ことばは人となられた

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By John Piper About The Incarnation

Translation by Desiring God

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2この方は、初めに神とともにおられた。3すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。4この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。5光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。6神から遣わされたヨハネという人が現れた。7この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。8彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。9すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。15ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」16私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。17というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。18いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 1

1974年の春、私はドイツで学業を終えようとしていました。私の本教授が亡くなられ、教授の科目の一つを引き継ぐため、オスカー・クルマンという新約聖書の偉大な学者が、ヨハネの福音書を教えるためベイゼルからミューニッヒにやって来ました。一学期18週の最初の13週で私たちが学んだのは、思い出すに、ヨハネの書の最初のたった14節でした。それほどこの節は深いのです。

クリスマスのキリストについての特別な真実のメッセージ

ですのでこの聖書箇所を一つの説教で取り扱うことで私は不正を行うのではないかと、恐れおののきつつ選びました。しかし二つの理由でこれを選びます。一つはこれがクリスマスのすばらしい一節だということです。クリスマス向けだと示している鍵は14節です。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」これがクリスマスの意味です。神が、イエス・キリストの人となりにおいて、この世に来られ、処女からお生まれになりました。二つ目の理由は、私がこの箇所を選んだのは、この箇所に、私たちがどうしても知りそして受け入れる必要のある、イエス・キリストについての特別な真実が満ち溢れているからです。

これは特に今日、重要です。なぜなら私が先週歓迎の挨拶で言ったように、この世のキリスト教でない主流の宗教も、昨今はイエス様を信奉することを、ある意味あたかも重んじたり尊重したりするからです。特に最近は、イスラム教さえも私たちよりイエス様を敬っているよ、なぜなら神が主が十字架上で犯罪者の恥ずべき死を忍ぶことをお許しになるなど信じないからである、という事実を引き合いに出す、イスラム教のリーダーたちの言葉を耳にします。ですのでクリスチャンがイエス・キリストを深く知り、聖書のキリストと、他の宗教が敬うというキリストを見分けることができるようになることは、とても重要です。

ですので、この地上の誰よりも親密にイエス・キリストを知っていた者、使徒ヨハネによって書かれた主についてのこの段落で私がしたいのは、人となられたことばに関する5つの真実と、それから今朝あなたが主に対し応答するであろう二つの全く反対の応答の対比を示し、説明し、そして大いに喜びたいと思います。私のねらいは、あなたが主がどのようなお方であられるかを理解し、主をあなたの主、あなたの神、すべてにまさるあなたの宝として迎え入れるようになることです。そしてもしあなたが既に主を迎え入れているのであるなら、あなたが主を受け入れ、宝とし、主に喜び、主に従い、これまで以上に主を表に出すよう、祈ります。

ではこの箇所の人となられたことばについての5つの真実から始めましょう。

17節「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

「イエス」というのは、主の御使いがヨセフに名づけなさいと言われた名前で、それは「救い主」というのを意味します。「主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』」2

「キリスト」というのは、人々に勝利を与え、この世の主権をその肩に担う、ユダヤ人たちが待ち望んだ王の称号をさします。ペテロの兄弟アンデレがイエス様に出会ったとき、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト[とヨハネは付け足します])に会った」とペテロに言いました(ヨハネ1:41)。

ですのでこの箇所で私たちが語るお方は、聖書でそして世界中で知られている、「イエス・キリスト」です。そしてそれぞれの名がとてつもない意味を抱えています。主は救い主で、王であられるのです。

1節、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

この「ことばは神とともにあった」と「ことばは神であった」という二つの句に含まれる奥義を拒否する宗派が絶えずあります。彼らは人間の概念にとらわれ、両方を共有することはできない、と言います。主は神であるか、神とともにおられるかのどちらかだ。もし主が神とともにおられるのなら、神ではない。もし神であられるのなら、神とともにはおられない、と。そうやってこの二つの文章から逃れるため、時に彼らは(エホバの証人のように)訳を変え、「ことばは神とともにあった。ことばは一神[神々の中の]であった。」と言う風にします。しかしキリスト教教会がそのような教えを真理でありまた正当であるとして受け入れたことがない、確かな文法的理由、また他のヨハネの福音書や聖書の箇所からの文脈的理由があります。

