「神の栄光の現れ、/長老

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By Mark Dever About Church Government
Chapter 3 of the book 「神の栄光の現れ、

Translation by 9Marks

執事職同様重要であり、キリスト者として共に生きるうえでより本質 的な務めが、もう一つの群の働きであり、今からみる- 長老たちです。

Ⅰ . 長老の複数性

地域教会における長老について、まず最初に言及すべきことは、彼 ら長老たちが複数形で存在するという点です。特定の会衆に対して、 長老の数は明確には述べられてはいませんが、新約聖書は一様に「長 老」を複数形で表しています( 例: 使徒16:4 ; 20:17 ; 21:18 ; テトス1:5 ; ヤコブ5:14)。福音書や使徒の働きの中で言及されるイスラエルの長老 たちも複数形です。天における長老たちも複数形です( 黙示 5:14 ; 11:16 ; 19:4 )。使徒1 1 章3 0 節で、長老は複数です。使徒1 4 章1 節から2 3 節で、「彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子として から、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たち の心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、・・・パウロとバ ルナバは彼らのために教会ごとに長老を任命し〔又は選び〕、断食して 祈った後、彼らをその信じていた主にゆだねた」とあります。もし使 徒1 5 章を通して見るならば、2 節、4 節、6 節と2 3 節でそれぞれ複数 形で長老が用いられているのがわかります。使徒1 6 章4 節で、長老と いう単語は複数形で表れています。使徒2 0 章1 7 節では、パウロが自 分自身をエペソの教会の長老を呼んでいます。使徒2 0 章2 8 節や、 テモテ4 章1 4 節、5 章1 7 節なども同様です。テトス1 章5 節では、パ ウロは次のように述べています。「私があなたをクレテに残したのは、 あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町 ごとに長老たちを任命するためでした… 」。ヤゴブ5 章1 4 節でヤコブ は、地域教会( 単数) の長老たち( 複数形) が病気の人のために祈り に来る様子を描いています。 ペテロ5 章1 節では、ペテロは彼らキ リスト者の中にいる長老たちに訴えかけています。実は、唯一の例外 が、第二、第三ヨハネにあります。そこでは作者は単に自らを「長老」 と言及し、 テモテ5 章では、もし長老に対する訴えがでた場合に、 どのように対処すべきかについて教会の判例が挙げられています。し かしながら基本的に新約聖書における状況は、地域教会の中には一人 の長老ではなく、通常長老たちの群れが存在していたということです。

Ⅱ .長老の資格

だれが長老になるべきでしょうか? 彼らの資格はどのようなもので あるべきでしょうか? 長老たちに対する資格は、聖書の テモテ3 章 とテトス1 章に明確に記されています。

テモテ3 章を見る前に、 テモテ2 章で挙げられている重要な問 題について注意を払う必要があります。それは、女性が長老として仕 えることは神の御心ではないということです。 テモテ2 章の曖昧な 表現をめぐっては、多くの質問が投げかけられてきました。常に安全 な方策は、曖昧な部分があるからと言ってすでに明確なところを疑う のではなく、聖書の明確な箇所から始めて、神がより曖昧なところに 光を当ててくださるよう祈ることにあります。 テモテ2 章において 明確なことは、女性は教えたり、男性の上に権威を持つべきではない ということでした。パウロがここで不適切であると言わんとしている 正確な権威が何であろうとも、女性が教えることが含まれていること は明らかです。初代教会における慣例は、夫が妻を支配するという創 造の秩序がそのまま教会において慣例となっている、ということです。 ガラテヤ3 章2 8 節で明らかなことは、キリストにあっては男も女もな いということです。しかしながらこのことは、男女の間の性における すべての区別を無視するものではなく、かえって、救いにおける神の 恵みのすばらしく公平なことを単に確認しているのだと捉えます。

以上のことを踏まえて、 テモテ3 章を見てみましょう。しばらく 時間を取って、 テモテ3 章1 節から7 節を読んでください。D. A . カーソン( トリニティ神学校の新約学の教授) はかつて、このリスト に載っている特徴は、全く注目に値しないという点で、最も注目に値 すると述べています。彼が言わんとすることは、これらすべての特徴 は聖書のあらゆるところにおいて、キリスト者全員に課せられている ことであります- すなわち、教える能力( テモテ3 : 2) 以外のすべて は。聖書はここで長老の特徴について十分な位に私たちに教えていま すが、パウロがこのリストを完全なものであると主張しているとは私 には思えません。むしろ彼の目的は、当時の周囲の文化からも道徳的 であるとみなされる一般的な特徴を羅列しただけであると考えます。

