちと同じ確信と言動を持つことを喜びます。もしこの共有作用が私たちのキリストを掲げる確信の根拠と意味を損なわなければ、彼らと共に社会的問題で提携することは可能であると私たちは信じます。(1コリント10:31、コロサイ3:17、ローマ14:23) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''20.''' すべての宗教、世界観、人生観は私たちの文化に影響を与えることと形作る努力を自由にしていいと私たちは信じます。私たちはこの文化形成の努力で武力や賄賂や偽りを用いることを否認します。福音の宣教、真理を出版すること、愛と公正のモデル化、祈りの力、説得の行使、政治の進行に参加することを支持します。私たちは、すべての法はある団体の言動的確信をすべての者に「強要する」と言うことを認めます。それゆえ、言動を支配する法は、それが「誰かの倫理観を社会に強要する」ので、悪いと言うのは、説得力のある批判ではありません。とは言え、これは私たちが、法律を制定する過程に影響を与える数のない少数派の法的自由を守る原則、法、政策を支持することに、さらなる重要性をもたらします。これらの自由の度合いは上記で述べた原則、特に第17項で決定されます。(前述の原則とそれを支持する聖書箇所で暗示されている) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 15 Jun 2017 19:36:24 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%AF%9B%E5%A4%A7%E3%81%95%E3%80%81%E7%9C%9F%E7%90%86%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%81%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E5%BE%8B%E6%B3%95</comments>		</item>
		<item>
			<title>ご自身の御子をさえ惜しまれなかった神</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%94%E8%87%AA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%82%92%E3%81%95%E3%81%88%E6%83%9C%E3%81%97%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%A5%9E</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「ご自身の御子をさえ惜しまれなかった神」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|God Did Not Spare His Own Son}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
真理の中には私たちを唖然とさせるようなものがあります。ローマ8:28―30はパウロを唖然とさせました。神はあなたのためにすべてのことを働かせて益としてくださいます。神がそれを取り計らってくださいます。それは、主がキリストとご自身のご栄光のために、あなたをあらかじめ知っておられ、あなたをお選びになっておられ、あなたが罪過のうちに死んでいたときにあなたを召され、ご自身の恵みにより、信仰のみを通してあなたを惜しみなく義と認められ、キリストのよみがえりの栄光のからだのようなからだにあなたが達する主の来臨の日まで、現在、あなたを栄光へと少しずつ変えてくださっているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これにはパウロはほとんど言葉が出ません。ほとんどです。彼は「では、これらのことからどう言えるでしょう」と言います。パウロと私たちを代弁して、二つのことがそれらの言葉から聞こえてきます。まず、「それらの素晴らしい事がらに言葉が見つかりません」と言うのが聞こえてきます。そして、「では、これらのことから何が言えるでしょう」と言うのも聞こえてきます。パウロが「では、これらのことからどう言えるでしょう」と言うとき、「別の方法で言わなければなりません」と言うのが彼の答えだと私は思います。違った言葉を探し出して言い直さなければなりません。それを彼は、「神が私たちの見方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」という言葉にします。それを彼は最初からずっと言い続けて来ているのです。しかし彼は別の方法で言わなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして私たちも同じです。もしあなたが子供や親や友人に栄光の福音を何度も語ったことがあるのなら、もう一度、別の方法で言わなければなりません。別のメールをもう一つ書き、別の手紙を書き、別の講義を教え、別の額を(壁に)飾り、別の詩を作り、別の歌を歌い、キリストの栄光についての別の文章を死にゆくお父さんに病床で語るのです。「では、これらのことからどう言えるでしょう?」私たちは別の方法で、死ぬまで、そして永遠に、何度も何度もそれを言います。その栄光を語る方法が尽きることはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神は私たちの味方であられる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは31節で今度はどのようにそれを言うでしょうか?「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と言います。彼のポイントは、前述のものをまとめることです。「神が私たちの味方であられるので、だれも私たちに敵対できません」。神は愛のうちに私たちをあらかじめ知っておられ、私たちを子としてあらかじめお定めになり、私たちを死から召され、私たちを義と認められ、そしてキリストの素晴らしい、喜びの日まで、栄光から栄光へと私たちをつくり変えてくださっているのです。それを私たちは再度どのように言えばいいでしょうか?「神は私たちの味方であられる」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ああ、「私たちの味方」という言葉は何と尊いでしょう。「神は私たちに敵対しておられる」という言葉ほど恐ろしいものは、この世界にはありません。もし無限に力強い怒りが私たちに向けられているとしたら、全滅は甘い恵みの賜物であるはずです。そのため、地獄ではなく、全滅が、裁きの意味するものであると私たちを説得しようとする人たちは、的から遠く離れています。神のみ怒りの下での全滅は裁きではありません。それは救済であり解放です(黙示6:16参照)。いいえ。人間の全滅はありません。私たちは神が敵対されるか、味方されるかのどちらかで、永遠に生きます。そしてキリストにあるすべての者たちは、ほとんど(!)言葉にできない喜びをもって、「神は私たちの味方であられる」と言うでしょう。主が私たちに味方してくださるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こういうわけで、今は、キリスト･イエスにある者が罪に定められることは決してありません(ローマ8:1)。神は全く私たちの味方であられ、私たちに敵対されることがありません。私たちのいかなる病いも、有罪を宣告する裁判官からの裁きではありません。ダメになった車や故障した家電のどれも、神の罰ではありません。私たちの物質的苦労のどれも、主の怒りの印ではありません。仕事を失うことはどれも、罪の報いではありません。子どもが私たちの言うことを聞かないのはどれも、神のムチ打ちの罰ではありません。もし私たちがキリストのうちにいるのなら、です。いいえ。神は私たちに敵対しておられるのではなく、すべてにおいて、平穏なときも痛みを抱えているときも、すべてを通して、私たちの味方であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== だれが私たちに敵対するでしょう? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは、また別の言い方をすれば、「誰が私たちに反対するのか?」と言うことができます。まだ31節を見ています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」パウロはそれを質問するとき、「誰も私たちに敵対できる者はいない」という答えを予測しています。それに対し私たちは、「本当?」と言いたくなりますが、それはどういう意味でしょうか?35節では患難と苦しみと迫害と剣がやって来る、と言われています。36節ではクリスチャンたちは一日中死に定められ、ほふられる羊とみなされると言われています。パウロがそう言うのです。では「だれが私たちに敵対できるでしょうか」とは、彼はどういう意味で言っているのでしょうか?だれも私たちに敵対し通すことのできる者はいない、という意味で言っているのだと、私は思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
悪魔と罪深い人はあなたを病気にすることができます。あなたの車を盗み、あなたの結婚に苦い種を蒔き、あなたの仕事を奪い、あなたの子どもを盗み去ることができます。しかし28節で、もしあなたが主を愛するなら、神はそれらすべてのことを働かせて益としてくださると、言います。そしてもしそれが最終的にあなたの益になるとしたら、敵の計画は妨害され、彼のあなたに敵対するというねらいが、キリストを崇め、魂を満足させ、信仰を強め、痛い益へと変えられるのです。神があなたの味方であられるのなら、主はこれらのことをあなたに惜しんで与えられないことはありません。でも敵が悪を計画するところで、主は良いことをご計画なさいます(創世記50:20、45:7)。あなたに敵対する事がらを、主はあなたの味方になるよう計画なさいます。だれもあなたに敵対し通すことのできる者はいません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは私たちの人生に、何と大きな影響を及ぼすことでしょうか!もしこれらが本当であるならば、私たちはこの世のもののようであってはなりません。この世の者のほとんどは、病いや窃盗やテロや仕事を失うことや、その他もろもろを恐れるその恐れで、自分の生き方を選びます。しかしイエス様に従う者には、「これらはみな、異邦人が求めているものです。あなたがたは神の国をまず第一に求めなさい」(マタイ6:32―33)と主は言われます。神はあなたが必要なものをお与えくださいます。そして愛と犠牲と苦難のうちにあなたが失うものあるいはあなたに足りないものは、あなた自身のためであり、それは神が設計なさった方法で、何百倍にも増して、御国であなたに返って来ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからカンカンであろうがギニアであろうがトルコのイスタンブールであろうが、インドネシアのテルナテであろうが、ミネソタのミネアポリスであろうが、自分の敵の前に立ちはだかり、福音を語ってください。そしてあなたの命を奪い取ろうとしている者にでさえ、「あなたがしなければならないことをしなさい。でも最終的にはあなたの言葉のすべてやあなたが私に与える傷で、私の信仰が精錬され、私の報酬が大きくされ、よみがえりのイエス･キリストがおられるパラダイスへと私は送られるだけです」と言うのです。ああ、もし神が私たちの味方であられ、だれも私たちに敵対できないということを信じるなら、私たちはどんなに違う者たちになるでしょう! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 御国の揺るがない論理 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは、私たちはそれに対し何と言えばいいのでしょうか?使徒パウロはそれに何を付け足すでしょうか?彼は別の方法で、同じことを言うでしょう。彼は32節で、敵対し通すことのできるものがいないことが約束されているばかりか、神の完全な、溢れんばかりの、終わりのない寛容さが私たちに約束されている、という風に言います。そしてそれらすべては、罪人のために死なれた主の御子のうちにある、揺るがない岩に基づいています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は一度、これを「御国の揺るがない論理」と呼びました。それは偉大なものからそうでないもの、難しいものから簡単なもの、ほとんど乗り越えることのできない障害から、簡単に乗り越えることのできる障害へ、という論理です。主は、大変難しく、私たちの救いを妨げるような、拷問とあざけりと罪を背負う死というものに、ご自分の御子を惜しまずにお渡しになりました。もしそれを成し遂げることができたのであるなら、それより些細なこと、容易なことはもちろん、おできになるはずです。それは、キリストが私たちのために得られたものすべてを私たちにお与えくださることです。すべてのものです!御国の揺るがない論理です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 主ご自身の御子 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
考えて見てください。まず、「ご自分の御子」というフレーズです。イエス･キリストとは、神が地上で発見され、自分の息子として養子にされたお方ではありません。イエス･キリストは、前から存在しておられた方で、事実永遠に存在され、み父と共存され、造られたお方ではなく、満ち満ちた神のご性質が形をとって宿っている、神のみ姿であられます(コロサイ2:9)。ローマ8:3で、神は「ご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしにな」ったというのを思い出してください。言い換えれば、御子は人となられる前にすでに存在しておられたのです。ただの預言者ではありません。御子なる神です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして32節で主を「ご自分の」御子と呼ぶとき、ポイントは、御子の他には誰もおらず、御子は神にとって無限に尊いお方であると言うことです。イエス様がこの地上におられたとき、少なくとも2度、神は「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17、17:５)と言われます。コロサイ1:13でパウロは主を、「[神の]愛する御子」と呼びます。イエス様ご自身、地主のたとえから、主人のしもべたちが来て小作人から収穫を回収しに来た時、袋叩きにして殺したというたとえを話されました。そして、「その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった」(マルコ12:6)とイエス様は言われます。ひとり子が、み父が持っておられるすべてです。主は[み父に]深く愛されていました。そしてみ父によって遣わされたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私には4人の息子がいます。父が息子を愛するほどの愛はありません。誤解しないでください。私は妻を愛しています。娘を愛しています。父やこの教会のスタッフである仲間らやあなた方を愛しています。父親が息子を愛する愛はそれらの愛よりまさっていると言っているのではありません。と言うか、それは違う部類のものなのです。他の愛も違います。でも私が言っているのは、父親が息子を愛する愛ほどのものはない、というこの一つだけです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
32節のポイントは、このたった一人の御子に対する神の愛は、主と私たちの救いの間に立ちはだかる巨大なエベレスト山のようなものでした。これはほとんど乗り越えることのできない障害でした。神は、ご自分の御子とのかけがえのない、うっとりするような愛おしい、燃えるような情緒的つながりを乗り越えて、偽られ、裏切られ、見捨てられ、欺かれ、鞭打たれ、殴られ、つばきをかけられ、十字架につけられ、動物が解体されるように剣で刺し通される仕業に、御子を引き渡すことがおできになったでしょうか、あるいはお引き渡しになるでしょうか?主は実際にそれをされるでしょうか?ご自身の愛される御子を引き渡すことがおできになるでしょうか?もし主がそれを成されたのなら、主が達成しようとしておられる目標を止めることはできないはずです。もしご自身の良きことを達成する上でその障害が乗り越えられるのであれば、どのような障害も乗り越えられるはずです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主はそう成されたでしょうか?パウロの答えは、はい、その通り、です。彼はそれをネガティブに、またポジティブに言っています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」。言い換えれば、「主はご自身の御子を惜しまれなかった」、困難と障害の莫大さが聞こえて来ます。神はご自分の御子の痛みや屈辱を好まれませんでした。神の御子がこのように扱われるのは、無限にひどいことです。罪はその時最悪の状態に達しました。神を攻撃するという、罪の性質そのものが暴かれたのです。すべての罪、私たちの罪は、神に対する攻撃です。主の権限と真理とその美しさに対する攻撃です。しかし主はご自分の御子がこの扱いを受けることを惜しまれませんでした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 御子を死に渡された ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代わりに御子を「死に渡され」ました。これを見逃さないでください。全世界で重要で貴重なもののほとんどすべてがこの史上前代未聞のときに集結するのです。神の人に対する愛と罪に対する憎しみがここに集結します。神の絶対的主権と、人間の責任と道徳的行為の永遠の重みがここに集結します。神の無限の知恵とみ力が、神がご自分の御子を死に引き渡されたとき、ここに集結するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書は、ユダが主を引き渡し(マルコ3:19)、またピラトが主を引渡し(マルコ15:15)、ヘロデとユダヤ人と異邦人が主を引渡し(使徒4:27―28)、そして私たちが主を引き渡した(1コリント15:3、ガラテヤ1:4、1ペテロ2:24)と言います。またイエス様がご自身を引き渡されたとさえ言います(ヨハネ10:17、19:30)。しかしパウロはこの32節で根本的なことを言っています。この人間の引渡しのすべてのうちと背後と下とそしてそれを通し、神がご自身の御子を死に引き渡されたのです。「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました」(使徒2：23)。ユダとピラトとヘロデとユダヤ人の群衆と異邦人の兵士らと私たちの罪とそしてイエス様の小羊のような従順のうちに、神がご自身の御子をお引き渡しになったのです。これ以上に素晴らしいことはこれまで起こったことがありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== これが本当であるなら、それで? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこれに対して私たちは何と言いましょう?「御国の論理が堅く立つ!」と私たちは言います。もし神がご自身の御子をそのように死に引き渡されたのであるならば、それで?答えは、主は私たちに、御子と共にすべてのものを当然そして惜しみなくお与えくださるはずです。もし神がご自分の御子を惜しまずお与えくださったのであれば、私たちにどのような良いものをも惜しまずお与えくださるはずです。これが詩篇84:11の最終的に獲得し達成したものです。「主は･･･正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」これが1コリント3:21―23、「すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです」の約束と理由です。これがエペソ1:3、「私たちの主イエス･キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」と言われる約束のしるしです。これがイエス様が言われる、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。･･･あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:31―33)という約束を、確保したものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ご自分の御子をさえ惜しまず、私たちのために死に引き渡されたのですから、主は道徳的絶対的確かさをもって、私たちに主とともにすべてのものをお与えくださいます。本当でしょうか?すべてですか?では「患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」(ローマ8:35)と言うのはどうでしょう?それに対する答えは、350年前のジョン･フレーベルの素晴らしい引用のうちにあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「『己の御子を惜まずして我ら衆のために付し給ひし者は、などか之にそへて萬物を我らに賜はざらんや』 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; (ローマ8:32)。神がこの後、霊的あるいは一時的なものを、ご自身の民に惜しんでお与えにならないであろうなどと、想像できようか? 主は私たちを効果的に召され、惜しみなく義と認められ、完全に聖化され、永遠に栄化されないであろうか? 私たちに着物を着せられ、食べさせられ、守られ、また救われないであろうか? もし主がご自分の御子から一打ち、涙一つ、うめき一つ、ため息一つ、惨めな状況の一つを惜しまれなかったのであれば、主がこの後、ご自身の民のため主がこれだけ苦しまれたその人々に、彼らにとって良きことである、霊的また一時的な憐れみと、慰めと、特権を否定、あるいは惜しまれるとは、考えられないことである。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は私たちに、絶えず良いことをしてくださいます。もし主がご自分の御子をあなたのためにお与えくださったと信じるのなら、これはあなたが信じることです。そしてクリスチャン人生のすべては、単純に、その信仰の実です。神の愛を見てください。その愛に生きてください。そしてますますおののいてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
___ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 文語訳、1917年版引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 15 Jun 2017 19:11:35 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%94%E8%87%AA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%82%92%E3%81%95%E3%81%88%E6%83%9C%E3%81%97%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%A5%9E</comments>		</item>
		<item>
			<title>ご自身の御子をさえ惜しまれなかった神</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%94%E8%87%AA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%82%92%E3%81%95%E3%81%88%E6%83%9C%E3%81%97%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%A5%9E</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|God Did Not Spare His Own Son}}   &amp;amp;gt; 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|God Did Not Spare His Own Son}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
真理の中には私たちを唖然とさせるようなものがあります。ローマ8:28―30はパウロを唖然とさせました。神はあなたのためにすべてのことを働かせて益としてくださいます。神がそれを取り計らってくださいます。それは、主がキリストとご自身のご栄光のために、あなたをあらかじめ知っておられ、あなたをお選びになっておられ、あなたが罪過のうちに死んでいたときにあなたを召され、ご自身の恵みにより、信仰のみを通してあなたを惜しみなく義と認められ、キリストのよみがえりの栄光のからだのようなからだにあなたが達する主の来臨の日まで、現在、あなたを栄光へと少しずつ変えてくださっているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これにはパウロはほとんど言葉が出ません。ほとんどです。彼は「では、これらのことからどう言えるでしょう」と言います。パウロと私たちを代弁して、二つのことがそれらの言葉から聞こえてきます。まず、「それらの素晴らしい事がらに言葉が見つかりません」と言うのが聞こえてきます。そして、「では、これらのことから何が言えるでしょう」と言うのも聞こえてきます。パウロが「では、これらのことからどう言えるでしょう」と言うとき、「別の方法で言わなければなりません」と言うのが彼の答えだと私は思います。違った言葉を探し出して言い直さなければなりません。それを彼は、「神が私たちの見方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」という言葉にします。それを彼は最初からずっと言い続けて来ているのです。しかし彼は別の方法で言わなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして私たちも同じです。もしあなたが子供や親や友人に栄光の福音を何度も語ったことがあるのなら、もう一度、別の方法で言わなければなりません。別のメールをもう一つ書き、別の手紙を書き、別の講義を教え、別の額を(壁に)飾り、別の詩を作り、別の歌を歌い、キリストの栄光についての別の文章を死にゆくお父さんに病床で語るのです。「では、これらのことからどう言えるでしょう?」私たちは別の方法で、死ぬまで、そして永遠に、何度も何度もそれを言います。その栄光を語る方法が尽きることはありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神は私たちの味方であられる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは31節で今度はどのようにそれを言うでしょうか?「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と言います。彼のポイントは、前述のものをまとめることです。「神が私たちの味方であられるので、だれも私たちに敵対できません」。神は愛のうちに私たちをあらかじめ知っておられ、私たちを子としてあらかじめお定めになり、私たちを死から召され、私たちを義と認められ、そしてキリストの素晴らしい、喜びの日まで、栄光から栄光へと私たちをつくり変えてくださっているのです。それを私たちは再度どのように言えばいいでしょうか?「神は私たちの味方であられる」と言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ああ、「私たちの味方」という言葉は何と尊いでしょう。「神は私たちに敵対しておられる」という言葉ほど恐ろしいものは、この世界にはありません。もし無限に力強い怒りが私たちに向けられているとしたら、全滅は甘い恵みの賜物であるはずです。そのため、地獄ではなく、全滅が、裁きの意味するものであると私たちを説得しようとする人たちは、的から遠く離れています。神のみ怒りの下での全滅は裁きではありません。それは救済であり解放です(黙示6:16参照)。いいえ。人間の全滅はありません。私たちは神が敵対されるか、味方されるかのどちらかで、永遠に生きます。そしてキリストにあるすべての者たちは、ほとんど(!)言葉にできない喜びをもって、「神は私たちの味方であられる」と言うでしょう。主が私たちに味方してくださるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こういうわけで、今は、キリスト･イエスにある者が罪に定められることは決してありません(ローマ8:1)。神は全く私たちの味方であられ、私たちに敵対されることがありません。私たちのいかなる病いも、有罪を宣告する裁判官からの裁きではありません。ダメになった車や故障した家電のどれも、神の罰ではありません。私たちの物質的苦労のどれも、主の怒りの印ではありません。仕事を失うことはどれも、罪の報いではありません。子どもが私たちの言うことを聞かないのはどれも、神のムチ打ちの罰ではありません。もし私たちがキリストのうちにいるのなら、です。いいえ。神は私たちに敵対しておられるのではなく、すべてにおいて、平穏なときも痛みを抱えているときも、すべてを通して、私たちの味方であられます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== だれが私たちに敵対するでしょう? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは、また別の言い方をすれば、「誰が私たちに反対するのか?」と言うことができます。まだ31節を見ています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」パウロはそれを質問するとき、「誰も私たちに敵対できる者はいない」という答えを予測しています。それに対し私たちは、「本当?」と言いたくなりますが、それはどういう意味でしょうか?35節では患難と苦しみと迫害と剣がやって来る、と言われています。36節ではクリスチャンたちは一日中死に定められ、ほふられる羊とみなされると言われています。パウロがそう言うのです。では「だれが私たちに敵対できるでしょうか」とは、彼はどういう意味で言っているのでしょうか?だれも私たちに敵対し通すことのできる者はいない、という意味で言っているのだと、私は思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
悪魔と罪深い人はあなたを病気にすることができます。あなたの車を盗み、あなたの結婚に苦い種を蒔き、あなたの仕事を奪い、あなたの子どもを盗み去ることができます。しかし28節で、もしあなたが主を愛するなら、神はそれらすべてのことを働かせて益としてくださると、言います。そしてもしそれが最終的にあなたの益になるとしたら、敵の計画は妨害され、彼のあなたに敵対するというねらいが、キリストを崇め、魂を満足させ、信仰を強め、痛い益へと変えられるのです。神があなたの味方であられるのなら、主はこれらのことをあなたに惜しんで与えられないことはありません。でも敵が悪を計画するところで、主は良いことをご計画なさいます(創世記50:20、45:7)。あなたに敵対する事がらを、主はあなたの味方になるよう計画なさいます。だれもあなたに敵対し通すことのできる者はいません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは私たちの人生に、何と大きな影響を及ぼすことでしょうか!もしこれらが本当であるならば、私たちはこの世のもののようであってはなりません。この世の者のほとんどは、病いや窃盗やテロや仕事を失うことや、その他もろもろを恐れるその恐れで、自分の生き方を選びます。しかしイエス様に従う者には、「これらはみな、異邦人が求めているものです。あなたがたは神の国をまず第一に求めなさい」(マタイ6:32―33)と主は言われます。神はあなたが必要なものをお与えくださいます。そして愛と犠牲と苦難のうちにあなたが失うものあるいはあなたに足りないものは、あなた自身のためであり、それは神が設計なさった方法で、何百倍にも増して、御国であなたに返って来ます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからカンカンであろうがギニアであろうがトルコのイスタンブールであろうが、インドネシアのテルナテであろうが、ミネソタのミネアポリスであろうが、自分の敵の前に立ちはだかり、福音を語ってください。そしてあなたの命を奪い取ろうとしている者にでさえ、「あなたがしなければならないことをしなさい。でも最終的にはあなたの言葉のすべてやあなたが私に与える傷で、私の信仰が精錬され、私の報酬が大きくされ、よみがえりのイエス･キリストがおられるパラダイスへと私は送られるだけです」と言うのです。ああ、もし神が私たちの味方であられ、だれも私たちに敵対できないということを信じるなら、私たちはどんなに違う者たちになるでしょう! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 御国の揺るがない論理 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは、私たちはそれに対し何と言えばいいのでしょうか?使徒パウロはそれに何を付け足すでしょうか?彼は別の方法で、同じことを言うでしょう。彼は32節で、敵対し通すことのできるものがいないことが約束されているばかりか、神の完全な、溢れんばかりの、終わりのない寛容さが私たちに約束されている、という風に言います。そしてそれらすべては、罪人のために死なれた主の御子のうちにある、揺るがない岩に基づいています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は一度、これを「御国の揺るがない論理」と呼びました。それは偉大なものからそうでないもの、難しいものから簡単なもの、ほとんど乗り越えることのできない障害から、簡単に乗り越えることのできる障害へ、という論理です。主は、大変難しく、私たちの救いを妨げるような、拷問とあざけりと罪を背負う死というものに、ご自分の御子を惜しまずにお渡しになりました。もしそれを成し遂げることができたのであるなら、それより些細なこと、容易なことはもちろん、おできになるはずです。それは、キリストが私たちのために得られたものすべてを私たちにお与えくださることです。すべてのものです!御国の揺るがない論理です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 主ご自身の御子 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
考えて見てください。まず、「ご自分の御子」というフレーズです。イエス･キリストとは、神が地上で発見され、自分の息子として養子にされたお方ではありません。イエス･キリストは、前から存在しておられた方で、事実永遠に存在され、み父と共存され、造られたお方ではなく、満ち満ちた神のご性質が形をとって宿っている、神のみ姿であられます(コロサイ2:9)。ローマ8:3で、神は「ご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしにな」ったというのを思い出してください。言い換えれば、御子は人となられる前にすでに存在しておられたのです。ただの預言者ではありません。御子なる神です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして32節で主を「ご自分の」御子と呼ぶとき、ポイントは、御子の他には誰もおらず、御子は神にとって無限に尊いお方であると言うことです。イエス様がこの地上におられたとき、少なくとも2度、神は「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17、17:５)と言われます。コロサイ1:13でパウロは主を、「[神の]愛する御子」と呼びます。イエス様ご自身、地主のたとえから、主人のしもべたちが来て小作人から収穫を回収しに来た時、袋叩きにして殺したというたとえを話されました。そして、「その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった」(マルコ12:6)とイエス様は言われます。ひとり子が、み父が持っておられるすべてです。主は[み父に]深く愛されていました。そしてみ父によって遣わされたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私には4人の息子がいます。父が息子を愛するほどの愛はありません。誤解しないでください。私は妻を愛しています。娘を愛しています。父やこの教会のスタッフである仲間らやあなた方を愛しています。父親が息子を愛する愛はそれらの愛よりまさっていると言っているのではありません。と言うか、それは違う部類のものなのです。他の愛も違います。でも私が言っているのは、父親が息子を愛する愛ほどのものはない、というこの一つだけです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
32節のポイントは、このたった一人の御子に対する神の愛は、主と私たちの救いの間に立ちはだかる巨大なエベレスト山のようなものでした。これはほとんど乗り越えることのできない障害でした。神は、ご自分の御子とのかけがえのない、うっとりするような愛おしい、燃えるような情緒的つながりを乗り越えて、偽られ、裏切られ、見捨てられ、欺かれ、鞭打たれ、殴られ、つばきをかけられ、十字架につけられ、動物が解体されるように剣で刺し通される仕業に、御子を引き渡すことがおできになったでしょうか、あるいはお引き渡しになるでしょうか?主は実際にそれをされるでしょうか?ご自身の愛される御子を引き渡すことがおできになるでしょうか?もし主がそれを成されたのなら、主が達成しようとしておられる目標を止めることはできないはずです。もしご自身の良きことを達成する上でその障害が乗り越えられるのであれば、どのような障害も乗り越えられるはずです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主はそう成されたでしょうか?パウロの答えは、はい、その通り、です。彼はそれをネガティブに、またポジティブに言っています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」。言い換えれば、「主はご自身の御子を惜しまれなかった」、困難と障害の莫大さが聞こえて来ます。神はご自分の御子の痛みや屈辱を好まれませんでした。神の御子がこのように扱われるのは、無限にひどいことです。罪はその時最悪の状態に達しました。神を攻撃するという、罪の性質そのものが暴かれたのです。すべての罪、私たちの罪は、神に対する攻撃です。主の権限と真理とその美しさに対する攻撃です。しかし主はご自分の御子がこの扱いを受けることを惜しまれませんでした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 御子を死に渡された ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代わりに御子を「死に渡され」ました。これを見逃さないでください。全世界で重要で貴重なもののほとんどすべてがこの史上前代未聞のときに集結するのです。神の人に対する愛と罪に対する憎しみがここに集結します。神の絶対的主権と、人間の責任と道徳的行為の永遠の重みがここに集結します。神の無限の知恵とみ力が、神がご自分の御子を死に引き渡されたとき、ここに集結するのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書は、ユダが主を引き渡し(マルコ3:19)、またピラトが主を引渡し(マルコ15:15)、ヘロデとユダヤ人と異邦人が主を引渡し(使徒4:27―28)、そして私たちが主を引き渡した(1コリント15:3、ガラテヤ1:4、1ペテロ2:24)と言います。またイエス様がご自身を引き渡されたとさえ言います(ヨハネ10:17、19:30)。しかしパウロはこの32節で根本的なことを言っています。この人間の引渡しのすべてのうちと背後と下とそしてそれを通し、神がご自身の御子を死に引き渡されたのです。「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました」(使徒2：23)。ユダとピラトとヘロデとユダヤ人の群衆と異邦人の兵士らと私たちの罪とそしてイエス様の小羊のような従順のうちに、神がご自身の御子をお引き渡しになったのです。これ以上に素晴らしいことはこれまで起こったことがありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== これが本当であるなら、それで? ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこれに対して私たちは何と言いましょう?