アダムの致命的不従順とキリストの勝利の従順

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English: The Fatal Disobedience of Adam and the Triumphant Obedience of Christ

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By John Piper About Imputed & Original Sin
Part of the series Spectacular Sins and Their Global Purpose in the Glory of Christ

Translation by Desiring God

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして師が全人類に広がったのと同様に、ーそれというのも全人類が罪を犯したからです。13というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。14ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。15ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それみもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。16また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。17もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。18こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。20律法が入ってきたのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。21それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。 1

目次

イエス様は最高のお方

このメッセージシリーズのねらいの一つは、み父なる神と御霊なる神以上ではありませんが、イエス・キリストこそ、この全宇宙で最も重要な人物であられるという事実を私たちの頭に強く認識させることです。主はその価値と美しさと知恵と義と愛と力において、彼ら[み父なる神と御霊なる神]とは同等であられます。しかし主はすべての人、それが御使いであれ悪魔であれ国王であれ総司令官であれ科学者であれ芸術家であれ哲学者であれスポーツ選手であれ音楽家であれ俳優であれ、今生きている者、過去に生きた者、将来生きる者、すべてを超えて、重要なお方です。イエス・キリストは最も優れたお方です。

悪も含めた、すべてのものがイエス様のため

このメッセージシリーズはまた、悪を含め、存在するものすべてが、無限に聖く完全に賢くあられる神によって、キリストの栄光をさらに輝かせるため定められているということをお見せすることを目的としています。皆さんの中には私たちの今週の聖書通読の箇所である、箴言16:4を読んだ方もおられると思います。「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。」神はこれを、悪者が責任逃れができないように、またご自身の罪なきみこころを維持しつつ、ご自身のやり方でなされています。2週間前に私たちは、すべてのものはキリストを通して、キリストのために造られた、ということを見ました(コロサイ1:16)。そしてそれは、十字架上でキリストによって打ち負かされた、「王座も主権も支配も権威も」含まれると、パウロは言います。彼らは「わざわいの日のために造られた」のです。そしてその日、キリストの権威と義とみ怒りと愛があらわされます。遅かれ早かれ、主に対するすべての不従順が滅ぼされます。

そこにおられる神

このメッセージシリーズはまた、キリスト教は、それが神によって意図されようが人によって意図されようが、私たちの心身健康を目的としたただの思想や習わしや感情を集めたものではない、という確信を確固なものにすることをねらいとしています。それはキリスト教ではありません。キリスト教は、神は私たちなしに実在する現実であられる、という確信から始まります。私たちは神がどのようなお方であるかを、自分で好きなように想像して作り上げません。フランシス・シェーファーが言うように、主はそこにおられる神です。私たちは神を作り上げません。神が私たちをお造りになるのです。私たちは神がどのようなお方であるかを定めません。神が全宇宙をお造りになったのであり、それには私たちが与える意味ではなく、主ご自身のお与えになった意味があるのです。もし私たちがそれに与える意味が主のものと違うのであれば、私たちは愚かです。そして私たちの人生は悲惨なもので終わります。キリスト教はゲームではありません。治療法でもありません。そのすべての教理は、神がどのようなお方あられ、そして歴史の中で何を成しておられるかから発します。それらは動かぬ事実と一致します。キリスト教は事実以上です。信仰と希望と愛があります。しかしそれらは空中に浮かんではません。神の真理の岩の上で、大きな杉の木のように育つのです。

なぜ私がこれをこのメッセージシリーズのねらいとするのかというと、あなたの永遠の楽しみと強さと聖さは、あなたの信仰の背骨に強い繊維を入れ込むこの堅固な世界観によるということを、私は聖書から深く確信しているからです。軟弱な世界観は軟弱なクリスチャンを作り上げます。そして軟弱なクリスチャンは、先の日に生きのびることはありません。キリスト教を治療選択肢のように扱う根のない感情論は、終わりの日には滅ぼしつくされます。立ち残るのは、その家を固い、イエス・キリストを基とし、中心とし、すべてのゴールとする、実在の真理の岩に家を建てた者です。

