神のみこころは何か、そしてどのようにしてそれを知るのか?

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2017年7月20日 (木) 20:18時点における版

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English: What Is the Will of God and How Do We Know It?

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By John Piper About Knowing God's Will
Part of the series Romans: The Greatest Letter Ever Written

Translation by Desiring God


> そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 1

ローマ12:1―2の目標は、人生のすべてが「霊的な礼拝」となることです。1節、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」神の目から見る人の人生全体の目標は、キリストが価値のあるお方として見られることです。礼拝とは、私たちの思いと心と体を用いて、神の価値と、主がイエス様にあって私たちの味方であられるそのすべてを表現することです。それを生きる方法、愛する方法があります。神の価値を表現できるあなたの役割を果たす方法があります。もしその方法を見出すことができないのであるならば、それはあなたが自分の役割を変えなければならないことを意味しているのかも知れません。あるいは起こらなければならない2節が[あなたの内に]起こっていないことを意味するのかも知れません。

2節は、人生のすべてでどのように礼拝にするのかという、パウロの答えです。私たちは変えられなければなりません。外見の態度だけでなく、私たちの感じ方、考え方、つまり、思いが変えられなければならないのです。2節、「心の一新によって自分を変えなさい。」

目次

本来の自分になりなさい

キリスト・イエスを信じる者はすでに、キリストにあって血によって買い取られた、新しく造られた者なのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(2 コリント 5:17). しかし私たちは、本来の自分にならなければなりません。「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです」 (1 コリント 5:7)。

「[あなた方は] 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」(コロサイ3:10)。あなた方はキリストにあって新しくされたのです。そしてあなた方は日々新たにされています。それが先週注目したところです。

今回は2節の最後、すなわち新しくされた心のねらいに注目します。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、[ここでそのねらいです]何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ですから今日は、「神のみこころ」という用語の意味と、どのようにしてそれを見極めるのか、ということに注目します。

神の二つのみこころ

聖書では「神のみこころ」という用語に二つのはっきりした、全く違う意味があります。それらの意味を理解し、どちらの意味がこのローマ12:2で用いられているかをはっきりさせる必要があります。事実、この「神のみこころ」の二つの意味の違いを知ることは、聖書全体の最も大きなそして最もややこしい事の一つ、すなわち、神はすべてを支配しておられるが、それでいて多くの事がらを認めておられない、ということを理解するのに重要です。それは神が起こるよう定められる事がらの中には、主ご自身認めておられないこともあることを意味します。つまり、主が引き起こされる事の中には、ご自身禁じておられることもあるのです。そしてご自身が禁じる事がらをお命じになることもあります。あるいは最も逆説的に言うと、神はある意味意図されない出来事を、別の意味で意図されるのです。

1. 神の定められたみこころ、または主権のみこころ

このように私たちに考えさせるみことばの箇所を、見てみましょう。まず、起こるすべての事がらが、主の主権の支配としての「神のみこころ」であることを言い表す箇所を考えてください。イエス様がゲッセマネで祈られる時に口にされる神のみこころの言い回しは、その最もはっきりしているものの一つです。マタイ26:39で主は、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」と言われます。この節で「神のみこころ」とは一体何を言っているのでしょうか?それは数時間後に起こる神の主権のご計画を言っています。使徒4:27―28でこれをどのように言っているか、思い出してください。「実際ヘロデ[アンテパス](王)と(総督)ポンテオ・ピラトとは、『異教人らや』イスラエル人の『民ども』と共に、『あなたに油を注がれ(救世主として聖別され)た、』あなたの聖なる僕イエスに敵対してこの(エルサレムの)都に集まり、あなたの力強い御心をもって実現しようとあらかじめ定められていたことを、なしとげたからであります。」ですから「神のみこころ」とはイエス様が死なれることだったのです。これが主のご計画で、定められたことです。それは変えられることなく、そしてイエス様は頭を垂れ、「これが私の希望ですが、あなたの最善と思われることを成してください」と言われたのです。それが神の主権のみこころです。

