なぜ私たちは生まれ変わらなければならない のか?
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2009年8月24日 (月) 16:40時点における版
エペソ 2:1-10 1あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、2そのころは、そ れらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も 不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。3私たちもみな、か つては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むま まを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでし た。4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆ えに、5罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたが たが救われたのは、ただ恵みによるのです。―6キリスト・イエスにおいて、ともに よみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。7それは、あとに来る 世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに 賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。8あなたがたは、恵みのゆ えに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神 からの賜物です。9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためで す。10私たちは神の作品であって、良い行ないをするために、キリスト・イエスに あって造られたのである。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行な いをもあらかじめ備えてくださったのです。
神についてこれまで書かれた最も素晴らしい本の一つ、すなわち、ジャン・カルヴァンの 「綱要(Institutes )」は、この一文で始まる―「私たちの所有する知恵のほとんど、すな わち、まことのそして堅実な知恵は二つの部分から成り立っている。―神を知る知識と 私たち自身を知る知識である。」今日私たちが思い出さなければならないのは、神の知 識は理解し受け入れることが難しいわけではなく―それは多少明白である―しかし私た ち自身を知る知識も同じように、理解し受けいれることが難しい、ということである。事実、 それはもっと難しいかも知れない。なぜなら、まず第一に、私たち自身を知るまことの知 識は、神を知るまことの知識を当然のものとして決めてかかるからであり、そして第二に、 私たちの状態の真相が、実は神の助けなしには理解できないものであるにも関わらず、 私たちは、自分自身のことを知っていると思いがちだからである。だれが人の心を知る ことができるのか?
預言者エレミヤはこう記す、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それ を知ることができよう。」(エレミヤ17:9)と。 ダビデも詩篇19:12で言う、「だれが自分 の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください」 と。 言い換えると、私たちは私たち自身の罪深さの根底に辿り着くことはないのである。 もし罪の赦しが、私たちの罪を知る知識の完全さによって決まるのであったなら、私たち はみな、滅んでいたであろう。だれも自分の罪深さの程度を知る者はいない。それは誰 が知るよりも深い。
しかし聖書は、私たち自身を知るための助けなしには、私たちを放ってはおかない。私 たちがいかに罪深いか十分に理解できないという事実は、私たちがいかに罪深いかを 深く知ることができない、という意味ではない。聖書には私たち自身の魂の状態につい て、明確で衝撃的なメッセージがある。なぜ聖書にそのようなメッセージがあるのかと言 うと、そうすれば私たちが何が必要かを理解し、神がそれを私たちに与えてくださるとき、 喜びで叫ぶからである。
なぜ私たちは生まれ変わらなければならないのか?
私たちは、新生のシリーズにある。イエスがヨハネ3:7で、「あなたがたは新しく生まれ なければならない」と言われるのを、私たちは聞いてきた。またヨハネ3:3、「人は、新し く生まれなければ、神の国を見ることはできません。」とも。言い換えるならば、新しく生 まれ変わるということは、非常に重要なことである。天と地獄が天秤にかかっている。私 たちは新しく生まれ変わらなければ、神の国を見ることはない。そこで今日の質問は、 「なぜ?」である。なぜ新しく生まれ変わることはそんなに必要なのか?なぜ新しく出直す ことや、道徳の向上や、自己訓練のような、他の改善方法は十分ではないのか?なぜこ の究極の、霊的な、超自然的なものは、新生あるいは再生と呼ばれるのか?それが今 日と来週、私たちが答えようとする質問である。
診断:私たちは死んでいる
最初に私たちがとるみことばは、エペソ2章である。1節と5節で二度、パウロは、自分 の罪過にあって私たちは死んでいる、と言う。1節、「あなたは自分の罪過と罪との中に 死んでいた者であって、...」 4-5節、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してく ださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生 かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―」というわけで、パウロ は二度、私たちを「死んでいた者」として表現する。
改善方法:「神が私たちを生かしてくださった」
そしてこの状態に対する改善方法は5節、「神は私たちを生かしてくださった」である。 もし主の愛を、あなたの以前の死んだ状態に関係して理解しないなら、神のあなたに対 する愛の卓越した豊かさを体験することは決してない。なぜなら4節で、主の愛の大き さはこれに詳細に現わされているからである―それが死んでいた私たちを生かすから である。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえ に、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」。主の私たちに対する 大きな愛のゆえ、主は私たちを生かしてくださった。もしあなたが死んでいた者であるこ とを知らないのならば、神の愛の豊かさを知ることはない。
私はこの、「神は私たちを生かしてくださった」という奇跡を、イエスが呼ばれる新生とほ とんど同じものであると捉える。私たちはかつて霊的いのちのまったくないものであった が、神は霊的死の状態から私たちをよみがえらせられた。そして今や、私たちは生きて いる。これはイエスが言われる、私たちは御霊によって生まれなければならない(ヨハネ 3:5)、そして「いのちを与えるのは御霊です」(ヨハネ6:63)というものと同じである。
新契約の愛
それで、再生のわざ、新生のわざ、生きかえらせるわざは、神の憐れみの豊かさとその 愛の大きさから溢れ出る。「しかし、(1)あわれみ豊かな神は、(2)私たちを愛してくださっ たその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」。 これは新契約の愛である。これは、神がご自身の花嫁に持たれるような、愛である。主 は花嫁が死んでいるのを発見され(エゼキエル16:4-8)、それからご自身の御子を彼 女の身代わりに死ぬためにお与えになり、そして彼女を生き返らせられる。そして主は 彼女を永遠に保持されるのである。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」イエスは 言われる、「彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去る ようなことはありません」(ヨハネ10:28)と。なぜ、新しく生まれ変わることは必要なのか?