「御国の論理が堅く立つ!」と私たちは言います。もし神がご自身の御子をそのように死に引き渡されたのであるならば、それで?答えは、主は私たちに、御子と共にすべてのものを当然そして惜しみなくお与えくださるはずです。もし神がご自分の御子を惜しまずお与えくださったのであれば、私たちにどのような良いものをも惜しまずお与えくださるはずです。これが詩篇84:11の最終的に獲得し達成したものです。「主は･･･正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」これが1コリント3:21―23、「すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです」の約束と理由です。これがエペソ1:3、「私たちの主イエス･キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」と言われる約束のしるしです。これがイエス様が言われる、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。･･･あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:31―33)という約束を、確保したものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ご自分の御子をさえ惜しまず、私たちのために死に引き渡されたのですから、主は道徳的絶対的確かさをもって、私たちに主とともにすべてのものをお与えくださいます。本当でしょうか?すべてですか?では「患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」(ローマ8:35)と言うのはどうでしょう?それに対する答えは、350年前のジョン･フレーベルの素晴らしい引用のうちにあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 「『己の御子を惜まずして我ら衆のために付し給ひし者は、などか之にそへて萬物を我らに賜はざらんや』 &amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; (ローマ8:32)。神がこの後、霊的あるいは一時的なものを、ご自身の民に惜しんでお与えにならないであろうなどと、想像できようか? 主は私たちを効果的に召され、惜しみなく義と認められ、完全に聖化され、永遠に栄化されないであろうか? 私たちに着物を着せられ、食べさせられ、守られ、また救われないであろうか? もし主がご自分の御子から一打ち、涙一つ、うめき一つ、ため息一つ、惨めな状況の一つを惜しまれなかったのであれば、主がこの後、ご自身の民のため主がこれだけ苦しまれたその人々に、彼らにとって良きことである、霊的また一時的な憐れみと、慰めと、特権を否定、あるいは惜しまれるとは、考えられないことである。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神は私たちに、絶えず良いことをしてくださいます。もし主がご自分の御子をあなたのためにお与えくださったと信じるのなら、これはあなたが信じることです。そしてクリスチャン人生のすべては、単純に、その信仰の実です。神の愛を見てください。その愛に生きてください。そしてますますおののいてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
___ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; 文語訳、1917年版引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 15 Jun 2017 19:11:12 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%94%E8%87%AA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E3%82%92%E3%81%95%E3%81%88%E6%83%9C%E3%81%97%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%A5%9E</comments>		</item>
		<item>
			<title>イエス様は自民族中心主義の終わりである</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E6%A7%98%E3%81%AF%E8%87%AA%E6%B0%91%E6%97%8F%E4%B8%AD%E5%BF%83%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「イエス様は自民族中心主義の終わりである」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Jesus Is the End of Ethnocentrism}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」20 イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」22 みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。23 イエスは言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ。』というたとえを引いて、カペナウムで行なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」24 また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。25 わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、26 エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。27 また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、29 立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。30 しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先週の日曜日、私は「情熱を植えること」と呼ぶビジョンの警鐘を鳴らしました。全会衆として共に集まり、夢の周りで警報を鳴らし、ツイン･シティーやあるいはその向こう側(BGEAの動きと一致するため、シャーロットやNCなど)のどこかで2002年に教会を開拓することはできないでしょうか?これは私たちの教会の使命宣言、「''私たちはすべてのもののうちにある神の主権に対する情熱を、イエス･キリストを通しすべての人々の喜びのために広めるため、存在する''」というものに特に焦点を当てるために、それを「情熱を植えること」と呼びました。しかしどんなものでも良いから、ただ教会を開拓する、というのが目標ではないことをもはっきりさせました。神中心で、キリストをたたえる、聖書に没頭した、宣教を行使する、魂を獲得し、正義を求める等々の、[開拓する]具体的な教会を描写しました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 正義を求める ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「正義を求める」と言う用語を用いるとき、私の念頭には少なくとも二つの課題があります。今週注目する''人種間の調和''と、来週注目する''命の尊厳''です。我が国における21世紀初頭の二つの大きな問題は、''人種間の平等''と''胎児の公正''[堕胎問題]です。正義を求める教会と、神中心の、キリストを掲げ、聖書にどっぷり浸った教会の間には、つながりがあると私は信じます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 私たちはもっと神中心で、キリストを掲げ、聖書にどっぷり浸る必要がある ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福音派の教会、特に白人主義の福音派の教会(それさえも「黒人教会」のように、残念な呼び名ですが)が人種間の平等と胎児の公正を情熱を持って追求しない理由の一つは、私たちが、自分たちが思っているほど神中心でなく、キリストをたたえず、聖書にどっぷり浸っていないからです。「''私たちはすべてのもののうちにある神の主権に対する情熱を、イエス･キリストを通しすべての人々の喜びのために広めるため、存在する''」と言うとき、神がいかにして人種間の関係の中で最高主権者として存在しておられるかを、私たちは本当に深く考えたことがあるでしょうか?キリストが人種間の関係の中でどのようにして掲げられているかを考えたことがあるでしょうか?民族関係と、教育、家庭、経済、キリストの体である組織の中での人種問題について、聖書がどのように私たちの考え方や感じ方や行動に浸透しているかを、自問したことがあるでしょうか?神の主権とキリストの栄光と聖書の人種に関する教えは、「すべての人々の喜びのためのすべての事がら」において、私たちの考え方や感じ方、行動を形成しているでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 不完全さの麻痺 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから教会開拓を考えるとき、自分たちが[ある一定の目標に]到達したから、教会を倍増させる用意ができていると言っているのではありません。もし[ある一定の目標に]到達するまで待ったら、私たちは教会開拓をすることは決してありません。結婚することも、長年夫婦を続けることも、最初の仕事に就くことも、仕事を続けることも、宣教に出ていくことも、宣教地に留まることも、子どもを持とうと決心することも、ミニストリーを始めることも、決してありません。良い人々を自分自身の不完全さ以上に、麻痺させるものがあります。ああ、耳を傾け、学び、批判する人々の私たちを麻痺させてしまうようなその批判を容易に忘れる人々を神が起こして下さったなら!私たちは自分たちが完璧だから教会を開拓しようとするのではありません。それは私たちに夢があるからです。私たちがするよりももっと効果的に、同じ聖書的ビジョンを持って何かをやり遂げる、別の指導者たちが、新しい場所で新しい教会を開拓するという夢です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== より良い快適さではなく、偉大な目的のために生きる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「情熱を植える」ことに関して、私たちは''より良い快適さ''ではなく、''偉大な目標''のために生きることに身をささげる人々を植えると言うことを、私は考えています。以前「''クリスチャンになるということは、快適さではなく必要に向かって進むと言うこと''」といいうタイトルで説教をしたことがあります。[それは]自分の快適さをいかにして拡大するかではなく、神中心の何か素晴らしい目標を拡大することを夢見ながら、朝起きて、夜床に就くことです。「情熱を植える」と言うのは、自己保存、自己高揚、自己保養を求めることに日夜時間を費やすのではなく、自分自身や自分の家族や自分の教会より、もっと大きく素晴らしい何かを追求する人々を植える、と言う意味です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''あなたが生きている''と言うこと自体より素晴らしい目標とは何ですか?「神中心の、聖書に浸かった人種間の平等と人種間の調和を通して、イエス･キリストを掲げることが私の人生の最大の目標です」、あるいは「神中心で、聖書にどっぷり浸かり、胎児の公正を通してイエス･キリストを掲げることが私の人生の最大の目標です」という人が、今週と来週の日曜日、皆さんの中で何人、あるいは何百人、いるかどうか、お尋ねします。ああ、自己中心と一時的な忠誠心と締まりのない献身に反して、神がアドレナリンのようではなく、心臓のように、偉大な目標を維持する男女を起こして下さったなら!アドレナリンはその時必要なエネルギーを一時的に生み出し、それから体力を低下させます。心臓は良い時も困難な時も、冬でも夏でも、悲しい時でも嬉しい時でも、力がみなぎっている時でも弱っている時でも、病気の時でも健康な時でも、体中に生命を供給し続けます! ああ、副腎のようなクリスチャンだけでなく、人種間の平等という目標において、冠状動脈のようなクリスチャンがもっと起こされたなら! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 私たちにはウィリアム･ウィルバーフォースが必要 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皆さんの中でこの時代のウィリアム･ウィルバーフォースは誰でしょうか?彼は奥の深いクリスチャンで、活気に満ちた福音派で、イギリスの人種間の平等と言う目標の長期戦で熱心に活動した人でした。1787年10月28日、28歳で自分の日記に、「万軍の神は私の前に二つの大きな目標を置かれた。奴隷貿易の抑圧と、[倫理観の]改革である(ジョン･ポロック著、『ウィルバーフォース』、69ページ)。」アフリカ人奴隷の貿易は当時の国の経済の関心事を大きく占めていたので、国会がある事に彼は敗北しました。しかし彼はあきらめることなく、引き下がることもありませんでした。彼はアドレナリン的クリスチャンではなく、冠状動脈的クリスチャンだったのです。1807年2月24日の午前4時、彼が自分の日記に最初に記した20年後、奴隷貿易が違法になる最終的法律が可決されました。20年もの忍耐の後もやるべきことはまだ終えていません。奴隷業者そのものはどうなるのでしょう?その16年後の1833年7月26日、彼が死ぬ3日前、イギリスとイギリス植民地で奴隷制度が違法になる法律が可決されました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので「情熱を植える」と言うことを考えるとき、副腎のような情熱ではなく、この冠状動脈のような情熱を生み出すような教会を開拓することを私は考えています。神中心で、キリストを掲げ、聖書にどっぷり浸り、正義を求め、快適さではなく偉大な目標のため、決してあきらめることのない献身です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえもし神を中心におき、キリストを掲げ、聖書にどっぷり浸りたいのであれば、福音書でイエス様が言っておられることに耳を傾け、イエス様が自民族中心主義にどのように終止符を打たれるかを一緒に見ましょう。自民族中心主義とは、自分の民族が優勢あるいは特権階級として扱われるべきだと信じ込むこと、あるいは感じることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ルカ4:16-30ー神のみ国はあなたが考えている民族とは異なる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ルカ4:16―30から始めます。カペナウムで有名になった地元出身の男児が、その後自分の故郷、ナザレに戻ってきます。安息日に礼拝堂に行き、彼に聴こうと群衆が集まります。そして主がご自身のメッセージで言われることは、まったく信じられないことです。主は暴動を引き起こすところでした。それを意図的に成されるのです。まず彼らは主に預言者イザヤの書簡を読むよう手渡し、主はその中から61章をお選びになります。それは囚われ人を解放し、主の恵みの年を告げ知らせる贖い主の来臨についての箇所です(18後半―19節)。そしてそれが彼らの聞いたとおり実現したと、主は言われるのです。21節、「イエスは人々にこう言って話し始められた。『きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。』」それは驚くべきことでした。トップ記事ー「地元出身の男児が、自分がメシアであると主張する」。でもこれが暴動を起こすきっかけとなったのではありません。22節、「みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。」そこまでは良かったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に主が何と言われるかを見てください。まったく予期しなかったことです!もしあなたが以下のものが欲しいと思われるなら、不可解です。ただの教会成長が欲しいのなら、不可解です。主は旧約聖書から自分の郷里の自民族中心主義を前にして、二つの話をお選びになります。それはそれ以上に無礼にはなれないほどに無礼な話でした。主はどのような反応が彼らから返ってくるかを知っておられます。それは24節で、「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません」と言われるからです。言い換えると、「メシアが何をするか、またメシアのみ国がどのようなものであるか、あなた方は自分の理解で今わたしをほめている(22節)。しかしわたしがこれからしようとしていることと、わたし国がどのようなものかを話すのを聞いたら驚くでしょう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主はまず一つ目の話をなさいます。1列王17章から引用されていますが、25―26節、「わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六ヶ月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、(26)エリヤはだれのところにも遣わされず、シドン(フェニキア)のサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。」主はいきなり、外国であるシドン(フェニキア)の地から来ている異邦人に奇跡的恵みをもたらすために、すべてのユダヤ民族を通り過ぎられる神の話をされます。イスラエルにもやもめは多くいたが、神はこの外国人だけを祝福されたー主はこれを、話を柔らげることも、説明することもなく、あからさまにそして強い口調で言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそれが十分でないかのように、二つ目の話を2列王記5章から引用して、27節で話されます。「また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、ツァラアトに冒された人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」再度、ポイントは、神は癒そうと選ぶことができたはずのすべての人の中で、ユダヤ人ではなく、外国の王であったシリア人をお選びになった、と言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この二つの話はナザレの自民族中心主義に理解できない話ではありませんでした。28節、「これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、(29)立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。(30)しかしイエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた。」彼らはそれを理解し、好みませんでした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話のポイントは何でしょうか?ポイントは、「わたしのもたらす国は、」イエス様が言われるには、「あなたの考える民族国家とは違う。イスラエルとして選ばれたあなたがたの地位は、何の謙遜も同情も生み出さなかったどころか、自尊心と軽蔑を生み出した」です。イエス様が自民族中心主義の終わりです。「わたしを見なさい。わたしから習いなさい」と主は言われます。「わたしは一つ、あるいはいくつかの民族ではなく、すべての民族グループから民を贖うためにやって来たのです。祭司と友の国をすべての人々の中から集めようとされる神の熱心、義と憐れみを見ることができないあなたがたは、呪われよ。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== マタイ8:5-13ーイエス様にある信仰は民族性に勝利する ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらのナザレ人に呪いを宣告するなど、私はやりすぎでしょうか?