イエス様の栄光はアダムの罪のうちに計画された

今日注目するのは最初の人、アダムのあっと言わせるような罪と、それがどのようにイエス・キリストのもっと壮大な反撃の舞台を設定したかです。ローマ5:12-21を開いてみましょう。2000年の夏、私たちはこの箇所に5週間費やしました。今日はその5週間見たものとはまったく違うところに注目します。

神がアダムの罪をご計画になり許され、そして人類のすべてがアダムと共に罪に堕落したとき、キリストの栄光が主な目的として神の頭の中にあったことに注目していただきたいのです。先週私が言ったことを思い出してください。何でも神がお許しになるとき、理由があります。そして主の理由は絶えず無限に賢く意図的です。主は人間の堕落が起こることをお許しにならなくてよかったのです。(先週見たように)サタンの堕落を引き止めることがおできになるはずであったように、それ[人間の堕落]も引き止めることがおできになったはずです。それをお引止めにならなかったこと自体、理由と、目的がおありになるのです。また主は時と次第によってご計画を立てられるのではありません。賢明であるとお分かりになることを、主は絶えず賢明なこととして[いにしえから]分かっておられます。それゆえ、アダムの罪と人類の罪への堕落と苦悩は、神に不意討ちをかけたのではなく、イエス・キリストの満ち満ちた栄光を現すためそれに関わるすべての計画の一部なのです。

聖書からこれを示す最も明確な方法は、ここでその詳細には触れませんが、罪に打ち勝つキリストの犠牲が、この世の創造以前に神のご計画の中にあったことを示す箇所を、見ることです。(詳しくはメッセージ、「キリストの苦難と神の主権 "The Suffering of Christ and the Sovereignty of God."」を見て下さい。) たとえば、黙示録13:8でヨハネは、「ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者」と書いています。つまりこの世の初め以前に「ほふられた小羊のいのちの書」という本があるのです。この世が造られる前に、神はこの書物に名前の記されているすべての者を救うため、ご自身の御子が小羊のようにほふられることをすでにご計画になっていたのです。キリストの罪のための苦難と死は、アダムが罪を犯した後ではなく、それ以前に計画されていたという聖書的見解を見せてくれる聖書の箇所は、いくつもあります(エペソ1:4-5、2テモテ1:9、テトス1:1-2、1ペテロ1:20)。それゆえ、アダムが罪を犯した時、神はそれに驚かれませんでした。それどころかそれはすでに主のご計画、つまり贖いの歴史の中で主の驚くべき忍耐と恵みと義とみ怒りをあらわし、そして最終的には、第二の人アダムとしてのご自身の御子が、最初のアダムよりそのすべてにおいて偉大であることを示すという、ご計画のうちだったのです。

ではローマ5:12-21を、今度はアダムのあっと言わせるような罪は、神のキリストを掲げる目的をくじいたのではなく、むしろかなえたのである、ということを念頭に、見ていきます。以下この聖書箇所を読む方法です。キリストについてはっきり言及しているものが5つあります。そのうちの一つはパウロが自分がキリストとアダムについて考えていることに、言及しています。残りの箇所はキリストがどのようにアダムよりも優れておられるかを示しています。そのうちの2つは酷似しているので、ひとかたまりにします。ということは、私たちはキリストの優位性の3つを見ることになります。

イエス様、「来たるべきお方」

では14節でキリストがどのように引用されているかを、12-13節の文脈から読んでみましょう。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、ーそれというのも全人類が罪を犯したからです。13というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。14ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。」

14節でパウロは自分が残りの節で考えていることをまとめあげます。アダムは来たるべきお方、つまり、キリストの「ひな型」と呼ばれています。まず最もはっきりしていること、キリストは「きたるべき方」というところに注目してください。[世の]初めから、キリストは「きたるべき方」です。パウロはキリストが思いつきではないことを示します。キリストはアダムの複写として生まれたとは、パウロは言いません。神はアダムを、主の御子が栄光を受けるよう計画された、一つの型のように扱われました。その型とは後から来るものの影で、同じような型ですが、さらに優れたお方です。ですので神はアダムをキリストの型となるよう、取り扱われました。