そしてそれが人の罪というとても重要なものをここで含んでいることを、見逃さないでください。ヘロデ、ピラト、兵士ら、ユダヤ教指導者たちー彼らのすべてが神の御子を十字架に付ける(イザヤ53:10)という神のみこころを成就することで、罪を犯したのです。ですから、神はご自身が忌み嫌われる事がらを実現させることを意図される、ということをはっきりさせてください。

以下は1ペテロからの例です。1ペテロ3:17で、ペテロは「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです」と書いています。言い換えると、クリスチャンが良いことをして苦しみを受けるのは、神のみこころかも知れない、と言うことです。彼には迫害が頭にあります。でも迫害を受けるに相当しないクリスチャンの迫害は、罪です。ですのでここで再び、神は罪を含んだ出来事が起こることを時によっては意図されるのです。「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、・・・よいのです。」

パウロはエペソ1:11でこの真理の大まかなまとめの発言をします。「私たちは彼[キリスト]にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」神のみこころとは起こるすべての事がらの神の主権の支配です。そして聖書の他の多くの箇所で、神の全世界の上にある摂理は、自然と人間の決定の小さな詳細に至るまで及ぶと、教えます。一羽のつばめさえ、私たちの天のみ父のお許しなしに地に落ちることはありません(マタイ10:29)。「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」(箴言16:33)。「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる」(箴言16:1)。「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる」(箴言21:1)。

それが神のみこころの第一の意味です。それはすべてにおける神の主権の支配です。私たちはこれを主の「主権のみこころ」とか、主の「定められたみこころ」と呼びます。それは破られることがありません。必ず実現します。「彼[神]は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、『あなたは何をされるのか』と言う者もいない。」(ダニエル4:35)

2. 神のご命令のみこころ

さて、「神のみこころ」の聖書での別の意味は、私たちが主の「ご命令のみこころ」と呼ぶことができるものです。主のみこころとは、主が私たちに行うよう命令されるものです。これは私たちが従わず、また怠ることができる神のみこころです。それを信じようが信じまいが、私たちが行う、定められたみこころです。私たちが怠ることができる、命令のみこころです。例えば、イエス様は「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」(マタイ7:21)と言われました。すべての人が主のみ父のみこころを行うわけではありません。主がそう言われるのです。「すべてのものが天の御国に入るのではない。」なぜでしょうか?それはすべての者が神のみこころを行うわけではないからです。

パウロは1テサロニケ4:3で、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、」と言います。ここで神が私たちに、聖さ、聖化、性的純粋さをご命令になる、その明確な例があります。これは主のご命令のみこころです。しかし、ああ、何と多くのものがそれに従わないことでしょう。

それからパウロは1テサロニケ5:18で、「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること[神のみこころ]です」と言います。再度、すべての事について感謝しなさい、という主のご命令のみこころの、はっきりとした側面です。しかし多くの者がこの神のみこころを行いません。

もう一つ例があります。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」(1ヨハネ2:17)。すべての者がいつまでもながらえるわけではありません。中にはながらえる者もあれば、中にはながらえないものもいます。違いは何でしょうか?中には神のみこころを行う者もいますが、中にはみこころを行わないものもいます。ここでの神のみこころの意味は、それが絶えず起こるわけではないと言うことです。

ですから、これらと聖書の他の多くの箇所から、神のみこころについて語る二つの方法があるということを、結論付けます。両者とも事実で、両者とも理解し信じるのに重要です。一つは神の定められたみこころ(あるいは主の主権のみこころ)と呼ぶことができ、もう一つは神のご命令のみこころと呼ぶことができます。主の定められたみこころは、私たちが信じようが信じまいが、必ず実現します。主のご命令のみこころは破ることができ、そしてそれは毎日破られているのです。

