十字架のみを誇りとする

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By John Piper About Christian Hedonism
Part of the series Passion's OneDay 2000

Translation by Desiring God

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

この世で持続する成果を発揮するのに、人生で多くのことを知る必要はありません。でもいくつかの重要なことは知っていなければなりません。そしてそのために生きることと死ぬことを覚悟しなければなりません。この世を耐久性のある変化を持って変える人とは、多くのことを習得した人ではなく、ある特定の偉大なことによって征服された人です。もしあなたが自分の人生を重視されたければ、あなたの落とす小石が地球の果てまで行き渡り、何世紀もそして永遠まで押し寄せる波になり、連鎖反応を起こして欲しいと思うならば、高いIQやEQを持つ必要はありません。見栄えのする外見や富を持つ必要はありません。良い家系や良い学校の出身である必要はありません。いくつかの素晴らしい、壮大な、不変の、明確で単純で、栄光のあることを知り、それによって燃やされなければなりません。

でもここにいるすべての人があなたに成果を上げて欲しいと思っているわけではありません。皆さんのうちの何百人という人たちが、自分が人生で何か偉大なことをして永遠に続く成果を発揮するかどうかなど、気にも留めていません。他人に好かれたいという、ただそれだけです。もし他人に好かれるなら、あなたは満足するのです。あるいはもしいい仕事といい奥さんと、いい子供を一人か二人、そしていい車と長い休暇と、何人かのいい友達と、楽しい隠居生活と、早くて楽な死と、地獄がなければ、もし(神以外に)それらを持つことができれば、あなたは満足するのです。それがあなたを待ち受けているものであれば、悲劇です。

3週間前ルビー・エリエソンさんとローラ・エドワーズさんがカメルーンで亡くなったというニュースを、私たちの教会で聞きました。ルビーさんは80歳を超えていました。生涯独身で、未踏の人々、貧しい人々、病の人々の間でイエス・キリストを伝えるというこの一つの目標のために、すべてを捧げました。ローラさんは未亡人で、医師であり、80歳になるところで、カメルーンのルビーさんのそばで仕えていました。走行していた車のブレーキが故障し、車が崖から落ち、二人共即死でした。「それは悲劇だったと思う?」と私は教会の人たちに尋ねました。二つの命が、一つの偉大なビジョンに突き動かされ、イエス・キリストの栄光のために滅び行く人々に仕えるという、予想もしなかったことに費やされたのです。彼女たちのアメリカ人の同僚のほとんどが、フロリダやニュー・メキシコで、つまらないもので人生を棒に振るために定年退職する年齢の、その20年後です。いいえ、それは悲劇ではありません。栄光です。

悲劇とは何か、教えてあげましょう。リーダーズ・ダイジェスト(2000年2月発行、98ページ)から、悲劇とは一体何かをお読みします。「ボブとペニーは・・・5年前、ボブが59歳でペニーが51歳の時に北東の地で定年退職した。彼らは現在、フロリダのプンタ・ゴーダに住んでおり、そこで30フィートあるトロール漁船で船旅をしたり、ソフトボールしたり、貝殻を集めたりしている。」アメリカン・ドリームです。たった一度切りの自分の人生の終わりに来て、創造主の前に申し開きをする前の最後の偉大な仕事が、「貝殻を集めました。私の貝殻をご覧下さい」。それこそ悲劇です。今日人々はあなたにその悲劇の夢を受け入れるよう説得するため、何十億ドルというお金を費やしているのです。今日私にはあなたに懇願できる40分が与えられています。どうぞそれを信じないでください。

人生を無駄にしないでください。それはとても短く、尊いものです。私は父親が伝道師として、失われた者にイエス・キリストの福音を伝えるために自分の一生をささげた家庭で、育ちました。福音を宣べ伝えること、それが父の、たった一つの燃えるようなビジョンでした。子どものころ、ずっと家の台所に額が飾ってありました。その額は現在私たちのリビングに掛けられています。この48年間ほとんど毎日それを見続けて来ました。それには「たった一度切りの人生、すぐに終わってしまう人生。キリストのために成されたことのみが永遠に残る」と書かれてあります。