教会における指導者の目的は、外部の人たちに真理を推薦すること で、神に栄光を帰することです。このことは、パウロがコリントの教 会において互いの争いをこの世の裁判所に訴え出て、甚だしく不品行 な生活を送る者たちが教会と交際するのを許していることを怒った理 由でもあります。これらのことは両方とも福音の証言を台無しにする ことでしょう。従ってパウロは テモテで、エペソ教会で幾人かの偽 教師の明らかな不信仰によって、赦しと希望の福音の宣言、そして罪 人の回心という教会を通して現される神の栄光を徹底的に危険にさら されていることを指摘するのです。パウロが テモテ3 章( またはテ トス1 章) で挙げている徳のリストは、キリスト者が現すべきすべて ではないのです。それらは、教会指導者たちを監督する立場にある人々 へ、福音を委託したところの徳です。規則正しい聖書朗読は良いこと ですし、祈りは必要です。しかし、パウロがここで述べていることは、 そのどちらでもないのです。それにもかかわらず、私は自分の教会の 長老たちにはそれらの徳の両方を備えてもらいたいと思います。聖書 の他のところで私が教えられてきたことは、それらの徳はすべてのキ リスト者を描写するためであり、ここでパウロが言わんとしているこ とは、私が思うに、時間どおりにお金を払うとか、いつも喜んでいる とか、謙虚で人の役に立つとか- 異教徒でさえも良いと認める事柄を、 彼は強調したかったのではないでしょうか。

では、どのようにして自分の教会でそのような指導者を見つけ出せ ばいいのでしょうか? 私たちは、このことにおいて神の知恵があるよ うに祈ります。私たちは、特にそのような責任についての資格が教え られている テモテとテトスの箇所を学びたいと思います。指導者を 選ぶ際に、私たちはこの世の基準には従いません。ある教会が実際に 行っているような、単に会衆の中に地域の指導者を見つけ、そのまま 教会の指導者にするような真似はすべきではありません。オズ・ギネ スが彼の著書「Dining with Devil」の中で、日本人ビジネスマンが 滞在中のオーストリア人に言ったコメントを詳しく紹介しています: 「仏教指導者に会う時はいつも、私は聖職者に会います。キリスト教 の指導者に会う時はいつも、経営者に会うのです」( p . 4 9 )。その代わ りに、私たちは、人格者で、評判がよく、御言葉を論じる能力があり、 教会の中でよい指導者として特徴付けている豊かな実を備えている人 物を探すべきです。これら教会指導者の特色は、彼ら自身の上にでは なく、他者の上に建てられるということです。従って、彼らはお金に 無欲であり、かえって知らない人をもてなし- まさにそれが「温かく もてなす」の字義的意味でもあります。真の教会指導者は、他者中心 であるべきなのです。

Ⅲ . 歴史的概観

すべての教会が、たとえ異なる名前で呼ばれていても、長老の働き をする個々人を擁しています。この職務に対する新約聖書の最も一般 的な名前は、episcopos (監督)とpresbuteros( 長老) です。

今日福音派が単語で「長老」と聞くと、多くの人はすぐに「プレス ビテリェン( 長老教会派の)」を思い浮かべることでしょう。しかしな がら、1 6 世紀の最初の組合教会主義者たちは、長老職が新約聖書の教 会におけるひとつの職務であると教えられました。長老を長老派と関 連させるのは歴史的には正確ですが、もっぱら長老派だけに関連させ るのは正確でありません。またその単語がバプテスト派にとって、無 関係であると考えることも正しくありません。