次のマタイ8:5―13の別の話を考えながら、あなた自身がそれを判断してください。イエス様はマタイ5―7章で山上の垂訓を語り終えられ、それからマタイ8:1―4で、イスラエルの人々の中で最もさげすまれ、排斥されていたらい病の者に触れられ、癒されます。そしてマタイ8:5で主はカペナウムに入られ、そこで次に最もさげすまれ不快な種類の人物、ローマ軍の百人隊長に出会われます。それは丁度タリバンの解放軍にとってのアメリカ海軍兵のようなものです。この特定の百人隊長がユダヤ人の間で評判だった事実(ルカ7:3―5)は、マタイの福音書では省かれています。それはマタイにとっては自分の要点と関係のあることではありません。この男は外国人であり、ユダヤ人ではありません。マタイはその自分の要点に人々を引き付けます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話のポイントは何でしょうか?百人隊長はイエス様に懇願して、「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」何の質問もためらいもなく、イエス様は7節で「行って、直してあげよう」と言われます。すると百人隊長はイエス様が驚かれるようなことを言います。8節、「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。(9)と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10節で、これを聞いたときイエス様は、驚かれたと言います。そして主は、みんながこれは癒しと力と権威についての話であると思っていたこの状況全体を、まったく違うもの、すなわち、神の御国が外国人で形成されていることと、恵みを受けることを民族性に頼ることの危険性という状況に変えてしまわれます。10節後半、「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。(11)あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、･･･」東と西!それは何でしょうか?それはフェニキア(ガザ地区)、エジプト、ギリシャ、アラビア、ペルシャ(ヨルダン、イラン、イラク、アフガニスタン、パキスタン、インド、中国)です。彼ら、つまり、割礼を受けていない、コーシャーでない外国のやりかたと外国の身なりの外国人たちが来て、どうなるのでしょう?11節後半、「天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。(12)しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはまったく衝撃的な話です!この話の強さを感じなければなりません。イエス様はここで、イスラエルの選ばれた民に、まずこの信仰を持った百人隊長のようなローマ人が、それから汚れたあらゆる異邦人の民族が天の御国に入るが、あなた方「御国の子ら」は、暗やみに放り出されると言われるのです。選ばれた民族についてこのように語られるのは、ほとんど聞いたことがありません。主は何と言っておられるのでしょうか?イエス様が自民族中心主義の終わりである、と言っておられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいはもっと肯定的に言うと、主の来臨と共に、神の民の究極的に新しい定義がやって来たのです。すなわちそれは、主にある信仰です。イエス様にある信仰は民族性に勝ります。福音書の中でこれが何度も繰り返し起こるのを見ることができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#良きサマリアの話ー外国人が慈悲心の英雄(ルカ10:33)。 &lt;br /&gt;
#10人のらい病人が癒され、そのうちのたった一人が戻って来ます。彼はどのような人でしょうか?謙遜で感謝で輝く外国人の、サマリア人です(ルカ17:16)。 &lt;br /&gt;
#スロ･フェニキヤ人の娘の癒し(マルコ7:26)。 &lt;br /&gt;
#東、恐らくペルシャかアラビアから来た賢者たちの礼拝(マタイ2:1)。 &lt;br /&gt;
#そして最後にイエス様ご自身が前もって説明される、ぶどう園の主人のたとえのうちにある、ご自身の死とよみがえり(マタイ21:33―43)。ぶどう園の主人は収穫の分を受け取ろうと、自分の息子を農夫たちのところへ遣わします。彼らはその息子を殺します。イエス様は、「この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう」と聞かれます。43節にその答えがあります。「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== [肌の]色ではなく、キリストにある信仰 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マルチン･ルター･キングがその最も有名な演説で、「私には、私の幼い4人の子どもたちがいつの日か、自分の肌の色ではなく、持ち合わせている性格がどのようなものかで判断されるような国に住むようになる、と言う夢があります」と言ったとき、これを意味しているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様が自民族中心主義の終わりです。[肌の]色ではなく、キリストにある信仰、それが御国の特徴です。ノエルと私は、昨日シカゴにいる息子のベンジャミンと電話で話しながら、昔のことを思い出しました。1967年のアーバナです。ウォレン･ウェブスターは15,000人の学生たちの前で、「自分が宣教しているパキスタンで、自分の娘がパキスタン人と結婚しようと決心したらどうしますか?」と聞かれました。彼の答えは今でも私たちの耳に響いています。このメッセージが皆さんの耳にも響くよう願いますが、彼は「金持ちで白人で[キリストを]信じない銀行員のアメリカ人より、貧しいパキスタン人のクリスチャンの方がよっぽどマシです」と答えました。言い換えると、[肌の]色ではなく、キリストが争点なのです。イエス様が自民族中心主義の終わりです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私たちが神中心の、キリストを掲げる、聖書にどっぷり浸かった、公正を求める教会を開拓しようとするなら、自民族中心主義はここでも終わらせなければなりません。それが終わり、すべての民族と人種と民がキリストを共にたたえるとき、それは何と素晴らしいものでしょうか。主を、それを実際に起こして下さい! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
___ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 25 May 2017 20:07:30 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E6%A7%98%E3%81%AF%E8%87%AA%E6%B0%91%E6%97%8F%E4%B8%AD%E5%BF%83%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>イエス様は自民族中心主義の終わりである</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E6%A7%98%E3%81%AF%E8%87%AA%E6%B0%91%E6%97%8F%E4%B8%AD%E5%BF%83%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|Jesus Is the End of Ethnocentrism}}   &amp;amp;gt; それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Jesus Is the End of Ethnocentrism}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」20 イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」22 みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。23 イエスは言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ。』というたとえを引いて、カペナウムで行なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」24 また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。25 わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、26 エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。27 また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、29 立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。30 しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先週の日曜日、私は「情熱を植えること」と呼ぶビジョンの警鐘を鳴らしました。全会衆として共に集まり、夢の周りで警報を鳴らし、ツイン･シティーやあるいはその向こう側(BGEAの動きと一致するため、シャーロットやNCなど)のどこかで2002年に教会を開拓することはできないでしょうか?これは私たちの教会の使命宣言、「''私たちはすべてのもののうちにある神の主権に対する情熱を、イエス･キリストを通しすべての人々の喜びのために広めるため、存在する''」というものに特に焦点を当てるために、それを「情熱を植えること」と呼びました。しかしどんなものでも良いから、ただ教会を開拓する、というのが目標ではないことをもはっきりさせました。神中心で、キリストをたたえる、聖書に没頭した、宣教を行使する、魂を獲得し、正義を求める等々の、[開拓する]具体的な教会を描写しました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 正義を求める ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「正義を求める」と言う用語を用いるとき、私の念頭には少なくとも二つの課題があります。今週注目する''人種間の調和''と、来週注目する''命の尊厳''です。我が国における21世紀初頭の二つの大きな問題は、''人種間の平等''と''胎児の公正''[堕胎問題]です。正義を求める教会と、神中心の、キリストを掲げ、聖書にどっぷり浸った教会の間には、つながりがあると私は信じます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 私たちはもっと神中心で、キリストを掲げ、聖書にどっぷり浸る必要がある ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福音派の教会、特に白人主義の福音派の教会(それさえも「黒人教会」のように、残念な呼び名ですが)が人種間の平等と胎児の公正を情熱を持って追求しない理由の一つは、私たちが、自分たちが思っているほど神中心でなく、キリストをたたえず、聖書にどっぷり浸っていないからです。「''私たちはすべてのもののうちにある神の主権に対する情熱を、イエス･キリストを通しすべての人々の喜びのために広めるため、存在する''」と言うとき、神がいかにして人種間の関係の中で最高主権者として存在しておられるかを、私たちは本当に深く考えたことがあるでしょうか?キリストが人種間の関係の中でどのようにして掲げられているかを考えたことがあるでしょうか?民族関係と、教育、家庭、経済、キリストの体である組織の中での人種問題について、聖書がどのように私たちの考え方や感じ方や行動に浸透しているかを、自問したことがあるでしょうか?神の主権とキリストの栄光と聖書の人種に関する教えは、「すべての人々の喜びのためのすべての事がら」において、私たちの考え方や感じ方、行動を形成しているでしょうか? &lt;br /&gt;
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==== 不完全さの麻痺 ====&lt;br /&gt;
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ですから教会開拓を考えるとき、自分たちが[ある一定の目標に]到達したから、教会を倍増させる用意ができていると言っているのではありません。もし[ある一定の目標に]到達するまで待ったら、私たちは教会開拓をすることは決してありません。結婚することも、長年夫婦を続けることも、最初の仕事に就くことも、仕事を続けることも、宣教に出ていくことも、宣教地に留まることも、子どもを持とうと決心することも、ミニストリーを始めることも、決してありません。良い人々を自分自身の不完全さ以上に、麻痺させるものがあります。ああ、耳を傾け、学び、批判する人々の私たちを麻痺させてしまうようなその批判を容易に忘れる人々を神が起こして下さったなら!私たちは自分たちが完璧だから教会を開拓しようとするのではありません。それは私たちに夢があるからです。私たちがするよりももっと効果的に、同じ聖書的ビジョンを持って何かをやり遂げる、別の指導者たちが、新しい場所で新しい教会を開拓するという夢です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== より良い快適さではなく、偉大な目的のために生きる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「情熱を植える」ことに関して、私たちは''より良い快適さ''ではなく、''偉大な目標''のために生きることに身をささげる人々を植えると言うことを、私は考えています。以前「''クリスチャンになるということは、快適さではなく必要に向かって進むと言うこと''」といいうタイトルで説教をしたことがあります。[それは]自分の快適さをいかにして拡大するかではなく、神中心の何か素晴らしい目標を拡大することを夢見ながら、朝起きて、夜床に就くことです。「情熱を植える」と言うのは、自己保存、自己高揚、自己保養を求めることに日夜時間を費やすのではなく、自分自身や自分の家族や自分の教会より、もっと大きく素晴らしい何かを追求する人々を植える、と言う意味です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''あなたが生きている''と言うこと自体より素晴らしい目標とは何ですか?「神中心の、聖書に浸かった人種間の平等と人種間の調和を通して、イエス･キリストを掲げることが私の人生の最大の目標です」、あるいは「神中心で、聖書にどっぷり浸かり、胎児の公正を通してイエス･キリストを掲げることが私の人生の最大の目標です」という人が、今週と来週の日曜日、皆さんの中で何人、あるいは何百人、いるかどうか、お尋ねします。ああ、自己中心と一時的な忠誠心と締まりのない献身に反して、神がアドレナリンのようではなく、心臓のように、偉大な目標を維持する男女を起こして下さったなら!アドレナリンはその時必要なエネルギーを一時的に生み出し、それから体力を低下させます。心臓は良い時も困難な時も、冬でも夏でも、悲しい時でも嬉しい時でも、力がみなぎっている時でも弱っている時でも、病気の時でも健康な時でも、体中に生命を供給し続けます! ああ、副腎のようなクリスチャンだけでなく、人種間の平等という目標において、冠状動脈のようなクリスチャンがもっと起こされたなら! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 私たちにはウィリアム･ウィルバーフォースが必要 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皆さんの中でこの時代のウィリアム･ウィルバーフォースは誰でしょうか?彼は奥の深いクリスチャンで、活気に満ちた福音派で、イギリスの人種間の平等と言う目標の長期戦で熱心に活動した人でした。1787年10月28日、28歳で自分の日記に、「万軍の神は私の前に二つの大きな目標を置かれた。奴隷貿易の抑圧と、[倫理観の]改革である(ジョン･ポロック著、『ウィルバーフォース』、69ページ)。」アフリカ人奴隷の貿易は当時の国の経済の関心事を大きく占めていたので、国会がある事に彼は敗北しました。しかし彼はあきらめることなく、引き下がることもありませんでした。彼はアドレナリン的クリスチャンではなく、冠状動脈的クリスチャンだったのです。1807年2月24日の午前4時、彼が自分の日記に最初に記した20年後、奴隷貿易が違法になる最終的法律が可決されました。20年もの忍耐の後もやるべきことはまだ終えていません。奴隷業者そのものはどうなるのでしょう?その16年後の1833年7月26日、彼が死ぬ3日前、イギリスとイギリス植民地で奴隷制度が違法になる法律が可決されました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので「情熱を植える」と言うことを考えるとき、副腎のような情熱ではなく、この冠状動脈のような情熱を生み出すような教会を開拓することを私は考えています。神中心で、キリストを掲げ、聖書にどっぷり浸り、正義を求め、快適さではなく偉大な目標のため、決してあきらめることのない献身です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえもし神を中心におき、キリストを掲げ、聖書にどっぷり浸りたいのであれば、福音書でイエス様が言っておられることに耳を傾け、イエス様が自民族中心主義にどのように終止符を打たれるかを一緒に見ましょう。自民族中心主義とは、自分の民族が優勢あるいは特権階級として扱われるべきだと信じ込むこと、あるいは感じることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ルカ4:16-30ー神のみ国はあなたが考えている民族とは異なる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ルカ4:16―30から始めます。カペナウムで有名になった地元出身の男児が、その後自分の故郷、ナザレに戻ってきます。安息日に礼拝堂に行き、彼に聴こうと群衆が集まります。そして主がご自身のメッセージで言われることは、まったく信じられないことです。主は暴動を引き起こすところでした。それを意図的に成されるのです。まず彼らは主に預言者イザヤの書簡を読むよう手渡し、主はその中から61章をお選びになります。それは囚われ人を解放し、主の恵みの年を告げ知らせる贖い主の来臨についての箇所です(18後半―19節)。そしてそれが彼らの聞いたとおり実現したと、主は言われるのです。21節、「イエスは人々にこう言って話し始められた。『きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。』」それは驚くべきことでした。トップ記事ー「地元出身の男児が、自分がメシアであると主張する」。でもこれが暴動を起こすきっかけとなったのではありません。22節、「みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。」そこまでは良かったのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に主が何と言われるかを見てください。まったく予期しなかったことです!もしあなたが以下のものが欲しいと思われるなら、不可解です。ただの教会成長が欲しいのなら、不可解です。主は旧約聖書から自分の郷里の自民族中心主義を前にして、二つの話をお選びになります。それはそれ以上に無礼にはなれないほどに無礼な話でした。主はどのような反応が彼らから返ってくるかを知っておられます。それは24節で、「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません」と言われるからです。言い換えると、「メシアが何をするか、またメシアのみ国がどのようなものであるか、あなた方は自分の理解で今わたしをほめている(22節)。しかしわたしがこれからしようとしていることと、わたし国がどのようなものかを話すのを聞いたら驚くでしょう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主はまず一つ目の話をなさいます。