この『ワン・デイ』に父親のような気持ちで臨んでいます。私は54歳です。4人の息子と一人の娘がいます。カーステンは27、ベンジャミンが24、アブラハムが20、バルナバスは17、タリタは4歳です。成人になった息子たちが、命取りになるような[この世の]成功で自分の人生を無駄にしないようにという願いが、以前よりも増して、この数ヶ月、また数年、私の心を一杯にしています。

ですから皆さんを自分の息子や娘のように思い、父として、お願いします。私は恐らく皆さんが持ったことがないような父、あるいは私があなたに対しビジョンを持っているようには、神があなたに対し持っているようには、ビジョンをあなたに対し持ったことがないお父さんとは違うかも知れません。あなたのお父さんはあなたに対しビジョンを持っているかも知れませんが、それはすべてお金や地位であるかも知れません。皆さんを自分の息子や娘のように見つめ、懇願します。人生を素晴らしく永遠に続く何かで価値あるものにしてください。それを求めてください。情熱なしに生涯を楽に進まないでください。

私が『パッション98』、『パッション99』、そして『ワン・デイ』を愛するようになったその理由の一つは、その268の宣言が私の人生そのものだからです。その宣言はイザヤ26:8を基にしています。「主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。」ここには体だけでなく、魂があります。魂だけでなく、魂と共に情熱と願望があります。人に好かれたいとか、ソフトボールをしたいとか貝殻を集めたいという願望だけでなく、無限に素晴らしい何か、無限に美しく、無限に価値があり、無限に満足させてくれる何か、つまり、神の栄光を求める願望です。「私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。」

これが私が知りたいと、そして体験したいと思いつつ生きているものです。私の人生と私が仕えている教会の基本理念は、「私たちは、そして私は、すべての人々の喜びのために、すべてのもののうちにある神の主権に対する情熱を広めるために存在する」です。

皆さんは私が言うように言う必要はありません。ルイ・ギグリオさんのように(あるいはベス・ムーアやヴォーディー・ボッカムのように)言う必要はありません。

でも何をするにも、情熱を探し出し、それを表現し、それに生き、そのために死ぬ方法を見出してください。そうすれば持続する違いを生み出します。あなたは使徒パウロのようになります。パウロほど自分の人生において一途なビジョンを持った人はいません。彼はそのビジョンを様々な方法で語っています。

使徒20:24、「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」

重要なのは一つだけ、それは自分の与えられた走るべき行程を走り尽くすこと、です。

ピリピ3:7-8、「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私にはキリストを得・・・ることができる、という望みがあるからです。」

私はどのように皆さんをお助けしたら良いでしょうか?『ワン・デイ』のこの場で、私はどのようにしたら神に用いられ、あなたを解放し、取るに足りない夢から解放し、あなたを地球の果てまで送ってしまうような一つの素晴らしい現実をもって、皆さんの心に一つの目的に対するまっすぐな情熱を目覚めさせることができるでしょうか?

主が私にお与えくださったと思うその答えは、その核心に限りなく近い聖書の一聖句に行き、なぜパウロがそのように言うのかを皆さんにお見せすることです。

その箇所はガラテヤ6:14です。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」

あるいは肯定的に言うと、「イエス・キリストのみを誇りとします」となります。それは一つの概念です。一つの目標、一つの情熱です。十字架のみを誇る、その「誇る」という言葉は、「喜ぶ」とか「大喜びする」と言う言葉に訳することもできます。キリストの十字架のみを誇りとする。パウロはこれを自分の真っすぐな情熱、たった一つの誇り、喜び、そして歓喜としなさい、と言います。この『ワン・デイ』という素晴らしい時に、あなたが愛し、大切にし、喜んで大いに楽しむものを、たった一つ[『ワン・シング』]、イエス・キリストの十字架にしてください。

これは二つの理由で衝撃的です。

1) その一つは、それが「[死刑用の]電気椅子だけを誇りなさい」、「ガス室だけに喜びなさい」、「[死刑用の]薬物注射に喜びなさい」、「あなたのたった一つの誇りとたった一つの喜びを、公開リンチのロープとしなさい」と言っているようだからです。「私たちの主イエス・キリストの十字架以外には、誇りとするものが決してないように。」十字架に釘付けにされるほど残酷で苦痛に満ちた死刑法はありません。それはひどいものでした。あなたは叫ばずに、自分の毛を引っ張らずに、そして服を裂かずには見ていられないないでしょう。これをあなたの人生のたった一つの情熱としてください。

2) それがパウロの言葉が衝撃的である理由の一つです。もう一つは、彼がこれだけを自分の人生の誇りとすべきであると言うところにあります。「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」

パウロはここで何を言っているのでしょうか?本当ですか?他には誇りとするものがあってはならない?他に歓喜するものがあってはならない?イエス様の十字架、イエス様の死以外には喜びとするものがあってはならない?

