主は男と女に、ご自身のかたちに造られた

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By John Piper About Manhood & Womanhood
Part of the series Biblical Manhood and Womanhood

Translation by Desiring God

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 1

この聖書箇所が教える3つの事がらを、今朝皆さんと一緒に考えたいと思います。一つは神が人間を造られたということ、二つ目は神は私たちをご自身のかたちに造られたということ、三つ目は、神は私たち男と女を造られた、ということです。


この3つの真理を信じながらクリスチャンでないことは可能です。何だかんだ言っても、これらすべてのことはこのユダヤ教の聖典で教えられているからです。それゆえ、聖書を信じる良いユダヤ人は、これらの真理を受け入れるはずです。でもあなたがこれら3つの真理を信じていながらクリスチャンでなくても、これらすべてはキリスト教を指します。これらすべてが、キリストのみわざとともにやって来る完成をせがむからです。それが、特に3つ目の真理、私たちは男と女として神のかたちに造られた、というのが、私の話したいことです。

目次

1. 神は人間を造られた

人間は神によって創造されたという、第一の真理を見てみましょう。これは説明を必要とすると思います。なぜ、主は私たちをお造りになったのでしょうか?何かを作るとき、あなたにはそれを作る理由があります。でも私たちが知っているこの世はその質問に対する十分な答えを出してくれるでしょうか?旧約聖書は人の支配の下にこの世界がもたらされたと言います。神の栄光を現し出すために造られたと言います(イザヤ43:7)。地は主の栄光を知ることで満ちあふれていると言います。

でも私たちは[実際に]何を見るでしょうか?私たちはこの世が創造主に反抗しているのを見ます。ユダヤ教の聖典はまったく中途半端な話で、栄光の望みはまだやって来ていない状態で終わっています。ですからユダヤ教の聖典が教えるように神が人間をお造りになったと言うことをただ信じるだけでは、残りの話、すなわちキリスト教が、語られる必要があるのです。キリストにおいてのみ、創造の目的を達成することができるのです。

2. 神は私たちをご自身のかたちに造られた

あるいは例えば、神は私たちをご自身のかたちに造られたという、第二の真理を見てみてください。これはもちろん私たちがこの世にいることと、何か関係があるはずです。主の私たちをお造りになった目的は、私たちがカエルやトカゲや鳥や、ましてサルではないという事実と、何か素晴らしい関係があるはずです。私たちは神のかたちである人間であり、私たちだけがそうです。他のどの動物も神のかたちであるものはいません。

でも私たちはこの恐れ多い尊厳を、何とめちゃくちゃにしてしまったことでしょう。私たちは神に似ているでしょうか?はい、そしていいえ。はい、私たちは神に似ています。たとえ罪深く不信心であっても、主の似姿を持っているのです。私たちはこれを、創世記9:6で神がノアに、「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから」と言われるところから、知っています。つまり、たとえ罪(殺人のような)にあふれた世であっても、それにも関わらず人間は神のかたちなのです。彼らはネズミや蚊のように殺されてはいけません。もしあなたが人間を殺したら、あなたは自分のいのちを失います(ヤコブ3:9参照)。

でも私たちは神がそうなるようにと造られたかたちを持っているでしょうか?そのかたちは、場合によっては認識が不可能なほど損なわれていないでしょうか?あなたは神のかたちであるべきように、神に似ていますか?ですからここで再び、私たちが神のかたちに造られたという信仰が、完成を必要とするのです。この場合、それは贖い、転換、新しい創造のようなものです。そしてキリスト教はまさにそれをもたらすのです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。・・・真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」(エペソ2:8―10、4:24)。神は私たちをご自身のかたちに造られましたが、私たちはそれを認識することができないほどに損なってしまいました。そしてイエス様がその答えです。主は信仰によって来られ、主はお赦しになり、主はきよめられ、そして主は、神が最初に人間のために意図された、栄光のうちに終結する、聖化と呼ばれる再生のプロジェクトを始められます。それゆえ私たちは神のかたちに造られたということを知っているので、罪と腐敗が解決策を必要とします。そしてその解決策はイエス様なのです。

3. 神は私たちを男と女に造られた

三つ目の真理は、神が私たちを男と女に造られたということです。そしてこれもまた、キリスト教を指し、キリストによる完成を必要とします。どのようにでしょうか?二つの方法によってです。一つは結婚の奥義から来ます。もう一つは罪における歴史的男女の関係の醜態から来ます。

結婚の奥義

結婚の奥義を見てみてください。創世記2:24では、女が造られた記事のすぐ後、モーセ(創世記の著者)が次のように言います。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」さて、パウロはこの句をエペソ5:31で引用し、「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです」と言います。それを手がかりとして、彼は結婚の意義を明らかにします。それは夫の妻に対する愛ある指導的地位において表されている、キリストの教会に対する愛の象徴です。そしてそれは妻の夫との関係に表されている、教会のキリストに対し喜んで従うその姿の象徴です。

