苦み喜ぶことに召されている(私たち):重い永遠の栄光のため

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2015年12月3日 (木) 12:50 時点における最新版

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English: Called to Suffer and Rejoice: For an Eternal Weight of Glory

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By John Piper About Suffering
Part of the series Called to Suffer and Rejoice

Translation by Desiring God

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。13 「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 1

16節では今朝ここにいる誰もが体験したいと思うようなことを言っています。「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」とパウロは言います。誰もが欲しいと思うことと、誰も欲しいと思わないことが、そこにはあります。

目次

誰もが欲しいと思うことと誰も欲しいと思わないこと

今朝ここにいる誰も、勇気を失いたいとは思いません。ここに来て、「自分の勇気を失うような賛美を歌ったり説教を聴いたりすることを願うよ。ジョン師が今朝言うことで、本当に気を落としたいんだ」という人は誰もいません。あなたがたの中にはいないでしょう。生きているこの心をこてんぱんにやっつけられたいと思う人はいません。パウロも同様でした。

逆に誰もが内側から日々新たにされたいと願います。エネルギーや新しさや希望や活力や勇気や生きることへの熱意という感情はしばらくは続きますが、次第になくなっていくと言うことを私たちはみんな知っています。もし私たちが内面的に強くなり、希望と喜びと底力と愛を持つためには、日々新たにされなければならないのです。私たちはそれを知っています。人生は無変化で無変動なものではありません。絶えず上がり下がり、また上がりがあります。一杯になり渇き、また一杯になります。新たにされて疲れ切って、疲れ切ってまた新たにされるのです。そして誰もが新たな力を求めるのです。誰も渇いて空っぽで落ち込んだ谷に取り残されたいと思いません。もし日々絶えず強くされ、希望に満ち、喜びにあふれ、愛にあふれる秘訣があるとしたら、私たちは興味があります。

「ですから」そして「なぜならば」、二つの重要な言葉

それはこの聖書箇所で二つのことばに注意を払わなければならないことを意味します。16節の最初の、「ですから」と言う言葉と、17節の最初の、「なぜならば」という言葉です。 2 なぜそれらは重要なのでしょうか?

三角形の頂点としての16節

16節を、両サイドから支えられている三角形の頂点として頭の中で描いてください。この、「私たちは勇気を失いません。・・・内なる人は日々新たにされています」という二つの文章が、私たちの切望を支えています。それを言うことができ、また本気でそう思うことができたらーそれが私たちのすべてが今朝願うものです。

16節、「私たちは勇気を失いません。日々新たにされています。」

頂点を一サイドから支える7―15節

「ですから」という16節の最初の言葉は、パウロがこの体験に導かれそれを支持する何かをこれまで述べて来たことを意味しています。7―15節で、「これは本当であり、これも本当。そしてこれも本当、」「ですから、私たちは勇気を失いません。・・・なぜなら、私たちは日々新たにされています。」ですので三角形の第一の直線は、この体験に至り、それを支持する7―15節です。私たちはここで注意を払い、それが一体何なのか、それらの節を探るべきです。それは私たちに対し言っていることでもあるかも知れません!

別のサイドから頂点を支える17―18節

その後の節(17節)の最初の「なぜならば」という言葉は、パウロが16節の理由になる何かを述べようとしていることを意味します。「私たちは勇気を失いません。内なる人は日々新たにされています。」なぜならば、これは本当であり、これも本当。そしてこれも本当だからです。ですから三角形の反対側にある第二の直線は、彼がつい先ほどを描いた体験を支持する、17―18節の真理です。

それを見ることができますか?私たちが切望する体験は、両側から支えられたこの三角形の頂点に座っているのです。7―15節は本当です、「ですから、私たちは勇気を失いません。内なる人は日々新たにされています。」それが一サイドです。「私たちは勇気を失いません。内なる人は日々新たにされています、」なぜならば、17―18節は本当だからです。

と言うことで、私たちのねらいは、この三角形の両側面を見て、そしてパウロを支えた真理を、私たちを支える真理とすることです。

16節は苦しみの真っ只中で起こる

でもまず、一つ短い見解があります。16節では、勇気を失わないことと日々新たにされることは、苦しみの真っ只中にあって起こるということを認めています。「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」パウロは自分が死に行くと言うこと、またすべての人が死に行くと言うことを知っていました。彼はすさまじい苦しみを体験し、その中で自分の地上の命が朽ちまた衰えて行くのを見ました。そこには弱さと病、傷、患難、抑圧、いら立ち、そして落胆がありました。そしてそれら一つ一つが彼の命をむしばんだのです。それを一言で言うと、「死は私のうちに働き」(12節参照)です。