パウロ自身が同じ「誇り」や「喜び」という言葉を他のものに使う聖書箇所はどうなるでしょうか?例えば、

ローマ5:2、「私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」

ローマ5:3、「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」

2コリント12:9、「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」

1テサロニケ 2:19、「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。」

ですから、もしパウロがこれらすべてを誇りとし喜びとするのであるならば、彼は、「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならない」と言うとき、一体何を言わんとしているのでしょうか?

それはどういう意味でしょうか?でたらめな言葉で話しているのでしょうか?一つのことに喜んで、別のことで喜んでいると言っているのでしょうか?いいえ。すべての大いなる喜び、すべての喜び、すべての誇りは、イエス・キリストの十字架のうちにある喜びであるべきである、と言うのには、とても深い理由があります。

クリスチャンにとって、他のすべての誇りは、十字架にある誇りであるべきであると、彼は言っているのです。すべての大いなる喜びは、十字架にある大いなる喜びであるべきである、と。もしあなたが栄光の望みを喜ぶのであるなら、それはキリストの十字架のうちにある大いなる喜びであるべきであります。もしあなたが患難を喜ぶのであるならば、それは患難は希望を生み出すので、キリストの十字架を喜ぶべきです。もしあなたが自分の弱さ、あるいは神の人々を喜ぶのであれば、キリストの十字架のうちに喜ぶべきです。

なぜそのようになるのでしょうか?理由はこれです。贖われた罪人にとって、すべての良きもの、実に、神が良きことに変えてくださる悪いこと一つ一つでさえも、キリストの十字架によって、私たちのために獲得されました。キリストの死から離れては、罪人はさばき以外に受けるものは一切ありません。キリストの十字架から離れては、そこには有罪宣告があるだけです。それゆえあなたがキリストにあって楽しむすべてのこと、クリスチャンとして、キリストを信じるものとして楽しむすべてのことは、キリストの死のおかげなのです。それゆえあなたが喜ぶすべてのことは、神の御子であられるイエス・キリストの死の代価によって、その恵みのすべてがあなたのために買い取られた場所である十字架を、喜ぶべきなのです。

私たちがキリスト中心、十字架いっぱいであるべきなのにそうでないその理由の一つは、すべてのこと、すべての良いことと、神がご自身の子どもたちのために良いことに変えてくださる悪いことは、私たちのためにキリストの死によって買い取られたという事実に、私たちが気づいていないからです。私たちは命と息と健康と友人とすべてを、当然のものと単純に思い込んでいます。私たちにはそれを持つ権利があると思っています。でも事実は、私たちにはそれらを持つ権利がありません。

私たちは二重にそれを受けるにふさわしくない者たちです。

1) 私たちは被造物で、私たちの創造主には、私たちに何も、命や健康など、一切のものを与える義務や責任がおありになりません。主は与えられ、主は取られる、そして主は私たちにまったく不公平であられないのです。

2) そして被造物であり何の不平も創造主にないばかりか、私たちは罪人です。私たちは神からの栄誉を受けることができないのです。主を無視し、主に従わず、主を愛さず、主を信じないで生きています。義なる主のみ怒りは私たちに向けられています。私たちが受けるべきものは、さばきのみです。それゆえ、私たちのする息のすべて、私たちの心臓が鼓動するすべて、太陽が昇る毎日、目が見、耳が聴き、口が語り、足が一歩を踏み出すそのすべてのときは、さばきを受けるしか値しない罪人に対する、無償の、受けるに値しない賜物なのです。

誰がこの賜物を私たちのために獲得してくださったでしょうか?イエス・キリストです。そしてどのようにして主はそれを獲得してくださったでしょうか?ご自身の血によってです。