この第一節が教えるのは、私たちが知っているイエス・キリストは、人となられる以前、神であられ、またみ父も神であられた、ということです。この二つの神格は一つの神であられました。これは私たちが三位一体として理解する、真理の一部です。このため私たちはイエス・キリストを礼拝し、ヨハネ20:28のトマスと共に、「私の主。私の神。」というのです。

ヨハネ1:1「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

なぜ主は「ことば」と呼ばれるのでしょうか?その答えの一つは、その答えの一つは、[ことばという名以外に]呼ばれたかも知れない名と、それがなぜ「ことば」との関係で不適切なのかを、じっくり考えることにあります。例えば、主は「わざ」という名で呼ばれていたとしましょう。「初めに、わざがあった。わざは神とともにあった。わざは神であった。」わざとことばの違いの一つは、わざはもっと曖昧です。もし私たちのことばは時によって不明瞭で様々な解釈の対象になると思うのなら、私たちのわざはそれより更に不明瞭で曖昧です。そのため私たちは良く言葉で自分を説明するのです。ことばは私たちの動作を、行いそのものよりより明確にとらえます。神は歴史の中で数多くの偉大なみわざを成されましたが、ことばには特別な優先順位をお与えになりました。その理由の一つは、明瞭さと意思疎通に高い価値を置いておられるからだと、私は思います。

他の例としてヨハネは主を「思い」と呼ぶこともできたかも知れません。「初めに、思いがあった。思いは神とともにあった。思いは神であった。」でも思いとことばの違いの一つは、言葉は一般的にコミュニケーションを確立するために考案者から出てくるものとして想像されます。ヨハネは私たちに神の御子が、ご自身とみ父のコミュニケーションのためと、神の私たちとのコミュニケーションとして歴史に現れるため存在されるということを、心に描いて欲しいからだと思います。

3つめの例で、ヨハネは「感情」と呼ぶことができたかも知れません。「初めに、感情があった。感情は神とともにあった。感情は神であった。」しかし、再度申し上げますが、感情は明確な概念やあるいは意図、意味を含みません。わざと同じように、感情は曖昧で言葉による説明が必要です。ですのでイエス様を「ことば」と呼ぶのが、神の御子の存在そのものはコミュニケーションのためであることを強調する、ヨハネの方法のように思われます。第一にそして最も大切なことですが、主は神とともに、永遠から意思疎通のために存在され、絶えず存在してこられたのです。第二に、そして私たちにとっては無限に大切なことですが、神の御子は神の私たちに対するコミュニケーションとなってくださいました。要約すると、イエス様を「ことば」と呼ぶのは、主が「ご自身を表現される神」という意味であると言うことができます。

ヨハネ1:3「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」

ヨハネがことばについてここで言っているのには二つの理由があります。一つはそれが主が神であることを強調するからです。私たちが神を考えるとき、すぐさま創造主を思い浮かべます。神は神以外のすべてのものの源であり解釈であられます。ですのでヨハネが「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」というとき、主は神であられ造られたものではない、ということを意味します。

もう一つの理由は10節にあります。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」ここでは要するに、この世の盲目の罪の深刻さと、イエス様を拒絶するこの世の悪の深さを強調しているように思われます。主は創造主として私たちのところに来られますが、この世は未だに主を受け入れていません。

ではことばは人となられたということについて、私たちはここまで何を見てきたでしょうか?1)主は救い主、王なるイエス・キリスト、2)主は三位一体の第二位格の神、3)主は意思疎通をとられる神、ご自身を表現される神であられることば、3)主はすべてのものの創造主、です。

