模範の力

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English: The Power of Example

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By Mark Dever About Pastoral Ministry
Part of the series 9Marks Essentials

Translation by Yuri Kano

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“模範とは人生において大切な事、、、いや唯一必要なものである”かの有名な医療宣教師でもあり著者でもあるアルバートシュエイッツアーはこのように述べ模範を示す事の重要さとその力をはっきりと提言した。いったい今この記事を読んでいる読者の中で何人の者が若年の時に他のクリスチャンや長老、牧師の生き方に影響を受けている事だろう。“誠実な牧師”と聞いて頭に思い浮かべるのはいったい誰であろう。 “誠実なクリスチャン”ではどうだろうか。すぐに思いつく人は果たしているだろうか。

シュエイッツアーの提言はもちろん大げさであろう。誠実な人生には模範以外に多くの事柄がかかわってるはずだ。しかし、その全てが最終的にその人が示す模範そのものとして現れてくるのではないだろうか。

“指導”や“形成”などという言葉は新しいコンセプトのように聞こえるが、実際はそうではない。神が私たちを創造したまさにその方法からそれらが神の御心であることが読み取れる。神は私たちを神の御姿に似せて造られた。私たちは神の示す模範に従うよう、又神の御性質を模倣するように定められいるのだ。キリストのインカーネーションにおいて、私たちが神を理解し、つながりを持つ事が出来るようにと神は人間の姿をとられた。そして“その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(1ペテロ2:21)”ペテロは言う。

私たちもまた、この模範を示したり、模範に従って歩むという方法に自然と関わるようになっている。神は私たちが家族という枠の中に生まれ、他の人間と共に成長するように造られた。私たちは自分一人で成長するわけでもなければ、突然大人として現れる事もない。神は、愛情ある両親の存在を人間の成長の過程において定められた。

この堕落した世の中において御自分を啓示される手段としても、神は模範を用いられた。旧約聖書において、神はアブラハムとその子孫をこの世の中において聖なる、特別な異なる民となるべく呼び起こされた。なぜならこの民が特別であるゆえに、神の御性質をありのままに示すような又神の関心事やバリューを統合した社会をこの世が見て取れるようになるからだ。

レビ記19章において神がその民に向かって“あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。”と仰せられた時、神は単にモーセやアロン、ジョシュアなどの個人に向かってこう告げられたのではない。もちろん彼らも聞いていたであろうが、レビ記19章1節によると、神はモーセに特別イスラエルの全会衆に向かって告げるようにと指示をだしている。そしてその後神が彼らに与えた戒律はほとんどが、人間関係、公正、正義と社会福祉の教えである。神はその民が互いに世話をし、見失った者や見捨てられた者、見知らぬ者や若者を助け合う中で、公正で憐れみ深い彼らの造り主の御性質を多少なりとも現すことが出来るよう指示を出されたのである。

まわりの世に向かって手本を示すという働きの上でのイスラエルの失敗は、神が旧約聖書の中でイスラエルにもたらした最大の裁きの一つにあたる。そしてエゼキエル書5章においてイスラエルの役割が、悪い模範を通して他の諸国を指導するものへと変化してゆく。“これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民の真中に置き、その回りを国々で囲ませた。。。。わたしは、あなたの回りの諸国の民の中で、通り過ぎるすべての者の目の前で、あなたを廃墟とし、そしりとする。わたしが怒りと憤りと譴責とをもって、あなたにさばきを下すとき、あなたは回りの諸国の民のそしりとなり、ののしりとなり、戒め、恐れとなる。主であるわたしがこれを告げる。”(5章5節、14−15節)エゼキエル書において、イスラエルに向かってこれらの事を行うのは、神ご自身の御名のためであることを何度も神は仰せられた。つまり、神に関する真実がこの世の人々の間で知られるようになるためである。

この皆で神の証をするというのは、新約聖書の教会を通して神が定められた方法でもある。ヨハネ13章において、イエスは、キリストの愛が互いの間にあるならばそれによって私たちが彼の弟子であることをこの世が認めるようになると仰せられた。そしてパウロはエペソの教会に向かって“あなたがたは以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子供らしく歩みなさい”(エペソ5:8)と書かれた。