人生の恵みのすべては、キリストの十字架をたたえるために意図されています。あるいは別の言い方をすると、人生の良きことのすべては、キリストと、十字架にかけられた主をあがめるためにあります。ですから、例えば、先週私たちは1991年製ドッジのスピリット[車]をめちゃめちゃにしてしまいましたが、誰も負傷しませんでした。ですので守られたことを私は喜びます。それをたたえます。でもなぜ誰も負傷しなかったのでしょう?それは私や私の家族の誰もが受けるに値しない賜物です。私たちは罪人であり、キリストから離れては、生まれながらに怒りの子です。それでは私たちはどのようにしてそのような良い賜物を受けるに至ったのでしょうか?答えは、キリストが私たちの罪のために十字架で死んでくださり、神のみ怒りを私たちから取り除かれ、私たちに益となって働く神の全能の恵みのすべてを、私たちが受けるに値しないにも関わらず、確保してくださったからです。ですから守られたことを喜ぶとき、私はキリストの十字架を喜んでいるのです。

そして破損した車のために保険が$2800おり、ノエルがお金を受け取り、アイオワまで行って92年製シェビーのルミナを購入し、雪の中を運転して帰って来ました。私たちは車をまた所有することができました。私は驚くような、惜しみない恵みに喜んでいます。車を破損します。無傷でそこから出てきます。保険がおります。別のものを購入します。このようにです。そして何も起こらなかったかのように生活し続けるのです。感謝のうちに私は頭を下げ、語られないそのような小さな物質的なことでさえも憐れみをお与えくださる主に、喜びます。このような憐れみはどこから来るのでしょうか?もしあなたが救われた罪人、イエス様を信じる者であるならば、それは十字架を通して来ます。十字架を離れては、さばきがあるのみです。忍耐と憐れみがある一定の時期には与えられるかもしれませんが、拒絶し続けるなら、憐れみのすべてはさばきをさらに増すだけです。それゆえすべての賜物は血で買い取られた賜物です。すべての誇り、すべての喜びは、十字架にある誇りです。

もし私の恵みに喜ぶその喜びがキリストの十字架に喜ぶ喜びでないなら、私はわざわいです。

別の方法でこれを言うと、十字架が意図しているのは、キリストの栄光です。十字架にある神のみむねはキリストがたたえられることです。ガラテヤ6:14でパウロが「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と言うとき、神のみこころは、キリストが絶えず私たちの誇りと歓喜と喜びと賛美である十字架が絶えずあがめられ、私たちの人生のすべての良きことと、神が良きことに変えてくださるすべての悪しきことのゆえに、キリストが感謝と栄誉を受けられることです。

ここで質問です。もしそれがキリストの死にある神のみむね、すなわち十字架にかけられたキリストが、すべてのことのゆえにあがめられ、栄光をお受けになることであるのならば、キリストはどのようにしてその受けるにふさわしい栄光をお受けになるのでしょうか?その答えは、老若男女がこれらのことを教えられなければならない、です。あるいは別の言い方をすると、キリストの十字架にある喜びの源は、キリストの十字架を教育することです。

あなたにこれらのことを教えることによって、イエス様に栄光をお返しする、それが私の仕事です。そしてあなたの仕事は、これらのことに従って行動し、さらに多くの人々にこれらのことを教えることによって、イエス様にさらなる栄光をお返しすることです。イエス様を教えることは、イエス様にあって喜ぶことです。もし十字架以外に喜ぶものがあって欲しくないのであれば、私たちは十字架について教えること、また十字架の下で教えることを追求しなければなりません。

あるいは「十字架の上で」と言うべきかも知れません。十字架を教えることは十字架に喜ぶことに至ります。それはどういう意味でしょうか?

14節の残りを見てください。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」十字架を誇りとするのは、自分が十字架につけられたときに起こります。それが14節の言っていることではないでしょうか?世界は私に対して十字架につけられ、私は世界に対して十字架につけられる。世界は私に対して死に、私も世界に対して死ぬのです。なぜでしょうか?なぜなら私は十字架につけられたからです。私たちは十字架の上にいるときに、十字架を誇り、十字架を喜びとすることを学ぶのです。

それはどういう意味でしょうか?それはいつ起こったのでしょうか?いつあなたは十字架につけられたのでしょうか?答えは、ガラテヤ2:20、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」キリストが死なれたとき、私たちも死んだのです。キリストの死の栄光の意味は、主が死なれたとき、主のすべての者が、主にあって死んだということです。主が私たちすべてのために死なれたその死が、私たちが信仰によってキリストと一つとされた時に、私たち自身の死となるのです。

