苦み喜ぶことに召されている(私たち):キリストを得るため

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English: Called to Suffer and Rejoice: That We Might Gain Christ

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By John Piper About Suffering
Part of the series Called to Suffer and Rejoice

Translation by Desiring God

最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。2 どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。4ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

目次

聖書は神の民に苦しみを約束している

私たちはこの数週間、苦しむ用意ができていることの必要性に注目しています。その理由は今の時が悪い時代であり、義の道に犠牲が伴うという私の印象だけではなく、神の民は苦しむという聖書の約束でもあるからです。

例えば、使徒14:22でパウロはまだ若い教会に、「私たちが神の国へ入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言います。イエス様もまた、「もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します」と言っておられます。ペテロも、「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、」(1ペテロ4:12)と言います。言い換えれば、それは思いがけないことではなく、起こって当然のことなのです。パウロは(2テモテ3:12で)、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」と言います。

ですから私たちが地の塩、世の光となることと、またまだ福音の伝えられていないこの世の人々に伝えること、闇のわざを明るみに出すこと、そして罪とサタンの縄をゆるめることに熱心になればなるほど、私たちはますます苦しむのです。そういうわけで、私たちは苦しむ用意ができていなければならないのです。またそういうわけで、この数週間、私たちにその用意をさせてくれるいくつかの聖書箇所から、私は説教しているのです。

この数週間のメッセージで、私たちが神に仕えることで苦しむことにある、神の4つの目的を取り扱います。一つ目は道徳的あるいは霊的目的です。苦しむことで私たちは神にますます望みを置くようになり、この世の事がらにますます信頼を置かなくなります。二つ目は、親密さの目的です。それは私たちがキリストの苦しみにあずかると、キリストをより深く知るようになるからです。それが私たちが今日注目するものです。

キリストとのより深い親密関係の目的

神は私たちに、苦しみを通して私たちはキリストとの深い関係に導かれることを意図していることを教えられ、お見せになることによって、私たちを苦しむ用意ができるようにしてくださいます。あなたは主の痛みにあずかることによって、主をより深く知るのです。キリストの尊さを最も深く、優しく書く人というのは、主とともに深く苦しんだ人です。

ジェリー・ブリッジズの人生における苦しみ

例えば、ジェリー・ブリッジズの本、『主を信頼する、たとえ人生で痛んでいたとしても(Trusting God, Even When Life Hurts)』は、苦しみと困難を通して神との深い関係に導かれることについて深く書いた、ためになる本です。彼が14歳の時に、彼のお母さんがまったく予期しない時に隣の部屋から助けを求め、部屋にたどり着いた時には息を引き取っているときだったというのは、驚きではありません。彼はまた肉体的に普通にスポーツができない状態でもあります。そして数年前に自分の奥さんを癌で亡くしました。ナビゲーターを持って神に仕えることが彼を痛みから守ってくれるわけではありません。苦しむことでキリストとの深い関係に導かれているので、彼は苦しみについて深く語ることができるのです。

ホラティウス・ボーナーの人生における苦しみ

スコットランド人の牧師で賛美歌作詞家のホラティウス・ボーナーは、100年以上前、『嘆く夜(Night of Weeping)』あるいは『神の子が苦しむとき("When God's Children Suffer")』という短編を著しました。彼の[本を著した]目標は、「聖者を助けるため・・・彼らの重荷を負い、傷を包み、また彼らのいくつかの涙を拭ってあげたいと願う」とその本の中で言っています。優しく、深く、知恵ある本です。ですから彼が、

「この本は試練によって益を得たいと願い、その試練が岩の上を通り抜ける風のようになって、以前とした固い岩で終わってしまわないかと震える者、悲しみの一つ一つにおいて、神をもっと知ることができるように主に近づく者、それでいて主をまだ少ししか知らないと告白する意志のある者によって書かれた本である」と言うのを耳にするのは、驚きではありません。

ブリッジズとボーナーは、苦しみが神のみこころの奥深くまで至る道であることを私たちに見せてくれます。神には、ご自身の苦しんでいる子どもたちに、ご自身の特別な栄光の啓示がおありになります。

ヨブ、ステパノ、ペテロのことば

何ヶ月もの苦難の後、ヨブは最終的に、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」(ヨブ42:5)と神に言います。ヨブは正しく真っすぐな人で、神に喜ばれる人でしたが、繁栄のうちに彼の知っていた神と、不幸のうちに彼の知っていた神との違いというのは、聞いて知るのと見て知ることの違いでした。

ステパノが自分の信仰のために逮捕され裁判にかけられ、そして説教をする機会が与えられたとき、結果的に宗教指導者たちは彼に怒り狂い、歯ぎしりして悔しがりました。彼らはステパノを街に引きずっていき、殺すところでした。丁度そのとき、「聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、」(使徒7:55)とルカは私たちに語ります。キリストと共に苦しむ人々には、特別な啓示、特別な親密な関係が用意されているのです。