長老職は、1 8 世紀中から1 9 世紀にかけてアメリカのバプテスト派教 会に見つけることができます。1 南部バプテスト会議の初代議長であっ たW . B .ジョンソンが教会生活について記した本の中で、彼はひとつの 地域教会において複数の長老職が存在する考えを強く主張しました。 それが聖書に無関心なせいであろうと、又はフロンティア( 未開拓地 域) の生活の多忙のためか( 驚くべき速度で成長する教会! )、そのよ うな聖書的リーダーシップ( textured leadership) を奨励する習慣が 衰退してきました。しかしバプテスト派の論文の中で、この聖書的な 職務を復活させようとする議論が継続しました。遅くても2 0 世紀初頭 には、バプテストの出版物は、指導者を「長老」という名称で言及し ています。この慣例は今日のバプテスト派教会の間で一風変わったも のにもかかわらず、そこに戻ろうとする傾向がみられるのです- そし てそれにはもっともな理由が存在します。それは新約聖書の時代の教 会に長老が必要であったように、今も必要だからです。

ではまず最初に長老と教会スタッフとの区別をし、次に執事、さら に牧師とほかの長老たちとの関係について見ていくことで、長老とは どういう意味か明確にしたいと思います。

Ⅳ . 長老と教会スタッフとの関係

現代の多くの教会で、長老と教会スタッフを混同する傾向が見られ ました。スタッフとは、教会がその働きのために常勤で雇われている 人々のことを指します。彼らはしばしば日々起こる事柄について最も 精通しています。彼らの多くは神学教育を受けており、ある程度の信 仰と成熟を備えていなければなりません。そうでなければそもそも彼 らが雇われることはないはずです。勿論教会スタッフのメンバーが長 老であるかもしれません。実は、私たちの教会憲法には、その人物が 直ちに長老として認知される者でなければ、牧師として招聘すること はできない、と規定してあるのです。それは、賢い規定であると私は 考えます。しかしながら同じ教会憲法によって長老の過半数は、教会 で雇われていない者で構成されるよう規定されているのです。例えば、 私たちの牧会アシスタント( 若い男性で、働きに有用で、すぐにでも 神学校を目指して進みそうな人物) は大抵の場合、長老としては認知 されていません。しかし彼らは教えることから教会員の訪問まで、す べてにおいて私たちにすばらしいケアを与えてくれています。私たち がこの規定を教会憲法に含める理由は、ただ単に長老たちを雇うとい うことだけではなく、彼らを私たちの中から見つけ出せる位、霊的に 豊かな実が結べるよう努力をすることで、私たちが会衆として確かに その責任の重さを実感することができるよう願っているからです。現 在私たちの教会で長老として認められている5 人のうち、3 人はこの 世の仕事をもち、牧師の私と教会管理者の二人だけが、教会に有給で 雇われています。

Ⅴ . 長老と執事の関係

教理の面においてでなく実際に、多くの教会が新約聖書の執事と長 老の役割を混同してきました。今まで見てきたように、執事職の関心 事は、教会生活の実際的な事柄であり、管理、補修と物質的な必要に 伴う教会員の世話である- それらすべてが教会の一致と御言葉の働き を促進するためにあるのです。

テモテ3 章の長老と執事に対する資格のリストの比較で最も顕著 なのは、それらの違いではなく類似点です。監督( 長老) と執事の両 方ともに評判が良く、非難されるところがなく、信頼に値し、ひとり の妻の夫であり、酒飲みでなく、慎み深く、寛容な人でなければなり ません。実際は、それら二つのリストの特徴があまりにも似ているの で、顕著なのは、パウロと初期のキリスト者たちが、二つの別々の指 導者の群れを明確に認識していた、ということです。

使徒6 章では、執事と長老の役割と責任の区別の根拠を見てきまし た。使徒6 章2 節では、エルサレムの教会で不平不満が始まった後に、 「なので1 2 使徒が弟子たち全員を集めて言った、『わたしたちが神の ことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません』」 ここから、神の御言葉の務めは長老の責任の中心である、と言うこと ができます。それは、まさに教会にとって絶対的に中心的なことなの です。使徒6 章4 節でもう一度特色付けられているのは、「私たちは、 もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」ということです。 彼らは、字義的には、みことばの執事と言うことができます。このこ とは、後にみます使徒1 5 章ともぴったり適合し、使徒2 0 章でも再び 登場、そして長老は教える能力がなければならない、という資格にお いても同様なのです。長老の役割は、基本的に神のみことばを教える ことで、神の民を導くことなのです。この教えは神のみことばの公の 取り扱いと、みことばが導くところの模範的な生き方によってなされ るのです。

