小羊の血
提供: è�–書ã�®æœ¬ã�Šã‚ˆã�³èª¬æ•™
By Gordon Wenham
About The Death of Christ
Part of the series Tabletalk
Translation by Seita Sakaguchi
「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とヘブル人への手紙に書かれています(9章22節)。この手紙の大部分は、特に古代イスラエルの生け贄の方式について、キリストがどのようにして旧約聖書の希望や切望を満たしたかを説明しています。しかし、生け贄を一度も見たことがなくて旧約聖書に関してあまり考えない現代の読者にとって、これはダブルダッチ[1] です。動物を殺すことと罪の赦しにはどのような関係があるのでしょうか?
そのことについてはレビ記によく説明されています。レビ記の始めの長い箇所は様々な生け贄をどのようにして捧げたらよいのか、また、それぞれ違った生け贄が一つ一つ何を達成するのかを説明しています。しかし、私たちがレビ記と生け贄の基本的な概念を理解するためにはもっと始めから説明する必要があります。
創世記18章に三人の男がある日アブラハムを訪れたことが書かれています。アブラハムは彼らが誰であるかまるで知りませんでしたが、非常に手厚い人だったので、彼らのために立派な祝宴を用意しました。彼の妻のサラは焼きたてのパンをたくさん作り、アブラハムは使用人が客のために殺して料理した柔らかくて若い子牛をあげました。来客にワインが出されたかどうかは書かれていませんが、もしワインがあったならば重要な客には間違いなく出されたでしょう。その後、アブラハムは彼の客が誰であるかを発見しました。主と二人の天使だったのです!
この逸話は生け贄とは考えられませんが、生け贄の基本的な仕組みを理解することができます。生け贄では神が最も重要な客です。肉、パン、それとワインなど、特別な時だけに出される物を捧げることによって、神のいることが敬われるのです。旧約聖書の時代では肉を食べることは稀な贅沢でしたし、ワインも特別な機会のために取っておいたことは間違いないでしょう。
古代イスラエルの隣国の人々は生け贄を神[2] の食事とみなしていましたが、旧約聖書はこの考えを憤然として拒絶しています。食物を人類に与えるのは神であって(創世記1章29節)、その逆ではありません。詩篇50章10と12節にそのことがよく書かれています。「森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。」
では幕屋の前や後の神殿の境内でした大きな祭りの目的は何だったのでしょう?聖書の中にある最初の生け贄はカインとアベルが捧げたものです。これらについてはアダムとエバが、そよ風の吹く所を神と共に歩くのを楽しんでいたエデンの園から追放された直後に言及されています。園から出されて、彼らは神との親密さの特権を奪われました。ですからこの話によって示される生け贄の一つの動機は、生け贄が人の神との交わりを回復させてくれるということです。
しかしそれは正しい精神で捧げなければいけません。カインは地の産物のいくらかだけを捧げましたが、アベルは「彼の羊の初子の中から、それも最良のものを持って来た」(創世記4章4節)、すなわち、最も大切な動物の一番良いところを捧げたのです。神は前者ではなく、後者を受け入れました。ここで生け贄の最も重要な特徴の一つが分かります:生け贄に使われる動物は老いぼれて衰弱しているものではなく、若くて健康なものでなくてはならないのです。過越の羊は一歳で傷がまったくないものでなくてはいけませんでした。レビ記の生け贄に関するおきては、使われる動物は「傷なし」でなくてはいけないと繰り返して言っています。カインとアベルの話はこれを無視するとどうなるかを示しています。「それらは受け入れられない。」(レビ記22章25節;また、19章7節;22章20節)
堕落の後、世界は特に殺人と暴虐などの罪に雪崩のように飲み込まれてしまいました。神は人間には罪が組み込まれていると悲しみを訴えています。「人の心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」( 創世記6章5節)「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」( 創世記6章11節)それで神は、罪深い人類を全滅させ、その時代で唯一正しく非の打ちどころがない人だったノア(6章9節)と新たに始めるために洪水を送りました。
ノアがいずれ箱船から出てきた時、彼の最初の行為は、聖餐台を建てて生け贄を捧げることでした。これはただ自分が破滅から救われた感謝を示す行為だと思うかもしれませんが、本文は、それよりもっと達したことを示しています。「主は、そのなだめの香りをかがれ、心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはしない。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」(8章21節)言い換えると、人間の邪悪な人格は変えられてはいませんが、神の、人間の罪への態度が変わったということです。神が洪水によって世界を罰することは二度とありません。なぜでしょう?それはノアが捧げた生け贄の良い香りのためです。(8章21節)創世記8章に書かれてある生け贄はこのようにして、神の人間の罪に対する怒りをなだめるのです。動物の生け贄が神に良い香りを出すことは、レビ記の1章から7章に頻繁に書かれています。