1列王17章から引用されていますが、25―26節、「わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六ヶ月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、(26)エリヤはだれのところにも遣わされず、シドン(フェニキア)のサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。」主はいきなり、外国であるシドン(フェニキア)の地から来ている異邦人に奇跡的恵みをもたらすために、すべてのユダヤ民族を通り過ぎられる神の話をされます。イスラエルにもやもめは多くいたが、神はこの外国人だけを祝福されたー主はこれを、話を柔らげることも、説明することもなく、あからさまにそして強い口調で言われます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそれが十分でないかのように、二つ目の話を2列王記5章から引用して、27節で話されます。「また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、ツァラアトに冒された人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」再度、ポイントは、神は癒そうと選ぶことができたはずのすべての人の中で、ユダヤ人ではなく、外国の王であったシリア人をお選びになった、と言うことです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この二つの話はナザレの自民族中心主義に理解できない話ではありませんでした。28節、「これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、(29)立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。(30)しかしイエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた。」彼らはそれを理解し、好みませんでした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話のポイントは何でしょうか?ポイントは、「わたしのもたらす国は、」イエス様が言われるには、「あなたの考える民族国家とは違う。イスラエルとして選ばれたあなたがたの地位は、何の謙遜も同情も生み出さなかったどころか、自尊心と軽蔑を生み出した」です。イエス様が自民族中心主義の終わりです。「わたしを見なさい。わたしから習いなさい」と主は言われます。「わたしは一つ、あるいはいくつかの民族ではなく、すべての民族グループから民を贖うためにやって来たのです。祭司と友の国をすべての人々の中から集めようとされる神の熱心、義と憐れみを見ることができないあなたがたは、呪われよ。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== マタイ8:5-13ーイエス様にある信仰は民族性に勝利する ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらのナザレ人に呪いを宣告するなど、私はやりすぎでしょうか?次のマタイ8:5―13の別の話を考えながら、あなた自身がそれを判断してください。イエス様はマタイ5―7章で山上の垂訓を語り終えられ、それからマタイ8:1―4で、イスラエルの人々の中で最もさげすまれ、排斥されていたらい病の者に触れられ、癒されます。そしてマタイ8:5で主はカペナウムに入られ、そこで次に最もさげすまれ不快な種類の人物、ローマ軍の百人隊長に出会われます。それは丁度タリバンの解放軍にとってのアメリカ海軍兵のようなものです。この特定の百人隊長がユダヤ人の間で評判だった事実(ルカ7:3―5)は、マタイの福音書では省かれています。それはマタイにとっては自分の要点と関係のあることではありません。この男は外国人であり、ユダヤ人ではありません。マタイはその自分の要点に人々を引き付けます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話のポイントは何でしょうか?百人隊長はイエス様に懇願して、「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」何の質問もためらいもなく、イエス様は7節で「行って、直してあげよう」と言われます。すると百人隊長はイエス様が驚かれるようなことを言います。8節、「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。(9)と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10節で、これを聞いたときイエス様は、驚かれたと言います。そして主は、みんながこれは癒しと力と権威についての話であると思っていたこの状況全体を、まったく違うもの、すなわち、神の御国が外国人で形成されていることと、恵みを受けることを民族性に頼ることの危険性という状況に変えてしまわれます。10節後半、「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。(11)あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、･･･」東と西!それは何でしょうか?それはフェニキア(ガザ地区)、エジプト、ギリシャ、アラビア、ペルシャ(ヨルダン、イラン、イラク、アフガニスタン、パキスタン、インド、中国)です。彼ら、つまり、割礼を受けていない、コーシャーでない外国のやりかたと外国の身なりの外国人たちが来て、どうなるのでしょう?11節後半、「天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。(12)しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはまったく衝撃的な話です!この話の強さを感じなければなりません。イエス様はここで、イスラエルの選ばれた民に、まずこの信仰を持った百人隊長のようなローマ人が、それから汚れたあらゆる異邦人の民族が天の御国に入るが、あなた方「御国の子ら」は、暗やみに放り出されると言われるのです。選ばれた民族についてこのように語られるのは、ほとんど聞いたことがありません。主は何と言っておられるのでしょうか?イエス様が自民族中心主義の終わりである、と言っておられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいはもっと肯定的に言うと、主の来臨と共に、神の民の究極的に新しい定義がやって来たのです。すなわちそれは、主にある信仰です。イエス様にある信仰は民族性に勝ります。福音書の中でこれが何度も繰り返し起こるのを見ることができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#良きサマリアの話ー外国人が慈悲心の英雄(ルカ10:33)。 &lt;br /&gt;
#10人のらい病人が癒され、そのうちのたった一人が戻って来ます。彼はどのような人でしょうか?謙遜で感謝で輝く外国人の、サマリア人です(ルカ17:16)。 &lt;br /&gt;
#スロ･フェニキヤ人の娘の癒し(マルコ7:26)。 &lt;br /&gt;
#東、恐らくペルシャかアラビアから来た賢者たちの礼拝(マタイ2:1)。 &lt;br /&gt;
#そして最後にイエス様ご自身が前もって説明される、ぶどう園の主人のたとえのうちにある、ご自身の死とよみがえり(マタイ21:33―43)。ぶどう園の主人は収穫の分を受け取ろうと、自分の息子を農夫たちのところへ遣わします。彼らはその息子を殺します。イエス様は、「この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう」と聞かれます。43節にその答えがあります。「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== [肌の]色ではなく、キリストにある信仰 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マルチン･ルター･キングがその最も有名な演説で、「私には、私の幼い4人の子どもたちがいつの日か、自分の肌の色ではなく、持ち合わせている性格がどのようなものかで判断されるような国に住むようになる、と言う夢があります」と言ったとき、これを意味しているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様が自民族中心主義の終わりです。[肌の]色ではなく、キリストにある信仰、それが御国の特徴です。ノエルと私は、昨日シカゴにいる息子のベンジャミンと電話で話しながら、昔のことを思い出しました。1967年のアーバナです。ウォレン･ウェブスターは15,000人の学生たちの前で、「自分が宣教しているパキスタンで、自分の娘がパキスタン人と結婚しようと決心したらどうしますか?」と聞かれました。彼の答えは今でも私たちの耳に響いています。このメッセージが皆さんの耳にも響くよう願いますが、彼は「金持ちで白人で[キリストを]信じない銀行員のアメリカ人より、貧しいパキスタン人のクリスチャンの方がよっぽどマシです」と答えました。言い換えると、[肌の]色ではなく、キリストが争点なのです。イエス様が自民族中心主義の終わりです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私たちが神中心の、キリストを掲げる、聖書にどっぷり浸かった、公正を求める教会を開拓しようとするなら、自民族中心主義はここでも終わらせなければなりません。それが終わり、すべての民族と人種と民がキリストを共にたたえるとき、それは何と素晴らしいものでしょうか。主を、それを実際に起こして下さい! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
___ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 25 May 2017 20:06:41 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E6%A7%98%E3%81%AF%E8%87%AA%E6%B0%91%E6%97%8F%E4%B8%AD%E5%BF%83%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B</comments>		</item>
		<item>
			<title>ことばは人となられた</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%81%AF%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「ことばは人となられた」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Word Was Made Flesh}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2この方は、初めに神とともにおられた。3すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。4この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。5光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。６神から遣わされたヨハネという人が現れた。7この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。8彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。9すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。15ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」16私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。17というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。18いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1974年の春、私はドイツで学業を終えようとしていました。私の本教授が亡くなられ、教授の科目の一つを引き継ぐため、オスカー・クルマンという新約聖書の偉大な学者が、ヨハネの福音書を教えるためベイゼルからミューニッヒにやって来ました。一学期18週の最初の13週で私たちが学んだのは、思い出すに、ヨハネの書の最初のたった14節でした。それほどこの節は深いのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== クリスマスのキリストについての特別な真実のメッセージ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでこの聖書箇所を一つの説教で取り扱うことで私は不正を行うのではないかと、恐れおののきつつ選びました。しかし二つの理由でこれを選びます。一つはこれがクリスマスのすばらしい一節だということです。クリスマス向けだと示している鍵は14節です。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」これがクリスマスの意味です。神が、イエス・キリストの人となりにおいて、この世に来られ、処女からお生まれになりました。二つ目の理由は、私がこの箇所を選んだのは、この箇所に、私たちがどうしても知りそして受け入れる必要のある、イエス・キリストについての特別な真実が満ち溢れているからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは特に今日、重要です。なぜなら私が先週歓迎の挨拶で言ったように、この世のキリスト教でない主流の宗教も、昨今はイエス様を信奉することを、ある意味あたかも重んじたり尊重したりするからです。特に最近は、イスラム教さえも私たちよりイエス様を敬っているよ、なぜなら神が主が十字架上で犯罪者の恥ずべき死を忍ぶことをお許しになるなど信じないからである、という事実を引き合いに出す、イスラム教のリーダーたちの言葉を耳にします。ですのでクリスチャンがイエス・キリストを深く知り、聖書のキリストと、他の宗教が敬うというキリストを見分けることができるようになることは、とても重要です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので、この地上の誰よりも親密にイエス・キリストを知っていた者、使徒ヨハネによって書かれた主についてのこの段落で私がしたいのは、人となられたことばに関する5つの真実と、それから今朝あなたが主に対し応答するであろう二つの全く反対の応答の対比を示し、説明し、そして大いに喜びたいと思います。私のねらいは、あなたが主がどのようなお方であられるかを理解し、主をあなたの主、あなたの神、すべてにまさるあなたの宝として迎え入れるようになることです。そしてもしあなたが既に主を迎え入れているのであるなら、あなたが主を受け入れ、宝とし、主に喜び、主に従い、これまで以上に主を表に出すよう、祈ります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではこの箇所の人となられたことばについての５つの真実から始めましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''人となられたことばの地上での名は、イエス・キリスト'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
17節「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「イエス」というのは、主の御使いがヨセフに名づけなさいと言われた名前で、それは「救い主」というのを意味します。「主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』」&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「キリスト」というのは、人々に勝利を与え、この世の主権をその肩に担う、ユダヤ人たちが待ち望んだ王の称号をさします。ペテロの兄弟アンデレがイエス様に出会ったとき、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト[とヨハネは付け足します])に会った」とペテロに言いました(ヨハネ1:41)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでこの箇所で私たちが語るお方は、聖書でそして世界中で知られている、「イエス・キリスト」です。そしてそれぞれの名がとてつもない意味を抱えています。主は救い主で、王であられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''人となられた方はこの地上に人としてお生まれになる以前に、神として存在され、神とともにおられた'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1節、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この「ことばは神とともにあった」と「ことばは神であった」という二つの句に含まれる奥義を拒否する宗派が絶えずあります。彼らは人間の概念にとらわれ、両方を共有することはできない、と言います。主は神であるか、神とともにおられるかのどちらかだ。もし主が神とともにおられるのなら、神ではない。もし神であられるのなら、神とともにはおられない、と。そうやってこの二つの文章から逃れるため、時に彼らは(エホバの証人のように)訳を変え、「ことばは神とともにあった。ことばは一神[神々の中の]であった。」と言う風にします。しかしキリスト教教会がそのような教えを真理でありまた正当であるとして受け入れたことがない、確かな文法的理由、また他のヨハネの福音書や聖書の箇所からの文脈的理由があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この第一節が教えるのは、私たちが知っているイエス・キリストは、人となられる以前、神であられ、またみ父も神であられた、ということです。この二つの神格は一つの神であられました。これは私たちが三位一体として理解する、真理の一部です。このため私たちはイエス・キリストを礼拝し、ヨハネ20:28のトマスと共に、「私の主。私の神。」というのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''人となられる以前に、ヨハネは主を「ことば」と呼ぶ'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネ1:1「初めに、''ことば''があった。''ことば''は神とともにあった。''ことば''は神であった。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ主は「ことば」と呼ばれるのでしょうか?その答えの一つは、その答えの一つは、[ことばという名以外に]呼ばれたかも知れない名と、それがなぜ「ことば」との関係で不適切なのかを、じっくり考えることにあります。例えば、主は「わざ」という名で呼ばれていたとしましょう。「初めに、わざがあった。わざは神とともにあった。わざは神であった。」わざとことばの違いの一つは、わざはもっと曖昧です。もし私たちの''ことば''は時によって不明瞭で様々な解釈の対象になると思うのなら、私たちの''わざ''はそれより更に不明瞭で曖昧です。そのため私たちは良く言葉で自分を説明するのです。ことばは私たちの動作を、行いそのものよりより明確にとらえます。神は歴史の中で数多くの偉大なみわざを成されましたが、ことばには特別な優先順位をお与えになりました。その理由の一つは、明瞭さと意思疎通に高い価値を置いておられるからだと、私は思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他の例としてヨハネは主を「思い」と呼ぶこともできたかも知れません。「初めに、思いがあった。思いは神とともにあった。思いは神であった。」でも思いとことばの違いの一つは、言葉は一般的にコミュニケーションを確立するために考案者から出てくるものとして想像されます。ヨハネは私たちに神の御子が、ご自身とみ父のコミュニケーションのためと、神の私たちとのコミュニケーションとして歴史に現れるため存在されるということを、心に描いて欲しいからだと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3つめの例で、ヨハネは「感情」と呼ぶことができたかも知れません。