それが「私たちは勇気を失いません。・・・日々新たにされています」と言う、その背景でした。ですから私たちが自問しているのは、「どのようにしたら人生で勇気を失わないでいることができるだろう?」あるいは「どのようにしたら日々新たにされることができるだろう?」という質問だけでなく、「どのようにしたら勇気を失わずに苦しむ用意をすることができるだろう?」「いかにしてこの衰えいく体、地上で失われて行く命を受け入れ、同時に勇気を失わず、むしろ愛の行いを持って終わらせることを喜ぶその喜びで新たにされる、内なる強さを見出すことができるだろう?」です。

ここで、私たちはこれに対するパウロの答えを見る準備ができました。まず7―15節を、そして17―18節を見て行きます。

7–15節: 勇気を失わない4つの理由

7–15節では、「ですから、私たちは勇気を失いません」とパウロに言わせる4つの理由があります。そしてその一つ一つが彼自身の地上での命が衰えて行くその重要性を考慮に入れています。 ですからこれらの節で彼がしているのは、自分の外なる人が朽ち、また衰えつつあるにも関わらず、それゆえなおさらのこと、本当であることを見せようとしているのです。

1. 神の力と神の御子の賛美

まず、彼の外なる人は衰え行きますが、この苦しみのうちに、またこの苦しみを通して、神の力と神の御子のいのちが現され、たたえられています。

7節、「私たちは、この宝を、土の器[すなわち朽ちる、弱い、外なる人]、に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」それゆえ、私たちは勇気を失いません。それは神の力が私たちの弱さのうちにたたえられているからです。

10節、「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが[外なる人が衰えるその一面です]、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」ですから、私たちは勇気を失いません。それは神の御子のいのちが私たちの日々の死においてあがめられているからです。

11節、「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」ですから、私たちは勇気を失いません。それは神の御子のいのちが、私たちの衰えゆく体において現され、たたえられているからです。

ですから自分の外なる人が衰え行くにあたり、パウロが勇気を失わない第一の理由は、自分の弱さと自分が他人のために日々死に渡されることのうちに、神の力と神の御子のいのちがたたえられ、そしてそれこそ、パウロが何よりも愛することであると言うことです。

2. 教会を力づける

第二に、彼の外なる人は衰えつつありますが、この苦しみのうちに、そして苦しみを通して、教会に対して彼からいのちがあふれ出ています。クリスチャンはパウロが弱くさせられることによって、強められるのです。

12節、「こうして、死は私のうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。」ですから、私たちは勇気を失いません。それは神がたたえられているからだけでなく、あなたがた私の愛する者たちが、いのちと力と望みを受けているからです。

15節、「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人に[パウロの彼らのための苦しみを通して]及んで、感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。」それゆえ、私たちは勇気を失いません。それは(15節では最初の二つの理由がまとめられていることに注目してください)、私の苦しみの奉仕のうちに、あなた方に恵みが及んでおり、栄光が神に帰されているからです。恵みを他の人々にもたらすことと、栄光を神にお返しすること、これがパウロの人生の二つの大きな愛です。そしてこの節で、この二つはまさにその同じ体験の中で起こると言っています。それゆえ、パウロは勇気を失わないのです。

3. 神の支えの臨在

第三に、彼の外なる人は衰え行きますが、この苦しみのうちに、またこの苦しみを通して、神は彼が苦しみに打ち負かされないように彼を支えてくださいます。

8–9節(これらのペアの一つ一つで彼が実際に言っているのは、「そうです、私たちの外なる人は衰え行きますが、しかし、いいえ、私たちは勇気を失いません」と言うことに注目してください)、「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きるまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」ですから、私たちは勇気を失いません。それは神が私たちが打ち負かされないように支えてくださるからです。

4. 私たちの死からのよみがえり

第四に、彼の外なる人は衰え行きますが、彼は教会と共に死からよみがえらされ、イエス様とともにいるようになります。

14節、「[私たちは]主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。」ですから、私たちは勇気を失いません。それはすべてのことが益となるからです。死さえもストーリーを悪い結末にすることはできません。私は再び生きるのです。私の愛する人々であるあなたがたと再び生きるのです。イエス様と共に生き、主の栄光を永遠に永久まで、分かち合うのです。

