「神の栄光の現れ、/会衆主義

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{{ info | A Display of God's Glory/Congregationalism}}
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Hi Taiki,
+
あなたは、単に教会があなたの霊的成長のためにあるとお考えです
 +
か? 日曜日の朝、教会の家族と一緒に集う時、あなたは単に自分の個
 +
人的なディボーションを他の多くの人々と共に持っているのではあり
 +
ません。いいえ。あなたは、特定の教会生活に与っているのです。そ
 +
してキリスト者が会衆として集まる時、それは単に個人消費者が一時
 +
共有された好みによって、たまたま同じ部屋にいるのではないのです。
 +
私たちは実際に、生きた制度で、育ち得る有機体の一つの体として集
 +
まっているのです。私はなぜあなたが教会に行くのか知りたいぐらい
 +
です。
-
Here is the page for the third chapter.
+
事の要点を把握する助けとして、一つの質問を投げかけたいと思い
 +
ます。教会は何の役に立つのでしょうか? しばらく時間をとって、質
 +
問に答えてみてください。あなたが教会とそれが何かについてもっと
 +
理解しているなら、キリスト者の生活は、個人的な美徳のリストを磨
 +
き、悪のリストを避けるための単純で継続した道徳的努力以上のもの
 +
になります。あなたは、教会がこの世における、神の生きた現われと
 +
して存在することを理解し始めるでしょう。
-
Thanks so much!
+
====Ⅰ . 会衆主義- 何を意味するか?====
-
Blessings,
+
しばしば人々は、会衆主義を誤解してきました。その中傷は、ロー
 +
ン・レンジャー風<ref>スーパーマンと並んで、戦前からアメリカの少年の間では圧倒
 +
的な人気をはくしていた西部劇の黒覆面のヒーローのこと。</ref> の類のように提示されてきました。「分離主義」と
 +
も呼ばれてきました。ある著者は、会衆主義を「個々の教会が、あた
 +
かも世界の中で、他のすべてのキリスト者の中で独立して、孤立して
 +
いるかのような主張」<ref> Ro l and Al l en, Mi s s i ona r y Me tho d , p . 8 5n1 .
 +
</ref> と定義しました。他方、擁護者の何人かは会衆
 +
主義を、奪うことのできない人間の権利と結びつけて、正しくかつ単
 +
純な民主主義という風に提示しました。チャールズ・フィンレーは、
 +
会衆主義を次のように説明します。
-
Joya
+
監督制度は、人々の間で一般的に無知な状態の場合に、よく適合し
 +
ます。長老主義又は教会共和主義は、キリスト教の信条の普及と、よ
 +
り進歩した知性の状態によく適合します。会衆主義又は霊的民主主義
 +
は、一般的な知性と、キリスト教信条の普及しているところに、最もか
 +
つ唯一適合するのです。<ref> Cha r l e s Finne y in hi s Le c tur e s on The o l o g y .
 +
</ref>
 +
 
 +
これらはどれも、新約聖書が私たちに残してくれた教会生活の状況の
 +
よい理解ではありません。会衆主義は決して他の教会と、宣教、教育、
 +
伝道、災害援助やその他多くの事柄において協力することを禁じては
 +
いないのです。しかしながらそれが意味することは、戒規の問題であ
 +
ろうと、教理のことであろうと、特定の会衆に対して、外から誰も命
 +
令をすることができない、ということなのです。私たち会衆派は、他
 +
のいかなる組織よりもおそらく聖書の明快さに頼ることと、誰が会員
 +
や指導者として認知されるべきなのか、そして何を信じ何をなすべき
 +
なのかの理解について、神が彼の民を全体として導いて下さると考え
 +
るのです。
 +
 
 +
ある人は会衆主義を単なる文明開化の政治理念として片付けてしま
 +
います。しかし、単純にそういうわけにはいきません。AD96 年頃記さ
 +
れたコリント教会に宛てたローマのクレメンスの第一の手紙に、長老
 +
が「教会の完全な同意のもとに」委任されている様子を見ることがで
 +
きます<ref>翻訳.Stani f o r th,p.46.</ref>。他の例もたくさんあります。キリスト者は過去において、確
 +
かにこのことを聖書によって教えられ理解してきたのです。
 +
会衆主義は単に、地域教会の生活の問題の最後の最終審裁判所が、
 +
ローマの司教でもコンスタンティノープルでも、ワシントンでもない
 +
という理解です。それは、何らかの国際機関でも国の議会でも、会議
 +
でも大会でもありません。それは、教派の議長でも、評議員の議長で
 +
もありません。それは、地域の宗教会議でも、宣教団体でもありませ
 +
ん。地域教会の中の長老グループでも牧師でもありません。地域教会
 +
の生活の問題に関する最後で最終の上訴裁判所は、地域教会自身であ
 +
るべきです。このことは、教理や戒規、教会員の加入と彼らの間の争
 +
いの調停において、新約聖書によって証拠付けられています。
 +
では次に、新約聖書における4 つの事柄について見ていきます。
 +
 
 +
'''1 ) キリスト者同士の争いについて'''
 +
 
 +
マタイ18 章の15 節から17 節において、イエスは兄弟間の争いについ
 +
て述べています。
 +
 
 +
<blockquote>また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふ
 +
たりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あな
 +
たは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひ
 +
とりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三
 +
人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためで
 +
す。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、
 +
教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしない
 +
なら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。</blockquote>
 +
 
 +
ここで注目すべき点は、最終的に誰に訴えているか、最終の訴え
 +
を裁くところはどこかなのです。それは、主教でも司祭でもありま
 +
せん。集会でも宗教会議でも、大会でも会議でもありません。それ
 +
は、牧師でも長老会でも、又は教会の委員会でもありません。それ
 +
は、「教会」、つまり地域教会の全体であり、その行動が最終的な訴
 +
えの場でなくてはならないのです。
 +
 
 +
もし私たちが最初に検討した使徒6 章1 節から5 節の箇所を見
 +
れば、初代教会の生活の中で重大な出来事があったことがわかりま
 +
す。そこでは、教会の資源の分配をめぐって問題が起こりました。
 +
そしてこの問題が使徒の注意を集めたのは明らかでした。
 +
 
 +
<blockquote>そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言
 +
った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓の
 +
ことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。</blockquote>
 +
 
 +
<blockquote>あまたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良
 +
い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの
 +
仕事に当たらせることにします。</blockquote>
 +
 
 +
<blockquote>そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に
 +
励むことにします。</blockquote>
 +
 
