なぜ、そしてどのようにして私たちは主の晩餐を執り行うのか
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By John Piper About The Lord's Supper
Translation by Desiring God
ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。18 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。19 というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。20 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。27したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。34 空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。 1
来週ローマ書に (主のお許しがあれば)戻る前に、主の晩餐を聖書の文脈に置き、なぜ、そしてどのようにして私たちはこの聖餐式を守るかということに注目するのがいいだろうと、私は思いました。ですから今日は最初にメッセージをし、それからその説教をもって主の晩餐に移行します。
私たちの人生と私たちの教会の絶対的基盤である聖書の次に、私たちの教会の一生にとって最も大切な文書の一つは、『ベツレヘムバプテスト教会の長老たちによる信仰告白』です。皆さん全員がそれを読むようおすすめします。教会のウェブサイトや、デザイアリング・ゴッドのウェブサイトでも閲覧することができます。12.4項には主の晩餐について私たちが何を信じ、教えているかについての教理のまとめがあります。
私たちは主の晩餐が、集められた信者たちが、キリストの民のためにささげられた主のみからだを表すパンを食し、キリストの血潮のうちにある新契約を表す主の杯を飲む、主のご命令であることを信じます。私たちは主を覚えてこれにあずかり、このようにして主の来られるときまで主の死を告げ知らせます。物理的にではなく、霊的にキリストのみからだと血にふさわしいままであずかる者は、それによって、信仰により、主がご自身の死によって買い取られた益で養われ、そのようにして恵みのうちに成長するのです。
この主の晩餐の理解の聖書的根拠を、6つの項目、1)歴史的起源、2)信者の参加、3)物理的行ない、4)精神的行ない、5)霊的行ない、そして6)侵すべからず深刻さ、に分けて説明したいと思います。
目次 |
1. 主の晩餐の歴史的起源
マタイによる福音書(26:26以下)、マルコ(14:22以下)、そしてルカ(22:14以下)のすべてが、イエス様が死なれる夜弟子たちと共にされた主の晩餐を、報じています。それぞれ、イエス様が感謝をささげられ、あるいはパンと杯を祝福され、弟子たちに渡されてこのパンは主のみからだであり、杯は契約の血、あるいは主の血における新しい契約であると、表現します。ルカ22:19でイエス様は、「わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われます。ヨハネの福音書では飲み食いは記録されていませんが、その夜をあふれんばかりに満たした主の教えとみわざを報じています。
最も古い記録から私たちが言えるのは、教会はイエス様が言われた通りした、ということです。つまり、イエス様とその死を覚えて、彼らは晩餐を再現したのです。パウロの書簡が私たちの手元にある最も古い証言で、1コリント11:20で、彼は教会の一生における行事を、「主の晩餐」と呼んでいます。それが「主の晩餐」と呼ばれるのは、恐らくそれが主イエスによって定められた、あるいは命じられたもので、まさにそれそのものが、主の死を覚えて執り行われるものだからです。パウロは1コリント11:23―24で、「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』」と言います。「わたしは主から受けたことを・・・」とは、他の者たちが実際に起こったと報じる最後の晩餐を、恐らく主ご自身が、(他の使徒達のように最後の晩餐の席にいなかった)パウロに、お認めになったということです。
ですから主の晩餐の起源は、イエス様が十字架にかけられる前夜に、弟子たちと共に食されたその最後の夕食です。その行為と意味はすべてその夜、イエス様が言われ、成されたことに根付いています。イエス様ご自身が主の晩餐の起源であられます。主がそれを続けるよう命じられました。そして主がその焦点であり、中身であられます。
2. 主の晩餐にあずかる信者
主の晩餐とは、イエス様を信じる者たちの集まりである家族、教会の行為です。それは未信者のための行為ではありません。未信者がそこにはいるかも知れません。実際、彼らが立ち会うのを私たちは歓迎します。主の晩餐には何の隠し事もありません。公の場でなされます。公の意味がそれにはあります。極秘の、魔術を用いたカルト的儀式ではありません。集められた教会による公の礼拝の行為です。事実、1コリント11:26でパウロは、「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」と言います。ですのでこの晩餐には公表という側面があるのです。プライベートではなく、告げ知らせると言うところが、語調を強めるところです。