ペテロは次のように言います。「もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」(1ペテロ4:14)。別の言い方をすると、神はご自身の名のゆえに苦しむ子どもたちには、主の御霊の特別な来臨ととどまり、そして主の栄光を備えてくださっているのです。

聖書箇所からの3つの考察

ですから今日のメッセージで注目するのは、苦しみにある親密関係の要因です。聖者の苦しみの目的の一つは、彼らの神との関係がよりよそよそしくなくなり、より上辺だけでなくなり、より距離がなくなり、より個人的で現実で親密で近く、深くなっていく、ということです。

今日の聖書箇所(ピリピ3:5–11)で、少なくとも3つのことを皆さんに見て欲しいと思います。

1. 第一に、パウロの、自分の価値観を逆さまにすることによって苦しむ用意をする方法 2. 第二に、パウロの、キリストに従うことによる犠牲としての苦しみと失うことの経験 3. 第三に、これらすべてにおけるパウロのねらい、すなわち、キリストを得ること、主を知り、主にあり、主とのもっと深い、自分の親友バルナバとシラスといた時に知っていたより現実的な交わり

1. 苦しむ用意をするパウロ

5節と6節でパウロは自分がクリスチャンになる前に楽しんだ特有性を並べます。アブラハムの家系の育ちの良い子孫、きっすいのヘブル人としての自分の民族的血統を挙げます。これに彼は大きな利益を得、特別なそして保証された地位を感じていました。彼はイスラエル人でした。それから自分がクリスチャンになる以前の人生の中心に至る、3つの事がらを述べます(5節の終わり)。「律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」

キリストに出会う前のパウロの価値観

これがパウロの人生でした。これにパウロは人生の意味と意義を感じていたのです。これが彼にとって益であり、富であり、喜びでした。人の好みは様々ですが、パウロの好みは律法主義者たちの上流階級、パリサイ派に属することであり、その中でも彼は、神の敵、イエス様の教会を率先して迫害し、また律法を細心の注意を払って守るほど非常に熱心でした。彼は属すことを好み、秀でることを好み、神から好まれることを好んだのです。そして実際、責められるところのない自分の律法厳守のゆえに、神から好まれていると思っていました。

そして彼はキリスト、生ける神の御子に、ダマスカスへの途上で出会います。キリストは彼がどれほど苦しむことになるかを教えます(使徒9:16)。そしてパウロはその用意をします。

パウロは自分の価値観を損とみなす

その用意をする彼の方法は7節に説明されています。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」パウロは宗教界の上流階級、パリサイ派にある自分の立場を見ます。そのグループのまさにトップであることの栄光を響きと喝采をもって見ます。自分の律法を守ることに対する厳しさと、彼自身楽しんだ道徳的プライドを見ます。そして自分の世界全体を逆さまにすること、自分の価値観を逆にすることによって、苦しむ用意をするのです。「私にとって得であったこのようなもの[それは5、6節です]をみな、損と思うようになりました。」

クリスチャンになる以前、彼には二つの欄がある台帳がありました。一方には得、もう一方には損と書かれてあります。得の欄には5―6節の人間的栄光があります。損の欄にはこのイエス運動が手に負えなくなり、イエスが本物でありいつか勝利するかも知れないというひどく嫌な可能性があります。ダマスカスへの途上でキリストに出会ったとき、パウロは大きな赤ペンで、彼の台帳の得の欄全体に、「損」という大きな赤字を書きました。そしてキリストという名のうちにしかない、「得」という文字を、損の欄に大きく書いたのです。

そしてそれだけでなく、この世における人生の相対的価値とキリストの偉大さを考えれば考えるほど、パウロは5―6節で述べるいくつかの事がらを超えて、キリスト以外のすべてを最初の欄に入れるようになったのです。8節、「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」彼は最も尊い自分の功績を損とみなすことから始め、キリスト以外のすべてを損と思うことで終えています。

普通のキリスト教

それがパウロにとって、クリスチャンになるということでした。私たちのうちの誰かが彼はユニークだとか特別だとか思わないように、17節で彼は自分の使徒的権威を十分に用いて、「兄弟たち。私を見ならう者になってください」と言うところに注目してください。これは普通のキリスト教なのです。

パウロがここでしているのは、イエス様の教えがどのように生き抜かれているかということを見せることです。たとえばイエス様は、「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」(マタイ 13:44)と言われます。クリスチャンになるということは、(王なる)キリストが聖い喜びの宝の箱であられることを発見し、主を得るためにこの世のすべてのものに「損」と書くことを意味します。「持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」

あるいはルカ14:33でイエス様は、「あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」と言われます。言い換えると、イエス様の弟子となるというのは、自分のすべての所有物、そしてこの世が魅了するすべてに、大きな赤字で「損」と書くことを意味します。