 +
<blockquote>この提案は全員の承認するところとなった。</blockquote>
 +
 
 +
そしてルカは、教会が選んだ人たちの名前を続けて挙げています。
 +
新約聖書を私たちの教会生活の指針として用いることの複雑さ
 +
の一つに、初代教会における使徒たちの存在があります。あなたに
 +
もその難しさが理解できるかと思います。どのようにしたら後の長
 +
老たち、牧師たち、そして監督たちが使徒たちの習わしを、自分た
 +
ちの指針として十分に引き受けることができるでしょうか? 私た
 +
ちは、教理を定義し、誤りを描写し、又は彼の地上における働き全
 +
体を通じて、イエスと共にいて彼によって教えを受け、そして特に
 +
イエスによって彼の教会の土台となるように委託を受けた者たち
 +
のキリストのことばを思い出すことができるでしょうか? 私たち
 +
の名前が、使徒たちの名前のように新しいエルサレムの土台に銘記
 +
されるでしょうか? 明らかに、これらすべての質問の答えは「いい
 +
え」です。
 +
 
 +
使徒たちの模範についての私たちの問題は、その件に関して現代
 +
の教会指導者たちが、そのような権威に見合う資格がないにも関わ
 +
らず、彼ら自身に過剰な権威を帰していることです。今までに使徒
 +
6 章では、まさにこれら使徒たちが会衆に対して責任を譲っていま
 +
す。彼らは、イエスがマタイ18 章で述べたところの神の下にある
 +
究極の権威と同じ類のものを、集会で認識されていました。
 +
 
 +
これらの例に従うならば、パウロも地域教会の戒規と教理は、神
 +
の下で会衆によって保管されていると教えています。パウロはコリ
 +
ントの教会宛てに手紙を書いたとき、彼らに対して教会内の内部の
 +
者たちに裁かれるべきことを話しています( Ⅰ コリント5:12)。彼
 +
は、「教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか! 」
 +
と書いています( Ⅰ コリント6:4)。キリスト者の間の争いは、総じ
 +
て教会が聖書も主張するように、最終の裁判所なのです。
 +
 
 +
'''2 ) 教理に関して'''
 +
 
 +
新約聖書のすべての手紙( ピレモンへの手紙と牧会書簡を除い
 +
て)は総じて教会に書かれたもので、彼らの責任とは何かについて
 +
全体的に彼らに教えています。基本的な福音の定義に関してさえも、
 +
会衆が[ 地上における]最終的な訴えの法廷となっています。そのよ
 +
うに、ガラテヤ1 章でパウロは、御使いと使徒の説教者について( 彼
 +
自身についても! ガラテヤ1:8)、もし彼らがガラテヤ人が受け入
 +
れた福音以外を宣べ伝えたかどうかを批判するよう、比較的若いキ
 +
リスト者たちの集まりである会衆に求めているのです。彼は単に牧
 +
師や長老や司祭又は会議や大会や、又は神学校に向けて書いたので
 +
はありません。彼は、教会を構成するキリスト者たちに向けて記し
 +
たのです。パウロがはっきりさせたことは、彼らは自らが主張する
 +
福音について審査される資格があるだけでなく、彼らは審査されな
 +
ければならない、ということでした。彼らには、ガラテヤのキリス
 +
ト者たちが既に知っている福音とともに、彼らの首尾一貫している
 +
新しい主張に従って、イエス・キリストの良き福音のメッセンジャ
 +
ーと主張する者たちを裁く、という避けて通ることができない務め
 +
があるのです。
 +
 
 +
パウロは、このことについて再びⅡ テモテ4 章3 節で彼がテモテ
 +
に対して偽教師の取り扱いについての最良の方法を助言したとき、
 +
彼が教会の偽教師の来訪の流れを述べるとき、特に4 章3 節で、「自
 +
分たちの願いにあわせるために・・・自分に都合の良いことを言って
 +
もらうために、多くの教師たちを彼らのまわりに集め」た者たちを
 +
責めました。彼らを選んだにせよ、報酬を払ったにせよ、又は彼ら
 +
の教えを認めたにせよ、又は単に繰返し彼らに聞くことを同意した
 +
にせよ、ここでは教会が責められるべきなのです。彼らは、偽教師
 +
自身と同様に、偽りの教えを大目に見たことについて有罪なのです。
 +
基本的な教理的定義では、総じて会衆が聖書が主張する最後の裁判
 +
所なのです。
 +
 
 +
'''3 ) 戒規について'''
 +
 
 +
Ⅰ コリント5 章において、パウロは( 長老たちだけでなく)コリ
 +
ント教会全体に行動するように、5 節、7 節、11 節と13 節で注意
 +
を喚起しています。このことは、単に又は最終的に使徒であるパウ
 +
ロだけの問題でも、地域のコリント教会にいたいかなる長老の問題
 +
でもありませんでした。これは、教会全体の問題だったのです。彼
 +
ら全員が教会員としてこの人物を認めたのであり、次に彼らは皆で
 +
彼のことを大目に見たのです。彼ら全員が直ちに彼の罪に巻き込ま
 +
れており、この男を逃がすか、さもなくばキリストの弟子としての
 +
彼らの主張をやめるかの、どちらかをしなければなりませんでした。
 +
教会の戒規に関しては、教会全体が、聖書が主張する最後の裁判所
 +
なのです。
 +
 
 +
'''4 ) 教会籍について'''
 +
 
 +
パウロはⅡ コリント2 章の6 節から8 節で、「その人にとっては、
 +
すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、
 +
むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人
 +
はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
 +
そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧
 +
めます」。彼らはこの男を罰する行動を取ったのです。そのように
 +
行動することにおいて、彼らは大多数でしたのです。教会員の大多
 +
数が、この男を彼らの交わりから除外することを表明したのです。
 +
処罰は功を奏した様子でした。それは、パウロがここで「彼にとっ
 +
ては十分でした」と述べているとおりです。すぐにパウロは、悔い
 +
改めた男の教会への再加入を促すよう教会全体に対して書いてい
 +
るのです。パウロは精一杯勧告をしましたがそれ以上はできなかっ
 +
たのです。なぜなら教会籍に関しては、教会全体が、最終の裁判所
 +
であるべきだからです。そのように聖書にもあるからです。
 +
 
 +
====Ⅱ .会衆主義- ではないもの====
 +
 
 +
聖書が提示するように、教会が最終的な訴えの場であり、私たち
 +
の日常生活における神のことばの意味と適用に対する最終的な地
 +
上の権威であるからと言って、会衆がつねに正しい、ということは
 +
意味していません。ペテロが、彼の弟子でありエペソ教会の牧師で
 +
あったテモテに手紙を書いたとき、来るべき悪霊の時について次の
 +
ように描写しています。その時とは、「人々が健全な教えに耳を貸
 +
そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気まま
 +
な願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集める」
 +
( Ⅱ テモテ4:3)。興味深いことに、パウロは長老たちとともに会
 +
衆が、教会の教理を監視続ける責任がある( 彼のガラテヤ人への手
 +
紙によって暗示されていたように)と言い出していますが、彼は又
 +
ここで彼らがその責任を不当に行使するであろうことも明らかに
 +
しています。会衆主義は聖書的ですが、会衆に誤りがないわけでは
 +
ないのです。
 +
 