老人ホームや病院にいる人が主の晩餐にあずかることを禁じはしませんが、そのような個々人での執行は例外で、聖書的規範ではありません。1コリント11章でパウロは、主の晩餐にあずかるのは、教会が「集まる」ときであると5回言います。17節後半、「あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。」18節、「まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。」20節、「あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。」33節、「食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。」34節、「空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けないためです。」
言い換えれば、彼らは主の晩餐を自分たちの毎日の夕飯と関連させすぎて、風儀を乱しており、食べる料理が沢山あった人もいれば、何もなかった人もいたのです。そのため自分の家で夕飯を食べた後、主の晩餐にあずかるため集まりなさい、と彼は言います。
そして18節の「教会」という言葉に注目してください。「あなたがたが教会の集まりをするとき」。これがキリストのからだ、イエス様に従う者たちの集まりです。偶像礼拝を離れ、イエス様にのみ自分の罪の赦し、永遠のいのちの望み、そして自分の魂の充足を信じる者たちです。それがクリスチャンです。ですので主の晩餐にあずかるのは、イエス様に信仰をおく、集められた者たちです。
3. 主の晩餐の物理的行ない
主の晩餐の物理的行為は、7コースの料理の消費ではありません。それはとてもシンプルなものです。パンを食べることと、杯を飲むことです。23節後半―25節、「主イエスは、・・・パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』」
どのようなパンで、どのように裂くのかについては特筆されていません。たった一つ、マタイ、マルコ、ルカの一節で杯の中に何が入っているのか、ということだけ述べられています。「ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マタイ26:29。マルコ14:25、ルカ22:18も参照)。というわけで、それは「ぶどうの実で造った物」と呼ばれています。単なるグレープジュースが、あるいはワインが使われていると、大騒ぎするべきではないと思います。この箇所ではいっさい、どちらを用いるよう命じたり、禁じられたりしてはいません。
私たちが気にしなければならないのは、ふざけた代用品、例えばキャンプファイアの周りのベーグルですとか、コカ・コーラとかです。主の晩餐は遊びではありません。私たちは重い感覚をもってそれを執り行わなければなりません。それについてすぐに話したいと思います。
ここを通過するにあたって、新約聖書ではこの主の晩餐の頻度についてもいっさい語っていない、ということにも触れておきたいと思います。中には毎週やったほうがいいという人もいますし、3ヶ月に一度やる人たちもいます。私たちはその中間で、一般的に毎月第一日曜日に執り行っています。これについて私たちは縛られておらず、問題は、1)いかに頻繁にあるいは希にやることが、神のみことばのミニストリーとの関わりで、その適度な重要性と一致するか?そして、2)いかに頻繁にあるいは希にやることが、それに対して無感覚にならずして、その価値を私たちが感じることができるか?というもののどちらかになると思います。それらは簡単に判断できることではなく、それぞれの教会がそれぞれで判断します。
4. 主の晩餐の精神的行ない
主の晩餐に参加する者の精神的行ないとは、イエス様、特に私たちの罪のために死なれた主の歴史的みわざに、思いを集中させることです。24と25節、「わたしを覚えて、これを行いなさい。」物理的な飲み食いという行為をするにあたって、私たちは覚えるという精神的行為をするべきです。すなわち、イエス様がかつて生きられたそのご人格と、イエス様が死なれそしてよみがえられたそのみわざ、そして私たちの罪の赦しのために成されたみわざが表すその意味を、私たちは意識的に思い浮かべるのです。
主の晩餐は、キリスト教がニューエイジ的宗教ではないということを、はっきりと何度も何度も思い出させます。それは自分の内なるものと交信することではありません。神秘主義ではありません。史実に基づいたものです。イエス様は実在されました。主には体と血液を循環させた心と、血が出る皮膚がおありになりました。主を信じる者は誰でも神のみ怒りから救われるように、罪人の身代わりとなって、ローマの十字架刑で公に死なれました。それは歴史上一度だけ起こった出来事です。
それゆえ、主の晩餐の精神的行いは、基本的に覚えることです。想像することではありません。分析することではありません。聞くことではありません。瞑想にふけることではありません。それはイエス様と、聖書から私たちが知っている主の、その歴史に意識的に思いを寄せることです。パンと杯。みからだと血。処刑と死、です。
5.主の晩餐の霊的行ない
これは非常に重要です。それは未信者も、私がこれまで説明してきたことすべてを成すことができるからです。実際、もし悪魔が人となることができるのであれば、彼もそれをすることができます。食べて、飲んで、覚える。本質的に霊的なものはいっさいありません。ですから主の晩餐がイエス様が言われるとおりのものであるためには、食べて、飲んで、覚える以上の何かが起こらなければなりません。未信者と悪魔が成し得ない何か、です。
『長老たちによる信仰告白』から鍵となる文章をもう一度読み、それからそれが聖書のどこから来ているのかをお見せしましょう。「物理的にではなく、霊的にキリストのみからだと血にふさわしいままであずかる者は、それによって、信仰により、主がご自身の死によって買い取られた益で養われ、そのようにして恵みのうちに成長するのです。」
この「霊的にキリストのみからだと血に・・・あずかる者は、・・・信仰によって」という発想はどこから来るのでしょうか?これを支持するこれに最も近い箇所は、前章の1コリント10:16―18にあります。私が読む際、「『あずかる』とはどういう意味だろう?」と問いかけてください。