この特徴を要約すると、長老たちの権威は彼らの教える務めと直接 的に関係しています。彼は牧師/ 羊飼いとなるように求められている のです。長老である私たちは、監督として仕えるよう求められていま す。使徒6 章で、長老たちが集会において何か提案しています。Ⅰ テ モテ5 章でパウロは、長老のことを「教会の事を指導し」「みことば と教える者」として言及しています。しかしながら長老たちの役割は 第一に、忍耐強くかつ注意深く教えることで彼らを導くことにあるの です。長老職と執事職の役割を再度明確することで、多くの教会が多 大な益を受けることになるでしょう。

Ⅵ .長老と牧師の関係

もしあなたが次のような質問をするとします。「聖書は、長老制の中 に、またはそれに付随して、主任牧師という立場について何か教えて いますか? 」質問に対する答えは「いいえ、直接にはない」です。そ うは言っても私たちは、長老の中に教会の主要な公の教師としての明 確な役割を見つけることができると思います。

「牧師」という語は新国際版( NIV) のエペソ4 章1 1 節で、教会に 対する神の賜物リスト( 教師とペアで) にのみに登場します。英語の 「パスター( Pastor)」という単語の背後には、ギリシャ語のポイメナ スという単語があり、それは「シェパード( Shepard )」( 羊飼い/ 牧師) と関連しています。そしてこのシェパードと関連する単語が何度か出 てくるのですが( 例:Ⅰ ペテロ5:2 、使徒20:28)、しかしこれらの例は いずれも、長老と別々の立場であると示している箇所ではありません。 なるほど使徒2 0 章1 7 節、2 8 節では「長老」、「監督」( Bishop )、そし て「シェパード」( 牧師) がすべて同じグループの人々のことを指し、 交代可能な形で用いられているのです。

それでは次に、新約聖書において私が考える4 つの役割を挙げてみ たいと思います。

  1. 新約聖書の中にも、長老として仕えながら、場所から場所へと 移動する( テモテやテトスのような) 幾人かの者たちや、移動は しないが長老として働く( 恐らくテトス( テトス1 章5 節) のよ うに町ごとに任命する) 者たちが存在しました。このように、テ モテは外部から来ましたが、他の長老たちは地域教会の内部から 任命された者たちでした。
  2. 長老の幾人かは会衆によって常勤で支援を受けており( 参照: Ⅰ テモテ5:17-18 ,ピリピ4:15-18 )、別の仕事をしている( パウ ロがしばしば最初にある地域に福音を定着させる際に行ったよう に) 者たちもいました。しかしながらある者は、テトスがクレテ で任命した長老たちの全員が常勤で雇われていたとは考えません。
  3. 使徒の働きから私たちは、エペソの教会にも他に長老たちが存 在していたことが分かっていますが、パウロがテモテだけに、教 会宛ての指示を書き送っていたことは興味深いことです。けれど も、テモテはある意味彼らの間でユニークな働きを担っていたと も言えます。
  4. 最後に、黙示録2 章と3 章にある7 つの教会宛のイエスの手紙 は、それぞれの教会の説教者( 単数形)に宛てて記されています。

勿論、これらは厳格な命令ではありませんが、それらは私たちが実 際に行っていることとも一致します。それは、必ずしも自分たちの共 同体の中からである必要はありませんが、長老たちの中から少なくと も一人( あるいはもっと多く) をより分け、支援をし、彼に教会にお ける主要な教えの責任を与えることです。

しかし、説教者または牧師は基本的に会衆の長老たちの一人でもあ る、ということを覚えておく必要があります。私の牧会上の働きで、 最も助けとなったことを一つ挙げるとすれば、それは他の長老たちを 承認することでした。私と一緒にほかの長老たちが行う奉仕は、計り 知れない恩恵を与えてくれました。複数の長老の存在は、牧師の賜物 を完成させ、欠点や判断を補い、教会内の決議に際して支援を作り出 し、指導者たちが不当な批判にさらされる機会を減らすことで教会を 助けるべきです。そのような複数長老性が指導者の地位をより根付か せ永続したものにし、より成熟した連続性を教会に与えるのです。そ してそのことは、教会が自分たちの教会員の霊的成長のために責任を より自覚し、教会の専任スタッフに依存しすぎないようにもさせてい ます。ワシントンにある私たちの教会は、神が与えてくださった長老 という賜物のゆえに、これらの恩恵とそれ以上のものを享受している のです。