 +
このことは、Ⅱ テモテ4 章の例からも明らかです。教会の歴史
 +
からも痛いほど明らかなことは、主として数百年の暗黒時代を過し、
 +
聖書的英知において私たちが素晴らしいと認める兄弟姉妹の会衆
 +
においても継続的な間違いがあったということです。会衆が誤った
 +
判断を下した個々の例は多いのです! 歴史においては、私たちは、
 +
ジョナサン・エドワーズを解雇した教会を挙げることができます。
 +
会衆はそのような権威を持つ十分な聖書的権利がありました。しか
 +
しそれは、あなたも同意することと思いますが、非常にひどい用い
 +
方でした。自分たち自身の教会について考えてみてください。私た
 +
ちはもはや、自らの罪を言い表すことよりも神の教会の過ちを話す
 +
ことで、神の主権に対して疑いを起こすことはしません。この堕落
 +
した世界においては、神によって制定された正しい権威でさえも誤
 +
ることがあるのです。
 +
 
 +
新約聖書における会衆主義の描写は、全くの不完全の絵でしかあ
 +
りません。私たちは時々、わきぜりふや見せかけのように、それを
 +
手に入れます。しかしながら、それは明らかに存在し、そのことを
 +
考えれば考えるほど、それは至る所で明らかになるのです。それに
 +
もかかわらず、周囲の見せかけの性質が、ウェストミンスターの神
 +
学者たちが1 章で記した「みことばの一般的ルールに従って、キリ
 +
スト者の思慮分別」を十分行使するだけの自由を与えているようで
 +
す。
 +
 
 +
ほとんどすべての信者の集まりは、ある程度どのような統治の組
 +
織形式であっても、会衆的です。会衆が財産の権利を持っていると
 +
いうだけの教会であっても、ある意味で会衆的に統治された教会と
 +
言えます。そのようなケースの場合、もし彼らの指導者の決断に賛
 +
成できない場合は、会衆が単純にすべての事柄において息の根を止
 +
めることで、常に決めることができるのです。もし会衆が予算や牧
 +
師招聘の事柄に関して最終的な決定権があるなら、その教会は会衆
 +
的です。会衆が教理と戒規、争いと教会籍に関して最終決定機関で
 +
あるということに加えて、新約聖書の中の模範的な会衆主義的な教
 +
会を持つようになるでしょう。会衆がリーダーシップ、スタッフ、
 +
そして予算に関する決定において、組織としてどの程度まで関与し
 +
て決めることができるかは、個々の会衆内の決定に際しての思慮分
 +
別と自由裁量の問題なのです。指名委員会も役員会も新約聖書のど
 +
こにも書かれていません。財務委員会や小グループ・リーダーシッ
 +
プ・チームを見つけようとしても無駄です。聖書の十全性という信
 +
仰は、しかしながらそのような組織を禁じてはおりません。それは
 +
ただ、彼らの権威を相対化しただけなのです。それらが教会の本質
 +
ではないということは明示されています。彼らが会衆全体の英知に
 +
服従しなければならないのです。
 +
 
 +
====Ⅲ .会衆主義‐ なぜ重要なのか?====
 +
 
 +
なぜこれらは重要なのでしょうか? もし会衆主義が、単に教会
 +
におけるキリスト者としての共に生きることの現実ならば、私たち
 +
の課題はそれを作り出すことではなく、それを認識しつつ私たちの
 +
教会生活を相応しく整えることにあります。私たちは神が創造した
 +
組織を尊重し、そうすることで神の英知に信頼すべきなのです。
 +
 
 +
私は、改革派陣営の人々がより長老主義的統治へと傾く傾向があ
 +
るのを知っています。このことは時々、大変巧妙になされかつ中途
 +
半端なのです。例えば、私は信仰に篤い多くの会衆主義的なバプテ
 +
スト教会を知っています。彼らは長老たちを置くように決める際に、
 +
教会の他の会員よりもより厳重で異なる基準の署名を長老たちに
 +
対して求めるように決議するのです。例えば、教会員全員には、ニ
 +
ューハンプシャー信仰告白を確約させ、長老たちにはそれに加えて
 +
フィラデルフィア( 又は第二ロンドン)信仰告白を確約するよう要
 +
求するといった具合です。会衆の中の長老たちに模範となるべき成
 +
熟を願うのは健全ですし聖書的でもありますが、それを達成するこ
 +
の手段には、遺憾な点が残ります。聖書にそのような明確な見本が
 +
見つかるかと言えば、答えは「いいえ」です。このことは、パウロ
 +
がガラテアにおいて彼らにそうなるように命じたように、おそらく
 +
会衆を、教理に関して最終的な決定機関になることに、感情・外見
 +
両面ともにまだ覚悟ができていない状態のままにさせているので
 +
はないでしょうか? 自分自身で決断しなければならないのです。私
 +
は、確かに長老として奉仕する人には、より教理面での理解力をお
 +
そらく期待し願っていますが、それが新約聖書に見られる以上に教
 +
会が、より聖職者に頼るような姿勢に移行して欲しいとは思ってい
 +
ません。私の心配は、そのような形式的な要求が、そのようにさせ
 +
てしまうのではないかということなのです。
 +
 
 +
皆さん。歴史の審判は、「いいえ」です。いかなる組織をも教会
 +
を誤りや衰退、貧困から防ぐことができないのは確かです。より中
 +
央集権化された組織体は、信仰的で生き生きと福音的な証しを維持
 +
する会衆主義よりも、悪い記録を残しているようです( 会衆主義の
 +
記録は、特に教会の潔さと認知度が、信者洗礼の聖書的慣行と幼児
 +
洗礼の拒否を通して守られていく中で強められていったのです)。
 +
ローマ教皇は、自ら認めたキリスト者たちに大混乱をもたらしまし
 +
た。司教は、全然上手くできませんでした。集会も会合も監督も宗
 +
教会議も会議も、彼らがアドヴァイザーから統治者に立場が変わる
 +
時、聖書が保証した権威の度を越していまい、助けよりも問題をも
 +
たらしてしまったのです。
 +
 
 +
福音そのものが単純明快で、聖霊の働きによって新しく生まれた
 +
私たちと神様との関係も現実のものであるので、福音を信じ神を知
 +
る者たちの集まりが、単純に最も福音を擁護する者達だと言えるの
 +
ではないでしょうか? それが私たちが聖書の中で見ることではあ
 +
りませんか?
 +
 