これらの真理の尊さ

これをローマ12:2と関連させる前に、この二つの真理がいかに大切かについてコメントさせてください。両者とも、私たちが深く傷ついているとき、あるいは大切なものを失う体験をしたときに抱える私たちすべての深い必要に、対応します。一方で、神がすべてを支配しておられ、それゆえ私の痛みと喪失のすべてを私の良いことのため、また主を愛するすべての者の良いことのために働かせることがおできになる、という確証が私たちには必要です。もう一方で、神は私たちの気持ちを理解され、私たちの罪や痛みをお喜びにならない、ということを私たちは理解する必要があります。この二つの必要は、神の定められたみこころと主のご命令のみこころと対応します。

たとえば、もしあなたが子どもの頃ひどい虐待を受け、誰かが「それは神のみこころだったと思うかい?」と尋ねたとします。あなたには現在これを聖書的に理解する方法があり、その質問に対し、聖書と矛盾しないような返答をします。「いいえ、それは神のみこころではなかったと思います。なぜなら主は人間が虐待をするのではなく、互いに愛し合うようご命令になるからです。虐待は主のご命令に違反するものであり、それゆえ主の心を動かし、み怒りと悲しみを引き起こします(マルコ3:5)。でも、別の意味では、そうです、それ[私の受けた虐待]は神のみこころ(主権のみこころ)だったのです。なぜなら主は何百通りもの方法でそれを止めることがおできになったはずだからです。私がまだ十分に理解できない理由で、主はそれを止められませんでした」とあなたは言うことができるでしょう。

そしてこの状況では、この二つのみこころに対応する二つの事がらがあなたには必要です。一つはそれを良いことに変えることができるほど強く、権力があられる神、そしてもう一つは、あなたの気持ちを理解してくださる神です。一方でキリストは最高主権者なる王であられ、主のみこころから離れては何事をも起こりません(マタイ28:18)。もう一方で、キリストは憐れみ深い大祭司であられ、私たちの弱さと痛みに同情なさるお方です(ヘブル4:15)。聖霊は主が意図されるとき私たちと私たちの罪に勝利され(ヨハネ1:13、ローマ9:15―16)、主が意図されるとき、ご自身を消され、悲しまれ、怒られるのです(エペソ4:30、1テサロニケ5:19)。主の主権のみこころは揺るぎなく、そして主のご命令のみこころは悲しいほどに反することができるのです。

聖書を理解する上だけでなく、困難の中にあって神にしっかりしがみつくためにも、この両方の真理、両方の神のみこころの理解が私たちには必要です。

ローマ12:2ではどちらのみこころが言及されているのか?

さて、ローマ12:2の、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」では、どちらの神のみこころを意味しているのでしょうか。答えはもちろんのこと、パウロは神のご命令のみこころを言っています。少なくとも二つの理由で私はそう言います。一つは神は主の主権のみこころのほとんどを、私たちが前もって知ることを意図されないと言うことです。「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、・・・私たちの・・・ものである」(申命記29:29)。もし神の定められたみこころの将来の詳細を知りたいのであれば、あなたは一新された心でなく、水晶球(占いに用いる)が欲しいのです。これは変えられること、または従順とは呼ばれません。占いや予言と呼ばれるものです。

ローマ12:2の神のみこころが、神の定められたみこころではなく、ご命令のみこころであると私が言うもう一つの理由は、「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために」という一文が、私たちが神のみこころを認め、それを従順に行うと言う意味を含むからです。でも実際、たとえ神の主権のみこころであったとしても、私たちは罪を認め、あるいは犯すべきではありません。パウロのローマ12:2での意味は、ヘブル5:14でほとんど同じ意味で言い換えられています。「堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ピリピ1:9―11の別の言い換えを見てください。)神が成そうとご計画される隠されたみこころを探し出すことではなく、私たちが成すべき神のすでにあらわされたみこころを見極めること、それがこの節のゴールです。

神のすでにあらわされたみこころを知り行う3つの行程

神のすでにあらわされたみこころ、すなわち、主のご命令のみこころを知り行う3つの工程があります。そしてそれらすべて、前回お話した聖霊にから受けた認識力で一新された心を必要とします。