ヨハネ1:4「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」

すべてのものの命はことばから始まります。それは私たちがすでに見てきたように、主がすべてのものの創造主であられるということから、明らかです。しかしここで注目しているのは、恐らく霊的いのちについてでしょう。言い換えれば、私たち人間には二つの不可抗力な問題があります。私たちは霊的に死んでおり、それゆえ霊的に盲目です。ヨハネは、イエス様はその二つの問題の解決である、主には私たちが必要ないのちがあり、このいのちは私たちに必要な光となってくれる、とここで言うのです。

ヨハネ5:21で[主は]、「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」と言われます。言い換えれば、主はラザロの墓の前に立って、死んだ者に「ラザロよ、出て来なさい」と言われたことを、私たちに対し霊的にして下さるのです。

そしてそのイエス様から与えられるいのちが、光とどのように関係しているのでしょうか?二通りです。一つは、それが私たちに見させてくれます。死人にいのちがあたえられるとき、その死人は見ます。あるいはイメージを変えて、あなたが生まれた時、あなたは見ます。それは霊的なことでも同じです。イエス様はニコデモに、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われました。ですのでまずイエス様はいのちをお与えになり、そしてそのいのちは霊的現実を見ることのできる、となります。

イエス様のお与えになるいのちが光と関係する他の方法は、それがあなたに見る目を与えてくれるというわけではなく、イエス様ご自身が見させてくださる光そのものというものです。私たちが不信者であるとき盲目であるのは、結局のところ、何に対してでしょうか?イエス様の栄光である、真理と美と価値に対して盲目なのです。ですからヨハネが「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」と言うとき、それは人となられたことばであるイエス・キリストは、霊的輝きを見る力と、そして見える輝きの両者だということを恐らく意味しているのです。

14節で、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。」と言うのはそれです。それが、イエス様がヨハネ17:24で、「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。…わたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」と祈られたことです。そしてそれが、「わたしは、世の光です。」と二度繰り返して言われたとき(ヨハネ8:12、9:5)、主張されたことです。ですから人となられたことばにはいのちがあられ、そのいのちは人の光となられます。主が見る力と見える輝きなのです。

まとめると、人となられたことばについての5つの真実とは何でしょうか?

  1. 主は人となられた後のイエス・キリストで、救い主で、神によって油塗られたすべてのものの王であられる。
  2. 主は神であられる。主は神とともにおられ、神であられた。
  3. 主は意思疎通される神、ご自身を表現される神であられる、ことばと呼ばれた。
  4. 主は創造主であられる。すべてのものは主を通して造られたが、主ご自身は造られたものではない。
  5. 主はいのちであり光であられる。見ることのできる生ける力であられ、すべてを満足させる見える輝きであられる。

最後に、では人となられたことば、イエス様についてのこれらすべての啓示に対しあなたは応答できるでしょうか?

応答の一つー私は主を知らないし、主を受け入れない

一つは10、11節に描かれています。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民を受け入れなかった。」これを聞いてあなたは、「私は主を知らないし、受け入れいない」と言われるかも知れません。あなたの創造主、あなたのいのち、あなたの光についてそのように言うのはとても恐ろしいことです。せめて懇願させてください、このクリスマス、そのように簡単に言わないでください。

その他の応答ー私は主を知っており、主を受け入れる

その他の応答は12、13節に見られます。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」これが私が今朝祈る応答です。この素晴らしい人となられたことばを受け入れてください。主を救い主、王、神、ことば、創造主、いのち、そして光として受け入れてください。神が、主においてあなたのためであられるすべてを受け入れてください!

クリスマスはこの世のすべての暗闇と死の洞窟に隠れたビン・ラデンを探し出すため、ご自身の御子をこの世に遣わされた神のようなものです。洞窟にたいまつを投げ込む代わりに、主はまう洞窟の入り口に立って、このように言われます。「私は罪人の代わりに十字架で死んだのです。それゆえ光のもとに出てきなさい。もしあなたがわたしをあなたの神、あなたの身代わり、あなたの宝として受け入れるなら、わたしの死があなたの死とみなされ、わたしの義があなたの義と認められ、そしてあなたは永遠のいのちが与えられるでしょう。」

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1 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。

2 マタイ1:20-21