しかし 動物の生け贄はなぜ神の怒りをなだめるのに効果的なのでしょう?アブラハムがイサクを捧げる話がこれについて少し理解させてくれます。創世記22章に、神が、アブラハムに彼の最も重要な物、すなわち、彼の一人息子のイサクを生け贄として捧げるのを要求することによって、神がどのようにしてアブラハムを試したかが書かれています。アブラハムは試されていることは知りませんでした。彼にとっては、それは致命的[3] に本気でした。ですから、 ちょうどアブラハムがイサクののどを切ろうとしていたとき、土壇場で主の天使は彼に止めるように言いました。「あなたが神を恐れることがよくわかった。」(22章12節)次にアブラハムは、見上げて雄羊をみつけ、それをイサクのかわりに捧げました。
この話は、もし誰かが神に完全に従う気があるなら、神は礼拝者の代わりに動物を受け入れるということを示しています。イサクはアブラハムの未来でした。そしてアブラハムは彼を神に捧げても構わないと思っていました。しかし神は 雄羊で満足しました。ここでは、代理的な贖いの教義が例証されています。それについて、レビ記のおきてには、あらゆる生け贄の基本的な特徴が礼拝者の手を動物の頭に置くことであると、さらに明解になっています。この行為は、動物が礼拝者の代理をしているということを表します。礼拝者は 、動物との一体感をもつことによって、自分を完全に神に捧げているのです。動物は礼拝者の代わりに死ぬのです。
レビ記の1章から7章には4つの異なった種類の生け贄について書かれています。これらの章が強調していることは、いくつも違う種類の生け贄をどのようにして行うかということです。我々はここで、一種類の生け贄を別のものと区別する特徴に焦点を合わせなければなりません。全焼の生け贄(レビ記1章)は、動物全体が祭壇の上で焼かれたという唯一の生け贄で、独特なものでした。これは、礼拝者が自分を完全に神の使いに捧げるということを表現していました。同時にそれは、礼拝者のための贖いをしていたのです。「贖いをしなさい」という表現は、より正確には「身代金を払いなさい」という意味です。これは、おきての他の箇所に使われている表現で、そうしなければ死刑に直面するかもしれない犯罪者が損害を賠償して放免された時に使われています(例えば、出エジプト記21章30節)。
和解の生け贄(レビ記3章)は、動物を寄贈した礼拝者が肉の分け前をもらうという(普段は祭司だけが肉を食べました。)唯一の捧げものだったので、旧約聖書の生け贄の中でたぶん最も一般的だったでしょう。和解の生け贄を神に対する感謝の行為として自発的に捧げることはできましたが、神に自分のために何かをしてくれるよう頼む誓いをした時、またはその願いに答えて下さった時に捧げてもよかったのです。
罪のための生け贄(レビ記4章)は、動物の血を幕屋か宮の中の祭壇に塗り付けるという独特なものでした。この血は幕屋を罪の汚染から洗い清めてくれました。罪は、ただ誰かを神の前に有罪として神を怒らせるだけではなくて、場所や人々をきたなくして、その結果神が住むのに適さなくします。祭壇に血を塗り付けたり、宮の内部に血をまくことによって、これらの物は汚染から洗い清められたのです。同時に、悪行で汚染を引き起こした罪人は、罪を赦されてその汚染から清められました。この浄化で神が宮に再入して信者と宿ることが可能になりました。
罪過のための生け贄(レビ記5章14節—6章7節)は、ある行為が私たちを神の負債に入れるという考えを表していました。これらの罪は高価な雄羊を捧げることでしか贖いはできませんでした。レビ記には比較的簡潔に書かれていますが、この生け贄は、苦しみのしもべが私たちの罪のために苦しむ(5節−6節)罪過の生け贄とよばれている(10節;ESV の「罪の捧げもの」も見て下さい。)イザヤ書53章ではとても重要です。本章がキリストの贖いの役割を最も完全に説明しているので、新約聖書のキリストの死に関する理解の中心です。
生け贄のイメージ は新約聖書の十字架の解釈に浸透しています。バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)と言ったとき、キリストを完璧な過越の小羊と見ていたのでしょう。 またパウロも「過越の小羊キリスト」(第一コリント5章7節)と言って、そのイメージを使っています。キリストはまた、ヨハネ3章16節やローマ人8章32節などよく知られている箇所に暗示されている、イサクより優れた生け贄という考えで、最高な全焼の生け贄だと見なされています:「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」マルコ10章45節は人の子が「多くの人のための 贖いの代価」として自分の命を与えた究極のしもべと表しています。第一ヨハネ1章7節は「御子イエスの血はすべての罪から私たちを清めます」と言って、 罪過の生け贄のイメージを使っています。ヘブル人への手紙では、イエスが旧約聖書の生け贄の方式が暗示したすべての目的を自分の死を通して達成した最高の大祭司です。
最後に、私たちはキリストの死はクリスチャンの生け贄の方式の重要性を消耗していないということを注意するべきです。私たちも、キリストの足跡をたどって、彼の苦しみを共有すると思われています。(第一ペトロ2章21−24節)また私たちは「私たちの体を生きた供え物としてささげなさい」と励まされています。彼自身の死を予期して、パウロはそれを、あらゆる生け贄と祭壇の上に注がれたワインのように注ぎの供え物になることと比較しました。このように、古い礼拝の方法は、今、まだ私たちの奉納を呼び起こすべきです。
Notes