さて、その思考の流れの中でパウロがアダムはキリストのひな型であると選んで言っていることに、さらに注目してください。14節、「ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。」彼は、アダムと同じようには罪を犯さなかった人々さえ、アダムが受けた罰を受けた、と言ったそのすぐ後に、アダムはキリストの型であると、あえて言っているのです。なぜパウロは、ここでアダムはキリストの型であると言うのでしょうか?

イエス様、私たちの代表格

それは、彼が前述したことが、キリストとアダムがどのように似ていてどのように違うのかのまさにその要素を突いているからです。以下類似点です。アダムのように罪を犯した人々はアダムのように死にました。なぜでしょう?それは彼らがアダムと結びついているからです。彼は人類の代表格であり、彼との結びつきのゆえに、彼の罪が人々の罪とみなされるのです。それがアダムがキリストの型と呼ばれる真髄です。私たちの従順はキリストの従順とは違い、それでいて私たちにはキリストと共にいられる永遠のいのちがあるからです。なぜでしょう?それは私たちが信仰によって、キリストと結びついているからです。主は新人類の代表格であられ、主の義は私たちの主との結びつきのゆえに、私たちの義としてみなされるのです(ローマ6:5参照)。

アダムがキリストの型と呼ばれることを意味する類似点があります。

アダム > アダムの罪 > 彼のうちに罪のとがめを受けた人類 > 永遠の死 キリスト > キリストの義 > 主のうちに義とされた新人類> 永遠のいのち

以下の聖書箇所ではキリストと主の救いのみ業が、アダムと彼の破滅的行為よりどれほど優れているかが、紐ほどかれています。私が最初に言ったことを覚えていてください。ここで私たちが見ているのは、この地上にいるすべての人がいる世であるという神の現実の啓示です。この地上にいるすべての人がこの聖書箇所に含まれています。それはアダムがすべての者の父だからです。ですので、アメリカであなたが出会うすべての人、あるいはいかなる国の人種も、この聖書箇所が言うことに匹敵します。アダムにある死かキリストにあるいのち。これはグローバルな聖書箇所です。見逃さないでください。これがあなたが出会う一人ひとりに定義される現実です。軟弱な世界観は軟弱なクリスチャンを生み出します。これは軟弱な世界観ではありません。歴史のすべてと地球上のすべてを超えて広がります。この世のすべての人と、ネット上のすべての見出しを大きく左右します。

イエス様の優位性をほめたたえる

さて、パウロがキリストとそのみ業が、アダムと彼の行為以上であるその優位性をほめたたえる、3つの方法を見てみましょう。それらは3つの文章にまとめられます。1)恵みの満ちあふれ、2)従順の完璧さ、3)いのちの支配

1) 恵みの満ちあふれ

まず15節と恵みの満ちあふれです。「ただし、恵み[つまり、17節の義の賜物]には違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」ここのポイントは、神の恵みはアダムの違反より力強いもの、ということです。それが「それにもまして」と言う言葉が示すものです。「それにもまして、神の恵み…は、多くの人々に満ちあふれるのです。」もしひとりの人の違反が死をもたらしたのであれば、なおさらのこと、神の恵みはいのちをもたらすことでしょう。

しかしパウロはそれよりもっと具体的です。神の恵みとは具体的に、「ひとりの人イエス・キリストの恵み」です。「それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」二つの異なった恵みがあります。「ひとりの人イエス・キリストの恵み」とは、神の恵みの顕現 2 です。たとえば、テトス2:11、「すべての人を救う神の恵み[つまり、イエス様において]が現れ、」とパウロはそれをそのように言います。また2テモテ1:9でも、「この[ご自身の]恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに…与えられたものであって、」と言います。ですのでイエス様のうちにある恵みが、神の恵みなのです。