第一段階

第一に、神のご命令のみこころは、最終的、決定的権威で聖書のみにおいてあらわされています。そしてみことばにある神のご命令が何かを理解し受け入れるため、一新されたこころが私たちには必要です。一新された心なしには、自己否定、愛、きよさ、そしてキリストのみにある最高の充足の究極の命令を避けるため、私たちはみことばを歪めてしまいます。神の権威あるご命令のみこころは聖書だけに見つけることができます。パウロはみことばが霊感を受けたものであり、クリスチャンを「すべての良い働きにふさわしい十分に整えられた者」(2テモテ3:16)とすると言います。良い働きのいくつか、ではありません。「すべての良い働き」です。ああ、いかにクリスチャンが、エネルギーと時間と情熱を、書き記された神のみことばを深く思うことに費やすべきでしょうか。

第二段階

神のご命令のみこころの第二段階は、聖書ではっきりと触れられている、あるいは触れられていないかも知れない新しい状況に、聖書の真理を適応させることです。聖書はあなたにどの人と結婚しなさいとか、どの車を運転しなさいとか、家を購入するべきかとか、どこで休暇を過ごすかとか、どの携帯の契約プランを選びなさいとか、どのメーカーのオレンジジュースを飲みなさいなど、あるいは他の何千という選択しなければならないことがらを言いはしません。

必要なのは、私たちに聖書であらわされた神のみこころによって形作られ、支配された一新された心があり、キリストの思いを持ってすべての関連要因を見、評価すし、神が私たちを何のために召しておられるかを見極めることです。これは神の声があれをしなさいとか、これをしなさいと言うのを常に聞こうとすることと随分違います。声を聞くことによって自分の人生を導こうとする人は、ローマ12:2と同期化していません。

一方で、神のみことばをどのようにして適用させるかを見極めるために一新された心を[与えてくださいと]祈ってそのために努力することと、もう一方で、何をすべきか神に新しい啓示をお与えくださいと求める癖とでは、雲泥の差があります。占いには変化は必要ありません。神の目標は当たららしい情報だけでなく、新しい心、新しい考え方と判断の仕方です。主の目標は私たちが変えられ、聖められ、主のあらわされたみことばの真理によって解放されることです(ヨハネ8:32、17:17)。ですから神のご命令のみこころの第二段階は、一新された心によってみことばを新しい状況に適用することのできる認識力です。

第三段階

最後に、神のご命令のみこころの第三段階は、生活の大部分である、行動を起こす前の意識的じっくり考えることがないところです。あえて言いますが、あなたの行動の95%はあらかじめ考えていないでしょう。つまり、あなたの思い、態度、行動の大半は、自発的です。それらは内側のものがあふれ出しただけです。イエス様は、「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません」(マタイ12:34―36)と言います。

私はなぜこれを神のご命令のみこころの一部と呼ぶのでしょうか?一つ理由があります。それは神が、憤ってはならない、高ぶってはならない、人のものを欲しがってはならない、わずらってはならない、ねたんではならない、うらやんではならないと言うような事がらをご命令になるからです。そしてそれらの行動はどれも、あらかじめ考えて起こすものではありません。憤り、高ぶり、貪欲、わずらい、嫉妬、ねたみ、それらはすべて、意識的に考えることや意図することなしに、心から沸き起こります。私たちはそれらのもののゆえに、有罪です。それらは神のご命令に反するものです。

それゆえクリスチャン人生の大きな課題、つまり、心の一新によって自分を変える、というのは単純ではありません。新しい心と新しい思いが必要です。木を良くすれば、実が良くなるのです(マタイ12:33)。それは大きなチャレンジです。それが神があなたを召しておられることです。あなたは自分でそれを成すことができません。あなたの罪のために死んでくださったキリストが必要です。そしてキリストを高める真理にあなたを導き、真理を受け入れる謙遜をあなたのうちに働かせてくださる聖霊が必要です。

これに自分自身をささげてください。書き記された神のみことばにどっぷり浸ってください。みことばで自分の思いをいっぱいにしてください。そしてキリストの御霊が、あなたの内側からあふれ出てくるものが良いもので、受け入れられ、完全なもの、つまり神のみこころであるほどあなたを新しくしてくださるよう、祈ってください。

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1 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用