そこで質問は、「これはどういう意味か?この死んだ状態とは?」である。少なくとも10の 答えが新約聖書にはある。もしわたしたちがそれらの答えを、正直に、そして祈り心を 持って熟慮するならば、私たちは深くへりくだらされ、新生の賜物に驚かされる。そこで 私が目標とするのは、そのうちの7つを今日話し、残りの3つをより大きな質問と共に 語る。それらの質問は、「私たちは本当に変えられなければならないのか?ただ赦され、 義と認められるだけではいけないのか?それが私たちを天に辿りつかせてくれるもので はないのか?」であるが、次回に取っておこう。
以下が新生から離れての私たちの状態と、なぜ新生がそんなに必要なのかという、7つ の聖書的説明である。
1. 新生から離れては、私たちは罪過と罪の中で死んでいる(エペソ2:1‐2)。
死はいのちがないことを意味する。肉体的、あるいは道徳的いのちがないということで はない。2節、私たちはこの世に「従って」、「歩んで」いる。3節、私たちには肉の「欲」 があり、「肉と心の望むまま」を行う。というわけで、私たちは罪を犯すことができないと いう意味で、死んでいるわけではない。私たちは、キリストの栄光を見る、あるいは感じ ることができないという意味で、死んでいる。私たちは霊的に死んでいる。私たちは神と キリストと、このみことばに反応しない。新生が起こる以前の私たちの状態を展開する 残り9つの表現を考えてみよ。
2. 新生から離れては、私たちは生まれながらにみ怒りを受けるべき子らである(エペソ 2:3)。
3節、「私たちもみな、...ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき 子らでした。」ここでのポイントは、私たちの問題は、私たちの行ないにあるのではなく、 私たちが何であるかということにある、ということを明確にすることである。新生から離れ ては、私が私の問題である。あなたは私の主要な問題ではない。私の両親は私の主要 な問題ではない。私の敵は私の主要な問題ではない。私が、私の主要な問題である。 私の行ないではなく、私の周囲の環境でもなく、また私の人生における人々でもなく、私 の性質が、私の最も深い個人的問題である。
私は最初はよい性質を持っていたが、後になって悪いことをするようになり、悪い性質を 持つようになったのではない。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は 私をみごもりました」(詩篇51:5)。これが私である。私の性質は、わがままで、自己中心 で、要求が激しく、あなたが問題であるかのように感じさせることにとてもたけている。 も しこの陳述に対するあなたの最初の反応が、「そのような人たちを私は知っている」であ るならば、あなたはあなた自身の心の欺きに完全に盲目であろう。
パウロは新生以前の私たちの性質を、「御怒りを受けるべき子ら」と表現する。言い換え るならば、神のみ怒りは、親が子に属するように、私たちに属する。私たちの性質はとて も不従順で、とてもわがままで、神の荘厳さにとても無感覚で、神の聖いみ怒りは私た ちに対して自然でもっともな反応である。
3. 新生から離れては、私たちは闇を愛し光を嫌う(ヨハネ3:19‐20)。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛し た。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明 るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。(ヨハネ3:19-20)
このイエスのことばは、新生から離れての私たちの性質がいかなるものかの一部分を、 詳細に説明する。私たちは、霊的光が近づくとき、中立の人ではない。私たちはそれを 拒否する。また私たちは、闇が私たちを包むとき、中立の人ではない。私たちはそれを 受け入れる。愛と憎しみは再生されてない心のなかで活発である。そしてそれらはまさ に間違った方向に移動する―愛すべきものを憎み、憎むべきものを愛する。
4. 新生から離れては、私たちの心は石のように頑なである(エゼキエル36:26、エペソ 4:18)。
先週私たちは、エゼキエル36:26から、神が「わたしはあなたがたのからだから石の心 を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」と言われる箇所を見た。エペソ4:18では、 パウロは、暗闇、疎外、無知、心のかたくなさへと私たちの状態をたどる。「彼らは、その 知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのち から遠く離れています。」私たちの問題の根底は、無知ではない。それより深いものが ある。「彼らのうちにある無知は、かたくなな心のゆえ(原文)」である。私たちの無知は、 有罪の無知であり、罪のない無知ではない。それはかたくなで抵抗する心に根付いたも のである。パウロはローマ1:18で、私たちは不義をもって真理をはばむと言う。無知は 私たちの最も大きな問題ではない。かたくなさと抵抗が、である。
5. 新生から離れては、私たちは神に従うことや、神を喜ばせることができない(ローマ 8:7‐8)。
ローマ8:7でパウロは言う、「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは 神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にあるものは神を喜ばせるこ とができません」と。私たちは、次の節からパウロが「肉の思い」と「肉にある者」の意味 が何であるかを言い当てることができる。9節で彼は言う、「けれども、もし神の御霊が あなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中に いるのです」と。言い換えると、パウロは生まれ変わって御霊を持っている者と、生まれ 変わっておらず御霊を持っておらずただ肉を持っている者とを対比させているのである。 御霊によって生まれた者は霊で、肉によって生まれた者は肉である(ヨハネ3:6)。