Ⅶ . 長老と教会の関係

この件に関して後ほどより詳しく、会衆教会主義について考える時 に取り扱うことにします。一般的に長老と彼らが仕える地域の会衆と の関係は、神の特性の多くのしるしや神への相互信頼によって特徴付 けられるべきものです。

ここで上記関係を特徴付ける5 つ- 承認、信頼、信心深さ、用心深 さと結果、について述べたいと思います。

1 ) 明確な承認

長老たちは教会のために神から賦与された賜物を、教会によって承 認されるべきです。教会はそれゆえに自分たちを教え導く任務を、彼 らに委任すべきなのです。それらの任務は、長老たちが明らかに聖書 とは反対のことを行った時にのみ撤回される種類のものです。そして 彼らにとっては、長老たちは、神が与えた教会における権威を認めな ければなりません( 例: マタイ1 8 章; コリント5 章、 コリント2 章)。

2 ) 心からの信頼

教会は、長老たちを信頼し、守り、尊重し、そして尊敬すべきです。 パウロが テモテ5 章1 7 節で次のように記しています。「よく指導の 任に当たっている長老は、二重の尊敬を受けるにふさわしいとしなさ い。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」 老たちは、教会の問題に対し監督し、教会は彼らの指導に服従すべき です。へブル1 3 章1 7 節で、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞 き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなた がたのたましいのための見張りをしているのです。ですから、この人 たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることのならないようにしなさ い。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」

3 ) 明白な信仰深さ

パウロが記したテモテとテトスの手紙の中で私たちは、長老たちに 対して「非難されるところがなく」と強調されているのを見ました( テ トス1 : 6 節でパウロは「長老は、非難されるところがなく、ひとりの 妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であった りしない信者であることが条件です」)。それゆえ長老職に就く者は、 自分の生活が視察にオープンであり、そして家が外部の人に積極的に 開放されていて、もてなしを与え、他者を自分たちの生活に喜んで受 け入れるべきなのです。

4 ) 誠実な用心深さ

長老たちは、彼らに与えられた権威の用い方によって明らかにされ るべきです。そのことで、長老たちは教会が彼らに属するのではなく、 キリストに属するものであることを理解しているかが分かるからです。 キリストは、その御血潮によって教会を買い取られました。それゆえ 教会は教会の益の中で、神の栄光のために、育成され、慎重かつやさ しく扱われ、信仰によって純粋に導かれるべきであるのです。長老た ちは彼らの奉仕について、キリストにその説明責任があるのです。

5 ) 有益な結果

家庭においても、または私たちの神様との関係においても、正しい 権威の謙虚な認識は、益をもたらすものです。教会においては、会衆 の同意のもとに教会の益のために権威が用いられるならば、会衆は神 がお与えになった教師を通して、神が彼の教会を建て上げるという益 を享受します。サタンの嘘は- その権威は決して信頼されることはあ りません。なぜならそれは常に非道で圧制的なので- 会衆の文脈にお ける長老の権威の認知と、慈悲深い履行によって覆されるでしょう。

エドワード・グリフィン( 1770年~1837年) が彼の長年の教会奉仕 から引退する時、彼は、牧師だけではなく( グリフィンが意図したよ うに)、実に神様が私たちに長老としてお与えくださった、彼らすべて の人々をどのように尊重すべきかについて、いくつかの示唆に富む言 葉でもって会衆に熱心に勧めています。

あなたがたとあなたがたの子どもたちのために、あなたがたが自分 たちの牧師として選んだ彼を育て、尊敬しなさい。彼はすでにあなた がたを愛しておられ、彼はしばらくすると「私の骨の骨、肉の肉」と してあなたがたを愛するようになるでしょう。牧師の働きが彼にとっ て限りなく喜びとなるようするのも、同じようにあなたがたの義務で あり関心となるでしょう。あまり多くを要求しないようにしなさい。 訪問を頻繁に求めないようにしなさい。このように彼が求めに応じて 半分の時間を費やすなら、もし早々と重荷によって潰れなければ、彼 は自分の学びをすっかり疎かにせざろう得ないでしょう。牧師に対し て言われているすべての不親切な事柄は、彼に報告してはいけません。 もし反対者が現れたら、たとえ頻繁でなくても彼の面前で彼らにそれ となく言及しなさい。彼はキリストの牧師ではあるが、彼は人の感情 を持ち合わせていることを考慮しなさい。2