でもあなたは、「私は生きていないのか?生きているように感じるけれど」と言います。ここで、教育が必要なのです。何が私たちに起こったのかを学ばなければなりません。私たちはこれらのことを教えられなければならないのです。そのためガラテヤ2:20と6:14が聖書にあるのです。神は私たちに一体何が起こったのかを教えておられます。そうすれば、自分と、そして私たちとともに働かれる主の方法を知り、喜ばなければならないことである、主と主の御子と十字架に私たちが喜ぶことができるからです。

ですからガラテヤ2:20を読んで、そうです、私たちは死んでおり、そして、そうです、私たちは生きているということを、私たちは再度見るのです。「私はキリストとともに十字架につけられました[それゆえ私は死んでおり、主は生き続けられるのです]。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです[なぜでしょうか?それは、私が死に、つまり、私の古い反抗的な、不信仰な自分が死に、そして主は生き続けられるのです]。いま私が肉にあって生きているのは[ですから、そうです、私は生きているのですが、死んだ『私』と同じ『私』ではありません]、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」言い換えると、生きている「私」は信仰による新しい「私」なのです。新しい被造物は生き続けます。信じる者は生き続けるのです。古い自己はイエス様と共に十字架で死にました。

もし「この現実と連携させているその鍵は何だ?どのようにしてそれが私のものになるんだ?」とあなたが聞いたとします。答えはガラテヤ2:20の信仰に関する言葉のうちに含まれています。「いま私が肉にあって生きているのは、・・・神の御子を信じる信仰によっているのです。」それがつながりです。神があなたを信仰によって、ご自身の御子とつなげてくださいます。そして神がそうなされるとき、神の御子との一致がそこにはあります。それは主の死があなたの死となり、主のいのちがあなたのいのちとなるためです。

さて、ガラテヤ6:14をもう一度最初から見てみましょう。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」十字架以外の何ものをも誇りとしないでください。

それでは私の喜びのすべてが十字架にたどり着くためには、私はどのようにして徹底的に十字架中心になることが出来るでしょうか?答えは、キリストが十字架上で死なれたとき、あなたも死んだということ、またあなたが主を信じたとき、その死があなたの人生で有効化された、ということを認めることです。パウロは、それがあなたの世界に対する死であり、世界のあなたに対する死であると言います。

その意味は、あなたがキリストに信頼するとき、この世に束縛されているあなたの束縛がほどかれ、この世の抗し難い魅力が破壊されるのです。あなたは世界に対し死骸であり、世界はあなたに対し死骸となります。あるいは肯定的に言うと、15節によると、あなたは「新しい創造」です。古いあなたは死んだのです。新しいあなたが生きています。そして新しいあなたは、信仰のあなたです。信仰が喜ぶものはこの世界にはなく、キリスト、特に十字架につけられたキリストにあります。

このようにしてあなたは、パウロとともに、「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と言う、非常に十字架中心な者となるのです。「この世はもう私の宝ではない。それは私のいのちの源でなく、私の満足や喜びでもない。キリストが私の満足であり喜びであられる。」

「それでは車の事故から守られたことはどうでしょうか?保険がおりたことは?あなたはそれを喜んだと言わなかったでしょうか?それはこの世ではないのですか?それではあなたはこの世に対し死んでいるのですか?」

私は死ぬことができます。そのように望みます。なぜならこの世に対し死ぬことは、この世から出て行くことを意味しないからです。またこの世について感じることがらをまったく感じないという意味でもありません。否定的であり、肯定的です(1ヨハネ2:15、1テモテ4:3)。この世の筋の通った喜びはすべて、血で買い取られたキリストの愛の証明と、十字架を誇りとする機会となるのです。お金が自分を満足させてくれるのでなく、十字架につけられたキリスト、お与えくださるお方が自分を満足してくださるお方であるとき、保険がおりることに対し死んでいるのです。私たちの心が恵みの光線をたどって十字架の源に戻って来るとき、この世的恵みは死に、十字架につけられたキリストがすべてとなるのです。

十字架に喜ぶ、それが喜びを教育することの目標です。ああ、神が私たちにキリストと、十字架につけられたお方の栄光のために夢を見させ、計画させ、わざを成させ、与えさせ、教えさせ、生かせてくださいますように。


新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。