これの恵みは主権の恵みです。それはその途上にあるすべてを制します。これには全宇宙の王の権威があることをこの後すぐに見ますが、これは絶対的な恵みです。それが第一のアダムを超えたキリストの優位性をほめたたえるゆえんです。ひとりの人アダムの違反とひとりの人イエス・キリストの恵みが出会うとき、アダムとその違反が敗北します。キリストと恵みが勝利します。キリストに属するものたちにとって、それはとても素晴らしい知らせです。

2) 従順の完璧さ

第二に、パウロはキリストの恵みがアダムの違反と死に打ち勝つ、つまりキリストの従順の完璧さをほめたたえます。19節、「すなわち、ちょうどひとりの人[つまり、アダム]の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとり[つまり、キリスト]の従順によって多くの人が義人とされるのです。」ですのでひとりの人、イエス・キリストの恵みが、罪を犯すことから守り、死にまで、十字架の死にいたるまで従順であるよう、保ったのです(ピリピ2:8)。そうすれば信仰によって主に結びついている者たちのため、罪のない完全な従順をみ父にささげることができるからです。アダムは自身の従順で失敗しました。キリストは完全に成し遂げられました。アダムは罪と死の根源です。キリストは従順といのちの源です。

キリストはキリストの型であったアダムのようであられました。両者とも旧人類と新人類の代表格です。神はアダムの失敗をご自身の人類に転嫁され、また神はキリストの成功をご自身の人類に転嫁されるのです。なぜならこの二つの人類はその代表格に一つにされるためです。キリストの非常に優れたその優位性は、従順を完璧に遂行されただけでなく、主の従順のゆえに何百万人もの人々が義と認められるほどのものです。あなたはアダムだけに結びついていますか?あなたは死に至る最初の人類の一人ですか?あるいはあなたはキリストに結びついており、永遠のいのちに至る 新人類の一人ですか?

3) いのちの支配

第三に、パウロはキリストの満ちあふれる恵みとキリストの完全な従順をほめたたえるだけでなく、最終的にいのちの支配をほめたたえています。恵みはキリストの従順を通して永遠のいのちの勝利へと導きます。21節、「それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」恵みは義を通して(それは、キリストの完璧な義を通して)、永遠のいのちという最頂点に至るまで支配します。そしてそれらすべて、「私たちの主イエス・キリストによ」るのです。

あるいは17節に再び同じメッセージがあります。「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」義の賜物を通しての恵みはいのちの勝利へと導き、それらすべてはイエス・キリストによる。同じパターンです。

先ほど、これらの節でパウロが言うキリストにある神の恵みとは、主権の恵みであると、私は述べました。ここで、いわゆる支配という言葉を見ます。死は人間に対しある種の権威を持っており、その支配は全体に行きわたります。すべてのものが死にます。しかし恵みは罪と死に打ち勝ちます。一度死んだ者たちでさえも、いのちで支配します。それが主権の恵みです。

イエス様の驚くべき従順

主は最初の人アダムをはるかに超えて輝かれる、これがキリストの素晴らしい栄光です。アダムのあっと言わせるような罪は、キリストの驚くべき恵みと従順と永遠のいのちの賜物ほど大きくありません。事実その完全な義のうちにある神の初めからのご計画は、人類の代表格であるアダムが、新人類の代表格であられるキリストの型となるものだったのです。主のご計画は、この類似と対比によって、キリストの栄光がさらに光輝くようになるというものだったのです。

17節のみことばはあなたに対し非常に個人的に、そして切実に語りかけます。あなたはどこにいますか?「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」「恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々」ということばによく注意して、自分にあてはめて注目してください。

罪人に対する大切なことば

これらは罪人に対する大切なことばです。恵みは無償、賜物は無償、キリストの義は無償。あなたの人生の希望と宝として受け取りますか? もしそうであるならば、あなたは「ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」それを受け取ってください。受洗によってそれを証ししてください。そしてキリストの民の生きた一人となってください。


1 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。

2 神が肉体をとられ人となられること。