パウロは創世記2:24を「奥義」と呼びますが、それは神が男と女の結婚に対するご自身の目的を、創世記においてはっきり示されないからです。旧約聖書には、結婚が神とご自身の民との結婚のようなものであるというヒントや指針があります。でもキリストが来られたときにだけ、結婚の奥義が詳細に説明されます。それはキリストと主の民の契約、主の教会に対する誓約の描写です。

では、神が人を男と女に造られ、結婚を、男が契約義務のうちに母親と父親を離れ、自分の妻につながるということと、この創造のみわざと結婚の命令が、キリストとその教会の啓示を必要とするのが、見えますか?それらはキリスト教を奥義の啓示として要求します。

ほとんどの人にとって、これは非常に馴染みのない考えです。それは結婚がキリスト教の慣例であるのと同時に世俗の慣例でもあるからです。キリスト教社会のみならず、すべての文化において結婚を見ることができます。ですから私たちは、私たちの知っているノンクリスチャンの結婚をキリストの教会との関係の象徴としては見ない傾向があります。でもそれはキリストと教会との関係を象徴しています。そして結婚における私たち男と女としての存在そのものが、キリストに、主の教会との関係におけるご自身を表してくださるよう、叫び求めるのです。キリスト教は結婚契約に関する私たちの理解を完成してくれます。

あなたが考えたこともないような、工夫を凝らした絵を描かせてください。キリストはこの地上に戻って来られます。主が去れらるのをあなたがたが見たのと同じように戻って来られると、御使いは言います。ですから私と一緒にその日を想像して見てください。天が開け、ラッパの音が鳴り、人の子が何万という太陽のように輝く聖い御使いたちと共に、雲に乗って、力と素晴らしい栄光を持って現れます。主は4つの風からご自身の選ばれた者たちを集めるため、御使いたちを遣わされ、キリストにあって死んだ者たちを死からよみがえらせられます。主は彼らにご自身のような新しい栄光の体をお与えになり、一瞬のうちに私たち残りの者たちを、栄光にふさわしい者に変えられます。

何世紀にも渡るキリストの花嫁(教会です!)の準備がようやく整い、主は花嫁の手を取るかのように、彼女を祝宴の席へと導きます。小羊の婚礼の宴の到来です。主は祝宴の当主として席に立たれ、何億という聖徒たちが、深い沈黙に包まれます。そして主は、「これが私の愛するもので、結婚の意味である。これが結婚が指し示したものである。このためにわたしはあなた方を男と女に造り、結婚の契約を定めたのだ。それゆえもうめとったりとついだりすることはない、それは、最終的実物が到着し、今やその影が去りゆくことができるからである」と言われます(マルコ12:25、ルカ20:34―36参照)。

さて、私たちが何をしているか思い出してください。私たちは、神が私たちを男と女として、ご自身のかたちに造られたということが、その完成としてのキリスト教を指し示すという、第三の真理を見ようとしています。そして私は二つの方法で指し示すと言いました。まず一つは結婚の奥義によってです。男と女としての人間の創造は、結婚をさだめるための創造に必要な骨組みを作ります。男と女なしでは結婚は有り得ませんでした。またキリストの教会との関係のたとえとして私たちが結婚を理解しない限り、結婚の意味の本質、あるいはそのものを十分に理解することはありません。

ですから男と女の創造は結婚を指し、結婚はキリストと教会を指すのです。そしてそれゆえ、神が私たちを男と女として、ご自身のかたちに造られたという信仰は、キリスト教、つまり、キリストと、主が教会のためになされた救いのみわざなしには、完成しません。

歴史的男女関係の醜態

さて、男女の神のかたちの創造が必要不可欠な完成としてキリスト教を指し示すもう一つの方法は、すなわち、歴史的男女関係の醜態におけるその歪曲からである、と私は言いました。説明させてください。

罪がこの世に入ったとき、私たち男と女としての関係に与えた影響は悲惨なものでした。神はアダムが禁断の実を食べた後、彼のところに来て、何が起こったのかをお尋ねになります。創世記3:12で、アダムは「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」と答えます。言い換えれば、「それは女の責任(あるいは女を私にくださったあなたの責任!)で、それゆえもしあの実を食べたために誰かが死なないといけないとしたら、それは女であるべきです!」

そういうわけで、家庭内暴力のすべて、妻虐待のすべて、強姦のすべて、性的中傷のすべて、神がご自身のかたちに造られた女性を軽視する方法のすべての始まりです。

創世記3:16では堕落した男と女に次のように呪いを宣告しています。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」つまり、罪の結果と私たちの時代に対する呪いは、男女間の対立なのです。この句は、物事がそうあるべきことを説明しているのではありません。これは、罪が支配する限り、のろわれた物事はこのようであると言う説明です。高圧的な男と歪曲した女。これは神のかたちの男と女ではありません。罪の醜態です。