「初めに、感情があった。感情は神とともにあった。感情は神であった。」しかし、再度申し上げますが、感情は明確な概念やあるいは意図、意味を含みません。わざと同じように、感情は曖昧で言葉による説明が必要です。ですのでイエス様を「ことば」と呼ぶのが、神の御子の存在そのものはコミュニケーションのためであることを強調する、ヨハネの方法のように思われます。第一にそして最も大切なことですが、主は神とともに、永遠から意思疎通のために存在され、絶えず存在してこられたのです。第二に、そして私たちにとっては無限に大切なことですが、神の御子は神の私たちに対するコミュニケーションとなってくださいました。要約すると、イエス様を「ことば」と呼ぶのは、主が「ご自身を表現される神」という意味であると言うことができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''ことばを通して神が造られたものでないすべて'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネ1:3「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネがことばについてここで言っているのには二つの理由があります。一つはそれが主が神であることを強調するからです。私たちが神を考えるとき、すぐさま創造主を思い浮かべます。神は神以外のすべてのものの源であり解釈であられます。ですのでヨハネが「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」というとき、主は神であられ''造られたものではない''、ということを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つの理由は10節にあります。「この方はもとから世におられ、''世はこの方によって造られた''のに、世はこの方を知らなかった。」ここでは要するに、この世の盲目の罪の深刻さと、イエス様を拒絶するこの世の悪の深さを強調しているように思われます。主は''創造主''として私たちのところに来られますが、この世は''未だ''に主を受け入れていません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではことばは人となられたということについて、私たちはここまで何を見てきたでしょうか?1）主は救い主、王なるイエス・キリスト、2）主は三位一体の第二位格の神、3）主は意思疎通をとられる神、ご自身を表現される神であられることば、3）主はすべてのものの創造主、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''人となられたことばにはいのちがあり、そのいのちは人の光となられる'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネ1:4「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべてのものの命はことばから始まります。それは私たちがすでに見てきたように、主がすべてのものの創造主であられるということから、明らかです。しかしここで注目しているのは、恐らく霊的いのちについてでしょう。言い換えれば、私たち人間には二つの不可抗力な問題があります。私たちは霊的に死んでおり、それゆえ霊的に盲目です。ヨハネは、イエス様はその二つの問題の解決である、主には私たちが必要ないのちがあり、このいのちは私たちに必要な光となってくれる、とここで言うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネ5:21で[主は]、「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」と言われます。言い換えれば、主はラザロの墓の前に立って、死んだ者に「ラザロよ、出て来なさい」と言われたことを、私たちに対し霊的にして下さるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそのイエス様から与えられるいのちが、光とどのように関係しているのでしょうか?二通りです。一つは、それが私たちに見させてくれます。死人にいのちがあたえられるとき、その死人は見ます。あるいはイメージを変えて、あなたが生まれた時、あなたは見ます。それは霊的なことでも同じです。イエス様はニコデモに、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、''新しく生まれ''なければ、神の国を''見る''ことはできません。」(ヨハネ3:3）と言われました。ですのでまずイエス様は''いのち''をお与えになり、そしてそのいのちは霊的現実を見ることのできる、''光''となります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様のお与えになるいのちが光と関係する他の方法は、それがあなたに見る目を与えてくれるというわけではなく、イエス様ご自身が見させてくださる光そのものというものです。私たちが不信者であるとき盲目であるのは、結局のところ、何に対してでしょうか?イエス様の栄光である、真理と美と価値に対して盲目なのです。ですからヨハネが「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」と言うとき、それは人となられたことばであるイエス・キリストは、霊的輝きを見る力と、''そして''見える輝きの両者だということを恐らく意味しているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
14節で、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちは''この方の栄光を見た。''」と言うのはそれです。それが、イエス様がヨハネ17:24で、「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。…わたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」と祈られたことです。そしてそれが、「わたしは、世の光です。」と二度繰り返して言われたとき(ヨハネ8:12、9:5)、主張されたことです。ですから人となられたことばにはいのちがあられ、そのいのちは人の光となられます。主が見る力と見える輝きなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まとめると、人となられたことばについての５つの真実とは何でしょうか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#主は人となられた後のイエス・キリストで、救い主で、神によって油塗られたすべてのものの王であられる。 &lt;br /&gt;
#主は神であられる。主は神とともにおられ、神であられた。 &lt;br /&gt;
#主は意思疎通される神、ご自身を表現される神であられる、ことばと呼ばれた。 &lt;br /&gt;
#主は創造主であられる。すべてのものは主を通して造られたが、主ご自身は造られたものではない。 &lt;br /&gt;
#主はいのちであり光であられる。見ることのできる生ける力であられ、すべてを満足させる見える輝きであられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、では人となられたことば、イエス様についてのこれらすべての啓示に対しあなたは応答できるでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 応答の一つー私は主を知らないし、主を受け入れない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一つは10、11節に描かれています。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民を受け入れなかった。」これを聞いてあなたは、「私は主を知らないし、受け入れいない」と言われるかも知れません。あなたの創造主、あなたのいのち、あなたの光についてそのように言うのはとても恐ろしいことです。せめて懇願させてください、このクリスマス、そのように簡単に言わないでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== その他の応答ー私は主を知っており、主を受け入れる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他の応答は12、13節に見られます。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」これが私が今朝祈る応答です。この素晴らしい人となられたことばを受け入れてください。主を救い主、王、神、ことば、創造主、いのち、そして光として受け入れてください。神が、主においてあなたのためであられるすべてを受け入れてください! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クリスマスはこの世のすべての暗闇と死の洞窟に隠れたビン・ラデンを探し出すため、ご自身の御子をこの世に遣わされた神のようなものです。洞窟にたいまつを投げ込む代わりに、主はまう洞窟の入り口に立って、このように言われます。「私は罪人の代わりに十字架で死んだのです。それゆえ光のもとに出てきなさい。もしあなたがわたしをあなたの神、あなたの身代わり、あなたの宝として受け入れるなら、わたしの死があなたの死とみなされ、わたしの義があなたの義と認められ、そしてあなたは永遠のいのちが与えられるでしょう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
___ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; マタイ1：20－21&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 18 May 2017 20:16:50 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%81%AF%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F</comments>		</item>
		<item>
			<title>ことばは人となられた</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%81%AF%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: ページの作成: {{info|The Word Was Made Flesh}}   &amp;amp;gt; 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2この方は、初めに神と...&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|The Word Was Made Flesh}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2この方は、初めに神とともにおられた。3すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。4この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。5光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。６神から遣わされたヨハネという人が現れた。7この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。8彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。9すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。15ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」16私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。17というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。18いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 &amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1974年の春、私はドイツで学業を終えようとしていました。私の本教授が亡くなられ、教授の科目の一つを引き継ぐため、オスカー・クルマンという新約聖書の偉大な学者が、ヨハネの福音書を教えるためベイゼルからミューニッヒにやって来ました。一学期18週の最初の13週で私たちが学んだのは、思い出すに、ヨハネの書の最初のたった14節でした。それほどこの節は深いのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== クリスマスのキリストについての特別な真実のメッセージ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでこの聖書箇所を一つの説教で取り扱うことで私は不正を行うのではないかと、恐れおののきつつ選びました。しかし二つの理由でこれを選びます。一つはこれがクリスマスのすばらしい一節だということです。クリスマス向けだと示している鍵は14節です。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」これがクリスマスの意味です。神が、イエス・キリストの人となりにおいて、この世に来られ、処女からお生まれになりました。二つ目の理由は、私がこの箇所を選んだのは、この箇所に、私たちがどうしても知りそして受け入れる必要のある、イエス・キリストについての特別な真実が満ち溢れているからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは特に今日、重要です。なぜなら私が先週歓迎の挨拶で言ったように、この世のキリスト教でない主流の宗教も、昨今はイエス様を信奉することを、ある意味あたかも重んじたり尊重したりするからです。特に最近は、イスラム教さえも私たちよりイエス様を敬っているよ、なぜなら神が主が十字架上で犯罪者の恥ずべき死を忍ぶことをお許しになるなど信じないからである、という事実を引き合いに出す、イスラム教のリーダーたちの言葉を耳にします。ですのでクリスチャンがイエス・キリストを深く知り、聖書のキリストと、他の宗教が敬うというキリストを見分けることができるようになることは、とても重要です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので、この地上の誰よりも親密にイエス・キリストを知っていた者、使徒ヨハネによって書かれた主についてのこの段落で私がしたいのは、人となられたことばに関する5つの真実と、それから今朝あなたが主に対し応答するであろう二つの全く反対の応答の対比を示し、説明し、そして大いに喜びたいと思います。私のねらいは、あなたが主がどのようなお方であられるかを理解し、主をあなたの主、あなたの神、すべてにまさるあなたの宝として迎え入れるようになることです。そしてもしあなたが既に主を迎え入れているのであるなら、あなたが主を受け入れ、宝とし、主に喜び、主に従い、これまで以上に主を表に出すよう、祈ります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではこの箇所の人となられたことばについての５つの真実から始めましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''人となられたことばの地上での名は、イエス・キリスト'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
17節「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「イエス」というのは、主の御使いがヨセフに名づけなさいと言われた名前で、それは「救い主」というのを意味します。「主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』」&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「キリスト」というのは、人々に勝利を与え、この世の主権をその肩に担う、ユダヤ人たちが待ち望んだ王の称号をさします。ペテロの兄弟アンデレがイエス様に出会ったとき、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト[とヨハネは付け足します])に会った」とペテロに言いました(ヨハネ1:41)。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですのでこの箇所で私たちが語るお方は、聖書でそして世界中で知られている、「イエス・キリスト」です。そしてそれぞれの名がとてつもない意味を抱えています。主は救い主で、王であられるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''人となられた方はこの地上に人としてお生まれになる以前に、神として存在され、神とともにおられた'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1節、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この「ことばは神とともにあった」と「ことばは神であった」という二つの句に含まれる奥義を拒否する宗派が絶えずあります。彼らは人間の概念にとらわれ、両方を共有することはできない、と言います。主は神であるか、神とともにおられるかのどちらかだ。もし主が神とともにおられるのなら、神ではない。もし神であられるのなら、神とともにはおられない、と。そうやってこの二つの文章から逃れるため、時に彼らは(エホバの証人のように)訳を変え、「ことばは神とともにあった。ことばは一神[神々の中の]であった。」と言う風にします。しかしキリスト教教会がそのような教えを真理でありまた正当であるとして受け入れたことがない、確かな文法的理由、また他のヨハネの福音書や聖書の箇所からの文脈的理由があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この第一節が教えるのは、私たちが知っているイエス・キリストは、人となられる以前、神であられ、またみ父も神であられた、ということです。この二つの神格は一つの神であられました。これは私たちが三位一体として理解する、真理の一部です。このため私たちはイエス・キリストを礼拝し、ヨハネ20:28のトマスと共に、「私の主。私の神。」というのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''人となられる以前に、ヨハネは主を「ことば」と呼ぶ'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネ1:1「初めに、''ことば''があった。''ことば''は神とともにあった。''ことば''は神であった。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ主は「ことば」と呼ばれるのでしょうか?その答えの一つは、その答えの一つは、[ことばという名以外に]呼ばれたかも知れない名と、それがなぜ「ことば」との関係で不適切なのかを、じっくり考えることにあります。例えば、主は「わざ」という名で呼ばれていたとしましょう。「初めに、わざがあった。わざは神とともにあった。わざは神であった。」わざとことばの違いの一つは、わざはもっと曖昧です。もし私たちの''ことば''は時によって不明瞭で様々な解釈の対象になると思うのなら、私たちの''わざ''はそれより更に不明瞭で曖昧です。そのため私たちは良く言葉で自分を説明するのです。ことばは私たちの動作を、行いそのものよりより明確にとらえます。神は歴史の中で数多くの偉大なみわざを成されましたが、ことばには特別な優先順位をお与えになりました。その理由の一つは、明瞭さと意思疎通に高い価値を置いておられるからだと、私は思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他の例としてヨハネは主を「思い」と呼ぶこともできたかも知れません。