再生された者の名がいのちの書から消される ことがあるのか?

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English: Can the Regenerate Be Erased From the Book of Life?

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By John Piper About Perseverance of the Saints
Part of the series Taste & See

Translation by Yoshiko Akers

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黙示 3:5 における黙想
黙示 3:5
 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から 消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い 表わす。

年末が近づいている。終末は私たちに忍耐について考えさせる。新しい年(もうすぐ)まで辿りついた。またこの年も乗り越えることができるだろうか?さらに大切なこと―イエスが言われるように、最後ま で、私たちは救われるため、耐え忍ぶだろうか?忍耐は貴重な約束であり、賜物である。それは苦闘 なしにはない。しかし私たちは勝利者として苦闘する。であるからこの年の背に、よい戦いを再度闘 い抜き、神はあなたの名をいのちの書から消されるようなことはないと、深く確信するため、ここであ なたを励ましたい。

聖徒は最後まで信仰を貫き通して救われるという、貴重な聖書的真理は、代々容赦なく反対されて きている。それにも関わらず、その真理は、選ばれた者の救いを完成するための、神の主権的誠実 さの上に堅くあり、持ちこたえる。主はそれを永遠のうちに計画され、十字架上でのキリストの死の うちに買い取られ、そして御霊を通して適応しておられる。

ローマ 8:30 は言う、「[神は]召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与え になりました。」と。言い換えると、私たちのクリスチャン人生の最初の信仰における義認と、私たち の体のよみがえりの際の栄光化の出来事(ピリピ 3:21)の間には、脱落者、緊急脱出者、あるいは 中途退学者はいないのである。「[神が]義と認めた人々には、さらに栄光をお与えになった」―それ らすべての者、である。神が義と認められた者は、神が守られ聖くされ、彼らが信仰を保ち、最後ま で耐え忍んで救われるよう、主がされる。

1 ヨハネ 2:19 は、私たちがどのように、脱落したかのように見える者たちを理解しなければならな いか、描く―「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。 もし私たちの中まであったのなら、私たちといっしょにとどまっていた ことでしょう。しかし、そうなった のは、彼らがみな私たちの中までなかったことが明らかにされるためなのです。」と。言い換えると、 耐え忍ばなかったのは、真に生まれ変わって義と認められて、堕落したしるしではない。むしろ、耐 え忍ばなかったのは、真に神の再生された民のうちのものでは決してなかった、というしるしである。 それが 1 ヨハネ 2:19 のあからさまなポイントである。

とは言え、中にはこの教えを拒否するようある人々を納得させたみことばもある。私がここで考える み言葉の一つは、主イエスが言われる、黙示録 3:5 の、「勝利を得る者は、このように白い衣を着 せられる。そして、 わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない 。わたしは彼の 名をわたしの父の御前とみ使いたちの前で言い表わす。」である。

中にはこのみことばが、聖徒の堅忍の教理が間違いのない教えであることを否定するみことばであ ると言う者もいる。彼らは、黙示 3:5 で神が彼の名をいのちの書から消さないと言われているのは、 主がいのちの書から名を消す者もおり、それは一度義と認められ、その後とがめられた者たちであ ることを意味する、と推測する。しかしそれは正当な推測であろうか?

「わたしは彼の名をいのちの書から消さない」という約束は、中には名が消される者もいる、というこ とを必ずしも暗示しない。それは、書に名が記され、信仰において勝利する者に対し、「あなたの名 を一掃しない」と単純に言うだけである。言い換えると、末梢されるということは恐ろしい予想で、私 はそれが起こることを許さない。書にあなたの名が残されるよう守るよ。それが耐え忍び勝利する者 に約束されたその約束の一つである。それは、勝利せずキリストから離れ去る者の名が書にしるさ れたが、抹消された、とは言わない。

事実、黙示録には、あなたの名が書にしるされるということは、あなたが間違いなく耐え忍び勝利す ることであると、教えているように思われる箇所が二つある。黙示録 13:8 をよく考えて見よ。「地に 住むもので、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者は み な、彼[獣]を拝むようになる。」この節は、「この世の初めから」小羊のいのちの書にその名が書き記 されている者は、間違いなく獣を拝ま ない ということを暗示している。言い換えると、この世の初めか らいのちの書に名が書き記されることは、神があなたを堕落から守られ、神に対する忠誠において あなたが耐え忍ぶことをかなえてくださる、という意味のように思われる。いのちの書に名があると は、あなたが信仰を捨てることはない、と言う意味である。

同様に、黙示録 17:8 を熟考してみよ。「あなたが見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、や がて底知れぬ所から上って来ます。そして彼は、ついには滅びます。地上に住む者たちで、世の初 めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて 現れるのを見て驚きます。」再度、この世の初めからいのちの書に名が書き記されているということは、獣を「見て驚く」ことからその人を守るようである。この世の初めからいのちの書に名が書き記さ れて いない 者たちは、見て驚く。もしあなたの名がそれに書き記されて いる のであれば、あなたは獣 を見て驚か ない。

ここで教えているのは、書に名前が書きしるされていることは十分、ということである。すなわち、そ れが人の反応を明確に左右するのである。この世の初めからあなたの名が小羊のいのちの書に書 きしるされていることが、あなたが獣を拝んだり驚いたりしないことを保証する。ヨハネは、「もしあな たが獣を拝んだら、あなたの名は消される」とは言わない。彼は、「もしあなたの名が書きしるされて いるならば、あなたは獣を拝まない」と言う。

これは黙示録 3:5 の、「勝利を得る者は…わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決 してしない。」というのと合致する。3:5 の勝利の要求は、13:8 と 17:8 で保証されている。これは、 「恐れおののいて自分の救いを達成してください。なぜなら[原文]神は、みこころのままに、あなたが たのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ 2:12−13)とパウロが言う のと矛盾しない。条件を述べること―もしあなたが勝利するならば、神はあなたの名を消すことはな さらない(3:5)、保証を述べること―もしあなたの名が書きしるされているなら、あなたは勝利する (13:8 と 17:8)は、ナンセンスではない。神の「名が書き記された者たち」は勝利 しなければならなく 、そして勝利 する のである。一方で私たちの責務を強調、他方で神の主権を強調する。

この真理の実践上の効果は、私たちが信仰と愛と聖さについていんぎんな紳士になる、ということ にあるのではない。クリスチャン人生において、用心(へブル 3:12)と、努力(ルカ 13:24)と、追及(へ ブル 12:14)は必要である。しかしむしろその効果は、この「信仰の戦い」において、私たちは置き去 りにされていないという保証の上に安息する、ということにある。あなたを召された神は、「あなたが たを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保って下さ る」(1 コリント 1:8)誠実なお方である。「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのこと[あ なたを聖くすること]をしてくださいます。」(1 テサロニケ 5:24)。主は、主が始められた救いを完成し てくださる(ピリピ 1:6)。私たちは神の御力によって守られている(1 ペテロ 1:5)。私たちは戦わ なけ ればならない 、なぜなら耐え忍ぶ者だけが救われるからである(マルコ 13:13)。そして私たちは戦う、なぜなら主のみこころにかなったことを私たちが行うことができるよう、主が私たちのうちに働いてお られるからである(へブル 13:21)。

(この記事は 1997 年に最初に書かれ、Taste and See (味わって見よ)に掲載されている。)