さて、この醜態がどのようにしてキリスト教を指すのでしょうか?それはそれがキリスト教がもたらす男女間の関係の癒しを必要とするため、キリスト教を指すのです。もし神が私たちを『男と女』としてご自身の似姿に造られたのなら、それは人としての平等、尊厳の平等、相互の尊重、調和、相補性、同一のさだめを意味します。でもこの世の歴史のどこにそれがあるでしょうか?それはイエス様がもたらす癒しのうちにあります。

イエス様がもたらす癒しに関する二つの見解

ここで言わなければならないことが多くありますが、二つの事だけ触れさせてください。

3.1. 男と女に造られたことのさだめ

まず最初に、ペテロは1ペテロ3:7で、クリスチャンの夫と妻は「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」であると言います。これはどういう意味でしょうか?それは男女が神のかたちに造られたもともとの意味を、男と女がキリストにあって回復することを意味します。それは男と女として、共に神の栄光のかたちをあらわし、共同相続人として、神の栄光を受け継ぐと言うことを意味します。

男と女としての神のかたちの創造は(罪と一緒にそれを見るとき)、キリストの造り変えのみわざとともに来る癒しと、罪人のために主が買い取られた財産の完成を要求します。キリストは、男と女がいのちの恵みの共同相続人であるという現実を、罪から回復されます。

3.2. 男と女として独身であることの意味

キリストが物事を逆転し、私たちの対立の醜態を打ち破られ、男女が神のかたちに造られたもともとのさだめを実現させられるその方法に関してもう一つ触れなければならないことは、1コリント7章にあります。パウロはその当時の人にとっては信じられないような過激なことを言います。「結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです・・・独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。・・・独身の女や処女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配りますが、・・・私がこう言っているのは、・・・あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが・・・ひたすら主に奉仕できるためなのです」(1コリント7:8、32―35)。

これが何を意味しているのかがお分かりになりますか?これはキリストが神のかたちに造られた男女にもたらす癒しは結婚によらない、ということを意味しています。実際パウロの独身としての彼自身の体験(そして独身としてのイエス様の見本)で彼は、一般的に結婚した聖徒たちの取り分ではない、独身の男女にとって可能な、主に対するある種のひたむきな献身というものを、学びました。

これを別の方法で言うと、結婚は死からの復活までの、この時代でだけの一時的慣例、と言えます。結婚の本来の意味と目的は、キリストの教会との関係を象徴するためにあります。実物が来たとき、私たちの知っている象徴はなくなります。そして来るべき時代には、めとることもとつぐこともありません。独身で主に献身してきた者たちは、小羊の婚礼の席に、いのちの恵みを受け継ぐ完全な共同相続人として、着くのです。そして彼らは主に対する彼らの献身と犠牲に従って、想像のすべてを超えた愛情と関係と喜びをもって、主から報われます。

まとめ

では私たちが見てきたことをまとめさせてください。

1. 神は人を作られました。そして旧約聖書が閉じるように、この素晴らしい事実は、神が何をしておられるかということを理解するため、話の残り、つまり、キリスト教を要求するのです。創造における主の目的は、キリストのみわざ抜きには完成しません。 2. 神は私たちを『ご自身のかたちに』造られました。しかし私たちは、そのかたちを認識が不可能なほどめちゃくちゃにしてしまったのです。それゆえこの真理はキリスト教の完成を必要とします。それはイエス様が成されるのは、失われたものを取り戻すことだからです。それは「キリストにある新しい創造」と呼ばれます。[神の]かたちは義と聖のうちに回復されます。 3. 神は『男と女として』私たちをご自身のかたちに造られました。そしてこれもまた、キリスト教の真理のうちに完成を必要とします。結婚において男と女であるのが何を意味するのかは、結婚がキリストと教会を描くためのものであることを見ない限り、誰も十分に理解することはできません。そして男と女として神のかたちに造られたことのさだめは、男と女がいのちの恵みをともに受け継ぐ共同相続人であるということを知らない限り、誰も知ることはできません。そして最後に、神のかたちの男と女として独身であることの意味は、やがて来るべき時代には結婚がなく、それゆえ神のかたちである男と女の栄光ある運命は、結婚によらず、主に対する献身による、ということをキリストから学ばない限り、誰も十分に理解することはできません。

それゆえ、神があなたを造られた、主はあなたをご自身のかたちに造られた、主はあなたを、あなたがまったく、究極に、そしてユニークに主に献身するように、男と女に造られたという、これらの真理をじっくり考えて見てください。

***

1 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。