「初めに、思いがあった。思いは神とともにあった。思いは神であった。」でも思いとことばの違いの一つは、言葉は一般的にコミュニケーションを確立するために考案者から出てくるものとして想像されます。ヨハネは私たちに神の御子が、ご自身とみ父のコミュニケーションのためと、神の私たちとのコミュニケーションとして歴史に現れるため存在されるということを、心に描いて欲しいからだと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3つめの例で、ヨハネは「感情」と呼ぶことができたかも知れません。「初めに、感情があった。感情は神とともにあった。感情は神であった。」しかし、再度申し上げますが、感情は明確な概念やあるいは意図、意味を含みません。わざと同じように、感情は曖昧で言葉による説明が必要です。ですのでイエス様を「ことば」と呼ぶのが、神の御子の存在そのものはコミュニケーションのためであることを強調する、ヨハネの方法のように思われます。第一にそして最も大切なことですが、主は神とともに、永遠から意思疎通のために存在され、絶えず存在してこられたのです。第二に、そして私たちにとっては無限に大切なことですが、神の御子は神の私たちに対するコミュニケーションとなってくださいました。要約すると、イエス様を「ことば」と呼ぶのは、主が「ご自身を表現される神」という意味であると言うことができます。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''ことばを通して神が造られたものでないすべて'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネ1:3「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネがことばについてここで言っているのには二つの理由があります。一つはそれが主が神であることを強調するからです。私たちが神を考えるとき、すぐさま創造主を思い浮かべます。神は神以外のすべてのものの源であり解釈であられます。ですのでヨハネが「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」というとき、主は神であられ''造られたものではない''、ということを意味します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つの理由は10節にあります。「この方はもとから世におられ、''世はこの方によって造られた''のに、世はこの方を知らなかった。」ここでは要するに、この世の盲目の罪の深刻さと、イエス様を拒絶するこの世の悪の深さを強調しているように思われます。主は''創造主''として私たちのところに来られますが、この世は''未だ''に主を受け入れていません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではことばは人となられたということについて、私たちはここまで何を見てきたでしょうか?1）主は救い主、王なるイエス・キリスト、2）主は三位一体の第二位格の神、3）主は意思疎通をとられる神、ご自身を表現される神であられることば、3）主はすべてのものの創造主、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''人となられたことばにはいのちがあり、そのいのちは人の光となられる'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネ1:4「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべてのものの命はことばから始まります。それは私たちがすでに見てきたように、主がすべてのものの創造主であられるということから、明らかです。しかしここで注目しているのは、恐らく霊的いのちについてでしょう。言い換えれば、私たち人間には二つの不可抗力な問題があります。私たちは霊的に死んでおり、それゆえ霊的に盲目です。ヨハネは、イエス様はその二つの問題の解決である、主には私たちが必要ないのちがあり、このいのちは私たちに必要な光となってくれる、とここで言うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネ5:21で[主は]、「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」と言われます。言い換えれば、主はラザロの墓の前に立って、死んだ者に「ラザロよ、出て来なさい」と言われたことを、私たちに対し霊的にして下さるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてそのイエス様から与えられるいのちが、光とどのように関係しているのでしょうか?二通りです。一つは、それが私たちに見させてくれます。死人にいのちがあたえられるとき、その死人は見ます。あるいはイメージを変えて、あなたが生まれた時、あなたは見ます。それは霊的なことでも同じです。イエス様はニコデモに、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、''新しく生まれ''なければ、神の国を''見る''ことはできません。」(ヨハネ3:3）と言われました。ですのでまずイエス様は''いのち''をお与えになり、そしてそのいのちは霊的現実を見ることのできる、''光''となります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様のお与えになるいのちが光と関係する他の方法は、それがあなたに見る目を与えてくれるというわけではなく、イエス様ご自身が見させてくださる光そのものというものです。私たちが不信者であるとき盲目であるのは、結局のところ、何に対してでしょうか?イエス様の栄光である、真理と美と価値に対して盲目なのです。ですからヨハネが「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」と言うとき、それは人となられたことばであるイエス・キリストは、霊的輝きを見る力と、''そして''見える輝きの両者だということを恐らく意味しているのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
14節で、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちは''この方の栄光を見た。''」と言うのはそれです。それが、イエス様がヨハネ17:24で、「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。…わたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」と祈られたことです。そしてそれが、「わたしは、世の光です。」と二度繰り返して言われたとき(ヨハネ8:12、9:5)、主張されたことです。ですから人となられたことばにはいのちがあられ、そのいのちは人の光となられます。主が見る力と見える輝きなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まとめると、人となられたことばについての５つの真実とは何でしょうか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#主は人となられた後のイエス・キリストで、救い主で、神によって油塗られたすべてのものの王であられる。 &lt;br /&gt;
#主は神であられる。主は神とともにおられ、神であられた。 &lt;br /&gt;
#主は意思疎通される神、ご自身を表現される神であられる、ことばと呼ばれた。 &lt;br /&gt;
#主は創造主であられる。すべてのものは主を通して造られたが、主ご自身は造られたものではない。 &lt;br /&gt;
#主はいのちであり光であられる。見ることのできる生ける力であられ、すべてを満足させる見える輝きであられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、では人となられたことば、イエス様についてのこれらすべての啓示に対しあなたは応答できるでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 応答の一つー私は主を知らないし、主を受け入れない ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一つは10、11節に描かれています。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民を受け入れなかった。」これを聞いてあなたは、「私は主を知らないし、受け入れいない」と言われるかも知れません。あなたの創造主、あなたのいのち、あなたの光についてそのように言うのはとても恐ろしいことです。せめて懇願させてください、このクリスマス、そのように簡単に言わないでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== その他の応答ー私は主を知っており、主を受け入れる ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他の応答は12、13節に見られます。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」これが私が今朝祈る応答です。この素晴らしい人となられたことばを受け入れてください。主を救い主、王、神、ことば、創造主、いのち、そして光として受け入れてください。神が、主においてあなたのためであられるすべてを受け入れてください! &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クリスマスはこの世のすべての暗闇と死の洞窟に隠れたビン・ラデンを探し出すため、ご自身の御子をこの世に遣わされた神のようなものです。洞窟にたいまつを投げ込む代わりに、主はまう洞窟の入り口に立って、このように言われます。「私は罪人の代わりに十字架で死んだのです。それゆえ光のもとに出てきなさい。もしあなたがわたしをあなたの神、あなたの身代わり、あなたの宝として受け入れるなら、わたしの死があなたの死とみなされ、わたしの義があなたの義と認められ、そしてあなたは永遠のいのちが与えられるでしょう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
___ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt; 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt; マタイ1：20－21&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 18 May 2017 20:13:45 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%81%AF%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F</comments>		</item>
		<item>
			<title>十字架のみを誇りとする</title>
			<link>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%82%92%E8%AA%87%E3%82%8A%E3%81%A8%E3%81%99%E3%82%8B</link>
			<description>&lt;p&gt;Pcain: 「十字架のみを誇りとする」を保護しました。 ([edit=sysop] (無期限) [move=sysop] (無期限))&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|Boasting Only in the Cross}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; しかし私には、私たちの主イエス･キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世で持続する成果を発揮するのに、人生で多くのことを知る必要はありません。でもいくつかの重要なことは知っていなければなりません。そしてそのために生きることと死ぬことを覚悟しなければなりません。この世を耐久性のある変化を持って変える人とは、多くのことを習得した人ではなく、ある特定の偉大なことによって征服された人です。もしあなたが自分の人生を重視されたければ、あなたの落とす小石が地球の果てまで行き渡り、何世紀もそして永遠まで押し寄せる波になり、連鎖反応を起こして欲しいと思うならば、高いIQやEQを持つ必要はありません。見栄えのする外見や富を持つ必要はありません。良い家系や良い学校の出身である必要はありません。いくつかの素晴らしい、壮大な、不変の、明確で単純で、栄光のあることを知り、それによって燃やされなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもここにいるすべての人があなたに成果を上げて欲しいと思っているわけではありません。皆さんのうちの何百人という人たちが、自分が人生で何か偉大なことをして永遠に続く成果を発揮するかどうかなど、気にも留めていません。他人に好かれたいという、ただそれだけです。もし他人に好かれるなら、あなたは満足するのです。あるいはもしいい仕事といい奥さんと、いい子供を一人か二人、そしていい車と長い休暇と、何人かのいい友達と、楽しい隠居生活と、早くて楽な死と、地獄がなければ、もし(神以外に)それらを持つことができれば、あなたは満足するのです。それがあなたを待ち受けているものであれば、悲劇です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3週間前ルビー･エリエソンさんとローラ･エドワーズさんがカメルーンで亡くなったというニュースを、私たちの教会で聞きました。ルビーさんは80歳を超えていました。生涯独身で、未踏の人々、貧しい人々、病の人々の間でイエス･キリストを伝えるというこの一つの目標のために、すべてを捧げました。ローラさんは未亡人で、医師であり、80歳になるところで、カメルーンのルビーさんのそばで仕えていました。走行していた車のブレーキが故障し、車が崖から落ち、二人共即死でした。「それは悲劇だったと思う?」と私は教会の人たちに尋ねました。二つの命が、一つの偉大なビジョンに突き動かされ、イエス･キリストの栄光のために滅び行く人々に仕えるという、予想もしなかったことに費やされたのです。彼女たちのアメリカ人の同僚のほとんどが、フロリダやニュー･メキシコで、つまらないもので人生を棒に振るために定年退職する年齢の、その20年後です。いいえ、それは悲劇ではありません。栄光です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
悲劇とは何か、教えてあげましょう。リーダーズ･ダイジェスト(2000年2月発行、98ページ)から、悲劇とは一体何かをお読みします。「ボブとペニーは･･･5年前、ボブが59歳でペニーが51歳の時に北東の地で定年退職した。彼らは現在、フロリダのプンタ･ゴーダに住んでおり、そこで30フィートあるトロール漁船で船旅をしたり、ソフトボールしたり、貝殻を集めたりしている。」アメリカン･ドリームです。たった一度切りの自分の人生の終わりに来て、創造主の前に申し開きをする前の最後の偉大な仕事が、「貝殻を集めました。私の貝殻をご覧下さい」。それこそ悲劇です。今日人々はあなたにその悲劇の夢を受け入れるよう説得するため、何十億ドルというお金を費やしているのです。今日私にはあなたに懇願できる40分が与えられています。どうぞそれを信じないでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人生を無駄にしないでください。それはとても短く、尊いものです。私は父親が伝道師として、失われた者にイエス･キリストの福音を伝えるために自分の一生をささげた家庭で、育ちました。福音を宣べ伝えること、それが父の、たった一つの燃えるようなビジョンでした。子どものころ、ずっと家の台所に額が飾ってありました。その額は現在私たちのリビングに掛けられています。この48年間ほとんど毎日それを見続けて来ました。それには「たった一度切りの人生、すぐに終わってしまう人生。キリストのために成されたことのみが永遠に残る」と書かれてあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この『ワン･デイ』に父親のような気持ちで臨んでいます。私は54歳です。4人の息子と一人の娘がいます。カーステンは27、ベンジャミンが24、アブラハムが20、バルナバスは17、タリタは４歳です。成人になった息子たちが、命取りになるような[この世の]成功で自分の人生を無駄にしないようにという願いが、以前よりも増して、この数ヶ月、また数年、私の心を一杯にしています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから皆さんを自分の息子や娘のように思い、父として、お願いします。私は恐らく皆さんが持ったことがないような父、あるいは私があなたに対しビジョンを持っているようには、神があなたに対し持っているようには、ビジョンをあなたに対し持ったことがないお父さんとは違うかも知れません。あなたのお父さんはあなたに対しビジョンを持っているかも知れませんが、それはすべてお金や地位であるかも知れません。皆さんを自分の息子や娘のように見つめ、懇願します。人生を素晴らしく永遠に続く何かで価値あるものにしてください。それを求めてください。情熱なしに生涯を楽に進まないでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が『パッション98』、『パッション99』、そして『ワン･デイ』を愛するようになったその理由の一つは、その268の宣言が私の人生そのものだからです。その宣言はイザヤ26:8を基にしています。「主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。」ここには体だけでなく、魂があります。魂だけでなく、魂と共に情熱と願望があります。人に好かれたいとか、ソフトボールをしたいとか貝殻を集めたいという願望だけでなく、無限に素晴らしい何か、無限に美しく、無限に価値があり、無限に満足させてくれる何か、つまり、神の栄光を求める願望です。「私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが私が知りたいと、そして体験したいと思いつつ生きているものです。私の人生と私が仕えている教会の基本理念は、「私たちは、そして私は、すべての人々の喜びのために、すべてのもののうちにある神の主権に対する情熱を広めるために存在する」です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皆さんは私が言うように言う必要はありません。ルイ･ギグリオさんのように(あるいはベス・ムーアやヴォーディー・ボッカムのように)言う必要はありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも何をするにも、情熱を探し出し、それを表現し、それに生き、そのために死ぬ方法を見出してください。そうすれば持続する違いを生み出します。あなたは使徒パウロのようになります。パウロほど自分の人生において一途なビジョンを持った人はいません。彼はそのビジョンを様々な方法で語っています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 使徒20:24、「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