これは実質的に何を意味するのか

ではそれは実質的に何を意味するのでしょうか?4つのことを意味していると私は思います。

1. それはこの世のものとキリストのどちらかを選ぶよう迫られるとき、私はキリストを選ぶことを意味する。 2. この世の事がらに対処するとき、自分がキリストに近づくように対処することを意味する。そうすれば私がキリストをもっと得、この世を用いるように主をもっと楽しむからである。 3. それはこの世の事がらに、それが自分の宝でなく、むしろキリストが私の宝であるということを見せるように、対処することを意味する。 4. それは私がこの世が差し出すいかなるものをも、あるいはすべてを失ったとしても、キリストがすべてであられるので、自分の人生の喜びや宝を失わないということを意味する。

それがパウロが自分の魂のうちでみなしていた考えでした(8節)。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」キリストがすべてで、その他はすべて損なのです。

なぜこれが苦しむ用意をする方法なのか?

さて一歩下がって自分の位置を確かめましょう。私はまだ第一のポイント、すなわち、これがパウロの苦しむ用意をする方法である、ということを扱っています。なぜ私はそう言うのでしょうか?なぜクリスチャンになることと、自分の人生でキリスト以外のすべてに「損」と書くことは、苦しむ用意をする道なのでしょうか?

それは、苦しむと言うことが、自分の楽しみのためにこの世が提供する悪いことと良いこと、つまり、評判、同僚の間での尊敬、仕事、お金、配偶者、性生活、子供、友人、健康、強さ、視力、聴力、成功、等々、を取り上げられること以外の何ものでもないからです。これらが取り去られるとき(強制的に、あるいは状況によって、あるいは選ぶことによって)、私たちは苦しみます。でももし私たちがパウロとイエス様の教えに従い、キリストを得ることの何にも勝る価値のゆえに、それらを損とすでに思っているのであるならば、私たちは苦しむ用意ができているのです。

もしあなたがクリスチャンになったとき、キリスト以外のこの世のすべてのものに「損」と赤い大きな文字を書くのであれば、キリストがそれらの一部を犠牲にするよう召されるとき、それは奇妙でも予期せぬことでもないのです。痛みと悲しみは大きいかも知れません。イエス様がゲッセマネの園でそうされたように、涙もいっぱい流すかもしれません。でも私たちは整えられます。キリストの価値が、この世が差し出すすべてのものをしのぐと言うことと、それらを失うことで私たちはキリストをさらに得ることになると言うことを知るでしょう。

2. パウロの苦しみの経験

それゆえ8節の後半でパウロは苦しむ用意をすることから、実際に苦しむことに移行します。8節の前半でいっさいのものを損とみなすことから、後半ではいっさいのものを失うことの苦しみというものに移行します。「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、・・・るためです。」 パウロはこの世の一般的恩恵と快適さのすべてを失い苦しみましたが、それゆえにそれを損と思うとただ言っているのではなく、それを損失したと言うことができるのです。これを来週私たちは見ていきます。彼は自分の価値観を逆転させることで、[苦しむ]用意をし、そして今やそれが試されているのです。彼はキリストをすべてのものに勝って価値あるお方とみなしたでしょうか?

3. 苦しみのうちにあるパウロの目標(そして神の目的)

ですからこの苦しみのうちにあるパウロの目標と神の目的に私たちの注意を引き寄せることで、終わらせてください。なぜ神は、パウロにとって損失がクリスチャンであるという意味であるということを定められ、パウロはそれを受け入れたのでしょうか?

パウロは私たちが核心を見失わないように、それに対してこの箇所で繰り返し答えています。彼はこの損失に受身ではありませんでした。それを目的を持って受け入れていたのです。そしてその目的はキリストを得ることです。

  • 「キリストの復活の力を知り、」そして > * 「キリストの苦しみにあずかることを知って、」
  • 「キリストの死と同じ状態になり、」
  • 「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」

別の言い方をすると、すべてのものを失った苦しみのうちにあるパウロを支えるのは、この世の価値あるものを失うことのうちに、さらに価値のあるもの、すなわちキリストを得るという確信である、と言うことです。

そして得ることは、知ることであると、ここで2度言っています。8節前半、「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知ることのすばらしさのゆえに、」。10節、「キリスト・・・を知り、」。これが苦しむことのうちにある親密関係を維持する要因です。私たちは主を知りたいでしょうか?このすべての宝に勝るものを得るために、すべてのものを損と思うほどに、主ともっと個人的に、深く、正直に、そして親密関係を持ちたいでしょうか?

もしそう思うならば、私たちには苦しむ用意ができています。もしそう思わないのであれば、私たちは苦難に不意打ちをくらって、それに反抗します。主がキリストを知ることの素晴らしさに、私たちの目を開いてくださいますように!