 +
====Ⅳ . 会衆主義- どのように作用するか====
 +
 
 +
会衆派として、私たちはヘブル1 3 章1 7 節にどのように応じる
 +
べきでしょうか?「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、ま
 +
た服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがた
 +
のたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人た
 +
ちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさ
 +
い。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」このこ
 +
とは、著者がこれらキリスト者たちに、彼らの指導者の召使いの給
 +
仕の手になるよう話したのではないことは勿論のことです。いいえ、
 +
心に留めるべきテーマの重大さは明らかです。このことは、指導者
 +
たちが彼らの働きに対してなす弁明と関係があり、その弁明は神に
 +
対してなされるものだからです!
 +
 
 +
これは他に広い含みがありますか? 私はそう思います。キリスト
 +
者にとって、権威にある者の立場の重大さ、特に教えに関して心に
 +
銘記しておくことは常に役に立ちます。ヤコブはヤコブ3 章1 節で、
 +
「教師は、格別きびしいさばきを受けるのです」と述べているとお
 +
りです。私たち長老がなすべき弁明は、最終的には教会にではなく、
 +
神に対してなされるからです。
 +
 
 +
これらのことすべての重要性がお分かりでしょうか。私たち組織
 +
のすべての責任において、私は、神が完全な委員会として、初めか
 +
らずっと働くように私たちに任せていると提案しているのではあ
 +
りません。神が指導者たちを私たちの間に置かれたことを、私たち
 +
は感謝すべきなのです。私たちは、彼らを認知し信頼すべきなので
 +
す。ここに見られる「従う」とか「服従する」のような単語は、普
 +
段あまり聞き慣れないことばです。しかし、それらの単語は新約聖
 +
書の中では、社会において、職場において、家庭において、結婚生
 +
活の中で、教会の中で神とともに人々に適用されているのです。そ
 +
してそれらは、私たちに与えられた役目として、確かな信頼を必要
 +
としているのです。
 +
 
 +
信頼は勝ち取るものだ、と言われますが、私にはそれがどういう
 +
意味かが理解できます。新しい政府が就任したり、新しい上司が職
 +
場に着任したり、または新しい友情関係が始まった時のことでもい
 +
いでしょう。私たちは、経験上それらの人々がどのように困難を切
 +
り抜け、どのように我慢するか、彼らが成功して益を受けるときに
 +
彼ら自身だけではなく、他者をも含んでいるかどうかを見たいと思
 +
います。ゆえに、信頼は勝ち取ると言われるのです。
 +
 
 +
しかしその態度は、せいぜい半分真実でしょう。同時に、私たち
 +
が人生において、不完全な人類の一員に、それらが家族や友人であ
 +
っても、雇用主や政府の役人、または教会の指導者であっても、私
 +
たちが与えられるよう求められている信頼の類は、最終的には決し
 +
て得られるものではないのです。それは、神の賜物として私たちに
 +
与えられているものと理解するよりは、むしろ信仰による賜物、つ
 +
まり賜物自体をお与えくださる神への信頼として、賜物が与えられ
 +
なければならないと言うことなのです。教会において、信頼に足り
 +
ない指導者、又は信頼する能力に欠けている教会員のどちらかを持
 +
つことは、深刻な霊的欠陥です。
 +
 
 +
では、私たちはどのように信頼すべきなのでしょうか? ここで単
 +
純なグラフを想像してみて下さい。縦線は、明快さの増加を測るも
 +
ので、横線は重大さを測るものを意味するとします。四分円は、1 )
 +
明白であるが、重大でないもの、2 ) 明白でも重大でもないもの、
 +
3 )明白かつ重大なもの、4 )確かに明白ではあるが、しかし重大
 +
ではないもの。
 +
 
 +
'''1 ) 明白だが、しかし重大ではないもの'''( 例: 建物の外観を紫色
 +
に塗るべきか? ) - このカテゴリーの事柄については、単純に普
 +
通議論はありません。しかしながら「その他案件」の下では、何
 +
が浮かび上がるか私には全く検討も付きません。
 +
'''2 ) 重大でも明白でもないもの'''( 例: 私たちの礼拝を祈りで閉じ
 +
るべきか、静まりで閉じるべきか? )- これらの事柄においては、
 +
良い意味での会衆の霊的な議論は結構です。これらは、完全に不
 +
必要な事柄という訳ではありませんが、しかし最も重要でもあり
 +
ません。クリーニング契約から駐車場のアイデアに至るすべての
 +
ことは、この範疇に含まれます。
 +
'''3 ) 重大かつ明白なこと'''( 例: 教会員になるために、私たちはイ
 +
エスが完全に神であり、完全に人であったという信仰を要求し続
 +
けるべきでしょうか? )- これについてはほとんど常に合意があ
 +
ります。しかし、教理又は戒規に関して重大な誤りが長老によっ
 +
てあれば、これが、新約聖書において使徒たちが常に会衆に向け
 +
て哀願していたことです。エルサレムの教会は分裂したでしょう
 +
か? コリントの教会は、神の聖さに対して、彼らの証しが失われ、
 +
キリスト者とはどういうことなのかということについて人々を
 +
堕落へと導いたでしょうか? コリントの教会は、本当の悔い改め
 +
を認識するのを拒否したのでしょうか? ガラテヤの諸教会は、福
 +
音をなくしてしまったのでしょうか? エペソの教会は、偽りの教
 +
えを受け入れたのでしょうか? 新約聖書におけるこれら会衆と
 +
しての行動の明らかな事柄においては、最も重大な問題が、危険
 +
に晒されているのです。
 +
 