重要なのは一つだけ、それは自分の与えられた走るべき行程を走り尽くすこと、です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ピリピ3:7-8、「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト･イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私にはキリストを得･･･ることができる、という望みがあるからです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はどのように皆さんをお助けしたら良いでしょうか?『ワン･デイ』のこの場で、私はどのようにしたら神に用いられ、あなたを解放し、取るに足りない夢から解放し、あなたを地球の果てまで送ってしまうような一つの素晴らしい現実をもって、皆さんの心に一つの目的に対するまっすぐな情熱を目覚めさせることができるでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主が私にお与えくださったと思うその答えは、その核心に限りなく近い聖書の一聖句に行き、なぜパウロがそのように言うのかを皆さんにお見せすることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その箇所はガラテヤ6:14です。「しかし私には、私たちの主イエス･キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは肯定的に言うと、「イエス･キリストのみを誇りとします」となります。それは一つの概念です。一つの目標、一つの情熱です。十字架のみを誇る、その「誇る」という言葉は、「喜ぶ」とか「大喜びする」と言う言葉に訳することもできます。キリストの十字架のみを誇りとする。パウロはこれを自分の真っすぐな情熱、たった一つの誇り、喜び、そして歓喜としなさい、と言います。この『ワン･デイ』という素晴らしい時に、あなたが愛し、大切にし、喜んで大いに楽しむものを、たった一つ[『ワン･シング』]、イエス･キリストの十字架にしてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは二つの理由で衝撃的です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 1) その一つは、それが「[死刑用の]電気椅子だけを誇りなさい」、「ガス室だけに喜びなさい」、「[死刑用の]薬物注射に喜びなさい」、「あなたのたった一つの誇りとたった一つの喜びを、公開リンチのロープとしなさい」と言っているようだからです。「私たちの主イエス･キリストの十字架以外には、誇りとするものが決してないように。」十字架に釘付けにされるほど残酷で苦痛に満ちた死刑法はありません。それはひどいものでした。あなたは叫ばずに、自分の毛を引っ張らずに、そして服を裂かずには見ていられないないでしょう。これをあなたの人生のたった一つの情熱としてください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 2) それがパウロの言葉が衝撃的である理由の一つです。もう一つは、彼がこれだけを自分の人生の誇りとすべきであると言うところにあります。「私たちの主イエス･キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロはここで何を言っているのでしょうか?本当ですか?他には誇りとするものがあってはならない?他に歓喜するものがあってはならない?イエス様の十字架、イエス様の死以外には喜びとするものがあってはならない? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロ自身が同じ「誇り」や「喜び」という言葉を他のものに使う聖書箇所はどうなるでしょうか?例えば、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ローマ5:2、「私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; ローマ5:3、「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 2コリント12:9、「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 1テサロニケ 2:19、「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから、もしパウロがこれらすべてを誇りとし喜びとするのであるならば、彼は、「私には、私たちの主イエス･キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならない」と言うとき、一体何を言わんとしているのでしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それはどういう意味でしょうか?でたらめな言葉で話しているのでしょうか?一つのことに喜んで、別のことで喜んでいると言っているのでしょうか?いいえ。すべての大いなる喜び、すべての喜び、すべての誇りは、イエス･キリストの十字架のうちにある喜びであるべきである、と言うのには、とても深い理由があります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クリスチャンにとって、他のすべての誇りは、十字架にある誇りであるべきであると、彼は言っているのです。すべての大いなる喜びは、十字架にある大いなる喜びであるべきである、と。もしあなたが栄光の望みを喜ぶのであるなら、それはキリストの十字架のうちにある大いなる喜びであるべきであります。もしあなたが患難を喜ぶのであるならば、それは患難は希望を生み出すので、キリストの十字架を喜ぶべきです。もしあなたが自分の弱さ、あるいは神の人々を喜ぶのであれば、キリストの十字架のうちに喜ぶべきです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜそのようになるのでしょうか?理由はこれです。贖われた罪人にとって、すべての良きもの、実に、神が良きことに変えてくださる悪いこと一つ一つでさえも、キリストの十字架によって、私たちのために獲得されました。キリストの死から離れては、罪人はさばき以外に受けるものは一切ありません。キリストの十字架から離れては、そこには有罪宣告があるだけです。それゆえあなたがキリストにあって楽しむすべてのこと、クリスチャンとして、キリストを信じるものとして楽しむすべてのことは、キリストの死のおかげなのです。それゆえあなたが喜ぶすべてのことは、神の御子であられるイエス･キリストの死の代価によって、その恵みのすべてがあなたのために買い取られた場所である十字架を、喜ぶべきなのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちがキリスト中心、十字架いっぱいであるべきなのにそうでないその理由の一つは、すべてのこと、すべての良いことと、神がご自身の子どもたちのために良いことに変えてくださる悪いことは、私たちのためにキリストの死によって買い取られたという事実に、私たちが気づいていないからです。私たちは命と息と健康と友人とすべてを、当然のものと単純に思い込んでいます。私たちにはそれを持つ権利があると思っています。でも事実は、私たちにはそれらを持つ権利がありません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは二重にそれを受けるにふさわしくない者たちです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 1) 私たちは被造物で、私たちの創造主には、私たちに何も、命や健康など、一切のものを与える義務や責任がおありになりません。主は与えられ、主は取られる、そして主は私たちにまったく不公平であられないのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;gt; 2) そして被造物であり何の不平も創造主にないばかりか、私たちは罪人です。私たちは神からの栄誉を受けることができないのです。主を無視し、主に従わず、主を愛さず、主を信じないで生きています。義なる主のみ怒りは私たちに向けられています。私たちが受けるべきものは、さばきのみです。それゆえ、私たちのする息のすべて、私たちの心臓が鼓動するすべて、太陽が昇る毎日、目が見、耳が聴き、口が語り、足が一歩を踏み出すそのすべてのときは、さばきを受けるしか値しない罪人に対する、無償の、受けるに値しない賜物なのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
誰がこの賜物を私たちのために獲得してくださったでしょうか?イエス･キリストです。そしてどのようにして主はそれを獲得してくださったでしょうか?ご自身の血によってです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人生の恵みのすべては、キリストの十字架をたたえるために意図されています。あるいは別の言い方をすると、人生の良きことのすべては、キリストと、十字架にかけられた主をあがめるためにあります。ですから、例えば、先週私たちは1991年製ドッジのスピリット[車]をめちゃめちゃにしてしまいましたが、誰も負傷しませんでした。ですので守られたことを私は喜びます。それをたたえます。でもなぜ誰も負傷しなかったのでしょう?それは私や私の家族の誰もが受けるに値しない賜物です。私たちは罪人であり、キリストから離れては、生まれながらに怒りの子です。それでは私たちはどのようにしてそのような良い賜物を受けるに至ったのでしょうか？答えは、キリストが私たちの罪のために十字架で死んでくださり、神のみ怒りを私たちから取り除かれ、私たちに益となって働く神の全能の恵みのすべてを、私たちが受けるに値しないにも関わらず、確保してくださったからです。ですから守られたことを喜ぶとき、私はキリストの十字架を喜んでいるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして破損した車のために保険が$2800おり、ノエルがお金を受け取り、アイオワまで行って92年製シェビーのルミナを購入し、雪の中を運転して帰って来ました。私たちは車をまた所有することができました。私は驚くような、惜しみない恵みに喜んでいます。車を破損します。無傷でそこから出てきます。保険がおります。別のものを購入します。このようにです。そして何も起こらなかったかのように生活し続けるのです。感謝のうちに私は頭を下げ、語られないそのような小さな物質的なことでさえも憐れみをお与えくださる主に、喜びます。このような憐れみはどこから来るのでしょうか?もしあなたが救われた罪人、イエス様を信じる者であるならば、それは十字架を通して来ます。十字架を離れては、さばきがあるのみです。忍耐と憐れみがある一定の時期には与えられるかもしれませんが、拒絶し続けるなら、憐れみのすべてはさばきをさらに増すだけです。それゆえすべての賜物は血で買い取られた賜物です。すべての誇り、すべての喜びは、十字架にある誇りです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし私の恵みに喜ぶその喜びがキリストの十字架に喜ぶ喜びでないなら、私はわざわいです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
別の方法でこれを言うと、十字架が意図しているのは、キリストの栄光です。十字架にある神のみむねはキリストがたたえられることです。ガラテヤ6:14でパウロが「私には、私たちの主イエス･キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と言うとき、神のみこころは、キリストが絶えず私たちの誇りと歓喜と喜びと賛美である十字架が絶えずあがめられ、私たちの人生のすべての良きことと、神が良きことに変えてくださるすべての悪しきことのゆえに、キリストが感謝と栄誉を受けられることです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで質問です。もしそれがキリストの死にある神のみむね、すなわち十字架にかけられたキリストが、すべてのことのゆえにあがめられ、栄光をお受けになることであるのならば、キリストはどのようにしてその受けるにふさわしい栄光をお受けになるのでしょうか?その答えは、老若男女がこれらのことを教えられなければならない、です。あるいは別の言い方をすると、キリストの十字架にある喜びの源は、キリストの十字架を教育することです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたにこれらのことを教えることによって、イエス様に栄光をお返しする、それが私の仕事です。そしてあなたの仕事は、これらのことに従って行動し、さらに多くの人々にこれらのことを教えることによって、イエス様にさらなる栄光をお返しすることです。イエス様を教えることは、イエス様にあって喜ぶことです。もし十字架以外に喜ぶものがあって欲しくないのであれば、私たちは十字架について教えること、また十字架の下で教えることを追求しなければなりません。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは「十字架の上で」と言うべきかも知れません。十字架を教えることは十字架に喜ぶことに至ります。それはどういう意味でしょうか? &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
14節の残りを見てください。「私には、私たちの主イエス･キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」十字架を誇りとするのは、自分が十字架につけられたときに起こります。それが14節の言っていることではないでしょうか?世界は私に対して十字架につけられ、私は世界に対して十字架につけられる。世界は私に対して死に、私も世界に対して死ぬのです。なぜでしょうか?なぜなら私は十字架につけられたからです。私たちは十字架の上にいるときに、十字架を誇り、十字架を喜びとすることを学ぶのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それはどういう意味でしょうか?それはいつ起こったのでしょうか?いつあなたは十字架につけられたのでしょうか?答えは、ガラテヤ2:20、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」キリストが死なれたとき、私たちも死んだのです。キリストの死の栄光の意味は、主が死なれたとき、主のすべての者が、主にあって死んだということです。主が私たちすべてのために死なれたその死が、私たちが信仰によってキリストと一つとされた時に、私たち自身の死となるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもあなたは、「私は生きていないのか?生きているように感じるけれど」と言います。ここで、教育が必要なのです。何が私たちに起こったのかを学ばなければなりません。私たちはこれらのことを教えられなければならないのです。そのためガラテヤ2:20と6:14が聖書にあるのです。神は私たちに一体何が起こったのかを教えておられます。そうすれば、自分と、そして私たちとともに働かれる主の方法を知り、喜ばなければならないことである、主と主の御子と十字架に私たちが喜ぶことができるからです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですからガラテヤ2:20を読んで、そうです、私たちは死んでおり、そして、そうです、私たちは生きているということを、私たちは再度見るのです。「私はキリストとともに十字架につけられました[それゆえ私は死んでおり、主は生き続けられるのです]。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです[なぜでしょうか?それは、私が死に、つまり、私の古い反抗的な、不信仰な自分が死に、そして主は生き続けられるのです]。いま私が肉にあって生きているのは[ですから、そうです、私は生きているのですが、死んだ『私』と同じ『私』ではありません]、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」言い換えると、生きている「私」は信仰による新しい「私」なのです。新しい被造物は生き続けます。信じる者は生き続けるのです。古い自己はイエス様と共に十字架で死にました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし「この現実と連携させているその鍵は何だ?どのようにしてそれが私のものになるんだ?」とあなたが聞いたとします。答えはガラテヤ2:20の信仰に関する言葉のうちに含まれています。「いま私が肉にあって生きているのは、･･･神の御子を信じる信仰によっているのです。」それがつながりです。神があなたを信仰によって、ご自身の御子とつなげてくださいます。そして神がそうなされるとき、神の御子との一致がそこにはあります。それは主の死があなたの死となり、主のいのちがあなたのいのちとなるためです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ガラテヤ6:14をもう一度最初から見てみましょう。「私には、私たちの主イエス･キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」十字架以外の何ものをも誇りとしないでください。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは私の喜びのすべてが十字架にたどり着くためには、私はどのようにして徹底的に十字架中心になることが出来るでしょうか?答えは、キリストが十字架上で死なれたとき、あなたも死んだということ、またあなたが主を信じたとき、その死があなたの人生で有効化された、ということを認めることです。パウロは、それがあなたの世界に対する死であり、世界のあなたに対する死であると言います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その意味は、あなたがキリストに信頼するとき、この世に束縛されているあなたの束縛がほどかれ、この世の抗し難い魅力が破壊されるのです。あなたは世界に対し死骸であり、世界はあなたに対し死骸となります。あるいは肯定的に言うと、15節によると、あなたは「新しい創造」です。古いあなたは死んだのです。新しいあなたが生きています。そして新しいあなたは、信仰のあなたです。信仰が喜ぶものはこの世界にはなく、キリスト、特に十字架につけられたキリストにあります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようにしてあなたは、パウロとともに、「私には、私たちの主イエス･キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と言う、非常に十字架中心な者となるのです。「この世はもう私の宝ではない。それは私のいのちの源でなく、私の満足や喜びでもない。キリストが私の満足であり喜びであられる。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「それでは車の事故から守られたことはどうでしょうか?保険がおりたことは?あなたはそれを喜んだと言わなかったでしょうか?それはこの世ではないのですか?それではあなたはこの世に対し死んでいるのですか?」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は死ぬことができます。そのように望みます。なぜならこの世に対し死ぬことは、この世から出て行くことを意味しないからです。またこの世について感じることがらをまったく感じないという意味でもありません。否定的であり、肯定的です(1ヨハネ2:15、1テモテ4:3)。この世の筋の通った喜びはすべて、血で買い取られたキリストの愛の証明と、十字架を誇りとする機会となるのです。お金が自分を満足させてくれるのでなく、十字架につけられたキリスト、お与えくださるお方が自分を満足してくださるお方であるとき、保険がおりることに対し死んでいるのです。私たちの心が恵みの光線をたどって十字架の源に戻って来るとき、この世的恵みは死に、十字架につけられたキリストがすべてとなるのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
十字架に喜ぶ、それが喜びを教育することの目標です。ああ、神が私たちにキリストと、十字架につけられたお方の栄光のために夢を見させ、計画させ、わざを成させ、与えさせ、教えさせ、生かせてくださいますように。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。&lt;/div&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 30 Mar 2017 20:26:36 GMT</pubDate>			<dc:creator>Pcain</dc:creator>			<comments>http://ja.gospeltranslations.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%82%92%E8%AA%87%E3%82%8A%E3%81%A8%E3%81%99%E3%82%8B</comments>		</item>
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