Ⅷ .権威の賜物 今まで見てきた中で見逃してならないことは、指導者として奉仕す ることは大きな特権だということです。ある人々は忙しすぎると感じ るかもしれません。またはそのような働きは全く価値がないと考える かもしれません。私は俳優のゲーリー・クーパーが述べた次の言葉を 思い出ました:「私は無惨に失敗したのが、ゲーリー・クーパーでなく クラーク・ゲイブルであることをただ嬉しく思う」。これは、クーパー が「風とともに去りぬ」の主役の座を断った時に述べたとされること ばです。私たちが考えてきたことは、この世の名声や富をもたらすい かなることよりも、もっと重要なことです。パウロは長老であること は「高貴な仕事」で、人がもしそれを求めるならすばらしいことを求 めているのだ! 3、と述べています。

私が人との会話の中で最も寒気がすると感じた中のひとつは、私が ケンブリッジ大学で働くある人と話をしている時でした。私たちは食 事のために外に出かけていました。その時のこと、最近行われた市の 会議の決定について彼があからさまに怒りを表したのです。彼がそれ を続けるのをみて、私は私の友人の権威に対する典型的な怒りの反応 を思い出しました。そして私はある時点で彼に単純で直接的で、無条 件の質問を尋ねました。「権威はそんなに悪でしょうか? 」通常、その ような質問には、ただ困惑した表情がかえってきたり、ナイーブな質 問に対してわざとへり下って鼻をすすったり、そして無数の条件によ って妨げられただらだらとした答えが返って来ます。しかしこの時ば かりは彼のあやのない、単純で直接的で無条件の「はい」という返答 にショックを受けてしまいました。

権威の堕落した性質とその濫用の可能性について、認識しているこ とはよいことであり、健全です。神の目的からかけ離れた権力は、常 にサタン的です。しかしながら、すべての権威を疑うこと、または生 まれつきの不信はとても悪いことです。実に、それは権威に対してと いうよりは、人に疑問を投げかけるように現れます。さらには、それ が、神のイメージに造られた者として働くための私たちの能力におい て、ガン細胞のように退化することを示すのです。神が意図したよう に私たちが生きるには、彼を信頼し、そして多くの範囲で、神に似て 創造された者を信頼することです。聖書の中のアダムとエバから黙示 録に登場する悪漢の支配に至るまで誰もが、根本的に神の権威を否定 し、それをあたかも自分たちのものとして奪うことによって、自分た ちの罪を現すのです。

信仰深い指導者によって仕えられていることの何たる特権。私たち のために見本とされ実践されてきた神からの権威を持っていることは、 すばらしい賜物です。私たちの時代に多く見受けられるように、権威 を否定することは、近視眼的であり、自己破壊状態です。権威なき世 界は、例えるならば際限のない欲望であり、制御の利かない車であり、 信号機のない十字路交差点であり、両親のいない家であり、神なきこ の世そのものであります。そのような状態はしばらくは続くかもしれ ません。しかしやがては無意味となり、そして悲惨な状況になり、し まいには悲劇的になるでしょう。

私たちの無視しようとする傾向とは裏腹に、信仰に篤く聖書的な指 導者は、神の栄光を現すべき教会を建て上げるのに、不可欠な存在で す。私たちの教会における指導権の行使は、神の性質や人格と関わっ ています。もし私たちが適切な権威を、法律を通して、家族会議にお いて、仕事場において、スカウト分隊 において、家庭において、そし て特に教会において行使するなら、神のイメージを彼の被造物に現す 助けをしていることになるのです。これが私たちの召命であり、これ こそが、私たちの特権なのです。

1 例えば、O.L.Hailey and J.R. Graves, Robertson’s Life of Broadus , p.34, 40 . 2 Edward Griffin, A Tearful Farewell from a Faithful Pastor , 1809. 3 テモテ3:1