 +
'''4 ) 重大ではあるが、明白でない'''( 例: この人物を長老として認
 +
めるべきか、又はこの会員資格の処置を肯定すべきでしょうか?
 +
この重大な支出を充当すべきか、又はこの監督の決定は会衆とし
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てのものなのか? )- これらは教会にとっては長老に尋ねるべき、
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最も重要な事柄です。多くの点で、この四分円の部分が、教会が
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委員会として行動しようと試みるよりも、又は牧師、又はなんら
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かの委員会の議長が単独で決めるよりも、長老たちが特に最もよ
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く教会に仕えるところです。
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頼するか、又は彼らを交代させるかのどちらかなのです。しかし、
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ます。もしあなたが推薦状について長老たちと同意できないならば、
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正当な理由を持つべきです。行って、彼らとその件で話をしなさい。
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聖書以外では、あなたが、あなたに関して長老たちについての主要
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な情報源なのです。教会の指導者を邪魔するよりもむしろ、長老の
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いない所で話をし、密かに会って、そしてあなたの指導者を励ます
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計画を立てなさい。教会指導者の働きが重荷ではなく、喜びとなる
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ようにしなさい。ヘブル人への手紙の著者が述べているように、こ
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のことが、指導者があなたにとって祝福となることなのです。
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200 年前にスコットランドの牧師たちの教師であったジョン・ブ
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ラウンは、彼の学生の一人で、小さな教会に新しく任命された人に
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宛てて、まるで父親のように助言を書き記した手紙の中で、次のよ
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うに書いています。
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私は、あなたの心の中にある空虚さがわかる。そしてあなたの
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教会が、あなたの周りの兄弟たちのと比べて小さいことに屈辱を感
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身を確信させなさい。彼らのことをあなたが主キリストに弁明する
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とき、神の裁きの座において、あなたは十分であったことを思うで
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今日いくつの教会が、自己中心的な指導者たちと頑固な会員たち
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の悪魔的組み合わせのもとに衰えているのでしょうか? そのよう
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すばらしい会衆を与えられていますが、しかし彼らは間違った人々
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を、彼ら自身をよくても軽率な者、最悪卑しい山師として人前に姿
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を現す牧師や長老として認めてきたのです。私たちのあまりにも多
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くの者が、そのような教会にかかわってきたのです。ある教会には
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すばらしい、信仰深い指導者がいます。しかし会衆が、自己満足の
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自己中心的な人々であふれかえっているのです。もしそのような牧
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師が留まり、忍耐強く教えるならば、私が思うに、会衆は最後の審
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判の日に、キリストの群れの良き牧師の下で傷つけたことに対して
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重い裁きが下るでしょう。しかし、健全な教会は、不完全な教会員
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と指導者でいっぱいであるにもかかわらす、信仰的な主導権と奉仕、
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神聖な教えと従順、信仰深いリーダーシップと教会籍によってしる
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し付けられるのです。
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それが、今から見るところの教会籍の広い考えです。
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<references />

2009年11月12日 (木) 21:29 時点における最新版

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By Mark Dever About Church Government
Chapter 4 of the book 「神の栄光の現れ、

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あなたは、単に教会があなたの霊的成長のためにあるとお考えです か? 日曜日の朝、教会の家族と一緒に集う時、あなたは単に自分の個 人的なディボーションを他の多くの人々と共に持っているのではあり ません。いいえ。あなたは、特定の教会生活に与っているのです。そ してキリスト者が会衆として集まる時、それは単に個人消費者が一時 共有された好みによって、たまたま同じ部屋にいるのではないのです。 私たちは実際に、生きた制度で、育ち得る有機体の一つの体として集 まっているのです。私はなぜあなたが教会に行くのか知りたいぐらい です。

事の要点を把握する助けとして、一つの質問を投げかけたいと思い ます。教会は何の役に立つのでしょうか? しばらく時間をとって、質 問に答えてみてください。あなたが教会とそれが何かについてもっと 理解しているなら、キリスト者の生活は、個人的な美徳のリストを磨 き、悪のリストを避けるための単純で継続した道徳的努力以上のもの になります。あなたは、教会がこの世における、神の生きた現われと して存在することを理解し始めるでしょう。

目次

Ⅰ . 会衆主義- 何を意味するか?

しばしば人々は、会衆主義を誤解してきました。その中傷は、ロー ン・レンジャー風[1] の類のように提示されてきました。「分離主義」と も呼ばれてきました。ある著者は、会衆主義を「個々の教会が、あた かも世界の中で、他のすべてのキリスト者の中で独立して、孤立して いるかのような主張」[2] と定義しました。他方、擁護者の何人かは会衆 主義を、奪うことのできない人間の権利と結びつけて、正しくかつ単 純な民主主義という風に提示しました。チャールズ・フィンレーは、 会衆主義を次のように説明します。

監督制度は、人々の間で一般的に無知な状態の場合に、よく適合し ます。長老主義又は教会共和主義は、キリスト教の信条の普及と、よ り進歩した知性の状態によく適合します。会衆主義又は霊的民主主義 は、一般的な知性と、キリスト教信条の普及しているところに、最もか つ唯一適合するのです。[3]

これらはどれも、新約聖書が私たちに残してくれた教会生活の状況の よい理解ではありません。会衆主義は決して他の教会と、宣教、教育、 伝道、災害援助やその他多くの事柄において協力することを禁じては いないのです。しかしながらそれが意味することは、戒規の問題であ ろうと、教理のことであろうと、特定の会衆に対して、外から誰も命 令をすることができない、ということなのです。私たち会衆派は、他 のいかなる組織よりもおそらく聖書の明快さに頼ることと、誰が会員 や指導者として認知されるべきなのか、そして何を信じ何をなすべき なのかの理解について、神が彼の民を全体として導いて下さると考え るのです。

ある人は会衆主義を単なる文明開化の政治理念として片付けてしま います。しかし、単純にそういうわけにはいきません。AD96 年頃記さ れたコリント教会に宛てたローマのクレメンスの第一の手紙に、長老 が「教会の完全な同意のもとに」委任されている様子を見ることがで きます[4]。他の例もたくさんあります。キリスト者は過去において、確 かにこのことを聖書によって教えられ理解してきたのです。 会衆主義は単に、地域教会の生活の問題の最後の最終審裁判所が、 ローマの司教でもコンスタンティノープルでも、ワシントンでもない という理解です。それは、何らかの国際機関でも国の議会でも、会議 でも大会でもありません。それは、教派の議長でも、評議員の議長で もありません。それは、地域の宗教会議でも、宣教団体でもありませ ん。地域教会の中の長老グループでも牧師でもありません。地域教会 の生活の問題に関する最後で最終の上訴裁判所は、地域教会自身であ るべきです。このことは、教理や戒規、教会員の加入と彼らの間の争 いの調停において、新約聖書によって証拠付けられています。 では次に、新約聖書における4 つの事柄について見ていきます。

1 ) キリスト者同士の争いについて

マタイ18 章の15 節から17 節において、イエスは兄弟間の争いについ て述べています。

また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふ たりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あな たは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひ とりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三 人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためで す。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、 教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしない なら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

ここで注目すべき点は、最終的に誰に訴えているか、最終の訴え を裁くところはどこかなのです。それは、主教でも司祭でもありま せん。集会でも宗教会議でも、大会でも会議でもありません。それ は、牧師でも長老会でも、又は教会の委員会でもありません。それ は、「教会」、つまり地域教会の全体であり、その行動が最終的な訴 えの場でなくてはならないのです。

もし私たちが最初に検討した使徒6 章1 節から5 節の箇所を見 れば、初代教会の生活の中で重大な出来事があったことがわかりま す。そこでは、教会の資源の分配をめぐって問題が起こりました。 そしてこの問題が使徒の注意を集めたのは明らかでした。

そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言 った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓の ことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。
あまたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良 い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの 仕事に当たらせることにします。
そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に 励むことにします。
この提案は全員の承認するところとなった。

そしてルカは、教会が選んだ人たちの名前を続けて挙げています。 新約聖書を私たちの教会生活の指針として用いることの複雑さ の一つに、初代教会における使徒たちの存在があります。あなたに もその難しさが理解できるかと思います。どのようにしたら後の長 老たち、牧師たち、そして監督たちが使徒たちの習わしを、自分た ちの指針として十分に引き受けることができるでしょうか? 私た ちは、教理を定義し、誤りを描写し、又は彼の地上における働き全 体を通じて、イエスと共にいて彼によって教えを受け、そして特に イエスによって彼の教会の土台となるように委託を受けた者たち のキリストのことばを思い出すことができるでしょうか? 私たち の名前が、使徒たちの名前のように新しいエルサレムの土台に銘記 されるでしょうか? 明らかに、これらすべての質問の答えは「いい え」です。

使徒たちの模範についての私たちの問題は、その件に関して現代 の教会指導者たちが、そのような権威に見合う資格がないにも関わ らず、彼ら自身に過剰な権威を帰していることです。今までに使徒 6 章では、まさにこれら使徒たちが会衆に対して責任を譲っていま す。彼らは、イエスがマタイ18 章で述べたところの神の下にある 究極の権威と同じ類のものを、集会で認識されていました。

これらの例に従うならば、パウロも地域教会の戒規と教理は、神 の下で会衆によって保管されていると教えています。パウロはコリ ントの教会宛てに手紙を書いたとき、彼らに対して教会内の内部の 者たちに裁かれるべきことを話しています( Ⅰ コリント5:12)。彼 は、「教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか! 」 と書いています( Ⅰ コリント6:4)。キリスト者の間の争いは、総じ て教会が聖書も主張するように、最終の裁判所なのです。

2 ) 教理に関して

新約聖書のすべての手紙( ピレモンへの手紙と牧会書簡を除い て)は総じて教会に書かれたもので、彼らの責任とは何かについて 全体的に彼らに教えています。基本的な福音の定義に関してさえも、 会衆が[ 地上における]最終的な訴えの法廷となっています。そのよ うに、ガラテヤ1 章でパウロは、御使いと使徒の説教者について( 彼 自身についても! ガラテヤ1:8)、もし彼らがガラテヤ人が受け入 れた福音以外を宣べ伝えたかどうかを批判するよう、比較的若いキ リスト者たちの集まりである会衆に求めているのです。彼は単に牧 師や長老や司祭又は会議や大会や、又は神学校に向けて書いたので はありません。彼は、教会を構成するキリスト者たちに向けて記し たのです。パウロがはっきりさせたことは、彼らは自らが主張する 福音について審査される資格があるだけでなく、彼らは審査されな ければならない、ということでした。彼らには、ガラテヤのキリス ト者たちが既に知っている福音とともに、彼らの首尾一貫している 新しい主張に従って、イエス・キリストの良き福音のメッセンジャ ーと主張する者たちを裁く、という避けて通ることができない務め があるのです。

パウロは、このことについて再びⅡ テモテ4 章3 節で彼がテモテ に対して偽教師の取り扱いについての最良の方法を助言したとき、 彼が教会の偽教師の来訪の流れを述べるとき、特に4 章3 節で、「自 分たちの願いにあわせるために・・・自分に都合の良いことを言って もらうために、多くの教師たちを彼らのまわりに集め」た者たちを 責めました。彼らを選んだにせよ、報酬を払ったにせよ、又は彼ら の教えを認めたにせよ、又は単に繰返し彼らに聞くことを同意した にせよ、ここでは教会が責められるべきなのです。彼らは、偽教師 自身と同様に、偽りの教えを大目に見たことについて有罪なのです。 基本的な教理的定義では、総じて会衆が聖書が主張する最後の裁判 所なのです。

3 ) 戒規について

Ⅰ コリント5 章において、パウロは( 長老たちだけでなく)コリ ント教会全体に行動するように、5 節、7 節、11 節と13 節で注意 を喚起しています。このことは、単に又は最終的に使徒であるパウ ロだけの問題でも、地域のコリント教会にいたいかなる長老の問題 でもありませんでした。これは、教会全体の問題だったのです。彼 ら全員が教会員としてこの人物を認めたのであり、次に彼らは皆で 彼のことを大目に見たのです。彼ら全員が直ちに彼の罪に巻き込ま れており、この男を逃がすか、さもなくばキリストの弟子としての 彼らの主張をやめるかの、どちらかをしなければなりませんでした。 教会の戒規に関しては、教会全体が、聖書が主張する最後の裁判所 なのです。

4 ) 教会籍について

パウロはⅡ コリント2 章の6 節から8 節で、「その人にとっては、 すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、 むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人 はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。 そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧 めます」。彼らはこの男を罰する行動を取ったのです。そのように 行動することにおいて、彼らは大多数でしたのです。教会員の大多 数が、この男を彼らの交わりから除外することを表明したのです。 処罰は功を奏した様子でした。それは、パウロがここで「彼にとっ ては十分でした」と述べているとおりです。すぐにパウロは、悔い 改めた男の教会への再加入を促すよう教会全体に対して書いてい るのです。パウロは精一杯勧告をしましたがそれ以上はできなかっ たのです。なぜなら教会籍に関しては、教会全体が、最終の裁判所 であるべきだからです。そのように聖書にもあるからです。

Ⅱ .会衆主義- ではないもの

聖書が提示するように、教会が最終的な訴えの場であり、私たち の日常生活における神のことばの意味と適用に対する最終的な地 上の権威であるからと言って、会衆がつねに正しい、ということは 意味していません。ペテロが、彼の弟子でありエペソ教会の牧師で あったテモテに手紙を書いたとき、来るべき悪霊の時について次の ように描写しています。その時とは、「人々が健全な教えに耳を貸 そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気まま な願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集める」 ( Ⅱ テモテ4:3)。興味深いことに、パウロは長老たちとともに会 衆が、教会の教理を監視続ける責任がある( 彼のガラテヤ人への手 紙によって暗示されていたように)と言い出していますが、彼は又 ここで彼らがその責任を不当に行使するであろうことも明らかに しています。会衆主義は聖書的ですが、会衆に誤りがないわけでは ないのです。