パウロのポイントは、御霊なしには、私たちの心は神の権威を拒否し、それだから、私 たちは神に従わない、そしてそれゆえ、従うことができない、ということである。「肉の思 いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従 できないのです。」そしてもし私たちが神に服従することができないのであるなら、神を 喜ばせることはできない。「肉にある者は神を喜ばせることができません。」神が私たち を生まれ変わらせてくださらない限り、私たちは神に対し、そのように死んでおり、暗く、 かたくななのである。
6. 新生から離れては、私たちは福音を受け入れることができない(エペソ4:18、1コリ ント2:14)
1コリント2:14で、パウロは、私たちができない事柄の理由が、この死んでかたくなな 状態にあることを意味する他の一瞥を私たちに見せてくれる。彼は言う、「生まれながら の人間(つまり、生まれながらの再生されていない人)は、神の御霊に属することを受け 入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。 なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです」と。問題は神に属する ことがらが、彼にとって知的な面で複雑すぎて理解できないということではない。問題は、 彼がそれらを愚かなこととしてとらえることである。「生まれながらの人間は、神の御霊 に属することを受け入れません。(なぜなら)それらは彼には愚かなことだからです。」事 実、それらは彼にとってとても愚か過ぎて、悟ることができないのである。
これは道徳的に「できない」ことであって、肉体的に「できない」ことではないことに、注意 せよ。パウロが「生まれながらの人間は...それを悟ることができません」というとき、そ の心がそれらを受け入れることを非常に強く拒み過ぎて、それらを愚かであるととらえる ことによって、その思いが不従順な心を正しいとするのである。この不従順は非常に堅 く完成され過ぎており、その心は御霊に属することがらを本当に受け入れることができ ない。これが本物の不能性である。しかし強要された不能性ではない。再生されていな い者はできない、なぜなら彼はしないからである。彼の罪を好むことが強すぎて、良いこ とを選ぶことができない。それは本物で恐ろしい束縛である。しかしそれは、悪意のない 束縛ではない。
7. 新生から離れては、私たちはキリストに来ること、あるいはキリストを主として受け入 れることができない(ヨハネ6:44、1コリント12:3)。
1コリント12:3でパウロは宣言する、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主 です。』と言うことはできません」と。舞台に立った俳優、あるいは教会の偽善者が「イエ スは主である」と、聖霊なしに言うことはできない、ということを、彼は意味しているので はない。御霊によって生まれなければ、だれもそれを言うことはできないし、それが本当 であると心から意味することができないということを、パウロは意味しているのである。 生まれ変わることなしには、死んで、暗く、かたくなな、拒絶する心が、イエスの彼のい のちにある支配をほめたたえることは、道徳的に不可能である。
あるいは、イエスがヨハネ6章で言われるように、み父が引き寄せてくださらない限り、 誰も主のみもとに来ることはできない。そして人がその引き寄せによってイエスとの生き た関係に導かれるとき、私たちはそれを新生と呼ぶ。37節、「父がわたしにお与えにな る者はみな、わたしのところに来ます。」44節、「わたしを遣わした父が引き寄せられな いかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」65節、「父のみこころによる のでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。」これらすべての素晴らし い引き寄せ、許可、授与のわざは、再生における神のみわざである。それらなしには、 私たちはキリストのみもとに来ることはできない。なぜなら、私たちはみもとに来たいと 思わないからである。それが新生において変えられなければならないものである。
個人的、急を要する応答
なぜ新生が必要なのか、言うべき事はもっとあるが、今日はこれで十分である。エペソ 2:4‐5の希望に満ちた驚くべきみことばにもどって、結びとする、「しかし、あわれみ豊か な神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの 私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるので す」 。
このみことばに応答する二つの方法がある。一つは論理的で非個人的であり、もう一つ は個人的で緊急である。ある人はこのように言う、「どのようにしてこうなるのであろう、 どのようにしてあのようになるであろう?」他の者が言う、「神は私をここに導いてくださっ た。神はこれらのみことばを通して私に語られた。神の憐れみと愛と恵みは今日、私に とってとても必要なものであり、美しいもののように思われる。ああ主よ、今日、私をここ に導き、覚醒させ、和らげ、開いてくれたあなたのその驚くべき恵みに従います。その憐 れみの豊かさと、愛の大きさと、恵みの力のゆえに、主に感謝。