個人または、教会を通しての私たちのクリスチャンとしての歩みは、 この闇と絶望の世界に輝く神の希望なのである。クリスチャンとしての私たちの生き方が、お互いにそして周りの世に向けて神の真実を語っているのである。もし私たちが互いに愛し合うなら、神を愛するとはどういうことか、その片鱗を示すことになる。そして、反対に“目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。”(1ヨハネ4:20)と聖書は言う。 私たちは、自分の聖さを通して、神の聖潔を示す。 そして、私たち自身の堕落した性質とこの世が共に仕向ける自己中心の失望した生き方ではない別の生き方があるという希望を世に示すために召されたのである。

牧師や長老の兄弟たち、私たちの教会はいったいまわりの世に向かって神について何を語っているだろうか? 神は、私たちの人種だけに制限されると? 罪や不誠実、自己中心や争いも多めに見ると?私たちは神の御性質をその被造物へ向けて示す公開展示であり、ショップウインドーであり、広告であり、ホームページであるという偉大な働きと特権に対してどれほど真剣にわたしたちは教会員たちを導いてきただろうか。

何とはかりしれない特権を神は私たちに授けて下さった事であろう。そのことについてどれだけ私たちは関心をもっているだろうか。もし教会に来る人の数が増えれば、既に教会員である者への責任はなくなるとでも考えてしまっているのだろうか。しかし、彼ら一人一人は今現在どのような証を世に示しているだろうか?神が与えて下さる真の回心者の良い証を世に示すために、いったいどれほど悪い証ゆえの労苦をすることになるだろう。

教会の懲戒の施しは、最終的には弁護や復讐ということではない。それらは、神のなさることで、許された罪人である私たちの仕事ではない。 しかし、神がどのようなお方であるかという事を示す一人一人の良い証に関しては大いに関心を持っている。私たちはその生活と行いとにおいて模範的でなくてはならない。パウロの手紙の中で、彼は長老たちの教会外部での評判に対して特別懸念を示していた事に気がついたであろうか? 様々な理由が関わっているとは思われるが、何よりも長老のこの世に対する代表としての役目というのは理由の一つに違いない。それでは、教会も全体としてやはり周りの評判を気にするべきであろう。 パウロがコリント人への手紙 第一 5章においてひどく怒ったのも、そのせいだ。しかし、パウロが特別誰に対してその怒りをぶつけているか気がついたであろうか。彼は、その罪深い近親相姦に関わっている者にではなく、むしろ教会員の間でそのような罪を容認するような教会を激しく非難したのである。初めに素晴らしい信仰告白をした者であっても、罪に溺れて迷い出る者が私たちの間にいるという悲しい真実は、認知の通りである。もちろんその中の幾人かは、悔い改め戻ってくる者がいることは承知である。しかし、教会は、高潔と罪に対して戦うことによって、神の素晴らしさ世に示すという責任から逃れる事はできないのである。まるで旧約時代に偶像礼拝の罪に陥ったイスラエルのようであるが、パウロのコリントの教会への戒めの争点はこの教会の問題だったのである。

諸君、使途パウロは君たちの教会や私の教会を見ていったい何と言われるだろうか?どれほど、愛ゆえに礼拝欠席を多めに見てきたであろうか?いくつの不道徳な関係や聖書的ではない離婚に教会内で目をつぶってきたであろう。たとえそれらが、この世に向かって“私たちも君たちと何も変わらない”と言うメッセージを叫んでいるというのに。どれだけ私たちは、些細な事で、不和を好む人々に教会を引き裂かせ、いくつの偽の福音をほっておいたことであろうか。

兄弟たちよ、今君たちが牧師として、長老として、リーダーとして、教師として または教会員の一人としてこの記事を読んでいるなら、私たちに与えられた重大な責任について考えてもらいたい。どのようにして、最大限に神の証を示すことが出来るだろうか。それは、私たちの間にある罪を無視することではなく、パウロがガラテヤ人への手紙6章1節にて教える通り、罪に陥った人々を柔和な心で正すことではなかろうか。どちらの方法が、私たちの礼拝する神の真の姿を反映することができるだろうか?御言葉において、神の憐れみは神の聖潔さを覆い隠すなどということはあったであろうか?神の教会においてはどうであろうか?この件に関して、私たちの責任はどうであろうか?

自分のまわりの世に対して、どのような模範を示しているのか注意を払って歩んで行こう。神は御自分の民とその世界に素晴らしいご計画を持っている、そして私たちはそれを言葉と行いによって示すように召されたのではないか。君たちは、それを実行しているだろうか? 神が私たちをこの素晴らしい召しに対して、誠実であるよう助けてくださるように祈りを捧げる。