このことは、Ⅱ テモテ4 章の例からも明らかです。教会の歴史 からも痛いほど明らかなことは、主として数百年の暗黒時代を過し、 聖書的英知において私たちが素晴らしいと認める兄弟姉妹の会衆 においても継続的な間違いがあったということです。会衆が誤った 判断を下した個々の例は多いのです! 歴史においては、私たちは、 ジョナサン・エドワーズを解雇した教会を挙げることができます。 会衆はそのような権威を持つ十分な聖書的権利がありました。しか しそれは、あなたも同意することと思いますが、非常にひどい用い 方でした。自分たち自身の教会について考えてみてください。私た ちはもはや、自らの罪を言い表すことよりも神の教会の過ちを話す ことで、神の主権に対して疑いを起こすことはしません。この堕落 した世界においては、神によって制定された正しい権威でさえも誤 ることがあるのです。

新約聖書における会衆主義の描写は、全くの不完全の絵でしかあ りません。私たちは時々、わきぜりふや見せかけのように、それを 手に入れます。しかしながら、それは明らかに存在し、そのことを 考えれば考えるほど、それは至る所で明らかになるのです。それに もかかわらず、周囲の見せかけの性質が、ウェストミンスターの神 学者たちが1 章で記した「みことばの一般的ルールに従って、キリ スト者の思慮分別」を十分行使するだけの自由を与えているようで す。

ほとんどすべての信者の集まりは、ある程度どのような統治の組 織形式であっても、会衆的です。会衆が財産の権利を持っていると いうだけの教会であっても、ある意味で会衆的に統治された教会と 言えます。そのようなケースの場合、もし彼らの指導者の決断に賛 成できない場合は、会衆が単純にすべての事柄において息の根を止 めることで、常に決めることができるのです。もし会衆が予算や牧 師招聘の事柄に関して最終的な決定権があるなら、その教会は会衆 的です。会衆が教理と戒規、争いと教会籍に関して最終決定機関で あるということに加えて、新約聖書の中の模範的な会衆主義的な教 会を持つようになるでしょう。会衆がリーダーシップ、スタッフ、 そして予算に関する決定において、組織としてどの程度まで関与し て決めることができるかは、個々の会衆内の決定に際しての思慮分 別と自由裁量の問題なのです。指名委員会も役員会も新約聖書のど こにも書かれていません。財務委員会や小グループ・リーダーシッ プ・チームを見つけようとしても無駄です。聖書の十全性という信 仰は、しかしながらそのような組織を禁じてはおりません。それは ただ、彼らの権威を相対化しただけなのです。それらが教会の本質 ではないということは明示されています。彼らが会衆全体の英知に 服従しなければならないのです。

Ⅲ .会衆主義‐ なぜ重要なのか?

なぜこれらは重要なのでしょうか? もし会衆主義が、単に教会 におけるキリスト者としての共に生きることの現実ならば、私たち の課題はそれを作り出すことではなく、それを認識しつつ私たちの 教会生活を相応しく整えることにあります。私たちは神が創造した 組織を尊重し、そうすることで神の英知に信頼すべきなのです。

私は、改革派陣営の人々がより長老主義的統治へと傾く傾向があ るのを知っています。このことは時々、大変巧妙になされかつ中途 半端なのです。例えば、私は信仰に篤い多くの会衆主義的なバプテ スト教会を知っています。彼らは長老たちを置くように決める際に、 教会の他の会員よりもより厳重で異なる基準の署名を長老たちに 対して求めるように決議するのです。例えば、教会員全員には、ニ ューハンプシャー信仰告白を確約させ、長老たちにはそれに加えて フィラデルフィア( 又は第二ロンドン)信仰告白を確約するよう要 求するといった具合です。会衆の中の長老たちに模範となるべき成 熟を願うのは健全ですし聖書的でもありますが、それを達成するこ の手段には、遺憾な点が残ります。聖書にそのような明確な見本が 見つかるかと言えば、答えは「いいえ」です。このことは、パウロ がガラテアにおいて彼らにそうなるように命じたように、おそらく 会衆を、教理に関して最終的な決定機関になることに、感情・外見 両面ともにまだ覚悟ができていない状態のままにさせているので はないでしょうか? 自分自身で決断しなければならないのです。私 は、確かに長老として奉仕する人には、より教理面での理解力をお そらく期待し願っていますが、それが新約聖書に見られる以上に教 会が、より聖職者に頼るような姿勢に移行して欲しいとは思ってい ません。私の心配は、そのような形式的な要求が、そのようにさせ てしまうのではないかということなのです。

皆さん。歴史の審判は、「いいえ」です。いかなる組織をも教会 を誤りや衰退、貧困から防ぐことができないのは確かです。より中 央集権化された組織体は、信仰的で生き生きと福音的な証しを維持 する会衆主義よりも、悪い記録を残しているようです( 会衆主義の 記録は、特に教会の潔さと認知度が、信者洗礼の聖書的慣行と幼児 洗礼の拒否を通して守られていく中で強められていったのです)。 ローマ教皇は、自ら認めたキリスト者たちに大混乱をもたらしまし た。司教は、全然上手くできませんでした。集会も会合も監督も宗 教会議も会議も、彼らがアドヴァイザーから統治者に立場が変わる 時、聖書が保証した権威の度を越していまい、助けよりも問題をも たらしてしまったのです。

福音そのものが単純明快で、聖霊の働きによって新しく生まれた 私たちと神様との関係も現実のものであるので、福音を信じ神を知 る者たちの集まりが、単純に最も福音を擁護する者達だと言えるの ではないでしょうか? それが私たちが聖書の中で見ることではあ りませんか?

Ⅳ . 会衆主義- どのように作用するか

会衆派として、私たちはヘブル1 3 章1 7 節にどのように応じる べきでしょうか?「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、ま た服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがた のたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人た ちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさ い。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」このこ とは、著者がこれらキリスト者たちに、彼らの指導者の召使いの給 仕の手になるよう話したのではないことは勿論のことです。いいえ、 心に留めるべきテーマの重大さは明らかです。このことは、指導者 たちが彼らの働きに対してなす弁明と関係があり、その弁明は神に 対してなされるものだからです!