ですから・・・それが、勇気を失わないどころか、日々新たにされるという素晴らしい体験を支持する、三角形の第一の側面(7―15節)です。

1. 私は日々新たにされています。それは神の力と神の御子のいのちが私の衰えゆく弱さのうちに現され、たたえられているからです。 2. 私は日々新たにされています。それは私の苦しみからいのちが溢れ出て、私が心から愛する教会へと流れているからです。 3. 私は日々新たにされています。それは神が苦しみのうちに私を支えてくださり、それに負けないようにしてくださるからです。 4. 私は日々新たにされています。それはあなたと共に、そしてイエス様と共に永遠に永久まで生きるため、私は死からよみがえらせられることを知っているからです。

ですから、私は勇気を失いません!

17–18節: 勇気を失わない4つの理由

それでは16節のパウロの素晴らしい体験を支持する、三角形の反対側の直線、すなわち、17―18節を見てみましょう。彼は勇気を失いません。また日々新たにされています。それは、17―18節が本当だからです。再び自分の外なる人は朽ちゆくとも、自分の弱さ、病、傷、患難にも関わらず、パウロが勇気を失わない4つの理由です。

1. 今の時の患難

彼は勇気を失いません、それは彼の患難は一時的だからです。

17節、「今の時の軽い患難は・・・」これは患難が60秒間だけである、と言っているのではありません。それがただ生涯(千年王国の無数の時代に比べるとそれは一時的です)で続くだけで、それまでです。それは「今の時」を意味しますが、つまり、「今の時の患難」で、この現在の生涯を超えて続く患難ではありません。私は勇気を失いません。それは、私の患難がいずれ終わるからです。それは私の人生の最終的決定権を持っていません。

2. 軽い患難

彼は勇気を失いません。それは、彼の患難は軽いからです。

17節、「今の時の軽い患難は・・・」これは現代の快適な生活を送るアメリカ人の判断ではありません。これはパウロ自身の判断です。また、パウロは2コリント11:23―27で言うことを忘れてしまっているわけでもありません。

「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」

パウロが自分の患難は軽いと言うとき、それは簡単であるとか痛みがないと言っているのではありません。来るべきものに比べると、それらは何でもないと言っているのです。来るべき重い栄光に比べると、それらは計りの上の羽のようなものです。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」(ローマ8:18)。ですから、私は勇気を失いません。それは私の患難は軽いからです。

3. 重い永遠の栄光

彼は勇気を失いません。それは、その患難はパウロに、測り知れない、重い永遠の栄光を実際にもたらしているからです。

17節、「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」パウロにもたらすのは、一時的でない、永遠のものです。それは軽くなく、重いものです。それは患難ではなく、栄光です。そしてそれは測り知れないものです。目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの、神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうです(1コリント2:9)。

ポイントは、患難がただ単に栄光に先行すると言うことではありません。それが栄光をもたらすと言うことです。私たちがいかに現在の困難を耐え抜くかと言うことと、私たちが来るべき時代にいかに神の栄光を楽しむことができるかと言うことの間に、実際の因果関係があります。痛みを耐え抜くその一秒たりとも、無駄ではありません。ですから、私は勇気を失いません。・・・それは、私の困難のすべてが、測り知れない、重い永遠の栄光を、私にもたらすからです。

4. 来るべき、目に見えない、永遠の栄光

パウロは勇気を失いません。それは、彼が目に見えない、来るべき永遠の栄光を熱望してやまないからです。

18節、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。」神はあなたが勇気を失わないように、また日々新しくされるように、この全世界の栄光のすべてをお与えくださるかも知れませんが、もしあなたがそれを見ないなら、何も起こりません。

神の惜しみない招き

事実それがこの説教で今神が成しておられることです。この聖書箇所は、あなたが勇気を失う必要のない理由のすべて、あなたが日々新しくされることができる理由のすべてをあなたに見せるための、神の惜しみない招きの一つです。

ですから、見てください! 注目してください! 思いめぐらしてください! それらを考えてみてください! 神が言っておられることを信じてください。そうすればあなたは勇気を失うことはありません。それどころか、あなたの内なる人は日々新たにされます。

***

1 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。

2 新改訳では17節の「なぜならば」ということばが省略されてあるが、岩波翻訳委員会訳では「なぜならば」、または口語訳では「なぜなら」とあり、原文に近い。