「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかること(koinōnia estin tou haimatos tou Christou)ではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかること(ouchi koinōnia tou sōmatos tou Christou estin)ではありませんか。パンは一つですから、私たちは多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかる(koinōnia tou thusiastēriou)ではありませんか。」
これは、覚えることよりはるかに深いものです。これはイエス・キリストを信じ宝とする信者で、パウロは彼らはキリストのからだと血にあずかる者だと言います。文字通り、彼らは主のからだと血を共有すること(koinōnia)を体験しているのです。彼らは主の死に結びつき合うことを体験しているのです。
霊的に、信仰によって、キリストのみからだと血にあずか
それではこのあずかること/共有すること/結びつき合うこととは、何を意味するのでしょうか?18節にそのヒントがあると思います。なぜなら18節で似たような、それでいてユダヤ教の供え物によって起こる何かと比較することばが用いられているからです。「肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかる[同じ用語の違う型]ではありませんか。」この祭壇を共有する者/(祭壇に)あずかる者/(祭壇と)結びつき合う者とは、何を意味するのでしょうか?それは、祭壇上で起こることを共有する、あるいは祭壇上で起こることから益を受ける、という意味です。例えば、人々は赦しと神との回復された交わりを楽しむのです。
ですから16、17節は、信者が物理的にパンを食べ杯を飲むとき、別の霊的な飲み食いをするという意味だと、私は理解します。私たちは飲み食い、すなわち、十字架で起こったことを私たちの命のうちに受け取るのです。私たちは信仰によって、イエス様にあって神が私たちのすべてであられることを信じることによって、イエス様が十字架上で血を流され死なれたときに私たちのために買い取ってくださったその益で、自分を養うのです。
このため月ごとに主の晩餐で、私たちは皆さんを様々な焦点(神との平安、キリストにある喜び、将来への希望、恐れからの解放、患難のうちにある安心、困惑のうちにある道案内、病からの癒し、誘惑に対する勝利、等々)へとお連れしているのです。それは、イエス様が死なれたとき、私たちの身代わりとして死ぬことによってお捧げになった主の流された血と砕かれたからだは、神のみ約束のすべてを買い取ったのです。パウロは、「神の約束はことごとく、この方において『しかり』となりました」(2コリント1:20)と言います。神の賜物のすべてと、神との喜ばしい交わりのすべては、イエス様の血によって買い取られたものです。パウロが「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか」と言うとき、主の食卓で私たちは霊的に、キリストのみからだと血によって買い取られた霊的恵みのすべてを信じる信仰によって、喜び味わわないでしょうか、と言っているのです。どの未信者もそれをすることはできません。悪魔もできません。それは家族への賜物です。主の晩餐を執り行うとき、私たちはイエス様の血によって買い取られた神のみ約束のすべてを、霊的に、信仰によって喜び味わうのです。
6. 主の晩餐の侵すべからず深刻さ
パウロが1コリント11章を閉じるように、(このメッセージを)閉じたいと思います。彼は、もしあなたが主の晩餐に、十字架で起こったことの深刻さを理解しない横柄で、無感覚で、軽率な態度で来たなら、あなたがもし信者であるならば、み怒りでではなく、み父としての神の懲らしめで、命を失うかも知れません。ここで喜びつつまた真剣になって主の食卓に移るにあたり、1コリント11:27―32をゆっくり読ませてください。
したがって、もし、ふさわしくないままで[すなわち、キリストの尊い賜物を信じずまた宝とせず]パンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して[自分がある程度良いかどうかではなく、自分自信から離れ、自分の必要をイエス様に頼る意志があるかどうか吟味して]、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。29 みからだをわきまえないで[つまり、このパンは、コリントの教会である人々がしていたように、魚サンドイッチであるかのように扱ってはならないということに気づかないで]、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。30 [そしてここがパウロの言いたいことです]そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます[地獄へ送られたのではありません。次の節でそれを説明しています]。31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって[つまり、ある者は弱く、病気で、死んでいっている]、それは、私たちが、この世とともに罪に定められる[つまり、地獄へ行く]ことのないためです。
主の晩餐を軽く受け止めないでください。それはキリストが主の教会にお与えになった、最も尊い賜物の一つです。では共にいただきましょう。
1 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用