これは他に広い含みがありますか? 私はそう思います。キリスト 者にとって、権威にある者の立場の重大さ、特に教えに関して心に 銘記しておくことは常に役に立ちます。ヤコブはヤコブ3 章1 節で、 「教師は、格別きびしいさばきを受けるのです」と述べているとお りです。私たち長老がなすべき弁明は、最終的には教会にではなく、 神に対してなされるからです。

これらのことすべての重要性がお分かりでしょうか。私たち組織 のすべての責任において、私は、神が完全な委員会として、初めか らずっと働くように私たちに任せていると提案しているのではあ りません。神が指導者たちを私たちの間に置かれたことを、私たち は感謝すべきなのです。私たちは、彼らを認知し信頼すべきなので す。ここに見られる「従う」とか「服従する」のような単語は、普 段あまり聞き慣れないことばです。しかし、それらの単語は新約聖 書の中では、社会において、職場において、家庭において、結婚生 活の中で、教会の中で神とともに人々に適用されているのです。そ してそれらは、私たちに与えられた役目として、確かな信頼を必要 としているのです。

信頼は勝ち取るものだ、と言われますが、私にはそれがどういう 意味かが理解できます。新しい政府が就任したり、新しい上司が職 場に着任したり、または新しい友情関係が始まった時のことでもい いでしょう。私たちは、経験上それらの人々がどのように困難を切 り抜け、どのように我慢するか、彼らが成功して益を受けるときに 彼ら自身だけではなく、他者をも含んでいるかどうかを見たいと思 います。ゆえに、信頼は勝ち取ると言われるのです。

しかしその態度は、せいぜい半分真実でしょう。同時に、私たち が人生において、不完全な人類の一員に、それらが家族や友人であ っても、雇用主や政府の役人、または教会の指導者であっても、私 たちが与えられるよう求められている信頼の類は、最終的には決し て得られるものではないのです。それは、神の賜物として私たちに 与えられているものと理解するよりは、むしろ信仰による賜物、つ まり賜物自体をお与えくださる神への信頼として、賜物が与えられ なければならないと言うことなのです。教会において、信頼に足り ない指導者、又は信頼する能力に欠けている教会員のどちらかを持 つことは、深刻な霊的欠陥です。

では、私たちはどのように信頼すべきなのでしょうか? ここで単 純なグラフを想像してみて下さい。縦線は、明快さの増加を測るも ので、横線は重大さを測るものを意味するとします。四分円は、1 ) 明白であるが、重大でないもの、2 ) 明白でも重大でもないもの、 3 )明白かつ重大なもの、4 )確かに明白ではあるが、しかし重大 ではないもの。

1 ) 明白だが、しかし重大ではないもの( 例: 建物の外観を紫色 に塗るべきか? ) - このカテゴリーの事柄については、単純に普 通議論はありません。しかしながら「その他案件」の下では、何 が浮かび上がるか私には全く検討も付きません。 2 ) 重大でも明白でもないもの( 例: 私たちの礼拝を祈りで閉じ るべきか、静まりで閉じるべきか? )- これらの事柄においては、 良い意味での会衆の霊的な議論は結構です。これらは、完全に不 必要な事柄という訳ではありませんが、しかし最も重要でもあり ません。クリーニング契約から駐車場のアイデアに至るすべての ことは、この範疇に含まれます。 3 ) 重大かつ明白なこと( 例: 教会員になるために、私たちはイ エスが完全に神であり、完全に人であったという信仰を要求し続 けるべきでしょうか? )- これについてはほとんど常に合意があ ります。しかし、教理又は戒規に関して重大な誤りが長老によっ てあれば、これが、新約聖書において使徒たちが常に会衆に向け て哀願していたことです。エルサレムの教会は分裂したでしょう か? コリントの教会は、神の聖さに対して、彼らの証しが失われ、 キリスト者とはどういうことなのかということについて人々を 堕落へと導いたでしょうか? コリントの教会は、本当の悔い改め を認識するのを拒否したのでしょうか? ガラテヤの諸教会は、福 音をなくしてしまったのでしょうか? エペソの教会は、偽りの教 えを受け入れたのでしょうか? 新約聖書におけるこれら会衆と しての行動の明らかな事柄においては、最も重大な問題が、危険 に晒されているのです。

4 ) 重大ではあるが、明白でない( 例: この人物を長老として認 めるべきか、又はこの会員資格の処置を肯定すべきでしょうか? この重大な支出を充当すべきか、又はこの監督の決定は会衆とし てのものなのか? )- これらは教会にとっては長老に尋ねるべき、 最も重要な事柄です。多くの点で、この四分円の部分が、教会が 委員会として行動しようと試みるよりも、又は牧師、又はなんら かの委員会の議長が単独で決めるよりも、長老たちが特に最もよ く教会に仕えるところです。

教会員の基本的な姿勢として必要とされているのは、指導者を信 頼するか、又は彼らを交代させるかのどちらかなのです。しかし、 彼らを認めておきながら、従わないと言うのはやめて欲しいと思い ます。もしあなたが推薦状について長老たちと同意できないならば、 正当な理由を持つべきです。行って、彼らとその件で話をしなさい。 聖書以外では、あなたが、あなたに関して長老たちについての主要 な情報源なのです。教会の指導者を邪魔するよりもむしろ、長老の いない所で話をし、密かに会って、そしてあなたの指導者を励ます 計画を立てなさい。教会指導者の働きが重荷ではなく、喜びとなる ようにしなさい。ヘブル人への手紙の著者が述べているように、こ のことが、指導者があなたにとって祝福となることなのです。

200 年前にスコットランドの牧師たちの教師であったジョン・ブ ラウンは、彼の学生の一人で、小さな教会に新しく任命された人に 宛てて、まるで父親のように助言を書き記した手紙の中で、次のよ うに書いています。

私は、あなたの心の中にある空虚さがわかる。そしてあなたの 教会が、あなたの周りの兄弟たちのと比べて小さいことに屈辱を感 じているであろうことも。しかし、老人のことばの上に、あなた自 身を確信させなさい。彼らのことをあなたが主キリストに弁明する とき、神の裁きの座において、あなたは十分であったことを思うで あろう。

今日いくつの教会が、自己中心的な指導者たちと頑固な会員たち の悪魔的組み合わせのもとに衰えているのでしょうか? そのよう な会衆は、常に小さくなり、萎れていくのです。幾つかの教会は、 すばらしい会衆を与えられていますが、しかし彼らは間違った人々 を、彼ら自身をよくても軽率な者、最悪卑しい山師として人前に姿 を現す牧師や長老として認めてきたのです。私たちのあまりにも多 くの者が、そのような教会にかかわってきたのです。ある教会には すばらしい、信仰深い指導者がいます。しかし会衆が、自己満足の 自己中心的な人々であふれかえっているのです。もしそのような牧 師が留まり、忍耐強く教えるならば、私が思うに、会衆は最後の審 判の日に、キリストの群れの良き牧師の下で傷つけたことに対して 重い裁きが下るでしょう。しかし、健全な教会は、不完全な教会員 と指導者でいっぱいであるにもかかわらす、信仰的な主導権と奉仕、 神聖な教えと従順、信仰深いリーダーシップと教会籍によってしる し付けられるのです。

それが、今から見るところの教会籍の広い考えです。

  1. スーパーマンと並んで、戦前からアメリカの少年の間では圧倒 的な人気をはくしていた西部劇の黒覆面のヒーローのこと。
  2. Ro l and Al l en, Mi s s i ona r y Me tho d , p . 8 5n1 .
  3. Cha r l e s Finne y in hi s Le c tur e s on The o l o g y .
  4. 翻訳.Stani f o r th,p.46.